あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

野中部隊

2019年06月25日 13時21分43秒 | 野中部隊

野中大尉は玄関前で
予備隊の隊長と称する警官を相手に交渉を進めていた。
占領をおわった私たちが側で見守る前でかなり緊張したやりとりがあった。
「 我々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。
貴方達にも協力して頂きたい 」
「 そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない 」
「 警視庁はジッとしていればよい。
私のいうことを聞かず出動すれば立ちどころに射撃するがそれでよいか 」
交渉はゴタゴタして相手は野中大尉の意見に従う様子が見えない。
すると側に居た
常盤少尉がサッと抜刀して、
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
と 迫ったので、

この見幕に警視庁側の隊長はドギモを抜かれ遂に
「 解りました 」
と 降伏の意志を告げた。

野中部隊
目次
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・ 
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」 
・ 新撰組を急襲 「 起きろ! 」 
・ 歩哨 「 守則ですから通しません 」 
・ 華族会館襲撃 
・ 
加庭勝治上等兵 「 赤坂見附の演説 」 

・ 
野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」 
・ 
常盤稔少尉、兵との別れ 「 自分たちは教官殿と一心同体であります 」 

・ 「 原隊に帰れば罪は許されるのだ」 
・ 「 あの立派な中隊長殿の命令に背くことはできません 」 
・ 
帰順 ・ 沿道の群集 「万歳! 蹶起部隊万歳!」 

突然、上等兵が悲壮な声で、
「 中隊長殿は、自分らが正しいので まわりに包囲している部隊が反乱軍だから、
これに対抗して現在地を死守せよといわれました。
だから中隊長殿の命令に従って行動します 」

と キッパリ といいきった。
すると同時に もう一人の一等兵も、
「 はい、自分は中隊長殿や小隊長殿と一緒に死んでゆきます。
あの立派な中隊長殿の命令に背くことはできません 」
といって、ワッとばかりに泣き出した
上等兵も泣いた。
・・・あの立派な中隊長殿の命令に背くことはできません


帰順 ・ 沿道の群集 「万歳! 蹶起部隊万歳!」

2019年06月20日 18時33分14秒 | 野中部隊

≪ 2 9 日 ≫
まんじりともせず警戒しているうちに
ようやく夜が白みはじめた。
ホッと一息ついた時
再び陣地変換の命令が下り中隊は三宅坂に移動した。
もう その頃になると飢と寒さで誰も口をきかなくなった。
しかしお互いに我慢しているのか
一人として弱音をはく者はなかった。
三宅坂にきた頃はまだ暗く、
そんな中で

清原少尉は
全員を集め本人を中心に円陣を組ませた。
少尉は軍刀をつき胸を張ってはいるが何か沈痛の色が見える。
頭の中でいろいろまとめていたがやがて話をはじめた。
「 我々は国家をよくするため昭和維新の断行に踏切ったが、
昨日来一部同志の脱落により遂行は今や崩れかけている。
現在頑張っているのは我が三中隊と六中隊だけとなった。
そこでお前たちの決意を聞きたい。
最期の一人に成っても やり抜く覚悟のある者は手をあげてもらいたい 」
この言葉に全員は期せずして
「 ハイ 」 といって手をあげた。
「 有難う、よく決意してくれた。教官は心から嬉しく思う 」
兵隊たちはお互いに顔を見あわせて最後の天皇陛下万歳を唱えた。
やがて明るくなってきた頃、
小銃やLGに実包を込め、陣地について戦闘準備に入った。
と、その時半蔵門の坂道を私達の方に向かって戦車の列が登ってきた。

戦車が去ったあと
清原少尉は再び皆を前にして話をはじめた。
「 昨日原隊復帰の勅命が下ったそうである。
我々は今まで尊皇義軍を誇りにしていたが いつの間にか反乱軍の汚名を着せられてしまった。
ここに至っては如何ともすることができない・・・・・」
そこで言葉がとぎれた。
そしてまた思いなおしたように、
「 そこでもう一度お前たちに聞く。最後の一人になろうとも頑張る気概のある者!」
その問に全員は前回と同様に
「 ハイ 」 と答えて手をあげた。
しかし心なしか元気がなかった。
「 有りがとう、教官は心から感謝する。
しかし反乱軍の汚名を着せられたままお前たちを殺すことは忍びない、
よって残念だがこれから原隊に復帰することにする 」
少尉は目に涙を浮かべ万感胸迫り、声もつまってよく聞きとれなかった。
その後全員は陣地を撤収、
あと片付けを行い、改めて服装を正し整列の上、
清原少尉の音頭で天皇陛下万歳を三唱、
武装、タスキがけ姿で帰隊の途についた。
 ・
沿道は
至るところ鎮圧軍の陣地やバリケードが築かれ、
私たちは彼等の大規模な攻撃準備に今更に目を見張るばかりだった。
しかしそれにも増して驚いたのは
私達の進む沿道が黒山の市民で埋めつくされていたことである。
しばらく行進すると鎮圧軍によって行進が停められた。

清原少尉が相手の将校と何やら問答を始めた。
その結果、直進を避けて十字路を右折することになった。
道路沿いの市民たちが
「御苦労さま! 万歳!」
と 連呼しつつ
盛んに私たちに歓声を送ってくれた。
市民は
私たち蹶起部隊に対し心から声援しているのである。
反乱軍の汚名を着せられていても市民感情は私たちに味方しているのだ。
私たちは嬉しかった。
国政の退廃に愛想をつかした市民が私たちの蹶起に心から感謝していることが判る。

そしてまた数分後 行進が阻止された。
今度は大分強硬で清原少尉も相手将校も興奮した態度でわたり合っていた。
それに呼応して油を注ぐかのように小銃やMGの発砲が断続して響き渡った。
相手側は私たちに武装解除を要求しているらしい。
これに対して清原少尉は、
「 我々は勅命によって原隊に復帰するのだ、この勅命を阻むものは国賊である。
どうしても武装解除を要求するなら 我々は一戦を交えても勅命を遵奉するがそれでもよいか」
と 切込んでいった。

するとこの成り行きを見ていた群衆が
私たちと鎮圧軍 (近歩三)の間になだれの如く割って入り
「万歳! 蹶起部隊万歳!」
と 叫び出し
鎮圧軍を引きはなした。
この劇的なシーンは
どう表現したらよいか筆絶し得ない情景で、
今も脳裡に焼きついている。

鎮圧軍は遂に群衆の威圧に負け武装解除をあきらめ、
そのかわり 「 取れ剣 」 と 「 弾抜け 」 を命じた後、私達の行進を許可した。
道路の人垣はなお続いていた。
やがて正午近い頃原隊に着く。
営門の前には憲兵が右往左往し
報道関係の記者もカメラを携えて飛廻っている。
隊列が停止すると清原少尉が中央に立って徐ろに訓示をした。
「 出動以来お前たちには非常に苦労をかけた。
この清原を中心に一人の落伍者もなく
一糸乱れず指揮に従ってくれたことに対し教官は心から感謝する。
今回の事件は自分一人の責任であってお前達には何の罪もない。
この責任は自分がとるから
お前たちは新しい統率の下で、君のため、国のため忠勤をはげんでくれ」
いいおわった清原少尉は頭をたれ男泣きに泣いた。
訓示が済むと急に隊列が乱れ
「教官殿!」 「教官殿!」 
と 叫びながら全員は一斉に少尉にすがりついた。
そして子供のようになきじゃくった。

