あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」

2017年09月28日 05時50分47秒 | 村中孝次

「古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」
ずる賢い兎 ( 陸軍にとっての敵 )が弱まれば、
それを追いかけた猟犬 ( 青年将校運動 ) は、必要なくなり、
煮て食べられる運命となった

  村中孝次  
いろいろと娑婆からここに來るまで戰ってきましたが、
今日になって過去一切を靜かに反省して考えて見ますと、
結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。
彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません
もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、
この私達の純眞な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。
今度の事件もまたその例外ではありません。
彼等はわれわれの蹶起に對して死の極刑を以て臨みながら、しかも他面、
事態を自己の野望のために利用しています
私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。
私達は粛軍のために闘ってきました。
陸軍を維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、
擧軍一體の維新態勢にもって來なくてはなりません。
われわれの努力はこれに集中されました。
粛軍に關する意見書のごときも全くこの意圖に出たものでしたが、
ただ、返ってきたものはわれわれへの彈壓だけでした。
そこで私達は立ち上がりました。
維新は先ず陸軍から斷行させるべきであったからです。
幕僚ファッショの覆滅ふくめつこそわれわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りはわれわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。
いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、
われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、

それらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ陸軍を破壊し國を滅ぼすものであることを信じて疑いません。
・・・村中孝次


勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし

2017年09月25日 04時39分47秒 | 村中孝次

  村中孝次  
村中は私が房前に立つと、
突如 「 私らは負けた 」 といった。
しかも元気旺盛で、負け面づらは見えない。
それを冒頭に大いに喋る。
この話の骨子は十一月事件で入所した時も聞いたのであった。
その話の要旨は、
「 勝方法としては上部工作などの面倒を避け、
襲撃直後すかさず血刀を提げて宮中に參内し、
畏れ多いが陛下の御前に平伏拝謁して、
あの蹶起趣意書を天覧に供え目的達成を奉願する。
陛下の御意はもとよりはかり知るべきではないが、
重臣らにおはかりになるかも知れない、
いわゆる御前會議を經ることになれば、
成果はどうなるか分からないが、
そのような手續きを取らずに、おそらく御許しを得て奏功確實を信じていた。
この方法は前から考えていたことだが、いよいよとなると良心が許さない、
氣でも狂ったら別だが、至尊強要の言葉が怖ろしい。
たとへ 御許しになっても、皇軍相撃つ流血の惨は免れないだろうが、
勝利はこちらにあったと思う。
飛電により全國の軍人、民間同志が續々と上京するはずだ。
しかし、今考えて見れば銃殺のケイ よりも、私らは苦しい立場に立つだろう。
北先生からも  『 上を鞏要し奉ることは絶對にいけない 』 と聞かされていた。
この方法で勝っても、その一歩先に、
陛下のために國家のために起ったその忠誠が零になるわけだ、
矢張り負けて良かったとも考えている 」
と 慨然として嘆声を洩らす。
「 勝つ方策はあったが、あえてこれをなさざりしは、
國體信念にもとづくもので、身を殺しても鞏要し奉ることは欲せざりしなり 」
…東京陸軍刑務所所長  塚本定吉  「 二・二六事件  軍獄秘話 」 から


青年 村中孝次 「 自己を知り、自我を養ふ 」

2017年09月21日 17時05分34秒 | 村中孝次


村中孝次  
明治三十六年 (1903年) 十月三日生れ
二年間の仙台幼年学校を経て、
東京・市ヶ谷台の陸軍士官学校予科へ進み、
大正十二年 (1923年) 士官候補生として故郷の旭川歩兵第二十六聯隊に配属になる
同年秋 士官学校本科生となる。

大正十四年(1925年) 2月20日の日記
日記は
陸軍士官学校本科から隊附になるまでの一年半の間に書かれたものである。
煩悶はんもんと苦悩を積重ねながら
ひたすら自己の確立を求めていく苦悩の青春がある。

大正十三年に於ける自己は、自己に目覚めた。
そして悲しんだ。
内へ内へと向かって猛烈に突進した。
然し 力は弱かった。
歩を他に施した。
夫れも駄目。
目を四方に向けたときは、既に八方塞がれてあった。
無力を嘆いて遂にこの年を終えたのだ。
思想は目まぐるしい程変転して行く。
・・・大正十四年 (1925年) 一月三日の日記

正月から見始めた白村氏の 『 近代文学講 』を 今日見終わる。
人間になろうと努めていた。
学校で学ぶべきことを余所にして他に走っていた。
大いなる過まりとは言わねばならぬ。
人間となるには一生涯を通じた精進でなければ、不可能だ。
先ず 軍人となるのが刻下の急務だ。
人間の一部としての、一形式としての軍人になることが何より先に努むべき本分だ。
完全なる軍人となる事によって、
敢然なる人間となる事に努むるが至当の順序だろう。
本分に対する自覚が少なかった。
信念に乏しかった。
・・・大正十四年 (1925年) 一月十八日の日記

信(次) 兄に返事を今書いているうち筆は思わぬほうへ滑った。
『 思えば歓喜と希望とを失わずにとあせっているのが私の存在です。
淋しさがひた寄するとき・・・激戦の熱闘中に六・五ミリメートルの小銃弾一発で
肉体を離れる軍人の死程容易なものはないでしょう。
霊と肉との不一致---それが今の私の最も大きな苦悩の一つです。
それを忘れようとして私は今読書に耽っています。
それも心に委せない・・・』  こんなことを書き綴っていた。 兄は何と思うだろう 。
・・・大正十四年 (1925年) 三月一日の日記

天地を呑吐する気概と霊の神聖化二者を合して一とする。
これを以て俺の精進邁往の目標としよう。
肉体を諦あきらめるとき心苦しさに圧倒される。
肉を離して霊に生きよう。
余りに淋しき憂うつの霊だ。
而し 強く生きねばならない
・・・大正十四年 (1925年) 三月十八日の日記

噫、我この眇軀びょうく、爾の倭少なる何をか爲し得ん。
現戦の疲労に、続く憂うつは愈々深みゆくのみだ。
俺のこの陰惨な憂うつはこの肉体が亡びるに非ざれば滅することが出来ないものだ。
俺のこの心は肉体が更生するに非ずんば更新すること不可能だ。
カラーチェの弾奏した 『 倭人踊 』 お前は狂った様に踊っている。
お前は楽しいのか、でも時には俺の様に悲しくなることもあるのだろう。
五月一日から航空兵科なるものが出来た。
俺も転科しようか・・・。
・・・大正十四年 (1925年) 五月三日の日記

観兵の予行と校長宮殿下の訓示と午前中あり。
午後、用弁外出。
直ちに井本、菅波等六名と共に日本改造の闘将北一輝を千駄ヶ谷に訪ねる。
彼の軍隊観を質さんが為。
簡素な応接室の椅子の上に安座せし彼は隻眼の小丈夫。
『 日本の現在を如何に見ますか 』
と 反問を発したる後、
宗教、科学、哲学より悪に対する最後まで戦闘精神を説きて我等を酔はしむ。
其の熱と夫の力。
酒脱、豪放、識見、一々敬せざるを得ず。
『 諸君は我日本を改造進展せしむるに最も重大なる責任を有する位置に在ることを光栄とし、
今後大いに努力し給へ 』 。
・・大正十四年 (1925年) 七月二十二日の日記

『 国体論及純正社会主義 』 北一輝著
北は ここで
社会を日本の国体と合一させようとする論を試み

その諸言で
「 破邪は顕正に克つ 」 という日蓮的な言葉を使っている

「 吾人の挙は一に破邪顕正を以て表現すべし、
破邪は 即 顕正なり、
破邪顕正は常に不二一体にして事物の表裏なく、
国体破壊の元凶を誅戮して大義自ら明らかに、大義確立して、民心漸く正に帰す。
是れをこれ維新というべく、少なくとも維新の第一歩にして 且 其の根本なり、
討奸と維新と豈二ならんや 」 ・・・獄中手記 『 続丹心録 』
・・と、
元老、重臣らの中の天皇の大御心を妨げる元凶を取除くことが、
「 破邪顕正 」 で 昭和維新に通ずることである。

十二月十日に大正十四年兵を迎えて早くも五日、
若輩無経験を以て彼等に教官と称する。
省みて冷汗なる能わず。
身上調査をして其境遇の哀れなるに一掬いっきくの涙なき能わず。
其思想の正統なる善導せば必ずや立派な干城たり得べし、
我その才能ありや否や、只管 熱誠を以て彼等を導き二年在営の目的を、達成せしめんのみ。
・・・大正十四年 (1925年)  十二月十五日の日記

盟友菅波三郎兄より写真一葉に添えて 『 真個大日本帝国ノ建設ニ向ツテ精進死戦セン 』
との 語を寄せらる。
国を思うの丹心と其れに向ってする実行とに於て 我亦この盟兄に劣らじと期す。
然れども 悲しい哉。
我は先づ自我建設に向って精神努力せざるを得ず。
自己を知り 自我を養い 以て自己を嘆する声を消さざるべからず。
『 求苦邁進是男子 』。
道を遮る総ての者と戦って驀進ばくしんせんのみ。
以て 年頭の覚悟となす。
・・・大正十五年 (1926年 ) 年頭の日記
・・・平澤是曠 著  叛徒 から


青年村中孝次、二十二歳・・である


陸軍士官學校予科区隊長 ・ 村中孝次

2017年09月20日 17時01分16秒 | 村中孝次

  村中孝次  
昭和三年 ( 1928年 )、村中(25才) は中尉に進級し、陸軍士官学校予科区隊長となる。
区隊長は生徒訓育の中心で、人格、識見、指導力をもった者が選ばれる。
一区隊は 二十五人で編成される。
安田優、中島莞爾、高橋太郎は村中の教え子である。

安田 優少尉
は 憲兵調書で
「 旭川の原隊に帰っも村中氏とは家族同様の親交をして 今迄来たのでありますが
それ等終始交際して居る内に
村中氏は私情を投て凡て 君国に殉するの精神に甦って行動して居らるることに
非情に感奮したのです。
然し 一度も国家改造の事は村中氏より聞いたことは有りません。
但し 其の親交中の無言の内に愛国の士であることが判り 無言の感化共鳴し
全く此の愛国の至情には一つの疑念なく
凡てに於て 共に行動出来るものと確信したのであります 」
と 答えている

中島莞爾 少尉
は 憲兵調書で
「 村中氏とは予科の時は他の区隊長であったから種々の動作を見聞し
立派な人だと考えていました
即ち 武人的の人と考えていましたが その後 次第に親しくなって来て
私と同じ信念を持って居る人であるとし
先輩として敬して居りました 」
と 答えている

