あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

2019年03月31日 16時28分39秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸


蹶起趣意書

川島は、決起部隊から 「 軟弱だ 」 と 詰め寄られ、
彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。
「これは随分重要な発言だと思います。
決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、
“昭和維新の斷行を約す”
と、約束している。
・・・
 「 昭和維新は大御心に副はず 」 

この事件は肅軍の企圖をもっていました。
わたしたちの蹶起したことの目的はいろいろありましたが、
眞の狙いは 非維新派たる現中央部を粛正することにあったのです。
軍を維新に誘導することは、わたし達の第一の目標でした。

・・・
磯部浅一
上部工作 「 蹶起すれば軍を引摺り得る 」


首脳部

陸軍大臣官邸
目次
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・ 
香田淸貞大尉 「 國家の一大事でありますゾ ! 」 
・ 川島義之陸軍大臣への要望書 
・ 
「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 
・ 
内田メモ 「 只今から我々の要望事項を申上げます 」
・ 
齋藤瀏少將 「 とうとうやったぞ 」 
・ 
齋藤瀏 『 おじさん、速やかに出馬して軍上層部に折衝し事態収拾に努力して下さい 』 
・ 川島義之陸軍大臣 二月二十六日 
・ 陸相官邸 二月二十六日 
・ 「ブッタ斬るゾ !!」 
・ 
「 エイッこの野郎、まだグズグズ文句を言うか 」 
・ 川島義之陸軍大臣參内 「 軍當局は、吾々の行動を認めたのですか 」 
・ 香田淸貞大尉 「 陸相官邸の部隊にも給与して下さい 」 
・ 軍事參議官との會見 『 軍は自體の粛正をすると共に維新に進入するを要する 』 
・ 帝國ホテルの會合 
・ 戒嚴令 『 麹町地區警備隊 ・ 二十六日朝來出動セル部隊 』 
軍事參議官との會談 1 『 國家人無し 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』 
・ 
軍事參議官との會談 2 『 事態の収拾を眞崎大將に御願します 』 
・ 
西田税、村中孝次 『 村中孝次、 二十七日夜 北一輝邸ニ現ル 』 
自殺するなら勝手に自殺するがよかろう
・ 「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」
 『 戰爭だ、戰爭だ 』 
・ 
徳川義親侯爵 『 身分一際ヲ捨テ強行參内をシヨウト思フ 』

西田税、蹶起将校 ・ 電話連絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』

西田に電話を掛けさせて青年将校の誰かを電話口に出て貰ふ事にしました。
確か栗原中尉と思ひます、電話口に出ましたので私は次の様に話しました。
「 やあ暫らく、愈々やりましたね、
就いては君等は昨日臺灣の柳川を總理に希望してゐると云ふ事を軍事參議官の方々に申したさうだが、
東京と臺灣では餘り話しが遠すぎるではないか、
何事も第一善を求めると云ふ事はかういふ場合に考ふ可きではありません、
眞崎でよいではないか、眞崎に時局を収拾して貰ふ事に先づ君等靑年將校全部の意見を一致させなさい。
さうして君等の意見一致として軍事參議官の方々も、
亦軍事參議官全部の意見一致として眞崎を推薦する事にすれば、即ち陸軍上下一致と云ふ事になる。
君等は軍事參議官の意見一致と同時に眞崎に一任して一切の要求は致さない事にしなさい。
そして呉れ呉も大權私議にならない様に軍事參議官に御願ひする様にしなさい 」
更に私は念を押して、
「 良く私の云ふ意味が判りますか、意味を間違へない様に他の諸君と相談して意見を一致させなさい 」
電話の要旨し以上の通りで、午前十時過ぎと思ひます。
尚 西田と村中との電話で話して居るのを機會に私が電話に出まして
村中に向っても、栗原に申したと同一の言葉を以つて靑年將校の意見一致を急速にする様に説き勧めました。
此時、栗原も、村中も
「 皆と相談して直ちに其様に致します」
と 云ふ返事でありました。
・・・
北一輝 2 「 仕舞った 」 

・ 蹶起部隊本部から行動部隊下士官兵に配布した檄文 

・ 磯部淺一 「 宇多! きさまどうする?」 
・ 「 あの温厚な村中が起ったのだ 」 
・ 丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」
「 お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる 」

・ 
山下奉文の四日間 

同志将校は 各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、陸相官邸に集合する。
余が村中、田中 と 共に官邸に向ひたる時は、
永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている。
陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している。
余等は広間に入り、
此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される。
山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。
彼我共に黙して語らず。
余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる。
同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事にされるとは予想しなかった。
少なくも軍首脳部の士が、
吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた。
然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ。
山下少将が入り来て 「 覺悟は 」 と 問ふ。
村中 「 天裁を受けます 」 と 簡単に答へる。
連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る。
夕景迫る頃、
憲兵大尉 岡村通弘 ( 同期生 ) の指揮にて、数名の下士官が捕縄をかける。
刑務所に送られる途中、
青山のあたりで 昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ。
・・・
行動記 ・ 第二十五 「 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ 」

「 畢生の至純を傾け盡して御國のご維新のために陳述す 」 


「 畢生の至純を傾け盡して御國のご維新のために陳述す 」

2019年03月30日 05時36分56秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

自決か公判闘爭か
二十九日朝奉勅命令の下達を知った将校たちは兵を返すことにきめたが、その態様はさまざまであった。
奉勅命令と聞いて慄然としてただちに率先兵を返した若い少中尉もあり、
栗原中尉のように再起の同志をのこすために下士官兵の原隊帰還を決めたものもあり、
また、安藤大尉のように最後まで兵を返すことに抵抗したものもいた。
しかし、大命によって兵を返すことは、
この挙兵が大命にそわなかったことの証左であると理解した将校はいく人いたであろうか。
当時の軍人の倫理にしたがえば、事志と違いそれが大命に相反すると知ったならば、
あるいはしらなくともこれだけの大事件をひきおこした責任は、すべて将校の負うべきもの、
この際いさぎよく死をえらんで大罪を謝すべきであるとの思考は、当時軍将校の一般的、普遍的通念であった。
この場合、河野寿は三月二日宮内省発表の新聞記事をみて、
「 万事休矣、逆賊となる、また何をかいわん哉、死をもって罪を闕下に謝するのみ 」
とて 自決を決し
三月五日午後、収容中の熱海病院を脱出し裏山松林中で、果物ナイフをもって腹を切り頸動脈を突き、
爾後十数時間死の苦しみに堪えて  ついに六日午前坂時頃その死の目的を達したし、
野中四郎は二十九日午後陸相官邸図書室で、井出宣時大佐の説得によって遺書をしたためいさぎよく拳銃自決を遂げている。
しかし その後多数の同志たちは、安藤大尉の山王ホテル前における自決未遂を除いて、
ついに自決に出ることなく 午後五時すぎ縛につき軍刑務所に送られた。
なぜ、彼らの多くはいさぎよく、その責任の故に、その大罪の故に自決への途をえらばなかったのであろうか。

同志将校は各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、陸相官邸に集合する。
余が村中、田中と共に官邸に向ひたる時は、永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、
勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている。
陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している。
余等は広間に入り、此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される。
山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。
彼我共に黙して語らず。
余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる。
同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事をされるとは予想しなかった。
少なくも軍首脳部の士が、吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた。
然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ。
山下少将が入り来て 「 覚悟は 」 と 問ふ。
村中 「 天裁を受けます 」 と 簡単に答へる。
連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る。
夕景迫る頃、憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が歩縄をかける。
刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ。

たいへん印象的な文章だが、これは磯部の 「 行動記 」に ある、
二十九日午後の陸相官邸における状況描写である。
首謀者磯部には自決の意思はなかった。

「 余はどうしても死ぬ気が起らなかった、自決どころではない、
 山王ホテルから脱走して支那へ渡ろうと思って柴大尉に逃げさせてくれと頼んだぐらいであった。
どこまでも生きのびて仇討をせねば気がすまなかったのだ」 (「行動記」)
たいへんな強気をのこしている彼ではあるが、その本心は公判闘争にあった。
捕えられたのち、
「 そう長く生きていると思っていませんので、
畢生の至純を傾け尽して御國のご維新のために陳述したいと思っております 」
と 述べて、その公判闘争への希望と期待をたぎらせていた。

首謀者 村中孝次 も、右の記述には「 天裁を受けます 」 と山下少将に答えたというが、
彼にももちろん自決の意思などなかった。
「 わたしどもはあくまでも自己の信念に生きこれを貫徹することによって、この責を償いたいのであります。
もし生あらばあらゆる努力を傾けて一日も速やかに昭和維新を実現するよう、
あくまでも翼賛これつとめたいと思う」 (村中調書)
これが村中の本心であった。

しかし首謀者たちには自決の意思が全然なかったわけではない。
栗原安秀は首相官邸で一旦自決をはかったが、部下にとめられて決心を変更したし、
また 安藤輝三も二十九日十一時前後、山王ホテルで兵を返すことを決断したが同時に自決を心に決め、
兵をホテル前の歩道に集め訣別の言葉を述べたあと、拳銃一発その場に倒れた。
しかし かたわらにいた兵にさまたげられ弾丸は急所をはずれ、病院の手当てで生き残った。
栗原は死より生への転向をこういうのである。
「 私は首相官邸で自決しようとして果てませんでした。
わが愛する下士官兵は、私の手をとって遂に私を拘束したのであります。
ここにおいて私は翻然として死ぬことをやめたのであります。
私は、私の生きんとする生命のある限り維新のために尽すべきを、臣子の道なりと信じました。
ただ、今日初めて生は死よりも難きことを発見し得たのでありますが、
今度は依然として維新に向って前進するものであります」 (栗原調書)
維新革命家を辞任する栗原の面目躍如たるものがあるが、彼はこの決意の通り、
刑死のとき十字架前に座して 「栗原死しても維新は死せず」 と 絶叫し銃殺された。
維新革命家にふさわしい死であった。
とにかく、首謀者たちの多くは、死を捨てて生のあらんかぎり維新を戦おうとした。
それは公判闘争への盟であった。

陸相官邸
この場合、軍首脳者たちは彼らがいさぎよく陸相官邸で自決してくれることを望んだし、
また、彼らも事ここに及んでは自決の途をとるだろうと考えていた。
すでに 二十八日午前には、
主だった将校たちは官邸において山下少将や堀第一師団長、
小藤大佐などを前にして、
「 兵は帰し お上にお許しを乞う、われわれ将校は一同自刃してお詫びする 」
と 誓ったこともあるので、事が敗れ彼らが兵を返したあとは、必ず自決するものと判断した。
そのため自決の場所として陸相官邸に彼らを集合せしめたのであった。
だが、首謀者たちの心境は既述のとおりであったが、なお、一般の将校たちの心のうちはまちまちであった。
テンデ始めから自決の意思なく依然昭和維新のために働くというものから、
いさぎよく自決してお詫びしようとするもの、また、心境複雑にして何れとも決しかねているものなど、さまざまであった。

陸相官邸に真っ先に到着したのは、
陸軍省、参謀本部に近く警備していた将校たち、
坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉の三人であった。
このときの状況を高橋太郎は、
「 二十九日朝、名は知りませんが 参謀やその他の将校が来まして状況を話し帰順を勧告しましたので、
私ら将校は協議をし下士官以下は、帰順せしめ、私ら将校のみ自決の決心をしました。
そのうち戦車が攻撃して参りましたので、わたしら将校は挺身し皇軍相撃たざるよう切望し、
次いで全員集合せしめたる上、訣別の辞をのべ兵を参謀に渡しました。
それから、私達将校は陸相官邸にかえりますと、
玄関に私の元聯隊長の山下閣下がおられましたので、私らの決心を伝えました。
すると 山下閣下はわれら三人 ( 坂井、麦屋と私 ) を一室に案内しました。
そこで、私達は自決すべく身辺を整理しておりますと、
三原中佐 ( 坂井中尉の元大隊長 ) および井出大佐が来られましたので、
われらの決意を示し最後のお別れを告げ、三原中佐に介添を依頼し各々遺書を認めました 」

この歩三の三人は自決組であり別室に入れられていたのである。
そこに、半蔵門附近の警備に任じていた清原が入ってきた。
清原は今暁来の宣伝放送にその去就に迷っていたが、
戦車にのった同期生から勅命は下ったと聞いて 率先、兵を率いて歩三営門まで送りかえし、一人陸相官邸に入った。
山下少将に決意をきかれ自決しますというと、坂井らのいる部屋に入れられたのだ。
坂井が「 よくきた、一緒に死のう。早く遺書を書け 」 と いった。
だが、さきの高橋はつづけていう。
「 残念なことには麦屋少尉の遺書を書きおわるのがおそかったので決行の時機を失したのですが、
もう少し早ければその目的を達しておったのでしょう。
即ち、地図により宮城ならびに大神宮の位置を標定し、頭をその方向に伏して、
拳銃を以て自決するところまで準備が進行しておりましたが、
その時野中大尉、鈴木少尉、清原少尉 (筆者註、清原が最初に軟化したと思われる) らの同志が、
生死は何処までも同志とともにしてくれ、やるなら是非同志と会ってくれ、わしらも もちろん死を期している。
同志全部が一緒に自決しようではないかとて、われらを諫めたので、同志に会うことにきめました。
その結果、" 大御心のままに裁かれ昭和維新實現の過程を看視するの必要あり "
との 議まとまり、現在の結果を招いたのであります」 (高橋調書)

話をもとに戻そう。
陸相官邸に最初に入ったのは自決組の坂井中尉ら三名だったが、
ついで首相官邸にあった中橋中尉、中島少尉、林少尉、池田少尉が官邸に入ったが
これらの四人組は自決する気が無かったので、別の広間に入れられた。
しばらくすると、清原少尉、これは自決組へ、
新議事堂にいた野中大尉、常盤少尉、鈴木少尉が参着したが、
自決の意思がなかったため広間へ入れられさきの四人と合流した。
いちばん最後に官邸に入ったのは、
山王ホテル組で、香田大尉、對馬、竹嶌、渋川、それに村中、磯部、田中といった人々であった。
もちろんこれらの人々も自決する気はなかった。
結局自決を一旦決意したのは、さきの坂井以下四名だけだったが、これも大勢にしたがい自決を思いとどまった。

始めから公判闘争を期していた池田少尉は、当時の模様と心の動きを次のように説明している。
「 室内には参謀や多数の将校がきて、血を流さないでよかったと申されましたが、
中には、切腹しろ切腹しろという人もありましたが、今死んでは犬死になるから自決はしなかったのであります。
即ち一旦國法に反した以上刑罰を受くることは、もとより覚悟の上で生命など問題にしておりませんが、
せめて公判を通してわれわれの精神を國民に知悉せしめ、
國民の皇國精神を勃興しておわりを遂げたいと思っておりましたので自決しなかったのであります 」 (池田俊彦調書)
だから、その大広間ではなお闘志満々であった。
「 私たちは自決を思い止まり、野中大尉について廊下をぬけてゆくと、広間にみな集まっていて、
タバコを吸っているではないか。逆に維新斷行はこれからだ、という意気天をつくの有様である 」
 (清原康平述、「命令! 警視庁を占領せよ!」)

反撥の心理
こうして彼らは陸相官邸において、軍当局ないし先輩たちの期待にもかかわらず、
まん然と時を過ごし夕刻になって縛についた。
そこでは、すぐる四日間にわたる苦闘のあとの反省はいささかもなされなかった。
依然として昭和維新への意欲をたぎらかせていた。

「 尊皇絶對で誠心誠意ご奉公する考えであります 」(中橋基明)

「 現在でも決行当時の心境に変化はありません、
ただひたすら昭和維新の實現をみなかったのが残念であります 」 (田中勝)

「 わたしどもの意のあるところを公判により極力内外に伝えて 最後的に御奉公をするつもりであります」 (對馬勝雄)

「 最後まで信念に向ってご奉公するのであります。それだけ自分として最後まで希望に満ちているのであります」 (中島莞爾)
これらの若い人々の言うところであるが、
同じように香田清貞にしても、
「 二十九日までは私どもの蹶起の趣意精神は國民に徹底していると思って、
私どもの任務はすでにおわったと考えましたが、
その後の一般観察から、これは考え違いでほとんど徹底していないことを知りましたので、
これを徹底するところまでやらなければ任務はおわっていない、徹底せしめることは私どもの責任である。
しからざれば、單にお上の宸襟を悩まし奉り、
世上を騒がしただけで何らの効果ないばかりか、沢山の弊害を残したにすぎないと考えます 」 (香田調書)

と、彼はなお初志の貫徹に邁進をちかっているのである。
いずれも表現の違いはあるが、依然として昭和維新のために闘うというのである。
それはもちろん今後の公判に期待してのことであろうが、それにしても事件失敗のあとの反省のないのが不思議である。
彼らは今にして死を恐れたのであろうか。

だが、右の香田にしてもすでに事件中死線に立っていた。
二十九日朝 山王ホテルにあって、もはや皇軍相撃不可避と判断した香田は、
相対峙する第一線同士が相談し互いに撃ち合いをしないように解決すべきであるとして、
彼がこの際対峙する両軍の間に道路上で自決しこれで撃ち合いをやめてもらおうと、
まさに飛び出そうとしたのを丹生その他の将校にとめられて目的を達しなかったことがある。
だから命を惜しんでいたのではない。
彼らはいつでも死の覚悟はできていたと見るべきであろう。

思うに、わたしはそこに軍当局 とくに幕僚たちに対して 心情的につよい反撥がかくされていたと考える。
それは四日間のあとをかえりみると、
その始め彼らの一挙を賞賛し 「 われわれもやる 」 と 意気込みを示していた幕僚たち、
あるいは、彼らの心情をよしとし同調を示した軍当局、
これがために、
これらの人々に期待して無為にすごして敗退した。
この敗退における彼らの悔恨は軍部そのものへの不信に向けられていた。
しかも、彼らが兵を収めて孤立すると、
これまでと打って変って幕僚の威勢のよさ、
その幕僚たちは彼らに死ねという。
あるいは、死ねといわんばかりの冷酷な仕打ち、
それは磯部のいうように
「 まさかこんな事をされるとは予想しなかった 」 のであり、
「 血も涙も一滴だになく自決せよといわんばかりの態度 」 に 反撥するのも情の当然といえよう。
たしかに
「 多數同志は自決する決心で陸軍省に集りおのおの遺書等を認めたのであったが、
当局者の "死ね、死んでしまえ" と言ったような残酷な態度に反感を抱き、
心機一転して自殺を思い止る 」(磯部「行動記」)
であり、
「----将校ヲ陸相官邸ニ集合ヲ命ジ憲兵及其他ノ部隊を以テ拳銃、銃剣ヲ擬セシメ、
山下少将石原大佐等ハ自決ヲ鞏要セリ。
一同ソノヤリ方ノアマリニ甚ダシキニ憤慨シ自決ヲ肯ンゼズ
( 特ニ謂レナキ逆賊ノ名ノモトニ死スル能ワザリキ ) 今日ニ至レリ 」 (安藤遺書)

これが彼らの本音であろう。
もしこのとき軍首脳部すくなくとも彼らに同情を示す軍幕僚や旧上官らが、
彼らに じゅんじゅんと説示するところがあれば、彼らも喜んでその死に満足したであろうかと思われる。

ここに若い少尉 安田優の言うところをかいておこう。
彼は二十六日渡辺邸襲撃で受傷し一旦陸相官邸で応急手当をうけたあと、
赤坂伝馬町の前田外科病院に入院し治療をうけ二十九日午後二時頃まで入院中であったが、
「 このときラジオにおいて勅命により事のいかんを問わず所属隊に復帰すべしときき、
まず首相官邸に行かんとし自動車にのり行ったところ同志がおらず、陸相官邸に行きました。
この時参謀の砲兵大尉に会い同じ砲兵であるので二人で相擁して泣きました。
わたしはここで二、三時間まっていましたが、
私は自決の為 拳銃を腹の中にしまっておったのであります。
このとき私の考えたことは自決するのが一番この世の中では楽だと思いましたが、
自決したならば世の中はどうなるのだろうかと考えました。
しかし 私としてはどうしても自決せねばならぬと考えたのであります。
午後六時頃であります、
このとき 石原大佐は お前たちは自首してきたのであろうと侮辱的に聞きましたから、
私は自首したのではありません、
武人として面目を全うさせていただきたい為でありますと答えました。
私はこの時、非常に遺憾に思うたことは、自決する機会を与えられなかったことです。
即ち私をしていわしむることを聞き、しかる後武人の最後を飾らせていただきたかったのです。
単に時間だけ与えられても、結局それならば私達は何をやったか無意味なものになると思います。
つまり陸相官邸に病院から行ったのは、赤穂義士的な最後を求めたいと思ったからであります」 (安田調書)
彼は自決のためにわざわざ病院から官邸に出かけたことを悔いたのである。
だからまた彼は、その当時の心境を、
「 現在の心境は自分の言うべき事を全部言って、克くわかってもらって自決させて頂き、
七生までも維新の精神に生きまして、陛下の万歳を祈りたいと思います」 (安田調書)
と 切々と訴えた。
たしかに軍当局のあまりにもかわった仕打ちへの不信不満は、
彼らをしてその心情を逆立ちせしめたのだというるだろう。

 大谷敬二郎  二・二六事件  から


『 戰爭だ、戰爭だ 』

2019年03月29日 12時30分39秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

 
2 8 日、戦闘準備をする安藤部隊
前頁 
「 自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」  の続き

