天壌無窮
遺書
迷夢昏々、万民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶体絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、国内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戦士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず
一路遂に奔騰するのみ
昭和十一年二月十九日
於週番指令室
陸軍歩兵大尉 野中四郎 ・・・あを雲の涯 (一) 野中四郎
安藤は、
「此の間も四、五人の連中に、是非君も起ってくれとつめよられた。
しかし、自分はやれないと断った。
この事は週番中の野中大尉に話したら
『 何故断ったか 』 と叱り、
自分たちが起って国家の為に犠牲にならなければ、かえって我々に天誅が下るだろう。
自分は今週番中である。今週中にでもやろうではないか、
と言われ、自分は恥かしく思いました」
と いう。
西田は
あの生真面目でおとなしい野中すら起つ決心をしているのか、
事態は容易ならぬところまで来ていると感じた。
野中四郎
ビルディング式の歩兵第三聯隊の兵営に、一寸目につかぬ低地がある
営門を這入ると、
西はずっと開けて青山墓地が見渡され、右手はあの巍然たる建物である
だから営門を這入るや直ぐその左手に、
こんな低地があろうとは余程勝手を知ったものでなければ、わかる筈がない
桜の老樹の植わった台端から斜に径を下りると、
その低地に陰気くさい、 三十坪程の平家があり、
入口には将校寄宿舎と書かれた木札がかかっている
若い青年将校の独身官舎で、兵営内でもおのずから別天地をなしている
昼間はひっそりとして誰もいないが、夕食が済む頃になると、俄然賑やかとなる
廊下を通る足音で、直ぐかれは誰だと判断がつくほど、みんな親しい仲である
隊務にかまけて草むしりなど一向に気づかぬ連中とて、
この宿舎の近辺はと角雑草が伸びがちだが、
中にたった一人、
日曜等の暇をみては、
誰にも云わず黙々と、この伸びた雑草を片づけている人があった
年長者の野中という中尉で、かれは滅多に外出することもなかった。
そして居住室の誰からも、「野中さん」 「野中さん」 と 尊敬されていた
・・・歩兵第三聯隊の将校寄宿舎
野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。 蹶起趣意書
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
« 二十五日 »
その夜九時頃
鈴木少尉 (週番士官に服務) の指示で、
下士官全員は少尉と共に第七中隊長の部屋に集合した。
部屋の中には七中隊の下士官も集まっていて私たちが入るとすぐ扉をピタリと閉めた。
すでに話が進んでいたらしく机の上には洋菓子と共にガリ版の印刷物があった。
野中大尉は私たちを見ると一寸顔をくずし、
「十中隊もきてくれたか」
と いってすぐ切り出した。
話の内容は
相澤事件の真意、昭和維新の構想、 蹶起の時期
と いったやはり私が予想していたことの 具体的解説とその決意であった。
「 今述べたことをこれから実行する。そこで貴君等の賛否を伺いたい 」
大尉の顔がひきしまり、目が光った。
私たちは蹶起が正しいことなのか邪であるのか考えたが判断がつかず、
しばし声なく数分間の沈黙が流れた。
やがて私は、
「 賛成します」 と答えた。
・・・下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」
« 二十六日 »
〇五・〇〇
野中大尉が突如正面玄関にツカツカと入って行ったので私の分隊も続いて入り、
本館を通りこし裏手にある新撰組の建物に突入し、瞬く間に二階に至るまで占領した。
屋内はすでに逃げたあとで人気はなかった。
その間 野中大尉は玄関前で予備隊の隊長と称する警官を相手に交渉を進めていた。
占領をおわった私たちが側で見守る前でかなり緊張したやりとりがあった。
「 我々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。
貴方達にも協力して頂きたい 」
「 そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない 」
「 警視庁はジッとしていればよい。
私のいうことを聞かず出動すれば立ちどころに射撃するがそれでよいか 」
交渉はゴタゴタして相手は野中大尉の意見に従う様子が見えない。
すると側に居た常盤少尉がサッと抜刀して、
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
