あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

軍閥重臣閥の大逆不逞

2018年04月01日 04時23分16秒 | 眞崎敎育總監更迭


軍閥重臣閥の大逆不逞

天皇機關説を實行し皇軍を
乱し
維新を阻止し國家壟断ろうだん
体破壊を強行せんとする
逆謀--
天人倶に許さゞる七 ・一五統帥權
干犯事情--國民總蹶起の秋 !


大眼目 昭和10年7月25日

軍閥重臣閥の大逆不逞
天皇機關説を實行し皇軍を撹亂し維新を
阻止し
國家壟断國體破壊を強行せんとす
逆謀 = 天人共に許さざる七 ・一五統帥
權干犯事情 = 國民總蹶起の秋 !


一、七 ・一五の經過

一、暦日經過
六月十六日、林陸相永田軍務局長等満鮮旅行より歸京。
新京にて南司令官京城にて宇垣總督と懇談したるは周知の通りである。
七月八日、宇垣總督入京。
七月十日、午前八時半宇垣總督陸相訪問。
十時半より陸相、眞崎教育總監と人事協議。
陸相は突如總監の辭職を迫った。
「 眞崎總監の勇退は軍内の与論である 」 と。
總監の論駁に對し陸相は苦し紛れに 
「 之は總長宮殿下の御要求である 」
「 之は實は南大將と永田軍務局長の策謀であって南は自分に火中の栗を拾はせようとしてゐる。
 満洲から歸ってからこの策謀が激しくなつた 」
と 弁解し
總監は同意せず
且 永田少將等に關する參考資料準備の餘裕を得たき旨を述べて別れた。
午後三時 陸相は杉山參謀次長を招致し對策を協議した。
七月十一日、陸相は總長宮殿下の御召なりとて總監を招致し
直に三長官會議を開かんとしたが總監は準備整はざる故を以て延期した。
七月十二日、午前八時
總監は陸相と會見して二人熟議して大體成案を得た上改めて會議を開くことの妥當なる所以を力説した。
陸相は別に次官及び次長人事局長等を招集して對策を練り、午後一時三長官會議を開催を決した。
席上總監は、
1、統制々々と云ふも如何なる原理によるや、單に當局に盲從せよと云ふ意味の統制は眞の統制に非ず、
 國體原理に基く軍人精神の確立によつて統制するを要す。
2、与論と云ひ軍の總意と云ふは何事ぞ
 与論により事を決し總意の名に於て事をなすは軍内に下剋上の風を作り
統帥の本義に背き建軍の本旨を破壊するものなり。
3、教育總監は大元帥陛下に直隷する新補職にして大御心により自ら処決すべきもの、
 軍隊教育と云ふ重大統帥事項を輔翼する重職にあるものが与論云々に依って辭める理由なし。
4、今次の異動方針については外部よりの干渉あり
 統帥權に對する此の容啄に膝を屈する事は辱職にして且 將來に重大なる禍根を遺すものなり、
一眞崎の進退問題に非ず。
5、三長官會議の上決定すべきものを陸相單獨決定の例外を開かば延いて參謀總長の地位も動揺し
軍の人事は全く政党政治の如く紊亂し私兵化せん。
此の爲に親裁を經たる業務規程あり陸相の態度は統帥權の干犯を惹起する恐れあり。
6、所謂十一月事件は陸軍省を中心とする陰謀僞作と云はれ永田少將がその中心人物なる事明瞭にして、
 三月事件 亦 永田が有力なる關係者 ( 永田自筆の計畫文書提示 )
最近は新官僚と通謀して 各種の政治策動を爲しつゝある統制攪亂の中心たる永田を
先づ處斷するに非ざれば他の一切の人事は価値なし。
況や 今次の人事の原案が永田中心に作られつゝあるに於てをや、
等々陸相を論難し、陸相は終に答ふる事能はず決裂狀態を以て散會。
七月十五日、午後一時第二次三長官會議開會。
