あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・野中四郎大尉

2021年03月22日 11時20分05秒 | 昭和維新に殉じた人達

天壌無窮
遺書
迷夢昏々、万民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶体絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、国内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戦士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず
一路遂に奔騰するのみ
昭和十一年二月十九日
於週番指令室
陸軍歩兵大尉 野中四郎   
・・・あを雲の涯 (一) 野中四郎

安藤は、
「此の間も四、五人の連中に、是非君も起ってくれとつめよられた。
 しかし、自分はやれないと断った。
この事は週番中の野中大尉に話したら
『 何故断ったか 』 と叱り、
自分たちが起って国家の為に犠牲にならなければ、かえって我々に天誅が下るだろう。
自分は今週番中である。今週中にでもやろうではないか、
と言われ、自分は恥かしく思いました」

と いう。
西田は
あの生真面目でおとなしい野中すら起つ決心をしているのか、
事態は容易ならぬところまで来ていると感じた。

 野中四郎 

ビルディング式の歩兵第三聯隊の兵営に、一寸目につかぬ低地がある
営門を這入ると、
西はずっと開けて青山墓地が見渡され、右手はあの巍然たる建物である
だから営門を這入るや直ぐその左手に、
こんな低地があろうとは余程勝手を知ったものでなければ、わかる筈がない
桜の老樹の植わった台端から斜に径を下りると、
その低地に陰気くさい、 三十坪程の平家があり、
入口には将校寄宿舎と書かれた木札がかかっている
若い青年将校の独身官舎で、兵営内でもおのずから別天地をなしている
昼間はひっそりとして誰もいないが、夕食が済む頃になると、俄然賑やかとなる
廊下を通る足音で、直ぐかれは誰だと判断がつくほど、みんな親しい仲である
隊務にかまけて草むしりなど一向に気づかぬ連中とて、
この宿舎の近辺はと角雑草が伸びがちだが、
中にたった一人、
日曜等の暇をみては、
誰にも云わず黙々と、この伸びた雑草を片づけている人があった
年長者の野中という中尉で、かれは滅多に外出することもなかった。
そして居住室の誰からも、「野中さん」 「野中さん」 と 尊敬されていた

・・・
歩兵第三聯隊の将校寄宿舎 

野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
蹶起趣意書
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。


« 二十五日 »
その夜九時頃
鈴木少尉 (週番士官に服務) の指示で、
下士官全員は少尉と共に第七中隊長の部屋に集合した。
部屋の中には七中隊の下士官も集まっていて私たちが入るとすぐ扉をピタリと閉めた。
すでに話が進んでいたらしく机の上には洋菓子と共にガリ版の印刷物があった。
野中大尉は私たちを見ると一寸顔をくずし、
「十中隊もきてくれたか」
と いってすぐ切り出した。

話の内容は
相澤事件の真意、昭和維新の構想、
蹶起の時期
と いったやはり私が予想していたことの
具体的解説とその決意であった。
「 今述べたことをこれから実行する。そこで貴君等の賛否を伺いたい 」
大尉の顔がひきしまり、目が光った。
私たちは蹶起が正しいことなのか邪であるのか考えたが判断がつかず、
しばし声なく数分間の沈黙が流れた。

やがて私は、
「 賛成します」 と答えた。

・・・
下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」 

« 二十六日 »
〇五・〇〇
野中大尉が突如正面玄関にツカツカと入って行ったので私の分隊も続いて入り、
本館を通りこし裏手にある新撰組の建物に突入し、瞬く間に二階に至るまで占領した。
屋内はすでに逃げたあとで人気はなかった。
その間 野中大尉は玄関前で予備隊の隊長と称する警官を相手に交渉を進めていた。
占領をおわった私たちが側で見守る前でかなり緊張したやりとりがあった。
「 我々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。
貴方達にも協力して頂きたい 」

「 そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない 」
「 警視庁はジッとしていればよい。
私のいうことを聞かず出動すれば立ちどころに射撃するがそれでよいか 」
交渉はゴタゴタして相手は野中大尉の意見に従う様子が見えない。
すると側に居た常盤少尉がサッと抜刀して、
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
と 迫ったので、 この見幕に警視庁側の隊長はドギモを抜かれ遂に
「 解りました 」 と 降伏の意志を告げた。
こうして警視庁は瞬く間に我が手に帰し 庁員を一ヵ所に軟禁し歩哨を立てた。
・・・「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」

« 二十七日 »
午前四時頃 陸相官邸の大広間で ふたたび蹶起将校と軍事参議官との会談が行われた。
この場合 反乱将校側は ほぼ全員、立会人として山下少将、鈴木、小藤両大佐、山口大尉が同席した。
まず、野中大尉が立って、
「 事態の収拾を真崎大将にお願い申します。
その他の参議官は真崎大将を中心としてこれに協力せられることをお願い致します 」

と 申し入れた。
すると 真崎大将は、
「 君らがそういってくれることは誠に嬉しいが、
今は君らが聯隊長のいうことを聞かねば何の処理もできない 」
と 暗に撤退をほのめかした。
阿部大将はこれをとりなすように、
「 われわれ参議官一同心をあわせて力をつくすことを申しあわせている。
真崎大将がもしその衝に当ることになれば、われわれも勿論これを支持するし、
また、他に適当な方法があったならばこれに協力するにやぶさかではない 」
と いい、 西大将も
「 阿部閣下のいわれる通りだ 」 と そばから言い添えた。
野中は更に、
「 この事柄をどうか他の参議官一同へもはかってご賛同を願います 」
と 懇請すると、 阿部大将は、
「 諸君の意のあるところは充分に参議官に伝えよう 」 と あっさり承諾した。
すると野中は、
「 それでは軍事参議官一同ご賛同の上は、
 われわれの考えと参議官一同の考えが完全に一致した旨を、 是非、ご上奏をお願いします 」
と 切り込んだ。
阿部大将は、
「 そういう事柄は手続き上にも考慮せねばならないので即答はしかねる、 よく研究してみよう 」
と 逃げてしまった。
今まで だまって聞いていた真崎大将はこのとき、
「 われわれ軍事参議官は、 御上のご諮詢があって初めて動くもので、その外は何の職権もない。
 ただ、軍の長老として事態の収拾に骨を砕いているのだ。
だから君らがわしに時局収拾を委すというなら無条件でまかせてもらいたい。
しかし 時局の収拾は君らが速やかに、統率の下に復帰することだ。
それ以外に手段方法はない。 戒厳令はとりもなおさず奉勅命令だ。
もし、これにそむけば錦旗に反抗することになる。
万一、そのような場合が生じたら、 自分は老いたりといえども 陣頭に立ってお前達を討つぞ、
大局を達観して軍長老の言を聞いて考えなおせ。
赤穂四十七士が全部同じ金鉄の考えなりしや否や不明だ。
今日出動した部隊も同様で、蹶起後日数もたち疲労している。
思わざる色々のことがおこるかも知れない。早く引きとるようにせよ 」
会談は 彼らの考えとは逆な方向に向けられてしまった。
真崎、今日の説得は迫力があった。
阿部大将口を開いて、
「それでは 君らの申し入れの意思はよくわかったから
 他の参議官ともはかって後刻返事することにしよう 」
と 会談を打ちきった。
三大将は説得ほぼ成功とふんで喜んで偕行社にかえった。
・・・「 国家人無し、勇将真崎あり 」


« 二十八日 »

野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。
それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。

「 何うしてです 」
渋川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。 全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
渋川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
・・・渋川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」


文相官邸にいる野中四郎大尉を訪れた。

時刻は午後五時三十分頃であった。
文相官邸の一室で 舞 師団参謀長、渋谷歩三聯隊長、森田大尉の三人は野中四郎大尉と面談した。
秩父宮殿下ノ歩兵第三聯隊ニ賜リシ御言葉
一、今度ノ事件ノ首謀者ハ自決セネバナラヌ。
二、遷延スレバスル程、皇軍、国家ノ威信ヲ失墜シ、遺憾ナリ。
三、部下ナキ指揮官 ( 村中、磯部 ) アルハ遺憾千万ナリ。
四、縦令軍旗ガ動カズトスルモ、聯隊ノ責任故、今後如何ナルコトアルモミツトモナイコトヲスルナ。
      聯隊ノ建直シニ将校団一同尽瘁セヨ。

森田大尉は、 まず秩父宮との会談内容を伝えると、野中はうなだれたまま黙然と聞いていた。
森田は軍人らしく自決することをすすめた。
普段温厚な森田だけに、野中にとってしみじみと胸に迫るものがあったろう。
「 貴様の骨は、必ず俺が拾ってやる 」
と、森田がいうと、 傍の舞参謀長が
「 殿下の令旨だぞ ! 」 と、強調した。
森田は最後に、
「 だがな野中、すでに奉勅命令は下達されているのだ。今度の事件で、貴様が最先任であることを忘れるなよ 」
と、野中の手を握って別れた。
ついに野中はさいごまで何もいわなかった。
森田大尉は後ろ髪を引かれるような思いで、舞参謀長、渋谷聯隊長、と表に出た。
寒気ひとしお厳しかった。
と、後から野中大尉が迫って来て、
森田に、通信紙をもう一度見せてくれといって、再び丁寧に読み返して確認した。
「 ありがとう。森田、世話になったな 」
と、これが森田大尉がこの世で聞いた野中四郎大尉の最後の言葉であった。
・・・「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 


                                                     ↑ 29 日
« 二十九日 »
村中は今朝未明 野中部隊と一緒に新議事堂に移っていた。

まだ夜は明けきっていないのに、 遠くに拡声機をもって何事か放送しているのがわかる。
じっと耳をすまして聞くがよく聞き取れない。
しかし確か奉勅命令という言葉が二度ほど聞き取れた。
奉勅命令というところを見ると、一昨日の奉勅命令が下ったのではあるまいか、
すると軍はいよいよ奉勅命令をもって、われわれを討伐するのだろう。
彼の心のうちは悲憤に煮えくりかえって 思わず涙が頬を伝わってきた。
八時頃になると飛行機から 宣伝のビラがまかれ、議事堂附近にもヒラヒラと舞いおりる。
兵の拾ったものを見ると、
下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スルモノハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日  戒厳司令部
それは明かに下士官兵に帰営をすすめているものだった。
村中は、野中と話合って 兵を返すことにした。
野中大尉は部隊の集合を命じた。
傍らにいた 一下士官は、
「 中隊長殿、兵隊を集合してどうするのですか、 我々を帰すのではないでしょうね 」

と 泣きながら訴えた。
「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」
村中は、よこから、こう諭した。

下士官は、
「 残念です。私は死んでもかえりません 」

と、その場に号泣した。

一三・〇〇 少し前、
果然 全員集合がかかった。
急いで前庭に整列すると、
野中大尉が苦悩の色を浮かべながら別れの訓示を述べた。
「 残念ながら昭和維新は挫折した。
俺は中隊長として全責任をとるからお前たちは心配せずに聯隊へ帰れ。
出動以来の労苦には心から感謝している。
満州に行ったら国の為に充分奉公するように。
ではこれで皆とお別れする。
堀曹長に中隊の指揮を命ずる 」
野中中隊長はいいおわると静かに台をおりた。
代って 常盤少尉も同じように別れの辞をのべると
兵隊の中から感きわまってススリ泣く声がおこった。
訓示が終わった直後 兵隊たちは少尉の周囲に集り 「教官殿、別れないで下さい。
自分達はどこでも一緒に行きます」
と 口々に叫び帰隊を拒んだ。
これに対し少尉は情況と立場を説明して諄々と納得を求めたが、
兵隊たちは一向に聞き入れようとしないので、
少尉は遂に嗚咽し握りしめた拳を目にあて天を仰いだ。
我々も泣いた。
ここで野中大尉や常盤少尉と離別するのは忍びがたく、
すべてが終わった今、 落城の心境は只々涙にとざされるばかりであった。
やがて兵隊たちは思いなおし、 列を整え私の号令でお別れの部隊の敬礼を行った。
「中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ」
私はその時万感胸に迫り、刀を握る手が小刻みに震えていた。
野中大尉は感慨深そうに一同を見渡しながら長い時間をかけて答礼した。
大尉の手が静かにおろされ 答礼が終わっても私はなかなか「直れ」の号令が出なかった。
「もうこれで野中中隊長等とは永別するかも知れぬ」
そういった悲しみが切々と胸を打ち、
日頃機械的に行っていた敬礼の動作とは異なり、
心から慕う者だけがなり得る精神的衝動にかられたからである。
別れの儀式がおわると
野中大尉、常盤少尉、桑原特務曹長の三名は 陸軍大臣官邸に向かって出て行った。
一三・三〇、 服装を整え、 清掃をすませた我々は帰隊の途についた。

・・・野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」 

昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉 


昭和維新・香田淸貞大尉

2021年03月21日 14時07分15秒 | 昭和維新に殉じた人達

七月十二日、處刑の朝
香田淸貞大尉が聲を掛けた。
六時半をまわったころだった。
香田は彼らのなかで年長者の一人である。
皆、聞いてくれ。
殺されたら、 その血だらけのまま 陛下の元へ集まり、
それから行く先を決めようじゃないか

それを聞いた全員が、 そうしよう、と 聲を合わせた。
そこで 香田の發生で皆が、
「天皇陛下萬歳、大日本帝國萬歳」
と 全監房を揺らすらんばかにり叫び、
刑場へ出發していった。


香田淸貞 
・ 香田淸貞大尉の四日間 1
・ 香田淸貞大尉の四日間 2 


« 昭和六年 »

「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」
と、香田が私に慨嘆したことがあった。

・・・後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」

大臣閣下! 大臣閣下! 國家の一大事でありますぞ!
早く起きて下さい。
早く起きなければそれだけ人を餘計に殺さねばなりませんゾ !!

・・・香田清貞大尉 「 国家の一大事でありますゾ ! 」 

二月二十六日 午前五時やや前、
武装した将校三名が下士官若干名を率い、陸軍大臣官邸に来り、
まず 門衛所におった憲兵、巡査を押え、
官邸玄関にて同所におった憲兵にむかい、
「 国家の重大事だから至急大臣に面会させよ 」 と 強要した。
憲兵は官邸の日本間の方に進むことを静止したけれども、
彼等は日本間に通ずる扉を排して大臣の寝室の横を過ぎ、女中部屋の方へ行く。
この時 「 あかりをつけよ 」 との声が聞えた。
事態の容易ならざるを感知して、大臣夫人が襖の間から廊下を見たところ、
将校、下士官、兵が奥にむかって行くのが見えたので、 夫人は なにごとならんと そちらへ行く。
憲兵は大臣夫人の姿を見て 「 危険ですから お出にならん方がよろしい 」 と 小声にて述べたるも、
夫人は 「 なんてすか 」 とこいいながら 彼等を誘導し 洋館の方に至る。
夫人は 「 夜も明けない前に何事ですか 」 と 問いたるに
「 国家の重大事ですから至急大臣にお目にかかりたい 」 と いう。
夫人は 「 主人は病気で寝ているから夜明まで待たれたい 」 と 述べ、
「 待てない 」  応酬す。
夫人は 「 名刺をいただきたい 」 旨 述べたるに、香田大尉の名刺を渡す。
夫人はこれを大臣にとりつぐ。
この間 憲兵が大臣寝室に来て、
「 危険の状態だから大臣は出られない方がよろしい。
そのうち麹町分隊より大勢の憲兵の応援を受くるから寝ておってくれ 」
と 言うので、大臣はしばらく臥床して状況を見ようとする。
夫人は 「 寒いから応接間に案内いたします。暖まるまでお待ち下さい 」 と 述べるに対し
「 待てない、ドテラを何枚でも着て来てもらいたい 」 と 言う。
夫人は憲兵に応接間の暖炉に火をつけさせる。
この頃、総理大臣官邸の方向に 「 万歳 」 の声が聞え、ホラ貝の音がする。
これを聞いた彼等は 夫人にむかい 「 相図が鳴ったから早く大臣に来てもらってくれ 」 と いう。
憲兵は憲兵隊に電話しようとするも、「 ベル 」 が鳴るとすぐ押えてしまい、 十分目的を達し得ない。
書生を赤坂見附交番に走らせようとしたけれども、門の処で静止せられて空しく帰って来る。
隣接官舎 (事務官、属官、運転手、馬丁小使等居住) 方に通ずる非常ベルが鳴らぬので、 女中を起こしに走らせる。
これは目的の官舎に行くことが出来たけれども、官舎からは一向に誰も来ない。
麹町憲兵分隊からもまだ来ない。

その内に彼等はまたやって来て 「 早く来てくれ 」・・陸相に対し と  急がす。
夫人は日本間と洋間との境のところにて 「 それでは襖越しに話して下さい 」 と 述べる。
彼等は靴のままで日本間の方へ行くのを躊躇するので、
「 さっきはそのままで奥の方へ行ったではありませんか。それでは敷物を敷きましょう 」
と いうと、彼等は 「 応接間の方へ来て下さい 」 と いって応接間の方へ引返して行った。
これまでの間において書生および女中の見聞せるところによりて、
門の周囲および庭内には多数の兵がおり、また門前には機関銃を据えおることもあきらかとなる。
しこうして兵などに聞けば演習なりと言いおれりと。
大臣はホラ貝も鳴り、呼びにやった人も来ず、
なにか大きな演習でもやったのかと思うけれども只事でもないようにも思われ、
状況の判断はつかぬけれども ともかく会うことに決心し、 袴をつけて机の前に座し一服しようと思う。
その時 彼等も切迫つまって大臣夫人にむかい 「 閣下には危害を加えませんから早く来て下さい 」 と 言う。
大臣は一服吸いつつある時、 小松秘書官 ( 光彦・歩兵少佐。29期・四十歳 ) が来た。
多分門衛の憲兵が塀を乗り越えて知らせに行ったのであろうと思う。
秘書官は玄関で将校と話して来たらしく、 「 閣下、軍服の方がよございます 」 と いうので軍服に着がえる。
憲兵は三名ぐらいに増加していたらしい。
それから便所に行き、憲兵は面会を止めたけれども彼等に面会するために談話室に入った。
室のなかでは将校三名がなにか書いており、ほかに武装の下士官が四名いた。
憲兵三名が大臣を護衛していたが、憲兵を室のなかに入れないので
やむなく室外でいつにても内に飛びこめる用意をしていた。
当時廊下入口および玄関には下士官がおって警戒しておった。 
大臣が室に入ると将校三名 ( 内二名は背嚢を負い拳銃を携帯す ) は 敬礼し、
歩兵第一旅団副官香田大尉であります。
歩兵第一聯隊付栗原中尉であります。
と 挨拶す。
他の一名はなんとも言わなかったので 「 君は誰か 」 と 問えば 「 村中です 」 と 答えた。
大臣は 「 今時分なんの用事で来たのか 」 と たずねたところ、 今朝襲撃した場所を述べる。
「 ほんとうにやったのか 」 と たずねたところ 「 ほんとうであります。
只今やったという報告を受けました 」 と 答う。
「 なぜ そんな重大事を決行したのか 」 と たずねたのに対し、
「 従来たびたび上司に対し小官らの意見を具申しましたが、おそらく大臣閣下の耳には達していないだろうと思います。
ゆえに ことついにここに至ったのであります。すみやかに事態を収拾せられたいのであります。
自分たちの率いている下士官以下は全部同志で、その数は約千四百名であります。
なお満洲朝鮮をはじめ その他いたるところにわれわれの同志がたくさんおりますから、
これらは吾人の蹶起を知って立ち、全地方争乱の巷となり、
ことに満洲および朝鮮においては総督および軍司令官に殺到し、大混乱となりましょう。
しこうして満洲および朝鮮は露国に接譲しておりますから、
露軍がこの機に来襲するの虞おそれがあり、国家のため重大事でありますから、すみやかに事態を収拾せられたし 」
と 言い、「 蹶起趣意書 」 なるものを朗読する。
・・・ 陸相官邸 二月二十六日 

陸相官邸の大広間、 
正門の幅二間もあろうかと思われる墨絵の富士山の額を背にして、川島陸相が軍服姿で小松秘書官とならび、
その前に大きな会議机を隔てて香田、村中、磯部が立っている。
大臣の前に蹶起趣意書がひろげられていた。
香田は静かに蹶起趣意書を読み上げた。
その力強い一語一語は、この冷たい部屋の空気に響いて人々の心をひきしめた。
     
 川島陸軍大臣    香田淸貞大尉           村中孝次             磯部浅一 

蹶起趣意書
謹ンデ推ルニ我神洲タル所以ハ、
万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、擧國一體生成化ヲを遂ゲ、
終ニ 八紘一宇ヲ完フスルノ國體ニ存ス
此ノ國體ノ尊嚴秀絶ハ
天祖肇國神武建國ヨリ明治維新ヲ經テ益々體制を整へ、
今ヤ 方ニ万万ニ向ツテ開顯進展ヲ遂グベキノ秋ナリ
然ルニ 頃來遂ニ不逞兇悪の徒簇出シテ、
私心我慾ヲ恣ニシ、至尊絶對ノ尊嚴を藐視シ僭上之レ働キ、
万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦ニ呻吟セシメ、
從ツテ 外侮外患日ヲ遂フテ激化ス
所謂 元老重臣軍閥財閥官僚政黨等ハ 此ノ國體破壊ノ元兇ナリ、
倫敦海軍條約
並ニ 教育總監更迭 ニ於ケル 統帥權干犯、
至尊兵馬大權ノ僣窃ヲ圖リタル 三月事件 或ハ 学匪共匪大逆教團等
利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
ソノ滔天ノ罪惡ハ流血憤怒眞ニ譬ヘ難キ所ナリ
中岡、佐郷屋、
血盟団 ノ先駆捨者、
五 ・一五事件 ノ噴騰、相澤中佐ノ閃發トナル 寔ニ故ナキニ非ズ
而モ 幾度カ頸血ヲ濺ギ來ツテ 今尚些カモ懺悔反省ナク、
然モ 依然トシテ 私權自慾ニ居ツテ苟且偸安ヲ事トセリ
露支英米トノ間一触即發シテ
祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ 一擲破滅ニ堕ラシムルハ 火ヲ睹ルヨリモ明カナリ
内外眞ニ重大危急、
今ニシテ國體破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ 芟序除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
恰モ 第一師團出動ノ大命渙發セラレ、
年來御維新翼賛ヲ誓ヒ殉國捨身ノ奉公ヲ期シ來リシ
帝都衛戍ノ我等同志ハ、
将ニ万里征途ニ上ラントシテ 而モ願ミテ内ノ世狀ニ憂心轉々禁ズル能ハズ
君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中樞ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク爲スベシ
臣子タリ 股肱タルノ絶對道ヲ 今ニシテ盡サザレバ破滅沈淪ヲ翻ヘスニ由ナシ
茲ニ 同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、
奸賊ヲ誅滅シテ 大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顯ニ肝脳ヲ竭シ、
以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス
皇祖皇宗ノ神霊 冀クバ照覧冥助ヲ垂レ給ハンコトヲ
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉野中四郎
外 同志一同


