あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

國家改造・昭和維新運動

2021年09月30日 04時58分31秒 | 國家改造・昭和維新運動

一君萬民、
國民一體の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、

日本の國民がほんとうに、
天皇の下に一體となり
建国の理想に向って前進することである

・・・青年将校の国体論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」 

國家改造・昭和維新運動
目次

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國家改造運動・昭和維新運動 1 
國家改造運動・昭和維新運動 2 
西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」 
西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」 

維新運動とは何か 

國体明徴と天皇機關説問題  ( ←クリック  ↓目次 )
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 1 「 そもそも 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 2 「 一身上の弁明 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 3 「 機關説排撃 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 4 「 排撃運動 一 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 5 「 排撃運動 二 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 6 「 岡田内閣の態度と軍部 」
 ・本庄日記 ・ 昭和十年四月九日 「 眞崎教育総監の機關説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」 
 ・國體明徴と天皇機關説
 ・國體明徴と相澤中佐事件
 ・國體明徴とニ ・二六事件
 ・本庄日記 ・ 昭和十年三月二十九日 「 自分の如きも北朝の血を引けるもの 」

「 兵農おのづから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に移り遂に武士になり 」
「 兵馬の賢は一向 ( ヒタブル ) に其武士どもの棟梁たる者に帰し 」
「 世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち 」
「 凡七百年の間武家の政治とはなりぬ 」
ああ 民主民生---高御座を荊蕀雑草の裡深くもうづもれ参らせたる大逆不忠
「 且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき 」
臣道背離、國體原理無視の民主民政制度機構----大逆不逞
神怒りて神劍を大楠公中楠公小楠公諸々の楠公に授け給ふ
非理法権天とは國體を生活する忠義の士の至極の心境である
高御座が本來在しますべき天の下日の本の大表最高所より不逞の逆賊等によりて
荊蕀の奥深くうづもれ参らせ奉りたるを見ぬふりせる山陽の
所謂七道風を望んで豹狼を授くるの軍人等高位を盗みて天日全く昏し
かの不逞大逆妄説機關説の払拭を以て或は
「 天皇機關説排撃、國體明徴などと余り騒ぎ廻るな 」 
と云ふが如き不逞大逆の幕府庇護の随意的表白をなすが如き將軍がこの
陛下の神軍の高位に存在することが果して許されるべきであらうか
天皇陛下萬歳を以て集結さるべき軍隊教育に何を教へんとするのであらうか
岡田總理大臣が英人ビカリングに語ったと伝へらるる 
「上からの民主政」----「機關説的不逞大逆」 に協力しつつあるが如き軍人が
現役に留ることが
果して許さるべきであらうか
その將軍が軍に於ける至高輔弼に座して安如泰然たるが如きは
寔に神州の絶大なる不幸ではあるまいか

・・・
皇魂 1 


『 我國ノ軍隊ハ、世々 天皇ノ統率シ給フ所ニソアル。
昔 神武天皇、躬ツカラ大伴物部ノ兵トモヲ率キ、

中國 ( ナカツクニ ) ノ マツロハヌモノトモヲ討チ平ゲ給ヒ 
高御座ニ即カセラレテ天下シロシメシ給ヒシヨリ、二千五百有余年ヲ經ス。

此間世ノ様ノ移リ換ルニ随ヒテ、兵制ノ沿革モ亦屢々ナリキ。
古ハ 天皇躬ツカラ軍隊ヲ率ヒ給フ御制ニテ、時アリテハ、皇后皇太子ノ代ラセ給フコトモアリツレト、
大凡兵權ヲ臣下ニ委ネ給フコトナカリキ 』
『 夫れ兵馬ノ 大權ハ、 朕カ統フル所ナレハ、其司々ヲコソ臣下ニ任スナレ、
其ノ大綱ハ朕親之を攬り、肯テ臣下ニ委ヌヘキモノニアラス 』
『 朕ハ汝等軍人ノ 大元帥ナルソ、
サレハ 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ、汝等ハ 朕ヲ頭首ト仰キテソ、其親ハ特ニ深カルヘキ。
朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ應シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマキラスル事ヲ得ルモ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡サルトニ由ルソカシ。
我國ノ稜威振ハサレコトアラハ、汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、
我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ、 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ尽サハ、
我國ノ創生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光輝トモナリヌヘシ 』
皇軍の本義
「 陸海軍々人ニ賜リタル御勅諭 」  明治十五年一月四日

・・・
皇魂 2 

内務當局は美濃部達吉博士の著作中二三の主要なるものを禁止處分に付した。
司法當局は博士其人を起訴すべきか起訴猶豫にすべきかを目下 「 慎重 」 に考究中だと云ふ。
文部大臣は全國管下各方面に対し、教育總監は全陸軍に對し、
「 國體は確立して居る。邪説に惑ふ勿れ、更に益々國體顕現に努力せよ 」
と云ふ訓論を發した。
相成るべくは、先づ此の程度或は稍々 やや 進んだ程度の處置を以て、
換言すればいい加減に鎮撫解決したいといふ官邊の意嚮の如くである。
元來、國體とは何ぞや。
それは単なる学説ではない。
國家の現實の問題であり、國民の生活行動上の實際の問題である。
即ち、國家としては政治的にも經濟的にも其他百般の部門に政治的經濟其他各部門的に發現さるべく、
されてあるべき性質のものである。
國民としては此の國家の各部門に於ける其の生活行動に、國民として體現實践すべく、
して居るべき意味のものでなければならぬ。

伝へ聞く、十一月廿日事件に連座した青年將校諸君に対する當局の處分理由に曰く
「 被告人ハ我國現時ノ情勢ハ腐敗堕落セシ所謂支配階級ノ横暴ト無自覺トニ依リ
宿弊山積シ國體ノ原理タル一君萬民君民一體ノ理想ニ反スルコト甚シキモノアリ
速ニ國家ヲ改造シテ政治上經濟上等各般ノ部門ニ國體減にヲ顕セザルヘカラス爲シ 」 云々と。
これだ! 實に盡し得て妙である。
「 國體を明徴にする 」 とは、美濃部博士の著者との処分ではない。當局の訓論ではない。
誠に國體は今日の日本に維新を要求すること火の如く急なるものがある。
維新を要望するものは區々國民ではない。
三千年の國體其者が國民の魂を透し、國民の魂に命じて要求して居るのだ。
□は今日の日本が國體叛逆の思想勢力によつて左右され、國體の原理が埋没せしめられて居るからである。
例へば
元老重臣等中心思想。
議會中心主義的政党政治思想。
資本主義、共産主義。並に亜流として其の中に介在する所謂金融フアツシヨ、國家社會主義、一國社會主義。
官僚 ( 幕僚 ) 中心思想。
等々。凡そ是等は悉く所謂天皇機關説又はそれ以上の邪道を實践しつつある所のものである。
一般に口を開けば重臣、政党、財閥、官僚、軍閥と云ひ、その駆逐打倒が維新の主働であると云ふ。
然らば、「 國體を明徴にする 」 ための此の國體叛逆勢力を打倒することは同時に維新であらねばならぬ。
「 機關説 」 排撃は、美濃部博士に次いで一木樞府議長へ、金森法制局長官へ、
其他同學系の諸氏へ、躍進轉戰すると共に、一切の非國體思想に進撃せねばならぬ。
これが戰ひ一たん収まる時、昭和維新の旭日は東天を染めて居るであらう。
再言する今日の國體明徴は、維新と同義語である。

・・・核心 ・ 竜落子 『 時局寸観』 


昭和九年九月
『 核心 』 創刊号の巻頭は、
澁川論文が飾っている。
『 破邪顕正身弘法--昭和維新の大核心 』
概括すると
まず、基底におかれるのは、
日本國家が人と人との関係についての ある理想的状態を表している、
あるいは 表わさなければならないという考えである。
絶對的に偉い 一君 が 上に在り、
下にふつうの人々が平等にたがいに結ばれてある。
上と下とは源をたずねれば一つであるので、
上下のあいだには信頼関係があり、
父と子のような情愛の念が流れている。
こうして、一君 と 萬民 は 
一大生命體國家 という全體のなかに融けこんでいる
 ----そういうのが本來あるべき日本國家の姿なのである。
・・・渋川理論の展開 


西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」

2021年09月29日 13時58分15秒 | 國家改造・昭和維新運動

陸軍に、はっきりした形で靑年將校運動なるものが、捉えられるようになったのは、
昭和五年十月の櫻會結成以後のことである。
それまでの隊附靑年將校の動きは、非合法であり上長の眼をぬすんで、
ひそかに、西田税などの指導で動いたにすぎなかった。
では、軍に、このような國家改造を志す靑年將校の一群が、どうして誕生したものだろうか。
すでに述べたように、
第一次世界大戰後の平和思想とデモクラシーの高潮、ロシア革命による共産主義の浸潤
などによる社会思想運動の勃興は、將校もまたその思想開眼を餘儀なくせられたが、
その運動のおこるには、それが起るだけの社会會惡、政治惡の多くが、そこにひそんでいることを知った。
これに、軍隊教育に任ずる若い將校は、直接かつ現実實に兵隊達の家庭、
それは小商人といわず、小市民といわず、貧農といわず、
その家庭の實體に触れて、その社會惡、政治惡の存在を確認する。
當時の軍隊兵員の四分の三は農村出身だった。
だから農村の困窮は、とりもなおさず兵の困窮である。
日夜兵隊たちと寝食を共にする若い將校たちの眼に映ずるものは、
飢餓線上にただよう小作農民の悲惨な生活であり、中小企業者の轉落であり、
失業にあえぐ労働者の生活苦であり、花街に身賣りする憐れな子女の姿であつた。
しかもそれら巷にあふれる悲惨な姿は、健全な社會、正しい政治でないことを直感する。
考えれば、それは、また、仁慈無限の天皇をいただく日本のほんとうの姿ではない、
どこか狂うた日本の姿である。
その狂いはどこからきたのか、そのこれを狂わしめているのは何者か。
もともと、兵の訓練に任じ強兵を思念する隊附將校は、國民生活の安定と嚮上を希い、
また、なによりも國家を至上としてその隆々たる發展を願っていた。
だが、その國は本然の姿を失うて思想は惡化し經濟は振るわず、國民は窮乏に沈んでいる。
これではいけない、日本の現状をこのままにしておくことは許されない、
若い將校はこうした義憤に燃えた。 ・・・リンク→後顧の憂い 「 姉は・・・」
しかも、外に眼を轉ずると、
そこには國威の伸暢どころか、英米に屈する無力な外交の姿があった。
隊附將校の國家革新への志嚮はこうしておこった。
要するに、隊附將校のこのような思想的基盤の上に、革新の種が蒔かれ、
しかもそれが時に應じて培われて、そこに、根鞏い靑年將校の國家革新運動、
即ち靑年將校運動が育成されたのである。
いうまでもなく、その革新の種とは、國家改造運動者の靑年將校への働きかけであり、
これを培うものとは、彼等を國家改造意欲にかりたてた、内外事情の發生であった。

 
陸士三十四期生 卒業記念
前列中央・・秩父宮  右上○枠・・西田税 


さて、陸軍士官学校三十四期といえば、大正十一年の卒業であるが、
この卒業生には秩父宮もおられたが、騎兵科士官候補生に西田税なるものがいた。
彼はすでに中央幼年學校の頃から、満蒙問題や大アジア主義運動に關心をもち、
士官學校に進んでは、北一輝、満川亀太郎らのもとに出入りし、
ことに、北の 『 
日本改造法案大綱 』 を讀んで
深くこれに共鳴感動し、國家改造を志嚮するようになった。
大正 十一年末朝鮮騎兵第二十七聯隊で騎兵少尉に任官したが、
大正 十三年には廣島の騎兵第五聯隊に轉じ間もなく胸部疾患のため、
大正 十四年七月に依願退職した。
軍服を脱いだ彼は、上京して行地社に投じ雑誌日本の編集に從事するかたわら、
當時大川周明の主宰していた大學寮の軍事學講師となったが、軍事學とは名のみで、
寮生に對し國家改造思想を吹き込んでいた。
記述のように大學寮はその頃日本革新の源流の観を呈し、
陸海軍靑年將校、陸士生徒などの出入りも多く、西田と靑年將校との接触も頻繁となった。
當時陸士生徒だった澁川善助や末松太平は、ここで西田を知ったといわれている。

・・挿入・・
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。
が亀居見習士官は大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、
一ツ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。
すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。 
乾門である。
右手に見上げるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。
その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。 
木造のちょっとした構えである。
案内を乞うと、
声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、
変哲もなかったが、つづいての、
「このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
・・・ 天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 


・・挿入・・
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 

さて、西田の行地社入りは、彼の國家革新運動の第一歩で、
北一輝の 『日本改造法案大綱 』を革命の聖典として、これが普及にのり出したわけだが、
北と大川の不和から行地社が分裂すると、西田は北の許に走り、
大正 十五年四月には北から 『 日本改造法案大綱 』 の版權を得て、いよいよ革新運動に乗り出した。
彼は代々木山谷に一戸を構え、ここを 士林莊 と稱した。
だが彼の古巣は陸軍だった。
その革新思想の啓蒙はいきおい軍の將校に向けられる。
西田は陸士卒業後も全国同期生の志を同じくするものには、たえず情報をおくりその思想の啓蒙に努めていた。
例えば 大正 十二年ヨッフェが後藤新平の招きにより、來朝したときは
北は ヨッフェに与える書 と題するパンフレットを全國にばらまいたが、
その文書は西田の手によって全軍同志將校に配布されていた。
それは西田の同志獲得の手段であり、
こうして彼の士林莊當時すでに數十名に及ぶ靑年将將校を同志として握っていた。
たしかに、靑年將校運動における西田税は絶對に見逃すことのできない存在である。
すでに述べたように、彼は陸士在學中より國家革新の洗礼をうけて、その志を固くしていた。
大正十一年 かれが在學中病を得て入院中、書き殘したといわれる
無眼私論 」 と題する一篇が最近發掘されて
『 現代史資料5国家革新運動 』 ( みすず書房 ) にのせられている。
一讀して、すでに彼が北一輝の國家改造法案に魅了されていることが理解されるが、
その大正維新という一文には、
「 今に於ては最早直接破壊のために劍でなければならぬ。劍である、そして血でなければならぬ。
吾等は劍を把つて起ち血を以て濺がねばこの破壊は出來ない、建設は出來ない。
神聖なる血を以て此汚れたる國家を洗ひ、而して其上に新に眞日本を建設しなければならぬ。
而して 天皇の民族である、國民の天皇である この理想を實現しなければならぬ。
噫、大権--神聖なる現人神の享有し給ふ眞理實現の本基たるべき--の發動による國家の改造
クーデッタ 吾等はこれを斷行しなければ無効だと信ずるものである。
--爆彈である、劍である。」 と書いている。
すでに一かどの白色革命の闘士だったのである。
陸軍士官学校
一體、陸軍將校を養成するこの學校には、いつ頃から革新の風が流れていたのだろうか。
五 ・一五事件には後藤英範ら十一名の陸士生徒が海軍將校らと行動を共にしたし、
昭和 九年の十一月事件にも武藤、佐々木、佐藤など五人の生徒が連座しているところを見ると、
そこに何かしら代々に伝わる革新の流れといったものが感ぜられることである。
たしかに、いかめしいこの武窓には昔から一つの風潮があった。
昔からといっても私がここに在学していたのは、大正の中期であったが、
その頃ここには大陸党とか金魚党とかいわれた一種の血盟があった。
もちろん、それは極く少數のグループであったが、
これらの人々は、わが國の將來の發展が大陸問題にあったためか、
支那、満洲に飛躍する志士、國士といった人々への強い憧れから、課業をよそに、
ひそかにその道の先達を求めて教を請うていた。
それは一面この學校教育の無味乾燥劃一性に反逆しての志向とも見られるのであるが、
これらの一群の人々は國の現狀に悲憤憤慨して、その行動ややもすれば常規を逸し、
いわゆる勤勉從順なる生徒ではなかった。
肩をいからし弊衣弊帽、口を開けば國家、國事を談ずる東洋豪傑ぶりを喜び、
かつこれを實踐していた人達であつた。
もとよりこうした行動や、人々の結びつきは、學校當局の容認するところではなく、
それはあく迄も非合法的な存在だったのである。
しかし、これが學校教育への反逆である限り、時と共に形を變えてくる。
或は國體信念に透徹しようと國體学究の門をくぐるものもあれば、
社會思想運動に興味をもち思想家の教をうけるものもあり、
時には文學にこって文學者に師事するものもあった。
そして西田のように國家革新、國家現狀の認識を高め
そこから現狀打開、國家改造への志嚮に奮い立つ一群も生れてきた。
こうした一群の人々は卒業して將校團にかえれば、
すでに一かどの自他共に許す革新將校であった。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』 
二 革新のあらしの中の憲兵 ・・から

