あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一 『 俺は革命をやる 』

2022年12月20日 13時57分00秒 | 磯部淺一

「 男子にしかできないのは 戦争と革命だ 」
と、佐々木二郎の言葉に
「 ウーン、俺は革命の方をやる 」
と、磯部浅一は大きく肯いた
・・・
男児の本懐 


磯部淺一  イソベ アサイチ
『 俺は革命をやる 』
目次

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磯部淺一 『 日本改造法案は金科玉条 』 

・ 昭和維新 ・磯部淺一 (一) 赤子の微衷
・ 
昭和維新 ・磯部淺一 (二) 行動記
・ 
昭和維新 ・磯部淺一 (三) 獄中手記
・ 
昭和維新 ・磯部淺一 (四) 獄中手記、獄中からの通信 


やがて西田の心が、
燃えさかるような炎からじっくり志を育て実らせる地熱へ変って参りましたあとへ、
青年時代の西田そのままの磯部さんが登場し、
代って座を占めたという実感を、
すぐ傍に居りましたわたくしはもっております。  ・・西田はつ

・ 磯部淺一 『 國民の苦境を救うものは大御心だけだ 』 
磯部淺一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」 
夢見る昭和維新の星々 
・ もう待ちきれん 
・ « 青山三丁目のアジト » 

・ 磯部手記 
行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
『 栗原中尉の決意 』 
河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 

二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ

と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
本日の午後四時には、
野中大尉の宅で村中と余と三人会ふ事になってゐるので、
定刻に四谷の野中宅に行く。
村中は既に来てゐた。
野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった
・・・第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・行動記

・ 磯部淺一 ・ 行動記 

・ 「ブッタ斬るゾ !!」
・ 「 エイッこの野郎、まだグズグズ文句を言うか 」
・ 行動記 ・「 國家人なし、勇將眞崎あり 」 
磯部淺一 「おい、林、參謀本部を襲撃しよう 」
・ 村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」 
磯部淺一 「 宇多! きさまどうする?」 

・ 磯部淺一の四日間 1
・ 磯部淺一の四日間 2 

根本の問題は國民の魂を更えることである。
魂を改革した人は維新的國民。

この維新的國民が九千万に及ぶ時、魂の革命は成就されると説く。
良くしたいという 一念 三千の折から
超法規的な信念に基ける所謂非合法行動によって維新を進めてゆく。
現行法規が天意神心に副はぬものである時には、
高い道念の世界に生きている人々にとっては、何らの意味もない。
非が理に勝ち、非が法に勝ち、非が權に勝ち、一切の正義が埋れて非が横行している現在、
非を天劔によって切り除いたのである。

この事件は粛軍の企圖をもっていました。
わたしたちの蹶起したことの目的はいろいろありましたが、
眞の狙いは 非維新
派たる現中央部を粛正することにあったのです。
軍を維新に誘導することは、わたし達の第一の目標でした。


 磯部淺一 訊問調書 1 昭和11年4月13日 「 眞崎大將のこと 」 
・ 磯部淺一 憲兵聴取書 2 昭和11年5月8日 「 眞崎大將の事 」 
・ 磯部淺一 憲兵聴取書 3 昭和11年5月17日 「 事前工作と西園寺襲撃中止 」 
・ 反駁 ・ 磯部淺一 村中孝次 香田清貞 丹生誠忠 
暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 3  磯部淺一 「 余は初めからケンカのつもりで出た 」
 1、 奉勅命令について
 2、大臣告示に就いて
 3、戒嚴軍隊に編入されたること
 4、豫審について
 5、公判について
 6、求刑と判決

・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭  『北、西田両氏を助けてあげて下さい』

・ 磯部淺一 ・ 獄中手記 
・ 磯部淺一 獄中日記
・ 
磯部淺一 ・ 獄中からの通信 

陛下
なぜもつと民を御らんになりませんか、
日本國民の九割は貧苦にしなびて、おこる元氣もないのでありますぞ
陛下がどうしても菱海の申し條を御ききとどけ下さらねばいたし方御座いません、
菱海は再び、陛下側近の賊を討つまでであります、
今度こそは
宮中にしのび込んででも、
陛下の大御前ででも、
きつと側近の奸を討ちとります
恐らく 陛下は 
陛下の御前を血に染める程の事をせねば、
御氣付き遊ばさぬでありませう、
悲しい事でありますが、 
陛下の爲、
皇祖皇宗の爲、
仕方ありません、
菱海は必ずやりますぞ
悪臣どもの上奏した事をそのまゝうけ入れ遊ばして、
忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は、不明であられると云ふことはまぬかれません、
此の如き不明を御重ね遊ばすと、神々の御いかりにふれますぞ、
如何に 陛下でも、神の道を御ふみちがへ遊ばすと、御皇運の涯てる事も御座ります
統帥權を干犯した程の大それた國賊どもを御近づけ遊ばすものでありますから、
二月事件が起こったのでありますぞ、
佐郷屋、相澤が決死挺身して國體を守り、統帥權を守ったのでありますのに、
かんじんかなめの 陛下がよくよくその事情を御きわめ遊ばさないで、
何時迄も國賊の云ひなりなつて御座られますから、
日本がよく治まらないで常にガタガタして、
そこここで特權階級をつけねらつてゐるのでありますぞ、
・・・獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」 

天皇陛下
何と云ふ御失政で御座りますか、
何故奸臣を遠ざけて、忠烈無雙 ムソウ の士を御召し下さりませぬか
八百萬の神々、何をボンヤリして御座るのだ、
何故御いたましい陛下を御守り下さらなぬのだ
これが余の最初から最古背迄の言葉だ
日本國中の者どもが、一人のこらず陛下にいつはりの忠をするとも、
余一人は眞の忠道を守る、
眞の忠道とは正義直諫をすることだ
明治元年十月十七日の正義直諫の詔に宣く
「 凡そ事の得失可否は宣しく正義直諫、朕が心を啓沃すべし 」 と
・・・ 獄中日記 (四) 八月十五日「 俺は一人、惡の神になつて仇を討つのだ 」


磯部は事件の經過や、裁判の實情を看守の目をぬすんで書き出した。

世の人々に事件の眞實を知って貰い、日本の維新をやって貰いたいために。
そして在るべき天皇を胸に描き現實の天皇を磯部は激しい諫争の言葉をもって訴えた。
それは絶望必死の叫喚である。
「 日本國中の者どもが、一人のこらず陛下にいつはりの忠をするとも、
余一人は眞の忠道を守る。眞の忠道とは正義直諫することだ 」 と。
嗚呼!・・・佐々木二郎 

「 憲兵は看守長が 手記の持出しを 黙認した様に言って居るが、そうではないことを言ってくれ 」 
・ 
磯部淺一の嘆願書と獄中手記をめぐって 
・ 
磯部淺一 發 西田はつ 宛 ( 昭和十一年八月十六日 ) 
・ 磯部淺一 ・ 妻 登美子との最後の面会
・ 磯部淺一 ・ 家族への遺書
あを雲の涯 (四) 磯部淺一 
磯部淺一、登美子の墓 

昭和十二年三月、二・二六で無罪で帰隊したが停職になったので、
羅南在住十年の名残りに町を散歩し、美代治を思い出して三州桜に訪ねた。
彼女は芸妓をやめて仲居をしていた。
大広間で二人で飲んだ。
話が磯部にふれた。
「 サーさん、あの人はどうなりました 」
「 ウン、今頃は銃殺されとるかも知れん 」
「 私はあのとき、初めて人間らしく扱われました。
 誰が何といってもあの人は正しい立派な人です。一生私は忘れません 」
「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」
といった磯部の一言が、これほどの感動を与えているとは夢にも思わなかった。

底辺とか苦界とか、 口にいってもただ単なる同情にしか過ぎなかった。
磯部のそれは、苦闘した前半生から滲み出た一言で、彼女の心肝を温かく包んだのであろう。
当時、少し気障なことだとチラリ脳裡を掠めた私の考えは、私自身の足りなさであったと思い知らされた。
・・・
「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」


磯部淺一 『 日本改造法案は金科玉条 』

2022年12月19日 13時49分43秒 | 磯部淺一

日本改造法案大綱 は絶對の眞理だ。
一点一画の毀劫きごうを許さぬ。
今回死したる同志中でも、
改造方案に對する理解の不徹底なる者が多かった。

又 残ってゐる多数同志も、
殆どすべてがアヤフヤであり、天狗である。

だから余は、
革命日本の爲に同志は方案の心理を唱へることに終始せなければならぬと 云ふことを云ひ残しておくのだ。
方案は我が革党のコーランだ。
剣であつてコーランのないマホメットはあなどるべしだ。
同志諸君、コーランを忘却して何とする、
方案は大体いいが字句がわるいと云ふことなかれ。
民主主義と云ふは然らずと遁辞(トンジ)を設くるなかれ。
堂々と法案の一字一句を主張せよ。
一點一畫の譲歩もするな。
而して、特に日本が明治以後近代的民主國なることを主張して、一切の敵類を滅亡させよ。
・・・獄中日記 (四) ・・八月廿一日


