あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

日本改造法案大綱 (2) 第三回の公刊頒布に際して

2017年03月13日 20時13分24秒 | 日本改造法案大綱


第三回の公刊頒布に際して告ぐ

日本改造法案の第一回の頒布は 猶存社同人の謄冩版に依りて數百部程秘密に手より手に交附されたものである。
そして九年の一月發行頒布を禁止された。
第二回のものは 書肆改造社の賈本として多少世間に弘められたが、
改造行程の手段方法の
一端を示した部分等を削除することに依りて公表を許可されたものである。

これが十二年の五月であつた。
今第三回の印刷頒布に同意して西田税君の勞に委ねた。
二回目の賈本の時に、特に凡例の三と四とに於て批評にも應ぜず質問にも答へない所以を
注意して置いたにも係らず、稀に批評を見 又 質問に接した。
來て問ふ者にも多く答へず、
書簡質疑等に対しては一律に書簡其儘を封入して返戻するを
例とした。

然り々々 否な々々 にて足れりとは其節注意した通り今も同じである。
西田君は鞍馬帯劍の年少々尉である。
武に養はれたるが故に克く文を解し得るのであらうか。
特に此の書冊は法案である。
法案なるが故に終に法典として國家を組み立つべきものである。
君及び君等の劍頭鏃尖を以てのみ羅馬の十二銅柱に如意輪堂の鐡扉に刻み彫らるべきものである。
二回目の時と同じく勿論官憲に毀傷されたまゝの者ではあるが、氣運の熟成、行路の進展、
終に君及び君等の鐡血を中心時代とするに至れる象徴として、今回の印刷頒布を悦ぶこと甚深なる者がある。
右、誠に無遠慮なる申分なるが故に序でに有りのまゝを告白する。
眞實此の法案を上海の一病室に横はつて起草するに至るまでに四十幾日かの斷食をした。
參考論文に収めてある  『 ヴエルサイユ會議に對する最高判決 』 の書簡は實に斷食中の物で、
而して其れを投函して歸れる岩田富美夫君が 雲霞怒涛の如き排日の群集に包囲されて居るのを眼前に見た。
全世界の是認に抗して一人の否認が着々事實に擧證せられた智見をのみ値する勿れ。
其の否認を現實に米國其者からの否認とウヰルソン其人の堕落とを以て 『 皆是眞實』 に示さんが爲めには、
實に我が神々及び全世界のサタン等の前に一身を投げ出したる不惜身命の禱いのり)あるのだ。
日蓮は日本國なりと云ひ朕即ち國家なにりと云ふ。
ヴエルサイユから全世界に漲なぎるる排日熱、支那全土を洗ひ流がす排日運動の中に在りて、
----三千年の生命と六千萬人とを一人格に具體化せる皇帝其人の冩像が口にすべからざる
侮辱を蒙りて各國監視の街頭に晒された時、--苟いやしくも 『 唯我一人能爲救護 』 の大責任感を有する者、
日本國に對する排侮を日蓮自らの排侮に感じ、皇帝の蒙りたる恥辱を
唯我一人の恥辱に受取るのは當然の事である。
自分は十有余年間の支那革命に与かれる生活を一抛いつほうして日本に歸る決意を固めた。
十數年間に特に加速度的に腐敗堕落した本國をあのまゝにして置いては、
對世界策も對支策も本國其者も明かに破滅であると見た。
淸末革命の頃、即ち民國及び大正元年の前後の年頃には、危ないと思ひつゝ、
其れは間違ひだと爭ひつゝ、而して固より常に抑へ付けられつゝ、
而も未だ嘗て萬事休すとまで絶望はしなかつたのである。
----さうだ、日本に歸らう。
日本の魂のドン底から覆へして日本自らの革命に當らう。
其れには雑多に存在し行動して居る本國の革命的指導者にだけなりとも、
革命帝國の骨格構成の略圖をでも提供する必要があらう。
然り、全惡細惡の七億萬人を防衛すべき 『 最後の封建城廓 』 は太平洋岸の群島に築かるべき革命大帝國であると。
斯くして此の法案を起草し始めたのである。
斯んな煩悶懊悩に一箇月。
執筆に一箇月。
----而も此の期間に於て眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤して居る者が、
悉く十年の涙痕血史を共にせる刎頸ふんけいの同志其人々である大矛盾をどうする。
敢て大戰參加の第一歩の誤に遡さかのぼらずとも、兎に角其れに參加した日本山東攻略に對して、
同一なる參加を要求して來た支那を拒んだならば其れで宜しいではないか。