赤坂の料亭幸楽に陣どった安藤中隊は闘志もっとも旺盛だった。
幸楽には続々同志将校があつまって強硬派の牙城となった。
近く戦闘が予想せられる幸楽はあたかも決戦場のような様相を呈していた。
事件以来部外にあって愛国団体を動員するはずの澁川善助は前日から安藤部隊にもぐりこんでいた。
そこへ歩三の新井中尉が来て安藤に撤退をすすめた。
香田がいかって、
「 奉直命令がどうしたというんだ!そんなものはにせものだ、くだらんことをいうな!」
と叱りつけた。
澁川は、
「 幕僚が悪いんだ、彼らをやっつけてしまわねばダメだ 」
と怒号する。
そんな空気のところへ野中大尉が入ってきた。
野中はさきに部隊を代表して軍事参議官の最後の回答を求めに行ってきたのである。
野中は人々の興奮を尻目に、至極おちついていた。
「 一切を委せて帰ることにした 」
「 委せてかえる---それはどうしてですか 」
澁川が鋭く詰寄った。
「 兵隊がかわいそうだから 」
と野中の声は低かった。
澁川はなおも二言三言くってかかっていたが、
「なにもかも幕僚が悪いのだ!幕僚ファッショをやっつけてしまわねばダメだ 」
と再び怒号した。
・・・リンク→澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」
この十数人の将校の集まった幸楽の応接間は激怒と悲憤のうずまきだった。

村中  はちょうどここに居合わせて、じっとこの様子を見ていた。
彼はこうなりゃ決裂だ、戦争だ戦争だと叫びながら部屋を飛び出して陸相官邸にかえった。
そして磯部に、
「 磯部やろう、安藤も坂井も絶対に退かんといっている。 安藤部隊の気勢はあがっている。団結は固い。
 幸楽付近は敵の攻撃をうけそうな気配だ、もう、こうなったら後へは引けん、やろう 」
磯部 は二つ返事で賛成した。
そして首相官邸に走った。
ここでは栗原も幸楽からかえっていて、お互いにやりましょうと闘志をはっきりした。
磯部はもう討死の覚悟だった。
田中部隊それに栗原から一小隊をかりてみずから閑院宮邸附近に進出して、この台地の一角をおさえた。
夜に入ると、磯部は常盤、鈴木両部隊とともに陸相官邸を守った。
坂井と清原の部隊が陸軍省と参謀本部附近、
栗原、中橋が首相官邸、

安藤が幸楽、丹生が山王ホテル、
野中と村中は予備隊として新議事堂にそれぞれ位置してすっかり戦闘準備を整えた。
・・・(二十九日朝 ? )



この日の夕方頃には幸楽、山王下付近は物見高い群衆も集まって雑とうをきわめていた。
栗原中尉が乗用車の上から大声で市民に演説していた。
「 諸君、
 私たちはわが國の現状を見るにしのびず止むなくたち上がったのであります。

この非常時局に元老、重臣、官僚、政党、財閥等のいわゆる特権階級が
私利私慾をほしいままにし、
国政をみだり国威を失墜している。
われわれは
真に一君万民たるべき皇国本然の姿を顕現せんがために特権階級の打倒に立ったのであります。

諸君、
わが國の軍隊は天皇陛下の軍隊であり、同時に国民の軍隊であります。

私たちは国防の第一線に立って笑って死にたいのであります。
それには何よりも後顧の憂いをとり除かなくてはなりません。
それがどうでしょう、農村漁村はいまや窮乏のどん底にあります。
こんなことで兵隊たちは安心して死んでいかれません。
われわれは立ち上がりました。
今こそわれわれは昭和維新を実現しなければなりません。
われわれはこれがための挺身隊であります 」
群衆は拍手を送る。
麻布三聯隊万歳、大日本帝国万歳のどよめきが群衆の中に湧き上がっていた。


・・・リンク ↓
・ 幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」
・ 下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」 
中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 

こうして、彼らはこの一戦に討死を期して敵の攻撃を待った。
だが、この間、なお説得がつづけられていた。
一触即発の険悪な情勢の中に、冬の夜は更けていった。

大谷敬二郎著  二 ・二六事件 『 抗戦の拠点幸楽 』 から

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磯部浅一は
その著書 『 行動記 』 で上記の事を次の如く物語っている。
全文転載
第二十二 「 断乎 決戦の覺悟をする 」 
全同志を陸相官邸に集合させようとして聯絡をとったが、なかなか集合しない。
安藤、坂井は鞏硬論をとって動じない。
村中は安藤に聯絡のため幸楽へ走る。
暫くすると村中が飛び込んで來て、
「 オイ磯部やらふかッ、安藤は引かぬと云ふ、幸楽附近は今にも攻撃を受けそうな情況だ 」
と 斬込む様な口調で云ふ。
余は一語、
「 ヤロウッ 」 と 答へ、走って官邸を出る。
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陸相官邸で自決論が起きたのを耳にした清原が、
アワテテ安藤に之を聯絡した所が、安藤は非情に憤ったのだ。
今更自決なんて言ふ理屈はない。
一體首脳部 ( 同志の ) は何をしているのだ、と云ふ感じを持った。
そこへ村中が聯絡に行ったわけだ。
余は奉勅命令を下達もしない前から既に攻撃をとってゐることに關し、
非常な憤激をおぼえ、斷乎決戰する覺悟をした。
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時は既に午後二時頃、
死戰の覺悟を定めて、
田中部隊と栗原部隊の一小隊を以て、閑院宮邸附近に位置す。
夜に入り 常盤、鈴木兩部隊行動を共にす。
坂井及び清原部隊が陸軍省、參謀本部附近の地區、余が官邸附近。
栗原、中橋、首相官邸。安藤、丹生、山王ホテル幸楽附近。
野中部隊は豫備隊として新議事堂に、各位置する。
夕刻來、台上一帯の住民は立退きを始める。
赤坂見附、半蔵門、警視廳等各方面戰車の轟音頻り、
交通、通信 ( 電話 ) を斷たれ、外部との聯絡不可能となる。
兵士の給養をせばならぬのだが、如何ともする術がない。
止むを得ず自動車でパン、菓子等を徴発し、清酒一樽を求めてうえをしのぐ程度の処置をする。
山下大尉
夜、近歩四、山下大尉が訪ねて來たので情況をきくと、
奉勅命令も攻撃命令も出ておらぬと云ふ。
何が何だか、サッパリわけがわからなくなる。
しかも包囲各部隊の將校は射ち合ひする事は嫌だと云ってゐて、
むしろ同志將校に同情する態度であるとの由。

 桜井少佐
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此の日は、各部隊共ヒンパンに撤退勧告を受けた。
安藤の所へは
村上啓作大佐が維新大詔の草案をもって來て後退をすすめ、
聯隊長も亦奉勅命令を持參して後退をすすめ、
第一師團參謀、桜井少佐も來たらしい。
但し 聯隊長持參のものはインチキなものである事が公判廷でわかった。
桜井少佐のは本物であったらしいが、
激こうせる兵等に阻止されて、安藤と會う事が出來なかった。
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山王ホテル、首相官邸、幸楽からは
万歳の叫喚と軍歌の怒濤が全部をゆるがす如く、引きりなく起きる。
赤坂の所々には街頭演説が始り、
山なす群衆に向って蹶起の主意、維新の要を絶叫する。
群衆は激励の辭を浴せかける。
市中各所に暴動が起こるとの風説頻々、菅波、大岸大尉上京するとの報、
歩三の殘留部隊が義軍に投じたりとの報、同志の志氣は益々高まる。
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一、野中大尉のもとへ
      歩三の某大尉が來て、
      チチブの宮殿下の御言葉として、靑年將校は最後をキレイにせねばならん、
      蹶起部隊に部外者が參加せることは遺憾だ等、
      數ヶ条のことを傳へたのは夜 (二十八日) の出來事であった。
二、安藤への所へは
      歩三出身の某將校が來て
      「今、歩三で會議があって、
      安藤はチチブの宮殿下の御言葉もキカナイから殺さう、
      然し他の將校團のものに殺させてはならぬから、
      歩三の將校で殺すことにしようと云ふ事がきまった」 と 傳へて呉れる。
三、安藤、栗原部隊の下士、兵の志気はスバラシイ。
      一歩も引きません。
      吾等に刃向ふものは大將でも中將でも容赦しません、
      昭和維新萬歳、尊皇討奸萬歳等々と
      口々に絶叫してアタルベカラザルモノデアル。


「 自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」

2019年03月29日 05時12分30秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸


2月28日
村中、香田らが師団司令部から陸相官邸にかえって間もなく、山下少将があわただしく官邸にやって来た。
そして青年将校は集まれという。
香田、村中、栗原らは鈴木大佐、山口大尉の立ち合いで山下少将と会った。
山下は沈痛な面持ちで、
「 奉勅命令の下令は、いまや、避けられ得ない情勢に立ち至った。 もし、奉勅命令が下れば、お前達はどうするか 」
一同、ことの以外に啞然として答えるものがない。
奉勅命令が出たとなれば
われわれはこれに従うより外に途はない。

われわれの国体信念は陛下にたてをつくことはできない。
というのが、暗黙の間に通ずる彼らの支配的な意見だった。
だが、誰も発言しない。
沈うつな空気がこの場をおっていた。
そこへ戒厳司令部からかえった磯部がとび込んで来た。
そして、
「 おーい、一体どうするんだ!」
と どなりたてた。
村中は磯部にここでのことの次第を説明した。
「 オレは反対だ、いま撤退したらこの台上は反対派の勢力に掌握されてしまって、われわれの蹶起が無意味になる。 
もっと悪い事態がおこる。

彼らはわれわれを弾圧して自分たちの都合のよいように、軍をつくりかえてしまうだろう 」
この磯部の強い反対で、一応、撤退の空気はくずれてしまった。
もう一度よく協議しようということになって、山下、鈴木は別室に去り 山口だけは居残った。
彼らは山口を交えて改めてもう一度協議した。
奉勅命令が師団の方では未だ出ないというのに、幕僚は出たという。
どちらが本当かわからない。
これは彼らのおどかしかも知れない。
協議は、ことの真否をめぐって堂々めぐりをしていた。
この暗澹たる前途に対して、もはや、誰も思いきって発言するものがなかった。
この沈黙を破って栗原が、
「 それでは、こうしようじゃないですか、
 今一度、統帥系統を経てお上にお伺い申上げようではないか、
奉勅命令が出るとか出ないとか、一向にわれわれはわからない。
もう一度、陛下の命令を仰いで、一同その大元帥陛下のご命令に服従致しましょう。
もし、死を賜るならば、侍従武官のご差遺を願い 将校は立派に屠腹とふくして、
下士官兵のお許しをお願い致しましょう 」

といって泣いた。
なみいる同志は感動した。
突然、山口が大声をあげて泣き出した。
「 栗原、貴様はえらい!」
ツカツカと栗原のところによって肩を抱いた。栗原も立って山口を抱いた。
二人は頬と頬をくっつけるようにして声をあげて泣いた。
香田も泣いた。村中も磯部も泣いた。
磯部は統帥系統を通じてお上にわれわれの真精神を奏上してお伺いするという方針は、
この際、きわめて妥当なものだと感じたので、
「 よかろう、それで進もう 」
といった。
村中も香田もこれに同意した。
山口が部屋を出て別室の山下と鈴木を呼んできた。
そして山口から改めて栗原の意見を開陳すると、
山下も鈴木も共に涙を流し、
「 ありがとう、有難う 」
と栗原をはじめ香田、村中、磯部らの手を一人一人固く握りしめた。
そして山下は
侍従武官のご差遺には協力しようと約束した。

そこへ、堀第一師団長と小藤大佐が急ぎ足で入ってきた。
堀中将は奉勅命令が御前八時に実施というのが延期されたので、
こうだ、村中らのさきの訪問に対しては、
命令は下達されていないとあいまいに答えたのだったが、
それがまた正午に実施ということになったので、驚いて彼らに撤退をすすめにきたのだった。
だが、彼らはそこで栗原の意見を聞いて同じく感動の涙を流した。
もはや、多くをいう必要を認めなかった。
「 奉勅命令は近く下る状況にあるから君らは しりぞいてくれ 」
というだけで安心して帰っていった。
人々がこの感激にしているとき、磯部はへんな気持ちになっていた。
なんだかおかしい。
人はわれわれが自決するものと決めてかかっているが、
俺は死ぬことに同意したのではない。
もう一度、陛下の御意思を拝するというのだ。
磯部は別室で陛下への上奏文を書きかけている山口大尉の机の前に立って、
「 山口さん、上奏文には何と書くのですか。  死を賜りたいなどと書いたら大変ですよ 」
山口は けげんそうに磯部を見つめていたが、ちょっと考えて、
「 われわれは陛下の御命令に服従します 」
と書いた。
それでも磯部はなお 何か言いたげに山口を見守っていた。
彼ら一同が自決することになったというので、
第一師団、戒厳司令部をはじめ軍首脳部も何かしらホッとした。
これがすべてが解決されたかに感ぜられたからである。
だが、磯部のこの疑念、何だか話がくいちがっているとしたところに、
のちの形勢逆転の発端があった。
この日 ( 28日 ) の午後一時頃 川島陸相は山下少将とともに本庄武官長を訪問した。
山下が 行動将校らは兵を返し 将校は自決するとの決定によって勅使ご差遺 をお願いするためだった。
山下少将は
行動将校一同は大臣官邸にあっていずれも陛下に罪を謝するために自刃し、
下士官兵はただちに原隊に復帰させる予定である。
ついては彼らをして安んじて自刃せしめるために、
特に勅使を賜りた死出の光栄を与えられるように取りはからわれたい。

と、申し出た。
また、川島陸相からは、
第一師団長から
部下の兵をもって同じ部下の兵を討つのは到底忍びないところである
という申し出のあったことを報告した。
これはこの日の午前十一時頃堀師団長が、香椎司令官に
第一師団は攻撃準備整わないので討伐開始の延期
を申し出たことり心裏を素直に語ったものであった。
本庄武官長は、陛下が軍の処置に不満の気持を明らかにしておられる今日、
勅使の差遺などは到底不可能であると答えたが、
川島や山下からたつてのお願いだと懇請されたので、
やむなく一応これを伝奏することを約束した。
それからすぐ政務室で拝謁し、山下からの懇願の次第を詳細に言上すると、
陛下の顔にはたちまち、これまで拝したこともないような怒気があふれてきた。
そしてきびしい態度で、武官長をにらみすえられ、
「 それで陸軍の威信を保ち責任をはたしうると思うのか、
 自殺するなら勝手に自殺するがよかろう。
このようなものに勅使などとは、もっての外である。
また、第一師団長が部下を愛するあまり、進んで行動をおこすことができないというのは、
みずからの責任を解せざるものである。
もはや、論議の余地はない。
立ちどころに討伐し 反乱を鎮定するように厳達するがよい 」 ( 本庄日記 )
と、激しい叱責をうけた。
このような陛下の厳然たる態度は、武官長就任以来始めてのことで本庄はいたく恐懼感激して御前を退下したという。
・・・以上 前頁  自殺するなら勝手に自殺するがよかろう  


こうした蹶起将校の自決論によって、この事件も無血鎮定の見込みがつき、
皇軍相撃の惨事も避けられるかに見られたのもほんの束の間のこと、
事態はいくつかの原因で逆転してしまった。
それは
磯部の強硬な反対と説得、
北一輝の霊告、
安藤の闘志、
といったものがこんがらがって、事態は急速に悪化してしまったのである。
彼らは栗原の意見を了承した。
まかり間違えば同志将校は自決しなければならない。
しかも撤退ということは重大である。
村中 は香田と はかって将校全員を至急官邸に集合するように手配した。
ところが安藤大尉ほか二、三人はなかなか出て来ない。
その集合を待っている時のことである。
ある将校が 「 どうしたのか 」 と村中に問うた。
村中は
「 自刃でもせねばならん形勢になりつつあるので、 皆に相談したいのだ 」
と答えた。
傍らでこれを聞いた清原少尉は、
「 なんというざまだ 」
と憤慨して席をけって安藤のところに走りこれを伝えた。
村中は安藤らの来着を待たないで、一同にこれまでのいきさつを説明し、
「 こと、ここまでくれば、あるいは自決せねばならなくなるかも知れない、
 そのときはいさぎよくお互いが自決しよう 」
と一同にはかった。
即座に、「 オレはいやだ 」 磯部 は吐き出すように言った。
そして、香田、栗原を各個に小室につれていって説いた。
「 一体君らは本当に自決する気なのか、そんなバカな話はないじゃないか、
 オレが栗原の意見に賛成したのは自決するというところではない。
統帥系統を通してお上にわれわれの真精神を申し上げ お伺いするというところだ。
山下、鈴木、山口らは何か勘違いしているのではないか、
いまわれわれが自決したのでは兵はどうなるんだ。
何もかもブチこわしになる。 自決なんていうことは全く理由のないことだ 」
栗原、香田は翻意した。
だが、そこでの同志たちは一方で鈴木、小藤から撤退を説得され、
やむなく、撤退あるいは自決を決意し、同志の足なみはようやく乱れてきた。
 
2 8 日、戦闘準備をする安藤部隊
赤坂の料亭幸楽に陣どった安藤中隊は闘志もっとも旺盛だった。
幸楽には続々同志将校があつまって強硬派の牙城となった。
近く戦闘が予想せられる幸楽はあたかも決戦場のような様相を呈していた。
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これより先、村中は安藤がいつまでも来邸しないので、
彼に参集をうながそうと幸楽に行ったが、ここでは戦闘準備を整えて殺気が充満している。
下士官兵は村中をおさえて安藤に会わそうとしない。
やむなく、彼は遠くから呼びかけた。
「 安藤、何事だ!どうしたんだ!」
「 前面の近衛部隊が攻撃を開始しようとしているんだ。 オレの方も今出撃するところだ 」
「 それはいかん、しばらく待て!オレのいうことを聞け!」
「 何をいっているのか、この前の状況を見よ、
 君らは自決するならしたらよいだろう、 オレはあくまで戦うのだ 」
「 とにかく、もう一度相談してくるからそれまで出撃することだけは待ってくれ 」
村中は安藤のきびしいしゅん拒にあい、他の同志の力をかりてさらに説得しようとし、
急いで官邸に引き返した。
彼が官邸に入ると、磯部と栗原が、
「 われわれは自刃することを本旨としたのではない。
 陛下の御命令に従うというだけだ。
栗原から山下に答えたのもこの意味なのだ。
われわれが、今自決したのではこの維新はどうなるんだ 」
と攻めたてた。
村中も、
「 その通りだ、われわれは大命によってその行動を律して行けばよい 」
と彼らに同意した。
そこで村中は、またこのことを同志にはかろうとして、あたりを見渡したが、
すでに大部分の同志はそこにいなかった。
彼らが対談中に、「 戦争だ!戦争だ!幸楽に集れ! 」 と伝えたものがあって、
香田大尉はじめ参集した将校たちは、続々幸楽に走ってしまったのだ。
村中がもぬけの殻の部屋に茫然とつっ立っていると、そこへ電話を知らせたものがある。
早速、彼が電話室にとび込むと、
「 自決するという話があるが決して早まってはいけない 」
と、いつもの北のおだやかな声だった。
村中はすがりつくように、
「 奉勅命令が出てわれわれを討伐するということですが、
 その真偽がはっきりしなくて困っています 」
「 奉勅命令は多分おどかしでしょう。
 なぜなら、
 いやしくも戒厳部隊に編入された部隊に対し討伐ということはあり得ないことです。
多分おどかしの手だから君らはそれにのせられないで、
一旦蹶起した以上はその目的達成のために、あくまで上部工作をやりなさい。
また自決云々のことも、もし、君らが
死ぬようなことがあったら、
私たちとて晏如あんじょとして生きてはおれんのだから、
これらの処理をよくわきまえて、あくまで目的貫徹に進みなさい 」
と北は じゅんじゅんと説いた。
「 わかりました。皆にもよく伝えます 」
 ・
北が彼らの自決を知っていたのは、既に栗原が知らせていたものだった。
これより、やや前、栗原は山下、鈴木らの勧告によって
将校は責をおって自決のやむない状況に至ったことを電話したのである。
北はこの朝、読経中、
神仏集い、賞讃々々、おおい、嬉しさの余り涙こみあげた、我軍、勝って兜の緒を締めよ
との霊告を得て、快報の至るのを待ちうけていたのに、
その形勢の逆なのに驚いて、
「 自決するなんて弱気ではいけない、 昨日の軍事参議官の回答を待つべきだ。
 自決は最後の手段、いまは
まだ最後の時ではない、決して早まってはいけない 」
と栗原に教えたのであった。
このようにして、一旦きまったかに見えた自決論は逆転して再び流血必死の情勢となった。

大谷敬二郎著  二 ・二六事件 『 逆転 』 から
次頁  
『 戦争だ、戦争だ 』  へ 続く


丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」

2019年03月28日 13時43分40秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

午前十時か十一時頃、
兵は原隊に帰し、将校全員は陸相官邸に集合することになった。
私と林、そしてあとの二人の将校は一緒になって、首相官邸を出て陸相官邸に向った。
したがって、あとで桜井参謀と栗原中尉と兵達との劇的場面には立ち合うことが出来なかった。
このことは 林は後で後悔していた。
一言、兵達に自分の気持を話して別れの挨拶をしたかったと言っていた。

