あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇と叛乱將校 橋本徹馬

2017年01月27日 20時20分53秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬

帯書き

八千万臣民が塗炭の苦に落ちた大根源、そはいずこに求むべきか。
大日本帝国陸海軍の驕慢堕落によりしか、元老・重臣の臣莭らざりしためか。
『 朕の憾みとする処なり 』 と仰せられた陛下の御言葉、
それは、『 朕の不徳 』 というべきではなかつたか。
本書は一世を驚倒した 二・二六事件をえぐり、
近代日本史の一大秘密を大胆不敵に暴露する !

石橋湛山氏評
本書をみて私の知らぬことが多かったのに驚いている・・・・本書は過去の事実を語りながら、
現代人に一大反省を促しているものである。

久原房之助氏評
国家興亡のさいには、必ずこれにともなう悲喜劇があるが、
本書によつてその眞相が伝えられた二・二六事件は、
日本が昭和の時代に亡んだ一大悲劇の前奏曲であつて、
まことに悲痛きわまりなきものである。

眞崎甚三郎氏評
・・・・・・今日まで二・二六事件に関する著書記録等市井に溢れども、
今回の高著の如く事件前後の情勢判断の正確、事件の眞相と其樞機を捕捉し、
之を簡潔に網羅して余す処なきもの、之を他に発見し難く候。
之全く至誠心、智慧と勇気のある人にあらざれば能はざる処にして、
瀕死の吾が国に起死回生の靈能を発揮し、最良の救国剤たることを確信し、
謹んで御禮申上候 ( 来書の一節 )



天皇と叛乱將校
橋本徹馬

序文
昭和十一年二月二十六日払暁。
第一師団管下の青年将校約二十名が、部下の兵士一千数百名を引率して叛乱を起し、
降り積む雪を蹴立けだてて実力を行使し、当時の重臣大官等を襲撃して、
国中を震駭しんがいせしめた事件あり。
二・二六事件とよばれるものがそれである。
上官の意向を無視して兵を動かし、多くの重要人物を仆たおした彼らの罪は、
もとより万死に当る。
ただ当時の上層部の人々が、迂闊うかつにもこの事件の日本歴史上における重大性に心づかず、
また、その頃の軍部内における皇道派と、統制派との勢力争いをも知らぬがために、
さしもの事件を、国政上における、なんの反省の材料ともせず、一方的の憎しみをもつて、
叛乱将校達を極刑に処した。
その誤まれる処置が、その後の日本の無謀なる戦争突入----ついで敗戦降伏----事情も、
本書によつて明瞭になると信ずる。
いまさらに、過去の日本の古傷をあばくににたる本書も、もし熟読されるならば、
将来の日本が、自ら救い、あわせて世界を救ううえに、
何かの指針を発見せられるのであろうと思う。
昭和二十九年五月        紫雲荘にて  著者

天皇と叛乱將校
目次
クリック すると頁がひらく

口絵写真 ( 二十二烈士の肖像と遺詠 )
  
序文
第一部  日本陸軍の自殺
一  貧困と疑獄の中に靑年將校起つ
     
三月事件から十月事件へ 
      満州事変から五・一五事件へ
      士官学校事件と相澤事件
      叛乱将校蹶起の動機
      あえなくも意図挫折す
     ★ 
青年将校と政治問題 « 昭和九年二月執筆 »
二  皇軍精神と天皇機関説
     
注目すべき鵜沢博士の所論 
      天皇御親政とはなにか
      生物学御研究は大御心ではない
      青年将校の精神的背景
      国体擁護論者は厄介者か
三  湯浅内大臣との勅語問答
      元老・重臣ら国民をあざむく
      
『 朕の憾みとする 』 との お言葉 
      涙を浮べた真崎、柳川将軍
      叛逆罪は許されたい 
      
奇怪至極の軍法会議       
      死の直諫無視せられる
      皇軍はあのときに亡んだ
第二部  今生陛下に爭臣なし
一  軍自ら奉勅第一主義を蹂躙
      軍部独裁の陣容整う 
      
奉勅第一主義の徹底 « 昭和十二年三月執筆 » 
二  逆用された二・二六事件
      
邪魔ものはやっつけるぞ ! 
      われわれは支那事変をこうみた
      ついに主戦派を抑え得ず
      皇道派もまた反省を要す
      想い起す西郷南洲翁の事例
     ★日本国民に告ぐ « 昭和十四年十二月執筆 »
三  今生陛下と元老・重臣
      
明治天皇に小遣いをいただく伊藤公 
      西園寺公は国家柱石の臣か
      
牧野伯の臣節を疑う 
     
官僚だつた湯浅内府 
      木戸侯と近衛公も荷が過ぎた
      争臣なくして國亡ぶ
四  柳川將軍と叛乱将校 « 事件余録 »
      誤解せられた柳川中将
      功をたてて誇らず
      柳川内閣案失敗に帰す
      末松大尉との神様問答
第三部  特別資料篇
      十月事件計画者の起草せる
一  
皇政維新法案大綱 
      三月事件、十月事件についての
二  
大川周明氏の非公開陳述 
     磯部・村中両氏執筆の
「 粛軍に関する意見書 」 
    
二・二六事件判決の全文 « 陸軍省発表 »

リンク→私の記憶・『 昭和維新  二・二六事件 』


三月事件から十月事件へ

2017年01月25日 20時19分09秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


三月事件から十月事件へ

先般勧すすめられて映画 「 叛乱 」を見、非常に感動した。
大変良くできており、かつ、大体公平に扱われていると思われたのが嬉しかつた。
叛乱将校達にたいして、殊更に善意を持たず、さりとて悪意も持たず、
有りのままの事実を示そうとしたところが、無理にねらいをつけて、
その方へ引っぱっていくやり方などに比して、どんなにか好感が持てたのである。
なお私は、その後立野信之氏の小説 「 叛乱 」 をも読んで見た。
そうしてこれは小説とはいいながら、大体の事実をよくとらえ、
事件の真相を伝えているのに感服をした。
 相澤中佐を演じる、俳優・辰巳柳太郎
ところでこの事件は、まだ未解決のままである。
簡単にいえば、誤つた処置のしつぱなしである、と思う。
私がそう思う次第を述べて、世の批判に訴え、また後日のためにも、
書き残ししておきたいのである。
事件の内容を知らぬ人々のために、
まず事件以前の軍部内の事情、並びに事件の略記から始めていく。

わが陸軍部内に派閥が生じ、統制が紊みだれるに至つたのは、一朝一夕のことではあるまいが、
それが表面化するにいちつたのは、昭和六年三月 ( 浜口内閣の末期に )
宇垣大将が軍事参議官の当時、クーデターによつて、自ら政権をとろうとした時にはじまる。
当時の宇垣氏にどれだけ救世済民の誠意と、具体案とがあつたかは不明であるが、
これに参画した者には、当時の参謀次長二宮治重 ( 中将 )、軍務局長小磯少将 ( 後の首相 )、
同軍事課長永田大佐 ( 後の軍務局長 )、参謀本部作戦部長建川少将らがあり、
これに同調せる者には、橋本欣五郎中佐 ( 後の大佐 ) 外幾多の青年将校達があつた。
特に、その時の計画を立案した者は、後に相澤中佐に斬殺された永田軍務局長であり、
その筆になる計画案は、今も某氏の手元に保存せられている。 ( 第三部特別資料篇参照 )
しかしその後、肝心な宇垣大将が、
「 クーデターによらずとも、政権が取れそうであるから、クーデターはやめだ 」
といつて動かなくなつたためにこの三月事件は未遂に終わつたが、
これが軍部による叛乱計画の最初のものであつた。
( 当時の宇垣氏は、浜口首相が東京駅で撃たれたので、政権は自分にくると考えたらしい )
その後宇垣大将らの態度にあきたらず、
飽くまで革命を断行しようとした者に建川少将および橋本欣五郎大佐、長勇少佐らの一味があつた。
この人達は民間の大川周明氏らとも通謀し、革命の成就を確信し、
盛んにカフェー、待合等において気焔きえんを上げたものであつたらしい。
そのような不謹慎な態度のために、この事件は同年十月に発覚して、これまた未然に終わったが、
これは十月事件 ( 第三部特別資料篇参照 ) とよばれるものである。

満州事変から五・一五事件へ
これよりさき、昭和六年九月十八日に起った満州事変は、
当時の関東軍参謀板垣大佐(後の陸相)、石原中佐 (後の参謀本部作戦部長、京都師団長)、
片倉大尉および特務機関の花谷少佐らが、本庄軍司令官の十分の同意をえず、
したがつてまた、もちろん軍首脳部の諒解をえずして、勝手に起したものであつたが、
当時の朝鮮軍司令官は事態重大のため、
( 捨ててけば在満日本軍が全滅となり、その対外影響のきわめて悪いことが想像されるので)
その間の理非を問うの暇なく、とりあえず救援の兵を送った。
ついで軍の上層部も事情余儀なく、各方面の諒解を求めて、
この事変を正しい事変へと認めるにいたつた。
その結果満洲事変は、日本軍の勝利のうちに完了したけれども、
この満州事変における将校達の専壇は、その後におけるきわめて悪例となつた。
つまり青年将校達が結束して事を起せば、軍の上層部は引きずれるという自信を、
強気の青年将校達に与えたのである。

昭和七年五月十五日に起つた いわゆる五・一五事件は、
海軍の青年将校および陸軍士官候補生らによつて企てられ、
当時の犬養首相を暗殺したのであつたが、
これは一派の海軍将校達が、
昭和四年の浜口内閣以来、打ち続く内外の重大事件にたいする、
政党政治家の優柔不断を憤つたものであつた。 なおこの裁判については、
この将校達の一挙を非常に憤る一派と、
その心事に極端に同情する一派とに分れて抗争したが、
結局この事件は、
犬養首相を暗殺した責任者が、懲役十五年の刑に処せられ、
以下はそれよりも軽罪に終つた。

既述の満州事変は南陸相時代に起つたのであるが、
南氏がその収拾をなさずして、陸相の地位を去つた後をうけたのが荒木陸相であり、
その頃から荒木陸相、真崎大将(当時の中将)、小畑少将、柳川軍次官、
山岡軍務局長らを中心とする皇道派の勢いがはなはだ盛んになるにつけ、
これと対立する 東条、杉山、寺内、梅津、永田、
後宮各将官を中心とする統制派も次第に結束を固めて、
互いにその勢力を争うようになつた。
[ 註 〕 皇道派に属する将校には、隊付きの正直一途な青年将校が多く、
統制派に属する将校には、陸大出秀才の利巧な幕僚将校が多かつた。
そうして前者の多くは、二・二六事件で死罪、その他の刑を受けたが、
後者の多くは、その後独伊派将校と呼ばれた主戦派の幕僚達で、
上層部をロボットにして、実際上過般の戦争を指導した人達である。
ある人は、皇道派の青年将校達の視野の狭いのに比すると、
統制派の将校達の方が視野が広かつた、と評したそうであるが、
その統制派の将校達も後段に詳説するごとく、
日独伊三国が同盟さえすれば、英米その他はその威力の前に慴伏しゅうふして、
ヨーロッパは独伊の意のままになり、アジアは日本の自由になると考え、
あの無謀な戦争に遮二無二 日本を突入せしめて、日本を敗戦降伏に導いたのであるから、
視野の広かつたという彼らの眼が、余程見当違いなものであつたことは間違いあるまい。
なお、終戦の際にも講話の提議をあのソ連に持込んで、逆手をとられたのであるから、
その乱視も余程ヒドイものであつたといえよう。 ・ 満州事変が収まつて満洲国の建国がなり、
荒木陸相が退いて林(銑十郎)大将が陸相となるや、
荒木陸相時代に雌伏しふくを余儀なくされていた統制派は、永田軍務局長を中心として、
俄然その勢力を盛り返し、
当時皇道派にはなはだ不快を感じていた、斎藤内大臣以下宮中方面の人々および、
岡田内閣の諸公とも提携して、皇道派の排撃にかかつた。
しかしこれを当時の皇道派からみれば、統制派の中心である永田軍務局長こそ、
三月事件のクーデターに参画した人物であつて、彼こそ軍の統制を紊した発頭人ではないか。
そんな一派が堕落せる政治家どもと結託して、軍の統制を云々するのは、
要するに自分達の権勢を張るための方便に過ぎぬとして、
統制派の策動が盛んであればあるほど、皇道派の反感が募つていつた。

仕官学校事件と相澤事件
昭和九年十一月、その頃士官学校中隊長であつた辻政信大尉は、
かねて不穏の噂のある皇道派青年将校達の動静をさぐるがために、
士官学校生徒をスパイとして使用し、その生徒らに青年将校を歴訪せしめて、
過激な言動をなさしめ、青年将校達の反応をさぐらしめた。
皇道派青年将校中の磯部一等主計と、村中大尉の二人はその手にのせられ、
彼の考えている国家改造の実行計画について語つたと伝えられているが、
そのいよゆる実行計画案の大部分は、
皇道派をおとしいれるために造つた統制派の偽作であるというのが、真相のようである。
統制派の永田軍務局長は辻大尉を通じて、そのスパイの報告を受けるや、
直ちに磯部、村中氏らの一派を検挙し、ついで両氏を予備にしたので、
両氏が非常に統制派の卑劣を怒つたのはもちろん、皇道派と統制派の相剋は、
これを契機として ますますはなはだしくなつていつた。
これがいわゆる十一月事件である。

その後昭和十年七月十一日附にて、
磯部、村中両氏の名で発表せられた 「 粛軍に関する意見書 」 ( 第三部特別資料篇参照)  には、
前記の宇垣大将らの三月事件および、橋本大佐らの十月事件の処罰を曖昧にしたことを難じ、
それが軍の統制の紊れる所以となつているのであるから、
信賞必罰、懲罪の適正を期する外に、粛軍の途がないという趣旨を論じている。

昭和十年七月六日に皇道派の真崎教育総監が、
時の政府と通謀せる永田軍務局長の筋書によつて、遂に教育総監の職を罷免せられるや、
皇道派憤激はますます抑え難きものとなつた。
同八月十二日に、真崎大将罷免の不当を確信せる相澤中佐は、
陸軍部内の奸賊を除くという考えから、永田軍務局長を陸軍省において斬殺した。
これを世にいう相澤事件である。
皇道派と統制派とは、この事件の公判を機会として、相互に自派を有利に導こうと努め、  怪文書が乱れ飛んだ。

叛乱将校蹶起の動機
ついで起つた二・二六事件、すなわち小説および映画の「 叛乱 」事件は、
昭和十一年二月二十六日に起つたものであるが、
私の見るところでは、この人達の蹶起の動機はおよそ四つある。
第一は、
連年の国政宜しきを得ざるがため、資本家の間に疑獄事件が起つて世人を憤激せしめるのみか、
下層階級の者の生活き窮迫し、子女を苦界に売る者さえ少なくない有様であるから、
下層階級の子弟を兵士として教育している青年将校達の苦悩は一通りでないのに、
それには何ら適切な処置を講ぜずして、
一部資本家の利益のみを計つて、平気でいる岡田内閣および、
その背後にあつてこれを支持する斎藤内大臣らは、許すべからざる人々である。
〔 註 〕
当時の農村の疲弊が如何にはなはだしかつたかは、
満洲で多くの武勲をおさめた多門師団(仙台第二師団)が、郷里より兵士への来書の多くが
家庭の窮状を訴えるため、兵士の士気が全く揚らなくなり、
悄然として急に内地へ引揚げた事實によつても、知られるのである。

第二は、
当時の元老、重臣、政界の上層部の人達は、天皇機関説の信奉者であるため、
この頃世論が喧しくなつていた国体明徴問題 ( 日本の国柄を明白にする問題 ) に関して、
明快なる断定を下さざるのみならず、建軍の生命である統帥権問題についても、
これを蹂躙してかえりみない現在の軍首脳部と、策謀している。
第三は、
統制派で占めている当時の軍首脳部は、元来のわが立国の本義を解せず、
軍人精神にかけるところのある人達であるが、それが当時の堕落せる政治家どもと結託して、
軍部内の皇道派を排撃し、その上にてドイツのナチスを真似ようとしつつあるのは怪しからぬ。
ここに粛軍の必要がある。
第四に、
国際連盟脱退以後におけるわが国の地位は孤立し、対外事情は切迫して、
いわゆる一触即発の状態にあるが、軍の統制派はむしろ戦争誘発の方向に進んでいる。
しかし、現状のごとき政界と国民生活の実情とをもつて、大戦争を開始するなどとは危険この上もない。
いずれにしても、速やかに日本国の陣容を革新整備する必要がある。
大体、以上のごときものであつたと思われるのである。
もとより、政治の実情に通ぜざる青年達の時局観であるから、そこには認識の不足もあり、
誤解もあろうが、彼らは一途に右のごとくに考えていたようである。
〔 註 〕
このごろ青年諸君----ことに国体といえば、国民体育大会の略称だとばかり思う人々には、
当時の国体明徴問題とか、統帥権問題とかいつても、何んのことか理解がいかぬであろうが、
それがその当時の純真なる青年将校達の、血を沸き立たせるに足りるものであつた次第は、
後段において述べる通りである。

あえなくも意図挫折す
皇道派青年将校達のこうした憂国の至情は、
----当時の情勢上----部下の兵士をも感激せしめるに十分であつたから、
上官である彼らが兵士を引率して、この事件に参加せしめるのに苦労はなかつた。
かくして彼らは、総勢二千名近くの軍隊をひきいて出動し、降り積む雪をけ立てて実力を行使し、
斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監らを仆たおし、鈴木侍従長に瀕死の重傷を負わせた。
なお彼らは、岡田首相および西園寺元老、牧野重臣らもねらつたが、
手違いのためにその目的を達しえなかつた。
目指す人々を仆した後の彼らは、永田町の首相官邸を中心に警備をととのえる一方、
陸軍上層部や各軍事参議官に折衝して、彼らの信ずる国家改造計画を遂行し得る内閣の出現を望んだ。
彼らの希望は、当時台湾にいた台湾軍司令官柳川中将による時局の収拾であつたが、
その上京までの時日の遷延を恐れて、真崎大将首班の内閣出現を主張した。
それはもちろん、到底不可能なことであつたが、彼らはその実現を信ずるほどに単純であつた。
しかし叛乱後の時局の推移は、---当然のこととはいいながら
---まつたく叛乱将校達の期待を裏切って進展していつた。
はじめ二・二六事件の勃発に色を失つた陸軍首脳部、ことに、いわゆる統制派の人々も、
叛乱将校達にたいする宮中方面の反感がはなはだしいのを知ると、次第に強気を取返し、
遂に叛乱将校達を奉勅命令違反の叛逆者として逮捕し、裁判に附することとなつた。
一方叛乱将校達は、宮中方面および世論の反感により、当初の志の行われざることを知り、
兵士達を原隊に復帰せしめて、自分達は縛についた。
もつとも叛乱将校中の野中大尉は、上官の忠言によつて自決し、
熱海の陸軍病院に療養中の河野大尉 ( 湯河原で牧野伸顕氏を襲撃して果さず、逆に重傷を負った人 )
も自決し、安藤大尉もまた自決しようとしたが、部下に支ささえられて果さなかつた。
そうして安藤大尉以下は皆公判廷において、大いに自分達の心事を述べ、
全国民に訴えるつもりで縛についたのであつたが、
裁判は弁護士もつけない非公開の暗黒裁判で進められたがために、
その意思は果されなかつた。
そうしてその裁判の結果 叛乱将校十三名および、これに同調した民間人四名は、
叛逆者として死刑の判決を受け、同年七月十二日におけるその人々の銃殺と、
その他の人々のそれぞれの処罰とによつて、二・二六事件は落着したのであつた。
〔 註 〕
磯部、村中、北、西田ら四氏の銃殺は他の人より一年余り遅れ 昭和十二年八月十九日に執行せられた。
東京麻布一本松、賢崇寺の墓地に合祀されている二十二士は、
昭和十一年七月五日死刑の判決を受けた十七士の外に、北、西田両氏を加え、
外に叛乱将校中先に自決した野中大尉、河野大尉および相沢事件の相沢中佐を加えたものである。