磯部淺一 
「 男子にしかできないのは 戦争と革命だ 」
と、佐々木二郎の言葉に
「 ウーン、俺は革命の方をやる 」
と、磯部淺一は大きく肯いた

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( 末松太平 ) はそれで菅波中尉と親京で約束したとおり、
北一輝の 『 日本改造法案大綱  』 に対する
われわれの態度はどうあるべきかを一同にただした。
ぴたりと談笑がとだえた。 だれも意見をいわなかった。
西田税も口をつぐんだままだった。 座が白けた。
それにもかまわず、
「 それは金科玉条なのか、それとも参考文献にすぎないのか。」
と 私はたたみかけて誰かの意見の出るのを待った。
しばらくして磯部中尉が、
「 金科玉条ですね 」
とだけいった。
すかさず私は
「 過渡的文献にすぎないというものもある 」
と 応じた。
これに対しては もう誰も口を利こうとはしなかった。
・・
改造方案は金科玉条なのか
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特に力を入れたるは日本改造法案大綱 の説明であつた。
「 日本改造法案は絶對正しい。
 日本の國體を具体化した場合には政治經済外交軍事は改造法案云へる如くなる可きであつて
國體の眞姿顯現とは実に日本改造法案の實現にあると云って過言でない。
然し余は今は直ちに法案を実施しようと云ふのではない、
法案について世間に誤解され易い点 三、四を説明する。
1、民主主義と云ふことについて
日本は明治以後國民の人權を認められて中世の如き奴隷國民ではなくなつた、
忠誠王侯貴族に切り棄て御免めにされた水呑ミ百姓が
今は一國の總理大臣と法庭で争へる程の國民人權を認められたのだ。
この意味に於て明治以降の日本は天皇を中心とせる民主國になつたのだ。
天皇を中心とせる
と云ふことに注意してもらいたい、
どこ迄も天皇が中心である。
北氏の云ふ所の民主とはデモクラシー民主でもなく共産民主でもない。
國家社会主義でもなく講だん社会主義でもないことは、
北氏自らが國體論の諸言中に所謂民主主義を痛撃してゐるのを以てもわかる。
改造法案を一貫する思想は實に天皇中心主義である。
明治以降の日本は天皇を政治的の中心とせる云云と云ひ、
天皇大權の發動により國家改造にうつる云云、
天皇は全國に戒嚴を宣し云云 等々、
すべて天皇が國民の中心であらせられる可きを強調している。
民主と云ふことは自主と云ふこと、
自覺と云ふこと、
奴隷に非ざる自覺國民と云ふことである。
更に語をかへて云へば立權と云ふことに過ぎぬ。
明治以後の日本は天皇を政治的中心とせる立權國であると云ふ迄の事である。
何故に民主云ふ字を特に北氏が用ひたかと云うと、
大正年間アノ滔々タル社会主義民主主義をタタク爲に、
「 何にッ外國の直譯民主、社會主義か何ダ 日本はすでに明治維新以後立權國となり
天皇を中心とせる民主國になつてゐるではないか 何をアワテテ新シガルのだ 」
と 云ふ意味で
所謂 直譯民主社會主義をたゝく爲に民主と云ふ字をワザと用ひたのだ。
北氏の高い心境に平素少しでもふれるとハッキリする、
北氏は非常な信仰生活をしてゐる。
その信仰から日本は神國であると云ふことを口癖の様に云ふ、
この一言で充分にわかるではないか。

2、天皇は國民の總代表 國家の根性 について
天皇は國民の總代表と云ふことを外國の大統領の如くに考へるのはどうかしている。
法案の註の一に日本天皇は外國の如き投票當選による總代表ではない、
日本はかゝる國體にもあらずと明言している。
且つ國家の總代表が投票當選によるものと或る特異なる一人(日本の如き)のものと比して、
日本天皇は國民の神格的信任の上に立たれる所の絶對の存在であることを云ってゐる。
日本に於ては天皇か國民の總代表で誰も天皇に代ることは出來ないのだ。
中世に於ては 國民の代表か徳川大君であつたり足利義満であつたりした。
此の如きは絶對に日本の國體に入れないと云ふことを斷言したのだ、
改造法案を讀む者がこの点をよく讀んでいないので常に變な誤解をする。

3、國體に三段の進化があると云ふこと
これは云ふ迄もない
國體には三段の進化がある。
軍人勅ユの前文に明かに三段の進化を詔せられている。
國體とは三種神器そのもののみではない、
法的には主權の所在を國體と云ふのだ。
中世に於て主權の所在は武家にあつた、
軍人勅ユに 「 政治の大權も又その手に落ち 」 と 詔せられているではないか。
これは明かに武門が政治大權を握り天皇は皇權を喪失しておられた事を意味するのだ。
・・・獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 


ヒットラー流ドイツ式統制の幕僚等が、
改造法案は民主主義だ、國體に容れない、
等々愚劣極まる評をしておりますが、
思想は斷じて正しく、
歴史の進化哲学に立脚せる社會改造説、
日本精神の近代的表現、
大乗佛教の政治的展開であって、

改造法案の如きは實に日本國體にピッタリと一致しております。
否 我が國體そのものを國家組織として、
政經機構として表現したものが、日本改造法案であるのです。

決して、外來の社會主義思想でなく、又 米國に露國に見る如き民主、共産思想でもないのです。
北氏は著書 「 國體論 」 に 於て
『 本書の力を用ひたる所は所謂講壇社會主義と云ひ、 國家社會主義と稱せられる鵺的(ヌエテキ)思想の軀逐なり 』
と 云ひ、
『 著者の社會主義は固よりマルクスの社會主義と云ふものにあらず、
又 その民主主義は固よりルソーの民主主義と云ふものに非ず 』
と 云ひ、
先覺者的大信念を以て 「 國家、國民主義なり 」 と斷じております。
而して國民主義については、
「 國家の部分をなす個人が、其の權威を認識さるることなく、國民主義なるものなく 」
「 權威なき個人の礎石をもつて築かれたる社會は奴隷の集合である 」
と 云ひて、
自覺せる國民、自主的國民を以て國家がつくらねばならぬと鞏調しています。
又 その國家主義については、
「 世界聯邦論は聯合すべき國家の倫理的獨立を單位としてのことなり 」
と 云ひて、
人類進化の單位をどこ迄も國家として、徒らなる世界鞏調主義をたたきつけてゐるのです。
更に改造法案に於ては、
「 若し此の日本改造法案大綱に示されたる原理が、
國家の權利を神聖化するをみて、
 マルクスの階級闘爭説を奉じて對抗し、
或は個人の財産權を神聖化するを見て、
クロポトキンの相互扶助説を戴きて誹議せんと試むる者あるならば、
それは明らかにマルクスとクロポトキンの方が著者よりも馬鹿だから、てんで問題にならないぞ 」
と 云って、
欧米思想の中軸たり近代改造思想の根拠たる二つのものに対し
烈々たる愛國的情熱を以て國家の權利の神聖を叫んでおります。
又曰く
「 國内に於ける無産階級の闘争を容認しつつ、
 獨り國際的無産者の戰爭を侵略主義なり軍國主義なりと考ふる欧米社會主義者は、根本思想の自己矛盾なり 」
「 國際間に於ける無産者たる日本は、彼等(英露)の獨占より奪取する開戰の權利なきや 」
 等飽く迄 直譯社會主義、民主主義、共産主義等の非日本的なるものと戰ひ、
日本精神の新たなる発揚、日本國體の眞姿を顯現せんとしてゐるのです。
北氏が改造法案の結論に於て、
「 國境を撤去したる世界の平和を考ふる各種の主義は、全世界に与へられたる現實の理想ではない。
 現實の理想は何れの國家が世界の大小國家の上に君臨するかと云ふにある。
日本は直約社會主義、民主主義、共産主義などの愚論にまよってゐてはならぬ 」
と 云ひ、
神の如き權威を以て
「 日本民族は主權の原始的意義、統治權の上の最高の統治權が國際的に復活して、
 各國家を統治する最高國家の出現を覺悟すべし 」
と 云って居る所は、
正に我建國の理想たる八紘一宇の大精神を、
現日本に實現せんとする高い愛國心のあらわれであるのです。

以上述べました通りに、
北氏の思想は決して所謂民主々義思想ではないのです。

北、西田氏を殺す為に、
「 絶對に我が國體に容れざる思想 」
と 云ふ文句を頑として入れてゐるのです。
そして彼等は、改造法案の私有財産限度は、
段々限度を低下すると共産主義になるから國體に容れないと云ひ、
皇室財産を没収すると書いてあるから國體に容れぬと云ひ、
天皇が國體の總代表と書いてあるから國體に容れぬと云ひ、
ことごとく故意に曲解し、

無理に理窟つけ、
甚だしきは嘘八百を云って判決をしてしまつたのです。

私有財産については、北氏は
「 私有財産を認むるは、一切のそれを許さざらんことを終局の目的とする諸種の社會革命説と、
 社會及人生の理解を根本より異にするを以て也 」
と 言ひ、
「 私有財産を尊重せざる社會主義は、如何なる議論を長論大著に構成するにせよ、
 要するに原始的共産時代の回顧のみ 」
と 言ひ、
「 私有財産を確認するが故に、尠しも(スコシモ)平等的共産主義に傾向せず 」
と 云ひ
「 此の日本改造法案を一貫する原理は、國民の財産所有權を否定する者に非ずして、
全國民に其の所有權を保障し享楽せしめんとするにあり 」
等、至る所に、重ね重ねて、私有財産を確認せねばいけないと云ふことを云っております。
又、その限度については、
「 最小限度の生活基準に立脚せる諸多の社會改造説に對して、
 最高限度の活動權域を規定したる根本精神を了解すべし 」
と云って、限度を低下さしてはいけない。
此の限度は國富と共に向上させる可き性質のものであることを明言して居ります。
法務官等の云ふ、限度を低下すると共産主義になる等は、出鱈目も甚だしい惡意の作り事であります。
皇室財産については没収等云ふ字句は斷じてないのです。

「 天皇は國民の總代表たり 」 と 云ふことが國體に容れない、
と云ふ我帝國陸軍の法務官及び幕僚は、

國民の總代表が何人あつたら國体に容れると云ふのでせうか。
徳川家康がいいのか、源頼朝がいいのでせうか、或は米國の如き投票當選者がいいのでせうか。
北氏は、大日本國民の總代表は天壌無窮に絶對に天皇であらせられるのに、
中世に於ては頼朝、尊氏の徒が、近世に於ては徳川一門が國家を代表して居た。
此の如きは我が國體に容れざる許すべからざる事である。
明治維新以後の日本に於ては、中世の如き失態を繰返してはならぬ。
又、近年欧米の社会革命論を鵜呑みにした連中が、無政府主義をとなへ、
天皇制の否認をなしなどして居るが、そんな馬鹿気た事に取り合ってはならぬ、
と いましめてゐます。
「 國民の総代表が投票当選者たる制度の國家が、或特異なる一人たる制度の國(日本の如き)
より優越なりと考ふるデモクラシイは、全く科學的根拠なし。
國家は各々其國民精神と建國歴史を異にす 」
と云って、法案著述當時の滔々たるデモクラシイ思想に痛棒を喰はしています。
又、「 米國の投票神權説は、當時の帝王神權説を反対方面より表現したる低能哲学なり、
日本は斯る建國にも非ず、又斯る低能哲学に支配されたる時代もなし 」
と云って、投票當選による元首制を一笑に附してゐるのです。
恐らく法ム官は、總代表即投票と考へたのでせうが、然りとせば、軽卒無脳(能)のそしりをまぬかれません。
又、國体に進化があるなどと云ふことはけしからんと云ふのが彼等の云ひ分ですが、
これはあまりに馬鹿気たことで、殆んど議論にもなりませんから、説明をやめておきます。
要するに、北氏の思想は、決して所謂社會主義でも民主主義の思想でもありません。
髙い國家主義、國民主義の思想であります。
而して天皇 皇室に対し奉つては熱烈な信仰をもつております。
実に日本改造法案全巻を貫通する思想は、皇室中心尊皇絶對の思想で、これは著者の大信念であるのです。
北氏が法案の諸言に於て、
「 天皇大權の發動を奏請し、天皇を奉じて國家改造の根基を完うせざるべからず 」
と云ひ、又、巻頭第一頁に於て、
「 天皇は・・・・天皇大權の發動により三年間憲法を停止し、両院を解散し全國に戒嚴令を布く 」
と云って居るのは、
日本の改造は外國のそれと根本的にちがひ、
常に天皇の大號令によつてなされるべきであることを明確にし、
諸種の改造論者と雑多な革命論に對して、一大宣告をしてゐるのです。
國家改造議會の條に於て、
「 國家改造議會は天皇の宣布したる國家改造の根本方針を討論することを得ず 」
と云ってゐるのも、巻八の末尾に於て
「 天皇に指揮せられたる全日本國民の運動によつて改造をせねばならぬ 」
と云ってゐるのも、凡て北氏の信念であります。
氏の日常 「 自分は祈りによつて國家を救ふのだ 」 「 日本は神國である 」
「 天皇の御稜威に刃向ふものは亡ぶ 」 等等の言々句々は、
すべて天皇に對する神格的信仰のあらわれであります。
・・・獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想 