三岡健次郎氏
は 平成三年 ( 1991年 ) の夏、
六十年前の記憶を こう 語った
「 私が陸士の生徒のとき、
学校では毎日生徒に日記を書かせて区隊長に提出させていましたが、
ある日 私は村中さんに呼ばれました。
私は和歌山の貧農の子で
幼い時からその頃の日本の矛盾を何となく肌に沁みるように感じていました。
年を重ねるにつれて そのことが意識として形づくられるようになりましたが、
村中さんは日記に書いている私の考えを聞き
最後に
『 そりじゃ一体、今の日本をどうすればいいと思うか 』
と 言いました。
村中さんは静かに頷いていましたが
『 よし、お前の考えは分った。 しかし そりは自分の胸にだけしまっておけ。
他人には話すな。 ただ、俺に見せる日記にだけは本当のことを書け、
どんなことでもいい、お前の思っていることを正直に書け 』
と 言われました。
𠮟られるとばかり思っていた私は、茫然と村中さんを見返しました。
村中さんは 心底から敬服できる立派な方だと思いました。
和歌山で生まれた私が、なぜ北海道を原隊として選んだかというと、
村中さんに 『 北海道は俺の故郷だ。お前行ってみないか 』
と 言われたからです。
村中さんの言うことに素直に従っていけるほど信頼の出来る方でした。
陸士を良い成績で終えた多くの者が東京近在か、
自分の出身地の部隊を希望していたときですから、
私は変わり者としてみられたかもしれません 」

武藤与一氏
十一月二十日事件の陸軍士官候補生

「 私は貧乏農家の出ですが、将来軍人になって世に出ようとして陸士を志願したのです。
村中さんとの出会いは 予科へ入ってすぐ、
週番士官の村中さんから訓示を受けたときです。
『 お前らは将来軍人になって偉くなりたいと思っているかもしらんが、
陸軍士官学校はそんな人間をつくるところではない 』
と 言われたとき、
私はそれまでの自分の考えを恥ずかしく思いました。
それから私は 一人で村中さんのお宅を訪ねるようになりましたが、
村中さんは農村の疲弊に義憤を感じておられました。
だが、ともすれば過激なことを口走る私をたしなめるのは村中さんの方でした。
とにかく村中さんは温かく、静かに諄々と私たちを訓すという方でした。
二・二六事件に関わった何人かの人を知っていますが、
それぞれ信念をお持ちの方々ですけど、特に村中さんと安藤 ( 輝三 ) さんは
心底 敬服できる立派な人でした 」
と 追慕した。  ・・・リンク→候補生・武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」

・・・平澤是曠 著  叛徒 から


相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (一)

2017年09月15日 13時38分30秒 | 相澤三郎


相澤三郎

昭和十一年六月三十日

接見人
弁護士 角岡知良
同  菅原 裕
角岡
本日は誠に御気の毒な御報告を致さねばなりません。
残念乍ら上告は理由なしとして棄却されました。
私達も相当に人事を尽してやつた積りですが、学問の足らざる為か、
貴殿の御考へ通り充分に行かなかつたかもしれませんが悪しからず。
被告
色々と有難う御座いました。
私は両先生の御力に依りまして上告致し、
此の間に凡てをやらして戴きましたことは誠に何とも言ふ事の出来ぬ喜びを感じて居ります。
之は私が長い間 両先生に御世話になりました御礼の意味で申上げますが、
それは色々と考へたことで、今後御国を良くする案で御座います。
一、人生の意義を確立すること。
二、人生の目的統一と言ふこと。
三、尊皇絶対が人生生活の根源なること。
四、尊皇学の設定と之れが徹底を図ること。
五、日本の真の御先祖様は天の御中主大神なり、之を昭和大神宮とおたてすること。
六、官制を世界的に確立すること。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和十一年六月三十日
接見人  妻 相澤米子
被告
石原様に最後の手紙を出した。
又 此際告発は取下げる方が良いと思つて取下した。

そうですか。
此処で不要の物は皆 返して下さい。
書いたものや手紙等を。
被告
明日でも返すやうにするかなあ。

今日でも其準備をしたなら如何ですか。
被告
今日はやれない。

荒木閣下には手紙など出さない方が良いでせう。
今迄の事で大概 分つて居るでせうから。
被告
菅波でも外に居れば、荒木様と連絡を取れるがそれも不可なり。
最後にお前に言ふて置くが、
書いたもの 四、五冊ある。
其内私物に書いたものは持つていけるが、御上のものに書いた日記は持つて行かれぬ。
昭和維新の事に就て書いたものもある。

今日書いたものを返して呉れたら如何ですか。
被告
私の書いたものは百年でも二百年でも他人に見せてはいけないよ。
日本の神髄、人生の目的、昭和の大事業等世界を統一するに昭和維新が必要だ。
子供に今日半日掛つて手紙を書いた。
又寺には早晩お別れをせねばならぬ。
法名を頼む。
今度は極簡単 ( 葬儀意 ) にする故、来なくてもよいと手紙を出した。
明日来るとき 実印を持つて来い。
それから遺訓は書いてあるよ。

それは私に下さればよいのです。
それから遺言状は人の扱ひ様に依つては変るものですから、
あの人 ( 義弟を意味す ) は神様のやうな人とは思ひますが、
色々の事情でどうなるか解らないと思ひます。
被告
私はあの時 ( 事件当時か? 、第一審終結時か?) にと 思つたが、
やつぱり命の長き方が良かつた。

それは無論 長い方が良いでせう。
それから貴方の書いたものを見れば大変参考になると思ひますから取纏めて置いて下さい。
被告
遺言状は簡単に書くことにする。

私が勝手にやる様に書いて下さい。
被告
勝手でない。一任するのだ。

あの人 ( 義弟 ) 一人ならまだ良いのですが、近親者が相当付いて居るのですから。
被告
お前の思った通りにやればよいのだ。

明日 子供を連れて来させて下さい。
小四郎も一緒ではいけないですか。
被告
一緒でも良い。

小四郎様は貴方が何も頼まないと言ふて居ます。
被告
そうか 今度は何か頼んでやらうかな。

頼まないと言ふのは子供の事でも言ふのか解りませんよ。
十年位経つたなら子供を見てやると言つて居ますが、そんな事なら御断りします。
真に誠意があるなら今の内に見て呉れる筈です。
被告
家の事は面倒だなあ。

子供達はお父さんは呑気だと言つて居ます。
被告
私は万事お前に任せる故、何とも思つて居ないよ。
然し お前の苦労は大変だよ。

私より貴方の方が余程幸福です。
被告
俺は幸福だよ。
さあ何日になるか解らないが、子供達を連れて来た方が良い。

他人を相手にせず 一人でどしどしやる積りです。
他人から指図されるのが一番嫌です。
被告
もう時間だから帰れ。

子供丈は確つかり育てます。
それでは。
以上
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

遺言
一、第十二代 相澤三郎は、
第十三代を三郎長男正彦に御譲り致します。
父三郎は、
身命を達し、今茲に
陛下の御使として
神の御側に参ります。
御使の後は矢張り、陛下の赤子として、忠魂となりて万世相沢家にあつて、
陛下の御側に御仕へするのであります。
篤と御承知下さい。
二、正彦は予てより 父の訓に従ひ、臣節を全ふして下さい。
和以は三郎と一体であります。
御前の考へ通り凡てを処理奉仕せよ。
宣子、静子、道子も皆 正彦と同様父の訓を守り、忠義の臣として全して下さい。
和以とは米子のことなり。
昭和十一年七月二日
相澤三郎 ( 拇印 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和十一年七月二日
午後十時半、総てを了へました。
今から御前と話をします。
夫婦は二世と言ふが、お前とは万世だ。
これは神様の御仕になつて出来ました。
お前と私は最大の幸福ですよ。
私は明日は此の世の中の束縛から脱しまして、 「 ぢき 」 に お前のところに参りますよ。
お前の情に抱かれて此の度は一層の勇猛心を以てお前と一所に子供をそだてるばかりでなく、
立派に一層忠義を御尽し得ますよ。
早く帰りたい。
決して離れないから。
お前の信仰は誠にうれしい。
過去を考へるとおかしいねー。
そこで趾始末等は お前はやるもよいが、十分睡眠を例の通りやつて身体を元気にしないといけないよ。
勿論私の持つて居るはちきれ相な精神は、皆 お前に譲るから、
明日からは お前の大事な心臓は今度は非常に丈夫になるよ。
信仰よ、ほんとうだよ。
笑ふ顔が見えるねー。
そつき歌とか言はれたが、書きよーがないが、さー、なにか書こーか。
  まもるらし 此の三郎の魂は
  まもるそなたと千代よろづよに
  まごゝろによりて そうたるかえあつて
  仕へ果して 今かへるなり
もう午後十一時になりますよ。
  かぎりなき 思はそちの情にて
  たのしかるべき末の末まで
中々歌はむづかしいね。  木曜日。    三郎
和以様御許江
寝ますよ。
午前四時再読訂正しましたよ。
いまから墨をすつて又書きますよ。
三郎
 なつかしき
 和以様
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨晩は御馳走でありました。
有難く頂戴致しました。
どうぞ尊い善助様と一体となる奥様に、しつかり御仕へ下されと申上候。
さようなら
三日朝  三郎
渋川さんの奥様
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨晩は御馳走様でした。
有難く頂きました。しつかり御仕へして下さい。
三日朝  三郎
村中さんの奥様御許へ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三日朝
只今から御使して参ります。
相澤三郎
菅原先生
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御使してすぐ還つて参ります。
三郎
相澤正彦様
母上、姉上、妹によろしく。
午前四時半

二・二六事件秘録 (一)
死刑相澤三郎中佐に関する記録  から


相澤三郎 『 仕へはたして今かへるわれ 』 (二)

2017年09月14日 13時32分16秒 | 相澤三郎


相澤三郎

六月二十五日 ( 封書 )
宛名  参謀本部  石原莞爾

冠省。私考左に申上度御座候。
一、人生意義の確立 神を信仰。
二、人生目的の統一神への奉仕。
三、尊皇絶対が人生活動の根源。
四、尊皇学の無窮向上の創造確立、宗教、哲学、倫理、道徳、其他化学進化の根底、確立と実践。
五、天御中主大神を祭り奉る昭和大神宮を御造営遊ばさること。
六、御完成大祭と同時に、世界人類に宣布せらるる如き大詔御渙発を仰ぎ奉りたきこと。
七、世界人類に活動の根底を明に御示し下さるべき憲法、法律の御発動を仰ぎ奉りたきこと。
昭和の大業御完成に、世界人類のあらゆる叡智を絞つて翼賛し奉る如く、
殊に輔弼の重責にあらるる御方は、高邁こうまい絶大なる努力を捧ささげらるゝ如く、
即時強力決心なされ度く御進言をなし下され度く存候。
勿論一私見に過ぎざるものに御座候も、奉公の微衷のみに御座候間、御了承被下度奉悃願候。
拝具

