あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

二 ・ 二六事件前夜 二月二十五日 林八郎 『 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 』

2024年02月25日 08時14分00秒 | 道程 ( みちのり )

2月24日 ( 月 )
朝  歩一に出勤した栗原中尉、林少尉に蹶起計画を告ぐ
朝食後  澁川、伊藤屋別館を視察す・・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 
午後  磯部、千駄ヶ谷の西田税宅へ・・西田税不在
午後3時頃  常盤少尉、鈴木 清原少尉とともに野中大尉に呼ばれ蹶起の任務分隊を命ぜらる
午後7時半  西田税、歩一週番司令室の山口大尉を訪問 ・・「 実に弱ったことになった 」
午後9時頃  坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉と共に斎藤内府私邸を偵察す ・・高橋太郎少尉の四日間 1 
午後9時頃  
村中孝次、北一輝邸を訪問 ・・『 蹶起趣意書 』 を作成す
午後10時過  西田税、岩崎豊晴私邸を訪ねる ・・・
「 貴様が止めなくて一体誰が止めるんだ 」 
午前0時半頃  西田税、帰宅  磯部の置手紙 ・・「 二月二十六日の朝だと都合が良いと云つてます 」 
歩一週番指令室で野中、香田、村中、磯部、 
山口、打合せ
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・・・前項  二 ・ 二六事件前夜 二月二十四日 村中孝次 『 蹶起趣意書 』を起草  の 続き

二 ・ 二六事件前夜
2月25日 ( 火 ) 
第十回相澤公判   眞崎大将出廷

早朝  澁川、絹子夫人に西田税への手紙を託す
・ 澁川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 澁川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

  
西田税               澁川善助   
・・・翌二十五日午前中、私ハ來客と話シテ居ルト、
磯部淺一ガ來テ、一寸部屋ヲ貸シテ呉レ、此所デ落合フ人ガアルカラト申シ、
暫クスルト澁川善助妻ガ來テ別室デ話シテ居リマシタ。
私モ後カラ挨拶ノ爲其ノ室ニ行クト、
磯部ガ、澁川ニハ湯河原ヘ視察ニ行ツテ貰ツテ居ルト申シタノデ、
其ノ時澁川ガ妻君ニ手紙ヲ託シテ、視察ノ狀況ヲ連絡ノ爲ニ來タ事ヲ知リマシタ。
澁川ハ二月二十日頃ヨリ突然私方ヘ顔ヲ見セナイ様ニナツタノデ、不思議ニ思ツテ居リマシタガ、
右ノ事情デ始メテ諒解シタノデアリマス。
然シ、澁川モ参加スルト思ツタノデ、磯部ニ對シ
『 現役軍人ガヤルノダカラ、澁川迄引張リ出スノハ宜クナイ。 夫レダケハ止メテクレヌカ 』
ト申シタ処、磯部ハ承知シマシタノデ、
私ハ早速澁川宛
『 軍人側ノスル事ニ我々地方人ハ無関係デアリ、没交渉デナケレバナラヌト思フカラ、
 君ハ今日中ニ東京ニ歸ツテ貰ヒタイ。歸ツタラ直ニ電話デ連絡セヨ 』
ト言フ趣旨ノ手紙ヲ書キ、澁川ノ妻ニ宅シマシタ。
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午前8時30分頃  竹嶌、對馬、井上、板垣中尉と打合せ・・對馬と板垣が対立す ・・・
斯くて 興津の西園寺公望襲撃は中止された 
西園寺公望襲撃中止、對馬、竹嶌は上京

午前10時頃  澁川夫人、西田税宅へ・・西田書簡を開く・・磯部、村中共に・・牧野 伊藤屋別館に滞在中の報

午後1時  村中、中野区鷺宮の自宅を出る ・・戸山町の中島少尉の下宿に寄る

午後2時  安田少尉、中島少尉宅で村中、中島と三人で打合せす

午後6時頃  香田大尉、帰宅す

午後6時  山本又少尉、磯部宅へ到着

午後6時頃  林少尉、池田少尉に蹶起を知らせる
   
林八郎少尉           
池田俊彦少尉
・・・二十五日の火曜日は雪も止み、
私は中隊を率いて、代々木練兵場に演習に行った。
間もなく出征する北満の野を思い、積雪地の不整地運動に習熟する為の訓練であった。
種々の基礎的訓練を行った後、私は中隊を班ごとに分けて、
代々木練兵場の周辺近い不整地を競走させてきびしく鍛えた。
午後四時頃、帰途についたが、
途中、初年兵の一人が転倒して足をいためたので
近くの民間の医院で応急の手当てをして帰った。
あとで兵士を聯隊の医務室に見舞って出てくるところを林少尉と出合った。
林は私に
「 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 」
と 言ったので、
「 よし、俺も行く 」
と 答えて中隊に帰った。