これ尠少せんしょうの實力をも供せずして山東の發言權を獲得せんとしたからの者である。
然るに三年後に米國が支那を誘引した時には、米國と寵めぐみを爭ふかの如く支那の參加に努力した。
是れ支那の出席すべきを拒んだ日本某者の手を以て、
後年ヴエルサイユに於ける支那の大踏濶歩の爲めに門を開いたのである。
----日本といふ大馬鹿者に貼ってやる膏薬を後の外交史の編者に残して置く。
----米国が 『 海洋の自由 』の 爲めに獨逸との國交斷絶に至らうとも、
海洋にジャンク一隻の通商をも有せざる支那が國交を絶つべき道連れにならう理由も必要もない。
自分が日本から海を渡って一年たゝぬ間に、
日本の内閣會議の卓に列べる眼玉が皆猫の眼玉に代って居たことを知らなんだ。
( 誰か一帝國の政策が朝夕にグルグル代はる者だと考へてかゝる者があらう )
實に六年二月十一日、神武建國の其日に於て、
不肖北一輝なればこそ斷乎として支那の對獨斷交に參加すべき理由なきを彼等に指示し、
故譚人鳳章大災の獅子吼一聲を鳴鏑として殆ど米國と當時の聯合國の所爲を打破するに垂んとしたのである。
----北一輝が惡いか日本帝國が惡いかは皇祖皇宗の前に出て戴いて貰はうではないか。
----勿論此の事を最初の且つ凡ての動因として支那は内亂を勃發し幾年間の南北交戰を繼續した。
而も僅かに半年以前袁世凱の頓死によりて第三革命を中止し
各省の兵車悉く當時の排置のま々であつたが故に、
革命の徹底によりてのみ支那を救ひ得る者に取りては
此の國家的題目を捉へて兵を動かさんとしたのは亦當然ではないか。
超憲法的に大總統黎氏をして内閣總理段公を免職せしめた者がある。
勿ち段の一督軍が長江の一角に拠りて兵を擧げる。
無作法な復辟の狂言師が登場して黎總統其人に議會を解散せしめる。
『 黎さん 』 亦泣虫の本性を暴はして日本公使館に逃げ込む。
帝政袁世凱の兩腕を働いた段祺瑞は天津から、馮國漳は南京から、
民主政治の擁護者に早變わりして張勲の三日天下を討伐する。
對世界戰の參否の本目的から横道に外れて、故孫逸仙君等は廣東に護法政府なるものを組織する。
終に獨支國交斷絶が聯合軍參加となるに至って、
廣東の議會萬能主義者は亦長い者に巻かれたる戰爭參加を宣言する。
而して隣國の大馬鹿者は 『參戰軍 』 なる者を支那に組織せしむると稱して
莫大なる戰費と兵器とを馮段の同盟的勢力に貸附けた。( 元も子も返らぬ一億五千兩の西原借款である )
大戰參加に抗議せんが爲めに北京の政局を打破し長江の戰雲を動かした諸友同志は、
北京政府を通ぜる日本の兵器と軍費に依りて常に江の南岸に壓迫せられ全敗を免るゝことに天佑を求めた。
彼の參戰軍なる者苦力の輸出以外一兵と雖も欧州の土に送らるゝことなくして
徒らに革命的同胞の殺戮に用いられたのである。
革命的勢力は終に馮段の間隙に乗じて其の勢力を二分し、馮系合縦聯衡して段を北京から退けた。
日本に國を賈る者であるとして彼が落されたならば、國を買った日本を侵略者となし、
漸くようやく死を免れたる戰場からの喚聲を擧げて日本の萬惡を數ふる時、
尋常一様なる排日運動に終らざるは言ふまでもない。
北京は馮系が廣東は排日革命系が占有して居る。
兩者の握手に依りて段系を覆滅せる餘威を以て日本に臨み、
而して兩者の握手せる前代表が米國からヴエルサイユに飛舞跳躍した時、
----米國の誘引したる引出物が 『 支那に還附する目的 』 なりし山東省の横取であつた事實を
始めて鼻頭につきつけられた時----日本の阿呆鳥共は朝野一整に國難來と烏号したのである。
泣きもされぬ大悲劇は往々喜劇の一齣を挟んで人天の侮弄を逞うする者である。
( 序でに更に言はうか。支那の南北政府からの全權代表が、
 米國に於てヴエルサイユに於て叩きつけた紙幣束撒き散らした銀行券が西原借款中の數百萬圓であったのだぞ!
馮系と段系に交附された通貨は廣東系と馮系が支那に於て段を倒し日本を傷くる政治費として流通し、
其二者が南北政府として講話政府に當つた時には外交費となつて流通したのだ。
通貨である。支那自身の租税は一弗と雖も革命後國庫に納入されたことなく、
五國借款以後一回の外債成立なく、
而して世界大戰中英米佛獨露の對支投資國は只支那以外の戰場に砲彈を投じて居たのだ。
