あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 ・ 無眼私論

2017年04月06日 05時02分01秒 | 西田税 ・ 無眼私論

眞日本を再建すべき時節はまさに到來せんとす。
友よ、哲理を表現すべき真日本を建設せよ。

國家を清新して眞正の哲理に則るにはいかにせば可なるか。
われわれは不法にして背理の施設はこれをことごとく破壊せねばならぬ
 ----そしてその上に新しい理想の國家を建てねばならぬ

「五十年」、この間におけるわが不合理的國家社會の改革
----しかもそれがすこぶる根強く深く食込んでいるこの弊害----は、
 尋常一様な温和な方法では到底不可能である。
でき得ない。
いわんやその全般を棄てて一部玓改造のごときはそれこそけだしいけない。
成就はするかもしれない、しかも決して眞理を見出すことはできないのである。

今においてはも早直接破壊のために劍でなければならぬ。
劍である、そして血でなければならぬ。
われらは劍をとって起ち血をもって濺がねばこの破壊はできない、建設はでき得ない。
神聖なる血をもってこの汚れたる國家を洗い、
しかしてその上に新に真日本を建設しなければならぬ。
しかして 「天皇の民族である、國民の天皇である」 
この理想を實現しなければならぬ。



無眼私論
西田税

目次
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・ 
無眼私論 1 「 今仆れるのは 不忠、不孝である 」 
・ 
無眼私論 2 「クーデッタ、不浄を清めよ 」 
・ 無眼私論 3 「 日本は亡國たらんとす 」 
・ 無眼私論 4 「 女は恋するものである 」 
・ 
無眼私論 5 「 眞人 」 

國家改革 ! !
革命の大旆を押立てて進め ! !
大權の發動による憲法の停止 ! !
「 クーデッタ 」 ! !  不淨を清めよ ! !
青年日本の建設!!  大日本主義の確立 ! !
しかしてさらにこれを宇内人類に宣布して彼らを匡救せよ。
ああ、時は來れり、時は來れり。
君見ずや、革命第一彈はすでに投ぜられたり。

大正維新である。
余はこの不淨を清めんがためにまずみずからこの血をこれに濺ぎかけんと希うものである。

青年将校運動の指導者、西田税が大正11年(1922年)
21才の青年期、病症で記した感想録である

大学ノート(横16、縦21㎝)にインクで書かれ95ページ。
著者西田税は明治三四年鳥取県米子市に生れ
大正四年陸軍幼年学校入学、大正十一年陸軍士官学校卒(三四期)。
大正十四年依願予備役、
昭和十二年八月
二・二六事件民間側首魁として北一輝、村中孝次、磯部浅一と共に処刑された。
西田は広島幼年学校では優等生であるが、
しかし陸軍教育、----最も固陋厳格な----の規定には内面的に既に突き出ていた人であるらしい。
例へば、幼年学校時代の作文をみても
「天寿全くつき果てて逝ける人は此の世にありて幾人か、余の家はこれに関係ある職(注仏具屋)にて・・・・」 
 と書いてあるが、
これは勿論軍人を志ざしたものとして誰しも思う戦場の死ということ以上になにか異質のものを感じさせる。
この 「無眼私論」 も 陸士の生徒というより二十才の青年の日記として読むとき、
後年の西田の思想、
しいては我国国家主義運動の思想形成を示すものとして貴重なノートと云わねばならない。
この当時の陸士の教育の精神内容を示すものとして、
大正十年前後の 「軍人精神訓全」 「軍制学教程」 「思想問題に関する一部の研究」 
などを読み、 また幼年学校、陸士の 「生徒文集」 を読んでも、このことは強く感ずる。
また このノートは、
軍人として何よりも大切な身体の絶望的状態というショックのうちに秘かに書かれたもので、
後日公表されることは西田は夢想だにしていなかったであろう。
人によればおよそ日記とは、 
「公表を予期して書いた」
「自分のためにのみ書いた」
「書かれざる心のうちにのみ記す」 
三種の日記を人は記す、ということであるが、
これは勿論第 二の 「公表を全然予期しない」 自己のノートである。
したがって後年の西田の活動及びその評価が今日でも定っていない現在の、
彼の真の姿
( 例えば 小沼正氏の談によれば 
「 西田さんは、誤解されるようなことを平気でいう人で、
本心のわかっている人にはいいが、
そうでない人を、ずいぶんわざわざ怒らした人であった 」 )
を、知るうえに、充分読まるべき資料である。
現代史資料5 国家主義運動2 資料解説二 無眼私論 より


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