私と林と二人並んで歩いて行った。
歩きながら、
私は林に対し、陸相官邸に行ったら自決しようと言った。
林は黙っていた。
私は自決しなくとも殺されることは決っていると言った。
この時林は私の顔をきっと見詰めて、
「 貴様は殺されるのが嫌なのか、殺されるのが恐いのか。
殺されるなら、撃たれて死んだらいいではないか 」
と 言った。
林の胸の中には軍首脳部の我々に対する態度を見て、
すさまじい反抗心と不屈の闘志が
燃えていたに違いない。
後で私は この時の林の態度を思いおこして、
昔賤ケ岳の戦いに敗れた猛将佐久間玄蕃盛政が、
秀吉の仕官のすすめを断り、
切腹も返上して縄を打たれて引き廻しの上、
斬首された凄まじい闘魂に共通するものを感じた。

陸相官邸に着くと、大きな応接間に入れられた。
既に数人の同志将校が来ており、また次々とやってきて広い部屋も一杯になった。
坂井中尉、高橋少尉と麦屋少尉が別室に入り、自決すると言っていた。
栗原中尉や澁川さんが自決をしてはいけない、自決をやめろと皆を説得していた。
私はこうなったら成行きに任せようと考え、じっとしていた。
ここまで林やその他の人々と行動を共にしてきたのだから、
最後迄運命を共にしよう、
と 度胸を決めていた。
しばらくしてから
歩一出身の多田督治大尉がやって来た。
そして つかつかと林の前に来て、
「 おい林、腹を切れ 」
と 言った。
林は黙ったまま多田大尉の顔を睨んでいた。
多田大尉は近くに坐っている私の方へは見向きもせず、唯、林だけに向って自決を迫った。
あと何を言ったか記憶にないが、
林は、何も言わずに全身に力をこめて多田大尉と対決していた。
そのうちに澁川さんがやって来て、
「 多田さん、分っているではありませんか。もういいでしょう。お帰り下さい 」
と 決意をこめた口調で言った。
多田大尉は黙ったまま引揚げて行った。
多田大尉は陸士三十六期生で、
我々の候補生当時 聯隊の他の中隊長をしていた陸大出の方で、
当時確か陸軍省にあって思想方面の研究等をしていたと記憶している。
この勝負は林の気魄の勝ちだと思っている。

大分時間が経って私が小用に立ったら、
憲兵の軍曹が後から拳銃をぴたりと付けてついてきた。
小便をしている間もじっと銃口を突きつけたままであった。
しかし私はこれに唇を噛みしめて耐えていた。
そのうちに坂井中尉達は、野中大尉や栗原中尉等の説得をきき入れて自決を取り止めた。
しばらくして、
静かな官邸の中で小さな拳銃の銃声が聞こえ、
それは野中大尉の自決の銃声であることが知らされた。
これは事件の一つのクライマックスであった。
やたらに苛立たしい気持ちになり、殺すなら早くやったらいいと思ったりした。
しかし、どうせここまで来たのだから、
何処までも頑張ってやろうという気持で腰を落着け、時
の経つのを待っていた。
皆、一言もしゃべらず押し黙ったままであった。
また夕闇が迫ってきた。
時間ははっきり覚えていないが、
石原大佐と鈴木貞一大佐その他数人の参謀将校が憲兵を
引連れて部屋の中にやってきた。
そして石原大佐は 我々を見るなり 物凄い剣幕で、憲兵に向って逮捕しろと命じた。
その時、我々の知らない砲兵の大佐が石原大佐をおしとどめて、
おだやかな表情で、
「 皆さんを収容します。」
と 言った。
或いは 保護検束すると言ったのかその時の言葉をはっきりと覚えていない。
憲兵は一斉に行動を起した。
我々に手錠をかけたのである。

丹生中尉が悲憤やる方ない声で
「 手錠までかけなくても良いではないか 」
と 抗議したが、
そのような講義はすべて黙殺され、
ただ冷たい空気が流れて逮捕はすすめられた。
その時、鈴木貞一大佐が林を呼んで、
「 お母さんに何か言い遺すことはないか 」
と 言ったが、
 
林は鈴木大佐の方にきちんと不動の姿勢をとって、
「 ありません 」
と、ただ一言、腹の底から出る声で答えた。
私の手にも冷たい手錠ががちゃりと音をたててかけられた。
心の中は何かが物凄い勢いで渦巻いていて何も考えられなかった。
やがて鉄格子のある囚人護送車に乗せられて、真暗な闇の中を走りつづけた。
そして代々木の衛戍刑務所に到着した。
狭い事務室のような部屋に一同入れられ、そこで皆軍服を脱いで浅黄色の囚人服を着せられた。
栗原さんや澁川さんが、
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」
 
と 言って皆を励ました。
寒々とした暗い光の中に、なにか温かい心のつながりがあった。
一人一人、薄暗く冷たい監房の中に入れられたとき、
全く別世界に来てしまった違和感が
全身を走った。
しかし、与えられた毛布をかけて横たわると連日の疲れですぐ眠りに就いた。


池田俊彦 著
生きて入る二・二六 より
 
 


蹶起部隊本部から行動部隊下士官兵に配布した檄文

2019年03月27日 18時08分36秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

尊皇討奸ノ義軍ハ如何ナル大軍モ兵器モ恐レルモノデハナイ
又如何ナル邪知策謀ヲモ明鏡ニヨツテ照破スル
皇軍ト名ノツク軍隊ガ我ガ義軍ヲ討テル道理ガナイ
大御心を奉戴セル軍隊ハ我ガ義軍ニ對シテ全然同意同感シ、
我ガ義軍ヲ激励シツツアル、全國軍隊ハ各地ニ蹶起セントシ、
全國民ハ万歳ヲ絶叫シツツアル
八百萬ノ神々モ我カ゛至誠ニ感応シ加護ヲ垂レ給フ
至誠ハ天聴ニ達ス、
義軍ハ飽クマデ死生ヲ共ニシ昭和維新ノ天岩戸開キヲ待ツノミ
進メ進メ、一歩モ退クナ、
一ニ勇敢、二ニモ勇敢、三ニモ勇敢、
以テ聖業ヲ翼賛シ奉レ
昭和十一年二月二十八日
維新義軍

二月二十八日、
蹶起部隊本部から各行動部隊下士官兵に配布された檄文

この檄文は二月二十八日午後、
すでに情勢が悪化して蹶起部隊を包囲する戒厳部隊の配備が顕著となった時、

陸相官邸にあった蹶起部隊の首脳部が作成したもので、
ガリ版刷りで各行動部隊の下士官兵に配布されたものである

 ( 参考資料 )


山下奉文の四日間

2019年03月27日 09時44分15秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

二十九日正午、敗惨の将、安藤大尉以下十九名の将校は、陸相官邸に集結した。
川島陸相以下、軍首脳部は、反乱将校の処置について、額を集めて協議していた。
山下奉文少将は自決を強調した。
「 彼等の憂国至情の精神は親心で見てやる必要がある。
 現役の将校には自決の機会を与えて、軍人として最後の花を飾らせてやりたい 」
この意見が大勢を決した。
官邸の大広間に待機していた反乱将校は、日頃から尊敬、崇拝している山下将軍の声涙ともに下る、
死の説得に直立不動の姿勢で、じっと聞き入っていた。
「 今いった通り、お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる。
 決して犬死ではないぞ。 生きて反徒の汚名をきるなよ。 軍人として最後の花を飾って散って行け!」
列中に嗚咽が起きた。
山下将軍の要望で、その最後は古武士の作法に則って、「 切腹 」 と 決まった。
官邸の西村属官と憲兵の手で、真新しい畳が二枚、内庭のベランダに裏返しにならべられ白い布が敷かれた。
これが 「 切腹の座 」 である。
銀座の菊秀本店に九寸五分の短刀が注文され、靖国神社から白木の三方が届けられた。
介錯人は戸山学校の剣道有段者の将校が選ばれた。
このとき席をはずした野中大尉は、秘書官室で自らの拳銃で自決した。
野中大尉の死は、異様な衝撃を与えた。
「 山下将軍のいうことは一理あるが、蹶起の精神をこの眼で確かめたい。
 死は易く、生は難い。 公判を通じて広く国民に訴えてから死んでも遅くない 」
村中孝次 の一言で、「 切腹 」 の線が崩れ去った。
結局、憲兵の手で武装が解除され、手錠姿で代々木の陸軍刑務所に収容された。
・・・「 お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる 」 
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二 ・ニ六事件秘録  戒厳司令「 交信ヲ傍受セヨ 」 NHK取材班 著
日本放送出版協会  昭和五十五年二月二十日 第一刷発行  から 転載
山下奉文の四日間

クーデター勃発の朝、
軍事調査部長山下少将は、蹶起部隊の本部になっている陸相官邸に早々とその巨軀を現した。
午前八時頃と推定される。
軍事調査部とは、戦時中の報道部のようなもので、当時は弘報と同時に青年将校の政治活動の監視、指導も行っていた。
やがて、陸軍省、参謀本部の出勤時間となる。
省部と略称されるこの二つの官庁に勤務する軍人は、陸軍部内のエリートである。
蹶起部隊の歩哨と省部の幕僚たちとの小競り合いが、あちこちで始まった。
兵に誰何され、着剣銃を突きつけられて通行を阻止された幕僚たちは、憤慨して陸相官邸に詰めかけた。
その時、門前で一発の銃声が響いた。
山下は山口一太郎大尉にうながされて、外へ飛び出した。
血相を変えた磯部が、軍刀を抜いて立っている。
四、五歩離れて、一人の少佐が顔面血だらけになって倒れていた。
「 撃たんでもわかる 」 転倒したまま少佐は叫んだ。
傍らにいた一大尉が駆け寄りかかえ起こす。
少佐は、 「 やるなら、天皇陛下の命令でやれ 」 と怒号しながらかかえられて門前を去った。
撃たれたのは、陸軍省軍務局の片倉衷少佐であった。
・・・リンク → 「 エイッこの野郎、まだグズグズ文句を言うか 」

血を見てたじろぐ幕僚たちに、官邸から出て来た石原莞爾大佐が
「 参謀本部の者は軍人会館に集合 」 と大声で指示した。
山下も 「 陸軍省の者は偕行社に集合 」 と指示を出す。

昼近くになって、山下は宮中に向かった。
眞崎大将と川島陸相は、それ以前に官邸を後にしていた。
招かざる客、石原の姿はいつの間にか消えている。
宮中には陸相はじめ軍首脳が集まっていた。
その中に陸相を見つけると、山下は軍事参議官会議を招集するように進言した。
本来、軍事参議官とは、陸海軍の長老である軍事参議官によって構成され、
天皇の軍事上の諮問に答えるためのものである。
この場合は、天皇の諮問ではないので、幹事役の陸相が招集する非公式のものを、である。
山下の進言が容れられ、午後一時頃から宮中溜ノ間で軍事参議官会議が開かれた。
出席者は、川島、眞崎、荒木、林、阿部、西、寺内の各大将、
それに皇族軍事参議官の梨本、東久邇、朝香の三宮であった。
加えて、東京警備司令部司令官香椎浩平中将、参謀本部次長杉山元中将、
同第二部長岡村寧次少将、山下、石原、陸軍省軍事課長村上啓作大佐、
それに侍従武官長の本庄繁大将が同席した。
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川島陸相は天皇に拝謁すると、
事件の経過を報告するとともに 蹶起趣意書 を読みあげた。
天皇の表情は、陸相の朗読がすすむにつれて嶮けわしさを増し、
陸相の言葉が終わると、
なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか
と 語気鋭く下問した。
川島陸相が、蹶起部隊の行為は明かに天皇の名においてのみ行動すべき統帥の本義にもとり、
また 大官殺害も不祥事ではあるが、陛下ならびに国家につくす至情にもとづいている。
彼らのその心情を理解いただきたいためである、
と 答えると・・・。
今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり
国体の精華を傷つくるものと認む

天皇はきっぱりと断言され、
思わず陸相が はっと頭を下げるとその首筋をさらに鋭く天皇の言葉が痛打した。

朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス  斯ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ恕ユルスベキモノアリヤ
天皇は、
一刻も早く、事件を鎮定せよ
と 川島陸相に命じ、陸相が恐懼して さらに拝礼するのをみると、
速やかに暴徒を鎮圧せよ
と はっきり蹶起部隊を 暴徒 と断定する意向をしめした。
 ・・・ なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか 
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川島陸相の上奏要領
一、叛乱軍の希望事項は概略のみを上聞する。
二、午前五時頃 斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡邊教育総監、牧野伯を襲撃したこと。
三、蹶起趣意書は御前で朗読上聞する。
四、不徳のいたすところ、かくのごとき重大事を惹起し まことに恐懼に堪えないことを上聞する。
五、陛下の赤子たる同胞相撃つの惨事を招来せず、出来るだけ銃火をまじえずして事態を収拾いたしたき旨言上。
陛下は この事態収拾の方針に関しては 「 宜よ し 」 と 仰せ給う
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・・・ 大臣告示の成立経過 
・・・ 
大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」
 
・・・ 命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
・・・ 戒厳令 『 麹町地区警備隊 ・ 二十六日朝来出動セル部隊 』 

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会議は終始、荒木のペースで進められた。
蹶起部隊を説得して、占拠地帯から撤退させようと荒木はいう。
これに、積極的に反対する者はいない。
こうして、その説得のための文案の起草が山下と村上に命じられた。・・・リンク→ 維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」 
文案ができ上ると、これを陸軍大臣告示として山下に持って行かせ、青年将校たちに論示させることになった。
命を受けて退出しようとする山下に、後ろから真崎が 「 叱ってはいかんぞ 」 と声をかけたという。
山下は車に乗って陸相官邸に向かった。
それに、内閣調査官鈴木貞一大佐、参謀本部第二部欧米課ドイツ班長馬奈木敬信中佐が同行した。
官邸に着いた。午後三時過ぎであったと思われる。
山下は青年将校幹部の集合を求めた。
野中、香田、村中、磯部、對馬の五人が集まって来た。
陸軍大臣告示を朗読する。
その場の立会人は、朝から詰めきりの古荘次官、鈴木、満井、山口らであった。
「 陸軍大臣告示 ( 二月二十六日午後三時三十分。東京警備司令部 )
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現 ( 弊風ヲ含ム ) ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以外ハ一に大御心ニ俟ツ 」
對馬が、それは我々の行動を認めるということですか、と質問した。
・・・リンク→・ 川島義之陸軍大臣参内 「 軍当局は、吾々の行動を認めたのですか 」 
山下は答えず、三度繰返し読んだ。
そのあと、無言のまま別室に退去した。
「 其時、馬奈木中佐ハ青年将校ノ希望ヤ要求等ヲ聞テ居リマシタ。
 古荘次官ハ間モナク宮中ニ参内ノ為メ出発シ、吾々ハ留守ヲ命ゼラレ、
次デ山下少将ハ鈴木大佐ヲ留守ニ残シ、参内ノ為メ出発サレマシタノデ、
私と馬奈木中佐モ同乗シ・・・・」 ( 満井調書 ) 
この時間、青年将校たちはクーデターが成功したのか失敗したのか判然とつかめず、
手詰りで無為に過ごしていた。
これに、陸大教官の満井中佐が、宮中に行って軍事参議官に直接会って話してみようと誘いをかけた。
磯部がさっそく乗って、車を用意する。
これを聞いた山下は、自分がここに軍事参議官を連れて来るからと、それを止めようとした。
しかし、磯部は信用しない。
山下の車に満井、馬奈木が同乗して宮中に向かう。
それを磯部、香田、村中の同乗した車が追った。
クーデター勃発直後から、宮城は近衛師団によって手早く厳戒されていた。
坂下門で、山下以外の五人は追い返される。
止むなく磯部らは官邸に戻り、軍事参議官の到着を待った。
宮中に入った山下は、陸相官邸に出向いて青年将校と話し合うよう軍事参議官に進言した。
軍長老が宮中に逃避しているような印象を与えてはまずい、と説得したのである。
午後九時頃、山下の先導で皇族を除く軍事参議官が官邸に到着した。
たたちに会見に入る。
青年将校側では主に香田が喋った。
昭和維新を断行してもらいたてと要請する。
荒木が答える。
二十七日の午前二時頃まで、それが続いた。
しかし、この会見は何らの成果ももたらさなかった。
青年将校側に具体的な要望がないのである。
また、何を望まれても軍事参議官には実権がなかった。
それに、---
「 私共ノ決行スル時ノ考ハ、
 『 アトハ野トナレ、山トナレ 』 ト申ス様ナ捨鉢的ナモノデハナク、 或一ツノ望ヲ持テヲリマス。
 破壊後ノ建設ハ誰カ適当ナ人ガ出テ、収拾シテ下サレバヨイ。
其適当ナ人トハ眞崎大将ヲ指スモノデハナク、
実行力ノアル人ナラ誰デモヨイノデアリマス 」 ( 磯部調書 ) ・・・磯部浅一 「 統帥権干犯の事実あり 」 
これでは軍事参議官も答えようがなかったろう。
青年将校は部屋を移して相談に入った。
「 別室ニ退ツタ蹶起部隊ノ将校カラ更ニ希望アリ、
 『 軍ハ自ラ粛正ノ範ヲ垂レ、昭和維新断行ニ邁進スルト言明シテ頂ケバ、蹶起部隊ハ之デ引キ下ル 』
ト、村中ダツタカ言ツテ来タノデ、荒木大将ハ、『 改メテ会フ必要ハナイ 』 トハネツケタ。
大臣ガ帰ツテ来ルトテ出掛ケテ行ツタガ、何時迄待ツテモ帰ツテ来ナカツタ。
ソシテ、山下少将ヲ憲兵司令部、陸軍省、参謀本部ヘ見ニ使ハセシニ、
ナカナカ強硬論モアリ、軍事参議官ノ意見ト相違シ、山下少将モ困ツタラシイ 」 ( 阿部信行調書 )
陸相は真夜中に一体どこに行ったものか。
それを探しに行って、省部の幕僚たちに吊し上げられている山下の姿が目に見えるようである。
翌朝、うやむやのうちに軍事参議官は宮中に戻った。山下も同行する。
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午後十時頃、
各参議官来邸、余等と会見することとなる。
( 香、村、余、對馬、栗原の六名と満井、山下、小藤、山口、鈴木 )
香田より蹶起主旨と大臣に対する要望事項の意見開陳を説明する。
荒木が大一番に口を割って
「大権を私議する様な事を君等が云ふならば、吾輩は断然意見を異にする、
 御上かどれだけ、御シン念になっているか考へてみよ 」
と、頭から陛下をカブって大上段で打ち下す様な態度をとった。
・・・リンク→  行動記  第十八 「 軍事参議官と会見 」 
決期の目的 ・・・リンク ↓
・ 川島義之陸軍大臣への要望書
・ 
「 只今から我々の要望事項を申上げます 」
・ 
内田メモ 「 只今から我々の要望事項を申上げます 」
軍事参議官との会見 『 軍は自体の粛正をすると共に維新に進入するを要する 』
丹心録 「 吾人はクーデターを企図するものに非ず 」 
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二十七日、
「 午後三時頃、香椎司令官偕行社ニ来リ、真崎大将ニ会フ。
 眞崎大将、軍事参議官ノ室ニ帰来シ、蹶起部隊ノ将校ガ自分ニ会ヒタイト云ツテ居ルサウダガ、
自分丈ケ行クノハドウカト思フト相談ヲ掛ケタリ。

其時、香椎司令官モ入リ来リ、蹶起部隊ハ今ハ頼ルベキ人モナク、心淋シクナツテ居ルノデ、
私 ( 香椎 ) モ頼ンデヤルカラ充分甘ヘルガ良イト云ツテオイタカラ、
是非眞崎閣下ニ行ツテ頂キ、高ブツテ居ル神経ヲ静メテ頂キ度イト話ス。
ソコデ、他ノ軍事参議官モ、『 ソンナ程度ナラ、行ツタ方ガヨカラウ 』 ト云フ事ニナリ、眞崎大将ハ一人デ出掛ケラレタ。
室ヲ出ラレルト直グ蹶起部隊将校ヨリノ電話ダトテ、軍事参議官全部来テ頂キタイトノ事ナリ。
ソレカラ間モナク眞崎大将ヨリ、要求ガマシキ事ガアルト一人デハ困ルカラ、
安倍ト西大将ニ来テ呉レト電話アリ、私ト西大将ト二人デ陸軍大臣官邸ヘ行ク。
ソコニハ眞崎大将一人ボンヤリト坐ツテ居タ 」 ( 阿部調書 )
この時、陸相官邸に出向いた軍事参議官は眞崎、阿部、西の三人だけであった。
「 当時、大臣官邸ノ応接室ニハ蹶起将校ハ誰モ居マセンデシタガ、
 確カ山下少将カラ其内ニ集ツテ来マスカラトノ事デ、十四、五分待ツテ居リマスト、
蹶起将校ガ十八名集合シ、二列ニ整列シテ、二名丈ケ不明デアリマスノデ、
十八名全部集合シノシタ、ト述ベ・・・・」 ( 眞崎調書 )
山下は、この会見でも立会人になっている。
他には鈴木、小藤、山口の三人がいた。
磯部の手記によれば、その席で一同を代表した野中が
「 事態の収拾を眞崎将軍に御願ひ申します。
 この事は全軍事参議官と全青年将校との一致せる意見として御上奏をお願ひ申したい 」
と申し入れたという。 
・・・リンク→ 
軍事参議官との会談 2 『 事態の収拾を真崎大将に御願します 』 
実は、この会見の直前に北一輝の
「 国家人無し、勇将眞崎あり。国家正義軍のために号令し、正義軍速かに一任せよ 」
という霊告が伝えられていたのである。
・・・リンク→軍事参議官との会談 1 『 国家人無し 勇将真崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』 
しかし、収拾を頼まれても真崎には受けられない。
彼の耳にそろそろ、眞崎が青年将校を操っている、という噂が入っていた。
この会見も無意義に終わった。
だが、青年将校の意気は軒昂である。
待望の戒厳令が布かれ、彼らも戒厳部隊の一員なのである。
しかも、戒厳司令官が騒擾者そうじょうしゃの使いをして軍長老を訪ね、
彼らが淋しがっているから行って甘えられてやってくれ、と頼むようなことまでしているのである。
こういう珍な例は、世界に類を見ないであろう。
この日、このあとの山下の行動はわからない。