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西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」 に続く


西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」

2021年09月27日 05時40分32秒 | 國家改造・昭和維新運動

昭和二年七月 西田は、
軍部、民間における少壯革新分子を糾合して鞏力な國家改造團體の結成を圖るため、
それらの革新分子に天劔党規約と題し急進的な革新意欲を盛った文章を配布した。
・・・リンク→ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
その同志録には七十一名の名がのせられていたが、
大部は大尉以下の隊附將校で、彼がこれ迄獲得した同志將校であった。
その天劔党規約は天劔党大綱、天劔党戰闘指導綱領よりなっていたが、
その大綱の中には、
「 天劔党ハ日本ノ對世界的使命ヲ全國ニ理解セシメ、
以テ日本ノ合理的改造ヲ斷行スル根源的勢力タルヲ目的トス
天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ普ク指導的戰士ノ結合ヲ計リ、
以テ全國ニ號令スルノ日ヲ努力ス 」
とあり、
また、その戰闘指導綱領には、冒頭に、
「 天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ全國ノ戰闘的同志ヲ聯絡結盟スル、
國家改造ノ秘密結社ニシテ、日本改造法案大綱ヲ經典トスル實行ノ劔ナリトス 」
といい、また、
「 古今東西凡テノ革命ノ成否ガ其國軍人軍隊ノ嚮背ニ存スルコトヲ知ラバ、
眞ニ近ク到來スベキ日本ノ革命ニ於ケル帝國軍隊ノ使命ガ、如何ニ重大ナルカハ考察ニ餘リアリト云ベシ。
然シテ革命指導者ノ中堅的戰士ガ、其ノ大部ヲ擧ゲテ軍隊ノ中ニ潜在協力シ、
軍隊外ノ同志ト秘盟聯絡シテ、革命ノ根源的勢力、軍人部隊ガ--劔ヲ國家其者ヨリ奪取スルコトガ、
不可欠ノ條件タルコトヲ悟得セザルベカラズ。
國家ノ革命ハ、軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ、最終トス 」
と 書いていた。
それは明らかに 『 日本改造法案大綱 』 に示す國家革命の主動力を軍隊に求めたものであった。
しかし、これが配布されたのは、昭和 二年九月のことであった。
彼の同期生では、片山、平木の両中尉、三十七期の菅波、村中、野々山の各少尉、
生駒、高村、両見習士官 ほか 四十数名に及んだ。
東京憲兵隊では特高課長坂本俊馬少佐が主となって、西田税を取調べた。
また、これが配布をうけた在京将校に対しても憲兵隊に出頭せしめ、
西田との関係を追及したが、名は秘密の結盟というが、実は西田の独創であることがわかり、
秘密結社としての存在を確認することができなかったので、
西田に対しては、将来を厳重戒告して釈放し、
配布をうけた将校は所属長において訓戒し その監督を厳重することにして、
この事件を解決した。
だが、何等の連絡もなく配布をうけた将校の中には、西田の勝手な独走に不快を示し、
西田との絶交を宣言するものもあり、一時は、西田の人気もおちた観があったが、
しかし在野における西田の存在は不動で、彼による隊附将校の啓蒙、獲得は、堅実に伸びていた。
だが、それらは、あくまでも秘密のものであったし、一つの結盟というには、なお程遠いものだった。
大岸頼好中尉
ところが、それから三年たって昭和五年に入ると、
一世を聳動した浜口内閣のロンドン軍縮にからんで、政府の統帥権干犯、
これにつづく宮中での加藤軍令部長帷幄上奏阻止の問題がおこった。
新聞もかきたてたが、革新右翼はいかった。
このとき陸軍に 「 兵火事件 」 なるものがおこった。昭和 五年四月のことである。
仙台陸軍教導学校の区隊長だった大岸頼好中尉は、
浜口内閣の統帥権干犯、
ことに、浜口政府が宮中の側近と結んで、加藤軍令部長の帷幄上奏
を阻止したことに痛憤し、
同志達に蹶起を促そうと、「 兵火第一号 」 を 四月二十九日 ( 天長節 ) 附を以て秘密出版し、
同志に配布し、さらに、引きつづき 「 兵火第二号 」 を印刷配布して、
同志を激発しようとした。
その第二号、戦闘方針を定むべしという項の中で、
一、東京を鎮圧し宮城を守護し天皇を奉戴することを根本方針とす。
     この故に、陸海国民軍の三位一体的武力を必要とす
一、現在、日本に跳梁跋扈せる不正罪悪--宮内省、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等々を明らかに摘出し、
     国民の義憤心を興起せしめ、正義戦闘を開始せよ
一、陸海軍を覚醒せしむると共に、軍部以外に戦闘団体を組織し、この三軍は鉄のごとき団結をなすべし。
    これ結局はクーデターにあるが故なり。
    最初の点火は民間団体にして最後の鎮圧は軍隊たるべきことを識るべし
と 書いている。
この革命の思想は、国家改造法案に通じ、
西田の天剣党の戦闘指導綱領に通じていることが注目される。
この檄文配布は憲兵の探知するところとなり、大岸中尉はもちろん、配布をうけた将校も、
ことごとく取調べられ その数三十数名に及んだ。
しかし、それは大岸中尉の激発的行動で、
そこには、いささかの計画準備と認められるものはなかったので、
憲兵は単なる説論に止め、その処置は所属長に一任した。
だが、西田を中心とした青年将校一連の結びつきは、天剣党当時よりは、さらに一歩の前進を示し、
このような行動にも出かねまじき状態にまで進んでいた。
その後の国内情勢は、国民は不況にあえぎ政党は利権の争奪に終始し、
外は幣原軟弱外交により満蒙の権益は危殆に瀕していた。
したがって、青年将校の啓蒙宣伝には多くの好条件をもっていた。
西田は北と結んで、その 「 改造法案 」 の実現のために、いよいよ軍の内部に同志の獲得をはかった。
しかも、その機会には、いつも恵まれていた。
東京及びその周辺には軍の実施学校がおおかった。
東京には、砲工学校と戸山学校があった。
千葉、習志野、下志津には、歩兵学校、騎兵学校、戦車学校、瓦斯学校、
野戦砲兵学校、飛行学校、工兵学校 ( 松戸 ) 等々、
ここには三ヵ月乃至六ヵ月の短期間、隊附将校を入校させて、普及ないし補備教育が行われていた。
将校団をはなれてこの短期間に、同志の獲得が行われ、革新の洗礼をうけて帰隊した青年将校は、
さらに、その将校団ないし衛戍地将校に、同志を拡げて行く。
だが、現役の軍人、軍隊を以て革命の中核とする、北、西田の思想は、軍にとっては危険なことだった。
「 改造法案 」 のみならず、
のちのニ・二六事件将校らの信条とした 「 順逆不二ノ法門 」には、
国家ノ革命ハ軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ、最終トス。
革命ハ暗殺ニ始リ暗殺ニ終ル。
近代武士ガ単ニ階級ノ上ナル者ト云フノミニ対シテ拝詭はいきする奴隷ノ心ハ、
階級ノ下ナル者ニ向ツテ増上尊大トナル。
近代武士ハ速ニ封建思想ヨリ脱却スベシ
と教えている。
それは軍の階級観念を消磨せしめ、下剋上思想を扶植し これを革命軍隊に導入しようとするもので、
軍隊存立上、許容すべからざる思想が、淊々と一部の青年将校の心根に流れていたのであった。
これこそ、軍の健全化を願う憲兵のもっとも力を注ぐべき軍事思想警察であったが、
憲兵も軍人であり、軍隊である限り、時代の悪弊の前に、国家改造運動に理解をもつと称していた。
そのために、これらに対する抜本的警察的処理に欠いていたことは、
結果として青年将校運動を助長せしめることになったといえる。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』
二  革新のあらしの中の憲兵 ・・から


國家改造運動・昭和維新運動 1

2021年09月25日 15時32分15秒 | 國家改造・昭和維新運動

昭和十一年七月十二日
十五名が処刑された時、獄中にあった西田税が
かの子等はあを
ぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもすおもふ 
と 歌ったように
「 涯なるくに 」 に 「 かの子等 」 は消え去ったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二・二六事件は、いわゆる 「 國家改造運動 」 「 昭和維新運動 」 が、
最大の規模の直接行動となったものである。
事件の決行者であった靑年將校らの敗北と処刑によってそれは終熄し、
「 運動 」 もまた、ここに大きな劃期を印すこととなった。
ここで彼等を行動にかりたてた「 國家改造運動 」、「 昭和維新運動 」
というイデオロギーの生れてくる過程を簡単に辿ってみる。
大正六年十月のロシア革命、
大正七年八月の米騒動、
大正七年十一月の第一次世界大戦の終結、
それにつづいて、戦後世界をおおった民族自決主義と世界的 「 改造 」 熱、
デモクラシー・自由主義の流行、
イタリーのファッショ独裁政権の出現、
こうした事件や状況を背景に、「 改造 」 という言葉が、新鮮な響きで人々に意識されるようになる。
雑誌 「 改造 」 は大正八年四月に創刊された。
吉野作造は民本位主義を提唱し、
日本共産党が大正十一年七月に非合法ながら結党された。
自由学園という名の学校も成立された。 ( 大正十年四月 )
この新しい改造時代の到来を如実に示す一つの例が老壮会の集りであった。
会の実質的世話人であった満川亀太郎は 『 三國干渉以後 』 ( 昭和十年九月、平凡社 )
老壮会の前身 「 夜光会 」の集りから老壮会になるまでの回想を記している。
この本の第十章は 『 改造運動揺籃期 』 と題されているが、
その冒頭の一節に左を引用して、この頃の運動家の持つ雰囲気を知る一端としたい。
米騒動によって爆発したる社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想とは、
大正七年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき一個の契機とさへ見られた。
一つ誤てば国家を台無しにして終ふかも知れないが、またこれを巧みに応用して行けば、
國家改造の基調となり得るかも測り難い。
そこで私共は三年前から清風亭に集まって、時々研究に従事しつつあつた三五会を拡大強化し、
一個の有力なる思想交換機関を作らうと考へた。
かくして老壮会は出来上がつた。
老壮会の創立第一回の会合は、大正七年十月九日午後六時清風亭に開かれた。
・・・・・。
この老壮会の会員の右派が、いわゆる 「 國家改造運動 」 の指導者や、各種団体の中心人物となった。
周知のごとく 北一輝は大正八年八月上海で まさに直截的な題名をもつ
『 國家改造案原理大綱 』 ( 後の 『 日本改造法案大綱 』 ) を 書き上げた。
なお大川周明は、この時期の改造運動の傾向について説明している。
それは
第一、無政府主義的、
第二、共産党となるもの、
第三、社会民主主義的、
第四、國家社会主義的、
第五、猶存社を中心とするもの、
の 五つであるとしている。
満川、北、大川は国家改造を画策し、
これを実現する運動の第一歩として猶存社を結成した。( 大正八年八月一日 )
大川は後に北と別れ 大正十四年二月十一日 ( 紀元節の日 ) に行地社を設立する。
このとき定めた行地社の綱領と機関誌 「日本 」 でのべた、いわば行地社宣言の一節には
「 行地運動は國家改造運動である 」 と 明確にうたっている。
同時に陸軍においても、
さきの大戦終結前後の内外の風潮や諸事件に無関心ではありえなかった。
とくに戦車、戦闘機、爆撃機、毒ガス等の新兵器の出現は、
これまでの戦略、戦術に一大転換を招来することを予想させるに至った。
また ロシア革命の勃発からロシアの単独休戦、
自國に敵の一兵も侵入せしめずして降伏したドイツの状況をみて、
今後の戦争はたんなる戦場の勝敗のみで決するのではなく、
思想、経済もまた戦争に大きく繰り込まれるものと判断した。
この判断は、本書の 「 國家総動員に就て 」 の解説でふれるように、
整備局の新設、内閣資源局の設置となって具体化する。
大正十四年五月の高田、豊橋、岡山、久留米の四個師団廃止を骨子とした宇垣軍縮の目的は、
結果はともあれ、歩兵師団を縮小して重機関銃、戦車、航空機の増強をはかったものであった。
こうした改造機運を陸軍の軍人としてもっとも端的に表明したのが陸軍大佐小林順一郎であった。
小林は陸軍砲工学校、同高等科を、ともに主席で卒業し、あえて陸軍大学には入らず、
フランスに駐在する。 ( 明治四十二年--四十五年 )
第一次世界大戦でフランス軍に従軍を命ぜられ、
大正五年八月から同十一年二月までフランスに駐在した。
彼はこの戦争に参加し、また講和会議での平和条約実施委員となって、
つぶさに新しい戦争における化学兵器の威力を目撃し、その体験、知識から、
日露戦争時とかわらぬ歩兵の肉弾戦を基幹とする我が陸軍の戦争方式に抜本的改革を行う必要を痛感し、
自分の意見をまとめて山梨半造陸相に提出した。( 大正十一年、小林四十三歳のとき )
しかしこの意見の容れられる余地の全く無いのを知った彼は、大正十三年二月 自ら軍籍を退いたのである。
フランス人を妻とし、陸軍でもっともフランス語に堪能であり、かつ砲工学校以来フランスで勉強した小林は、
野に下るや山梨陸相に提出した意見をもとに一著を公刊した。
この小林の意見がいかに抜本的であったかは、日本の陸軍を一度解散して新軍を編成せよという主張でも知られる。
そしてこの著の題名が 『 陸軍の根本改造 』 であった。 ( 大正十三年十一月、時友社 )
小林の場合は野にあっての提言であるが、現役軍人として陸軍を改造し、ひいては日本の改造を意図し、
それを着々と実行していった軍人たちがいた。
永田鉄山を中心とする軍人たちである。
彼等は昭和の初頭、双葉会、一夕会の名でしばしば会合を続け、方策を練っていたのであった。
その最初の具体的なあらわれが満洲事変であり、この事変の計画と実行には一夕会の会員であり、
共に論じあった仲間である関東軍高級参謀板垣征四郎、参謀石原莞爾、
陸軍省の軍事課長永田鉄山の緊密な協力が強く作用していたといわれている。
爾来日中戦争、太平洋戦争において一夕会に集まった軍人は戦争の指導者となり、
東條英機に代表されるごとく、政府の首脳ともなった。
彼らが実現せんとした改造とは、一言にいえば軍事はもとより、
思想、政治、経済のすべてを軍政の下に一元化する 「 國家総動員体制 」 を完成することであった。

しかしながら右のごとき陸軍の上級將校、とくに省部  ( 陸軍省、参謀本部 ) の枢要な地位にあった將校たち、
別の言葉でいえば 「 幕僚 」 による國家改造運動とはまったく別個の方式で、
同じく国家改造を目ざし 運動を続けた下級将校---憲兵隊の書類の上では 「 
一部青年将校等  と記載され、
通称では、「 靑年將校 」 と呼ばれ、勤務上の区分から 「 隊付將校 」 といわれた---の一団があった。
この軍人たちが後年 二・二六事件を起すのである。
彼等の 「 國家改造 」 とは何を意味し、どう実現するのか。

