あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一 ・ 行動記

2017年06月26日 08時43分46秒 | 磯部淺一 ・ 行動記

村中、香田、余等の參加する丹生部隊は、
午前四時二十分出發して、栗原部隊の後尾より溜池を經て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、官邸内數發の銃聲をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊對抗の第一遭遇戰のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
( 同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)
余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。
五時五、六分頃、陸相官邸に着く。 
 ・・・いよいよ始まった



磯部淺一 
行動記
目次
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 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」 
・ 
第二 「 栗原中尉の決意 」 
 第三 「 アア 何か起った方が早いよ 」 
・ 
第四 「 昭和十一年の新春を迎へて世は新玉をことほぐ 」 
・ 
第五 「 何事か起るのなら、何も云って呉れるな 」 
・ 
第六 「 牧野は何処に 」 
・ 
第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戰わしてはいけない 」 
第八 「 飛びついて行って殺せ 」 
・ 
第九 「 安藤がヤレナイという 」
・ 
第十 「 戒嚴令を布いて斬るのだなあ 」 
・ 
第十一 「 僕は五一五の時既に死んだのだから諦めもある 」 
・ 
第十二 「 計畫ズサンなりと云ふな 」 
・ 
第十三 「 いよいよ始まった 」 
・ 
第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」 
・ 第十五 「 お前達の心は ヨーわかっとる 」 
・ 
第十六 「 射たんでもわかる 」 
・ 
第十七 「 吾々の行動を認さんめるか 否か 」 
・ 
第十八 「 軍事參議官と會見 」 
・ 
第十九 「 國家人なし、勇将眞崎あり 」 
・ 
第二十 「 君等は 奉勅命令が下ったらどうするか 」 
・ 
第二十一 「 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう 」 
・ 
第二十二 「 斷乎 決戰の覺悟をする 」 
・ 
第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 
・ 
第二十四 「 安藤部隊の最期 」 
・ 
第二十五 「 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ 」 

首相官邸に至り、栗原に情況を尋ねる。
彼は余の發言に先だって、
「 奉勅命令が下った様ですね、どうしたらいいでせうかね。
下士官兵は一緒に死ぬとは云ってゐるのですが、可愛想でしてね、
どうせこんな十重、二十重に包囲されてしまっては、戰をした所で勝ち目はないでせう。
下士官兵以下を歸隊さしてはどうでせう。
そしたら吾々が死んでも、殘された下士官兵によって、第二革命が出來るのではないでせうか。
それに實を云ふと、中橋部隊の兵が逃げて歸つてしまったのです。
この上、他の部隊からも逃走するものが出來たら、それこそ革命党の恥辱ですよ 」
と 沈痛に語る。
余は平素、栗原等の實力 ( 歩一、歩三、近三部隊の實力 ) を信じていた。
然るにその實力部隊の中心人物が、情況止むなく戰闘を斷念すると云ふのだから、
今更余の如き部隊を有せざるものが、無闇矢鱈に鞏硬意見を持してみた所で致し方がないと考へた。
栗原は第一線部隊將校の意見をまとめに行く。
余は一人になって考へたが、どうしても降伏する気になれぬので、
部隊將校が勇を振るって一戰する決心をとって呉れることを念願した。
その頃、飛行機が宣傳ビラを撒布して飛び去る。
・・・もう一度、勇を振るって呉れ