七時半過ぎであったと思うが、私は栗原中尉を機関銃隊に訪ねた。
栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
私は敬礼して
「 私も参加致します 」
と 言った。
栗原さんはうなずいて、私の顔をじっと見て、
「 俺は貴公を誘わなかったのだ 」
と 言った。
私が
「 林から聞きました 」
と 言うと、
栗原さんは、
私が一人息子だから誘いたくなかったのだ
と いうことと、
私が行かなくてもいいのだと言った。
それでも私は
「 是非、参加します 」
と きっぱり言いきった。
この時、栗原さんは
「 有難う、そうか、そこまで考えていてくれたのか。中に入り給え 」
と 言って
先に立って将校室に私を導き入れた。
そこには中島少尉がいたように思う。
初対面なのでお互いに紹介された。
それから林がやってきて、いささか興奮気味で栗原中尉と話していた。
私の記憶では、
中島少尉が出て行ってから、對馬中尉がやって来たように思う。
對馬中尉は豊橋の教導学校の教官で、
生徒を率いて参加する筈のところを同僚の板垣中尉に止められて単身やってきたのだ。
皆が腰を落着けてしばらく経つと、
對馬中尉はポケットからハンカチに包んだものを出して 一同の前に広げた。
それは荼毗に付した小さな数片の遺骨であった。
「 これは満洲で戦死した自分の最も信頼する同志菅原軍曹の骨だ 」
對馬中尉はその骨を握りしめ、
皆の手で触ってやってくれと言って、ハンカチを差し出した。
栗原さんも林も、そして私もそのハンカチを手にとり骨片を握りしめた。
菅原軍曹の骨は、對馬中尉のぬくもりで温かかった。
それは掌を通じて心の底まで伝わる温かさであった。
菅原軍曹は秋田の聯隊出身で、大岸大尉の仙台教導学校時代の教え子であった。
十月事件当時、
菅原軍曹は対馬中尉に呼ばれて、隊列を離れ、
体操服を着て銃剣を風呂敷に包んで駆けつけた人である。
彼は満洲の奉山線の北鎮という所に連絡にきていて、匪賊と戦って斃れた。
この葬儀の時、
對馬中尉は駈けつけて、その遺骨の一部を貰い受け、
肌身離さず持っていたものである。
また 郷里秋田での葬儀の時は相沢中佐も出席されたそうである。
相澤、大岸、對馬、菅原の心の結びつきがあった。
「 今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ 」
と 對馬中尉は気魄をこめて語った。
栗原中尉から計画の説明を受けて私は緊張が次第に高まってゆくのを感じた。
我々の機関銃隊は首相官邸を襲撃することに決っていた。
そして機関銃隊を小銃三小隊と機関銃一小隊に編制し、
栗原中尉は第一小隊を、
私は第二小隊を、林が第三小隊、尾島曹長が機関銃隊を率いることに決定した。
栗原中尉と私、対馬中尉が表門から突入し、
林は第三小隊を率いて裏門から突入することにし、
その後、私が外部を固めて警戒する手筈になっていた。
しばらく経ってから週番指令の山口大尉が部屋に入ってきた。
そして、いつもと違った深刻な表情で、
「 今日の私は本庄閣下の親戚である私と、
一個人の山口としての私との 二つの体を持ちたい 」
と 言った。
皆と一緒に出撃したいが、
襲撃成功後の外交方面を担当するという意味であったように記憶する。
・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」
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午後6時30分頃  香田大尉、歩一丹生中尉の処へ