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
渋川令夫人様へ
相澤三郎
六月三十日認む
誰にも見せないで下さい
一、
昨日二十九日、皆々様の写されました御姿によつて初めて御会ひ致すことが出来ました。
二、
大君の御為とは申しながら、渋川善助様の御事を想像し、
且つ 現に貴女様の御心境を思へ浮べる時は、実に残念であります。
実に悲しくあります。
唯々胸一ぱいな物があります。
三、
善助尊兄様には、拙生生前無二の親しき友でありました。
否私の此の世の中で第一尊敬し、なつかしい。
将来に希望を抱いて、
大君の御為め日夜念じて来たのでありまして、考ふれば唯涙であります。
挫折の悲惨は極であります。
偉大にして誠忠無二なる善助尊兄様を、最後まで、
尚死しても罪は転た一日も早く明くならるゝことを祈つて居ります。
四、
貴女様の今後の御方針には、一言も申し上げ兼ねます。
唯拙生の遺族は、子供等が成人する迄は現在の所に居られますから、
若し御郷里を常任とせられましても永久に姉妹として下さい。
五、
私は茲に最後をとげるのは勿体ないのでありますが、
霊魂は鷺の宮にありて一家を守り、
永久に大君の御為め、
善助尊兄と力を合せ、
皆様と一所になつて御奉公致します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六月三十日    相澤三郎
村中孝次尊兄様の奥様へ
一、
何の為めかわかりませんが、
賊と認められて茲に最後を遂げるに当りまして、
拙生、生前殊の外御世話になりました奥様に一言申上げます。
二、
今後 孝次様と同じ所に離れて居ります。
同じく大君の御為と志しましたが、
遂に私は一足先に自由脱落の身となつてしまいます。
然し私は鷺の宮にありて家を護り、悠久に大君の御為め御奉公致します。
三、
孝次様の御子様は、御伺ひすることが出来ませんが、
再び明い日が到来して喜々として、
大君の御為め御尽し遊ばさるゝ様になることを祈願致します。
四、
希は、奥様や御嬢様御一同御落胆なさるゝことなく、最後まで元気を出して、
御健康に御尊家を御護り遊ばさるゝ様御祈り申上げます。
五、
拙生の遺族は、事の外御世話になります。
子供等の成長する迄は今の処に住んで居ります。
どうか、悠久に姉妹としてやつて下さい。

二・二六事件秘録 (一)
死刑相澤三郎中佐に関する記録  から


「年寄りから、先ですよ」

2017年09月13日 09時57分17秒 | 相澤三郎


相澤三郎
« 「 年寄りから  先ですよ 」・・末松大尉の話 »

五 ・一五事件のとき相澤中佐は、
そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、中村中尉らをいさめ、
「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。

「 年寄りから先ですよ 」 は 前から相澤中佐の口癖であり信念だった。
私が満洲事変から帰って東京にでたとき、
相澤中佐は中耳炎で慶応病院に入院していたのが全快して退院するところだった。
澁川善助に案内されて私が病室をたずねたときは、
相澤中佐は後片付けも終わり、病院をでようとして、羽織袴姿になったところだったが、
そばにいた夫人が澁川に
「 いろいろとお世話に・・・・」 と 礼をいいかけると
「 そんな礼などいっても仕方ないよ。口の先きでいくらいっても追っつくことじゃない 」
と、むしろ苦りきって、夫人の口を抑えた
・・・リンク→相澤中佐の中耳炎さわぎ

相澤中佐は九死に一生の命を、東京の同志の献身によって助かったと思いこんだ。
これからの自分の命は、若い人たちからの預りものだと思いこんだ。
たしかに渋川などは 特に献身したであろうが、
このとき以来、
いよいよ 「 年寄りから  先ですよ  」
が 相澤中佐の堅い信念になった。

「 年寄りから  先ですよ  」
は 「 若いものは先立った年寄りにつづけ 」
ということではなかった。
「 神武不殺 」 とはいえ、
革新への突破孔を開くために、
どうしても犠牲が必要とすれば、
自分がそれになって、
愛すべき若い人々の散ろうとするのを防ごうとすることだった。


末松太平 著
私の昭和史 から


相澤中佐の中耳炎さわぎ

2017年09月12日 14時21分47秒 | 相澤三郎


相澤三郎

相澤中佐の中耳炎さわぎ
昭和八年十二月の異動で、相澤少佐は進級して、
秋田の十七聯隊から福山の四十一聯隊に転任していた。
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相澤中佐が上京して中耳炎にかかり、慶応病院に入院手術したのは、
ちょうど私が極東オリンピックの問題でいそがしく飛び回ってた三月ごろであった。
手術の結果は良好で、ときどき見舞に立ち寄ると、元気な顔で喜んでくれた。
満洲の荒野で転戦して幾多の偉勲をたてた末松太平中尉が二年数か月ぶりに凱旋して上京し、
相澤中佐を病床に見舞ってから間もなく、
相澤中佐は退院した。 ・・・リンク→ 「年寄りから、先ですよ」
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退院しても通院治療の必要があったので、
慶応病院に近かった私の千駄ヶ谷の家に転居することになった。
退院したとはいえ、まだ通院するくらいが関の山で、無理のできる体ではなかった。
相澤は毎日私が学校から帰って、その日の出来事を話すのを楽しみに待っていた。
だが、そんなある日、
わたしが学校から帰ってみると、相沢はいなかった。
「 相澤さんはどこに行ったんだ 」
「 午後三時ごろ行先をいわずに出て行かれました 」
「なぜ行先をきかなかった 」
「 ちょっとそこまで、といったもんですから散歩だろうと思って・・・・」
妻は大して気にかけていない様子であったが、私はいささか心配であった。
夕方から降り出した雨が、だいぶ大ぶりになった。
何回か玄関まで出てみたが、相沢の帰ってくる気配はなかった。
午後八時になっても帰ってこない。
私は帰ってきたらいっしょにと思って待った夕食を一人ですました。
ちょうどそのとき玄関で人の気配がした。
私が飛び出してみると、
ビッショリ濡れた相沢が、真っ青な顔をして ガタガタふるえながら、ぼんやり玄関に立っていた。
「 どうしたんですか、いまどき・・・・」
「・・・・」
相澤は、うつろな眼をして黙って立っているのみであった。
私は、これはいかんと思った。
妻に床を敷くよう命じて、私は相澤をかつぐようにして二階に運んだ。
体温を計ってみると、四十一度を上回る高熱であった。
私は、さっそく慶応病院に電話して再入院の手続きをし、澁川善助に応援を頼んだ。
帰ってきたら ウンと叱ってやろうと思っていたのに、もうそれどころではなかった。
相澤は気息奄々として前後不覚に陥っていた。
知らせに応じて、西田が不在であったため夫人がすぐきてくれた。
応急の処置としてはただ頭を水で冷やすだけで、どうすることもできなかった。
澁川がきて、二人で病院にかつぎ込んだのは午後十一時少し前であった。
さいわいなことに、そのころ雨はやんでいた。
病院では準備万端ととのえて待っていたので、病室に運び込んでさっそく治療にとりかかった。

病院に着いたころから、相澤は正常ではなかった。
大きな声で うわごとがはじまった。
『 天皇陛下万歳 』 と 叫ぶかと思うと
『 君が代 』 が 音痴な声で歌われるという始末であった。
医師は中耳炎の手術あとが丹毒におかされていると診断した。
そういわれてみると、左耳のうしろが真っ赤になっている。
さっそく太陽灯を看護婦があてはじめた。
相澤はその太陽灯を右手でつかんで、
部屋の隅に向かって投げつけてこわしてしまった。
医師が薬を飲ませようとしても、
「 こんな西洋医学では駄目だ 」
といって、散薬を吹きとばして飲もうとしない。
「 相澤さん 駄目ですよ、薬は飲んで下さいよ 」
私は相澤の耳に口を寄せて、大きな声で叫んだ。
相澤はかすかに眼を開けた。
「 大蔵さんか、薬は飲まなきゃいかんか 」
「 いかんですよ、飲んで早く癒って下さい 」
「 そうか、やっぱり飲んだ方がいいか」
相澤は、しぶしぶではあったが素直に飲んだ。
たまには正気にかえることもあったが、相澤のうわごとは一晩中つづいた。
あまりにそのうわごとの声が大きかったので、
近くの病室の危篤の患者がいて、静かにならんだろうかという文句が出て、
私と澁川はお詫びに回るという始末であった。

朝になっても相澤は、全然医師のいうことをきかなかった。
それでも澁川か私がいうと素直にきいてくれた。
「 大蔵さん、私らではだめですから、お勤めはあると思いますが、なんとかしてついて看病してくれませんか 」
「 承知しました 」
私は学校に電話して事情を話し、二、三日学校を休むことにした。
急をきいて、相澤夫人が福山から上京してきた。

三日目になると、私のいうことも渋川のいうことも全くきかなくなった。
薬も受け付けず 手当もできず、もちろん食餌もとらなかったので、
相澤のからだはみるみるうちに衰弱して、ついには危篤状態にはいった。
正午ごろ、
浜之上俊秋少佐( 陸士二十四期 ) が 相澤の急変を心配してかけつけてきた。
浜之上は相澤と奥さん兄弟で、浜之上夫人は相澤夫人の妹という間柄である。
そのころは早稲田大学の配属将校であった。
「 大蔵君、君は石田霊光という男を知らんかね 」
浜之上少佐がいった。
「 さァ・・・・きいたような気もしますが 」
私は、小首をかしげた。
「 すぐれた祈祷師ということだが・・・・」
「 あ、あ、思い出しました。 千葉の歩兵学校で有名だった兵隊さんでしょう 」
「 そうなんだ、どうだお願いしてみようか 」
「 そうですな、やってみましょう 」
ワラでもつかみたい気持ちでいた私は、二つ返事で同意した。

石田は、
かつて大阪の八聯隊から歩兵学校の教導隊に派遣されていた上等兵であった。
子供のころから霊的能力が豊かであったのに、
修練を重ねてそのころは相当な霊力をそなえるに至っていた。
歩兵学校に派遣されてからは、その能力をひたかくしにかくしていた。
ある日、演習から帰って解散するとき、
石田が特務曹長に近づいていった。
「 特務曹長殿、すぐお宅にお帰り下さい。坊ちゃんが大けがをしています 」
「 ふざけるでないよ、縁起でもない 」
特務曹長は最初冗談と思い、次に悪ふざけとみて怒ったけれど、
石田上等兵の態度があまりに真剣だったので、
一度は怒ったものの少々薄気味悪くなって、いそいで家に帰った。
帰ってみると、果して石田上等兵のいった通りであった。
そのことがあって、石田の 『 ものあて 』 は 一躍有名になった。
こんな話もある。
ある若い参謀が石田の霊力の話をきいて、
ひやかし半分に石田の属する班内を訪れた。
「 この班内に よくものを当てる兵がいるときいたが、どいつだ 」
参謀は傲慢であった。
他の兵に教えられて、その参謀は石田のところへいった。
「 おまえか、よく当てるというのは、ほんとうに当るか・・・・? 」
石田はしばらく黙っていたが、はっきりいい放った。
「 参謀殿は昨夜、軍人として、はずべき行為をしています。
よろしかったらいまここで公表いたしましょうか 」
若い参謀は一瞬青くなった。
そしてコソコソと帰っていった。