總監は統帥大權中 特に重大なる教育大權の輔弼者として重要性、
人事に關する親裁規定等を切論したが總長宮殿下の御威光を頼む陸相は之に服せず、決裂して三時半散會。
陸相は既定の策戰で直に山陰地方出張中の渡邊大將に招電を發し
三時四十分自動車を駆つて當日行幸遊ばされたばかりの葉山御用邸に參内し眞崎罷免、渡邊後任を奏請して七時歸京した。
渡邊大將は同夜浜田發。
七月十六日、午前九時四十分
陸相、首相を訪問し懇談し十時半閣議を中途で抜け出して杉山次長帯同、總長宮殿下邸に伺候。
此の時豫め梨本元帥宮を招ぜられて御同席あり。
豫定の如く經過を言上して御了解を求め奉つた後、
陸相は昨年の白上事件の辭任問題を繰返す如く 懐中から辭表を取出して總長宮に供覧し、
宮が必要なしと申されるのを待って再び懐中した。
兩元帥宮は直に御同道參内遊ばさる。
午後一時半總監更迭發令。
最後まで正論を持して譲らなかった眞崎大將は陸相の人事方針を妨害かると云ふ惡名を着せられて罷免された。
七月十七日、渡邊大將は早朝熱海で待合せた人事局長から車中で經過報告をうけつつ着京。
八時 陸相を訪問 官記を受けた。
陸相は人事異動について意見を問ふた。
新總監は
「 萬事君のする事に異存なし 」
と 答へ、
會見時間僅か五分にして別れた。
皇軍將校の人事は之で決定したのである。
十一時總監は總長宮に伺候した。
午後一時定例軍事參議官會同あり。
更迭問題に就て荒木大將其他より峻烈なる意見の開陳あり。
誤まれる陸相の方針態度を痛烈に指摘し永田少将等の陋劣ろうれつなる策謀を難じ
肅軍は彼等を先づ処斷するにあるを鞏調し、
三月事件に關する永田が作案した 宇垣内閣を鞏請し奉る自筆の計畫書を一同に提示した。
満座唖然として陸相は弁明に窮したが、一旦打切り午後六時散會した。
七月二十二日、午後二時陸相參内々奏。
異動の内令を發す。
一、宣傳機關の操縦
1、六月二十日頃全國の書店停車場売店等一齊に 「 軍部の系派同嚮 」 と 稱する小冊子が發売された。
 宇垣、南、小磯、建川、植田一派を礼讃し林を支持鞭撻し永田、東條等をその中心部として論じ、
荒木、眞崎、秦、柳川等を徹底的に非難した。
某々新聞班員等が永田等の内意を受けてした仕事と言はれ、今次異動の準備宣傳だと見られてゐる。
2、七月上旬頃から根本新聞班長は各新聞通信社の政治部幹部に働きかけた。
 三長官會議、軍事參議官會同の紛糾した時は一々歴訪して諒解を求め、御用記事を依頼した。
3、永田の直系武藤中佐、池田、片倉兩少佐は東日、東朝、讀賣を中心として各社記者方面に露骨に策動した。
 一人當たり五百圓乃至三千圓を使用されたと噂されてゐる。
各新聞社が何れも軌を一にして 「 軍部の系派動嚮 」 と 同一内容を以て中央部を支持し弁解する提灯記事を満載した。
十七日東日朝刊の 「 更迭事情 」 の 如きは 陸相が同日午後軍參會同で説明したと同一の内容章句が
其儘出てゐるとまで言はれてゐる。
内令發令後二十三日朝刊は一齊に中央部を弁護し、小磯、建川、東條の不運、松井の引退を惜しんでゐる。
4、永田少將は之より先き七月上旬參謀本部に機密費三百四十萬圓を要求して一蹴されたと云ふ。
 結局本省から出したとも云ひ折柄上京中の宇垣總督から出されたとも言ひ伝へられてゐる。
5、要するに宣傳機關の宣傳は全く彼等の爲めにするもので眞相の陰蔽は勿論不純極まるもので信を置くことは絶對出來ない。
 此の爲に醜惡な策動かせ行はれたことも事實である。