西田税 
ここであらためて考えられるのは西田税の存在であろう。
西田は陸軍士官学校在学中 北の 『 支那革命外史 』 に大なる影響を受け、
当時の言葉で 「 大アジア主義者 」 の自覚を持つに至る。
広島幼年学校を首席で卒業 ( 大正七年七月 ) 
陸士では秩父宮と同期生。
秩父宮とは「 殿下に特別親近した一人 」 だった。
秩父宮がイギリスに留学にあたって意見書を呈している。
大正十四年 病気を理由に軍籍を退いた西田は上京して大学寮に入る。
この大学寮時代に陸士の後輩でニ・二六事件まで國家改造運動を続ける
菅波三郎、大岸頼好、末松太平、村中孝次らと相識り、
海軍の藤井斉や五・一五事件の首謀者となった古賀清志との交わりも始まるのである。
大川と北とが分離してから、西田は生涯 北の忠実かつ唯一人の門下となる。
北が西田を必要とした一つの理由は、
北が中国革命から得た教訓---近代國家の革命は下級將校と下士官、兵の武力によってのみ達成される。
大隊長 ( 少佐 ) 以上の軍人は権力層の一員で必然的に腐敗している---から、
西田の下に集る靑年將校への大なる期待にあった。
この西田に 「 無眼私論 」 という 随想録がある。
陸士在学中に病気で入院中に書いたもので大正十一年三月十一日より筆を起している。
「 而も十億の同族が涙ににじむ今宵の月 」 のように大アジア主義が感傷的にうたわれたりしているが、
三月二十日付の随想には 「 大正維新 」 という表題で頗る重大な考えが述べられている。
たとえば
「 大権---神聖なる現人神の享有し給ふ心理実現の本基たるべき---の発動による國家の改造、
『 クーデッタ 』 吾等はこれを断行しなければ無効だと信ずるのである。
---爆弾である。剣である。」
と。
次の一節は 「 昭和維新 」 の本基 についての考え方を見事に示している。
今や現実を直視するとき、一たび明治維新の革命に於て建設したる
「 天皇の民族である、國民の天皇である 」 といふ理想を闡明せんめい
燦然さんぜんたる真理の聖光を宇内に宣揚したる至美の真日本は已に已にその一端をも留め得ずして
後人理想の誤り 真理を忘れ、至聖至美至親の天皇は民族国民より望み得ず
両者の中間には蒙昧愚劣不正不義なる疎隔群を生ずるに至つたのである。
この中間の 「 蒙昧愚劣不正不義なる疎隔群 」 の排除を、
爆弾と剣によるクーデターで実現すること、
この要求が 「 昭和維新断行 」 への直接行動のエネルギーの源なのである。
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佐郷屋留雄  井上日召
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佐郷屋留雄の浜口雄幸首相暗殺事件 ( 昭和五年十一月十四日、死去は翌年八月二十六日 ) 、
血盟団事件 ( 昭和七年二月九日、三月五日 )、五・一五事件 ( 昭和七年五月十五日 )
と 連続し、最後に二・二六事件に至る。
昭和維新運動には、この 「 疎隔群 」 の打倒にその目的の一つがあった。
即ちこれらの事件の報告の被告の法廷での陳述や、いわゆる怪文書、
二・二六事件の 「 蹶起趣意書 」、「 獄中遺書 」 などには、
「 君側の奸を排除し、斃して天皇と国民が直結する、即ち天王親政の政治体制を実現する 」
ことが繰り返し述べられているのである。
当時の政治、社会、経済の状況は、政党政治が自党の政権獲得と維持に狂奔し、
國民不在の政治に堕し、さらに資金関係から党人は腐敗し、
確かに彼らのこの信念を強めさせる客観的状況を展開していた。 
「 疎隔群 」 たる 「 君側の奸 」とは、
元老 ( 西園寺公望 )、重臣 ( 総理大臣の前官礼遇者、内大臣、侍従長、区内大臣らをいう )
軍閥、財閥、政党、官僚の首脳を指している。
國家を改造する、という第一次世界大戦終結前後頃より起った運動に
維新 という意識をもちきたしたのは西田だけではない。
たとえば大川は行地社の綱領第一項に 「一、維新日本の建設 」 とうたい、この綱領第一の説明をしている。
「 維新日本の建設とは 」 「 君臣君民一体の実を挙げる 」 我國を現出することであり、
「 君民の間に介在して一体の実を妨げるものが現れた場合は晩かれ早かれ其の介在者を掃蕩して
國家本来の面目に復帰せしめずば止まぬ、」 
すなわち天皇と国民との間の権力たる 「 介在者の掃蕩 」 が維新運動である。
「 介在者 」 は西田のいう 「 疎隔群 」であることはいうまでもない。
『 日本及日本人の道 』 ( 大正十五年二月、行地社出版部 ) において雑誌 「 日本 」 に宣言したのと同様に、
行地社の名の由来をのべ、行地社は今後何をなさんとするかをのべている。
そしてここでも 「 かくて行地同人は維新日本の建設に一身を献げる 」 といっている。

大川・西田に代表される 維新 とは王政復古を実現した明治維新につらなっている。
しかし昭和時代になって実際に 「 昭和維新運動 」 で直接行動をなした人々の法廷での陳述、
獄中遺書を読むと、彼らの行動の歴史的範例の一つは大化改新にもとめられていたことがわかる。
それは天皇の眼前で皇太子とともに革新を志す者が、君側の奸---蘇我入鹿---を暗殺したという事実に、
自分らの行動のありうべきイメージとの一致を見い出していたのである。
大化改新をこう解釈しうるかどうかは別の問題であろうが、彼らの理解はこうであったのだ。
国家を改造するには維新を断行しなくてはならない。
それでは維新とは何か。
これは西田の 「 随想録 」 大川の所説からでもその一端がうかがえるが、次のようなものと思われる。
天皇は神であるとともに日本を統治する最高の主体である。
神には信仰も思想も倫理も、統治には此の世のすべての政治行為が、天皇に帰一し奉っている。
この天皇が君臨する日本において、現実に悪い政治が行われていれば、
それは全く、現在政治を担当している人々と、これを支える人々、即ち権力層が悪いのである。
だからこの人々を君側の奸して屠つてしまえば、
天皇がいるのだから、日本はおのずから良くなる、という論理である。
この場合、天皇はいわば絶対の規範として考えられた。
これが後にいう彼らの 「 國體観念 」 である。
だから西欧の革命と 維新 が根本的に異るのは、
革命が最高主権者を打倒して政治変革をめざすのに対し、
維新 は絶対にこの最高主権者には手をふれず、
それどころか、そこに自分たちの行動、運動の正当性の根源を置いたのである。


現代史資料23  国家主義運動3
解説

二・二六事件以後の国家主義運動について
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國家改造運動・昭和維新運動 2

2021年09月23日 12時09分39秒 | 國家改造・昭和維新運動

二・二六事件は、いわゆる 「 國家改造運動 」 「 昭和維新運動 」 が、
最大の規模の直接行動となったものである。
事件の決行者であった靑年將校らの敗北と処刑によってそれは終熄し、
「 運動 」 もまた、ここに大きな劃期を印すこととなった。
・・・國家改造運動・昭和維新運動 1

 昭和天皇と鈴木貫太郎

最初に記したように、二・二六事件はこの運動の頂点となった直接行動である。
ところが事件の収拾から、軍事裁判へと進んでいった時、
決行した将校たちを苦悩の底におとしいれたのは、
自分たちの行動の正当性の根源であると信じていた 天皇・國體 が、
此の世の政治からきり離
された超然たる信仰対象ではなく、
現実の政治的最高主権者であり、
頗る人間的反応を示し、
討伐の実行を権力層に命じる西欧におけると同じ元首だったということである。
この事件の判決こそは、
彼らが、攻撃目標とした --事実殺害した-- 権力層の、その頂点に立つ天皇の彼らへの回答なのであった。
この苦悩の底から天皇制の本質を剔抉しているのが磯部浅一の 「
獄中手記 」 である。
青年将校がニ・二六事件を決行し、
内大臣という天皇の唯一の政治顧問をはじめ、首相以下の大官を襲撃した時、
つまり 「 蹶起趣意書 」 にうたった 「 稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除 」
し 「 奸賊を誅滅シテ大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顕 」 せんとした瞬間 出てきたのが 「 大臣告示
」 である。
これは事件の起きた日の正午頃から軍事参議官が宮中に集った会議の席で作成された文書である。
「 告示 」 は五項目からなっているがその全文は本書の五八九頁にある。
第二項 「 諸子の行動は國體顕現の至情に基くものと認む 」 は、
叛乱行為を明確に肯定し かつ、 「 蹶起趣意書 」 に十分応えたことを意味する。
叛乱を起した靑年將校たちが、之れを読んで 「 昭和維新成れり 」 と 一瞬信じたのは当然である。
だが この第二項が事件に直接的にかかわるものとすれば、
第三項 「 國體の真姿顕現 ( 弊風を含む ) に就ては恐懼に堪へず 」
第五項 「 之れ以上は一つに大御心に俟つ 」 は、事件の処理を天皇に一任して甚だ漠然としている。
具体的処理という実務を、天皇がとられるはずはないという、考え、
逆に天皇は神であらせられるのだから無謬であり、
したがって自分らの真意に十分に添うよう処理して下さるはずだという、期待を持った。
このことは彼らの 「 獄中遺書 」 でうかがえるのである。
もちろんこの 「 告示 」 は当然公表されていない。
叛乱軍にこれを伝えるべく命ぜられた堀第一師団長、橋本近衛師団長のうち
橋本師団長にいたっては、「 こんな怪文書 」 といって握りつぶしてしまったという。
まして新聞にも報道されず、一般の国民誰一人、この 「 告示 」 の存在すら知る事はなかった。
これがどんなに当時は秘密にされていたかは次の事例でもわかる。
この 「 告示 」 の問題を衝いた --もちろんこれのみではないが-- 磯部浅一の 「 獄中手記 」
の一部が刑務所に面会に来た磯部夫人から岩田富美夫 ( 北一輝の門下、大化会会長、このときは、やまと新聞社長 )
の手に入った。・・・リンク→磯部浅一の嘆願書と獄中手記をめぐって 
岩田はこれを絶対に公表しないことを取引の条件として、
第一次処刑の後、獄中にいる、北、西田、磯部、村中孝次の救命
( 磯部、村中の死刑判決の有期刑への減刑、北、西田の刑量考慮 ) を杉山陸相に迫った。
しかしこの交渉の間、直心道場の一員が、磯部夫人から一日この 「 手記 」 を借り、
謄写して一部の人々に発送してしまった。
これが 「 磯部怪文書 」 といわれ、憲兵隊に押収され、
杉山陸相は岩田に 「 約束を破った 」 として交渉を御破算にしてしまった。
関係者は不穏文書臨時取締法違反で検挙あるいは留置された。 ( 磯部夫人、西田夫人も含む )

磯部浅一 ・ 獄中手記 
・ 磯部浅一 獄中日記
・ 
磯部浅一 ・ 獄中からの通信

このように一般には、その存在すら知られておらず、
叛乱を起した靑年將校には、唯一の約束の文書であった 「 大臣告示 」 が具体化された結果が
一九名刑死という判決であった。
判決を知った國民の大多数には、陸軍の断固たる決意の現れと感じられた。
しかし國家主義者たちには、もともと陸軍に対する彼等の期待と一体感ともいうべき親近性があったのである。
本書x1iii頁にある吉村検事の報告に
「 実務上感ずる事柄は今日右翼団体の活動の背後には必ず或る種の強力なるものの存在することなり 」
とあり、婉曲えんきょくな言いまわしであるが 「或る種の強力なるもの 」 とは陸軍を指している。
だからこの峻厳な判決の背後に、
あらためて元老、重臣と一体となっている天皇の存在を感じざるを得なかった。
彼らは 「 昭和維新運動 」 はこの事件をもって、ひとまず終熄したと判断するに至る。
このことは後に紹介する
「 新聞紙雑誌に現れたる二十六日事件の批判 」 の一節が如実に物語っている。

昭和維新運動が、
「 君側の奸の芟除 」 と 「 國體の擁護開顕 」 に最終の目標がおかれたとすれば、
ここで 「 國體 」 とは、彼らにとり、どう観念せられていたかが問題となる。
これは遠く 明治末年の一木喜徳郎・美濃部達吉 対 穂積八束・上杉慎吉の論争にまでさかのぼる。
この論争が純然たる憲法上の論争にとどまらず
最後に昭和十年の國體明徴問題 ( 天皇機関説問題 ) と爆発し、
この機関説問題が 「 無血クーデター 」 とまでいわれるほど
國家主義運動の一大劃
期を呈したのは一つは上杉の存在による。
上杉は東京帝國大学教授であって、
同時にまた桐花学会 ( 大正二年 )
経綸学盟 ( 大正十二年 )
七生社 ( 大正十四年 ) の創立者、会長であり、
建国会 ( 大正十五年、会長赤尾敏で、初期の頃は井上日召、前田虎雄も関係す ) 顧問でもあった。
東京帝大の教え子、また薫陶を受けた者には 天野辰夫 ( 新兵隊事件の首謀者 )、
四元義隆、池袋正釟郎、田中邦雄、久木田祐弘 ( いずれも東京帝大の学生で血盟団の一員 ) 
を出している。
昭和九年九月十一日、血盟団事件の公判廷で林逸郎弁護人は
「 昭和維新促進連盟に於きまして相集めました減刑の 『 上申書 』 壱千四百枚を御覧賜りたいと思ひます 」
として藤井五一郎裁判長に 「 減刑上申書 」 を提出した。
その第三章は 「 國家革新運動の醸成 」 と題され、
第一節の(一)は 「 天皇機関主義の思想 」(イ) 「 逆徒一木喜徳郎 」 という見出しから始まっている。
ここで林は一木が明治三十二年に出版した 『 國法学プリント 』 をあげて一木を批判する。
その最大の要点は 「 憲法が國務大臣は元首の行為に付ても責に任ずることを規定せるは 即ち、
国務大臣に与ふるに元首の命令の適法なるや否やを審査するの権を有し
従て其違法と認むるものは之を執行せざる責任を有する 」 という一木の学説にあった。
ここで元首とは、日本では天皇である。
國務大臣には、天皇が下す命令を審査する権利を持つ、
また 天皇の命令に違法があるかもしれないとは、何事か、
それでは 「 斯の如き説を仮に信じますならば國務大臣の地位は洵に元首の地位の更に上位に位する 」
こととなると林は一木学説を批判したのである。
政党政治にあっては、立法府たる議会を構成する議員を過半数集めた者が内閣総理大臣になる。
その議員とは何者か、
三井、三菱、住友という大財閥から地方財界におよぶ独占資本から選挙資金を貰い、
日頃金を得て養われている走狗である。
選挙ともなればこの金を使い、法定選挙費用違反に始まり、
各種の違反、買収をやって当選してくる犯罪人なのである。
提出する法案、成立する法律は國民生活よりも、
この財閥の利益を必ず優先させ、自党と自己の利益のみ考え行動する。
この犯罪人を過半数集めた者が首相になり、国務大臣を決定する。
かくて立法府と行政府の長は同一人で、しかも司法大臣もまた首相が任命するとすれば、
憲法にうたった三権分立の定めは有名無実ではないか。
この國務大臣が天皇を審査するとは---と批判し攻撃するのである。