霊験あらたか、元上等兵の祈祷
石田は満期除隊後、
東京麻布の霊南坂上のある屋敷の庭内に庵いおりを結んで、
世のため 人のため 祈りの生活にはいっていた。
浜之上少佐と私が、その庵に石田霊光をたずねたのは午後二時ごろであった。
門をはいって庵まで足を運ぶとき、八重桜がきれいに咲き誇っていたのが、
いまでも鮮烈な印象として残っているので、
多分四月の終りか 五月の初めごろであったであろう。
玄関にはいると、たたきに女ものの下駄、ぞうりが三、四足ぬいであった。
中にはいると果して、きれいどころが三、四人先客として順番を待っていた。
浜之上も私も軍服であったので、なんとなしに妙なコントラストであった。
彼女らは恋の占いか、うせものの透視か、私の脳裡をチラッとかすめるものがあった。
私はワラをもつかむ気持ちでくるにはきたものの、
夜の街頭のくらがりに背をまるめた大道易者のうらぶれた姿と石田の姿とが重り合って、
相澤中佐に申しわけない気持ちになっていた。
やがて順番が回ってきて、私らの招じ入れられた部屋は八畳ぐらいの簡素な部屋であった。
まん中に大きな白木の机がおいてあった。
待つ間もなく 一人の男がはいってきた。
石田霊光であった。
額の広い、見るからに凛々しい美丈夫であった。
相澤中佐に申しわけないと思った気持はいっぺんにふつとんだ。
「 おたずねしたい方のお名前と生年月日を書いて下さい 」
彼は正面にすわると、すぐにたずねた。
あいさつをするひまもあったものではなかった。
私は机の上においてあった紙きれに、相澤の姓名と生年月日を書いて黙って渡した。
彼はその紙を受取ると、間髪をいれずに左手を左の耳のうしろにあてたまま、
何のよどみもなくベラベラとしゃべり出した。
「 この方は非常に気性の強い方ですね。 しかもご立派な方です。
 数年まえお子様をなくしました。そのときに受けた心の痛手で、その方はここの迷走神経を侵されています。
 ( 彼は左耳のうしろにあてていた左手を一、二度軽くたたいた。 相澤中佐の侵された中耳炎は左の耳であった )
その侵された迷走神経の悪影響がいま何かのために出てきて、とても重症となっています。
いままでこの方のおられた家の東南方に穴が掘ってあります。その穴をよく清めてやって下さい 」
「 相澤さんのおられた部屋は私の家ですが、東南の方角には掘られた穴はありません 」
私は、ここで抗議的発言をした。
「 そうですか。それなら結構です。もしあったら清めて下さい 」
「 わかりました 」
「 この方の写真はお持ちではないでしょうか 」
私はそういうことがあるのを予想していたので、相澤の写真を持参していた。
「 お預かりしてよろしいでしょうか 」
「 けっこうです 」
「 私は今晩から 『 念 』 を通じようと思います。
もし 効果があるとすれば、午前一時ごろに何らかの変化が起こるでしょう。
何も変化が起こらなかったら、明晩の午前一時ごろを注意して下さい。
今晩も明晩も変化がなかったらあきらめて下さい。
このかたの場合はなかなかの重症ですから、あるいは効果が現れないかも知れません 」
いい終ると彼は、写真を持ってサッサと部屋を出て行った。
石田霊光の霊力に万が一の期待をかけながら病院に帰ったのは、
午後四時ごろであった。
病院での愁眉しゅうびはいよいよ濃くなっていた。
医師は手のほどこしようがないといって、全くサジを投げた。
「 近しい方々に電報を打って下さい 」
と、いいのこして医師は去って行った。
連日連夜の疲れが一度にどっと出て来た私は、しばなくの仮眠をとるために家に帰ることにした。
家に帰った私は、二階に床を敷くことを命じ、廊下に出て大きく背伸びをした。
この部屋は三日前まで相澤中佐の寝起きしていた部屋である。
私は、大きく背伸びしながら見るともなく左の方を見た。
そこには鳩森神社の境内があった。
ひょっと気がつくと境内の一隅に、一間四方の大きさの穴が掘ってあって、沢山なごみが捨ててあった。
方向をはかってみると正に東南方だ。
私は台所に跳び込んで、一握りの塩をつかんで、下駄をつっかけて走った。
「 はらえたまえきよえたまえ 」
口の中でとなえながら、私は塩を穴の中にばらまいた。
このことがあって私は、今晩の午前一時に現われるという霊光の念力に、大きな希望をつないだ。
目がさめたときはすでに七時ごろで、夕やみのせまるころであった。
感嘆に夕食をすまして病院にかけつけた。
相澤の病状は依然として悪かった。
私と澁川と夫人は相澤の病床で病状を見守りながら、午前一時が待ち遠しかった。
「 奥さん、だれかお呼びする人はありませんか 」
私は、沈み勝ちの空気が耐えられなかった。
「 別に東京では・・・・」
相澤夫人は、ないというそぶりをした。
「眞崎大将にきてもらいましょうか 」
「 もしできましたら・・・・、相澤も喜ぶでしょう 」
午後十時少しまえであったが、私は思い切って真崎大将に電話した。
「 よし、すぐいく 」
と、眞崎は承知してくれた。
大将の軍服姿が病室に現われたのは、夜の十時半ごろであった。
眞崎大将が相澤に声をかけたが、無意識状態をつづけている相澤には、なんの反響もなかった。
「 あとをよろしく頼んだぞ 」
と、悲痛な顔で眞崎が帰って行ったのは十一時少し前であった。

待ちに待った午前一時がきた。
だが、相澤にはなんの変化も現れなかった。
私達は今夜はだめだ、
万が一の期待は明夜にかけなければならないだろうと話し合っているときであった。
相澤がかすかに目を開いた。
午前一時を五分すぎていた。
「 西瓜がたべたい 」
小さな声であったが、相澤の訴える声を私はききのがさなかった。
「 西瓜はすぐ買ってきますから待って下さい。
その前に食餌と薬をのんで下さい 」
私が頼んでみたら相沢はうなずいた。
私と澁川は、あとを夫人にたのんで病院を飛び出した。
円タクをひろって まず新宿の 『 高野 』 を叩いた。
すでに店をしめていたけれども、すぐに起きてくれた。
「 西瓜はありませんか 」
「 西瓜ですか、ありませんね 」
温泉栽培の発達した今日と違って、時期はずれの五月に、当時西瓜のあろうはずはなかった。
しかし私達はあきらめなかった。
「 銀座の千疋屋だ 」
再び円タクをひろって銀座に向かった。
千疋屋もすでに店をしめていたが、無駄とは思いながら起きてもらった。
西瓜はないがメロンならあるという。
メロンを持って病院に帰ったときは午前三時を過ぎていた。
奥さんがすばやく切ってさし出すメロンを、
相澤は、 「 うまい、うまい 」 と 喜んで食べた。
薬も お粥も少々ではあるが口に入れたそうだ。
私の両眼には涙がにじみ出ていた。
だが夜のあけるころから、相澤の病状は再びもとにかえって、薬も食餌もとろうとはしなかった。
私たちは、メロンも食餌も薬もすべてを準備して、
次の日の午前一時を待った。
次の日の午前一時になると、相澤はまた昨夜と同じように喜んで薬ものみ、お粥をすすり、
メロンを食べた。
こうして相澤の病気は、薄紙をはぐように快方に向かった。
・・・大蔵栄一 著 二・二六事件への挽歌 から


「 赤ん坊といえども陛下の赤子です 」

2017年09月11日 12時53分39秒 | 相澤三郎


相澤三郎

にわか雨に会った私は、

北一輝の家にかけこんだ。
大久保の駅に近かった北の家は、雨やどりするにはかっこうのものであった。
それは六月 ( 昭和八年 ) も 半ばを過ぎた或る日のことであった。
応接間では北と相沢少佐とが酒盛りの最中で、
相澤はすでにだいぶごきげんであった。
それは私が相澤を秋田に訪ねてからいくばくも経っていないころであった。
「 相澤さんに酒がはいって―山科の由良さんがアーコリャコリャ酒のきげんで・・・・、
と 歌い出したときは、いちばんごきげんのいいときですよ 」
と かつて、大岸に聞いたことがあったが、
その歌を相澤が音痴もいいとこ、大きな声で歌っているところであった。
それにしても いまごろ相澤少佐の上京とは、何のためか私には想像がつかなかった。
「 少佐殿、しばらくでした。その節は有難うございました 」
私は、先日の秋田訪問のお礼を申し上げた。
「 きょうはまた何で・・・・・」
私が この質問をしたとき、
相澤は今までの愉快そうな態度から、一瞬厳しい形相に変わって、急いで脱ぎ捨ててあった軍服を着て、
ソファーから滑り落ちるようにジュウタンの上にすわった。
「 まことに申しわけないことをしました。
このたびの私のいたらなさから、赤ん坊を殺しました。
赤ん坊といえども陛下の赤子です。
なんともお詫びの申し上げようもありません。
どうかお許し下さい。
これからは、赤ん坊と二人分働きます 」
相澤は、両手をジュウタンの上についた。
私は、ただ茫然とするのみであった。
「 そのお骨を仙台の墓所に納めに行く途中で、東京に下車したわけです。
 大蔵さんに会えてよかった 」。
相澤はいい終わると上衣を脱ぎ、ソファーに腰を掛けて、またもとの愉快な表情に返った。
いまのいままで、
あの厳しい形相であった相澤の姿の中には、もはやその片鱗すらなかった。


大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌  から


「 大蔵さん、あなたは何ということをいわれますか 」

2017年09月10日 13時02分17秒 | 相澤三郎


相澤三郎

ある夜、
私が西田の家に行ってみると、ちょうど相澤中佐が来合わせていた。
村中も栗原もいっしょであった。
その夜はだいぶ暑かったので、冷たいものを飲みながら雑談にふけっていた。

雑談はいつか宮中における天皇周辺の人物論が話題になっていた。
明治天皇時代、西郷隆盛や山岡鉄舟などの得難き諍臣 そうしんによって王道が堅持されたのに比べて、
いまの佞臣だけが跋扈ばっこして暗澹たる妖雲となっている。
日本の不幸はすべてここに起因しているといわねばならぬ、
というような話が熱をおびていたときであった。

「 相澤さんみたような人が侍従武官にならんとどうにもならんな 」
と、私がいった。
とたんに相澤中佐の目がひかり、威儀が正された。
「 大蔵さん、 あなたは何ということをいわれますか、慎みなさい。 そんなことを私議すべきではありません。
 二度と口にすべきではありません」