青年将校と政治問題

2017年01月23日 20時17分21秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


左に掲げる一文は、
昭和九年二月 ( すなわち、二・二六事件に先き立つこと二カ年 )、
当時の国情を憂えた紫雲荘が、新聞紙上に公表したものであるが、
その頃の軍部と国政との関連について、参考となる点が多いと信ずるので、
ここにその全文を再録する次第である。

青年将校と政治問題
議会の質問応答が不徹底である

第六十五議会 ( 註・斎藤内閣 ) において軍部間の声明書問題が端緒となり、
軍人と政治の問題が盛んに照すも、この敢然として質すべき議員の存在は大いに慶すべく、
また軍の首脳部としても、幸に事の真相を伝うるの好機会を得たる賀するべきであるからである。
さりながら問者余りに無知識無穿鑿むせんさくにして問題の要点を知らず。
答者あまりに消極的にして事の真相を云わずんば、
せつかくの機会もかえつて世人の疑惑を深からしめる所以となるのみならず、
肝心の皇軍全体に与える影響も、決してよろしくはないと信ぜられるゆえに、
左にわれら一個のこの問題に関する所見を述べておきたいと思うのである。

そもそも軍人 ことに青年将校らが国政に対し、
多大の関心を抱くに至りたる主な原因は、共産党事件の続出より始まる。
およそ日本国民にして忠誠の念ある者、一人として赤化思想の蔓延を憂えざるはないのであるが、
特に軍人は大元帥陛下の股肱たる関係上、一入ひとしおこの問題に関心を持ち、
常人以上に国体否認の悪思想の蔓延を憂えるはもちろんのことである。
しかしてこの席か問題は数年以前よりますます政治上の重大問題となり、
その時々の為政者いずれも主義者の検挙に努め、かつ しばしば抜本塞源そくげんを口にすれども、
いまだ忠誠なる国民をして、
その意を安んじるに足るほどの効果を見るには至つてはおらないのみならず、
近年の新入営者の中には、かかる悪思想の影響を受けたる者も、相当にいるのである。
これ 青年将校らが相集まる毎に皇国のために憂え かつ 憤ると共に、
自己に直接関係ある軍事教育の上よりも、かかる悪思想の瀰漫びまんする原因如何。
あるいはこれが対策如何等に関して論議を闘わし、往々その声の外聞に洩るる所以である。
次には対外問題、ことにロンドン条約に関連せる統帥権問題、
あるいは満洲における往年の日本の権威失墜などが、
これはまた軍人の政治に対する関心を深からしめるに至りたる主要原因の一つをなしている。
ただし これらの問題については世上の論議すでに尽きたりと信ずるがゆえにここには省略をする。

最近において特に青年将校らの間に、最も重大問題となつているのは、国民生活の不安である。
世人あるいは言わん、国民の生活問題のごときは、その時々の政府当局において、
できうるかぎりの努力をなしつつある次第なれば、敢えて青年将校らの憂慮を要せずと。
これはまつたく軍隊内の事情を理解せざる者の妄言である。
なんとなれば 実際軍隊内にあつて、直接兵士の教育に任じつつある青年将校らよりすれば、
兵士の家庭の窮迫は決して小なる問題ではなく、
また 決して対岸の火災視すべき問題でもないからである。
いつかの新聞紙上にも、偶々日曜の休暇を与えられたる兵士が、
街頭に紙屑を拾うて家計の手助けを為せる記事が掲載せられて、
世の人々の胸を打つたようであるが、現在教育を受けつつある兵士の中には、
これに類する程度の窮迫せるカティり入営せる者が、決して尠すくなくはないのである。
例えば 東京の第一師団管下において、家庭の窮状甚だしきがために、
僅かなる陸軍の救護手当を受けつつある者さえ四十余家庭を数え、第二師団管下においては、
その種の者がほとんど全兵士の三割にも当るという有様である。
しかして兵士の中の大体七割以上は農村および漁村の出身であつて、
また家庭的事情より見れば、いわゆる無産階級の子弟がその大分分であることを思えば、
たとえ救護手当を受けるほどではなくとも、近年の世上の不景気を顧かえりみ、
相当窮迫せる家庭より入営せる者が、いかに多いかということも自ら察せられる次第である。
かかる家庭より入営せる兵士が、その私服を脱いで軍服を着たる瞬間より、
まつたく自己を忘れ家庭を棄てて軍務に精励するはもちろん、
一朝有事のさいには君国のために、
命を鴻毛こうもうの軽きに比して 戦場に死力を尽すのであるから、
平生直接教育の任に当たりつつある青年将校らが、
これら兵士の任務の重大と家庭の窮迫とを思い合せて、かつは皇軍の士気のため、
かつは軍隊の団結上、なおさらに人情の上よりして、せめてはこの重大任務に服する兵士らをして、
後顧の憂えなからしめたしと念ずるのは当然ではあるまいか。
ことに青年将校の中には乏しき自己の給料を幾分か割いて、
最も窮迫せる部下の兵士の家庭に月々窃ひそかに送金しつつある者が、
近年頗る多いことを記憶しなければならぬ。
しかしてその結果は政治の成行きに関し、非常なる関心を持つのみならず、
政府の財政経済政策もしくは現存の経済機構等に関してまでも、その是非を考うるの風、
ようやく将校間に盛んとなるに至つているのである。
加うるに 近年における疑獄事件の頻発その他により、軍人の現代政治家に対する信頼の念が、
一般的に薄らぎきたつていることも掩おおい難き事実である。

もとより多数の青年将校の中には、あるいは事を好む者もあるべく、
また必ずしも純真ならざる者もあるかもしれない。
いわんやたとえ純真なる動機にもとづくとは云え、
矯激なる言動に出ずる者を厳重に取締るべきはもちろんである。
殊に五・一五事件りごとき不祥事の勃発をさえ見たる後であるから、
 断じてその警戒に抜かりがあつてはならぬのである。
さりながら もしも今日における軍人と政治の問題が、
たまたまこの種の常規を逸する者に対する処分や暴圧をもつて、
いつさい万事解決するものであるかのごとくに考えるならば、それはあまりに浅薄皮相の見解である。
なんとなれば問題の本質はすでに上述のごとく、
実は忠誠皇軍に奉じ、熱心に部下を愛育しつつあるほとんどすべての青年将校らが、
国家非常時における皇軍の責務の重大なるを思えば思うほど、
その軍人としての本分を全うするの上より、顧みて国内の情勢を憂え、
殊に兵士の揺籃ようらんであるところの農村や漁村の窮状を、
なんとか早く救うの途はないものであろうかと焦慮する処に存するがゆえである。
軍人への勅諭には、
抑々国家ヲ保護シ、国権ヲ維持スルハ兵力ニ在レハ、
兵力ノ消長ハ是レ国運ノ盛衰ナルコトヲ弁ワキマヘ、世論ニ惑ハス、政治ニ拘ラス、
只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守リ、・・云々
と 仰せられているが、
その兵力の消長を直ちに国連の盛衰と見、その本分の忠節を守る点より、
右のごとき焦慮と憂憤を抱きながら、しかも務めて軍紀を重んじ、
あらゆる世上の俗論と戦いつつ軍隊の士気を鼓舞し、
おのおのその所属部隊を守護しつつある青年将校らが、
果して一部の軽率なる人々の考うるがごとく軍紀の紊乱者として、
しかく簡単に処罰されて問題が解決するものであろうか。
いな 一層徹底的にこれをいえば、この青年将校らの国政の現状に対する憂憤こそ、
実は一朝事がある際におけるその敵愾心てきがいしんともなり戦闘力ともなつて、
この国を護る精神と同一なのであることを理解しえざる者は、共に国防を語るに足らないのである。
われらの知る限りにおいては、軍首脳部のこれが対策はただ
「政治上の事はすべて軍部大臣を通じてその希望の実現を期し、皇軍の統制を紊ル勿れ」
と 諭しつつ、ひそかに国政の改革に努め、
もつて青年将校らの憂憤の解消を期するにあつたようである。
荒木前陸相がその在職中にしきりに内政問題に関して発言をなし、
常に硬論を主張したる所以もここに存するのであるが、しかもわれらは荒木前陸相の彼の博弁と、
彼の大車輪の活動とをもつてしても、なおこの問題の核心をつかんで、
その根本的解決に一歩を進むるの上に、努力の足らざりしことを遺憾に感ぜざるをえないのである。
これその病に仆れ、かつその遂に辞職の余儀なきに至りし最大原因である。
もしそれ斎藤首相以下の他の閣僚諸公に至りては、只管ひたすら安価なる気休めに淫いんして
内閣の寿命を貪むさぼり、毫もかかる問題に直面して敢然その対策を講ずるの至誠なかりしことは、
もつとも非常時内閣の名に反すること大なりといわねばならぬ。
ここにおいてか第六十五議会(註・斎藤内閣) に臨む軍部大臣たる者は、
もはやいつさいの消極的態度を捨て、もとより掛引きを排し巧智を用いずして、
極めて率直明瞭にこの情勢を打明け、ことに青年将校らの至当なる焦慮と憂憤を議会に語り、
国民に伝え、もつて全政治家一致の努力と全国民の理解との下に、
一日も速やかに軍部内におけるかかる風潮の由来せる、
根本原因の解消を期せなければならなかつたはずである。
同時にまた両院議員諸君にして、もしかかる点に深く慮るところがあるならば、
その議会における軍部大臣に対する質問なるものは、
いたずらに見当違いの言質を取りて自己の気休めとなすことの代りに、
かならずやこの要点にふれ、
軍首脳部のかかる重大苦心の分担と特に両院議員の自己反省と、
さらに進んで問題解決のためにする積極的協力との意味において、
質問がなされなければならぬはずであつたと思う。
しかるに議会の質問応答が共にはなはだ不徹底にして、
せつかくの好機会を善用するに至らなかつたことは、惜しみても余りある事といわねばならぬ。
なお軍民離間の声明書に関する軍部大臣の答弁も、
その実際に存ずる奇怪至極なる幾多の事実を挙げずして、あまりに穏便を希ねがいし結果、
いかにも軍部の軽率を証明するがごときことに終つたのは、
林陸相の就任早々なりしによるところあらんも、容易ならぬ両大臣の失態である。
われらの希うところはただ一日も早く真面目なる皇軍の将士に安心を与え、
その内憂と後顧の憂えとを無からしめて、大元帥陛下の統帥の下に、
あめが下のまつろわぬ者共を討ち平げる天業に専心ならしめるにある。
しかしてこの一事こそ非常時に直面せる皇国日本の急務中の急務であるから、
政府も軍部も両院の諸君も、よく事態の本質を究めて、
その意味の努力に違算なきを期せられたとしと祈るのである。 


注目すべき鵜沢博士の所論

2017年01月21日 20時15分45秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


注目すべき鵜沢博士の所論

私は、叛乱将校中に一人の知人もなく、この人達と関係の深い民間人中の北一輝氏に、
ただ一度---それも数年以前に---面識があるだけであつたから、
もちろん二・二六事件に関係があるはずがなかつた。
ことに、この人達の企てた叛乱。 すなわち、上官の意向を無視して兵を動かし、
多くの要職にある人物を殺し、天下を騒がせたのであるから、
その重大犯罪のまえに、この人達を弁護のしようがなかつた。
ただ、この人達の既述のごとき蹶起の理由については、当時の元老重臣や政界上層部の人達、
並びに軍の上層部の人達の意向に反し、私は深く察せられるものがあつた。
簡単にいえば叛乱将校達の仕出かしたことは、言語道断の非道であるが、
しかしその志が、深く君国を思う一念に発していることだけは、疑いようがないと信じたのである。
そうしてそれには、十分の理由が存するのである。
〔 註 〕
叛乱将校達が、等しく柳川將軍を慕っていたという一事によつて見るも、
むつかしい理窟は抜きにして、この人達が純真君国を思うの人達であることが、
私には直ちにわかるのである。
不純の野心を持つたり、不真面目な心境でいる者が、あの忠誠の権化のような柳川將軍を、
慕うはずがないからである。
それは後段、「 柳川將軍と叛乱将校 」 の一項を見る人々には、十分理解がいくであろう。

ここでその頃なお進行中であつた、相澤事件の公判を振りかえつてみる必要がある。
それは相澤事件と二・二六事件とは、その勃発の動機において大体同様のものであるから、
相澤事件の本質を知ることが、二・二六事件の本質を知る所以ともなるからである。
  鵜沢総明
昭和十一年二月七日 ( 二・二六事件に先立つ二十日以前 )
当時相澤事件の弁護人であつた鵜沢総明博士が、
新聞記者に発表して世間を驚かしめた声明文がある。
その一節にいう、
「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を単に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に、関連を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、
実にその深刻にして真摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・(下略) 」
右の文中において鵜沢博士が、
「 日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けたる者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に関連を有する云々 」
と いつておられる点が最も重要であるが、
これは具体的には何を意味するかといえば、
相澤中佐事件は、
わが建国以来の歴史や、軍人への
勅諭、教育勅語、大日本帝国憲法等によつて、
真面目に教育を受けた軍人が敢行した事件であるという意味である。
したがつて、そこに相澤事件の重大性があるというのが、鵜沢博士の意見である。
教育勅語

天皇御親政とはなにか
終戦後に育った諸君が聞けば、はなはだ時代離れがしているように思うであろうが、
当時の将兵が軍隊教育によつて教えられていたのは、
わが国柄が万邦ぱんぽうに優れた所以は、天皇の御親政にあるということであつた。
天皇の御親政とは、心理即応の政治ということであり、
造物主の意思そのままの政治ということである。
しからば、その真理とか造物主の意思とかいうのは、何を意味するのかといえば、
それは、
「 総てのものの間に大調和あらしめて、万人をしてその生存の意義を全うせしめる道 」
をいうのである。
試みに 明治二年に下しきた 明治天皇の御宸翰ごしんかんをみれば、
「 ・・・今般朝政一新の時に膺あたり、天下億兆、一人も其処そのところを得ざる時は、
皆朕が罪なれば、今日の事朕自ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難かんなんの先に立ち、
古列祖いにしへれつその尽くさせ給ひし蹤あとを履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉じて、
億兆の君たる所に背かざるべし・・・・」 
との お言葉があるが、
このような御心構えで、天皇が御自らわが国を統治し給うて、
「 一人の処を得ざる者  
---すなわち一人の生存の意義を全うし得ざる者---をも無からしめることに努められるのが、
わが国の特色であつて、他の民主国や君主機関説の苦にとは、全然国柄を異にするのである 」
と 教えられていた。
さらに、帝国憲法公布の際の明治天皇の 「 告文 」 を見れば、
「 皇朕すめわれ、天壌無窮の宏謨こうぼに従ひ、惟神かんながらの宝祚ほうそを承継し、
旧図を保持して、敢て失墜することなし ( 中略 ) 玆げんに皇室典範及憲法を制定す。
おもふに此れ皆皇祖皇宗の後裔こうえいに貽のこし給へる、統治の洪範を紹述するに外ならず ( 下略 ) 」
とあり、
天皇の国家統治の大権は、
憲法以前からのものであるゆえんを、明らかにされているのである。
本分の著者は、ここでこのような天皇政治が、善いか悪いかを論じているのではない。
国体擁護論者や軍人は、かく教えられてきたといつているのである。
帝国憲法の草案起草者である伊藤博文公の 「 大日本帝国憲法義解 」
中の 「第一章  天皇 」 の項の解釈にも、
「 恭つつしんで按ずるに天皇の宝祚ほうそは、之を祖宗に承け、之を子孫に伝ふ。
国家統治権の存する処なり。而して憲法に殊に大権を掲げて之を条章に明記するは、
憲法によりて新設の義を表すめに非ずして、
固有の国体は憲法によりて、益々鞏固きょうこになることを示すなり 」
とあつて、日本は他の法治諸国と違い、憲法によつて大権が保証されたのではなく、
それは憲法以前よりのものであり、憲法はただその大権行使の筋道を示すものである所以が、
明らかにされているのである。
世には帝国憲法法第四条に、
「 天皇は国の元首にして統治権を総攬し、此の憲法の条規により之を行ふ 」
とあるのをみて、天皇は元首、すなわち機関であると解釈する者があるが、
それは法治国なみの解釈であつて、
固有の国体に基礎をおく わが帝国憲法においては、そのような解釈をとらぬことは、
伊藤公の憲法義解にある憲法第一条より、第四条までの解釈を熟読すれば明白である。

生物学御研究は大御心ではない
また 「天皇の御親政などであつては、政治の責任がすべて陛下に帰して大変です 」
などという者もあるが、そのような人も天皇政治の本質と、
帝国憲法第五十五条にある国務大臣の輔弼の責任をしれば、そういう誤解がなくなるのである。
天皇の御親政ということは、何もかも天皇が独断的に命令を下し給うて、
諸大臣がこれを執行するというのではない。
それは先きにもいうがごとく、
真理即応の政治、造物主の意思そのままの政治ということであつて、
天皇はそのような真理、そのような造物主の意思を体現せられていて、
その見地から国政上の万機を御覧になる。
諸大臣はまた、その天皇の体現せられている真理に背かざるように
---具体的にいえば、
わが国民中に一人の処を得ざる者もなからしめるように
---天皇を輔翼しつつ政治をしていくのである。
無論その間、天皇は真理の体現者としてのお立場から、
お気付きになつたことを諸大臣に遠慮なくお伝えになるが、
それは決して独断的な御命令ではない。
それは常に必ず大臣の意思を問われるのである。
神代の頃の御政治すら、天津祝詞あまつのりとにもあるように、
「 八百万やおろずの神等かみたちを神集かむつどへに集へ給ひ、神議かむはかりに議はかり給ひて 」
というのが、わが国柄なのであつて、天皇は決して独断はなさらぬのである。
それに対して諸大臣は、また遠慮なく御下問にお答えして、その輔翼の責任を尽し、
結局 「 一人の処を得ざる者もなからしめる 」 政治の全きを期するのであつて、
その政治に誤りがあれば、如何なる場合にも時の内閣諸大臣がその責に任ずるのが、
憲法にいうところの輔弼の責任なのである。
ついでながら、天皇の国家統治の大権というのは、
前述のごとく
造物主の意思を行わせられるための権利であるから、その大権が無限なのである。
さらに明白にいえば、全世界に一人の処を得ざる者をも無からしめねば止まぬという、
天皇の無限の大愛と不退転の意思とが、その大権の裏付けなのであるから、
大権は無限であるというのである。
ただしそれは、天皇が勝手になにをなさつてもよいということではない。
そのような大権を行われるに当つては、必ず憲法の条規によりて行われるのが、
明治天皇が御自ら定め給うた帝国憲法の規定であつた。
いま一つ、後段に幾度かでてくる 「 大御心 」というのは、何を意味するかといえば、
それは造物主の意思を体現せられている天皇の御心という意味であるから、
別言すれば、万人をしてその生存の意義を全うせしめずんば止まざる造物主の意思が、
すなわち天皇の大御心なのである。
したがつて、その意味にかのうことを行うのが、大御心に副う所以なのであつて、
天皇の個人的御趣味や御嗜好しこうを尊重することのごときは、
大御心に副う意味には当らなぬのである。
たとえば、
今上陛下が生物学の御研究を好まれる御心のごときは、
個人的の御趣味であつて、大御心とはいわぬのである。
また、たとえば
一時の御感情から激語されるがごとき場合のお言葉も、
それが大御心の発揚であるかどうかは、
輔弼の大臣がよく考えて、輔弼を誤らぬようにせねばならぬのである。
なお、天皇機関説論者として有名な、美濃部博士の節によれば、
「 君主が統治権の主体であるといえば、統治権は君主御一身の利益のために存する権利であり、
したがつて統治の行為は、君主個人としての行為であるという意味に帰着する。
しかし、君主が御一身の利益のために統治権を行われるということは、わが国古来の歴史に反し、
わが国体に反することの甚だしきものである 」 (尾崎士郎氏著 「 天皇機関説 」 )
というのだそうであるが、
これも美濃部博士が西洋憲法学の上から、他の法治国家なみの解釈をするから、
そういうことを考えるのであつて、以上述べきたつたごとき、
わが固有の天皇政治の上からいえば、
天皇即真理であり、天皇即国家であり、天皇即国民であつて、
天皇が個人的お立場で、御一身の利益のために政治をされるなどということは、有り得ないのである。
さらに帝国憲法第十一条には、
「 天皇は陸海軍を統帥す 」 とあり、
伊藤公の憲法義解には、
天皇が 「 自ら陸海軍を統べ給ふ 」 所以および、日本の征討は、
かならず天皇の御親征である所以を明記されている。
同十二条には、
「 天皇は陸海軍を編制及常備兵額を定む 」 と あつて、
憲法義解には、
「・・・・本条は陸海軍の編制及常備兵額も、亦天皇の親裁する処なることを示す。
此れ固もとより責任大臣の輔翼に依ると雖も、
又帷幄いあくの軍令に均しく、至尊の大権に属すべくして、
而して議会の干渉を須たざるべきなり 」 と ある。
ここに喧しい統帥権問題や、兵力量問題が起る根拠が存するのであつて、
天皇は軍の統帥と兵力量との決定に関しては、政府や議会の干渉を許さぬ権限を持たれ、
それを直接参謀総長、軍令部長および軍部大臣らに命じて、
行使されるたてまえに、憲法が出来上つていたのである。
そのような統帥権の独立が、善いか悪いかは別問題として、
帝国憲法では明らかにそうなつていたのである。

