あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

後に殘りし者

2020年12月31日 14時33分33秒 | 後に殘りし者

「 事件の処理は私がやった 」
との 陛下のお言葉のように、
この段階で進めらていた陸軍首脳の方針に、
待った、を かけられた陛下のご意志のまえに、軍当局は絶対的な苦悩に陥ることになった。
朝令暮改というが、陛下の激怒によって軍首脳は、今や施す術がなかった。
百八十度の変転である。

「 陸軍大臣告示 」 はどうして消えたか
昭和四十六年十一月の、外国記者団との会見における天皇の発言によれば、
二・二六事件の収拾処置は自分が命令した、
それは憲法の規制を逸脱した専断であった。

と 認められている。
憲法によれば、
国政を預る政府責任当局の決定に対しては、天皇といえどもそれを否認する拒否権はない。
その憲法無視を敢て強行された天皇の意志が、二・二六事件蹶起完敗のすべてであった。
事件は陸軍軍隊によって起された暴発であり、この収拾は軍当局の責任である。
その責任下に決定、告示された 「 陸軍大臣告示 」 が、
わずか半日にして姿を消したことは、一に 天皇の意志であり 激怒 であった。
いかに憲法上は正しい大臣告示でも、
神厳にしておかすべからずの天皇の意志の前には、軍人として一も 二もなく 為す術はなかったろう。
天皇の意志に反した告示など、存在する運命はなかった。
天皇の鎮圧すべしとする意思決定の段階で、「 陸軍大臣告示 」 の存在理由はなくなったのである。



後に殘りし者

目次
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昭和天皇
・ 
二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 

・ 末松太平 『 二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ 』

林八郎 『 不惜身命 』 
・ 鈴木貫太郎 ・ 自伝で語る安藤輝三 
・ 
栗原中尉の仇討計画 
尾島健次郎曹長 「 たしかに岡田は、あの下にいたんですよ 」 

池田俊彦少尉、常盤稔少尉、鈴木金次郎少尉、清原康平少尉、今泉義道少尉
・ 
生き殘りし者 1 首相官邸 「 人違いじゃないですか ?」 
・ 生き殘りし者 2 宮城占據計畫 「 陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった 」 
・ 
生き殘りし者 3 麹町地區警備隊 「 師團長はこれで昭和維新になると思った 」 

池田俊彦少尉、鈴木金次郎少尉
・ 生き殘りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 1 
・ 生き殘りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 

岡田啓介、安井藤治、大蔵栄一 他
・ 
殘った者 ・ それぞれの想い (一) 「 指揮したのは村中 」 
・ 
殘った者 ・ それぞれの想い (二) 「 昭和維新に賛成して下さい 」 

齋藤史
・ 
齋藤史の二 ・二六事件 1 「 ねこまた 」 
・ 齋藤史の二 ・二六事件 2 「 二 ・二六事件 」 
齋藤史の二 ・二六事件 3 「 天皇陛下萬歳 」 
・ 
ある日より 現神は人間となりたまひ 
・ 
野の中に すがたゆたけき 一樹あり  風も月日も 枝に抱きて 

・ 
眞崎甚三郎 ・ 暗黒裁判 二 ・二六事件 
・ 傍聴者 ・ 憲兵 金子桂伍長 

・ 
拵えられた裁判記録
・ 
匂坂春平檢察官 『 きょうは四人の方々の命日だね 』


然レドモ朕ハ爾等國民ト共ニ有リ、
常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。

朕 ト 爾等國民トノ間ノ紐帯ハ、
終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、

単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。
天皇 ヲ以テ
現御神トシ、
且 日本國民を以テ
他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、
延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス
トノ 架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ
史 はさっそく池田町にいる父に手紙を認めた。
「 天皇は国民と共にあって、利害を同じくするのだそうです。
お互いは信頼と敬愛の絆で結ばれていて、
それは神話や伝説に基づくものではないと仰せられています。
天皇のことを神と考えたり、
日本民族が多民族より優秀だと考えて
世界を支配する運命を持っている
といったことは 架空の観念だとおっしゃっております
父上様、
陛下は現御神、つまり現人神、であられることさえも否定されたのです。
史 には到底理解が及びません。」
・・・
瀏は何も答えなかった。

白きうさぎ 雪の山より出て来て
           殺されたれば 眼を開き居り 
・・・斉藤史


二・二六事件の収拾処置は自分が命令した

2020年12月30日 17時52分50秒 | 後に殘りし者


『 二・二六事件の場合は、

暗殺によって多くの閣僚が空席となったため、
自分の遺志で行動せざるを得なかったのだ 』
『 二・二六事件は革命ではない 』
『 二・二六事件の収拾処置は自分が命令した、
それは大日本帝国憲法の規制を逸脱した専断であった 』

・・
昭和四十六年十一月十六日、

外国記者団との会見における 天皇の発言である。




二月二十六日
午前五時過ぎ、甘露寺侍従によって事件突発の報を受けられた陛下は
「 とうとうやったか 」
との お言葉だったという。
当時の逼迫した国内状況は、
木戸内府をはじめ側近によって陛下の耳にも充分に入っていたことは これに徴してもよく判る。
続いて事件によって襲撃され重傷を負った鈴木侍従長の夫人が参内し、
襲撃時の状況を聞いておられる。
鈴木夫人は先に宮中にお仕えした人であるので ただちに参内したようだ。
鈴木侍従長をこよなく信頼しておられたという陛下にとっては、
生々しい寵臣襲撃ちょうしん、重傷の報は、大きな衝撃であったに違いない。
さらに、側近に奉仕する斎藤内大臣の死や、先の内府 牧野伸顕の被襲、岡田首相
( 後日生存と判明 )、高橋蔵相、渡辺教育総監の暗殺と、
多くの重臣が青年将校の率いる軍隊によって襲撃された出来事は、
「 朕の首を真綿でしめるようなものだ 」
と 言われた陛下のお言葉が伝えられるとおり、
その心中の お怒りは、元首天皇として、また、人間として当然のことであったろう。
この重大叛乱事件に対する陛下の襲撃は、個人的感情を含めて、
第一段階から 激怒 であったとしても不条理ではない。
その激怒がそのまま陛下の意志として事件処理対策に及んでいったように思われる。

鈴木侍従長襲撃を終え三宅坂へ向かう安藤部隊

問題の陸軍大臣告示
事件が突発したのが午前五時、
そしてその報道が国民の前に知らされたのは、
何と、白昼の十五時間を経過した夜の八時十五分である。
この長時間の空白の事実は、この間に、軍中央部、宮中関係における動向が
いかに深刻複雑であったかを端的に物語っている。
事件は陸軍の問題である。
政府としては実力的に処理能力はない。
陸軍当局が早急に責任をもって解決しなければならない。
軍首脳部は動転のうちにも緊急対策に動いた。
午前十一時過ぎ、
急を聞いて宮中に参内した軍事参議官は、ただちに会議を開いて鳩首協議の結果、
まとまった意見を 「 陸軍大臣告示 」 として決定し、これを山下軍事調査部長が蹶起将校に伝達し、
さらに、三時三十分には東京警備司令部から各部隊に通達された。
すなわち、
( 一 )  陸軍大臣告示・原文

陸軍大臣告示・原文 (二月二十六日午後〇時半、於宮中 )
諸子蹶起ノ趣旨ハ、天聴に達シ
諸子ノ真意ハ国体ノ真姿顕現ノ至情ハ之ヲ認ム
真姿顕現ニ就テハ我等 亦 恐懼ニ堪ヘサルモノアリ
参議官一同ハ国体顕現ノ上ニ一層匪躬ノ誠ヲ致スへク
其以上ハ一ニ 大御心ヲ体スヘキモノナリ
以上ハ宮中ニ於テ 軍事参議官一同会シ 陸軍長老ノ意見トシテ確立シタルモノニシテ、
閣僚モ亦 一致協力益々国体ノ真姿顕現ニ努力スヘク申合ワサレタリ

( 二 ) 告示文 ( 二月二十六日午後三時三十分 )
東京警備司令部
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ 天聴ニ逹セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現 ( 弊風ヲ含ム ) ニ就テハ恐懼ニ堪エズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ拠リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ俟ツ

この 陸軍大臣告示が、その後の事件収拾の過程において最大の問題を生んだ。
この告示が山下奉文少将、によって蹶起将校の前で伝達された時、
読上げる山下も我意を得たりの感で胸を張ったし、
聴入る蹶起将校たちの面上には、我事成れり の満悦感がこぼれていた。
それほどに、この告示の内容は蹶起行動是認を示すものであることは異論の余地はあるまい。
ところが、この告示がわずか半日たらずのうちに、
変転消滅したのだから問題は複雑となるのである。
上述のように公然として志達された告示が、幽霊告示となり、
事件後も、いっさいの公式文書から姿を消してしまったことは何と解明すべきであろうか。
この間に、第一師団管下に戦時警備令が発令され、
同時に、事件を起こした蹶起部隊は、その警備部隊の一部隊として編入された。
この時の告示文は、
部外秘
軍隊ニ対スル告示 ( 二月二十六日午後三時  東京警備司令部 )
一、第一師管内一般治安ヲ維持スル為、本日午後三時、第一師管戦時警備ヲ下命セラル
二、本朝来出動シアル諸隊ハ、戦時警備部隊トシテ、
  新タニ出動スル部隊ト共ニ師管内ノ警備ニ任ゼシメラルルモノニシテ、

  軍隊相互間ニ於テ絶対ニ相撃ヲナスベカラズ
三、宮中ニ於テ大臣等ハ現出動部隊ノ考エアル如キコトハ大イニ考エアリシモ、
  今後ハ大イニ力ヲ入レ之ヲ実行スル如ク会議ニテ申合セヲナセリ
と あり、
さらに、この告示文が師団から管下部隊に下達されるに当って
「 閣議モ其趣旨ニ從イ善処セラル 」
という条項まで付け加えて通達されている。
続いて、二十七日午前三時三十分には戒厳令が公布せられ、
蹶起部隊は そのまま指揮下部隊として区署されている。
これを見ると、大臣告示の内容といい、これに続く一連の各部隊への通達といい、
少なくとも二十六日午後三時の時点では、
軍の方針は蹶起部隊の意図を生かして事態に対処する意向が表明されている。
単に、軍だけでなく、
「 閣議もこれに従う 」
とあってみれば、明らかに蹶起部隊の行動是認である。
さらに、二十六日午後八時十五分、
事件突発後初めて陸軍省によって発表された事件の行動概要
と それに付記した 蹶起の目的 については、
「 これら将校等の蹶起せる目的は、その趣意書に依れば、内外重大危急の際、
元老・重臣・財閥・官僚・政党等の国体破壊の元兇を壱を芟除し、
以て 大義を正し 国体を擁護開顕せんとするにあり 」
と、ある。
これが、一般国民に対して、事件勃発についての初のラジオ放送によって発表されたのである。
これをみても、蹶起部隊の趣旨を伝えて国民の理解を求めるかの如くであって、
一言半句もその不正、違法に言及していないことは、上記の軍の方針に基づいたものであることが判る。
この時点では、蹶起部隊は決して叛乱部隊ではなかったのである。
部隊将兵への食糧も、堂々と原隊から搬入されていたことはどう理解するか、
このような事態が突如として百八十度の逆転をするのである。

事件勃発後の一つの動き
蹶起部隊は各重臣襲撃、暗殺を終えて、
陸軍省、首相官邸、議事堂地区の麹町一帯を占拠し、首脳将校らは陸相官邸に集まり、
軍中央首脳との会見に備えた。
午前九時頃、真崎甚三郎大将が官邸に姿を見せ、出迎えた蹶起将校を前にして、
「 よおくわかっとる 」
と、軍装の胸を張って官邸に入り、川島陸相と会見し、
何を愚図愚図していると言わんばかりの見幕で、川島陸相に早急に宮中に参内して天皇に上奏することを促した。
尻を叩かれるように、川島は参内する。
一方、真崎は伏見宮海軍軍令部総長の宮を訪問し、
革新派の加藤寛治海軍大将と落合って、殿下に帯同して参内している。
この演出は、明らかに真崎、加藤の事前、すなわち時間的には事件勃発直後における協議の所産であったろう。
陛下に対し謁見した川島は、状況報告を奏上したが、陛下のお怒りの御不満に取りつくしまなく退下した。
伏見宮総長も続いて拝謁し、真崎、加藤の意見を奏上されたようだが、
陛下の御不満は動かず、空しく退下されて蹶起部隊へのお怒りは強かったと語られたという。
その お怒りは後日 激怒 と 表現されて松本清張らによって書き伝えられている。

激怒を前に百八十度の変転
陛下は昭和46年11月十六日の外人記者会見で
「 閣僚の多くが死んだので・・・・云々 」
と、言われているが、現実には、高橋蔵相は死んだが、死んだと伝えられた岡田首相の代理に、
後藤内相が逸早く新任されており、内閣の応急措置には事欠かぬはずであった。
しかし、この事件の場合、政府が緊急に介入、対処する実質上の機能はなく、
軍当局に一任する外はなかったろう。
その事は、既述のように、陸軍首脳の事件収拾方針の協議が進められていたのであるが、
これに対する 陛下の不信、激怒 は 変らなかった。
「 事件の処理は私がやった 」
との 陛下のお言葉のように、
この段階で進めらていた陸軍首脳の方針に、待った、を かけられた
陛下のご意志のまえに、軍当局は絶対的な苦悩に陥ることになった。
朝令暮改というが、
陛下の激怒によって軍首脳は、今や施す術がなかった。
百八十度の変転である。

「 陸軍大臣告示 」 はどうして消えたか
昭和四十六年十一月の、外国記者団との会見における天皇の発言によれば、
二・二六事件の収拾処置は自分が命令した、それは憲法の規制を逸脱した専断であった
と 認められている。
憲法によれば、国政を預る政府責任当局の決定に対しては、天皇といえどもそれを否認する拒否権はない。
その憲法無視を敢て強行された天皇の意志が、二・二六事件蹶起完敗のすべてであった。
事件は陸軍軍隊によって起された暴発であり、この収拾は軍当局の責任である。
その責任下に決定、告示された 「 陸軍大臣告示 」 が、
わずか半日にして姿を消したことは、一に 天皇の意志であり 激怒 であった。
いかに憲法上は正しい大臣告示でも、 神厳にしておかすべからずの天皇の意志の前には、
軍人として一も 二もなく 為す術はなかったろう。
天皇の意志に反した告示など、存在する運命はなかった。
天皇の鎮圧すべしとする意思決定の段階で、「 陸軍大臣告示 」 の存在理由はなくなったのである。

撤回による事後処理の苦悩
強い天皇の拒否意志によって、先に正式に下達された 「 陸軍大臣告示 」 の運命は、
その時点において実質的に消滅したのであるが、
下達された蹶起将校、部隊側においては依然確固として生存していたのである。
得々と胸をはって 「 陸軍大臣告示 」 を三度、読みあげた山下少将の五カ条の告示文の内容は、
蹶起趣旨精神を是認し、天聴に達し、軍、政府共一致してその目的達成に邁進するとある。
これが何の理由によって撤回されたかを、いかにして蹶起将校、部隊に納得説示するためには、
天皇の反対意志を表面に持出さない限り絶対的に不可能のことであったろう。
天皇のために、国家国民のために蹶起した彼らに、
朕自ら近衛師団を率いて鎮圧するとまで激怒された天皇の意志を秘しては
いかにして彼らを説得させることができるであろうか。
至難のことであった。
そのため軍当局としては、ただ、何も言わずに、原隊復帰を説得、懇請することに奔命した。
一命を賭して蹶起して今に至った彼らである。
理由をいわず、原隊復帰、部隊撤収の要請に応諾することなどあり得ないことであった。
ことに最初の時点から蹶起将校との折衝に当っていた山下少将は、
この百八十度の大変転の事態に直面して、いかに対処すべきかの苦衷は察するに余りあるものがあった。
蹶起前に訪れた栗原中尉に、やるのなら早いほうが良い、と 語ったその栗原がいま眼前に対峙している。
帰順を哀願する山下の前に栗原の手が伸びた。
しかと握られた掌を通じて栗原の決意が伝えられた。
すでに事態推移の実状を知る栗原は、まはや蹶起完敗を知悉し、
この上は自決をもって責任を果したい、
最後の願いは、自決に当ってせめて勅使の御差遺を仰ぎたい
との懇願であった。
帝国軍人として死に臨む最後の願望であったろう。
これを聞いて山下少将は、差出す栗原の手を固く握りしめて感激の涙を浮かべた。
口では 「 ありがとう 」 と いったかは確かめるに由ないが、
山下の心中の安堵は充分に察せられる。
「 承知した、私が責任をもって申出でに善処する。ただちに宮中に参内する 」
と、山下は官邸を出た。
複雑な心境であったろう。
山下は宮中に本庄侍従武官長を訪ねた。
その後のことは 別項 『 本庄日記 』 に 譲る。
この山下、本庄会見の結果が栗原らに伝えられた記録はない。
しかし、栗原らの決意が、磯部や安藤らの反対意見によってくつがえされるのである。
すでに、自決の決意表明によって、当局による逸早い措置によった白木の棺、二十数個も宙に浮いてしまった。
磯部らは、今、全将校が自決したら、蹶起の目的、精神は何によって、誰によって国民に訴えることができるか。
蹶起の挫折を死によって償うことは武人として立派な最期であろう、
しかし我々の蹶起の目的は、完敗によって滅却するような安易なねのではない、
敗北による死を乗越えて、生のあらん限り闘い抜くことが当初からの信念である。
來るべき軍法会議の法廷闘争において、死を賭して
国民の前に、蹶起の真精神、尊皇護国昭和維新達成の真意を開陳披瀝することに
最後の全力を傾けるべきである、と 説いた。
磯部らの主張の裏には、さきの五・一五事件、神兵隊事件、相沢中佐事件での裁判過程における法廷状況が、
各新聞社によって大々的に報道されて国民に重大な関心を呼んだ実績が、
強く脳裏に根ざしていたことは争えないことであった。
こうして、栗原中尉らの自決は翻意となり、野中大尉の自決の外、全員が二十九日夕刻には、
憲兵隊の手により 代々木陸軍刑務所に収監されることになり、
さしもの事件も終幕となった。
昭和史悲劇の幕切れとともに、この後に続く昭和史大転換の幕開けともなったのである。

悲劇を生んだ天皇の怒り
急転回の事件処理
二十八日 午前六時三十分、勅令による撤退命令が発表された。


戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ
速カニ現姿勢ヲ徹シ 各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムヘシ
奉勅
参謀総長  戴仁親王
戒厳司令官  香椎浩平殿

ところが、この奉勅命令は出たものの戒厳司令部、第一師団当局者によって、
その下達が遷延された。
その理由は、第一日、すなわち、二十六日に軍が示した命令 『 陸軍大臣告示 』
と まったく相反する逆転処置を将来したこの勅令に、
どう対処するかの苦悩のためであった。
発布された勅令の下達、実施を延引することによって、
その間に行動部隊を説得するための時間を持つためであった。
事態の急転回に当面した軍事参議官の将軍たちは、
前日の 『 大臣告示 』 の場合とは打って変って、行動部隊将校への原隊復帰を説得するのに、
おおわらわとなった。
ただちに指揮系統を通じて勅命を下達すべきであるのにも拘らず、
これまでの経緯から、不条理の体面上、窮余のままに原隊復帰の哀願であった。
皇道派の幕僚で、前日は得々として行動将校の前で 『 大臣告示 』 を読上げた山下奉文少将
を はじめとする幕僚連も、この百八十度の変転に対処の術なく、
ただただ、原隊復帰を切々として説いた。
哀願であった。
しかし、ここに至った理由、天皇の意志を秘しての説得では、
行動部隊将校が納得できなかったことは無理ではなかった。
この間に、東京近県の緊急動員された部隊が続々と入京し、
麹町地区一帯を遠巻きにして、戦車、大砲を布陣しての包囲陣を固めた。
事態の変転悪化をひしひしと目前にし、
陸相官邸に集まっていた香田大尉、栗原中尉をはじめとする将校たちは、
万事休すと判断し、遂に失敗の責を負って自決を決意した。
この決意を伝えられた山下少将は、
感極まって滂茫たる涙を流して、栗原と抱き合っての感涙であった。
緊迫昂奮の雰囲気の中で栗原は、
将校の自決にあたっては、せめて勅使の御差遺を仰ぎたい旨の最後の懇望を訴えた。
「 よろしい。君たちの願いは俺が責任をもって引受けた 」
と、固く栗原と握手を交す山下だった。
そして、取るものも取りあえず、急いで山下は宮中に参内し、本庄侍従武官長に会った。

この時のことが、『 本庄日記 』 に 書かれている。
二月二十八日午後一時、
川島陸相及び山下奉文少将、武官府に来り、

行動将校一同は大臣官邸にありて、自刃 罪を謝し、下士官以下は原隊に復帰せしむ。
就ては、勅使を賜り 死出の光栄を与えられたし。
これ以外 解決の手段なし、
又 第一師団長も部下の兵を以て、部下の兵を討つに耐えず と為せる旨を語る。

繫は、斯ることは恐らく不可能なるべしとて、躊躇せしも、
折角の申出に付、一応伝奏すべしとて、御政務室にて右、陛下に伝奏せしところ、
陛下には非常なる御不満にて、
自殺するならば勝手に為すべく、

此の如きものに勅使など以ての外なりと 仰せられ、
又、師団長が積極的に出ずる能はずとするは、自らの責任を解せざるものなり
と、
未だ曾て拝せざる、み気色にて厳責せられ、
直ちに鎮定すべく厳逹せよと厳命を蒙る 。

これを見れば、陛下の 激怒 のほどがまざまざと察知される。
のみならず、
何を愚図愚図しているか、一刻も早く武力鎮圧せよ
との 厳命ぶりである。
これが、 『 木戸日記 』 によると、
お前達が朕の命令を躊躇するなら、朕自ら近衛師団を率いて討伐する
と、書かれている。
まさに激怒である。

その激怒は何に由来して出たのだろうか。
たまたま、この直前の午前十一時ごろ、近衛文麿が参内し、陛下に拝謁している。
『 木戸日記 』 は 書く。
今回の事件は、岡村( 寧次 )、山下両少将と、石本( 寅三 ) 大佐の合作なりと、
相当確実なる 聞込み あり---
近衛が拝謁前に、木戸と会い、両者の間でこの 聞込み が語りあわれたことは想像される。
近衛がこの 聞込み を、陛下のお耳に入れたか、
あるいは、すでに木戸から聞かれておられたかは知らぬが、
陛下が知っておられたことは間違いあるまい。
この直後の、山下を通じての本庄の伝奏である。
陛下が、この伝奏による印象が激怒 につながったとしても、いわれなしとしないだろう。

天皇陛下万歳の刑死
昭和十一年七月十二日、代々木陸軍刑務所の構内で、叛乱将校たちは、
天皇の上述のような言動を知ることなく、
「 天皇陛下万歳 」 を 絶叫して刑場の露となって散った。
天皇のため、日本国家・国民のためを念じて、命を賭して蹶起した彼ら、
それが事志に反し、事敗れ、天皇の名の下に死刑の刑架につき、銃口を前にして、なおかつ、
「 天皇陛下万歳 」 を 高唱して従容として死についた。
天皇絶対不可侵の軍人精神の信念は、この場合においても微動だに崩れなかった。
「 撃たれたら直ぐ陛下の御側に集まろう。爾後の行動はそれから決めよう 」
と、語り合って死んだ彼らの天皇観は、日本本来の天皇観、国体観に徹したものとして、
堂々たる賛辞に値しよう。
彼らはそれで満足であったかもしれないが、他面においてそれは、
まさに悲劇であり、昭和の惨劇であったのではないだろうか。
事件終幕のこの悲劇の裏に、天皇の意志、激怒のあったことは悲しい。
革命の敗者として背負った刑架は、当然の帰結である。
だが、その犠牲者の数において、裁判の方法において、
こうした結末が果して唯一の方途であったろうか。
いっさいの言論を封殺し、非公開、無弁護、一審の暗黒裁判を必要とした
なにものかがその背後にあったのではなかろうか。

河野司  天皇と二・二六事件 より


末松太平 『 二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ 』

2020年12月29日 08時20分34秒 | 後に殘りし者

天皇と二 ・二六事件
あれだけのことをやりながら 二 ・二六事件は成功しなかった。
「 他の国でならば、あれでクーデターは完全に成功ですよ 」 
と、河野司氏は言う。
それも一理ある見識であろう。
しかし失敗した。
良くも悪しくも天皇制があったからである。
日本におけるクーデターの、そして革命の難しさもここにある。
明治維新の時ならば、皇居に入り、「 玉を奪い 」 強引に、成功させていたであろう。
木戸孝允などが生きてたらきっとそうしたに違いない。
自分達がモデルとした明治維新の忠士連よりも、青年将校の方がより純粋だったからなのか。
あるいは幼稚だったからなのか・・・・。
二 ・二六事件の挫折は、天皇が 「 人間天皇 」 になられ、
「 人間の怒り 」 を持って蹶起者に対したからだとも言われる。
一時は、青年将校のリーダーが失敗を自覚し、全員自決しようとする。
その時、栗原は 「 せめて勅使をあおぎたい 」 と言う。
しかし、本庄を通して伝えられた天皇の言葉は冷たかった。
「 勅使などはもっての外だ。死にたければ勝手に死ね 」 
その言葉が青年将校に伝わらなかったのだけは幸いであろう。

また天皇は
「 日本もロシアの様になりましたね 」
といわれたという。
獄中で人伝てにこのことを聞き、磯部は 「 私は数日間気が狂ひました 」 と言い、そして叫ぶ
「 今の私は怒髪天をつくの怒にもえています。
 私は今は、陛下を御叱り申上げるところに迄、精神が高まりました。
だから毎日朝から晩迄、陛下を御叱り申して居ります。
天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか、何と云ふザマです。
皇祖皇宗に御あやまりなされませ 」 ( 「 獄中日記 」 )
天皇はもういちど 「 人間天皇 」 になられた時がある。
終戦の和平を決める時である。
和平に反対し、厚木航空隊の反乱を起こした小園安名司令は絶叫する。
「 天皇陛下、お聞き下さい。
 あなたはあやまちを冒されましたぞ。
あなたの言葉で戦争をお始めになったのに、何ゆえ降伏なさるのでありますか 」
そしてこの怨念の声は、磯部、小園、さらに三島由紀夫へと至る。
「 天翔けるものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲あざ笑う
 かかる日に、などてすめろぎは人間となりたまいし 」  ( 「 英霊の声 」 )
・・・鈴木邦男著

鈴木  二・二六事件の時は、皇居に入って 「 玉を奪う 」 というか、そんな計画はなかったのですか。
松本清張の 「 昭和史発掘 」 などには皇居占拠の計画があったように書かれていますが。

末松  そんなものはないですよ。
  そんなことを考えていたら、年寄りを殺すよりも、先きにそっちをやっていますよ。
 為し得れば、ということで門を押える位のことは考えたらしいけれど。
それに今さら、そんなことを推測してみても仕方がないんじゃないか。
磯部なんかを墓から起こして聞いてみるわけにもゆかないし。

鈴木  天皇のために蹶起した人間が、天皇の名のもとに鎮圧され、裁かれますね。
  「 これから鎮撫に出かけるから、ただちに乗馬の用意をせよ 」 
と天皇は激怒されたと聞きますが。

末松  その天皇の御言葉によって全ては、つぶれてしまうんですよ。
  この天皇の御意思がわかったから、皆将軍連中も手の平を返した。
二 ・二六事件をぶっつぶしたのは天皇ですよ。
そのウラミは私にもありますよ。
眞﨑や荒木などばかりせめてもかわいそうです。

鈴木  しかし、眞﨑、荒木、山下なんていうのはずい分と将校をおだてておきながら、
  いざ奉勅命令が出ると、彼らを裏切っていますね。

末松  まァ、大体に於て革命する人間が、革命される側の人間を信頼するというのが間違いの因もとですよ。
  僕は眞﨑、荒木等は前からハシゴだと思っていた。
屋根に上ってしまえば、もういらないんですよ。
だから別に裏切ったとも思っていません。

