あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

對馬勝雄 『 邦刀 』

2021年12月11日 09時40分29秒 | 對馬勝雄

青森県南津軽郡舎館村に生れた。
父は砂利運搬船の作業員だったが、家計がたちゆかず 母が行商で補っていた。
学業は優秀で、青森師範付属小学校で総代で卒業した。
青森中学 一年終了で仙台幼年学校を経て陸軍士官学校へ進み昭和四年卒業した。
その年、仙台幼年学校への青森県からの合格者は對馬只一人だったが、
両親は息子の入学式に必要な紋付羽織の用意が無く、借り物で済ましたという。
「 二・二六事件に於ける對馬中尉の死を思うたびに、桜義民伝を思う。
二・二六事件は軍服を着た百姓一揆であった。
對馬中尉に於ては 郷里津軽農民の構造的貧困を抜本的に救わんが為の蹶起であった 」
・・・末松太平

青森の農家の出身で貧乏を目の当りにしていた中尉は
満洲で指揮した部下達が岩手県の貧乏な農村漁村の出身者で、
彼等の悲惨な窮状に胸を痛めていた
中尉は給料が入ると、そのほとんどを投げ打ち
日本から食料を取り寄せて部下に与えた
又、戦死した部下の遺族には自分の蓄財から融通できる限りの
お金を香典として渡したと謂う
・・・実妹 波多江たま さんの証言から


對馬勝雄  ツシマ カツオ
『 
邦刀 』 
目次
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同志胸中秘内憂  追胡万里戦辺州
還軍隊伍君己欠  我以残生斬国讎
文字をたどるだけの意味は、
同志が胸中に内憂を秘めて
自分と共に満洲の広野に渡り 外敵と戦ったが、
その凱旋した部隊のなかに、すでに君は欠けていた。
自分は生き残ったが、しかしこの残生を以て国に仇なするものを斬った
と いったほどのことである。
が、私には、この漢詩がもっと深い意味を含んでいるように思われる。
・・末松太平 ・・・對馬勝雄中尉 ・ 残生 

對馬中尉は豊橋の教導学校の教官で、
生徒を率いて参加する筈のところを同僚の板垣中尉に止められて単身やってきたのだ。
皆が腰を落着けてしばらく経つと、
對馬中尉はポケットからハンカチに包んだものを出して 一同の前に広げた。
それは荼毗に付した小さな数片の遺骨であった。
「 これは満洲で戦死した自分の最も信頼する同志菅原軍曹の骨だ 」
對馬中尉はその骨を握りしめ、
皆の手で触ってやってくれと言って、ハンカチを差し出した。
栗原さんも林も、そして私もそのハンカチを手にとり骨片を握りしめた。
菅原軍曹の骨は、對馬中尉のぬくもりで温かかった。
それは掌を通じて心の底まで伝わる温かさであった。
菅原軍曹は秋田の聯隊出身で、大岸大尉の仙台教導学校時代の教え子であった。
十月事件当時、菅原軍曹は対馬中尉に呼ばれて、隊列を離れ、
体操服を着て銃剣を風呂敷に包んで駆けつけた人である。
彼は満洲の奉山線の北鎮という所に連絡にきていて、匪賊と戦って斃れた。
この葬儀の時、對馬中尉は駈けつけて、その遺骨の一部を貰い受け、
肌身離さず持っていたものである。
また 郷里秋田での葬儀の時は相澤中佐も出席されたそうである。
相澤、大岸、對馬、菅原の心の結びつきがあった。
「 今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ 」
と 對馬中尉は気魄をこめて語った。