青年将校の精神的背景
しかして、この天皇の統帥の大権は、さらに軍人への勅諭によりて、一層明白にされている。
軍人への勅諭は明治十五年、
すなわち大日本帝国憲法発布より七年以前に賜つたものであるが、
しかしこの勅諭は、憲法発布後に改められておらぬのみならず、終戦のときまでわが将兵は、
皆この勅諭の御趣旨を奉じて、身命を荒野に捨てたのである。
しかもその勅諭は、
「 我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ処にぞある 」 というお言葉より始めて、
「・・・・夫それ兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば--その大綱は朕親みずから之を攬り、
あえて臣下に委ぬべきものに非ず、子々孫々に至るまで篤く斯旨このむねを伝へ、
天子は文武の大権を掌握するの義を存して、再ふたたび中世以降の如き失態なからんことを望むなり。
朕は汝等軍人の大元帥なるぞ 」
というお言葉以下、天皇と軍隊および軍人が直接直属の理義を厳粛かつ懇切に示されている。
なお以上の諸説を裏書するものに、
占領統治が始まるまで、全国の学校で教えられていた教育勅語がある。
試みに教育勅語の始めの数行を見よ。
「 朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇はじむること宏遠に、徳を樹つること深厚なり、
我が臣民克く忠に克く孝に、億兆心を一にして世々厥美そのびを済せるは、
此れ我が国体の精華にして、教育の淵源えんげん亦実に此ここに存す 」
と あるではないか。
すなわち明治以来の教育の本義は、
国体を明徴にし、国体を擁護するにあつたことは明白であつて、
それさえ確かななれば、万徳皆その中に備わるというたてまえであることがしられるのである。
さらに教育勅語の最後の一節には、
「 斯の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶ともに遵守すべき所、
之を古今に通じて誤らず、之を中外に施して悖もとらず、
朕爾臣民と共に拳々服膺けんけんふくようして、
みな其徳を一にせんことを庶幾こいねがふ 」
と あるのをみよ。
もしこの教育勅語の御趣旨を誠実に学んだ者ならば、当然わが国体明徴問題に、
熱心になるべきはずなのである。
日本国民、特に軍人が以上のごとき思想で毎日鍛えられ、
それがいわゆる軍人精神となつていることは、秘密でも何でもない公然のことであつて、
元老も重臣も、またその時々の政府当局も、常に明確に意識していなければならぬことなのである。
皇道派の青年将校達が、特にそれが真面目な将校であればあるほど、
斎藤内閣や岡田内閣の国体明徴問題に不徹底なる憤り、
また統帥権問題に興奮するのは、多年かかる教育を受けているからに外ならない。

国体擁護論者は厄介者か
しかし当時の元老重臣や政界の上層部、並びに一部の官僚や学者の考えは、
以上私が述べたごとき教育を受けた皇道派青年将校達の見解とは、違つていたようである。
右の人達は一種の欧化主義からか、或いは英国カブレからか、
それとも時代にたいする新しい認識のうえからか、日本をもヨーロッパ流の法治国とし、
日本の天皇をイギリス流の君主同様にしたいという考えであつて、
この風潮は宮中方面にも充満していた。
したがつて、これらの人達からみれば、
軍の統帥の問題とか、国体明徴問題とかを喧しくいう者は、
頑迷度し難き厄介千万な存在であつて、
天皇にたいしても、世にいうヒイキの引倒しをする連中であると見えるのであつた。
もつとも元老重臣および、宮中方面の意向に同調していた政治家や軍人諸君の中には、
必ずしも純真君国を思うの念からでなく、
天皇の個人的御趣味や、元老重臣の好むところにおもねつて、
自己の栄達保身を計ろうとした者も、相当いたようである。
この人達の国家の重臣としての他日の言動をみれば、それがわかるのである ( 後段参照 )
ともかく斎藤内閣および岡田内閣は、
当時の世上に喧しかつた統帥権問題や、天皇機関説排撃論に困惑しながら、
憲法や軍人への勅諭の線にそう、明快なる断案を下さず、
逆に統制派の軍人と策謀して、国体擁護論者を排撃しようとしたときに起つたのが、
相澤事件であり、二・二六事件である。
相澤事件の弁護人の鵜沢博士はまた、
「 皇軍全体、何かゆがんでいる。どこか間違つている。
これを明かにしなければ、
この裁判の公正は期し難い 」
と考えられたらしいが、ゆがんでいたのは軍部だけであろうか。
宮中方面や元老重臣および、当時の主なる政治家並びに統制派の軍人達と、
国体擁護論者との間には以上述べるがごとき、
わが立国の本義に関し、重大なる見解信念の相違がある。
これが各種の国家的悲劇となつて、現れるのに不思議があるまい。
たとえば、永田軍務局長を斬殺した相澤中佐は、当時の機関説派からみれば、
狂暴憎むべき不逞の徒であるが、
しかしその相澤中佐自身は、かくすることが国家を擁護し、
粛軍を断行する所以であつて、
当然 天皇の大御心にも副う所以であると考えてやつたのである。
さればこそ彼れは、
その決行以前に伊勢神宮に参拝し、また明治神宮をも遥拝して心身を潔きよめ、
自己の心境に曇りなきを期したのである。
〔 註 〕
相澤中佐は多くの人と一座せる場合など、
誰かが陛下に関する話を始めると、自分がその話相手になつている場合でなくとも、
直ちにいずまいを正して、謹慎をしたということである。
さらに二・二六事件の叛乱将校達も、あれだけの重大事を仕出かしながら、
それが国家を擁護し、天皇の大御心に副う所以であると信じたればこそ、
あれだけ勇敢に邁進し得たのである。
彼らのなかには実に性格の美しい、模範的軍人が幾人もいたことに注意すべきである。
相澤中佐や二・二六事件の将兵の犯した罪が、如何に大きくとも、
彼らの志には察すべきものがあると私がいつたのは、
以上述べるがごとき憲法上、教育上、その他の疑う余地なき根拠によるものである。


『 朕の憾みとする 』 との お言葉

2017年01月19日 20時13分34秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


元老・重臣ら国民をあざむく

此処で私のいわんとするところは、
もし宮中や元老・重臣、並びに当時の政界の上層部の人達が、
その信ずるごとく天皇機関説で結構であり、
また軍人への勅諭も、
すでに時勢に合わぬと考えたのであるならば、
何故に一日も早く帝国憲法をそのように改正し、
軍人への勅諭をもそのように改正し、
教育勅語もそのように改正して、
わが将兵や国民に、誤解なからしめなかつたかというのである。
何故この問題と正面から取組んで、正しく国民を指導しなかつたかというのである。
実際後日に大戦争が起つてからの実情を見れば、
この頃の皇道派が生命線のように考えていた統帥権のごときは、
早く改正しておく必要があつたことが知られるのである。
あの国家の興廃に関する大戦争中に、
総理大臣さえ大本営会議に列席することができぬなどという制度は、
近代総力戦の時代に適当であるはずがない。
それは国家の興廃に関する大戦争の指導は、軍部だけでやり、
総理大臣はただその軍部の要求を満たすがために、働くという立てまえだからである。
しかるに、元老・重臣達は国民を誤らしめざるための、そのような努力は一切避けて、
一般国民、ことに軍人には徹底的に統帥の大権や、万邦無比の国体論を、
学校や軍隊で盛んに教えているのをしりながら  ( それは日本の敗戦降伏の日までつづいていた )
その教えに忠実なろうとする者があれば、
急にソッポをむいて、
「 私達はそんな思想は嫌いだ。
そんな考えを持つのは不逞の徒だ。
私達は統帥権などどうでもよく、
また 天皇は国家統治の機関でよい 」
といつて突き放すならば、
正直に軍事教育を受け、正直に国体教育を受けてきた者はどうすればよいのか。
これでは元老重臣、並びにこれに同調せる政治家達は、
幾十年にわたつて正直な軍人や、国民を欺いていたということになるのではあるまいか。
せめて相沢事件が起つた後なりと、天皇御親臨の下に重大会議を開いて、
この問題と本気に取組んでいたならば、
二・二六事件も起らず、
その後の敗戦降伏の運命も、
いくらか違つていたかも知れぬのであるが、
当時の元老・重臣や内閣などの態度が、そこにでなかつたことが惜しまれるのである。
ズッと後にいたつて、世上に伝わつたところによると、
天皇陛下には国体明徴問題の喧しかつた当時、
本庄侍従武官長にたいし、
「 天皇機関説でよい 」
という御意向を洩らされた由であり、
当時の機関説派の人々は、
「 これ見よ、陛下がすでに機関説でよいとの御意向であつたのに、
なおかつ機関説排撃をやつた者は、不逞の徒ではないか 」
といわんてするらしいが、
それは はなはだ筋道のとおらぬ話である。
本庄侍従武官長がもしそのようなお言葉を承うけたまわつたのが事実であるとすれば、
事柄はすこぶる重大であるから、
それを直ちに陸軍大臣および内大臣につたえ、
両大臣はまたこれを時の首相以下の内閣諸公につたえるべきである。
内閣諸公はまたそれが正しい大御心の発揚であるか否かを考え、
もし しからずと考えたならば、その意見を申上げるがよく、
もし しかりと考えたならば、内閣の責任において奏請そうせいせる、
勅語の形をもつて全国民に徹底せしめるべきである。
なおその勅語には、当然、大日本帝国憲法、軍人への勅諭、教育勅語等も、
天皇機関説是認の御趣旨に副うて、改正させるべきことが、附言されていなければならぬのである。
また陛下としてもそのような重大な御意見は、実は侍従武官長などに洩らされるべきではなく、
当然総理大臣におはかりになるべきであるのに、
陛下も内閣もともにその処置にでなかつたのをみれば、
侍従武官長の日記にあるお言葉は、誤記に相違ないと思われるのである。

『 朕の憾みとする 』 との お言葉
叛乱将校達が縛についた後の統制派軍部の態度は、
世上の言論取締りのうえにおいても、陰険と苛酷をきわめた。
新聞雑誌の記事は厳重に検閲せられ、
いささかたりとも叛乱将校達に同情めいた記事を載せたるもの、
或は軍の発表せざる機微な情報を伝えたものは、片つぱしから発売を禁止せられたうえに、
憲兵隊の取調べを受けた。
また、平生多少たりとも叛乱将校達のなかの誰かと親しみのあつた者は、
軍人たると民間人たるとを問わず、残るところなく検挙せられた。
個人の親書も検閲を受け、二・二六事件の消息を伝えた者は、
ことごとく呼出しを受けてその出所を追及せられたが、
なかにも麹町内幸町の〇〇〇料理店で、ある学生が二・二六事件の話をしていた際のごとき、
私服憲兵にそれを聞かれて拘引せられ、
その消息の出所を同学生の母親以下、芋づる式に十六人まで追及検挙せられた事実等もあつて、
叛乱将校達にたいする暗黒裁判進行中の世上は、陰鬱な空気に充ち満ちていた。
かかる空気のなかにあつて、
同年 ( 昭和十一年 ) 五月一日、
広田内閣のもとに帝国議会が召集せられたが、
同四日の開院式に臨まれた陛下の勅語のなかには、
「 今次東京に起れる事件は、朕の憾みとする処なり 」
という お言葉があつた。
憾みは恨みに響く。
この御一言が、その頃進行中の叛乱将校裁判に如何なる影響をおよぼしたかは、
多くいうにおよばぬであろう。
 湯浅倉平内大臣
その後のある日私は、
湯浅内大臣を、宮内省の内大臣府に訪問して所見を述べた。
私が湯浅内大臣に面会した節、最初に持出した問題は右の勅語のなかの、
「 朕の憾みとする処なり 」
という お言葉についてであつた。
「 一体あの勅語は、誰が陛下に奏請したものであるか。
私は はなはだ出過ぎたことではあるが、お許しを願つて論じたいことがある。
あの勅語奏請の責任者は、内大臣たるあなたですか 」
湯浅内府は答えていう。
「 あの勅語の奏請は政府の責任であつて、私の与あずからぬところである。
しかし あの勅語にたいして、あなたに意見があるといわれるならば試みに私が承りましょう 」
そこで 私はいつた。
「 あの勅語のなかに・・・・朕の憾みとする処というお言葉があるが、
ああいうお言葉があると、叛乱将校にたいし、天皇の深い御憎しみがかかつていることが、
明らかに観取せられるが故に、
いわゆる皇道派と統制派との間の相剋が一層ヒドくなる。
ことにそれが下々にいくほど鋏状にはなはだしくなつて、
軍部内の相剋が激しくなることを、お考えにならなかつたのでしようか 」
内府はいう。
「 憾みとするところとは、遺憾に思うということであるが、
ああいう事件が起つたのを、陛下が遺憾に思われるのが何で悪いでしよう。
あなただつて遺憾に思うでしょう 」
「 遺憾な出来事には相違ないが、
それが国民にたいし軍部にたいし、如何なる影響を与えるかを考えて、
勅語は奏請すべきものである。
ああいうお言葉があると、
それ見よ 陛下は皇道派のことを憤つておられるのだということになつて、
統制派は威丈高になつて皇道派に圧迫を加える。
皇道派はまた自分達の心事の方が、統よりも遙かに正しいのだという信念のもとに、
これを反撃するということになつて、軍部の対立に油を注ぐことになります。
だからあのようなお言葉は、勅語には奏請してはならぬものと 私は考えます 」

涙を浮べた真崎、柳川将軍
湯浅内府は例の思慮深げな顔付をしていつた。
「 それではどういうお言葉を用いればよいのか、あなたの考えをいつて御覧なさい 」
「 しからば、御免を被こうむつて申上げます・・・・・・
もし今度の勅語が、
朕の憾とするところ
と いうお言葉の代りに、
皆朕の不徳による
と 仰せられたならばどうであるか。
皇道派も統制派もともに、そのお言葉の前に恐懼して、
われわれがいたらぬために、陛下が不徳だと仰せられた。
これは相すまぬことだと相互に深く反省し、
どちらに理があるにしてもこの上相剋をやつて、陛下に御心配をおかけしてはならぬと思うて、
相克が治まる方向にむかうでしよう・・・・・・
今度の勅語はその逆であるから、これから一層軍部内の相剋がヒドクなるでしよう 」
このとき湯浅内府は小声で、
「 陛下が遺憾に思われたということがどうして悪いか・・・・」
と つぶやかれた。
そこで私は、さらにいつた。
「 国家に不祥事が起つた場合には、わが国柄のうえからいえば、
( 明治天皇の前記の御宸翰ごしんかんを拝読してもわかることであるが )
如何なる場合にも、朕の不徳によるという勅語を奏請すべきです。
昔の聖天子は天災地変にたいしてさえ、朕の不徳によると仰せられて、
御位みくらいを譲られた方もある
・・・・こんどの勅語のために、
恐らく軍部内の相剋がますます盛んになつて、国家が禍いをこうむるでしよう 」
私と湯浅内府との勅語問答は以上で終つた。

さきに私は、天皇は真理すなわち、造仏主の意思の体現者であるといつた。
その天皇が国家の一大不祥事にさいして、
一方に憎しみのかかるような勅語を下さるべきでないくらいなことが、
当時の広田首相以下の各大臣、西園寺元老以下の各重臣らにわからなかつたのであろうか。
不祥事が大きいければ大きいほど、天皇は造物主そのままの無限の大愛をもつて、
相剋せる両派の迷妄をさまし、その良心を引きだして、
これを融和せしめる意味にかのう勅語を賜わるべきであり、
そこにわが天皇政治が他国にはあり得ざる、万邦無比なる所以が存するのである。
しかるに、当時の輔翼の責任者達が、わが立国の本義を解せざる機関説派であつたがために、
かかる大事な勅語奏請の道を誤るという、失態を仕出かしたのである。
時代が変つて今後には、最早このような勅語問題の起ることはないかもしれぬが、
このときの勅語問題は、日本歴史上の一大痛恨事であつたといえよう。
なお右のごとき勅語問答を、数日後に私から当時軍部の相剋の渦中にあつた川島大将、
( 事件当時の陸相) 真崎大将や林大将などに話をし、
他日台湾から帰京せられた柳川将軍にもお話ししたが、
真崎、柳川両将軍は両眼に涙を浮かべて何もいわれなかつた。
川島将軍は同じく涙ぐまれて、
「 ああ、もしそういうお言葉であつたならばなあ・・・・」
といわれ、林将軍(当時の前陸相)は、
「 そういう勅語を賜わつたのならば、これほど有難いことはなかつた。
そうすれば万事よくいつたのだが・・・・残念であつた・・・・」
といわれて、これも涙を抑えられた。

他日に現われた結果から見ると、
あの勅語の影響は、私の想像したよりも、さらに遙かに悪いものがあつた。
つまりあの勅語によつて天皇は統制派に組せられ、
統制派の意に満たぬ者はドンドン処分せよと仰せられたと同じことになり、
そのために叛乱将校達にたいする裁判が暴戻ぼうれいをきわめたのみならず、
さらに皇軍精神の怪しい統制派の意に満たぬ者は、
相克の余地さえもなく、片はしから左遷或いは予備にせられて、わが陸軍内が変貌しつくした。
〔 註 〕
世には当時の軍部内における皇道派と統制派の争いの事情を知らぬ者が多い。
その人達からみれば、叛乱将校達を厳罰に処したことは、
それで軍部全体を厳重に戒めたつもりなのであろうが、何んぞ知らん 右の誤れる勅語の奏請は、
統制派に斬捨て御免の武器を与えたことになり、そのため急速に軍部内が統制派一色となり、
さうしてその中心をなす幕僚将校達が、他日の独伊派将校すなわち主戦派となつて、
国家を悩まし抜いたのである。
前記の将軍達があの勅語を嘆なげいたのも、このような事態の招来を恐れたからであつた。