香田はこれを読み終わると、
蹶起将校名簿を差し出した。
そして机上に一枚の地図をひろげて、今朝来の襲撃目標と部署とその成果について地図をさし示しながら説明した。
大臣は一言も発しない。
・・・ 「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 

« 二十九日 »

午前一時 香田大尉殿より達し有り、
「 皆の者此処に聯隊長殿が来て居られ、皆を原隊に帰させると言ふが 帰りたい者は遠慮なく言出よ 」 と、
其の時の兵の気持 悲壮と言ふか
「 声をそろえて帰りたくない、中隊長達と死にます 」
と いった。
香田大尉も感激し 「 良く言ってくれた 」 と、
それから 各処々に陣をはり いつでも来いと応戦の用意、
営門出かけてより此の方、此の位緊張した気持ちはなかった。
亦 今日が自分達最後の日かと覚悟した。
・・・ 「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 

午前十時頃と思はれる頃、
三階から外を見ると、
電車通りも行動隊の兵士が ( 白襷を掛けて ) 整列して居って、
階下に下りて来て先程の部屋を見ると
安藤、香田の両大尉及下士官、七、八名も居り
緊張して居り安藤か香田に何か大声で話をして居りました。
安藤大尉は
「 自決するなら、今少し早くなすべきであった。
 全部包囲されてから、オメ オメと自決する事は昔の武士として恥ずべき事だ。」
「 自分は是だから最初蹶起に反対したのだ。
 然し君達が飽迄、昭和維新の聖戦とすると云ふたから、立ったのである。」
「 今になって自分丈ケ自決すれば、それで国民が救はれると思ふか。吾々が死したら兵士は如何にするか。」
「 叛徒の名を蒙って自決すると云ふ事は絶対反対だ。自分は最後迄殺されても自決しない。」
「 今一度思ひ直して呉れ 」
と テーブルを叩いて、香田大尉を難詰して居りました。
居合せた、下士卒は只黙って両大尉を見詰めて居るばかりでした。
香田大尉は安藤の話をうなだれて聞いて居たが暫らくすると、頭を上げ、
「 俺が悪かった、叛徒の名を受けた儘自決したり、兵士を帰す事は誤りであった。
 最後迄一緒にやらう、良く自分の不明を覚まさせて呉れた 」
と 云って手を握り合ひました。
安藤大尉は、
「 僭越な事を云って済まなかった。許して呉れ 」 と 詫び
「 叛徒の名を蒙った儘、兵を帰しては助からないから、遂に大声で云ったのだ。
 然し判って呉れてよかった。最後迄、一緒にやって呉 」
と 云ってから
「 至急兵士を呼帰してくれ 」
と 云ったので、香田大尉は其処に居た下士に命じ、呼戻させ、又戦備をつかしめたり。

・・・ 安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」


御宸襟を悩し奉り恐懼に堪えず。
論告に民主革命を実行せんとしたとあるも、これは自分の考えとはぜんぜん異なるところにして、
決行したのは国体の障碍を目した者を除き、国体の真姿を顕現し
特に公判において述べしごとく、昭和元年の御勅諭の精神が実行せられないので、
御勅諭の精神を実行する人が出ることを念願し、そのような人が出る世の中に致したしと希望したるため。
自分が建設計画を有するごとく誤解されたるも、それは建設計画にあらず希望に過ぎず。
つぎに暴力を用いねば現状打開ができぬように妄信したとの点については、
決して妄信にあらず、他に手段なしと考えて直接行動を是認したるなり。
自分の根本の考えは、直接行動はできるだけ避けて、昭和元年の御勅諭に現われた大御心を実現せんとしたるも、
ついにこれを是認したのは、他の同志中にも策を有するものもなく、また信ずべき上官にあたりたるも策なきように考えたるがためなり。
つぎに現状の認識において、立派な御世であるのに自分等が立派な御世でないように考えたとの点については、
昭和の聖代が立派なことは認めます。この立派な御世に生れたことを光栄に思います。
しかし なお不足があると考えたのは、
現在の日本の使命は より以上のことをしなければならぬ時機に到達していると考えたのと、
御勅諭にもそのことが言われているので 左様だと考えました。
さらに兵力を使用し 軍紀を破壊したとの点については、
実行前にそのことは考えたが、前に言いたるように大なる独断と考えたのであって、
独断の正非にかかわらず、このことに関しては陛下の御裁おさばきを受けねばならぬとは考えてはおりましたが、
大臣告示が出て、また 戒厳部隊に編入されて、その独断の出発点において認められたと思って安心しました。
しかし それをもって全部の責任が終ったとは考えませぬでした。
つぎに論告に粛軍に邁進し政府が国政一新に向って進んでいるとあった点については、
私は蹶起の使命が遂行されたと喜んで居ります。
刺激を与え、それによって国民全部が大御心を体し、一致して良くなっていると聞き喜んでおります。
この公判において 先程の論告を聞き、
かねて国家の盛衰に関する重大事件なれば思いきった御裁をしていただきたいと思っておりましたが、
その御方針で邁進しておられることを感じ喜んでおります。
世評はいろいろありましょうが、自分の気持は捨石となることにあるのですから、
それによって国家の躍進ができれば満足の至りです。
ただ形の上より言えば一時は後退に見えるかもわからぬが、
前進し居ることを先程言われ、証拠づけられているように思い喜んでおります。

・・・ 最期の陳述 ・ 香田清貞 「 自分の気持は捨石となることにある 」


昭和維新・安藤輝三大尉

2021年03月20日 11時11分44秒 | 昭和維新に殉じた人達

森田さん、まことにすまないが、
私は昔 千早城にたてこもった楠正成になります。
その頃、正成は逆賊あつかいされたが、
正成の評価は、 正成が死んでから何百年かたった後に正しく評価され、
無二の忠臣といわれました。
私も今は逆賊、叛乱軍といわれ、やがて殺されることでしょうが、
私が死んでから何十年、いや何百年かたった後に、
国民が、後世の歴史家が必ず正しく評価してくれるものと信じています。
秩父宮殿下にも、聯隊長殿にも 森田さんにもまことにすまないが、
今度ばかりは、どうか安藤の思うように、信ずるようにさせてください。
これが安藤の最後のお願いです

・・・「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 


安藤輝三
二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ
と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
・・・磯部浅一 行動起  第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

其内に 「 タンク 」 の音がしたので安藤大尉始め皆電車通りに出て行きました。
私は 「 ホテル 」 の中で見て居ると 安藤大尉始め下士卒約三十名は一斉に電車線路に横臥してしまひました。
私も出て見ると、赤坂見附方面から 「 タンク 」 が続いて進んで来ました。
私は 「 タンク 」 の前面約二十間計の処で見たのですが、
前面に
「 今からでも遅くない。下士、兵卒は早く原隊へ帰れ云々 」
と 書いた帰順勧告の貼紙が付いてありました。
安藤大尉は兵士に向ひ、
「 タンクに手向ひするな、皆此処でタンクに轢殺されろ 」
と 横臥の儘命令して居りましたが
タンクは其為か赤坂方面へ順次に引き返して行きましたが、
其時タンクから、謄写版刷の帰順勧告のビラを沢山撒布しました。
安藤大尉はそれを拾って見て非常に憤慨して居りました。

タンクが帰って暫らくすると
山王ホテルの前の路地から、十数名の兵士を率ゐた将官 佐官の様な人が来ました。
電車通り迄来た時に、安藤大尉はそれを見ると既に抜力して居た軍刀を閣下の前に出し、
「 閣下、私を殺して下さい 」 と 云って道路に坐してしまひました。

閣下らしい人は、
「 さう昂奮しないで立って刀を納め自分の云ふ事を聞いて呉れ 」 と 数回云ひました。
が 安藤は、立ち上がったが刀を納めず、
「 今タンクから斯う云ふビラを撒いたが、此中に、下士、兵卒とあるが、将校と兵卒の間に如何なる相違があるか 」
「 将兵一体の教育をして居るのが、日本軍隊の筈である。」
「 其様なビラを以てして我皇軍が動揺すると思って居られるか。 あなたは左様な精神で皇軍を教育して来られたのか。」
「 今や満州の地に於いて隣邦と戦端を開かれ様として居るが、
 若し開戦された場合斯様な宣伝に依て動揺する様な事があったら如何なされるや。」
「 あなたは、三聯隊の兵士を左様な兵士だと思って居りますか、
 左様な人の云ふ事は私は信ずることが出来ませんから、何事も聞く訳には行きません 」
と 云ふと 閣下らしい人は、
「 左様な事ばかり云って居たのでは話にならない 」 と 云って居りました。
安藤大尉は
絶対に聞く事は出来ません、
話があるなら、斯様な事態になる前になぜ早く話してくれなかったか、
全部包囲し、威嚇されて屈伏する訳には行きません。
話があるなら、包囲を解かれてから来られたい。
私達は間違って居りました、聖明を蔽ふ重臣閣僚を仆す事に依て
昭和維新が断行される事と思って居りました処、
吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです。
吾々は何等の野心なく、只陛下の御為に蹶起して導いた処、
戒厳令は昭和維新の戒厳令とはならず、
却て自分達を攻める為のものとなって居るではありませんか。

「 昨夜から自決せよと云って来て居られるが、安藤は自決しません、自決せよと云ふなら殺して呉れ 」
 と 云って軍刀を前に出しました。
すると 佐官の人が安藤大尉の傍に来ました。
安藤大尉は、
「 あなたは何故斯うなる迄放って置かれたか、斯様な事態になったのもあなたにも責任がある。
 安藤は絶対に自決しません。だから殺して下さい 」
と 云ふて軍刀を突き出しながら、路上に坐りました。
佐官の人は
「 左様か。成程自分も悪かった。お前が左様云ふなら、お前を切って、自分も死ぬ 」
と 云ひながら、此処で両人の間に切り合ひが始まり層になりました。
双方の兵士も各四十名計り互に銃を向け合ひ正に危機一髪と云うふ状態になりました時、
私は先に行動隊の或る兵士から預って持って居た、「 天下無敵尊皇討奸 」 と書いた、日の丸の小旗を持って、
安藤大尉の傍に居りましたが、此状況を見るや三尺計りの間に飛び込み、手を広げて、
「 射ってはいけない、切るなら自分を切ってからやって呉れ 」 と止めました。
此為か、双方の気合いが挫けた様でありましたが、瞬間双方の兵士も銃を引き、双方の将校を引き離しました。
・・・安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」 


「 安藤!  兵隊がかわいそうだから、兵だけはかえしてやれ 」
と 伊集院少佐は安藤に詰めよった。
安藤はこの少佐の言葉に、憤りの色を見せ、 声をふるわせて、
「 わたしは兵がかわいそうだからやったんです。 大隊長がそんなことをいわれると癪にさわります 」
と 反発した。
突然、安藤は怒号した。
「 オーイ、俺は自決する、自決させてくれ 」

彼はピストルをさぐった。
磯部は背後から抱きついて彼の両腕を羽がいじめにした。
そして言った
「 死ぬのは待て、なあ、安藤! 」
安藤はしきりに振りきろうとしたが、 磯部はしっかり抑えて離さなかった。
「 死なしてくれ、オーイ磯部!  俺は弱い男だ。
いまでないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌いだ。
裁かれることはいやだ。
幕僚どもに裁かれる前にみずからをさばくのだ。死なしてくれ磯部!  」

もがく安藤をとりまいて、 号泣があちこちからおこった。
悲劇、大悲劇、 兵も泣く 下士官も泣く 同志も泣く、涙の洪水の中に身をもだえる群衆の波
まさしくこの世における人間悲劇の極限というべきか。
伊集院少佐も涙にくれて、
「 オレも死ぬ、安藤のような奴を死なせねばならんのが残念だ」
鈴木侍従長を拳銃で撃ち倒した堂込曹長が泣きながら安藤に抱きついた。
「 中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お伴いたします」
「おい、前島上等兵 ! 」

安藤は当番兵の前島が さっきから堂込曹長と一緒に彼にすがりついているのを知っていた。
「 前島 !  お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある、 中隊長殿はいつ蹶起するんです。
 このままでおいたら、農村は救えませんといってね、 農民は救えないな、
オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、 どうしても維新をやりとげてくれ。
二人の曹長は立派な人間だ、イイかイイか 」
「 曹長 !  君たちは僕に最後までついてきてくれた。ありがとう、後を頼むぞ 」

群がる兵隊たちが一斉に泣き叫んだ。
「 中隊長殿、死なないで下さい! 」
「 中隊長殿、死なないで下さい! 」

磯部は 羽がいじめの腕を少しゆるめながら、
「 オイ安藤、死ぬのはやめろ !  人間はなあ自分で死にたいと思っても神が許さぬときは死ねないのだ。
 自分が死にたくなくても時が来たら死なねばならなくなる。
こんなにたくさんの人が皆 とめているのに死ねるものか、
また、これだけ尊び慕う部下の前で貴様が死んだら、一体あとあはどうなるんだ 」
と、いく度もいく度も、自決を思いとどまらせようと、説きさとした。
・・・ 「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」 

中隊長安藤大尉と第六中隊 


安藤輝三
明くれば二十九日
払暁を破るかのように鎮圧軍の陣地から気ヲツケラッパが亮々として鳴り響いた。
我々も戦闘態勢に入る。
いよいよ楠軍と足利軍との戦いが始まるのだ。
そのような緊迫した所に大隊長伊集院少佐がやってきて血を流さんうちに帰隊せよと盛んに説得したが
安藤大尉は頑として拒否し
「 そのお心があったら軍幕を説いてくれ 」
と絶対に動こうとしなかった。正に大尉の気魄は鉄の如く固まっていたのである。
鎮圧軍の包囲網が刻々迫ってきた。
これを見た大尉は軍刀を引抜き  「 斬るなら斬れ、撃つなら撃て、腰抜け共!」
と 叫びながら突進しはじめた。
私たち五人の兵隊も銃を構えてあとに続く。
もし中隊長に一発でも発射すれば容赦せずと追従したが鎮圧軍は一人として手向かう者はいなかった。
程なく電車通りで歩兵学校教導隊の佐藤少佐と顔が合った。
すると安藤大尉は
「 佐藤少佐殿、歩兵学校当時は種々お世話になりました。
このたび貴方がたは何故我々を攻撃するのですか、
我々は国家の現状を憂いて、ただ大君の為に起ったまでです。
一寸の私心もありません。
そのような我々に刃を向けるよりもその気持ちで幕臣を説いて下さい。

私は今初めて悟りました。重臣を斬るのは最後でよかったと・・・・。
そして先ずもって処置するのが幕臣であった。自分の認識が不足であった点を後悔しています 」

「 歩兵学校では種々有益な戦術を承りましたが、それを満州で役立てることがて゛きず残念です 」
安藤大尉の意見に佐藤少佐は耳をかたむけていたが、果たしてどのように受けとめたことであろうか。
少佐は教導隊の生徒を率いて鎮圧軍に加わっていたのである。
次いで歩三、第十一中隊長浅尾大尉がやってきた。
「 安藤大尉、お願いだから帰ってくれ 」
浅尾大尉殿、安藤は帰りませんぞ。
 陛下に我々の正しいことがお判り頂くまでは帰るわけには参りません。
十一中隊は思い出の中隊でした。帰りましたら十一中隊の皆さんによろしく伝えて下さい。
 木下特務曹長をよろしくお願いいたします 」
二人が話している所へ戦車が接近してきた。
上空には飛行機が飛来し共にビラを撒きはじめた。
これを見た中隊長は憤然として 「 こんなことをするようでは斬るぞ 」 と叫んだ。
正に事態は四面楚歌であった。
再びホテルに戻ってくると第一師団長、堀中将がきて説得をはじめた。
「 安藤、兵に賊軍の汚名を着せて陛下に対し申訳ないと思わんか、黙ってすぐ兵を帰隊させよ 」
すると安藤大尉はムラムラッと態度を硬化させて
「 閣下! 何が賊軍ですか、尊皇の前には将校も兵も一体です。
 一丸となって陛下のために闘うのみです。我々は絶対に帰りません。また自決も致しません 」
「 師団長閣下、安藤は閣下に首を斬られるなら本望です 」
すると側に居た伊集院少佐が
「 安藤、お前はよく闘ったぞ、では閣下に代わってこの伊集院がお前の首を斬る、そして俺も死ぬのだ 」
といった。
すると安藤大尉はグッと少佐を睨みつけ
「 何をいうか、俺を殺そうとまで図った歩三の将校団の奴らに斬られてたまるか、斬れるものなら斬ってみろ 」
と 起ち上がったため附近にいた私たちが中に入ったので事なきを得た。
師団長は兵のことを考えてくれといって帰っていった。

一三・〇〇頃、
歩一香田部隊が武装解除して帰ろうとしていた。
それを見た安藤大尉が憤り香田大尉に詰め寄った。
「 帰りたいなら帰れ、止めはせん、六中隊は最後まで踏止まって闘うぞ。
 陛下の大御心に我々は尊皇軍であることが解るまで頑張るのだ。
昭和聖代の陛下を後世の物笑いにしない歴史を作るために断乎闘わねばならない
この言葉に香田大尉は感激したらしく、意を翻して最後まで闘うことを誓い再び陣地についた。
我々はここで志気を鼓舞するために軍歌を高唱した。
その声は朗々として山王ホテルを揺るがした。
最期まで中隊長の命を奉じて闘い そして死んでゆく気概がありありと感じられた。
軍歌が終わった頃再び伊集院大隊長がきた。
「 安藤、さきほどは済まないことをした。俺はあやまる、何としても皇軍相撃を見るに忍びないのだ。
どうか俺の言葉に従って帰ってくれ 」
板ばさみになっている大隊長の苦悩がよく判る。
何としても部下の兵隊を帰したい気持ちがありありと浮かび出ていて
大隊長は涙を流しながら安藤大尉を説得した。
しかし大尉の決心に変わりなく、
「 何度いわれても同じことです。私たちにいう言葉があったなら、軍幕臣を説いて下さい。この上いうなら帰って下さい 」
 とはっきりいい切った。

一四・〇〇頃、
尊皇軍の幹部全員が山王ホテルに集まった。
安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校の面々は重要会議を始めた模様である。
ここに至っての会議といえば事件処理の善後策以外に考えられない。
やがて重苦しい雰囲気の中に会議が終り解散となった。
その頃山王ホテルの周囲は鎮圧軍がひしめき、盛んに降伏を呼びかけていた。
間もなく安藤大尉は全員を集め静かに訓示した。
「 皆よく闘ってくれた。戦いは勝ったのだ。最後まで頑張ったのは第六中隊だけだった。
 中隊長は心からお礼を申上げる。皆はこれから満州に行くがしっかりやってもらいたい 」
安藤大尉の訓示は離別を暗示していた。
そこで
「 中隊長殿も満州に行かれるんでしょう 」
と 兵が口々に叫んだ。
すると大尉は 「 ウン、いくとも・・・・」
と 悲しげに答えた。
そこへまた大隊長がきて
「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう 」
と 迫った。
中隊長はすでにさきほどの気概が消え、恰も魂の抜がらのようになっていた。
「 ハイ、一緒に死にましょう 」
そういって無造作に拳銃を取り出したので私は咄嗟に中隊長の腕に飛びついた。
同時に磯部主計が背後から抱き止めた。
「 離してくれ・・・・」
「 いや離しません 」
「 安藤大尉、早まってはならん 」
中隊長も止める者も皆泣いた。
大隊長は
「 なぜ止めるのか、離してやれ、可愛いい部下を皆殺しにできるか、
俺と安藤の二人が死んで陛下にお詫びするのだ、
昭和維新は十分に目的を達したのだ、喜んで死ぬのだ 」
と 彼もまた号泣した。
中隊長は腕を抑えている私に
「何という日本の現状だ・・・・前島、離してくれ、中隊長は何もしないよ、
するだけの力がなくなってしまった。
随分お世話になったなあ。
いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、
と 叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。
しかしお前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった
中隊長の目からこぼれ落ちる涙が私の腕を濡らした。
側にいる磯部、村中の両大尉が静かに話しかけた。
「 安藤、死ぬなよ、俺は死なないぞ、
死のうとしても止める時は死ねないものだ。死ぬことはいつでもできるのだ 」
「 ウン、しかし俺は死ぬのがいやで最後まで頑張ったのではない、
ただ何も判らない人間共に裁かれるのが嫌だったのだ。
しかし正しい事は強いな、けれども負けることが多い、日本の維新はもう当分望まれない 」
そこへ山本又少尉がやってきて
「 安藤大尉殿、靖国神社に行って皆で死にましょう。
大隊長も靖国神社に行って死ぬことを誓ったので喜んで帰ってきました。一緒に行きましょう 」
「 ウン、行こう、兵士と一緒ならどこへでも行く 」
これを堂込曹長が止めた。
「 行っては困ります、中隊長殿、死ぬなら私たちと一緒にお願いします 」
私はここで中隊長の腕をはなした。
すでに将校たちは死を決意し死場所を求めているのである。
そこへ戒厳司令部の参謀副官がきて、早く靖国神社に行けと催促した。
同居していた歩一も勧告されたのか武装を解いて原隊に復帰し
香田大尉は陸軍省に集合したとのことである。
中隊長は出発にあたり物入れのボタンが落ちているのでつけてくれというので私は黒糸を使って縫いつけた。
そこへ参謀副官が再びきて 「兵隊だけは原隊に帰えせ」 といった。
すると中隊長は憤然として
「 最後までペテンにかける気か、皆も見ておけ、軍幕臣という奴はこういう人間だ 」
と 副官をなじりあくまで兵と一緒に行くことを強調した。
かくして 
一五・〇〇、
中隊がホテル前の広場に集合した時、参謀副官は我々に向って
「 お前たちはここで中隊長とお別れしなければならぬ 」 といった。
これを大隊長が一応とめたが安藤大尉はどういうわけか聞き流し、整列した我々に対し最後の訓示を与えた。
「 俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。
 お前たちが聯隊に帰るといろいろなことをいわれるだろうが、皆の行動は正しかったのだから心配するな。
聯隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。
満州に行ったらしっかりやってくれ。では皆で中隊歌を歌おう 」
やがて合唱がはじまった。
昭和維新の夢破れ、
反乱軍の汚名を着せられて屈伏した今、
安藤大尉の胸中如何ばかりか察するにあまりあるものがある。
無念の思いをこめて歌う合唱がどのように響いたかかは知らないが、
我々の心は等しく号泣に満ちていた。
一、鉄血の雄叫びの声  竜土台    勝利勝利時こそ来たれ吾らが六中隊
二、触るるもの鉄をも砕く わが腕    奮え奮え意気高し 吾らが六中隊
以下三、四番 略
合唱が二番にうつる頃、安藤大尉は静かに右方に移動し隊列の後方に歩いていった。
私は変な予感を抱きながら見守っていると、やおら拳銃を引抜き左あご下にあてた。
「 ダーン!」
突然の銃声に驚いた一同は ワッと叫びながら安藤大尉の元にかけより口々に  「 中隊長殿!」 と叫んだ。
倒れた大尉の頭から血が流れ出しコンクリートを赤く染めた。
負傷の状態をみると左あご下からこめかみ上部にかけての盲貫銃創でしかも銃弾が皮膚と骨の間を直通したかのようであった。
早速衛戍病院に連絡し救急車を呼び、私一人が付添い人となり病院からきた衛生兵二名と共に病院に護送した。
安藤大尉がすぐ病室に収容されるのを見届けると私はそのまま聯隊に帰隊した。
なお山王ホテルの方の主力は永田曹長の指揮で聯隊に帰った。
・・・「 農村もとうとう救えなかった  2」