二十八日、事態はガラリと変わった。
奉勅命令が下令されたのである。
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奉勅命令
「 現姿勢ヲ撤シ 各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ 」
 
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「 命令   戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ
 奉勅    参謀総長  戴仁親王 」
この命令も、指揮系統が乱れ青年将校には伝わらなかった。・・・リンク→ 「 奉勅命令ハ伝達サレアラズ 」 
それでも事態の悪化を肌で感じた彼らは、形勢を逆転すべく手分けして奔走した。
香田、村中は第一師団司令部を訪ねた。

堀丈夫師団長は二人に労りの言葉をかけた。
磯部は戒厳司令部に行った。
ここでは、冷たくあしらわれた。・・・リンク→  「 オイ磯部、君らは奉勅命令が下ったらどうするか 」
昼近く、彼らは陸相官邸に戻って来た。
官邸では山下、鈴木、山口、栗原の四人が待っていた。
香田らに、山下は、
「 もし奉勅命令が下令されたならばどうするか 」 と覚悟の程を質ただ した。
猶予を乞われ、山下と鈴木は別室に退く。
香田らに山口を加えた六人は協議に入った。
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一、満井中佐及柴大尉去りし後、山口大尉来邸す、
 余の顔を見るや落涙して曰く、
「 本早暁、柴大尉より形勢悪化を聞き、種々奔走せるも我微力及ばず、策盡きたり 」
 と。
余言ふ
「 尚一策あり、統帥系統を経て意見を具申せん 」 と。
山口大尉賛同。
小藤大佐に意見を具申する所あり、
玆に於てか小藤大佐は鈴木貞一大佐、山口大尉と共に第一師団司令部に至り、
堀師団長に是らに関し意見を具申せり。
余は香田、竹島、対馬の三氏と共にこれに同行して第一師団司令部に至り、
参謀長室に於て待ちありしが、稍々ありて参謀長舞大佐来り、
「 奉勅命令は未だ第一師団に下達せられず、安心せよ、唯、冀くは余り熱し過ぎて策を失する勿れ 」
と告ぐ。
次で堀師団長は偉軀温顔、余等の前に現はれ、
「 戒厳司令部に於ては、奉勅命令は今実施の時機にあらずと言へり、
近衛師団が小藤部隊に対して不当の行動に出づる時は我亦期する所あり、心を労する勿れ 」

と云ふ、
余等喜色満面、一大安心を得て陸相官邸に帰来せり。
一、陸相官邸に帰来後、山下奉文少将来りて余等を引接す、
 之より先、
磯部氏は今朝来の余等の行動とは全く関係なく、単独戒厳司令部に至り、
石原大佐及満井中佐と折衝して小藤部隊を現位置にあらしむ必要を力説主張したる後、
陸相官邸に来り、栗原中尉も次いで参集し、
茲に香田、磯部、栗原、野中及余の五名は鈴木大佐、山口大尉等立会ひの下に山下少将に会見す。
山下少将曰く
「 奉勅命令の下令は今や避け得られざる情勢に立至れり、
 若し奉勅命令一下せば諸子は如何にするや 」
 と。
事重大なるを以て協議の猶予を乞ひしが、十数分にして山下少将再び来りて返答を求む。
一同黙然たりしも、栗原中尉 意見を述べて曰く
「今一度統帥系統を経て、陛下の御命令を仰ぎ、一同、大元帥陛下の御命令に服従致しませう、
若し死を賜るならば、侍従武官の御差遺を願ひ、
将校は立派に屠腹して下士官兵の御宥しを御願ひ致しませう 」 と 且泣き、且云ふ、
一同感動せらるること深く余等これに同意す。
・・・リンク→ 続丹心録 ・ 第二 「 奉勅命令は未だに下達されず 」 

「 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺ひ申上げようではないか。
奉勅命令が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん、
御伺ひ申上げたうえで我々の進退を決しよう。
若し 死を賜ると云ふことにでもなれば、将校だけは自決しよう。
自決する時には勅使の御差遺位ひをあおぐ様にでもなれば幸せではないか 」・・・栗原中尉
・・・ 彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 
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その結果、事態が判然としない、一度指揮系統を通じて天皇の意思をうかがってみよう、
それでもし死を賜るのならば、将校は立派に屠腹して果てよう、ということになった。
山下に伝える。
山下は感動した。
「 有難う 」 といって落涙したという。
この時栗原が、自刃の場には侍従武官長の御差遣ごさけんを願いたい、と発言した。
山下はそれを請け合い、勇躍して憲兵司令部に行った。
陸相と会い、二人して宮中に向かう。
本庄侍従武官長を通じて、勅使差遣を上奏した。
「 陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、
 此かくノ如キモノニ勅使抔など、以テノ外ナリト仰セラレ・・・・」 ( 本庄日記 )
・・・リンク→ 自殺するなら勝手に自殺するがよかろう
山下は悄然として退出した。
一方、青年将校も自決の意志を翻していた。
「 昼少シ前頃、栗原カラ電話ガカカリマシテ、『 山下少将、鈴木大佐カラ自決セヨトノ話ガアツテ、
 今皆デ別レノ最中デアル 』 ト申シ、電話ガ切レテ了ヒマシタノデ、心配シテ更ニ電話ヲカケ、
『 ソレハ皆ノ意見カ 』 ト尋ネマスト、『 二、三名ノ者ガ相談シテヰル 』 ト申シマスノデ、
私ハ、『 皆デ相談セネバナラヌデハナイカ 』 ト、皆ノ意見ヲ纏メルコトヲ勧メマシタ。
其際、北ガ代ツテ、『 ヤリカケタ事デアルカラ、最後マデヤレ 』 ト申シテ居ツタ様デアリマス 」 ( 西田調書 )
北一輝に発破をかけられたのである。
・・・リンク→  「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」
このあと、北は村中にも電話をかけて激励している。
そして、この電話から二時間もせぬうちに北は憲兵隊に逮捕された。
勅使差遣を請うて天皇の不興を買い、青年将校には自刃の意志を翻された山下は、
夕刻また一つの動きを見せている。秩父宮令旨りょうじの伝達である。
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秩父宮殿下ノ歩兵第三聯隊ニ賜リシ御言葉
一、今度ノ事件ノ首謀者ハ自決セネバナラヌ。
二、遷延スレバスル程、皇軍、国家ノ威信ヲ失墜シ、遺憾ナリ。
三、部下ナキ指揮官 ( 村中、磯部 ) アルハ遺憾千万ナリ。
四、縦令軍旗ガ動カズトスルモ、聯隊ノ責任故、今後如何ナルコトアルモミツトモナイコトヲスルナ。
      聯隊ノ建直シニ将校団一同尽瘁セヨ。
・・・森田大尉述
文相官邸の一室で
舞師団参謀長、渋谷歩三聯隊長、森田大尉の三人は野中四郎大尉と面談した。
森田大尉は、まず秩父宮との会談内容を伝えると、野中はうなだれたまま黙然と聞いていた。
森田は軍人らしく自決することをすすめた。
普段温厚な森田だけに、野中にとってしみじみと胸に迫るものがあったろう。
「 貴様の骨は、必ず俺が拾ってやる 」 と、森田がいうと、
傍の舞参謀長が 「 殿下の令旨だぞ ! 」 と、強調した。
・・・リンク→ 「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 
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前日、二十七日の夕刻、秩父宮が弘前から急遽上京した。
宮の上京の真意はわからない。
この日の午後、宮は歩兵第三聯隊時代に可愛がっていた森田利八大尉を屋敷に呼び出した。
その話の中に、青年将校は最後を清くしなければならぬというような言葉があったらしい。
山下はそれに飛びついた。
この令旨だといい出し、森田を連れて鉄道大臣官邸に行き、野中と栗原を前に呼び、
伝達の儀式めいたものを行った。 
白布を敷いた壇を作り、その上で森田の令旨を読ませたのである。
しかし、これも無視された。
二十九日午後、四日間のクーデターもついに終焉を迎えた。
安藤は拳銃で喉を撃ち、香田は軍刀で首をかき斬ろうとして丹生に止められた。
青年将校は続々と陸相官邸に集まって来た。
官邸には既に自決の用意がなされていた。
脱脂綿、消毒薬、それに棺桶も準備されていた。
山下は廊下に立ち、一人一人に 「 どうするか 」 と聞いた。
自決しますと答えると、用意された部屋を指示するのである。
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二十九日 朝、名は知りませんが参謀や其他の将校が来まして状況を話し、
帰順を勧告しましたので、私等将校は協議をし下士官以下を帰隊せしめ、我等将校のみ自決の決意をしました。
其内、戦車が攻撃して参りましたので、私等将校は挺身し皇軍相撃たざる様切望し、
次で全員集合せしめたる上、訣別の辞を述べ兵を参謀に渡しました。
それから私達将校は陸相官邸に帰りますと、
玄関に渡しの元聯隊長である山下閣下が居られましたので、我等の決心を伝へました。
すると山下閣下は、我等三人 ( 坂井中尉、麦屋少尉及私 ) を 一室に案内されました。
そこで私達は自決すべく身辺を整理して居りましすと、
三原中佐(坂井中尉元大隊長) 及 井出大佐が来られましたので我等の決意を示し、
最後の別を告げ、三原中佐に介添を依頼し各々遺書を認めました。
残念な事には、麦屋少尉の遺書を書終るのが遅かったので決行の時機を失したのですが、
もう少し早ければ其目的を達して居ったのでしやう。
即ち、地図により宮城幷に大神宮の位置を標定し、頭を其方向に伏して、
拳銃を以て自決する処迄 準備が進行して居りましたが、
其時、野中大尉、清原少尉、鈴木少尉等の同志が交々入り来り
「 生死は何処迄も同志と共にして呉れ、やるなら是非同志と会て呉れ、
我等も勿論死は期して居る、同志全部が一緒に自決しやうではないか 」 とて 我等の挙を止め、
次で 澁川善助来り 「 生死は一如なり 」 とて 我等を諫めたので 同志に会ふことに決めました。
其結果、大御心の儘に裁かれ、昭和維新実現の過程を看視するめ必要ありとの議 纏り、
現在の結果を招いたのであります。
・・・リンク→ 高橋太郎少尉の四日間 

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この時の様子を、憲兵少佐福本亀治はこう語っている。
「 官邸の大広間で武装解除をやれということで私も後で警戒していましたが、悲愴なものです。
 悪びれない態度でしたが青い顔をして。
それから後は、自決を前提にしていろいろ準備されていました。
看護婦まで来ていたんですよ。
それから山下少将が、みんな自決したら証拠が残らないから、お前ひとつ、代表者の調書を取れというんです。
澁川を連れて来ましてね、どういうわけですかね。
何故 澁川が代表者なんですかと聞いたんですが、とにかく調書を取れというんで三十分位で作りました。
その調書は山下少将が持って行きましたが、どうもわかりません 」 ( 「 二 ・ニ六事件月報 」 №4 )
結局、自決したのは野中一人にとどまった。
・・・リンク→ 野中四郎大尉の最期 『 天壌無窮 』 
あとの者は、維新断行はこれからだと言明し、法廷闘争の道を選ぶことにした。
・・・リンク→ 「 畢生の至純を傾け尽して御国のご維新のために陳述す 」 
山下奉文の四日間は、こうして何一つ実ることなく終わったのである。
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二十六日午前九時半  蹶起部隊配備状況
航空本部は、当時は半蔵門方面から行くと、陸軍省の手前、三宅坂丁字路の角にあった。
門を入るとすぐまるい植え込みがあって、その前に安藤大尉はいた。
ただ独りつくねんとして芝生に胡坐をかいて座っている。
あたりには一兵も見当たらない。
安藤大尉は、二・二六蹶起には非常な慎重論者であって、
最後のぎりぎりのところで重い腰を上げた人である。
その姿なは心なしか孤独な寂しさが漂っているように感じられた。
「 安藤大尉殿 !! 」
私は馬上から大声で呼びかけた。
「 オオ ! 小林か。よく来たな 」
よく来たなと言われたかどうか、ハッキリした記憶はないが、
まさしくそういった安藤大尉の顔色であり、雰囲気であった。
私は馬を飛び下り手綱をそばの植木につないで、安藤大尉に並んで胡坐をかいた。
「 安藤さん。状況はどうなっているのですか 」
動機も目的も、その他、何も聞く必要はない。
お互いよく知っている。
要は現在の情勢を知りたいだけである。
「 歩一、歩三、それに近歩三(近衛歩兵第三聯隊)の一部を加え、
 七個中隊、兵力は約千四百名。これが東京地区の出動兵力だ 」
襲撃目標とその兵力、現在の配備態勢等、彼はむしろ淡々とした口調で、実に詳しく説明してくれた。
私は、あけっぴろげにこんなに詳細な話を聞けようとは思いもよらなかったので、まったくわれながら驚いた。
「 安藤さん。これからどうなるのですか。どうするつもりですか 」
「 それは山下奉文少将に任せてある。
 山下閣下が出て来て、われわれの希望する方向に後始末をしてくれるはずだ 」
「 独自の計画は持ってないのですか 」
「 何も持っていない 」
「 山下少将とはちゃんと打ち合わせをしてあるのですか。約束はできているのですか 」
「 いや、それはしていない 」
「 それでは、貴方がたの希望的観測に過ぎないのではないですか 」
「 そう言われればその通りだ。しかし、われわれは山下閣下を信じている。
必ずやってくれると信じているのだ 」
・・・破壊孔から光射す 


「 お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる 」

2019年03月26日 17時31分13秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

二十九日正午、敗惨の将、安藤大尉以下十九名の将校は、陸相官邸に集結した。
川島陸相以下、軍首脳部は、反乱将校の処置について、額を集めて協議していた。

山下奉文少将は自決を強調した。
「 彼等の憂国至情の精神は親心で見てやる必要がある。
 現役の将校には自決の機会を与えて、軍人として最後の花を飾らせてやりたい 」
この意見が大勢を決した。
官邸の大広間に待機していた反乱将校は、日頃から尊敬、崇拝している山下将軍の声涙ともに下る、
死の説得に直立不動の姿勢で、じっと聞き入っていた。
「 今いった通り、お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる。
 決して犬死ではないぞ。 生きて反徒の汚名をきるなよ。 軍人として最後の花を飾って散って行け!」
列中に嗚咽が起きた。
山下将軍の要望で、その最後は古武士の作法に則って、「 切腹 」 と 決まった。
官邸の西村属官と憲兵の手で、真新しい畳が二枚、内庭のベランダに裏返しにならべられ白い布が敷かれた。
これが 「 切腹の座 」 である。
銀座の菊秀本店に九寸五分の短刀が注文され、靖国神社から白木の三方が届けられた。
介錯人は戸山学校の剣道有段者の将校が選ばれた。
このとき席をはずした野中大尉は、秘書官室で自らの拳銃で自決した。
野中大尉の死は、異様な衝撃を与えた。
「 山下将軍のいうことは一理あるが、蹶起の精神をこの眼で確かめたい。
 死は易く、生は難い。 公判を通じて広く国民に訴えてから死んでも遅くない 」
村中孝次 の一言で、「 切腹 」 の線が崩れ去った。
結局、憲兵の手で武装が解除され、手錠姿で代々木の陸軍刑務所に収容された。


目撃者が語る昭和史

二・二六事件
人物往来社 昭和四十年2月
当時憲兵曹長・特務班長 
小坂慶助乱れ飛んだ前夜の怪情報 から


「 あの温厚な村中が起ったのだ 」

2019年03月25日 17時25分28秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

昭和十一年二月二十六日午前六時、
帝都に重大事件勃発、
岡村憲兵大尉は 部下四名を率いて直ちに出動せよとの急電である。
暁闇の水戸街道を疾駆し、
九段の東京憲兵隊本部に出頭したのが午前九時、
その日は部下と共に東京駅の警備についたが、別に異状はない。
二十七日から三日間、
陸相官邸の憲兵長として、騒乱事件の推移を体験した。
「 何しろ蹶起部隊に占領されている陸相官邸だ。
混乱とデマに悩まされながら、中立の立場を維持しつつ事件の収拾に協力した 」
と、いう。
同期の香田は陸軍省にいてあまり顔を合わせなかったが、村中は時々顔を見せた。
いつものように物静かで落ち着いていた。
あの温厚な 村中 が起ったのだ
恐らく心の底から日本の革新を誓っての事だろうと想像した。

二十九日の朝、
磯部 は陸相官邸の前庭の石に腰かけ、がっくりと肩を落としていた。
精も根も尽き果てたという極度の疲労がにじみ出ていた。
「 おい、磯部 」
と、声をかけたが、後の言葉がつづかない。 言えなかった。
磯部も放心した顔を向けたが、何も言わなかった。
これが磯部の顔を見た最後であった。

二十八日から二十九日にかけて、
陸相官邸で采配を振るっていたのは岡村寧次少将 (参謀本部第二部長)
と 山下奉文 (陸軍省軍事調査部長) の二人であった。
二十九日は
午前九時頃から蹶起部隊の将校たちが、
思い思いに 陸相官邸に集まって来たが、
みな官邸の大広間のまわりにある沢山の小部屋に分散して収容された。
若い将校などは 口惜し涙にくれて、大声で泣きながら入ってくる者もいた。
それぞれ自決させる手筈で、
各部屋には紙と硯をおいて遺言や辞世を認める手配がしてあった。
しかし、間もなく磯部や渋川らの発議だったであろう、
自決をとりやめにし法廷で昭和維新を訴えるという。
岡村は 岡村少将の補佐官 公平安匡武少佐に呼ばれた。
公平は参謀本部の作戦課の秀才で、硫黄島で戦死した人である。
公平少佐は岡村を一室に連れて行った。
正面に三十センチほどの観音像を安置し、左右に蝋燭が立ててあり、
周囲は黒幕で覆い、傍に軍用毛布が十四五枚積み重ねてある。
異様な雰囲気が漂っている。
「 ここで反乱軍の将校を一人ずつ呼び出し、説得して自決させる。
 自決を承諾した者は このピストルを渡す、
しかし、自決を肯んじない者には、岡村、貴様 後から射て、いいな 」
「それは出来ません」
と、岡村は断った。
「 憲兵は法に基づかないで発砲することはできません。
 御命令ですが 拒否いたします。
唯今は戒厳令下でありますので、戦闘行為としてなら発砲できますが、それ以外は憲兵としてはできません 」
岡村の断乎たる拒絶で、公平少佐はむずかしい顔をして帰ってよいと言った。
陸相官邸近くにいた近衛師団司令部はあとで鎮圧軍の左翼隊長原田熊吉大佐を呼び、
何事か打ち合わせをしたようであったが、
岡村の 「 戦闘行為云々 」 に 関連しての事ではなかったかと、岡村は推測している。
省部の幕僚たちにとっては、事件解決の不手際を知られたくなかった。
その為には 一刻も早く蹶起将校たちを自決させ、その口を封じたかったのだろう、
と 岡村は回想する。

二・二六事件 青春群像 須山幸雄 著から


磯部淺一 「 宇多! きさまどうする?」

2019年03月24日 19時04分25秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸


激昂した磯部 の電話

その宵である。
軍人会館地下室の記者だまりで、
各社の記者が不安と深刻さのいりまじった暗い顔でたむろしているとき、
叛軍側ではない歩三の新井中尉が部下の一箇中隊をひきい、
戦列を離脱して靖国神社に集結との情報が入った。
戒厳司令部の叛軍に対する処置を不満として、
一箇中隊をもって司令部を襲撃するためだといううわさが飛んだ。

事実司令部の中にも一層の混雑を呈してきた。
記者団は色めいた。
そして一人去り、二人去り やがてだれもいなくなった。
見まわすと 朝日の藤井虎雄記者と私のたった二人だけだった。
藤井記者はこれも変わり種で 士官学校三十六期生本科で、ある事情のため中途退校し、
一高から東大を経て朝日に入った男である。
村中 、安藤らとは仙台幼年学校の先輩で、野中四郎大尉の同期生であった。
私と思いは同じであったのだろう。
二人はむしろ新井中隊の司令部襲撃で自らも死んでしまいたいような気持で、黙然とすわりこんでいた。
そこへ私に社から電話がかかって来た。
受話器をとると上田碩三重役で、
「 いま磯部君 ( 浅一 ) から君を捜して社に電話がかかって来た。
しばらくは農林大臣官邸にいるから至急電話をくれとのことだ。特種をとってくれ給え 」
との せきこんだ電話だった。