「 最近の右翼思想運動に就いて 」 において、
佐野検事と被告との間に 「 幕吏 」 問答がなされたことが記されているが、
この被告とは血盟団員を指している。
彼らは以上のごとく、首相以下、政治を担任する者、これを支えている者を 「 君側の奸 」 とし、
林と同じ論旨を幾度も陳述している。
内閣、議会が天皇を機関としてのみ扱って権力をほしいがままに行使するとき、
政治を担う人々の一群を幕吏とみたてた。
相澤事件前後に出た怪文書には、
林陸相、永田軍務局長で動かされている陸軍を幕府になぞらえたものがあり、
また、後の大政翼賛会を幕府だと攻撃して骨抜きにしたのも同じ発想である。
一木の学説は
「 天皇と議会とは同質の機関とみなされ、一応 天皇は議会の制限を受ける 」
というにあった。
美濃部学説は
「 立法権に関する議会の権限を天皇のそれと対等なものに位置づける 」、
「 原則として議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない 」
という。
この一木・美濃部学説についての議論は、ここでは問題でない。
ただ 昭和初年の政党内閣が失政を繰り返すばかりか、疑獄 ( 汚職 ) の続出などによって
議員を犯罪人だと断定していた國家主義者には、
「 議会は天皇の命令に服するものではない 」
という説は到底承認しえなかったであろう。
ましてこの時、天皇とは彼らにとっては神であったのである。
また美濃部は 「 國體 」 は 「 本来法律上の語ではなく
歴史的観念もしくは倫理的観念 」 だとして 「 政體 」 と峻別しているが、
國家主義者には、この区別こそ重大であり、行動への起爆力となったのであった。
「 國體 」 は観念ではなく、実存する天皇と一體化している、倫理的かつ政治的実体であり、
神聖にして侵すべからざるものであった。
「 政體 」 は内閣総理大臣を長とする、下からの國民の代表の集団であり、
交代を前提とする政治機構にすぎなかった。
まさに中江兆民がいうごとく
「 政府とは何ぞ、役人と成りたる人民の集合体 即ち是れなり 」
であった。
だからもし政府が、悪しき政治を行っていると判断すれば、
いかなる手段 --時には暗殺しても-- を用いても打倒しなければならない。
これが、國體 ・天皇に忠実なる人間の責務だと信じていた。
相澤中佐は 「 上告趣意書 」 に、
「 永田を殺さずして台湾に赴任することは不忠であり、永田を殺して台湾に行くことこそ、忠義である 」
と のべている。
・ 相澤三郎 ・上申書 1 
・ 相澤三郎 ・上申書 2 

また 二・二六事件の 「 憲兵調書 」 で叛乱軍の将校は、
第一師団が満洲に移駐する前に 「 君側の奸の芟除 」 をしなければ、
國家の為に、なすべきことをなさないという結果になる、
と 陳述している。

「 昭和維新運動 」 とは、
大日本帝國憲法第四条 「 天皇ハ國ノ元首にして統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ 」
ヲ超えて 第三条 「 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ 」 を絶対化してしまう運動なのであった。
たとえば、相澤中佐が死の直前まで唱えていた言葉は 「 尊王絶対 」 であった。
・・・リンク→
新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』 
だが 二・二六事件が決行されたとき、
天皇は 「 第四条 」 通りの元首であった。
天皇は元首として事件を起した軍隊を自ら最初に 「 叛乱軍 」 と定義し、討伐を要求した。
この強い意志 ( 大御心 
) は、腰を浮かし、去就定まらぬ陸軍の首脳を叱咜して急速に事件を終熄させたのである。
「 磯部手記 」 に代表される、この大御心の実體につき当り、天皇信仰が崩壊していく過程は、
戦後になり、遺書、手記が公刊されるまでは、國家主義者はもとより殆どの國民には不明であった。
前に述べたように苛酷な刑の実行は、ひとえに陸軍の意志と受けとられたのであった。

つぎに内乱の問題。
事件四日間の後半二日は叛乱軍と包囲軍との間に 「 皇軍相撃 」 という事態の発生が予想されてきた。
叛乱軍は 「 大臣告示 」 第二項で自分らの行動は天皇に承認されたと安堵し、
第三項により、國體の真姿は顕現したと、その目的達成に楽観し、
第五項により、あとは天皇がよろしく処置して下さることと確信して、
占拠地帯を動かなかった。
他方、この事件に対する 「 大御心 」 の内容を知った陸軍の首脳部は、
高崎、甲府、佐倉にある歩兵聯隊を東京に終結し、残留した近衛師団の兵とともに叛乱軍を包囲した。
ここで叛乱軍と包囲軍が戦端を開けば、「 皇軍相撃 」 =内乱は十分に予想された。
地方にある聯隊には東京の状況は正確に伝わっておらず、
旅団長、連隊長、師団参謀長という上級者には判断停止に陥っていた者もあり、
まして天皇の意志が那辺にあるかなどは全然不明であった。
だからもし両軍が弾丸を撃ち合ったとなれば、必然的に隊付將校を中心に動揺を来し、
第二の蹶起が続出する懸念があった。
内乱の招来である。
内乱とは権力を持つ人々には、秩序の崩壊、國體損傷の危険を来すものであった。
叛乱軍には、陛下の軍隊の同志討ち、戦友との殺戮であった。
この両面からの危機感が辛うじて相撃を回避せしめ、
叛乱軍の降伏をもって事件は終結したのである。


現代史資料23  国家主義運動3
解説

二・二六事件以後の国家主義運動について
1 はじめに   ・・を書写


井上日召 『 血盟団 』

2021年09月23日 05時52分05秒 | 井上日召

井上は西田が大学寮以来改造運動に従事すること十余年、
其の間彼が尽くした貢献は大なるものがある。
自己に生活の資を得る途のない彼が
有資産者、俸給生活者の如く
公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ当然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。
・・・血盟団・井上日召と西田税 1 『提携』 


井上日召  イノウエ アキラ
『 血盟団 』

目次
クリック して頁を読む


・ 
井上日召 ・ 郷詩会の会合 前後
血盟団・井上日召と西田税 1 『提携』
・ 
血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』
・ 血盟団・井上日召と西田税 3 『十月事件に参加』
・ 血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』

・ 井上日召 ・ 郷詩会の会合 前後 
井上日召 ・ 五、一五事件 前後 

日本愛国革新本義 ( 未完 ) 

井上一統及海軍側に依つて行はれた血盟団事件、五・一五事件は
この流れを其儘延長せしめたのであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に程度を変化し、
従来提携し来つた井上一統及海軍側の勧誘に応ぜず、
満州事変により国際情勢緊迫の際
国内改造を計る時期に非ずと称して蹶起を肯ぜざるに至つた。
その結果、井上一統海軍側同志は
斯く陸軍側の豹変したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、
遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。
・・・血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』


血盟団・井上日召と西田税 1 『提携』

2021年09月21日 18時56分05秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く 
陸軍側其の他との提携に努む
井上は昭和五年十月 藤井斉 の依頼に応じ海軍側同志の連絡機関として活躍するため、
護国堂を去り上京したのであつた。
愈々上京するに当って、護国堂時代 井上を盟主と仰ぐに至つた青年や海軍将校連は
同志檜山誠次方二階に於て井上の送別会を催した。
海軍側の藤井斉、鈴木四郎、伊藤亀城、大庭春雄、
大洗青年組古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、以下数名が出席した。
井上は此時自分の意中を述べて、東京では革命革命と口では云つて居るが、
皆命を惜しんで自分の国家のため捨石にならうとする者かない。
国家に対して真の大慈悲心を抱く者が始めて革命の捨石になる事が出来ると語つて居り、
一同は無言の裡に革命のため井上と生死を共にすることを堅く誓つたとの事である。
井上は初めは気の長い宗教的方法に依る国家改造を考へて居つたのであるが
ロンドン条約以後改造運動者は一九三六年前に改造を成就せねばならないと云ふ声が高くなり、
井上も藤井と交はるに至り 之に同意し 次第に急速な手段を考究するに至り、
上京せんとするこの頃に至つてはテロ手段に依つて革新の烽火を挙げ、
支配階級に生命の危険を感ぜしめて其の自覚を促し
一方陸軍海軍民間側の革新分子が彼等の後を継いで革新の実を挙げることを期待して居つたのである。

彼が暗殺手段を採用した理由として
第一、同志が少ない
第二、資金が皆無だ
第三、武器兵力が無い
第四、言論機関が改造派の敵である
第五、国家の現状は一日も早く烽火を挙げねばならない
等を数へて居る。
斯くして井上は宗教的熱意を以て改造を志す数名の青年を率い、
同じく国家改造の熱意に燃える海軍士官一派と握手して愈々中央に乗り出して来た。

井上は直ちに金鶏会館に止宿した。
筑波旅行によつて有力たる闘士として望をかけて居つた金鶏寮止宿の上杉門下七生社同人四元義隆、
池袋正釟郎と接触し、之を同志に獲得した。

一方井上は大学寮以来藤井等海軍側同志が親しくして居つた西田税に近付き、
中央に於ける改造運動の情報を探り、又 北一輝、満川亀太郎、大川周明等にも面会し
北、大川の大同団結を計らうとした。
改造運営の要所要所に手を延ばし情勢を探り、藤井斉等地方にある海軍側同志に之を通報して居た。

同年 ( 昭和五年 ) 十二月
大村航空隊に在つた藤井斉より 九州に於ける革新分子の会合があるから来いとの通信があり、
井上は四元義隆と共に西下した。
十二月二十七日午後より翌日にかけて福岡県香椎温泉に於て
海軍側  藤井斉    三上卓    村上功    鈴木四郎    太田武    古賀忠一    古賀清志    村山格之
陸軍側  菅波三郎
民間側  大久保政夫 ( 九大生 )    上村章 ( 福高生 )    山口半之丞 ( 福岡県社会課 )
            井上富雄 ( 天草郡小学校訓導 )    外九大生某
            井上昭    四元義隆
の会合に出席した。
その内容は之より組織を持たうと云ふ程度に過ぎず 井上は頗る失望したが、
海軍側三上卓、陸軍側菅波三郎等有力なる人々と親しくなつた。
更に 四元と共に同人の郷里鹿児島迄行き、菅波中尉と懇談を遂げ親密の関係となつた。
又大村に於て藤井の紹介により陸軍士官東少尉外数名と会つた。
其帰途 呉鎮守府、横須賀鎮守府に立寄り 藤井の統制下にある海軍士官多数と面会し、
真の同志たるべき者を探し求め、相当の収穫を得て翌六年二月帰京した。
当時井上の観察する処では陸軍側革新分子は九州に於ては菅波中尉 東少尉が中心であり
而も其運動は相当古くよりのものであり、
東北に於ては仙台の教導学校より青森聯隊に転じた大岸頼好中尉が
海軍側に於ける藤井斉の如き立場に居る有力なる中心人物であつた。
而も之等陸軍側三名は孰れも藤井斉と連絡を有して居り、菅波中尉 東少尉とは九州旅行により井上は懇親となり、
大岸中尉とは其以前 金鶏会館に於て藤井斉の紹介により相識の間柄となつて居た。
斯くの如くにして井上は藤井との連絡によつて陸軍側の青年将校の中心人物菅波、東、大岸等と相知ったのであつたが、
未だ同志として心より提携するには至らなかつた。

井上が九州旅行より帰ると間もなく同年 ( 昭和六年 ) 三、四月頃
陸軍側上層部に所謂三月事件なるクーデターに依る国家改造の計画があつた事が風説として一般にも伝へられた。
これは一般民間側改造運動者にも相当の刺戟となつた。
井上は上京後早々から西田税 に近付いて彼の許に集まる情報を聞いて居つたが
三月事件の情勢を西田其他より聞いて愈々改造運動に着手せねばならぬと考へた。
彼は藤井よりの依頼もあつたので民間側の巨頭である北一輝、大川周明との仲直りも策した。
井上はこの以前北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を読み、北の非凡な頭脳の所有者であるを知り、
前田虎雄と共に訪ね、自分等も国家改造のため尽力し度き意思を持つ者である事を伝へた。
北は井上等に満川亀太郎を紹介し、満川は更に井上等に大川周明を紹介した事があり、
井上は北、満川、大川とも面識があつたのでその大同団結を計らうとしたが、
西田税が北の幕下であり 大川を口を極めて避難したので、
井上は此の様な情勢にては北、大川の提携は不可能であることを知った。
即ちこの両者は相対立する関係にあるので北、西田と結べは大川と提携し得ず、
大川と結べば北・西田とは対立することを知った。
井上は同志として握手している藤井斉一統が西田と親しい間柄であるので、
大川と結べは遂には藤井等をも失ふに至るであらうことを考慮し、
西田と提携し西田を擁して国家改造に進むことを決意した。
そして井上は西田に近付き提携して改造に進むに至つた。

当時西田は日本国民党より脱退を余儀なくされ、
一方陸軍側 菅波、大岸等とも天剣党事件以来往復をして居らず、寧ろ不遇の状態であつた。
民間側改造運動 津久井一派の如きは西田を大いに非難して居る有様であつたが、
井上は西田が大学寮以来改造運動に従事すること十余年、
其の間彼が尽くした貢献は大なるものがある。
自己に生活の資を得る途のない彼が
有資産者、俸給生活者の如く公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ当然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。

現代史資料4  国家主義運動1  から
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血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』 に 続く


血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』

2021年09月19日 14時39分30秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

 
第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く
日本青年会館に於ける全国的 海・陸・民間同志の会合
一方 海軍側同志は三月事件以来益々急進的となり、
昭和六年四月
呉より古賀清志、村山格之、村上功、大庭春雄 外数名、
横須賀より 伊藤亀城、山岸宏
等が上京して金鶏会館に集り、当時群馬県に帰省して居た井上及四元を呼び寄せ、
池袋も加はつて会合を開き、井上等に決行を促した。
井上は同年 ( 昭和六年 ) 八月 支配階級の巨頭連が避暑地に集つた際 五人の同志を以て暗殺し様と提案し
其軍資金及武器として拳銃の調達方を海軍側に求めた。
井上の真意は海軍側同志の決意の程度を試すことにあつたのでこの計画は実行されなかつた。

同年 ( 昭和六年 ) 七月末頃 陸軍の一部に於て満洲に事を起し 同時に国内改造を行ふためクーデターを企てて居る
と云ふ情報が入つて来た。
井上は此の計画は真の日本的のものに非ずして政権奪取をもくろむ覇道的のものであると観察し、
西田に向つて此の計画は一命を賭しても打破る意思であることを告げた。
西田は驚き北一輝にも相談して見るから待て と云つて之を押し止め、
結局 西田が、井上及西田一派の革新勢力を代表し、十月事件の首謀者である橋本中佐等と交渉することとなつた。
井上は十月事件の計画に同志と共に飛込んで、暗殺其の他の役割を分担することに依つて発言権を獲得し、
軍部側の計画をリードして、その指導精神を真の日本精神に基くものになさうと画策した。
そこで、西田と相談の結果、両者の統制下に在る革新分子を会合せしめて結束を堅くし、
十月事件の計画に対処する為め、
同年 ( 昭和六年 ) 八月二十六日 青山の日本青年会館に於て郷詩社の名目を以て会合を催した。
当日参会した者は三、四十名と云はれて居るが其の中には
陸軍側  菅波三郎  大岸頼好    東昇    若松満則    野田又男    對馬勝雄  末松太平
海軍側  藤井斉    鈴木四郎    三上卓    古賀清志    村上功    村山格之    伊藤亀城    太田武
民間側 西田税 
            井上昭    古内栄司    小沼正    菱沼五郎    黒沢大二    堀川英雄    黒沢金吾    四元義隆
            橘孝三郎    後藤圀彦
等が居り 井上等の知らない西田一統の者も居つた。
其会合に於ては西田が司会者となり
「 愈々時期も切迫して来たから我々の運動も今後はしつかりした統制を必要とする 」
と申し
中央本部を決定し更に各地方毎に同志が集り 責任者を定め発表した。
それによると
1
中央本部を西田方に置き
 西田と井上 其他中央に居る菅波等が協議の上
 外部に関する連絡情報の蒐集、対策の決定をなし、地方責任者との連絡を執ること
2
海軍側に於ては
 全般及九州責任者  藤井斉
 横須賀地方  山岸宏
 第一艦隊  村上功
 第二艦隊  古賀清志
陸軍側に於ては
 関東地方  菅波三郎
 東北地方  大岸頼好
 九州地方  東昇
 四国中国地方  小川三郎
 朝鮮地方  片岡太郎
民間側に於ては
 愛郷塾責任者  橘孝三郎
 大洗責任者  古内栄司
を 各地方責任者と決定し
3
地方組織に付ては
陸海軍部が中心となり民間との連絡及中央との連絡を執ること等を決定した。