叛逆罪はゆるされたい
湯浅内府と勅語問答をしたあとで、
私はその日なお湯浅内大臣にたいして、叛乱将校達が奉勅命令違反の故をもつて(後段参照)、
叛乱罪でなく陛下にたいする叛逆者 ( すなわち叛徒 ) と目されていることについて述べ、
彼らがあれだけの大罪を犯したうえは、彼らが国法により如何に極刑に処せられるとも、
自分において毛頭異存はないが、
ただ処刑の前にどうか叛逆の罪だけはゆるされるようにおとりなし願いたい、と懇談した。
当時叛乱将校達にたいする上層部の憤りを、そのまま代表している湯浅内府は、
なかなか私の言を受け入れようとしなかつた。
しかし私は、彼らのとつた手段が、如何に誤つていたにしても、
国体擁護顕現の意気に燃えて事を起した者らを叛逆者として処刑することは、
最も慎まなければならぬことである・・・・罪が重大であることと叛逆とは別物である所以を説いたが、
湯浅内府が、なおいつこう納得しそうにないので、私はさらに言葉を励ましていつた。
「 私は断言しておきます。
彼らを叛逆者として殺したならば、他日、必ず国家は禍いをうけますよ・・・・
君らは重大な国法を犯した者であるから、当然死刑は免れぬが、
しかし、その動機が君国を思うの念に発したことは、十分に認められ、叛逆の罪は許されたから、
左様承知せよ・・・・といえば、彼らはどんなにか喜んで死につき、かつ自分達のとつた方法が、
誤っていたことについても十分に反省するでしようが、
叛逆者として殺されたのでは、絶対に浮かばれない
・・・・ また、それが将来の皇室と国家への禍いとなりましよう
・・・・このくらいのことがお分りになりませんか
・・・・国政上の大事はかかる点にあるのがお分りにならぬのですか 」
と力説したところが、最後には湯浅内府の心も大分動いたらしく、
「 ともかく、判決の結果を待ちましよう。 
あなたのいわれることを考えるのは、それからでも遅くはないですから 」
といわれた。
しかし、湯浅内大臣にたいする私の折角の努力も遂に徒労に帰し、
叛乱将校達は闇黒裁判の結果、
その心事をひろく訴える途もなくして、叛逆者扱いのもとに銃殺の刑に処せられた。
ここで明白にしておきたいのは、
叛乱将校達は叛乱罪として処刑せられたことになつているようであるが、
実はそれよりも遙かに重い 天皇にたいする叛逆者として処刑せられていることである。
彼らが叛逆者と認められたのは、
二・二六事件勃発後三日目の二十八日夕方五時に下達されたはずの、
左の奉勅命令に抗したということからきている。
【 奉勅命令 】
二十六日朝来行動せる部隊は、速やかに明治神宮外苑に集結すべし、勅を奉ず。
この短文の奉勅命令に抗した故をもつて、叛逆者となつたのであるが、しかし実際においては、
この奉勅命令は下達されていないのであつて、現に生存しておられる当時の第一師団、
歩兵第一聯隊にいた山口一太郎大尉( 映画 「 叛乱 」 にもたびたびでてくる山口大尉 ) は、
そのことについていう。
「 自分は小藤聯隊長としめし合わせて、奉勅命令は握りつぶした・・・・だから蹶起将校達は、
命令の内容をしらぬはずだ・・・・またあの当時は叛乱将校達に電話を利用させないために、
電話は外部で切断していたし、
ラジオは叛乱将校達の方で、兵士に外部の雑音を聞かせぬために取り外していたから、
叛乱将校達は、奉勅命令を知らなかつたのが本当である 」
〔 註 〕
山口大尉は聯隊副官として受取つた奉勅命令は、右に掲げたものに相違ないが、
その後それは書き直されて
「 ・・・各所属部隊長の隷下に復帰せしむべし 」
という奉勅命令がでたともいわれるが、矢張り下達されなかつたのが事実のようである。

しかるにもかかわらず、陸軍軍法会議は、叛乱将校達に下達せられたものとして、
奉勅命令違反の叛逆者扱いにしたのである。
陸軍刑法には 「 叛逆罪 」 という罪名がないのであるが、
前記の湯浅内府と筆者の問答によつて見るも、
上層方面が叛乱将校達を 「 叛逆者 」 または 「 叛徒 」 と認めていたことは明らかであり、
また二月二十九日午前六時に戒厳司令部の発表にかかる、戒厳司令官告諭第二号にも
「 本職は更に戒厳令第十四条全部を適用し、
断乎南部麹町附近に於て騒乱を起こしたる叛徒の鎮圧を期す云々 」
とある。
なおそれを裏書きするものに、二・二六事件勃発後、同二月二十九日附にて、
宮内省より発表せられた叛乱将校二十名にたいする位記返上辞令の返上理由書がある。
すなわち、同理由書には、
「 大命に抗し、陸軍将校たる本分に背そむき、陸軍将校分限令第三条第二項該当者と認め、
目下免官上奏中のものとす 」
とある。
熱海の陸軍病院に療養中であつた河野大尉はそれにより、
「 陛下の御ために起ち上つた私が、夢にも思わなかつた叛徒になつた 」
と嘆いて自決をしている。
〔 註 〕
よく考えてみると、右の宮内省発表に 「 大命に抗し 」 とあるのはおかしい。
大命とはいうのは、天皇が国家統治上の大権を直接行使される場合、
たとえば、内閣組織の大命を降し給う場合、
或いは大元帥陛下としての御命令を、直接軍司令官に御伝えになる場合 等に用いる言葉であつて、
前記の奉勅命令などは、大命とはいわぬのである。
あのような 「奉勅命令 」 は、軍の当局者が 「 こういう命令を出したいと思います 」 といつて、
陛下の御裁可を得て出した軍当局の命令という意味である。
したがつて、たとえ奉勅命令に違反しても ( その罪が軽いわけではないが )
それを 「 大命に抗し 」 と断ずるのは間違いであるが、当時の宮内省方面の、
叛乱将校達にたいするはなはだしい憎しみが、あのような文字となつて現れたのであろう。


奇怪至極の軍法会議

2017年01月17日 20時11分43秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬

 


奇怪至極の軍法会議

叛乱将校達を断罪した陸軍軍法会議には、数々の奇怪な事実がある。
第一
奉勅命令が正式には下達されていないのを、下達したものとして裁判を進めている。
第二
主任検察官であつた故匂坂春平氏方に保存されている書類によると、
軍首脳部では初めから叛乱将校全部を、死刑にする方針を決定していたらしく、
七月五日発表の判決では無期禁錮となつている将校達まで、
全員を死刑としてある謄写版刷りの判決予定書があり、それに検察官が筆を入れてあるという。
これは明治四十三年の幸徳秋水らによる大逆事件において、
裁判官が死刑に決定した二十四名のうち、
十二名が死一等を減ぜられたのと、全く反対の生き方であつた。
なお匂坂氏はこの判決後怏々おうおうとしてその生を楽しまず、
毎年麻布賢崇寺で行われる二・二六事件関係者慰霊祭には、
( その中には斎藤内大臣らの被害者の霊も含まれている)
寺の玄関まで姿を見せる外は、栄養を減じ、病気を養わずして、二十八年八月十九日、
すなわち北、西田、磯部、村中の四氏が銃殺になつた十七回忌に当る日に、死亡せられている。
第三
初め検察官の論告の際には、死刑は十六名であつたのに、
判決の際には一名増加して十七名となつている。
これは論告の際に禁錮十五年を言渡された水上源一君が
「 他の同志の人達が死刑になるのに、自分が助かつてはすまぬなァ 」
といつたため、死刑に廻されたのであると伝えられている。
このようなやり方も、前記の大逆事件の際の死刑罪の減員とくらべて、
この時の裁判が如何に暴戻ぼうれいであつたかを証明するものであろう。
第四
二・二六事件関係者中の民間人を受持つた吉田裁判長の梅津陸軍次官および、
阿南兵務局長宛に提出したる上申書によれば、
同氏は、北、西田両氏にたいする取調べ以前の心証と、
取調べ後の心証とが全く異つた次第を述べて、
「 ・・・・公判内容をも承知せざる部外者の断じて批判を許さざるもの有 之と存し申候 」
といつており、
吉田裁判長は、北、西田両氏を死刑にすることなどは思いもよらぬ心境であつたらしいが、
実際には北、西田両氏は死刑になつている。
第五
對馬中尉は一弾で死んでいたけれども、
急所を外れたので内出血が多く、仮死の状態にあつたものとみえ、
銃殺後十時間ほどで火葬にしたが、火葬中に生き返つたのか、
「 ウワー 」 「 ウワー 」 「 ウワー 」 という叫び声が、
三度まで聞えたのをかまわず焼き尽くしたということ等。
奇怪な事実が数々ある。
〔 註 〕
この七月十二日に銃殺せられた将校達と引離されて、刑の執行の遅れていた村中大尉は、
この将校達処刑後の七月十九日に、左のごとき感想文を綴つている。
七月十九日、今日は香田兄ら十五士の初七日なり、
午前入浴場より刑場を見る。
以前と趣を異にして、赤土が堆まれあり、
嗚呼 相澤中佐外十五士の鮮血は、この赤土に濺そそがれあるか。
夕刻遠雷頻りに鳴り、四辺暗澹あんたんたり、
すなわち一詩を賦して口吟微吟して悲しむ。
嗚呼、尽忠無私至誠純情十五士 今や亡し、
然れども、余には呼べば答える感をなさしむ。
七月十一日を想起するに涙新あらたなるものあり。
余と磯部氏とは前夕 ( 十一日夜 ) 同志と一緒なりし獄舎より、
最南位にある一新獄舎に移さる。
十二日朝、十五士の獄舎より 国家を斉唱するを聞く。
次いで 万歳を連呼するを耳にす。
午前七時より、二、三時間 軽機関銃、小銃の空包音に交りて、小銃の実包音を聞く、
すなわち死刑の執行なること手にとるごとく 感ぜらる。
磯部氏遠くより余を呼んで
「 やられていますよ 」
と 叫ぶ。
余 東北方に面して坐し、黙然合掌、
噫 感無量、鉄腸も寸断せらるるの思あり。
各獄舎より 「 萬歳 」 「萬歳 」 と叫ぶ声頻りに聞ゆ。
入所中の多くの同志が、刑場に臨まんとする同志を送る悲痛なる萬歳なり。
磯部氏また叫ぶ
「 私はやられたらすぐ血みどろな姿で、陛下のもとに参りますよ 」
と、
余も 「 僕も一緒にいく 」
と 叫ぶ。
嗚呼 今や一人の忠諫死諫の士なし。
余は死して維新の招来成就に精進邁進せん。
後に聞く、
この朝、香田兄の発唱にて
「 君が代 」 を斉唱し、かつ 「 天皇陛下萬歳 」 「 大日本皇国萬歳 」
を三唱したる後、
香田兄が
「 撃たれたら直ぐ 陛下の御側に集ろう。 爾後の行動はそれから決めよう 」
というや、一同意気いよいよ昂然として不死の覚悟を定め、従容しょうよう迫らず、
いささかも乱れたるなく、歩武堂々刑場に望み刑に就きたりと。
今や 「 死而為鎮護国家之忠鬼 」 と大書したる前に端坐して、
十五士のため、法華経二巻を読誦くしょうし終るや、
遠雷変じて閃々せんせんたる紫電となり、豪雨ついて沛然はいぜんたり。
十五士中一人が
「 しばらく湯ケ原で避暑し、一週間後に東京に帰つて活動を開始しよう 」
と いいたりという。
十五士雷雲に乗じて帰りくるか。
前詩を口吟して英魂を慰めんとするに、
涙また両頬を伝つて声を発するあたわず。

死の直諫無視せらる
私は叛乱将校達が、多くの点において納得の行かぬ取扱いを受けながら、
なお最後に係官に頼んで宮城遙拝所をつくつてもらい、
「 天皇陛下万歳」
を 奉唱して死んだ心境を思うと、誠に彼らのために涙なきをえぬのである。
彼らが あの期におよんでなお陛下の万歳を奉唱したのは
「 自分達の採った手段は如何に間違っていたにせよ、自分達の奮起した動機が、
立国の本義に照らし、わが国体を護らんとする一念にあつたことは、
やがて陛下に御理解を願う時が必ずある 」
と 確信し、かつ
「 自分達の死が、日本国の上下の反省の材料となつて、国運が栄えるように 」
と 祈つてのことであると思う。
もし当時の軍首脳部や重臣達が、彼らのこの心事をくわしく天皇に奏上して、
その御理解をえていないとするならば、その人達も帝国憲法と軍人への勅諭に照らして、
当然処罰せらるべき人達ではあるまいか。
〔 註 〕
あの叛乱将校中、最も思慮の深かつた安藤大尉。
この人は陛下の軍隊を勝手に動かすことの重責を感じて、最後まで起つに躊躇した人であるが、
その人が形勢いよいよ逆転して、叛乱将校達討伐の軍が迫つた際
「 ・・・六中隊だけは最後まで闘うのだ。
陛下の御心にわれわれが尊皇軍であつたということが、お分り願うまで頑張るのだ。
昭和の陛下を後世の〇〇〇にしない歴史をつくるために、闘わねばならぬ 」
と いつた言葉を思い合せて、血涙を絞らざる者は憂国の士ではあるまい。

叛乱将校達を叛逆者として処刑したことは、
わが上層部があれほどの事件を何んの反省の材料ともせず、
ただ 不逞の徒の許すべからざる暴挙として、
一方的な憎しみだけで処刑したことを意味するのであるが、それでよいであろうか。
たとえば、叛乱将校達を憤激せしめた統制派の人々は、
天皇の御名において叛乱将校達を銃殺し終れば、
あとは自分達が全く勝ち誇つた気分で、軍部を指導してよいものであつたか。
また、たとえば 西園寺元老、牧野重臣、岡田首相、鈴木侍従長らの命拾いをした人達は、
これも自分達の側には何の怠慢も、不明もなかつたものとして、
その後の長寿を誇つてよいものであつたろうか。
叛乱将校達を極刑に処したのはよい。
ただ その代りには彼らが わが国政の運用に関し、死をもつてなしたる直諫は、
十分に生かしてやるだけの各種の処置が、絶対に必要であつたと思う。


皇軍はあの時に亡んだ

率直にいえば、叛乱将校達を叛逆者として処刑したとき、
大元帥陛下の帥ひきい給う皇軍 ( すなわち天皇の軍隊 ) は 亡んだのである 。
彼らを銃殺のために撃つたあの銃声は、
実は皇軍精神の崩壊を知らしめる響きであつたのである。
しかも、その銃には菊の御紋章が入つているのである。
大元帥陛下の御紋章の入つている銃で、
刑死の瞬間まで尊皇絶対を信念とした人々を、
極度の憎しみで射殺したのである。
この深刻なる不祥事の国運におよぼす悪影響を思うて、戦慄せざる者は神経の麻痺者であろう。
〔 註 〕
もし当時の陸軍大臣、参謀総長、教育総監 ( あるいは総理大臣、内大臣 )
らのうちに人物がいたならば
「 如何に大罪を犯したりとはいえ、その動機が尊皇に発している以上は、
しかして最後の日まで彼らの尊皇の信念が変らぬ以上は、
菊の御紋章入りの銃をもつて叛乱将校達を射殺すべきではない。
さようなことをすれば、軍首脳部みずから尊皇心の崩壊を招くこととなるから、
彼らの死刑は別の方法によるべきである 」
ということにすれば、あの事件を機会に一層尊皇心を涵養することさえもできた次第であるが、
なにぶんにも西園寺元老を始めとして、尊皇の大嫌いな人物が、
政界および軍部の上層部に揃つていたのであるから、そのようなことを考える者もなかつた。
かくして尊皇を口にする者は冷笑または痛罵つうばを受ける、
昭和末期の事態が招来せられたのである。

それはまた同時に一般人にたいしても
「 爾後日本を万邦無比の国体などと考える者は、不逞の徒であるぞ 」
と いう断案が下つたことも意味した。
後日の悪質無謀なる大戦争への突入、
それはわが万邦無比なる国体精神のうえからいうならば、
絶対に許されざる侵略戦争であつたが--そうしてその結果の敗戦降伏は、
すでにこの時に運命づけられたのであることを知らねばならぬ。
いま一度、繰返してこれをいえば
「 万邦無比の国体 」 観念を帰来いたわが上層部や、一部の学者、新聞人らは、
ここで他日の侵略国なみの大戦争に日本が引入られる運命を、自ら招いたことになつたのである。
なお、それがすでに侵略戦争であつた以上は、
わが国が 「 天佑を保有し 」 えなかつたことも不思議ではあるまい。
日本は明治以来幾度か戦争を遂行した。
そうしてそのたびごとに宣戦の詔勅にあるごとく、
「 天佑を保有し 」 えた。
しかし、今度の戦争には、天佑は敵国にあつて、日本の側にはなかつた。
それは日本が科学の力において不足であつたのみならず
「 天佑を保有する 」 資格なき、侵略国になりさがつていたからである。
「 天佑を保有し 」 という宣戦詔勅を奏請しさえすれば、
侵略戦争にでも天佑があると考えた当時の当局者は愚かなるかな。

一般国民はそのことをしらず、相変わらず明治時代同様に、
天皇陛下万歳の心境に徹して邁進さえすれば、
かならず 「 天佑を保有し 」 うる国体であると信じ、
いわゆる必勝の信念をもつてあの大戦争にのぞんだ。
そこに日本国民の一大悲劇の原因がある。
その犠牲の如何におびただしかつたかを想え。
それでも、
「 日本が負けてよかつた 」
とは、日本人たる私は如何にしてもいいたくない。
しかし実際においては、
もし日本が戦勝をしていたならば、あの統制派の軍指導者達のやり方から想像すれば、
その後如何に多くの罪悪か、東亜の天地において行われたかを、
想像するだに戦慄をおぼえる。
おそらくその後に犯した罪悪は、他日、日本民族の滅亡に値するほどの
大したものであつたに相違ないと察せられるのである。
〔 註 〕
叛乱将校処刑当時より、統制派軍部のはなはだしき圧迫干渉のなかに、
二十二士の遺骨を護り通して、
その慰霊祭を怠らなかった賢崇寺の藤田俊訓老師にたいしては、
遺族の諸氏とともに私達の感謝措く能あたわざる処である。