昭和維新・河野壽大尉

2021年03月19日 10時27分33秒 | 昭和維新に殉じた人達

これより先、河野は余に
磯部さん、私は小学校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下のロボを乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が厳然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました。
私は理屈は知りません、しいて私の理屈を云へば、
父が子供の時教へて呉れた、賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
牧野だけは私にやらして下さい、
牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ

と、其の信念のとう徹せる、其の心境の済み切ったる、
余は強く肺肝をさされた様に感じた。

・・・第八 「 飛びついて行って殺せ 」 


河野壽

磯部さん、
ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を今になって戦はしてはいけない、
それでは永久に決行出来ぬ事になるから、
この度は真に決行の強い者だけ結束して断行しよう、
二月十一日に決行同志の会合を催してもらいたい、
其の席で行動計画等をシッカリと練らねばならん

・・・ 第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戦わしてはいけない 」 

牧野伸顕伯襲撃
河野大尉が、 「 デンポウ! デンポウ! 」
と 叫びながら台所の扉をたたく。
だれも出てこないので、蹴破って中に侵入した。
郡靴でドカドカと歩きまわるのがきこえる。
すると、パ、パーン、と 銃声がきこえた。
わたしの足もとに、銃弾がうなりを生じて飛んで来た。
皆川巡査の射ったものだった。
頭の毛が、ゾーと立ちあがってしまって、わたしは完全に足の力を失った。
そんな状態が五分ぐらい続いた。
さらに、ピストルの音が激しくなったころ、 「 やられた! 」 という声が聞こえる。
ふと足もとをみると、河野大尉が軍刀をつえにしながら、台所から出て来る。
軍服の二ツ目のボタンと、三ツ目のボタンの間を射たれて血が流れている。
その弾が、筋骨をすべって横腹に頭を出している。
だから、二カ所から血が噴き出ていた。
私は、それをみて、がっかりした。
総指揮者がやられた、というショックは大きかった。
河野大尉は、大きな意志に腰をかけ、軍刀をついている。
・・・牧野伸顕襲撃 1 「 デンポウ ! デンポウ ! 」 

伊東屋別館の火事に 最初にかけつけた元消防組の子頭、岩本亀三氏は
「 その朝、わたしの経営していた旅館で五時半に早立ちする客があり、
タクシー会社に電話で連絡して待っていると 川向うの家の壁が真赤になっている。
着がえの仕度をするひまもなく、シャツに股引の姿で長靴をはき 半鐘櫓のところへとんでゆくと、
そこに兵隊がいて、半鐘を叩いてはいけない、という。 あとで、それが水上源一という人らしいと分った。
伊藤屋別館の前に行くと兵隊たちが立っている。
その中の航空将校がわたしを見て、「 とまれ、君はなにだ 」 と 咎めた。
「 消防だ。あんたらは何だ」 と 云い返した。
「 われわれは国家の革新のためにやっている 」
「 民家に延焼するじゃないか 」
「 その点はやむを得ない 」
こんな問答をしているうちに、家の中で女たちの騒ぐ声が聞えた。
将校は 「 女がいるらしい。君、女を助けてやってくれ 」 と いった。
そこで門の中に入って石垣の塀と家の間のせまいところを伝って山の斜面側に行ったところ、
便所のところで行詰りになっている。
高い塀を乗りこえ、斜面に上り、どこから下に降りようかと考えているとき、
女ものの着物を頭からかぶった牧野さんを先頭とする一行が塀のところにきた。
写真で見覚えの顔なので、はじめて牧野さんと知った。
牧野さんは顔を土色にして 「 助けてくれ 」 と 私に云った。
私が一メートル半ばかりの塀を降りようとする前に、牧野さんが塀をよじ登ってきた。
私はその首根ッ子をつかまえ力まかせに引上げた。
その瞬間、私は左脚を丸太ン棒でたたかれたように感じた。
兵隊の撃つ弾丸が当ったのだが、そのときは分らなかった。
牧野さんを塀のこっち側に移すと、幸い行きが積もっていたのでその上をいっしょにずり落ちた。
そこへ近くの旅館の工事をしている人たちや警防団の人たちが来てくれたので、
牧野さんのことを頼んだ。
そのとき 「 撤収用意 」 という声がした。
つづいて 「 撤収 」 という声がした。

・・・牧野伸顕襲撃 3 「 女がいるらしい、君、 女を助けてやってくれ 」 

「 不覚の負傷でした。大失敗でした。 おかげでなにもかもめちゃめちゃです。
 私が負傷をしなかったら牧野をやり損じるようなことはなかったでしょう。
それよりも東京の同志達が逆賊になるような過誤をおかさせやしませんでした。
それが なによりも一生の遺憾です 」
「 きっと、血気にはやる栗原が事態をあやまったに違いありません。
私がいれば栗原を抑えることができたと思うと残念でたまりません。
取返しのつかないことをしてしまいました 」
栗原中尉ともっとも親しく、もっとも相通じていた弟としては、
この間の事情について、一抹の予感があったらしく唇を噛んだ。
事件に関する話は避けたいと思った心遣いもいまは無駄だった。
弟の心中には、事件のこと以外には考えるなにもなかったようだ。
「 勅命に抗するに至っては、万事終りです。
いろいろと複雑な事情はあるに相違ありませんが、
ことの如何を問わず、勅命に抗し、逆賊になるにおよんでは、大義名分が立ちません。
こんな結果になろうとは夢にも考えなかったことです。
無念この上もありません。死んでも死にきれない思いです 」
暗然として黙考する弟の姿に、返すべき言葉もなかった。
「 兄さん、どうか許してください。
こと 志と違い、いやしくも逆賊となり終った今日、私一人はたとえその圏外にあったとはいえ、その責め同断です。
この事態に処すべき私の覚悟は、すでに充分にできました。立派に死んでお詫びをいたします 」
はっと 胸を衝くものがあった。 弟は死を決意している。
弟の参加を知って以来、日毎に悪化する情勢のなかで、 事件のもたらす最悪の結果がなによりの傷心の種であった。
が、規模こそちがえ、血盟団や五・一五事件等、 この種の結末になにかしら心のよりどころを求めて、
どうしても最後的な死を考えようとはしていなかった。
あるいは そう考えることが怖ろしかったからであろう。
血盟団、五 ・一五の人々のことが、弟の言葉を聞きながら脳裡をかすめる。
「 しなないでも 」 という 気持ちが浮んでくるが、言葉にはならなかった。
ややあって、弟は再び語をついだ。
「 実は、昨夜以来 まんじりともせず熟慮しました。
それがいつの間にか叛乱部隊となり、帰順命令がでて事態の収拾を見た、
という 最悪の結果を知らされたときは、ただ、呆然として、泣くに泣けませんでした。
しかしこの絶望の中にも、なお一縷の望みは、
私たち同志が叛徒として処断されるようなことは よもやあるまいということでした。

この最後の命の綱も、先刻の宮内省発表ですべてが終りました。
圏外にあった私も、抗勅者として、同様に位記の返上を命ぜられました。
国家のため、陛下の御為に起ち上がった私が、夢にも思わなかった叛徒に・・・・」
弟は涙を流し、ふるえる唇を噛みしめて言葉を呑んだ。
「 栗原や私たちは、万一、こと破れたさいにも、 ということについては、 一つの考えを持っていました。
 それは失敗の責任を自決によって解決する方法は、いわゆる武士道的の見方からすれば立派であり、
綺麗であるが、 反面安易な、弱い方法である。

われわれの不伐の信念は、一度や二度の挫折によって挫けるものではない。
自決によって打切られるような、そんな皮相なものではなく、
死の苦しみを超克ちょうこくして、あらゆる苦難を闘い抜くことが、ほんとうに強い生き方であるという信念です。
この考え方は、私はいまも変わりありません。
しかしながら、この信念も、それを貫くことのできない、絶対の窮地に立つに至った現在、
私の進むべき道はただ一つしかありません。叛徒 という絶体絶命の地位は、一死をもって処するあるのみです 」
弟の眼にはもう涙はなかった。
沈重な面持に、低く重く、悲壮な信念が一言一句、強く私の肺腑を衝いた。
「 東京の同志たちは この叛徒という厳然たる事実をなんと考えているのか諒解に苦しみます。
私共の日頃の信念であるところの、 あらゆる苦難を排して最後まで闘い抜く生き方も、
現実の私どもの冷厳なる立場は、絶対にそれを許さないのです。
私どもはたとえ、こと破れたさいも、恥を忍んでも生きながらえ、
最後まで公判廷において所信を披瀝ひれきして世論を喚起し、
結局の目的貫徹のために決意を固めていました。
しかし 日本国民として、絶体絶命の 叛徒 となった現在、なにをいい、なにをしようとするのでしょう。
東京の同志たちが、もしあえてこの現実を無視して、公判廷に立つことができたとしても、
叛徒の言うことが、どうしても、世論に訴える方法があるでしょうか。
たとえその途が開けたとしても、その訴えるところが世論の同調をえることがあるとすれば、
それはいたずらに叛徒にくみする者を作ることになります。
そのあげくは、さらに不忠を重ねる結果となるに過ぎないということを、 深く考えねばなりません。
こと志とまったく相反して、完全に破れ去った私どものとるべき唯一の途は、
その言わんとし、訴えんとするところのすべてを、これを文章に残し、
自らは自決して 以て闕下にその不忠の罪を謝し奉るより他はありません 」
弟が考え抜き、苦しみ抜いた最後の決意はこれであった。
不動の決意を眉宇に輝かせながら語る弟の語に、
何一つ返す言葉もなく、私はただ無言でうなずくばかりであった。
弟は語調を改めて、すくなくとも自分一人は、幸か不幸か熱海にあって、
勅命に抗した事実はいささかもないことを認めてもらいたいこと、
なお、亡父母もこのことだけは喜んでくださると思うと、
苦悩のうちにも、わずかに自ら慰めるところのある心境を語った。
・・・河野壽大尉の最期 

陸軍大臣閣下
一、蹶起自決ノ理由別紙遺書ノ如シ
二、遺書中空軍ノ件ニ関シテハ      
      特ニ迅速ニ処置セラレスハ国防上甚タシキ欠陥ヲ来サン事ヲ恐ル
三、小官引率セシ部下七名ハ小官ノ命ニ服従セシノミニテ何等罪ナキ者ナリ
   御考配ヲ願フ 四、別紙遺書 ( 同志ニ告ク ) ヲ
      東京衛壱成刑務所ノ同志ニ示サレ更ニ同志ノ再考ヲ促サレ度シ
     尚ホ 在監不自由ノ事故
      特ニ武士的待遇ヲ以テ自決ノ為ノ余裕ト資材ヲ附与セラレ度ク伏シテ嘆願ス
同志ニ告グル
全力ヲ傾注セシモ目的ヲ達シ得サリシ事ヲ詫ブ。
尊皇憂国ノ同志心ナラスモ大命ニ抗セシ逆徒ト化ス。
何ンソ生キテ公判廷ニ於テ世論ヲ喚起シ得ヘキ。
若シ世論喚起サレナハ却ツテ逆徒ニ加担スルノ輩トナリ不敬を来サン
既ニ逆徒トナリシ以上自決ヲ以テ罪を闕下ニ謝シ奉リ
遺書ニ依リテ世論ヲ喚起スルヲ最良ナル尽忠報国の道トセン
寿  自決ス  
諸賢再考セラレヨ


時勢ノ混濁ヲ慨なげキ皇国ノ前途ヲ憂ウル余り、 死ヲ賭シテ此ノ源ヲ絶チ
上  皇運ヲ扶翼シ奉リ
下 国民ノ幸福ヲ来サント思ヒ遂ニ二月二十六日未明蹶起セリ。
然ルニ事志ト違ヒ、大命ニ反抗スルノ徒トナル。
悲ノ極ナリ。 身既ニ逆徒ト化ス。 何ヲ以テ国家ヲ覚醒セシメ得ヘキ。
故ニ自決シ、以テ罪ヲ闕下に謝シ奉リ、一切ヲ清メ国民ニ告グ
皇国ノ使命ハ皇道ヲ宇内ニ宣布シ、
皇化ヲ八紘ニ輝シ以テ人類平和ノ基礎ヲ確立スルニ在リ。
日清、日露ノ戦、近クハ満州事変ニヨリ
大陸ニ皇道延ヒ極東平和ノ基礎漸ク成ラントスル今日、
皇道ヲ翼賛シ奉ル国民ノ責務ハ重且大ナリ
然ルニ現下ノ世相ヲ見ルニ国民ハ泰平に慣レテ社稷ヲ願ス、
元老重臣財閥官僚軍閥ハ天寵ヲ恃ンテ専ラ私曲ヲ営ム。
今ニシテ時弊ヲ改メスンハ皇国ノ招来ハ実ニ暗然タルモノアリ、
国家ノ衰亡カ内的ニ係ルハ史実ノ明記スル所ナリ
更ニ現時ノ大勢ハ外患甚タ多クシテ 速カニ陸海軍ノ軍備ヲ充実シ、
外敵ニ備ユルニ非ンハ、 光輝アル歴史為ニ汚辱ヲ受ケン事明ナリ、
軍縮脱退後ノ海軍ノ現状ハ衆知ノ事ニテ、
陸軍ハ兵器資材ノ整備殊ニ航空ノ充実ヲ図リ、
至急空軍を独立セシメ列強空軍ト対立セシムルヲ要ス。
右 軍備充実ノ為ニハ国民ノ負担ハ実ニ大ナルモノアランモ、
非常時局ニ直面シ皇道精神ヲ更生シ以テ喜ンテ之ノ責務ニ堪ヘ、
又 政ヲ翼賛し奉ル者ハ国家経済機構ノ改革ヲ断行シ、
貧ヲ援ケ富ヨリ献セシメ以テ 国内一致団結シ皇事ニ精進サレン事ヲ祈ル
今自決スルモ七生報国尽忠ノ誠ヲ致サン

・・・あを雲の涯 (七) 河野壽 


昭和維新・竹嶌繼夫中尉

2021年03月18日 09時02分20秒 | 昭和維新に殉じた人達

今まで公判廷で申上げたことは一点の偽もありませんが、
これが最後と思いますから、他の者に及ばぬかも知れませんが、
考えて居ることを述べます。
私どもの蹶起により上京し事実においては種々な謀議をやっていますが、
豊橋の最古参として仮令たとえ自分の與あずからぬ計画があっても責任を負う考えであります。
絶対に民主革命を企図したものではありません。
自分の心が大御心たりとの不逞の根性はありません。
ただ 斯くすることが大御心に副い奉る所以なるべしと考えたのみであります。
勝手に判断して大御心を僭上したのでは絶対ありません。
大臣告示、戒厳司令官の隷下に編入せられたことは、大光明に照らされたような気がいたしました。
故にその後の行動は軍隊としての行動であります。
頑張って一定地域を占拠したものではありません。
告示は戒厳司令部が説得要領としてた強弁せられますが、 われわれは神聖なる告示と考えました。
また 二十九日まで総ての者が説得したように強弁せられますが、
激励ばかりを皆の人から受けたのであります。
兵力使用の点については、豊橋において 皆 必死に議論いたしました。
これが統帥権干犯なることは明かでありますが、
統帥権の根源を犯されていては、統帥権全部が駄目になるが故に
末を紊みだして根源を擁護せんとしたのであります。
ちょうど毒蛇に噛まれ手首を切断し 命を助ける同筆法であります。
もちろんそのことに対しての責任は充分に負います。
残虐な殺害方法だとのお叱りを受けましたが、
残虐をなすつもりでやったものではなく、
若い者が一途に悪を誅するための天誅の迸ほとばしりに出たことで、
一概に残虐と片づけるのは酷なことと存じます。
本年 命を終るに際し、
事志と違い 逆賊となり、
修養の足らぬ心を 深く 陛下にお詫び申上げる次第であります。
・・・最期の陳述 ・ 竹嶌継夫 


竹嶌繼夫
私は満洲にあった第二師団に属し奉天に駐屯していたが、当時聯隊旗手でした。
満洲事変の勃発した九月十八日夜から十九日にかけては
軍旗を奉じて奉天城の攻略に参加しました。
そこではいくたの戦友の血が流されました。
私は戦友たちの尊い犠牲を無駄にしてはならぬと思いました。
その後聯隊本部にあって各種の情報を見る機会を与えられましたが、
政府の内外にわたる事変態度から眼は国内に向けられ
心はその政治のあり方に疑問を生むに至りました。
いわば戦争状態と国内政治体制との矛盾を発見したとが、
私が国家革新へと志向した動機となりました・・獄中で

彼はその初陣において血をもって自覚したものが、国内政治への開眼であり、
また それから維新運動に挺身するに至ったというのである。
彼は昭和八年一月満洲より帰還後は、聯隊の先輩植田、松平等と 皇道維新塾をつくり、
地方青年の育成に力を用いたが、間もなく豊橋に転じてからは、
同じ区隊長として對馬勝雄と机をならぺるに及んで、愈々国家革新の熱をあげていた。
実母が東京淀橋区上落合に居住していたので、
しばしば休暇あるいは衛戍線外外出の許可を得て上京し、
その機会に村中、磯部、渋川などの錚々たる闘士に接し 維新発動を待機していた。
豊橋における西園寺襲撃を中止し對馬と共に上京、二十六日午前二時頃 歩一に入ったが、
爾来、陸相官邸、首相官邸、農相官邸、幸楽、山王ホテルなどに居り、
反乱首脳部と行動を共にしていたが、部隊の指揮に任じたことはなかった。
「 豊橋方面の関係については、自分が先任者として指導したものであるから、
自分に全責任を負わしめられたい 」
と、その意見を述べていた。


昭和維新・對馬勝雄中尉

2021年03月17日 08時30分59秒 | 昭和維新に殉じた人達


對馬勝雄 
『 後世史家に俟つ は 維新に非ず、現代人の恥辱なり 』

對馬勝雄中尉 ・ 残生 
二・二六事件で 昭和十一年七月十二日に死刑になった十五人のうちの一人、
對馬勝雄中尉の獄中作に次の漢詩がある。
同志胸中秘内憂  追胡万里戦辺州
還軍隊伍君己欠  我以残生斬国讎
文字をたどるだけの意味は、
同志が胸中に内憂を秘めて 自分と共に満洲の広野に渡り 外敵と戦ったが、
その凱旋した部隊のなかに、すでに君は欠けていた。
自分は生き残ったが、しかしこの残生を以て国に仇なするものを斬った
と いったほどのことである。
が、私には、この漢詩がもっと深い意味を含んでいるように思われる。

同志が胸中に内憂を秘めて、胡を万里に追って辺州に戦ったというのは、
昭和六年の満洲事変で、内地からはじめて一箇旅団が出征したとき 對馬中尉と、
その同志が国内の革新を心に秘めて、
この部隊に加わっていたことをさすのである。

この旅団は、第八師団管下の各歩兵連隊で、
それぞれ集成の一箇大隊を編成した四箇大隊を基幹に、
それに相応する砲兵、騎兵、工兵を加えた混成旅団だった。
それに、弘前の歩兵三十一聯隊の對馬中尉 ( 当時少尉 ) と 秋田の歩兵十七聯隊の菅原軍曹、
私の属した青森の五聯隊から 對馬中尉の仙台幼年学校以来の同期生 遠藤幸道少尉と私が参加していた。
同志といえばこの四人をさしたに相違ないが、
そのうち 菅原軍曹 ( 戦死して曹長に進級 ) と 遠藤少尉 ( 渡満後中尉に進級、戦死後大尉 ) が戦死したから、
凱旋した部隊から欠けていたのである。
出征したのは昭和六年十一月中旬で、十月中旬に未遂に終わった十月事件の直後だった。
が、革新的な動きは、これで終熄したわけではなかった。
それは直後におこった事件が実証している。
十月事件で青年将校と行動を共にすることを誓った民間同志が、井上日召を中心に一人一殺を、出征して間もなく始めたし、
その翌年の五月には五 ・一五事件がおこっている。
しかも對馬中尉にとっては、自分の直接影響下にあった同じ三十一聯隊の野村三郎士官候補生が
五 ・一五事件に海軍士官と行動を共にしているからである。
たしかに内憂に心ひかれながら、それを胸奥に秘めての出征であり戦いであった。
・ 
昭和六年、對馬も遠藤も、もう古参少尉になって、それぞれの聯隊の聯隊旗手をしていた。
私は中尉になっていて、この夏、戸山学校の学生で東京に出ていた。
外では満洲事変がおこり、内では十月事件のクーデター計画が進められていた。
十月事件というのは計画が挫折したのが十月中旬だったからこの名があるが、決行予定も同じ十月中旬だった。
これが若し実行されていたら、 スケールにおいては、
二 ・二六事件も遠く及ばぬ陸海、民間合同の大クーデターが実現するはずだった。
予め全軍の同志将校にもわたりがついていた点も二・二六事件の比ではなかった。
が、事実は、軍当局がこれを押えて挫折させなくても、実行は危ぶまれた。
橋本中佐ら参謀本部を中心とする幕僚と、部隊を直接指揮する青年将校との間に
革新についての根本観念に食い違いがあり、 それが決行日が近づくにつれ益々はげしくなり、
対立までなっていたからである。
食い違いとは、つづめていえば、幕僚ファッシズムに対する批判反撥だった。
もちろんマルキシズムに基づかない革新がすべてファッシズムと分類規定されるならば、この区別は無意味である。
憲兵が手を下したのが十月十七日だった。
ちょうどその日、青森から大岸中尉が、牛込若松町の私の下宿に、 和服姿で、軍刀をさげてやってきた。
大岸中尉は、仙台の教導学校から青森の原隊に復帰していたのである。
もともと私の戸山学校入校は、上京が目的の手段で、大岸中尉としめしあわせてのことだった。
これには独自の計画があったのだが、
三月事件から糸をひいた橋本中佐らのクーデター計画を知り、 それと合流変形したのである。
変形は整形しなければならなかった。
決行前に整形すべきか、決行後に第二革命といった形式で整形すべきか、
それがはっきりせぬままに 月日は とんちゃくなく、対立抗争の様相を内部にはらみながら過ぎて、
決行予定日の二十日が、いたずらに迫っていたのである。