・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」 

郷詩会 >
陸軍は大岸、海軍は藤井、民間は西田が それぞれの中心となることにきまった。
それだけのことだった。
別に主義も綱領もきめる必要はなかった。
結局は互いに久濶を叙し、互いに自己を紹介しあい、
あるいは静かに、
あるいは元気よく語りあい、
冗談もいいあい、組織固めをしただけだった。
が 大岸中尉はひそかに私にいった。
「 海軍や井上日召あたりは、ただの組織固めでは納得せず、
 この会合を直ちに直接の計画に結びつけたい意見のようだ。
しかし こんど集まったものすべてを同志とみるのは早計だしね・・・」
海上生活の多い海軍と、いつも陸上にいる陸軍とでは、
当然時機に対する感覚に食いちがいがあった。
陸に上がったときにチャンスとみる海軍と、チャンスはいつでも選べる陸軍である。
それが急進と時機尚早の意見のわかれとなって、
血盟団、五 ・一五、二・二六
と、他に事情もあったけれども時機を異にした蹶起となって現れたのである。
もちろん陸軍のなかにも、海軍に劣らぬ急進分子がいるにはいた。
このとき大岸中尉と同行した弘前の三十一連隊の対馬勝雄少尉などがそれで、
対馬はこの会合を赤穂浪士の討入前の会合のように思って上京していた。
「 このまま弘前に帰れというのですか。」
と 目を据えていつて、眼鏡ごしに対馬は私をみつめもした。
・・・末松太平 ・十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合

斯くて 興津の西園寺公望襲撃は中止された
對馬勝雄 ( 憲調書 ) 『 内敵を一掃し、後顧の憂いを残し 戦死した戦友部下に酬る 』 
・ 對馬勝雄中尉の四日間 
昭和維新 ・對馬勝雄中尉

・ 最期の陳述 ・ 對馬勝雄 「 麹町地區警備隊はいつ解散せられたのかも知りません 」 

午前十時頃か、陸軍大臣參内、續いて眞崎將軍も出て行ってしまった。
官邸には次官が殘る。
満井中佐、鈴木大佐 來邸する。
午後二時頃か、山下少將が宮中より退下し來り、集合を求める。
香、村、對馬、余、野中の五人が
次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立會ひの下に、
山下少將より大臣告示の朗讀呈示を受ける。
「 諸子の至情は國體の眞姿顯現に基くものと認む。
この事は上聞に達しあり。
國體の眞姿顯現については、各軍事參議官も恐懼に堪へざるものがある。
各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す。
これ以上は一つに大御心に待つべきである 」
大體に於て以上の主旨である。
對馬は、吾々の行動を認めるのですか、否やと突込む。
余は吾々の行動が義軍の義擧であると云ふことを認めるのですか、否やと詰問する。
山下少將は口答の確答をさけて、質問に對し、三度告示を朗讀して答へに代へる。
・・・第十七 「 吾々の行動を認めるか 否か 」 

あを雲の涯 (十) 對馬勝雄 
・ 昭和11年7月12日 (十) 對馬勝雄中尉 

・ 對馬勝雄中尉の結婚話 

對馬勝雄がぼそりとした東北弁で重い口を 開いた。
「 ズブンのずっかは青森ですが、
すり合いの家では芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」
對馬はなおもお國訛りで語った。
それによると芋のつるさえなくなり、種芋も食い尽くす有様だという、
上京して師団参謀や幕僚の宴会に呼ばれたが、
財閥のお偉方も大勢来ては飲めや歌えやの大騒ぎを見せつけられ、
これでは故郷にいる兵は納得しないだろう、
と 彼は声を震わせて嘆いた。
・・・「 芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです 」