二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第三中隊 上等兵 沢田安久太郎 「民衆の声援」 から


常盤稔少尉、兵との別れ 「 自分たちは教官殿と一心同体であります 」

2019年06月18日 18時21分27秒 | 野中部隊

隊長護衛兵として
二九日
事態が重苦しくしている中で、
十一時頃
常盤少尉が急に全員集合を命じ、
おもむろに訓示をした。
その内容は出動以来の成り行きと、
今日までの苦労を感謝する意味のものであったが、
最後に、
「 愈々お前たちと分かれることになった。
俺は別の所に行って残された仕事をやらねばならんから 堀曹長は全員を指揮して聯隊に帰るように 」
と いった。
常盤少尉
日頃 父と仰ぎ
絶対信頼をもって服従してきた常盤少尉と今更どうして別れることができよう、
絶対にできるものではない。
「 教官殿、自分たちは別れません。教官殿が行かれる所ならどこでもお供いたします 」
「 自分たちは教官殿と一心同体であります。絶対に別れません 」
「 今まで一切を投げ出して教官殿と行動を共にしてきました。
今別れたら自分たちはどうなるのですか、どうか最後まで行動させてください 」
「 教官殿とは生死を誓いあった我々であります。今更別れるとは一体どういうことでありますか 」
隊員たちは悲痛な声をあげて常盤少尉の翻意を促した。
教官の為なら死んでもよい、
今日まで面倒を見てくれた間柄は、
親子以上の強い絆で結ばれているので絶対に断ち切ることはできないのだ。
兵は皆泣いた。
泣き叫び、号泣し
常盤少尉との別れに反発しながら自らの胸中を赤裸にブチまけた。
常盤少尉はしばし感慨にふけっていたが、
思い出したように状況説明や自分の立場などを述べて隊員に納得を求めたが、
やがて万感胸を打ち絶句した。
「 どうか 俺のいったとおりにしてくれ 」
常盤少尉もやはり人の子であった。
握りこぶしを 目にあて溢れる涙をおさえながら天を仰いで号泣した。
まことに悲愴の極みである

 二・二六事件と郷土兵 
歩兵第三聯隊第七中隊 二等兵・金子平蔵 隊長護衛兵として から


野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」

2019年06月16日 18時14分58秒 | 野中部隊

永遠の袂別 「頭ッ右」
一三・〇〇 少し前、
果然 全員集合がかかった。
急いで前庭に整列すると、
野中大尉が苦悩の色を浮かべながら別れの訓示を述べた。

野中四郎 
「 残念ながら昭和維新は挫折した。
俺は中隊長として全責任をとるからお前たちは心配せずに聯隊へ帰れ。
出動以来の労苦には心から感謝している。
満州に行ったら国の為に充分奉公するように。
ではこれで皆とお別れする。
堀曹長に中隊の指揮を命ずる 」

野中中隊長はいいおわると静かに台をおりた。
代って 常盤少尉も同じように別れの辞をのべると
兵隊の中から感きわまってススリ泣く声がおこった。
訓示が終わった直後
兵隊たちは少尉の周囲に集り
「教官殿、別れないで下さい。自分達はどこでも一緒に行きます」
と 口々に叫び帰隊を拒んだ。
これに対し少尉は情況と立場を説明して諄々と納得を求めたが、
兵隊たちは一向に聞き入れようとしないので、
少尉は遂に嗚咽し握りしめた拳を目にあて天を仰いだ。
我々も泣いた。
ここで野中大尉や常盤少尉と離別するのは忍びがたく、
すべてが終わった今、
落城の心境は只々涙にとざされるばかりであった。
やがて兵隊たちは思いなおし、
列を整え私の号令でお別れの部隊の敬礼を行った。

「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」

私はその時万感胸に迫り、刀を握る手が小刻みに震えていた。
野中大尉は感慨深そうに一同を見渡しながら長い時間をかけて答礼した。
大尉の手が静かにおろされ
答礼が終わっても私はなかなか「直れ」の号令が出なかった。
「もうこれで野中中隊長等とは永別するかも知れぬ」
そういった悲しみが切々と胸を打ち、
日頃機械的に行っていた敬礼の動作とは異なり、
心から慕う者だけがなり得る精神的衝動にかられたからである。
別れの儀式がおわると
野中大尉、常盤少尉、桑原特務曹長の三名は
陸軍大臣官邸に向かって出て行った。
一三・三〇、
服装を整え、
清掃をすませた我々は帰隊の途についた。

途中坂を下ったあたりで
戒厳参謀と思われる少佐から停止を命ぜられ実包を没収された。
次いでそこにいた中隊のある将校がいきなり
「 只今から俺が指揮して帰隊する 」
と いい出した。
そこで私は
「 中隊長殿から命令されているので自分がつれて帰ります 」
と いうと
彼は強引に私の言葉を打消して
やおら号令をかけた。
「 気オツケーッ、唯今より本官が指揮をとる、右向けーッ右!」
「・・・・・・」
だが
兵隊は一人として動かなかった。
「 出動もせず、今頃ノコノコやってきて指揮をとるとはもっての他だ、
出動した者が帰隊の指揮をとるのが当然てはないか、堀曹長の指揮でどこが悪いのか 」
兵士全員の心にそのような反発があった。
この間私は蹶起がこのような結果に終わったので、
兵隊の中に途中で自決する者が出てはならないと 営門につくまで心配しつづけたが、
無事に帰隊したとき 肩の荷がおりた気持ちがした。

二・二六事件と郷土兵
堀宗一・歩兵第三聯隊第七中隊曹長 永遠の袂別「頭ッ右」 から

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「 原隊に帰れば罪は許されるのだ」

2019年06月14日 18時50分42秒 | 野中部隊

当時私は中隊の兵器掛をしていた。
これより先、
下士官候補者として教導学校に行くまで、
聯隊で訓練などのお世話になった教官が安藤輝三氏で、当時中尉であった。
そのためか大尉とは早くから気脈が通じあい、いつしか胸襟を開いて話あう間柄になっていた。
その頃 国政は乱れていて、
誰彼といわず
その原因と是正の方法について論議がかわされていた。
このことについて
安藤大尉は
国政の乱れた原因は側近が悪いことにある。
陛下の御稜威がこれらの黒雲にさえぎられ、下方民にとどかないためである。
黒雲を取りのぞかないと日本は大変なことになる。
と 断言し、
これを排除するには陛下の赤子をお借りしなければ達成だきぬ
つまり軍隊によって実行する以外にない。
と 申された
私はその時黒雲の勢力がそれほど巨大なものであることにはじめて気がついた。

降って
昭和十年八月
相澤事件が発生するや
歩三をはじめ、いわゆる青年将校らの動きが活発になり
竜土軒での会合が頻繁に開催され、終了後印刷されたチラシを配るのが私の仕事だった。
そのため私にはある程度青年将校運動の様子が判り、近く何かがおこることも予測できた。

一方
中隊の初年兵訓練情況を見ると 営庭で行う通常教練の他、
特殊ともいえる屋内戦闘の要領をも教育していた。
これは兵舎内で着剣した銃を低く構え警戒しながら廊下を前進する
いわば接近戦の訓練で、
応戦動作に属する高度の過程である。
かつてない これらの訓練に私は驚きながらも
渡満を控えて進めているものと割切ってみていた。