鈴木  しかし眞崎や荒木将軍達のみならず、天皇にも裏切られた磯部の叫びは凄惨ですね。

末松  いゃア 私はそうは思わないがね。
  あれは赤ん坊が泣いて 「 お母ちゃんのバカ、バカ 」 って言って胸をたたいているようなもんですよ。
それだけにまた悲しいことともいえるが。

鈴木  そうですか。ところで今の問題と関連しますが、北は、あまり、天皇のことなど考えていなかったという説もありますが。

末松  あの頃読まれていた本で、遠藤無水の 「 天皇信仰 」 〔 先進社、1931 〕 という本がありますが、
  それには、北の改造法案を 「 赤化大憲章 」 だと書いてある。
また、北の思想を共産主義だという人も、ずい分いた。
僕なんかは北からはそんな話はあまり聞かなかったが、ただ東郷平八郎大将の 「 天壌無窮 」 というと、
青銅でつくった明治天皇の像をいつも部屋にまつっていた。
僕らよりも、北の方が、ずうっと天皇を崇拝していましたよ。

鈴木  ただ北の思想の中には、社会主義的なものはずい分あったんじゃないですか。

末松  それは確かにありましたよ。
  しかし社会主義だろうと共産主義だろうと、日本に国の思想とは矛盾しないと思うんだな。
何故なら虐げられたものが幸福になるということでしょう。
これは大御心と同じですよ。
マルクスま考えたことも大御心にかなうことですよ。
金持ちだけがいい目を見、働くものがバカを見るのは大御心じゃないでしょう。
ただ、日本の天皇は外国の帝王のようにブルジョアになってはならないというのが北の考えなんですよ。
ヨーロッパの帝王は、狩りをする時、ウサギの味が落ちるから、畑に肥料をやるのを禁じたなんてのがある。
百姓が困ろうと一向に構わない。
そういう王室とは全然違うんだと言ったんですよ。
皇室財産はいらないという北の主張もそこから出て来るんですよ。
西田税が笑って言ってましたよ。
「 日本でブルジョアといったら、天皇陛下が一番ブルジョアだよ。
 木曽の御料林に行って御覧、(当時の金で) 一本何万円もかる杉や桧が、ぼんぼん立っている。
百万長者じゃきかないよ 」 ってね。
我々が当時、そんな事をいうと不忠者と思われたが、マッカーサーによってそれがやられた。
青年将校がやり残した事をマッカーサーがやり遂げたなんて全く皮肉ですがね。

北一輝と青年将校
末松太平氏の著書 「 私の昭和史 」 には、
末松氏が北一輝を訪問した時の様子が次のように書かれている。
「 (北は) 『 軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。
 おかげで腐敗した政治に染まらなかった。いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。
しかも若いあなたがたです 』 と、キラリと隻眼を光らしていった。
それは意外なことばだった。今の自衛隊そっくりに無用の長物視されていた軍人が、日本を救う唯一の存在であり、
特に若いわれわれがその再適格者だといわれたからである 」
そして、北にそう言われた感銘は 「 クラーク博士における 『 ボーイズ・ビー・アンビシャス 』 だった 」 という。
さらに、西田税は末松氏らに言う。
「 北さんは日本の革命はあきらめていたが、君らの出現によって考え直すようになった 」 と。
末松氏は前掲書の中で、こうも言う。
「 北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 には、日本改造勢力の主体として、在郷軍人の動員は言っているが、
現役軍人のことには一言もふれていない。
それが私達の動向によって、現役軍人をつかめる目安がついたとすれば、
あるいは西田の述懐が北一輝の本心だったのかも知れない。・・・鈴木邦男

鈴木  北ノ言葉が  『 ボーイズ・ビー・アンビシャス 』 のように聞こえたと言いますが、
  当時は軍人の評価というのは、そんなに低かったのですか。ちょっと信じられませんが。

末松  軍人が今の自衛隊のように税金ドロボーと同じように見られていた時代ですからね。
当時の中学校では戦争は絶対に無いって教えていた。
国際連盟が出来ていたからね。
これからは全ては話し合いで決まるんだから、軍人なんかいらないと思われていた。

鈴木  それほどひどかったんですか。今の風潮と似ていますね。

末松  大正自由主義の風潮はあったし、今よりひどかったですよ。
  今なんか戦争がないなんて言っても誰も信用しないでしょう。現にやっているんだから。
しかしあの当時は実際なかったんだ。
第一次大戦から満洲事変まではシベリヤ出兵や済南出兵はあったけれどもね。そんな時代ですよ。
僕なんか幼年学校うけるのにも片身の狭い思いをしたもんですよ。

鈴木  それで、きたの言葉がそれほど感銘深く響いたわけですか。
  ところで 二・二六事件と北の關係はどうだったんですか、いろいろ言われてますが。

末松  事件には直接関係ありませんね。
  ただ、青年将校に影響力のあったことは確かだ。
僕なんか、たまにしか会わなかったから、かえって北のことを、きれいにとらえられるんじゃないかな。
あっさりして感じのいい人だったし、ともかく勉強家だし博学だった。
「 支那革命外史 」 の一行は、普通の本一頁に匹敵するだけのものがありますね。
文がうまいというより、内容の深さですね。
若い時は図書館にばかり、閉じこもって万巻の書を読んだらしいね。
しかし年をとって勉強したかどうかはわからないね。
大仏次郎おさらぎじろう の「 忠臣蔵 」ともいわれるし、また、それでよかったのかもしれないね。
もう知識なんていらなくなったんじゃないかな。

年とってからの北は本を読まなくなったばかりでなく、革命家たることもやめていたのではないかと推測する向きもある。
「 昭和史発掘 」 で松本清張は言う。
「 五十四歳の北はすでに直接的な国内革命運動の情熱を失っていた。
 生活のために受けていた三井、三菱の金銭的援助が身に沁みつきすぎた 」 と。
そして北は政界黒幕型を志し、その面からの秩序改新を目指したのではないかと、推理する。
来してどうだったのだろうか

鈴木  松本清張のような推測もありますが、どうですか。

末松  そんな推測は、勝手にさせておけばいいでしょう。
  二・二六が失敗に終って、お偉方もずい分とひっぱられた。
そして、泣いている連中もいたんだ。
そんな中でも北、西田は悠然としていたしね。
北は法華経ばかりあげているし、二人とも
、死刑を宣告されてもケロッとしていた。
判決後、帰ってきたのを僕はみたんだが、西田は亀川との別れぎわに 「 やァまたね 」 なんて声をかけて、
普段と全く変わらないんだ。
僕ら口では強がりを言っていたが、内心、刑の軽いことを願っていた。
しかし 北、西田は違う。
北は、かりそめにも、自分の書いたものによって青年層が影響を受けたのだとするなら、
まず私を死刑にすべきだ と言っているしね。
こりゃア立派なものですよ。
死ぬ時まで、革命家でしたよ。
机の上で革命を書いている評論家とは違いますよ。

鈴木  北は三井などから、ずい分と金をもらっていたとききますが。

末松  北が三井から金をもらったっていうけど、じゃア他の連中はどこから金をもらっているんですか。
  やはり、金のあるところから引き出してるわけでしょう。
北が三井から金をとってたのと大差はないですよ。
今の政党だって、どっかから、かすめとってるんじゃないですか。
将校なんかは、月々のものを貰って生活が安定しているし、
こりゃアプチブルですよ。
失うものは鉄鎖以外にいっぱいあったし、プロレタリアートじゃない。
その点、北、西田は浪人ですよ。
その浪人に僕は同情し、価値を認めるるですよ。
・・・以下、略


末松太平
二・二六事件について証言
島津書房編  『 証言 ・昭和維新運動 』  島津書房1977
「 証言  私の昭和維新 」 の 「二 ・二六事件 ・ 末松太平氏に聞く 」 聞き手は、鈴木邦男
・・出展 ・・・
礫川全次のコラムと名言 ・・・というタイトルのブログから転載


生き殘りし者 1 首相官邸 「 人違いじゃないですか ?」

2020年12月28日 15時23分33秒 | 後に殘りし者

       
池田俊彦少尉        常盤稔少尉     清原康平少尉       鈴木金次郎少尉    今泉義道少尉
司会・半藤一利
当時何歳でしたか
池田
満でいうと二十一歳、五人とも大正三年 ( 1914 年 ) 生れですから。
今泉
前年に士官学校を卒業 ( 47期 ) し、少尉に任官してから三ヶ月目で免官になったわけです。
そんなに若い少尉が、所謂昭和維新運動に何時頃からのめり込んでいったんでしょうか
常盤
私の場合でいうと、やはり相澤三郎中佐による永田鉄山暗殺事件 ( 昭和十年八月十三日 )
あの時以来 何か起きるであろう、起さなければいけないのではないか、と考える様になりましたね。
当時は士官学校の最上級生でした。
殊に 私と清原と鈴木は歩兵第三聯隊所属で、士官候補生で隊付勤務の時の教官が安藤輝三大尉ですからね。
自然と革新運動に関心を持たざるを得ない環境にあった。
鈴木
補足しますと、真崎甚三郎大将が教育総監のとき士官学校へこられて、いささか革新めいた話をされたことがある。
それが先ず第一の洗礼でしょうか。
それから私達が少尉に任官して歩三へ帰った時、安藤さんに云われて、
柳川平助師団長が台湾軍司令官に赴任されるというので、中将を訪ねた。
その時 中将が私達三人 ( 常盤、鈴木、清原 ) に こう言われた。
「 お前達が思い詰めて、もし ヤルというようなときには連絡をせよ 」 と。
まあ、我々をつつむ当時の空気というものは、そのようなものでしたね。
つまり陸軍の上の方に一つの流れがあり、その流れが下の方にも浸透していた、と言ってもいい。
歩三には安藤大尉と野中四郎大尉という指導者がいた。もう一人の指導者栗原安秀中尉のいた歩一はどうだったのでしょうか
池田
相澤事件の前に、磯部浅一、村中孝次の両先輩が後に免職になる士官学校事件 ( 九年十一月二十日 ) が 起きて、
士官学校生徒の頃に昭和維新の洗礼を浴びていたわけです。
そこへもってきて、士官学校を卒へ 見習士官として聯隊へ帰ってきて間もなく相澤事件が起きた。
歩一の中は栗原さんを先頭に、もう何かバタバタしているといった雰囲気でしたね。
近衛歩兵第三聯隊はかなり革新の意気に燃えていましたか
今泉
いや、全然違うんです。
あの当時、近衛師団の中の革新将校というのは、近歩三の中橋基明中尉だけでしたね。
その中橋さんが、歩一の栗原さんと仲がいいということで睨まれて、一年間ほど満洲へ飛ばされていた。
もう近衛師団に戻るまいと思われていたのに、ひょっこり帰ってこられ、
聯隊本部付から第七中隊長代理になった。
その危険性をね、聯隊の将校達は気がついて恐がっていながら、新任の聯隊長等に話をしていないんですよ。
鈴木
私は直接事件には参加しましたが、どちらかといえば、革新運動にあまり関心を持ってなかったのです。
相澤公判が始まった時、その説明会が竜土軒で、二、三回開かれましてね。
私もその時 安藤大尉に誘われて青年将校の革新運動というものの洗礼をうけた、
というのが偽らざる私の場合でしたね。

つまり、白昼、陸軍省内で、一番威勢を誇っていた軍務局長永田鉄山少将が刺殺された、
この相澤事件が二・二六事件の契機である、というわけですか
常盤
と、思いますよ。
陸軍中佐が決心して少将を殺って、
「 これからどうするか 」 と訊かれて 「 命令どおり台湾に赴任いたします 」 と 答えたという。
この異様さは、今から見れば常識はずれもいいところでしょうが、
一部の者には、そこまで突き詰めたものがある、という感じで受けとめられた。
池田
私も同感ですね。
これはちょっと想像できないくらい、えらい事件という思いでしたね。
常盤
それと、いよいよやるぞ、と思わせられたのは満洲への第一師団の派遣決定でしたね。
これは満洲に行く前にやるだろうと。
あの年の二月は非常に雪の多い時でした、東京は四度も雪が降った。
その中で計画が進められて行くわけです。常盤さんが中隊を率いて警視庁襲撃の実施演習をされるのは、
二月十五日でしたか。あれは誰かに云われて・・・・。
常盤
いや、自分で考えてです。
しかし、怒られましてね、企図を暴露するではないかと言われて。
それで僕は
「 いや、受取る方は、第一師団は満洲へ渡る前に決行する筈だったのに、もう 間に合わん、
ええいッくそ、演習で鬱憤でもはらせ、という受取り方をしますよ。
だから企図を暴露することにはなりません 」 と 説明したものでしたよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
二月十六日 ( 日 ) 夜十一時
歩三第七中隊が非常呼集をかけ、夜間演習と称して警視庁に突撃訓練を行った。
常盤稔少尉 ( 21 ) 指揮下の下、
桜田門通りに百五十名が一列横隊となり、着剣した小銃を構えて、
「 斎藤 」 「 牧野 」 と連呼しながら直突を三度繰返す。
斉藤實 ( 77 ) は内大臣、牧野伸顕 ( 74 ) はその前任者である。
共に 二・二六事件で襲撃された。
直突とは着剣した銃を掲げ、敵の心臓部めがけて突き出すことを謂う。
おまけに訓練が終ると 警視庁舎に向けて一斉に立ち小便をしたことから、
侮辱と受け取った警視総監が第一師団長に厳重に抗議する。
この夜間演習に海軍側は反応した。
新聞記者から情報を入手した当時の横須賀鎮守府参議長、井上成美少将 ( 46 ) は、
「 陸軍はいよいよやるな  」 と、直感する。
かねてから米内光政司令長官の内諾を得て進めていた。
陸戦隊二箇中隊の特別訓練と砲術学校二十名の要員の非常招集体制の再点検を行う。
国家非常事態となれば海軍省など関連施設の警備を名目に横須賀から上京派遣させるためだ。
米内は火急の際は、昭和天皇を宮城から救出し、戦艦・比叡に乗艦願うことまで想定していたと云う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
蹶起が二月二十六日と知ったのは、ではいつ頃ですか
常盤
私は三、四日前に聞きましたね、野中さんと安藤さんから。
清原
それは間違いなく二十二日。
最後迄同意しなかった安藤さんを、前日の深夜まで磯部さんがくどいたが、どうしても承知されない。
翌二十二日朝、安藤さんの奥さんが廊下の雨戸をくったら、雪の中に磯部さんがしゃがんでいた。
おそらく一晩中そこに居たのだろう。
それで安藤さんがうたれて、遂に決意された。
この安藤さんの奥さんの最近の証言が、一番 正鵠を射ていると思う。
常盤
その前に、野中さんの必死の説得があったな。
中隊長が野中さんで、私が中隊付将校、部屋が隣合わせで扉が一枚。
その中隊長室で野中さんが安藤さんを説いていた。
今にして立たずんば天誅は反って我等に下る、そう言ってね。

蹶起を二十六日早暁と決めた重大なポイントに、
実は、この日に近歩三の中橋中尉の第七中隊が宮城赴援隊になった、という事実があります。
これはいかがですか。
今泉
その前に、赴援中隊というものを説明しておきますと、
これは常に聯隊内で待機しており、帝都に暴動が起きるといった事件があると、宮城を守る為、
兵力を増援する目的で宮城内に入る中隊です。
これは規則で決められています。
而も一日ごとにくるくる交替することになっておりますが、二十六日には我中隊にしてくれと、
中橋さんがわざわざ頼みにいっている。
よかろうということで 中橋さんの中隊が赴援中隊となった。
清原
この、革新将校の一人が違法でなしに中隊を率いて宮城内に入れる、ということは大事なことですよ。
どうでしょう、こうした蹶起の中心となるプランニングは山口一太郎大尉がやったのではないか、
という仮説は成立しないかな。
池田
そう考えるのは、ちょっと穿ちすぎじゃないでしょうかねえ。
それに、あの時 立たないと、栗原中尉が危なかったという事実がある。
埼玉挺身隊事件の黒幕として
池田
はい、自分の教え子をさかんに煽動したということで、睨まれていて、
いつパクられるか、クビになるか分らない状況に追い込まれていましたからね。
そんなこんながあって 「 何でもいいからやろう 」 という強い原動力になったのは、
栗原さん、磯部さん、それに河野壽大尉ではなかったかと思う。
清原
原動力はそうかもしれません。
が、私の云っているのは事件を起し、どう革新を進めて行くかの 『 計画立案 』 の問題でしてね・・・・
話を上の方へ伸ばしますと、事件が起きた時これをどう処置すべきかを考える立場にあるのは、
おもしろいことに全部が陸士九期の人達なんですね。
六人の大将が居った。真崎、荒木貞夫、本庄繁、阿部信行、松井石根、林銑十郎。
みんな 「 オレ 」 「 きそま 」 の仲です。
とくに皇道派の頂点にある真崎、荒木、本庄の三人が重要でしてね、
その間の最もよき連絡係が歩一の山口一太郎大尉であった。
山口大尉の義父が、侍従武官長本庄大将であったことに注目するわけですね
清原
そうなんです。私はどうも本庄大将に山口大尉から話がいっていて、本庄大将が
「 お前らがやってしまえば、こういう風にいける 」 というような、
つまりね、後は真崎内閣ができ、その政策はどうするとか、そういう話合いが持たれていたと思うのですよ。
山口大尉を形容すれば坂本竜馬かなんか知らんが、彼が作戦参謀であったと。
確かに、重臣、官僚、統制派軍閥など 天皇の聖明を蔽うものを取去れば それでよい、
というような大雑把な蹶起であったとは思えませんね。
あるプログラムがあり、それを実現させるためにはと、相当慎重に考えていた。
それは何かとなれば、天皇でしょう。
俗に謂う 『 玉 』 をおさえるという・・・・
清原
そのために邪魔になるのは三人の海軍大将なんです。
総理大臣の岡田啓介、侍従長の鈴木貫太郎、それに内大臣斉藤實。
首相と侍従長と内大臣、天皇の周辺から取除けば、直接天皇に奏上できるのは、あとは本庄侍従武官長。
それと日和見でどちらにでもつく川島義之陸軍大臣だけとなりますね
池田
私もそういう狙いがあったことは、かならずしも否定しません。
二・二六研究家の人達の色々な本を読むと、青年将校は天皇の側近であるという理由だけで斬った、
というように書かれているのですが、稍々単純すぎる見方だとは思っていますよ。
というのは、維新政府を樹てるために邪魔になるであろう人々を、目標としたのです。
それはもう間違いない。
そしてその相談に山口さんも相当に絡んでいるとは思います。
だけど、山口さんが原動力だったとは・・・・。
清原
原動力じゃない、作戦参謀じゃなかろうかと・・・・。
池田
愈々出動となって、私が機関銃隊の将校室にいる時、山口大尉がやって来て、二つのことを言った。
一つは、一緒になって参加したい、しかし 本庄大将の身内である点があって参加できないと。
だから、後のことを俺はやると。
清原
山口大尉はその夜は歩一の週番指令でしょう。その週番指令がOKで部隊が出る。
しかも、その週番指令が実に作戦参謀なんですよ。この事件は。
だから、後のことは俺がやるという言葉があるわけです。
それが本庄侍従武官長との連絡であり、宮城占拠計画であり、
そして多分参画したであろう攻撃目標の決定、ということでもあるのでしょうね。
そして、愈々蹶起の日が来るわけですが、常盤さんは何か失敗をやらかしたそうで・・・・
常盤
いや、失敗というのかどうか。愈々やるというので、末期の酒を飲みに行っていたのですよ。
酒好きなものですからね。それで、つい 過ごしてね。
帰ったら もう整列していました。後十数分も飲んでいたら、高田馬場に間に合わなかった堀部安兵衛か、
赤穂浪士の小山田庄左衛門になるところでした。
「 こんな大事に遅れるとは何事か 」
と 野中さんから怒られましたが、
「 末期の酒ですから 」
と 言ったら、
「 ああ、そうか 」
と いうことで 許してもらいました。
清原
常盤は野中中隊長が出るのだから、そのくらい余裕はあったんんです。
こっちは中隊長に怒られ怒られ、止められているのに出動するわけですから、
酒なんて飲んでる余裕はありませんよ。
鈴木
私の中隊長は新井勲さん。革新運動の大先輩だが、慎重な方らしいのでしてね。
だから愈々蹶起と決まった時、安藤さんから 「 新井には云うなよ 」 と 何度も釘を刺されましたね。
それでとうとう新井中隊長には言わなかった。
常盤
清原と鈴木は、だから非常な決心をしたわけですな。
中隊長から止められているのを自分から出動したのだからね。
私はスラリと蹶起部隊の中に加わりましたが、だから酒を飲んで危うく遅れそうになったりしたわけなのです。

蹶起部隊千四百八十三人がそれぞれの襲撃目標に殺到したのは午前五時です。
鈴木侍従長重傷、斎藤内大臣は殺され、他に渡辺錠太郎教育総監、高橋是清蔵相も殺害されました
池田さんの歩一の栗原中隊は、首相官邸を襲ったわけですね
池田
私は蹶起のことは二十三日に聞いていました。而も大部隊でやると。
そして二十五日の晩、代々木練兵場での演習から帰って自分の部屋へ行こうとしたら、
同期の林八郎君がやってきて 「 おい、池田、明日だ 」 と 言うんですね。
「 よし、分った、俺も行く 」 と、自然に言葉が出て、参加したというわけです。
つまり私は単独参加なんです。丹生さんは第十一中隊、栗原さんは機関銃中隊ですからね。
私は第一中隊。清原君と違って兵隊を連れてません。私は自分の意思をもって加わったことになる。
参加と決まってから栗原さんのところの小隊を任されるわけですね
池田
そうです。栗原中隊は、小銃三個小隊と機関銃小隊とに分けられまして、
第一小隊を栗原さん、第二小隊を私、第三小隊を林と、それぞれが指揮をとった。
機関銃小隊は尾島健次郎曹長だったと思います。
そして予定では第一、第二小隊が首相官邸表門から、第三小隊が裏門から、ということになっていたのですが、
林の小隊がちょっとした手違いからサァーと表門から入ってしまった。
それで私の小隊が裏門へ。

襲撃の時の唯一の激しい射ち合いが、首相官邸でしたね
池田
そうなのです。裏門には警官が四人いましたが、この人達が猛烈に抵抗したんですね。
それもよく狙いをつけて撃つという沈着な応戦をして後、全員が最期を遂げました。
拳銃には弾丸一発残っていませんでしたね。まったく立派な戦いぶりでした。
それから官邸の中に入り、林少尉とすれ違った。
その後に、女中部屋から出て来た警官と林がぶつかり、組みついてきたのを投げ飛ばして斬り、
返す刀で もう一人を刺すという早業をやったわけなんですね。
その二人の警官は、後で考えると、岡田首相を隠して出てきた瞬間に、林少尉と出会ったんですね。
その直後に、中庭で老人の姿を見たというわけですか
池田
いや、二人の警官を斬って数歩行った時、
兵隊が 「 中庭に老人が居ります。教官殿、どうしますか 」 と言う。
反射的に林は 「 撃て 」 と命令してしまった。
と いうわけです。
二人の血を見て気が立っていたのでしょうね、私の想像ですが。
・・・・この老人が松尾伝蔵予備大佐でした。
それからしばらく経って、 「 首相がいない 」 って云うんですね。
いない筈ないと、探すがどこにもいない。誰かが中庭に倒れているのが首相ではないか、と言い出した。
そして写真を探して持って来て見比べると、どうも似てるって云うんです。
ちょっと痩せている、すると 「 死んだら痩せるんだろう 」 なんて、ある兵隊が言ったりしまして、
最後に栗原さんが 「 首相だ、間違いない 」 と 決定したんです。
鈴木
似た容貌の秘書がいるとか、事前の情報は何もなかったの。
池田
なかったのかもしれないねえ。
それともう一つ、面白いのは、二十七日の午前に弔問客があってね、
百武三郎閣下と岡田という中佐、首相の甥だというのですが、この二人を遺骸のある部屋に通した。
百武大将は深くお辞儀をしただけで帰ったが、岡田中佐の方は顔の白布を取ってヒョイと見まして、
慌ててパッと白布を伏せまして、サーッと帰って行った。
それを私は 「 何であんなに慌てたんだろう 」 と 思っただけで、何も考えなかったのだから、
落着いているつもりでも、やはり興奮していたのでしょうね。
常盤
私は警視庁占拠部隊ですが、
実はね、警視庁の方が終わった後連絡将校として、その日に首相官邸に行ったのですよ。
岡田首相を殺ったというから、座敷へ入ったら、布団の中に横たわって、傷口はきれいに包帯されてありました。
それで白布をめくって見ると、どうも新聞などでみる首相と違うような気がする。
「 これ、人違いじゃないですか 」 と 栗原中尉に言ったら 「 そんなことはない 」 と言う。
「 じゃ、写真でも持って来て比べたらどうですか 」 って、
写真を持ってこさせて比べてみたんですが、これが何と、額縁のガラスに弾丸が当たって、細かいヒビが入っているやつ。
肝心の顔のところが、ガラスのヒビではっきり見えない。
今泉
外せばいいじゃないかね。
常盤
今はそうおっしゃるが、そんな知恵は出ないものですよ。
ともかく違う気がするので、「 栗原さん、違うのじゃないかなぁ 」 と言うと、
「 いや、死に顔というものは、死んだら容貌が変るんだよ 」 と 自信満々。
栗原さんは天津事変だかで一度は弾丸の下をくぐっている。
「 はあー、銃弾をうけて死ぬと、こんな風に変るんだなあ 」 と 納得しましたけどね。
池田
実はね、白状すると、私はホンモノの岡田首相の顔を確かに見ているのですよ。
全てが終って首相官邸内をずっと見回っている時、女中部屋にお手伝いさんが二人居り、
そこで料理番の老人が風邪で体の具合が悪く休んでいる、という報告を受けていた。
それで廊下を見回りながら、部屋を覗くと、廊下の方を向いて女の人が坐っている。
キチンと正座です。その右手に押入があって、その襖が半分ほど開けられていた。
向う側を頭にして、手前を足にして、布団を被って寝ているんですね、老人が・・・・。
清原
老人であると判ったの。
池田
判った。顔が開いた襖から見えたからね。
しかし、具合の悪い老人というのはこれか、と思っただけでね。
唯、首相官邸の総理付のお手伝いさんというものは、さすがに行儀がいいなァと、本当に感心しましたよ。
べつに、それが岡田首相だなんて夢にも思わなかったんですよ。
座敷に白い布を被って横たわっている遺体が首相だと、もう思い込んでいましたから。

半藤一利 編著  昭和史探索・3
われらが遺言・50年目の2・26事件 から
次頁 生き残りし者 2 宮城占拠計画 「 陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった 」に 続く


生き殘りし者 2 宮城占據計畫 「 陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった 」

2020年12月27日 15時19分16秒 | 後に殘りし者

生き残りし者 1 首相官邸 「 人違いじゃないですか ?」 からの続き
       
常盤稔少尉       清原康平少尉    鈴木金次郎少尉    池田俊彦少尉       今泉義道少尉
岡田首相殺害は失敗しましたが、首相はその後に救出されたものの、事件終結まで天皇に会うこともならず、
結果的には天皇への直接奏上は三人共予定通り排除されたことになります。
残るは宮城占拠という基本方針なのですが、その前に歩三の警視庁襲撃を伺いましょうか
清原
私達三人の少尉は、野中さんの総指揮の下 警視庁占拠が任務でした。
あそこには警視庁自慢の新撰組というのがいた。
銃剣道何段という剛の者だけを集めて特殊訓練をしていたから、
これが政府要人護衛のため武装して逆襲してくると、
ことは面倒になるし、犠牲者もたくさん出さなければならない。
これを抑えこむために警視庁を攻撃したわけです。
いきなりワーと突撃したが、案に相違して抵抗をうけなかった。
機関銃を威嚇して撃ったら新撰組もパッと逃げ散った。
常盤
こちらが十分に計画して寝込みを襲ったのだから、手も足も出来なかったわけだ。
・・・リンク→新撰組を急襲 「 起きろ! 」 
清原
私の任務はともかくも 屋上に駆け上り、機関銃座をつくり、そして間近に見える宮城の森の中で、
小さい光による信号が現れるのを待つ事でした。
それが今お話のあった宮城占拠計画なのですね。
その信号があったら、鈴木侍従長を襲撃してからすぐ駆けつけてくるだろう安藤大尉に報告する手筈。
それで大尉達は宮城へ堂々と入って行って占拠する。
維新の成功は、その時決まるわけでしたが・・・・。
常盤
警視庁襲撃に四百名以上が割当られた意味もそこにあるわけなんですね。