對馬勝雄 『 邦刀遺文 』・・・下書

2017年12月13日 14時48分31秒 | 對馬勝雄

昭和六年九月十八日の満洲事變勃発から二カ月後。
陸軍第八師団の弘前、青森、秋田、山形の各一大隊など五百余人からなる混成第四旅団が編成せられ、
内地からの最初の出動部隊として十一月十八日に朝鮮 ・釜山に上陸。
二十日には満洲 ・奉天に到着し守備に就いた。
弘前の第三十一聯隊が基幹となった同旅団の第二大隊約五百名の中に、
對馬勝雄 ( 當時二十三歳 ) が存た。
第七中隊の小隊長を任じられて、
自らが教育してきた兵士らとの初めての出征に奮い立った對馬は、
国家改造運動の国内での進展を念願し
後事を託する内容の挨拶狀をしたためた
「 現下社會不安は日に深刻にして一面昭和維新斷行の時期も切迫致候折柄
 後事はよろしく善處下さりたく懇願し奉り候
思ふに維新の發現は天之を我東北の人民に命じたるの感深きものあり
腐敗せる現支配階級と矯正の餘地なき左傾分子とを斷固たる信念により撃滅し
以て四海に仰がしむべきは我等の使命と存じ候
今回の出兵は私共としては世界第二次大戰の緒動と考へざるを得ざるまゝ
特に国内の維新 眞の國家總動員による大戰の遂行力充實を深く念願するものに御座候
何卒私共の眞意を御覧察下されたく願上候 」

日露ノ役ニハナル程國民奮然一致シテ起ツタ。
而モソハ三國干渉後ノ臥薪嘗胆がしんしょうたん ( 軍備擴張其他精神的軍備アリ  ) ノ結果ニシテ
當初ノ非戰論者モ今日ノ如キ非國家的ノソレニアラスシテ國ヲ憂ウルタメノ非戰論デアツタ。
サレバ一度決然トシテ起ツヤ窮鼠猫ヲカムガ如ク 猛烈果敢ニ獨露ヲ制シタノデアル。
然ルニコレヲモシ今日行フトセバ如何、
第一 三國干渉ニ對スル如キ國民一致ノ準備ナク
却テ反對ニ國内的ニハ非國家思想潮 及 諸勢力ノ横流盛ンデアル。
カクノ如キ狀態ニテ果シテ所謂日本古來ノ國民性ニノミ信倚 ( 頼るの意 ) シテ天祐を頼ミ
憤激ニ托シテ國民ノ一致ヲ期待シウベキヤ否ヤ
・・・昭和六年七月十五日の日記 ・・・對馬勝雄記錄集 『 邦刀遺文 』 より

對馬勝雄は、
満州事變勃発が祖父たちの日露戰爭を勝利に導いたような
『 國體國民 』 一體一丸の燃焼をもたらすことを念願し、
満洲を取巻く中國やソ連、米英との戰爭の危機感をテコに、
切歯扼腕していた国内問題を一擧解決する國家改造の秋 到來を期待した。
 
對馬勝雄 
『 邦刀遺文 』
對馬勝雄が残した満洲での日記
昭和七年一月より始まる

謹而
兩陛下ノ萬才ヲ祈ル。
一段落ナリ。
又中隊長殿 竝ニ 我小隊士以下ノ武運長久ヲ祈ル
元旦ノ朝暾ちょうとん ( ・・朝日 )
ハ廣大無邊ニ輝キテ我守備地タル チヽハル城頭ニサシ昇レル。
興國ヲ期シテ無爲ニ終レル昭和六年ヲ顧ミル時、
本年コソハ決斷行を誓フモノナリ。
・・・1月1日

錦州攻撃概ネ終ワル。
一段落ナリ。
初メ予想セシ如く何時トハナシニ初マリ ○○テ激戦トナリ 余等ノ參戰ナキ間ニ終レリ。
一同ノ遺憾至極ナリ。
尤モ國家的ニ見テ賀スベキハ論ナシ
・・・1月3日

錦州ニ向カヒシ軍活躍ノ報ヲ聞クニツケテモ
トリ殘サレタル吾人ノ身ガ殘念ナリ
・・・1月5日

本朝西北々方ニ銃聲盛ンナリ。
我歩兵十七ニテ近接シ來ル馬軍騎兵隊ヲ撃退セルモノナリ。
多數鹵獲品ろかくひん アリシト。
馬占山ハ軍閥ニシテ我ニ降伏スル意ナキカニ見ユ
・・・1月11日