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北一輝 

社会に対する認識及國内改造に關する方針
一言にして申しますれば、
現在の日本は其の内容は經済的封建制度とも申すべきものであります
三井、三菱、住友等を往年の御三家に例へるならば、 日本は其の經済活動に於て、
黄金大名等の三百諸侯に依って支配されて居るとも見られます
随って政府の局に當る者が、政党にせよ、官僚にせよ、又は軍閥にせよ、
夫等の表面とは別に、内容は經済的大名等、
即ち財閥の支持に依て存立するのでありますから、
總て悉く金權政治になって居るのであります
金權政治は、如何なる國の歴史も示す通りに政界の上層部は勿論、
細末の部分に亘りても、悉く腐敗堕落を曝露する事は改めて申す迄もありません
最近暗殺其他、部隊的の不穏な行動が發生しましたが、
其時は即ち金權政治依る支配階級が、其の腐敗堕落の一端を曝露し始めて、
幾多の大官、巨頭等に關する犯罪事件が続出して、
殆んど両者併行して表はれて居る事を御覧下されば御判りになります
一方日本の對外的立場を見ます時
又 欧州に於ける世界大二大戰の気運が醸成されて居るのを見ます時、
日本は遠からざる内に對外戰争を免かれざるものと覺悟しなければなりません
此時戰爭中又は戰爭末期に於て、
前例、ロシヤ帝國、獨逸帝國の如く國内の内部崩壊を來す様なことがありましては、
三千年の光榮ある獨立も一空に歸する事となります
此点は四、五年來漸く世の先覺者の方々が認識して深く憂慮して居る処であります
其処で私は、最近深く考へまするには、
日本の対外戰爭を決行する以前に於て
先ず合理的に國内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります
國内の改造方針としては、金權政治を一掃する事、
即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る冨を國家に所有を移して、國家の經營となし、
其の利益を國家に歸属せしむる事を第一と致します
右は極めて簡單な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る処に存在して居りますので、
単に夫れ等の所有を國家の所有に名義変更をなすだけで済みます
又 其従業員即ち重役から勞働者に至る迄、
直ちに國家の役人として任命する事に依りて極めて簡單に片付きます
私は人性自然の自由を要求する根本点に立脚して、
私有財産制度の欠く可からざる必要を主張とて居ります
即ち 共産主義とは全然思想の根本を異にして、
私有財産に限度を設け、
限度内の私有財産は國家の保護助長する処のものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります
私は約二十年前、資産限度は壱百萬圓位で良からうと考へましたが、
之は日本の國冨如何に依る事でありまして、
二百萬圓を可とし、三百萬圓を可とすると云ふ様な實際上の議論は共に成立つ事と存じます
只根本原理として皇室に雁行するが如き冨を有し、
其冨を以て國家の政治を壇に支配するが如きは、
國家生存の目的からしても許す可からざるものであり、
同時に共産國の如く國民に一銭の私有をも許さぬと云ふ如きは、
國民の自由が國家に依って保護さるべきものなりと云ふ、自由の根本原理を無視したものとして、
私の主張とは根本より相違するものであります
故に私の抱懐する改造意見としては日本現在に存する、
一、二百萬圓以上の私有財産を (随って其の生産機關を)國家の所有に移す事だけでありまして、
中産者以下には一点の動揺も与へないのを眼目として居ります
若し此点だけが實現出來たとすれば、
現在の日本の要する歳出に對しては
直ちに是等の収益だけを以て充分以上に足りて餘りあると信じます
即ち 今の租税の如きは其の徴収の必要を認めなくなります
此事は根本精神に於いて國民の自由と平等が(即ち當然國民の生活の安定が)
國家の力に依って保護助長せらるべきものなりと云ふ事を表はして居るのであります
從って維新革命の時に已むを得ざる方便として存在せしめて居る今の華族制度は
封建時代の屍骸として全廢する事の如きは言ふ迄もありません
日本の國體は一天子を中心として万民一律に平等差別であるべきものです
夫れでは如何して此の改造を實現すべきかの手段を申上げます
此の改造意見は日本に於いてのみ行はれ得るものであります
即ち 聖天子が改造を御斷行遊ばすべき大御心の御決定を致しますれば
即時出來る事であります
之に反して 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、
百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません
此点は革命を以て社會革命をなして來た諸外國とは全然相違するので、
此点は私の最も重大視して居る処であります 私は皇室財産の事を考へました
皇室財産の歴史は帰する処徳川氏時代の思想的遺物に加へて
欧州王室等の中世的遺物を直譯輸入したものであります
日本皇室は言ふ迄もなく 國民の大神であり、國民は大神の氏子であります
大神の神徳に依りて國民が其の生活を享楽出來るものである以上、
當然皇室の御經費は國民の租税の奉納を以てすべきものでありまして、
皇室が別に私有財産を持たれて別途に収入を計らるる事は
國體の原理上甚だ矛盾する処と信じて居ります
一方、 共産黨の或者の如きは皇室に不敬を考へる時、
日本の皇室は日本最大の 「 ブルジョア 」 なり
と 云ふ如き誤れる認識を持つ者を見るに就きましても、
皇室財産と云ふ國體の原理に矛盾するものは是正する必要ありと思ひます
私は皇室費として数千万又は一億圓を毎年國民の租税より、
又は國庫の収入より奉納して御費用に充て、皇室財産は國家に下附すべきものと考へて居ります
此の皇室財産の國家下附と云ふ事が私の改造意見實行の基点を爲すものであります
聖天子が其御財産を國家に下附する模範を示して、
國民悉く 陛下の大御心に從ふべしと仰せらるる時、
如何なる財閥も一疑なく 大御心に從ふべきは、火を賭るより瞭かなりと信じます
即ち 諸外國に於ける如き流血の革命惨事なくして、
極めて平和に滑らかに改造の根本を建設することが出來ると信じます
私は十八年前(大正八年) 「
日本改造法案大綱  」 を 執筆しました
其時は五ケ年間の世界大戰が平和になりまして日本の上下も戰爭景気で、
唯 ロシア風の革命論等を騒ぎ廻り 又 ウィルソンが世界の人気男であったが爲に、
其の所謂以て非なる自由主義等を傳唱し、
殆んど帝國の存在を忘れて居る様な状態でありました
從って何人も称へざる世界第二大戰の來る事を私が其の書物の中に力説しても、
亦私が日本が大戰に直面したる時 獨逸帝國及びロシヤ帝國の如く
國内の内部崩壊を來す憂なきや如何等を力説しても、
多く世の注意を引きませんでした
然るに、四、五年前から漸く世界は
第二次大戰を捲き起こすのではないかと云ふ形勢が 何人の眼にもはっきりと映って參りましたし、
一方國内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産者以下の生活苦勞等が
又 現實の問題として何時内部崩壊の國難を起すかも知れないと云ふ事が
又、識者の間に認識せられ憂慮せられ參りました
私は私の貧しき著述が 此四、五年來社会の注意を引く問題の時に
其一部分の材料とせらるるのを見て、 是は時勢の進歩なりと考へ、
又 國内が大転換期に迫りつつある事を感ずるのであります
従って國防の任に直接當って居る青年将校、
又は上層の或る少數者が、外戰と内部崩壊との観点から、
私の改造意見を重要な參考とするのだとも考へらるるのであります
又私は 當然其の實現のために輔弼の重責に當る者が大體に於て此の意見、
又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、
其 人物への大命降下を以て國家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります
勿論世の中の大きな動きでありますから、他の當面の重大な問題 例へば 統帥權問題の如き、
又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、
或は血生臭い事件等が捲き起こったりして、
實現の工程はなかなか人間の智見を以ては餘め豫測する事は出来ません
從って餘測すべからざる事から吾々が犠牲になったり、 獨立者側が犠牲になったり、
總て運命の致す処と考へるより外何等具体的に私としては計畫を持っては居りません
只私は 日本は結局改造法案の根本原則を實現するに到るものである事を確信して
如何なる失望落胆の時も、此確信以て今日迄生き來て居りました
即ち 私と同意見の人々が追追増加して參りまして一つの大きな力となり、
之を阻害する勢力を排除して進む事を将來に期待して居りました
両勢力が相對立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難い時は、
改造的新勢力が障害的勢力を打破して、
目的を遂行する事は又、當然私の希望し期待する処であります
但し 今日迄私自身は無力にして未だ斯の場面に直面しなかったのであります
私の社會認識及國内改造方針等は以上の通りであります

・・・
北一輝 3 「 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を実現することが出来ません」 


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八月一日  菱海入道 誌
何にヲッー!、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、
死ぬることは負ける事だ、
成佛することは、譲歩する事だ、
死ぬものか、成仏するものか
悪鬼となって所信を貫徹するのだ、
ラセツとなって敵類賊カイを滅盡するのだ、
余は祈りが日々に激しくなりつつある、
余の祈りは成佛しない祈りだ、
悪鬼になれる様に祈っているのだ、
優秀無敵なる悪鬼になる可く祈ってゐるのだ、
必ず志をつらぬいて見せる、
余の所信は一部も一厘もまげないぞ、
完全に無敵に貫徹するのだ、
妥協も譲歩もしないぞ

余の所信とは
日本改造法案大綱 を一点一角も修正する事なく完全に之を實現することだ
方案は絶對の眞理だ、
余は何人と雖も之を評し、之を毀却きごうすることを許さぬ
方案の心理は大乗佛教に眞徹するものにあらざれば信ずる事が出來ぬ
然るに 大乗佛教 所か小乗も ジュ道も知らず、神佛の存在さへ知らぬ三文学者、軽薄軍人、道学先生等が、
わけもわからずに批評せんとし 毀たんするのだ。
余は日蓮にはあらざれども 方案を毀る輩を法謗のオン賊と云ひてハバカラヌ
日本の道は日本改造方案以外にはない、
絶對にない、
日本が若しこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の没落の時だ
明かに云っておく、改造方案以外の道は日本を没落せしむるものだ、
如何となれば
官僚、軍幕僚の改造案は國體を破滅する恐る可き内容をもつてゐるし、
一方高天ヶ原への復古革命論者は、ともすれば公武合体的改良を考へている、
共産革命家復古革命かが改造方案以外の道であるからだ
余は多弁を避けて結論だけを云っておく、
日本改造方案は一点一画一角一句 悉く心理だ、
歴史哲学の心理だ、
日本國體の眞表現だ、
大乗仏教の政治的展開だ、
余は方案の爲めには天子呼び來れども舟より下らずだ。
・・・獄中日記 (一) 八月一日 