仮りにも一億五千萬圓である。其中の一千數百萬圓が支那に於て討段排日の政治費となり、
三五百萬圓が米佛の外交舞臺な於ける宣傳費買収費となつたことはどうだ!
其れを日本に於ける對米國士等は逆に米國の出費と信じ、倒まに支那が米人に買収されたかと考へて居る。
凡て、爲ることも、言ふことも考へることも、角兵衛獅子の逆施倒行である )
自分は革命帝國の法案を考へた。
此の法案は秋毫しゅうごう
も冷靜嚴粛を紊みだされてはならない。
而も自分は閑かなる書齋の代りに、
この全世界から起り全支那に渦巻く排日運動の鬨こうの聲の中に身を縛られて居た。
一冊の參考書を許されざる代わりに----御前の主張に依りて戈ほこを執り御前の本國に依りて
殺されたるものゝ瞑せざるを見ようとして ----参參戰軍に銃殺されたる同志の忘片見を与へられた。
附紐の附いた日本の單衣を着て、小さい下駄をはいて父よ々々と慕ひ抱かれる。
而も涙の眼を轉ずれば、
ヴエランダの下は見渡す限り此の児の同胞が故國日本を怒り憎みて叫び狂ふ群衆の大怒濤である。
地上に生を享けたるものゝ多く会せざる矛盾、大矛盾ではないか。
泣いて悲しみが和らぎ怒りて當たるところあらば地獄ではない。
地獄、焦熱地獄の火災に身を焼かるゝ悶へに日々水を吸ふこと幾十瓶。
豪侠岩田の鐡腕さへ□びるゝ力を以て、岑々しんしんと時には轟々と鳴り痛む腦骨を打ち叩かせつゝ、
( 御前には常に御世話になつたこと謝する )。眞に気息庵々として筆を動かしたものである。
ニ三行にして枕し、五六行にして横はり。
故に自分は信ずる。
後十年秋、故朝日平吾君が一資本閥を刺して自らを屠りし時の遺言狀が
此の法案の精神を基本としたからとて聊かいささか失當ではないと。
死を以てする者と、死に優る生を貪る者むさぼるものとの間には其の根底に於て一脈相通ずる或者があるのだ。
自分が勿論足下を敎へた者でない如くに、
足下の魂を天上に召した偉いなる者が自分を召して地上に之れを書かしめたのである。
從て猿から僅かに進化した理論に甘んずる頭脳の人々、
虚僞飾善の時代に適者生存の名誉を負へる國士志士學者人格者三角者の如きが、
或は追随したり或は背叛したりしようとも一願する氣にもなれない筈であると思ふ。
當時は眞に死の易きに比せらるゝ生の痛惨悲愁を嘗めた。
而も今にして回顧すれば、
かの火の海の書齋と涙の冊子とは自分を書かしめし者が其の書記生に惠まれた者であつたのだ。
拝跪稽首して告ぐ。
此の文字が諸子を導くところあらば、諸子の感謝すべきものはあめつちに満つる我が神及び諸子の神々である。
參考論文に収めてある 『 支那革命外史 』 の序文は十年秋公刊の機會に於て書いたもので、
本分は四年末五年春第三革命中或る餘儀なき必要の爲めに限定部數の印刷配布のものである。
當時全然捨てゝ居た筆を執るに當って、
『 國體論及純正社會主義 』 の明治三十九年から十年の歳月を經たのを回顧して感慨多少のものがあつた。
『 國體論 』 の出版及び同時の發行禁止から其年の冬直ちに支那の革命者の一團の中に生活せしめられて居た。
幸徳秋水事件等の外に神蔭しの如く置かれたる冥々の加護を今更の如く考へしめられることもあり、
眞實の革命の本義と革命運動とは決して書冊や歴史では解することの出來ない境地であることも悟られて來た。
同時に、人間生活の殆ど凡ての窮乏も、屈辱も、成功らしきことも、
失敗其者の至重至大なる異議も----特に腸の千切れる悲しみや血の涙といふもの、
天人共に怒ると云ふ憤怒の如きもの、----此等の體驗と其中に起伏する一糸紊れざる法則も多少は悟ることも出來た。
特に革命的中心人物は凡ての歴史に於て似而非なる同一戰列の鍍金者流
( 名誉權力、我見邪慢の地金に外部周囲から革命的光輝を塗られた似而非者 )
によりて終滅せしめらるゝ事實と其の天意とに就きて深く心得ることも出來たつもりで居る。
而して此の二著の序文だけにても収録した理由は、理論として二十三歳の靑年の主張論辯したこしも、
實行者として隣國に多少の足跡を印したことも、而して此の改造法案に表れたことも、
二十年間嘗て大體根柢の義に於て一点一畫の訂正なしと云ふ根本事の諒解を欲するからである。
思想は進歩するなんど云ふ遁辞とんじを以て五年十年、甚しきは一年半年に於て自己を打消して