此の会合は全国会議であつて 此の会議の準備として各地の革新同志の会合が催され、
夫々必要事項を協議し、代表者を出した模様である。
九州方面に於ては七月下旬藤井斉より 八月下旬艦隊が横須賀入港を期して、
東京に於て陸海民間の同志の全国会合を開催する予定であるから、
その準備として九州に於ける陸海軍同志の意嚮を決定する必要があると同志に通知を発し、
八月八日 福岡市西方寺前町料亭気儘館に於て会合を行つて居る。
その時の出席者は
海軍側  藤井斉    鈴木四郎    林正義    三上卓
陸軍側  菅波三郎    小川三郎    若松満則    江崎    栗原 (鹿児島)
            竹中英雄    楢木茂    東昇    片岡太郎    小河原清衛
等で、
各地の情勢、同志獲得の情況、民間同志との連絡等に付 報告があり
次に各地方責任者、全九州責任者、各地方に於ける組織運動の促進、
連絡、中央進出の準備に付 協議決定する処があつた。
全九州責任者--陸軍側  若松満則
  --地方責任者--佐賀地方  江崎
  --鹿児島地方--西原
  --福岡地方--小河原
  --四国地方--小川
  --朝鮮地方--片岡
  --長崎地方--東
海軍側  藤井斉
以上の如くにして日本青年会館に於て行はれた全国会議は
組織統制等を決定したのみで簡単に終了した。
一度軍艦に乗組めば数か月間航海生活を送り、
同志一同が顔を揃へる機会の少ない海軍側同志は、
陸軍側と異なり単刀直入、急速に決行することを希望して居たので
此の会合に不平不満が多かった。
井上は海軍側同志のこの不平を察知し、其後連日の如く、
井上の妻名義で借受けて居つた本郷区西片町の家等に於て海軍側と会合した。

尚この全国会議に上京した三上卓は
上京前佐世保にて藤井斉より 同人が同月 ( 八月 ) 初旬 大連に飛行した際
笠木良明 の 煎入りで同地の承認から買入れたと云ふ
拳銃八挺、弾丸やく八百発を東京に運搬方を依頼せられ、
之を持参して上京し井上昭に渡したのであった。
又 井上が同年一月頃九州旅行の際 東昇陸軍少尉より拳銃一挺、実包若干をに入手して居り、
其後四月頃伊藤亀城が大連に巡航した際
同地の鉄砲商より購入したブローニング拳銃一挺実包百発が井上の手に渡って居り、
八月当時既に井上の手には拳銃十挺実包多数が集められ、
井上一統及海軍側は唯好機の到来するのを待つのみであつた。

現代史資料4  国家主義運動1  から
次ページ 
血盟団・井上日召と西田税 3 『十月事件に参加』 に続く
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藤井齊  『 昭和6年8月26日の日記 』
午後、外苑日本青年會館に郷詩社の名にて會合あり。
海の一統、陸の一統 ・・大岸君の東北、その他は九州代表の東 來れるのみ
井氏の一統、菅波、野田、橘孝三郎、古賀清、高橋北雄、澁川善助、
初對面は對馬、高橋と秋田聯隊の少尉 金子信孝と四人なり

こゝに組織を造り 中央本部は代々木に置き、西田氏之に當り、
井氏を助け遊撃隊として井氏の一統はあたることゝせり
こゝに最も急進的なる革命家の一團三十余名の團結はなれり
新宿に行きて酒を飲みつゝ一同歓談し、その中に胸襟を叩き割って相結べり
野田又 宅に黒澤、菱沼、古賀 と東 と行って泊まる
・・・『 検察秘録 五 ・一五事件 』 から


血盟団・井上日召と西田税 3 『十月事件に参加』

2021年09月17日 14時02分32秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く 
十月事件に参加し、一挙に革新の実を挙げんとす
八月二十六日の全国会議後、
海軍同志は一年に一、二回しか顔を揃える事が出来ないので
この好機に一挙に革新の烽火を挙げ 革新の緒に就くべく、連日の如く井上を中心として会合し、
情報を求め、各方面の情勢を探つて居つた。
当時は既に 陸軍の一部に於て満洲問題と関連して国内改造を計画中である
との情報は頻々として井上等の耳に入って居たので
同月 ( 八月 ) 三十一日
井上は藤井斉に一策を授け、同人を大学寮以来親しい間柄であつた大川周明の許に行かしめ、
西田 等と無関係を装ひ、十月事件の計画に参加を申込ませ、計画を探知せしめた。
藤井の報告は藤井が同志として海軍同志全部と共に大川一派に加盟する約束をしたところ
大川は其の画策しいてる計画を話した。
それに依ると
「 十月頃満洲に於て事を起こし 日支関係を悪化せしめ、対支貿易を阻害し 経済界を逼迫せしめ、
之を契機として内地の民衆を煽動し、東京、大阪に暴動を起さしめ
次で 翌年二月 国民大会を東京に於て開き 議会襲撃を決行し クーデターを行ふ予定である 」
との事であつたが、
井上はこれを聞き その計画が出鱈目である点を指摘し、
傍で藤井の報告を聞いて居た海軍同志 及 小沼、四元 等に自己の信念を暴露し、
自分のやらうとする革命は仕事でなくて道である。
政権を奪取するのではない。
革命のために動乱を起こし無辜むこの人間を殺す如きは言語道断であると云つて之を非難した。

同年 ( 昭和六年 ) 九月十八日満洲事変勃発し、
続いて陸軍の一派がクーデターを計画中であることが明瞭に井上等の情報網に入った。
北京駐在の長勇少佐が脱走して上京し活躍して居り、橋本中佐一派が首脳者となつて、
露骨に活動して居ることが井上、西田に接近して居る青年将校より筒抜けに漏れて来た。
井上の観察した所に依れば
「 十月事件は橋本欣五郎中佐が首脳者になつて居るが、いち中佐であれ丈露骨な活動は出来ない。
必ず陸軍の一大潮流が事件の背景をなしている。
大川周明一派が橋本と親しく、この事件に関与しているが、
橋本中佐の考へでは必ずしも民間側の勢力を大川一派のみに限って居る訳ではない。
大川周明は牧野伸顕伯と古くより関係を有して居り、
十月事件に付ても牧野と何らかの関係を付けて居て、上部工作を牧野によつて期待して居る。
従つて大川等の計画案には牧野伸顕を襲撃目標中に加へて居れらない 」
と 云ふのであつた。

井上は西田を表面に立て、橋本中佐と連絡せしむる一方、
藤井其の他 肝胆相照した同志を諸方面に動かして情報を取り活動した。

陸軍の青年将校が皆 血判をして満州事変の徹底的解決を要求し、
自分等の要求が容れられねば一致結束して立つ
と云つた風の決議文を 総理大臣、陸軍大臣、参謀総長に提出したとの情報が入った。
又 何個中隊出動することになつた。
某々将校も参加した等の情報が盛に入る様になり、
陸軍の改造潮流は何人を以ても制止出来ない様な状況となつて来た。
井上は自身その中に飛入つて、是を正しい方向に導かうと考へ、
西田を通じ、其の計画の一部を分担するに至つた。
初め十月事件の計画は大部隊の出動を予定して居らなかつたものの如くで、
井上一党は遊撃隊として目標人物の暗殺を引受け、井上側に於て其の目標の選定をなすこととした。
井上は
1  田中邦雄、田倉利之に西園寺公を
2  四元義隆、久木田祐弘に牧野伸顕を
3  池袋正釟郎、小沼正に一木喜徳郎を
4  古内栄司に鈴木貫太郎を
各担当せしめ、
田中、田倉 両名には拳銃各一挺を交付して京都滞在中の西園寺公を暗殺さすため同地に赴かしめた。

古内は計画が進んだ十月五日小学校訓導を辞して上京し井上の許に参じた。
井上の許に橋本中佐より五百円が資金として来たが 勿論之丈では不足で
井上は資金に窮していた為め学生連の田中を西田税方の食客兼玄関番に住込ましめ、
その下宿料を古内の生活費に流用せしめた。

当時海軍側同志にも井上より通知が発せられ 一同待機の状態にあり、
古賀清志、山岸宏の二名は上京し、
古賀は井上の許にあり、
山岸は上京に際し乗艦より拳銃十一挺、弾丸二百発、軍刀日本刀各一本を携帯し、
井上の通知により菅波三郎中尉の止宿するアパートに至つて決行を待つて居た。

然るに計画は其の後変更せられ、
大部隊の出動による一斉襲撃を採ることとなり、個人的暗殺は実行せられないこととなつた。
井上等の観察する処によれば
牧野に依つて上部工作を期待し、暗殺目標より同人を除いて居つた大川が、
井上、西田側に於て牧野を目標人物に入れ、大川自身の計画を齟齬する案に変更したため、
大いに苦慮し、更に案の変更をなしたものである
と 云ふのである。

菅波一派の青年将校は橋本中佐派と提携し共に決行することとなつて居つた。
併し次第に大川、橋本等の行動に批判的となつて行き、
神楽坂の梅林に於て菅波が橋本に喰って掛り
橋本一派の小原重厚大尉のため首締めに逢ふ椿事以後は気拙い仲となつて行つた。
菅波は十月の前にあつた青山の青年会館の会合の少し前迄は西田税とは意見の相違から交際を絶つて居つた。
大岸頼好は寧ろ大川周明と近かつたので、
十月事件直前迄は是等 菅波、大岸の一派は西田と近いものではなかつたのであるが、
藤井斉の関係により井上と親しくなり 更に井上の斡旋により以前の関係が復活し
西田、菅波、大岸等が親しい関係になつたのである。
而して、十月事件により菅波一統の隊付青年将校は橋本一派の幕僚将校と間隙を生じ、
又 菅波一統に近い西田と、橋本一派に近い大川周明とが非常に不仲となつたので、
菅波一統と西田とは加速度を以て近付いた。

十月十七日 早暁 十月事件首脳者は憲兵隊に検束せられ計画は挫折に終つた。
西田一統は、井上の観察の如く、大川が牧野と通じて居り
暗殺目標より除去されて居た牧野が西田、井上一派の主張により目標人物に加へられたのに困惑し、
牧野の手により弾圧せしめたと宣伝し、
大川一派は西田等を計画の一部に参加せしめたのは表面的で真の同志としてではなく
計画遂行後は西田は処刑を免れないこととなつて居たので、
西田税は之を察知して、北一輝と謀り 宮内省方面に売込んだのであると主張した。

現代史資料4  国家主義運動1 から
・・次ページ 血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』 に 続く


血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』

2021年09月15日 08時24分54秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く
十月事件挫折後、西田 、菅波一統 陸軍側同志 俄に態度を改む
併し、十月事件は暗から暗へ葬られ、
首脳者となつて大活躍をした橋本中佐以下十数名が
重謹慎処分の名義で最高二十日間位 各地の憲兵分隊長官舎に分宿せしめられ、
其後地方に転勤を命ぜられたに止り、其他の関係者に対しては何の処分もなされなかつた。
従つて十月事件総ての準備を終り 一命を抛なげうつて事に当らうと待機して居つた井上一統、
海軍側同志 及 西田、菅波一統に於ては十月事件の挫折により何等打撃を受けかつた。
彼等は孰れも古くより国家改造を計画しその貫徹に進んで来たのであるが、
十月事件当時は偶々陸軍の大勢力が動く形成にあつたため、之に便乗しようとしたに過ぎず、
その挫折に依つて古くよりの決心に何等動揺を来さず、
却つて其の後は十月事件の如き他の計画に便乗するに非ずして、
彼等が手動的立場に於て事を挙ぐべき順序となつたのである。
井上一統及海軍側に依つて行はれた血盟団事件、五・一五事件はこの流れを其儘延長せしめたのであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に程度を変化し、従来提携し来つた井上一統及海軍側の勧誘に応ぜず、
満州事変により国際情勢緊迫の際 国内改造を計る時期に非ずと称して蹶起を肯ぜざるに至つた。
その結果、井上一統海軍側同志は斯く陸軍側の豹変したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、
遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。

右の如き経過のみを以てすれば、
血盟団被告等が西田を非難する如く西田、北等は革命ブローカーに過ぎずして、
真に革命に殪れる覚悟なきものと推断し得るのであるが、
其後 西田、菅波一統の革新の激流は
救国青年埼玉挺身隊事件、十一月事件、永田軍務局長殺害事件に其の物凄き片鱗を示し、
遂に二・二六事件の大爆発となつて自らも殪れて行つたのである。
これより観れば 北、西田等を以て真の革命精神なきブローカー輩と断ずる事は出来ない。
然らば如何なる原因が十月事件直後 西田、菅波一統をして
従来急進的であつた態度を俄かに漸進的にせしめ 一歩退却せしめたのであらうか。
満州事変により国際関係の悪化を顧慮した点もあらう。
西田等は革命は一生一度しか行ひ得ざるものであることを堅く念頭に置いた点も事実であらう。
併し 俄かに陸軍側の態度を変じたのは
十月事件後間もなく内閣更迭により荒木陸相の出現した事が最も大きな原因と考へざるを得ない。
武力を有する陸軍の一部が国内の政治機構を一挙に変革せんとした
十月事件の影響は国家の各方面に大なる刺戟となつた。
当時内務大臣の職に在り国内治安の責に任じて居た安達謙蔵は
十一月九日大演習のため西下する車中で次の如き時局談を語つた。
「 世界的に共通な財界の不況に加へて満洲事変の突発があり、
真に未曾有の重大事局に際会したのであるから 政友会と聯立内閣を組織して協力一致 この国家の難局に処すべし
とする所謂聯立組閣運動がある事は聞いて居る。
政党が国内的政争を中止して一致国難に当ることは、現下の如き真に息詰る様な重大事局に当面している際には
考へられる事で、吾輩もこの考へ方に反対するものではない。」 ( 東朝十一月十日 )
ここに協力内閣問題が表面化し
政友会久原房之介、民政党富田幸次郎を各中心とする政友民政の一派により聯立内閣の組織が策動されたが、
若槻首相の周囲竝現状維持の各閣僚は之に反対し 十二月一日若槻内閣の総辞職となり
翌日十二日政友会総裁犬養毅に後継内閣の大命が降下し 犬養内閣の出現となつた。
陸軍大臣は南次郎より荒木貞夫となり、海軍大臣は安保清種より大角岑生となつた。
荒木新陸相は古くより行はれて居た軍内粛正----閥打倒----の運動の一有力者であり
又 三月事件 十月事件以来急速に激化しつつある国家改造運動の理解者であつたので
彼は殆ど全軍の与望を担つて現はれた。
犬養内閣発足
荒木陸相は熊本第六師団長当時より皇道精神の発揮にを力説し閥族の跋扈ばっこする軍内の実情を憂ひて
一切の私を去り皇軍本来の精神に帰り各自の生活を道義化すべき事を主張した。
又 好んで若い将校を引見し 心よく談笑したので、革新的意識を持つ青年将校は荒木将軍に心服して居た。
殊に青年将校の中心人物 菅波三郎は元来鹿児島歩兵第四十五聯隊に居り、
当時熊本第六師団長であつた荒木将軍より優秀なる青年将校として知遇を受けて居った。
又 荒木が教育総監本部長として中央に乗出すや間もなく、
荒木は菅波の如き精勤し優秀なる青年将校を陸大に入学せしめ度い意向にて
昭和六年八月麻布歩兵第三聯隊に転隊せしめたる ( 菅波述 ) 因縁もあり、
荒木陸相の出現は青年将校一派にとつて時節到来を感ぜしめずには置かなかつたであらう。
革新的青年将校の一団は荒木陸相の出現を契機として自己革命を遂行し、
彼等の所謂粛軍を行ひ部内全般を一貫した革新的大勢力たらしめ、
然る後 国内改造に向はんとしたものと見られる。
三月事件、十月事件は青年将校に一種の下剋上的風潮を植え付け 上層部必ずしも頼むに足らずとなすに至つたし、
又 両事件の失敗は青年将校より見れば 指導精神の問題にあつた。
茲に於て 彼らは真の国体原理より発したる革新思想を以て先づ部内の粛正を遂げねばならぬとなし、
又 彼等の心服する新陸相に依つてこれを成し遂げようとしたものと見られる。
而してここに始めて彼等が俄かに国内改造に向つて一歩後退の情況を呈し 部内革命に突進し
遂に陸軍部内に暗流が激成され 永田軍務局長殺害事件、二・二六事件を生むに至つた根源を理解し得るのである。