二月二十五日
その日は雪こそ降らなかったが曇り日で、
底冷えのする寒い日で、 
私にとって人生をかえる運命の日であった。
午後七時頃、
十中隊の下士官が
七中隊の野中大尉の部屋に呼ばれ蹶起趣意書を読みきかされた後、
蹶起の同意を求められたのである。
突然のことでもあり、この決断には誰しも迷った。
やがて全員賛成の上 警視庁襲撃を受諾した。
日頃 安藤大尉がいっていた昭和維新の断行がいよいよ明朝決行されるのかと思うと、
急に身体のひきしまる衝動を感じた。
退室して帰路、伊沢軍曹と話合い、
出動期間中の軍資金を工面すべく
酒保掛の須田軍曹の所に行き、
酒保の売上金を貸与するよう申入れた。
その結果今日の売上金を出動時刻までに金庫ごと渡すことを約束してくれた。
中隊に戻ると下士官はそれぞれ準備に着手していて
中には兵に対しそれとなく非常呼集の
暗示を与えている者もあり、
 ざわめいた空気がたちこめていた。

二十六日
午前三時頃非常呼集がかかる。
私は早速 兵器庫をあけて拳銃やLGの実包銃身を出し配分した後、
使役兵をつれて
弾薬庫に行き必要量の弾薬を中隊に運び各班に配分した。
この時の弾薬庫のカギは、
前もって週番指令安藤大尉の命令で聯隊兵器委員渡辺曹長から
借り受けていた。
書準備を整え
四時頃 七中隊の宿舎に整列、
ここで第三中隊と共に野中大尉の指揮下に入り警視庁に向け出発した。
私はこの時、さきに約束した軍資金を持ってくる須田軍曹を待っていたが彼は遂に姿を見せず、
そのまま営門を出た。
後に聞いたところによると須田軍曹は金庫を持つて確かに営門のそばまで来たが、
風邪のため戻ったとのことであった。
警視庁には約一時間くらいで到着。
私は野中大尉らと共に玄関から入り、当夜の責任者と交渉する様子を見守った。
相手は野中大尉の読上げる蹶起趣意書を聞いた後、
維新断行に警視庁のとるべき方針などを
のべ若干問答になったが、
結局は我が方の要求をのみ庁舎の明け渡しに応じた。
その間十数分、大尉の背後にいた私は感心して見ていた。
その後部隊は内部の占拠と外部の警戒につき庁舎を孤立させた。

二十七日
事態が有利のうちに進展すると同時に部隊は警視庁の占拠を解き、
新国会議事堂に集結した。
そこへ
北一輝と西田税が食物や水などを持ってきて二階に運びあげた。
彼等は民間人だが同志であった。
 安藤大尉
ここで待機していた時、
安藤大尉と憲兵二名でやりとりしているのを目撃した。
憲兵の方は一刻も早く下士官兵を帰隊させることを求めていたが、
安藤大尉はこれに応ずる
様子はなく、
陛下の赤子を使用することは申しわけないが、
今回の蹶起は鳥羽伏見の戦いと同じで
最後の一兵までやる覚悟である。
ここは何トンの爆弾が落ちても平気である。
将校も兵も一心同体なのだ。
と 反駁、
一歩もひかなかったことが記憶にある。
以後私は三宅坂の路上に布陣し 新井分隊と共に警備についたが、
形勢は逐次悪化の
方向へと急転していった。

二十九日
夜明と共に 「兵に告ぐ」 の 放送がはじまり、
一帯は騒然と化し即発の雰囲気となった。
間もなく戦車が轟々と近づいてきて陣地前に止り、中から将校が出て来た。
よく見ると中島大尉である。
彼は私が戦車隊で訓練をうけた時の教官である。
印刷物を丸めて持ってきて私を見るなり
「 伊高!!こんなことをしおって悪いと思わんか。
奉勅命令に反抗してはならんぞ。
一刻も早く原隊へ帰れ。天皇の命令を忘れるな 」
と 小言とも説得とも思われる口調で促した。
頑張っていればやがて戦闘になり全滅するであろう。
中島大尉の意見で我々幹部は思案に悩んだ。
指揮官鈴木少尉の命令がでない限り 帰隊はできず、さりとて奉勅命令に背くわけに行かず、
遂に鉄相官邸に入り門を閉じ幹部は自決を覚悟した。
鈴木少尉の立場も同じで、野中大尉の命令が出ないことには動けないのだ。
集合した幹部の心境は暗く反乱軍の汚名が重くのしかかり生きてはおれない。
残された道は自決あるのみ----潔く死のう、そう決意した時だった。
「マテ、マテ!!死ぬのは待て----ッ 」
大声を上げて飛込んできた高橋特務曹長の一喝で我々の気持は現実に戻された。
武装した特務曹長の手には黄色い房をつけた日章旗(中立の意)が握られていた。
「 何故死ぬことを考えるのか、勅命では原隊に帰れと申されている。
原隊に帰れば罪は許されるのだ。
この際 指揮系統など考えずそのまますぐ行動をおこせ。判ったな!!」
ここにおいて一同は心を割切り 帰隊に踏切った。

聯隊に帰り  入浴、食事をすませると下士官六名は拳銃をとりあげられ、
全員目黒の輜重一
の営倉に隔離された。
原隊に帰れば罪は許されるといいながら 営倉に居れるとは何事か、話がちがうではないか、
しかし 怒ってみてもあとの祭りだった。
入倉中ヒモ類を全部切取られ悶々のうち一週間が過ぎ、全員トラックで衛戍刑務所に送られた。

愈々軍法会議か、しかし何を裁判するのか、
私は自分の行動を想いだし
何等とがめられることのないことに自信を持っていた。
しかし 房内の陰湿な境遇にひたっていると、
健全な精神がいつしか罪を意識し自責の念に
かられてゆく
いとも不思議な状態に陥ってしまうのである。
入所中私にとって強烈な印象となっているものが二つある。
その一つが
相澤中佐の処刑の日のことだ。
七月三日、
死刑執行日の朝、看守たちの服装が一斉に真新しくなり
吾々に接する態度が
急に物静かになり、何となくショボショボしていた。
今日は何かあるなと直感した私は巡回してきた看守にソッと尋ねてみると、
「 今日は相澤中佐の処刑日である。」 と 教えてくれた。
職業的立場にある者にとっても死刑の執行は耐えられぬ苦痛と悲しみを覚えるのであろう。
第二は 
二 ・二六事件の将校が死刑になった時の情況で、
十一日には赤飯、メロンが出、
彼等の獄舎からは夜もすがら読経、放歌、吟詠、絶叫の声が
流れ 珍しく自由でにぎやかだった。
反乱の汚名を着て死んでゆく彼等は誠に気の毒だ、何とか救う方法はないのか、
国が疲弊し民百姓が苦しみにあえぐ事態にあっても
為政者の責任は追求されず、
蹶起した我々だけが処断の対象となった。
国政が正常であったなら二・二六事件など起らずに済んだであろう。
今彼等は限られた今晩だけの生命の中に何を考え 何を祈っているのか、
一同の胸中を思えば痛哭 これに過るものはない。
七月十二日の朝が白々とやってきた。
窓外は深い霧が立ちこめ何も見えない、巡視にきた看守を見ると新しい制服に変っていた。
午前七時以降 四号棟から覆面をした将校が五人間宛 三回に分けて出ていった。
代々木原の隅にある狐塚の方向で日曜だというのに空包が盛んに鳴っていた。
私は房内でジッと耳をすましていると、
遠くの方から 「バンザーイ!!」 の声が聞え
同時に  ブスッ!!ブスッ!! という実包音が
響き処刑執行の様子がくみとれた。
私はやり場のない悲しみに包まれて思わず合掌した。
安藤大尉が行かれたのは第一組でガラス戸越しに私らに向って拝んだ。
監視も泣いていた。
( 伊高、あとをたのむぞ ) と 目で語って行かれた。
ガラス越しに見送る安藤大尉の姿、それが今生の見納めとなったのである。
悪夢のような七月十二日の朝方のひととき、
今もあの光景が歴然としてうかび、
生涯忘れることはない。