磯部手記

2018年04月12日 16時48分05秒 | 磯部淺一

磯部手記
( 閣下の大臣御就任直後 入手せるものなるも、御眼にかける程のものならずと判断し、
  今日迄手元に止め置けり )  以上 森の筆か

 
磯部浅一 

一、十一月廿日事件前後 橋本次官の態度
イ、十一月廿日事件直接の責任者は、永田前局長が各方面に対して、「 永田に非ずして 橋本次官なる 」 ことを公言せり。
ロ、十一月廿日朝、橋本次官、田代司令官、永田局長の三人帯同し、
  林陸相に対し青年将校を弾圧す可き、要之に十一月廿日事件なる架空事件を惹起し、
軍司法権の歪曲、不当の結果 ( 之は証拠なし、不起訴のものを証拠不充分不起訴となし、
三将校停職、五候補生退校 ) を 招来し、
今日の軍不統制の原因を作りしは永田局長と罪責同断ならざるべからず。
二、真崎総監更迭前後 橋本次官の態度
イ、統制強化の美名の下に青年将校の弾圧 ( 免官問題 )、
ロ、真崎総監更迭により表面化されたる正義派将軍の排撃 ( 騎兵閥将軍の中央進出を策せる事実)、
ハ、機関説排撃運動抑圧 ( 砲工学校学生の機関説問題に対する同期生声問題 )、
  維新機運阻止により支配階級に阿ゆ追随せること、
要するに、右は橋本、永田の合作を以て林陸相をロボット的に操縦して行はれたるものにして、
青年将校一般に永田局長に対する以上に 橋本次官に増悪の念を有しあり。
三、相澤事件に関連せる次官の態度
イ、巷説盲信の宣伝をなせるは次官なることの立証あり。
ロ、其後悪らつなる新聞操縦は次官に関係深き二、三幕僚の妄動なること、
ハ、事件後次官の官邸を憲兵の外に警視庁巡査により護衛せしめたること。


夢見る昭和維新の星々

2017年12月13日 20時05分07秒 | 磯部淺一

≪ 昭和7年 ≫
七月はじめの日曜日であった。
例によって、青山五丁目の菅波の下宿に、数名集まっていた。
突然、よれよれの浴衣にセルの袴をはいた、精悍な男がはいってきた。
  磯部浅一 
「今度、経理学校に参りました磯部です」
陸士三十八期、
磯部浅一中尉であった。
磯部といえば、三十八期随一の やじころ だ。
その磯部が、そろばんで ぜに を勘定する主計に転科するとは、
天と地がひっくり返るほど驚かされることだ。
「朝鮮の大邱ではどうにもなりません。
なんとかして東京に出たいと思っていた矢先、主計転科の募集があった。
これはあるかなと、さっそく応募して出てきました」
磯部もまた東京の求心力によって、
彼の最も不得意とする ぜに 勘定の学校に、前後のみさかいもなくやってきたのだ。
一応あいさつも終わって、もとの雑談的話し合いにはいったが、
「みなさん何というざまですか、
いやしくも天下国家を論じようとするとき、裸でいたり、
寝ころんで煙草吸ったり、不謹慎じゃないですか。
そんな態度で、国家の革新ができるのですか、もっと真剣になって下さい」
正座したまま黙って様子を見ていた磯部が、
いかにも概嘆に耐えぬ、といったかっこうで、タンカをきり出した。
 安藤輝三
「 そうだな、すまん 」
と、磯部と同期の安藤が、まず威儀を正した。
私も一応は呆れながらも、さわらぬ方がいいと、すわりなおした。

しかし、
その磯部が一週間もたたぬうち
一番行儀が悪くなって行くのだが、
この日を契機として、磯部は東京の舞台に躍り出て、
彼の火の玉のような情熱を、
昭和十二年八月十九日銃殺で刑死するに至るまで
約五年間にわたって燃やし続けたのである。


大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌


磯部淺一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」

2017年12月12日 19時57分48秒 | 磯部淺一

「 男子にしかできないのは戦争と革命だ 」
と 佐々木二郎の言葉に
磯部淺一は大きくうなずき
「 ウーン、俺は革命のほうをやる 」
と 答えた。
これは陸軍士官学校本科のころ、ある土曜日の夜、
山田洋、佐々木二郎、磯部淺一、三人で語り合った時のやりとりである。
  士官候補生 ・ 磯部浅一
磯部淺一 は明治三十八年四月一日、
山口県大津郡菱海村大字河原 ( 現油谷町 ) の貧しい農家の三男に生まれた。
尋常小学校を卒えると、山口市の松岡家に移る
義父・・養父・松岡喜二郎
大正八年四月三十日、単身広島へ、五月一日 広島陸軍幼年学校に入校する
《 広島市大手町の旅館に泊まった。「 二郎あれを見よ 」 と 父にいわれて隣を見ると、
同じくらいの子供が一人、ポツンと坐っていた。
「 あの子は一人で来ているらしいぞ 」  と、父は感心した眼色でその子を見つめていた。
・・・佐々木二郎  》

陸士の予科に入ったばかりの頃、ある日の日曜日
下宿で、山形有朋の写真に豆腐をぶっつけ
「この軍閥野郎 」
と 叫んでいたという。

磯部は幼年学校から陸軍士官学校を卒業するまでの、
七年三ヶ月の将校生徒としての歳月の間に、
生涯の方針を定めた。
それは下級将校として、維新を己の手でやろうと決意したのだ。

大正十三年三月、
陸軍士官学校予科を卒業した磯部浅一は、
四月から六ヶ月間、朝鮮大邱にある陸軍歩兵第八十聯隊に入隊した。
十月、
陸軍士官学校本科に入校
大正十五年七月、
第三十八期として卒業し、再び原隊に帰る。
十月二十五日、
歩兵少尉に任官と同時に、大田分屯隊に派遣された。

昭和六年九月十八日、満州事変が勃発し、
朝鮮の師団は極度に緊張してきて、
満州へは大邱の聯隊から一部の部隊が出勤することになったが、
大田分屯隊は南鮮警備のため残留することになった。
それを聞いた磯部は、
同期の石丸作次と、片岡太郎 ( 四十一期 ) と共に分屯隊の将校を代表して、
大邱の聯隊本部に出かけ、聯隊長の川辺三郎大佐に意見具申して、
出勤を要請したが容れられなかった。
この頃から磯部は青年将校の革新運動の同志になって行く。
誰が磯部に誘いの手を差し伸べたか不明だが、
大蔵栄一の述懐によると 西田税の許にいた澁川善助ではなかろうかと言っている。
 澁川善助
大蔵の回想によれば
「 歩兵第八十聯隊には快男児がいる。  君側の奸を斬るべし、と高言して憚らない痛快な青年将校がいる 」
と 西田税の口から聞いたことがあるという。
西田の旨を含んだ澁川が訪ねて行ったかも知れない。
一期下だから恐らく顔は知っていた筈だと大蔵は言っている。
磯部が革新運動の陣営に加わるのは、翌七年 の夏からである。
七月の初め頃の日曜に、
青山の明治神宮参道わきにあった菅波三郎のアパートに姿を現し、
同志の将校たちが寝そべって国事を談じているのを非難する場面が大蔵の著書の中にでてくる。
これは大田時代から磯部が革新運動の列に加わっていたことを意味する。
リンク→ 
夢見る昭和維新の星々 
そして、しだいに在京の同志たちの間に重きをなして行く。
「 磯部の激しさはズシンと腹の底に響くような重さがあった。
圧迫されるような強さがあった。
同じ急進派で激しさをもっていた栗原とは、大きな違いがあった。
栗原のは軽い、アーまたか、と 同志に軽くあしらわれた 」
と 、大蔵は語っている。
この磯部の上京する前、昭和六年から七年春にかけて、
同志の将校たちがしきりに磯部を訪ねて合同宿舎に泊まりこんで、
密談しているのを、河内稔は目撃している。
「 それはお そらく私や朝山小二郎であろう。
共に羅南において私が歩兵七十三聯隊、朝山は野砲兵第二十五聯隊であった。
東京への行き帰りにはよく磯部の合同官舎に泊まったものである 」
と、佐々木二郎は語っている。

昭和六年秋から翌七年にかけて、磯部の血が騒ぐ事件がつづけさまに起こった。
未遂に終わったクーデターの十月事件、
つづいて血盟団事件、上京直前には五・一五事件が起きている。
「 朝鮮の田舎にひっこんではおれない。東京へ出なければ俺の出番はない 」
と おもったのであろう。
主計将校になって中央に転出しようと、経理部への転科願を出したのはこの七年の春のことであった。
「 磯部の主計将校ぐらい不似合なものはなかった 」
と、大蔵栄一は笑ったが、本人はしごく大真面目であった。
聯隊長はすぐ許可を与えてくれた。
「 転科願を出す時は、私は大隊副官をしていた。
ある晩、私の家にやって来た磯部はその出願動機についてこんな話をした。
『 革命をやるためには沢山の軍資金が必要である。
聯隊の金庫にはいつも莫大な現金が入っている。
この金庫の責任者は聯隊長だが、鍵を持って自由に出し入れできるのは主計将校である。
だから俺はこの金庫の金を自由に動かせる主計将校に出願したのです 』
という。なるほど良い所に目をつけたなと笑って別れた。
わしには何でも自由に話してくれたから、或は本音であったかも知れない。
しかし、磯部も革命のために金庫の金を自由に使う前に、
陸軍から追放されて折角の遠大な計画も駄目になってしまった。
十一月二十日事件でわかるように磯部は特別にマークされていたのではあるまいか 」
と、これは山崎喜代臣の回想である。
昭和七年六月、陸軍経理学校に入校した磯部は、
翌八年三月、卒業して原隊の大邱第八十聯隊に帰って来た。
しかし、激しい革新運動の渦中に身を置いてきた磯部には、一刻も早く上京したい。
そこで
「 糖尿病治療のため、東京に転勤したい 」
旨の願いを出し 近衛歩兵第四聯隊に転勤が決まったのが、八年五月の終わりであった。
いよいよ上京することになった。
これから俺の舞台は東京だと、磯部の心ははずんだ。
さっそく入院中の河内稔に決別の手紙を書いた。
「 半島の生活九年、
闘争と恋の北大邱は げにロマンスの都なりし、
今一切の我執をすて
一念耿々こうこうの志にもえて東天に向ふ。
心甚だ快なり。
君の御健闘を祈る。特に病体御大切に。
河内南樹殿    菱海書 」
昭和八年六が三日の消印がある。
躍るな筆勢である。
「 壮士一度去って亦還らず 」
といった勃々とした雄心と一抹の悲壮感
が こもごも入り混じっていた。