一座はしーんとなった。
私はこのときのような相澤中佐のはげしい怒りのまなざしをまだ見たことがなかった。
私が相澤中佐にたしなめられたのは、あとにもさきにもこれが初めてで終わりであった。
相澤中佐は私の言葉を冗談ととったらしいが、私としてはあくまで本気でいったので、 決して悪いこととは思わなかった。
しかし私は相澤中佐のその一喝にふるえ上がった。


大蔵栄一  著 
二・二六事件への挽歌 から


大岸頼好の士官学校綱領批判

2017年09月04日 08時30分57秒 | 大岸頼好


大岸頼好

土曜から日曜にかけて、
大岸頼好が和歌山から上京してきた。
このころの大岸の上京っぷりは、旅装を解くとか宿泊するとかというよりも、
飄然ひょうぜんときて草鞋わらじを脱ぐといった方が、ピッタリするようであった。
今度の上京の目的は、やはり上部工作であったようだ。
「 士官学校の綱領を、あなたはどう思いますか 」 ・・< 註 >
大岸は、夜遅く帰って 一杯傾けながら、例によってとっぴょうしもないことを言い出した。
「 そんなのあるんですか、見たことも聞いたこともあれませんですね 」
「 ありますとも・・・・・・その 綱領の中に  
 『 皇室の殊遇を 辱かたじけのうするが故に忠誠を励まねばならぬ 』
という意味のことが書いてあります 」
「条件付き忠誠ですね 」
「 そうです。へたをするとこれが明哲保身、事なかれ主義に堕していきます。
また、これが、エリート意識を助長して、軍の横暴が頭をもたげてくるようになります。
そういう悪風がちかごろの軍の中に見えてきているように思いませんか、
あなたはどう思いますか 」
「 全く同感です 」
「 教育総監閣下は、あるいはまだこのことにお気付きではないかもしらません。
どうです、士官学校の綱領改正意見として、あなたから持ち出してみては・・・・。
第一師団長柳川閣下も、申し上げれば わかってもらえるかただと思います 」
「さっそく、やってみます 」
大岸は ときどき ナゾめいたことをいう。
今夜もまた、
相当なパンチを私はきかされた。


大蔵栄一 著 

二・二六事件への挽歌 から
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< 註 >

『 陸軍士官学校教育綱領 』  昭和七年 ( 1932年 ) 改正
・・・冒頭の部分、抜粋・・・
陸軍士官学校教育ノ目的ハ、帝国陸軍ノ将校ト為ルベキ者ヲ養成スルニアリ
抑々将校ハ、軍隊ノ楨幹ノ軍人精神及軍紀ノ本源ニシテ、マタ一国元気ノ枢軸タリ
故ニ、本校ニ於テハ、特ニ左ノ件ニ留意シテ教育スルヲ要ス
一、尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト
二、軍人タルノ思想ト元気トヲ養成スルコト
三、健全ナル身体ヲ養成スルコト
四、文化ニ資スルノ知識ヲ養成スルコト
以上示ス所ハ、実ニ本校教育ノ要綱ナリ
教育ノ任ニ当ル者ハ、奮励其ノ力を竭つくシ、至誠其ノ身ヲ致シ、教授訓育、両部、
互ニ相連絡シテ一体ト成リ、以テ教育ノ完成ヲ期スベシ
・・・後略・・・


大岸頼好起案 『 皇政維新法案大綱 』

2017年09月03日 07時41分27秒 | 大岸頼好


大岸頼好 
『 皇政維新法案大綱 』 から 『 皇国維新法案 』 に至る経緯
昭和六年 ( 1931年 ) 
9月頃  大岸頼好、『 皇政維新法案大綱 』 を 作成
昭和七年 ( 1932年 ) 1月頃  鳴海才八、『 皇政維新法案大綱 』 を 参照して、『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 を作成
昭和八年 ( 1933年 ) 5、6月頃  澁川善助、菅波三郎、「 在満決行計画大綱 」 を作成
同年か翌年に 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 と 「 在満決行計画大綱 」 は結びつけらる
昭和九年 ( 1934年 ) 頃  『 皇国維新法案 』 を作成
・・・大岸頼好 皇国維新法案


橋本徹馬著  天皇と叛乱将校

特別資料篇
皇政維新法案大綱


緒言
今ヤ世界ハ全人類ヲ擧ゲテ不幸ノ窮底ニ沈淪シツツアリ、
此ノ不幸ヲ轉ジ人類ノ將來ヲシテ光明アラシムベキ使命ハ實ニ人類進化過程ニ於ケル唯一ノ
軌範的發展的存在タル我皇國日本ニ厳粛ニ賦課セラレタル使命ナリ。
然ルニ内憂外患ノ駢臻へいそうニ悩メル當代日本ガ果シテ此ノ使命ニ値シ得ルヤ判決ハ自ラ明カナリ。
曰ク  否
故ニ皇國ハ皇國自ラノ指導原理ニ拠ル徹底的維新ヲ斷行シ
先ヅ 自ラノ軌範ヲ開展シ以テ之ヲ世界人類ニ擴充宣布スルヲ要ス。
即チ 近キ將來ニ於テ現在行キ詰リ乃至ハ
誤レル方向ヲ辿リツツアル資本家主義乃至共産党獨裁國家ノ全機構ヲ革命シ
被壓迫人類ニ加エラレタル鐵鎖ノ桎梏しっこくヲ解除シ
其ノ自立ヲ支援シ以テ我皇國ノ軌範的生活ニ則ラシメ其ノ自榮ヲ完成セシメザルベカラズ。
而シテ此ノ崇高ナル使命ノ遂行途上ニ横ハル障碍ヲ斷除シテ
其ノ目的達成ニ欠クベカラザルモノハ
實ニ絶大ノ威力ヲ有スル軍隊ナルコトヲ認識セザルベカラズ。
是皇國ノ徹底維新ト共ニ 徹底セル國家總動員ノ必須不可欠ナル所以ナリ。
然リ而シテ 皇國自ラノ指導原理ニ拠ル徹底維新及之ト兼該實施セラルベキ國家總動員トハ
實ニ尊皇愛國ノ情理ニ徹底ラル所謂地涌菩薩的日本人ノ  上御一人ニノミ連結セラレタル
徹魂ニ依リ遂行セラルベシ。
約シテ曰ク。
一切ヲ擧ゲテ  上御一人ヘ  一切ヲ擧ゲテ國家總動員ヘ
皇紀二千五百九十一年 ( 昭和六年 ) 九月一日

皇政維新法案大綱
第一章  通則
フアツシヨ亜流及共産党ニ依ル独裁ヘノ各運動ヲ克服轉歸セシメ以テ
天皇御親政ヲ翼賛確立スルコトニ依リ維新日本ヲ建設スル
第二章  皇政維新ノ眼目
政治、經濟、社会、思想、教育、外交、國防等各部門ニ於テ國體原理ニ基ク徹底更建ヲ斷行ス
第三章  準備作業
其一
満蒙問題、軍縮問題ヲ輕機トシ國防乃至國家總動員法ニ關スル輿論ヲ喚起激成セシムルト共ニ
鞏固ナル圖根点ニ拠ル經營細胞ヲ組織結成ス
其の指導要領順序左ノ如シ
( イ )  軍民一致満蒙經營
( ロ )  一切ヲ擧ゲテ  天皇ヘ
( ハ )  一切ヲ擧ゲテ國家總動員ヘ
其ノ二
満蒙ニ於ケル軍事的占拠ノ擴充ヲ決行シ満蒙經營ノ主眼左ノ如シ
( イ )  内
鮮人口処理  満蒙ニ対スル農工商等ノ集團移民ヲ國營ス

( ロ )  國家總動員資源ノ取得  國營乃至國管下ノ民營制ニ依リ國總資源ヲ満蒙ニ需ム
其三  (ナシ)
其四
満蒙經營ヲ軍民一致ヲ以テ一貫不動ニ主張シ之ヲ槓桿こうかんトシテ
國内政權財權ノ所在轉動ヲ策シツツ改造進入ス
其五
不當存在ノ中樞處分ヲ準備ス
其六
陸海軍ヲシテ戒嚴準備ノ姿勢ニ置ク
第四章  維新ノ諸動
其一
好機ニ投ジ不當存在ノ中樞ヲ處分ス
其二
大命降下
第五章  維新ノ發程
其一
天皇大権ノ發動ニ依リ一切ノ政黨ヲ禁止ス
其二
天皇大權ノ發動ニ依リ既成言論機關ヲ閉止ス
其三
天皇大權ノ發動ニ依り全國ニ戒嚴令ヲ布ク
其四
天皇大權ノ發動ニ依り憲法ヲ停止ス
其五
天皇大權ノ發動ニ依り兩院ヲ解散ス
第六章  維新發程直後処理
其一
天皇大權ノ發動ニ依り樞密顧問官 其ノ他ノ官吏ヲ罷免ス
其二
天皇大權ノ發動ニ依り宮中ヲ一新シ天皇ヲ輔佐スル顧問院ヲ設ク
其三
天皇大權ノ發動ニ依り國家改造内閣ヲ任命セラル、
内閣ハ  天皇ノ宣布セル國家改造ノ根本方針ニ則リ改造ノ諸務ヲ執行ス
其四
天皇大權ノ發動ニ依り華族制度ヲ廢止ス
其五
天皇大權ノ發動ニ依り不用諸法律ヲ廢止ス
〔 註 〕  國家改造間ノ國際關係ハ衝平ノ理ヲ活用シ努メテ外端ヲ避ケ以テ國家改造ニ支障ナカラシム
第七章  皇政維新ノ第一期
此ノ期間ニ於テ第二期以降ノ更建ノ基礎ヲ確立ス
其一
天皇ハ各地方長官ヲ一律ニ罷免シ國家改造知事ヲ任命シ内閣直属ノ機關トナス
其二
天皇ハ在郷軍人團ヲ以テ改造内閣ニ直属シタル機關トナシ
國家改造中ノ秩序ノ維持及下掲諸務ノ執行ニ當ラシム
在郷軍人團ハ各地區ニ於ケル全在郷軍人等普通ノ互選ヲ以テ在郷軍人團會議ヲ構成シ
任務遂行ノ常設機關トナス
必要ナル官庁團體ヲ以テ協力支援セラルヽハ勿論ナリ
其三
天皇ハ皇室所有ノ土地、山林、株券等ヲ國榮ニ下附シ
第二期以降ノ處分ニ於ケル範ヲ垂レ給フ