と 迫ったので、 この見幕に警視庁側の隊長はドギモを抜かれ遂に
「 解りました 」 と 降伏の意志を告げた。
こうして警視庁は瞬く間に我が手に帰し 庁員を一ヵ所に軟禁し歩哨を立てた。
・・・「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
« 二十七日 »
午前四時頃 陸相官邸の大広間で ふたたび蹶起将校と軍事参議官との会談が行われた。
この場合 反乱将校側は ほぼ全員、立会人として山下少将、鈴木、小藤両大佐、山口大尉が同席した。
まず、野中大尉が立って、
「 事態の収拾を真崎大将にお願い申します。
その他の参議官は真崎大将を中心としてこれに協力せられることをお願い致します 」
と 申し入れた。
すると 真崎大将は、
「 君らがそういってくれることは誠に嬉しいが、
今は君らが聯隊長のいうことを聞かねば何の処理もできない 」
と 暗に撤退をほのめかした。
阿部大将はこれをとりなすように、
「 われわれ参議官一同心をあわせて力をつくすことを申しあわせている。
真崎大将がもしその衝に当ることになれば、われわれも勿論これを支持するし、
また、他に適当な方法があったならばこれに協力するにやぶさかではない 」
と いい、 西大将も
「 阿部閣下のいわれる通りだ 」 と そばから言い添えた。
野中は更に、
「 この事柄をどうか他の参議官一同へもはかってご賛同を願います 」
と 懇請すると、 阿部大将は、
「 諸君の意のあるところは充分に参議官に伝えよう 」 と あっさり承諾した。
すると野中は、
「 それでは軍事参議官一同ご賛同の上は、
われわれの考えと参議官一同の考えが完全に一致した旨を、 是非、ご上奏をお願いします 」
と 切り込んだ。
阿部大将は、
「 そういう事柄は手続き上にも考慮せねばならないので即答はしかねる、 よく研究してみよう 」
と 逃げてしまった。
今まで だまって聞いていた真崎大将はこのとき、
「 われわれ軍事参議官は、 御上のご諮詢があって初めて動くもので、その外は何の職権もない。
ただ、軍の長老として事態の収拾に骨を砕いているのだ。
だから君らがわしに時局収拾を委すというなら無条件でまかせてもらいたい。
しかし 時局の収拾は君らが速やかに、統率の下に復帰することだ。
それ以外に手段方法はない。 戒厳令はとりもなおさず奉勅命令だ。
もし、これにそむけば錦旗に反抗することになる。
万一、そのような場合が生じたら、 自分は老いたりといえども 陣頭に立ってお前達を討つぞ、
大局を達観して軍長老の言を聞いて考えなおせ。
赤穂四十七士が全部同じ金鉄の考えなりしや否や不明だ。
今日出動した部隊も同様で、蹶起後日数もたち疲労している。
思わざる色々のことがおこるかも知れない。早く引きとるようにせよ 」
会談は 彼らの考えとは逆な方向に向けられてしまった。
真崎、今日の説得は迫力があった。
阿部大将口を開いて、
「それでは 君らの申し入れの意思はよくわかったから
他の参議官ともはかって後刻返事することにしよう 」
と 会談を打ちきった。
三大将は説得ほぼ成功とふんで喜んで偕行社にかえった。
・・・「 国家人無し、勇将真崎あり 」
« 二十八日 »
野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。
それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
渋川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。 全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
渋川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
・・・渋川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」
文相官邸にいる野中四郎大尉を訪れた。
時刻は午後五時三十分頃であった。
文相官邸の一室で 舞 師団参謀長、渋谷歩三聯隊長、森田大尉の三人は野中四郎大尉と面談した。
秩父宮殿下ノ歩兵第三聯隊ニ賜リシ御言葉
一、今度ノ事件ノ首謀者ハ自決セネバナラヌ。
二、遷延スレバスル程、皇軍、国家ノ威信ヲ失墜シ、遺憾ナリ。
三、部下ナキ指揮官 ( 村中、磯部 ) アルハ遺憾千万ナリ。
四、縦令軍旗ガ動カズトスルモ、聯隊ノ責任故、今後如何ナルコトアルモミツトモナイコトヲスルナ。
聯隊ノ建直シニ将校団一同尽瘁セヨ。
森田大尉は、 まず秩父宮との会談内容を伝えると、野中はうなだれたまま黙然と聞いていた。
森田は軍人らしく自決することをすすめた。