その根本の任務になったのが近歩三の赴援中隊というわけですが、今泉さんは そのことを承知していましたか
今泉
実は全く知らなかったのです。
というのも、私が参加したのは一種の運命みたいなものでしてね。
前の晩、家が鎌倉にあったので帰り支度をして 一度は営門を出たんですよ。
ところが雪の為もありタクシーが来ない。大変な寒さで我慢できなくなって、諦めて隊へ引返した。
これが運命の岐れ路となったんですな。
自分のベッドで眠っていると 「 起きろ 」 と言う声がする。
目をあけると、枕元に軍装を整えた中橋中尉と砲工学校の中島莞爾少尉が立っていた。
そして中橋さんが言うのですよ。
「 貴公には一度も打明けたことがないので、残して行くつもりだったが、
なんにも知らずに寝ていて朝になったら中隊がもぬけの殻という事になっては、
貴公も中隊付将校として非常に困った立場になるだろう、と 思い、知らせておくことにした 」 と。
常盤
中橋さんの武士の情けと言うのでしょうね。
今泉
そうです。確かに置いてけぼりをくっては、自分の始末に困り、
部隊の後を追うか、自決する他はなかったかも知れませんからね。
中橋さんは 更に 「 貴公にも出来る事なら参加してもらいたい 」
と 言い、参加の決心がついた場合は、
高橋蔵相襲撃ではない方の、つまり宮城赴援中隊の引率の方を任せる、
とも言った。
決行まで二時間ありましたから、あの時程思い迷ったことはない。
そこへ部下の特務曹長がやって来て、私の手を握って涙を流し 「 一緒に死にましょう 」 と言う。
下士官も兵も起つのか、こうなれば、私一人 生き残ることは出来ないと決心したようなわけなのです。
・・・リンク→今泉少尉 (1) 「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」 
つまり宮城占拠計画を知らない今泉少尉に赴援中隊の引率を任した、そこに計画の手違いの第一歩があったのでしょうね
そして中橋中尉はまず高橋蔵相襲撃に向かう、これも何かおかしな作戦に感じられます
なによりも第一目的は宮城占拠である筈です
今泉
そうでしょうね。
高橋是清さんを殺害した後で、更に宮城に入って守衛隊司令官を殺すか軟禁して、
自分が守衛隊司令官になるなんていうことは、相当の度胸がなければできませんな。
高橋蔵相襲撃の後、今泉さんの率いる赴援中隊に合流したわけですが、その時の中橋さんの顔色や態度は・・・・
今泉
まだ暗すぎて見えませんでしたね。
中橋さんは斎藤という曹長一名を連れて、シャム大使館の傍で待機していた赴援中隊までやってきたわけですが、
高橋邸襲撃隊は首相官邸の本部に向かった。
赴援中隊は半蔵門に行く、と 比較的落着いていたように記憶します。
ここで一つ、申上げておかなくてはいけない事がある。
それは赴援中隊は実弾を一発も貰っていないということです。
しかし服装は第一装の守衛隊の軍装。つまり始めから襲撃隊と赴援中隊は分けれていた。
この二つをどう考えるかです・・・・。
宮城占拠計画が徹底しているようで、徹底していないようで・・・・
今泉
そうなんですよ。
それはともかく、赴援中隊は東条会館の前にきまして、私は中橋中尉の命により、走って半蔵門に迫り、
「 第七中隊、赴援中隊到着、開門ッ 」 と 怒鳴った。
すると素直に門がギーッと開いて、私達はいつものように堂々と宮城内へ入って行ったわけです。
入るや否や、中橋さんは手旗信号兵一人を連れて、駆け足でダーッと走って行った・・・・。
我隊七十五名はゆっくり二重橋のすこし奥の方にある守衛隊本部に近づきまして、そこで待機しました。
当然何か命令があるだろうと・・・・。
しかし何等のこともなく、一時間も待機のままでしたな。
それはですね、史実によれば守衛隊本部にそのとき守衛隊司令官がいなかった。
中橋中尉が眼を血走らせて飛込んだのに、司令官も司令もいない。
それで中橋中尉はなんとなく待たせねばならぬ恰好になったんです
今泉
後で問題となったのですが 「 中橋の動きはクサイ 」 という連絡が、
既に大宮御所の司令今井一郎中尉から電話で、守衛隊本部に届けられていたのですね。
その為かどうか分からないが、守衛隊司令官もその下の司令も巡察と称して本部に居なかった。
幸か不幸かね。
その一時間が茫然たる待機の一時間なんですね。
今泉
そうなんです。
宮城を一手に収める計画は、この辺から狂い始めた様なんですね。
私達は一時間ほど待機した後、守衛隊司令官の 「 非常警備に就け 」 の命を受けて坂下門の警備に就く。
つまりそれこそが中橋中尉の予定した作戦どおり、ということだったのですが、
当の中橋さんはもうその頃宮城外へ出てしまっていたらしい。

リンク
・ 中橋中尉 帷幄上奏隊 1 
・ 中橋中尉 帷幄上奏隊 2
・ 
中橋中尉 「 ワレ皇居を占拠セリ 」


清原

どうもその辺のところが不徹底過ぎてよく判らんのですが、こっちは警視庁の屋上から目を凝らして見ている。
しかし、さっぱり連絡はない。
これは失敗したのかな、と 思っとったんですが、兵隊は入ったのに、指揮官がいなくなったのでは、
これはもう何を況やですな。
 宮城
実は、この宮城占拠計画というのは、つい最近まで完全に秘密になっていたことなのですね
事件後の軍法会議法廷に於ても、青年将校達は約束したかの様に、このひとは口を閉ざしました
今泉
検察官の方からも一言の質問も出ませんでしたよ。
しかし、最近は、例えば松本清張氏の大著 「 二・二六事件 」 で原資料に基いて、この計画のあったことを明らかにしています
その一つ、橋本虎之助近衛師団長の辞表の文句がある
「 反徒ノ一員タル中橋中尉ガ守衛隊控兵部隊長タルノ地位を利用シ一時タリトモ宮城内ニ介入シアリタルハ・・・」
と 理由をあげていますが、「 介入 」 という言葉は、実は占拠と書けないから使った苦心の言葉なのですね
その為宸襟を悩ましたということで辞表を出したわけなんです
こんな風に定説になっていますが、一番若い青年将校である皆さんは、そのことを当日知っていたかどうか
清原
私は 安藤さん、坂井直中尉から教えられ、当然のことながら知っていましたね。
坂井さんなど 「 帰りは宮廷馬車で帰るから 」 という話をしていたのですから。
安田優少尉もそういう調子だったんですよ。
鈴木
私は全然聞いていませんね。
常盤
私は知っていました。
だから、その朝、兵隊を連れて坂下門まで偵察に行ってますよ。
清原が信号を待っているが、いつまで経っても信号がこない。
これはおかしいというので、野中大尉が 「 坂下門まで行って、何とか連絡して来い 」 と云うんですよ。
それで行った。行ったが、坂下門には皇宮警察がのんびりいるだけで、知っている顔は一人も居ない。
これじゃ連絡のとりようもない・・・・。
今泉
未だ 僕らが配備につく前かな。
常盤
そうそう。貴方達が未だ本部前で待機している頃なんだろうな。
今泉
ということは、中橋さんが宮城内の守衛隊の指揮権を取る、という風に聞いていたわけかな。
常盤
そう、そう聞いていた。だが、坂下門の様子はいつもどおりで、これはおかしい。
でも、来たついでだから、参内するのを停めてやれ、と思って、
これが女官の馬車でね。 「 女官なら、通してやれ 」 というわけで。
まあ、偵察も連絡もできなくて、帰ってきて 野中さんに報告した。
「 どうも中橋さんの計画は失敗したようですよ 」 と。
鈴木
中橋さんの計画というのは ?
常盤
宮城占拠計画。それが失敗したようですよと。
そこでですね、宮城占拠計画という根本方針を決めておきながら、何故 中橋さんが断乎としてやらなかったのか
又、磯部、栗原といった急進派が何故、強引に宮城内に入ってこれを占拠し、
昭和維新を迫らなかったのかが、大変に疑問に思えるわけです
もちろん軍人ですから統帥権を守るという気持を分った上の話ですが・・・・
清原
天皇に直諫を迫らなかったのか、という意味ですか。
だとすれば、そんなことは考えてもみなかった。と お答するしかありませんね。
というのは、さっきも話に出ました本庄侍従武官長の存在が大事なのです。
本庄さんが天皇に上奏して、その御内意をうけたら、それを侍従武官府を通して中橋中尉に連絡する、
中橋中尉が私に連絡して、我が歩三の大部隊が堂々と宮城に入り、昭和維新を完成する、
これが予め組んだプログラムだったんですよ。
つまり中橋さんは連絡係。
万が一の場合は守衛隊司令官を斃すことは覚悟していたでしょうが。
しかし、基本は統帥命令で動くということです。
天皇から侍従武官長へ、武官長から中橋中尉へと。
「 だから、お前、大丈夫だよ 」 と 言うのが、蹶起直前の安藤大尉の話でした。
赴援部隊が実弾を持たなかったというのも、それです。
中橋さんも統帥命令で動けると考えていた証拠なんです。

つまり  大御心に俟つ、天皇は吾等が味方であると
しかし、もし 「 蹶起の趣意 」 を陛下が諒とされない場合、どうするつもりでしたか
清原
『 本庄日記 』 に こういう天皇の言葉がありますね。
「 武官長ノミハ嘗テ斯様ナコトニ至リハセヌカト申セシガ如シト仰セラレタリ 」 と。
本庄さんが一生懸命、天皇陛下を説いておったことは事実でしょう。
これが山口大尉に伝えられると、「 もう陛下にお話し してあるから 」 という風に解される。
それが青年将校に伝えられるから、陛下が諒とされぬなど考えてもみなかったのではないか。
ところが、天皇は第一報を耳にした時から激怒されるわけです
「 とうとうやったか、自分の不徳の致すところだ 」 と 言った後、
「そして暴徒は、その後どの方面に向かったか 」 と早くも暴徒と決めつけているのです
そして本庄武官長に 「 早く事件を終熄せしめよ 」 と 命じておられる
池田
陛下がそのように はっきりとした御意見を表明されるとは、思いもしなかったのじゃないですか。
首脳者達は・・・・。
天皇の一連の御怒りは、当時の皆さんの耳に入っていましたか
池田
入っていません。
裁判の時 「 今次事件は、朕の憾みとする所である 」 という御言葉だけ、知らされました。
清原
死ぬまで知らない。
皆さんがこれを憾んで遺言となっています。あんなに怒られたなんて誰も知らない。
常盤
第一、天皇御自分の御意思を、直接宣明されるとは思ってないですわな。
当時の憲法によると、内閣の輔弼を以て統治するのだから、陸軍大臣の責任ある助言と方向に対し、
それでよかろうとおつしゃるのであって、暴徒とか、凶悪なものだとか、そう おっしゃっるなんて思ってもみない。
御自分の御意思を言われる方が間違いだと思っていたですよ。
池田
だから、吾々は川島陸相に決起趣意書を読上げ、昭和維新をやって下さいとお願いしたんです。
それをうけて陸相が陛下に奏上し、輔弼の責任を果たす、それが正道だと・・・・。
陸相が奏上し、武官長が補佐すれば、陛下が宜しいということになって、昭和維新は成ると思ったんですね
常盤
私は、そう思っとったです。
清原
安藤さんは少なくともそう判断しておりました。
宮城占拠計画も、つまりそれをやり易くするため、雑音を入れないためのものです。
本庄さんが天皇に奏上し、許しを得て川島陸相や眞崎さんをさっさと参内させる。
そうして磯部さんから何まで全部ゾロゾロと宮城内に入る予定です。
ところが、陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった。
陸相や眞崎さんは、待てど暮らせど 本庄さんから連絡がないから、自分の方からは動かない。
今の大臣の連中と同じです。総理から電話がなければ、自分からは動かない。
本当は積極的に動くべきだった。
池田
そうですな。
私なんかも、反対勢力を阻止し、早く維新内閣を作ってしまえばよい、と聞いていましたからね。
清原
それができるのは、満州事変をやった関東軍の本庄大将しかないと。
本庄さんの頭の中には、満洲国を作った時があったかもしれませんよ。
池田
たとえ少々反対されても、既成事実を作ってビシッとやれば、陛下も賛成せざるを得なくなると・・・・。
常盤
つまり陛下が二・二六事件を失敗に追い込んだということですね。
私は、今でも天覧相撲に御見えになると、嗚呼、この方が吾々の事件を潰したんだなあ、
と思いますよ。
パチパチと手など叩いておられるけれども。
清原
それは全くその通りなんです。
天皇の一言で二・二六事件は潰れたと・・・・。

半藤一利 編著  昭和史探索・3
われらが遺言・50年目の2・26事件 から
次頁  生き残りし者 3 麹町地区警備隊 「 師団長はこれで昭和維新になると思った 」 に 続く


生き殘りし者 3 麹町地區警備隊 「 師團長はこれで昭和維新になると思った 」

2020年12月26日 15時15分02秒 | 後に殘りし者

生き残りし者 2 宮城占拠計画 「 陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった 」 の 続き
      
清原康平少尉       池田俊彦少尉        常盤稔少尉       鈴木金次郎少尉   今泉義道少尉
これまでのお話で分かる様に、昭和維新はスタートの時点ですでに終わっていた、といっていい
しかし、なお蹶起部隊の必死の工作が続けられるわけですが・・・・
常盤
所謂輔弼を以て統治されるのであるから、
今度は陸軍上層部の工作によって、どんどん奏上申し上げればきっと陛下の御許しもあろうと、
上部工作を続けたわけですね。
そこで一つ、大きな問題がある
秩父宮殿下の存在です
二十七日の夕刻、秩父宮が弘前から上京されるのですが、このことはすぐ耳に入りましたか
  秩父宮・上野駅
鈴木
上京されたということは聞きましたが、何日に来られたか、そこまでは・・・・。
清原
私の中隊長の森田利八大尉は秩父宮と特に親しくしておられまして、その森田さんから蹶起後もしきりに電話が入る。
その電話で 「 これから殿下の所へ行く 」 と 知らされましたから、その時点で分りました。
常盤
私も聞きました。
蹶起後は連絡将校だったから、あっちこっち飛び回っていました。
それであっちで聞き、こっちで聞き・・・・。殿下の上京でいい方向へ動くのではないか、という気はしましたね。
清原
実は、事件直前の一月に、坂井中尉がお訪ねしたときの、秩父宮の興味深い御言葉があるのですよ。
「 お前等がやるときには連絡せよ。必ず出て来るから 」
という意味のことを云われたという。
坂井さんはそのことを安藤さんに連絡している。
これは私達三人が訪ねた時、柳川中将が言った言葉と同じなんですね。
確かに 「 やれ 」 と 解釈出来ない事もないが、本当は 「 やるな 」 という意味。
又は 「 俺が ウンというまで、やるな 」 と云うこと。
安藤さんが最後迄起とうとしなかったのは、この為なんですな。
池田
秩父宮が動かれるというようなことを、安藤さんは夢にも思わなかった。
だから起とうとはしなかった ということですね。
清原
それが第一。だから、秩父宮が上京されても何の期待もなかったと思いますよ、安藤さんは。
唯 大御心を俟つ という考えを動かしませんでしたから。
しかし、天皇と秩父宮の昭和維新に対する御考えが、それぞれ違っていたことは知っていたでしょうね
清原
それは知っていたと思います。
『 本庄日記 』 にもありますね。御兄弟が激論されたという項が・・・・。
昭和七年春頃ですか、秩父宮が
「 陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば違法の停止も亦已むを得ずと激され、
陛下との間に相当激論あらせられし趣なるが 云々 」 とありますね。
・・・リンク→ 本庄日記 ・ 大御心 「 陛下と秩父宮、天皇親政の是非を論す 」
池田
そうした意見の相違があるくらいのことは、先輩達の耳にも入っていたのでしょうね。
清原
しかし、だからといって 御上京に期待をかけたということはない、と 思います。
二十七日夕刻では遅すぎますよ。
それはそうですが、事件の根本原因は秩父宮擁立運動だという見方は、当時からあったと思うのです。
『 原田日記 』 の昭和十三年四月二十七日に、元老の西園寺公が、
古代の壬申の乱を例に日本歴史上の天皇家の血で血を洗う争闘を指摘し、こう言っています。
「 まさか陛下の御兄弟にかれこれ謂うことはあるまいけれど、然し取巻きの如何によっては、
日本の歴史に時々繰返されたように、弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。
・・・・この点はくれぐれも考えておいてもらわねばならん 」 と。
げんろうのこの意見の背景には二・二六事件があると思うのですが・・・・
清原
それはそのとおりと思いますよ。
しかし、安藤さんが最後迄蹶起に同意しなかったのは、秩父宮殿下の御言葉を
「 やるな、やってはならん 」 という意味にとっていたからだったのです。
是だけは間違いない事だと思いますね。

 陸軍大臣告示
話を戻しますと、二十六日午後三時に、陸軍大臣告示が出て 「 蹶起の趣旨については天聴に達せられあり 」
となり、戦時警備令も下令されて、蹶起部隊は 「 麹町地区警備隊 」となり、官軍 と認められたのですが
常盤
我事成れり、と思ったのですな。
更に戒厳令がでたら ( 二十七日午前三時 ) 戒厳部隊になったでしょう。
これはあの線が巧く繋がって、巧くいったなと・・・・。
あの線とは、本庄侍従武官長、真崎、荒木など陸士九期の線 ?
清原
いや、その他に山口一太郎、小藤惠第一聯隊長、堀丈夫第一師団長、香椎浩平警備司令官、
本庄侍従武官長としう線もあります。
この線が歩一の方で動いていた。どうもそんな気がするのですよ。
吾々歩三は圏外にいるのでよく解らなかったが・・・・。
池田
そうね、堀師団長、小藤聯隊長、それから香椎さん、本庄さんはある程度繋がっていた。
ということは分りますね。
師団長なんか、何かあるぞ、何か起るぞという気持ちを持っていたようですね。
清原
麹町地区警備隊司令官は小藤さんですから、あのままスーッと新政府にいってしまえばいい。
小藤部隊が東京の中心を抑えていたわけですからね。
池田
だから 「 陸軍大臣告示 」 を、師団長の指示によって第一師団は全部隊に回しているんです。
師団長は、これで昭和維新は成った、と思ったにちがいない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
2.26事件の蹶起当初は、
陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し
青年将校らの 「 昭和維新 」 を 助けようとする動きもあった。
「 今にして思へば大臣告示の如きものは師団長の処に置きし方 良かりし様に思ふ。
然し 当時の偽らざる師団長の感じとしては、頻々として入来する情報に依り、
軍事参議官の軍上層部の人々が非常に努力し居らるる事を聞きたれば
或は、彼等の希望し居るが如き事が出来するにあらざるかと云ふ雰囲気を感じ居たり 」
・・・堀丈夫 第一師団長中将 憲兵聴取書

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常盤
唯連絡将校としてあちこち行くわけでしょう、色々な雑音が入る。
必ずしも双手0わあげて喜ぶような状況ではないという気はしていました。
しかし、統帥権の外に飛出した人間を、統帥権の中に復入れてくれたのだし、
それに警備司令まで出たのですからね、これはやっぱり喜んでいいと・・・・。
鈴木
今想うと、統帥命令下に入れたというのも、上の方の謀略だったのかね。
池田
そりゃわからんよ、原隊へ帰すための謀略なのか、それとも実際に一度は 官軍 にしたのか。
鈴木
しかし一度は統帥命令下に入ったのは確かなのだろう。
清原
当面の事態処理として二つの流れがあったということだね。
池田
だから両方とも本当だったのだね。官軍でもあり、暴徒でもあり・・・・。
今泉さんはそのころは
今泉
私は命令どおり坂下門で配備についたのですが、
間もなく近歩三の聯隊本部からサイドカーに乗った田中軍吉大尉が迎えに来て、
「 お前、これに乗れ 」 と 命令され、連れていかれたところが、近衛師団司令部。
そこで参謀長以下にとり囲まれて、今暁以来の行動を逐一尋ねられました。
そして報告が終ると、隊へ帰らされ、連隊長が 「 俺の傍を離れちゃいかん 」 というわけで、
蹶起部隊と引き離され、連隊長室で三日間を暮らした。
なんのことはない、軟禁ですな。
だから蹶起部隊に関する情報は、ほとんど知らされませんでしたね。

警備命令も出て官軍になった筈なのに二十六日午後九時からの、軍事参議官のお歴々と蹶起部隊の会合は、
訳の分からない話になりましたね、「 お上がどれだけ御軫念になっているか、考えてみよ 」 と 荒木大将が言ったりして
清原
もうあの時は陛下が激怒されているという事を、参議官達は知っていたのでしょうね。
だから、みんな元気がない。
池田
村中さんもその後の二十七日午前二時に、帝国ホテルで石原莞爾等に会うでしょう。
この時、陛下の思し召しの悪いことを知らされたようですね。
だから村中さんは、早く引き揚げた方がいいという気持ちを、早くから持っていた。
磯部さんが絶対反対でしたね。
清原
宮中で、二十六日の午前七時には暫定内閣など作らぬ、速やかに鎮圧する、という大方針を、
天皇の御意思のもとに決めているんですから、知らぬは吾々ばかり、
そうして天皇は、二、三十分ごとに本庄侍従武官長を呼び、事件のその後の経過を訊ね、且 早く鎮圧するようにと督促する。
池田
戒厳司令官の日記の中に、真崎大将と荒木大将が、彼等を叛乱軍にしないようにと盛んに云っていた、
と あるでしょう。
海軍の加藤寛治大将の証言にも、真崎さんは必死になって応援したとある。
だから真崎さんらが懸命に努力したことは、事実だとは思うんですよ。
常盤
全てが後の祭りだね。
陛下の御怒りの一言の後はね。
秩父宮殿下が来られたって、真崎さんが努力しようがね・・・・。
秩父宮上京の時、坂井中尉が会ったという説がありますが
池田
あれは嘘ですね。
私は坂井さんと一緒に事件後に、大塚憲兵分隊で調べられたのですが、
坂井さんは取調官に 「 殿下に一目 御目通りを願いたい 」 と 盛んに言うのです。
「 秩父宮殿下は私に、昭和維新の際は一箇中隊を率いて迎えに来い、と おっしゃった 」
とも 言うんです。
あの情景を考えても、坂井さんが事件後に秩父宮に会われたということは、まずあり得ないと思いますよ。
その秩父宮より 「 将校は自決せよ 」 と云われたりして、二十八日の昼頃に、
首相官邸にいた将校の間に 「 自決しよう 」 と 話が決まりかけたと云いますが
池田
あれは吾々歩一の将校の間の話なんです。
栗原さんが もう 憔忰したような顔をして官邸に戻ってきて、
「 ここまでやったんだからもういい、将校は自決をして兵隊を帰そうじゃないか 」
と言うんですね。
その場にいたのが 私と、林少尉、中橋さんと中島さんでした。
そして準備しようとしているところへ村中さんも来て、賛成したと思う。
が、その時なんですよ。
官邸周辺が騒然とした。包囲軍が進んで来る、と兵隊が怒鳴る。
見ると確かにその状況なんですね、村中さんも栗原さんも 「 已むをえん、配備につこう 」
と いうことになって・・・・。
結局は直に向うは退いて何のこともなかったが、こちらも自決するなんて気持ちは吹っ飛んでしまった。
常盤
そういうちょっとした行き違いが、偶然というか、それが作用するんですね。
そのままだったら首相官邸の歩一の将校団が自決していた。
首相官邸がやれば 吾々も亦、という事になる。
ところが 「 何だ、この野郎・・・・」 という事になった。
鈴木
吾々は戒厳司令部の指揮下にある。それを攻めるなんて理屈に合わない。
常盤
全て理屈に合わんのですよ。
清原
それが遺言に表れて、みな恨んで死んで逝くわけですね。

今泉
奉勅命令、つまり 「 原隊へ帰れ 」 という陛下の御命令も通達されてなかったんでしょう。
常盤
裁判で青年将校全員が訊かれたけれども、命令を下達された者は一人もいない。
下達されない命令は命令じゃないんです。
池田
そこが実におかしいので、命令は下達されもしないのに
「 勅命に抗した逆賊である、今免官申請中である 」 と陸軍省も宮内省も発表するんですからね。
常盤
二十八日の夜、明朝は愈々決戦ということで、
兵隊さんに酒を飲ませてやろうと思い、包囲陣に交渉に出かけた。
どうも私の話は最初から最後迄酒の話ばかりで恐縮だが、
「 酒を買いに行きたいのだが 」
「 あ、そうですか 」 と 道を空けてくれた。
酒屋を起して4四斗樽を二樽、百二十円で買いました。
酒屋の主人が言うんですな、
「 兵隊さんは どっちですか 」
「 俺は中の方だ 」
「 あ、それなら私が運びます 」
とて、包囲陣の中を大八車でガラガラ運んでもらった。
民衆の気持とはそういうものでしたよ。
・・・リンク 二十八日の夜
・ 幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」
・ 下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」
・ 中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
磯部浅一 「 宇多! きさまどうする?」 

池田
ところが嘘の抗命、逆賊の発表が流され、
陛下の命に従わぬのだから悪い連中だと、輿論が急激に変ったのですよ。
常盤
そして最後に二十九日の陸相官邸での自決の場面になるんですが、
野中中隊長曰く、筋は通らないが、兵隊さんだけは帰そうと。
そして兵を原隊へ帰して、俺達は死のうというわけで将校全員が官邸に集まった。
本当にみんな自決するつもりだったんです。
ところが、みると白い晒が山ほど積まれている。床にも白い木綿が敷いてあるんです。
ああいうところは陸軍は手早いですなぁ。
「 それ、何です 」 と聞いたら、
「 君達が自決するだろうから、その準備だ 」 と、こうくる。
鈴木
そこへ磯部さんが来たのでしたね。
常盤
そう、磯部さんがこれを見て、
「 陸軍の野郎どもは、何でもかんでも、みんな俺達の責任にしてしまいやがる。
そうして自分達の非違を隠蔽しようとしている。
このまま死んでは、死んでも死にきれんじゃないか。
兵隊に対して申し訳が無い。
死ぬのはやめて、あくまで闘おうじゃないか 」
と、あっちへ行って怒鳴り、こっちへ来て怒鳴り、説いて回りましたね。
池田
磯部さんだけではなく、栗原さんもその意見でした。
「 今死んじゃいかんぞ 」 と 何度も言っていた。
常盤
そう、栗原さんもそう説いておられた。
もう疲労困憊でしょう、三日間ほとんど寝とらんし、そういう時は、大きな声で説得力のある話をされると、
決心はすぐ変わりますわな。
「 皆さんがそう決めるなら、吾々もそうします 」
ということで、自決の決心をやめてしまった。
清原
そうそう、その通り。
野中さんだけが自決するわけでね。
常盤
それがわからない話でね、前の歩三の聯隊長 井出宣時が
「 とにかく首謀者であるお前が自決せよ。責任はお前だけにとどめるから 」
というような甘言を弄したんじゃないかと思うんだがね。
清原
一人だけ別室に引っ張っていかれたものな。
常盤
井出という人はそういう謀略を使う人だと思っていましたがね。
もう野中さんは十分過ぎるほど自分の責任というものを感じておられましたからね。
そこへ 「 首謀者である君だけは自決しろ、後の者は助けるから 」
というようなことを云われては、野中さんは従うほかはない、と 思うんですよ。