軍部独裁の陣容整う

2017年01月15日 20時09分56秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


軍部独裁の陣容整う

かくして、皇道派が徹底的に一掃せられ、統制派一色になつた後の軍部はどうなつたか。
まず 二・二六事件後三カ月を経た昭和十一年五月二十八日に、広田内閣のもとにおいて、
陸海軍大臣の任用制度が改正せられ、
「 陸海軍大臣は現役の大将又は中将に限る 」 こととなつた。
これでその時々の四、五の有力なる現役大・中将らが結託すれば、
如何なる軍独裁も行い得ることとなつたのである。
その後における杉山、寺内、畑、東條、梅津、板垣ら各将官の間における、
軍要職のたらい廻し的人事は、その源をここに発している。
ついで昭和十二年一月に 広田内閣が辞職して、宇垣大将に内閣組織の大命が降つた時、
寺内陸軍大臣は大磯の別邸において、
「 宇垣内閣で結構 」
との 意志表示をしたが、
それを聞いた統制派の時めく幕僚将校は、さつそく寺内陸相の上京を促し、
陸相官邸に毛布を持つて座り込み、宇垣内閣を流産せしめるまでこの場を去らぬと頑張つた。
( これがその後における労働運動者の座り込み戦術の先駆をなすものである )
その結果、宇垣大将は折角内閣組織の大命を拝しながら、苦闘四日の後、
遂に陸軍大臣が得られないために、大命拝辞の余儀なきにいたつたのである。
宇垣内閣流産の後に、内閣組織の大命を拝したのは林銑十郎大将であるが、
その内閣の陸軍大臣に就任した杉山元中将は、議会の質問に答えて、左の通りにいつた。
「 当時の陸軍は決して宇垣内閣の出現を妨害したのではなく、
ただ陸軍の三長官会議において銓衡したる数名の候補者が、
いずれも陸相たることを肯がえんぜなかつたのである・・・・
それには特殊の事情があるが、それはいわぬ方がよいと思う 」
しかし、一体白昼公然、内閣組織の大命を拝した宇垣大将の内閣組織にさいし、
陛下の陸軍が大臣を出さなかつた事情が、秘密にされて済ますべきことであろうか。
私は宇垣大将が、三月事件を企てた人であることをしつており、
また宇垣氏の性格がきわめて大つかみな人であることもしるが故に、
宇垣氏が首相になれなかつたことについては、何も惜しむところがなかつた。
けれども内閣組織の大命を拝した宇垣大将に、大元帥陛下の陸軍が大臣を出さぬということは、
これこそ先きの叛乱将校達の奉勅命令違反以上の大命反抗であると思つたし、
ことに柳川将軍は、これが悪例となつては大変であると、頻しきりに嘆かれるので、
私は遂に意を決して、
「 奉勅第一主義の徹底 」
という一文を書き、まずそれを民間法律界の権威者である松本烝治博士に聞いてもらつて、
私の所論が法律上誤りなき正論であることを確め、
つぎに当時の枢密院議長である平沼喜一郎氏にも同様に確め、
さらに時の総理大臣林銑十郎大将の同感を得、
また、その紹介にて当時の大村警保局長に会い、
その紹介にて赤羽図書課長に文章の事前検閲を受け、
これなら絶対に法律違反にならぬという言明を聞いた後、
それを読売新聞紙上に約半頁大の広告として公表した。
流石の軍部も、私のその一文に大狼狽し、
陸軍省新聞班の菊池大尉と、東京憲兵隊の林少佐とが早速内務省図書課に赤羽課長を訪い、
私の文章の載つた読売新聞を至急発売禁止にしてもらいたいと申込んだ。
しかし赤羽課長は、
「 あの文章のどこに法律違反に問われるべき点があるか 」
と 反問すると、二人の将校は、
「 実は陸軍の法務局で研究したのだが、文章が実に巧妙にできていて、
どこにも違反の字句がないけれども、もしあの文章を紫雲荘が例の通り、
つぎつぎと各大新聞紙上にけいさいすることになれば、
その影響は恐るべきものであるから、是非発売禁止をしてもらいたい 」
といつた。
赤羽氏は答えて、
「 文章に違反の字句がなくて、恐るべき影響があるというのなら、
それは筆者がエライということなのだから、
致し方がないではないか、こちらは発売禁止にするわけにいかぬ 」
といつて、突っぱねた。
二人はスゴスゴと辞去したが、今度は憲兵隊の和田准尉を各大新聞社に派遣し、
紫雲荘の文章不掲載を懇願せしめた上にて、
さらに午後にはさきの二将校が再び赤羽図書課長を訪ね、
「 どうしても、あの文章を差止めてくれぬと、軍が崩壊の恐れがある 」
といつて泣きついた。
その結果赤羽課長より、私にたいし、
「 こちらは決して掲載差止めはせぬが、最早効果十分と思うから、
他新聞への掲載は見合わせてもらえぬか 」
という話があつたので、私はその後の新聞広告を見合わせることにしたのである。
( 和田准尉が各新聞社を廻つた以上は、
他新聞への掲載は企てても無駄であつたに相違ないのである )
なおその数日後、憲兵隊の林特高課長より呼出しがあつたので、出かけていくと、
実は憲兵司令官中島今朝吾中将より林特高課長にたいし、
「 橋本を拘引せよ 」
という命令があつたが、林課長は、
「 橋本の文章の掲載紙さえ発売禁止になつていません。
法律違反のない者を拘引はできません 」
と 答えると、
「 面倒臭いことをいう奴だ 」
と 怒鳴られた由であり、
そのような空気のために こちらからお伺いするはずのところ、
お出でを願うことになつたという意味の話があつた。

左に掲げる文章は、当時( 昭和十二年三月 ) の読売新聞紙上に掲載せられた
「 奉勅第一主義の徹底 」 の 全文である。
天皇が国家の象徴となつた昨今では、すでに古典的文章に属するけれども、
然し、この文章を読む者は、当時の宇垣内閣を流産せしめた統制派の軍部は、
すでに軍全体を挙げて
先きの叛乱将校達が夢にも持たなかつた逆心を、持つていたことを知るであろう。
足利尊氏は建武の昔にばかりいたのではない。
建武中興のさいには、その論功行賞を誤つたのが、足利尊氏叛逆の原因のごとくいわれているが、
昭和の足利尊氏の一統をつくり上げたのは、二・二六事件を何んの反省の材料ともせずして、
ただ憎しみだけで処刑した誤りに、帰すべきではあるまいか。
「 叛乱将校達を叛逆者として処刑した時、大元帥陛下の率い給う皇軍は亡んだのである 」
と、いつた私の言葉に誤りがなかつたことが知られるであろう。
あの事件で銃殺された中の一人である渋川善助君も、銃丸眉間を貫く寸前に、
「 国民よ、軍部を信頼するな 」
と叫んだ由であるが、この渋川君の国民にたいする悲痛なる遺言も、
国民の耳に達しなかつたのが惜しまれるのである。
それにしてもあの二・二六事件のさいに、叛乱将校達の奉勅命令違反をあんなに憤つた
元老、重臣、宮中方面、学者、新聞人らが、宇垣内閣流産のさいの軍の叛逆について、
何んの憤りも示さなかつたのが不思議である。
その前後の態度の相違は何に原因をしているのであろうか。
彼らもまた、昔足利尊氏を助けて、楠正成を討死せしめた者の子孫だからであるか。 


奉勅第一主義の徹底

2017年01月13日 20時07分51秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


奉勅第一主義の徹底

杉山陸相らは将来の保証を如何にするか
一、
天皇陛下が内外人の注視の中において、
公式に降し賜わる内閣組織の大命は---
特に直接大権の発動にもとづく---最も神聖なる詔勅 ( みことのり ) である。
( この点各権威者の意見が一致している )
それ故にこそ大命と申上げるのであるから、既にこの尊き詔勅が降つた以上は、
いやしくも日本国民たる者は孰いずれも 「 詔を承けては必ず謹む 」 の精神をもつて
これを畏かしこみ、
こぞつてその御趣旨の徹底するように祈らねばならぬのはもちろんであつて、
もし日本臣民中にその御趣旨の徹底を妨ぐる者、または之を軽んじ奉るがごとき者があれば、
その者は直ちに違勅の大罪を犯すことになると信ずる。
二、
ことに天皇陛下の軍隊に職を奉ずる軍人たる者は、
如何なる場合にも常に詔勅の御趣旨の徹底を第一に措くの点において、
一般国民の模範とならなければならぬのはいうまでもないことであつて、
万一にもこの軍人の奉勅第一主義が、
ある特殊の場合には例外が許されるなどと考えることが、絶対にあつてはならぬと思う。
もし左様な場合の例外が許されて、
ある場合には奉勅第一主義でなくともよいようなことがあるしすれば、その例外が先例となり、
またその例外がさらに他の例外を産んで わが国がいよいよ非常時に臨むほど、
奉勅の筋道さえも不明となり、それが軈やがて世の乱れの始めとなつて、
「 再 中世以降の如き失態 」 を繰返すことの慮おそれなきを保し難いのである。
ここにおいてか、過般の宇垣内閣流産当時の陸軍当局の行動が、
終始一貫この奉勅第一主義を貫いたものであるかどうかが非常の重大問題となる。
三、
杉山陸相の議会における答弁によれば、
当時の陸軍当局は決して宇垣内閣の出現を妨害したのではなく、
ただ 陸軍の三長官会議において銓衡せんこうしたる数名の候補者が、
孰れも陸相たることを肯んぜなかつたのであるという。
しかしその何が故に数名の銓衡されたる候補者が、
孰れも陸相たることを肯んぜなかつたのであるかということについては、
他に特殊の事情があるが、
「 それはいわぬ方がよいと思う 」 ということであるが、
しかし、左様な答弁は---
第一、日本の軍隊はいうまでもなく、天皇陛下の軍隊であること。
第二、したがつてさの各軍人は常に必ず奉勅第一主義に行動すべきものであること
---等を確信している国民の前には到底弁解にならぬと考えるのである。
四、
特に陸軍の三長官なる者は、
最もよくその当時の陸軍内部の事情に精通している者であるはずであるから、
その三長官会議の結果、数名の陸相候補者を銓衡したということは、
すなわちその孰れの候補者も、もし新首相たる人よりの指名があれば、
直ちに陸相に就任し得る条件の備わつた人でなければならぬのであつて
---またそれでなければ、真に陸相候補者を銓衡したとはいえぬのであるから
---万一その数名が数名共全部陸相就任を肯んぜなかつたことが事実であるとしたならば、
それこそ---故意か偶然か---
左様な人物はかりを陸相候補者に銓衡した三長官らの重大失態であらねばならぬ。
五、
もちろん組閣の大命を拝した者すら熟慮の結果、
自分は到底その任に堪えずと考えて大命を拝辞することも稀にはあることであるから、
当時の三長官の眼識に協かなうて陸相候補者に推された者のなかにも、
万々一、三長官の予想に反し、自分は到底その任に非ずと考えて辞退する者があつても、
必ずしも不思議ではないが、しかしその銓衡をしたところの数名の候補者が、
全部揃って辞退するに至り、
なおその上に他の候補者を銓衡するも皆同様に辞退するであろうと考えて、
それで自分達の責任が済んだと思うような軍当局は、全くその職責を辱かしめた者であつて、
天皇陛下の軍隊の長官たるには足らぬ者であることを、自ら証明せるものではあるまいか。
六、
就中なかんずく最も問題とすべきは、 当時三人の陸相候補者のなかに数えらていたと伝えられる
杉山教育総監---現陸相の態度である。
このひとが先きの宇垣内閣には陸相たることを肯んぜりしにかかわらず、
後の林内閣には陸相たることを承諾したのは如何なる理由によるのであるか。
もしその理由が宇垣内閣の場合においては、
杉山陸相自身のいわゆる 「 ある特殊の事情 」 があつたがためであるというならば、
それこそ杉山大将は明かに、ある特殊の事情のために、奉勅第一主義を捨てた訳であるから
---たとえ左様な意思が全然なかつたにもせよ
---その結果においては畏くも大命を軽んじ奉つたということにならざるを得ないであろう。
もしまたそうではなくして先きにも後にも、常に奉勅第一主義で行動をしたというのであれば、
さきには陸相たることを承諾せず、
後に陸相たることを承諾したる態度の相違を何んと説明するのであるか。
特に他に方法の尽きたる時は、
当時の三長官中ただ一人後任陸相に就任しうる事情のもとにあつたはずの杉山大将自身が、
陸軍の奉勅第一主義を貫くがために、進んで陸相就任を承諾すべきであつたと思うが、
その態度にも出でなかつた杉山大将は、果して奉勅第一主義に終始し、
かつ当時の長官としての責任をも禅した人といえるであろうか。
七、
打明けていえば、われらは当時の陸軍当局が、
 宇垣内閣の成立を喜ばなかつた いわゆる特殊の事情については相当に諒察し得るものである。
さりながら、たとえそこに如何なる表面または裏面の特殊の事情ありとも、
すでに組閣の大命が降つた以上は、
当然軍人は奉勅第一主義に行動しなければならぬのはもちろんのことであつて、
苟も軍人の生命ともいうべきこの奉勅第一主義を捨てなければ、
その 「 特殊の事情 」 に対処し得ないような軍人は、
自ら陛下の軍人たる資格と光栄とを放棄せる者であるといわねばならぬ。
ことにそのいわゆる特殊の事情が、もし粛軍に関係のある事柄ならば、
それこそなおさらに奉勅第一主義をまず貫かずして粛軍のしようがあるまい。
八、
したがつてあの当時において陸軍当局の採るべき態度の正しき順序は、
第一には 初めから宇垣氏に大命の降らざるよう、元老その他へ軍の特殊の事情を伝えることであつた。
第二には すでに第一の処置を採るべき時機を失し、宇垣氏に大命の降下があつた以上は---
しかして宇垣氏自身に大命拝辞の意思なきことが明白となつた以上は---
陸軍当局は速やかに後任陸相を推薦して、
陸軍軍人が常に奉勅第一主義に行動しつつあることを最も明確に、
事実の上にしめさなければならぬのであつた。
かくて第三には 宇垣内閣成立の跡において、
もし断然宇垣内閣を存続せしむべからずとなす陸軍当局の 「 特殊の事情 」 観に変りがなくば、
新陸相は宇賀は首相と飽くまでその特殊の事情について争い、
首相陸相の意見不一致の理由により、内閣を総辞職せしめるか、
或いは陸相の単独辞職かを見るべきはずであつたと思う。
その場合においてもし陸軍の宇垣内閣を存続せしむべからずとなす見解が正しければ、
その特殊の事情を委曲上奏のうえ陸相が辞職せば、宇垣内閣の瓦解はもちろんのはずであつて、
もし当時の陸軍当局が初めから明白に、奉勅第一主義に徹底していたならば、
当然以上のごとき筋道を踏まねばならなかつたのである。
九、
しかるに当時の陸軍当局の態度がそこに出でなかつたために、
今や全国民は非常の不安に襲われている。
これを率直にいえば
「 今度のごとき悪例を造つた陸軍当局すら、結局何の咎とがめも受けずして済むようでは、
今後の政変の際なども一体どうなるのであろうか。
若し今後とも、陸軍当局の気に入らぬ者に組閣の大命が降下すれば、
また特殊の事情の名において後任陸相を出さず、その内閣を流産せしめるというがごときことが、
将来幾度も起るのではあるまいか。
しかして左様なことが、
決して世の乱れの本とはならぬということを一体何人が保証をしてくれるのであろすか 」 
と 憂えているのである。
十、
要するに あの際 宇垣内閣が陸相後任難に苦しみ抜いた結果、
遂に流産をしたということが事実である以上、当時の陸軍当局が他の特殊の事情を重しとして、
奉勅第一主義に行動しなかつたということもまた到底否定すべからざる事実である。
されば その軍人の生命であるところの奉勅第一主義を
他の特殊の事情のために曲げたことの責任を明らかにするとともに、
さらに将来絶対にかかる悪例を繰返さぬための厳然たる善後処置を探つておくことが、
是非共必要であると信ずるが、
当時および現在の陸軍当局は別段左様な必要はないと考えているのであろうか。
十一、
もちろん過去よりも将来に悪例を絶対に残さぬということが主題であるから、
その保証がつきさえすれば如何なる方法でも結構であるが、
しかしその当時の陸軍当局としての責任者らが、
ただ一人も引責の実を示さざる現状のままで果してその保証がつくかどうか。
ことに宇垣氏の場合は例外中の例外であり、
特別の事情中の特別であるからというような弁解を千万遍繰返えされても、
それで将来に悪例を残さぬという保証には絶対にならぬのである。
何となれば ある事が特別の事情に属するか否かは、その時とその人によりて判断が違うのみならず、
たとえ如何なる事情ありとも奉勅第一主義は絶対に曲げぬということでなくして、
皇軍精神の確立があるはずがないからである。

〔 註 〕
この文章の終りには、当時の海軍当局の態度が、右の陸軍の態度と異る次第を、
海軍次官のナニいて紫雲荘に寄せたる書面を附記してあるが、長くなるからここには略する。

目次 天皇と叛乱將校  橋本徹馬 に 戻る


邪魔ものはやっつけるぞ !

2017年01月11日 20時05分52秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


邪魔ものはやっつけるぞ

支那事変勃発以後において、
軍部の横暴---ことに統制派すなわち独伊派将校達の横暴眼にあまるものものがあり、
彼らの意のまま通さしめたならば、国家を危くすることが眼に見えていながら、
当時の重臣その他の政治家達が、遂に彼らを制し得ずして、
国家の敗戦降伏の屈辱にまで導いたについては、
この人達が二・二六事件を逆用したことによる点がはなはだ大であると思う。
なかんずく 昭和十五年九月に締結した日独伊三国間の軍事同盟こそは、
太平洋戦争を不可辟にした意味において、日本歴史上の大失態であるが、
これを強硬に主張した陸軍部内独伊派の幕僚達は、この三国同盟さえ締結すれば、
アメリカもイギリスもその威力の前に慴伏しょうふくし、
そのためドイツはイギリスに勝つてヨーロッパはドイツの自由になり、
アジアは日本の自由になると考えたのであるから、その錯覚のはなはだしいのに驚くであろうが、
彼らは、
「 この明白な情勢を見抜き得ないで ( つまり彼らと錯覚を同じうしないで )、
三国同盟締結に反対するような者は、
再び 二・二六事件を起こしてやつつけてしまう 」
と 揚言した。
そうすると当時の近衛内閣も重臣諸公も、この一言に震え上がつて
「 日本を内乱に陥れるよりは 」
とか、或いは
「叛乱将校達に殺されるよりは 」
とか 考えて、
遂に三国同盟を締結し、他日の敗戦降伏への途を開いた。
〔 註 〕
三国同盟締結の当時、
近衛首相より三国同盟締結の外なきにいたつた事情を聴取せられた陛下が、
非常に嘆かれ、国運の前途を憂えられた次第は 拙著 「 天皇秘録 」 に詳述せる通りであるが、
最早この頃におよんでは、軍の主戦派 ( すなわち統制派 ) の独裁制が確立しているので、
陛下の御力をもつてしても、容易に彼らの勢力を抑えようがなかつた。

彼らがこのように 二・二六事件を引合いにして、政治家達を威嚇したことはたびたびあつたが、
これを反面からいえば、東条、杉山、寺内、畑、梅津らを頭目とする独伊派将校達は、
かつて自分達の反対派であつた皇道派の企てた叛乱を、よくも十二分に逆用して、
国家を滅亡に導いたものというべきである。
しかもこれらすべての時代を通じて、各地方師団の真面目なる軍人は、
なお依然として軍人への勅諭により、皇軍精神を叩き込まれていたのであり、
そうしてそのような将兵を、天皇の御名において続々死地に追いやつた者は、
皇軍精神を忘れ果てた統制派の将官および、その幕僚達であつたのである。
他日における日本の敗戦降伏の悲運は、決して突然に降つて湧いたのではない。
それは一歩々々誤りを重ねた後の総決算であるが、なかんずく前記の陸海軍大臣任用の改正、
宇垣内閣の流産、日独伊三国同盟の締結等は、日本の他日の大転落への巨歩であつた。
あのような場合にわが上層部が、
二・二六事件のさいの憤激を想起し、一大決意をもつて相当の犠牲をも覚悟し、
誤らぬ処置をとつておけば、他日の無謀な戦争突入もなく、したがつて、
敗戦降伏もなかつたはずであらう。
〔 註 〕
そういう君は支那事変中何をしていたかと、著者に詰問される人があるならば、
著者は米内内閣および第二近衛内閣時代に、非公式に両内閣の依頼を受けて、
支那事変の解決と日米国交調整のために尽くし、
その事績を挙げたことが軍の主戦派の憎むところとなつて、
五十三日間 東京憲兵隊に留置せられ、
釈放とともにさらに六カ月間、郷里に隠退を命ぜられていたことを告げたい。
( 詳細は拙著 「 日米交渉秘話 」 にあり )