青森の聯隊はこのころ、秋季演習で秋田県下に出払っていた。
大岸中尉は留守隊に残留して、 情況偵察かたがた、必要によっては決行参加を覚悟して上京したのである。
計画の挫折を知った大岸中尉は早速、 演習地の相澤三郎少佐らと、弘前の對馬中尉に上京中止の電報を打った。
私の下宿に一泊した大岸中尉は、帰りぎわに、
「 女房も上出来さ。 家を出ようとすると、何も知らないはずなのに、 尾頭づきの鯛と赤飯を供えたよ。」
と いった。

大岸中尉が帰ると一足ちがいで、 これも和服姿に軍刀の對馬少尉と菅原軍曹が下宿に現われた。
對馬少尉は仮病をつかって留守隊に残っていたが、
抜け出して、
秋田の聯隊の演習地から菅原軍曹を誘い出し、相たずさえて上京したのだった。
菅原軍曹は大岸中尉の仙台教導学校時代の教え子である。
将校とちずって、ごぼう剣を後生大事に風呂敷に包んでいた。
この二人が帰ったあと演習地の平田聯隊長から 「 アイザワ、カメイ、エンドウ、スグカエセ 」 の 電報が届いた。
変な電報だと思ったが、 「 ダレモキテイナイ 」 と 返電した。
が、その翌日、 電報の主の相沢少佐、亀井中尉、遠藤少尉の三人が これも和服にトンビを羽織った姿で現れた。
みな大岸中尉の電報を待ちきれず飛び出してきたのである。
相澤三郎少佐は、 この年の八月の異動で五聯隊の大隊長に着任し 大岸中尉らに共鳴したのであった。
その大隊を相澤少佐はほうりだし、中隊長代理の亀井中尉は中隊をほうりだし、
聯隊旗手の遠藤少尉は軍旗をおいてけぼりにして、 そろって演習地からずらかったのだった。
演習に出るときから 相沢少佐は軍刀をマントにくるんで乗馬の尻にくっつけていたし、
亀井中尉は青竹の筒に軍刀をいれて、それを当番兵にかつがせていた。
軍服を着かえたのは、 山形県の酒田で中等学校の配属将校をしていた横地大尉の家であった。
横地大尉も もと五聯隊で中隊長をしていて、大岸中尉のシンパだった。

満洲に混成旅団が出征したのは、このときから一カ月あまりあとである。
相澤少佐と大岸中尉、亀井中尉は残留した。
が、翌年四月、師団主力の渡満と同時に亀井中尉だけ追及してきた。
あとに残った相澤少佐はしばらく青森にいたが、 五 ・一五事件のあと秋田の聯隊に転任になり、
ついで福山の聯隊に変っていった。
永田事件は福山の聯隊付中佐のときだった。
大岸中尉は大尉となり和歌山の聯隊に変った。
 
菅原軍曹が戦死したのは昭和七年の高梁の茂る炎暑の夏だった。
四月に師団主力が渡満してからは、 第八師団は大遼河以西、山海関までの奉山沿線に駐屯していた。
秋田の聯隊は本部を大虎山に置いて、一部をその西方の北鎮に駐屯させていた。
北鎮は鉄道沿線から外れているので、 本部から毎日糧秣、郵便物、慰問袋を届ける定期便のトラックがでていた。
その定期便のトラックに軽機関銃一箇分隊を率いて菅原軍曹が警乗した日に、
途中の高梁畑に待伏せしていた数十倍の敵が包囲襲撃し、 菅原軍曹以下が全滅したのである。
綿州にいた對馬中尉は、その追悼式に駈けつけ、
菅原軍曹の遺骨の一部をもらいうけ、その一片を噛みくだいて嚥下した。
遠藤中尉が戦死したのは、 この年の暮れから翌年の正月にかけての山海関の戦闘でだった。
戦死した場所は 万里の長城、天下第一関の扁額のある東門に相対した山海関場内の西門直下だった。
敗敵を追及して西門に追ったとき、城門上から狙撃されたのである。

二・二六事件のあった年の正月、
對馬中尉は郷里の青森に帰っていたそうだが、 私は東京、千葉の間を旅行していたので会えなかった。
そのとき 對馬中尉は生家の仏壇に安置してあった袋を、 これは貰って行くといって、持ち帰ったという。
袋は満洲事変で戦死した自分の部下と菅原軍曹の分骨のはいったものだった。
師団が凱旋したのは昭和九年の四月初旬だったが、
それより一足先に對馬中尉は豊橋教導学校の区隊長に転任になって内地に帰っていた。
が、師団の凱旋をきいて、それを迎えるため、休暇をとって郷里に出向いた。
その時、肌身はなさず持っている袋を母堂に見とがめられ、 問われるままにわけをはなすと、
母堂から、そんなことをしていては些末になるから仏壇に納めるようにといわれて、 置いていったものだった。
昭和十一年の二月二十六日未明、
興津の西園寺公望襲撃が同志間の意見の齟齬から不調とみるや、
對馬中尉は竹嶋継夫中尉と一緒に上京して蹶起部隊に合流した。
そのとき恐らくは、正月に生家から持ち出した菅原軍曹らの遺骨のはいった袋を、
肌身につけていたはずである。
二・二六事件までの對馬中尉の身は、残生にすぎなかった。
・・末松太平  ・・・
對馬勝雄中尉 ・ 残生

對馬中尉は豊橋の教導学校の教官で、
生徒を率いて参加する筈のところを同僚の板垣中尉に止められて単身やってきたのだ。
皆が腰を落着けてしばらく経つと、
對馬中尉はポケットからハンカチに包んだものを出して 一同の前に広げた。
それは荼毗に付した小さな数片の遺骨であった。
「 これは満洲で戦死した自分の最も信頼する同志菅原軍曹の骨だ 」
対馬中尉はその骨を握りしめ、 皆の手で触ってやってくれと言って、ハンカチを差し出した。
栗原さんも林も、そして私もそのハンカチを手にとり骨片を握りしめた。
菅原軍曹の骨は、對馬中尉のぬくもりで温かかった。
それは掌を通じて心の底まで伝わる温かさであった。
菅原軍曹は秋田の聯隊出身で、大岸大尉の仙台教導学校時代の教え子であった。
十月事件当時、 菅原軍曹は対馬中尉に呼ばれて、
隊列を離れ、 体操服を着て銃剣を風呂敷に包んで駆けつけた人である。
彼は満洲の奉山線の北鎮という所に連絡にきていて、匪賊と戦って斃れた。
この葬儀の時、 對馬中尉は駈けつけて、
その遺骨の一部を貰い受け、 肌身離さず持っていたものである。
また 郷里秋田での葬儀の時は相沢中佐も出席されたそうである。
相沢、大岸、対馬、菅原の心の結びつきがあった。
「 今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ 」
と 對馬中尉は気魄をこめて語った。
・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」


昭和維新・栗原安秀中尉

2021年03月16日 08時55分16秒 | 昭和維新に殉じた人達

石原莞爾が広間の椅子にゴウ然と坐している。
栗原が前に行って
「 大佐殿の考へと私共の考へは根本的にちがふ様に思ふが、 維新に対して如何なる考へをお持ちですか 」
と つめよれば、大佐は
「 僕はよくわからん、僕のは軍備を充実すれば昭和維新になると云ふのだ 」 と 答へる。
栗原は余等に向って 「 どうしませうか 」 と 云って、ピストルを握っている。
余が黙っていたら 何事も起さず栗原は引きさがって来る。
邸内、邸前、そこ、玆、誠に険悪な空気がみなぎってゐる。
・・・第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 


栗原安秀

一月十日入営した日、
若い男前の将校がきて 我々新兵と父兄を前に置き、
世の中の腐敗振りを痛烈に批判し、
これを改革しなければ 日本は亡びる と 述べた。
堂々たる演説に一同は舌を巻いたが
歩一には随分思切ったことをいう将校がいるものだ と 思った。
それが 栗原中尉で我々の教官となった人であった。
・・・「 若い男前の将校 」 

栗原部隊
栗原安秀中尉の四日間 


午前六時三十分をすぎて、大臣漸く来る。
余等は広間に於て会見する。
香田が蹶起趣意書を読み上げ、
現在状況を図上説明し、
更に大臣に対する要望事項を口述する。
小松秘書官は側にて筆記。
此の時、
渡辺襲撃部隊より、目的達成の報告あり。
大臣に之を告げると
「 皇軍同士が打ち合ってはいかん 」 と 云ふ。
卒然 栗原が来り色をなし、
香田と口を揃へ
「 渡辺大将は皇軍ではない ! ! 」 と 鋭い応シュウをする。
大臣少しひるむ様子。
余は同志の国体信念にとうてつせる事をよろこんだ。
渡辺を皇軍と混同して平然たる陸軍大臣に、
厳然として其の非を叱りてゆづらざる同志の偉大なる事がうれしくてたまらなかったのだ。
大臣はウムとつまって、
「 皇軍ではないか 」
と 言ひ、成程と云った態度。
要望事項に対して大臣は、
「 この中に自分としてやれることもあればやれぬこともある。
 勅許を得なければならぬものは自分としては何とも云へぬ 」
旨を語る。
・・・第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 
・・・「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 

奉勅命令

村中、香田らが師団司令部から陸相官邸にかえって間もなく、山下少将があわただしく官邸にやって来た。
そしてすぐ青年将校は集まれという。
香田、村中、栗原らは鈴木大佐、山口大尉の立会いで山下少将と会った。
山下は沈痛な面持ちで、
「 奉勅命令の下令は、いまや、避けられ得ない情勢に立ち至った。
 もし、奉勅命令が下れば、お前たちはどうするか 」
一同、ことの以外に唖然として答えるものがない。
「 奉勅命令が出たとなればわれわれはこれに従うより外に途はない。
 われわれの国体信念は陛下にたてをつくことはできない 」
というのが、暗黙の間に通ずる彼らの支配的な意見だった。
だが、誰も発言しない。
沈うつな空気がこの場をおおっていた。
そこへ戒厳司令部からかえった磯部がとび込んで来た。 
そして、 「 おーい、一体どうするんだ ! 」 と どなりたてた。
村中は磯部に ここでの事の次第を説明した。
「 オレは反対だ、いま撤退したらこの台上は反対派の勢力に掌握されてしまって、われわれの蹶起が無意味になる。
 それだけではない、もっと悪い事態がおこる。
奴らは われわれを弾圧して自分たちの都合のよいように、軍をつくりかえてしまうだろう  」
この磯部の強い反対で、一応、撤退の空気はくずれてしまった。
もう一度よく協議しようということになって、山下、鈴木は別室に去り 山口だけは居残った。
彼らは山口を交えて改めてもう一度協議した。
奉勅命令が師団の方では未だ出ないというのに、幕僚は出たという。
どちらが本当かわからない。

これは彼らの おどかしかも知れない。
協議は、ことの真否をめぐって堂々めぐりをしていた。
この暗たんたる前途に対して、もはや、誰も思いきって発言するものがなかった。

この沈黙を破って栗原が、
「 それでは、こうしようじゃないですか、
 今一度、統帥系統を経てお上にお伺い申上げようではないか、
奉勅命令が出るとか出ないとか、一向にわれわれにはわからない。
もう一度、陛下の命令を仰いで、一同その大元帥陛下のご命令に服従しましょう。
もし、死を賜わるならば、侍従武官のご差遺を願い
将校は立派に屠腹して、下士官兵のお許しをお願い致しましょう 」

と いって泣いた。
なみいる同志は感動した。
この栗原の発言は一同の胸をひしひしと かきむしったのだ。
突然、山口が大声をあげて泣き出した。
「 栗原、貴様はえらい ! 」
山口はたち上りざま、ツカツカと栗原のところによって肩を抱いた。
栗原も立って山口を抱いた。
二人は頬と頬をくっつけるようにして声をあげて泣いた。
香田も泣いた。 村中も磯部も泣いていた。
磯部は統帥系統を通じてお上にわれわれの真精神を奏上してお伺いするという方針は、
この際、きわめて妥当なものだと感じたので、「 よかろう、それで進もう 」 と いった。
村中も香田もこれに同意した。 山口が部屋を出て別室の山下と鈴木を呼んできた。
そして山口から改めて栗原の意見を開陳すると、山下も鈴木も共に涙を流し、
「 ありがとう、有難う 」 と 栗原をはじめ香田、村中、磯部らの手を一人一人固く握りしめた。
そして山下は侍従武官のご差遺には努力しようと約束した。
そこへ、 堀第一師団長と小藤大佐が急ぎ足で入ってきた。
堀中将は奉勅命令が午前八時に実施というのが延期されたので、
香田、村中らの さきの訪問に対しては、 命令は下達されていないと あいまいに答えたのだったが、
それが また正午に実施ということになったので、驚いて彼らに撤退をすすめにきたのだった。
だが、彼らはそこで栗原の意見を聞いて同じく感動の涙を流した。
もはや、多くをいう必要を認めなかった。
「 奉勅命令は近く下る状況にあるから君らはしりぞいてくれ 」
と いうだけで安心して帰っていった。
・・・自殺するなら勝手に自殺するがよかろう

われわれは天皇陛下の軍人として、
上は元帥、下は一兵卒に至るまで、

一切を擧げて陛下にすべてをお委せすれば、
現在のように腐敗堕落せる政党、
財閥の巨頭連中を一掃して、

皆さんの生活は必ず良くなる。
今回の蹶起は下士官、兵もすすんで強力したもので、
下士官、兵の聲は皆さんの聲であります
・・・二十八日の夜
幸楽の門前に立ち民衆に向っての大演説
・・・幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」 

吾々同志は皆 今夜死ぬ
諸君は吾々同志の屍を乗りこえて 飽迄も吾々の意思を貫徹して貰いたい
諸君は何れに組するや
栗原中尉がこのように問いかけると、
群衆より  討奸軍萬歳  と 云う者がありました
後は諸君と共に 天皇陛下萬歳 を三唱します
と云って栗原中尉は
天皇陛下萬歳   と 發聲しました処
其後で群衆中に 尊皇討奸萬歳  と 唱いたるものあり
群衆は之に三唱しました
・・・二十八日の晩 ・・幸楽の支配人談

檢察官は現狀維持者の代弁として論告せられたものであります
私どもの蹶起は被壓迫者が支配者を倒し、
生活權を擁護せんがためのごときものではなく、
國家内外を時勢に應じて飛躍せしめんがためであります。
維新運動は天皇を中心として渦巻いています。
皆 維新に貢献しているのでありますが、
中心にもっとも近き者を矯激分子と批難するは當を得たものではありません
日本の維新は皇軍を中心として展開すべきであります。
今日われわれの蹶起に拘らず 上層部は立ちませんでしたが、
次の時代には立つべきであります。
論告には根本から反對であります。
法律的の頭脳を以て解釋すべきでなく、
軍人的の頭脳で解釋せなければならぬ問題であります。
私どもは改造法案にあるが故に貴とうとしとして行動したのではありません。
私は改造法案を精讀して研究してはいますが、國家革新の方法論として研究しているのであります。
皇室財産の没収と言われましたが、そのようなことはなく、下附であります。
論告は今までの支配階級が私どもを攻撃したのと同じ筆法を以てせられています。
今回の事件は次の四箇の鍵を以て解くべきであります。
一、獨斷を正しいとした理由
二、告示
三、戒嚴部隊に編入
四、奉勅命令びその前後の処置
で あります。
今回の事件は五 ・一五事件のごときものではありません。
本質が相違しています。
五 ・一五は英雄的のもので、
今回の事件は忠臣となるか逆臣となるかの岐路を行ったものであります。
呑舟の魚は網にかからず 超法的の存在であります。
この超法的存在を打破する者は靑年將校の剣のみ可能であります。

・・・最期の陳述 ・ 栗原安秀 「 呑舟の魚は網にかからず 」 


維新革命家トシテ余ノ所感
昭和十一年七月初夏ノ候、余輩靑年將校十數士、怨ヲ呑ミテ銃殺セラル
余輩 ソノ死ニツクヤ從容タルモノアリ、
世人 或ハ コレヲ目ニシテ天命ヲ知リテ刑ニ服シト爲
斷ジテ然ラザル也
余 萬斛ノ怨ヲ呑ミ、怒リヲ含ンデ葬レタリ、
我魂魄 コノ地ニ止マリテ悪鬼羅刹トナリ 我敵ヲ馮殺セント欲ス。
陰雨至レバ或ハ鬼哭啾々トシテ陰火燃エン。
コレ余ノ惡靈ナリ。
余ハ 斷ジテ成佛セザルナリ、斷ジテ刑ニ服セシニ非ル也。
余ハ 虐殺セラルタリ。
余ハ 斬首セラレタルナリ。
嗚呼、天  何故ニカクモ正義ノ士鏖殺セントスルヤ
ソモソモ今回ノ裁判タル、ソノ殘酷ニシテ悲惨ナル、昭和ノ大獄ニ非ズヤ
余輩靑年將校ヲ羅織シ來リ コレヲ裁クヤ、余輩ニロクロクタル發言ヲナサシメズ
豫審ノ全ク誘導的ニシテ策略的ナル、何故ニカクマデ爲サント欲スルヤ
公判ニ至リテハ僅々一カ月ニシテ終リ、ソノ斷ズルヤ酷ナリ
政策的ノ判決タル真ニ瞭然タルモノアリ。
既ニ獄内ニ禁錮シ、外界ト遮斷ス、何故に然ルヤ
余輩ノ一擧タル明に時勢進展ノ樞軸トナリ、
現狀打破ノ勢滔々タル時コレガ先駆タル士ヲ遇するに極刑ヲ以テシ、
而シテ肅軍ノ意ヲ得タリトナス。
嗚呼、何ゾソノ横暴ナル、吾人徒ニ血笑スルノミ、
古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟
余ハ 悲憤、血涙、呼號セント欲ス。
余輩ハカクノ如キ不當ナル刑ヲ受クル能ハズ。
而モ戮セラル、余ハ血笑セリ。
同志ヲ他日コレガ報ヲナセ、余輩を虐殺セシ幕僚を惨殺セヨ。
彼等ノ流血ヲシテ余ノ頸血ニ代ラシメヨ。
彼等の糞頭ヲ余ノ靈前ニ供エヨ
余ハ冥セザルナリ、余ハ成佛セザル也。
同志ヨ須ク決行セバ余輩十數士ノ十倍ヲ鏖殺スベシ。
彼等ハ賊ナリ、乱子ナリ、何ゾ愛�詞ヲ加フルの要アランヤ
同志暇アラバ余輩ノ死所ニ來レ。
冥々ナル怨氣充満シアルベシ。
余輩ガ怨靈ハ濺血ノ地ニ存シ、人ヲ食殺セン
嗚呼、余輩國家ノ非常ノ秋ヲ座視スルニ忍ビズ、
可憐ナル妻子ヲ捨テ故旧ト別レ、挺身ココニ至レリ。
而モソノ遇セラレルコノ狀ナリ、何ゾ何ゾ安心立命スル能ハンヤ
見ヨ、彼等腐敗者流依然トシテ滅ビズンバ
余即チ大地震トナラン、大火災トナラン、又大疫癘、大洪水トモナラン、
而シテ全國全土盡ク荒地トナラン
嗚呼、余輩ノ呼號ヲ聞ケ、
汝等腐敗者流ノ皮肉ニ食ヒ込ムベシ、汝等ノ血液を凝固セシムベシ
同志ヨ、
余輩ハ地下ニアリテ猶苦悶シ、地上ニアリテ猶吐血シアリ、
余輩ノ吐キシ血ヲ以テ彼等ノ墓標トナサン。
見ヨ、暗黒ノ夜、靑白ノ光ヲハナテルハ吾人ノ忿靈ナリ。
吾人ハ


昭和維新・丹生誠忠中尉

2021年03月14日 08時27分34秒 | 昭和維新に殉じた人達

二月二十六日午後、私が宮内省にいっているとき、
彼は官舎に電話をかけてきて、 妻の万亀を呼びだして、
「 万亀子さん、ずいぶん驚いたでしょう。
しかし、もうこれ以上なにもおこりませんから安心してください。
お父さんには、ほんとうに申訳ないと思っています 」
と いってきた。
妻は 「 あなた いまどこにいるの 」 と きくと
「 陸軍省にいる 」 とのことだった。
そのころはまさか丹生が叛乱軍の一味とは思いもかけないし、
陸軍省が占領されていることも想像さえしなかったので、
妻は彼をこちらの味方と思い、
早く官邸を占領している兵隊たちを追払ってほしい と いったそうである。
丹生は、
「 久常さんや あなたや お伯母さんには なんら危害を加えることはないから大丈夫ですよ 」
といって 電話がきれた。
・・・岡田の伯父さんが生きておられたことをできいて、私はホッとしました 