 
竹橋の歩哨線・二十六日
最後に、青年将校だった皆さんが考えた昭和維新とはいったい何であったかについて、いかがですか
常盤
野中さんと議論したことがある。
私が図上演習で考えられるような大きなことを言った時、
「 お前が言うのは革命なんだ。俺達が考えているのは維新なんだ。
もともとあるべき姿に復かえすこと。今の天皇制下の状況はそのあるべき姿ではない。
御上を覆い隠している暗いものがある。
これを除けばおのずからなる真の姿が現れる、それが維新なのだ 」
と 野中さんは云うのです。
天皇は無謬むびょう、誤りのないもの、その聖明を覆い奉っている翳かざしがある、これを取除くんだと・・・・。
そう信じていましたね。
鈴木
確かに、現実の日本の姿は真の日本ではないと、私も考えていました。
何故そう考えるに至ったか、その根底に当時の日本の農村の疲弊があった訳です。
私は農家の生れだから、その現実を骨身にしみて知っていました。
私の家など年に平均二十四俵の米ができるが、地主に半分納めて
あと十二俵で、親子十人近い大家族が生活するという厳しいものです。
茨木県ですらそうです。
これが、東北地方になれば三年に一回の大飢饉です。
そういう構造的な貧困があり、そして対外的にはソ連といつ戦争が起こるかわからぬ危機感があった。
最も精鋭であるべき農村子弟がそのような状況で、どうして国が守れるか。
これが昭和維新の根本にあった。
三島由紀夫氏が、二・二六が成功すれば、農地改革が成っただろう、と・・・
鈴木
確かに、私はそう思います。
池田
私もそう思いますね。
北一輝の改造法案ですか、あの思想はかなり浸透していましたしね。
鈴木
小菅に拘留されて何年か経って、被告仲間が集って橘孝三郎先生の話を聴きながら、
農地改革について議論したことがある。
その時、これは天皇大権を発動すればできるという意見と、
やはり安い金で買収する方がいいという意見がでたりして、結局 買収方式に落着いたという記憶がありますよ。
清原
農地改革が果してできたかどうかはともかく、昭和維新の目的は、
常盤のいうように、天皇の聖明を覆っている重臣政治の排除、財閥の解体、そして腐敗した政党政治の払拭、
それに尽きると思いますね。
鈴木
そう、陛下と臣民とが直接に結び付き、血の通った体制を作らねばならぬという、そこにあった。
だが、農村の貧困を別にして あの運動がなかったことも確かです。
だが軍の上層部にはすさまじい権力闘争があって、その昭和維新運動が結果的には利用されて行く
そうは考えませんでしたか
鈴木
今になって考えれば、純粋な青年将校を軍上層部が利用したと思いますね。
どうですか、この二・二六事件のプレッシャーを利用して、軍部がその後暴走し、
一九四五年の日本帝国ま破滅へ引っ張って行った、という風にも謂えるのじゃないですか
清原
歴史的には謂えますな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ↑ 2000年頃  最早、昭和維新の面影は微かに首相官邸の建物だけになっている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

世論の動向とか一時的に上に立つ人の心がどうあろうとも
陛下の真の大御心は一視同仁であらせられ
名も無き民の赤心に通ずるものであり
それが天下の正義であり
我々の赤心もきっと通じるに違いないと思った
ここに生きてゆく心の支えがあった ・・・大御心は一視同仁 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あれから五十年経って、どうですか、日本の今の繁栄を見て
常盤
そう、五十年ねえ。返答に窮しますな。
たとえば我が娘に話すでしょう、警視庁には新撰組という組織があり、なんて説明すると、
娘は困った事に歴史を教えない戦後の教育で育ったから、
「 ぱぱは、近藤勇と仲良しだったの 」 って。
今泉
私はね、今の心境から云えば、日本の国体は一君万民で君臣一体である、
その聖明を覆うものには破邪顕正あるのみ、と大きく書いて残したいと思うんです。
鈴木
学校などで聞いているらしく、子供もよく知っているようですよ。
池田
もう十年も前かな、テレビに出ることになったので、息子に説明したら、
「 あ、俺はムショ帰りの子供か 」 と。この時はギクッとしましたがね。
常盤
私も娘に 「 それじゃあ、私は犯罪者の子供ですか 」 と言われたことがある。
清原
私は今、よく外で講演など頼まれたときに云うんですよ。
二・二六事件の精神というのは大東亜戦争の集結でそのまま生き返った、とね。
あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し、民主主義の時代を実現させ、
そして今日の繁栄をもたらした。
だから終戦によって二・二六事件は成就されたと・・・・。
鈴木
そんなに簡単に謂えるかね。
二・二六事件の真の意味は何か、もっと深く考えて、公正に歴史に残すとすれば、
やはり史家に任すべきじゃないかと思うがね。
清原
毎年、恒例で夏に成ると陛下は那須へ行かれますね。
そこで新聞記者会見をなさる。
ある年、新聞記者が 「 あの事件の時は 『 本庄日記 』 にあるような 御叱りだったのですか 」
と御聞きしたことがある。 ・・・リンク→二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 
陛下は 「 ま、ああいうことだ 」 と。
「 『 おしん 』 を 御覧になっていますね 」
「 見ています 」
「 御覧になって如何ですか 」
ああいう具合に国民が苦しんで居たとは、知らなかった 」 と。
・・・リンク→まさに陛下は雲の上におわしめたのである
今泉
そう、そこなんだなあ。
清原
「 二・二六についてどう御考えですか 」
「 遺憾と思っている 」 と。
ですから、この 御言葉で陛下は陳謝されたと・・・・。
池田
それは違うよ。陳謝じゃないよ。
清原
韓国に向って 「 過去に不幸なことがあったことは遺憾に思っています 」
と 言われた。あれと同じことで 二・二六は不孝な出来事でした、遺憾に思っていますと・・・・。
池田
いや、やっぱり違うと思うね。

半藤一利 編著  昭和史探索・3
われらが遺言・50年目の2・26事件 から


生き殘りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 1

2020年12月24日 15時06分10秒 | 後に殘りし者

我々はなぜ決起したのか
池田俊彦 対談 赤塚金次郎
 
司会・編集部+河野司


二・二六事件の蹶起将校たちは、ロンドン海軍軍縮条約の締結や真崎教育総監の更迭が、
神聖であるべき天皇の統帥権を干犯したと糾弾し、
それが本来あるべき日本の在り方と著しく乖離かいりしていることを非難した。
蹶起は、
日本の進むべき道を誤らせている天皇の側近を誅殺し、正しい道に戻すのだという意図から行われた。
しかし、蹶起の本当の目的は
そうした観念的イデオロギー的な論争に武力で決着をつけるという単純なものではなかった。
背景に農村の深刻な不況があった。
単に不況にとどまらず、膨大な小作農の存在が恒常的な農村の貧困を生んでいた。
蹶起は そうした日本の社会構造の改造を迫るものであった。
その理解なしには、二・二六事件の歴史的意義を理解することはできない。
「 新品少尉 」 ながら 蹶起に自らの決断で参加し、
終身禁固刑を受けた二人の対談は、
そうした二・二六事件の精神と歴史的意味をあますところなく、語っている。

蹶起への参加を決意した時
・・・・蹶起に参加することを決意した直接の事情はどういうことだったのでしょうか。
池田
直接には林 ( 八郎・事件後銃殺刑 ) から 三日前に、今週中にやるという話を聞かされたからです。
林とは一聯隊の同期生です。
林が蹶起のことを打ち明けてくれたんです。
胸のうちを打ち明けたんです。
一大事をこの私に話したのです。
その林が 「 いよいよ今晩だ。明日未明にやる 」 という言葉を聞いて、
最終的に蹶起に参加する覚悟をしたのです。
その夜、栗原中尉のいる機関銃隊に行くと、栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
栗原中尉は、私が参加の意志を伝えると、
「 俺は貴公は誘わなかったのだ。一人息子だから 」
と 言う。
「 是非、参加します 」
と きっぱり言ったら
「 ありがとう 」
と 言って部屋の中に入れてくれたんです。
赤塚
前日の二十五日、初年兵の射撃訓練のため、私は戸山射場にいたのですが、
午後一時頃でしたか、伝令が
「 急用があるから、至急帰隊されたし 」
という 安藤週番司令の命令を持ってまいりました。
急遽、帰隊し、司令室に入ると、
野中大尉、常盤、清原 両少尉がおりまして、
その席上で安藤さんから
昭和維新のため蹶起すること、そして攻撃目標と兵力、部署などを告げられました。
その規模のおおきいのに驚きましたが、もはや大勢が決まったことを知り、
参加を決意したわけです。
・・・・そこに至るまでの経過というのは?
池田
林から具体的な話を聞くまでは、ああいう形で昭和維新に参加するということは当時考えていなかった。
なぜ、ああいう具合になったのか、具体的には私は知らないんです。
ただ、昭和維新ということについては、士官学校時代から いろいろ考えてはいたのです。
その話し相手が林だった。
林も十年くらいは政治や経済をじっくり勉強してからやるんだという、穏健派でした。
 本間雅晴大佐
本間 ( 雅晴 ) 聯隊長は将校の集まりなどで、
「 昭和維新は必要だが、青年将校が横断的な団結をして、そういうことをやるのは軍律上許されない 」
ということを ハッキリと話していたし、私もそうだなと思っていましたからね。
・・・・穏健派だった林さんが過激派に転じたというのが池田さんの運命を決めたわけですか。
池田
林は、上海事変で戦死し 軍神とまでいわれた林大八聯隊長の次男で、
兄さんは一高時代、青年共産同盟に関係して退校になったんです。
林自身は、国家改造ということに猛烈な関心を持ってはいたが、
武力でどうこうするという考え方の持ち主ではなかったのです。
一聯隊に入って、栗原中尉に出会ってからですね、
蹶起ということに積極的に賛同していったのは。
・・・・栗原に感化された?
池田
はっきりいって共鳴ですね。
感化されたのではなく、捨て石となる意気に共鳴したのです。
我々が本科を終えて一聯隊に戻ってきたのが、前年六月末のことですが、

林は十二月に栗原中尉がいた機関銃隊に配属替えされた。
「 やらねばならん栗原 」
と 言われていたほど、それは栗原中尉の口グセでしたし、
当時、栗原中尉は真剣に直接行動を考えていた。
林はその生命がけの意気に投合したのだと思う。
・・・・池田さん自身も栗原中尉とは議論する機会はあったのですか。
池田
将校集会室などでね。
「 今のような議会政治ではなんにも改革はできない。
何としても武力で改革への活路を開くべきだ 」
というようなことを 盛んに主張していた。
私は
「 それは間違っている 」
と 言い返したりしていたんです。
最初のころは林も私と同じだったですよ。
一月に入ってからかな、林が栗原さんに急速に同調するようになったのは。
第一師団の渡満がまぢかに迫っていたというのも、
この機会を逃したら、昭和維新の機会がないという気持ちが相当働いていたかもしれない。
・・・・じゃあ、はじめて林さんから蹶起参加を知らされたときは、やはりびっくりされたわけですか。
池田
正直いうとそうですね。
決意を聞いて最初は迷ったのです。
迷ったから、予科時代の区隊長だった松山大尉に相談してみようと自宅に出かけたのです。
ところが雪がひどくて市電は駄目、タクシーもつかまらないので、とうとう引き返した。
結局、誰にも相談しないで参加することにした。
実際問題として、信頼もし尊敬もしていた自分の友達が
「 やるんだ 」
と 胸のうちを打ち明けているのに、
「 お前は行くのか、しかし、俺は行けない 」
と 見殺しにするような冷淡な態度をとるのはできないことです。
私自身、昭和維新の必要性は林と同じくらい思っていたわけですから。
後で記録を読んでみても、安藤大尉だって迷っていた。
ただ、栗原中尉と磯部さん、河野さんの三人が
「 とにかく今やるんだ 」
と いうふうで、放っておいたら三人だけでもやりかねない。
あのとき蹶起するということは皆否定的だったと思うのですが、
「 俺は行かない 」
とは 言えなかったのだと思います。
赤塚
私は池田とは陸士四十七期の同期ですが、昭和六年に入校して、十年九月に少尉任官です。
この間の動きというものをざっとみていると、入校した年に満州事変が起きました。
七年になると血盟団事件が始まり、さらに五・一五事件が起こった。
この事件には先輩の四十四期生が何名か参加しています。
九年には士官学校事件が発生しました。
その事件には同期生が三名、後輩の候補生が一名・・・、二名?
池田
二名だよ。
本当は一名だけど、もう一人の佐藤勝郎はスパイだったから・・・・。
赤塚
十年の八月には相沢事件が起こりました。
私が少尉に任官するまでの間にこうして一連の事件が次々に起こりました。
私は五・一五事件に参加した先輩とか相沢中佐の尊皇絶対という精神には敬服はしていたけど、
どちらかといえば直接その運動に参加するという考えはなかった。
関心は大いにありましたけど。
十一年に入るとすぐ相沢事件の公判が始まりまして、
公判が開かれるたびにその説明会が三聯隊の近くにあったフランス料理の竜土軒で開かれました。
私もそれには安藤大尉の誘いがあって出席していました。
同期生としてはこのほか 清原、常盤 も出席していたのです。
二、三回は出ただろうと思います。
その席で、栗原中尉と磯部さん、村中さん、渋川さん、香田さんもいたと思いますが、
そういう先輩の方に初めて会う機会があったわけです。
その会合で印象に残っているのは、安藤さんが 「 抜かざる剣の威力 」 ということを強調していたことです。
抜くぞ抜くぞといって抜かないところに剣の威力がある、
剣は抜いてはいけないということを終始言っていたのです。
一方栗原さんは、私の感じですが、
非常に急進的な 「 今すぐにでもやる 」 というタイプの方だと感じたわけです。
しかし、私は前々から革新運動に身を投じるという考え方は持っていなかったし、
栗原さんの言う急進的な指導に対しては同調できない考えでおったんです。
池田
私も竜土軒の会合には二回ほど行っています。
安藤さんがソファーに身を沈めて、蹶起しようという意見が出ると
「 今はその時期ではない 」
と 強く言っていた記憶があります。
「 剣を抜いてはいけない。では 絶対抜かないかといえば、そうではない。
抜くべきときがくれば・・・・」
 と、ただ
「 今はそのときではない 」
と 言っていましたね。
私も安藤さんのいうとおりだと思っていました。
その安藤さんがやるんだというのでしょう。
ああ、情勢がここまで煮詰まってきたのかと。
林の説明では
「 我々が起つことで軍中央部も起つ 」
という そんな話しぶりだったが
「 そういう連絡がついているのか 」
と 言うと、
「 我々が起って引きずってゆくのだ 」
と、そんな感じでしたね。
・・・・安藤大尉からそういう話を日頃から聞かされたということはないんですか。
赤塚
ありません。
安藤さんは私より九年先輩で、私が予科を卒業して第三聯隊に配属されたときの大隊副官で、
そういう意味ではこちらから気楽に話しかけたり、むこうが呼んでくれたり親しいことは親しかったのですが、
昭和維新が必要だという話を特に聞かされたという記憶はない。
・・・・竜土軒に集まっていた将校はすべて参加しているのですか。
池田
昭和維新のためになにかをやらねばならないと思っている将校だけが呼ばれて集まっていたのですから。
赤塚
新井 ( 勲・『 日本を震撼させた四日間 』 の著者 ) さん くらいかな、
あそこによく来ていて参加しなかったのは・・・・。
・・・・反対だったのですか。
赤塚
私は十中隊の初年兵教官でしたが、新井さんは十中隊長代理だった人です。
安藤大尉と同じくらい革新将校の中心的存在だったことは間違いない。
戦後、新井さんの記録を読んでみると、竜土軒で栗原中尉と大分やりあったらしい。
私はそのとき気付かなかったが、
栗原中尉が
「 すぐにでもやるべきだ 」
と 言うのに対して 新井さんは
「 やる時期ではない 」
と、意見が対立していたらしいのです。
そういうことがあったからなのでしょう。
いよいよ決行というときに、安藤さんが
「 鈴木、新井には言うな 」
と 口止めされちゃったんです。
安藤さんは新井中尉の心中を察して、「 新井は蹶起には参加しない 」 と 思っていたのでしょうね。
本来からというと当然参加すべき人だった。
新井中尉とは戦後何回か会っていますが、よく北支に行っていたときの話を聞いたことがあります。
それによると、中国の農民というのは日本の農民以上に もっとひどい状態におかれていたというのです。
そのことが頭にあって、日本の農民もひどい状態ではあるけれども、
いまその状態の改善を求めて蹶起するということには慎重になっていたのではないかと推察しています。
池田
五・一五事件が起こったころに比べると、
一般の将校の革新行動に対する熱意が少し下がり気味だったということがあったのではないか。
たとえば、私の中隊長の村田中尉や候補生時代の教官だった中村中尉も、
革新将校とまではいわなくとも、昭和維新には関心の高かった人ですが、
声をかけなったようですよ。
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を、私は中村中尉の部屋でチラッとですが読ませてもらったくらいですから。
しかし、あの人たちには声をかけなかった。
言えば反対される恐れがあったからなのでしょう。

蹶起の背景--農民の窮状と青年将校
・・・・命をかけてまでやらねばならないと思った最大の理由はどこにあったのでしょうか。
赤塚
それはあの五・一五事件のとき士官候補生が述べたこととか、
有名な橘孝三郎の主張したこととかいろいろあると思います。
しかし、私が一番共感を覚えたのは末松太平さんのものですね。
末松さんは青森の五聯隊にいた人で維新運動の先覚者です。
青森にいた関係で事件には参加していなかったのに、禁固四年の刑を受けた。
その末松さんが 「 私の二・二六事件の原点はこれだ 」 と はっきり断定しているものがある。
青森の農民の困窮と小作争議です。
池田の書いた本 ( 『 生きている二・二六 』 ) にも出ていますが。
池田
末松さんからの手紙をいただいたことがあって、その中に
「 『 車力村史 』 からの「 小作争議 」
と 『 館城文化 』 からの對馬中尉に関するコピーを送ります。
このセットが小生の二・二六事件の原点です 」
と 書かれてありました。
赤塚
末松さんは福岡の出身ですが、たまたま青森の聯隊に配属となって、
聯隊に所属する下士官兵の家庭の悲惨な困窮を身をもって実感したんですね。
日本の軍隊を支えるのは下士官兵ではないか。
その家族がこういう状態では日本はいったいどうなるのか。
これが末松さんばかりではなく、昭和維新を考えた青年将校の出発点だと思うんです。
池田
士官学校では国体の尊厳さというものを強調して我々を教育したのですが、
それは
天皇陛下はすべての国民に対して一視同仁の大御心をもって接しておられる
ということからくる 尊厳さということであったのです。
しかし、現実を見ると、大御心おおみこころ が下士官兵の家族には届いていないと、
青年将校たちは感じていたのです。
一方では、
たとえば車力村の左翼運動家・渋谷悠蔵などは
農村の困窮の原因は天皇制そのものにあるのだから、天皇制を打倒しなければならない
というわけでしょう。
我々は、
農村困窮は天皇陛下の大御心に反している、日本の国体に反している
と 考えたわけで、受け取りかたが違うんです。
赤塚
士官学校では天皇観、国体観というものを徹底して教育されるわけですが、
その中心になる概念は一君万民、君民一体ということでした。
それは天皇陛下というのは純粋そのもので、すべての国民に対して一視同仁でいらっしゃる。
すべての国民に対してわけへだてのない御仁徳を施されるから、現人神であらせられる。
だから、天皇のためにいつでも欣然として死ねるんだ、
という 信念を植えつけられて将校になってきたのです。
ところが、末松さんはいざ軍隊の現場に入ってみると、兵隊の家庭の惨憺たる生活状況を見てしまう。
これは一視同仁の政治と違うんではないかという疑問を持ったのだと思います。
共産党は、だから天皇制が悪いんだと、天皇制打破を叫んだようですけど、
青年将校は、天皇の政治の本質は本来こうあるべきだけど、歪められているのは結局君側の奸がいるからだと、
そういう受けとめ方だったのだと思います。
だから、天皇の側近という人物に狙いを定めて襲撃していますね。
・・・・東京の聯隊でも極貧家庭の兵というのはいたのでしょうか。
赤塚
池田のいた一聯隊と私のいた三聯隊の兵隊の出身地は東京、埼玉など大たい同じです。
安藤さんが困窮している兵の家庭に、月給の何割かを匿名で毎月援助していたのは有名な話です。
そうしなければならないほど困っている家庭が多かった。
リンク→
貧困のどん底 
池田
初年兵は徹底的に身上調査をされるのです。
入営直後に人事係の特務曹長がまず調査するのですが、その後班長から聞かれ、
中隊長から質問を受ける。
さらに私のような初年兵の教官も簡単ではあっても調査するというわけです。
一聯隊の兵隊で特に生活程度がひどかったのは八王子方面なんです。
八王子でも秋期演習をしたことがあります。
民家に分かれて泊めてもらうのですが、出される飯がまずいと言って兵隊がぶつぶつ言うくらいでした。
私の受け持った初年兵の家庭で姉や妹が花柳界に売られていったという者が二人いましたからね。
赤塚
末松さんがいた青森、いわゆる東北ですね、あそこの困窮ぶりは東京の比じゃないんです。
自分のかわいい娘を女郎に売らなければ生活できないところが多かった。
その実態はどうかと、私、調べてきたのですが、
『 青森県婦女難村状況 』 という昭和九年の資料ですが、それによると、
青森県では、芸者四百五人、女郎千二十四人、女給九百四十五人、女工千四百二十七人、
女中二千四百三十二人、など 合計七千八十三人となっています。
東北六県の合計も出ていますが、五万八千百七十三人です。
東北の農村の困窮ぶりがわかると思います。
ただ 当時は今と違って こういう数字は公表されませんから、
末松さんも知らなかったと思いますが、兵に接していて実態はつかんでいたはずです。
池田
農村の女の子が就職するという常識がなかった時代の話ですから、大変な数ですよ。
若い人はこの数字を見て、芸者や女郎はともかく、
女給、女工、女中といえば まともな就職で問題ないのではないかと思うかもしれないが、そうじゃない。
当座のなにがしかの現金が欲しいばかりに家を出されたというのが実情なのです。
赤塚
当時の一農家の借金の平均が四、五百円といいますね。
娘を女郎にでも売ってなんとか借金の穴埋めをしなければ、しのげなかった。
当時の将校というのは、磯部さんは貧農の出だと聞いていますが、当時としては上流、中流階級ですよ。
そして少尉に任官すると月給が七十円。
ですから将校の目で見ると、農村の生活はひどいところだと感じるんですね。
池田
例外は近衛聯隊。
あそこは全国のいい家庭から兵を選んでとっていましたから。
赤塚
近衛の兵は家庭が裕福だし、地方の名門といわれる子弟が多かった。
池田
私は東京郊外の渋谷区笹塚小学校ですが、それでも中学校へ進む者は半数以下という時代です。
田舎なら一割がいいところでしょう。
茨木県はどうでした。
赤塚
もっと低かったんじゃないかな。
池田
小学校を出ると大半が大工の弟子になるとか、丁稚奉公に行くとか、農業をやるとか、
高等教育などというものはほとんど受けていない。
今の若い人には想像もつかないでしょうが・・・。
赤塚
農民がなぜあのように困窮していたのか、今となってはわからない人が多くなっているのではないでしょうか。
私は農家の出身だから事情はわかっていたのです。
第一に、全国の耕地面積は田と畑に牧場も含めて六百万ヘクタールあった。
それに対して農家戸数は五百五十万戸あったから、単純に平均しただけでも一戸あたり 一ヘクタールちょっと、
つまり一町ちょっとです。
どちらかといえば田より畑が少し多かったから、牧場を度外視してみると、
標準的な農家というのは田が五反歩、畑が六反歩と考えていいでしょう。
第二に、その所有形態を考える必要があります。
自作農が三十パーセント、小作農兼自作農が三十パーセント、小作農が三十パーセントというのが大体の割合だった。
第三に、米の収穫量の面から見ると、それはほとんど水田で作られていたのですが、
一反から平年作なら六俵、よくて七俵として、五反で三十俵しか収穫がない。
小作農ならその半分を地主におさめなければならない。
残りの十五俵を一年間で食べるわけですが、
当時の家族構成は夫婦に子供が六、七人というところでしょう。
私のところは十人生まれて八人が大人に成長したが、
兄弟が多いように見えてもそんなに珍しいことではなかった。
池田
私は男は一人だったが、姉が一人いた。
こういう少人数はむしろ珍しかった。
兄弟が六、七人というのはざらだったね。
赤塚
当時、一人当たりの米の消費量は年間一石といわれていたから、これは二俵半にあたる。
つまり、一家族十人として、年間二十五俵の米がないと食っていけない。
十五俵ではとてもだめです。
だから畑には大麦を蒔いて、それを米に混ぜて食べる。
米六麦四とか あるいは麦のほうが多いところが多かった。
そうやってもなお年間通しては食えなかったのです。
米も麦も五月の田植えどきには底をついて、やむなく地主に借りにいく。
収穫の時には利息をつけて返すのですが、それでますます自分の取り分が減って、
前の年より生活が苦しくなるわけです。
よほどの豊作が何年も続けば別ですが、東北などは三年に一回は冷害ですから、
おまけに大不況でしょう、娘を売っても食えないという状態が何年も続いたわけです。
五・一五事件の青年将校や士官候補生とか、水戸の橘孝三郎先生、
東北の聯隊に配属された青年将校たちが、これはもう君側の奸をやっつけなければだめだ、
それが昭和だという結論に達したんだと思うのです。
・・・・どなただったかはっきり覚えてませんが、徴兵検査に立ち会ったら、
肌の色が黄色なので不思議に思ったと言っていましたね。
池田
村中さんが公判の時にそういう話をしたのです。
北海道で徴兵検査に立ち会ったとき、顔が黄色なのは何故かと徴兵官に聞いてみたところ、
「 この連中は米を買う金がなくて、カボチャばかり食っている。だから肌が黄色になるんだ 」
と 言ったというんですね。
入営して米の飯をたべるようになると次第に肌の色もよくなったということでした。
一聯隊でももちろん金持ちの子弟もいましたが、生まれて初めてカツレツを食べたという兵も少なくなかった。
「 こんなうまいものは初めて食べた 」 と。
東京の兵隊ですよ。
東京といってもその程度の生活水準だったのです。
赤塚
もう一つ つけ加えると、
埼玉県は特に多いと思いますが、ほとんどの農家が現金収入を得るために養蚕をやっていた。
畑が五反歩あれば二反歩ぐらいに桑を植えて、蚕を飼っていたんです。
ところがそれも生糸の相場が不況によって半値になってしまったのです。