磯部!
磯部が電話をかけて来たのか、
村中か安藤から私のことを聞いたのだろう。
貴様に会いたい!
オレも話があるんだ!
私は血相を変えて立ち上がった。
だが、私のは特種をとるためではない。
どこから彼に電話しようか?
なるべく司令部から遠い方がよい。
こう考えると私は夢中でいそいで神田猿楽町まで出かけ、
見も知らぬ人のいそうもない炭屋に駆けこんだ。
さいわい耳の遠そうなじいさんが一人いるきりである。
電話の借用を申し込むと、私は わななく手で農林大臣官邸を呼び出した。
兵隊が出てすぐ磯部に代わった。
受話器の中には悲壮な軍歌が聞こえて来る。
「 磯部!宇多だ 」
あれもいおう、これもいおう と思いながら不覚にも、私はまた涙声になってしまった。
磯部の太い男らしい声が応じた。
「 宇多! きさまどうする? 」
簡単な一語だが、意味はすぐわかった。
私に来るか、来ないかというのである。
来いといったって行けるはずがないじゃないか。
蹶起の趣旨は十分にも百分にもわかるが、オレはこの直接行動には賛成じゃないんだ。
声にならぬ声を押しつぶすようにして私は、
「 勅命が下ったんだ。すでに討伐行動は開始されている。
貴様死んでくれ、断じて撃つな! 皇軍相撃を避けてくれ、死んでくれ!」
と必死の思いを一気に告げた。
磯部は、
「 オレの方からは撃たん、だが、撃って来たら撃つぞ! 貴様も防長男児だろう。
防長征伐の歴史は知っちょるじゃろうが?」
きりこむような声で怒鳴り返して来た。
そして奉勅命令は自分らにはまだ示されていない。
お上の聖明をおおい奉った幕僚どもの策動だ、
と私に一語をさしはさむ余地も与えずに防長征伐の歴史をとうとうと説き出した。
ずいぶん長い時間に感ぜられた。
やがて磯部は声を落として、いく分冷静な口調になり、
「 貴様のいうことはわかった。 ところでオレの方から頼みがある。
オレの隷下にはいま七個中隊いる。勝っても負けても今晩が最後だ。
どうせ金は陸軍省が払うんだ。
この七個中隊に今晩最後の四斗だるを一本あてやりたいんだ。
きさま輜重兵じゃないか、持って来てくれ・・・・」
と いやおういわさぬ調子で申し込んで来た。
そのころ私は、もう不思議に冷静な気持になっていた。
頭の中をしきりに、『 小節の信義 』 という勅諭のくだりが往来する。
・・・・おぼろげなることを、かりそめにうべないで由なき関係を結び・・・・
というあの一章である。
理性はハッキリ磯部の申し込みを断われと命ずるのである。
だが、私の頭脳感情は反対に働いた。
いそがしく財布の中を調べてみた。
ある、四斗だる七本くらいの金は、香港から帰ったばかりでまだ持っている。
「 よし、持って行こう 」
私は成敗を度外視して持って行く決心をきめた。
そして官邸で磯部に会い、もう一度皇軍相撃を諌止しよう。
オレも死ぬんだと思い定めた。
磯部は私の返事をきくと、
「 ありがたいぞ、然し今となってはダメかも知れんナ・・・・宇多、きさまと握手がしたいのう・・・・」
と 涙声になって電話を切った

後はもう書きたくはない。
私は挙動不審で憲兵に捉えられ、ついに磯部の依頼を果たし得なかった。
二月二十九日のあけがたのことである。

磯部、安藤!
このオレを嗤 わらってくれ。

目撃者が語る昭和史  第4巻  2.26事件  
新人物往来者昭和31(1956年)年1月
第五章 記者たちの見た二・二六事件
「二・二六反乱将校と涙の決別」  当時電通記者 宇多武次 著
昭和32年(1957年)1月


西田税、蹶起将校 ・ 電話聯絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』

2019年03月24日 16時25分14秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

 
西田税

蹶起將校ト電話聯絡
26日
赤澤ガ私ノ自宅ニ電話ヲ掛ケマシタ処、
「 今栗原カラ電話ガアツテ、西田ハ捕ツタカト問合セテ來タカラ、
 西田ハ北方ニ行ツテ居ルト答ヘタ処、
栗原ハ、自分ハ首相官邸ニ居ルト言ツテ 大笑ヒシテ居ツタ 」
トノ事デアリマシタ。
私ハ事前ニ栗原ト喧嘩別レヲシタガ、
其ノ際私ガ、君等ガ蹶起スレバ自分ハ捕マルダラウト話シタ事ヲ覺ヘテ居テクレテ、
安否ヲ氣遣ヒ、尋ネテクレタト思フトイヂラシイ氣持ニナリマシタシ、
當時寒クテ兵モ可愛サウダガ、彼等ハ兵ヲ何ノ様ニシテ居ルノダラウト思ツタリシマシタノデ、
先方カラ電話ヲ掛ケテ寄越ス位ダカラ、此方ヨリ掛ケラレナイ事モナカラウ、
一ツ聯絡ヲシテ見ヤウト思ヒ、
首相官邸ノ栗原ニ電話ヲ掛ケマシタ。
「 ドシドシ雪ハ降ツテ居ルシ、兵達ハ寒イデナイカ、兵ノ飯ハ何ウシテ居ルカ 」
「 糧食ハ聯隊カラ持ツテ來テクレルシ、防寒具モ持ツテ來テ居ルノデ心配ナイ 」
「 君達ハ官軍ノ様ダネ 」
「 官邸ヲ占據シタカラニハモウ動カヌ 」
「 何ウシテ居ルノカ 」
「 何モシテ居ラヌ 」
「 岡田首相ハ殺害ノ目的ヲ達シタガ、非常ニ苦戰デアツタ。
 兎ニ角一度様子ヲ見ニ來ナイカ。來ルナラ、溜池迄案内ヲ出シテ置ク 」
ト申シ、大變元氣ナ様子デアリマシタ。
栗原ハ其ノ時、一度狀況ヲ見ニ來ル様ニ勧メマシタガ、
私ハ行キ度クナイト言ツテ電話ヲ切リマシタ。 ・・・リンク → 西田税 2 「 僕は行き度くない 」
・・・・
二十六日ノ午後四時頃、
薩摩カラ尊皇討奸ト云フ旗を樹テテ居ルト云フ話デアリマシタカラ、私ハ尊皇義軍ダト申シマシタ。
そして栗原ニ電話ヲ掛ケテ尋ネテ見マスト、
栗原が調ベテ見テ、
「 旗ハ兩方トモ窓カラ出シテ居ル。警視廳ノ兵ハ庭ニ集合シテ居ル 」
ト云フ事ヲ聞キマシタノデ、コノ話ヲ北ヤ薩摩ニ致シマシタ。
或ハコレハ二十七日ダツタカモ知レマセン。
・・・・
其夜、北ノ処カラ私ガ栗原ノ所ヘ電話ヲカケマシタ処、
蹶起將校等ハ柳川中將ヲ内閣ノ首班トシテ要求シタト云フ事ヲ聞イテ驚キマシタ。
栗原安秀

27日

二月二十七日午前中ニ、
首相官邸ニ居ル栗原安秀ニ電話ヲ掛ケマシタ処、

栗原ヨリ、
一、牧野襲撃ニ行ツタ者ハ、箱根山ニ逃込ンダトカ死ンダ者ガアル等ノ噂ガアルガ、
  事實デアルカ否カ確メタ処、運転手ガ歸ツテノ話デハ牧野殺害ノ目的ヲ達シタ様デアルガ、
少人數ノ爲相當苦戰デアツタラシク、其ノ爲ニ同志ニ負傷者ヲ出シタガ、別館ニ放火シタトノコト、
一、蹶起部隊ハ戒嚴令下ニ編入サレ、其ノ儘原位置ニ居ツテモイイ様ニ諒解ガ出來タコト、
  食料モ聯隊カラ運ンデ居ルコト、
一、蹶起軍ノ行動ヲ認メタ趣旨ノ大臣告示ガ出タコト、
一、襲撃目標岡田、高橋、齋藤、渡邊ハ完全ニ殺害ノ目的ヲ達シタコト、
一、二月二十六日夜軍事參議官全部ト蹶起部隊將校等ト會見シ、希望ヲ出シタガ、
  陸軍上層部ノ人々ハ話ガヨク判ラナイ様デアルト云フコト、
栗原ハ右會見ニハ出席シナカツタガ、
事態ノ収拾ヲ柳川中将ニ一任スルコトヲ自分ガ主張シタノデ、
其ノ會見ノ際ニ他ノ者カラ右ノ意見具申ヲシタコト、
等ヲ聞キマシタ。
私ハ栗原ニ對シ、
一、内閣ハ總辭職ヲシ、後藤内相ガ臨時總理大臣代理ニナツタコト、
一、事態収拾ノ爲柳川中將ヲ持出スノモイイガ、此際速ニ収拾スル爲ニハ、
  眞崎大將邊リニ上下共ニ萬事ヲ一任スル様ニ一同相談シテハ何ウカト云フコト、
一、ヨク新聞デモ見テ、同志ハ互ニ聯絡ヲ保ツテ、意見ノ喰違ヒヲ來サナイ様注意スルコト、
等ヲ申シテ置キマシタ。・・・豫審訊問調書

・・・・
最初ハ二月二十七日午前十時頃
栗原カラ電話ガ掛ツテ來タ様ニ思ヒマスガ、或ハ私ノ方カラ掛ケタカモ知レマセヌ。
其ノ點ハ判然記憶シマセヌガ、
兎ニ角栗原ハ、
「 襲撃目標ノ岡田、高橋、齋藤、渡邊ハ完全ニ殺害ノ目的ヲ達シタ。
 又牧野襲撃ハ相當苦戰デアツテ、同志中ニ負傷者ヲ出シタ 」
ト話シタ上、
「 蹶起部隊ハ戒嚴令下ニ編入サレ、又蹶起軍ノ行動ヲ是認シタ趣旨ノ大臣告示ヲ貰ツタ 」
ト言ツテ大臣告示五ケ條ヲ電話口デ讀上ゲ、
「 尚、昨夜 ( 二月二十六日夜 ) 軍事參議官全部ト蹶起將校等ト會見シタ。
 自分ハ其ノ會見ニハ立會ハナカツタガ、事態ノ収拾ヲ柳川中將ニ一任スル意見ヲ主張シテ置イタノデ、
會見ノ時他ノ者カラ意見具申ヲシタ様ダ。
尚、其ノ際蹶起將校ヨリ要望事項ヲ出シタガ、參議官ノ多クハ御互ニ肚ノ探合ヒノ様デハツキリシナイガ、
眞崎ニハ我々ノ氣持ガヨク判ツテクレテ居ルト見ヘ、態度ガ一番ヨカツタトノ事デアツタ 」
ト申シマシタノデ、
私ハ彼等ハ襲撃 占據デ止マルモノト思ツテ居タノニ、
村中 磯部等ノ肅軍ノ交渉ダケデナク、
埒ヲ越ヘ政治的意味ヲモ含ム全面的解決ヲ要望シタト云フ事ニ、
善惡ハ別トシテ事ノ意外ニ驚キマシタノデ、
「 其ノ様ナ事ヲシタノカ 」
トダケ申シテカラ、
「 君等ハ何ウシテ其処ニ居ルノカ 」
ト尋ネマスト、
栗原ハ
「 蹶起部隊ハ、其の儘原位置ニ居ツテモイイ事ニ諒解ガ出來テ居ル。
 糧食モ、依然聯隊カラ運ムデクレテ居ル 」

ト申シ、事前ニ色々心配サレタガ何ムナモノカト云フ様ナ、
鼻高々トシタ意氣 デ喜ムデ居ル風デアリマシタカラ、私モ
「 夫レデハ全ク官軍デハナイカ。
 人ヲ斬つた者ガ戒嚴部隊ニ編入サレタリ、大臣ノ告示ガ出タリ、
軍事參議官一同ヨリ感狀ヲ頂イタ様ナモノデナイカ。

事態収拾ニ柳川中將ヲ持出シタノモヨイガ、
速ニ収拾シテ貰フ爲ニハ、眞崎大將ニ一任スル様ニ一同デ相談シテハ何ウカ 」

ト申シマシタ処、栗原ハ
「 外部ノ狀況ハ何ウカ 」
ト聞キマスカラ私ハ、
「 内閣ハ總辭職シ、後藤内相ガ臨時總理大臣代理ニナツタ様ダ 」
ト申シテ新聞記事ノ二、三ヲ讀聞カセマシタ処、
「 後藤首相代理ハ何処ニ居リマスカ 」
「 官邸ヲ君等ニ占據セラレ、行ク処ガナイノダカラ、何処ニ居ルカ判ラナイ 」
最後ニ栗原ハ、
「 私ハ最後迄此処ヲ動キマセヌ 」
「 サウカ、兎ニ角、同志ハ互ニ聯絡ヲ保ツテ、喰違ヒヲ來サナイ様ニセネバナラヌ 」
ト注意シテ電話ヲ切リマシタ。
北モ、豫テ早ク時局ヲ収拾シタイモノト考ヘテ居リマシタカラ、私ハ北ニ
「 蹶起將校ハ柳川ニ時局収拾ヲシテ貰度イト云フコトヲ、軍事參議官ニ要望シタトノコトデアリマス 」
ト告ゲテ置キマシタ。
其ノ後警視廳ニ居ツタ蹶起部隊ガ居ナクナツタトカ、其ノタ色々ノ噂ガアルノデ、
眞否ヲ聞カウト思ツテ首相官邸ニ電話ヲ掛ケマシタガ、
栗原ハ陸相官邸ニ行ツタトノコトデアリマシタノデ、
更ニ陸相官邸ニ電話ヲ掛ケマシタ処、
電話口ニ村中ガ出マシタノデ、
偶然ナガラ村中ト話ノ出來ルノヲ喜ビマシタ。
私ハ外部ノ狀況ヤ注意等、栗原ニ話シタト大體同様ノコトヲ告ゲ、
警視廳引上ノ噂ニ附尋ネマシタ処、村中ハ
「 蹶起部隊ハ、大部分今迄居タ処ヲ引上集結シテ居ル。
 戒嚴部隊ニ編入セラレ、
警備參謀長ニ會ツテ現在ノ処ニ居テモヨイト云フ様ナ承諾ヲ得テ居ルノデアルガ、

今朝カラ陸軍省、參謀本部ヲ占據聯ル部隊ヲ引上ゲ明渡スト云フコトニ附 硬軟二派ニ分レ、
磯部、安藤ナドノ強行派ハ、
我々ノ前途ヲ妨グル不純ノ幕僚ヲ襲擊スル爲に集結シテ居ルノダト言ヒ、

私等ノ軟派ハ、
國際關係ヨリ観テモ國内關係ヨリスルモ、其ノ様ナ事ヲスルノハ宜クナイト言ツテ、

強行派ヲ抑ヘルノニ骨ヲ折ツテ居ル。
自分等ガ集結シタ意味ハ、之ト違フ。

ソシテ議事堂附近ニ終結シテモ場所ガ惡イノデ、何処ガヨイカト偵察シテ居ルガ、
蔵相官邸ハ埃ちりガ積ツテ居ルナド宿舎ニ適當ナ候補地ガ無イノデ困ツテ居ル 」
ト申シマシタノデ、私ハ
「 何処ニ居テモヨイノナラ、今迄通リ分散シテ居ツテハ何ウカ。又イイ場所ニ居レバヨイデハナイカ 」
ト申シテ置キマシタ。
一方デハ戒嚴部隊ニ編入セラレ、
聯隊ヨリ糧食ヲ運搬シ、
現地に居テモ差支ナシト告ゲラレ、
之ヲ裏書スル大臣告示マデ出テ居ルノデ、
大勢ハ順調ニ進ムデ居ルト思ヒタルニ、彼等ハ次第ニ深入シ、
政治的交渉ヲ始メルノミナラズ、一方デ幕僚襲撃ナドト騒イデハ、却ツテ今迄ノ好轉ヲ惡化セサルノデナイカ、
之モ彼等同志ノ間ニ聯絡ガ事由デナイノト、外部ノ情勢ガ不明ナル処ヨリ來テ居ルコトダラウガ、
内部ガ二派ニ分レテ居テハ大變ダ、從來或程度ノ交渉ガアツタノダカラ、
之レ以上惡化セシメナイ爲ニ、内部ヲ統一スルノガ急務ダト思ヒマシタ。
・・・・
其ノ後村中孝次ニ電話ヲ掛ケ、
栗原ニ申シタト同様ナ事ヲ話シマシタ処、
村中ハ、
一、蹶起將校ハ、内部ガ硬軟二派ニ分レテ意見ガ纏ラナイト云フコト、
一、部隊ハ、今迄居ツタ所ヲ大部引上ゲテ終結シテ居ルコト、
一、硬派ノ者等ハ、陸軍省、參謀本部ノ幕僚ヲ襲擊スルト主張シテ居ルノデ、之ヲ押ヘルノニ骨ヲ折ツテ居ルコト、
一、強硬ナ意見ヲ持ツテ居ルノハ、安藤、磯部等デアルコト、
一、兵ヲ給養サセル爲ニ宿營地ヲ捜シテ居ルガ、適當ナ候補地ガ無イノデ困ツテ居ルコト、
等ノコトヲ申シマシタノデ、其ノ後更ニ磯部淺一ニ電話ヲ掛ケマシタ処、同人ハ、
「 我々ハ尊皇義軍デアル。最初カラ反亂軍タルコトハ覺悟ノ上デ蹶起シタノデアルカラ、
 今更奉勅命令ガ出ルトカ出ナイトカ云ツテ脅カサレテモ、引込ム譯ニ行カナイ。
最後迄頑張ル心意デアル 」
ト非常ニ強硬ナ意見ヲ述ベマシタノデ、
「 ヨク考ヘテヤレ 」 ト申シテ置キマシタ。
・・・・・
二月二十七日朝
北ノ靈感ニ、
 『 國家人無シ、勇將眞崎アリ、國家正義軍ノ爲ニ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ 』
ト現ハレタトノ事デ、
北ハ私ニ對シ、
早ク彼等ニ知ラシテ眞崎ニ一任スル様ニ注意シテ遣レト申シマシタノデ、
同日栗原、磯部、村中ニ夫々電話ヲ掛ケタ際、
「 君等ガ二月二十六日軍事參議官ト會見シタ際、臺灣ノ柳川中將ヲ以テ次ノ内閣ノ首班トシ、
 時局収拾ヲ一任シタイト要求シタトノコトデアルガ、
十日モ二十日も要スル遠イ人ノ事ヲ考ヘズニ、此際眞崎ニ總テヲ一任スル様ニシタラ何ウカ。
夫レニハ、軍事參議官ノ方々モ一致シテ眞崎ヲ擁立テテ行ク様ニ、御願ヒシテ見タラ何ウカ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ忠告シテ遣リマシタ処、
孰レモ、夫レデハ同志一同協議ノ上、其ノ方針デ進ム様ニスルト申シテ居リマシタ。
・・・・・
北ハ靑年將校等ガ柳川中將ヲ持出シタコトヲ心配シテ居ツタ様デアリマシタガ、
朝カラ御經ヲ讀ムデ居ラレマシタガ、
間モナク、
「 國家人無シ、勇將眞崎在リ、國家正義軍ノ爲ニ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ 」
トノ靈感ガ現レタトテ、夫レヲ示サレ、
早ク彼等ニ知ラシテ眞崎ニ一任スル様ニ注意シテヤレト申サレマスシ、
私モ無論早ク彼等ニ知ラシタイト思ヒマシタノデ、其ノ事ヲ村中、磯部等ニ知ラシマシタ。
其ノ要旨ハ、
「 實ハ北ノ御經ニ此様に出タノダガ 」
ト申シテ右ノ靈感ヲ告ゲ、
「 此中ニ國家正義軍トアルノハ君等ノコトニ當ツテ居ルノダガ、
 君等ハ二月二十六日軍事參議官ト會見シタ際、
柳川中將ニ時局収拾ヲ一任シタイト要求シタトノコトデアルガ、
遠方ニ居ル柳川ヲ呼ブヨリ、此際眞崎ニ一任スル様ニシテハ何ウカ。
全員一致ノ意見トシテ、無条件ニテ時局収拾ヲ皆ノ者トヨク相談セヨ。
ソシテ軍事參議官ノ方々モ亦意見一致シテ眞崎ニ時局収拾ヲ一任セラル様ニ、御願ヒシタラ宜カラウ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ申シマスト、
村中、磯部等ハ
「 判リマシタ。我々ハ尊皇義軍ト言ツテ居ルノダガ、眞崎デ進ムコトニ皆ト一緒ニ相談シマセウ 」
ト申シマシタ。
尚、其ノ際北ノ靈告ヲ筆記シタ筈デアリマス。
・・・・
次デ正午頃陸相官邸ニ電話ヲ掛ケマシタ処、
村中ハ居ラズ、磯部ガ電話口ニ出マシテ、
「 自分ハ誠ニ殘念デ堪ラナイ。片倉少佐ヲ撃損ジタ。
 片倉ハ自分ト出會頭ニ文句ヲ言ツタカラ、何ヲ言フカト申シテ拳銃デ射擊シタ 」
ト申シマシタ。
私ハ相澤中佐ガ公判廷ニ於テ、
憲兵隊ニ聯行サレル途中担架ニ乗セラレテ行ク永田少將ノ姿ヲ見テ、
殺シ損ネタカト殘念ニ思ヒタルモ、直ニ殺シ得レモノモ殺シ得ナイノモ、皆神ノ御思召ダト思返シ、
殘念ダトノ氣持ガ去ツタト陳述シタコトヲ不圖思出シタノデ、磯部ニ對シ
「 夫レナラ夫レデイイデナイカ。
長イ間苦シメラレ、感慨深イ因縁ノアル片倉少佐ニ、