昭和七年一月八日、『 桜田門事件 』 が起きた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
挿入

・・・リンク→ 桜田門事件 『 陛下のロボを乱す悪漢 』 
犬養内閣は、陛下より
「 時局重大の時故に留任せよ 」
とのお言葉を賜ったという理由で留任した。
・・・桜田門事件 「 陛下にはお恙もあらせられず、神色自若として云々 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
時の陸軍大臣は、荒木中将だった。
事件を満洲で聞いた對馬らは、『 チヽハル 青年将校有志一同 』 の名で
『 荒木陸相留任方懇請 』 を打電しようとしたが、大隊の上官によって抑えられた。
對馬の日記の記述には、内地を遠く離れて、かつ組織の軍人ゆえに行動できぬ不自由さへの葛藤も加わった。

内外愈々多事ナルトキ チヽハル附近ニハ却ツテ何事モナシ。
辭職シテ國内ノ突撃ニ後リサランコト乃、三、榊、泥、阿季、瀬 等ニカク 
・・・1月12日

余ノ信念ハ軍人ナルガ故ニ使命重大ナリトスルニアリタリシガ熟々從來ノ經過ヲ考フルニ
ソノ信念ノ實行ハ軍人ナルガ故ニ愈々困難ナル實情デアル。
軍人ヲヤメルカ否カ、ソレハ 「 皇國ノタメ 」 トイフ、無私ノ信念ニ照ラシテ自ラ定マルベキデアル
・・・1月13日

藤井齊 海軍大尉 戰死 ( 於
上海 )
深ク英靈ヲ祈リ、吾等ハ氏ノ志ヲツイデ故人ニ恥ザラントス
・・・2月25日


・・・・・


對馬勝雄中尉の結婚話

2017年12月12日 13時35分14秒 | 對馬勝雄


對馬勝雄 

豊橋の駅の別れの名残りと
 吾子をのぞけば眠り居りけり
« 註 »
對馬千代子夫人記
二月二十六日、私が静岡日赤病院に入院のため、なにも知らずに送られて、
豊橋を後にしました。これが最後の別れとなりました。

きたか坊やよ悧口な坊や
たつた一つで母さんの
つかひにはるばる汽車の旅
お々  お手柄 お手柄
父より
昭和十一年七月八日
好 彦さんへ
« 註 »
對馬千代子夫人記
私が一月十六日出産後、病床にありましたため、最後の面会に行かれず、
祖母に連れられて好彦が上京致しました折に・・・・・・

 
・・・あを雲の涯 (十) 對馬勝雄 
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對馬勝雄中尉の結婚話
對馬中尉が豊橋教導学校の区隊長をしているころ、
中隊長が對馬に対してしつこく結婚を勧めたことがあった。
對馬はその話を全く受けつけなかった。
相手の女性は中隊長のかつての大隊長の令嬢であった。
かつての大隊長からはヤイヤイいわれるし、對馬は全く受けつけないし、
仲にはいった中隊長ハ困りぬいたあげく、
「 對馬中尉、オレの立場モ考えてくれ。
  君が松永少佐 ( というのがその上官 ) のお嬢さんと結婚の意志のないことはわかったけれども、
見合いだけはしてくれ。
見合いしてから断わればそれでいいから、形式だけの見合いだけは頼むぞ、
それでないとオレが引っ込みがつかないんだ 」
いずれは国家革新のために挺身しようと情熱をもやしつづけていた對馬の心の奥底を、
うかがい知ることのできなかった中隊長の提案が、形式的な見合いであった。
この提案に対して、對馬はことわる理由がなかった。
ついに承知せざるを得なかった。
對馬はひそかに思った。
形式的見合いというものがあっていいものだろうか、
それは先方の令嬢の心を傷つけるものだ、
見合いをするからには結婚を前提としたものでなければならぬ、
いいかげんな気持ちは對馬の性質が許さなかった。
對馬は決心した。
見合いするまえ、すでに結婚の決意を固めた對馬にとっては、
その見合いは別な意味において形式的であった
私は、對馬の結婚にまつわるそんな話を、大岸大尉からかつてきいたことがあった。