井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担当し、
革命の為め一命を捨てる覚悟をしたので、十月事件の挫折によつてもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し 陸海民間の聯合を組織して蹶起しようとして居つた。
同年 ( 昭和六年 ) 十二月二十八日、当時井上は十月初頃より、
当時の東京府豊多摩郡代々木幡町代々木上原百八十六番地 成事 権藤善太郎 方附近の
同人管理する所謂権藤空家に居つたのであるが
冬の休暇で状況して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一統と権藤方に於て忘年会を開いた。
出席者は
海軍側  村上功    沢田邲    古賀清志    伊藤亀城    浜勇治    中村義男
陸軍側  菅波三郎    栗原安秀    大蔵栄一    佐藤某
民間側  井上昭    古内栄司    池袋正釟郎    四元義隆    田中邦雄    久木田祐弘
            西田税
            権藤成卿
等で単純なる顔合せに過ぎなかつた。
然るに 其の直後 同月 ( 十二月 ) 三十一日
西田税の発議で陸海民間の同志のみで会合することとなり、
府下 下高井戸料亭松仙閣に於て会合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田清貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年会には出席せず 其直後揃つて上京し
而も 従来の関係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず何の挨拶もなかつた。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事かを画策して居る。
即ち 西田、菅波が自分より離れて了つたことを直感したと称している。
その上 宴会に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜井上は泥酔した。
正月になり菅波から古内等に井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る
と 排斥的な注意があつた。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて来た。
井上は非常に苦しみ、
同志に対し これ迄指導的立場に在つて、今斯様な状態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する青年達や海軍側同志は
陸軍側の離れつつあるのを偏へに西田の所為となして西田に対し強い反感を抱いた。

現代史資料4  国家主義運動1  から


藤井齊 『 海軍の先驅 』

2021年09月13日 19時56分16秒 | 藤井齊

我等士官の現代日本に処する純忠報告の第一義は
天皇大權の擁護により日本國家使命實現の實行力たるに在る。
而して今や日本は經濟的不安と人材登庸の閉塞による民心の動揺
及 道義失はれたる祖國に言ふべからざる深憂を抱ける志士の義憤とによりて、
維新改造の風雲は孕はらまれつゝある。
今に至つては 如何なる個人及團體が政權を執りて漸進的改造を行はんとするも
遂に収拾すべからざるは論なし。
暴動か、維新か。
希くは 我等は日本を暴動に導くことあらしめず。
天皇大權の發動によつて政權財權及教權の統制を斷行せんと欲する
日本主義的維新運動の支持者たるを要する。
これ非常の時運に際會せる國軍及軍人の使命を日本歴史より導ける斷案である。
然らば平生行動の眼目は何であるか。
軍人はすべて同志たるの本義を自覺して先輩後輩上下一員切磋し琢磨しつゝ名利堕弱を去り、
剛健勇武の士風を作興し、
至誠奉公の唯一念に生きつゝ 日々の職分を盡しつゝ 下士官兵の教育に力を用ふべきである。
良兵を養ふは良民を作る所以、良民なくして良兵あることなし。
我等は良民を社会に送ることによつて 國家全般の精神的指導者たらねばならぬ。
明治大帝の汝等を股肱に頼むと詔へる深刻偉大なる知己の大恩義に感泣せよ。
嗚呼 是れ 軍人たるの眞乎本分であるのだ。
消極退嬰たいえいに堕せる海軍の過去に我等は一切の弁解---自己欺瞞---
を 脱却して深甚なる責任を負はねばならなぬ。
海軍出身在郷軍人の現狀は如何。
在役下士官兵の心境は如何。
我海軍 我祖國をして露獨の覆轍を踏ましむる勿れ。
嗚呼 我等の念々切々の祈りをもつて。
天皇を奉じて革命的大日本建設の唯一路に向はしめよ。

・・・ 藤井齊 『 憂國概言 』 


藤井齊  フジイ ヒトシ
『 海軍の先驅け 』
目次

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藤井が大學寮に西田税 を訪れたの
はこの年 ( 大正14年 1925年 ) の夏 ( 7月 )、兵學校を卒業した直後のことと思われる。
西田税も同じ軍人出身であったし年齢も近く、性格にもあい通ずるものがあってウマが會い、
同志盟友として急速に親しくなっていった。
藤井齊が海軍部内で國家革新の同志を獲得しだしたのは昭和三年三月からで、
彼は 「 王帥会 」 を結成して同志に呼びかけた。
・・・ 
海軍の先驅、藤井齊

海軍に於て最初に改造運動を起こしたのは藤井齊であると云はれて居る。
彼は海軍兵學校在學中休暇等を利用し日本主義者の立籠つて居た大學寮に出入りし
大川周明、満川亀太郎、安岡正篤、西田税 
等と接触し 國家改造の緊急必要たる事を信じ
海軍兵學校に於ける同級生、下級生等に啓蒙運動を起した。
昭和三年三月 海軍部内の青年士官中の同志を集め王帥会を組織した。
發會式當時の會員は
藤井齊    鈴木四郎    花房武蔵    浜勇治    上出俊二    後藤直秀    河本元中    福村利治  林正義
等であつた。
・・・
藤井齊 ・王帥會 

軍令部は政府に對し、
統帥權の獨立を將來に保證せよと迫ると共に、軍事參議官會議の召集を要求した。
五月二十九日 海相官邸に於て同會議が開かれ、
財部海相と加藤寛治軍令部長とは正面衝突をなし、
三時間半に亙る討論が行はれたと報道されている。
六月十日 加藤軍令部長は參内し
「 是の如き兵力量を以て完全なる國防計畫を確立する事には確信が持てぬから職責上辭職したき 」
旨 ( 東京日日 ) を理由として骸骨を乞ひ奉つた。

・・・
ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』  

國民党は大車輪の働きをなしつつあり。
八幡氏大いに戰ひつつあり。
二道三府二十五県に組織官僚せりと。
その執行委員長は北氏一派の寺田氏 ( 秋水會 ) なり、
統制委員長は西田氏、幹部の肝は政治的大衆運動にあり。
・・・ ロンドン條約問題の頃 2 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (1) 』

海軍の中で靑年士官は勿論、將官級の有力なる人が同志となつた。
陸軍の靑年士官と提携は出來た。
而して又陸軍の重鎮或師團長と海軍のそれとの提携も成つている。
○○中にも一名ある。
北氏一派と陸海軍との聯絡は出來た。
これからは益々この結束を固め、深くし、廣くし、勃々然たる力となさねばならぬ。
而して生野と大和の旗擧が又必要、民間同志の火蓋を切る必要がある。
・・・ 
ロンドン條約問題の頃 3 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』 

北---西田 この一派最も本脈なり。
先の不戰條約問題以來 北---小笠原長生---東郷。
今度の海軍問題に於て
陸  第一師團長  眞崎甚三郎
海  末次信正    加藤寛治
( こは積極的に革命に乗り出すことは疑問なれども軍隊の尊嚴のためには政党打倒の決心はあり )
霞ケ浦航空隊司令小林省三郎少將、長野修身 ( この二人は兄弟分 )
而して
○○○○○○
は北、西田と會見せり。
第一師と大いによし。
一師、霞空は會見せり。
斯くて革命の不可避を此等の人々は信ぜり。
然れども之をして起たしむるは青年の任なるは論をまたず。
四十を過ぎたる者は自ら起つこと稀なるべし。
豫後備にて有馬良橘大將よし。
西田氏等今や樞府に激励すると共に、政党政治家資本閥の罪状暴露に精進しつつあり
( 牧野の甥、一木の子、大河内正敏の子が共産党にして、宮内省内に細胞を組織しつつあること攻撃中 )
・・・ 
ロンドン條約問題の頃 4 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (4) (5) (6) 』 

建設の具體策 及 思想は 権藤翁の 『 自治民範 』 ---北氏の 『 改造法案 』、この二つ也。
中央に於て心配を頼むべきは、西田、北、権藤、井上の数氏

・・・ ロンドン條約問題の頃 5 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (7) (8) 』

私は軍人だ。
軍人は軍命令で何時、如何なる死地にも赴かねばならんのだ。
私は國家改造をやらねばならんから その方は御免だと言う譯にはゆかぬ。
もし 萬が一 私に何事かあったら、
小沼君、君は 私の分まで働いてくれ。
頼む・・・・。
藤井中尉は、私の手を荒々しく握って、その手に力をこめた。
「 藤井さん、人間は老生不定で お互い様だ。
私に 萬一のことがあった場合には、
その時は、藤井さん、私の分までやって下さい 」
よし、お互い二人分だぞ
私は瞳が熱くなった。
藤井中尉の眼にも キラリと光るものがあった。
・・・ 藤井中尉、血盟團 小沼正、國家改造を誓う 

藤井齊 『 昭和6年8月26日の日記 』
・ 
藤井齊 『 昭和6年8月27日の日記 』

・ 
藤井齊 『 内地ヲ此儘ニシテ出征スルニ忍ヒナイ、即時決行シタイ 』
以前 海軍の藤井少佐が所謂十月事件の後
近く上海に出征するのを控へて

御維新奉公の犠牲を覺悟して蹶起し度い
と云ふ手紙を 昭和七年一月中旬自分に寄越したのでありましたが、

私は當時の狀勢等から絶對反対對其儘一月下旬には上海に出征し、
二月五日上海附近で名誉の戰死を遂げたのでした
私から言へば單に勇敢に空中戰を決行して戰死したとのみ考へる事の出來ない節があります
此の思出は私の一生最も感じ深いもの ・・・
・・・昭和十一年二月二十二日、西田税は安藤大尉にしみじみ そう語った
・・・ 西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」


海軍の先驅、藤井齊

2021年09月12日 05時54分40秒 | 藤井齊


藤井齊 ふじいひとし 
明治三十七年八月三日
長崎県平戸で、父荘次 母レイ の長男として生まれた。
斉が三歳の時、荘次は炭鉱経営に失敗して零落した。
見かねたレイの父 山口万兵衛が斉をひきとって養育することになり、
斉は父母の生まれ故郷、佐賀県の住之江港に帰った。
斉が八歳の時、祖父 万兵衛が他界した。
万兵衛の長男勝三郎はすでに死亡していたので、孫の半六が家を嗣いだ。
万兵衛は息をひきとる前、半六を枕元によんで、
「 斉はお前が育ててくれ、いま親元に返しても、荘次のもとではロクなものにならん。
斉はどこか見所ある奴だで、高等小学校まで出したら、あとは本人任せでやらせろ 」
と 遺言した。
藤井斉の短い生涯には、この養い親ともいうべき半六が大きな影響を与えている。

山口半六は、福富小学校を出ると東京の日比谷中学校に進んだ。
当時、佐賀県から東京の中学に進む者が年に四、五名いたらしい。
山口家も相当な資産家であったことがわかる。
半六は日比谷中学校を卒えると三井物産に入社し、支那駐在員として南支那の広東に渡った。
広東は中華民国革命の発祥地で、その頃は革命の諸派が大同団結し、
輿中会を組織して孫文はその領袖として暗躍しているさい中であった。
若い山口半六は、これら革命党の青年たちと交り、援助や便宜を図ったらしいが、
孫文とはかけ違って とうとう会えなかったという。
藤井斉が少年の頃すでに大アジア主義の思想をいだいたといわれるが、
その萌芽はこの養い親の山口半六の広東生活の体験談に発していると思われる。
半六は五年あまり広東に勤めていたが、祖父の万兵衛に呼び戻され、故郷の住之江港に帰った。
妻ウタをめとり、石炭の海上運送業を営んだ。
当時の住之江港は住之江川上流にある大町炭坑の石炭の積出しと、大陸からの大豆粕の輸入で、
船の出入りは激しく貿易港として栄えていた。
半六は几帳面な上に厳格な性格で、一面国士的な風格をもった人物であった。
今でも住之江の人々は 「 半六さんの言いなさる事なら間違いはなかばい 」
と、佐賀弁で回顧しているほどである。
 半六は斉の尋常一様でない素質を見ぬき、幼児からかなり厳しく躾けた。
「 沈着 」 と 「 冷静 」 は半六の座右銘であったが、半六はこれを斉の人生訓として銘記させ、
生涯の規範となるように鍛錬した。

小学校六年間を首席で通した斉は、佐賀県立佐賀中学校に進んだ。
斉の進学とともに山口半六も一家を佐賀市内に移した。
中学校の四年間、斉は勉強にも精を出したが運動にも熱中して身体を鍛えた。
とりわけ山登りが好きであった。
佐賀市の西北に天山という山がある。
一〇四六米とあまり高くはないが、佐賀人は佐賀の名峯として愛好している。
山頂には南朝の忠臣阿蘇惟直の遺跡があり、その眺望はすばらしい。
北ははるか唐津から玄界灘の蒼海がのぞまれ、南は広々とした佐賀平野が有明海につらなっている。
藤井斉もこの天山を好んで級友とよくこの山を登った。
「 藤井の度量の広い、気宇広大な性格は、少年時代の天山登山で養われたのかも知れない 」
と、級友の碇いかり壮次 ( 元海軍大佐、現東与賀町長 ) は述懐する。
山口半六は斉を佐賀中学校から佐賀高校、さらに東京帝大の法学部に進ませ将来は外交官にしたいと熱望していた。
半六は数年間の海外生活で、国家の命運は外交にあることを体験していたからである。
しかし、斉は承服しなかった。
海軍兵学校に進むという固い決意に半六はついに折れてこれを許した。
佐賀中学校四年から海軍兵学校に三番の成績で入校した。 大正十一年八月のことである。
「 その頃の佐賀中学校は鹿児島一中に負けるな、という合言葉で全校一丸となって勉強していた。
鹿児島一中はその頃 海軍兵学校に一番多く入っていたからだ 」 ・・( 碇壮次談 )
幕末の鍋島藩はこと海軍においては薩摩藩よりも進んでいた。
英主鍋島直大のもとに軍艦を整備し、外人を招いて技能を錬磨していたが、
遺憾ながら明治維新は薩長二藩によって推進され、肥前藩はとり残された。
こうした薩摩に負けるな、という気風は大正の佐賀人の胸にも熱く燃えていた。
遠大な壮志をいだいて海軍兵学校に入った藤井斉は、やがて江田島の生活に失望した。
当時の兵学校は長い平和時代に校規がゆるんでいた点もあったが、
大正十年のワシントン条約で海軍の軍備縮小が取りきめられ、
そのため大正九年まで海軍兵学校の募集人員は三百名であったのに、大正十年から一挙に五十名に削減され
兵学校全体に意気が上らず、教育もだれ気味でマンネリ化していた。
「 当時の校長は千坂智次郎という海軍少将であった。
例の忠臣蔵に出てくる上杉藩の家老の千坂の子孫だが、千坂校長は止めたいものは止めてもよいと言っておられた。
中途で海軍軍人の将来に見切りをつけて、止める人が多かった 」 ・・( 碇壮次談 )
藤井斉も大正十四年七月、海軍兵学校を卒業して少尉候補生として練習艦隊に乗りこみ、
遠洋航海に乗り出したが途中から山口半六に手紙をよこしてきた。
オーストラリアのシドニーあたりからであったらしい。
「 どうにか我慢をして今日に至ったが、どうにも我慢がし切れなくなった。
遠洋航海が終ったら海軍を止める。北海道に渡って牧場を経営したい。
ついてはその資金として五万円が必要だ。帰るまでに用意しておいて下さい 」
という内容であった。( 後略 )

海軍兵学校時代の藤井斉は学校の教科は規定通りはやったが、関心はもう学校の外にあった。
歴史、哲学から社会思想まで幅広い読書に時間をさいた。
山口半六によって開かれた大陸への眼は、兵学校四ヶ年間の広汎な読書と思索に裏打ちされて、
大アジア主義は不動の信念として彼の心中に確立された。
兵学校四年の春、時の海軍軍令部長鈴木貫太郎中将が検閲に来校した。
検閲が終ってから各学年の代表が出て、海軍軍人としての思想、信条を発表するのが例であった。
この時、一号生徒の代表に選ばれたのが藤井であった。
藤井の演説は平素の信念を並べたものにすぎなかったが気宇が壮大な上に、
着眼のたしかさ、論理の鋭さは鈴木中将をはじめ全職員生徒を感銘させたといわれる。
その要旨は、すぐる年のワシントン会議をとりあげ、白色人種の世界支配を批判し、
将来日本が中心となりアジアの民族を糾合して、この白人優越の世界体制を打破せねばならぬというものであった。