二、 七 ・一五は統帥權干犯皇軍私兵化である
大正二年八月 大元帥陛下の御親裁を經て決定實施した
省部關係第十一條將校同相當官の人事取扱ひに就ては左記各号に依る
(一) 將校同相當官の任免進退補職に關する事項 及び 抜擢候補者決定の件は陸軍大臣より
 參謀總長 及 教育總監へ協議の上陸軍大臣に於て取扱ふ
(二) 事務の敏活を計る爲め陸軍大臣、參謀總長、教育總監協議の上細部に關する規定を設くる事を得
一、右 (二) に依りて 昭和二年四月三長官會議に於て協定した 「人事に關する省部覺書 」 に曰く
一、當分の内將校同相當官の任免進退 及 補職は左に掲ぐるものを除くの外は參謀總長、
 教育總監に協議を經ずして陸軍大臣に於て取扱ふこと
(イ) 將官の人事に就て内奏する場合は參謀總長及教育總監に協議す
(ロ) 參謀總長所管内の者の人事は參謀總長、教育總監の所管の者の人事は教育總監より陸軍大臣に移牒す
一、右規定の軍部大臣文官制問題が与論を制せんとし爲に奏薦範囲が豫後備大、中將にまで擴大された當時、
 皇軍の重大なる人事を大臣のみで決定することは將來皇軍を私兵化する知名的問題なりとし、
如何なる場合と雖も 現役將校たるを要する統帥系統の參謀總長教育總監を大臣と同格に置きて
以て 三長官協議の上に非ざれば決定し得ざる如く大臣を抑制して、皇軍御親率輔翼の完全を期したものである。
一、從って林陸相の今次の処置は、此の原則に照らし明かに統帥を干犯し皇軍を私兵化するものである。
 名を軍統制に仮りて御親裁規定を蹂躙し与論を理由として重大統帥事項たる軍教育の輔翼者を恣ほしいままに更迭するとは
不敬不逞も極まると云はねばなぬ。
一、渡邊新總監が帰京途中、車中談を試みて曰く
「 本來人事異動は大體が責任者で立案した上、
 參謀總長 教育總監は只其の決定ら參与するだけで何等の權限もないのである。
だから今度の処置については大臣が自分の責任を全うするについて障碍があれば
これを斷乎として取り去るのは當然で この點軍のため大いに喜んでゐる 」 ( 十七日東朝々刊 )
彼は旅行出發前に陸相と後任内約を陰謀してゐた形跡あるのみならず
信念に於て陸相と同腹の不敬漢であり、自ら總監たるの職責を知らざる人物である。
学舎肌の君子人と云はれてゐるが
武蔵山部屋などを舞台とし角力趣味に隠れて姑息な政治的暗躍をするのみならず、
右の如き放談をする如きは皇軍の風上に立つ底の人物に非ざる證明である。
一、彼等は何事に依らず
「 一にも總長宮 」
「 二にも總長宮 」
を 以て鞏制する。
行軍動揺の禍根は正しくこの不臣の心事行動にあると云はねばならぬ。