大東亜戦争が終わって、世の中もだいぶ落ち着きをみせはじめた昭和二十七、八年ごろであった。
清水市在住の七夕虎雄が発起人となって、
静岡市の護国神社で二 ・二六事件の慰霊祭を催すことになった。
その慰霊祭に招かれて、東京から参加したときのことであった。
私は、はからずも對馬中尉の岳父松永少佐に会った。
「 あのとき私は、對馬から全くだまされましてね・・・・」
と、老少佐は 『 二 ・二六事件 』 前夜のことを話し出した。
「 ちょうどあのとき、むすめは初孫を出産しましてね、豊橋の病院に入院中でした。
  初孫でしかも男の子でしたから、私ら夫婦はことのほか喜んでいました。
突然對馬が私のうちにやってきて、
『 今度弘前の方に転任することになりました。
  これから急に赴任しなければなりません。

  あとはくれぐれもよろしくお願いいたします 』 
と、あいさつにきましたのが、二月二十五日でした。
そこで私は、心配するな、退院したらなるべく早く弘前に送りとどけるから・・・・と、
彼を喜んで豊橋駅まで送っていったんです。
ところが翌日はあの騒ぎです。
對馬が参加していることがわかったときはびっくりしました。
物の見事にだまされましたが、だまされたことに怒りを感ずるどころか、
私はむしろ清々しい気分になりましてね、全くおかしな話でした 」


大蔵栄一 著 
二・二六事件への挽歌  から


對馬勝雄中尉 ・ 殘生

2017年12月11日 19時32分25秒 | 對馬勝雄

 
對馬勝雄 

殘生

二・二六事件で
昭和十一年七月十二日に
死刑になった十五人のうちの一人、
對馬勝雄中尉の獄中作に次の漢詩がある。

同志胸中秘内憂  追胡萬里戰邊洲
還軍隊伍君己欠  我以殘生斬國讎

文字をたどるだけの意味は、
同志が胸中に内憂を秘めて
自分と共に満洲の広野に渡り 外敵と戦ったが、
その凱旋した部隊のなかに、すでに君は欠けていた。
自分は生き残ったが、しかしこの残生を以て国に仇なするものを斬った
と いったほどのことである。
が、私には、この漢詩がもっと深い意味を含んでいるように思われる。

同志が胸中に内憂を秘めて、胡を万里に追って辺州に戦ったというのは、
昭和六年の満洲事変で、内地からはじめて一箇旅団が出征したとき 對馬中尉と、
その同志が国内の革新を心に秘めて、この部隊に加わっていたことをさすのである。
この旅団は、第八師団管下の各歩兵連隊で、
それぞれ集成の一箇大隊を編成した四箇大隊を基幹に、
それに相応する砲兵、騎兵、工兵を加えた混成旅団だった。
それに、弘前の歩兵三十一聯隊の對馬中尉 ( 当時少尉 ) と
秋田の歩兵十七聯隊の菅原軍曹、
私の属した青森の五聯隊から
對馬中尉の仙台幼年学校以来の同期生 遠藤幸道少尉と私が参加していた。
同志といえばこの四人をさしたに相違ないが、そのうち
菅原軍曹 ( 戦死して曹長に進級 ) と
遠藤少尉 ( 渡満後中尉に進級、戦死後大尉 ) が戦死したから、
凱旋した部隊から欠けていたのである。
出征したのは十一月中旬で、十月中旬に未遂に終わった十月事件の直後だった。
が、革新的な動きは、これで終熄したわけではなかった。
それは直後におこった事件が実証している。
十月事件で青年将校と行動を共にすることを誓った民間同志が、
井上日召を中心に一人一殺を、出征して間もなく始めたし、
その翌年の五月には五・一五事件がおこっている。
しかも對馬中尉にとっては、
自分の直接影響下にあった同じ三十一聯隊の野村三郎士官候補生が
五・一五事件に海軍士官と行動を共にしているからである。
たしかに内憂に心ひかれながら、それを胸奥に秘めての出征であり戦いであった。