第八章  皇政維新第二期
此ノ期間ニ於テ經營部門ニ処理ヲ行ヒ將來ノ基礎ヲ確立ス
其一  通則
1  天皇ハ國民ニ對シ原則トシテ一切ノ私有ヲ禁止ス
2  大資本家ニヨル國家統一ノ經營ヲ實現ス
其二  私有財産處分
1  天皇ハ日本國民一家ノ財産私的所有ノ限度ヲ定メ 限度内ノ所有ヲ時宜的ニ認可ス
2  財産私的所有限度以上ノ超過額ハ凡テ無償で上納セシム
3  在郷軍人團ハ各地方ニ於ケル財産私的所有限度超過者ヲ調査シ其徴集ニ當ル
4  上納セル財産ハ下掲國家ノ統一使用ニ供ス
其三  土地處分
1  天皇ハ日本國民一家ノ土地私的所有ノ限度ヲ定メ 限度以内ノ所有ヲ時宜的ニ認可ス
2  私的所有限度ヲ超過セル土地ハ凡テ無償ヲ以テ上納セシム
3  在郷軍人團會議ハ在郷軍人團ノ監視下ニ於テ私的所有限度超過者ノ土地徴集ニ當ル
4  天皇ハ農耕地ノ大部分ヲ農村民ニ對シ村落自治體單位ニ交附シ
    各村落自治體ヲシテ國家ノ管理下ニ努メテ協力耕作セシム
5  大森林又ハ大資本ヲ要スベキ開墾地又ハ大農法ヲ利トスル土地ハ總テ國營トス
6  都市ニ於ケル宅地ハ國營ヲ原則トシ別ニ此ノ原則ニ基ク國管下ノ民營制ヲ採用ス
    即チ 漸ク以テ努メテ都市自治體ノ經營ニ移ス
〔 註 〕  農耕地ニ關スル禁制
 (1)  農地以外ノ農耕地所有ヲ禁止ス
 (2)  土地ハ賣買其他ノ方法ニ依リ私有間ニ於ケル保管轉換ヲ禁ズ
 (3)  所有者ハ必ラズ耕作ノ義務ヲ有ス ( 然ル時 農家一戸ノ私的所有限度ハ二町歩内外ヲ出デザルベシ)
 (4)  土地ハ水田、畑地、宅地以外ノ他ノ目的ニ使用スルヲ許サズ
其四  資本處分
1  天皇ハ資本ノ私有ヲ禁止ス
2  私有資本ハ凡テ無償ヲ以テ上納セシム
3  國家ノ管理下ニ於テ其ノ限度ノ私的生産業ヲ認可ス
4  資本徴集機關ハ在郷軍人團會議ナルコト前掲ノ如シ
5  徴集セル資本ハ國家ノ統一使用に供ス
其五  其ノ他ノ處分原則
1  天皇ハ私人間ノ金利受授ヲ禁止ス
2  農村ニハ工業都市的設備ヲ加ヘ都市ニハ農園ヲ附属セシメ 萬人勤労心身交替主義ヲ實践ス
3  改造後ニ於テ生キベキ限度外財産ハ凡テ不斷上納制を以テ処理ス
4  産業及住宅ハ國營ヲ原則トシ別ニ此ノ原則ニ基ク國家管理下ノ民營制ヲ採用ス
5  國家ノ生産的機構左ノ如シ
銀行省
各種銀行ヨリ徴集セル資本及私的所有限度ヲ超過セル者ヨリ徴集セル財産ヲ以テ資本トナシ
海外發達ニ於テ豊富ナル資本ト統一的活動、他ノ生産的各省ヘノ貸附限度内に於ル
私的生産者ヘノ貸付、通貨ト物価トノ合理的調整上絶対安全ヲ保證スル國民預金等
航海省
限度内私的生産業者ヲ除ク全徴集船舶資本ヲ以テ遠洋航路ヲ主トシ、
海上ノ優勝ヲ占ム 又 艦船建造ニ関スル經營ヲ行フ等
鉱業省
限度内私的生産業者ヲ除ク各大鉱山ヲ經營ス
銀行省ノ投資ニ伴フ海外工業ノ經營、新領土取得ノ時
私的 ( 限度内 ) 鉱業ト併行シテ國有鉱山ノ積極的經營等
農業省
國有地ノ經營、自治體單位ニ交附セル全農耕地及其ノ經營ノ監督、
臺灣製糖及森林ノ經營、臺灣、北海道、樺太、朝鮮ノ開墾又ハ大農法ノ耕地ヲ繼承セル時ノ經營
工業省
徴集セル各種工業ヲ調整シ大工業組織ヲ完備シ外國ト比肩シ得ルニ到ラシム限度内私的工業ノ監督
及其企及シ得ザル工業ノ經營 陸海軍各種製鉄所兵工廠等ノ移管經營等
商業省
國家生産又ハ私的生産ニ依ル一切ノ農業的工業的貨物ヲ按配シ國内物資ノ調節ヲナシ
海外貿易ニ於ケル積極的活動ヲナス
此ノ目的ノ爲メニ關税ハ凡テ此ノ省ノ計算ニ依リテ内閣ニ提出ス
交通省
現在ノ鐵道省ヲ繼承シ全鐵道ノ統一經營、將來新領土ノ鐵道ヲ繼承シ更ニ敷設經營ノ積極的活動ヲナス
私的限度内生産業トシテノ支線鐵道ヲ監督ス
其他 國營ノ交通機ヲ經營シ自治體及私的生産業者ノ交通機ヲ監督ス
國庫収入
生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆ド皆 消費的各省及國民ノ生活保障、發展ニ支出スルコトヲ得、
生産的各省ハ私的生産業者ト同様ニ課税セラル
勞働省
内閣ニ之ヲ設ケ國家生産及私的 ( 限度内 ) 生産業者ニ雇傭セレルル一切ノ勞働者ノ權利ヲ保護ス
〔 註 〕
 (1)  生産的各省ハ固ヨリ消費的各省又國家總動員省ト密接ニ聯繋セラルルヲ要ス
 (2)  各省統督事項中 自治體 ( 下掲 ) ニ移管スルヲ適當トスル事項ハ漸ク以テ自治體ノ管掌ニ移ス
第九章  人口處理
内鮮共各戸ノ次・参男、次・参女等及商業國營ヲ原則トシテ實施スル結果生ズベキ商業從事者等ハ
之ヲ集團シテ満蒙ニ移住セシム。
將來ニ於ケル人口處理及新領土ノ開拓及民族同化ハ此ノ原則ノ擴充ニ依ル
第十章  税制
天皇ハ公賦効果ヲ通シ三公七民乃至四公六民ノ定率ヲ以テ税制ノ標準トナス
基本的租税ヲ除ク各種惡税ヲ廢止ス
〔 註 〕
税制ノ詳細ニ關シテハ我旧制 ( 大化以後 ) ト現時ノ情勢トヲ較量檢討スルヲ要ス
第十一章  皇政維新第三期
前記ヲ承ケ國家ノ内容ヲ充實発展セシムル企圖ノ下ニ
自治體ヲ上部構造トスル家族單位ノ國家ヲ確立スル
自治制ニ關スル要項左の如シ
其一  農村自治
其村内各戸ノ代表者ヲ以テスル平等普通ノ互選ニ依リ、
才幹特操アル自治體代表者若干名ヲ推擧シ以テ自治會ヲ構成シ左記ノ權能ヲ使用スルニ至ラシム
1  村内治安ノ管掌權
2  村民ノ衣食住物質ニ關スル處理權
3  村内ノ防衛、衛生及戸口ノ管掌權
4  村財産及經費ノ處理權
5  他町村トノ交渉劔及交通權等ニ関スル交渉權
6  教育機關ニ對スル監督權
7  村民ノ葛藤ニ關スル仲裁權
8  村内住民ノ營業ニ關スル管掌權
9  工業都市的施設及運用
其二  都市自治
農村自治ニ準ズ
其三  工業自治
概シテ農村自治ニ準ズベキモ尚左ノ如シ
1  住宅ノ設定
2  食糧ノ常備
3  職業の保證
4  戸口ノ掌理
5  衛生機關ノ設備及管掌
6  治安機關ノ設備及管掌
7  教育機關ノ設備及管掌
8  農園施設及之ガ運用
〔 註 〕
自治制ノ再建ハ國家ノ管理訓導下ニ於テ漸ク以テ進メラレルベキモノトス
第十二章  皇政維新第四期
其一  地方議會
各自治團體ニ於ケル全戸代表者ヲ以テスル平等普通ノ互選ニ依リ推擧セラレタル
丁年以上ノ男子ヲ以テ自治會各自治會代表者ヲ以テ地方議會ヲ構成セシム
其二  國會
各地方議會議員ノ平等互選ニ依リ推擧セラレタル者ヲ以テ衆議院ヲ構成セシム
別ニ勲功者間ノ互選及勅撰ニ依ル議員ヲ以テ審議員ヲ構成セシム
審議員ハ衆議院ノ決議ヲ審議セシム
國會ハ  天皇ノ宣布セル皇政維新ノ根本方針ヲ討論スルヲ得ズ
其三  憲法發布
天皇ハ憲法ヲ制定シ之ヲ宣布ス
其四  地方長官
漸ヲ以テ各地方毎ニ平等普通ノ選擧ニ依リ推擧セラレタル才幹徳操者ヲ中央ニ申達セシメ
天皇ハ之ヲ内閣ニ審衡セシメタル後 適任者ヲ以テ其ノ地方ノ長官ニ任命ス
第十三章  皇政維新第五期
政治經濟部門ニ於ケル新制ヲ更張シ以テ
社會教育、思想、外交、國防各部門ニ於ケル更新ヲ行フ
但シ 右ハ皇政維新ノ第一期ヨリ序次的ニ企畫遂行セラレルベキモノトス
附則
其一
官庁ハ其數ヲ多ク規模ヲ小ニシ能率第一ヲ本旨トス
其二
官吏ハ少數嚴選を本旨トシ現時ノ惡弊ヲ一掃ス
其三
國民大衆ヲ擧ツテ心身動勞ノ殖産ニ從事セシム
其四
行政區劃ハ漸ヲ以テ天然ノ形成ニ応ズル如ク更改設定ス
其五
皇都ハ適當ノ時期ニ於テ瀬戸内海ノ好適ナル地區ニ遷移セラルルヲ要ス
新首都ハ予メ適切ナル都市計畫ニ依リテ企畫セラレ人口六、七十萬ヲ出デザルモノトナシ
人類都市ノ軌範タラシムルヲ要ス。
殊ニ現時浮華ニシテ且心身及經濟的ニ惡弊アルモノト其ノ軌ヲ異ニスルヲ要ス
其六
朝鮮、臺灣、満蒙ナラビニ將來我皇政ヲ光被シ自治體ヲ擴充スベキ地方ノ改造ハ
漸ヲ以テ之ニ臨ム
原則ハ國内改造ノモノヲ準用ス
以上