獄舎の思い出は消えず
歩兵第三聯隊第十中隊 軍曹 伊高花吉 著
雪未だ降りやまず(続二・二六事件と郷土兵) から 


「 あの立派な中隊長殿の命令に背くことはできません 」

2019年06月12日 18時06分56秒 | 野中部隊


《 二月二十八日 》
午後九時頃、
俄然ただならぬ報告が急達されてきた。
「 歩三の新井中尉の指揮する一箇中隊が、寝返りを打って、
勝手に包囲戦列を離脱し、目下靖国神社方向に転進中 」
というのである。
当時、靖国神社のすぐ近くにある陸軍の偕行社から軍人会館付近一帯には、
戒厳司令部を始め、陸軍省、参謀本部、憲兵司令部等の中枢機関が集団配置されていたのであるから、
さては 中心部を攻撃するためら進撃してくるのだというわけで、
司令部は俄かに緊張し始めた。
参謀や伝令などが慌しく駆け回り、やがて緊急命令によって、
司令部の直接警備に当たっていた部隊が、ただちに周辺の防禦配備につけられることとなった。
だが、その警備隊というのが、ついその日の日暮れ方、宇都宮方面から到着したばかりの田舎兵士の集団で、
付近の様子もわからねば、市内の状況等も全く知らない連中であるから、ただマゴマゴするばかりである。
叱咤の号令に従って、剣付鉄砲や機関銃を携えて、右往左往はするが、
暗闇の中では、同士撃ちでもしかねないばかりの状況である。
しかもこれらの部隊とても、若い指揮官の気持ち一つで、いつ寝返りを打たないとも限らない。
このような場合、直接部下の兵隊を持たない司令部の連中は、心細いものである。
今まで 「 断固反徒を討伐すべし 」 と 主張していた強硬分子も、
あるいは百万の兵隊を縦横に動かす作戦計画を立てることなど、お手のものの参謀連も、
こうなればいつロシア革命の時のような目に遭いやせぬかと、妙な不安に襲われてくる。
いざという時は、反乱兵と格闘して果てるんだといっているものもあるが、
しかしよく見ると、平時のままの服装で来ているから、身辺には軍刀もなければ、拳銃も用意されていない。
そこで、中には慌てて、これらの武器を家庭に取りにやっている者もあったようである。
革命前夜の情景とは、こんなところをいうのであろうか。
こんな時、もし反徒が足もとから蜂起して、司令部内になだれ込んで来たならば、
さだめし大混乱の修羅場を展開したことであろうと思う。
だがしかし、そのようなことはなくすんだ。
そしてその間においても、一方では依然として反乱将校の直属上官たる連隊長や大隊長、
あるいは一般青年将校の信頼と尊敬の的になっていた山下将軍や石原大佐らは、
最後まで敵中に乗り込んで、極力説得や勧告に当り、
何とかして火蓋を切らないで事件を解決しようと、つとめていたのである。

・・・突然司令部がざわめいて、何事かあったようだ。
出て見ると、憲兵が数人、反乱軍の捕虜三名を後手に縛り上げて、司令部につれて来たところである。
何でも赤坂見附辺りで捕えたものだとかで、
曹長一、上等兵一、一等兵一の三名で、いずれも大分疲れている様子であった。
直ちに三名の参謀将校が、これを尋問調査することになって、
地階の一室につれて行った。
私はちょうど、これら下士官兵の気持ちや真情などを、知りたいと思っていたところなので、
さっそくその尋問に立ち合うこととなった。
尋問は、専任の中佐参謀によって始められた。
曹長は問われるままに、悪びれもせず、厳然たる態度で、堂々と蹶起の趣旨や、革命の必要性等について述べ、
異常の興奮に眼を血走らせていた。
単純ながら、だいたい反乱将校と同じような、思想と信念を堅持しているように見える。
なぜ捕えられたかというと、
もう 叛乱部隊には糧食が尽きてしまって、今夜の夕食もまだ食べていない。
そこで食糧徴発のために、二名の兵をつれて、赤坂見附方面へ出かけたのであるが、
どこにも売店や、人影を見出すことができないで、ウロウロしているところを捕えられたのだという。
そこで次は、兵士の方を調べてみると、これは全く意外であった。
彼等は革命だの反乱だのということは、全く知らない。
ただ出動する時に、警視庁方面に暴動が起きたから、それを鎮圧するために行くのだと聞かされて、
上官の指揮するままに服従して来たに過ぎないのだという。
朴訥、純情そうな兵士らの言うことに、うそ偽りなどの姿は全く見られない。

そこで参謀は、
「 お前らは今や反乱軍の兵士として、このように捕えられているのだが、
それに対してどんな気持ちを持っているか 」
と 尋ねると、
「 全く何のことだかわかりません 」
という。
そこで取り調べの参謀も気の毒に感じてか、いとも懇切に、
「 お前らは何も知らないようだが、実はお前らの上官は間違ったかんがえから、
おそろしい反乱を起こして、今や逆賊として討伐されようとしているのだ。
それでもお前らは その上官の命令に従い、どこまでも反逆行為を続けるつもりでいるのか 」
と 尋ねると、
「 ハイ、どうしてよいかわかりません 」
と、泣き出しそうな顔をしている。
これが真相なのである。
兵隊たちは何も知らないのだ。
そしてしかも、今 間違っているといわれた反乱将校たちは、いずれも軍隊においては、
日夜苦楽を共にしつつ、懇切な指導と教育とを受け、心から信頼と、尊敬とを捧げている上官である。
しかもこの上官と共になら、いつでも命を投げ出すというほどの情義と覚悟とほ持っているのである。
そこで参謀は重ねて厳重にさとした。
「 どうしてよいかわからないではない。
わかりきったことではないか。
お前らの上官は明らかに軍紀を破って反乱を起こしているのだ。
それでわれわれは、天皇陛下の御命令によって、これを討伐するために、
このように夜も寝ずに戦闘態勢を整えているのだ。
お前らはその反乱軍の捕虜として、ここに引きすえられてきているのだ。
このような事情が判っても、お前らはどうしてよいかわからぬというのか 」
と 鋭くつめ寄った。
曹長は何もいわずに黙っていたが、
突然、上等兵が悲壮な声で、
「 中隊長殿は、自分らが正しいので まわりに包囲している部隊が反乱軍だから、
これに対抗して現在地を死守せよといわれました。  だから中隊長殿の命令に従って行動します 」
と キッパリ といいきった。
すると同時に もう一人の一等兵も、
「 はい、自分は中隊長殿や小隊長殿と一緒に死んでゆきます。
あの立派な中隊長殿の命令に背くことはできません 」
といって、ワッとばかりに泣き出した。
上等兵も泣いた
これが可憐な兵士たちの心情である。
並みいる参謀らの眼にも光るものが見えた。

・・・蹶起将校一同は、若いだけに浅見短慮のそしりを免れないが、しかしその憂国の至情と、
純真熱烈の意気を始め、その人となりや 平素の生活態度等には、感服すべきものがあった。
それだけに、直属上官も軍首脳部のものも、あるいは直接これが説得に当たった先輩たちも、
一概に峻烈な態度だけをもって臨むことができなくて、
終始至誠を傾け、あるいは武士の情けをもって対処する等、最善を尽くすために、
意外に多くの時間を費やしたのである。
わずか二千や三千の反乱軍を、ただ武力をもって鎮圧するとなれば、まさに鎧袖一触、
何の手間ひまも要しないわけであるが、全軍の首脳があれほど苦慮し、精魂を傾けざるを得なかったのは、
一に皇軍同士が撃ち合う戦火を避けたかったからである。
反乱軍の将兵が、いかに堅く結ばれていたかということは、前にも述べた捕虜尋問のところでもよく現れているが、
さらに最後まで帰順を肯がえんじなかった安藤中隊のうえに最もいちじるしく現れている。
安藤中隊長は、そのくらい部下全員の信頼と尊敬の的になっていて、
全中隊が逆賊の汚名を着ても この中隊長と共に死ぬ、というまでの決心をさしていたのである。
このような尊い情義と固い団結力とは、外国の軍隊などではとうてい見られないところであって、
これが実に皇軍の精強の本源をなしていたのである。