行動記 ・ 第一 「 ヨオシ俺が軍閥を倒してやる 」

2017年06月25日 08時39分57秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一 

行動記   
昭和十一年八月十二日菱生  誌
第一
八月十二日は
十五同志の命日
因緣の不思議は此日が
永田鉄山の命日であり、今日は宛もその一周忌だ。
昭和十年八月十二日、
即ち去年の今日、
余は數日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が來訪した。
余の住所、新宿ハウスの三階にて
氏は
「 昨日相澤さんがやって來た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、
陸軍省へ行って永田に會ふと云って出た 」
余は病後の事とて元氣がなく、氏の話が、ピンとこなかった。
実は昨夜
村中貞次氏より来電あり、本日午前上野に着くとの事であったので、
村中は仙台に旅行中で不在だったから、小生が出迎へに行く事にしてゐたので、
病後の重いからだを振って上野へ自動車をとばした。
自動車の中でふと考へついたのは、
今朝の西田氏の言だ。
そして相澤中佐が決行なさるかも知れないぞとの連想をした。
さうすると急に何だか相澤さんがやりさうな気がして堪らなくなり、
上野で村中氏に會はなかったのを幸ひに、自動車を飛ばして陸軍省に行った。
来て見ると大変だ。
省前は自動車で一杯、
軍人があわただしく右往左往してゐる。
たしかに惨劇のあった事を物語るらしいすべての様子。
余の自動車は省前の道路でしばらく立往生になったので、
よくよく軍人の擧動を見る事が出来た。
往来の軍人が悉くあわててゐる。
どれもこれも平素の威張り散らす風、気、が今はどこへやら行ってしまってゐる。
余はつくづくと歎感した。
これが名にし負ふ日本の陸軍省か、
これが皇軍中央部将校連か、
今直ちに省内に二、三人の同志將校が突入したら 陸軍省は完全に占領出来るがなあ、
俺が一人で侵入しても相當のドロホウは出来るなあ、
情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、
今にして上下維新されずんば國家の前路を如何せん
と いふ普通の感慨を起すと共に、
ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、
既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた。
振ひ立つ様な感慨をおぼえて 直ちに瀬尾氏を訪ね、金三百圓 ? を受領して帰途につく。
戸山學校の大蔵大尉を訪ねたのは十二時前であったが、
この日丁度、
新教育總監渡邊錠太郎が學校に来てゐた。
正門で大尉に面會を求めると、そばに憲兵が居てウサンくささうにしてゐた。
これは後に聞いた話だが
この時憲兵は、余が渡邊を殺しに来たらしいと報告をしたとの事である。
陸軍の上下が此の如くあわてふためいてゐるのであるから、
面白いやらをかしいやらで物も云へぬ次第だった。

相澤事件以来、余と村中に対する憲兵、警視廳の警戒は極端であった。
特に赤坂憲兵分隊の態度は憤慨にたへぬものばかりであった。
新宿ハウスへは朝から晩迄つききりに憲兵がゐる。
大体八人は来てゐて外出にはウルサクつきまとふ。
余は
「 君等も日本人だらふ、正義を知れ、何れが正しいかを知れ、而して微行をやめよ 」
と 下士に云った所が、
驚く勿れ、この憲兵は
「 いや微行ではありません、公然と付くことになっているのです 」
と 云って、すましてゐるのだ。
村中は仙台に帰ってゐたが、仙台も相當ひどかったらしい。
この頃村中が東北の青年をつれて東京に潜入し、陛下に直訴をすると云ふ風説がとんだ。
又、永田の葬儀の日に磯部が爆弾を以て青山祭場を襲ふたと云ふ風説もつたはった。
葬儀の當日、
余は相澤中佐に差入れをしやうと考へて、
リンゴを黒い風呂敷につつんで家を出た所が、
憲兵が直ちに微行して来たので、
いきなり圓タクに乗って憲兵をまきながら、
青山から代々木の刑務所へ出た様な事実があった。
陸軍の上下も、國家の内外も、吾等同志の間も実に騒然として、
天下の事いよいよ多事ならんとするの気配だ。
栗原、明石両君等は、若い將校とひそかに何事かを語ってゐる様子。
地方の靑年將校からも激烈な通信がある。
羅南の長尾少尉は聯隊を抜け出して上京し、田中勝君と連絡してゐるらしい。
菅波大尉上京せりの風説は起ったが、大尉の所在は杳として不明。
天下はあげて吾等同志將校に気をもんでゐる。

次頁 第二 「 栗原中尉の決意 」  に 続く
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行動記 ・ 第二 「 栗原中尉の決意 」

2017年06月24日 08時35分36秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第二

一時バット高まった
気分が段々と落ちついて、
東京も各地も同志はジックリと考へる様になった。
特に在京の同志は一様に中佐にすまぬ、
在京靑年將校のいく地のない事が天下の物笑ひの種になるぞ、
猛省一番せねばならぬ秋だとの考へを起した様子がありありと見えた。
栗原中尉の如きは、
氣鋭の靑年將校を集めては絶へず慷慨痛憤していた。