蹶起は 「 虚夢の大義 」 ではなかった
池田
日本全体が貧乏だったのと、社会的に富の分配が不公平だったのですよ。
地主とか資本家の一部にはずいぶん金持ちがいた。
それはそうでしょう。
赤塚が言ったように、小作農からは労せずして収穫の半分を納めさせるわけですから。
そういうことで
「 農地改革することによって、貧富の差をなくさなければいけない 」
と 農林省の官僚のなかにもそう考えた人たちがいたんです。
戦前、農林省の役人で、戦後になって、農地開発公団の理事長をやっていた大和田啓気さんという方が書かれた
『 日本の農地改革 』 という本がありますが、その中に戦前の農地改革のことが述べてあります。
それによると、農林省はたびたび農地改革法案を提出したが、衆議院で否決されたというのです。
それが通ると地主連中は打撃を受けるわけですから、賛成するはずがない。
議員の大半は地主か金持ちばかりでしたからね。
今、フィリピンでいくら経済成長しようとしてもうまくいかないでしょう。
農地改革が最も必要な国なのにそれができないのは、地主や金持ちが議会を構成しているからですよ。
農地改革なんて議会政治ではできないんです。
だから、栗原中尉が
「 池田、議会政治では農地改革はできないんだよ 」
と 言ったんです。
赤塚
それはできない。
池田
「 これは、我々が武力をもって、起ち上がり、たたきつぶさなければ永久に直らないんだ 」 と。
赤塚
先輩たちはそう考えたのだろうな。
池田
これが、栗原さんが蹶起した根本の原因なんですよ。
これを忘れてもらっては困ります。
赤塚
ほんとうにそうだな。
池田
十二月三日 ( 平成元年 ) の 朝日新聞に、例の澤地久枝が 「 自作再見 」 という表題の記事の中で、
自分の写真入りで 『 妻たちの二・二六事件 』 を 書いた気持ちに触れていますが、
彼女は、昭和維新運動のことを 「 虚夢の大義 」 などと言っている。
彼女には栗原中尉の農村改革、農地改革をやって、極貧の農家を救うというそういう気持ちがわからないんだ。
『 雪はよごれていた 』 なんていう本を書いたり、NHKがその尻馬に乗って、
変な放送 ( 『 二・二六事件  消された真実 』 昭和六十三年二月二十一日放映 ) を やったりするのも、
まったくここの気持ちがわからないからなんです。
「 虚夢の大義 」 とはいったい何だろうと思いました。
山本七平もそういうようなことを平気で言いますね。
何であいうロクでもない考えが浮かんでくるんだろう、とね。
事件の善悪を論ずることはかまいませんが、
人が生命がけでやったことを小馬鹿にしたようなことを言うのは許されません。
・・・・おそらく、二・二六事件の裁判記録を読んでも、出てくるのは統帥権干犯の問題がもっぱらで、
農地改革とか農民の窮状を救うために蹶起したんだという、
そういう栗原中尉たちの根本の本音があまり述べられていないということもあるのではないでしょうか。
池田
それは確かにあるでしょう。
公判のちょっとした合間に磯部さんや栗原さんが
ちょこちょこと打ち合わせをしているのが、耳にはいったのです。
かいつまんで言えば、
あんまり農民の救済、農地の解放とか、財閥の解体などを強く主張すると、
アカ、つまり左翼革命ととられるだろう、
だから、第一に主張すべきことは統帥権干犯の賊を討ったのだということにしようということだったのです。
これは裁判が始まる以前からひそかに連絡を取り合って方針を固めていたようなのです。
あの当時、あんまり 「 農民だ、貧乏人だ 」 なんて言うと アカだと言われたんです。
そういう評判をたてられたら天皇陛下反対ととられるわけですよ。
世の中が今とは全然違うんです。
末松さんのお宅に年一、二回は伺っていますが、ある日、私が
「 うちの母親は、事件直後逆賊の母だと 後ろ指さされたので、外出するのが嫌になったのです 」
と いう話をしたら、末松さんの奥さまが
「 私はアカの妻だといわれて、何度死のうと思ったかもしれない 」
と ポツリと言われた。
末松さんはビックリして
「 今までその話はなかったね。初めて聞いた 」 と。
末松さんは
「 君のおかげで女房の本音を聞くことができた 」
と 感謝されたんです。
二・二六事件というのはアカの事件という受けとめ方が当時から一部にはあったんです。
栗原中尉や磯部さんの懸念は当たっていたんですよ。
そういう時代だったんです。
赤塚
共産党も農村の疲弊とか農地改革とかを前面に打ち出していましたから。
ちょうど、昭和二年から六年にかけて共産党の大検挙が続いたでしょう。
そのころ仙台教導学校の教官をやっていた大岸さん---この方は青年将校としては末松さんの先輩にあたり、
末松さんは大岸さんに出会ってから国家改造をめざす青年将校の仲間入りをするのですが---の書いた本によると、
教導学校の中にも共産党の分子が潜入して、軍隊の内部から崩壊させようという考え方があったらしいのです。
農地改革によって農民を救うという一点においては、共産党も青年将校と同じ考えを持っていたのですから、
二・二六事件で蹶起した青年将校はアカと同じじゃないかと言われかねなかった。
だから裁判ではそのことを伏せるということになったのでしょう。
池田
同じ農地改革を主張していても共産党と青年将校との根本的な違いというのはあるんです。
小菅刑務所に入っていた時に、そこにいた橘孝三郎さんに聞いた話ですが、
「 人間は稲を食べて生命を維持している。しかし、その稲は人間が出す糞を肥料として成長している。
そうやって大地と生命とは無限の循環で結ばれている。
その大地を耕し、稲を作っているのは農民なのだから、大地は農民の所有にしなければならない。
自分の大地ならそれを大事にするはずだ。だから小作制度というのは間違っている 」
と 言うんですね。
末松さんも同じようなことを言うんです。
ロシア革命は土地を地主から奪ったが、党のものにした。
決して農民に与えてはいない。これは農地解放でもなんでもない。
彼ら共産党は本当の農地解放をやっていないと。
共産党と青年将校とでは考え方が全然違っていたんです、本当は。
その違いがみんなわからなかったんですね。
だから天皇陛下でも青年将校が何かガタガタすると
「 日本もロシアのようになったね 」
などと言われたり・・・・。
陛下のお側の者がよくわかっていなかったから、
恐れ多い言葉を発せられるような始末になってくるんです。
陛下ご自身が
「 青年将校がやっていることはアカではないか 」
と、想像することは恐れ多いことですけれども、そういうふうにお考えになったのではないかと思うのです。
「 北一輝も共産党だ 」
と 周りのものが言っていたくらいですから。
とんでもないことでね。北一輝は
「 農地を地主から取り上げて国家が管理する 」 なんてことは 『 日本改造法案大綱 』 の中ではもちろんのこと、
どこでも一言も言っていません。
マルクスの理論と北の理論とは全然違うということが、わからない連中が虚夢の大義なんていうことを言っているんですね。
赤塚
そうそう。
そのところは はっきりさせて、後世に伝えないとね。

2・26事件の謎
新人物往来社
1995年7月10日初版発行
から

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生き殘りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2

2020年12月23日 15時03分27秒 | 後に殘りし者

我々はなぜ決起したのか
池田俊彦 対談 赤塚金次郎
  
司会・編集部+河野司


国家改造と統帥權干犯問題との関係
・・・・統帥権干犯を主に主張して主要な農民問題を伏せたとはいっても両者の関係はどうなんですか。
単に左翼革命と一線を画すというだけの方便ではなかったのではないですか。
池田
それは違いますよ。
第一、陛下の軍隊を勝手に率いて蹶起したのですから、それを上回る統帥権干犯の事実がある、
その賊を討つための止むを得ない蹶起であるということが納得させられないと、
あの蹶起の根拠がなくなるわけですからね。
当時はいわゆる統制派の連中が軍の中枢を占めていた。
皇道派の中心的存在とされていた真崎甚三郎が教育総監のポストを追われて
皇道派はまったく軍中枢から排斥されてしまった。
その統制派の首領格が永田鉄山軍務局長であったわけですが、相沢中佐が永田を斬った。
青年将校がなぜ永田を頂点とする統制派の思想や行動を問題にしたかといえば、
永田らが官僚や財閥、あるいは宮廷グループと手を組んで 国家総力戦体制にもっていこうとしていたからですよ。
その永田が手を結んでいた人たちこそ、農村の窮乏から目をそらし、
陛下にも農村の現状をお伝えせず、根本的改革には無関心だったのです。
いや、それ以上に農地改革を含む国家の改造が必要だという主張に反対する最大の勢力を作っていたのです。
農村の惨憺たる困窮を招いている国家体制の改革こそが急務であったあの時期に、
永田は朝飯会などと称して、木戸幸一など当時の権力者と気脈を通じていたんです。
最初は真崎閣下と永田は仲がよかったんです。
しかし、権力者と結託して日本を総力戦体制にもっていこうとするのと、
今の国家の体制をまず改革しなければいけないという考え方との差は大きかったわけです。
当然改革派は木戸などからけむたがられる。
「 真崎は邪魔だから追っ払え 」 とか、はっきりそう言ったかどうか知りませんが、
意見を交わしていくうちに権力者側のそういう意向というものはわかってくるから、
彼らの協力を得て総力戦体制を敷こうとしている永田らが結束して、
真崎教育総監を罷免する方向にもっていったというのが真相でしょう。
つまり、天皇陛下が統帥されている軍隊の重要な人事が、
軍以外の者の意向によって動かされていたわけです。
これは明らかに、統帥権干犯ではないかという主張につながるわけです。
あれが、純粋な法律問題として統帥権干犯であるかどうかは、難しい問題だと思います。
しかし、干犯したのではないかという疑いは十分持てる。
しかもそれは、農村改革を初めとする国家改造を頑強に阻もうとする勢力と一体ではないか。
そういう意味あいで彼らを討つことによって、
国家改造への第一歩としようという発想はごく自然に生まれたのではないか、
そう思っています。
赤塚
須山幸雄著 『 二・二六事件青年群像 』 によると、
満州事変後の国防方針を決定するため、荒木陸相が省部の首脳会議を開いた。
そのとき永田少将と小畑少将の意見が対立したそうです。
小畑少将が対ソ防衛を第一義とし、日支提携を主張したのに対し、
永田少将はまず武力で支那を叩き、足許を固めたうえでソ連に備えるべきだと主張した。
永田少将と小畑少将は陸士同期で二人とも軍刀組で双璧といわれた人物で、
省部の意見も二つに割れて対立した。
これが統制派と皇道派という二つの派閥の始まりだと、
荒木さんが晩年の回想談で述べているそうです。
これは真実に近いのではないか。
満州事変当時、関東軍に花谷という少佐の参謀がいた。
その花谷参謀が事変が一段落した昭和七年、何月だったかは月は忘れたが、
士官学校に来て講演したことがある。
その講演の中で花谷少佐は、満州に独立国家を造って、五百万人の日本人移民を送り、
日満一体の関係を作ると話されたことを記憶しています。
この構想を実現する過程で、当然支那の抵抗、米英ソの干渉が予想されるので、
これに備えるために政・財・官界を網羅した総力戦体制を整える必要がある。
この考えを代表し推進する役は永田だったという。
ここに昭和維新を第一義と考えた皇道派との対立の根源があったのだと思いますね。
永田は陸軍始まって以来の俊英とうたわれ、政治手腕も相当なものだったことは、
衆目の一致するところだが、小畑との論争にもみられるように、
一撃を加えれば支那は簡単に参ってしまうという侮蔑的支那観に立っていた。
対支那認識は甘かった。
池田
武藤章もそうですね。
赤塚
結局、そういう判断が取り返しのつかない間違いを犯すことになった。
池田
二・二六事件のとき武藤は軍事課の高級参謀ですね。
そして我々を真っ向からつぶした。
当時の軍事課長は村上啓作さんで、
村上さんは何とか蹶起将校のメンツがたつようにしてやろうと思っていた。
しかし、かれの部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝ったわけですね。
武藤は蘆溝橋事件が起こったとき参謀本部の作戦課長になっていましたが、
積極拡大派の急先鋒だった。

軍の統帥と独断専行
・・・・ところで、蹶起は直属の上官の命令なくして兵を動かしたわけですが、
それはそれで大変な決断が必要だったのではないかと思いますね。
統帥権干犯の非を咎めるために、自ら軍の統帥を乱したわけですから。
特に部下を直接指揮しなければならなかった将校というのはよほどの覚悟が必要だったのではないでしょうか。
池田
私も正直いって、あんなに多くの兵隊を率いて蹶起するというのには疑問を持っておりました。
あとでいろいろな本を読んでみると、ああいう形で蹶起した根拠は独断専行ということだったようです。
菅波大尉が最初に言い出したんですね。
独断専行というのは軍隊の独特の言葉であって、第一線の指揮官が上からの命令はないが、
今ここで直ちに行動するのは正しいと判断して行動する、たとえば独断で突撃するということです。
突撃の命令はないが、今突撃すればやれると、自分で判断して命令を下すのを独断専行と言った。
これは許されることなのです。
赤塚
戦場では時々刻々と情況が変わっていきますから、
命令を待って行動していたのでは自滅するという場合が多いのです。
ですから、むしろそういう場合は独断専行が称揚されていた。
池田
勝手気儘はいけないのですが、独断専行は許される。
それが作戦目的に一致しないと専恣 といわれる。宣恣はいけない。難しいことですがねえ。
・・・・二・二六事件の五年前に起こった満州事変で、朝鮮軍が国境を越えましたね。
池田・赤塚
独断専行ですね。
・・・・お二人とも士官学校に入校された年に当たるわけですが、
雰囲気としては ああいう軍の行動といのはわかるという感じだったのでしょうか。
池田
そうですね。
あの時、朝鮮軍が救援に行かなければ、関東軍は危機に陥るだろうということは、いわれていましたから。
最終的にはあの独断専行を軍の中央部が認めたわけですよね。
認めないという結論であれば、切腹しておわびしようと、司令官の林銑十郎は切腹の準備をしていましたからね。
独断専行はそれなりに覚悟のいることではあるのです。
赤塚
戦場においては、上からの命令を待たずして、作戦行動に移す場合が少なくないと思いますね。
二・二六事件では、国体顕現のため君側の奸をたおす、その手段として兵力を使用した。
これは独断専行ですが、兵力使用については三かした将校が悩んだところだと思う。
特に安藤さんは最後まで悩み、決心がつかなかったといわれているが、
それはここにあったのではないだろうか。
池田
安藤さんが一番つらかったでしょうね。
赤塚
磯部さんと村中さんは部下を持っていなかったから、立場としては比較的楽だったでしょう。
安藤さんは中隊長として直接の部下を持っていたし、しかも三聯隊の全部の兵を動かすという立場にあった。
兵隊がついてくるかどうかは、安藤さんの胸の内にあるといわれたぐらいですから、
それぐらい信望のあつい将校でもあったのです。
それだけに苦悩も大きかったと思います。
池田
安藤さんも、今起つことが本当に大御心にかなう所以であろうか、
陛下は今 どんなお考えを持っておられるのか、わからなかったのですから。
今の時代と違って、あの当時の天皇に関する情報は皆無ですからね。
全然わからないのですから。
赤塚
村中さんがそのことを言っています。
陛下を雲の上に奉って、国民との間は厚い雲で覆われている。
その暗雲を払うんだと。
そういうことをしょっちゅう言っていましたよ。
池田
戦後、陛下が記者団に会われて、
「 あの当時、農民があんなに苦しい生活をしていたことをご存知でしたか 」
という質問が出たとき
「 知りませんでした 」
と お答えになっていますね。
赤塚
いや、それは陛下に申し上げる側近はいなかったさ。
池田
悪いニュースは陛下のお耳に入れなかったでしょう。周りが。
赤塚
自分のかわいい娘を女郎に売る、自分たちが生き延びるために。
そういう惨めな農民の実態というのは、恐らく陛下のところには全然・・・・。
池田
『 本庄日記 』 には、
農民が苦しいとはいえ、自ずから彼らにも楽天地がある。
自分もヨーロッパに旅行したとき、自由な空気を吸ったときは、なんともいえず楽しかった。
だから、農村には農村なりの楽しい愉快なものがあるだろう。
と おっしゃったということが書いてあります。
( 「 農民の窮状に同情するは固より、必要事なるも、而も農民亦自から楽天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず、
自分の如き欧州を巡りて、自由の気分に移りたるならんも心境の愉快は、
又其自由の気分に成り得る間にあり 」 昭和九年二月八日の項 )
リンク→農民亦自ら楽天地あり
赤塚
普通の生活ができれば、農村はそうですがね。
池田
ところが、自分の娘を女郎に売らなければならないということがどんなに苦しいことか、
そういう農村の実態を陛下はご存知なかったのだと思います。
恐れ多いことですが、そういうことがわからないということは、
あのとき蹶起した我々の気持ちも おわかりにならなかったのではないでしょうか。
・・・・池田さんは自分の行動が、ひょっとしたら大御心に副わないかもしれないという
不安は起きませんでしたか。
池田
それはなかった。
私は天皇陛下というものは、もっぱら生物学などの研究をなされていて、
政治の実情には触れられない雲の上の存在であると考えていましたから、
だから、実際には政治についてはあまりご存知ないだろうと思っておりました。
憲兵の取り調べにもそういうことを述べて、調書に書かれたんです。
それを見た予審判事が、
「 陛下は政治に非常にご熱心で、隅々まで精通しておられる方だぞ 」
と 非難する口振りで言いましたね。
後でわかったことですが、実際そういう一面がおありだったようです。
私自身の無知のため恥ずかしいかぎりです。
赤塚の区隊長だった今岡豊さんという人が、戦後 『 昭和軍事秘話 』 という本を書かれましたが、
その中に天皇陛下は陸軍の人事についても具体的に
「 これはいかん 」 「 それはいい 」
という具合に意見を述べられた ということが書いてありますね。
近衛内閣 ( 第二、三次 ) の初期官長だった富田健治さんが、警視庁の保安課長になったときに、
上司が陛下にお伺いをたてたそうですよ。
保安課長というのは勅任官ではなく奏任官なんですけど、
同格の陸軍省の軍事課長といった重要なポストの人事についても鋭い質問をされて、
どうか、どうかとお尋ねになったといいますね。
そして納得がいかなければ、ご裁可されなかったそうです。
それほど陛下は政治に首を突っ込んでおられた。
我々はそういう事情を知らなかったですからね。
天皇陛下というのは下のものが 「 こういたします 」 と言えば御裁可なさる。
政治については自己の御意思を発言せられない方だと思っていましたから。
赤塚
逆に言えば、これも本で読んだことですけど、
真崎さんとか荒木さんとか皇道派と目されていた人については、
悪い情報を陛下に申し上げていた人もあったわけです。
池田
陛下は
「 真崎はどうもよくないね 」
という お考えをお持ちになっておられたようですね。
これはありうることですね。
当時、参謀総長は閑院宮ですが、この方は騎兵の出身なんです。
騎兵といえば南次郎もそうだし、建川善次もそうなんです。
兵科が同じだから情報がツーカーということなんです。
私が実際に軍の先輩から聞いた話ですが、建川あたりが、反真崎だから
「 真崎はよくない 」 ということを閑院宮にする。
閑院宮は陛下と直接話ができる立場ですから、
なにかの折に 「 真崎はよくないですねえ 」 と 申し上げたこともあっただろうと、
実際にあったかどうか知りませんが、ありうることですよ。
すると陛下も 「 そうか、真崎はよくないか 」 という観念をお持ちになるのは自然じゃないでしょうか。
近衛さんも人の噂で人物を判断すると、言われていましたね。
陛下も、自分を取り巻く閑院宮とか木戸幸一とか あるいは鈴木貫太郎とか、牧野伸顕、斎藤実とか
そういう人を非常に大事にされておった。
そういう人から 「 あの人物はちょっと・・・・」 と 言われたら信じられるはずですよ。
だから、こうした重臣を殺害して国家改造の端緒にする、
それが大御心に副うことだということは、今の時点で客観的に見ると、
駄目だということが最初からはっきりしていますね。
リンク→「 武官長はどうも真崎の肩を持つようだね 」 
リンク→陸軍を暴走せしめたは誰あらん

しかし、我々はそういう実情についてはまったく知らなかった。
陛下の大御心は一視同仁、つまり名もなき民の赤心に通じるものであり、
それが天下の正義であり、我々の赤心も必ずやお聞きとどけになると信じて疑わなかったのです。
・・・・磯部さんは 「 陛下、お叱り申し上げます 」 と 遺稿にしたためましたが、
そういう気持ちの変化というのは刑を受けたほかの方々でも多少は生まれたものでしょうか。
池田
天皇陛下がその年の五月に開かれた議会の開院式で
「 今次東京に起これる事変は朕が憾うらみとする所なり 」
と おっしゃった。
このくだりは起訴状にも論告にも引用されたんです。
それを聞いたとき、
天皇陛下は我々のとった行動を恨まれたんだなあ、
と 感じました。
赤塚
陛下は一視同仁であらせられるという観念を信じていたからこその蹶起であったはずですがね。
池田
じつは 『 生きている二・二六 』 を 出したとき、稲葉修 ( 元法相 ) にも差し上げたんです。
稲葉先生は
「 天皇陛下もあのときはお若かった、三十歳くらいだもんな、
『 憾とする所 』 じゃなくて 『 不徳とする所 』
とか おっしゃればよかったのに。
ちょっとあれわねえ、陛下も若かったんだな 」
と、そうおっしゃっていましたよ。
リンク→『 朕の憾みとする 』 との お言葉 

事件をもっと正確に評価すべきではないか
・・・・ところで、正直なところ
二・二六事件に対する歴史的な評価というのはマイナスイメージが主流なんですが、
それについてはどういうふうに見ておられますか。
赤塚
澤地久枝が匂坂春平法務官 ( 二・二六事件の首席検察官 ) の資料を使って、
あの事件は将軍たちの陰謀であったと、断定に近い書き方をしていますが、
一般の人はあの本 ( 『 雪はよごれていた 』 ) を 読んで、ああ なるほどそうか と思ってしまう危険性が強いでしょう。
しかし、あの蹶起には将軍たちはまったく関係ない。これはどこから見ても断言できることなのです。
池田
それについて、私は反論を書きましたから ( NHK特集 『 消された真実 』 に藩論する・・文芸春秋 昭和六十三年五月号 )
ここでは繰り返しませんけど、
青年将校は真崎ら一部の将軍に踊らされたんだ、哀れなやっちゃ、というふうな書き方になっている。
とんでもない話ですよ。
赤塚
青年将校は踊ったにすぎない、と。 かわいそうな連中だという考え方が根底にあるね。
池田
以前にも、『 妻たちの二・二六事件 』 で
青年将校の女房連中も ひどい目にあった、かわいそうにな、っていう書き方でしょう。
ひどい目にあったのは確かだけど、
真剣に純粋に国の現状を憂えて身を捨てた夫の生き方に、今も昔も共感し、信頼を寄せているんです。
そういう誇りを捨てた 「 妻たち 」 は いないんじゃないですか。
・・・・教科書的な評価を言えば、一連の昭和維新運動の流れは、
狂信的な一部青年将校が右翼と結託してテロによる軍部独裁、
そして総動員体制による戦争への道を切り開こうとしたというものですが・・・。
池田
要するに二・二六事件があったから支那事変が起こり、大東亜戦争に発展したんだというのでしょう。
二・二六事件はあの戦争の火付け役を果たしたという歴史家がいるわけですよ。
それは、そういうふうに時代を追っていくと、五・一五事件があったり、血盟団事件があったり、
それから最後に二・二六事件があって、
もうその後はなんとなくそういう事件続きとして戦争の時代に入っていくという流れになっていますから。
二・二六事件は昭和維新の運動としては最大規模であっただけに、
こりゃもう本当にね、国家に対する反逆的な犯罪であるとまで言われてますがね。
しかし、それほど歴史にたいする皮相的な見方はない。
・・・・その中で非常に興味をひくのが、戦後の占領軍が下した評価です。
二・二六事件はジャパニーズ・デモクラシーを目指したものだということで、
関係者はすべて戦犯容疑者からはずされたそうですね。
赤塚
その話は河野さんの本 ( 『 私の二・二六事件 』 ) に出ていますよ。

斎藤劉さん ( 元少将・叛軍を利する行為で禁固五年 ) が 占領軍に呼ばれて追及されたんです。
斎藤さんは戦時中、河野司さん ( 河野壽の実兄・事件直後から二・二六事件の資料収集にあたる一方、
仏心会をつくり刑死した遺族の相談役として献身的に尽くしている )
から預かっていた資料をもとに検事とやりあったらしい。
資料を示しながら、恐らく今私や池田がしゃべったようなことを縷々るると説明したんじゃないかな。
最後は 「 そうか、二・二六は天皇を中心とする民主革命だ、よくわかった 」
ということになったらしいのです。
池田
私、終戦はサイゴンで迎えたのですが、私のことを知っている朝日新聞の記者が
「 池田さん、名前を変えて帰った方がいいですよ 」 と 忠告してくれましてね。
東京へ帰って清原に会って 「 どうだ 」 と 聞いたら 「 全然心配ない 」 と。
恐らく斎藤さんから聞いたのでしょう、
「 占領軍はあの事件をジャパニーズ・デモクラシーだと言っている 」 ということだった。
でも、ジャパニーズ・デモクラシーだなんて、進駐軍が言うかなあ。
赤塚
いや、言うなあ。
ただ、確かに最初の見方というのは、二・二六事件もファッショの系列であり、
大東亜戦争と直接関係があるという見方をしていたことは間違いない。
というのは、私はスマトラで終戦だったのですが、
二・二六事件の関係者も取り調べの対象に入っているという情報が入ったんです。
それで 「 お前も関係者 」 (笑い) って おどかされたことがあるんですよ。
池田
維新というのをジャパニーズ・デモクラシーなどと翻訳されると、妙な気分だな。
裁判ではたしかに
「 国体と相容れざる民主主義的革 」 「 社会主義的民主革命 」 を 実現しようとして武力を用いた、
という具合に検察側から糾弾されたのですが、私は
「 社会主義的民主革命などということは考えたこともありません、そういうことは絶対ない 」
と、真剣に否定したのです。それは私だけではない、全員そうです。
なぜかと言えば、あの当時、民主主義革命と言えば共産主義革命と同じ意味でね、アカとすぐとられてしまうんです。
だから、我々が本当は民主主義革命をしようとおもったんだということになれば
「 この野郎、天皇陛下に弓を引くのか 」 ということになるわけですよ。
もとよりそういう気持ちがあるわけないから、我々の求めている改革の内容が客観的に見て、
たとえ民主主義的なものであっても そういう言葉を使うなどということはありえなかったのです。
とにかく民主主義という言葉を使ったらアカであって、アカと言われたらもうおしまいだった時代です。
田中清玄さん ( 元日本共産党中央執行委員長 ) とは小菅刑務所以来の長いお付き合いですが、
「 うちの母親は自分を転向させようとして腹切って死んだんだよ 」 と。
私はその遺書を見せてもらったことがある。
アカの母と言われるのがどんなに悲しくて、つらいことか。
もう周りの人間からふくろ叩きにあって とても生きていけない時代だったのですよ。
母親の自殺を獄中で知らされてから田中さんは転向していますね。
磯部さんの一家は事件の後、天皇陛下にたてついたというので、村八分になるんです。
父親が怒って
「 うちの息子は天皇陛下のために死んだんだ 」 と 近所じゅうを怒鳴って歩いたそうですよ。
それでやっとみんなもわかってくれて、従来通りのつきあいにもどったというのですね。
我々は裁判でも民主主義革命を企んだのではないということを主張したけれども、裁判は非公開だし、
とにかくあいつらはアカだ、天皇に弓を引いた逆賊だという宣伝が大いになされたんですね。
赤塚
農地改革なんてね、共産党が一番主張していたんだから、
二・二六もアカにちがいないというので、吊るし上げられたんだな。
とくに磯部さんは山口県だから、そういう風潮の強いところでしょう。