中略

・・昭和六年にうつることにしよう。
對馬も遠藤も、もう古参少尉になって、それぞれの聯隊の聯隊旗手をしていた。
私は中尉になっていて、この夏、戸山学校の学生で東京に出ていた。
外では満洲事変がおこり、内では十月事件のクーデター計画が進められていた。
十月事件というのは計画が挫折したのが十月中旬だったからこの名があるが、
決行予定も同じ十月中旬だった。
これが若し実行されていたら、
スケールにおいては、
二・二六事件も遠く及ばぬ陸海、民間合同の大クーデターが実現するはずだった。
予め全軍の同志将校にもわたりがついていた点も二・二六事件の比ではなかった。
が、事実は、軍当局がこれを押えて挫折させなくても、実行は危ぶまれた。
橋本中佐ら参謀本部を中心とする幕僚と、部隊を直接指揮する青年将校との間に
革新についての根本観念に食い違いがあり、
それが決行日が近づくにつれ益々はげしくなり、対立までなっていたからである。
食い違いとは、つづめていえば、幕僚ファッシズムに対する批判反撥だった。
もちろんマルキシズムに基づかない革新がすべてファッシズムと分類規定されるならば、
この区別は無意味である。
憲兵が手を下したのが十月十七日だった。
ちょうどその日、青森から大岸中尉が、牛込若松町の私の下宿に、
和服姿で、軍刀をさげてやってきた。
大岸中尉は、仙台の教導学校から青森の原隊に復帰していたのである。
もともと私の戸山学校入校は、上京が目的の手段で、大岸中尉としめしあわせてのことだった。
これには独自の計画があったのだが、
三月事件から糸をひいた橋本中佐らのクーデター計画を知り、
それと合流変形したのである。
変形は整形しなければならなかった。
決行前に整形すべきか、決行後に第二革命といった形式で整形すべきか、
それがはっきりせぬままに
月日は とんちゃくなく、対立抗争の様相を内部にはらみながら過ぎて、
決行予定日の二十日が、いたずらに迫っていたのである。

青森の聯隊はこのころ、秋季演習で秋田県下に出払っていた。
大岸中尉は留守隊に残留して、
情況偵察かたがた、必要によっては決行参加を覚悟して上京したのである。
計画の挫折を知った大岸中尉は早速、
演習地の相沢三郎少佐らと、弘前の對馬中尉に上京中止の電報を打った。
私の下宿に一泊した大岸中尉は、帰りぎわに、
「 女房も上出来さ。 家を出ようとすると、何も知らないはずなのに、
尾頭づきの鯛と赤飯を供えたよ。」
と いった。
大岸中尉が帰ると一足ちがいで、
これも和服姿に軍刀の對馬少尉と菅原軍曹が下宿に現われた。
對馬少尉は仮病をつかって留守隊に残っていたが、抜け出して、
秋田の聯隊の演習地から菅原軍曹を誘い出し、相たずさえて上京したのだった。
菅原軍曹は大岸中尉の仙台教導学校時代の教え子である。
将校とちがって、ごぼう剣を後生大事に風呂敷に包んでいた。
この二人が帰ったあと演習地の平田聯隊長から
「 アイザワ、カメイ、エンドウ、スグカエセ 」 の 電報が届いた。
変な電報だと思ったが、 「 ダレモキテイナイ 」 と 返電した。
が、その翌日、
電報の主の相沢少佐、亀井中尉、遠藤少尉の三人が
これも和服にトンビを羽織った姿で現れた。
みな大岸中尉の電報を待ちきれず飛び出してきたのである。
相沢三郎中佐は、
この年の八月の異動で五聯隊の大隊長に着任し
大岸中尉らに共鳴したのであった。
その大隊を相沢少佐はほうりだし、中隊長代理の亀井中尉は中隊をほうりだし、
聯隊旗手の遠藤少尉は軍旗をおいてけぼりにして、
そろって演習地からずらかったのだった。
演習に出るときから 相沢少佐は軍刀をマントにくるんで乗馬の尻にくっつけていたし、
亀井中尉は青竹の筒に軍刀をいれて、それを当番兵にかつがせていた。
軍服を着かえたのは、
山形県の酒田で中等学校の配属将校をしていた横地大尉の家であった。
横地大尉も もと五聯隊で中隊長をしていて、大岸中尉のシンパだった。