丹生誠忠 
歩兵第一聯隊
第十一中隊長代理

緊迫した一日が過ぎ、中隊はその夜新築中の国会議事堂に移った。
張廻らされた塀の入口の所にくると、フト人声が聞こえた。
暗いので姿が判然としないが、民間人のようだ。
その男の人は我々に向って、
「 この人たちは生神様です。この人たちは生神様です 」
と お題目でも唱えるかのごとく口ずさんでいた。
我々の行為を感謝でこたえているらしい。
構内で訓示する丹生中尉
構内の庭に集合した我々は、
ここで丹生中尉から我々の蹶起が天聴に達せられたことや現在までの状況を聞かされた。
それによると我々は今後、戒厳司令官の指揮下に入り、
戒厳部隊として引続き 現在地の警備に任ずることになったのであるが、
これは今日一五 ・三〇布告された陸軍大臣告示によるものであった。
丹生中尉の話が済んでから議事堂に入ったが、
未完成でとても宿営などできないので、一時間後山王ホテルに移った。
すると間もなく聯隊から食事と小夜食が届いた。
ここにおいて我々は、 初めて今朝からの行動が正当なものであることを認識したのである。
・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幸楽を出たわたくしは、帰宅する天野大尉とその門前で別れた。
聯隊本部への道すがら、
山王ホテルの丹生中尉とも、わたくしはこの際連絡をとろうと立ち寄った。

かれらの警戒は非常に厳重であった。
「 歩三の同期生の新井中尉が来たと、丹生中尉に伝えてくれ 」
と 歩哨に申し入れると、
「 暫らく待て 」 と 言残して一名が中に這入って行った。
その態度は軍の兵卒が将校に対する態度ではない。
その上後に残った二名の歩哨までが、着剣した銃をわたくしに擬しているのである。
将校としてわたくしは屈辱を感じた。
「 無礼者 」 と 叫びたい気持ちで、胸の中がワクワクした。
しかし怒ってしまっては連絡の任務も果せぬと思い、暫らく二人の歩哨の間に立たされていた。
五分程経ったろう、 中から下士官が迎えに来て、わたくしは立派な応接間に通された。
ものの一分とも待たぬうちに、何処からともなく丹生中尉が姿を現した。
かれは士官学校の同期生だが、十月事件にも関係せずこうした事をする人間とは、わたくしは殆ど思わなかった。
「 やあ、どうだい 」 同期生の気安さで、二人はこんな挨拶から始まった。
自分は部下中隊を指揮して福吉町に来ているが、それは行動部隊を敵として来ているのではなく、
同じ第一師団長の隷下にある旨を告げ、 なお今後も連絡を密にする必要があると語った。
そして最期に冗談を混えてこう云った。
「 貴様らは随分贅沢だな。ホテルや料理屋に宿営して・・・・・」
「 まあそう云うなよ。地区隊命令でこうやっているのだから・・・・」
「 それは知っている。俺の方は電話局だよ 」
「 うんそうか、気の毒だな。共産党の蜂起に備えているんだが、左翼は何もできまい 」
先刻安藤の所で何気なしに聞いていたが、かれらは共産党の蜂起に備え、 警備を命ぜられていたのである。
これは事件関係の将校以下殆ど全員がそう信じていたのである。
・・・地区隊から占拠部隊へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以降中隊はホテル外周の警備についていたが、
二十八日午後から事態が変化し、いつしか戒厳部隊から反乱軍となり、
鎮圧軍から討伐を受ける運命に追込まれていった。
全員夜になって白ダスキをかけた。
そして志気を鼓舞するため軍歌を歌った。
ラジオが何かを放送しているが、ガーガーとゆう雑音が多くて意味が皆目わからない。
いよいよ二十九日の早朝になった。
鎮圧軍が攻撃してくるとの情報を受けたので玄関前に配属されたMG二銃を配し、
小銃分隊はあかるくなってから各解の窓辺に散開させて戦闘に備えた。
しかし発砲は相手が撃ち出したら応射することになっていた。
この間 丹生中尉の所には部外者が交互にやってきては盛んに説得を行っていた。
時には同期の将校らしい者がきて泣きながら訴えていた。
「 帰ってくれ、とに角 帰隊してくれんか、頼む!」
二人の間には憎しみはなく、真に同期生らしい友情と友をかばう暖さが塧出していた。
側で見守る私にとってそれはあまりにも劇的なシーンとして目に映った。
しかし丹生中尉の決心は固く、あくまで初志貫徹の気持を崩さなかった。
中隊では前夜に引続き志気高揚を持続するため軍歌を高唱していたが、
鎮圧軍の包囲網がジリジリと狭められる中の軍歌は悲壮に満ちた。
相手はまだ発砲しない。
このようなとき若しいずれかで暴発が起きたらどんな事態になるだろうか。
丹生中尉は来訪者との話合いが終わるとすぐ席を立ちどこかへ行き、
又 戻ってくるという忙しさだったが、次第に激怒を高めていった。
「 奉勅命令が出ているそうだが、我々はそんなものみておらん、
伝達せんでおきながら奴等はそれを楯にとり、我々を逆賊と決めつけ討伐するとは以ての外だ。 
やるならやってみろ!」
この憤怒と燃える気持ちは恐らく蹶起将校全員 否!全将兵に共通する口惜しさであった。
これでは如何に説得しても応ずる筈はない。
〇九・三〇頃、
それまで続けられていた説得によって 丹生中尉は遂に情勢を判断し中隊の原隊復帰を決定した。
我々は早速後片付けと整理を済ませてから軍装を整え指定された電車通りに整列した。
するとそこへ戦車がやってきて一名の将校が降り我々に近づき、
「みんな聴いてくれ、俺たちは討伐にきたのではない。俺の姿を見てくれ」
といって丸腰を示した。
「このとおり武装はしていない。 早く原隊に帰ってもらいたいことをいいにきたのだ。どうか判ってくれ」
その将校は泣いていた。
皇軍相撃を回避する配慮が如実に窺える。
鎮圧軍の方もつらい立場に立っているのだ。
我々はジッと様子を見ているとその将校は、
「 これを読んでくれ、そして一刻も早く原隊に帰ってもらいたい 」
といいながら目の前でビラを撒いた。
これが我々が初めて見た
「 下士官兵に告ぐ 」 のビラである。
早速拾って読んでみると、
「下士官兵に告ぐ、 帰る者は許す、
抵抗する者は逆賊であるから射殺するゾ、
皆の父母兄弟姉妹は逆賊となるのを泣いているゾ 」
一字一句きびしい内容だったためか、私は今もこの文章が脳裡に焼付いている。
そこへ丹生中尉が戻ってきて ビラを捨てろと命令したので全員はすぐその場に投げ捨てた。
中尉の表情は何かを決したかのように冷静だった。
早速中尉から訓示が行われたが、
その内容は参加者に対する謝意と簡単な状況説明だったが、言葉のすみずみに無念の感情を彷彿とさせるものがあった。
中尉もやはり血の通った人間であった。
この期に及んで冷静でいられる筈はなかったのである。
我々は自発的に武装を脱いだ。
小銃を大通りに一列に叉銃し、LG(軽機関銃)を一端に置き、あとの一切を鎮圧軍に委ねることにした。
この時、 香田大尉が軍服の上衣を脱ぎ
「 殺すなら殺してみろ」 
と 狂乱の如く絶叫しながら
我々の整列した近くから 鎮圧軍の包囲網をめがけて
単身、電車通りを突進していった。
その後どうなったかは不明だが
緊迫した雰囲気が私の眼前でアリアリと展開し 何か胸迫るものを覚えた。
かくして我々は ここで丹生中尉と別れ
下士官兵は神谷曹長の指揮で原隊に帰った。
・・・丹生部隊の最期 

実行着手時は必ず成功し、 日頃の目的が達せらるると想ひ、心に一点の曇もなく意気衝天の勢でした。
現在の心境は、 非常に複雑して居りますので申し上げ様がありません。
只 静かに反省して居りますが、行為に対して決して後悔して居りません。
神様と同一心境にて為したるものと思って居ります。
現在の心境では、未だ将来の事を考へる余裕はなく、
只、正しき事は何百年経っても正しき行いなりと信じて居ります。
・・・丹生誠忠中尉の四日間 


中隊集合がかかり急いで玄関前に整列すると
間もなく 丹生中尉が姿をあらわし、 状況説明と共に聯隊復帰を命令した。
「 昭和維新は失敗におわった。 まことに残念である。
今は考えている余地はなく、奉勅命令に従うばかりである。
四日間にわたる各位の苦労を感謝する。
満州に行ったら充分働いてもらいたい、武運長久を祈る 」

丹生中尉の訓示は切々として我々の胸を打った。
これで中隊長とは永の別れになるかも知れぬと思うとまことに感無量であった。
中尉がさったあと 我々は電車通りで叉銃を行い、自発的に武装を解き丸腰で帰隊した。
・・・丹生誠忠中尉 「 昭和維新は失敗におわった。 まことに残念である 」


昭和維新・坂井直中尉

2021年03月13日 07時41分50秒 | 昭和維新に殉じた人達

父は帝国の将校でありまして、
日露戦役に参加し功五級に叙し金鵄勲章を拝受して居りまして、

厳格なる武人の家庭に育ち、幼少の頃より常に忠君愛国の精神を涵養せられ、
将来は陸軍幼年学校に入校して国軍の楨幹となり、死を鴻毛の軽きに置き、
大元帥陛下の股肱として御奉公申上げ度の念をかためましたが、
長兄豊蔵が陸軍幼年学校に入学するに及び将校生徒たるに憧るるの念を増し、
広島陸軍幼年学校に入校しましたが、
当時の校長遠藤五郎大佐 ( 目下陸軍少将 ) の崇高なる御人格に感化せられ、
大正十五年五月二十五日
時の皇太子殿下 広島地方行啓に際し我広島陸軍幼年学校に行啓を仰ぎ奉り、

千歳一隅の身に余る光栄に浴し、益々尽忠報国の念を高めました。
陸軍士官学校に入校して同じ学び舎に竹の園生の御在学あらせられあるを知り、
光栄之に過ぎるものなき身の程を察し添えなきを得ませんでしたが、
士官候補生として歩兵第三聯隊に入隊するに及び将校団の御一人として、
畏れ多くも秩父宮殿下を仰ぎ奉るの光栄を担ひ、
又 新兵舎新設の際には行幸を賜はり、
皇室の御殊遇を添うずるの深きに感激を致しました。

士官候補生として在隊中
歩三将校団員たりし菅波三郎中尉 ( 目下大尉 ) の御薫陶を受け、

腐敗せる社会情勢を知るに及び、
現在の日本の国家をして真の日本精神に立脚せる姿に立ち直すのは、
吾人の努めなるべき観念を植えつけられました。
陸軍士官学校本科在学中、
同期生中より五 ・一五事件の志士をだし親友たる彼等十一名の精神を生かす為に、
我々在京部隊にある者の責任を痛感しましたが、
見習士官として原隊に復帰後
安藤大尉より種々薫陶せらるる所あり、

在京同憂の士 村中大尉 ( 士官学校予科時代中隊の区隊長たり )、
磯部主計、
大蔵大尉等を紹介せられ、

昭和御一新創業の大本を説かれ、強固なる信念を植えつけられましたが、
初年兵教官として兵を教育するに当り
彼等の身上を調査して疲弊せる社会現状が実に予想外に深刻なるを知り、
安心して教育に従事すること能はざるを感ぜるのみならず、
後顧の憂なくして戦場に於て 充分に其の任務を達成すべき健全なる軍人精神を以て
出征する部下兵隊を教育することは到底不可能であって、
先づ 国内を根本的に建て直さなければならないと思ふ様になりましたが、
他面某々瀆職とくしょく事件、収賄贈賄事件、某々疑獄事件、左翼の運動等々
毎日の新聞を賑はす社会は
洵に日本国内の腐敗堕落其の極に達せるを物語るもので、

此の政治、経済、教育、司法等
あらゆる社会の腐敗を一刻も速かに矯正しなければならないことを痛感しました。

ロンドン条約当時に於ける統帥権干犯の事実、満洲事変に於ける軟弱外交、天皇機関説、
其他の諸現象は為政者が徒らに私利私欲を事とし、自ら栄達の為めには国家をも顧みず、
我党の為めには国運の降替を犠牲にして迄も私心を肥やし 
所謂重臣、政党、財閥、特権階級等が相結束して、

権力金力を恣にして不正不義を事として 毫も省みず、其の腐敗糜爛びらん其の極に達し、
殊に宮中府中に在る所謂君側の奸臣共が
陛下の紫袖に隠れて大逆不道を敢てして毫も憚ることなく、

一君万民の国体精神に悖って、
陛下の大御心は恐れ多くも歪曲して国民に伝はり国民の意志は正当に    、

上御一人    に伝はらないのは洵に遺憾千万でありまして、
どうしても宮中の暗幕、君側の奸臣共を亡き者にしなければ、
神国日本の将来は洵に累卵の危機に陥ること必然なるべきを感じました。
そして政党政治の腐敗堕落、
資本主義経済社会の糜爛的発達に伴ふ富の偏頗と農山村疲弊の極致、

教育界の腐敗、司法権の動揺 ( 大権を司るものの中に赤化思想を抱くもの出つ )、
外交の不当 等 各部門に亙り洵に憂ふべき現象を示し、
殊に天皇は  機関なりと称する欧米の思想を鵜呑みにせる。

我が国体に全く相容れざる大逆不道の学説を信ずるものあるに至り、
益々革新の必要なるを痛感しました。

十月事件、五・一五事件、血盟団事件 等相継いで起り、
国民精神を覚醒せしめたるも、

国家の支配階級は毫も反省することなく、
遂には武士道を重んじ 皇威を恢弘し、

国威を顕揚すべき我々軍隊が遂に此の蓄弊を矯め、
御一新の大業の翼賛に向って邁進しなければ、

到底真の国体を顕現すべき方法は他になしと言ふ結論に到達したのであります。

相澤中佐殿の公判に依り
統帥権干犯事件其他巷間の妄説として取扱はれ居りたる事柄が、

証言に依り 遂に事実となるに至り、大義名分となりましたので、
相澤中佐殿の理想を貫徹し、

国体を顕現するために兵力を以て国家の逆賊君側の奸臣を討ち取り、
正義の大本を国民に示し、

以て大御心を安んじ奉り、
国家の安泰を計らざるべからずと判決を下し、
決行したのであります。

・・・坂井直中尉の四日間 

 
坂井直中尉

午後十一時 下士官を起し将校室に集合せしめ、
決行の方針 理由 並 処置の大要を示し、各下士官に任務を与へました。
そして週番指令の命に依り、
連隊兵器委員助手たる新軍曹をして弾薬分配のため弾薬庫に至らしめました。
中島軍曹は所要の兵員を連れて坂井部隊の弾薬受領のため弾薬庫に至らしめました。
丸伍長 ( 週番 ) をして糧食 ( 乾麺麭 ) 受領のため炊事に至らしめました。
二十六日正子 ( 午前零時 ) 兵を一斉に起床せしめ、準備に取掛り、
午前三時二十分迄に諸準備を完了、舎前に整列せしめました。
是より先き 私が直接機関銃隊に到り 週番士官 中尉 柳下良二 より 兵員を受領し、
同官立会の下に分隊長四名を下士官室に集め、方針、理由 並 任務を説明し、
午前三時二十分迄に第一中隊舎前に成立すべきを命じました。
然るに 末吉曹長、中島軍曹 両名が行方不明となった為、弾薬分配に意外の時間を費やし、
整列が約三十分遅れましたが、断乎たる決心を以て方針を変更しませんでした。




総ての準備を完了し、
午前三時五十五分 出発に当り、

趣意書に基き 是から皆と一緒に 天皇陛下の御為め尽さうと訓示し、
午前四時十分営門を出ました。


 

行進中に各警戒部隊毎に文進せしめ、
第一突撃隊は正門、第二突撃隊は通用門に集結を完了し、
午前五時を期し 要図第一に示す如く門を開いて突入し、警戒隊は配備につきました。
此の時 正門は簡単に開いたので 第二突撃隊は通用門よりの突入を止めて正門に廻りました。
当時玄関前警察官詰所には警察官二十名内外が狼狽して服を着けて居る処へ突撃隊が殺到して、
之を包囲しましたから 何等の抵抗も受けませんでした。
其の間に坂井中尉、高橋少尉、安田少尉、林伍長 及 機関銃射手一の五名が一団となり裏口に廻り、
雨戸を破って室内に侵入しました処、十五、六歳くらいの男の給仕が居りましたので、
之に案内せしめ 要図第二の示す 二階内府の寝室に赴きました。
此の時 内府夫人 ( 春子 ) が物音に驚き入口の戸を開けましたが、
此の様子に驚き一瞬にして戸を閉められました。
そこで安田少尉が戸を開いたので、一同中へ這入りますや、
夫人は一同の前に両手を挙げて立ち塞がり、
「 待って下さい 」
と 言って制止されました。
其の頃 内府は室の奥の方より寝巻の儘 起きて来られました。
そこで誰であったか記憶しませんが、
夫人を押しのけて一番右に居た安田少尉が先づ拳銃を一発放ちました。
続いて私と高橋少尉の三人で拳銃を乱射しましたから、
内府は二、三歩後へ退き 要図に示す様に倒れました。
此の時 夫人は身を以て内府の身体を庇ひ、
「 殺すなら私を殺して下さい 」
と 言って、其処を離れませんでした。
洵に夫人の態度は立派でありました。
固より私達一同は内府以外の人は決して負傷させまいと予め申し合せて居りましたから、
無理に夫人を押し退けて射撃を続けました。
此処で内府が全く人事不肖に陥った様でありましたが、
此の時 軽機関銃の射手が
「 私にも射たして下さい 」
と 言って、軽機関銃を以て数発発射致しました。
とどめを刺そうと思ったのですが、夫人が離れないので目的は充分に果たしたものと思ひ、
とどめを刺さずに寝室より引下がって、正門前に集結し、一同と共に思はず
天皇陛下万歳を三唱しました。
時に午前五時十五分でした。
発射弾数は私は七発ですが他の者は何発発射ったか存じません。
そこで私は集合喇叭を吹奏せしめて内府邸南側の橋梁上に部隊を集結し、
高橋少尉、安田少尉に渡辺教育総監襲撃の任務を授けて 爾余の部隊を引率して、
陸軍省東北角附近に到着し、直ちに警戒配備を取りました。
時に午前六時五十分でした。




配置歩哨の服務要領は

二十六日朝
出動して来れる者を停止せしめ、
名刺を受取って帰らす様にして居りました。
斬殺すべき人名  ・・・「 チエックリストにある人物が現れたら即時射殺せよ 」 

一、林大将
二、渡辺大将
三、石原莞爾大佐
四、武藤章中佐
五、根本博大佐
六、片倉衷少佐
二月二十六日午前七時迄に
陸相官邸に入門を許すべき人名

・・調査部長 山下少将
一、陸軍次官 古荘中将
二、陸軍少将 斎藤瀏
三、警備司令官 香椎中将
四、憲兵司令官代理 矢野( 機 ) 少将
五、近衛師団長 橋本中将
六、第一師団長 堀中将
七、歩兵第一聯隊長 小藤大佐
八、歩一中隊長 山口大尉
二月二十六日午前七時以後通過を許す者
一、本庄繁大将
二、荒木貞夫大将
三、真崎甚三郎大将
四、今井清中将
五、小畑敏四郎少将
六、岡村寧次少将
七、村上啓作大佐
八、西村琢磨大佐
九、鈴木貞一大佐
十、満井佐吉中佐
書類は、前の斬殺すべき人名と一緒に安藤大尉から受取りました。



二月二十七日 正午 新議事堂に移動

同 午後六時半赤坂区料亭幸楽に移動、安藤部隊と共に宿営す。


二月二十八日午後三時、
陸相官邸に移動、陸軍省参謀本部の配備につき徹夜す。



二月二十九日 午前八時
私の部隊を包囲して居た歩兵第四十九聯隊が戦車数台を先頭に前進して来ましたので、

全く予期せざる事態に立ち至りたるを悟り、速かに兵力を集結しました。
それで戒厳司令部幕僚の指示に従ひ、部下と別れを告げて陸相官邸に這入りました。
時は午前八時半頃と思ひます。
部下は只今申上げた幕僚に渡しましたので其の後どんなになったか存じません。
私が部下将校と共に陸相官邸に這入ってから後 逐次他の将校も集まって来ました。
山下奉文閣下と私の元大隊長 歩兵第四十九聯隊附中佐 三原殿の両官より 私に対し、
高橋、麦屋 少尉の三人で自決せよとのお勧めがありましたので、一旦は其の気になり、
遺書も書きましたが、よく考えて見ると、
我々三名のみが他の同志と別個に行動するのは適当でないと思って、思ひ止まり、
他の同志の集って居る部屋に這入り、休憩しましたが、
二十九日夜 拘引状を執行されて、衛戍刑務所に収容せられ今日に至りました。

部隊総指揮官は表面は最古参の野中大尉でありますが実際の指揮は、
歩兵第一聯隊第七中隊長 大尉 山口一太郎 でありまして、
前に申上げた私の部隊の移動命令も殆んど山口大尉から出て居ります。
1、第一回は二月二十七日 私の部隊が陸軍省東北角に位置して居りますと、
 山口大尉が歩一の小藤大佐と一緒に来られました際、
山口大尉が私に対して部隊を集結して新議事堂に移動すべし、
との命令を下したので 前に申上げた如く新議事堂に移動しました。
2、二月二十七日午後二時三十分
 将校全員が陸軍大臣官邸に参りました際、