不幸な事件だったが、世界的意味がある
・・・・最後に、二・二六事件の意味はどういうところにあるか、
まとめのかたちでお話ししていただければと思います。
赤塚
先輩たちは純粋に国を憂えて 「 これが大御心に副う行動である 」
と、固い信念を持って起ち上がったと思うのですが、その結果は叛徒という汚名をきせられて、
結局は、そのなんと言うかね、完全に挫折したというわけですね。
また、非常に不幸な事件でもあった。
というのは、あの事件を一つの契機として、粛軍という名のもとに皇道派といわれた人が、すべて左遷された。
大局から見ると、支那事変が起こったとき、
しっかりした見通しをもってその拡大を阻止する人物が軍の中央部に一人もすなくなって、
怒涛のごとく突っ走り、とうとう米英との戦争にまで引きずりこむ結果になってしまった。
このことは、日本にとってなんとしても不幸なことであったと思いますね。
池田
今、赤塚が言ったように、先輩たちは本当に純粋な気持ちで、真面目な気持ちで、
自分の一身を犠牲にしても今の世の中をなんとかしなきゃいけないという考え方で起ったんですよ。
しかし、今だから言うのではなくて、起った直後でも、今蹶起したのは間違っていたんだな、という気持ちを持ちましたね。
このような時期に蹶起してもどうにもならなかったんだと。
ましてや軍規に違反して、建軍の本義に反して、天皇陛下の統率のもとに動かすべき軍隊を動かしたという点で、
非常にまずい事件であったと考えますね。
しかし、刑死した人たちの遺書を見るとよくわかるんですが、考え方が非常に純粋です。
ことに若い人、高橋少尉でも、坂井中尉でも その遺書を読むと涙がこぼれるほど純粋ですよ。
その気持ちをまったく斟酌しんしゃくすることなく、
たとえば評論家などが馬鹿にしたような言い方で非難するその態度には、まことに憤りを感じております。
だから、あの時の国家改造にかけた我々の精神というものは、はっきりと伝えていかなければいけないと思っているんです。
一方、私は別の意味で あの事件は意義の深い事件だったと思っています。
あの時期に、天皇陛下を戴く日本の軍隊が、将校だけでなく兵隊もいっしょになって蹶起できたということは、
結果は失敗だったけれども、見方によれば蹶起したそのことによって成功だったのではないかと思っているくらいです。
兵隊を騙して連れて行ったと非難する人もいますが、私が一緒に行った機関銃隊は
「 一緒にいきましょう。私も昭和維新をやる一員です 」 と 私のところに来た兵隊もいたくらいなんです。
多くの兵隊が 「 我々が昭和維新をやるんだ 」 という希望に燃えて出勤したんです。
そういうことが日本の歴史の中にあったということの意義は小さいものではないと思うのです。
たしかに小さい目でみれば、建軍の本義に違反したということになるんでしょうが、
大きな世界史的立場で見れば大いに価値のあった蹶起ではなかったかと考えております。
だから、昭和維新の精神は滅ぼしてはならない。
たとえば日本は今、あの当時と違って金持ちの国になっていますね。
しかし、東南アジアには貧しい国がたくさんあります。 アフリカもそうです。
これからはそういう国の発展にどういうお手伝いができるか、一人ひとりが真剣に考えて、行動していきたいですね。
たとえば青年海外協力隊というのがありますが、
ああいう形で生活向上のお手伝いをするというのはまことに立派なことだと思いますね。
ああいう具合にこれからの日本は世界に尽くしていかなければいけないのではないか、そう思っているのです。

2・26事件の謎
新人物往来社
1995年7月10日初版発行
から

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殘った者 ・ それぞれの想い (一) 「 指揮したのは村中 」

2020年12月21日 14時57分28秒 | 後に殘りし者



元陸軍大尉  大蔵栄一
民間側参加者  古賀 斌
元戒厳参謀長  安井藤治
元総理秘書官  迫水久常
元総理大臣  岡田啓介

座談会・二・二六事件の謎を解く (一)

恩讐の彼方に双方なのりあげ

大蔵  私は事件が起きる寸前に挑戦へ転勤を命ぜられ、直接行動を起した組ではなかったので、
死刑を免れて、今日こうして座談会にも出られるわけですが、
所謂青年将校の内でも古参の方でしたので、いろいろの会議にも参加し 転勤するまで一緒に行動をしていたわけです。
古賀  私は杉田省吾の懇請により 北一輝、西田税のバックにあって働いていましたが、
まあ二人の諮問機関みたいにして、事件当時はかけずり回っていたが、
このほか高山久藏、宇野信次郎君等をして日本労働組合総連合 及び新日本海員組合をこれに合流せんとしたのだ。
だから民間側の事件参加者ということですかね。
大蔵  北、西田の諮問機関ではないだろう。諮問機関というほど深入りしていなかったはずだ。
安井  私は東京警備参謀長をしていた関係で当時は戒厳参謀長になったわけです。
迫水  私はやられた方で、官職は内閣総理大臣秘書官でした。岡田首相の救出に命をちぢめた者です。
岡田  私は当時総理大臣をしていて、直接襲撃に遭い、あぶなく命をおとすところでした。
迫水  これまで、やられた方はいろいろ ものを書いたりして、こういう風にやられたと、
やられた事実だけは発表しているわけだね。
やった方は、主たる人は死刑になって もういなくなっているのだが、やった方の立場から、話を伺いたい。
大蔵さんあたりから話を始めてもらうのだなあ。
私などは二・二六事件がすんだ後で、やられる方は辛いから今度何かあったら やる方に回ったらよいとつくづく思った。
蹶起の目的は暗殺か?
大蔵  今思い出すと 頗る不可思議なことばかりですよ・・・・。
ちょうど私が転任命令を受けたのが昭和十年十二月だ。
それまでは戸山学校の教官をしておったが、その時の東京の状勢は相沢事件に対して公判闘争一本で進むのだという方針だったですよ。
相沢公判によって社会の状勢・・・・と言いますかね・・・・これを展開していこうというのです。
その当時から栗原、磯部の両名が非常に過激なことを言っておったので、私は二人に会って、
「 起こすのは後でよいじゃないか。どうせ、やらんならんと思うが、慌てなくてもよいだろう 」
と 言い聞かせ、納得させて任地へ発ったのです。
安井  それはいつですか?
大蔵  昭和十年の十二月です。
私があの事件を全然知らなかったという事は当時私達を取り調べた法務官は頭から信じようとしないのです。
迫水  それでは一体、誰が計画したのか・・・・。
大蔵  そこなんです。私自身は、さっき述べたようなつもりで朝鮮に行った。
迫水  「 どうせ、やらんならんけども 」 という言葉があったが、どうせ、やらんならんという本体があったわけですね。
その本体を誰が、どうして目をつけたのか・・・・。
大蔵  その本体をどこにもって行くかといえば 当時のあらゆる状勢を綜合した雰囲気です。
所謂 青年将校の間にあった 已むに止まれぬ気合です。
古賀  青年将校の気持は、ただ君側の奸を除くという、客観的にいえば非常に抽象的で、主観的にいえば精神的なもので動かされている。
後をどうするという計画は何もない。
迫水  すると最初の計画は、要するに総理大臣など老人連を一遍に殺そうというのか。
古賀  そうして維新を断行しよう・・・・維新というのは戒厳司令部が出来て、偉い人が出てきて事態を収拾し、
吾々の要望を容れてくれるだろうと・・・・。
迫水  青年将校の目的は暗殺だね。
古賀  結局そうなるかもしれぬが 暗殺は手段で、維新のための戒厳が目的だ。
戒厳は自分達の力によって布かれたということなんです。
戒厳令が布かれた日に 西田の使いが得意になっていた。
私は当時 加藤、渋川などに馬鹿言え、戒厳ということで目的を達したなどと思ってはいかんといっていたが、
こんなに実は純真なんです。
安井  その点は確かに私も認めておった。
古賀  目的はあくまでも粛軍ですよ。いわば日本の建て直しです。
迫水  どういう恰好のものを作ろうとしたのかね。
大蔵  磯部は、北一輝の例の 『 日本改造法案 』 をテーブルの上に叩きつけて 「 これでやるのだ 」 と 言ったそうです。
古賀  磯部を中心とする青年将校の気持がそこにあることはわかる。
が、本を投げたというのは私は聞いていない。
しかし事態収拾をどうするかという時は台湾の柳川平助を呼んで事態収拾を頼みたい、
吾々は意見は何もないと言ったそうです。
これを聞いて私は憤慨して、「 台湾の柳川を呼んで間に合うか 」 と言ったら、
西田税は、「 青年将校がそう言っている。台湾の柳川さんに事態収拾を頼んだと言っていた 」 と 言うのです。
でも、それはあくまで青年将校の希望だったに過ぎないようです。
岡田  それで大体わかった。
当時私の総理大臣としての方針は、だんだん勢いがつきつつあった、右翼的な、独裁的な機運をおさえて、
憲法政治を確保してゆこうというのだったから、今の話の人たちから見れば、君側の奸だったろう。
それに真崎を陸軍の中心から遠ざけた当の林は、私の閣僚だったから、
真崎の崇拝者から見れば、まさに敵の一味だったかもしれない。
だから私は総理大臣をお引き受けしたときから、暴力行為のあることは覚悟していた。
すぐ前に犬養さんのときの五・一五事件の例もあるからね。
相沢事件の裁判が始まった頃から、その情勢は一層はっきりしてきたから、
警察はもちろん、まわりの者も非常に気を配っていたようだ。
しかし、いくら探って見ても、三月事件や十月事件のように、陸軍の首脳部や、
幕僚が組織的に動いている様子はなかったので、やはり何か事件が起るにしても、
五・一五事件のような、青年将校や右翼浪人などを中心とする、暴挙だろうと判断していたわけだ。
それが実際には軍隊が動いた。
軍隊が動いてみると、人々の感じは全く違ったものになってしまった。
事件の中心人物は?
安井 軍上層部の工作として山口一太郎、亀川哲也が、真崎、山本英輔さんに働きかけた。
西田は小笠原長生さんに働きかけ、野中は軍隊指揮をやる、と 漠然と決めておったらしいが、
軍隊を指揮したのは実際は村中ではないか・・・・どうだね。一番古いしね。
大蔵  一番古いのは野中です。野中は三十六期、村中は三十七期です。
安井  そうかなあ。
大蔵  しかし、事実上の指揮は村中が・・・・。
安井  すくなくとも参謀長格だなあ。
大蔵  野中は安藤の友情において飛出したという形でしょうね。通常会合のときは、野中はほとんど姿を見せなかった。
岡田  話に出ている村中、磯部というのは
私が総理大臣になった年 ( 昭和九年 ) の十一月に起った士官学校を中心とした事件の関係者だと思うが、
ある人たちに言わせると、あの事件は、真崎を退けるために陰謀的に、誇大化された、いわば捏造されたものだというものもある。
私は事の真相は知らないが、この二人は、その事件で退官してから、あるいは正義のために戦うという気持ちからか、
あるいはまた、毒食わば皿までという気持ちなのか、粛軍に関する意見書などを頒布していろいろ動いたようだ。
内閣でもこの二人の行動は ほってはおけぬと思って、林にも度々注意していたが、
二・二六事件の誘発に、この二人が相当な影響を与えたことは、事実だろうと思っている。
安井  二・二六事件の時に一番根強かったのは栗原という感じがしたがどうかな。
大蔵  後でいろいろ話をききますと、やはり、最後まで・・・・といういき方をとったのは安藤らしいですね。
安井  栗原のところにちょいちょい会合しておる。
二・二六事件決行の前、二十二日に集まっておる。栗原、香田、安藤、村中、そんな連中です。
古賀  二十四日にも集まった。
安井  二十三日に栗原が豊橋に飛んだ。
大蔵  だが、私等としては、なぜ早急にやらねばならなくなったか、彼等の心中が想像つかない。
当時の状勢からいえば、相沢公判で充分転換出来ると思っていたのに、その方針を一擲してあの挙に出たことは目に見えない、
勿論 青年将校の知らない策謀の手が動いたのではないかと思われる。
そう思わなければ解釈出来ないという不思議さが今でも もやもやしている。
先ず 栗原、磯部が急先鋒で村中がこれに同意し、それから香田が同意し、一番最後に安藤が同意したという順序でしょう。
そこでこれは西田税の奥さんの話ですが、あの事件の一週間前に皆が西田さんの家にやってきて
「 事態はここに至ったならば貴方も決心しろ。もししなければ貴方を殺し、貴方の屍を乗り越えて行くのだ 」
という強硬なことを言っている。それは一週間前だった。
安井  第一師団がいよいよ満洲に行かなければならなくなってきた。
そのため同志がだんだん崩れそうになった。
もう一つは 相沢の公判の絶頂ともいうべき時期が今だ。
こういうことで二十六日にやるということに決めておったようだ。
こういうことが公判廷の何かにあったのだがね。それが真相ではないかねえ・・・・。
大蔵  同志がだんだん崩れそうになった、ということは絶対ない。
二・二六事件は吾々が東京を発つ時には予想しなかった。
私が任地に赴くときなんか九州に行って菅波に会い、久留米の若い連中に会って、既定方針で行くのだと伝えたくらいなのだ。
事件を起すことなど一つも連絡しておらぬ。
岡田  青年将校達の気持はよくわかるが、要するに、三月事件、十月事件の経験で幕僚達は信用出来ないというので、
今度は自分達だけで、事を起す、起してしまえば軍の上層部が自分達の信念を理解して、これを生かして、
何とか始末をつけてくれるという、確信の下にやったことだね。
そうなると事件そのものの中心人物は誰だったかということは、むしろ小さい問題で、
若い連中に今言ったような確信を持たせたのは誰だということが、重要なことになるわけだ。
さあ それは誰かな。
君達に言わせればそれは空気だということになるだろう。
私としては当時の慣習からいって軍の内部のことは、林陸相に任せておくほかはなかったのだが、
相澤事件以来の不穏な情勢も、林が処置するのを見ているほかはなかったのだ。
そうすると、陸軍のことは陸軍で解決して行く、粛軍も陸軍自らの手で行うというふうに
任せておくほかはなかったわけですか。

岡田  それはそうなんだ。
大体、陸軍内部のことは陸軍で処置するのが当然の建前なんだ。
外部からやかましく言ったところで、どうにもならぬ。
ところが、例の国体明徴問題なんかで、だんだんわかったことだが、陸軍内部が非常に下克上的な気風で、
陸軍大臣は軍務局長や軍務局の課長あたりに左右されていて、大臣は何等の力も持っていないのだ。
閣議に陸軍大臣が出席して、はっきり決めたことを、大臣が陸軍省に帰ってから、省内の若い連中から苦情を出され、
次の閣議では手のひらをひっくりかえしたな態度に出る。
それを私などが説き伏せると、やはりそうだなと、その場では承諾するのだが、
後からまた、あれは止めにしたという有様。
これは何も私の時代に始まったことではなく、満洲事変からの現象なんだが、
それを吾々としては、陸軍のことは陸軍大臣が全責任を負うて処置すべきだという大方針を貫きたいと考えていたわけだ。
陸軍大臣にさえ出来ないことが、外部の力で出来るはずはないのだからね。
それが陸軍大臣という地位自体が部内では実際の力を持たぬようなことになっていたのだから、
どうにもこうにも、手がつけられぬようなことになっていた。

北一輝、西田税と青年将校
北一輝や西田税に指導されていた事情について
安井  事件中に たとえば二月二十七日の日には
真崎大将以下、阿部大将、西大将が行って反乱軍の幹部に会って説得した際に 彼等は 「 帰順します 」 と 言っている。
二十七日の晩に村中と山本が戒厳司令部にやってきたとき、戒厳司令官の部屋で諄々と諭したら
「 それでは吾々が帰ったら、吾々が諒解さしてまとめます 」
と言って帰った。
それで二十七日の夜八時二十分に戒厳司令官は、
「 二十八日の午前中には鎮まりまするが、まあ二十八日一杯と御思召しを願います。
流血の惨を見ずに納め得る見込みが立ちました 」 と 上奏した。
すると二十八日の朝一時過ぎに近衛師団から反乱軍があちらこちらに兵力を分派していると知らせてきた。
北一輝から首相官邸の栗原に対して
「 今 お前ら腹を切るのは早いぞ、陛下のなされ方を見てからでも遅くはないぞ 」
と いろいろな激励が電話ではいってくることがわかった。
戒厳司令部では電話を傍受していたからこれは確かな事実だ。
大蔵  往々にして世間では北、西田によってやられたのだと言っておるがとんでもない。
吾々が北、西田によって煽動されるとは、侮辱だ。
岡田さんは、北、西田両氏のことをどんなにお考えですか。
岡田  北一輝という人の書いたものは、読んだことがあるし、弟の北玲吉とはつきあっていたが、
そういうことから考えて頭のよい人だったようだ。
西田税という人は全く知らない。
しかし何か右翼的の事件があると、必ずこの人達の名前が話題に出ていたから、
あの事件についても無関係だとは言えまい。
事件の中心的な立場に立ったかどうか、見方によっては違うだろうが、右翼的なものの考え方をする人々にとったは、
利用されるか、利用するのかわからないが、一つのよりどころだったろうと思う。
古賀  大蔵君の言われたように北、西田とはほとんど関係がない。
北、西田は当局が認めるかどうか別問題として、公判廷でハッキリ関係がないことを言っている。
しかし私は違う。革命派だった。
徹底的にやる組で、大蔵さんとは意見が違う。
私は徹底的にやることを北に言ってやったが、北の回答は絶対駄目だというのでした。
安井  私は、北、西田が指揮した・・・・ということは絶対言わない。
外郭から激励した・・・・という本人の言葉をハッキリ聴いておる。
もし革命、クーデターをやるのに彼等が直接参加しているとすれば、あんに拙いことはしないと思う。
北、西田の二人は、まだ事件を起してはいけないという考えであったが、青年将校が蹶起してしまったので、
もうやったからには仕方がないから頑張れというような連絡を取ったのではないですか。
古賀  うまく事態を収拾してやろうという気持ちだったようだ。
北さんの見解は滅多にさらけ出すことがないから私は言うのだが、
青年将校の一人が銃殺されたとき 天皇陛下万歳!と言って死んで行く・・・・
北が銃殺される時、西田が天皇陛下万歳を叫ぼうと言うと、そういう形式的なことは言いたくないと言ったそうです。
こういうところに北の考えが出ている。
青年将校は天皇陛下を絶対信頼していた。反乱軍の同志はことごとくそうだ。
お寺の一室にて密議を重ねる
事件の計画について語って下さい。
大蔵  昭和六年から我々は青山何丁目かのあるお寺で会合して、話をしていた。
それが発端です。
会議をやれば、やれ暗殺計画とか、どうだとかいうようですが、ここからここまで暗殺計画であって、
ここからここまでは何だというような会合ではない。
一応寄って茶話をしながら・・・・。
迫水  皆が寄ったときの状況はこういう話だというような話があると、非常に状況が髣髴とするけれども・・・・。
大蔵  たとえば内閣等で今日の閣議はこういう目的を持って会合するのだというような集合ではない。
おのずから集まったその席上で、あれはいかんぞ、情勢はこうだというような話が出て来て、
その中におのずから出来上がっていくのです。どこでどういうふうにするということはない。
ことのおこりは昭和六年の所謂十月事件の時に一応クーデターをやろうという頗る派手な行き方をとった将校がいたが、
その連中が待合なんかに集まってやっていた。
その当時、吾々青年将校の間には 「 何だ、ああいう金はどこから出るのか 」 ということで憤慨をもっておった。
これに刺戟されて吾々若い連中は何もわからないが非常に反省をしたわけです。
安井  十月事件の中心は橋本欣五郎ではないかと思うね。
迫水  一体あの時、橋本は、総理大臣に誰をかつごうとしたのだろう。
安井  荒木大将だろう。
古賀  荒木が首相、外務大臣は橋本欣五郎、内務大臣は建川、大蔵大臣は大川周明、警視総監は長勇、
海軍大臣は小林省三郎・・・・。
大蔵  それでこんな馬鹿なことはないという反省が吾々若い連中に非常に湧き上がった。
桜会とか何とかがワイワイ言っておった。
ケマルパシャがどうしたとか、ムッソリーニがどうしたとか・・・・。
そこでもっと吾々自身反省しなければならぬというので
菅波、村中、私、それから香田、安藤、栗原という手輩が主になって青年将校の集会をもった。
たしか青山の何丁目かのお寺の一室を借りて、国体はどうであるかというようなことをいろいろ研究したのです。
この十月事件というのが若い者の一つの思想的な分水嶺ですね。
迫水  お寺で会合してどうなっなったの・・・・。
大蔵  吾々独自のものでしっかりしたものをやって行こうじゃないかというのが全国の若い者の大きな賛同を得たわけです。
自ら幕僚的な行き方と、そうじゃない、俺等は 「 歩 」 でよい、「 成り歩 」 で行こうじゃないかという
この気持ちの相異がズーッと開いてしまったのです。
その間に血盟団事件がある。五・一五事件がある。
いろいろ波を打っているのですがね。
迫水  それで具体的には重臣共をやっつけて君側の奸を除く・・・・と。
大蔵  そう。日本を斯くの如き混乱せしめた原因はどこにあるか。
財界、政界、宮中の側近にあるのだ。
統帥権干犯がそこにあるし、ドル買いがある。
色々な社会的情勢がそういうものを裏付けてきたわけですね。
それがこんがらがって一つの憤激の的になったわけです。
だから君側の奸、財界の巨頭、こういうものは個人的には怨は勿論ないということは自明の理ですが、
これが日本国家を害するものであるというように結論づけられてくる。
だからいつどういう計画を立てたというまとまったものはない。

次頁、残った者 ・ それぞれの想い (二) 「 昭和維新に賛成して下さい 」  へ続く

改造/S ・26 ・2
座談会  『 二・二六事件の謎を解く 』 から
目撃者が語る昭和史 第4巻 2 ・26事件  新人物往来社


殘った者 ・ それぞれの想い (二) 「 昭和維新に賛成して下さい 」

2020年12月20日 14時50分33秒 | 後に殘りし者


       
元陸軍大尉  大蔵栄一
民間側参加者  古賀 斌
元戒厳参謀長  安井藤治
元総理秘書官  迫水久常
元総理大臣  岡田啓介

前頁 残った者 ・ それぞれの想い (一) 「 指揮したのは村中 」   の続き

陸軍内部の派閥闘争
皇道派、統制派について
大蔵  分かれたのは十月事件でしょう・・・・。
古賀  昭和六年の三月事件かに満洲事変をはさんで、十月事件と続いているが、
三月事件までは所謂青年将校派も幕僚派も大体一緒だった。
ところが十月事件となると青年将校はハッキリ度外視された。
大蔵  もっと遡ると天保銭組 ( 陸大卒組 ) と無天保組とが挙げられる。
もう一つ遡ると長州閥、薩摩閥という藩閥になってくる。
簡単にいえば統制派というのは参謀肩章で中央の幕僚を中心にしたもので、それに一部の青年将校がくっついている。
皇道派というのは藩閥に反旗を翻した荒木、真崎等を中心として一応構成が成り立ったのです。
古賀  昭和九年に西田の書いた物に、統制派のことをファッショ派と言い、皇道派を国体原理派と言っている。
ファッショ派は現実の政治、経済、社会機構の矛盾、欠陥を直接ついて これが改革を行わんとするに対し、
皇道派は国家、社会の欠陥は国体の原理を歪曲するところに発すると認識する。
従って革新政策は悉く国体原理に出発するというべきだ。
岡田  陸軍に統制派と皇道派というのがあったことは、その頃喧しく言われていたが、
なるほど大蔵君などの言うように、系統をたてて分析していけば、色々因縁もあり難しいことになるだろうが、
要するに皇道派というのは、殊更に国体とか、天皇とか、統帥権とかいうことを言い立てて 荒木、真崎を中心人物として押し立て、
これを崇拝する一群、
統制派というのは、これに対抗する一派で、いわば、永田鉄山が軍務局長になってから、形が出来たものじゃないかな。
林は永田の献策ばかりで動いていたようだが、一応統制派の最高人物だったというわけだろう。
大勢の大将たち、その他の高級幕僚はどちらにもつかずというところで、
国体とか、天皇とかいうことを、理論的に話すときになると皇道派の言うのと同じようなことになるが、
さて実際上、真崎、荒木を中心として、動くかというと、そうでもなく、
時の陸軍大臣のすることに順応するという按配だったと思う。
だから誇張して言えば、陸軍の指導力というか、指導的立場に立つ地位の争奪のための争いといってよいように思う。
もちろん、青年将校は、この実際の内容などには頓着なく、抽象的な国体護持、君側の奸を除くというような、
精神的な気持で動いたのだが、永田が殺されても、そのあとにきたものは、自分達が同じ思想の持ち主として崇拝している先輩ではなし、
林の次には川島が出て来るといった按配で、自分達の心持を実現する手づるがつかまれないのに焦慮して、
事を起したのだと思っている。
林のあとに真崎でも出て来ていたら、二・二六事件など起らなかったかも知れんが、
そのとき陸軍内部に上層部の空気は荒木、真崎の系統を推し立てるようなものでなかったのだね。
林陸相解任の後、陸軍から もし所謂皇道派の人を推薦してきたら、岡田さんはどうされましたか
岡田  どうも今からそういわれても、はっきり答えられないが、恐らく私は、それを受諾したと思う。
しかし結果からみて 二・二六事件以後皇道派の人達は失脚してしまって、陸軍はいわば統制派一本になったのだが、
その後 太平洋戦争までの行跡を見ると、その当時、皇道派の連中が考えていた以上の政治問題だから、
実はどちらにしても同じことだったと思うよ。
陸軍大臣は、皇道派でも統制派でもかまわなかったという点がちょっと合点が行きませんが
岡田  なあに、皇道派とか統制派とか、喧しいことを言っても、本当は陸軍の膨大な機密費の取り合いさ。
その頃 陸軍の機密費は百万円。海軍は二十万円くらいだったかな。
その機密費をどちらが握るかという派閥の争いだよ。難しいことを言っても、本当はそうなんだ。
私としてはそんなことではなくて、陸軍を本来の建軍の建前に戻す、それがための粛軍ということが年頭であって、
やれ何派と何派というふうに派閥の争いとして考えて行きたくはなかったんだ。
林が真崎に詰め腹を切らせたことだって、事前に私にこうするからという諒解をもとめてのことだが、
あれも一に粛軍という大きな考え方でやったことで、派閥がどうこういう考え方は全然なかった。
それでなければあんなことが出来る筈ないじゃないか。
古賀  岡田さんは陸軍の派閥争いは結局機密費の取り合いさ、と言われるが、そんな簡単なものではなかったと思う。
私は もし皇道派が天下をとっていれば、太平洋戦争は別なものになっていたと今も信じている。
・・・座談会が催された当時、父は起居不自由でこの座談会に出席していないはずです。
多分迫水が編集者の希望をいれて父が出席したように父の発言を書いて渡したものと想像します。
従って 下線部分の発言を削って頂きたいと思います・・・岡田良寛

青年将校は煽動されたのだ
古賀  話は変るが、三月事件から十月事件、それから神兵隊事件は幕僚ファッショ派の仕事だ。
幕僚ファッショ派が政権を取ろうとしてやったことなのです。
迫水  幕僚というと一応、橋本欣五郎を中心とした一派を表徴とするものですか。
安井  東条や重森大佐も関係しておったようです。
古賀  宇垣、建川、小磯、東条、野田などが皆関係がある。私の言う幕僚ファッショというのは皆この人達です。
その当時の幕僚派は政治には関与しなかったのです。
軍の政治関与が始まったのは三月事件以来でした。
この軍の政治関与が行われて来たということが統帥権問題とからみあった非常に重要な問題になってくる。
統帥権が独立しているということは軍は政治に関与しないということが前提であるにも拘らず、
現実において斯くの如く行われてきた。
しかも一方、統帥権はロンドン会議で干犯された。
真崎の教育総監更迭でまた干犯された。
純粋の明治以来の建軍の本旨が三月事件以来、乱れて来ているということが言える。
そこで これではならぬということが革新青年将校の中に生れて来た。
さっき言った粛軍を断行しなければならぬということになってきた。
迫水  たとえば政治関与をしたがるような幕僚を排撃するわけですな。
古賀  そうです。
迫水  二・二六事件の青年将校の考えは幕僚派も排撃するという気持ちだったのか。
大蔵  そうです。参謀総長等をやっつけろというのです。
古賀  この粛軍がある程度、断行された時がある。荒木がやめて林銑十郎が陸軍大臣になったときにね。
その結果 後退したのは宇垣、小磯です。
反対派の将校はパンフレットまで発行して各停車場で売り出した。
「 こういう有望な人間を地方に出して、これで陸軍の建て直しはよいのか 」
ということを書いてね。
当時の根本新聞班長などは新聞社の政治部長に相当の金を出していた。
大体、東京日日、朝日、読売などに一人あたり五百円から三千円の金を撒いている。
それは何年頃ですか。
大蔵  昭和七年です。五・一五事件の後です。
事件は当時陸軍を牛耳った統制派に対する皇道派の戦いでもあったと思うが・・・・。
迫水  起った者は所謂皇道派だろう。後から彼等を起たざるを得ざるに至らしめたのは統制派だということは言えるでしょう・・・・。
古賀  そりゃあそうです。
青年将校が蹶起するだろうというので、それで十月事件を中心として青年将校を圧迫することが実に激しくなった。
中国人の金まで費って圧迫したものだ。
私は中国人が二人、統制派に金を送っておった事実を知っている。
台湾の中国人です。一万円ずつ送っておる。
台湾銀行なども統制派に青年将校弾圧資金として年五千円ずつ送っておる。
迫水  僕はなぜそういうことを言うかというと、二・二六事件によって一つの空気が出せたと言っておりますね。
軍のご機嫌を損なうと血を見るぞという。
その空気を極度に利用し誇張したのは当時の統制派なのです。
その連中が利用したのか、あるいは最初からそういうことを計画的にやったのかという疑問を私は持つのです。
安井  計画的なら、あれだけ検索したのだから証拠が出そうなものだが出なかった。
大蔵  よく幕僚連中が 「 俺達が収拾してやる 」 ということを言っていた。
おそらくこういう事態が起ったら、それをこういうふうに利用していこう。
又 一面或程度起るように仕向けて行ったのではないか。
彼等の利用癖は相当なものだったからな。
安井  随分、念入りな話だな。でも、彼を利用したといえば、たしかに利用したということはあるな。
いままでの話ですと、青年将校は結局、橋本、東条などの幕僚に煽動されたといったことのようですが、
岡田さんは その点はどうお考えですか。
岡田  どうもそのへんは、まわりくどくて私にはよくわからん。