「 被告人磯部淺一は予て国家社会の問題に関心を有したるが、
昭和七年五・一五事件に依り大なる刺戟を受け、
同年六、七月より菅波三郎と相知り、同年八月同人が満州に転任する迄数回同人に面会し、
更に西田税、北一輝等に接し 同人等の所説を聴くに及び深く之に共鳴し、
爾来 熱烈なる国家改造論者として被告人村中孝次、大蔵大尉、安藤大尉、佐藤大尉、栗原中尉等と共に
該運動に従事し、同志連絡の中心的地位に在りたるもの 」
これは 昭和九年十一月二十日、反乱陰謀の疑義で検挙された
磯部浅一らに対する第一師団軍法会議の検察官の意見書の一部であるが、
上京後の磯部の行動を端的に表現している。
 菅波三郎
「 上京後の磯部は、私のアパートに二、三回は来た、
その都度軍内部の動向、革新運動一般の情勢について説明した。
既に改造法案は熟読しており、北、西田両氏とは会っていた。
急進派の中心的存在であったことはたしかだ 」
と、菅波三郎は語っている。
上京して後の磯部浅一は常に急進論の先頭に立っていたことは、
大蔵栄一の著 『 二・二六事件への挽歌 』 に何度か出てくる。

大蔵も
「 磯部は気迫で押しまくってくる。
こちらも気合負けしたら一挙に暴走する。必至にやり合ったものだ 」
と 述懐している。
磯部と栗原安秀中尉とが急進論の中心であったが、なぜ彼らが蹶起を急いだのか。
それは わが国の内外に問題が山積みしているのに、国内も軍部内も派閥抗争を繰り返し、
進んで国難を打開しようという真人物が、国政の中枢に座ることができない状態であったからである。

「 革命とは暗殺を以て始まり 暗殺を以て終わる人事異動なり 」
これは私宛の手紙の中にあった文句である・・・佐々木二郎

磯部が西田税の家に初めて行ったのは、上京してから間もなくの頃であったと思われる。
昭和七年の五月、西田は五・一五事件のそば杖をくって、
重傷をうけ 六月の末退院し、
七月の中旬から一ヶ月あまり湯河原へ転地療養に行っているから、
退院してから療養に出発するまでの間に行っていることはほぼ間違いない。
「 北さんの家には月に一、二度、西田さんの家には毎晩のように顔を出した 」
という大蔵の述懐によれば、
「 磯部もよく顔を出していた。
さすが豪傑の磯部も大先輩の西田さんには頭が上がらず、
素直に兄事していたのが印象に残っている 」
と 語っている。
磯部は西田から北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を 与えられ、熟読玩味したであろう。
後に免官になって閑のできた時には、改造法案を清書しているし、
獄中遺書に、
「 余の所信とは日本改造法案大綱を一点一角も修正する事なく 完全に之を実現することだ。
法案は絶対の真理だ、余は何人と雖も之を評し、之を毀去することを許さぬ。
・・・・日本の道は日本改造法案以外にはない、絶対にない、
日本が若しこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の歿落ぼつらくの時だ 」
と、絶叫し、
「 日本改造法案は一点一角一字一句悉く真理だ、歴史哲学の真理だ、日本国体の真表現だ 」
とも言い切っている。

弓張月の円くして、
射る矢は天にとゞくなり。 散れ、散れ、
散るならパット散れ、パットね
・・磯部が作った歌

須山幸雄 著
二・二六事件 青春群像  から


磯部淺一 『 國民の苦境を救うものは大御心だけだ 』

2017年12月11日 09時59分32秒 | 磯部淺一

 
磯部淺一 

磯部淺一は明治三十八年四月一日、
山口県大津郡菱海村大字河村 ( 現油谷町 ) の貧しい農家の三男に生まれた。
のち獄中日記に彼が「菱海」と号したのは、この生れ故郷の寒村の名をとったものである。
農家といっても、農業で暮らしをたてていたわけではない。父の仁三郎は左官であった。
その頃の菱海村は貧しい農漁村で、家わ新築したり、改造する人はごく稀れであった。
そのために仁三郎は遠くの町に出稼ぎに行き、家には殆んど居なかった。
家には二反(二〇アール)あまりの水田と、
山林と畑合わせてこれも二反あまりの土地があり母親のハツが一人で耕し、
作った野菜を近くの塩田の労働者たちに売って、暮らしの足しにしていた。
磯部淺一はこうした家庭に育った。

彼は物心ついた時から、母一人子一人の生活が多く、
朝から晩までまっ黒になって働く母親を見ているだけに、子供の時から親思いで働き者であった。
浅一は学校から帰ると、さっさと野良着に着かえて、畑仕事を手伝ったり、
野菜を母と二人で浜まで売りにいったりした。

磯部淺一の竹馬の友であり今も磯部の生家の近くで農業を営んでいる下瀬諒は、
少年の頃の磯部を追想してこう語っている。
「私は磯部より一級下であったが、家が近くだったので兄弟のようにして育った。
学校はごく近く(五百メートル位)だったので昼食はいつも食べに家に帰る。
二人は朝昼は一緒に歩いた。
磯部は頑丈な身体つきの元気者で、激しい気性の男であったが、
幼少な者や老人にはいたって親切であった。
しかし、大人の無理や非道に対しては、強く反撥した。
ふだんはニコニコしていて、まひとに明朗闊達であったから、先生にも友達にも好かれていた」
済美小学校では一年からずっと主席で通し、明治四十五年三月尋常小学校を卒業する時は、
当時としては例のない山口県知事の特別表彰を受けている。
それは学業が優れているばかりでなく親思いで、よく母親の仕事わ手伝い自分も野菜を作って売り、
一家の生計を助けた類いまれな孝行少年であるという理由からであった。

磯部の噂さを耳にした厚狭郡厚狭町(現山陽町)の、山口県属の松岡某(名不詳)が、
是非磯部少年を自分の力で世に出したい。  (松岡喜二郎)
自分に任せてくれまいかと申し出てきた。
松岡の夫人が菱海村の西光寺の娘であったので、
西光寺の住職が返事を渋る仁三郎夫妻を説得したと謂われる。
松岡家に引きとられた磯部は、厚狭町の大殿高等小学校に入り、ここでも抜群の成績を示した。
松岡家は代々長州藩士で、老父は古武士的な気風の人であったが磯部を一目で惚れこんだ。
頑健な身体と優秀な成績、少年ながらも気魄も闘志も充分である。
しかも、平素は明朗闊達、生まれながらの将器である。
ぜひ陸軍に入れと、熱心にすすめた。
その頃、山口県下の退役将校の親睦団体に「同裳会」という組織があった。
明治の末頃、山形有朋の主唱と毛利家からの援助で作られ、
この会によって、山口市伊勢小路に「山口県武学生養成所」が建てられた。
これは防長二州から軍人志望(主として陸軍)の優秀な少年を、軍関係の学校に入れ、
大いに後進を増強しようというものであった。
磯部もこの武学生養成所の指導を受け、
高等小学校二年の春、受験して合格、大正八年九月一日広島陸軍地方幼年学校に入校した。
磯部は幼年学校へ入った後も休暇で家に帰ると、すぐ野良着に着かえ終日まっ黒になって働いた。
「まだその頃は封建色が強く、田舎は因習にしばられていた。
貧乏人のくせに将校生徒になりおってという羨望と嫉妬のまざりあった目で磯部は世間から見られていた。
磯部はそんな世間の冷たい目を意識していたのだろう。
広島から休暇で帰る時は、人の通らない山道を歩いて家にこっそり帰る。帰るとすぐ、
つぎはぎだらけの野良着に着かえ、母を助けて畑仕事に精を出していた」・・・下瀬諒談
社会の一番下積みの階層に育ち、たえず自分わ殺し続けてきた磯部も、
広い世間に出てみると無能な奴やくだらない人間が、富や地位を得て威張っている。
磯部はそんな世の中の不条理に激しい怒りを感じ、やがて、権力者への反撥となる。
陸軍士官学校の予科に入ったばかりの頃、磯部はある日、
日曜下宿で山形有朋の写真に豆腐をぶっつけ、「 この軍閥野郎 」 と叫んだいたという。
「 男にしかできないのは、戦争と革命だ、おれは革命のほうをやる 」 と、高言していたという。
ここには少年の日の磯部の面影は全くない。
まるで山口版の二宮金次郎のようであった。
篤学で孝心のあつい勤勉な少年が、どうしてこんなに急に変貌したのか。
少年時代に抑圧されていた批判精神が、
社会の矛盾や不条理に触発されて激しい反逆精神となり、一気に燃え上がったものとみえる。
しかし、磯部の陸士在学中の反逆精神は、まだ心情的で深みをもったものではなかった。
磯部がはっきりと国家改造に志を定めたのは、朝鮮に赴任してからであり、
更に思想的に展開したのは、昭和七年六月上京して西田税の家に出入りし、西田の影響を受けてからである。
磯部は大正十五年七月、陸軍士官学校を卒業して、原隊の大邱歩兵第八十連隊に帰り十月に任官した。
任官直後大田分遺隊付を命ぜられて、大田に赴任する。
磯部はここに四年あまり居て、昭和五年大邱の本体に帰っている。
磯部が国家改造に志を定めるのは、この大田の四年あまりの時代であったと思う。
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少尉任官記念            歩兵第八十太田分屯隊営門
大正十五年十一月

料亭  『 荒川 』 別荘
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「・・・大田の料亭 「 あらかわ 」 で酒をくみ交わしながら磯部はこんなことを言った。
財閥、特権階級、それに政党は国家に害毒を流し、国民を苦しめている。
われわれ若い者が起ち上がって、こいつらの息の根をとめねばならん。
日本では昔から下級武士が革命をやっている。
源頼朝は武家政治を開いたが、下積みの田舎武士だった。
建武中興の楠正成もそうだ。
明治維新も薩摩や長州の下級武士の力で成った。
昭和の維新は、俺たち下級将校の力でやらねばならん。
そして、天皇陛下の大御心による仁慈の政治をとり返さねばならん。
この国民の苦境を救うものは、もはや陛下の大御心だけだ
と、磯部は涙を流しながら語った。
その言葉は今でも耳の底に残っている 」
と、下瀬は述懐する。