陸相官邸ノ門前デ偶然出會ツタノヲ奇縁ト思ヘバ、會ツタダケデヨイデハナイカ。
夫レモ皆神ノ御思召ダラウ 」

ト申シマスト、磯部ハ
「 我々ハ、最初カラ反亂軍タルコトヲ覺悟ノ上デ蹶起シタノデアルカラ、
 今更奉勅命令トカ何トカ云ツテ脅カサレテモ、此処迄來タラ一歩モ退カヌ。
癪ニ障ル幕僚等ヲヤツツケ様ト云フノハ當然ノ事ダガ、中ニハ弱イ者モ居ル 」
ト言ヒ、大シタ勢デアリマシタカラ、
「 夫レハサウダ、サウダ 」
ト申シテ言葉ヲ合シテ置キマシタ。
・・・・
其ノ後世間デハ、一方ニ軍隊ガ万平ホテル、山王ホテル方面ニ居ルトカ、華族會館ニ居ルトカ、
首相官邸ニハ旗ガ立ツテ居ルナドノ噂ガアレカト思ヘバ、
一方デハ蹶起部隊ヲ彈壓スルノダト云フ噂モアルノデ、
私ハ彈壓スルナラ最初カラ彈壓スレバ宜イノデ、
戒嚴部隊ニ入レテ置キナガラ今更彈壓スルトカ云フノハ、譯ガ判ラヌト思ヒマシタ。
・・・・
其ノ後同日(二十七日)午後四時頃、
更ニ私ハ首相官邸ノ栗原安秀ニ對シ電話ヲ掛ケ、
一、海軍軍令部總長宮殿下ガ參内セラレタコト、
一、陸軍首脳部ガ集ツテ相談シテ居ル様デアルガ、小田原評定ノ様デアルコト、
一、君達ハ戒嚴部隊ニ編入セラレ行動シイ居ル形ニナツテ居ルノデアルカラ、
  此上二重三重ニ君達ヲ脅カス様ナ奉勅命令ガ出ル筈ハナイカラ、此上共シツカリヤレト云フコト、
一、或新聞記者カラ聞ク所ニ依ルト、全國各地カラ目下澤山ノ激励電報ガ來テ居ル様デアルガ、
  皆戒嚴司令部ニ押収サレテ居ルラシイコト、
等ヲ話シテ遣リマシタ処、栗原ハ大變喜ンデ、最後ノ一兵迄モ戰フト申シテ居リマシタ。
尚、其ノ時栗原ハ、
一、華族會館ヲ占據ニ行ツタ処二十名位ノ華族ガ居ツタノデ、
  之等ニ對シ蹶起ノ趣旨ヲ説明シ、質問ハナイカト言ツタラ、
其ノ内ノ一名ガ内閣ノ首班ハ誰ガイイカト尋ネタノデ、

我々ハ大權ヲ私議スル譯デハナイガ、
此事態ヲ収拾スルニハ眞崎大将邊リガ適任デアルト思フト答ヘテ遣ツタコト、

一、赤坂溜池附近デ、民衆ニ對シテ蹶起ノ趣旨ヲ演説シタコト、
一、眞崎、阿部、西三大將ト蹶起將校ト會見シ、事態ノ収拾ヲ眞崎大將ニ一任スル旨申上ゲタ処、
  眞崎大將ハ、俺ハ何トモ言ヘナイガ、オ前達ハ早ク引上ゲテクレナイカト云フ話デアリ、
阿部、西兩大將ハ、蹶起將校ノ意見ガ一致スレバ、自分達ハ極力努力スルト言ハレタト云フコト、
一、田中國重大將、江藤源九郎少將等ガ來テ、激励シテ行カレタト云フコト、
一、四天王中將ガ戒嚴司令官ト會ヒ、蹶起軍ヲ決シテ討伐シナイ意思ヲ確カメ、其ノ事ヲ知ラセテクレタコト、
  等ノコトヲ話シマシタノデ、私ハ、
一、民衆ニ對シテ、蹶起ノ趣旨ダケヲ説明スル程度ナラバ無難デアルガ、
  煽動的ナルト却テ世間カラハ君等ノ純情ヲ疑ハレテ、結果ハ面白クナイカラ、其ノ邊ハ十分注意ガ必要デアルト云フコト、
一、早ク蹶起將校一同ノ意見ヲ取纏メ、又軍事參議官一同ガ眞崎大將ヲ推立テテ進ンデ行ク様ニスル必要ガアルコト、
等ヲ申シテ矢理リマシタ。
・・・・
同日(二十七日)午後五時頃栗原ヨリ電話ガアリ、
華族會館ニ行ツテ其処ニ居合セタ二荒伯等二十名位ノ華族ニ蹶起趣旨ヲ説明シテ質問ハナイカト言ツタ処、
其ノ内ノ一人ガ後繼内閣ノ首相ニハ誰ガ宜イカト尋ネマスカラ、
我々ハ大權ハ私議シナイガ、
後繼内閣首班トナリ時局ヲ収拾スルニハ、眞崎大將ガ適任ト希望スルト答ヘテヤツタコト、
田中國重大將、江藤源九郎少將、齋藤瀏少將等ガ來テ激励シテ行カレタトカ、
赤坂溜池附近デ民衆ニ對シテ演説シタコトナドヲ話サレマシタカラ、私ハ
「 夫レハヨイガ、民衆ニ對シテハ蹶起ノ趣旨ヲ説明スル程度ニ止メル方ガ無難デ、
 煽動的ニナルト却テ世間ヨリ純情ヲ疑ハレテ面白クナイ結果ニナルカラ、其ノ邊ハ注意シテ居ラネバナラヌ 」
ト注意シタル上、
「 軍事參議官ト話シタカ 」
ト聞キマシタ処、
「 軍事參議官ハ、阿部、西、眞崎 三大將ガ來テ蹶起将將ト會見シ、
 蹶起將校ヨリ時局収拾ヲ眞崎大將ニ一任スル旨申上ゲタ処、
眞崎大將ハ、俺ハ何トモ言ヘヌガ、先ヅオ前達ノ方デ軍隊ヲ引上ゲテクレヌカト言ヒ、
西大將ハ、皆ガサウ希望スルナラサウヤラウ、自分ハ同意ダト言フト、
阿部大將モ、俺モ同意ダト言ハレタトノコトダガ、自分ハ其ノ會見ニ出席シナカツタ 」
ト言ヒマシタノデ、私ハ柳川説ヲ持出シタト云フノハ何ウシタノダラウト云フ様ナ感ジガシマシタ。


首相官邸  ・・・林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』

夫レカラ私ハ栗原ニ、

「 首相官邸ニ旗ガ立ツテ居ルカ、君達ヲ彈壓スルトノ噂ガアルガ何ウカ 」
ト聞キマシタ処、栗原ハ
「 首相官邸ニハ尊
皇討奸ト書イタ旗ヲ立テテアル。
 又、彈壓サレルト云フ様ナコトハ聞イテ居ラヌ。
實ハ四天王中將カラ、同中將ガ戒嚴司令官ニ會ツテ確メタ処、
戒嚴司令官ハ皇軍相撃ナドハ絶對ニシナイ、
蹶起軍ヲ討伐スル様ナコトハシナイト言ツテ居ラレタト知ラシテクレタ程ダ 」

ト申シマシタカラ、私ハ
「 今外部ノ一般情勢ハ、漸次蹶起部隊ノ爲有利ニ進展シツツアル。
殊ニ海軍側ハ一致シテ支援シ居リ、海軍軍令部總長宮殿下ガ參内アラセラレタ。
又、陸軍首脳部ハ集ツテ相談シテ居ルガ、小田原評定ノ様デアルガ、
新聞記者ヨリ聞クト、全國各地方カラ澤山ノ激励電報ガ來タガ、戒嚴司令部デ押収サレテ居ルラシイ。
君達ハ戒嚴部隊ニ入ツテ行動シテ居ルノダカラ、
今更二重、三重ニ君達ヲ脅カス様ナ奉勅命令ノ出ル筈ハナイト思フカラ、

此上共飽ク迄目的ヲ貫徹スル様、シツカリヤレ 」
ト激励シテ置キマシタ。
・・・・
リンク
・ 軍事參議官との會見 『 軍は自體の粛正をすると共に維新に進入するを要する 』
軍事參議官との會談 1 『 國家人無し 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』
・ 
軍事參議官との會談 2 『 事態の収拾を眞崎大將に御願します 』

28日
私ハ前日迄ノ情勢ヲ顧ミテ、
事態ノ収拾ハ容易ニ出來ナイ模様デハアルガ、

蹶起部隊ハ戒嚴部隊ノ隷下ニ入リ、原位置ニ停ツテ居ル事ヲ承認セラレ、
更ニ夫々會見シテ相談ガ進メラレテ居ル事、
尚眞崎大將ニ一任スルト云フ意見モ申出テ居ルノデアルカラ、
事態ハ惡化スル事ナク此儘ノ空氣ノ間ニ早ク纏ツテ貰ヒタイモノダト念願シテ居リマシタ処、
同日(二十八日)正午前栗原中尉ヨリ電話デ、
「 山下少將、鈴木大佐等カラ自決セヨト勧めメラレ、其ノ決心ヲシテ別レノ最中デアル 」
ト知ラシテ 電話ガ切レテ了ヒマシタ。
私ハ事ノ意外ニ驚イテ 更ニ電話ヲ掛ケ、
漸ク栗原ト話ス事ガ出來テ其ノ事情ヲ尋ネ、夫レハ皆ノ意見カト聞イテ見マシタガ、
「 自分等二、三人ノ若イ者ダケノ意見デアル 」 ・・・ 自殺するなら勝手に自殺するがよかろう
トノ事デアリマシタノデ、私ハ
「 何事モ早マツテハナラヌ。  ヨク皆ト相談ノ上爲サレル事ガ大切デアル。
 上下ヨク一致シテ、生キルモ死ヌモ一緒ニシタラ宜カラウ 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ忠告シテ遣リマシタ処、
北モ私ノ後同様ノ趣旨ヲ忠告シテ居ツタ様デアリマシタ。 ・・・ 「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」
同日午後ニナツテ、戒嚴部隊ガ蹶起部隊ヲ愈々討伐スルト云フ噂ガ出マシタ。
又、奉勅命令ヲ以テ斷乎トシテ彈壓ノ処置ヲトルト云フ噂モ聞キマシタノデ、
其ノ事情ヲ確メタイト考ヘ、電話デ色々聯絡ヲトツタ結果、
同日(二十八日)午後四時カ五時頃ニ漸ク栗原ニ聯絡ガツキマシタノデ、
其ノ眞否ヲ確メマシタ処、栗原ハ
「 左様ナ事ハ聞イテ居ラヌ。何モ變ツタ事ハナイ。自分達ハ今迄通リノ態度デ居ル 」
トノ事デアリマシタ。私ハ、
「 陸軍ノ首脳部ハ弱腰デ何ウモ態度ガ判然決マラナイ様デアルガ、
 新聞ヲ見ルト今朝軍令部總長宮様モ御參内セラレ、皇族方ノ御會議モアル様ダシ、
一方海軍側ハ相當シッカリ纏ツテ來テ陸軍側ヲ支援スル事ニナツテ居ル様デアリ、
情勢ハ今一息ト云フ所デアルカラ、萬事將校諸君ガ御互ニヨク聯絡ヲ取リ、
意思ノ疎通スル様ニシツカリ意見ヲ纒メ、
上層部ニ對シ早ク話ヲ決メルヨウニシテクレト交渉スル事ガ必要デアル 」
トノ趣旨ノ事ヲ申シテ遣リマシタ処、栗原ハ
「 自分達ノ決心ハ堅ク纏ツテ居ルカラ、心配ハ要ラナイ。
 萬一奉勅命令デ討伐スル様ニ事ニナレバ、最後ノ一人ニナル迄決戰ヲ覺悟シテ居ル 」
ト申シ、非常ニ強硬ナ態度デアリマシタ。
私ハ更ニ、
「 兎ニ角、ヨク皆ノ意見ノ一致ヲ計ル様ニセヨ 」
ト云フ意味ノ事ヲ申シマシタガ、栗原ハ私ノ云フ事ガ氣ニイラヌ風デアリマシタ。
・・・予審訊問調書
・・・・

二月二十八日正午頃栗原ヨリ電話ガ掛リ、
「 山下少將、鈴木大佐、外ニ三人ノ比較的我々ト親シイ關係ノアル將校ガ來テ
 自決セヨト勧メルノデ自決スル事ニナツタ 」
ト言ヒマシタノデ大變驚キ、
更ニヨク事情ヲ聞カウト思ツテ居ル時電話ガ切レマシタ。

私ハ折角此処迄順調ニ運イデ來テ居ルノニ、
彼等ニ好意ヲ寄セルベキ先輩ガ、時局収拾ノ方ヲ其ノ儘ニシテ自決ヲ勧告スルノハ可怪シイト思ヒ、
今度ハ私ノ方カラ電話ヲ掛ケテ栗原ヲ呼出シ、
「 先程ノ電話ハ變デナイカ 」
ト聞キマスト、栗原ハ
「 今直グ自決スルト云フノデハナイ 」
と言ヒマスカラ、更ニ 「 多勢カ 」 シ聞キマスト、
「 自分等二、三人ノ意見ダ 」
ト申シマスカラ、私ハ
「 何事モ皆ト一致シタ行動ヲ採ルベキダ。 殊ニソンナ事ヲ早マツテハナラヌ。
 萬事皆ノ者トヨク相談ノ上、皆ノ意見ヲ統一シタ上デ、生キルモ死ヌルモ事ヲ決シタラ宜カラウ 」
ト忠告シ、次デ
「 夫レハ夫レトシテ、當面ノ問題ハ眞崎ニ一任スル事ニナツテ居ルノダカラ、其ノ方ヲ急イデ完成シタ方ガ宜イデハナイカ 」
ト云フ趣旨ヲ申シテカラ、北ニ頼ムデ代ツテ貰ヒマスト、
北モ栗原ニ、

「 皆ノ者ノ意見ヲ一致シテ、落着イテヤレ。自決ハ最後ノ問題デ、ヤルベキ事ハ多クアル 」
ト云フ趣旨ヲ申聞カセマシタ。
・・・・
・・・挿入・・・

栗原中尉ト思ヒマス、
電話口ニ出マシタノデ私ハ次ノ様ニ話シマシタ。
「 ヤア暫ラク、愈々ヤリマシタネ、
就イテハ君等ハ昨日臺灣ノ柳川ヲ總理ニ希望シテイルト云フ事ヲ軍事參議官ノ方々ニ申シタサウダガ、
東京ト臺灣デハ餘リ話シガ遠スギルデハナイカ、
何事モ第一善ヲ求メルト云フ事ハカウイフ場合ニ考フ可キデハアリマセン、
眞崎デヨイデハナイカ、眞崎ニ時局ヲ収拾シテ貰フ事ニ先ヅ君等青年將校全部ノ意見ヲ一致サセナサイ。
サウシテ君等ノ意見一致トシテ軍事參議官ノ方々モ、
亦軍事參議官全部ノ意見一致トシテ眞崎ヲ推薦スル事ニスレバ、即チ陸軍上下一致ト云フ事ニナル。
君等ハ軍事參議官ノ意見一致ト同時ニ眞崎ニ一任シテ一切ノ要求ハ致サナイ事ニシナサイ。
ソシテ呉レ呉モ大權私議ニナラナイ様ニ軍事參議官ニ御願ヒスル様ニシナサイ 」
更ニ私ハ念ヲ押シテ、
「 良ク私ノ云フ意味ガ判リマスカ、
意味ヲ間違ヘナイ様ニ他ノ諸君ト相談シテ意見ヲ一致サセナサイ 」
電話ノ要旨シ以上ノ通リデ、午前十時過ギト思ヒマス
・・・北一輝 (警調書2) 『 仕舞った 』
・・・・
彼等ハ七生報國ガモットーデ、
今生デウマク行カナケレバ、何度モ生レテ御奉公ヲスルト云フ意見デアリマス。
然シ、彼等一同ガ同ジ其ノ氣持デ居ツテクレレバ問題ハナイガ、
栗原ノ話デハ、今自決スルト云フ意見ノ者ハ二、三人ノ様ダ、
無暗ニ自決ヲ勧告シタリスルト、強硬派ハ却テ反發スル危險ガアル、
即チ、自決スル前ニ或程度ヲ解決シヤウト云フ意見デモ持ツテ居ル者ガアルト、
混亂ヲ誘致シ、社會ヲヨリ以上擾亂ニ導ク事ニナル、
最初カラ纏ツテ進ンデ來タ者ガ、今ニナツテ同志割ニナツテハ大變ダト思ヒ、
生キルモ死ヌルモ同志全員ノ意見デ 一致シタ上デヤラネバナラヌト思ヒマシタ。
又私ハ昨夜來中央部ノ意見ガ變ツテ來タトハ夢ニモ思ツテ居リマセヌデシタカラ、
山下少將 鈴木大佐等平生彼等ニ同情ヲ寄セテ居ル有力ナ人達ガ、
彼等ノ爲ニ死場所を選ムデヤラウト云フ考カラ自決ヲ勧告シタモノト思ヒマシタ。
栗原ト電話デ話ヲシタ後ニナツテ、
奉勅命令ヲ以テ斷乎斷壓スルトカ、討伐スルトカ云フ噂ガ出マシタノデ、・・・ 「 斷乎、反徒の鎭壓を期す 」
事情ヲ確メタイト思ヒ、同日午後四時頃栗原ニ電話ヲ掛ケテ聞キマシタ処、栗原ハ
「 何モ變ツタ事ナク、其ノ様ナ事ハ少シモ聞イテ居ラヌ。自分達モ今迄通リノ態度デ居ル 」
ト申シマシタノデ、私ハ
「 陸軍ノ首脳部ハ態度ガ判然トシナイ様デアルガ、海軍側デハ軍令部總長宮殿下ガ參内アラセラレ、
皇族會議モ開カセラレル様ダシ、相當纏ツテ陸軍側ヲ支援スル事ニナツテ來テ居ル様デ、
情勢ハ今一息ト云フ処迄進ンデ來テ居ルカラ、君等ハヨク御互ニ聯絡ヲトリ、シツカリ意見ヲ纒メ、
上層部ニ對シ早ク話ヲ決メル様ニシテ貰ヒタイト云フ交渉ヲスル事ガ必要ダ 」
ト申シマシタ処、栗原ハ
「 自分達ノ決心ハ堅ク纏ツテ居ルカラ心配ハナイ、萬一奉勅命令デ討伐スル様ナ事ニナレバ、
 最後ノ一人ニナル迄決戰ヲ覺悟シテ居ル 」
ト申シテ元気デアリマシタカラ、私ハ
「 兎ニ角、皆ノ意見ノ一致ヲ計ル様ニセヨ 」
ト言ツテ置キマシタ。

被告人ガ二度目ニ電話シタノハ村中デナカツタカ
其ノ日村中ニハ電話ヲ掛ケヌト思ヒマス。

其ノ時出タノハ栗原デナク、村中デアツタノデハナイカ
私ハ栗原ニ話シタトノミ思ツテ居リマシタ。

其ノ時被告人ガ話シタ電話ノ要旨ハ、
「 自決ハ最後ノ問題デアル。
 君等ハ奉勅命令デ慌テテ居ル様デアルガ、自決スル前ニ其ノ眞否ヲ確メル必要ガアル。
又 一度蹶起シタ以上ハネ徹底的ニ其ノ目的ヲ貫徹スル爲ニ上部工作ヲスル必要ガアリ、
未ダヤルベキ餘地ガアルカラ、
夫レヲヤツテ見タ上デ、愈々イカナケレバ最後ニ自決スルト云フ事ニセネバナラヌ 」
ト云フ趣旨デアツタノデナイカ。
私ハ彼等ニ其ノ通リノ趣旨ノ電話ヲ掛ケタ事ハ確實ニ覺ヘテ居リマスガ、
夫レハ唯今申上ゲタ時デアツタカ、別ノ機會デアツタカ記憶致シマセヌ。

スルト、被告人ガ彼等ニ對シ自決ヲ阻止シタ根本ノ趣旨ハ何処ニアルカ
私ヤ北ガ彼等ニ話シタ結局ノ趣旨ハ、
「 時局ノ収拾ニ向ツテ急デ自決スルノハ最後ノ問題デ、未ダ早イ 」
ト言ツテ、彼等ノ自決ヲ阻止スルニアツタノデアリマス。