兵に告ぐ! 歴史的大放送のうら
当時陸軍少佐陸軍省新聞班員 大久保弘一
目撃者が語る昭和史
2・26事件  から


加庭勝治上等兵 「 赤坂見附の演説 」

2019年06月10日 17時50分26秒 | 野中部隊

私はその頃先任上等兵として第五班にあって初年兵教育に任じていた。
教官は鈴木金次郎少尉で陸士出の温厚な人であった。
この人が歩三附になったとき 一緒に来たのが常盤、清原の両名で、
いずれも優秀な若手で三羽烏と云われた信望のある将校たちである。
私の所属した第十中隊は五ケ班から成り、第一、第三が小銃、四、五班が軽機に区分され、
私は専ら軽機の操法と内務を主眼として教育をやっていた。
    
鈴木少尉     常盤少尉         清原少尉
二月二十五日戸山射場で実弾射撃があり 帰路 私は兵を指揮して帰った。
それは妙な成行から幹部が不在になったためである。
さてその夜、私は班長から軽機の銃身を交換するよう命令をうけた。
そこで初年兵を指導し教育かたがた実包用銃身に取換えたが、
その夜の将校下士官の様子が妙にザワついていて何となく非常呼集を予期した。
二十六日午前〇時
非常呼集がかかった。
通常なら衛兵ラッパが鳴るのだが今回は関係なく、福島班長が一人一人起して廻った。
手早く支度をして中庭に整列すると、点呼のあと 兵器係の伊高軍曹から実包や食糧を手渡された。
どこかへ出勤するらしい。
そのうち荒縄が配られて軍靴を縛った。路面が凍っているので滑り止めにするためだ
一切の準備が整ったところで舎内待機、
仮眠となり 午前四時すぎ 私はLGの分隊長となって出動した。
行き先は警視庁と判った。
一時間足らずで到着すると直ちに包囲態勢を完了し 一部の分隊が玄関から突入した。
そののち私の分隊も内部に侵入したところ、
夜勤の職員があまりのことに驚き 一斉にホールドアップした。
こうして占領は一弾をも放つことなく終了した。
五〇〇名からなる襲撃部隊を見ては さすがの警視庁も観念したらしく、
反抗の意欲もなく我が方のいうままに動いた。
我々は以後ここでしばらく警戒態勢をとりながら次の命令を待った。
二十七日になると
外部が大分緊迫化してきた。
その夜私は鈴木少尉の命で街頭演説をやった。
福島二等兵を護衛にして二人で外に出たが適当に場所がなく、
とうとう赤坂見附の市電停留所の高い所でやることにした。
街には事件の推移を不安そうに見守る市民たちが大勢いたので忽ち私の所に集まってきた。
「 皆さん、私は蹶起部隊の一員です。
私達が何故このような行動を起したのか、よく聞いて下さい 」
私は前置きをしてから 一席ブッた。
日頃 鈴木少尉から聞いていた内容を分かりやすく滔々と述べた。
この時 携行していったチラシを何名かの者に配布したと思う。
演説が終わると市民は期せずして拍手をした。
そして一部の者から質問がでて、今後はどうなるのかといわれたので
は即座に 心配しないで生業についてもらいたい と答えた。
民衆への反響は吉と出たようだ。我々を支持しているのだ。
私は帰ってから鈴木少尉に報告すると喜んでくれた。
このような民衆運動はこれが初めてで、
また 最後ともなり、しかも実施したのは私だけであったようである。
その夜は警視庁を撤去して文部大臣官邸で仮眠した。
二十八日は
事態が急迫し鎮圧軍と一戦交える状況となった。
最早この時我々は反乱軍となっていたのだ。
最速私たち分隊は閑院宮邸の前に陣地を作って雪の上に散開
、相手が撃ってくれば応戦する構えをとった。
だが もうすべてが終わったようで将校たちの顔には落胆の色がみえていた。
二十九日は
朝から緊張が最高に高まり、戦闘にそなえていると各所からスピーカーの放送が始まり、
やがて三井参謀等がやってきて将校を懇々と説得したため、遂に下士官兵は帰営することに決まった。
斯くして迎えのトラックに乗車して帰隊、間みなく近歩二に隔離された。

私は病気で入院したが、その時から憲兵が病室の監視にあたっていたのを知っている。
退院して帰隊すると取調が待っていた。
これについては人事係の高橋特務曹長から
「 聴かれたら何でもハイ、ハイと云え 」 と 吹込まれていたので
取調べの場ではそのように答えたところ十分位で終了した。
これで一切が放免となったがその間の給料は一等兵並であった。
事件が落着し聯隊幹部が総替わりしたあと下士官志願をすすめられ、
遂に断り切れず主計下士官を志望、
終戦時は仙台師管区経理部付の経営課長である。階級は主計大尉であった。
今、二・二六事件を考えてみると、
青年将校の意図というか思想そのものは崇高であるが手段がよくなかったと云えよう。
特に下士官兵を連れ出したのは間違いであったと思う。

二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第十中隊 伍長勤務上等兵  加庭勝治  「 電車通りで演説 」 から


歩哨 「 守則ですから通しません 」

2019年06月08日 17時31分06秒 | 野中部隊

営門を出て歩一の裏門にくると、
一時停止し 数分後再び行進に移った。
この停止が何だったのか、
恐らく 指揮官野中大尉と歩一側の同志将校との出動確認のとりかわしであったのだろう。
雪がまた降ってきたが気のせいかあまり寒さを感じなかった。
やがて一時間も行進した頃 警視庁の裏門附近に到着。

すると配属された重機関銃が各所に散って庁舎を包囲、同時に各分隊が校内に入っていった。
ここで私は初めて出動の目的が警視庁の占領であることを知った。
私の堀口分隊は裏門から庁舎内に進入するとすぐ二階にかけあがり電話交換室に飛込んだ。
そこには交換手が十名ほど忙しく交信していた。
私たちはすぐ各交換手の背後に立ち通信している内容を調査した。
彼女たちは兵隊の進入に驚きながらも
そのままの姿勢で作業を続けていたが緊張気味で幾分手先が震えている者もあった。

約十分後 小隊は正面玄関の内側に小哨の位置を設け、
そこから桜田門前に歩哨を出し道路の交通遮断の任に転じた。
私は六時過ぎ交代して立哨についた。
雪が益々激しくなり軍帽や外套が忽ち白くなってゆく。
そうした中に立哨していると霞ヶ関方面から一台の乗用車が走ってきたので、早速 銃を構え停止を命じた。
停車した車の運転手は憲兵で助手席に憲兵曹長、後ろの座席にも一人乗っていたが暗くてよく判らない。
「 ここは交通禁止ですから先には行かれません 」
「 急いでいるんだ、通してくれ 」
「 ダメです 」
「 解らん歩哨だな、どうしても通さんか !
曹長は急に高飛車になって一喝した。
私も負けずに、
「 守則ですから通しません 」
そういって徐に銃の安全装置をはずして引鉄にゆびをかけた。
それを見た曹長はさすがにびっくりして車からおりた。
「 それでは後ろに乗っておられる方を見ろ 」
と 私を車に近づけて窓からのぞかせた。
見るとベタ金で陸軍大将だ。
よく見ると写真で見覚えのある真崎甚三郎閣下ではないか。
私が ハッと驚くのを見てとった曹長は、
「 どうだ解っただろう、それでは安全装置をしてくれ 」
と 頼んだ。
「 よく判りました。しかし歩哨の任務は絶対です。小哨長に聞いて下さい 」
と 警視庁の玄関前の小哨控所を指で示した。
その結果許可が出て車はそのまま陸軍省の方向へ走っていったが
大変な一幕だっただけに今でも鮮明に覚えている。

