青森県南津軽郡舎館村に生れた。
父は砂利運搬船の作業員だったが、家計がたちゆかず 母が行商で補っていた。
学業は優秀で、青森師範付属小学校で総代で卒業した。
青森中学 一年終了で仙台幼年学校を経て陸軍士官学校へ進み昭和四年卒業した。
その年、仙台幼年学校への青森県からの合格者は對馬只一人だったが、
両親は息子の入学式に必要な紋付羽織の用意が無く、借り物で済ましたという。
「 二・二六事件に於ける對馬中尉の死を思うたびに、桜義民伝を思う。
二・二六事件は軍服を着た百姓一揆であった。
對馬中尉に於ては 郷里津軽農民の構造的貧困を抜本的に救わんが為の蹶起であった 」
・・・末松太平
青森の農家の出身で貧乏を目の当りにしていた中尉は
満洲で指揮した部下達が岩手県の貧乏な農村漁村の出身者で、
彼等の悲惨な窮状に胸を痛めていた
中尉は給料が入ると、そのほとんどを投げ打ち
日本から食料を取り寄せて部下に与えた
又、戦死した部下の遺族には自分の蓄財から融通できる限りの
お金を香典として渡したと謂う
・・・実妹 波多江たま さんの証言から
對馬勝雄 ツシマ カツオ
『 邦刀 』
目次
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同志胸中秘内憂 追胡万里戦辺州
還軍隊伍君己欠 我以残生斬国讎
文字をたどるだけの意味は、
同志が胸中に内憂を秘めて
自分と共に満洲の広野に渡り 外敵と戦ったが、
その凱旋した部隊のなかに、すでに君は欠けていた。
自分は生き残ったが、しかしこの残生を以て国に仇なするものを斬った
と いったほどのことである。
が、私には、この漢詩がもっと深い意味を含んでいるように思われる。
・・末松太平 ・・・對馬勝雄中尉 ・ 残生
對馬中尉は豊橋の教導学校の教官で、
生徒を率いて参加する筈のところを同僚の板垣中尉に止められて単身やってきたのだ。
皆が腰を落着けてしばらく経つと、
對馬中尉はポケットからハンカチに包んだものを出して 一同の前に広げた。
それは荼毗に付した小さな数片の遺骨であった。
「 これは満洲で戦死した自分の最も信頼する同志菅原軍曹の骨だ 」
對馬中尉はその骨を握りしめ、
皆の手で触ってやってくれと言って、ハンカチを差し出した。
栗原さんも林も、そして私もそのハンカチを手にとり骨片を握りしめた。
菅原軍曹の骨は、對馬中尉のぬくもりで温かかった。
それは掌を通じて心の底まで伝わる温かさであった。
菅原軍曹は秋田の聯隊出身で、大岸大尉の仙台教導学校時代の教え子であった。
十月事件当時、菅原軍曹は対馬中尉に呼ばれて、隊列を離れ、
体操服を着て銃剣を風呂敷に包んで駆けつけた人である。
彼は満洲の奉山線の北鎮という所に連絡にきていて、匪賊と戦って斃れた。
この葬儀の時、對馬中尉は駈けつけて、その遺骨の一部を貰い受け、
肌身離さず持っていたものである。
また 郷里秋田での葬儀の時は相澤中佐も出席されたそうである。
相澤、大岸、對馬、菅原の心の結びつきがあった。
「 今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ 」
と 對馬中尉は気魄をこめて語った。
・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」
< 郷詩会 >
陸軍は大岸、海軍は藤井、民間は西田が それぞれの中心となることにきまった。
それだけのことだった。
別に主義も綱領もきめる必要はなかった。
結局は互いに久濶を叙し、互いに自己を紹介しあい、
あるいは静かに、
あるいは元気よく語りあい、
冗談もいいあい、組織固めをしただけだった。
が 大岸中尉はひそかに私にいった。
「 海軍や井上日召あたりは、ただの組織固めでは納得せず、
この会合を直ちに直接の計画に結びつけたい意見のようだ。
しかし こんど集まったものすべてを同志とみるのは早計だしね・・・」
海上生活の多い海軍と、いつも陸上にいる陸軍とでは、
当然時機に対する感覚に食いちがいがあった。
陸に上がったときにチャンスとみる海軍と、チャンスはいつでも選べる陸軍である。
それが急進と時機尚早の意見のわかれとなって、
血盟団、五 ・一五、二・二六
と、他に事情もあったけれども時機を異にした蹶起となって現れたのである。
もちろん陸軍のなかにも、海軍に劣らぬ急進分子がいるにはいた。
このとき大岸中尉と同行した弘前の三十一連隊の対馬勝雄少尉などがそれで、
対馬はこの会合を赤穂浪士の討入前の会合のように思って上京していた。
「 このまま弘前に帰れというのですか。」
と 目を据えていつて、眼鏡ごしに対馬は私をみつめもした。
・・・末松太平 ・十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 斯くて 興津の西園寺公望襲撃は中止された
・ 對馬勝雄 ( 憲調書 ) 『 内敵を一掃し、後顧の憂いを残し 戦死した戦友部下に酬る 』
・ 對馬勝雄中尉の四日間
・ 昭和維新 ・對馬勝雄中尉
・ 最期の陳述 ・ 對馬勝雄 「 麹町地區警備隊はいつ解散せられたのかも知りません 」
午前十時頃か、陸軍大臣參内、續いて眞崎將軍も出て行ってしまった。
官邸には次官が殘る。
満井中佐、鈴木大佐 來邸する。
午後二時頃か、山下少將が宮中より退下し來り、集合を求める。
香、村、對馬、余、野中の五人が
次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立會ひの下に、
山下少將より大臣告示の朗讀呈示を受ける。
「 諸子の至情は國體の眞姿顯現に基くものと認む。
この事は上聞に達しあり。
國體の眞姿顯現については、各軍事參議官も恐懼に堪へざるものがある。
各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す。
これ以上は一つに大御心に待つべきである 」
大體に於て以上の主旨である。
對馬は、吾々の行動を認めるのですか、否やと突込む。
余は吾々の行動が義軍の義擧であると云ふことを認めるのですか、否やと詰問する。
山下少將は口答の確答をさけて、質問に對し、三度告示を朗讀して答へに代へる。
・・・第十七 「 吾々の行動を認めるか 否か 」
・ あを雲の涯 (十) 對馬勝雄
・ 昭和11年7月12日 (十) 對馬勝雄中尉
・ 對馬勝雄中尉の結婚話
對馬勝雄がぼそりとした東北弁で重い口を 開いた。
「 ズブンのずっかは青森ですが、
すり合いの家では芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」
對馬はなおもお國訛りで語った。
それによると芋のつるさえなくなり、種芋も食い尽くす有様だという、
上京して師団参謀や幕僚の宴会に呼ばれたが、
財閥のお偉方も大勢来ては飲めや歌えやの大騒ぎを見せつけられ、
これでは故郷にいる兵は納得しないだろう、
と 彼は声を震わせて嘆いた。
・・・「 芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」