恬然てんぜん恥なき如きは、----政治家や思想家や敎師や文書家は其れでも宜ろしいが、
----革命者として時代を區劃くかくし、
幾百年の信念と制度とを一變すべき使命に於て生れたる者の許すべきことではない。
純粋の理論を論説して居た二十代の靑年だらうが、
千差萬別の事情勢力の過流に揉みくちゃにされて一定の航路を曲げ易い三十代だらうが、
己に社會や國家に對して現説をなし行動を取った以上は
年齢や思想如何を以て免除さるべからざる責任を感ずべき筈と思ふ。
一貫不惑である。
故に同じき參考論文に収めて在る 『 ヨツフエ君に訓ふる公開狀 』 は其れ自身の価値、
即ち露西亜の革命が百年後れたる仏蘭西革命の繼續であつて社會主義の實現に非ざることや、
國際債務の否認が主義の理論でなくて獨逸皇帝との降伏同盟から生じたことや、
國際法學上の承認とは領土繼承權の承認以外は何もないと云ふことやの価値は今も鮮やかなる論證として存する。
又この論文の數万部を以て、且つこの論文からの満三個月を以て、
彼を自分の領土から逐出した實力の行動を承知してる者も多からう。
而しながら其論調が所謂 『 戰場言葉 』 であつたが爲めに、
----自分が現説をする時は即ち行動の一部であるが故に、----
反動主義者でないかと愕いたおどろいた昏迷者は二十年前の 『 國體論及純正社會主義 』 の序文を見るがよろしい。
非戰論に雷同せざるものは革命主義者に非ずとされた當時の世界風潮に於て
『 万國社會党大會の決議を以てすとも著者の自由を拘束する能はず 』 と大書特筆して日露戰爭を是認してある。
( 彼れの凡てを無視せよ、彼れの一貫不惑なる二十年の生活を信頼せよ )
然り。
日露戰爭によりて、一島國の黄人が白人の大陸帝國を單獨に打破したることに依りて、
支那に革命精神の勃興となり、
印度に獨立運動の萌芽を見たのだとせば其れを非認して革命者を自任した人々の如き
今更支那や印度や亞細亞の革命を語り解放を言ふは社會に對し自己に對しても恥無きわざではなからうか。
『 國體論及純正社會主義 』 は當時の印刷で一千頁ほどのものであり且つ二十年前の禁止本であるが故に、
一讀を希望することは誠に無理であるが、其機會を有せらるゝ諸子は 『 國體の解説 』 の部分だけ理解を願ひたい。
右傾とか左傾とか相爭ふことの多くは日本人自らが日本の國體を正當に理解して居らぬからであると思ふ。
この著者はそれを閲讀した故板垣老伯が著者の童顔を眺めて、御前の生れ方が遅かった、
この著述が二十年早かったならば我が自由黨の運動は別の方向を取って居ったと遺憾がられたことがある。
同時に保守黨の鎮臺と目されて居た故谷干城氏は別の意味に於て著者を過分に論評して居た記事を見た記憶がある。
坦々たる長安の大道を何が故に泥酔者の如く右傾し左傾して歩するのか。
現在の革命的指導者諸子に影響した点の多いのは多く此の著である。
( 當時の啓蒙時代に於て福田徳三氏が世界的大著述となし、
 社會主義研究者の爲めに列擧したる各國の代表的著述中に日本を代表せる唯一の者としてあつた如き、
 此著に亦 學術的価値もあるのであらうか。)
『 支那革命外史 』 は序文だけで本分を見らるゝを慾しない。絶版でもある。
大石良雄を行動する者と浪花節語りとを混同する現代日本人から劇的興味を以て視らるゝことは不快此上もない。
自分は芝居を見ることを欲せず歴史も其の大部分は忘却の屑籠くずかごに投げ込んで居る。
文字と所作業に感戟する程度のものは敵でも味方でも御免を蒙りたい。
小さき賛美と群盲象評の是非より離るゝことを祈る。
大正五年一月よりの満十年間の見佛の生活に於て 『 柔和質直者則皆見我身 』 を身讀したる如く、
----其れ以前の十年間の 『 國體論 』 時代より 『 雖近而不見 』 の冥々の愛護を今更のやうに願想して拝謝し得る如く、
----今後恐らくは眞に波瀾重畳なるべき人生無限の航路に於て等しき指導愛護を垂れ給はんことを祈る。
見と不見との二十年間を幸ひにして一貫せし者惑はざりし者を、必ず決定して故國日本の嚴上に築かんことを祈る。
而して若し余あらば、----何ぞ命の余れると足らざるとを言はんや。
大正十五年一月三日
北一輝

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