主要参考並引用論文
一、権藤成卿著  皇民自治本義、自治民範等
二、遠藤友四郎著  天皇信仰、日本思想等
三、北一輝著  日本改造法案等

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« 特註 »
皇道派ひいきの著者は、これを十月事件を企てた統制派の将校たちが
「 独伊と結託して天皇の名において、共産政治を日本に布こうとしていた 」
格好の証拠品として集録しているのである。
『天皇と叛乱将校』 は 著者が、これを印刷する前、
二・二六事件刑死者の遺族の会である仏心会の主だった人々の前で読みあげ意見もきいたものである。
私もたまたまその場に同席していた。
それで、そのとき私が柳川平助中将を第一師団長官舎に訪ねたときの話をしたのが、
この著者の私見をまじえて 「 末松大尉との神様問答 」 という見出しで、この著書に採録されてもいるわけだが、
 
大岸頼好 
『 皇国維新法案大綱 』 については、
その席で、これは大岸大尉の作品だと私がいくらいっても、
いや、これは統制派のものだ、でなければ、こんなに過激なはずはない
といって、いっこうにきこうとはしなかった。
いまとなっては、これを大岸頼好の案ではないことにしておいたほうが、本人のためでもあるかも知れない。
が 事実は曲げられない。
それに、どうせ天下に風雲を捲きおこそうとしたものの案である。
統制派のものであろうと、皇道派のものであろうと、それが無事太平のものであるはずはない。
過激といわれるにきまっている。
革新とは好むと好まざるとにかかわらず、そつとしておきたいものから見れば過激なものである。
そうなればこその革新であり 革命である。
どうせ過ぎ去ったこと、まあ好きなようにするがよかろうと、
私はそれ以上は抗弁しなかったが、印刷刊行されたものを見ると、その 好きなようになっているわけである。
判官びいきに、皇道派びいきをするのもいいが、頑固な牽強付会には恐入った。
原文のまま、とことわって 『 皇国維新法案大綱 』 を掲載した末尾には、
主要参考並引用論文として、権藤成卿や遠藤友四郎や北一輝の著書が、大岸頼好起案の原形のまま併記されてあるが、
統制派といわれたものが、特に北一輝の著書を参考に、国家改造計画案など作るはずがあってよいものではない。
しかも 「 独伊と結託して云々 」 といっているけれど、
この 『 皇国維新法案大綱 』 が 起案された昭和六年といえば、
ムッソリーニの 「 伊 」 はいいとして、ヒットラーの 「 独 」 は ヒットラーが政権をとる以前だから無理であろう。
もっとも十月事件関係の陸軍幕僚がイコール統制派でないとの同様、
二・二六事件関係者と概括される青年将校がイコール皇道派ではない。
少なくとも私自身には、一、二の将軍を頂点とした皇道派などという派閥のなかに、沈湎していたという自覚は断じてない。

末松太平 
私の昭和史  から


大岸頼好の統帥論

2017年09月02日 08時20分18秒 | 大岸頼好

昭和九年を迎えた。
和歌山から大岸が、正月の休暇を利用して上京してきた。 ・・< 註 >
夕方くるなり、
酒を出せ、さかなはタクアンで結構だ、といってチビチビやり出した。
「大蔵さん、統帥ということについて考えたことがありますか」
「別にまとまって考えたことはありませんが、
上官と部下との間に魂の交流があってこそ、ほんとうの統帥じゃないですか」
「そうです。それが基本だとボクも思います。
いいかえると、わが国の統帥は上官と部下との交互躍進ですよ。
前の方に例えば 「ひもろぎ」 という鏡をおいて、その鏡に向かって上官も部下も前進する、
しかも交互に前進することです。
「ひもろぎ」 という鏡に上官が背を向けて、部下と向かい合ってとる指揮は低級な統帥です。
率先垂範は往々にして鏡に背を向けた場合が多いようですね。
あまり強調しすぎた率先垂範とか率先躬行とかいうことで教育された軍隊は、
一歩誤れば弱い甘えた軍隊になります。
人おのおの長所もあれば短所もあります。
上級者といえども、弱い欠点だらけの人間です。
鏡の前にすべてをさらけ出して魂を交流し合うことが、ほんとうの統帥の姿ではないですか。
そこには上官だけの率先躬行はありません。
ただあるものは上官、部下の交互前進があるだけです」
「じゃ、率先躬行はいらんということですか」
「そうじゃありません。
上官のみの率先躬行を強調すると、
そこにはすでに上官と部下とが二元的であるということで、
別々のものが軍律というきずなでつなぎ合わさせれたものにすぎません。
あるときは上級者が率先躬行し、
あるときは下級者が率先躬行する場合があっていいはずです。
軍隊の統帥ほどやさしくて簡単なものはない。
そこには厳しい軍律があるからだ。
というのは、前者の場合で最も低級だということです。
軍律が厳しければ厳しいほど、真の統帥はむずかしいと思います。」
大岸のしんみりした教えに、私ははじめて接した。
この夜、私は大岸の真骨頂の一面をのぞいた。

 大岸頼好 西田税  
翌日大岸は午前十時ごろ、行き先をつげずに出て行った。
私が午後四時ごろ西田を訪ねてみると、
応接間で西田と大岸が、ちょっと深刻そうに話し合っていた。
「・・・・水きよければ魚がすまんといいますからね 」
と、大岸がいった。
「 魚が住めば水はにごる 」
と、西田がいった。
どんな話をしていたか私は知るよしもなかったが、
いまの二人の言葉で私にはおおむね想像がついた。
この言葉の中に、
西田と大岸の性格の相違がはっきり出ていて、私は面白いと思った。


大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >
昭和8年 ( 1933年 )
12月31日  大岸頼好、東京青山の磯部宅へ ・・・大蔵、安藤、林正義、他 多数集合・・・蹶起を慰留す
昭和9年 ( 1934年 )
正月休み  大岸大尉、上京 大蔵栄一大尉宅へ 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和九年の正月、休暇を利用して、市川 ( 芳男 ) らに約束した通り上京した。
こうして明石 ( 賢二 )、市川と私 ( 黒崎貞明 ) の三人は在京の革新将校の自宅を訪問して、早期の蹶起を要請した。
しかし私たちの意見に賛同してくれたのは栗原中尉ただ一人で、
北一輝、西田税をはじめ、村中孝次、安藤輝三、大蔵栄一、香田清貞らの各大尉は、
いずれも 「 時期尚早、軽挙妄動するな 」 の一点張りでわれわれをなだめるという始末であった。
「 五 ・一五事件の二の舞いでは駄目だ。次にわれわれが何事かをやるとすれば、 それはわれわれの最後のものとなる。
 ただ死ねばよいというものではない。この理が分からなければもはや絶好する以外にはない 」 というのである。
こうなっては取りつくしまもなく、三人はただスゴスゴと原隊に帰る以外にはなかった。
・・・中略・・・
昭和九年の正月、早期決行をうながすため東京の各先輩同志を歴訪した時のことが浮かんでくる。
「 よし。やろう。 捨て石は多数いらぬ。今、革新の必要を叫んで死ぬことは、犬死にになるとは思わぬ」
 と、唯一人賛成してくれたのが栗原中尉。
「 天の時、地の利、時の勢いというものがある。犬死にをしてくれるな 」
 と、涙声とともに諫めてくれたのは安藤大尉。
「 少なくない同志が次々と捨て石になってバラバラになったら、われわれの希求する革新は、ただ狂人の夢となるばかりだ。
 なるほど、明治の維新も幾百幾千の狂人の屍の上に成り立ったことはみとめる。
しかしそれは討幕の旗印を京都から得たからだ。
現在の日本は曲がりなりにも聖明のもとに法治国として存在し、幕府はないのだ。
この時にわれわれの微忠を示すことは至難のことである。
険悪な国防情勢のなかで、一刻も速やかに皇国の真姿を顕現せんと願うわれわれの赤心は、貴公らに決してひけはとらぬ。
死ぬときは一緒だ。
俺は理屈に弱い。 が不退転の決意は誰にも劣らぬと思っている。今のところは、原隊にかえってよい兵を練成してくれ 」
と、抱きしめてくれた村中大尉。
人間の安藤、理論の村中といわれた この二人に説得された私たちは、遂に決行をあきらめた。
その夜は北さんの配慮で、大蔵さんに連れられて神楽坂の料亭で痛飲した。

そして翌日、市川や明石とともにスゴスゴ原隊に帰ったのだった。
・・・香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった  ・・・黒崎貞明著  恋闕 から


相澤三郎考科表抄

2017年09月01日 06時10分29秒 | 相澤三郎


相澤三郎

相澤三郎考科表抄
考科表とは陸軍の定期異動 ( 進級、退職も含む ) の月たる八月、
それに異動のある三月、十二月の人事異動の参考に資すべく、
直属上官が作成する部下の成績表である。
官衙 ( 陸軍省、参謀本部、教育総監部など ) や諸学校においても、
もちろん局長、部長、課長、校長などにより考科表は作成されるが、
聯隊に勤務する将校 ( 中佐以下の隊付将校 ) はいずれも聯隊長がつくる。
聯隊長の考科表は師団長が作り、
少将、中将の階級にある軍人の人事は、人事局長、陸軍次官、参謀次長、
教育総監本部長、参謀総長、教育総監でほぼ決せられ、
最後の決定は官制により人事権を持つ陸軍大臣によりなされるのである。
この考科表により青年将校時代の相澤の成績は判明するし、
また後年 相澤事件を起す精神的萌芽が既にいくつかの箇所にあらわれていることは、
読まれるごとくである
・・・現代史資料23  国家主義運動3  資料解説  から

一、性質
 朴直にして活気あり、志操堅確にして高尚、
気概頗る新取の気象に富み 難局に当り不屈不撓 之を遂行せざれば止まざる風あり。
体格強壮。
ニ、出身前の経歴及出身時の景況
 明治四十一年五月三十日 陸軍中央幼年学校卒業
同月三十一日 士官候補生として 〔 福島若松 〕 歩兵第二十九聯隊へ入営、
同四十三年五月二十八日 陸軍士官学校歩兵科生徒五百九名の内九十五番を以て同校教育課程卒業。
三、勤務
 頗る熱心にして躬行率先の微風に富み、著意周到毫も労苦を厭はざるを以て実務の成績も亦良好なり。
四、学術及特有の技能
 軍事学は典令教範 其他に於て理解記憶共に良好にして其応用も概して要領を得、
外国語は仏語にして普通の会話に支障なし。
実兵指揮は号令活潑、指揮厳正にして其応用も亦概して適切なり。
体操は其技術最も長ずる所なり。
五、義務心及品行
 奉公の念厚く品行端正。
六、家政、家計
 家政は父之を掌り一家五人、相団欒し動、不動産合せて約四千五百円余を有し、
本人は勤倹質素なり。
将来将校として品位を貶おとすることなし。
七、交際の景況
 上下に対し礼儀正しく 同僚間の厚誼敦厚なり。
八、既往現時の変易及将来の見込
 気概品性共に向上の傾きあり。
亦 職務に忠実にして著意可なるを以て将来益々発達の望みあり。
・・・明治四十三年十二月  日  歩兵第二十九聯隊長  森 知之