山口大尉が私に
「 今夜は麹町区の宝亭と万平ホテルに配宿せよ 」
と 申しましたから、
私が宝亭に電話をかけてみると、他の部隊が居ることが判りましたので、

其の旨を山口大尉に報告して
同夜は赤坂区料亭幸楽に安藤部隊と共に宿営しました。

3、二月二十八日午後三時頃
 山口大尉から命令があって、
陸相官邸に移り陸軍省参謀本部の配備に着きました。
・・・坂井直中尉の四日間 


二十八日午後以来
渋川さんが私の部隊に附かれてまして、
最後迄  色々御世話になりました。


昭和維新・田中勝中尉

2021年03月12日 06時19分05秒 | 昭和維新に殉じた人達

尊王義軍
昭和維新に翼賛する

7 SA 同志十三名 決意堅たり
昭和維新の大業に翼賛し得ざる凡ての人間
何の相手として語る洋らん
断然排撃せよ
小乗的論議は国賊の言 一歩も
其の家を動く可からず
一死以て国賊を滅し
皇国に報いん


田中勝中尉
陸士在学中 第44期 の五 ・一五への突出は、大きな刺激をうけた。
任官して市川野戦重七付となったが、
そこには維新革命を志す河野寿中尉があり、薫陶をうけ啓蒙される。
同郷の先輩 磯部とは特に親交をもっていた。
 宮城
宮城の暗闇で非常ベルが鳴り続けた。
午前四時四十分、蹶起の最初の兆候が、こともあろうに宮城でキャッチされる。
近衛師団宮城守衛隊司令部では仮眠中の当番将校以下全員が飛び起きた。
常夜灯が申し訳程度に照らし出す暗がりでは、ベルはまるで暁の静寂を切り裂く悲鳴音のように聞こえたことだろう。
近歩三の二箇中隊二百四十名が騒然となった。控兵に上番していた中橋と同じ聯隊だ。
現場は二十メートルおきに外灯が並ぶ宮城前広場。
その玉砂利が敷かれた車輌進入禁止区域に軍用車輌五台がいきなり侵入したのだった。
乗用車一台、トラック三台、サイドカーが一台。
馬場先門から直進した車列は、二重橋 ( 正面鉄橋 ) に到る手前の正門石橋直下で停止した。
これを目撃した正門警備にあたる守衛隊歩哨が直ちに非常ボタンを押す。
平時では宮城の警備は宮内省警察部が主体だが、ボタンを押したのは近衛兵だった。
従って近衛師団の警備網に異常が伝達される。
不法侵入した車輌部隊の指揮官は野重第七第四中隊、田中勝中尉 ( 25 )。
十三名の下士官兵を乗せた計五台は、夜間自動車行軍をかねて靖国神社に参拝 と称して、
市川の駐屯地を三時十五分に出る。
車列は途中、小岩にある田中宅に立寄った。
拳銃と軍刀、そしてキャラメル多数を夫人から受取る。夫人は身重だった。惜別の意味があったろう。
その遅れを意識して猛スピードで都心に向かったのだが、逆に早く着きすぎてしまう。
陸相官邸五時の待合せまで時間をつぶすため、まず靖国神社に詣で、
次に宮城前広場に参拝しようとして 立入禁止区域に乗り入れたのだった。
之には当然、S作戦 の下検分の意味もある。
非常ベルに驚いた仮眠中の近衛師団将校や皇宮警察警手が正門守衛所にあたふたと駆けつけた。
総勢十二名にも上ったと  『 皇宮警察史 』 は記す。
「 衛兵所まで同行願おうか・・・・」
近衛の守衛隊当直だった小坂少尉が、田中中尉の星が二つの階級章にチラリと目を遣りながら丁重に誘う。
行先は上道灌濠に近い正門儀仗衛兵所だった。
守衛隊司令部と同じ建物の一階に入っている。
「 いや 単に訓練中の宮城参拝です。地理に不案内でご迷惑をおかけしました 」
田中は所属を名乗った上で素直に詫びを入れて一件落着だった。
すでに蹶起部隊は非常呼集を終え、歩三、歩一、近歩三の各営門を出ていた。
「 ようし 三宅坂だ、いよいよ五時の蹶起だ、陸相官邸に行くぞ 」
・・・田中中尉 「 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 」 


二月二十六日 午前二時三十五分頃、
自宅より軍服にて中隊に至り、自動車班係下士官軍曹 川原義信を起こし、
「 これより夜間の自動車行軍をやる 」
とて 川原軍曹をして二年兵の自動車手の内 十二名を起こしました。
是等のものは、今回の決行に就いては何も申しませんでした。
川原軍曹には直ちに貨物自動車三台、乗用自動車二台を営庭に集合を命じました。
服装は第二装巻脚絆帯剣であります。

午前三時十分整列を終りましたが、 貨車三台と乗用車一台丈で側車一台が集りました。
直ちに出発行動して、
先、靖国神社を参拝し、更に宮城前に至り 皇居を拝し、
同正 五時 陸軍大臣官舎に参りましたが、同志は誰もみえて居りません。
門が閉ぢて居りました。
其処で同志はどうしたのかと思ひ、
自動車隊を引率し 右官舎を虎の門、六本木を経て歩一へ見に出発しました。
歩一営門前で私丈下車、
同隊週番司令室に参りましたら山口一太郎大尉が起きて参りまして、
山口大尉に 「 どうですか 」 と 尋ねましたら、 大尉は 「 ウン 」 と 頷きました。
私は其儘 速く表へ出て、自動車隊を指揮し赤坂の高橋蔵相私宅の前を通り掛りましたら、
同邸表門には、十数名の徒歩兵が機関銃二梃を以て警戒して居たのを目撃し、
陸軍大臣官舎へ 午前五時二十五分頃つきました。
蔵相私邸を通り過ぎる時、私は同乗の運転手、助手に
「 今日から昭和維新になるぞ 喜べ 」
と 申しました。 途中 閑院宮邸前で、約一ケ中隊の歩兵を追越ししました。
之は同志の牽ひきゆる部隊と思ひます。
・・・挿入・・・

高橋邸襲撃を終えた中橋は、
襲撃隊の第一小隊を、
中島少尉、大江曹長、箕輪、宗形 両軍曹に託して首相官邸に向かわし、
次に赴援隊の第二小隊を、今泉、斎藤と共に率いて青山通りに出、半蔵門に向かう。
すぐに田中の自動車隊に遭遇する。
「 ・・・蔵相邸表に出ると、陸軍砲兵中尉田中勝が自動車四台を率いて通り抜け、
私に 『 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 』 と 云い、
田中中尉が 『 非常!』 と 叫んでいたという事で、
突発事態に遭遇したと認め 第七中隊は直ちに宮城に赴く 」 (中橋訊問調書)

・・・田中中尉 「 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 」 
指揮官は誰か判りません。
陸軍大臣官邸門前には、丹生中尉が兵約六十名を持って警戒して居りました。
私は一人 官舎に入り磯部に会ひました。
・・・田中勝中尉 「 今日から昭和維新になるぞ 喜べ 」 


田中は意気けんこうとして、

「 面白いぞ 」
と 云ひつつ
余をさがして官邸に来る。

・・・磯部浅一・行動記 第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」




磯部は、私に貨物自動車一台を赤坂離宮前に速に出して呉れと申すので、
私は乗用車に乗り貨車一台を指揮し、
午前五時四十分頃 同所に至り、貨車一台を安田少尉に渡しました。
安田は下士官以下三十名を連れて、既に斎藤内府を襲ひ終り、
赤坂離宮の前に集まって居りました。
此れより貨車に乗り、渡辺大将を襲撃したのであります。
これは後で同志より聞きました。
其後 陸相官邸に貨物自動車全部を引揚げ、
栗原中尉、中橋中尉が東京朝日新聞社を襲撃のため貨物自動車二台を出してやりました。
同所には磯部、村中を始め丹生中尉の指揮する約百名位 居りました。
其後 全部の自動車が帰ってからは、主として乗用車は連絡用に、
貨物自動車は食糧運搬の為め使用として
首相官邸の栗原部隊、安藤部隊、坂井部隊に乗用車一台宛、
警視庁にある野中部隊に同二台配属し、各其指揮下に入れました。
是等の運転手は私の引率して来た兵を充てました。
之等の乗用車は、首相官邸にありました五台を使用したのであります。
三代の貨車の内、一台は渡辺大将襲撃の時、負傷せる下士一、兵一を乗せ、
東京第一衛戍病院へ運搬したる後、進路を違へて市川に帰りました。
残る貨車二、乗用車一、側車一台は指揮下に入りました。

二十六日
朝昼食は、木村屋よりパンを取り、
夕食は弁当を全兵員の為め何処からか判りませんが取りました。

二十七日午前七時、
陸相官邸から首相官邸に移動しました。
此処には栗原、中橋、林、中島等が居りました。
首相官邸に移りましたのは、
陸軍省 参謀本部の幕僚襲撃の目的であると云ふことを同志より聴きました。
二十七日夜は 小藤部隊の指揮下に入り、配列割に従ひ農林大臣官舎に宿営しました。
それで私の直接私の指揮下の車輌を農相官邸に集結しました。

二十八日は午前十時頃、
村中より戒厳司令官より奉勅命令は未だ下すべき時機に非ずと言ふことを聴きました。
それで是から有利に進展すると喜んで申されました。
同十一時頃、 車輌部隊を指揮し首相官邸に行きました。
之より曩さきに同九時頃、 奉勅命令は下ったと言ふことを私の大隊長及中隊長より聴きました。
首相官邸の乗用車は、屡々 使用して各部隊の現況を見に同志が乗って行きました。
此晩は我々は攻撃しない。若先方が発射すれば応戦する。
然し そんな事は絶対ないと確信して居りました。

二十九日午前七時半頃迄、私及部下十二名は炭酸瓦斯中毒に罹り、
人事不省に陥りましたが、
同十時過、漸く蘇生しました。
同九時頃 小藤大佐が首相官邸に参りました。
之は栗原中尉に会ふ為らしくありました。
同十一時頃
山王ホテルに集まると言ふ事で、私は乗用車で参りました。
其処には村中、磯部、栗原、香田、丹生、竹島、對馬、山本予備少尉等が居りました。
そして奉勅命令に従ふと言って居りました。
戸山学校の大尉の人と思いますが、みえまして、石原莞爾大佐の伝言をして行きました。
夫れによると 蹶起将校今後の処置は、自決か脱出の二途のみであるが、
今回の挙により 兎角維新の 「 メド 」 は ついたと申しました。
私は特に感激しましたのは、 安藤部隊が中隊長以下 生死を同じうすると言ふ状勢で、
部下は中隊長を、中隊長は部下の為に一丸なり、
不離一体一緒に陛下の御為維新に奉公すると云ふ状景を目撃し、男泣きしました。
そこで私は首相官邸に帰り、部下に此 美はしい情誼じょうぎを伝えました。
それから乗用車二台を指揮して山王ホテルに行きましたが、
やがて首相官邸に集まれと言ふ事で、三台の乗用車にて逐次同官舎に参りました。
到着しましたのは午後三時頃です。
山王ホテルに最初集まりましたものは十二、三名丈けで、
これからの処置を協議する為めでありましたのですが、陸相官舎に参ってみますと、
戒厳参謀の命とかで、携帯品は軍刀を除き、拳銃、外套、図囊等を皆解除せられ、
私は玄関に一番近い室に村中、磯部両氏と共に入れられました。

今迄 申上げました経過中 おとしました個所がありますから 夫れを申上げます。
二十六日朝、決行直前に二重橋前に皇居参拝の時、
警戒線を突破して同橋に参りましたので、皇宮警察吏は非常ベルを鳴らし、
二、三の警察官吏が出て参りました。
衛兵の近衛将校出て来まして、私の官氏名を聞いて行きましたが、
参拝であることを知り 帰って行きました。
私がつれて行きました下士官兵十三名のものは、
各自のやりました行動を各々書かせることを命じてありますので、 皆 其記録を持って居る筈です。
川原軍曹は、いつも側車に乗って進路の障碍排除に当らせました。
午前十時頃
山下奉文将軍が一番初めに、次に満井中佐、鈴木貞一大佐が陸相官舎に来ました。
二時間許り前八時、真崎大将が陸相官舎に来て、
自動車を降りるなり 「 落着け」 と 云って 内に這入りました。
私の居室には 午前九時頃 陸軍次官が来ました。
そして 予備の斎藤少将と何か話して居りました。
同時に片倉少佐がやって来まして、
「 這入ることはならん 」
と 同志から言はれ、
「 何故這入れないか 」
とて どんどん他の七名位の参謀将校と共に門内にやって来ました。
やがて磯部が拳銃一発放ちましたら、之等の幕僚は一斉に皆逃げました。
玄関には真崎、齋藤少将 両閣下が見て居られました。
次官も居られました。

二十六日中ですが 時間は不明でありますが、
軍事参議官 林、寺内、植田、阿部、西、荒木、真崎閣下と
村中、磯部、香田、栗原、と 陸相官邸に会見しました。
私は今 非常に疲労しておりますので、諸記憶は明瞭でありません。
二十七日
首相官邸に一同引揚げましたのは、
陸 軍省及参謀本部の幕僚を襲撃する為めだと同志から聞きました。
首相官邸には村中、磯部、栗原、對馬、竹島、中橋等が居りました。
二十八日陸相官舎で真崎、阿部及西大将が御出でになりました。
このときは 同志将校は殆んど全部集りました。
今回、蹶起間、同志より一回も命令として出されたことはありません。
たしか二十八日中と思ひます。
陸軍大臣の告示が陸軍省の方から手交されました。
夫れは次の様なものであります。
陸軍大臣告示
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり。
二、諸氏の行動は国体顕現の至情に基くものと認む。
三、国体真姿顕現の現況 ( 弊風をも含む ) に就ては恐懼に堪へず。
四、各 軍事参議官も、一致して右の趣旨により邁進することを申し合はせたり。
之れ以外は一つに 大御心に俟つ。

山口大尉は御維新には十分理解ある人と思ひ、
私は山口大尉を同志と思って居ります。
山口大尉は決行当時、週番士官であることは
二月二十三日頃に磯部に聞いて知って居りました。

事件の計画は誰が作ったのか判りませんが、
多分 村中と磯部 及 栗原等が作った事と推察致します。
私が同志と共に事を挙げるに至りました事は、
平素抱懐して居りまする 昭和維新翼賛の為め、予てから決意しておりましたし、
且 本年二月二十三日 磯部より 私宛 「 本日午後四時磯部宅に来れ 」 の電報に接し、
同人宅に至り 今回決行の時日を聞き、之に参加する事に決意しました。
二月二十三日 磯部に会った時、同紙り車輌は幾何を出動出来るやを尋ねられ、
乗用車二、貨車四、兵員十数名 出せるだらうと答へました。
同志の決定せる襲撃計画に基づく輸送及連絡の分担任務を受け、
夫れに対して決行前前日の二十五日、私の聯隊の第二中隊兵舎暗号室に於て、
一人で何台出るかを計画してみました。
此の計画は計画が終ると共に同室の暖炉の中で焼却しました。

私は昭和維新の実現に関しては、
何時でも身命を捧げる決意を持って居りましたので、
磯部氏より襲撃決行計画を示されるや 直ちに 欣然参加したのであります。
決行当時も、何等不安の念は無かったばかりで無く、
我が国体の真姿を具現する為め 喜びに満ちて居りました。
現在と雖も 更に心境に変化を来たして居りません。
只 昭和維新の実現を見なかったのは遺憾であります。
私の国体観念、皇軍の状況、軍閥、軍幕僚、元老、重臣、財閥、政党、諸新聞等は
常に大御心を掩おおい、君臣を離間する奸賊と信じ、
之を徹底的に排除せねば 悠久なる我国体を衰亡に導くものなるを以て 一刻の猶予も許さざる現況に直面し、
敢然 起ちて 決行したるものであります。
その他の心境に関しては、渋川善助と全く同様であります。

二月二十六日晩、戦時警備下令の後、
蹶起部隊は戒厳司令官命令を以て小藤大佐の隷下に入るべきことを
陸相官邸に居りました山口一太郎大尉より聞きましたが、
小藤大佐殿は最後迄 此命令を出されなかった様に思ひます。
ところが 此命令が出されなかった為めに、
遂に私共は小藤部隊の隷下に入る機会を失し、
蹶起も維新を直ちに実現することを得ませんでしたのは残念であります。
小藤大佐も相沢公判に依り、其国体観念を体得されたのではないかと思ひます。
以上 本項は私の想像であります。
・・・田中勝中尉の四日間 


昭和維新・高橋太郎少尉

2021年03月11日 06時09分32秒 | 昭和維新に殉じた人達

愕然タリ悲報至ル、
「 軍ハ我ヲ攻撃ス 」 ト、
耳ヲ疑フテ問フ、 再三再四、確報タルヲ信ゼザルヲ得ズ、
嗚呼倐忽変化、
今ノ今マデ我等ガ赤忠成リヌト喜ビ合ヒ居タル同志 一瞬ノ後ニコノ悲報を得ントハ、
夢カ否幻カ、 否事実タルヲ如何セン 同志ノ将兵寂トシテ声ナシ、
積雪ニ注グ熱涙潜々 「 噫万事終リヌ 」 意決セリ、
警備線上ニ斃レンノミ、
麹町地区警備ハ是レ我ガ任務、撃ツモノアラバ戦場ニ死セン、
部下ノ兵挙リテ共ニ死ナント乞フ、
或ハ血書以テ曰ク 「一緒ニ死ニマス」 ト、
感極リヌ、答フルニ声ナク感涙ニムセブノミ。
千四百ノ同志粛トシテ死地ニ就カントス
維時昭和十一年二月二十八日夜半、
皇城ニ向ヒテ整列抜刀一閃、
捧銃、君ケ代ノラッパモ動々トモスレバ途絶エントス、
指揮スルモノノ眼ニモ涙、指揮セラルルモノノ眼ニモ涙、
落雪粉々タリ、熱涙ニトク、悲ト云ハンカ壮、壮ト云ハンカ悲、
悲絶壮絶、天モ泣ケ、鬼神モ泣カン大忠誠心、
皇国ノ隆昌ハ我等青年ノ骸ノ上ニ立ツ
神風吹ク日本ノ国ノ人々ヨ、涙ニ光ルハ志士ノ眼ノミカ。
噫 コノ秋、
赤血ノ上ニウチタテヨ昭和ノ維新、
皇国体真姿ノ顕現
・・・高橋太郎 ・ 感想録


高橋太郎少尉



午前四時十分頃営内出発

第一師団司令部、青山一丁目、陸大前、信濃町駅を通り、
斎藤内府邸前に到り、
逐次警戒配備につけつつ正門前に到りました。
私は中隊の最後尾に居りまして、
警戒配備をつけたのはよく存じませぬが多分麦屋少尉ではないかと思ひます。
前申上げた計画に基き、
私と安田少尉は下士官以下約二十名(軽機を含む)を率ひ裏門に集合、
坂井中尉は麦屋少尉以下中隊の主力を率ひ集合しました。
一部の方の指揮官はわたしでありました。
午前五時五分頃
将に突入せんとしたる時、
坂井中尉は私に対し 「 此方に来い 」 と 命じましたので 最初の計画を変更し、
私は他の者を率ひ坂井中尉の主力に合し正門より突入しました。
正門を如何にして解放したるや存じませぬが、手で簡単に開いた様でありました。
坂井中尉を先頭に、なだれ打つて裏へ廻り、雨戸を開かんとしましたが、
容易に開きませんので、
坂井中尉の命に依り 軽機関銃を発射しましたが 是れが最初の発射であります。
然し乍ら、雨戸は破壊出来ませんでしたので、兵は床尾鈑で叩きこわしました。
奥内へ侵入しますと、女中などがうろうろして居ましたので、
書生を捉へ、斎藤内府の寝室へ案内せしめました。
二階の寝室に到り、戸を開けんとしたる瞬間、中より夫人らしき者が一寸顔を出し、
直ぐ戸を閉ぢたるを以て、皆で戸を押し開け中に侵入、 次の室の入口に到りました。
其時、内府は寝台上より飛下りたるを以て
「 国賊 」 と 呼ばり、
多分、安田少尉と思ひますが 拳銃を発射しました。
夫れに続いて私達も数発発射しますと、 内府は 「 ヨロケ 」 ながら室の片隅に倒れました。
夫れを皆で追ひかけ、 軽機関銃をこしだめに、じはりじはりと乱射しました。
・・・ 夫人は其時我々を押しのけて主人の上に倒れておほいかばい、
「 巡査は如何にしましたか、私を殺して下さい 」
と 絶叫されました。
吾等は夫人に危害を及ぼさない様、下より拳銃を差入れ乱射しました。
又夫人は我等が引揚る時、 最後尾に居りました私を捉へ
「 私を殺して下さい 」 と 叫びましたが、
夫れを振りのけて退去しました。
夫れから二階を下りて来る時、
集合「ラッパ」が鳴り出しましたので全員引揚げ
(午前五時十五分頃と思ひます)、
午前五時四十分頃、
赤坂離宮に集合、宮城遙拝しました

中隊の主力は坂井中尉引率し、三宅坂に向ひ、
私と安田少尉は約二十名(軽機二を含む)と共に其位置に休憩、
「 トラツク 」 の 来るのを待ちました。
約五分の後、 野重七の 「 トラツク 」 が 田中中尉の指揮により到着しました。
そこで直ちにそれに乗車し、直に出発しました。
赤坂離宮前に 「 トラツク 」 が 準備されると云ふ事は知って居りましたが、
田中中尉が来ることは知りませんでした。
田中中尉は
「 うまく行ったか、あちらの方は未だだ 」
と 言って権田原の方に向ひ去りました。
尚、渡辺大将襲撃に関しては、
安田少尉が計画して居りましたので私は只ついて行った丈であります。
四谷見附、新宿、中野を通り
午前七時頃渡辺大将の自宅に着きました
直に機関銃一を以て(道路曲角)を警戒せしめ、 私達将校二人が施加藤に立ち表門より這入りました。
正門はすぐに開いたと記憶して居りますが、 玄関が中々開きませんので致し方なく軽機関銃を射ちました。
そして玄関を破壊し中へ這入りましたが 次の扉が開ぬので身体で以て押開こうとして居る時、
屋内から拳銃で射たれましたので、私達は軽機関銃や拳銃を以て応戦しました。
その時、裏が開いておると云ふ声がしますので全員其処を引揚げて裏へ廻りました。
其時、安田少尉は先頭に立ちて屋内へ上ろうとして居りますので、 急いで其に続きました。
其部屋には夫人が立ち
「 何処の軍隊ですか。
見れば歩三ですね。  夫れが軍隊の命令ですか。外に方法がないものですか 」
と 叫びました。
其処で安田少尉は、夫人をつきのけ、唐紙を開き、 同時に大将を継起拳銃を以て一斉に射撃しました。
当時射撃の指揮を何人がしたか、誰が最初撃つたか判りませぬ。
次で側へ寄り、 数発 二、三人で拳銃を射撃しますと、
閣下は其度毎に少し身体を動かされましたので私は最後の 「 トドメ 」 を さすべく、
拳銃を物入れに入れて軍刀を抜き一太刀斬りました。
其処で私は 「 全部引揚げろ 」 と 命じ、
其処を引揚げ 「 トラツク 」 の 位置に集合しました。
其時、安田少尉が右大腿股部の貫通銃創を、 又、木部伍長が右下腿部に盲貫銃創を受けて居ることが判明しました。
全員自動車に乗車、 発車すると直陸軍の自動車らしきものが来ましたので 「 止まれ 」 と 命じました。
其時、自動車の中から二名の憲兵が飛出しますや、兵が二、三発小銃を発射しましたので、
私が 「 射つな 」 と 命じ、
其儘、陸相官邸前へ引揚げました
其処には磯部元主計等、他の将校が沢山居りましたので、負傷の処置を聞きますと、
誰か 「 衛戍病院に入院させろ 」 と 言はれましたので、
私は木部伍長を背負ひ 「 トラツク 」 に乗せました。
それから全員を指揮して三宅坂参謀本部前に到り、 朝食 「 乾麵麭 」 を しました
其時刻は明確に記憶しませぬが、午前九時か十時頃、と思ひます。
其処で坂井中尉を探し、同中尉の師事に従ひて
三宅坂上永田町一丁目の五叉路附近に在る中隊主力に合し、再び中隊に帰りました。
二十六日は其儘警戒配備に就いて居りました。