ある夕方、大体本部から、むっつりした顔で戻ってきた磯部は 
「 おい、呑みに行こう 」 というので、「 あら川 」 に行って、二人で痛飲した。
あくる朝、大隊副官が将校官舎にやってきて、
「 磯部、大隊長の所へ謝りに行け 」 と言う。
磯部は
「 自分は謝る理由がないから謝りません。処罰するなら勝手にして下さい 」
と、きっぱり断った。
わけを聞くとこうである。
大隊長の矢野少佐が磯部の部下の特務曹長に、あらぬ濡れ衣をきせて退役するように迫った。
特務曹長は口惜しさを磯部にもらした。
激怒した磯部は大隊長を面詰し、その不当なことを事例をあげて痛論した。
大隊長もやり返す、あげくの果て、磯部は大隊長を一つ二つ殴って帰ったというのである。
あとで特務曹長の冤罪を知った矢野大隊長は
「 磯部、よく殴ってくれた 」 と、手を握って礼を言ったという。
磯部という男はこんな男であった。
荒武者だったが、清廉潔白という字義通りの男で、何よりも不義、不正の許せない性格であった。
国家、国民のためならいつでも生命を捧げる気持ちでいた。
二・二六事件にはいろいろな批判のあることは知っているが、
磯部が起った気持ちは、天下万民のために起つ、止むに止まれぬ赤誠心であったと、私は信ずる。
・・・・
磯部淺一の登場
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


磯部淺一 『 ナレは功を爲せ、ワレは忠を爲す 』

2017年10月06日 12時44分53秒 | 磯部淺一


磯部淺一 

磯部に影響を与えた人物といえば、古人では日蓮と松陰であろう。
「 獄中記 」 では楠公を挙げている。
幼年学校時代の教頭藤田精一の名著 『 楠氏研究 』 の影響かどうか不明だが、
彼の性格から考えると、終始一貫、その忠道を貫きとおしたことにある。

陸士時代、山田洋と三人で語り合った人物論では、
彼は最も多く日蓮と松陰の言葉を話し、そしてよく愛用した。
勝因は同じ山口県であるので判るが、日蓮の研究は未だその端緒は摑めない。
生家は念仏の方であり、郷里には日蓮宗徒はほとんどいないという。
あるいは松岡家に引き取られている間に何かの縁があったのか、
幼年学校、士官学校時代の生徒集会所の図書から勉強を始めたのか判らない。


幼年学校の一年生の時であった。
磯部が寝台の上で坐禅し、敷布を肩に袈裟のように掛け、
説教じみたことを言うのを見て、
「 おかしな奴だなー 」 と思ったことがある。
それが法華経か日蓮の文句か記憶にない。
ただ十三歳という年齢から考えて早熟であったと思う。

まず記憶に残る日蓮の語録を記そう。
「 日蓮ハ・・・・安房ノ國長狭郡ながさのごおり 東條郷片海のごうかたうみノ海人あまガ子也 」 ・・本尊問答鈔
磯部はこのように出自をサラリと言う日蓮が好きになったのではないか。

「 夫レ國ハ法ニ依ツテ 而シテ昌ヘ、法ハ人ニ因ツテ 而シテ貴シ。
 國亡ビ人滅セバ、仏ヲ誰カ崇ム可キ 法ヲバ誰カ信ズ可ケン哉。
先國家ヲ祈ツテ須仏法ヲ立ツベシ
西法ヲ護ル者ハ應當ニ刀劍器仗ヲ執持スベシ、刀杖ヲ持ツト雖、
 我是等ヲ説イテ名ヅケテ持戒ト曰ハン 」 ・・涅槃経---立正安国論
涅槃経よりのこの文句は、家族に書き残した書の中にもある。

「 我レ日本ノ柱トナラン、我レ日本ノ眼目トナラン、我レ日本ノ大舩トナラン・・・・」
愚人ニホメラレタルハ第一ノハヂナリ・・開目鈔
日本の柱、眼目、大舩、磯部が志向したものであった。
愚人にほめられるのは恥という、この警句は、私も爾後戒めの言葉にしている。

「 世間ヲミルニ各各我モ我モトイヘドモ、
國主ハ但ただ一人ナリ、 二人トナレバ國土オダヤカナラズ。

 家ニ二ふたりノ 主アレバ其家必ヤブル。
一切経モ又カクノゴトクヤアルラン。 何ノ経ニテモヲハセ一経ノ大王ニテハヲハスラメ 」 ・・報恩鈔上

「 日本國ニ法華經ヲ読学スル人是多シ。

人ノ妻ヲネラヒ盗等ニテ打ハラルル人多ケレドモ、
法華經ノ故ニアヤマタルル人ハ無シ一人モ
サレバ日本國ノ持經者ハ名計リニテイマダ此ノ經文ニハ値ハセ給ハズ。
日蓮一人コソ讀侍レ、我不愛身命但惜無上道是也。
サレバ日蓮ハ日本第一ノ法華經ノ行者也・・南条兵衛七郎殿御書
「 日本第一 」 の言葉を磯部はよく使った。
昭和五年秋、私が結婚しての帰途、夫婦して太田の磯部を訪ねた時彼は言った。
「 奥さん、佐々木は日本一の亭主ですよ。
 佐々木、貴様にとっ奥さんは日本一の女房だよ 」 と。
なかなか味のある文句だから、後に私が仲人になった時には必ずこの文句を使った。

各 我カ弟子ト名乗ラン人ハ一人モオクシ思ハルベカラズ、
 親ヲ思ヒ 妻子ヲ思ヒ 所領ヲ顧ル事ナカレ
無量却ヨリ己來ノ事ヲ思フニ、
忽チニ親ノ爲メ 子ノ爲メ 所領ノ爲メニ身命ヲ捨ル事ハ大地微塵ヨリ多シ。
法華經ノ御故ニハ未ダ一度モステズ。
法華經ヲハリコハク行ゼシカドモカカル事出來モシカバ退轉シテトドマリニキ。
譬ヘバ湯ヲワカシテ水ニ入レ火ヲ切ルニトゲザルガ如シ。
各各思ヒキリ給ヘ、此ノ身ヲ法華經ニ替ルハ石ニ金ヲ替ヘ糞ニ米ヲ替ユル也
・・・・法華經ノ肝心諸仏ノ眼目タル妙法蓮華經ノ五字、
末法ノ始メニ一閻浮堤ニ弘マラセ給フベキ瑞相ニ日蓮先ガケシタリ。
若党共ニ陳三陳ツヅイテ迦葉阿難ニモ勝グレ天台傳敎ニモ越エカシ、
僅ノ小島ノ主等ガオドサンニ恐レテハ閻魔王ノ責ヲバ如何スベキ、
佛ノ御使ヒト名乗ナガラヲクセン事ハ無下ノ人人也ト申シ含メヌ。」 ・・種々御振舞書

「 日蓮ハ明日佐渡ノ國ヘマカルナリ。
 今夜ノサムキニ付テモ、ロウノウチノアリサマ、思ヒヤラレテイタハシクコソ候ヘ。
アハ レ 殿ハ法華經一部色心二法共ニアソバシタル御身ナレバ、
父母六親一切衆生ヲタスケ給フベキ御身也。
法華經
ヲ余人ノヨミ候ハ口バカリ コトババカリハヨメドモ心ハヨマズ。
心ハヨメドモ身ニヨマズ。色々二法共ニアソバサレタルコソ貴ク候ヘ
天諸童子以爲使刀杖不可毒不能害ト説レテ候ヘバ別事ハアルベカラズ。
籠ヲバシ出デサエ給ヒ候ハバトクトクキタリ給ヘ、見タテマツリ見エタテマツラン 」 ・・土籠御書
宿屋の牢にいる愛弟子日朗に対するものだが、磯部の最も好んでいた文書の一つ。
色心二法で、その身までも読まんとする態度が、彼の行動の中に一本通っていた。
休暇で別れる時、
いずれ見タテマツリ見エタテマツラン 」
と、笑いながら再開を約す言葉にも流用した。
後年、同じ獄中の 北 に対する心情を記したのを読むと、
この土籠御書の文が思い出されて切なかった。

昭和八年、毒瓦斯教育のため上京して二十日程、磯部と同宿した。
磯部から北、西田に会わんかと言われた時、法華経の行者を以て任ずる北一輝、
雄渾にして断定的の 『 支革命外史 』 『 日本改造法案大綱 』 の文章が頭に浮び、
それと磯部の性格や、よく談じた上記の日蓮の文章とが重なり合い、
「 これは決まった 」 と直感した。
二 ・二六事件に連座して拘禁された時に、在京の弟に 『 類纂高祖遺文録 』 を差入れさせて読んだ。
磯部がよく言った言葉が出てきて、時も時、場所も場所だけあって格別の印象であった。
いまその本より引用していて、感慨深いものがある。

吉田松陰は長州勤皇の御本尊、磯部や山田が口にするのは当然である。
ただ磯部の語る松陰は、革命家としての言動に重点があり、
野山獄中から知人に出した激しい文章が、彼の胸中に点火したと思われる。

以下、昭和十年山口県教育会編簒 『 吉田松陰全集 』 による
「英雄之鼓舞天下、唯恐民之不動、庸人糊塗一時、唯恐民之或動 」 ・・兄杉梅太郎ニ贈

「 吾輩皆々先驅テ死ンデ見セタラ観感而起ルモノアラン、

 夫ガナキ程テハ何方時ヲ待タリトテ時ハコヌナリ、且今ノ逆焰ハ誰ガ是ヲ激シタルゾ、
吾輩ニ非ズヤ吾輩ナケレバ此逆熖千年立テモナシ吾輩アレハ此逆熖ハイツテモアル、
忠義ト申スモノハ鬼ノ留守ノ間ニ茶ニシテ呑ヤウナモノハナシ
・・・・江戸居ノ諸友 久坂、中谷、高杉ナトモ皆僕ト所見違ウナリ、
其分レル所ハ僕ハ忠義ヲスル積リ 諸友ハ功業ヲナス積リ 」 ・・某に与ふ
松陰の 「 時 」 に対する考え方は後にも出るが、
忠義と功業との考え方と共に、磯部に一番影響を与えたと思う。
忠義と功業との差、この問題は三人の間によく出た話であった。

「 今人ニ云ハセ候ハハ諫死ハ皆犬死ト云ベシ 功業々々ト目ヲ付ケ候人ハ決テ諫死ハ不仕候
 併功業ハ時ニ無之而者不出來候 時至リ候ハヽ忠臣義士デナクモ功業ハスルナレハ
無理ニ吾輩其時ヲ待ツベキニ非ず候・・・・太平之世姦賊ナキハ其國柔弱ト知ルベシ
何トナレハ太平ノ人ハ皆不忠不義ヲスル人ナリ
不忠不義ヲ夫ナリニ見テ過ス士ナレハ柔弱ニアラズヤ
不忠不義ヲ的ニ 不忠不義ト云時ハ 不忠不義ノ人大ニ怒リ 忠義ノ人ヲ罪ス 是ナリ
始テ奸賊ノ名アルナリ ・・岡部富太郎に与ふ
松陰のこの激しいいらだちは、急迫せる外圧によるものだが、
一面彼の純真さからくる革命家としての本質でもあろう。磯部好みのものである。

