あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

山口一太郎大尉 「 バウンダリー ・コンディション 」

2019年12月23日 17時07分06秒 | 山口一太郎

二 ・ 二六事件で蹶起将校を除くと最大の立役者は山口一太郎大尉であった。
暴発を食い止めるべく必死に努力しながらも、勃発から鎮圧にいたる四日間、
周章狼狽する軍首脳、幕僚たちを尻目に昭和維新の成功に向けて縦横無尽の活躍をした。
乱後、死刑にならなかったのが不思議なくらいだった。
そのため、彼に対する誤解や中傷が様々に生まれた。
陸軍担当記者として私が知り合った青年将校の中で最も親しかったのが山口だった。
事件にいたる激動の日々、私はしげしげと彼の許へ通い、青年将校たちの動きを取材した。
都合の悪いことは全て隠蔽する軍の体質。
彼がいなければ未だ闇の中にある問題も多々あると思う。
山口の真の姿を紹介することで、あとがきに代えたい。

 
山口一太郎 
山口は陸士三三期生。
皇道派青年将校たちの中では最古参の一人であった。
父親の勝は陸軍中将。
岳父は事件当時、侍従武官長の本庄繁陸軍大将である。
幼年学校、士官学校とも数学の天才とうたわれ、
東大理学部の委託学生となり歩兵用兵器の製作技術将校として知られた。
父の勝が長州閥のリーダー ・寺内陸相を 「 長閥横暴 」 と叫んで殴り、
退職したと伝えられるだけに、山口も父親ゆずりの反骨精神の持主だった。
東大に行ったのも、陸大出の天保銭組を嫌ったのだという。
また大変なワンパク坊主で部内では一太郎といわず 「 ワン太 」 と呼んでいた。
昭和十年、皇道派総帥の真崎甚三郎教育総監罷免にからんで
永田鉄山軍務局長暗殺事件が起きると青年将校たちはいきり立った。
山口はこのままでは第二、第三の永田事件が起きると心配、
十一年正月、荒木貞夫大将を訪れ、統制派と皇道派の和解の団結を要請した。
荒木が断ると怒った山口は酔ったふりをして 「 オイ大将、そのヒゲをひっぱらせろ 」 と 迫り、
荒木がはだしで庭に逃げたという話もある。

私が山口の名を初めて耳にしたのは昭和七年の十月事件の時であった。
当時参謀本部ロシア班長だった橋本金五郎中佐ら国家改造を唱える革新派幕僚らの桜会が、
中心になり大クーデターを計画、未遂のうちに首謀者全員が検挙され、山口もこれに連座した。
彼の容疑は科学研究所から毒ガスを持ち出したということだった。
しかし、これは彼の同期生の一人がやったことで、
彼はそれを知りながら黙って罪をかぶろうとしたという義に厚い面もあった。
この事件で、彼は大言壮語しながら酒池肉林にひたる幕僚たちの姿を見て反発、
以来、青年将校たちと幕僚の間に決定的な溝が生じた。
これが後に皇道派、統制派という陸軍を二分する派閥抗争に連なって行く。

永田事件と前後して、青年将校たちを支持する皇道派幹部は相次いで中央から遠ざけられ、
彼らを押える重しが消えた。
その中で山口は西田税らと必死になって、血気にはやる急進派将校たちを押える努力をした。
昭和十年暮れ、栗原安秀中尉が山口にこういったという。
「 第一師団が来春、満洲に派遣される前にコトを起さねばならぬ。
 戦争になれば貧乏百姓の子弟を殺すことになる 」
無謀だと山口が説得すると、
栗原は 「 無為無策の岡田内閣をつぶしてくれたら思いとどまる 」 といった。
山口は同志将校と糾合、政友会の久原房之介と図って帝国議会開会式当日の十二月二十六日、
一種の無欠クーデターを起こし、内閣総辞職に追い込もうとした。
結果は久原の断念で失敗、以後、栗原らは山口の説得に耳をかさなくなった。

事件直前、山口は計画の全容を知って驚愕した。
何しろ部隊を使った大規模な蹶起である。
襲撃目標も想像を超えるものであった。
いまさらやめろといってもきく相手ではない。
さりとて意見を異にしても、後輩の同志将校たちだ。
密告して事前に一網打尽にする気にもならぬ。
彼は悩んだ。
後に、彼はこの時の心境をバウンダリー ・コンディションという言葉を用いて説明している。
物理学で境界状況という語である。
門外漢の私には良くわからぬが、
極めて複雑な問題が入り組んですぐに答えが出せるような問題ではないということだろう。


血で彩られた蹶起は昭和天皇の激怒の前に崩壊した。
蹶起将校はもとより、北一輝、西田税といった事件と関係の薄い民間人までもが死刑となる中で
山口に対する判決は無期禁錮であった。
なぜ彼が死刑をまぬかれたのか、真相はわからない。
岳父が本庄であったからだという説も流すものもいる。
しかし判決当時、本庄はすでに予備役で陸軍大将といっても市井しせいの人にすぎぬ。
軍当局には何らの発言権もなかったはずだ。
あえて私の推論をいえば、やはり彼の技術将校としての天才的頭脳が買われたためと思う。
事件翌年、新聞に彼が獄中で山口式新兵器を発明したという記事が大々的に載った。
太平洋戦争初期に活躍した海軍零式戦闘機の二〇ミリ機関砲も彼が獄中で設計したものであった。

彼が仮釈放されたのは戦時中。
一時蒙古の鉄鉱山で鉄の増産に励んだ。
戦後は不遇だったが意気だけは盛んで 「 当時と何も変わっておらん 」
と 政財界の腐敗ぶりを慨嘆していた。
死去したのは昭和三十六年二月二十三日。
あと三日で事件満二十五年を抑える日であった。
享年、六十歳。

実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)
叛乱!
二 ・二六事件 ❶  雪の章
あとがき
山口一太郎大尉のこと
元東京日日新聞記者  石橋恒喜
・・・全文引用・・・


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