歩哨を交代し玄関前に戻ってきて約二十分休憩したとき、
私は常盤少尉から随行を命ぜられ 「 美松 」 に行った。
店内に入ると少尉は何が好きかと聞き 私が戸迷っているとすぐ注文して、
『 しるこ 』 を ごちそうしてくれた。
どうして私だけに食べさせてくれたのか、
思うに先刻の歩哨勤務の精勤ぶりに対する ごほうびかとも思われたが 遠慮して一杯に止めた。
食べおわると また警視庁に戻り以後分隊は待機となり私は車庫の中で休憩した。

その日は庁内で泊り
翌二十七日午前、中隊は新国会議事堂に移った。
しかしここはまだ工事未了で建築資材が散乱していた。
早速材木を集め焚火をして暖をとった。
だがこのままでは中隊としての給養がとれないので夕刻内相官邸と鉄相官邸に分宿した。
その夜は酒の配給があって寒さのがれを理由に飲んだ。
この時 白襷を十字にかけた常盤少尉がきて我々に訓示をした。
「 我々の行動は全国から絶大な支持を寄せられている。
目下各地においては続々と共鳴者が蹶起中であるからお前たちも全力を尽くして頑張ってくれ
若し撃合いになっても相手が撃ってくるまで発砲してはならない 」
しかし事態は訓示とはうらはらに、鎮圧軍が刻々と包囲しつつあった。
そこで我々は雪で顔を洗い酔をさました上で戦闘準備に入った。

二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第7七中隊 二等兵 滝島 淳 「 鎮圧軍兵士と泣く 」 から


華族会館襲撃

2019年06月06日 11時58分37秒 | 野中部隊


≪ 27日 ≫
華族会館の襲撃

この朝、栗原は首相官邸にかえると清原少尉に電話して華族会館の襲撃を命じた。
清原は警視庁の裏庭で朝食をとっている時だった。
「 只今、華族会館に貴族院の連中が集まって何事か対策を協議しているらしい。
急いで襲撃せよ、策動の中心人物は原田熊雄男爵だ、手ぬかりなくしっかりやれ 」
清原は早速部下に集合を命じ駈歩で華族会館に向かった。
会館につくと部下に包囲を命じ、みずからは軽機一分隊をもって玄関に飛びこんだ。
そして受付の事務員に本日参集している華族の人名表を提出するよう要求した。
一条公、二荒伯、細川侯などの名前を見た。
この若い将校には何か偉い人達の集まりのように思えたらしい。
清原は熊本出身だったので細川侯爵といえば旧藩主というべき人だった。
彼の心の底には畏敬の念がおこっていた。
「 そうこうするうちに、
そこへ五十年配の肥った背広服の紳士が、ただ一人玄関に現れた。
態度は落ちついているように見えるが顔色がない。
一種の特権階級がもつ虚勢ともいえるものだった。
一瞬これは臭いと思ったので
「 待て ! 」 と 大声して呼びすぐ停止を命じた。
彼はおとなしく立ち止まった。
「 誰だ 」 と イキナリ聞いたが返事がない。
私は高飛車な態度で 彼の前に進み彼の背広の上衣に手をかけ裏をかえして見た。
それとほとんど同時に彼は小さな声で
「 原田 」 と いった。
まさに目指す相手である。
思わず私は軍刀の柄に手をかけた。
当時の原田熊雄氏は西園寺の秘書であり、
いわゆる日本の政治を堕落させた元老重臣の一人といわれていた。
個人的には何等の恩も怨みもない私ではあったが、やはり好感をもつことはできななかった。
しかも栗原中尉の命令という絶対のものを背負っていた。
私はキッと相手の目の色を見た。
だが、そうしているうちに、どうしても刀を抜く気になれなくなってしまった。
一種の寂寥感----勝利的な立場にある者が感ずることのできるあの妙な空虚感なのかもしれない。
もし、この時相手がゴウ然と構えていたら斬り下げたかもしれないし、
また 逃げていたら追い討ちをかけていただろう。
だが、彼の態度には呆然としてなすところを知らなかったというよりも、
むしろ、なんらの悪意のない静けさがあった。
私は虚脱感の中に殺気が消えていってしまったのだった 」 ・・・清原手記
とは、彼みずからの述懐するところである。
 原田熊雄
かくて、彼は玄関口で襲撃目標原田をとらえながらあえて斬らなかった。
斬らなかったというよりも斬れなかったのだ。
だが、室内に入った彼は居丈高にどなった。
「みんな一ヵ所に集まれ」
二十数人の人々が食堂の一隅に一かたまりとなった。
そこで彼は蹶起趣意書を読み上げた。
老人たちはだまって聞いていた。誰も恐怖に青ざめていた。
清原は言った。
「 私どもは国体破壊の元兇を打ちとって昭和維新を断行するために、身を挺して立ち上ったのであります。
皆さんは私どもの蹶起の精神を諒とせられ、私どもの維新の戦に積極的に協力せられることを望みます。
お騒がせして失礼しました 」
彼はそういうと
兵を促して、さっさと引きあげていった。
老人達は安堵の胸をなでおろして、お互いに顔を見合わせていた。
清原は栗原に原田はいなかったと報告した。

 華族会館に掲げられた尊皇討奸旗
大谷敬二郎著  二・二六事件  から


新撰組を急襲 「 起きろ! 」

2019年06月04日 16時58分37秒 | 野中部隊

私は昭和十一年一月十日 現役志願兵として歩三、第十中隊に入隊した
所属は第一内務班で班長は井戸川富治軍曹である。
その頃 中隊長島田信平大尉は教育のため歩兵学校に入校していたので、
新井勲中尉が中隊長代理を務め、初年兵教官には鈴木金次郎少尉が任じていた。
 鈴木少尉
教育が着々と進んで行く内 ちょうど入隊一ヶ月目の二月十日、外出から戻った晩、
鈴木少尉の精神訓話が行われた。
少尉の話は上海に於ける爆弾三勇士から始まり、色々と戦場の様子を述べた後 最後に、
「 俺が任務の為に燃えさかる火中に入って行ったとしたら、お前達はどうするか 」
と 全員に問いかけた。
すると 二年兵も初年兵も一斉に答えた。
「 教官殿について 火中に飛込みます 」
「 そうか、一緒に飛込んでくれるか 」
鈴木少尉は我々の答えに大分感激したらしく 涙をこぼして喜んだ。
そのような喜び方は今回が始めてである。
まして涙を出すなど尋常な沙汰ではない。
おかしい・・勘の働く二年兵の中には ただならぬものを悟った者があったと云う。
・・・・
二月二十五日は大久保射場で中隊の実弾射撃が行われた。
我々初年兵は初めての体験なので二年兵の指導を受けながら緊張気味で射撃を行った。
午後三時頃 フト伝令の岡崎一等兵が飛んで来て 鈴木教官に伝言した。
すると 途端に少尉の顔色がサッと変った。
「 これは妙だ、何かあるな 」
少尉は再び元の顔つきに戻ると、後の処置を下士官に指示し一人で去って行った。
私はその時 伝令から、今夜非常呼集があるらしいことを聞いた。
やがて演習が終り 中隊に帰った我々は、夕食後軍装を整え軍靴を履いたまま就寝した。
果して夜中の零時頃突然班長に揺り起こされた。
・・・・
間もなく出発。
営門を出て歩一の前を通り隊列は警視庁に向かった。
この時の兵力は夜間で はっきりしなかったが、
後刻第十中隊の他、第七、第三、МGの混成で約五百名位であることが判った。
目的地には五時頃到着しМGがすぐ正面入口と裏門に配置され、小銃部隊は合図と同時に構内に突入した。
私は鈴木少尉に従って森泉、井之上 他一名の計五名で庁舎裏手の新撰組の建物に突入し、
三階に寝ていた隊員三十六名を急襲し 忽ちのうちに一室に軟禁した。
彼等は未だ就寝中だったため、
「 起きろ 」 の声で一斉に起床させ、片隅に全員を集めると共に武器を全部押収した。
着剣した小銃を構えられては新撰組とはいえ 手を挙げる以外にどうすることもできなかったであろう。