われわれは支那事変をこう見た
ついでながら当時の私達が、いかに支那事変が邪道に入らぬように、
苦心努力をしたかを想起する材料として、左に 「 日本国民に告ぐ 」 の一文を掲げておきたい。
支那事変勃発後三年目の昭和十四年十二月に、紫雲荘の名で東京、大阪の各大新聞紙上に、
約半頁大の広告文として発表したその文章の趣旨は、
世界の各大国の指導者諸君が 「 他国を犠牲にするに非あらざれば、自国の繁栄を期することが出来ぬ 」
と考える錯覚よりして、相互に対立闘争をなすことの誤りを指摘し
「 今度の支那事変は侵略戦争ではなく、わが特殊の国体に根ざす聖戦であるから、
支那より取るよりは支那に与うべきである 」
といい、全世界から功利主義の戦争を絶滅すべきである所以を、
別項所載のごとく詳細に説いたものであつた。
何故あの戦争を聖戦だなどと主張したかというと、
当時は軍部の検閲を経たものでなければ声明文の発表は許されず、
もちろん新聞社でも陸軍省閲覧済みでなければ、受付けなかつたのであるから、
あの戦争の主導者であるわが軍部を、頭から攻撃することなどができるはずがなかつたので、
あの戦争を 「 聖戦だ 聖戦だ 」 と主張することによつて、事変が誤つた方面に走るのを、
幾分でも喰止めたいという、切なる願いから書いたものであつた。
当時の武藤軍務局長 ( 中将、絞首刑になつた人 ) は、検閲後その文章を私に返すさいに、
「 この文章はよく読んだ、これは非常に示唆しさの多い文章だと思う。 今後の軍はこの趣旨でいく 」
といつた。
それは支那事変も三年に入つて、ますます拡大の兆きざしがあり、
どこで収拾し得るかの見通しがまるでつかないとき、私の文章によつて武藤局長らが、
救われる途を発見したという意味であつたようだ。
つまり支那事変は聖戦だ、だから元来日本に侵略的野心などはなかつたのだというふうにして、
日支の平和交渉をやりやすくし、事変が収拾していこうということなのである。
私のねらいも実はそこにあつたので、私の一文がまず軍部に好影響を与えたことを、
窃かに喜んだのであつた。
かくて軍部は聖戦論を振りかざして、翌年 ( 昭和十五年 ) 春の議会に臨んだところが、
議員中の硬骨漢の斎藤隆夫氏が、
「 こんな戦争を聖戦とはなんだ 」
という意味に突つ込んだ。
痛いところを衝かれた軍部が狂気のようになつて怒り出したので、
軍部に迎合する大多数の議員が、とうとう斎藤代議士を除名してしまつたのが同年三月七日であつた。
斎藤代議士除名の裏面の真相は以上のごとくであるが、その斎藤氏と私の家とは同じ品川御殿山で、
つい眼と鼻の間にあるのも皮肉であつた。

ついに主戦派を抑え得ず
戦時中の各重臣会議において、重臣達がどんな発言をしているかをみよ。
(拙著 「 天皇秘録 」 参照 )
重臣達のあの正気の沙汰とも思えぬ強硬論は、彼らが国家のためを思うよりは、
主戦派将校達に憎まれぬようにということだけを、念頭においての言葉であると考えた場合にのみ、
理解し得るであろう。
この人達の多くも、かつての機関説論者であつて、軍部の皇道派さえ排撃し尽くせば、
それで軍部は健全になるものと考え、統制派を支持した人々であることを想起すべきである。
もとよりあの戦時中に一人擢ぬきんでて正論を主張することは容易ではあるまいが、
もし各重臣が一致結束して正論を主張したならば、日本は降伏までいかずに講話しえたかもしれず、
或いは たとえ数カ月または数日でも、終戦を速かならしめて、
無用の犠牲を少なからしめたに相違ないのである。
わが国有史以来の危急に関する場合における彼らの態度がかくのごとくであつたのをみれば、
彼らが如何に奉公の誠に欠ける人達であつたかがしられるのであるが、
なぜ昭和の時代には、このような誠なき人物ばかりが、元老重臣の信頼をえ、したがつて、
また陛下の御信任をもえたのであるかが問題である。
これではたとえ大戦争がなくとも、国内がしばしば混乱して、国家が衰亡に向うのが当然であろう。
悪貨が流行するとき、良貨は駆逐される。
ここに昭和の時代には、忠誠君国に尽す人物が排出しなかつた大きな理由と、
さらにこの時代には不吉な事件が続出した理由とが存するのではあるまいか。
今後のわが国政を思う者は、深くその由来を考究すべきである。
日本の敗色が次第に濃厚になつてきた頃、近衛、木戸、平沼らの諸氏の苦心は、
皆如何にしてこの独伊派将校達の横暴をおさえて、講話に持つていくかにあつたが、
近衛公はそのためには東条派の最も恐れる、真崎大将を陸軍大臣に特別に起用を願うの外なしと考え、
幾度かその旨陛下に言上した。
実際主戦派の最も恐れたのは、ただこの一事であつた。
「 木戸、近衛は真崎を起用せよというが、真崎は二・二六事件の関係者ではないか 」
と仰せられ、木戸侯はまたそのつど
「 左様で御座います 」
とお答えすることによつて、折角の近衛公の進言が無効に帰するのが例であつたという。
私は真崎大将と二・二六事件との関係が、どれだけ深いか浅いか知らぬが、
陛下や木戸侯の方では、真崎に二・二六事件の企てが、事前に分らぬはずがない。
分つたならばナゼ抑えなかつたかというにあるらしい。
かくて主戦派の横暴を抑える手段がなく、
遂に敗戦降伏に終つたのは、国運の窮まるところ是非もないことであつた。

皇道派もまた反省を要す
もとより私の比較的よくしる皇道派の将軍達も、決して完全な人々であつたとはいえぬようである。
特に真崎大将が教育総監を罷免されるまで、あんなに抗争することなく、
事の非なるを見て潔く身を退くべきであつたのに ( 当時の私はその論であつたが )
最後まで抗争したことおよび、荒木陸相が満州事変で専壇を働いた板垣、石原両氏らを、
当然予備にして軍の将来の戒めとすべきであつたのに、逆に論功行賞を奏請したこと等は、
最も重大なる失態であつて、それらがどれだけその後の軍部に、禍しているかも知れぬのである。
また私は叛乱将校達ばかりでなく、とかく国体擁護論者は、自己の所信に忠実なるあまり偏狭に陥つて、
他人の立場を許しえないふうがあることも考えずにはおれない。
( 私などもその一人であつたことを深く反省懺悔している )
叛乱将校達のなかには実に立派な人物が幾人もいて、もし彼らが適当な場所を与えられたならば、
一かど君国の御役に立つはずの人達であつたにんんわらず、
あのようなことで身を終つたのも、
その偏狭にして他人の立場を許しえない点に、禍されたのではあるまいか。
なおそれにつけて思い出されるのは、あの事件のために非業の死を遂げられた、
斎藤内大臣その他の人々のことであり、ことにその遺族の人達の無念さは、さぞかしと察せねばならない。
ただ、それらのすべてにかかわらず、私は此の度のあの映画 「 叛乱 」 をみて、
あの一途に君国のためと思うて蹶起した諸君が、何んの善意も認められぬばかりか、
かえつて叛逆者の汚名のもとに銃殺となつた心事を察せずにはおれぬのである。
お通夜の晩にさえ憲兵や刑事が列席しているのであるから、遺族が悲嘆することさえ自由でなく、
かつまた、焼香にくる者は、一々刑事にその名を書き留められ、関係薄き者は玄関で追い返された。
葬儀は秘密に執行させられ、その後の慰霊祭には参拝者の数よりも、
憲兵と刑事の方が多いこともしばしばであつた。
そうして麻布賢崇寺に、この人達の合祀が黙認されたのは、占領統治が終つて、日本が独立を恢復した後であつた。
刑死する者は多いがこれは日本人として最も重い、叛逆者扱いの刑死者なのである。

想い起す西郷南洲翁の事例
私はここでふと西郷南洲翁の事例を想い起すのである。
維新第一の功臣といわれる西郷(隆盛)南洲翁も、明治十年の役には自ら首領となつて官軍に抗したため、
賊魁隆盛と称せられたが、明治二十二年二月十一日には、その賊名を許されて、
正三位を贈られた。
十年の役における南洲翁の立場は叛乱将校以上に重大であるが、
しかしその心事が君国を思うにあつたことが認められたればこそ、生前の功労を思召されて、
右の御沙汰があつたのであろうと思う。
わが肇国以来の歴史を読み、軍人への勅諭、教育勅語、帝国憲法等によつて、
日本の国体が万邦無比なる所以を教えられた軍の将校達が、その国体を護らんとして起した叛乱。
その事件から教訓を学び得ずして、
国家を敗戦降伏の屈辱に導いた上層部の失態は悔ゆるもおよばぬことながら、
その将校達の処刑後二十年近き今日、彼らの一片の志が認められるならば、
反逆の汚名は許されるべきではあるまいか。
ことにこのような問題をこのままで、皇太子殿下御即位後の御代まで持越すことは、
もっとも避けねばならぬことと思う。

目次 天皇と叛乱將校  橋本徹馬 に 戻る


明治天皇に小遣いをいただく伊藤公

2017年01月09日 20時02分48秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


明治天皇に小遣いをいただく伊藤公

さきに私は、なぜ昭和の時代には奉公の誠なき人物ばかりが重臣であつたか、
 という意味のことを述べた。
その事を解決するために、クドイようだが左の一文を附加しておきたい。
拙著 「 日米交渉秘話 」 のなかで、私は今上陛下の御性格を説き、
「 ・・・・これが平和の時代で、ことに臣下にその人を得られたならば、
 珍しい仁君または明君として、尊崇せられたことでありましよう  」
 と 述べているが、
今上陛下の最も大きな御不幸は、昭和の時代には全く一人の良臣もいなかつたことである。
明治の時代には純忠至誠にして、しかも天衣無縫の西郷隆盛あり、
 当時なお御若年であられた明治天皇が、絶対の信頼をよせられ、
 西郷また誠心誠意その殊遇に御こたえした 両者の水魚の関係は、
 想像するだにゆかしい限りである。
十年の役に西郷が官軍に抗した賊魁ぞくかいとして死んだ後も、
 明治天皇はなお西郷の忠誠を疑わず、
 幾度か彼れを追憶せられた逸事もあるが、ここには略する。
さらにしばしば御機嫌を冒おかして直諫せる山岡鉄舟あり、
 もちろん鉄舟はその都度一身を投出してのことであつたが、明治天皇はよくそれを容れて、
 ますます鉄舟を信頼せられた。
明治の長期間にわたつてお仕えした伊藤博文公のごときも、
 小遣いに窮すれば、よく明治天皇のお手元金を頂戴に上つたそうであるが、
 そのようなことも、あの戦時中の重臣会議に列した昭和の重臣達のような、
 私心のある政治家のなし得るところではない。
日露戦争の当時には、桂太郎、小村寿太郎、大山巌、東郷平八郎、乃木希典のごとき人物もいた。

かくばかりことしげき世にたへぬべき
人を得たるが嬉しかりけり

という、明治天皇の御製が残つている所以であるが、
 昭和の御代にはこの人達に匹敵する何人もいなかつた。


西園寺公は国家柱石の臣か

昭和時代の人物中第一に問題とすべきは、この時代にただ一人の元老として、
無上の権威を持つた西園寺公であるが、この人は はたして日本歴史上において、
国家柱石の臣とよばれるべき人であつたろうか。
かつて小村寿太郎侯は西園寺公を表して、
「 西園寺という男はハイカラだから嫌いだ、
・・・・ハイカラとは、よく調べもせぬことを口にだす者のことだ 」
といつたそうであるが、西園寺公はその門地が高かつたからでもあろうが、
あの人もな゛けな---世上のことにタカをくくつた
---国政上に関して深憂する者を冷笑するのふうさえあつた---あの態度に、
小村侯のいわゆるハイカラな傾向があつて、それが昭和の時代の皇運と、
したがつて、また国運とを誤つた点が多いのではあるまいか。
三国時代の諸葛孔明ほどの人物でさえ、
「 ・・・・命を受けて以来 夙夜憂歎しゆくやゆうたん、付托ふたくの効しるしなくして
もつて先帝の明を傷けんことを恐る 」
といつているが、先帝以来のただ一人の元老である西園寺公に、
果して孔明ほどの日夜の 「 憂歎 」 があつたかどうか。
もしそれがあつたならば、あの国体明徴問題が起つた当時に、
「 これは容易ならぬ立国の本義に関する根強い争いである 」 ということに気付き、
その旨陛下に申上げ 他の重臣とも計つて、この問題の解決に自ら乗り出すべきであつた。
さすれば相沢事件も起こらず、二・二六事件も起こらず、したがつてまた、
その後の軍部の横暴も、敗戦降伏もなかつたはずである。
しかるに当時の西園寺公は
「 また分からずや共が騒いでいる。そのうちにくたびれるであろう 」
くらいに考え、
例の通りに冷笑しつつタカをくくつていたがために、
その意向をみた斎藤、岡田 二代の首相も、なるべくあの問題を頬かむりで通そうとした結果、
問題が紛糾し、その後に不祥事が相続いて起つたのである。
西園寺公や牧野伯の顔色ばかりみる斎藤、岡田両氏らも悪いが、
断然処置すべき立国の重大事を、
冷笑で過ごそうとした西園寺公の不明と不誠意も、十分問題にさるべきであろう。
そうしてあれほどの二・二六事件が起つた後にいたつても、
なお自分の不明不敏に心づかぬ西園寺公は、
かえつて世間体を恥じて引込んでいる岡田啓介氏を激励し
「 引込んでいては敗けだ、でてきて遠慮なく振舞え 」
といつたというのであるから呆あきれたことである。
君国のためを思うて起つた叛乱将校達にたいする、苛酷な処罰の反面に、
あの不始末をきたした岡田啓介氏が、図々しく振舞うこと自体が不審であつて、
これでは全く賞罰その当をえないと思われたが、
それが例のハイカラな西園寺公の激励によるものであつた。
かくて時代の風潮や趨勢すうせいは、如何にそれが険悪であつても、平然その流れに任せておき、
ただ問題が起つたときに情勢を冷静に判断して、陛下の御下問に奉答するをもつて足れりとした
西園寺公は、深く国運の行末までは考えなかつたとみえて、今上陛下の御ために、
一人の争臣 ( 忠義の士 ) を残すこともしなかつたし、
またそれを一向苦にしたふうもなかつたところに、西園寺公の奉公心の限度がみられるのである。
日本歴史を調べてみよ。
西園寺の家系は不忠者の家系であると、昔誰かがいつたことが思い出されるのである。

目次 天皇と叛乱將校  橋本徹馬 に 戻る


牧野伯の臣節を疑う

2017年01月07日 20時00分52秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


牧野伯の臣節を疑う

つぎには、牧野伯が問題である。
この人が今上陛下の御信任第一等の人となつたについては、
今上陛下の御幼少の頃よりの御養育に、
牧野伯が深い関係を持つた点によるところが多いといわれるが、
この人が終戦までも生き延びて、
しかも文芸春秋誌上に、面白おかしい回顧録を連載していたところなどを見ると、
それほどの陛下の御信任を受けながら、
「 自分の眼の黒いうちに、今上陛下を敗戦国の君主にはしない 」
という堅い決意などを、持つていなかつた人であることは明白であろう。
ことに この人は非常に偏見の強い人で、一度気に入らぬことがあると、
どこまでもその人を許さぬ悪癖があり、また少年の頃からイギリスの教育を受けた人であるから、
西洋カブレの西園寺公との話は会いすいが、
皇祖皇宗の道について、西園寺公の不明を補うことのできる人ではなかつた。
終戦後占領軍にたいし
「 天皇は政治に責任なし 」 という、スギリス流の君主の立てまえを押し通すことによつて、
今上陛下が戦犯問題の面倒を脱がれられたについては、
牧野伯および恐らくはその女婿の吉田茂氏の智慧ちえによるところが多いと思われるが、
その反面にわが国体の万邦無比なる所以が、いよいよ分らなくなつたことも事実である。
左に 二・二六事件で襲撃を受けた当時の牧野伯の逸事をも伝えておきたい。
 
湯河原で河野大尉等の襲撃を受けたとき、
牧野伯の身を護つて闘つた護衛巡査 ( 皆川義孝氏 ) が重傷を負うて仆れた。
牧野伯に付添いの看護婦森すゞえさんが駆けよつて、皆川巡査を助け起そうとすると、
「 私には構わずに閣下を閣下を・・・」
といつた。
森さんは心を残しながら、牧野伯の頭から女の着物をかぶせ、
その家族をも共に援けて裏山にでたとき、すでに家は火焔に包まれていた。
( 河野大尉の一党の人々が、牧野伯が見つからぬので放火したのであつた )
そこへ駆けつけた警防団の人々が、
「 家のなかに残つている者はいませんか 」
と 叫んだ。
そのとき森さんは、
「 皆川さんが残つています 」
と いつたが誰も返事をする者がいなかつた。
そうするとまた警防団の誰かが、
「 家のなかにのこつている者はいませんか 」
と 叫んだので、また森さんが、
「 皆川さんが残つています 」
と いつたが、誰も答える者がなく、逆に牧野伯が、
「 捨てて置いて構わずにいけ 」
というふうに手を振つて森さんをせき立てた。
自分のために仆れた人にたいしての牧野伯の冷淡さに、森さんは不快に思つた由であるが、
つぎの瞬間には森さんも腕に一弾を受けて仆れた。
それでも気丈に立ち上がつて、牧野伯を無事ならしめたが、家の焼跡からは、
無残や皆川巡査の焼死体が発見せられた。
一方皆川巡査のために重傷を負うた河野大尉は、熱海の陸軍病院に入り、
後三月六日に自決したが、その自決の前に令兄司氏に遺言し、
「 牧野伯を護つて仆れた巡査は、如何にも気の毒であるから、
お宅を訪問してお詫びをしてもらいたい 」
といつたので、事件後の二週間ばかり経つたある日、
河野司氏が皆川氏のお宅を訪ねてお詫びすると、
どんなに恨まれるかと思つた遺族の方々が、非常に喜ばれたのは意外であつたが、
その節、
「 牧野さんの方からは、どなたもお見えになりません・・・・」
といわれて、河野さんは驚いた由である。
それから河野司さんが森すゞえさんに会つて、当時の模様を聞くと、
森さんは前記の避難当時のことを語り、重傷の皆川さんを捨てて避難したことの心残りをいい、
さらに自身のことについては、
「 あのとき腕に傷を受けて入院をしましたが、入院中の費用は牧野さんから出してくれましたけれども、
その後も働けずに遊んでいますが、それきりなにもしてくれません 」
とのことであつたという。
護衛巡査や看護婦の献身的な奉公ぶりに、何んの感じも持たぬ牧野さんであれば、
その今上陛下にたいする御奉公の心掛けが、どのくらいひややかなものであるかも、
およそ察せられるのではあるまいか。
このような人が今上陛下の御誕生当時から、その第一等の御信任を受ける宿命をもつていたとは、
よくよく呪われた昭和の時代といわざるをえないであろう。