一、本年二月 戸山学校を終へて帰隊せり。
 其の修業成績左の如し。
総員百五名中第三位    歩兵科総員七十四名中第三位
戸山学校より帰隊後体操術大いに発達し、頗る熱心にして其教育方法も亦適切なり、
将来発達の見込あり。
・・・大正二年十一月  日      歩兵第二十九聯隊長  寺西秀武

一、終始一貫誠実且熱心、其職務に勉励し其成績良好。
又 剣術に長じ志気常に旺盛なり。
将来大に発達の見込あり。
・・・大正四年三月  日    歩兵第二十九聯隊長  村岡長太郎

一、朴直にして謹厳気概に富み古武士の風あるも稍単純なり。
責任観念旺盛にして毫も労苦を厭はず常に引率力行し、範を生徒に示して指導しつつあり。
唯 思想稍単純なるを以て時に常軌を脱する嫌なきにあらざるも、
本人として誠心誠意の発露にして、従て生徒の信望は相当之れを受けつゝ在り。
要するに本人は配属将校として正確に稍欠くも、
軍隊指揮官としては性格上適切にして相当の真価を発揮し得べきものと認む。
・・・昭和四年十二月三十一日  歩兵第一聯隊長  東條英機

一、其後の服務情態を鑑察するに、熱心精励毫も変易なく成績漸次向上しつゝあり。
 又本年聯隊剣術寒稽古に当りて愛子の病中にも不拘、一日の欠席なく早暁出場し
専ら下士官兵卒の指導を補助し、其の熱心と義務心に厚きは衆人の認むる処なり。
・・・昭和五年十二月三十日    歩兵第一聯隊長  東條英機

一、性格
 純情にして木彊所謂一本調子にして感激性強く思想稍単純なるも古武士的気魄に富む。
一、服務
 大隊長として未だ成績の見るべきものなきも熱心にして率先力行範を垂れつゝあり。
一、学術技能
 久しく隊を離れありし関係上充分ならざる点あるも、素質良好にして研究真摯なるを以て進歩の見込あり。
一、統御其他
 率先垂範情味に富むを以て部下次第に心服す。
本年処分せられたるは時事に憤慨悲憤の余り、同志と相結び企画実行する所あらんとして
未発に終りし事件に因するものにして、爾来謹慎軽挙を反省するに至れり。
一、将来の見込
 思想単純 時に思慮の周密を欠き常軌を逸するの行動に出づることあるも、
一面正純なる思想を有し、尊信すべき人物なるを以て指導宜しきを得ば、好箇の隊付将校たらん。
・・・昭和六年十二月三十一日    歩兵第五聯隊長  平田重三

一、本年四月聯隊主力渡満後、留守隊大隊長として時々夜間にも出勤巡視するなど
 率先垂範 熱心其職務に精励せり。
又 部下を愛護する情味を有し部下又心服しあり。
然も其行動時に常軌を逸し、又過度に部下を愛護するの風あるを以て将来此点に注意指導せば
隊付将校として見るべきものあり。
五月十五日事件突発直後上京せんとせしも、元来其性 率直単純なるを以て爾来謹慎反省せり。
・・・昭和七年八月八日    歩兵第五聯隊長  谷 儀一

一、性朴直純情にして古武士の風あり。
 上を敬ひ下を慈む。
真に模範的武人なりと雖も、世相の変遷に伴ひ中佐の心境に一大変化を生じ、
国家改造の外 又他に興味なきが如し。
然れども世相にして一進化を遂げ得、又本人の心境一転化を來さんか、
本来の優良なる 「 彼 」 を復活するならん。
・・・昭和八年十二月二十八日    歩兵四十一聯隊長  樋口季一郎

一、本夏季 中耳炎治療して帰隊して以来別人の如く隊務に精励し、
 経理委員首座として綿密事を処理し傍ら 特務曹長、曹長に対する諸教育を担任し其成績可なり。
此状態を以て変化なからんか、独立守備隊長等に用ひ得べし。
・・・昭和九年十二月二十五日    歩兵四十一聯隊長  樋口季一郎

現代史資料23  国家主義運動3 から


大蔵栄一 ・ 大岸頼好との出逢い 「 反吐を吐くことは、いいことですね 」

2017年09月01日 06時09分51秒 | 大岸頼好

大岸頼好大尉と相識る
後期学生が卒業して行くと、年の瀬を感じる。
世の中は師走の風に吹きまくられて忙しくなってゆくが、私らにとってはかえって暇の季節である。
私が休暇を利用して、和歌山に大岸頼好大尉をたずねたのは
昭和七年十二月であった。

大岸は陸士三十五期、私の二年先輩である。
土佐の産、広島幼年学校では西田税の一期後輩である。
西田が台賜の銀時計であり、大岸は、西田に勝るとも劣らぬ逸材であった。
ともに青年将校革新運動の草分け的大先輩である。
初めて教えを乞う私は、大きな期待を持っていた。

和歌山に着いて、ようやくたずね得た大岸の家は、陋巷ろうこうの片隅に古ぼけて建てられた、
みすぼらしい家であった。
当時の社会的地位からいって、大尉の住む家としてはあまりに貧弱すぎるように思えた。

「 大岸さんのうちは、神社みたいだ 」
拝殿 ( 玄関 ) から神殿 ( 座敷 ) がお見通しというわけだ。
「 大岸神社にお詣りしよう 」
と、親しみとも、ひやかしともつかぬ言葉が、われわれの間でささやかれていた。
一つには大岸に対する敬愛の気持ちと、二つには陋屋に対する印象とがうまくミックスされて、
何の抵抗もなしに、みんなの口をついて出ていたのだ。
私は拝殿ならぬ玄関に案内を乞うた。
女中まがいの粗末な女が顔を出した。
「 大蔵さんでしょう 」
粗末な女は、私の訪問を待っていた風であった。
「 そうです、大岸さんは?・・・」
「 どうぞ、お上がり下さい。聯隊ですが、もう、じき帰りますきに 」
土佐弁まじりでテキパキ処理するところをみると、大岸夫人らしい。
「 奥さんですか 」
と、切り出し兼ねるほど粗末であった。
この粗末ななりの女こそ、不羈奔放ふきほんぽうの大岸に仕えて、よく後輩の面倒を見て、
大岸以上に親しまれた夫人であった。


大岸頼好
昭和7年1月6日撮影

『 兵農分離亡国論 』 を 書いて 『 兵科事件 』 を まき起こした大岸だ。
私は白皙瘦躯のかみそりタイプを想像していた。
だが目のまえに見る大岸は、全く予想と反した、茫洋たる豊かさを持っていた。
わずかに下がった目尻、潤いのある澄んだ眼、色の黒い大きな顔、
すべてが親しみのある風丰ふうぼうだ。
かつて胸を病んだとは思えない、がっちりした堂々たる体軀でもあった。
初対面のあいさつがすむと
「 大蔵さん、反吐へどを吐くことは、いいことですね 」
このわけのわからない言葉が、大岸の第一声だった。
「 何ですか、反吐を吐くとは・・・?」
私は、きつねにつままれた思いで問い返した。
「 反吐を吐くとは、全くいい 」
彼は同じことを繰り返した。
酒が出て、盃を交しながら語り合うことはたわいもないことばかりで、
ことさらに時局を論じ合うことはなかった。
話しの合い間に繰り返されることは 「 反吐はいいですよ 」 と、いうばかりであった。
「 読むとしたら、どんな本を読んだらいいでしょうか 」
私は、まともな話がしたかった。
「 そうですなァ、別にありませんね 」
大岸は、ちょっと考えて
「 しいて読むとすれば、ホイットマンの詩集と、赤穂浪士の覚え書ぐらいのものでしょう。
赤穂浪士が、泉岳寺に引き揚げてきたとき、
泉岳寺の和尚が浪士から聞いたこと、見たことを書きつけたもので、
現在、日本には全部で十五、六冊はあるでしょうか 」
私は はぐらかされたようで、面白くなかった。
しかし、考えてみると、人生の基本線を触れているような気もしないではなかった。



「 對馬君を知っていますか 」
「 弘前の對馬勝雄中尉ですか、まだ、会ってはいませんが、うわさは聞いています 」
「 その 對馬君のことですが、満洲に出征して間のないころ、
旅団命令で、部下三名を率いて将校斥候に出されたんです。
目的地の敵情偵察をしましたが、異状がなかったので命令された地点より奥深く侵入した。
ところが 突然、敵の射撃にあい、部下一名を戦死させましてね、
對馬はその部下の死体を、苦労しながら、血だるまになってかついで帰ったんですよ。
旅団長は
『 オレの命令通りにしないで、余計なことをするから、殺さんでいい部下を殺したんだ。オレは知らんぞ 』
と、責任回避をしたそうですね。
對馬は、カンカンに怒ったそうですが、いまどき、こんな将軍がざらにいそうですね 」

大岸は酒豪であるが、私はいまでも初対面の人からきかれては否定するほど、
みかけによらず酒をたしなまないので早々に切り上げ、
大岸の案内するままに、新和歌浦の旅館に一泊した。

翌日は日曜日であった。
大岸といっしょに大阪へ出た。
難波駅についたとき、鼻下に髭ひげを貯えた、一人の小柄な男に出迎えられた。

「 中村義明君です 」
と 大岸が紹介した。
四角なひげ面、眼鏡ごしに見る凹んだ眼、どことなく暗い影のある男。
軍人でないことは確かだ。
何者だろう---私は、興味を持った。
「 おとといは ご迷惑をかけました。反吐まで吐いたりして・・・」
「 さァ、行きましょう 」
大岸は、中村の言を無視して歩き出した。
何の目的で、どこに行くのか、私にはさっぱり判らないまま、両者に続いて歩いた。
「 中村君は、転向者ですよ 」
大岸が、歩きながらささやいた。
これで、反吐の疑問が解けた。
中村が反吐を吐くといっしょに、心の中まで全部を洗い流してしまった、
と 大岸は自分自身で確認したという意味のことをいったわけだ。
いかにも回りくどい、単刀直入でない大岸の態度に
『 古だぬき 』 的要素を多分に感じた私は、いささか反発を覚えた。
訪問先は、大阪商大教授田崎仁義博士であった。
大岸は和服、中村は背広、私は軍服という妙なトリオを、博士は喜んで迎えた。
瀟洒しょうしゃで柔和な好紳士の博士には、一本筋の通った強靱さのある頼もしさを感じた。
約一時間歓談の後、田崎邸を辞去した。
「 中村君が、近く雑誌を出す予定です。いずれ東京に出ますが、
その節はよろしく面倒を見てやって下さい 」
中村の地盤は大阪で、東京は未知に近く、私を頼りにしているようであった。


大蔵栄一著
二・二六事件への挽歌  から