・・・第三回公判


西田税、村中孝次 『 村中孝次、 二十七日夜 北一輝邸ニ現ル 』

2019年03月24日 13時01分18秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

夜ニナリマシテ、
龜川ト云フ人ガ再ビ西田ヲ訪ネテ參リマシテ、小應接室デ西田ト二人デ話シテ居リマシタ。
ヤヤ暫ラクシテカラ軍服ノ村中ガ見エマシタノデ、( 西田ガ呼ンダカ何エカハ知リマセン )
村中ノ見エタ事ヲ西田ニツタヘタ処、
西田と龜川ト二人應接間カラ出テ來マシテ、四人デ一座シマシタ。
其時私ハ龜川氏ト初對面ノ挨拶ヲシ、
相澤公判ノ骨折等ニ附キ常ニ西田カラ承ツテ感謝シテ居ル事ヲ申述ベマシタ。
村中ト私トハ 午前及ビ午後ノ電話ノ事ニ附キマシテ、
軍事參議官カラ未ダ返事ガナイト云フ事ノ問答ガ重要ナノデアリマス。
此時村中ハ一同ニ對シテ、「 牧野ハ失敗シマシタ 」 ト云フ事ヲ話シマシタ。
又 村中ハ陸相官邸ニ行ツタ狀態ヲ話シマシタ。
「 初メ夫人ガ出テ長時間ノ間陸相ニ會ハセナカッタノデ村中ガ最後ニ大キナ聲を上ゲテ、
 陸軍大臣閣下、重大ナ事ニ就キテ申上ゲ度イノデアリマス。ト呼ビマシタ処、初メテ陸相ガ出テ來タ 」
ト云フ事を申シマシタ。
又 「 皆元気デ居る 」 ト 云フ事、等
「 電話デハ何ダカ物足ランカラ來マシタ 」
ト 云フ様ナ話デ、二十分位デ急イデ歸ツタノデアリマス。
・・・ 北一輝 (警調書2) 『 仕舞った 』

      
西田税                
村中孝次            北一輝                龜川哲也

二十七日 夜
時間ハ記憶アリマセヌガ、當夜午後七、八時頃
龜川ト話シテ居ル際、
村中ガ突然來タノデ、
私ハ意外ニ感ジ、

且 再ビ會ヘナイダラウト覺悟シテ居ツタ同人ト會フ事ガ出來テ、感慨無量ノ體デアリマシタ。
ソコデ、私ト北、龜川、村中ノ四人が一座ニシテ、村中ニ對シテ今迄ノ經過ニ附、
物珍ラシク色々尋ネタリ、聞イタリ致シマシタ。
其ノ時村中ハ、
一、二月二十六日朝陸軍大臣官邸ニ行ツテ、大臣ト會見シタ模様、
一、蹶起部隊ハ戒嚴司令部ノ隷下ニ編入セラレタコト、
一、戒嚴司令官ト面接シテ、此儘現占據地ニ留ツテ居ツテ宜イト云フ諒解ヲ得タコト、
一、先輩同僚ガ多數來テ激励シテクレルノデ、同志將校等ハ非常ニ心強ク思ツテ居ルコト、
一、今朝陸軍省、參謀本部等ニ兵力ヲ終結シテ、幕僚ヲ襲撃スルコトヲ安藤、磯部、栗原等ガ言ヒ出シタガ、之ヲ阻止シタコト、
一、眞崎、阿部、西三大將ニ會見シ、眞崎大將ニ時局収拾ヲ一任スルコトヲ要望シ、大體其ノ方針デ進ンデ居ルコト、
一、新議事堂附近ニ兵ヲ終結スルコトハ地形偵察ノ結果不可デアルノデ、
  戒嚴司令官ニ其ノ儘留ツテ居ツテモ宜イカト尋ネタ処、同司令官カラ其ノ儘デ穏クリ給養シテ宜イト言ハレタコト、
一、万平ホテル、山王ホテル等ニ居ル部隊ハ蹶起軍ナルコト、其ノ給与ハ部隊カラ受ケテ居ルコト、
一、奉勅命令デ現地ヲ撤退セシメ、命令ニ服従シナケレバ討伐スル等ノ噂ガアルト話シタラ、
  村中ハ、
「 ソンナ筈ハ無イ、我々ノ行動ヲ認メタト云フ大臣告示ガ出テ居ルカラ 」 ト申シ、右大臣告示ノ内容ヲ説明シタコト、
等ヲ話シマシタ。
其ノ時龜川ガ、
「 奉勅命令ト云フガ、夫レハ天皇機關説ノ様ナコトデアル。
 ソレハ、袞龍ノ袖ニ隠レテ大御心ヲ私ニセントスル者ノ所業デアル 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ強調シタノデ、
私ハ、龜川ハ理論的ニ強イ事ヲ言フ人ダト感ジ、黙ツテ聞イテ居リマシタ。
其ノ時北カラモ、
「 早ク陸軍首脳部ノ意見ヲ纏メテ、時局収拾ニ努力スル必要ガアル 」
旨ヲ申シテ居リマシタ。
村中ハ、兵ノ敎育上何カ參考資料ハナイカト申シマシタガ、
何モ無イト申スト、約一時間位話シテ歸ツテ行キマシタ。
・・・予審訊問調書

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私ハ同日(二十七日)夕方亀川ニ御経ノ文句ヲ傳ヘ、又蹶起將校ヨリ聞イタ情報ヲ知ラセ、
今後ノ対策ニ附相談シヤウト思ツテ龜川ニ電話ヲ掛ケ、
「 御足勞ダガ、モ一度來テクレナイカ 」 ト言ヒマシタ処、

龜川ハ同日午後六、七時頃來テクレマシタノデ、
其ノ朝會ツタ室デ話シタノデアリマスガ、

私ハ小笠原中将ニ掛ケタ電話ノ内容ト略々同ジ事ヲ話シマシタ処、
龜川ハ

「 陸軍首脳部ニハ、時局ヲ収拾スルニ足ル人物ガ居ナイ様ニ思フ。
 自分トシテハ、海軍ノ山本大將内閣デ進ム事ニ定メタ 」
ト言ヒ、其ノ理由モ經過モ申サズ結論ダケ申シマシタノデ、
私ハ

「 今度ノ騒ギハ陸軍ガ起シタノデアリ、
 五 ・一五事件ノ時ハ海軍側ガ蹶起シタ爲、海軍ニ於テ事態収拾ニ當ツタ如ク、
今度ハ陸軍カラ出テ事態ヲ収拾シテ貰ハネバナラヌ。
此際海軍側カラ出テ貰フノハ筋違ヒノ様ニ思フ。
我々ノ意見モ蹶起將校ノ意見モ、期セズシテ一致シテ居ルノダカラ、
此儘眞崎内閣ニ依ツテ時局ヲ収拾シテ貰フ方針デ進マウデハナイカ 」
ト申シ、北ノ霊感ヲ告ゲタル上、
「 其ノ事ヲ蹶起將校等ニ傳ヘ、彼等ヨリ眞崎ニ一任シタ形ニナツテ居ルノダカラ、
 今更山本大將ニ變ヘルノモ何ウカト思フ。時ニ眞崎大將ハ何ウデスカ 」
ト申シマシタ処、
龜川ハ

「 眞崎ハ二月二十六日朝家ヲ出タ儘偕行社ニ居ルサウダガ、其ノ後少シモ會フ機會ガナクテ困ツテ居ル 」
ト申シマスカラ、
私ハ

「 夫レデハ困ル。眞崎デ進ム事ハ彼等ノ爲ニナル事ダカラ、聯絡ガ出來ヌトスレバ、
 眞崎ト山本ハ同ジ軍事参議官ダカラ、山本大將ニ随行スルカ、
山本大將又ハ林大將ヲ動カシテ眞崎ニ我々ノ希望ヲ傳ヘテ貰フカシテ、聯絡スル様ニシテハ何フカ 」
ト申シマスト、
龜川ハ
「 夫レデハ其ノ様ニシヤウ 」
ト言ヒマシタ。

夫レカラ二人デ暫ク雑談ヲ交シテ居ル時、
同日(二十七日) 午後七、八時頃突然 村中ガ來タトノ事ヲ告ゲラレマシタ。
私ハ最早永久ニ會ヘナイカモ知レヌト思ツテ居タ所謂死線ヲ突破シタ人ガ來タノデ、
事ノ意外ニ驚クト共ニ、
再会シ得タ事ニ附非常ニ嬉シク感ジマシタ。
龜川ハ北ヲ知ラズ、當日朝來タ時ニモ會ハシテ居ナイノデ、
村中ノ來タノデイイ機會ダト思ヒ、

北ヲモ呼ンデ北、龜川、村中、私ノ四人ガ一座ニ會シマシタ。
私達ハ村中ニ對シテ凱旋シタ勇士ヨリ戰爭ノ話デモ聞ク様ナ氣持デ、
三人交々村中ヨリ、蹶起シテヨリ此方ノ狀況ヲ聞キマシタ。

尤モ私トシテハ、今迄聞イテ居タ事實ヲ確メル形デアリマシタ。

村中ハ徐々ニ話シマシタガ、
其ノ要領ハ、

二月二十六日朝陸相官邸ニ行ツテ大臣ト會見シタ顚末、
蹶起部隊ハ戒嚴司令官ノ隷下ニ編入セラレ、現占據地ニ留ツテ居テ宜イトノ諒解ヲ得タ事、
陸軍上層部ノ人々ガ多數來テ夫々慰問 激励シテクレタ事、
今朝栗原、磯部、安藤ハ陸軍省、參謀本部ニ兵力ヲ終結シテ、幕僚ヲ襲撃スルト言ヒ出シタガ、自分ガ之ヲ阻止シタ事、
眞崎、阿部、西 三大將ニ會見シテ、眞崎大將ニ時局収拾ヲ一任スル旨要望シタ事、
新議事堂附近ニ兵ヲ終結スル事ハ地形偵察ノ結果不可デアルノデ、其ノ旨戒嚴司令官ニ申出デタ処、
安心シテ其ノ儘緩ゆるリ休養シテ宜イト言ハレタ事、
万平ホテル、山王ホテル等ニ居ル部隊ハ蹶起部隊デ、其ノ給与ハ聯隊カラ受ケテ居ル事
ナドヲ話シテクレマシタ。
私ガ
「 奉勅命令デ現地ヲ撤退セシメ、若シ服從シナイ時ハ討伐スルト云フ噂ガアルガ何ウカ 」

ト申シマスト、
村中ハ

「 我々ノ行動ヲ認メタ陸軍大臣ノ告示ガ出テ居ル程ダカラ、ソムナ筈ハナイ 」
ト申シテ大臣告示ノ内容ヲ説明シテクレマシタカラ、
私ハ

「 折角現占據地ニ留ツテ居ツテモ宜イト言ハレテ居ルノダカラ、
 民家ニ移ル事ハナイ、今迄通リ其場ニ居レバ宜イデハナイカ 」
ト言ヒマスト、
村中ハ
「 夫レデハサウ致シマセウ 」
ト言ヒマシタ。

私ハ、
「 早ク陸軍首脳部ノ意見ヲ纏メテ、時局収拾ニ努力スル必要ガアル 」
ト云フ趣旨ノ意見ヲ述ベ、

村中ハ約一時間程デ一人先ニ歸ツテ行キマシタ。

村中ガ熊々訪ネテ來タノハ、何ノ目的デアツタカ
村中ハ來タ時世間一般ノ狀況ヲ知リタイト言ツタ様ニ思ヒマスノデ、其ノ様ナ考デ來タノデナイカト思ヒマス。
海軍方面ノ狀況ハ私カラ村中ニ話シテ遣リマシタ。

被告人ヨリ村中ヲ呼迎ヘタノデナイカ

村中ハ自發的ニ來タノデ、私ガ呼ンダノデハアリマセヌ。

自發的ニ來タトスレバ、何カ目的ガアル筈ト思ハレルガ如何

私ハ最早會ヘヌト思ツテ居タ村中ガ來タ嬉シサノ氣持ガ先ニ立ツテ居リマシタノデ、
村中ガ何ムナ目的デ來タカニ附考ヘマセヌデシタ。

外部ノ狀況ヲ如何様ニ話シタカ

外部上層部ノ方々ニ御願ヒシタ事ヲ告ゲ、
海軍デハ眞崎一任と云フ事ニ附支援シテクレル事ニナツテ居ル事、
全國カラ澤山ノ激励電報ガ來テ居ルガ、
戒嚴司令部邊リデ押ヘテ居ルト新聞記者ガ言ツテ居ツタト云フ事 ナドヲ傳へ、
今ハ海軍側モ民間側モ、其ノ他一般ノ空氣ハ蹶起部隊支援ニ傾イテ居ルカラ、
やがて有利ニ解決スルダラウト云フ風ニ、
彼等ガ嬉シガル様ナ事ヲ申シテ、村中ヲ激励シテ遣リマシタ。

被告人ハ、一般ノ情勢ハ好轉シツツアルガ、
此好轉ハ蹶起將校ノ内部不統一ヨリ崩壊シナイカト思ツタトノ事デアルガ、
 其ノ點ニ附村中ニ注意シタカ
村中ハ其ノ日安藤、磯部、栗原等ノ強硬分子ヲ抑ヘルノニ苦心シタト言ヒマスカラ、
私ハ 「 サウデアツタカ 」 ト同人ヲ劬ハル様ナ氣持デ、返事ヲシテ置キマシタ。
尚、村中ニ會ツタ時ニハ、彼等ガ私ノ意見ヲ採用シテクレ、
爲ニ大部分危險空氣ハ消散シテ居ル様ニ思ヒマシタノデ、
村中ニハ、「 此際更ニ早ク軍事參議官ト會見シタ方ガ宜イ 」 ト話シタ様ニ思ヒマス。

其ノ際北ヤ龜川ハ、何カ言ハナカツタカ

北ハ私ト同様、
「 早ク陸軍首脳部ノ意見ヲ纒メ時局収拾ニ努力シテ貰フ必要ガアル 」
ト云フ趣旨ヲ申シテ居リマシタガ、龜川ガ何ト言ツタカ覺ヘテ居リマセヌ。

其ノ際龜川ハ、

「 奉勅命令ト云フガ、夫レハ天皇機關説ノ様ナ事デアル。袞龍ノ袖ニ隠レテ大御心ヲ私セムトスル所業デアル 」
ト云フ趣旨ノ事ヲ強調シタノデハナカツタカ
私ハ其ノ時龜川ガ其ノ様ニ話シタト思ツテ居リマシタガ、夫レハ記憶違ヒデアリマシタ。

何故今迄左様ナ申立ヲシテ來タカ

何ウシタモノカ、
最初ハ龜川ガ其ノ様ニ申シタモノト思詰メテ居リマシタガ、
後ニ記憶違ヒナル事ガ判ツタノデアリマス。
龜川ハ其ノ時其ノ様ナ話ヲシナカツタノガ本当デアリマス。

・・・第三回公判


軍事參議官との會談 1 『 國家人なし 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』

2019年03月24日 10時31分41秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

前項
帝國ホテルの會合 
の続き
  村中孝次
帝國ホテルで部隊の撤退を約束した村中は
二十七日朝
陸相官邸の廣間で野中、香田、安藤、磯部、栗原らとともに
部隊の引きあげについて協議した。

だが、意見は硬軟二派にわかれた。
村中は同志部隊を引きあげよう、皇軍相撃はなんとしても出來ない、
と 撤退を説いたが、
磯部 は激昂を全身にたぎらかし、
「 皇軍相撃がなんだ、相撃はむしろ革命の原則ではないか、
 もし同志が引きあげるならば俺は一人になってもとどまって死戰する 」

と 叫ぶ。
安藤もまた、
「 俺も磯部に賛成だ。維新の實現を見ずに兵を引くことは斷じてできない 」
と 鞏硬だった。
磯部としては もし情況惡化せば田中隊と栗原隊をもって出撃し、
策動の本拠と目される戒嚴司令部を轉覆する覺悟だった。
とうとう磯部は怒って栗原と一緒に首相官邸に引きあげてしまった。
同志の間には氣まずい空氣が流れた。
けんか別れである。

人なし勇將眞崎あり
磯部が首相官邸に移ってから間もなく、
西田から栗原に電話があり、つづいて、北一輝からも栗原に電話で、
「 眞崎大將に時局収拾をしてもらうことに、
 まず君ら靑年將校の全部の意見を一致させなさい。
そして君らの一致の意見として軍事參議官の方も、
また、參議官全部の意見一致として眞崎大將を推薦することにすれば、
つまり陸軍上下一致ということになる。
君らは軍事參議官の意見一致と同時に眞崎大將に時局収拾を一任して、
一切の要求を致さないことにしなさい 」

と 教示した。
さらに、
西田も磯部を電話口に呼び出し和尚 ( 北のこと ) の靈告なるものを告げた。
磯部は、
午前八、九時であったが西田氏より電話があったので、
「 余は 「 簡單に退去するという話を村中がしたが斷然反對した、小生のみは斷じて退かない。
 もし軍部が彈壓するような態度を示した時は、策動の中心人物を斬り戒嚴司令部を占領する決心だ 」

と 告げる。
氏は、「 僕は龜川が撤去案を持ってきたから叱っておいたよ 」 と いう。
更に今、御經が出たから讀むといって
「 國家人なし 勇將眞崎あり、國家正義軍のために號令し、正義軍速やかに一任せよ 」 と 靈示を告げる。
余は驚いた、
「 御經に國家正義軍と出たですか、不思議ですね、私どもは昨日來 尊皇義軍と言っています 」
と 言って神威の嚴肅なるに驚き 且つ快哉を叫んだ 」

と 遺書 「 行動記 」 に書いているが、この北の靈告にはよほど激励されたものらしい。

しばらくすると 村中が香田とともに首相官邸にやって來た。
磯部は村中を見つけると 夜明け方の喧嘩別れも忘れて、
「 さきほど、西田さんから電話があって 和尚の靈告を聞いたんです。
人なし勇將眞崎あり國家正義軍のために號令し、正義軍速やかに一任せよというのです」

と 氣色をたたえ、はしゃいだ聲で話しかけた。
村中も、
「 いや、俺の所にも今、その電話があったものだから相談しに來たのだ。
 和尚の靈告通りに この際は眞崎一任で進むのが一番いいんじゃないかと思うんだが 」
と 一同にはかった。

そして
「 賛成 ! それでいこう 」
と いうことになった。

折もよく 野中も來合わせていて、眞崎一任ということに全員一決した。
そこで 各參議官の集合を求めることになったが、
同時に、昨日來の行動で疲勞している部隊に休息を与えるために、
警備兵を除いて、部隊を一時國會議事堂附近に集結することにきめた。
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國會議事堂附近に集結する爲に移動する野中部隊
 

  
戒嚴司令部
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そして 村中と香田が部隊を代表して戒嚴司令部に交渉に行くことになった。
二人は戒嚴司令官を訪ねて參謀長列席の上で、
蹶起の趣旨ならびに軍上層部に対する要望を述べ、

部隊の配備を縮小すること、現配備をなおしばらく是認せられたいこと、
しからざれば軍隊相撃の危險があることを力説し、さらに軍事參議官との面接を依頼した。
こうして 香椎のあっせんで
( 二十七日 ) 午後四時頃
陸相官邸の大廣間で
ふたたび蹶起將校と軍事參議官との會談が行われた。
この場合
反亂將校側は ほぼ全員、
立會人として山下少將、鈴木、小藤両大佐、山口大尉が同席した。
まず、野中大尉が立って、
「 事態の収拾を眞崎大將にお願い申します。
 その他の參議官は眞崎大將を中心としてこれに協力せられることをお願い致します 」

と 申し入れた。
すると 眞崎大將は、
「 君らがそういってくれることは誠に嬉しいが、今は君らが聯隊長のいうことを聞かねば何の処理もできない 」
と 暗に撤退をほのめかした。

阿部大將はこれをとりなすように、
「 われわれ參議官一同心をあわせて力をつくすことを申しあわせている。
 眞崎大將がもしその衝に當ることになれば、われわれも勿論これを支持するし、
また、他に適當な方法があったならばこれに協力するにやぶさかではない 」
と いい、

西大將も
「 阿部閣下のいわれる通りだ 」
と そばから言い添えた。
野中は更に、
「 この事柄をどうか他の参議官一同へもはかってご賛同を願います 」
と 懇請すると、阿部大將は、
「 諸君の意のあるところは充分に參議官に傳えよう 」
と あっさり承諾した。
すると野中は、
「 それでは軍事參議官一同ご賛同の上は、
 われわれの考えと參議官一同の考えが完全に一致した旨を、是非、ご上奏をお願いします 」
と 切り込んだ。

阿部大將は、
「 そういう事柄は手続き上にも考慮せねばならないので即答はしかねる、よく研究してみよう  」
と 逃げてしまった。
今まで だまって聞いていた眞崎大將はこのとき、
「 われわれ軍事參議官は、御上のご諮詢があって初めて動くもので、その外は何の職權もない。
 ただ、軍の長老として事態の収拾に骨を砕いているのだ。
だから君らがわしに時局収拾を委すというなら無条件でまかせてもらいたい。
しかし 時局の収拾は君らが速やかに、統率の下に復歸することだ。
それ以外に手段方法はない。

戒嚴令はとりもなおさず奉勅命令だ。
もし、これにそむけば錦旗に反抗することになる。

萬一、そのような場合が生じたら、自分は老いたりといえども 陣頭に立ってお前達を討つぞ、
大局を達観して軍長老の言を聞いて考えなおせ。
赤穂四十七士が全部同じ金鐵の考えなりしや否や不明だ。
今日出動した部隊も同様で、蹶起後日數もたち疲勞している。
思わざる色々のことがおこるかも知れない。早く引きとるようにせよ 」
會談は 彼らの考えとは逆な方嚮に向けられてしまった。
眞崎、今日の説得は迫力があった。
阿部大將口を開いて、
「 それでは君らの申し入れの意思はよくわかったから  他の參議官ともはかって後刻返事することにしよう  」
と 會談を打ちきった。
三大將は説得ほぼ成功とふんで喜んで偕行社にかえった。
リンク→山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを眞崎大将に一任します 」 
 