午後7時  磯部、山本、自宅を出る 歩一へタクシーで向かう

午後7時頃  村中、安田、中島、タクシーで歩一の栗原中尉の許へ

午後8時  山本少尉、磯部と共に歩一栗原中尉の許へ、 ・・・11中隊将校室の丹生中尉の許へ、村中、香田が既に居た

午後7時頃  香田大尉、歩一の栗原中尉の部屋で野中、村中と会同 -- 丹生中尉の参加を確認す

午後9時  村中、
蹶起趣意書を携えて丹生中尉の許に到り、
  山本又少尉 「 蹶起趣意書 」 印刷す ・・2時間かかる  ・・・ 山本又 『 我等絶體臣道ヲ行ク遺族ヲシテ餓ニ泣カシム勿レ 』

村中、磯部、香田、要望事項の意見開陳案を練る、香田が通信紙に認める

午後9時  栗原中尉、湯河原までの車二台予約す

午後9時30分  7中隊下士官、10中隊下士官全員 ( 新井軍曹を除く )  第七中隊長室に集合す
・・・二月二十五日、
その日は初年兵の実弾射撃訓練で朝から大久保射場に行き指導にあたった。
この時どこからか今夜非常呼集があるかもしれぬといううわさが流れた。
私は別に気にもせず聞き捨てにしていた。
実弾射撃は初めてだったが開始前の注意や要領の説明がよかったのか円満に進み、
かなりの成果を収めた。
このため早く終了したので
残り時間をLGの夜間射撃における命中精度向上手段について訓練をはじめたところ、
下士官集合がかかったので、
あとを加庭上等兵にまかせて鈴木少尉の元に集まると、
「 これから新宿に出てお茶でも飲もう 」 といった。
珍しいこともあるものだと思いながらついて行くと、多分 中村屋だったと思う店に入った。
この時の顔ぶれは 
鈴木少尉と福原、井沢、伊高、大森、井戸川、松本、宇田川、私の下士官八名であった。
しばらくして少尉が茶代を払い、円タクで帰営したが、それから一時間後に兵隊たちが帰ってきた。

その夜 ( 2 5 日 ) 九時頃
鈴木少尉 ( 週番士官に服務 ) の指示で、下士官全員は少尉と共に第七中隊長の部屋に集合した。
部屋の中には七中隊の下士官も集まっていて私たちが入るとすぐ扉をピタリと閉めた。
すでに話が進んでいたらしく机の上には洋菓子と共にガリ版の印刷物があった。
野中大尉は私たちを見ると一寸顔をくずし、「 十中隊もきてくれたか 」 といってすぐ切り出した。
話の内容は
相澤事件の真意、昭和維新の構想、蹶起の時期、
といったやはり私が予想していたことの具体的解説とその決意であった。
「 今述べたことをこれから実行する。そこで貴君等の賛否を伺いたい 」
大尉の顔がひきしまり、目が光った。
私たちは蹶起が正しいことなのか邪であるのか考えたが判断がつかず、しばし声なく数分間の沈黙が流れた。
やがて私は、
「 賛成します 」 と答えた。
すると他の下士官も追随して賛意を示したので、
それを聞いた野中大尉は、
「 賛成してくれたか、それでは細部について述べるが、まさか裏切ることはあるまいな 」
といいながら全員の顔を机上に集めて地図を拡げた。
以下 大尉の話は核心に触れていった。
出動部隊名、兵力、各部隊の襲撃目標、そして中隊における非常呼集の時刻、
兵の起こし方、装備、携行品等、こと細かく説明が続いた。
第十中隊は第三、第七中隊と共に警視庁を襲撃することを確認したとき何か体が引締まる思いがした。
その時ノックする音が響いた。
一瞬ギクリとしながらも内側から聞くと
見知らぬ将校が御苦労といいながら飛込んできた。
野中大尉の紹介で その人が 磯部一等主計であることを知った。 
彼は重ねて 「 よろしくたのむ 」 とあいさつし、
約十分間ほど゛紅茶を飲み菓子を食べながら雑談して帰っていった。
何の理由できたのか不明だが 恐らく激励か蹶起の確認にきたのではなかろうか。
それから三十分位いたった頃、野重七の田中中尉がきた。
彼も紹介によって同志の一人であることが判った。
彼は顔を見せた程度ですぐ出ていったが、営門前に彼の指揮するトラック数輌が待機しているとのことであった。
私たちはなお十一時頃まで出動上の細部打合せを行い ようやく野中大尉の部屋を辞去した。