待望の戒厳令布かる
安井  迫水さん・・・・岡田さんが存命だとわかったのは・・・・。
迫水  当日の午前八時か九時頃です。内閣閣僚が知ったのは翌二十七日午後六時頃です。
私が松尾の死体を角筈の岡田の私邸に持って行ったのがその日の五時頃です。
初めて事件が起ったと知った時は如何でしたか。
岡田  二月二十六日未明に襲撃を受けたときは、銃声で目がさめたのか、松尾が来て起されたのか、
よく覚えていないが、ともかく、やはりやってきたかと思ったよ。
兵隊が何百人もやってきたと聞いた時は、そんなにやってきたのではどうにもならん、と 思ったよ。
ところが思いもかけず、取り残されてしまって、女中どもに出会い、押入の中に納まってからは、
事の運びのままに任せることにした。
その押入のある部屋は、官邸の裏門に一番近く、外部の情況を察知するのに一番都合がよかったし、
女中どもがしっかりしていたし、外部からは、岡田、迫水のところから連絡はつくしするので、
まず悠々としていたよ。
いびきをかいて寝込んで女中を困らせたりしてね。
女中も狸寝入りをして私にあわせていびきをかいて誤魔化したというのだが・・・・。
押入の中でどういうことをお考えになりましたか。
岡田  どういうことを考えたかといって、別に、系統立てていうほどのことは、考えません。
やっぱり一番考えたのは陛下のことだな。
宮中はどうなったかと御案じし、申し訳ないことだと心から安泰を祈った。
陸軍の非道に対しては心の底から憤りを覚えたことも確かだ。
総理大臣の職をやめなければならないことはむしろ考えずに、官邸からの脱出したときは、
この事件の機会を活用して陸軍の政治関与を一挙に阻止する方法があるんじゃないかと考えたものだ。
しかし君達若い人達が今になって理詰めに、そのときのことを分析しようとしても、
老人の私にそれを求めるのは無理だよ。
安井さんは鎮圧の中心にたたねばならなかっただけに苦労なさったでしょうね。
安井  私が当時一番苦労したのは何かというと、先ず流血の惨を見ないで鎮めるということだ。
一方、なぜ討伐しないかという意見も出て来る。
けれども流血の惨を見たら徴兵令が崩れ服従の道が守れなくなる。
すると日本の軍隊はあっても無きが如し。
ただ身内から毒が出ておるから、どれだけ身内に回っておるかわからない。
もう一つ苦労したことは戒厳というものは厳正公平にやっていかなければならぬ。
苟も政治的な色を加味するとか、あるいは裁判の内容に立ち入るということは絶対やってはいけない。
平時なら軍の関係などに掣肘せいちゅうされているが戒厳令下にあっては正しい事は遠慮なくやっていける。
それから大蔵君を前にして何だが・・・・各地に連絡しておる同志があった。
末松が青森に、菅波が鹿児島におるというように・・・・。
殊に関東軍は満洲で勢いがあるから関東軍はどうだろうと思った。
これは杞憂ではない。
陸軍大臣の官邸に行って蹶起の趣旨を突きつけて、昭和維新を断行して下さい・・・・と言った時、
満洲においても軍司令官を倒し、朝鮮においては朝鮮軍司令官と総督を倒すという計画になっておった。
そういうわけだから流血の惨を見ない為には、とにかく興奮状態を避けるために説得するには時間を要する。
それから、海軍とぶつかりはしないかと心配したね。
ことに岡田総理をはじめ斎藤実、鈴木侍従長と海軍の長老を三人も倒しておる。
 
しかも海軍は逸早く陸戦隊五千人を海軍省警備のために上陸させた。
第一、第二艦隊を東京湾に集めるという空気だった。
これはしかし無理からぬことだ。
海軍としては陸軍を敵に回しても反乱軍を鎮めるという空気になるかも知れないということが気になり出した。
ただ私は帰順せしめるという見込みがあると思ったことは直感的に二つある。
その一つは あの朝、厳戒東京警備司令部に行ったのは六時半でしたが、その時始めて安藤に会った。
司令部の衛門の前におった兵が十名ばかり銃剣をもって私を取り巻いて
蹶起の趣意書を出して、どうか維新革命に賛成して下さいというので、
「 何だお前等は 」 と怒鳴ると初年兵がびっくりして ハッ と言っておるところに安藤が来て、
蹶起の趣意書を出して昭和維新断行に賛成して頂きたいと言ったのです。
とにかく司令部に入れと言った。
すると 「 他に用があります 」 と言って私に敬礼をして半蔵門に飛んで行った。
その姿はいかにも純真で、悪戯とた生徒が先生に叱られて逃げて行く様な恰好だった。
こりゃ吾々が言うたら聞くなという感じがした。
その次にもう一つ感じたことは、どうも指揮統一がないように思える。
殺すだけのことについては計画したが後をどうしようという計画などもっておらぬのだ。
ただ戒厳を布いてくれ、戒厳を布くことが自分等の目的を達する第一段階だと思っておったらしい。
吾々からいえば 戒厳を布くことは彼等をとっちめることなんだ。
その証拠には青年将校が陸軍大臣に二十六日のうちに戒厳を布いてくれと申込んでいる。
二十六日にはすでに三宅坂の東京警備司令部は取り巻かれている。

戒厳令を出すか出さぬかということが大問題となったが、ついに二十七日の朝、戒厳令が布かれた。
新井戒厳参謀が安藤に向かって鉄門を隔てて
「 戒厳令が布かれた。お前等の希望する戒厳令が布かれたのだが、ここでは仕事が出来ないから、
九段の軍人会館に行くが通せ 」 と言うと 「 よろしうございます 」 というので、
二十七日の朝、私達は出ていったが、その時も戒厳司令官に対して、何等反感を持っておらなかった。
味方というとおかしいが自分等の同情者であるくらいに考えておったようだ。
古賀  そうです。
安井  それで私等が言えば興奮がとけて帰順する見込みがあると思っておった。
古賀  今のお話を聞けば安井さんが敵の参謀長であったことは残念なんですなあ。
私が考えているちょうど裏をいっていたのです、貴方は・・・・。
私は当時、都内を視察して歩いて包囲部隊を訪ねて聞いてみた。
そうすると皇軍は相撃つことは出来ないから、いよいよ爆発すれば鉄砲は空に向かって放つほかはないと言うのです。
それで包囲軍の方は戦意がないと見た。
二個連隊を、私は各所に回って歩いたのです。
こっちは事件を起したのですから、やる気をもって撃ち合えばどうなるだろう・・・・。
戒厳司令部は治安維持に任ずるのだが、こっちが強く出て行けば政府軍は屈服するということが私の考えに浮かんだ。
ところが事実に反したというのは、期待した激励もなく統一も全然なかったことです。
安井  初めは戒厳令を布くということは後藤内相が非常に反対した。
それは戒厳令を布いて軍が勝手な事をしたら・・・・と 疑っておった。

問題の大臣告示と奉勅命令
大蔵  私が牢屋に居った時、ちょうど目の前に中橋基明中尉がおったが、監視の目を盗んで指で通信をやった。
私はこういう問題をだしたのです。
大命に抗してまでも、なぜお前達は頑張ったのか・・・・という指の通信です。
その答えを総合すると 「 最後まで知らないのだ 」 というのです。
先ず 炊き出しがあった。
戒厳令のもとに麹町地区を警備せよという命令であるというのです。
安井  それは無理からぬことだ。
最初は蹶起部隊、次が出動部隊、次が占拠部隊、いよいよ二十九日に初めて反乱軍と言った。
それまでに帰順するようにと、彼等の精神状態をつないでおいて説得するために、
彼等をして討伐を受けることはないという考えを抱かせるためである。
ある文書に反逆者という文字があったが、私はこれには絶対反対した。
古賀  そうするとお聞きしたいのは陸軍大臣の告示というものが三カ条にわたってある。
あれはなんです。月日もないし署名もない。
安井  電話で私が受けたのです。
戒厳司令官自ら宮中へ行ったのが二十六日の正午頃。勿論参議官も戒厳司令官も通れない。
山下奉文なら通すというので山下少将を電話で呼んで司令部に来てもらって戒厳司令官と一緒に自動車で宮中に行った。
宮中に軍事参議官が皆集っていた。
阿部信行大将が 「 軍事参議官の決議が出来た。こういうことを伝えてくれ 」 というので、
川島陸相が 「 それは陸軍大臣から言うことである 」 というので 司令官が自分で手帳に書いて電話をかけた。
それで私は福島参謀を呼んで 「 お前、私の言うことを書け 」 と言って、福島に書かせて全文が出来てから復誦した。
その第二項が問題となったのです。

「 諸子の行動は諒とする 」 という文句ですね。
それを反乱軍に伝えてくれと言うので、印刷して叛乱軍にやった。
すると後で 「 とんでもないことを出した 『 行動を諒とすると 』 と、行動を是認するようなことはいかん 」 と 言った。
そうかなるほどそう言えば 「 行動 」 というのは穏当ではない。
けれども今更 「 行動 」 とあるのは 「 真意 」 だと訂正すると判らな軍は、軍政当局の考えが前と変わったといって騒ぐから、
まあいいじゃないか、責任はこっちが取ると言うと、また電話がきて是非取り消してくれと言うのです。
つづいて次官通牒で文書がきた。
しかし、その文書はいろいろと探究したところ、誰が書いたのかわからない。
誰があの文を作り、戒厳司令官に伝え、戒厳司令官が電話で伝えた時 どこで間違ったか、その間にやはり作為がある。
古賀  あなたの電話には完全に入ってきたわけですか。
安井  そうです。香椎さんが行った時ちゃんと出来ていたというのです。
それで軍事参議官の名で出すのはおかしいから、私の名で出すと陸相がいうのです。
それを山下か、香椎さんが受継ぎを誤ったかな・・・・。
古賀  それから蹶起部隊の行動が悪いのだったら、何故に司令部では叛乱軍を第一聯隊に編入したのか。
安井  確かに奉勅命令が出る前から小藤部隊長に、あの部隊を指揮しろと命令が出ている。
奉勅命令が出たのは二十八日午前五時。
古賀  警備地区は、麹町地区ですか。
安井  戦時警備というのは軍だけでやるので戒厳とは違う。
三宅坂附近には兵を一箇小隊しか置けないのです。そこで一箇小隊だけ置いて、後はまとめて返せというように命令した。
古賀  本当に奉勅命令は出たのですか。
安井  出たのです。参謀本部で用意したのが二十六日です。
二十七日に陛下に明日帰順しますと上奏した。ところが二十八日午前一時から行動が怪しくなった。
それで参謀総長が二十八日午前五時頃に伝宣せられたのです。
古賀  これはどんな経路で蹶起部隊に伝えたか。
安井  それは第一師団長を経て出したのと、

奉勅命令で 「 戒厳司令官は三宅坂附近を占拠する将兵をして速やかに各々所属部隊に復帰せしむべし 」 というのと、
戒厳司令官として第一師団長に 「 戒厳司令官は速やかに三宅坂附近を占拠している部隊を帰還せしめ、
将兵を第一師団司令部附近に集合せしむべし 」 という命令です。
それで実際、奉勅命令を第一師団長に渡した。
「 この命令を貸す 」 といって貸した。その貸したものが第一師団長が又 小藤にも奉勅命令の本物を貸し与えている。
古賀  もう一つ聞きたい。何のために包囲部隊を出したのか・・・・。
安井  包囲部隊は最初出ておりませぬ。
あれは二十七、八日から非常に厳密に警戒しました。
それは大官連中を殺して朝日新聞社を襲撃した。革命計画では放送局、水道水源、電源を破壊するという事はあり得る。
しかも、こちらの命令を全幅的に承服しているのではない。
しかも統一的な反乱行動をしておるのではないから、どういうものが飛出すかわからない。
それで戦時警備に必要な準備は全部やる。
それから愈々二十七日に鎮まりそうだという見通しがついた時、ずっと警備を緩めた。
すると二十七日の夜中過ぎから、又動き出したというので厳密に網を張った。
あなたは ( 古賀氏に) 厳密に通路を阻むために兵を出したと思っておるかも知れないが・・・・。
古賀  いや、私は各地から東京へ出動させた兵力、たとえば何時に新宿には何個部隊が着いたというような、
状況から戒厳軍の配備まですっかり報告でわかっていました。
東部占拠部隊以外に情報蒐集の網を張っていたわけですか。
古賀  そりゃそうですよ。革命をやろうというのに・・・・。
反乱部隊はもう少し積極的な行動に出る考えはなかったのですか。
安井  それが戒厳令を布かれたために・・・・。
古賀  すっかり信じ切ってしまった。それに奉勅命令が出てみんなが頭を下げたわけです。
しかも最初は戒厳部隊に編入されたのですから官軍です。
その後奉勅命令を信じて平静になったものを殺すというのはどういうものですか。
安井  判決文は反乱の首魁謀議参与というのが主文です。
統帥権を乱用して、何も知らない部下を率いて、重臣を殺したのだからね。
古賀  青年将校は奉勅命令に降伏した。 実際純忠無私の人達です。
安井さんは兵隊は同志でないと言うけれども、同志です。
今日でさえ私の近所では魚屋さんも八百屋も私が二・二六事件の関係者であるというので一割安い。
どうしても説得できない場合、どうするつもりでしたか。
安井  彼等が最後にたてこもるのは当然新築されたばかりの議事堂だと思ったのです。
議事堂にたてこもった時はどうするかということです。
毒瓦斯が非常によいということになってたが、それには防毒面をもっておる。
その時は赤筒は防げるが緑筒は防げない。しかし生命は異常がないから、それを焚こうというのです。
ところが風向きがむずかしい。それで戦車を出して反乱軍の幹部を狙い撃ちしてしまうという手段でやったのですが、
重砲まで準備しました。
議事堂を射つ、射たぬということは重大問題です。
要するに反乱軍が未然だったからこそ そこまでゆかずにすんだ。
首謀者野中大尉は他殺か?
大蔵  こういうことがある。
私が牢の中にいたとき、野中大尉は自殺をしたが、なぜお前等は自殺しないのだという質問を出したのです。
すると中橋答えて 「 野中大尉は自殺していない 」 と言うのです。
まさに自殺しようとする時、一堂に集まって盛んに甲論乙駁しておった。
それを最も強硬に止めておったのは野中であったと言うのです。
絶対、自殺はいかん、吾々は斯くの如く騙されておるのではないか。
そこでこれを法廷において明らかにする使命をもっておる。
自殺は誰も相成らぬと言って強硬に突っ張ったのが野中であるというのです。
ちょうどそういう話の途中で 「 野中ちょっとこい 」 と 呼出したというのです。
呼出したのは山下、長屋、井出の三聯隊長の名前で呼び出したというのです。
あれだけ止めておった野中が自殺する筈がない。これは他殺である。殺されているのだと言うのです。
その事実はわからないけれども、死んでいった彼等はすくなくもそう思いながら死んでいっておる。
安井  そこまではわからないけれども二十九日の正午、全部反乱軍将校が集まっておるからというので陸相官邸に行った。
その時は岡村寧次と山下奉文とがおりました。
岡村も山下も反乱部隊の元の聯隊長をやっておったし叛乱将校とは関係が深い。
長屋少佐のことは知らぬ。
それで山下が私に 「 武士の情を考えてやれよ 」 と 言うから、それはそうだ、その通りだと言ったのです。
山下は 「 今、皆が自決すると言っておるのだ 」 と言う。
憲兵にきくと 「 武器は取上げてある 」 と言う。
そこで私は 「 将校なんだからちゃんと武器を与えて置いてよいぞ 」 と言って帰って来た。
大蔵  武器を渡したわけですね。
安井  私の命令が実行されれば渡してある筈です。
そうすると三時頃、山下が戒厳司令部にやって来た。ちょっと陸相官邸に来てくれと言うのです。
私は二十八日に青年将校に騙されている。
・・・・二十九日もまた暗くなると外部とどういう連絡をするかわからない。
古賀さんのようなのがおるからね。
それで何とか処置しなければならぬ。憲兵の方ではとにかく明るい内に名にとかしなければならぬというのです。
山下と憲兵の矢野少将と私が行こうとすると、石原莞爾参謀が参謀長ちょっと待ってくれ、
あんたはこのままにしておってくれと言うのです。
それで逮捕状は君に渡すから、山下、矢野両少将と共に行け、私が昼頃行った時自決すると言っておったが、
ヒゲを剃らなければならぬとか、お湯には入らなければならぬとか言っておったが、とにかく君が現場に行って様子を見て来い、
と言って逮捕命令を出した。
その時、逮捕する前に、野中だけは自殺したというのです。
だから心理状態が冷静であるべきはずであるが、中々そうもいかなかったのではないかな。
大蔵  すくなくとも死んでいった中橋だけは絶対に私にそうであると言っておった。
安井  野中だけは自分が全責任を負うて始末したいという気持ちがあったらしいね。

改造/S ・26 ・2
座談会  『 二・二六事件の謎を解く 』 から
目撃者が語る昭和史 第4巻 2 ・26事件  新人物往来社


ある日より 現神は人間となりたまひ

2020年12月19日 14時44分08秒 | 後に殘りし者

 

昭和二十一年の元旦
「 新日本建設に関する詔書 」 という記事が掲載されており、
読みにくい官報発表記事を幾度か読み返した。
・・・
ポツダム宣言受諾のラジオ放送を耳にしたあの暑い夏からわずかまだ四ヶ月だった。
いったい占領軍は何をしようとしているのか、
天皇の身の安全は保障されているのか、
田舎にいては皆目 見当もつかないところへもってきて、元旦からこの発表だ。
史 が目を通した天皇の詔書の前半は、
明治天皇が国是と決めた五箇条の御誓文を紹介し、
天皇自身が誓いも新たに新日本の建設を願う心構えが述べられていた。
驚かされたのはその後に続く文章だった。
「 然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ有リ、
常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。
朕 ト 爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、
終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、
単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。
天皇 ヲ以テ
現御神トシ、
且 日本国民を以テ
他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、
延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス
トノ 架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ 」
史 はさっそく池田町にいる父に手紙を認めた。
「 天皇は国民と共にあって、利害を同じくするのだそうです。
お互いは信頼と敬愛の絆で結ばれていて、
それは神話や伝説に基づくものではないと仰せられています。
天皇のことを神と考えたり、
日本民族が多民族より優秀だと考えて
世界を支配する運命を持っている
といったことは 架空の観念だとおっしゃっております
父上様、
陛下は現御神、つまり現人神、であられることさえも否定されたのです。
史 には到底理解が及びません。」
・・・
瀏は何も答えなかった。

白きうさぎ 雪の山より出て来て
           殺されたれば 眼を開き居り  
・・・齋藤 史 昭和二十三年

昭和二十四年春のこと
「 陛下の人間宣言を栗原たちが聞かないでよかったなあ 」
それが毎日の口癖のようになった。
史 にしても思いは変わらない。
戦地に行って死んだ兵隊さんも、青年将校も ああおっしゃられてはねえ、立つ瀬がないわよ、
と父に相槌を打つのだが、それさえもまたむなしさがこみ上げてくる。
したがって、みんな黙って口を利くのが億劫になる。
・・・・・・・・・・・・
「でもな、俺はあれでよかったと思う。
我々がやったことは確かに不合理なことだった。
陛下が二十七日に本庄におっしゃった有名な御言葉があっただろう。

朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ

お前も覚えておるだろう。
確かに陛下は股肱を殺されたとお考えあそばされた。
だがな、陛下からご覧になれば股肱でも、我々から見れば君側の奸だった。
陛下のお考えは極めて理にかなつたことだったと俺は思う。
だから、合理と不合理のぶつかり合いを起こしたのさ。
維新なんてものは、合理じゃ片付かんよ。
勝つことを計算しない、後の人事も見返りも考えないのだから不合理な行動さ。
だからよかったんだ」
こんどは 史 が何も答えられなかった。
縁側に座って遠い過去の不合理な行動を思い起こし、
うなずいている父の背中を 史 はながめていた。
そして、天皇に見捨てられた栗原たちを、
父だけは見捨てていないことを 
史 は誇らしく思っていた。

ある日より 現神は人間となりたまひ
        年号長く 長く続ける昭和 
・・・齋藤 史 昭和五十九年

昭和維新の朝(あした) 工藤美代子著 から


野の中に すがたゆたけき 一樹あり  風も月日も 枝に抱きて

2020年12月18日 16時58分57秒 | 後に殘りし者

野の中に すがたゆたけき 一樹あり
 風も月日も 枝に抱きて

  

  齋藤 史
平成九年一月、
史 は
宮中歌会始の召人に選定され
不自由になった足をひきずりながら
宮殿の階段に歩を進めていた。
・・・
「宮殿の大広間へ向う階段の向うの庭に
軍服の連中が並んでいるのが見えたのよ」
と、史 は語った
白い影のような青年将校たちは
兵馬俑にも似て、黙って並んでいた。
それには伏線があって、参内する前夜、
史 は
「みんな 一緒に行こうか」
って 声を掛けたというのだ。
「俺は成仏しないぞ」
と、叫んで死んでいった栗原たちの目は、
遺族が何回撫でても閉じなかったといわれている。
「今度こそ、成仏できるわよ。行くわよ、みんな、陛下の前に出られるのよ」
全員の無念を抱えた 史 は、
天皇皇后両陛下ご臨席の前で、
自分の歌が講師によってゆったりと詠われるのを聞いていた。
澄んだ声の響きが召歌を詠み進んだ。

野の中に すがたゆたけき 一樹あり
 風も月日も 枝に抱きて

「お父上は、斉藤瀏さん でしたね、軍人で・・・・」

控えの間に戻ってから、

天皇陛下から そう声を掛けられ、
「初めは軍人で、おしまいはそうではなくなりまして。おかしな男でございます」
そう答えるのが精一杯だった。
答え終わって
帰りの宮殿の庭に兵馬俑の姿は消えていた。
さっきまで確かに長靴を履いた十数人の姿が見えたはずだったが、
彼等は 史 の目からも見えなくなっていた。
「成仏したんだわ。きっと楽になれたのね」
史 は
そうひとりごちて 宮殿を後にした。

「 おかしな男です 」 といふほかなし  天皇が和にこやかに史の名を言ひませり

昭和天皇 は生涯の最後まで
二・二六事件のことを忘れることはなかったと思われる。
そして、できることならお互いに和解できたら
とどんなにか素晴らしいと思っていたのではあるまいか。
その意志を天皇は
おそらく皇太子時代の今上天皇に話されたのではないだろうか。
「陛下はその後も勉強しておられるご様子です」
と 伝えた岡野弘彦の電話からもうかがえるが、
昭和天皇が何らかの気遣いを伝え残されていたことは想像できる。

昭和天皇の細やかな気配りを示す一例が残っている。
「二・二六事件を起こした幹部のうち十五人は、その年の七月に銃殺された。
翌年八月の新盆に、
天皇は十七の盆提灯を用意させて常盤殿に吊るさせている。
処刑された十五人と、自決した二人(河野、野中の両大尉) とを加えた数になる。」
・・・昭和維新の朝  工藤美代子 著から 

齋藤史 関連
・ 齋藤史の二・二六事件 1 「 ねこまた 」
・ 齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」
斎藤史の二・二六事件 3 「 天皇陛下万歳 」
・ 
ある日より 現神は人間となりたまひ
「 栗原死すとも、維新は死せず 」 

齋藤瀏少将 「 とうとうやったぞ 」        


齋藤史の二・二六事件 1 「 ねこまた 」

2020年12月17日 06時42分08秒 | 後に殘りし者


栗原大佐の一家も退いて、同じ渋谷に住んでおり、
「 少年 」 の 彼はいつか陸軍の少尉になっていたのです。
「 少女 」 の わたくしは、
親の職業は裏がわかりすぎるのでいやだ・・などという女になっておりましたが、
親しさは別物で、ことに同年の友達というものはある時女が姉のような口をきき、
ある時は男の方が兄の顔をしたりするものでした。

栗原がまだ少尉の頃のはなしでございます。
或夜、母とわたくしとで雑談をしている時でした。
「 ねえ、おばさん。お召の丹前って、いくらくらいするもんですか 」
と 言い出すのです。
「 それは、何のはなしなの 」
母が聞き返しました。
「 鳥森の芸者がね、それをいきなり届けさせて来たんですよ。
もらっていいかどうかもわからないし、返した方がいいんですか?」
たぶん宴会か何かで知り合った・・というほどの相手らしいのです。
「 まあまあ、それはおやすくない
--」
と 母がからかうと、彼、てれました。
「 お返しをしなきゃ、わるいでしょう。弱ってんだ 」
「 突っ返すのもやぼだと思ったら、一応もらっといて、それからまた考えたら、どうなの 」
と わたくし。
「 写真もね、くれたんだ 」
「 わっ、そりゃ、いよいよ--」
「 持っているんでしょ。見せてごらん 」
と 母。
彼は名刺入れから御座敷者の写真を出してみせました。
「 ふうん。思ったほど美人じゃないね 」
と 母は遠慮しません。
「 そうかなあ。ちゃんと着物 着て出てくると、きれいに見えるんだがなあ 」
と、少し残念そうな声を出します。
わたくしが受取ってみると、ぽっちゃりとした・・つまり小またの切れ上った東京芸者とはいえない、
しろうとのような女ひとでした。
すこし男に惚れっぽいタイプ・・と 見たのは、わたくしの方がませていたのかも知れません。
それは言わず
「 やさしそうなひとじゃないの 」
と 取りなしました。
そして思ったのです。
・・自分の家では、きっと、こんなはなしは持ち出さないだろうに・・と。
ちょっと離れた者のほうが話しやすい・・そんな具合なのだな・・と。

また、わたくしが、
一応その頃の若い者のスタイルで 「 資本論 」 など持っているのを見つけまして、
「 これ、きみが読むの 」
と 念を押しましたが、そのあと、猛烈にそうした思想書を読み始める。
・・栗原の父が心配して瀏のところに相談にくるくらいでした。
でも、わたくしには解って居りました。
その頃、部下の中に先鋭な左翼の一人が兵隊として入って来たのです。
しかもこの先鋭分子が、三重県に居た頃の彼にもわたしにも同級生。
おなじように軍人の子であったのは皮肉ともいえました。

軍人以外のいろいろな世界を、彼は急速に学び取り、身につけて、
目ざましいはやさで成長してゆくのが感じられました。
部下を抱え、中尉になり、二十代のなかばを過ぎると、
いつも彼が兄の姿勢を取る場合が多くなり、
また、そのほうが、史公にもクリコにも具合がよかったのです。
たとえば、外に遊びに出たときは 「 妹です 」 と 言ってすましています。
打合わせたわけでもありませんが、
「 兄がお世話さまー」
調子を合わせてことが運びました。
そのうちにわたくしは、医者の卵である堯夫と結婚を致しました。
血は続きませんが親類(祖母てるの姪の子)でもあり、
子供の頃から知って居りましたのでございます。