この日( 二十七日 ) 午前
反亂軍は一部配備の變更を行い
陸相官邸その他 永田町台上一帯の警戒を緩やかにし一般の交通を許したので
首相官邸には激励の訪問者が續々とつめかけ 邸前には 萬歳、萬歳 の聲が湧きあがっていた。
こうした中で 一部幕僚による撤退勧告がはじめられていた。
満井中佐は
維新の大詔渙發と同時に 大赦令が下るようになるだろうから、一應君等は退れといい、
鈴木大佐も一應退らねばいけないと説示する。
彼らは一抹の不安をもちつつも、なお事件の成功を信じて、その 「 戰勝 」 に酔っていた。
・・・大谷敬二郎  二・二六事件 『 ひとなし勇將眞崎あり 』 から


軍事參議官との會談 2 『 事態の収拾を眞崎大將に御願します 』

2019年03月23日 19時02分49秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

   
眞崎甚三郎大將              阿部信行大將      西義一大將      ・・・以上、軍事參議官
     
山口一太郎大尉  鈴木貞一大佐  小藤恵大佐       山下奉文少將       ・・・以上、立會人
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午後二時、陸相官邸で蹶起將校と眞崎大將らと會談した。
席上、野中大尉が
「事態の収拾を眞崎將軍に御願ひ申します。
 この事は全軍事參議官と全靑年將校との一致せる意見として御上奏をお願い申したい 」
と、言った。 ( リンク → 山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」 )
しかし、眞崎は既に天皇の御意嚮を知っているから、はっきりした返事をしていない。
「 君たちが左様言ってくれる事は誠に嬉しいが、いまは君等が聯隊長の言う事を聞かねば何の処置も出來ない 」
と言って、撤退が先決だという。 
結局、この會見ははっきりした結論を出さないでおわった。
軍事參議官たちは、靑年將校が撤退を認めたと思い、

靑年將校の方では、阿部、西の両大將が眞崎大將を助けて善処するという言葉を信じた。
・・・挿入 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
( 二十七日 )

午後二時頃になったかと思ふ。
眞崎外の參議官と會見する事となり、全將校同志が陸相官邸に集合する。
眞崎、阿部、西 (荒木、植田、寺内、林は不參) の三將軍 と 山口、鈴木、山下、小藤の諸官が立ち會った。
野中大尉が、
「 事態の収拾を眞崎將軍に御願ひ申します、
 この事は全軍事參議官と全靑年將校との一致の意見として御上奏をお願い申したい 」
と 申込む。
眞崎は
「 君等が左様云ってくれることは誠にうれしいが、今は君等が聯隊長の云ふことをきかねば、何の処置も出來ない」
と 答へ、部隊の退去をほのめかす風さえ察せられる。
どうもお互ひのピントと合はぬので、もどかしい思ひのままに無意義に近い會見をおわる。
安部、西 両大將が眞崎をたすけて善処すると言ふことだけは、ハッキリした返事をきいた。


同志中に大政略家がいたら、極めて巧妙なカケヒキ
( 或いは極めて簡短なる一石を以てかもしれぬ ) を以て、
全軍事參議官と靑年將校との意見一致として、事態収拾案の大綱を定めて、
上奏御裁下をあおぐ事は易々たる事であったと思ふ。
今の小生にはそれが出來るが、當時の同志には誰にもそれ程の手腕がなかった。
この會見は極めて重大な意義をもっていたのに、
全くとりとめのないものに終わった事は、維新派敗退の大きな原因になった。
吾人はシッカリと正義派參議官に喰ひついて幕僚を折伏し、
重臣、元老に對抗して、戰況の發展を策すべきであった。
眞崎、阿部、西、川島、荒木にダニの如くに喰ひついて、
脅迫、煽動、如何なる手段をとってもいいから、
之と離れねばよかったのだ。
・・・磯部浅一 『 行動記 』 ・・ 第十九 「 國家人なし、勇將眞崎あり 」
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「 この會見は極めて重大な意義をもっていたのに、
 全くとりとめのないものに終わった事は、維新派敗退の大きな原因になった 」
と、あとで磯部はくやしがっているが、
實際これらの老大將たちを蹶起部隊の人質にとってしまったら、

その後の事件の進展は大きく變わってきたであろう。
しかし、宮廷では雲行きはきゅうであった。
本庄日記によれば、
数十分ごとに天皇は本庄侍従武官長を召され、行動部隊を早く鎭定せよと督促される。
「 朕自ラ近衛師團ヲ率ヒ、此ガ鎭定ニ當ラント仰セラレル 」 
と、本庄はその日の日記にしるしているほどである。
二十八日になると情勢は一変した。
占拠場所から撤退しないという行動部隊を、武力によって討伐するということになった。
靑年將校たちが撤退の決意をかえたのは 北、西田の指令だという噂は宮廷にまで聞えた。
須山幸雄著 西田税 二 ・二六への軌跡  から
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本庄日記 騒乱の四日間 
第二日  (二月二十七日)
一、
午前一時過、内閣ハ總辭職スルコトニ決定シ、後藤内相臨時首相代理トシテ各閣僚ノ辭表ヲ取纏メ、
早朝闕下ニ捧呈セシガ
聖旨ニ依リ、後藤内閣成立マデ政務ヲ見ルコトトナレリ。
陛下ニハ、最モ重キ責任者タル、川島陸相ノ辭表文ガ、
他閣僚ト同一文面ナルコトヲ指摘遊バサレ、
彼ノ往年虎ノ門事件ニテ内閣總辭職ヲ爲セル時、
當ノ責任者タル、後藤内相 ( 新平 ) ノ辭表文ハ一般閣僚ノモノト全ク面目ヲ變エ、
實ニ恐懼ニ耐ヘザル心情ヲ吐露シ、一旦脚下セルニ更ニ、熱情ヲ罩こメ、
到底現狀ニ留マリ得ザル旨奏上セルノ事實ニ照シ、
不思議ノ感ナキ能シズトノ意味ヲ漏ラサレタリ。
當時、武官長ハ陸相ノ辭表ハ内閣ニテ豫メ準備セルモノニ署名シ、
同時捧呈セルモノニシテ、何レ改メテ御詫ビ申上グルモノト存ズル旨奉答ス。
二、
午前二時五十分、
戒嚴令公布セラレ、

警備司令官香椎浩平中將戒嚴司令官ニ任ゼラル。
此戒嚴令ハ勿論、樞密院ノ諮詢しじゅんヲ經テ、勅令ヲ以テ公布セラレタルモノニシテ、

東京市ナル一定ノ區域ニ限ラレタリ。
此日、行動部隊ハ依然參謀本部、陸軍省、首相官邸、山王ホテル等ニ在リ、
御前十時半頃ヨリ、近衛師團ヲ半蔵門、赤坂見附ノ線、
第一師團ヲ赤坂見附、福吉町、虎ノ門、日比谷公園ノ線ニ配置シ、
占拠部隊ノ行動擴大ヲ防止セシム。
弘前ニ御勤務中ノ秩父宮殿下ニハ、此日御上京アラセルルコトトナリシガ、
高松宮殿下大宮駅マデ御出迎アラセラレ、帝都ノ狀況ヲ御通知アラセラレタル後チ、
相伴ハレ先ヅ眞直グニ參内アラセラレタリ。
此ハ宮中側近者等ニ於テ、若シ、殿下ニシテ其御殿ニ入ラセラルルガ如キコトアリシ場合、
他ニ利用セントスルモノノ出ヅルガ如キコトアリテハトノ懸念ニアリシガ如シ。
此日、閣僚全部、尚ホ 依然宮中ニ在リ。
岩佐憲兵司令官病ヲ押シテ參内シ、窃ヒソカニ岡田首相ノ健在ナルコトヲ告グ、
其儘傳奏ス。
三、
此日、
戒嚴司令官ハ武装解除、止ム得ザレハ武力ヲ行使スベキ勅命ヲ拝ス。

但シ、其實行時機ハ司令官ニ御委任アラセラル。
戒嚴司令官ハ、斯クシテ武力行使ノ準備を整ヘシモ、
尚ホ、成ルベク説得ニヨリ、鎭定ノ目的ヲ遂行スルコトニ努メタリ。
此日拝謁ノ折リ、
彼等行動部隊ノ將校ノ行爲ハ、
陛下ノ軍隊ヲ、勝手ニ動カセシモノニシテ、

統帥權ヲ犯スノ甚ダシキモノニシて、固ヨリ、許スベカラザルモノナルモ、
其精神ニ至リテハ、君國ヲ思フニ出デタルモノニシテ、
必ズシモ咎ムベキニアラズト
申述ブル所アリシニ、

後チ御召アリ、
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ兇暴ノ將校等、其精神ニ於テモ何ノ恕ゆるスベキモノアリヤ

ト仰セラレ、
又或時ハ、
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、
眞綿ニテ、朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行爲ナリ、
ト漏ラサル。
之ニ對シ
老臣殺傷ハ、固ヨリ最惡ノ事ニシテ、
事仮令誤解ノ動機ニ出ヅルトスルモ、
彼等將校トシテハ、
斯クスルコトガ、國家ノ為爲メナリトノ考ニ發スル次第ナリ
ト 重ネテ申上ゲシニ、
夫ハ只ダ私利私欲ノ爲ニセントスルモノニアラズト云ヒ得ルノミ
ト 仰セラレタリ。
尚又、此日
陛下ニハ、
陸軍當路ノ行動部隊ニ對スル鎭壓ノ手段實施ノ進捗セザルニ焦慮アラセラレ、
武官長ニ對シ、
朕自ラ近衛師團ヲ率ヒ、此ガ鎭定ニ當ラン
ト仰セラレ、
眞ニ恐懼ニ耐エザルモノアリ。
決シテ左様ノ御軫念ごしんねんニ及バザルモノナルコトヲ、呉々モ申上ゲタリ。
けだシ、
戒嚴司令官等ガ愼重ニ過ギ、殊更ニ躊躇セルモノナルヤ
ノ如クニ、 御考ヘ遊バサレタルモノト拝サレタリ。

此日、杉山參謀次長、香椎戒嚴司令官等ハ、兩三度參内拝謁上奏スル所アリシガ、
陛下ニハ、
尚ホ、二十六日ノ如ク、數十分毎ニ武官長ヲ召サレ
行動部隊鎭定ニ付 御督促アラセラル。
常侍官室ニアリシ侍從等ハ、此日武官長ノ御前ヘノ進謁、十三回ノ多キニ及ベリト語レリ。
此日 ( 二十七日 ) 午後遅ク、行動部隊將校ヨリ眞崎大將ニ面會ヲ求メ、
同大將之ニ應ジタル結果、更ニ阿部、西 両大將モ之ニ加ハリ、
種々説得ニ努メタルヨリ、彼等將校等モ大體ニ諒解シ、
明朝ハ皆原隊ニ復歸スベシト答ヘシ由ニテ、
此夜ハ警戒等モ特ニ寛大ナラシメラレタリ。

第三日  ( 二月二十八日)
一、
午前七時、伏見軍令部総長宮殿下参内アリ、
武官長ニ對シ、
二十七日ニ於ケル皇族御會合ノ模様
及 閑院宮殿下ノ御轉地先、小田原ヨリ至急御歸京アラセラルベキ必要を説示アラセラレタリ。
依テ、杉山參謀次長躊躇シアリシ折柄、秩父宮殿下ヨリモ時局重大ノ際ナレバ、
多少ノ無理ヲ押シテモ、御歸京遊バサレル様、直接通知アラセラレシ趣ニテ、
閑院宮殿下ニハ、此日遅ク御歸京遊バサレタリ。
二、
午前十時、
梨本宮殿下參内、拝謁ノ上、
眞摯熱誠を籠メ、今事件ニ付 御詫アラセラル。

後チ、陛下ニハ、武官長ニ對シ、
自分ハ、梨本宮殿下ノ眞面目ナル御態度ニ全ク感激シタリ。
各將校ガ悉ク、梨本宮ノ如キ心持を體シ呉レシナラバ、此ノ如キ不祥事ハ發生セザリシモノヲ
ト 御歎ジアラセラレタリ。
三、
此日、朝ニ至リ、行動部隊ノ將校ノ態度一變シ、又々原隊復歸を肯セズ。
前晩、
眞崎大將等、三軍事參議官ノ説得ニテ、行動部隊ノ將校等ハ、
部下ノ部隊ヲ原隊ニ歸スベク決意セシ模様ナリシニ、
夜半ニ至リ、電話ニテ首相官邸ニアル、右等將校ニ電話指令セシモノアリ。
( 北、西田等ナリト噂セラル )
爲ニ、彼等將校ノ態度一變セリト云フ
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帝國ホテルの會合

2019年03月23日 09時54分56秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

夜半、帝國ホテルの會合
ちょうどその頃、( 26日の夜半~27日の天明近く )
帝國ホテルの一室では
三島から急遽上京してきた重砲兵聯隊長橋本欣五郎大佐、
戒嚴参謀に豫定されていた石原莞爾作戦課長、
それに參謀本部部員田中弥大尉、
陸相官邸からかけつけた満井佐吉陸大教官らが集まって
事態収拾について協議していた。
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・・・挿入・・・
橋本欣五郎大佐 は東京經濟研究會の山崎盛澄へ電話し 指揮官は誰れかを聞き、
其結果概略を知り、放棄し置けば皇軍相撃の惨を見るを恐れ、旅團長の許可を得て出發。
( 出發の条件、副官同行、同日夜半迄に帰ること )
二十六日午後六時に三島を發、上京後 神田正晴大佐を訪問、事件の解決の遷延不可なるを述べ、
満井中佐より電話にて陸相官邸に行き呉れ。
軍事參議官の會合の際 阿部大將より橋本大佐に 如何にせば可ならんと問はれ、
其時も神田大佐に言ひしと同様答ふ。
( 阿部大將は彼等の希望しある所は何かと問ひたるなり )
満井中佐來り。橋本大佐に反軍の幹部と會見を頼まる、其結果村中と會見、
橋本より村中へ、
「 君等は昭和維新を斷行せんと企圖したるならん、其眞情には同情す。
已にお前達は包囲を受け居る。速に下がれ。
勿論維新に就ては我等も同意見なるを以て安心して下れ 」 と 言ふ。
其後 石原莞爾大佐、満井、橋本が帝國ホテルにて會見す。
< 磯村少佐の言>
石原大佐 次長室に於て 次長に
「橋本と満井が帝國ホテルにて會ひたいと云ふから一時間計り暇を下さい。
 もう會ても駄目と思ひますが一応會てやらうと思ひます 」
次長は石原大佐に うっかりしたことを言ふなよと注意せらる。
石原 「 よくわかって居ります。殊に後繼内閣の問題に触れた時には私は斷然歸て來る 」
橋本が帝國ホテルに歸りし時、副官か龜川が來て居るがと云ひしに 夫れは満井が使て居る男ならんと。
< 橋本大佐の言 >
満井中佐が龜川に洩らしたる言として
「 反軍を退かしむるには軍人にてはいかん。 君等が適任ならん。
 怪文書に就ては自分 ( 橋本 ) は絶對反對なり。
之れは全く共産党のやり方にて 自分は書かれたることあるも 書たことがない 」
・・・安井藤次少将・備忘録  から  ・・・

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彼らはこの機会に鞏力内閣を組織して國家革新を斷行すべきだと いうことでは意見が一致していたが、
その鞏力内閣に誰を首班とするかについては議がわかれたいた。
石原大佐は皇族内閣を主張した。
東久邇宮を推すもので當時の參謀本部幕僚たちの意見を代表するものであった。
満井中佐は蹶起將校の要望する眞崎内閣柳川陸相案を鞏く支持し、
橋本大佐は建川美次中將を推していた。
こうした意見の相違からこの際、陸軍から首班を求めることをやめて海軍から出してはどうかと
提案したのは満井中佐であった。
「 皇族内閣には蹶起將校は斷乎反對の態度をもっているし、
 建川中將も大權干犯の元兇として彼らはその逮捕を要求しているので、
これらを強行することは事態収拾にはならない。
眞崎首班は彼らの熱望するところであるが、
それが參謀本部側で鞏い難色があるというのであれば、
この際は陸軍部内のイザコザに全く關係のない海軍からこれを求めるより途はない。
山本大將はかつてロンドン條約当時艦隊派の雄として活躍せられ革新思想にも理解があるので、
蹶起將校たちも納得して必ず平穏裏に維新に進むことができよう 」
この満井の提案には石原も橋本も賛成した。
そしてこの意見は石原より杉山參謀次長に申達されることになった。
なお、これに関して、
「 午前四時三十分
 參謀本部の反對激烈にして到底眞崎内閣の成立は期待すべからざるも
更に これを徹底的に斷念せしむるため山本英輔大將に勧告せられたし との部内の意見を聽取す 」
と 杉山次長は手記しているところから見ると、
石原は部内の意見としてこれを具申したように思われる。
そこで彼らは 山本大將と昵懇だという龜川哲也を呼んで意見を聞くことになった。

龜川は二十五日夜西田税と協議して事態収拾のための上部工作を担當していたが、
この朝未明、彼は眞崎邸を訪ねてその奮起を懇請し、
また西園寺工作のため興津におもむく鵜沢博士を品川駅にとらえてその努力を要請し、
また、政友會領袖、久原房之助とも事態収拾について話合っていたが、
一方かねて知遇を得ていた山本海軍大將とも連絡することを忘れていなかった。
彼はこの朝すでに電話をもって山本大將に事件發生を告げて、
海軍として時局収拾に努力されるよう懇願していたし、
また、午後には海軍省に同大將を訪ねて山本内閣説をにおわせていた。
彼にしてみれば山本内閣は眞崎内閣に次ぐ第二の腹案だったわけであったのだ。
したがって、この満井の提案した山本内閣案は満井自身のものでなくて龜川の構想であったのである。
龜川が自動車で帝國ホテルに駈けつけたときは、ちょうど、石原大佐が出て行くところだった。
二人は入口ですれ違ったが別に挨拶もかわさなかった。
龜川がボーイに案内されて一室に入ると、
そこには満井、橋本、田中その他二、三名の將校、それに右翼浪人の小林長次郎がいた。
満井が龜川にこれまでのいきさつを説明したのち、
「 この際、山本大將に出てもらうことが一番よいということに意見の一致を見た。
そこで石原大佐から杉山次長に電話して、これが諒解を得た。
次長は機を見てこれを上聞に達するということになっている。
ついては山本大將と親交のあるあなたに意見を伺うと思って來ていただいたのです 」
「 それはいいでしょう。
 だが、それにはまず部隊の引きあげが先決ではないでしょうか、
蹶起部隊は一応目的を達したのだから、
いつまでも首相官邸や陸相官邸を占拠していてはいけません。
彼らは速やかに現在の場所から撤去させなければなりません 」
と 龜川は問題を投げた。
この龜川の意見には満井も橋本も同意し、
部隊を戒厳司令官の指揮下に入れて警備区域はそのままとして歸隊せしめよう、
と 提案、
一同それがよかろうということになり、
満井は車を陸相官邸にやり 村中 をよんできた。
村中を説得して引きあげさせようとしたのだ。
龜川はこの村中説得の事情をつぎのように述べている。
「 そこで満井と私は村中を別室に呼び、
 まず私から目的を達したかと聞きますと村中は達しましたという返事なので、
私はそれでは早く引きあげればよいではないか、といいますと、
村中は、事態をどうするか決まらないのに引きあげるわけにはいかない、との返事でした。
私は引きあげさえすれば事態は自然に収拾されるのだ、といいました。
この時、満井は、
≪ 部隊を戒嚴司令官の指揮に入れ警備区域は現場のままとする ≫
という条件を持ち出し、早く引きあげた方がよいと話したので、
村中は
引きあげるということは重大だから 外の者にもいわなくてはならん、
そして西田にも相談しなくてはならん
と いいました。

この時私から 西田の方は私が引き受けるから、
若い人たちの方は君が引き受けて早速引きあげてくれ、と話ました。
すると村中は
歸りましたら早速引きあげにとりかかりましょう

ということで
わずかな時間で話がまとまって村中は帰って行きました」
( 憲兵調書 )

こうして彼らはこの協議をおえて帝國ホテルを出た。
もう夜が明けかかっていた。
満井はその足で戒嚴司令部に赴き、石原参謀を訪ね、右の顚末を傳え、
さらに、
「 維新内閣の實現が急速に不可能の場合は、
 詔書の渙發をお願いして、建國精神の顯現、國民生活の安定、
國防の充實など國家最高のご意思を広く國民にお示しになることが必要である。
そしてこれに呼応して速やかに事態の収拾を計られるよう善処を希望する 」
龜川はホテルから自宅にかえったが、そこで山本大將と久原に右の報告をした。
それから眞崎邸を訪問したが不在だったので車を海軍省に向けここで山本大將に會い、
組閣の心組みをするよう申言したが、山本は相手にしなかった。
八時頃 北一輝邸に西田税を訪ね帝國ホテルにおける部隊引上げの話をした。
西田は憤然として、
「 そんなことをしては一切ぶちこわしだ、一体誰の案か、村中は承諾したのか 」
と 詰問した。
龜川が、大体承諾したようだと口をにごすと、西田はすっかり考え込んでしまった。

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「 国家人無し、勇将眞崎あり 」 に 続く
大谷敬二郎 著  二・二六事件から