藤井が大学寮に西田税を訪れたのはこの年 ( 大正14年 1925年 ) の夏 ( 7月 )、兵学校を卒業した直後のことと思われる。
西田税も同じ軍人出身であったし年齢も近く、性格にもあい通ずるものがあってウマが会い、
同志盟友として急速に親しくなっていった。
藤井斉が海軍部内で国家革新の同志を獲得しだしたのは昭和三年三月からで、
彼は 「 王帥会 」 を結成して同志に呼びかけた。
王帥会は綱領の冒頭に、
「 一、道義ヲ踏ミテ天下何モノヲモ恐レズ  剛健、素朴、清浄、雄大ナル古武士ノ風格アルベシ
( 中略 )
一、日本海軍一切ノ弊風ヲ打破シ将士ヲ覚醒奮起セシメテ世界最強ノ王帥タラシムベシ
( 後略 )
と 海軍軍人としての目的を掲げ、
「 宣言 」にはかなり激越な調子で現状の打破を訴えている。
「 ・・・政権ノ餓鬼政党者流ト吸血鬼ノ化身黄金大名ト無為遊堕ノ貴族階級トハ政権ヲ壟断シ、
天皇ノ大御心ヲオホヒ奉リ
建国ノ精神ヲ冒涜シ私利私慾ヲ中心トシテ闘争ニ浮身ヲヤツセル醜状ハ奇怪千万也。
( 中略 )
と述べ、
「 雄渾ゆうこん壮大ナル国民精神トヲ以テ大陸ヲ経営シ、
大洋ヲ開拓シ、暴逆ナル白人ヲ粉砕シテ有色人種ヲ解放独立セシメ 」
るため、海軍部内に各級同志の縦的連結を図るために王帥会を結成するのだ、
と 宣言している。
王帥会はその後、目だった活動はしていないが、
藤井の活動は保身に汲々たる上官たちには警戒されたらしく、
林正義著 『 五 ・一五事件 』 にも、
教官から 「 君は藤井と交際しているのか、彼は海軍の注意人物であるから交際を中止しろ 」
と 注意をうけたことを記している 。 ・・( 同書 P二一 )
大岸頼好  菅波三郎
藤井斉が志ある者と見れば同級生、下級生を問わず訪ねて自分の志を告げ、
同志としての交りを求めた。
彼はまた西田税から紹介されて、大岸頼好や菅波三郎ら陸軍の有志将校とも早くから手紙のやりとりをして、
意志の疎通を図っていた。
菅波三郎が藤井斉に会うのは昭和五年十二月、藤井が霞ケ浦航空学校を卒えて、
大村の海軍航空隊に入隊する途すがら、鹿児島本線の鳥栖駅でおちあい、
二時間ほど懇談するのが最初であるが、名前は互に志を同じくする者として認め合っていた。
「 まず藤井君は、天成の革命児とよぶべきであろう。
勇敢で真剣で、しかも精悍せいかんで闘志にあふれた人物であった。
その上思慮緻密、書物は実によく読んでおり思想も透徹している。
彼が上海で戦死しなければ西田税や陸軍の有志と組んで、真の昭和維新をやり遂げていたかも知れない 」
と、菅波三郎は述懐している。
藤井斉も一見して菅波を高く評価し、その手紙の中でも
「 九州に於ては菅波君 ( 鹿児島歩四十五少尉 ) を第一とす 」
と 万腔まんこうの信頼をよせている。

須山幸雄 著
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


藤井齊・王帥會

2021年09月11日 04時40分48秒 | 藤井齊

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である



藤井齊 

藤井齊、王帥會
海軍に於て最初に改造運動を起こしたのは藤井斉であると云はれて居る。
彼は海軍兵學校在學中休暇等を利用し日本主義者の立籠つて居た大學寮に出入りし
大川周明、満川亀太郎、安岡正篤、西田税 
等と接触し 國家改造の緊急必要たる事を信じ
海軍兵學校に於ける同級生、下級生等に啓蒙運動を起した。
昭和三年三月 海軍部内の靑年士官中の同志を集め
王帥會
を組織した。
發會式當時の會員は
藤井齊    鈴木四郎    花房武蔵    浜勇治    上出俊二    後藤直秀    河本元中    福村利治  林正義
等であつた。
王帥会の綱領宣言は次の如くである。

王帥會
綱領
一、道義ヲ踏ミテ天下何モノヲモ恐レズ  剛健、素朴、清淨、雄大ナル古武士ノ風格アルベシ
一、部下ヲ愛撫鍛錬シテ國家非常ノ秋、挺身難ニ趣キ 水火ヲモ辭セザルベシ
一、日本海軍一切ノ弊風ヲ打破シ將士ヲ覺醒奮起セシメテ世界最強ノ王帥タラシムベシ
一、天命ヲ奉ジテ明治維新ヲ完成シ  大乗日本ヲ建設スベシ
一、建國ノ大精神ニ則リテ大邦日本帝國ヲ建設シ以テ道義ニヨリ世界ヲ統一スベシ
宣言
明治維新中道ニシテ滅ビシヨリ國家的理想ハ失ハレ 國民精神ハ腐敗同様シ、
政權ノ餓鬼政党者流ト吸血鬼ノ化身黄金大名ト無爲遊堕ノ貴族階級トハ政權ヲ壟断シ、
天皇ノ大御心ヲオホヒ奉リ
建國ノ精神ヲ冒涜シ私利私慾ヲ中心トシテ闘爭ニ浮身ヲヤツセル醜狀ハ奇怪千萬也。

而シテ 經濟生活ノ困窮ハ良民ヲシテ相率ヒ堕落ト犯罪ト自殺に赴カシメ
此ノ弱點ニ乗ジテ マルクス ノ奴隷 ソウ゛エット ・ロシア の走狗輩ハ
勞働者農民ヲ駆リテ階級闘爭ニ狂奔セシメ

國家ヲ呪詛シ國體ヲ變革シテ勞農露國ノ属國タラシメントス
又コノ年々百萬ヲ以テ算スル人口増殖ト國土ノ狭小ニヨリ
食料問題トノ重大事ハ解決ノ曙光スラ認メラレズ

萎縮自滅カ膨張發展カノ岐路ニ立ツ
排日ノ声 四方に起リ 迫害漸く深刻ナラントシテ
帝國ノ前途ハ多事多難急存亡ノトキニ直面スルモノ也、

凡ソ國家民族ノ治亂興亡ノ跡ヲ顧レバ理想ヲ掲ゲテ勇猛精進スルモノハ隆々トシテ榮エ、
前途光明ヲ失ヒ萎靡いび弛緩スルモノハ必ズ亡ブ、
日本ト雖モ亦コノ國家ノ目的ヲ失ヒ政治經濟風教ハ堕落紛亂シテ
現實ノ弥縫ノミニ執心セル今日ノ如キ日本國家ハ

存在ノ価値アルモノニアラズ 嗚呼、
天命ヲ奉ジテ建國セラレタル日本、光明赫々かくかくタル大理想を以テ創立セラレタル祖國日本、
今ソノ面目ハ何処ニアリヤ、
明治大帝、維新ノ志士在天ノ靈ニ對シテ
コノ無政府的困亂ノ狀況ヲ見テ義憤ヲ發セラル程ノ者ハ日本國民ニ非ズ、

吾人ハ須ク一切ノ弊風ヲ打破シ、一切ノ惡因を殲滅せんめつシテ、至上絶對ノ命ヲ奉ジ
道義ニヨツテ國家改造ヲ斷行セザルベカラズ、
總テノ君民間ヲ疎隔スル妖雲ヲ一掃シ 
天皇ノ稜威ハ赫々トシテ日本國家を天照シ  哲人立ツテ廟堂ニ列リ、

國民ハ經濟的生活ト獨立ヲ得、自由無碍ニソノ全才能ヲ發揮し
宗教、教育ヲ根本的ニ改革して風教ヲ肅正シ、

以テ大乗日本ヲ建設スベシ、
徹底的人材ノ登傭ト文化ノ興隆ト雄渾ゆうこん壯大ナル國民精神トヲ以テ大陸ヲ經營シ、
大洋ヲ開拓シ、暴逆ナル白人ヲ粉砕シテ有色人種ヲ解放獨立セシメ、
世界各國民族ヲシテ、其ノ本來ノ面目ニ歸ラシメ、天皇ヲ奉ジテ世界聯邦國家ノ盟主トナリ
之ヲ統一 一家タラシメザルベカラズ
而シテコノ大聖業ノ實行タル日本國軍ノ使命ニシテ
王帥會ハソノ根源的勢力タルヲ以テ目的トスルモノナリ。
一、國家ノ目的
神武天皇建國ノ詔みことのりニ曰ク
「 夫レ大人ひじりノのりヲ立ツル義ことわリハ必ズ時ニ随フ。
いやしく民ニ利くぼさ有ラバ、何ゾ聖造ひじりのわざタルヲ妨たがン、
また當ニ山林やまヲ披払ひらきはらヒ、宮室おほみやヲ經營をさめつくリテ、恭つつしみテ宝位たかみくらいニ臨ミ、
以オ オホミタカラ ヲ鎭ムベシ。
上ハ則チ乾靈あまつかみノ國ヲ授ケタマフ徳うつくしびニ答ヘ、
下ハ則チ皇孫すめみまノ正ただしきヲ養フノ心弘メン。ひたたまひしこころをひろめむ
然シテ後ニ、六合くにのうちヲ兼ネテ以テ都ヲ開キ、
八紘あめのしたヲ掩おおヒテ宇いえトナスコト亦可ヨナラズヤ 」 ト。
コレ歴代天ノ理想タルト共ニ日本國家ノ目的ナリ。
則チ天皇ハ道義體驗ノ聖天子ニシテ
國民生活ノ中心トナリ國家ノ制度ハ道義ヲ以テ根源トナシ、

必ズ時勢ノ進化ニ随ヒ物心共ニ國民ヲ救ヒテ理想日本ヲ建設、
天下ノ不正義ヲ折伏シテ之ヲ統一シ一家タラシメテ、
而シテ天命ニヨリテ授ケラレタル神聖國家ノ實ヲ擧グ、コレ日本國家ノ目的地也。
一、軍人ノ使命
皇謨ヲ扶翼シ國家ノ目的ヲ實現スルニアリ。
即チ、内 日本精神ヲ長養體顕シテ國民精神ノ本源トナリ
一旦動揺、混亂ニ際シテハ天皇ノ大命ヲ奉ジテ維新完成ノ實力トナリ
以テ道義日本ヲ建設シ
外、國家ヲ擁護シ國權ヲ伸張シテ大陸經營を斷行シ
大邦日本國家ノ力ヲモツテ不正列強ヲ癄懲ようちょう
有色民族ヲ開放シ世界ヲ統一シ、
而シテ日本皇帝ヲ奉戴スル世界聯盟邦國家建設ノ聖業ヲ完成スベキ也
一、國家ノ現状
日本精神ノ頽廃たいはいト欧米物質文明ノ心酔トニヨリ唯物利己、享楽主義跳梁、
跋扈シテ奢侈しゃし、贅澤、淫靡、惰弱ノ風吹キ荒ミ、
宗教ハ徒ラニ形骸ニ執シテ生命ヲ失ヒ 亘ニ門戸ヲ閉鎖シテ相爭ヒ甚シク職業化シ
教育ハ技術ノ末ニ趨はしリ、就職ノ手段ニ變ジ、
學者ハ批判、創造ノ力ヲ失ヒテ外國文明ノ奴隷トナリ人物ノ養成ハ顧ミラレズ、
一世ノ風教地ヲ払フテ空シキトキ資本主義、經濟組織ノ欠陥ト、
國土狭少人口増殖トノ故ニ經濟生活ノ逼迫ハ甚シク卑屈ニ堕シ、
犯罪者續出シ亂を思フノ怨声、漸ク爆發セントスルトキ廟堂ニ人材ナク
有産貴族階級ト政權アリテ國家ナキ政党者流トハ相結託金權政權を擁シ、
國體ヲ汚シ大御心ヲ掩おおヒテ國權濫用ノ大逆ヲ犯ス。
而シテ奴隷的外國模倣ノ無政府共産党唯物非國家主義者、
横暴ヲ極メ良民ヲ駆リテ階級闘爭ヲ煽リ立テ餓鬼畜生ノ如クニ相闘ハシムル中ニ
頑迷固陋ノ右傾派、暴力ヲ揮ふるヒテ之ヲ挑戦ス。
ソノ狀紛亂喧囂、悲惨ノ極ミニシテ
維新精神ノ不徹底ト國家的無理想トハ外
交ノ無方針奴隷的外國、
追随トナリ排日ノ聲四方ニ湧キ飜々飜弄セラレ、
國威ヲ失墜スルコト甚ダシク人口糧食問題 之ニ加リテ内憂外患、同時ニ到レリ、
國家ノ前途將來ニ何事カ起コラントス。
一、帝國海軍ノ現狀
國家ノ理想ノ何タルヲ知ラズ軍人使命ノ如何ヲ悟ラズ、
悟ノ徹底ヲ欠キテ生活中心動揺スルガ故ニ社會ノ惡弊ヲ受ケテ剛健質素ノ風ヲ失ヒ、
肉慾享樂奢侈、贅澤ニ流レ遊惰安逸ヲ求メテ但人家庭生活ノミ思ヒ患フ。
而シテ部下ヲ蔑視シ私的生活ニ於テ從僕ノ如ク駆使スルアリ。
上長ニハ阿諛あゆシテ一身ノ安全榮達ヲ顧慮シ 肉體的生活ノ放縦ハ精神生活ヲ荒廢セシメ
商人根性ニ堕シ甚シク 道義的精神ヲ失ヒテ豪壯雄大ナル武人ノ意氣氣魄ヲ欠ク、
軍紀風紀ハ士官ヨリ亂ルモノナリ、惡將ノ下ニ良卒アルコトナシ。
權力的壓伏ノ軍紀ハ上下ヲ疎隔シ團結力ヲ稀薄ナラシメ
士気廢レタル軍隊ハ攻撃精神消耗シ 到底明日ノ戰闘ニ即應シ得ザルノミナラズ、
赤化思想ノ前ニ不安極ルモノアリ。
又 貧弱ナル精神生活ト教育ノ欠陥ニヨル見低劣トハ重大ナル武人ノ國家的使命ヲ自覺セズ、
傳統ノママニ政治ニ係ラズノ直喩ヲ曲解シテソノ美器ノ下ニ國家ノ情勢ニ自ラ掩ヒ、
ソノ混亂ニ耳ヲ塞ギテ責任ヲノガレントス、
コノ故ニ國家ノ軍隊ハ資本主義政党ニ左右セラレ軍閥軍國主義ノ叫ビノ前ニ辟易シ
世界ノ現狀トソノ將來とを洞察セズ、
日本ノ對世界的使命ヲ理解スルコトナシ、
カクテハ
一朝國家動亂ニ際シテハ周章狼狽去就ニ迷ヒ処置ニ窮シテ
武人ノ使命實行ハ絶對ニ不可能ナリ。
一、組織ノ必要
軍人ノ使命ニ基キ國家ノ現狀ニ鑑ミテ海軍軍人覺醒奮起ノ急務ヲ痛感ス。
思フニコノ如キ不満ヲ感ジ改革ヲ必要トスル者ハ僅少ニアラザルベシ。
然レドモ大勢ニ支配セラレ妥協軟化シテ目的ヲ達シ得ザル所以ハ
同志ノ一致團結トソノ持續ヲナサザルニアリ、
我海軍ニ級會アリト雖モコノ事業タル廣範、重大ナルヲ以テ各級同志ノ縦的連結ハ最モ緊要ナリ、
コレ本綱領ヲ徹底實現セシメ 又 不朽タラシムル所以ナリ。
一、實行方法
 一、剛健清淨ニシテ真ニ軍人精神ノ本源タル次室ヲ建設シ以テ士官室ニ及ボス事
 一、部下の教育ニ全力ヲ盡シ本綱領ヲ徹底セシムル事
 一、綱領ヲ以テ各級會ヲ覺醒指導スル事
 一、國家ノ情勢世界ノ實情ヲ徴見シ、海軍改善大乗日本建設ノ具體案及對世界的經綸を考究スル事
       同志乾坤獨住ノ奮闘ト金剛不壊ノ團結トヲ以テ實行ノ基礎トナス
一、組織
第一條  本會ヲ王帥會ト稱ス
第二條  本會ハ海軍軍人ヲ以テ組織ス
第三條  本會ハ左ノ機關ヲ置ク
 一、會長
 一、會長補佐
 一、委員
 中央委員    東京  二名    横須賀  一名  ( 中央委員ヲ兼ヌルコトヲ得 )
 地方委員    呉  一名    佐世保  一名    第一艦隊  一名   
 艦隊委員    第二艦隊  一名    遺外艦隊  一名    練習艦隊  一名
 特別委員
  但し必要以外ハ欠員トス
第四條  會長ハ本會ノ總務ヲトル
第五條  中央委員ハ同志ノ聯絡名簿作製会誌ノ發行會計事務ヲ処理ス
第六條  ソノ他ノ委員ハ所属内及各方面ノ聯絡ヲ保持シ中央委員ヲ補佐ス
第七條  會長ハ同志ノ公選ニヨリ決定シソノ任期ヲ一年トス、但シ再選差支ナキモノトス
第八條  會長、補佐及委員ノ任命ハ會長ノ指令ニヨル、
            會長、補佐及委員任期ハ一ヶ年トシ十二月交代ヲ例トス、但シ再選差支ナキモノトス
第九條  同志ハ住所變更毎ニコリヲ所属委員ニ通知ス、地方委員ハ名簿ヲ作成シテ中央ニ報告ス
第十條  問題發生ノ場合ハ所属内ニテ処理スルヲ原則トシ、
            重要ナルモノハ中央ヨリ全般ニ通知シテ之ヲ解決ス
第十一條  春秋二回會誌ヲ發行ス
第十二條  同志ノ加入ハ殊ニ人選ヲ嚴ニスベシ、
            共に革正ノ事業ニ從事シ敬服スベキ人物ト認メタルトキハ
            所属内、同志協議ノ上會長ニ報告シ會長之ヲ決定ス
第十三條  同志ニシテ本綱領ニモトリ改心ノ見込ナキモノハ
            所属内同志協議ノ上會長ニ報告シ會長之ヲ決定除名ス
第十四條  會長ハ毎月一圓トシ毎年四期ニ分ケ会員ヨリ徴収ス
第十五條  本會期變更ノ必要アル場合ハ會長之ヲ一般ニ問フ
            會員ハ地方毎ニ意見ヲマトメテ中央ニ報告シ會長之ヲ決定ス