「 吾藩当今ノ模様ヲ察スルニ在官在禄ニテ迚モ眞忠眞孝ハ出來不申候
 尋常ノ忠孝ノ積ナレハ可ナリ 
眞忠孝ニ志アラハ一度ハ亡命シテ草莽崛起ヲ謀ラネハ行ケ不申候・・佐世八十郎に与ふ

「 世ノ所謂學者而無益罪而無功ナト、
 馬鹿ヲ云テ官禄妻子ヲ保全スルヲ以テ祖先ヘノ大幸トシテ居ル古ヨリ忠臣義士誰カ
益ノ有無 功ノ有無 ヲ謀テ後忠義シタカ  時事ヲ見テタマラヌカラ前後ヲ顧ミズ忠義ヲスルテハナキカ
剰ヘ君意不可信ノ説アリ 
痛哭流涕デハナキカ乍恐  吾等ハ今公ノ恩ヲ荷フ 不容易 仮令首ヲ刎ラレテモ
吾公不君ト申事ハ得不申此事腹カ立テコタヘヌ
君側政府ノ奸吏共吾公果不君ナラハ何以諫メザル 諫不行ハ何以不退己ガ不臣ヲ爲テ
君ヲ不君ト申触ラス奴等何トモカ罵様ナシ・・入江杉蔵に与ふ
「 日下久坂僕不満ノ仲ハ待時ノ二字也  然モ人々ノ所見ナレハ深ク求ムヘカラス・・・・
 待時ノ徒 事ガ起レハ人材ガ登用セラルル如ク思フハ浅々ノ見ナリ

事起レハ人材挙用セラリハ古ヨリ豈亡國敗家アランヤ・・・・宋元ノ亡時ヲ見玉ヘ
小人ハ國ノ亡ルマテハ出精シテ國ヲ敗ルナリ
蓋シ小人先ツ内ヲ破リ敵國外ニ乗ス  古今一轍ナリ・・・・天未ダ神州ヲ棄テスンハ草莽崛起ノ英雄アラン
此英雄奸雄ナラハ國事益々嘆スベシ  唯忠義ノ極已ムヲ得サルニ逼リ玆ニ出テハ天照可有霊矣待時ノ奴

又話聖東ヤ明ノ太祖ヲ引クハ誠ニ不知ノ極ナリ 」 ・・小田村伊之助、久保清太郎、久坂玄瑞に与ふ
まえにもちょっと触れたが、
松陰の 「 忠義と功業 」 「 時を待つ 」 の論は
余程気に入ったとみえ、彼はしばしば語った。
後年二 ・二六事件蹶起前、決行の時機については
「 相手側の状況や周囲の情勢ではない。己が充実し今ならやれると思った時がその時機だ 」
これが磯部の持論だったと、大蔵栄一は私に語った。
この言は首肯できる。

「從前ノ書皆忿激ノ餘ニ出テ過當ノ言多シ  鄙懐恐クハ通シ難カラン
 今平心ニテ此書ヲ認ム・・・・然トモ神州ノ陸沈ヲ座視シテハトウモ居ラレヌ故
國家ヘ一騒亂ヲ起シ人々ヲ死地ニ陥レ度
大原策、清示策、伏見策 色々苦心シタルナリ 」 ・・小田村伊之助、久保清太郎に与ふ


自然説
子遠子遠憤慨する事は止むへし
義郷は命か 惜ひか 腹かきまらぬか 学問か進んたか 忠孝の心か 薄く成たか
他人の評は何ともあれ自然ときめた死を求めもせす 死を辞しもせす
獄に在っては獄て出来る事をする 獄を出ては出て出来る事をする
時は云わす 勢は云はす 出来る事をして
行当つれは又獄になりと首の座になりと 行く所に行く
吾公に 直に尊攘をなされよといふは無理なり
尊攘の出来る様な事を拵て差上げるがよし・・・・」 ・・入江杉蔵に与ふ

われわれ軍人は、戦場に生死を賭けて戦う職である。
死生観について語り合った時、この松陰の自然説は私にある暗示を与えたようだ。
後に親鸞に心ひかされたのは、これもその一つではなかったかと回想している。
火の如き日蓮の殉難殉教の精神、
急迫せる状況下の幕末、尊攘の大義名分を唱え、
忠孝の節義に徹して独立をかちとらんとする松陰の、純粋なる精神に磯部は惚れ込んだようだ。
下線は彼がしばしば言うところの文句である。
「 一里行けば一里の忠義、二里行けば二里の忠義 」
の高杉晋作の文句もよく出た。

昭和七年、磯部は主計へ転科のために上京して経理学校入校。
・・・リンク→磯部浅一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」
七月はじめの日曜日には菅波三郎の下宿での会合に始めて出た。
皆の話を正座して黙って聞いていた彼は
「 いやしくも天下国家を論ずるのに、
裸でいたり、寝ころんで煙草吸ったり、不謹慎じゃないですか 」
と 一本切り込んだ。
その磯部が一週間も経たぬうちに、一番行儀が悪くなったと大蔵栄一は言う。
・・・リンク→
夢見る昭和維新の星々 
その通りで、磯部の言動はちょっと高杉に似たところがある。

佐々木二郎著 一革新将校の半生と磯部浅一
日蓮と松陰の言葉  から


磯部淺一 發 西田はつ 宛 ( 昭和十一年八月十六日 )

2017年10月05日 05時28分28秒 | 磯部淺一

  → 
磯部淺一  發、西田はつ 宛
昭和十一年八月十六日

謹みて御礼を
申し上げます
平素大変に御世話に
なりました御會ひ
して御礼を申し上げる
事の出来ぬのが残念
です
何處のドイツが何と
云いたつて 先生は         
 ( 先生・・西田税 )
偉大です  そして
先生の思想信念と
私共の思想信念は
絶対に正しく正義です
大義です  私はこの
正しい強い不可侵の
信念に生きています死
ぬではありません在
天の神様にまいる
のです 悲しんで下さい
ますな  私は寔にゆか
いです
私は少年時代から何
事をしてもに勝ちま
した
如月雪の日にも勝ち
今も全勝しています
此の次も必す勝ちます
乱筆御礼
 
さよなら
 
磯部淺一 処刑三日前 の 昭和十ニ年 ( 1937年 ) 八月十六日、
西田税夫人 ( 西田はつ ) に宛てた書簡
磯部夫人の手により 獄内より持ち出された


ぬのではありません在
天の神様に□まいる    ・・・嗚呼 読むこと適わず、
のです悲しんで下さい
ますな  私は寔にゆか
いです


磯部淺一の嘆願書と獄中手記をめぐって

2017年10月03日 11時47分50秒 | 磯部淺一

磯部淺一 の歎願書と獄中手記をめぐって
元陸軍大尉   大蔵栄一

私が禁錮四年を終えて豊多摩刑務所を釈放されたのは、
昭和十四年四月二十九日の天長節の佳辰かしんであつた。
東京で約一週間を過ごした後、大分県日田市の郷里に刑余の身を養うべく帰京した。
途中、当時下関市に在住していた磯部夫人を訪ねた。
その時、婦人は涙を流しながら次のことをしみじみと語つた。
「 実は磯部が苦心して残していった遺書があるのです。
他の同志が銃殺された後、
磯部は昼間は気狂いのごとくあばれまわって、看手を困らせ、

夜になると疲れた振りをして、毛布を頭からかぶって寝込んだようにみせかけ、
看手を安心させ、油断させて毛布の中で書き綴ったものらしいです。
私が面会に行った時、立会いの看手のスキを見て、ひそかに机の下から手渡してくれました。
あぶない思いをして持出した遺書は、
やがて岩田登美夫さんなどの手で、写真に撮られ、

あるいは印刷されてしかるべき要所に、いわゆる怪文書として配られました。
虚を衝かれた軍部はびっくりすると同時に、大変困って、さっそく憲兵を動かして、
その出所を徹底的に追及して来ました。
西田夫人や私達がたびたび憲兵隊に呼び出されて、いろいろ訊問されたのはその時でした。
知らぬ存ぜぬで押し通しはしたものの、心配しましたのは何時憲兵に急襲されて、
大事な遺書が奪い去られるかということでした。
大事なものをとられたら大変と、皆で相談した結果、
北さんのお宅の裏庭の木のもとに埋めてはみましたが、やはり心配でたまりませんでした。
その頃でした。
たまたま直心道場の黒田某が来て、西郷隆秀氏に適当な隠し場所があるからとのことでしたので、
渡りに船と、さつそくその遺書は目下、西郷さんにお渡しして保管をお願いしてあります。
従つて、今ここには無いのでどうすることもできませんが、ぜひ熟読頑味して下さい。
いずれ西郷さんからもらいますから 」
と 言うことであつた。
そこで私は後日を約し、磯部夫人と袂を分つて郷里に帰つた。
 登美子夫人  西郷隆秀
しばらくたつて私は上京した。
夫人も相前後して上京してきた。
しかし、肉体的精神的苦労がつみかさなつたためか、磯部夫人はまもなく病いに倒れた。
病床で最後まで西郷氏に托した遺書の行方を気にしながらも、
不明のまま病状は次第に悪化し、昭和十六年三月十三日、夫人はついに不帰の客となつた。
私はとうとう磯部の遺書に対する夫人との約束を果すことができなつた。
あきらめきれないままに、今は行方不明になつてしまつた遺書に、限りない愛着を覚えた。

歳月は水と共に流れ去つた。
太平洋戦争から終戦へ、いくたの重大な出来事が次から次へ私の身辺を多忙にして、
いつとはなしに磯部の遺書に対する私の記憶は薄らいでいた。