ねこまた
日曜日、栗原はまるで自分の家へ帰ってくるような
「 ただいまー 」 という調子で玄関から入ってまいります。
「 堯夫さんいる?おじさんは?・・・」
ずうっと茶の間へ来るなり、
「 やあ、よかった。ひるめしに間にあった 」
自分のいつもの場所に坐って
「 おかずは?なあんだ、ねこまたかー 」
予備の軍人の家のこと、くらしはつましいもので、当時いちばん安かった塩鮭です。
猫もまたか、と またいで通る・・というくらいのもので、
「 おや、ねこまたでわるかったわねえ。いやならこっちへ御返しー 」
母がふざけてお皿を取り上げるふりをします。
「 おーっとっと。これを取られてなるものかー 」
大急ぎで引寄せて
「 史公、わらってないで、何とかしろよ。みんなの分あるのかい 」
「 あるのよ。ねこまたなら 」
「 まったく、ゆだんもすきも出来ないよ、このうちは。ねえ堯夫さん 」
茶の間の賑やかさに、呼びに行くのを待ち切れなくなった父が、自分の部屋から出て来ますと、
ちょっと形をあらためて
「 お暑うございます 」
そうしたところは、きちんとしているのでした。
「 やあ お暑う。・・なんだ、ねこまた問答かー」
「 あっ、聞えたか!」
そしてきれいに食べ終ると
「 ごちそうさま。ああうまかった 」
彼がやってくると、家内中が何となく陽気になって、笑い声でいっぱいになるのでした。
これがまた腕よりも、口マアジャン・・というほうで、勝ったり、勝たれたり、
いいよいいよ、勝たして上げますよ・・だったりです。
もちろん子供の遊びのような、
ただの点取りだけの他愛ないものなのですが、けっこう大さわぎなのでした。
彼がマアジャンを覚えたのはわたくしの家がはじめてだったのですが、
持ち前の気性でぐいぐい腕を上げました。
どこかのクラブの大会にとびこんで三等になり、
賞品もらったよ、などというので、びっくりしたものです。

お友達をさそって来ることもありました。
中橋基明
栗原と同じ佐賀県出身の、陸軍少将の次男で、のちの同志の一人ですが、
おとなしい人で、マアジャンはよく知らないからと、そばで見て居ながら、
わたくし達の口のやりとりに、笑うのでした。
しかし、そのうちに、彼の内部が、何かにとらわれてゆくのが感じられるようになったのです。
どんなに楽しそうにしていても、以前のように心から手放しにはなっていない。
むしろ、この家へ来た時だけは、自分を解放できる。
その場を求めるようでもあり、
もっとのちには、
強いてひととき何も彼も押しやって自分を休めようとする・・のを感じるようになりました。
それが解っていても、わたくしには、どうしようも無かったのでございます。

栗原の男の世界は、わたくしとは別のところに在り、
こちらも入っては行きませんでしたし、また女をさそう人でもなかったのでした。
ただ、こういうことはございました。
あるとき、突然、なにげなく、本当になにげなく、
わたくしの掌の上に小さい箱を渡そうとしました。
わたくしも何の気もなく受け取ろうとしますと、
「 ちょっと重いぞー 」
と 注意しました。
名刺の箱くらいの、それは、たしかに持ち重りがし、
蓋を開けると、びっしりとピストルの実弾が入っていたのです。
「 ----- 」
何も見なかったようにごく普通の顔でそれを彼にかえし、
彼もごく普通にそれを収めました。
それを、何処へ持っていったか、どこにあずけたか、わたくしは知りません。
聞くこともしなかったのでございます。

齋藤史著  遠景 近景 から
次頁  齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」   に 続く


齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」

2020年12月16日 06時35分32秒 | 後に殘りし者


二・二六事件

その頃、若い将校達の間には、政治に対する不満の空気がたまっており、
革新への希求が煮え詰っていたのでございます。
先に 五・一五事件。そして、昭和十一年の二・二六事件の前でした。
昭和の六年ごろから、不作がつづき東北一帯は飢饉になりました。
九年が一番ひどくて、娘は売られ、餓死者も出そうだという・・
昭和二年一乄目十二円した白繭が昭和七年二円二、三十銭、黄繭は一円代に暴落。
(米は昭和元年一石四十円が、二十円下る) しかも税金はほとんど変わらず。
一般はくるしんだそうです。
食糧配給の制度もなく、現代ほどの社会の手も届かず、
政治に失望し、漠然と何かの変革を待ち望む心もあったと聞いています。
兵隊の大かたは地方出身者でした。
故郷の便りは彼等を悲しませていました。
その悲しみを聞くのは近い上官の彼等若い将校達でもあったのです。
こうした社会背景もつよく関係しておりました。

訪ねてくる栗原中尉は、わたくし達との雑談とは別に、時に父に向って話しこみ、
父は、うむ、うむ、と 聞いておりました。
もちろんある方々のように 「 骨は拾ってやる・・」 と 言ったり、
彼等の集りにお酒をとどけるとかするような、立場でもなければ、がらでもない一予備の軍人にすぎません。
聞くだけです。
しかし、心配なく話が出来、受け止められる・・という事はあの時の彼等にとっては、
かけがえの無い場所だったのかも知れず、
彼等の情熱は男である父に充分にひびいたでしょう。

小学校の下級生、坂井直中尉が遊びに参りました。
彼の父も三重県出身の陸軍少将。
彼の上官は部下の信頼の厚かった安藤輝三大尉で秩父宮の信頼も厚かった人でございました。
刑死の時 天皇陛下万歳につづいて、秩父宮万歳を叫んで逝った人でございます。
坂井はのちに宮との連絡役になりましたが、彼は、初めてその宮邸に行った時の事を話してくれました。
正式の御門からではなく塀を越えて、お庭を通り お居間まで
・・お怒りを給わったならば自決をするつもりでその用意も整えて、
自分達の意見を聞いていただきたいためでした。
・・このところは間違って伝えられてはいけないと思いますので、今は飛ばしておきますが。
・・彼は、しかし、死ぬ事をせずに帰って来ました。
以後は お前が連絡に来るようにと申しつかって、その時の手順も御指示いただいて参りました。
そしてその話を直情なこの人が、からだを わななかせ涙を両眼からあふれさせて語るのを聞いた時、
わたくしは感じたのでございます。
これは決して作り話ではないこと・・
そしてわたくしにとって大切なことは、
彼等がこのような絶対秘ともいえることを話したりする前にも後にも、
一度も、一言も
「 これは内緒だが・・」 とか 「 人には言うな・・」
とかの念押しを一回もしなかったことでございます。
たかがわたくし、仲間でもない一人の女を相手として・・です。
これは、ただひたすら人間から人間へ手渡された信頼だと思いました。
わたくしがこれから五十年生きたとしても二度と出逢うことのない種類の深い信頼です。
・・わたくし日記をつけることを止めておりました。
「 見なかった 」 「 聞かなかった 」 と 申せばそれだけのことでございますから。

或日 坂井は、いつもよりもいっそうにこにこしながらやって参りました。
笑うと少年のような笑顔になるのです。
そして、
「 近く、お宅と親類になります 」
と 申します。
わたくし達一家は知らなかったことでしたが、三重県に住む彼の父 坂井兵吉(瀏の同期) が、
息子の嫁にと選び気に入っている娘が、同市に住む軍人の娘の平田孝子
・・わたくしの夫 堯夫の姪だというのです。
おどろいているわたくしに、彼はくり返しました。
「 わたくしたち親類です。史姉さん 」
何の疑いも迷いも浮べない無邪気なまでの顔を見ていますと、
わたくしの内部に日頃きざしている不安は、杞憂にすぎないのだ・・と 思えて来るのでした。
何事も起りはしないのだ。
何かが始まるのなら、結婚をいそぐはずは無いのだから・・。
実際に、行動の予定などその時点での彼自身、予想しては居なかったのだと思います。
のちに事件に名を連ねた人々も遊びに来ました。
みな すがしく礼儀正しく やさしい若い将校でした。
これという話はなく、先輩としての父となごやかにはなしているだけでした。
お茶やお菓子を運びながら、現役時代に帰ったような気がしました。
父はいつも若い人達が好きだったのでございます。
西田税
民間人として処刑されました西田税が、一度か二度いらっしゃった事がございます。
いわゆる民間の右翼といわれる人々の中には、じつに様々な分子があるので、
父はそうした人達との交わりを避けるようにし、栗原達にも注意をして居りましたから、
わたくし共と、そうした方々とのおつきあいはございませんでした。
西田税は、あの場合制止する側に立っていた人と聞いて居ります。
その西田と父が何を話し合ったかは存じませんが、
玄関に送りに出まして、その人の眼を見ました時、・・澄んだ しかも優しい眼・・と 思いました。
もの静かな声と態度・・腹の据った立派さ・・と 思いました。
・・なるべくは、そのような事を起したくはない
・・というその点で、西田と父との意見は食い違いはなかったと思います。
この方の奥様も、それから大きな御苦労をなさいましたでしょう。
・・わたくしなどよりも、より直接に、苦しい事件以後の一生を御持ちになった女の方も多いのでございます。

日を追って何かが煮えつまってゆくような思い予感がわたくしにも濃くなってゆきました。
しかし、どんな形で、いつあらわれるのかは、全くわかりません。
あたりはかえって以前よりもしずかな感じさえあるのです。
今も、思うことですが、男達が、おのれの利害、生命を超えて一つの事を思いつめ、
もちろん幾度も迷い、ためらい考えているうちに、
急に、発火点のような時が近づいてきて彼等自身らも予測できない速さとなって奔りだし、
個々の意見をとび越し、それはもう止めようがなく燃え上る
・・もっとも慎重な人さえも擢さらいこまずに置かないのだ・・ということ。
何処の国の歴史の中にも、人間のこうした火のようなものは、
大小、方向、思想のさまざまの場合の違いこそあれ、出来事としてくり返されて来たのではなかったか、
と 思われるのでございます。
坂井と孝子とは新婚十七日で蹶起の日に出逢ったのでございました。

現在外国のこの事件の研究者は、
「 一種の抒情的理想主義が日本的な形をとって現れたもの・・」
とか見ているそうでございますが、
たしかに自己犠牲的な点、
他国に革命のように自分達がその後の権力や位置を望まなかった点などの差異がはっきり出ております。
ある人はそこを無計画と申しますが、彼等の権力の野心的なものは無く、
ことに、軍事力と、政治力を合体させるべきではないとしていたのでした。
なおもうひとつ、彼等には大きな錯覚があった・・とわたくしは思われるのです。
彼等は朝夕に暗誦する 「 軍人勅諭 」 によって
自分達を 『 天皇の股肱 』 と 思いこむように育った軍人なのでした。
ひとつひとつの例はひきませんが、明治十五年以後、大正昭和の多くの勅諭・勅語を調べますと
この語は特に陸海軍人に対するものに限って繰り返し使われており、
特別の覚悟を呼びかけるかのようでございます。
( 清国--明27、露国--明37、独国--大3、米英--昭16 に対する国内一般へ向けての宣戦の詔書は
--汝有衆--というよびかけによっている )
危機に当って つねに股肱である軍人が真先に起つべきものとの暗示は充分に作用していた、
と 申してよろしいでしょう。
事件後、間もなく彼等自身もその錯覚に気付いたことでしょう。
軍人が真の股肱であったのは明治時代だけではなかったか・・
いえ、それさえも政治的に必要な表現であったかもしれないのに、
彼等はそれを抱き続けて来たのでございました。
更に潔癖な軍人達の眼から見た 「 政界 」 というものがありました。
軍人は失態をした時は、退いて終生をかけて責任を負うもの、
場合によっては死をもって侘びるものという考えがございました。
すくなくとも社会の表面から姿を消します。
しかし政治の世界はこれとちがい 身をひいたようでも少しの時をおけば、何度でも再生して現れます。
また表面から消えたと見せていっそう陰の勢力となり得ます。
その人々が本当に消え去るのは死の時に他ならない。
そのことが国民に届くべき光をどんなにさえぎっていることか・・というのが彼等の思いであり、
一途な人々のいらだちを激しいものにしてゆきました。
このような彼等でしたけれども、しかし昭和の天皇は身辺の老臣に対してだけこの語を使われました。
二・二六事件当時の御言葉として軍人彼等には
「 自殺するならば勝手に為すべく--」
と 言われたのでした。
もはや彼等は天皇にもっとも近く、もっとも信頼されている股肱などではなかったのです。
それどころか、遠く見捨てられた者達にすぎませんでした。
彼等が抱いたのは幻。
一方的な独断の理想像、自分達が抱いたその 「 虚像の天皇 」 のために身命を捨てる事になったです。
すくなくとも明治と昭和は遠く離れておりました。
理由はわたくしなどにはわかりませんが
「 米英両国トノ開戦ニ際シ 陸海軍人ニ賜ハリタル勅語 」 ( 昭16 ) には・・汝等軍人の忠誠勇気ニ信倚シ
・・と なり、それまで繰り返し使われていた 「 股肱 」 の二字は除かれております。
その日
事はとうとう起りました。
昭和十一年二月二十六日。
国家改造を要求する蹶起部隊、約一、四〇〇名。
東京において重臣閣僚襲撃。・・三重臣死亡。
早朝、
「 おじさん。すみやかに出馬、軍上層部に折衝し、事後収拾に努力して下さい 」
との 電話を受けて、
父は首相官邸へ出て行きました。
・・古い軍服をつけ、自動車を呼んで出てゆく父を、母もわたくしも通常のように玄関に見送りました。
・・台風の眼の中に入ってしまったような静けさでした。
雪の多い、異状に寒い冬でございました。
父はそのあと陸相官邸へも行ったようです。
陸軍大臣川島大将は、かつて教育總監部に居り 父もそこに勤務、知り合っていたのです。
そこで卓上に置かれた蹶起趣意書を、許可を得て、見ました。
多くの将校の中に、ただ一人の予備役軍人でした。
石原大佐に、
「 なんだ予備の齋藤少将が・・・」
と 軽蔑の語調でいわれた時は
「 予備の斎藤だが、動員令あれば、現役の大佐の長官ともなる・・・罵倒はやめられよ 」
といったそうです。
同日午後三時半には、陸軍大臣告示(参考) が通達され、
彼等は第一師団麹町地区警備隊長小藤大佐の指揮下に入りました。
つまり東京警備司令部の下に入り、公的に認められた部隊です。
食糧も原隊からとどきました。
これで一応終結の方向に移るかに見えましたが・・・・
(参考)
陸軍大臣告示 ( 二月二十六日午後三時三十分。東京警備司令部 )
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり
二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む
三、国体の真姿顕現(弊風を含む) に就ては恐懼に堪へず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進することを申合せたり
五、之れ以上は大御心に俟つ
これを山下奉文少将が持参、朗読---
という事になっていますが、父が、午後四時頃、
次官古莊幹郎中将(陸大同期) が 青年将校に示すために、一枚の紙に鉛筆で書いたものを、
見せられたものとは、どう考えても違っている様に思われる・・と 書いて居ります。
紙は陸軍で演習などに使う報告紙のようなもの、
文言はとっさに正確に覚えることは出来なかったのでしょうが、これは電話で来たものだそうで、
そのどちらかに作為が混じりはしなかったか・・と 疑って居りました。
この事についてはのちに、河野司の著、「 私の二・二六事件 」 に 年月をかけて調べた一項があり、
それによりますと、告示には、原文があり、山下の朗読したのはそれであったと思われますし、
また印刷配布されたものにも二通りあったことが出て居ります。
父が見た電話で伝えられた告示は、その中のどれであったのでしょうか。
更に不可解なことは、議会での答弁に、その時の陸軍大臣杉山元が、
「 そんな告示は知らない 」
と 全面的に抹殺したと漏れ聞こえたことです。
告示一つについてさえ、混乱と混沌と、そののちのごまかしが渦巻いていたのでございました。

二十七日、午前二時二十分、
東京市に戒厳令が布かれ、香椎浩平中将は戒厳司令官となり、
現九段会館に司令部を置きました。
父はここを訪ね、同期である香椎中将に、皇軍が相討つことの無いように願いました。
また 「 明倫会 」 の 田中国重大将に求められ、案内して、寺内寿一、荒木貞夫の各大将 (眞崎大将不在)
との会見のため、各所を廻りました。
そして翌日、伝家の宝刀のように振りかざされた・・奉勅命令・・の段階になったのです。

二十八日。
午前五時、奉勅命令 司令官に下達。
午後十一時 「 反乱部隊討伐 」 の 命令が発せられ、それまでの 「 蹶起部隊 」 の名は一転して
「 反乱 」 と 明記されました。
この間に、当然奉勅命令は彼等部隊に伝達されたと一般からは思われて居ります。
しかし、そうではございませんでした。
磯部浅一の獄中手記にも、村中孝次の獄中手記にも・・いわゆる奉勅命令は下達されなかったと書いて居り、
また電話で二十八日夜半すぎ、父が栗原に念を押しました返事にも、
「 自分達はだれも、そうしたものを受取って居りません 」
と 答えて居ります。
彼等は周囲の情勢から、しだいに何かを察してはいたとしてもついに正式な通達は来ることなく、
叛徒と呼ばれ、討伐を受ける身になりました。
・・小藤大佐は、二十八日いっぱい部下となった彼等に奉勅命令を伝達しようとした・・といわれますが、
何故か果たせず夕刻警備隊長の職を解かれました。
彼等は完全に見捨てられた軍隊になりました。
事情の判然としないままに、彼等は、大臣告示のあとにくるであろう次の命令を待ちました。
ラジオや、街のうわさだけで軍隊は動けません。
維新大詔が出る・・という声さえあって、君側の奸を討つために起ち 天皇に叛いたつもりのない彼等は、
天皇の軍隊として 「 御命令 」 を 正確に受けるべく待ちつづけていたのです。
・・たとえそれが、どのようなものであったとしても・・
始末に困った軍当局は、彼等に自決してほしかったのでしょう。
手廻しよく二十余個の白木の棺が用意されていたといいます。
死ねば、いさぎよく見えます。
しかし死人に口無し・・死後はどのように都合よく片付けられてしまうかもしれず、
青年将校等は、詐術にのせられた思いもあって、
死ぬにも死ねない立場に追い込まれていったと思います。
もとより覚悟はできていました。
二十八日夜、決別の電話が来ました。
  徳川義親侯
彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。
代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい---」
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、
父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
電話については、これよりだいぶん前に、彼の方から、
「 盗聴されているかも知れません---」
と 連絡されて居り、
わたくしたちは、何処がそれをしているのか、警視庁ででもあるのか
・・と 思っていましたが、交信を傍受し、
しかも録音を取っていたのは戒厳司令部であったと知ったのは、
昭和五十四年二月二十六日放送のNHKの番組によってでございました。

二十九日。
ラジオ、戦車、飛行機、アドバルーンをつかって戒厳司令部は、呼びかけ、ビラをまき、
原隊復帰をすすめました。
それによって正午、下士官以下の大体は無事に帰営を終えたのち、将校の中で、野中大尉自殺、
また、安藤大尉はいちど部下に制止され二度試みて果たせずに終り、
彼等一同は収容されました。
あとは公の場で、自分達の趣意を訴え、下達されなかった奉勅命令には、抗しようもないのに、
叛徒とされる無念を述べようとしたのでございましょう。
とにかく、その夜は交通停止も解かれ、東京の街には明るい灯がともり、日常の生活をとり戻しました。

齋藤史著  遠景 近景から
次頁 齋藤の二・二六事件 3 「 天皇陛下万歳 」    に 続く 


齋藤史の二・二六事件 3 「 天皇陛下万歳 」

2020年12月15日 06時30分28秒 | 後に殘りし者


裁判

裁判の話に移りましょう。
三月四日、
緊急勅令で東京陸軍軍法会議が開かれ、戒厳令下の特設軍法会議という体裁で、一審のみ、上告なし、非公開、弁護人無し。
受理人数は一四八三名。
内容は全く解からぬままに七月五日判決。
将校の死刑十三名。民間人二名が、七月十二日 代々木刑務所で銃殺、死刑。
翌年八月十九日、
民間人北一輝と西田税、免官軍人、村中孝次、磯部浅一、の四名が処刑されました。

この予審、裁判は、父の手記を見ても また 他の話を合せて考えても、どうもよく解りません。
父の場合は、人違いも、無根の事もあったようです。
本人の話は聞くが結局都合のいいところだけを記録して形をととのえ、
あとは予定された筋書きに当てはめる・・というもののようで、
将校の予審はわずか二、三時間であった、( 安田優少尉・・死刑・・の手記 ) ともいいます。
そしてこの軍法会議の記録はいまだに公開される事なく、
昭和十一年五月に開かれた議会でも、二・二六事件の部分は、秘密会議であったということでございます。

彼等に死刑の判決が下ったと聞いた日の夕方、予審中の父は自分の監房で小さい紙屑を拾ったそうです。
お世話になりました。ほがらかに行きます    坂井
また
おわかれです。おじさんに最後のお礼を申します。史さん、おばさんにもよろしく    クリコ
彼は最後の通信に、少年時代からのわが家での呼び名を書きました。
父は、保存することも、捨てることもできない二つの紙片を、口に含んで眼を閉じた・・と 書いて居ります。

死刑
七月十二日。死刑執行日。( 七月五日判決 )
まだ夜の明けない監房から、君が代の声が起こり、
隣りの棟の同志達もその事を知って立上がり唱和をはじめました。
中島清治 (禁錮十五年) の手記の中では
---死刑になる将校たちが、カーキ色の獄衣を白衣に替えているのが、かすかに見え、
やがて廊下に出されて顔を剃ってもらうらしい様子を、格子にすがって、
それが誰であるか見極めようとし、それがわかると、名を呼び、答えて、
「 お先へ 」
と申していたそうです。
七時間前、涙と共に呼びかける残された同志をあとに出て行く人々に、
見廻りの看守も看守長もサーベルを突いたまま泣いていた・・としるして居ります。
すこし離れた父にも、それはかんとして伝わったようです。
当時の代々木練兵場・・(今のNHK附近) 雨後の靄もやがしだいにうすれ
晴に向う朝早くから陸軍が演習を始め、軽機関銃の空包射撃の音を激しくさせて居りました。
示威、警戒の意味もあり、同時にその音にまぎらわせて銃殺刑をおこなったのです。
看守某 ( と 父は名を遠慮しています ) は、刑場の見取図、執行の模様を書きとめて居りました。
それによりますと、
将校十三名と民間人二人を三回に分け、五名ずつ。
時間は、七時、七時五十四分、八時三十分。
刑場は刑務所の西北角に、五条の壕を掘り下げ、各人の両側及背後に土嚢を積み上げ、
その後方に煉瓦塀、約十メートル ( 一説に十五メートル ) の正面位置に土壌上に小銃二梃ずつを固定し、
一挺は前頭部、一挺は心臓部に照準し、即死しないときは更に心臓部を射撃する。
職務上の立会人の他、関係者等もいたのでしょうか---かなりの人数がそこに居たといいます。
射手十人、指揮官は大尉で、直射手は将校、副射手は下士。
護送の看守が一人に対し二名付添い、途中炊事場建物のうしろで目隠しをしてから、
壕内に誘導、十字架に縛り、両腕を伸ばさせて二ヶ所ずつ、第一関節と第二関節を縛りました。
顔は、目を覆ってから、腹迄の長さ ( 巾八寸ほど ) の白布でかくし ( 射手にわからせないため ) ました。
更に、頭を、みけんの照準点を黒点で印した布を当てて縛り、胸、正座した膝を縛ったのは、
落命後も姿勢の崩れないための処置であったのでしょう。

縛られ終わって、
・・天皇陛下万歳・・
第二回の中の中橋基明中尉のとき、第一発ののち、射手はそれを中橋と知り、
第二弾を命ぜられても直ぐ応じられず、補助射手が第二弾、これも正確ではなく、
射手将校が心を取り直して照準をし直し 第三弾を射ったとのこと。
射手の所属は、歩兵一聯隊及び近衛ですから、死刑者をよく知っている者もあったわけです。
一回五人の中の栗原安秀も一発で絶命せず二発目が発射されたとつたえられました。
三回目の中の澁川善助 ( 地方人・・元士官候補生 ) は、
「 国民よ、皇軍を信頼するな 」
と 叫んだそうです。
「 皇軍 」 とは、彼等を葬り去った側の・・という意味と取れます。
各人の絶命は、軍医がたしかめ、テントの死体収容所に運んで、
清。納棺。安置所に運んで遺族と対面させたのち、霊柩車を先頭に遺族等と、
代々木原を突切って、落合火葬場に行き荼毗、それぞれに骨を渡された---と しるして居ります。
某看守の手記をもとに、他の資料とも照合をしましたので、
主要点は、これで間違いなかろうと思います。
・・中略・・
反乱軍といわれる人々は、遺骨となっても、葬儀を営むことも出来ず、墓も立てられませんでした。
お骨を預ってもらう所を探しても、引受けてはくれません。
栗原の父が、佐賀県で旧鍋島藩であったことから、麻布にある藩の菩提寺興国山賢崇寺の住職、
藤田俊訓師に御相談しますと、
師は、
「 将来どんな面倒が起ころうとも・・」
と 御引受下さいまして、百日を経て法要。ようやく眠るところを得たのでございました。

遺族をとりまとめ、共に供養し、共に励まし合って生きるため、
栗原勇(栗原の父) と 河野司が強力して、護国仏心会をつくりました。
河野司は、事件当時上野松阪屋に勤務していたのですが、その後さまざまの変転、
敗戦ののち、東京に住み、以後の人生をかけて、事件の真実をしらべつづけ、
遺族をまとめ、秘められた資料蒐集しゅうしゅうに心を傾けます。
昭和二十六年、「 仏心会 」 再建。
二十七年、賢崇寺に二十二士の墓を建て、
再に、四十一年には、代々木の旧陸軍刑場跡に、事件記念慰霊碑を建立。
また真実を伝えるための著書を書き、それに数十年の日月を打ちこんで今日に至って居ります。

仏心会は、毎年二月二十六日には、事件関係犠牲者の重臣達、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎の他
松尾伝蔵(岡田啓介義弟を誤認) 他警察官五名。
・・自決、刑死者の他、其後病死した関係者等の全諸霊を含めて、
今日までその法要をかかさずに行って居ります。

当時の陸軍刑務所長、塚本定吉が、父斎藤瀏の著書により、二十二士の戒名を知り、
二十二枚の位牌を作り、回向をつづけられていたことも、刑死の場所に霊堂を建てたいと思っていたことも、
河野司によって明らかにされました。
父の知人の中にも同様の回向をつづけられる人が居りました。
そして以後の軍隊内では、二・二六事件の研究は禁忌きんきであったとききました。

史のうた抄
天皇陛下萬歳と言ひしかるのち  おのが額を正に狙はしむ
動乱の春の盛りに見し花ほど すさまじきものは無かりしごとく
たふれたるけものの骨の朽ちる夜も  呼吸いきづまるばかり花散りつづく

ひきがねを引かるるまでの時の間は  音ぞ絶えたるそのときの間か
羊歯しだの林に友ら倒れて幾余経へぬ視界を覆おおふしだの葉の色
春を断る白い弾道に飛び乗って手など振ったがつひにかへらぬ
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
銃座崩れことをはりゆく物音も闇の奥がに探りて聞けり
ぬかの真中まなかに弾丸たまをうけたるおもかげの立居たちゐに憑きて夏のおどろや
いのち断たるるおのれは言はずことづては虹よりも彩あやにやさしかりにき
北蝦夷の古きアイヌのたたかひの矢の根など愛す少年なりき
まなこさへかすみて言ひしひとことも風に逆らへば聞えざりけむ
弾痕がつらぬきし一冊の絵本あり  ねむらむとしてしばしば開く
銃殺の音ならねども野の上に威銃ひびけば目の前くらむ
かなしみの遠景にいまも雪降るに鍔つば下げてゆくわが夏帽子
過ぎてゆく日日のゆくへのさびしさやむかしの夏に鳴く法師蝉

齋藤史著 遠景 近景 ( 昭和55年・・1980年 ) から
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