王帥會は其後 會として見るべき行動はなかつたものの様である。
併し 藤井齊は益々部内の啓蒙 同志の獲得に努め
一方大學寮によりて相識つた大川、西田、満川等と聯絡を保ち
國内改造運動の情勢を探り
昭和二年 西田税が天劔党の結成を企圖した際には之に參畫し
陸軍部内の一部靑年將校と聯絡を保ち機運の來るのを待って居った。
是の如くにして藤井が獲得した海軍部内の同志は四十余命に上ると云はれて居るが
其の中に五 ・一五事件を惹起した
古賀清志    中村義雄    三上卓    伊藤亀城    大庭春雄    古賀忠一   村上功    村山格之  山岸宏
の氏名を見出す。

現代史資料4  国家主義運動1  及び現代史資料23  国家主義運動3  から


小笠原長生『 ロンドン條約と西田税 』

2021年09月10日 05時45分21秒 | ロンドン條約問題

此度の事件に対する私の考と、
事件前後に於ける私の行動に就いて申上げます。
此度の事件の遠因は、
遠く 「 ロンドン 」 條約當時に発端するものと考へますので、
先づ 「 ロンドン 」 條約當時に於ける狀況を述べたいと思ひます。
憲兵聴取書 から

小笠原長生
「 ロンドン 」 條約に就て
當時の狀況は御承知の如く、
統帥權干犯問題を中心として非常なる紛糾を生じたのでありますが、
「 ロンドン 」 條約に就ては當時 東郷元帥も大變反對でありりまして、
若し其條約が成立するときは我國防上の重大なる欠陥を生ずるを以て、
御批准あらせられざる様との御意見でありました。
當時私は東郷元帥を輔けて、御批准あらせられざる様に色々奔走致しました。
當時、海軍大臣事務管理 浜口首相は
軍令部長の同意を得て回訓案が出た様に申して居た様でありますが、
當時の軍令部長は非常に反對でありまして、知らなかったのであります。
加藤軍令部長は此旨上奏の考へを爲して居りましたが 其機を得なかった爲、
特命檢閲に關する奏上の際 其顛末を奏上したので、
財部海軍大臣を御前に召されたと漏れ承つて居ります。
其後、財部海軍大臣が東郷元帥に報告致しました事柄に就き、
東郷元帥より私が呼ばれまして、
其際 元帥の申されますには、
財部が來た、
御上には御批准を御望み被遊たとの事であつたが、自分は左様に思はない、
元帥会議 若しくは軍事參議官會議 并に 夫々の機關を開き、
然る後 御裁斷あらせらるべきものである、
それも無いのに、御上に於て左様に思召さる様な事は無いと思ふ、
若し左様な思召されたとしても、御意見申上げるのが臣下の道である、
自分は左様な事では元帥の役目を果すことが出來ないから、闕下に骸骨を乞ひ奉る、
と 申されましたので、
私は此時から最も重大だと痛感致したので有ります。
其処で、私は閑院宮殿下に申上げ、又、上原元帥に話をして、
東郷元帥は御批准あらせられない様にしたいとの意見を有して居られるから、
元帥会議御諮詢の際は、東郷元帥の意見に賛成せらるゝ様
當時の金谷参謀總長に努力方を依頼し同意をえたのでありますが、
遂に元帥會議に御諮詢あらせられず、軍事參議官會議が開催されましたので、
私は當時統帥權干犯に對して非情に憤慨したのであります。
そして、爾來 「 ロンドン 」 條約に反對し、吾々の主張に同意し協力するものは
悉く同志として頼もしく感ずる様になつたのであります。
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昭和5年 ( 1930年 ) 浜口内閣、ロンドン軍縮条約調印
左から    加藤寛治 カトウ ヒロハル    東郷平八郎    財部 彪 タカラベ タケシ
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加ふるに當時の社會情勢は反軍思想高潮の時代でありまして、
軍部は政府、民間より非常な壓迫を受け、
軍人自らも電車の中等に於て小さくなつて居らなければならぬ情態にありましたが、
他面、政党政治の弊害は凡ゆる方面に於て惡事が行はれ、實に嘆かはしい狀態にありました。
彼の三月事件、十月事件、五 ・一五事件等は、此の環境に於て、
「 ロンドン 」 條約の締結、統帥權の干犯に源を發するものと思ひます。
當時、我々同志たる 反 「 ロンドン 」 條約主張者は、
非常なる壓迫を受けたのでありますが、

當時我々の主張に對し
北一輝、西田税等は民間に於ける諸方面の有力なる參考材料を提供して、

我々の行動を援助して呉れたのであります。
・・・中略・・・
同志の意義
私が同志と申しましたのは、所謂 反 「 ロンドン 」 條約派の謂でありまして、
海軍に於ては所謂艦隊派と稱せらて居りまする鞏硬な國體擁護論者であります。
其主なものは、
加藤寛治大將    有馬良橘大將    千坂海軍中將    南郷海軍少將
末次信正大將    大角岑生大將    山下源太郎大將    山下海軍大佐
等であります。
山下英輔大將は財部大將の従兄弟でありまして、我々とは別個の立場にあるものと考へて居ります。
そして、
西田、北 等は
我々の考へと同一な志士的な思想の持主だと考へて居りました。

 西田税
對西田税關係

西田税と初めて知りましたのは 「 ロンドン 」 條約問題の起つた時でありまして、
當時西田が私の家を訪問し、統帥權干犯問題に就て憤慨して居りました。
そして我々の統帥權擁護運動について、色々有利な參考資料を知らして呉れました。
それ以來度々私宅を訪問して、色々情勢を知らせて呉れて居つたのであります。
西田はいつも私に對し、
社會改造に 非合法手段を用ふる事の不可であること、
青年將校等が時勢に憤慨して尖鋭化するので、常に説得の役目をしていること等話をし、
曾て參謀本部で大川一派に爆弾三百發を渡しているが、
累を閑院宮殿下に及ぼす様な事があつてはならぬから、
速かに回収の方法を講ぜられたき旨申して來ましたので、
此の當時の小磯陸軍次官に話して、回収の処置を講じた事があります。
此等の言から考へて、西田は暴力には全然反對であり、
漸進的社會改造を考へて居る至誠の士であると考へて居りました。
・・・
小笠原長生
憲兵聴取書
昭和十一年四月一日
東京憲兵隊本部
福本亀治憲兵少佐

二 ・二六事件秘録 ( 二 ) から


ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』

2021年09月09日 16時12分43秒 | ロンドン條約問題

ロンドン條約問題
ロンドン軍縮條約と其影響 

ロンドン條約全權委員若槻礼次郎、財部海相等は、
我國防上最小限度に於て、
總噸数に付、對米七割、八吋砲巡洋艦に付對米七割、
潜水艦に付七万八千噸の保有を絶對必要とすると言ふ、
所謂三大原則を以て會議に臨んだ。
英米は之に反對し、會議は幾度か決裂に瀕したが、
三月十四日、若槻全權より我對米七割主張を譲歩する日米妥協案に對し、
政府の賛同を求める請訓の電報が來た。
海軍軍令部は國防上の立場より鞏硬論を主張し、
幣原外相を戴く外務省は、國際協調の立場から妥協を可として譲らなかつた。
浜口首相は遂に、三月十八日の閣議に於て妥協案の支持を決定し、回訓の電報を發し、
三大原則に反せる妥協的協定が四月二十二日成立した。
海軍軍令部は極度に憤慨した。
政府の態度を以て、國防用兵の責任者である軍令部の意見を無視し、
然かも議會に臨んでは事實を曲庇したる弁明を以て、軍部を壓迫せむとするが如きは、
軍令部の權能を計畫的に縮減せむとする意圖であるとなし、此処に統帥權干犯の論が起つた。
此の間、財部海相の処置打倒を欠き、事情益々重大化した。
其れはロンドンから政府へ請訓の電報を打つた直後、海相が軍令部の反對を慮つて、
秘かに自分は會議の決裂を辭する者ではないとの電報を打つたにも拘らず、
他方外務方面へは
「 請訓の程度では軍令部は恐らく鞏硬なる反對を唱えるだらうから
出來るなら案の内容を軍令部に提示することなく適當に糊塗せられ度き 」
旨を打電して居る事實が暴露された事である ( 東京日日 同年五月九日 ) 。
財部海相は軍部の憤慨を苦慮し、
歸途ハルピンに於て
「 議會の開會中にうつかりは此の政爭の渦中に飛び込めぬ 」
と 語つて數日滞在した。
軍令部は政府に對し、統帥權の獨立を將來に保證せよと迫ると共に、
軍事參議官會議の召集を要求した。
五月二十九日
海相官邸に於て同會議が開かれ、
財部海相と加藤寛治軍令部長とは正面衝突をなし、
三時間半に亙る討論が行はれたと報道されている。
六月十日
加藤軍令部長は參内し

「 是の如き兵力量を以て完全なる國防計畫を確立する事には確信が持てぬから職責上辭職したき 」
旨 ( 東京日日 ) を理由として骸骨を乞ひ奉つた。
翌日御聽許に相成り、谷口尚眞大將が代つて任命された。
七月二十三日 東郷元帥は軍事參議官の可決した奉答文を捧呈した。
七月二十四日、樞密院へロンドン條約は御諮詢となり、豫想外の波瀾を起し、
九月十六日 可決せられた。
以上は当時の表面的表れであるが、
其の間 海軍部内のみならず陸軍部内 民間側改造運動者を刺戟した事は甚だしく、
それ等の往復し活躍した事は、眞に目覺しいものがあつた。
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左から
ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談  浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権  昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員 
谷口軍令部長    加藤前軍令部長    東郷元帥

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民間團體の反對運動
當時民間側に於ける革新陣営は、從來の諸團體の外、
最初の革新政党である所の
日本國民党
愛國勤労党
が 結成せられて居た。

日本國民党は、昭和四年五月 信州松本市に於て、
八幡博堂、鈴木善一 等を中心として結成せられた信州國民党が次第に拡大し、
同年十一月二十六日、
北一輝系の寺田稲次郎、西田税
 及 農本主義の長野朗、津田光造 等の賛同參加を得て成立したものである。
然して後に浪人系の黒竜會其他と合體し、大日本生産党と發展した。

日本國民党に於ては昭和五年九月十日 「 亡國的海軍條約を葬れ 」 と題する檄文を作成し、
樞密顧問官、官界政界の名士、恢弘會、洋洋會員等に配布し、
又 同年 ( 昭和五年 ) 九月十九日附
「 祝盃而して地獄 」 と題し、政府が牧野内府 鈴木侍從長等と通謀し、
樞府に對する策謀を爲したる事を難詰したる檄文、
同月二十九日附
「 軍縮意圖の自己暴露 」 と題した米國上院に於ける海軍軍縮問題の討論審議事項を記載したる文章、
同年 ( 昭和五年 ) 十月十五日附 「 樞府及軍部諸公に与ふる公開狀 」 と題した文章を作成し、
関係各方面に發送した外、同年 ( 昭和五年 ) 九月九日附を以てロンドン條約に關し、
最終的決定的行動に入るべく決死隊組織を爲し、之が動員の指令を下したと宣傳した。
血盟団員
小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、川崎長光は
同党鈴木善一の勧誘に應じ、決死隊員 として當時上京したのである。
又 學生團體にあつてもこれ等の氣運に刺戟され、
學生興国聯盟の中心人物、
加藤春海 ( 帝大 ) 澁川善助、藤村又彦 ( 明大 ) 川俣孔義、平田九郎 ( 拓大 ) 等は反對運動に奔走した。

ロンドン條約問題は
大陸發展、國内改造を目指す革新運動の流れを阻止せんとする
國際協調、國内現狀維持の立場にある政党、財閥 及之と結ぶ特權階級の一大岩石であつた。
幾谷々から流れて来た渓流がこの大岩石の前に落合ひ、
大きな流れとなつてこの巨岩を躍り越えて進んだのであつた。

浜口首相狙撃事件
民間諸團體の表面的な運動は、大きな力で押進む流の波紋に過ぎなかつた。
又 流が岩角に突当つて飛沫を上げた様な事件も起きたのである。

佐郷屋留雄
昭和五年十一月十四日 午前八時五十五分頃
總理大臣浜口雄幸が岡山県下で擧行の陸軍大演習陪観の爲 西下すべく、
東京駅に至り乗車ホームに差
かった際、同所に於て之を待受けて居た 佐郷屋留雄 の爲め
「 モーゼル 」 式八連發拳銃を以て射撃せられ、
瀕死の重傷を負ひ、遂に翌年 ( 昭和六年 ) 八月二十六日逝去した。
佐郷屋留雄 ( 當時二十三年 ) は大陸積極政策の遂行、共産主義の排撃を綱領とし、
民間右翼團體一方の巨頭である岩田愛之助を盟主とする愛國社に身を寄せて居り、
浜口内閣の緊縮財政政策に依る社會不安を見て、同内閣の倒閣運動に加つて居たが、
一方ロンドン條約に關し 起つた軟弱外交統帥權干犯の世論に刺戟され、
又 政教社のパンフレツト 「 統帥權問題詳解 」 及び 「 賣國的回訓案の暴露 」
等を讀み、委託憤激した結果この擧に出たものである。

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部  第四章  ロンドン軍縮条約と其影響 
現代史資料4  国家主義運動1  から

次ページ 
ロンドン条約問題の頃 2 『 藤井斉の同志に宛てた書簡 (1) 』 に続く