午前十時頃、
聯隊長渋谷大佐幷に伊集院少佐、自動車にて来り、
状況聴取したる後、 今後の処置を尋ね次の注意をされました。
「兵を大切にせよ」
「食事、外套は聯隊より直ぐ運搬せしめる」
「弾を抽け」

二月十六日午後八時頃
連隊本部の石川少佐来られ
「 第一師団管下に戦時警備が令せられた、
此部隊は当聯隊長の指揮に入り、聯隊の警備担任区域を警備するを以て、
他の交代部隊来るときは夫れと交代せよ 」
と 述べられましたが、
当時坂井中尉が不在でしたので即答を避け、
「 坂井中尉に命令せられ度 」 と 答へました。
次で二十六日午後九時頃
大隊長本江少佐来られ次の事を達せられました。
「 閑院宮邸、李王邸へは、警戒の為第五十七聯隊より一部の警備部隊出ずるを以て 相撃せざる様注意すべし 」 と。
二十七日 午前六時頃
警戒配備を徹し、兵力を集結しました。
然し私は何の為にそうしたのか存じませぬ。
次で午後一時頃
坂井中尉の指揮に依り新議事堂の裏の広場に集結しました。
午後七時頃
小藤部隊長配宿命令に基き 「 幸楽 」 へ行き、銃前哨のみ立て宿営しました。
配宿命令は午後六時頃、陸相官邸へ全部集合せしとき、
藁半紙に謄写せし要図に配宿区分を記載せるものを、 山口大尉より小藤部隊長命令なりとて示されました。
二十八日 早朝
坂井部隊は全部幸楽を徹し、参謀本部に移動せんとしたる時、
小藤大佐が来られ 「 俺について来い 」、他を廻って来るから暫く其儘にして居れと言はれましたが、
状況が判りませんので暫く其位置に居りました。
それから午後六時頃
坂井中尉の引率により陸相官邸に到り、警戒配置に着きました。
二十八日
坂井中尉より討伐に関する奉勅命令が下ったと言ふ事を聴きました。
併し私は、吾々は戒厳司令官の隷下に入り、小藤部隊となり警備に当って居るのに、
是に対し討伐命令が降つたと云ふこと、どうしても信じられませんでした。
然も奉勅命令が降つたとすれば、
我等の行為が未だ大御心に達せず、 奸臣足利勢が未だ蟠踞せる結果に外ならず、
斯かる以上、我等は何処迄も楠公の忠誠を継承し、
皇軍相撃の不祥事を防止すべく 潔く自決し、
昭和維新顕現の一日も早からんことを黄泉より祈願する決意をしました。
二十九日
名は知りませんが参謀や其他の将校が来まして状況を話し、
帰順を勧告しましたので、 私等将校は協議をし下士官以下を帰隊せしめ、
我等将校のみ自決の決意をしました。
其内、戦車が攻撃して参りましたので、私等将校は挺身し皇軍相撃たざる様切望し、
次で全員集合せしめたる上、訣別の辞を述べ兵を参謀に渡しました。
それから私達将校は陸相官邸に帰りますと、
玄関に渡しの元聯隊長である山下閣下が居られましたので、我等の決心を伝へました。
すると山下閣下は、
我等三人 ( 坂井中尉、麦屋少尉及私 ) を 一室に案内されました。
そこで私達は自決すべく身辺を整理して居りましすと、
三原中佐(坂井中尉元大隊長) 及 井出大佐が来られましたので我等の決意を示し、
最後の別を告げ、 三原中佐に介添を依頼し各々遺書を認めました。
残念な事には、 麦屋少尉の遺書を書終るのが遅かったので決行の時機を失したのですが、
もう少し早ければ其目的を達して居ったのでしやう。
即ち、地図により宮城幷に大神宮の位置を標定し、
頭を其方向に伏して、 拳銃を以て自決する処迄 準備が進行して居りましたが、
其時、野中大尉、清原少尉、鈴木少尉等の同志が交々入り来り
「 生死は何処迄も同志と共にして呉れ、やるなら是非同志と会て呉れ、
我等も勿論死は期して居る、同志全部が一緒に自決しやうではないか 」
とて 我等の挙を止め、
次で 渋川善助来り
「 生死は一如なり」
とて 我等を諫めたので 同志に会ふことに決めました。
其結果、 大御心の儘に裁かれ、
昭和維新実現の過程を看視するめ必要ありとの議 纏り、
現在の結果を招いたのであります。
・・・高橋太郎少尉の四日間 

私は認識不足を痛感致しました。
即ち、
我等が蹶起すれば
全軍は必ず我等に続いて立ち上がるものと信じて居りましたのに、
結果は全然夫れに反しました事を痛く残念に思ひ、
此点我等が皇軍に対する認識の不充分であつたことを感じさせられます。


昭和維新・安田優少尉

2021年03月10日 06時06分29秒 | 昭和維新に殉じた人達

私は小さい時から不義と不正との幾多の事を見せつけられ、
非常に無念に感じて来たものですから、
小さい時は弁護士になって之を打破しようとしたが 之を達せられないと思ひ
(法律は金力に依って左右さることが多いから) 断念し、
中学校に入り一番正しいのは 軍人だろうと思い軍人を志願したのであります。
大正十二年頃 佐野学が第一に検挙された頃、
共産主義の説明を父親に聞き 大いに共産主義を憎む様になりました。
実に軍人の社会は正しいものと思って志願したのであります。
士官学校予科に入って二日目に、 全く裏切られたのであります。
第一に 御賜にて幼年学校を出る様な人間は、 支給された自分のものが無い時は
他人のものを取りて自分のものにした様な実例を見、
其の他 他人の金銭を取るもの、 又は本科の生徒が 日曜に背広を著し「カフェー」や遊郭に行く様な点は
全く憤慨に堪えなかったのであります。
此の様な点にて、 村中区隊長と接触を始めたのであります。
而して 此の様な不正は何とかせねばならぬと共鳴して居ったのであります。
原隊に帰っても、 村中氏とは家族同様の親交をして居る内に、
村中氏は私情を投げ 君国に殉ずるの精神に甦って行動して居らるることに非常に感奮したのです。
然し 一度も国家改造等の事は村中氏より聞いたことは有りません。
但し、其の進行中の無言の内に愛国の士であることが判り、
無言の感化共鳴し全く此の愛国の至情には一つの疑念なく、
凡てに於て共に行動出来るものと確信したのであります。
その後益々親交を深くして居りました。
然るに 悉く遭遇するものは皆不正不義なる現実に接し、
愈(イヨイヨ)凡てに是非国家改造の必要を痛感して来たのであります。
就中、三月事件、十月事件、十一月事件であって、
殊に甚しく遺憾千万なものは統帥権干犯問題であります。
然るに相澤中佐殿の公判に依りて見ても、
統帥権干犯問題が闇から闇に葬り去られ様として居るので、
何とかして之は明瞭にし 断乎その根源を絶たねばならんと愈決心を固くしたのであります。
それには元凶を打たねばならぬと考えたのであります。
私は昨年十一月に砲工学校普通科に入るべく上京以来、
勉強の為めに追はれて居った関係上 村中氏とは二回位しか会った事がないし、
その他何人にも会ひませんでした。
然るに、統帥権干犯問題を新聞にて知り、 愈根源断絶を決行せねば駄目と考へて居りました。
之れが為め、第一に中島に連絡をとったのであります。
何となれば、中島は村中氏や河野氏、安藤氏等と連絡をとってくれると思ったし、
また連絡をとって呉れと頼んでも置いたからです。
其れで、中島には具体的方法等の事も考えて貰ったのです。
只此度は個々夫々に計画を口で申し合せ文章にしてありません。
それは、従来文章にすれば失敗して折った苦き経験に基くものです。
憲兵隊 被告人訊問調書 「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 の問に答えたものである
・・・「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 


安田 優少尉

・・・・この将校の中に 安田優という少尉がいますが、
彼は天草郡の出身で、私と中学済々黌で机を並べて四年間勉強した仲です。
彼も私も家が貧しかったので、彼は中学四年から、陸軍士官学校に学び、私は師範学校に入ったのです。
安田は中学時代から純粋で一本気な男でしたし、
貧しい農家の出だったからこそ 今の世の中のことが黙って見ていられなかったのでしょう。
・・・・彼は二月二十六日の朝、斎藤内大臣の家を襲って機関銃を撃ちこみ、
その後は渡辺教育総監の家を襲って渡辺大将を軍刀で刺し殺したといわれます。
・・・・事件が起こってすぐは安田君たちは、尊皇討奸の愛国者だといわれていたのに、
日も経ったら天皇の命によって反乱軍、逆賊の汚名を着ることになりました。
早ク原隊ニ帰レ!と命令が出され、命令ニ背ク者ハ、断乎武力ヲ以ッテ討伐スル、
と放送されました。
天皇のために一命を賭して騒ぎを起こしたのに、
天皇から反乱軍だといわれ、討伐されることになったのです 」
坂本先生はそこで涙を拭かれました。
そして言葉を詰まらせながら話をつづけられました。
「あの純粋な安田君は忠義のつもりが不忠になり、 なぜこんなことになるのかわからなかったでしょう。
将校たちは天皇の御命令が出た以上、それに背いたら本当に逆賊にされてしまうので、
何人かはその場で自決し、多くの人たちは抗戦をやめたのです。
・・・・きっとこの青年将校たちは、真崎大将や荒木大将が天皇にとりついでくれると期待していたのでしょうが、
事件が予想以上に大きくなったら、そんなえらい人たちは自分の身がかわいいし、
青年将校たちを見殺しにしたのですね・・・・安田君たちはさぞかし無念だったことと思います・・・・」

・・・
そのとき私は小学校五年生でした



本年一月の中頃かと思います。
歩一の栗原中尉の許に中島少尉(工兵)と共に行き、愈々、蹶起すべきことを申し合わせました。
之より先き相澤中佐の公判を見て、常に考えて居ったことは
大衆運動をやるべき秋で無く、 維新を直ぐに断行すべき秋であると考えて居ったのであります。
其の後二月二十五日午後二時、
中島少尉の下宿に於て(中島は)留守であったが、村中孝次と会見しました。
それは実行部隊の準備が完成したることを村中が私に告げたのであります。
その中に中島が帰って来て、愈々二十六日の黎明(レイメイ)を期して断行すると申し合せました。
断交後は生き残るべきでなく死を期してやるべきことだ、
万一、二人の中一人にでも生きて居れば、
互に相互の両親に此の実行の精神を十分に理解せしむる事を約束したのであります。
村中は先に、私は後に中島の宅を出しました。
・・・略・・・
自分は他人に覚られぬ様に長袴をはき拳銃、実包とを携え(短袴と共に鞄に入れて) 家を出ました
時は午後六時であります。
直ちに歩兵第三聯隊に行き、
第一中隊の坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉の四人にて事件に関する配備を研究しました。
斎藤内大臣の ( 此の配備の要領は別紙要図の如くであります ) 襲撃の配備の研究であります。
此の警備は克く坂井中尉が知って居る筈であります。
特に注意する事は、赤坂離宮より斎藤邸に入る道路、橋梁等の守備に任ずるもの
( 重機一、軽機一 ) 兵十二、三名には聖地の関係上絶対に射撃を禁ぜしめたのであります。
此の総兵力は一個中隊半位です。
其の他之等に関する決行後の配備等に就いて研究しました。
其れから、午前零時 矢野(正俊大尉)中隊の下士官を起しまして下士官十二、三名に自分達の決意を伝えました。
それは将校室にて他の三人の将校も列席して坂井中尉が伝え、後、私が伝えました。
其の要旨は、軍人は陛下の軍人たること、従て陛下の下に直参する心掛けが必要だ、
匹姿たる私利私慾の下に働いて居っては、決して軍人の本分を尽すことが出来ない、
故に軍人の必要なことは高位高官になることでなく、 職務上の役を立派に努め得る事であることを注意した、
其れから坂井中尉が配備を具体的に下士官に割り当て、私が其れに就て意見を述べたのです。
下士官に任務下達後、兵を起し軍装を整へました。
それは第二装着用、雑囊、防毒面を携行、
次に弾薬と食糧を規定に基き、 伝票に依り週番司令 ( 安藤大尉 ) の正規の手続きにて受領配分しました。
兵には大体下士官が教育したものと思ひます。
此の時は二十六日午前三時頃と思います。
午前四時に舎前に集合せしめて、坂井中尉が訓示を与え、兵は大いに勇躍して居りました。
此の中隊を連れて出発したので有ります。

其れから外苑を廻って信濃町を通り 斎藤氏宅に行きつゝ、逐次計画に基き完了したのであります。
其後 私と坂井、麦屋、高橋の四人にて屋内に侵入しました。( 戸は叩き破りました )
庭内に巡査が三十人許り居りましたが何等抵抗しませんので、
此の巡査には部長を通して説論を加へました処 克く判つたと言ひました。
内部には女中の案内に依り階上に行きました。
此の女中は非常に沈着して居り、狼狽の色なく連れて行つて呉れました。
其れから寝室の前には春子夫人が戸を開けて首を出しました。
中に入りました処、
内大臣が 「 何だ何だ 」 と 云つて出て来た処、 私達の姿を見て寝室の方へ逃げて行きました。
其れで三人で ( 麦屋は階上に上らず ) 
「 天誅 国賊 」 と云ひながら拳銃を発射しました。
拳銃は三人は 「 ブローニング 」、私のは 「 モーゼル 」 であって、 軍装整備上 平常より持って居ったのであります。
其れが克く命中して確に即死したと信じたのであります。
此の際 春子夫人は私達の行動を妨害しましたが、其れを離して斎藤氏のみを射撃したのであります。
後、終了 「 ラッパ 」 を玄関にて吹奏して下士官兵を集合させたのであります。
次に橋の下に至り、「 天皇陛下万歳 」 を三唱したのであります。
其の時、「 マント 」 を斎藤氏の邸外正門の前にて掛けて置き、後、兵に取らしめたか未だ判明しません。
後、私と高橋少尉と兵十四、五名を指導して、
田中中尉が恰度通りかかったので 自動車 (トラック) を準備して呉れたので、
赤坂離宮前にて之れに乗り、直に渡辺教育総監の許に行きました。 「 トラック 」 は邸内の側の道迄行き、
兵三名を下の方に出し ( 地方人が弾に当つたら危ないと思って ) 私達は正門の方へ行きました。
此の際 特に申すことは、
昭和維新断行は軍の強力一致にあれば、 渡辺総監も一体となる為めに之を求めんとして、
官邸に先づ迎へると言ふ事が真意であつたのですから 殺す意思は其時迄は無かったのであります。
而して正門から行きました私達は、単に総監を殺すならば裏門から行けばよいと云ふ事を判って居たが、
殺すのが目的でないので厳重なる戸締りある正門に向つたのです。
「 トントン 」 戸を叩く内に、「 ボン 」 という音がしたのでありますが、同時に私は倒れました。
其れから 二、三分経って 又 歩ける様になり 裏口に回りました処、
全部戸が開けてありましたので、直に奥様に閣下の許に案内して下さいと言ひました。
奥様は 「 其れが日本の軍隊ですか 」 と 云ひ返しました。
其れでも案内をしなかったので、閣下が何処に居るか判らなかったのです。
奥様が立って居るので怪しいと思ひ其の後の襖を開けて見ました。
閣下が布団を遮蔽的にして拳銃で射撃しました。
それ故に、私は飛込んで閣下に 二発拳銃を射撃しました。
軽機も射ちましたが、誰が射つ様にしたのか判りません。
私は不安心であつたが表に返しました処、高橋が大丈夫だと云ふので先づ安心しました。
其れから兵を集めて全部自動車に乗せまして、帰途に付きました。
其時憲兵がやつて来て自動車を降りて私達の自動車に近づきましたので私達が止めましたが
兵が二、三発射撃しました。
私は降りて憲兵の乗って来た自動車を 「 パンク 」 させて引き揚げました。
途中 中野付近で、憲兵将校二人の乗った自動車に会ひました。
一寸停車して私達を見ましたが、其の儘荻窪の方に行きました。
此の頃は午前六時半か七時頃です。
直ぐに陸相官邸に引き揚げましたが歩けませんので居りましたが、
憲兵が世話して玄関の側の室に連れて行き、看護長か誰か、手当をして呉れました。
之より自動車に乗り、 中島少尉が前田外科病院(赤坂区伝馬町)に連れて行って呉れ治療を受け、
昨二十九日午後二時頃迄入院して居りました。
此の時状況を 「 ラジオ 」 にて 「 勅命により事の如何を問わず所属隊に復帰すべし 」 と聞き、
之れにて先ず首相官邸に行かんとし自動車に乗り行った処同志が居らず、
陸相官邸に行けと言われ陸相官邸に行きました。
此の時参謀本部砲兵大尉(難波三十四)に会い、同じ砲兵であるので二人相擁して泣きました。
私は此処にて二、三時間待って居りましたか、私は自決の為拳銃を腹の中に蔵って居ったのでありました。
此の時私が考えたものは、自決するのが一番此の世の中では楽だと思いましたが、
自決したならば世の中は如何なるだろうと考えました、
然し 私として、どうしても自決せねばならぬと考えたのであります。
此処には栗原、香田、田中、丹生等の人々が集まって居りましたが、
別な砲兵少佐参謀(公平匡武)が是からの決心を訊きました。
私は 「 何も申し上ぐることはありません 」 と申し述べました。
然るに石原大佐が出て来て 「 検束する 」 と云ひましたが、
栗原中尉が 「 其れは間違いではありませんか 」 と言ったら、
石原大佐は 「 何 」 と 怒った様な口調で云ひましたが、
憲兵将校が 「其れは保護であります 」 と言われましたので、
石原大佐は 「 いや 間違ました 」 と云はれました。
午後六時頃であります。
其の時 石原大佐は 「 お前達は自首して来たのだらう 」 と 侮辱的に聞きましたから、
私は、「 自首して来たのでは有りません。
武人として面目を全うさせて頂き度い為めであります 」 と答へました。
私は 此の時遺憾に思うことは、自決する機会を与えられなかったことです。
即ち、私をして言わしむることを聞き、然る後武人の最後を飾らせて戴きたかったのです。
単に時間丈与えられても、結局それならば私達は何をやったか無意味なものになると思います。
つまり陸相官邸に病院から行ったのは、赤穂義士的の最期を求めたいと思ったからであります。
此の様に取り扱わるるとするならば、病院より陸相官邸に馳せ参ずるは誤りであった。
認識不足であったと思われて返す返すも実に残念であります。
私は陸軍大臣から告示を戴きました。
「 諸子ノ行動ハ天聴ニ達ス。諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 」 と 云う有難き御言葉に対し、
此の結果であまりにも差異があり、
此の分に於てはやがて凡てが暗から暗に葬らるるのではないかと心配し、
之が何より一番残念であります。

・・・安田優少尉の四日間  

宣言
維新と言ひ 革新と言ふは、 人類刷新天剣の行使あり。
吾人は是に奮起し、 左の奸賊を艾除するために天誅を加へむとす
目標                 担当者
西園寺公望       安田優  相澤三郎
一木喜徳郎       村中孝次
寺内寿一          丹生誠忠  安田優
牧野伸顕          水上源一
梅津美治郎       高橋太郎
南次郎             中橋基明
石原莞爾          坂井直  香田清貞
湯浅倉平          對馬勝雄   栗原安秀
宇垣一成          竹嶌継夫
現閣僚(全)        安藤輝三
石本寅三          田中勝
植田謙吉          林八郎
片倉衷             磯部浅一
軍法務官(全)    ( 但除 藤井法務官 )  右同
林銑十郎         中島莞爾
荒木、真崎、山下、石原       渋川善助
右天神地祗の加護を仰ぎ、
吾人全力を効して 是を必ず遂行せむとす
昭和十一年七月十一日  安田優


昭和維新・中島莞爾少尉

2021年03月09日 06時03分03秒 | 昭和維新に殉じた人達


中島莞爾 

昭和九年十月末日、

久留米の工兵第十八大隊より当地の津田沼鉄道第二聯隊に転任、
当時より常々、陛下のお側の奸臣共を討たねばならんと考へて居りし事に付、
気分が新になつて来ました。
計画と云ふものは、具体的には全くなかつたのであります。
殊に砲工学校に来ては兵は居らず、
部隊外にあつたから全くなかつたと云っても差支へないのです。
栗原中尉(歩一)、村中、磯部等とは同郷関係とか学校関係とかにより
比較的密接に交際して居りました。
安田少尉とは士官学校同期であり、
同志であると云ふことは任官して文通して初めて判ったのであります。
士官候補生時代には、種々の考へを持ったものもあつた様です。
但し別々にして、
少なくとも私は一人で考へてをつたので他人迄言ふ程はつきりしませんでした。
安田とは、信念に於ては少なくとも無二の同期生位に考へて居りました。
村中氏とは、予科の時は他の区隊長であつたから、
種々の動作を見聞し立派な人だと考へました。
即ち武人的の人と考へましたが、その後次第に親しくなつて来て、
私と同じ信念を持つて居る人であるとし、先輩として敬して居りました。
栗原中尉とは同郷であり、戦車隊附であり、市川で家を持って居った関係上家にも出入し、
又その以前より栗原氏の事を種々聞いて居り、津田沼に来ても話合って
同じ信念を持つて居る人であると言ふ事が判りました。
磯部氏と村中氏とは同じ程度知っております。
之れは十一月二十日事件前後、
村中氏の家にて会つて同じ信念を持つて居るものと考へました。
他には同志であめと云って特に交際したものはありません。
又、求めて実行の実を揚る為に同志を求むる必要もなく、
必然的に此信念を持つて行けば 同志と期せずして一致すると云ふ時に達し、
何時かは実行の実を挙げらるるものだと考へて居りました。