普段温厚な森田だけに、野中にとってしみじみと胸に迫るものがあったろう。
「 貴様の骨は、必ず俺が拾ってやる 」
と、森田がいうと、 傍の舞参謀長が
「 殿下の令旨だぞ ! 」 と、強調した。
森田は最後に、
「 だがな野中、すでに奉勅命令は下達されているのだ。今度の事件で、貴様が最先任であることを忘れるなよ 」
と、野中の手を握って別れた。
ついに野中はさいごまで何もいわなかった。
森田大尉は後ろ髪を引かれるような思いで、舞参謀長、渋谷聯隊長、と表に出た。
寒気ひとしお厳しかった。
と、後から野中大尉が迫って来て、
森田に、通信紙をもう一度見せてくれといって、再び丁寧に読み返して確認した。
「 ありがとう。森田、世話になったな 」
と、これが森田大尉がこの世で聞いた野中四郎大尉の最後の言葉であった。
・・・「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」
↑ 29 日
« 二十九日 »
村中は今朝未明 野中部隊と一緒に新議事堂に移っていた。
まだ夜は明けきっていないのに、 遠くに拡声機をもって何事か放送しているのがわかる。
じっと耳をすまして聞くがよく聞き取れない。
しかし確か奉勅命令という言葉が二度ほど聞き取れた。
奉勅命令というところを見ると、一昨日の奉勅命令が下ったのではあるまいか、
すると軍はいよいよ奉勅命令をもって、われわれを討伐するのだろう。
彼の心のうちは悲憤に煮えくりかえって 思わず涙が頬を伝わってきた。
八時頃になると飛行機から 宣伝のビラがまかれ、議事堂附近にもヒラヒラと舞いおりる。
兵の拾ったものを見ると、
下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スルモノハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日 戒厳司令部
それは明かに下士官兵に帰営をすすめているものだった。
村中は、野中と話合って 兵を返すことにした。
野中大尉は部隊の集合を命じた。
傍らにいた 一下士官は、
「 中隊長殿、兵隊を集合してどうするのですか、 我々を帰すのではないでしょうね 」
と 泣きながら訴えた。
「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」
村中は、よこから、こう諭した。
下士官は、
「 残念です。私は死んでもかえりません 」
と、その場に号泣した。
一三・〇〇 少し前、
果然 全員集合がかかった。
急いで前庭に整列すると、
野中大尉が苦悩の色を浮かべながら別れの訓示を述べた。
「 残念ながら昭和維新は挫折した。
俺は中隊長として全責任をとるからお前たちは心配せずに聯隊へ帰れ。
出動以来の労苦には心から感謝している。
満州に行ったら国の為に充分奉公するように。
ではこれで皆とお別れする。
堀曹長に中隊の指揮を命ずる 」
野中中隊長はいいおわると静かに台をおりた。
代って 常盤少尉も同じように別れの辞をのべると
兵隊の中から感きわまってススリ泣く声がおこった。
訓示が終わった直後 兵隊たちは少尉の周囲に集り 「教官殿、別れないで下さい。
自分達はどこでも一緒に行きます」
と 口々に叫び帰隊を拒んだ。
これに対し少尉は情況と立場を説明して諄々と納得を求めたが、
兵隊たちは一向に聞き入れようとしないので、
少尉は遂に嗚咽し握りしめた拳を目にあて天を仰いだ。
我々も泣いた。
ここで野中大尉や常盤少尉と離別するのは忍びがたく、
すべてが終わった今、 落城の心境は只々涙にとざされるばかりであった。
やがて兵隊たちは思いなおし、 列を整え私の号令でお別れの部隊の敬礼を行った。
「中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ」
私はその時万感胸に迫り、刀を握る手が小刻みに震えていた。
野中大尉は感慨深そうに一同を見渡しながら長い時間をかけて答礼した。
大尉の手が静かにおろされ 答礼が終わっても私はなかなか「直れ」の号令が出なかった。
「もうこれで野中中隊長等とは永別するかも知れぬ」
そういった悲しみが切々と胸を打ち、
日頃機械的に行っていた敬礼の動作とは異なり、
心から慕う者だけがなり得る精神的衝動にかられたからである。
別れの儀式がおわると
野中大尉、常盤少尉、桑原特務曹長の三名は 陸軍大臣官邸に向かって出て行った。
一三・三〇、 服装を整え、 清掃をすませた我々は帰隊の途についた。
・・・野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」
昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