昭和三十年を迎えた。
懐かしい同志諸君が、代々木原頭で殺されてから二十年目である。
菩提寺賢崇寺で二十年の法要を営むに際して、遺品の展示会を催す案が持ち出され、
その準備が進められていた。
ちょうどその時、事件当時、衛戍刑務所の看守であつた平石光久君が、
郷里善通寺に刑死者同志の遺品を多数保存してくれていることが判明した。
さつそく河野司氏が同氏を善通寺に訪ねて、遺品、遺書の提出方を交渉して快諾を得、
その一部を持つて帰京した。
それは磯部浅一が心血を濺いで獄中に書き綴つた得難き遺書であつた。
私は亡き磯部未亡人との約束を果す意味から、その遺書を河野氏から借り受けて自宅に持ち帰つた。
途中所要のため、内幸町のステージクラフヘに立ち寄つた。
経営者桑島氏の要請に応えて、その遺書を同所において開いた。
たまたま同席していた弁護士早川某氏も披見に及んで、感激を新たにしていた。
早川氏と同道していた池内某氏が、
「今のは何です?」
「 遺書です。二・二六事件の磯部氏の遺したものです 」
「 そういえば、私の金庫にしまつてあるものがそれに類するものらしい。
実は十数年前、西郷隆秀氏から持ちこまれたものです 」
と 言つた。
私は、磯部の霊のひき会せかと、あまりの偶然さにわが耳を疑つた。
間もなく、桑島氏、早川氏の厚意ある努力によつて、
長い間行方不明になつていた問題の遺書の一部が、賢崇寺の遺品展示会場に陳列されて、
多くの参列者に当時を忍ぶ好個の材料として珍重されたのである。
磯部夫人があれだけ大事にしていた遺書、死ぬまで心にかけていた遺書、
その遺書が二十年後の今日、しかも同じ磯部の手になつた別の遺書がきつかけとなつて、
私等の前に出現してきたことを思うと、その奇しき因縁に私は驚かざるを得ないのである。
・・・河野司著 二・二六事件 から

その苦心の遺書はある右翼の人の手に渡り、
金に困った右翼の一人が敗戦後それを金にしようとしたものらしく、
全然関係のない弁護士の金庫の中に長い間保存されてあった。
「 やはり人間の魂はあるものだと思った。
平石氏が保管していた遺書を、私が持って帰る途中、ふと用件を思い出して知人の家によった。
そのありさまは河野さんの本 (二・二六事件 ) に 書いておいたが、そこで偶然居合わせた弁護士が、
私の所にもそれと同一のものがあるというのだ。
こうして夫人の手によって持出された遺書と、平石氏によって持出された遺書が、
磯部の死後十八年を経て同一の場所に落ち着いたのだ。
磯部の魂がこの遺書を守ったとしか思えない 」・・・大蔵栄一


男児の本懐

2017年10月02日 19時52分51秒 | 磯部淺一

男児しかできないのは
戦争と革命だ
佐々木二郎の言葉に


ウーン、
俺は革命の方をやる

と、磯部浅一は大きく肯いた

陸軍士官学校本科頃の事
磯部浅一 
20才の決意である

 
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。
・・・磯部浅一 ・ 行動記 ・・いよいよ始まった


「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」

2017年10月01日 19時45分32秒 | 磯部淺一

昭和九年十一月、いわゆる士官学校事件が起きて、
村中孝次大尉、片岡太郎中尉、磯部浅一一等主計大尉が検挙され、
十年四月証拠不十分で不起訴、停職処分を受けた。
北鮮の田舎にいて詳しいことはわからぬが、陸大の学生である村中、士官学校区隊長の片岡、
主計の磯部という、一人として実兵を持たぬ者が、軍隊を率いて事を起こすということは
一般軍事常識のあるものから見ればおかしなことで、これはデッチあげと思った。
私の隊から歩兵学校派遣中の池田中尉も参加の一人と目されていたようだ。
営外居住者の給養のよい朝鮮で、教える兵は遠く郷里を離れて来ているので、
その貧窮の状態を、目のあたりに見ることができぬ。
このことは将校自身よほど反省しないと、兵から浮き上がると考えて、
学校に派遣される将校に磯部らを紹介し、その言動にふれて世の動きや考え方の参考にするように勧めた。
池田中尉もその一人であったが、帰隊後の話では士官学校事件は何も知らなかったようだ。
私がデッチあげと判断したのは誤りではなかったと思った。
磯部浅一 
昭和十年六月
( 日時は記憶にない )
磯部が突然羅南の私を訪ねて来た。
ちょうど週番指令勤務中で、中隊長室で二年振りに会った。
十一月事件で身体が弱っておらぬかと思ったがなかなか意気軒昂であった。
その夜は朝山大尉のところに頼み、翌日から、私の家に泊めた。
「 今度の旅行は何か 」
「 ウン、林 ( 陸相 ) の奴が、眞崎(教育總監)を罷めさすために
南、宇垣との打ち合わせに満鮮旅行をしている。
奴の乗る飛行機の線を切断してやろうと狙ったがなかなか難しい。
ズッとおれは後をつけて監視しているのだ 」
彼らしいいいぐさであった。
「 佐々木、改造法案をどう思うか 」
「 大正八年に、あの場所(上海)でこれを書いた北の見識には敬服するよ。
しかし今は社会情勢も相当変わっているからノウ 」
「 それなら貴様の案を出してくれ 」
磯部の論法は昔からこれだ。
そう右から左へ われわれにそんな案ができるものではない。
百も承知でそれをいう。
「・・・・・・」
「 無ければ次善の策としてこれで行こう。おれは改造法案をそのまま信ずる。どうか佐々木 」
磯部の気分転換のため書物を二、三冊出した。
彼はチラリと見ただけでとり上げようともしない。
気に入らぬときの表情と態度だ。
しばらく沈黙が続いた。
「 貴様の隊の兵隊はどこか 」
「 東北の第二師団管区の兵だ 」
「 東北はひどいぞ。幕僚の奴、東北の冷害視察の報告のなかで、
東北の百姓は貧乏で苦しいといいながら、娘に銘仙を着せておると吐かす。
人の苦しんでおるのを旅費討伐で二等寝台 ( 今の一等 ) で寝ながら眺めて、
銘仙を着せるのは贅沢とは何か。
自分の女房子供には何を着せているのか。苦しくとも年頃の娘の晴着に、
銘仙の一枚も着せてやりたいのは親心としてあたりまえだろう。
こんな奴はみんな叩き殺さにゃ世の中はよくならん。
佐々木、おれはやるぞ 」
私は、子供の頃からの友人である磯部の気持をよく知っている。
彼は情に脆く案外弱いところがある。
その弱気を反省し鞭打って一筋に前進する型の男だ。
十一月事件でまざまざと幕僚の仕打ちを体験し心底から怒ったであろう。
そして真正面からこの悪にぶつかろうとしているのだ。
陸士時代
おれは革命で行く
と いい、
「 主計転科は革命のための上京の手段だ 」
と いったことを思い出した。
彼の性格からすると東京で急進論の先鋒になるだろう。
今までは東京における運動者としてはまだ新米だし先輩もいる。
しかしながら、十一月事件というものを体験した彼の発言力と影響力は強くなるだろう。
私はある危惧の念が起きた。
「 磯部、貴様の気持はよくわかるが、自重して軌道をはずれるなよ 」
「 何をいうか、この腐った世の中で、その腐った奴が権力を握っている。
そいつを倒すのに合法で何ができる。
非合法だ、無限軌道だ。おれはことさらに、軌道をはずれるのだ 」
と 机を叩いていった。

磯部は私の親友である。
私に万一のことがあれば、山田洋とともに一番先に泣いてくれるであろう。
しかし物事の考え方は必ずしも全部が同一ではない。それは当然のことである。
しょせん人間はあるところにおいては孤独である。
寂しくはあるが孤独であると沁々と思った。
その夜、朝山大尉ら野砲の将校とともに赤穂家で一席設け、
美代治という、芸妓を一人呼んだ。

佐々木、芸妓にも料理を出せよ
と 磯部がいうので、
美代治にも出した。

だいぶ席が賑やかになった頃、
森田中尉が他の席から県の役人らしい人をつれて来た。
少し酔っていた森田は座敷の中で二人絡んで倒れ、上になり下になりして騒いでいる。
私の横で飲んでいた磯部が、突如立ち上がって二人に近づき、
そこに転がっていた尺八 ( 森田のもの ) を とり上げ
上になっていた県の役人を思い切り殴った。
「 アッ 」 と 叫んだその人は、
磯部が尺八を振り上げ、例のギョロッとした目で睨んでいるのを見て、
驚いて室外に逃げた。
「 何だ、同志の者が組み伏せられているのを知らぬ顔で見るなんて、だらしないよ 」
怪訝な顔をして起き上がった森田は、磯部の言でてれ臭いような恰好だったが、
突然、壁の窓枠 ( レンジ ) に 手をかけて竹を抜き出した。
朝山と私が 「 森田よせよ 」 というと、
「森田やれやれ、若い者は破壊だ」
と 磯部が怒鳴った。
とり出した竹の組んだものを持って廊下に出た森田は、
これを振り回して硝子障子を破りだした。
バラバラン、バラバランと激しい音である。
「 森田やめんか 」
「 何だ、なぜ止める。余り老成するな。
若い者は破壊だ。森田叩き破れ 」
と 磯部が叫ぶ。
女将が来て森田は止めた。
部屋から廊下にかけて一面に破片が散っている。
美代治は激しいその場の空気に、
三味線を抱えて立ったまま、がたがたと震えている。
掃除してまた飲み直した。
話が林陸相の一行にふれた。 
その日羅南に着いたのだ。
野砲の将校と池田が、今晩夜間演習をやり、
宿舎の師団長官舎附近で空砲を打放して、
一行の胆を奪ってやると話し合っていた ( 実際はやらなかったと思う )。
今の磯部はだいぶ荒れている。
たぶん、私との間に起きた改造法案についての意見の相違からきた、
不満の欝晴らしであろう。
宴が終わって帰りがけに女将に、
「 損害は私が支払うからいってくれ 」
「 サーさん何をいうの。贔屓してもらっているのに、
硝子の十枚二十枚割ったからとて何ですか、
それよりも誰も怪我せんでよかったわ。モーさんの酔狂酔狂 」
料理屋の女将にはできた人物が多い。
美代治は気質もよくなかなかの売れっ妓であった。
満州事変で美代治に通った人がよく戦死したので、
お前はタマ通りがよ過ぎるよと、よく冷やかしたものだ。
昭和十二年三月、
二・二六で無罪で帰隊したが停職になったので、
羅南在住十年の名残りに町を散歩し、美代治を思い出して三州桜に訪ねた。
彼女は芸妓をやめて仲居をしていた。
大広間で二人で飲んだ。
話が磯部にふれた。
「 サーさん、あの人はどうなりました 」
「 ウン、今頃は銃殺されとるかも知れん 」
「 私はあのとき、初めて人間らしく扱われました。
 誰が何といってもあの人は正しい立派な人です。一生私は忘れません 」

「 佐々木、芸妓にも料理を出せよ 」 

といった磯部の一言が、
これほどの感動を与えているとは夢にも思わなかった。
底辺とか苦界とか、
口にいってもただ単なる同情にしか過ぎなかった。
磯部のそれは、
苦闘した前半生から滲み出た一言で、
彼女の心肝を温かく包んだのであろう。
当時、少し気障なことだとチラリ脳裡を掠めた私の考えは、
私自身の足りなさであったと思い知らされた。

 一革新将校の半生と磯部浅一 佐々木二郎 著から