目次 天皇と叛乱將校  橋本徹馬 に 戻る


官僚だつた湯浅内府

2017年01月05日 19時58分36秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


官僚だつた湯浅内府

湯浅倉平氏は、二・二六事件勃発当時の宮内大臣であつたが、
叛乱将校達のために討たれた斎藤実氏のあとを受けて、
この人が内大臣に就任したのであつた。
あの事件の勃発直後は、西園寺、牧野両氏はともにねらわれた人で、しかも在京せず、
斎藤内大臣と鈴木侍従長とはともに襲撃せられた人であり、
岡田首相は死亡ということになつており、
その代理の後藤文夫氏も官僚出身で、あのような場合に者の役に立つ人ではなかつた。
だからもし湯浅氏が稀代の人物であれば、如何なる大手腕をも発揮して、
輔翼の重責を果し得たのであつたが、
この人も真面目な人ではあるが、元来官僚出身であるから、官僚臭味が強くて、
とてもあのような非常時の大役の勤まる、国家柱石の士ではなかつたのである。
すべて官僚出身者は、法律や事務に明るくして、
平素は誠に要領がよいが、しかし元来この人達の多くは、
法律と事務の外に世の中に大事のあることを知らぬ人達であるから、
平和のときには器用に日々の用に立つが、非常時一日の用に立つ人ではないのである。
さらに忌憚なくいえば、大体官僚という者は、非常に栄達を競う者であつて、
彼らが君国のために尽くすのも、それが自分の栄達に役立つと思えばこそであり、
自分の栄達を犠牲にしてまで君国に尽すというようなことは、
官僚達には考えられぬことなのである。
彼らが甲乙いずれの内閣を迎えても何んの矛盾も感ぜず、
しきりに忠勤をはげんで立身を計るのは、そのためであつて、
彼らのよいところも悪いところもその辺にある次第である。

私が湯浅氏に勅語問答で面会をしたときなども、
氏の警保局長時代から知合つている私が、氏の内大臣就任後初めて会見をしたからであるか、
氏は如何にも得意らしく
「 君はいつまでも痩浪人やせろうにん、自分はここまで高官に登つたぞ 」
というつもりと見えて、
「 あなたのような人は処士しょしですからね・・・・」
といわれた。
そこで私は笑いを噛み殺しながら声を大にして、
「 さよう、私は処士横議の徒、あなたは日本で有数の大官であります 」
と応じて話を進めていつた。
それでもあの日 「 きょうは十分位しか時間がない 」 といわれたのに、
湯浅氏の方から私を帰さぬようにして、正午のドンを境にし、
遂に一時間二十分も話し合つたのは、
 さすがに問題の重大性を感じてのことであろうと思われる。
要するに官僚出という者は、平生大いに用いて約に立たしめるがよいが、
非常時の用に立つ人物ではないことをしつていなければならぬ。
西園寺、牧野などという国事に本気でない人達は、
広く天下に気骨のある人材を求める面倒を避けて、
とかく寸法のきまつた官僚上りを重用し、一朝の大事を誤るのをしらぬのである

木戸侯と近衛公も荷が過ぎた
つぎには戦時中の内大臣であつた木戸侯が問題であるが、
大体毎日克明に日記をつける木戸侯のごとき人物は、
大抵は日々の用が足りても年々の用が足らぬ人であり、
年々の用が足りても十年の用には足らぬ人である。
木戸侯が如何に毎日怠りなく御奉公申上げても、あの愚かな戦争を最後まで持つていつて、
遂に敗戦降伏の屈辱を招いたについては、結局において木戸侯連年の御奉公も、
有害無益であつたということになる。
「 一人ではどうにもならぬ 」
という言葉は、内大臣たる木戸侯の場合においてはあてはまらない。
木戸侯さえしつかりしておれば、いくらも方法があつたことは
拙著 「 日米交渉秘話 」 にもある通りである。
この人も陛下を敗戦国の君主にしながら、なお生き延びんがために、
東京裁判で盛んに自己弁護をしたのは、
戦後派の人々からみれば別段の不思議でもあるまいが、
良臣の心がけとしては、
昔の藩主達に仕えた武士の心掛けにも、およばざること遠しといわねばならぬ。

責任の重い点にゆいては、右らの外に近衛文麿公がある。
この人は門地の高いのとその人柄の上から、能力不相応の重望と重職とを得て苦しみ抜いた。
是非の判断は相当に分るが、気の弱い人であるから、結局強い方へ引きずられていく。
その結果国を誤り、自分の死所さえも誤つたこと、拙著 「 天皇秘録 」 に記せる通りである。
それでもこの人が生きて東京裁判にかかり、そこで盛んに自己を弁護をやるよりは、
ともかく自決したことは、恥を少なくしたものであろう。
右の四氏の外に戦時中の重臣会議に列した人は多いが、その人達は皆既述のごとく、
あの非常時にひたすら自分達が、主戦派将校達に憎まれぬようにとのみ考えつつ、
国家の大事を議していたのであるから、問題にならない。

争臣なくして国亡ぶ
以上述べてきたつたことによそつて、私達は如何なることを知り得るであろうか。
第一に、
元老重臣達のなかには、叛逆者として銃殺された青年将校達ほどに、
本気に君国を思う者が、一人もなかつたということが知られるのであり、
第二に、
元老重臣達のなかには、牧野伯護衛の巡査や看護婦ほどに、自己の職務に献身する者が、
一人もなかつたということが知られるのである。
君国にたいする絶対の忠誠と、職務にたいする献身とは、下層にあつて上層部にはなかつた。
しかも前者は、その故に非業の死を遂げ、後者はそれにもかかわらず人臣の位をきわめていた。
これでよいのか。
これでは日本の臣道が逆さに歩いているということになる。
立国の基礎がグラつくのも、当然ではないか。
一体その人が真の良臣であるならば、
国家の非常時などには、特に幾度か陛下にたいする忠諫の言葉があるべきはずである。
古語にも 「 国に争臣なくんば、その国危し 」 とあり、
忠教には 「 下能くこれをいい、上能くこれを容れて王道光あり 」 とある。
しかし忠諫は、一身の利害を捨てた忠誠の士でなければ、なしうるものではない。
なぜならば古語にも 「 良薬は口に苦く、諫言は耳に逆さからう 」 とあるがごとく、
忠諫は多くの場合に上の喜ぶところとならず、ややもすれば御機嫌にさからうて、
一身の不利を招くおそれがあるからである。
そこで徳川家康のごときは 「 諫言の功は戦場の一番鑓に勝る 」 といつて尊んだものであるが、
一人の良臣も持たれなかつた今上陛下には、もちろん臣下の激しい忠諫にも、
お遭いにならなかつたようである。
さきにも論及したことであるが、あの二・二六事件の叛乱のごときは、
平生陛下にたいする忠諫の士がないことを原因する青年将校達の今上陛下への悲憤きわまる死諫であつたが、
このときにおいてもなお適当に陛下を輔翼申上げて、
その死諫を善用する良臣が一人もなかつたがために処置を誤り、
その後の国運を一層不幸に導いたのである。
支那事変勃発以後のことはいうに忍びない。
宮中に怒号の声一つ起らず、側近者達が手に汗を握るがごとき場面さえ一つもなく、
そうしてすべての重臣が御前において、恐懼謹慎のふうばかり繰返しているうちに、
日本国は亡んで、
日本歴史上に拭い難き汚辱を残したなどは、何んというだらしのないことか。
要するに 今上陛下には、
遂に良臣という者にお会いにならなかつたのである。
「 賢臣に親しみ小人を遠ざくるは、これ先漢の興隆する所以なり。
小人に親しみ 賢臣を遠ざくるは、これ後漢の傾頽する所以なり 」
とは 孔明の出師に表にもあるが、親しむべき賢臣を持たれなかつた今上陛下は、
誠に不運なお方であつたし、同時に日本国民にとりても、それはこの上もない不運なことであつた。
明治時代にあれほど尊まれた天皇や皇室にたいし、悪口雑言をいう者はもてはやされ、
反対に尊皇の言葉を吐く者は、頑迷度し難き時代錯誤者と思われる時代が、
終戦以来今もなお続いているのであるが、
さて皇太子殿下御即位の新時代はどうであろうか。
私は決して天皇政治を昔に返そうとする者ではない。
今日の情勢からいえば、天皇が政治の圏外に立たれることは結構であり、
また占領治下で強要せられた憲法が、如何に屈辱憲法であり、
内容上からも廃棄すべきものであるにしても、
昔の帝国憲法をそのまま復活すればよいとはいえない。
磨ふまの大典といわれた帝国憲法にも、時勢に合わなくなつた点が多いのである。
ただ私は、別文所説のごとく、古来の日本国精神のなかには、
今後の世界を救うべき尊き思想があると信ずるのであるが、
しかしそれとても今の政局を担当している程度の人物が、今後もわが政治の局に当るならば、
世界救済は愚か 日本自身さえ救われぬから、
私達はいよいよ日本精神を誇ることもできなくなるであろう。

目次 天皇と叛乱將校  橋本徹馬 に 戻る


皇政維新法案大綱

2017年01月04日 20時09分10秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


特別資料篇
皇政維新法案大綱

左に掲げる一文には、昭和六年(十月事件の年) 九月一日の日附があり、
十月事件を企てた一派の国家改造計画案といわれるものである。
これを一読される人々は、それがいかに矯激なものであるかを知って驚くであろうが、
彼等が、こにような過激な思想を抱けることを知らなかったわが政界の上層部や、
知識階級の人達は、しきりに皇道派を憎んで統制派に力を添えた。
そうして遂にわが国を大戦への突入---敗戦降伏---へと導いたのである。
なお当時の統制派が聖書のごとくに尊んだのは、
秦彦三郎中将著『隣邦ロシア』であつたことも記憶すべきであろう。
当時の統制派の将校達が、独伊と結託しつつ天皇の名において、
共産政治を日本に布こうとしていたことが、これで知られるのである。(編集部)

緒言
今ヤ世界ハ全人類ヲ挙ゲテ不幸ノ窮底ニ沈淪シツツアリ、
此ノ不幸ヲ転ジ人類ノ将来ヲシテ光明アラシムベキ使命ハ実ニ人類進化過程ニ於ケル唯一ノ
軌範的発展的存在タル我皇国日本ニ厳粛ニ賦課セラレタル使命ナリ。
然ルニ内憂外患ノ駢臻へいそうニ悩メル当代日本ガ果シテ此ノ使命ニ値シ得ルヤ判決ハ自ラ明カナリ。
曰ク  否
故ニ皇国ハ皇国自ラノ指導原理ニ拠ル徹底的維新ヲ断行シ
先ヅ 自ラノ軌範ヲ開展シ以テ之ヲ世界人類ニ拡充宣布スルヲ要ス。
即チ 近キ将来ニ於テ現在行キ詰リ乃至ハ
誤レル方向ヲ辿リツツアル資本家主義乃至共産党独裁国家ノ全機構ヲ革命シ
被圧迫人類ニ加エラレタル鉄鎖ノ桎梏しっこくヲ解除シ
其ノ自立ヲ支援シ以テ我皇国ノ軌範的生活ニ則ラシメ其ノ自栄ヲ完成セシメザルベカラズ。
而シテ此ノ崇高ナル使命ノ遂行途上ニ横ハル障碍ヲ断除シテ
其ノ目的達成ニ欠クベカラザルモノハ
実ニ絶大ノ威力ヲ有スル軍隊ナルコトヲ認識セザルベカラズ。
是皇国ノ徹底維新ト共ニ 徹底セル国家総動員ノ必須不可欠ナル所以ナリ。
然リ而シテ 皇国自ラノ指導原理ニ拠ル徹底維新及之ト兼該実施セラルベキ国家総動員トハ
実ニ尊皇愛国ノ情理ニ徹底ラル所謂地涌菩薩的日本人ノ  上御一人ニノミ連結セラレタル
徹魂ニ依リ遂行セラルベシ。
約シテ曰ク。
一切ヲ挙ゲテ  上御一人ヘ  一切ヲ挙ゲテ国家総動員ヘ
皇紀二千五百九十一年 ( 昭和六年 ) 九月一日

皇政維新法案大綱
第一章  通則
フアシヨ亜流及共産党ニ依ル独裁ヘノ各運動ヲ克服転帰セシメ以テ
天皇御親政ヲ翼賛確立スルコトニ依リ維新日本ヲ建設スル
第二章  皇政維新ノ眼目
政治、経済、社会、思想、教育、外交、国防等各部門ニ於テ国体原理ニ基ク徹底更建ヲ断行ス
第三章  準備作業
其一
満蒙問題、軍縮問題ヲ軽機トシ国防乃至国家総動員法ニ関スル輿論ヲ喚起激成セシムルト共ニ
鞏固ナル図根点ニ拠ル経営細胞ヲ組織結成ス
其の指導要領順序左ノ如シ
( イ )  軍民一致満蒙経営
( ロ )  一切ヲ挙ゲテ  天皇ヘ
( ハ )  一切ヲ挙ゲテ国家総動員ヘ
其ノ二
満蒙ニ於ケル軍事的占拠ノ拡充ヲ決行シ満蒙経営ノ主眼左ノ如シ
( イ )  内鮮人口処理  満蒙ニ対スル農工商等ノ集団移民ヲ国営ス
( ロ )  国家総動員資源ノ取得  国営乃至国管下ノ民営制ニ依リ国総資源ヲ満蒙ニ需ム
其三  (ナシ)
其四
満蒙経営ヲ軍民一致ヲ以テ一貫不動ニ主張シ之ヲ槓桿こうかんトシテ
国内政権財権ノ所在転動ヲ策シツツ改造進入ス
其五
不当存在ノ中枢処分ヲ準備ス
其六
陸海軍ヲシテ戒厳準備ノ姿勢ニ置ク
第四章  維新ノ諸動
其一
好機ニ投ジ不当存在ノ中枢ヲ処分ス
其二
大命降下
第五章  維新ノ発程
其一
天皇大権ノ発動ニ依リ一切ノ政党ヲ禁止ス
其二
天皇大権ノ発動ニ依リ既成言論機関ヲ閉止ス
其三
天皇大権ノ発動ニ依り全国ニ戒厳令ヲ布ク
其四
天皇大権ノ発動ニ依り憲法ヲ停止ス
其五
天皇大権ノ発動ニ依り両院ヲ解散ス
第六章  維新発程直後処理
其一
天皇大権ノ発動ニ依り枢密顧問官 其ノ他ノ官吏ヲ罷免ス
其二
天皇大権ノ発動ニ依り宮中1ワ一新シ天皇ヲ輔佐スル顧問院ヲ設ク
其三
天皇大権ノ発動ニ依り国家改造内閣ヲ任命セラル、
内閣ハ  天皇ノ宣布セル国家改造ノ根本方針ニ則リ改造ノ諸務ヲ執行ス
其四
天皇大権ノ発動ニ依り華族制度ヲ廃止ス
其五
天皇大権ノ発動ニ依り不用諸法律ヲ廃止ス
〔 註 〕  国家改造間ノ国際関係ハ衝平ノ理ヲ活用シ努メテ外端ヲ避ケ以テ国家改造ニ支障ナカラシム
第七章  皇政維新ノ第一期
此ノ期間ニ於テ第二期以降ノ更建ノ基礎ヲ確立ス
其一
天皇ハ各地方長官ヲ一律ニ罷免シ国家改造知事ヲ任命シ内閣直属ノ機関トナス
其二
天皇ハ在郷軍人団ヲ以テ改造内閣ニ直属シタル機関トナシ
国家改造中ノ秩序ノ維持及下掲諸務ノ執行ニ当ラシム
在郷軍人団ハ各地区ニ於ケル全在郷軍人等普通ノ互選ヲ以テ在郷軍人団会議ヲ構成シ
任務遂行ノ常設機関トナス
必要ナル官庁団体ヲ以テ協力支援セラルヽハ勿論ナリ
其三
天皇ハ皇室所有ノ土地、山林、株券等ヲ国営ニ下附シ
第二期以降ノ処分ニ於ケル範ヲ垂レ給フ