三、 背後に潛もの――戰慄すべき皇國壟断ろうだんの大陰謀團
一、八方美人優柔不斷の後入齋である、林陸相が
( 往年の越境出兵は神田參謀等に引かれた善光寺詣であつて、林自身の受くるべき賞賛の何物もない )
 何故に大それた人事鞏行を敢てするに至ったか。
一、重臣閥と其れを繞めぐる官僚政党財閥、即ち彼の倫敦條約統帥權干犯問題を惹起した一連の亡國支配階級が、
 根本方針とする陸海軍及民間の鞏硬な維新派に對する彈壓要求である。
齋藤内閣は之を果さずして仆れた。
岡田内閣は之を繼承している。
昭和八年の秋には齋藤首相、高橋藏相を中心として
牧野内府其他政財界巨頭が軍部維新派抑壓を密議した事實もある。
一、又 此の閥族と禍福相通じて權勢慾政權慾の他何ものもなき不純不臣の軍閥がある。
 海軍々閥たる齋藤、戝部、岡田系は重臣閥に包含されて了つたが、
陸軍々閥たる宇垣、南系、小磯、建川系、新官僚に對應して
新軍閥とも云ふべき永田派は彼の重臣閥、民政系官僚、
新官僚の關係の如くに不即不難の相互依存を以て
軍内維新派に對しては重臣系を通じ、
一般國民に對しては國家革新を企圖するが如く宣傳して來た。
而して常に眼前に立塞がってその政權慾貫徹の爲には大逆不逞
( 例へば宇垣、小磯、建川、永田等を中心とし牧野内府等と通謀した議會破壊軍隊私用の三月事件 )
をも辭せざる彼等の獣慾を抑壓阻止する
所謂荒木、眞崎派を仇敵視し隙もあらば放逐せんと企圖して來た。
一、更に重臣閥軍閥を背景とし且つその脊髄せきずい部に潜んで此の一連の暗躍策動の主動部を爲してゐるのが、
 伊澤多喜男を中心とする 「 朝飯會 」 である。
元老重臣のメッセンヂャーボーイたる原田熊雄、木戸幸一、岡部長景、黒田長和、後藤文夫、唐沢俊樹、然り
而して永田鐵山等がその幹部である。
築地の待合〇〇〇などはその秘密集合の本陣である。
一、彼等の望む所は、所謂非常時の解消である。
 國體の本業を把握して君民間の暗雲たる中間の似而非支配階級を一掃して
皇道精神を實現する爲に心血を注ぎつゝある維新派の中堅たる軍部就中陸軍の鞏硬派を逆襲抑壓することである。
兩三年來、殊に永田少將が軍務局長となり後藤が内相となつて以來、
政府軍部を中心とする施設の一切は維新派の彈壓、維新派の信念たる國體本義の否認である。
策動暗躍の凡ては彼等閥族の權勢維持 進んでは國家壟断の完成の爲めのもののみである。
一、然るに天皇機關説排撃の烽火あがり國民的大運動化するや
 皇軍教育大權の輔翼者としての眞崎總監が率先して斷乎上奏し全軍に布達して機關説絶滅の鐵信を中外に明かするに遭ひ、
終に利害相結んで 「 統制淸軍に籍口する攪亂私兵化 」 の鞏行となるに至つたのである。
宇垣、南、林は永田を總參謀長として満鮮旅行中に重大なる約束を結び
重臣閥の中心人物たる齋藤氏は密會して
「 眞崎を切れば君の將來を約束する 」 と囁いてゐる。
總監更迭の翌朝齋藤氏は訪客に向って涙を流さんばかりに陸相の不逞な処置を礼讃した。
林は林内閣を夢みてゐる。
松井大將勇退に對して外務大臣を約束した。
松井は林内閣の外相を夢みてゐるのである。
一、倫敦條約に統帥權を干犯した一味であり、三月事件の大逆を鞏行せんとした一派である。
 天皇機關説の實行者である。
親裁規定の蹂躙如きは尋常茶飯事である。
國民が期待する陸相の國體明徴は結局政府をして屁の如き聲名を出さしめる程度を越えない申譯的のものである。
その國防國策も財政外交本位のものに退却譲歩することは火を看りも明かである。
藤井前蔵相が死ぬ三日前某友に云った。
「 十年度豫算編成の時 永田少將が新兵器製造費が七百萬圓是非必要だと言ったから
 國家の爲めだと信じて豫定控置して置いたが 其の後部内にも要否二論ありといふ理由で斷って來た。
蔵相としては政財窮乏の際有難い事だが 一體永田と云附男は國防豫算を減らすことに依って
何人かの歓心を買はんとする宇垣第二世ではないのかね 」 と。
林は永田の傀儡である。
嗚呼、目あるものは見よ、耳あるものは聞け。
天皇機關説の大逆思想を包蔵し實行して上は皇権稜威を凌犯して憚らず、
下は萬民を殘虐してその窮乏を顧ず、
内は皇軍を撹亂し、
外は國家を外侮に晒し維新の機運を根底より覆滅し
國家を破滅の深淵に投じても
朋党私閥の獣心を遂げんとする戰慄すべき大陰謀が着々と進行してゐるのである。
陸軍教育總監の更迭は一眞崎大將排斥ではなく反動革命の一露頭に外ならない。
皇國の非常時は外患に非ず、
社會不安にも非ず、
此の閥族のユダヤ的陰謀の進行そのものである。
皇國國民の總蹶起すべき秋は到來した。
愼んで進路を誤るなからんこと、毫
末の懈怠躊躇なからんことを祈るものである。
昭和十年七月二十五日
維新同志會同人

« 西田税  が執筆 » 


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