二十五日
昼迄、学校に居って・・・兄を送って帰りましたら村中氏が留守宅に来て居りました。

安田も亦学校帰りに寄ることを約束して居ったので来て居りました。
此処で初めて今夜決行することを知りました。
時は午后四時三十分ころであります。
その時に私は 高橋大蔵大臣の私邸に行くと云ふことと、
取敢へず歩一栗原中尉の許に行くこと、
さすれば近歩三の中橋中尉も来るから判ること、
の三点丈聞いて居ったので、 夕食後午后七時頃、円タクで歩一の栗原中尉の許に行きました。
(午后八時二十五分位前) 其処は歩一の機関銃隊事務室で中橋中尉を待つて居りました。
私は中橋中尉と行動を共にすることになって居るので、
中橋中尉が兵を持つて居るから 兵の配備等一切の具体的方法の計画は中橋中尉に委せたので、
従って私は何も栗原中尉と相談する必要もなく、
午後十一時頃迄中橋中尉を待つて居りました。
此処で中橋中尉は弾薬を六百発位受領しました。
それは誰から受領したかは判りませぬ。
拳銃は歩一に於て二六式一挺と弾薬五十発を渡されたが、
之は机の上に置いて誰が準備したか判らぬが多分栗原中尉と思ひます。
それから四人して近歩三の七中隊中橋中尉の中隊将校室に行き、
更に具体的の事に付 ( 高橋私邸の ) 約一時間話し合って
眠いので寝台上に横たはり 二時間足らず眠りました。
二十六日
午前四時一寸前に眼を醒し、四時三十分頃兵は整列しました。

中橋中尉は中隊長代理であるから自分の中隊を集めたのであります。
此時兵は非常呼集にて集合したのであります。
集合後、明治神宮参詣の為と営門にて衛兵指令に中橋中尉が云ひました。
営門出発後、途中高橋邸との中間位にて(何発か不明)実包を渡しまして行軍し 邸迄行きました。
此時初めて高橋蔵相をやつつけると云ふ事を兵一般に達しましたが、
下士官兵は沈着して一向に驚いた様ではありませんでした。
それで私は、 どの程度迄下士官兵に私達の信念が徹底されてあるかと内心心配して居りましたが、
此状態を見て安心しました。
即ち、私達の信念が中橋中尉により行届いて居ることを知ったからであります。
蔵相私邸に行き、私の分担である梯子をかけ、之を越して先づ巡査を説得せしめ、
玄関にて執事の如きものに案内させてグルグルと引廻して居りましたが、
やつと蔵相も居る処が判って、
中橋中尉は 「 国賊 」 と 叫びて拳銃を射ち、
私は軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました。
蔵相は一言 言うなりたる如くして別に言葉なく倒れました。
その他何等抵抗なく実行を終り、
兵を纏めてその内約六十名を引率して首相官邸に行きました。
その時は午前五時二十分位と思ひます。
・・・挿入・・・
「 午前五時十分頃、細田警手は青山東御殿通用門に勤務中、
 高橋蔵相私邸東脇道路より、将校一名・下士官二名が現れ、将校が同立番所に来て、
『 御所に向っては何もしませんから、なにとぞ騒がないで下さい 』 と 挨拶した。
細田警手は言葉の意味が解らず、行動に注意していたところ、
同将校は引き返し、道路脇で手招きして着剣武装した兵約一個小隊くらいを蔵相私邸に呼び寄せ、
内 十二、三名を能楽堂前電車通りに東面して横隊に並べ、道路を遮断し、軽機二梃を据え、
表町市電停留所にも西面して同様に兵を配置し、他は蔵相邸小扉立番中の巡査を五、六名で取り囲み、
十数名が瞬間にして邸内に突入した 」 ・・皇宮警察史
その後、邸内より騒音が聞こえ、銃声が七、八発したと同書にある。
まず鮮やかな手際ではあるが、
わざわざ軽機を目立たせた意図は明白である。
異変の出来を皇宮警察を通じ、守衛隊に知らしめる為に他ならない。
もし 隠密裡にことを達するつもりなら、銃を使用せずとも討ち取れる相手であろう。
高橋蔵相は齢八十二の老人であった。実際、襲撃は完璧に近いものであった。
護衛警官 玉木秀男に軽傷を与え軟禁し、所要時間わずか二十分たらずであった。
午前五時十分頃大蔵大臣を斃して門前に集合、
爾後突入部隊は中島少尉指揮し首相官邸に向ひ前進す。

・・・・・・
首相官邸には徒歩にて行き、五時四十分頃に着いたと思ひます。

その目的を達したらば首相官邸に集まることは中橋中尉から聞いて居りました。
中橋中尉は多分御守衛に行かれたものと思ひますが、その点ははつきりは判りません。
首相官邸到着後は、此兵は部下でありませんから曹長をして待機の姿勢にあらしめ、
自分は単独になり、
爾後、陸相、鉄相官邸等を往復して
兵の監督、庶務業務、伝令、 応対等に任じて十八日に至りました。

二十九日には
朝「ラジオ」を聞き、奉勅命令的のものが降ったと云ふ様な感がしましたが、
それは正式には私達には奉逹されなかつたので如何にす可きやを種々考へて、
未だ私達の使命は達せられないので、
飽迄之を達する迄生命の限り御奉公す可きであると考へ、自殺等の事はしませんでした。
又、私は部下を持ちませんが、 部下を持つて居る者は相当考へさせられて居った様であります。
私としては 今度の純真に働いて呉れた者が叛乱の汚名を兵にきせるのは実に憤慨に堪へません。
且つ痛嘆に考へましたのは、賊軍の汚名を着せるのは可愛相と思ひ、
兵を返した方がよいと思ひました。
実に下士官以下は、
私の信念を克ん考へて充分に働いて呉れるのは有難き強き日本軍人と考へられて涙に咽びましたが、
之等忠良なる人間に賊軍の汚名を着せるのが 気の毒に堪へませんでした。
而して、未だ生きて居って御奉公せねばならんと考へて居るので、
今日に至って居るのであります。

・・・中島莞爾少尉の四日間 

私どもの蹶起趣意は國體の眞姿顯現に盡き、
北、西田に利用されて民主革命を企てたのではありません。
現在の國法には背いたかも知れませぬが、
建國三千年来の國體に背いたものではありません。
不義を知って打たざるは不忠なりと信じて奸臣を斬ったのであります。


昭和維新・林八郎少尉

2021年03月08日 05時08分51秒 | 昭和維新に殉じた人達

軍神・林聯隊長 (林八郎の父) 
上海で最も頑強な抵抗を示した江湾鎮攻撃の際、
旅団長から
「 我が旅団は砲兵の協力を待たずして直ちに攻撃を開始する 」
との 命に接し、
林聯隊長は憤慨して、
「 陛下の赤子である兵隊の生命を何と考えるか 」
と 烈火の如く怒った。
林聯隊長はこの日、
「 兵隊達だけ死なすことは出来ない 」
と、みずから第一戦に進出し
壮烈な戦死を遂げた。 
・・・リンク→林大八 


林八郎少尉 
砲兵の協力無く独力で攻撃が成功すれば、
金鵄勲章の等級が上がるからである。
このような栄達主義、兵の生命を粗末にする堕落した軍の幹部、
そのような雰囲気を醸成している今の社会を 徹底的に改革しなければならない、
何よりも国家の革新が急務である、
と そう思った。



林少尉は 二六日の午後、
倉友音吉上等兵を供に銀座の松阪屋に買物に出かけた
蹶起将校たる白襷をかけ、
人々の視線の中 颯爽と店内を歩いた
林少尉は 晒布 墨汁 筆 を購入し、
首相官邸に帰ると 林少尉は
『 尊王維新軍 』
と 大書した幟を作って、
こうして、高々と掲げたのである

二月二十六日午前二時三十分頃

下士官を起こし中隊事務室に集合せしめ、
栗原中尉が

「 昭和維新の為、只今り出て行く。 目標は首相官邸 」
と 言ふ様な命令を出しました。
中隊下士官には、平素より昭和維新に付て充分教育してありました。
直ちに下士官は兵を起し武装をさせました。
服装は軍装にて背嚢を除き、重機関銃九銃は実包銃身六銃、空包銃身三銃、軽機関銃四銃、
拳銃は所持数全部、消防用鉞、梯子を携行せしめました。
兵員二百八十名を小銃三小隊及機関銃いち小隊に編成し、
中隊長栗原中尉は第一小隊長を兼ね、第二小隊長は池田少尉、第三小隊長は林、
機関銃小隊は尾島曹長が指揮をとりました。
午前四時三十分頃、
表門を出発し交番のなき道を選び、
午前五時稍前
岡田首相官邸に到着しました

林は首相官邸西方入口に、
附近にある巡査を逮捕せしむ可く五名を上等兵に附しやりました処が、
正門の所に居た巡査が邸内に逃げ込みましたので、
私の部隊は其の後を追って正門入口より邸内に侵入して了ひました。
そこで私は、池田小隊の一部を引率して西方入口より邸内に突入致しました。
其時交番所に向ひました。
上等兵の一隊は、激しく抵抗しながら西方入口の傍迄逃れた巡査を射殺しました。
西方入口り侵入した林の小隊は、日本間の玄関の扉を開けやうとしましたが開かないので、
向って右側の窓を打ち壊し侵入しました。
其時、警察官が非常に抵抗して兵数名が負傷致しましたので、
私がその先頭に立ち斬り込み追ひ払ひました。
首相の室内には誰も居りませんでしたから、明るくなつてから捜そうと決心して、
兵を邸内に配置して居ると、兵が人が居ると言ふので、
その部屋に行くと、
二人の巡査が居りましたので、 ・・・ 林八郎少尉 「 中は俺がやる 」
私は直にその一人を刺殺しますと、
後の一人が後方から私に抱きつき
倒しましたので直ちに起き上がり、その巡査をも斬殺して、
尚も室内を捜して居ると、

兵が室の側の空地に一人の男が居ると言って銃を構えて報告したので
射てと命令して 殺さしめました。

一発で殺したと思ひましたに、後で調べて見ると顔と腹に各一発宛中つて居りました。
尚、屋内を捜して居る内、
暫時経て 栗原中尉が首相が居たと言ふので行って見ると、
曩さきに自分が命じて撃たせたのがそれでした。
寝室の隣の部屋に揚げてあつた写真と照合せた結果、
其の男が岡田首相い゛あることを認めましたので、首相の寝床に抱え込み、
兵を表玄関前に集結しました。
此時が午前六時頃であります。

此れが済むと栗原中尉は東京朝日新聞社を襲撃する為、
「 トラック 」 二台に兵六十名余を乗せて出発しました。

暫時すると、蔵相を襲撃の目的に有した大江曹長の一隊六十名を
中島少尉が指揮して来ましたので、之れと合併しました。
負傷兵六、七名は衛戍病院に送り、朝食としてパンを市井わり購入しました。
パン代金は栗原中尉が支出しました。
その後は聯隊から給与を受けて居りました。
私は午后一時頃、陸軍大臣官邸に連絡に行き、約二時間位で首相官邸に帰りました。
陸相官邸では村中大尉に会ひました。
其処には小田大尉外数名の将校が居りましたが、記憶は確実ではありません。
私はそれ以来、首相官邸の玄関の方の東端の室を寝室に充て、昼間は玄関口に居りました。
二十八日に至り、
敵 ( 戒厳部隊の意 ) が進出して来たと言ふ事を聴いたので防禦配備に就きました。
最後迄一戦を交へる積りでした。
二十九日
栗原中尉が
「 此処迄やつて来たのだが、
お互い日本軍人が撃ち合っても仕方がないから潔く将校は陛下のお裁きを受けやう 」
と 言はれたので
私は之れに同意し、
兵を邸内の表玄関口に集め、尾島曹長に後事を委し 陸相官邸に参りました。
・・・林八郎少尉の四日間

< 二九日 >
午前十時か十一時頃、
兵は原隊に帰し、将校全員は陸相官邸に集合することになった。
私と林、そしてあとの二人の将校は一緒になって、首相官邸を出て陸相官邸に向った。
私と林と二人並んで歩いて行った。
歩きながら、 私は林に対し、陸相官邸に行ったら自決しようと言った。
林は黙っていた。
私は自決しなくとも殺されることは決っていると言った。
この時林は 私の顔をきっと見詰めて、
「 貴様は殺されるのが嫌なのか、殺されるのが恐いのか。
殺されるなら、撃たれて死んだらいいではないか 」
と 言った。
林の胸の中には軍首脳部の我々に対する態度を見て、
すさまじい反抗心と不屈の闘志が燃えていたに違いない。
後で私は この時の林の態度を思いおこして、
昔賤ケ岳の戦いに敗れた猛将佐久間玄蕃盛政が、秀吉の仕官のすすめを断り、
切腹も返上して縄を打たれて引き廻しの上、斬首された凄まじい闘魂に共通するものを感じた。

・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」 


昭和維新・池田俊彦少尉

2021年03月07日 05時17分04秒 | 昭和維新に殉じた人達

林は私に
「 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 」
と 言ったので、
「 よし、俺も行く 」
と 答えて中隊に帰った。
いよいよやるのだということで、
身の回りの整理するものは整理して、
夕食を居住室の食堂ですませてから自分の部屋に入った。
机に向って坐ると、 佐々木信綱の 「 萬葉読本 」、
美濃部達吉博士の 「 法の本質 」 や
先日買ったばかりのショーロホフの 「 開かれた処女地 」 等の本と共に
義兄の海軍中尉小林敏四郎から贈られてきた 「 靖献遺言講話 」 が 置かれてあった。
私はその中の 「 出師の表 」 の 終りの
諸葛孔明が出師の必要を説く最後の文章を読んだ。
凡そ事是の如く、逆(あらかじ)め見る可き難し。
臣鞠躬して力を盡し、死して後已まん。
成敗利鈍に至りては、臣の明の能く
(あらかじ)め観る所あらざるなり。
私はここを見て心の昻まりを覚え、迷いを断ち切った。

七時半過ぎであったと思うが、私は栗原中尉を機関銃隊に訪ねた。
栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
私は敬礼して
「 私も参加致します 」
と 言った。
栗原さんはうなずいて、私の顔をじっと見て、
「 俺は貴公を誘わなかったのだ 」
と 言った。
私が
「 林から聞きました 」
と 言うと、
栗原さんは、 私が一人息子だから誘いたくなかったのだ と いうことと、
私が行かなくてもいいのだと言った。
それでも私は
「 是非、参加します 」
と きっぱり言いきった。
この時、栗原さんは
「 有難う、そうか、そこまで考えていてくれたのか。中に入り給え 」
と 言って
先に立って将校室に私を導き入れた。

・・・池田俊彦少尉 「 私も参加します 」 

 
池田俊彦少尉


« 二十六日 »
午前五時頃、
栗原中尉は第一教練班及機関銃の主力を率ひ、
表門より突入し、次で林少尉の部下の大部分侵入し、
私の教練班並林少尉及林の部下一部は裏門から突入しました。
そして林少尉は中に入り、私は機関銃二銃を持って裏門の警戒に当たりましたが、
栗原部隊が首相を中庭でやっつけたので兵を表門に集結し、万歳を三唱しました。
当時大蔵大臣担任の近歩三中橋基明中尉及中島少尉の指揮する一隊も、
首相官邸に到着して居りました。
又、田中中尉は自動車一台、トラック二台(共に軍用) を持来て居りました。
・・・池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一任したいと思ひます 」 


栗原中尉は九時半頃、陸相官邸から帰ってきて、今から朝日新聞社を襲撃すると言った。
林少尉を首相官邸の守備に残して、中橋中尉、中島少尉と私が行くことに決まった。
田中中尉の部隊のトラック二台に機関銃一個分隊と兵約三十名を乗せて出発した。
官邸を出ると向うから馬に乗った将校がやってくるのが見えた。
近づくと近衛歩兵第一聯隊の小林少尉である。
小林は栗原中尉に向って、
「 林少尉に会いに来ました 」
と 言って官邸の方へ通ろうとしたが、栗原中尉に制止された。
「 我々と一緒にやるなら通ってもいい。さもなければ駄目だ。帰り給え 」
小林は執拗に頼んで前進の姿勢を示した。
「 一歩でも前進したら撃つぞ 」
栗原中尉は断乎として拒絶し、拳銃を構えたので、 小林少尉も止むなく馬首を廻らせて帰って行った。
小林少尉は、我々陸士四十七期生のトップで、林とは幼年学校以来の親友であり、
私とも府中六中の同期で親しい間であったので、
私は事の成り行きを困ったことになったと思いながら見守っていたが、
小林は栗原中尉との問答に気をとられていて、私の存在には気がつかなかった。
・・・破壊孔から光射す 

二月二十七日夕、
陸相官邸に於て 栗原中尉の除く外の全将校と軍事参議官と会見し、
野中大尉が一同を代表して次の事をお願ひしました。
「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一任したいと思ひます。
宜しくお願ひします。
軍事参議官閣下は真崎閣下を中心としてやられる事をお願ひ致します 」
それに対し阿部閣下は、誰を中心とすると言ふのではなく、
軍事参議官が一体となって努力するといわれました。
真崎閣下は、
「 諸氏の尊い立派なる行動を生かさんとして努力して居る。
軍事参議官は何等の職権もない。
只、陸軍の長老として道義上、顔も広いから色々奔走して居る。
陛下に於かされては 不
眠不休にて、御政務を総攬あらせられ給ひ、真に恐懼の至りである。
お前達が此処迄立派な行動をやって来て、陛下の御命令に従はぬとなると大問題である。
その時は俺も陣頭に立って君等を討伐する。
よく考へて聯隊長の命令に従ってくれ 」
と 言はれました。
そこで私等は退場し、聯隊長とは誰か、元の聯隊長か今の小藤大佐かと色々話合ひましたが、
そこへ山口大尉が来られ、真崎大将に対し、
「 奉勅命令の内容は我々を不利に導き、御維新を瓦解せしむるものなるや 」
と 問ひたる処、「 決して然らず 」 と 答へられました。
山口大尉は更に、「 聯隊長とは誰か 」 と 問ひたるに、
「 小藤大佐なり 」 と 答へられました。
そこで吾等は、一に大御心にまかせ、聯隊長の命令に従ふことを誓ひました。
・・・池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一任したいと思ひます 」 

« 二十八日 »
この日の午後、 栗原さんは出て行き、首相官邸はひっそりしていた。
午後二時頃、
私が一人で官邸にいたとき、小藤聯隊長がやって来られた。
そして私に栗原中尉を呼んでくるように命じられた。
私は栗原中尉が安藤部隊に行ったことを知っていたので、
安藤部隊のいる料亭の幸楽へ出かけた。
この時、 攻撃軍は われわれの周囲をびっしりと取り囲み、
虫の這い出ることも出来ない状態であった。
部隊の中には戦車も見られた。
私は攻撃軍の前をよぎって行かねばならないので、
明らかに蹶起部隊の将校と見られ狙撃されることもあり得ると考え、
はっきりそれと判断しにくいように持参していたマントを着て出かけた。
幸楽の前に来ると、安藤大尉と丹生中尉がいた。
兵達は鉢巻をして前を睨み、攻撃軍と対決し、皆、非常に興奮していた。
私が近づいてゆくと安藤大尉が進み出て、
貴様は誰だ、と 怒鳴った。
丹生中尉が あわてて私を同志だと紹介したので、 安藤大尉の顔色は和らいだ。

丹生中尉でもいなければ、突きとばされかねまじき勢いであった。
私は安藤大尉を知っているけれども、 先方は私を覚えていないから無理もない。
栗原中尉は先程迄いたが、帰ったとのことで、
私は急いで官邸に帰ってきたが、小藤聯隊長の姿はすでになかった。

しばらくして栗原さん達が帰ってきた。
この時いた者は 対馬中尉、中橋中尉、田中中尉、中島少尉と 林と私であった。
栗原中尉の顔には憔悴の色が漂っていた。
栗原さんは我々に向かって言った。
「ここまで来たのだから、兵は原隊に帰し、我々は自決しよう 」 皆、黙然として一言も発しなかった。
誰も自決に反対する者はいなかった。
首相官邸にいた者はこの時、全員自決を決心した。
私は林と向き合って、拳銃の引鉄を引けばそれで終わりだと思った。
不思議にさっぱりした気持ちであった。
それからしばらくして村中さんが来た。
村中さんもやはり兵を引いて自決しようと考えたいた一人である。
この時、突然ざわめきが聞こえてきた。
攻撃軍が攻めて来るというのである。
我々は一斉に立ち上り、 急いで坂の下の方へ駆け下りて行った。
村中さんは抵抗してはいけない、討たれて死のうではないかと言った。
私は第一線をかけ廻って兵達に絶対に撃ってはならぬと厳命した。
私も、やはり村中さんの言った通り撃たれて死のうと覚悟をきめた。
しかし攻撃軍は動かず静かであり、じっとこちらの動きを見守っているようであった。
この頃、何処からともなく群衆が集まってきた。
私に対して話を聞かせてくれとしきりにせがんだ。
私は次のような話をしたことをかすかに覚えている。
「 我々は天皇陛下の聖明を掩い奉り、
我が国の前途に障害をきたす奸賊を斬って、昭和維新のために立ち上ったのだ。
大化の改新の際も 中大兄皇子が奸物蘇我入鹿を倒して、
破邪顕正の剣を振るわれて大化の新政を実現したように、 奸賊共を斬ったのだ。
日本の歴史はいつもこのような正義の力によってのみ切り開かれてゆくのだ。」
このようなことを言って、
ちょっと言葉が途切れたとき、
一人の風采いやしからぬ四十位の人が私に近づいて、
「おっしゃることはよく解りました。
しかし、皇軍同志撃ち合うようなことにならぬようにくれぐれもお願いします。
私共はそれが一番心配なのです」
と 言った。
私は、
「 そのようなことは絶対にありません。
私達はこちらから撃ったりするようなことはありません」
と 答えた。
・・・磯部浅一 「おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」 

« 二十九日 »
午前十時か十一時頃、

兵は原隊に帰し、将校全員は陸相官邸に集合することになった。
私と林、そしてあとの二人の将校は一緒になって、首相官邸を出て陸相官邸に向った。
したがって、あとで桜井参謀と栗原中尉と兵達との劇的場面には立ち合うことが出来なかった。
このことは 林は後で後悔していた。
一言、兵達に自分の気持を話して別れの挨拶をしたかったと言っていた。

私と林と二人並んで歩いて行った。
歩きながら、 私は林に対し、陸相官邸に行ったら自決しようと言った。
林は黙っていた。
私は自決しなくとも殺されることは決っていると言った。
この時林は私の顔をきっと見詰めて、
「 貴様は殺されるのが嫌なのか、殺されるのが恐いのか。
殺されるなら、撃たれて死んだらいいではないか 」 と 言った。
林の胸の中には軍首脳部の我々に対する態度を見て、
すさまじい反抗心と不屈の闘志が燃えていたに違いない。
・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」