第八章  皇政維新第二期
此ノ期間ニ於テ経営部門ニ処理ヲ行ヒ将来ノ基礎ヲ確立ス
其一  通則
1  天皇ハ国民ニ対シ原則トシテ一切ノ私有ヲ禁止ス
2  大資本家ニヨル国家統一ノ経営ヲ実現ス
其二  私有財産処分
1  天皇ハ日本国民一家ノ財産私的所有ノ限度ヲ定メ 限度内ノ所有ヲ時宜的ニ認可ス
2  財産私的所有限度以上ノ超過額ハ凡テ無償で上納セシム
3  在郷軍人団ハ各地方ニ於ケル財産私的所有限度超過者ヲ調査シ其徴集ニ当ル
4  上納セル財産ハ下掲国家ノ統一使用ニ供ス
其三  土地処分
1  天皇ハ日本国民一家ノ土地私的所有ノ限度ヲ定メ 限度以内ノ所有ヲ時宜的ニ認可ス
2  私的所有限度ヲ超過セル土地ハ凡テ無償ヲ以テ上納セシム
3  在郷軍人団会議ハ在郷軍人団ノ監視下ニ於テ私的所有限度超過者ノ土地徴集ニ当ル
4  天皇ハ農耕地ノ大部分ヲ農村民ニ対シ村落自治体単位ニ交付シ
    各村落自治体ヲシテ国家ノ管理下ニ努メテ協力耕作セシム
5  大森林又ハ大資本ヲ要スベキ開墾地又ハ大農法ヲ利トスル土地ハ総テ国営トス
6  都市ニ於ケル宅地ハ国営ヲ原則トシ別ニ此ノ原則ニ基ク国管下ノ民営制ヲ採用ス
    即チ 漸ク以テ努メテ都市自治体ノ経営ニ移ス
〔 註 〕  農耕地ニ関スル禁制
 (1)  農地以外ノ農耕地所有ヲ禁止ス
 (2)  土地ハ売買其他ノ方法ニ依リ私有間ニ於ケル保管転換ヲ禁ズ
 (3)  所有者ハ必ラズ耕作ノ義務ヲ有ス ( 然ル時 農家一戸ノ私的所有限度ハ二町歩内外ヲ出デザルベシ)
 (4)  土地ハ水田、畑地、宅地以外ノ他ノ目的ニ使用スルヲ許サズ
其四  資本処分
1  天皇ハ資本ノ私有ヲ禁止ス
2  私有資本ハ凡テ無償ヲ以テ上納セシム
3  国家ノ管理下ニ於テ其ノ限度ノ私的生産業ヲ認可ス
4  資本徴集機関ハ在郷軍人団会議ナルコト前掲ノ如シ
5  徴集セル資本ハ国家ノ統一使用に供ス
其五  其ノ他ノ処分原則
1  天皇ハ私人間ノ金利受授ヲ禁止ス
2  農村ニハ工業都市的設備ヲ加ヘ都市ニハ農園ヲ附属セシメ 万人勤労心身交替主義ヲ実践ス
3  改造後ニ於テ生キベキ限度外財産ハ凡テ不断上納制を以テ処理ス
4  産業及住宅ハ国営ヲ原則トシ別ニ此ノ原則ニ基ク国家管理下ノ民営制ヲ採用ス
5  国家ノ生産的機構左ノ如シ
銀行省
各種銀行ヨリ徴集セル資本及私的所有限度ヲ超過セル者ヨリ徴集セル財産ヲ以テ資本トナシ
海外発達ニ於テ豊富ナル資本ト統一的活動、他ノ生産的各省ヘノ貸付限度内に於ル
私的生産者ヘノ貸付、通貨ト物価トノ合理的調整上絶対安全ヲ保証スル国民預金等
航海省
限度内私的生産業者ヲ除ク全徴集船舶資本ヲ以テ遠洋航路ヲ主トシ、
海上ノ優勝ヲ占ム 又 艦船建造ニ関スル経営ヲ行フ等
鉱業省
限度内私的生産業者ヲ除ク各大鉱山ヲ経営ス
銀行省ノ投資ニ伴フ海外工業ノ経営、新領土取得ノ時
私的(限度内)鉱業ト併行シテ国有鉱山ノ積極的経営等
農業省
国有地ノ経営、自治体単位ニ交付セル全農耕地及其ノ経営ノ監督、
台湾製糖及森林ノ経営、台湾、北海道、樺太、朝鮮ノ開墾又ハ大農法ノ耕地ヲ継承セル時ノ経営
工業省
徴集セル各種工業ヲ調整シ大工業組織ヲ完備シ外国ト比肩シ得ルニ到ラシム限度内私的工業ノ監督
及其企及シ得ザル工業ノ経営 陸海軍各種製鉄所兵工廠等ノ移管経営等
商業省
国家生産又ハ私的生産ニ依ル一切ノ農業的工業的貨物ヲ按配シ国内物資ノ調節ヲナシ
海外貿易ニ於ケル積極的活動ヲナス
此ノ目的ノ為メニ関税ハ凡テ此ノ省ノ計算ニ依リテ内閣ニ提出ス
交通省
現在ノ鉄道省ヲ継承シ全鉄道ノ統一経営、将来新領土ノ鉄道ヲ継承シ更ニ敷設経営ノ積極的活動ヲナス
私的限度内生産業トシテノ支線鉄道ヲ監督ス
其他 国営ノ交通機ヲ経営シ自治体及私的生産業者ノ交通機ヲ監督ス
国庫収入
生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆ド皆 消費的各省及国民ノ生活保障、発展ニ支出スルコトヲ得、
生産的各省ハ私的生産業者ト同様ニ課税セラル
勞働省
内閣ニ之ヲ設ケ国家生産及私的(限度内) 生産業者ニ雇傭セレルル一切ノ労働者ノ権利ヲ保護ス
〔 註 〕
 (1)  生産的各省ハ固ヨリ消費的各省又国家総動員省ト密接ニ連繋セラルルヲ要ス
 (2)  各省統督事項中 自治体(下掲) ニ移管スルヲ適当トスル事項ハ漸ク以テ自治体ノ管掌ニ移ス
第九章  人口処理
内鮮共各戸ノ次・参男、次・参女等及商業国営ヲ原則トシテ実施スル結果生ズベキ商業従事者等ハ
之ヲ集団シテ満蒙ニ移住セシム。
将来ニ於ケル人口処理及新領土ノ開拓及民族同化ハ此ノ原則ノ拡充ニ依ル
第十章  税制
天皇ハ公賦効果ヲ通シ三公七民乃至四公六民ノ定率ヲ以テ税制ノ標準トナス
基本的租税ヲ除ク各種悪税ヲ廃止ス
〔 註 〕
税制ノ詳細ニ関シテハ我旧制(大化以後) ト現時ノ情勢トヲ較量検討スルヲ要ス
第十一章  皇政維新第三期
前記ヲ承ケ国家ノ内容ヲ充実発展セシムル企図ノ下ニ
自治体ヲ上部構造トスル家族単位ノ国家ヲ確立スル
自治制ニ関スル要項左の如シ
其一  農村自治
其村内各戸ノ代表者ヲ以テスル平等普通ノ互選ニ依リ、
才幹特操アル自治体代表者若干名ヲ推挙シ以テ自治会ヲ構成シ左記ノ権能ヲ使用スルニ至ラシム
1  村内治安ノ管掌権
2  村民ノ衣食住物質ニ関スル処理権
3  村内ノ防衛、衛生及戸口ノ管掌権
4  村財産及経費ノ処理権
5  他町村トノ交渉権及交通権等ニ関スル交渉権
6  教育機関ニ対スル監督権
7  村民ノ葛藤ニ関スル仲裁権
8  村内住民ノ営業ニ関スル管掌権
9  工業都市的施設及運用
其二  都市自治
農村自治ニ準ズ
其三  工業自治
概シテ農村自治ニ準ズベキモ尚左ノ如シ
1  住宅ノ設定
2  食糧ノ常備
3  職業の保証
4  戸口ノ掌理
5  衛生機関ノ設備及管掌
6  治安機関ノ設備及管掌
7  教育機関ノ設備及管掌
8  農園施設及之ガ運用
〔 註 〕
自治制ノ再建ハ国家ノ管理訓導下ニ於テ漸ク以テ進メラレルベキモノトス
第十二章  皇政維新第四期
其一  地方議会
各自治団体ニ於ケル全戸代表者ヲ以テスル平等普通ノ互選ニ依リ推挙セラレタル
丁年以上ノ男子ヲ以テ自治会各自治会代表者ヲ以テ地方議会ヲ構成セシム
其二  国会
各地方議会議員ノ平等互選ニ依リ推挙セラレタル者ヲ以テ衆議院ヲ構成セシム
別ニ勲功者間ノ互選及勅撰ニ依ル議員ヲ以テ審議員ヲ構成セシム
審議員ハ衆議院ノ決議ヲ審議セシム
国会ハ  天皇ノ宣布セル皇政維新ノ根本方針ヲ討論スルヲ得ズ
其三  憲法発布
天皇ハ憲法ヲ制定シ之ヲ宣布ス
其四  地方長官
漸ヲ以テ各地方毎ニ平等普通ノ選挙ニ依リ推挙セラレタル才幹徳操者ヲ中央ニ申達セシメ
天皇ハ之ヲ内閣ニ審衡セシメタル後 適任者ヲ以テ其ノ地方ノ長官ニ任命ス
第十三章  皇政維新第五期
政治経済部門ニ於ケル新制ヲ更張シ以テ
社会教育、思想、外交、国防各部門ニ於ケル更新ヲ行フ
但シ 右ハ皇政維新ノ第一期ヨリ序次的ニ企画遂行セラレルベキモノトス
附則
其一
官庁ハ其数ヲ多ク規模ヲ小ニシ能率第一ヲ本旨トス
其二
官吏ハ少数厳選を本旨トシ現時ノ悪弊ヲ一掃ス
其三
国民大衆ヲ挙ツテ心身動労ノ殖産ニ従事セシム
其四
行政区劃ハ漸ヲ以テ天然ノ形成ニ応ズル如ク更改設定ス
其五
皇都ハ適当ノ時期ニ於テ瀬戸内海ノ好適ナル地区ニ遷移セラルルヲ要ス
新首都ハ予メ適切ナル都市計画ニ依リテ企画セラレ人口六、七十万ヲ出デザルモノトナシ
人類都市ノ軌範タラシムルヲ要ス。
殊ニ現時浮華ニシテ且心身及経済的ニ悪弊アルモノト其ノ軌ヲ異ニスルヲ要ス
其六
朝鮮、台湾、満蒙ナラビニ将来我皇政ヲ光被シ自治体ヲ拡充スベキ地方ノ改造ハ
漸ヲ以テ之ニ臨ム
原則ハ国内改造ノモノヲ準用ス
以上

主要参考並引用論文
一、権藤成卿著  皇民自治本義、自治民範等
一、遠藤友四郎著  天皇信仰、日本思想等
一、北一輝著  日本改造方案等


大川周明氏の非公開陳述

2017年01月03日 19時56分20秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


三月事件、十月事件についての
大川周明氏の非公開陳述

三月事件および十月事件に関係のあつた大川周明氏は、
昭和七年の五 ・一五事件にも関係があつて逮捕せられ、
同八年九月二十六日より東京地方裁判所において公判に附せられたが、その節、
神垣裁判長の質問に答えて、
大川氏が語つた三月事件および十月事件関係の陳述は左の通りである。
これによつて当時の宇垣大将や、小磯軍務局長らの心事が大体知られると共に、
この三月事件や十月事件が当時の青年将校達を、はなはだしく刺激した次第も知られるであろう。
陸軍部内の統制が紊れたのは、一朝一夕のことではあるまいが、
特に右の三月事件で、軍の上層部が自ら叛乱を企てたのであるから、
その後の国家改造に関する軍のさかん、尉官の策動にたいする取締りが、
十分に行われなかつたのも当然といわねばならぬ。

以下 大川周明氏の陳述
三月事件
昭和五、六年の帝国議会----すなわち浜口首相を戴いた民政党内閣当時の議会においては、
党弊ようやく天下にあまねく知れわたり、
ことに浜口首相が狙撃されたる後に首相代理となつた幣原外相が帝国議会で失言問題を惹起した結果、
二、三日も議会が開けず急速に議会政治否認の説が高まるに至つた。
しかるに当時陸相であつた宇垣が政党に入らんとする風説が立つたので、
参謀本部の重藤、橋本欣五郎、二宮次長、建川部長および小磯軍務局長がこれにたいし、
よりより話合つていた。
よつて私は小磯、建川からの話で宇垣の腹を探らんとして宇垣と会見した。
会つて見ると宇垣は私にたいし、政党入りの考えは微塵もないと断言した。
一日おいてまた宇垣に会つてみたが、宇垣は政党にたいし大いに憤激しており、かつ
「 自分は軍人だから国のためなら何時でも命を棄てる覚悟をもつてゐる 」
とも話した。
彼も相当改造の考えを持つていた。
翌々日 杉山次官、小磯局長、二宮次長、建川部長は宇垣と夕食を共にしながらいろいろ話した。
小磯から私に報告したところによると、
私に対し宇垣が話したとおりのことを当夜宇垣が話したそうである。
「 つまり国民は政党政治に対し、明らかに愛憎あいそづかしをしているから、
国民的デモをやり 後の始末は軍隊でしようとする計画であつた 」
右の話は二月下旬のことであるが、決行は三月二十日を期してやることにした。
当時部内でもいろいろ話があつたが、部下には計画はヤメだといいふらし、
私と小磯の二人でいつさいの準備をすすめた。
すると三月十日前後と思うが、小磯は私にたいし 「 オヤジはやめた 」 と 以外なことをいつた。
しかし自分としてはいろいろ準備を進めているのだからやめるわけには行かぬと返事した。
こうして小磯は 「 ダメ 」 だといつたが、建川は心中までゆこうといつた。
よつて私としてはどうしても二十日にやるつもりであつた。
しかるに十八日晩に私にとりてはどうしても断りきれぬ徳川義親侯からやめるようにとの話があつた。
義親侯は松平春獄の子で春獄公の血を享けなかなかの人である。
昭和六年千二百五十万円に逹するほどの寄付を公共事業に投じているほどで、
一度こうと決すれば断行する人である。
義親侯は 「 君がどうしてもやるなら、私がやる 」 とまでいわれたので私はついにやめることにした。
ここに一言したいのは陸軍側が民間有志を利用したということであるが、これは全然デマである。
民間側ではまつたく私一人で他は私を通じたものに過ぎない。
私のほかには河本大作がいるが河本も軍人出身である。
いつたい陸軍には宇垣その人のみにかかわらず、嫉妬排擠はいせいなど見苦しきことも多々あるが、
しかし 「 天子様を大事にする心 」 と 「 お国を思う心 」 に至りては格別で、
時あつてこの純なる心が燃えあがることがある。
宇垣も当時は純なる気持ちで立とうとしたことに相違はないが、ただ年が年だし興奮も去り易く、
ついにこうしたことになつた。
当時私は宇垣に対し怒つたが、間もなくもとの心持ちに還つた。
三月事件は無意義でなかつた。
すなわち二つの教訓を与えたのである。
その一つは
青年士官は上官までが政党政治に慊きたらずして、日本改造の意あることをはつきりと知つたこと、
およびもう一つは
年寄り連中に改造の考えがあるにせよ、彼らはあてにならぬから、けつきよく引つ張つてゆくに限る、
下からひきずつてゆかねばダメだという考えを与えたことであつた。

以下大川周明氏の陳述
十月事件
一九三六年に備うるために満洲を取りいれて、長期戦争に堪えねばならぬとの主張のもとに、
まず満洲問題を解決せねばならぬとの空気が漂つているが、
これがため
軍の中央においては 重藤、橋本。
関東軍においては 板垣、石原、花谷、土肥原、
民間の丸腰では 私と河本が計画参与した。
かくて 九月十八日事変となり、支那側が自ら求めてあの結果を招いたことになつた次第であるが、
本庄司令官は九月十八日事変がまことに臨機応変、手際よくやつたと喜んだがなんぞ知らん、
ここまで至るまでには周到なる準備、計画、連絡が廻めぐらされていたのであつた。
次に事変後に処すべき第二段の方針につき考えたのであるが、
この方針については六部だけ刷って各自が持つことになつた。
いつたい日本の内政がこの為体ていたらくで、自分で政治を消化しきれぬ胃袋の持主であつて見れば、
その後 満洲をどうするかに想いいたる時、必然的に国内改造断行の急務が認められる。
三月事件はあの結果になつたので、こんどは上官に知らさずにやろうということであつた。
よつて中佐を中心として五人が一切の計画を立てた。
攻撃の目的と担当者も決めた。
しかし外部で知る者があつたように予審調書にも出ているがそんなことはない。
愛郷塾などで知るよしもなく、二十何人が先頭に立つてどうやる、ああやるなどの計画であつたなど
外部で知らるるわけはない。
計画は一挙にして現政府を覆すことにあつた。
時期は十月二十二日か二十三日にやることになつていた。
十六日にバレた事は事実だが、のびのびになつたのは、
砲工学校生徒が演習にゆき留守であつたりしたためであつた。
わたしの任務は新聞社に赴き、右事件につき不利な記事を書かぬようにすること、
および 本部に出すべき一間四方もある旗に 「 錦旗革命本部 」 と 大書する事くらいであつた。
八十人の兵が私に分配されることになつていた。

裁判長・・バレた原因につき述べよ
大川周明氏の陳述
後から聞いたのであるが、同志の一人で しかも 重大な役割をつとめた一人が、
計画の不利を覚つて 自分の上官に内容を打開けた事に在ろうと思う。
彼はシャアシャアとして 憲兵隊へいつたが、事件の始末などまことに手際よくやつたので
これを知ることができる。
なお この人は軍人の面目にもかかわる一身上の事件のあつた時に、
その上官から特別の恩寵おんちょうを与えられていた。

裁判長・・荒木・真崎は関係ないか
大川周明氏の陳述
荒木は当時第六師団長として熊本におり、真崎は台湾軍司令官となつており、
いずれも東京におらぬから関係はない。
裁判長・・そうか。

この間 大川氏の陳述約四十分。休憩後十時二十分より公開開廷となる。


「 粛軍に関する意見書 」

2017年01月01日 01時51分59秒 | 『 天皇と叛乱将校 』橋本徹馬


左の一文は昭和十年七月十一日附にて、
陸軍歩兵大尉村中孝次、陸軍一等主計磯部浅一両氏の名により公表せられた
「 
粛軍に関する意見書 」 の最初の一節である。
( 全篇は菊版百頁以上にわたる膨大かつ詳細を極めたものである )
その論旨は文章に明白なるがごとく、
三月事件、十月事件にたいする処罰の適正でなかつたことを非難したものであり、
その限りにおいては所論の正当を認むべきであるが、
かくも厳重に三月事件、十月事件を攻めたる両氏自ら、
やがて二・二六事件の叛乱の主謀者となつたことは、遺憾至極というべきである。

謹みて卑見を具申す
現下帝国内外の情勢は 「真に稀有の危局に直面せるを想はしむるもの」 あるは、
さきに師団長会同席上陸軍大臣の口演せられし所の如く深憂危惧一日も晏如たり難く
「 時艱匡救の柱軸たり国運打開の権威たらざるべからざる皇軍 」
の重責は愈々倍加せられたりと謂ふべし。
此秋に臨み 「挙軍の結束鉄よりも固く一糸紊れざる統制の下に其の使命を邁進するは
現下の重大時局に鑑み其の要特に切実」 なるは固より多言を要せざる所なり。
然るに現大臣就任以来軍統制に関する廔次ろうじの訓示、要望ありしに拘らず
「 各般の事象に徴するに遺憾ながら更に一段の戒慎を要す 」 といふよりも寧ろ軍の統制乱れて
麻の如く蓬乱流離殆ど収拾すべからざる状態にあるは実に長嘆痛恨に堪へざる所なりとす。
固より社会の乱混沌は変革期に於ける歴史的必然の現象にして、                  乱離混沌
軍部軍人と雖も此の大原則より除外せられるべきものに非らず。
亦是れ社会進化当然の過程なるは達観すべしと雖も是れ自然として放任し皇天に一任して   是れを
拱手傍観するはとらざる所、飽く迄も人事の最善を尽くして而して後天命の決する所を
俟たずんばあるべからず、是れを以て逐年訓示し口演し処罰処分し或は放逐し投獄すると
雖も愈々非統制状態を露呈し來れり。
郷党的或は兵科的に対峙し天保無天に暗争を継続せる後最近は之れに国家革新の信念方針の
異向を加へ来つて 「 党同伐異朋党比周 」 し甚だしきは満洲事変、十月事件、五・一五事件等を
惹起せる時代の潮流に躍り国民の愛国的戦時的興奮の頭上に野郎自大的に不謹慎を敢へてし
国家改造は自家独占の事業と誇負して他の介入協力を許さず、或は清軍と自称して
異伐排擠に寧日なき徒あり、或は統制の美名を乱用し私情を公務に装ひて公権を檀断し
上は下に臨むに 「感傷的妄動の徒」 を以てし、下は上を視るに政治的策謀の疑を以てす。
左右信和を欠き上下相剋を事とす実に危機厳頭に立つ顧みて慄然たらざるを得ざる所なり。
噫、皇軍の現状斯くの如くにして何によりて 「時艱匡救の柱軸たり国運打開の権威」 たるを得べき、
窃に思ふ、此の難局打開の途は他なし、本年度参謀長会同席上に於ける軍務局長所説の如く
「信賞必罰、懲罰の適正」 を期し軍紀を粛正するに在るのみ。
実に皇軍最近の乱脈は所謂三月事件、十月事件なる逆臣行動を欺瞞陰蔽せるを動因
として軍内外の攪乱其の極みに逹せり、而かも其の思想に於て其の行動に於て
一点の看過斟酌
しんしゃくを許すべからざる大逆不逞のものなりしは世間周知の事実
にして附録第五 「 〇〇少佐の手記 」 によりて其の大体を察し得べし。
而して上は時の陸軍大臣を首班とし中央部幕僚群を網羅せる此の二大陰謀事件を
皇軍の威信保持に籍口し掩覆不問に附するは其の事自体、
上軍御親率の 至尊を欺瞞し奉る大不忠にして建軍五十年未曾有の

此の二大不祥事件を公正厳粛に処置する敢へてせざりしは                       することを
まことに大権の無視 「 天皇機関説 」 の現実と謂ふべく、断じて臣子の道股肱の
分を踏み行へるものに非らず
軍内攪乱の因は正三月、十月の両事件にあり、而して両大逆事件の陰蔽糊塗は実に
今日伏魔殿視さるゝ軍不統制の果を結べるものと謂はざるべからず之を剔抉処断し以て
懲罰の適正を期するは軍粛清の為め採るべき第一の策なりと信ず
( 後略 )  ・・・リンク→粛軍に関する意見書(一)・粛軍に関する意見

目次 天皇と叛乱將校  橋本徹馬 に 戻る