ここで他の分隊に新撰組の身柄を引渡し、我々五名は斥侯の形で内務省に向った。
急いで表門に至るとカギがかかっていて門扉が開かず、そこで裏手に廻って眺めると構内は濠になっていて氷が張っていた。
已む無く表門に引きかえしたところ、すでに他の分隊が突入していたので
我々も直ぐ屋内に入り責任者を探したが どこにも人影が見当たらず、
やっと湯殿で留守番の男を見つけたので鈴木少尉が糺したところ その男は
「 全員夕べのうちにどこかへ退避した 」 と 答えた。
そうしてみると 我々の行動は昨日のうちに彼等の耳に入っていたのかも知れぬ。
このため我々は一旦警視庁に戻り 改めて海軍省の横の道路の警備についた。

もう その頃は明るくなっていて市民がどこからともなくやってきた。
我々の蹶起行動を耳にして見物にきた様子である。
そこで歩哨線にきた連中を逐次追い払い 交通遮断の任務を続行した。
このような我々の行動を見ていた海軍省構内の歩哨が
陸軍は何をしているのかと話かけ 雑談を交えるようになったが、
午後になると彼等の人数が五名になり、我々に対し警戒を強化し 話もせず、
いつしか仇敵同士のような対立になった。
何も知らない私は海軍の態度に不審を抱いた。

二・二六事件と郷土兵
歩兵第三聯隊第十中隊 二等兵 細谷伊勢吉 「黙秘して頑張る 」 から


「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」

2019年06月02日 06時28分50秒 | 野中部隊

私が大学を卒業して入隊したとき二十六歳であった。
( 当時は在学中徴兵延期が認められていた )
所属した中隊は第七中隊で隊長は野中四郎大尉、教官が常盤少尉、
班は第二内務班で班長は佐久間軍曹、班付が齋藤伍長であった。
入隊後間もなく身上調査が行われ中隊長から家庭学歴趣味などを聴かれた揚句、
最後に崇拝する人物を尋ねられた。
私は即座に西郷隆盛と明智光秀をあげたところ理由は何かと重ねて聴かれたので、
意志の強さに共鳴していると答えたが、
この間四十五分を要したので班長が大分心配していたことがあった。
訓練は基本教練から始まったが、
満洲に行く関係からか大分テンポが早いらしく四十日たつ間に実弾射撃を二回行った。
これは大久保射場に行き実弾五発を標的にうちこむのであるが、
二回実施したことで大分射撃に自信をつけることができた。
一月末に初めての非常呼集が行われた。
二年兵に指導されながら仕度をして舎前に並び出発したが、
途中で停止して着剣すると今度は駈足で警視庁の前まで行き、
突撃の構えをとって状況終りとなった。
その直後号令で庁舎目がけて小便をさせられたのには驚いた。
常盤少尉は若いがしっかりした将校で初年兵に信頼があった。
彼は熱血漢で、当時社会の注目を浴びていた相沢事件を
テーマにしてよく我々に精神訓話をしてくれた。

このような背景のもとに
二月二十五日夜半非常呼集がかかったのである。
不寝番がどなりながら兵隊を起こして廻った。
「 点燈して軍装をしっかり整えろ 」
この前の非常呼集は暗闇の中で仕度したが、今度は点燈してもよいというので安心して軍装ができた。
この間幹部が時折やってきて初年兵の軍装を天険していた。
全員が舎前に整列すると編成と軍装検査が行われた。
編成はすでに一月末の非常呼集の時に完了しているので人員の掌握程度だったが
変わっていたのは新に被服掛の田島粂次曹長と兵器掛の堀宗一曹長が加入したことで、
両名は軍装検査の実施にあたって一人一人を綿密に点検し落度のないように注意していた。
検査が終わると実包が支給された。
一人一二〇発で薬盒に六〇発、背嚢に六〇発を収めた。
次いで乾麺麭、粉末噌等が渡り、出発には全員被甲(防毒面)を携行する旨言渡しがあった。
考えてみると物々しいいでたちである。
私は編成の結果 第一小隊 ( 小隊長常盤少尉 ) 第一分隊 ( 分隊長石川喜代吉上等兵 )
の 所属となり兵力は八名であった。
準備が整ったところで一たん舎内待機となったが、
ここで戦友同志の間で合言葉の練習をやらされた。
「 尊皇 」 といったら 「 討奸 」
「 大内山に茜さす」 といったら 「 暗雲なし 」
こうして合言葉の応答が済むと
弾込メ と安全装置が行われ、特に安全装置は厳重に点検された。
中隊の出動人員については勤務要員と病弱者を除く全員で
班長の佐久間軍曹は健康が勝れぬため残留に廻った。
下士官の人選については我々の舎内待機中に行われたようである。

出発は〇四・三〇頃だった。
歩一の前を通過する時 歩一からも出動する兵力があったのを認めた。
行先は不明だが進んで行く道順はかつての非常呼集の時と同じようだ。
約三〇分後到着したのはやはり警視庁だった。

〇五・〇〇
野中大尉が突如正面玄関にツカツカと入って行ったので私の分隊も続いて入り、
本館を通りこし裏手にある新撰組の建物に突入し、瞬く間に二階に至るまで占領した。
屋内はすでに逃げたあとで人気はなかった。
その間 野中大尉は玄関前で予備隊の隊長と称する警官を相手に交渉を進めていた。
占領をおわった私たちが側で見守る前でかなり緊張したやりとりがあった。
野中四郎 
「 我々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。
貴方達にも協力して頂きたい 」
「 そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない 」
「 警視庁はジッとしていればよい。
私のいうことを聞かず出動すれば立ちどころに射撃するがそれでよいか 」
交渉はゴタゴタして相手は野中大尉の意見に従う様子が見えない。
 
常盤稔
すると側に居た
常盤少尉がサッと抜刀して、
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
と 迫ったので、
この見幕に警視庁側の隊長はドギモを抜かれ遂に
「 解りました 」
と 降伏の意志を告げた。
こうして警視庁は瞬く間に我が手に帰し
庁員を一ヵ所に軟禁し歩哨を立てた。