・・・野中大尉 「 同志として参加してもらいたい 」
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午後10時頃  栗原中尉、聯隊本部の兵器掛 石堂軍曹を威し弾薬庫を開ける

午後10時頃  鈴木少尉、10中隊の下士官を連れて野中大尉の許へ・・指揮下に入る

午後10時過ぎ  水上ら湯河原襲撃組の民間人、栗原中尉に面会すべく歩一に入る

午後11時  高橋少尉、常盤少尉、日本橋の末広亭での夕食を済ませ帰隊す
 河野大尉、機関銃隊に到着

午後11時  西田税、千坂海軍中将の通夜に行く

午後11時55分頃  安藤大尉、週番司令として柳下中尉に命令下達

21:00
第六中隊下士官集合・・・中隊長より訓示
点呼終了後階下の広場で行われた
訓話を始めるにあたって先ず準備された黒板に富士山の絵をかき、
次に白墨を横にして富士山を塗りつぶした。
「 今の日本はこのように一部の極悪なる元老、重臣、軍閥、官僚等の私利私欲によって
このように汚され、今や暗雲に閉されようとしている。
今こそ我々の手によってこの暗雲を払いのけ 日本を破滅から救い
国体の擁護開顕を図らなければならぬ 」
24:00
安藤大尉は次の命令を下した。
1  かねて相沢事件の公判に際し、真崎大将の出廷による証言を契機とし、
    事態は被告に有利に進展することが明かとなれり。
2  しかるに この成行きに反発する一部左翼分子が蠢動し、
    帝都内攪乱行動に出るとの情報に接す。
3  よって 聯隊は平時の警備計画にもとづき  
    主力をあげて警備地域に出動し、警備に任ぜんとす。
4  出動部隊は第一、二、三、六、七、一〇の各中隊とし、
    機関銃隊は一六コ分隊を編成し、各中隊に分属せしむべし。
5  命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし 」
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北一輝
西田ニ對シ、
「 君ハ何ウスルノカ 」
ト尋ネルト、西田ハ悲痛ナ顔色ヲシテ、
「 今度ハ私ヲ止メナイデ下サイ 」
ト申シマシタ。
五 ・一五事件ノ時、
其ノ一ケ月半程度前ニ私ガ西田ニ忠告シテ、彼等ノ仲間カラ手ヲ引ク様ニシタ爲、
西田ハ遂ニ裏切者ト見ラレテ川崎長光カラ狙撃セラレ、重傷ヲ受ケタノデアリマス。
爾來西田ハ、同志カラハ官憲ノ 「 スパイ 」 ノ如ク見ラレ、
此事ヲ非常ニ心苦シク感ジテ居ツタ様デアリマシタ。
其ノ後ハ、西田が起タヌカラ靑年將校ガ蹶起シナイノデアル、
西田サヘ倒セバ靑年將校ハ蹶起スルト云フ風ニ同志カラ一般ニ思ハレテ居ツタ様デアリ、
西田ハ妙ナ立場ニ置カレテ苦シンデ居リマシタ事ハ、私モ承知シテ居リマシタノデ、
西田ハ右ノ如ク 「 今度ハ止メナイデクレ 」 ト悲壯ナ言ヲ發シタ時、
私ハ胸ヲ打タレタ様ニ感慨無量トナリ、非常ニ可愛サウナ氣持ニナリマシタ。
此氣持ハ 西田ト私トノ關係ヲヨク知ツテ居ル者デナケレバ、諒解の出來難イ點デアリマス。
私ハ 只 「 サウカ 」 ト言ツテ彼ノ申出ヲ承認セザルヲ得ナカツタノデアリマス。
ソシテ 西田ハ遂ニ靑年將校ノ大勢ニ動カサレテ、
彼等ト合流シテ行カザルヲ得ナイコトニナツタカト考ヘ、
斯様ニナツタ上ハ、私モ只西田ノ行動ニ從ツテ、
唯々諾々トシテ西田ニ從ツテ行ツテヤルヨリ外ナシト覺悟ヲキメタノデアリマス。
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・・・次項 二・二六事件蹶起 二月二十六日 『 勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ 』 へ 続く


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