満洲に混成旅団が出征したのは、このときから一カ月あまりあとである。
相沢少佐と大岸中尉、亀井中尉は残留した。
が、翌年四月、師団主力の渡満と同時に亀井中尉だけ追及してきた。
あとに残った相沢少佐はしばらく青森にいたが、
五・一五事件のあと秋田の聯隊に転任になり、
ついで福山の聯隊に変っていった。
永田事件は福山の聯隊付中佐のときだった。
大岸中尉は大尉となり和歌山の聯隊に変った。

菅原軍曹が戦死したのは昭和七年の高梁の茂る炎暑の夏だった。
四月に師団主力が渡満してからは、
第八師団は大遼河以西、山海関までの奉山沿線に駐屯していた。
秋田の聯隊は本部を大虎山に置いて、一部をその西方の北鎮に駐屯させていた。
北鎮は鉄道沿線から外れているので、
本部から毎日糧秣、郵便物、慰問袋を届ける定期便のトラックがでていた。
その定期便のトラックに軽機関銃一箇分隊を率いて菅原軍曹が警乗した日に、
途中の高梁畑に待伏せしていた数十倍の敵が包囲襲撃し、
菅原軍曹以下が全滅したのである。
綿州にいた對馬中尉は、その追悼式に駈けつけ、
菅原軍曹の遺骨の一部をもらいうけ、その一片を噛みくだいて嚥下した。
遠藤中尉が戦死したのは、
この年の暮れから翌年の正月にかけての山海関の戦闘でだった。
戦死した場所は
万里の長城、天下第一関の扁額のある東門に相対した山海関場内の西門直下だった。
敗敵を追及して西門に追ったとき、城門上から狙撃されたのである。

二・二六事件のあった年の正月、
對馬中尉は郷里の青森に帰っていたそうだが、
私は東京、千葉の間を旅行していたので会えなかった。
そのとき 對馬中尉は生家の仏壇に安置してあった袋を、
これは貰って行くといって、持ち帰ったという。
袋は満洲事変で戦死した自分の部下と菅原軍曹の分骨のはいったものだった。
師団が凱旋したのは昭和九年の四月初旬だったが、
それより一足先に對馬中尉は豊橋教導学校の区隊長に転任になって内地に帰っていた。
が、師団の凱旋をきいて、それを迎えるため、休暇をとって郷里に出向いた。
その時、肌身はなさず持っている袋を母堂に見とがめられ、
問われるままにわけをはなすと、
母堂から、そんなことをしていては些末になるから仏壇に納めるようにといわれて、
置いていったものだった。
昭和十一年の二月二十六日未明、
興津の西園寺公望襲撃が同志間の意見の齟齬から不調とみるや、
對馬中尉は竹嶋継夫中尉と一緒に上京して蹶起部隊に合流した。
そのとき恐らくは、正月に生家から持ち出した菅原軍曹らの遺骨のはいった袋を、
肌身につけていたはずである。・・リンク→ 池田俊彦少尉 「 私も参加します 」 
二・二六事件までの對馬中尉の身は、残生にすぎなかった。

相沢中佐は對馬中尉に先立つこと九日、七月三日に死刑になった。
亀井中尉は日支事変中、少佐で大隊長だったが、北支山西戦線で戦死した。
大岸大尉は二・二六事件後 軍職を去り、
終戦後は郷里の山村に隠棲していたが、数年前に肺病で亡くなった。
十月事件のとき、一劒を抱いて相ついで脱藩上京した壮士はみな不思議にこの世を去り、
当時これを東京で迎えた私一人が生き残ったのである。

末松太平著  私の昭和史 から