〇六・〇〇
我々は中庭に集合して野中大尉から今朝行われた蹶起部隊の状況を聞かされた。
この時自動車置場から出てゆく警視庁の自動車があったので
他の分隊の者がタイヤ目がけて射撃し脱出を阻止した。
その後小休止をしたあと各分隊は夫々の配置について警備体制に入った。
私の分隊は桜田門の前に歩哨線を布き特定者以外の交通遮断を行った。
特定者とは身体のどこかに三銭切手を着けている者、
合言葉の問に応答した者を蹶起部隊の一員とみなし歩哨線の通過を許すことになっていた。
何時頃だったか参謀肩章をつけた将校が歩哨線を通過しようとした。
早速
「 止レ! 」
と 銃剣をつきつけると、
「 参謀に向って何をいうか 」
と 相手はおこり出した。
「 中隊長殿の命令で歩哨線の通過は禁止されております 」
「 俺は上官だぞ !」
「 たとえ上官でも命令ですから通すわけには参りません 」
するとその様子を見ていた戦友がいきなり参謀を突飛ばした。
「 帰れ ! 」

その一声で参謀はあきらめて帰っていった。
また常盤少尉が桜田門前を巡察中、自動車ぎきたので停車を命じたところ、
中に閑院宮が乗車していて宮中参内にこられたことを知り、
少尉は不動の姿勢で殿下を見送る一幕もあった。
その日は寒い一日だったが、警備を続行しながら夜をあかした。

二十七日朝、
中隊は警備を撤収し文相官邸に移動、
次いで一五・〇〇頃
国会議事堂の工事場に移った。
この間において昨日午後三時頃公布されたという陸軍大臣告示を読み聞かせられた。
これによると我々の行動が天聴に達したというので一入感慨を深くした。
議事堂で待機中 聯隊のトラックが食事を届けにきた。
指揮者は残留になった佐久間班長で、
食事は戦時給与ということで今までの食事とは格別の相違で我々は腹一ぱいつめこんだ。
その夜は鉄道大臣官邸に移動して泊ったが、
日中夜間を通じ部外者の来訪がはげしく邸内は混雑した。
我々は入口で三銭切手の有無を検査し、
無い者は追いかえしたが来訪者の多くは参謀であったようである。
この官邸には食糧がなく贈り物の猪が一頭あるだけだった。
これを食うにも料理する者がいないので手をつけることができず、
結局空腹をかかえて我慢する以外に打つ手はなかった。

二十八日朝、
村中、磯部、渋川の面々をはじめ同志将校等が各個に野中中隊長に連絡にきた。
状況が変化したのでその対策打合せのようだ。
一〇・〇〇頃 
私は野中大尉からの命令で吉原伍長と共に銀座の伊東屋に行き謄写版とワラ半紙を買ってきた。
乗っていた乗用車のフロントガラスに 「戒厳令」 「統監部」 と 書いた紙を貼りつけ
鎮圧軍の中を突破していった。
伊東屋では金はあとから払うという口実で持出したがこれは体のいい徴発であった。
私はついでにポケットマネーでキャラメルと煙草を買って帰った。
早速印刷器具を一室にひろげ、ガリ版を切り印刷を仕上げた。
この時切った原稿は、村中、磯部からのもので
「 我等の糧道は断たれたり 」
「 鐘は鳴る、鐘は鳴る、昭和維新の鐘が鳴る 」
「 瑞穂の国に米あれど皇軍に米なし 」
で 書初た蹶起部隊の趣意表現に関する文章だった。
これをワラ半紙約五〇枚に印刷すると同志将校が分け合ってどこかへ持去っていった。
その頃聯隊からの食事が断たれ我々は空腹を抱えて警備についた。
どこからも差入れはなく、細々と 乾麺麭をかじりながら頑張る意外になかった。
鎮圧軍が徐々に官邸を包囲する様子が見え、何か状況の逼迫を感ずるようになった。
夜になって挺身隊が編成された。
堀曹長以下一コ小隊が選出され、
全員尊皇討奸の白ダスキをかけ夜陰に乗じて官邸を出て行った。
目的は不明だが食糧確保ではなかったかと思う。
だがしばらくして帰ってきた。
堀曹長の報告によると鎮圧軍の包囲が厳重で突破できないとのことだった。
その頃私は中隊長の当番になって身のまわりの世話をしていた。
それから後何時頃だったか空腹に悩む中隊に丼飯が四個届けられた。
中隊長の温情を思い有りがたくいただいた。
しかしこれは空腹のたしにするのではなく食い納めを意味したのである。
これから死ぬ者に飯など不要だという。
我々は今から一戦を交えるらしい。
そういえば
豊橋教導学校から参加した竹島中尉が白ダスキをかけ抜刀した姿勢で、
「 皆の命をもらった 」
と いったがやはり戦闘を決意していたのに相違はなかった。

その夜中隊は新築中の国会議事堂に移った。
戦闘の為の陣地としては恰好の場所である。野砲の砲撃でもしばらく持こたえできるであろう。
内部は真暗なので壁に貼ってある大理石の被覆用のハトロン紙をはがし、
丸めてタイマツがわりにして足場を照らしながら
床のジュータンを窓際に積上げて銃座を作り戦闘準備を整えた。

緊迫した状況に二十九日の朝を迎えた。
私は早朝から屋根上で展望哨についていたところ、
明るくなると同時に飛行機が飛来しビラを撒きちらした。
拾ってみると 「下士官兵に告ぐ」 という原隊復帰の呼びかけであった。
早速ビラをもって野中大尉のところに持っていった。
私はこの時迂闊にも直属上官に対する捧げ銃の礼を欠いたため
側にいた下士官から 「敬礼せんか!」 と怒鳴られ、間髪ビンタを一発頂戴した。
持場に戻ってみると議事堂は完全に包囲され、
戦車がゴウゴウと唸りながらやってきてスピーカーで盛んに投降勧告をはじめた。
これに対し議事堂の窓という窓には、
銃座が築かれ小銃が首を出し発砲の号令を待つ兵隊の姿でひしめいていた。
適が撃ったら撃帰す、但し銃口は絶対に皇居に向けてはならないと定められていたが、
相手も同様の考えでなかなか撃ってこない。
こうして一触即発の数刻が流れた。
戦車のスピーカーからは繰返し勅令の下ったことを強調していた。
私達は誰一人として勅命の下ったことなど知らなかったが、
ビラの内容により事態が最後の段階にきたことを覚った。
流石の野中大尉もことここにおいて遂に決断をくだし、下士官兵の原隊復帰を命じた。
そして本人は陸軍官邸へ向かった。
常盤少尉もガックリした表情で全員に訓示をしたが誰も原隊復帰に応ずる者はなかった。
少尉は何度も反復しながら説得するうち、感極まり絶句し目に涙があふれた。
教官を慕う我々の感情が少尉の胸を強くうったのであろう。
ようやく一同は冷静に戻り堀曹長の指揮で原隊に向ったが、
途中戒厳参謀によって武装解除を受けた。

二・二六事件は、私にとって入隊後、日も浅いうちに起きたことだけに、夢中で参加したが、
あの当時の世情から考えれば事件は早晩のうちに起ったはずで、
惰眠を貪る為政者への警鐘とも思われ、
その真意を速やかに国政に反映し国民の不満にこたえるよう配慮すべきであった。
野中大尉も常盤少尉も人間的には立派な将校で、人徳の深い人柄だった。
このように尊敬された人たちを事件に巻込んだ原因は何だったのか、
しかも統帥権を干犯してまで蹶起に走らせた要因は何であったのか。
これら純粋無垢の青年将校たちが日頃抱いていた 「 憂国の精神 」 は
まことに崇高で真に国を思う気概には敬服するばかりである。
私はそうした上官を戴いたことにほこりを感ずるものである。

陣中のガリ版印刷
歩兵第三聯隊第七中隊 二等兵 福島常二 著
二・二六事件と郷土兵 から