栗原君は 某日余を訪ねて泣いた。
磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、
私は他の同志から栗原があわてるとか、
統制を亂すとか云って、如何にも栗原だけが惡い様に云われている事を知っている。
然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、
私の様に居ても立っても居られない程の氣分に迄、
進んで呉れないかと云ふ事が殘念です。
栗原があわてるなぞと云って私の陰口を云ふ前に、
なぜ自分の日和見的な卑懦な性根を反省して呉れないのでせうか。
今度、相澤さんの事だって靑年將校がやるべきです。
それに何ですか靑年將校は、
私は今迄他を責めていましたが、もう何も云ひません。
唯、自分がよく考えてやります。
自分の力で必ずやります。
然し、希望して止まぬ事は、
來年吾々が渡満する前迄には在京の同志が、
私と同様に急進的になって呉れたら維新は明日でも、今直ちにでも出來ます。
栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、
私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は劍にかけても許しません。
私は必ずやるから磯部さん、その積りで盡力して下さい」
 と。
私は栗原から胸中を打ち明けられて
自分でも千年來期する當があったので
僕は僕の天命に向って最善をつくす、
唯誓っておく、磯部は弱い男ですが、
君がやる時には何人が反對しても私だけは君と共にやる。
私は元來松陰の云った所の、
賊を討つのには時機が早いの、晩いのと云ふ事は功利感だ。
惡を斬るのに時機はない、朝でも晩でも何時でもいい。
惡は見つけ次第に討つべきだとの考へが靑年將校の中心の考へでなければいけない。
志士が若い内から老成して政治運動をしてゐるのは見られたものではない。
だから私は今後刺客専門の修養をするつもりだ。
大きな事を云って居ても、いざとなると人を斬るのはむつかしいよ。
お互いに修養しよう、他人がどうのかうのと云ふのは止めよう、
君と二人だけでやるつもりで準備しよう、
村中、大蔵、香田等にも私の考へや君の考へを話し、又むかふの心中もよくきいてみよう

と 語り合ったのである。
實際、栗原の様なヤルヤル専門の同志がもう三、四人いたら出來るがなあ、
暴虎嗎河の勇者がほしい、熟慮退却の人間が多すぎる。
靑年將校は政治家でも愛國團體の公演掛でもない筈だと言ふ考へを起して、
すこぶるあきたらぬ時であったから、
栗原の言をいちいちもっともなことだと考へた。
栗原に云はれる迄もなく、
自分で力を作り
自分一人でやると云ふ準備をせねばならぬ事だけは充分に判ってゐたつもりだが、
相澤中佐の様にえらい事は余にはとても出來なかった。
其れで相澤事件以來は弱い自分の性根に反省を加へ、之を叱咤激励する事につとめた。
特に、ともすれば成功主義即ち打算主義に流れようとする薄弱賤劣な心を打破して、
一徹な正義感によって何事もせねばならぬことを、自己の信仰とせねばならぬと考へて、
一切の打算から離隔する事に努めた。

村中、香田には意中を語った所、
來年三月頃迄には解決せねばならぬと云ひ、
特に香田の如きは七月、
眞崎大將更迭事件の統帥權干犯問題に非常なる憤激をなし、
蹶起する決意で武装を整へて週番に服した事を語って、決意すこぶる堅い事を知った。
相澤事件以來、
警戒嚴重になって相當に活動をジャマされたが、村中と余は同居して東西に奔走した。
十月末になって、
余は思ふ所あって、村中と別居して一戸を構へた。
思ふ所といふのは、いよいよ蹶起の準備にとりかかる事だ。
村中、澁川が、相澤中佐の片影、大眼目等の文章戰事務に熱中してゐるので、
余は武力専門でゆかう、
文書戰など如何にして見た所で、金がいるばかりだと云ふ至極簡短な考へから、
文書戰事務から遠ざかったのだ。
余はどこ迄も實力解決主義で、實力をつくること、
然もその實力は軍隊を中心とした實力でなければいけないと考へたので、
自分一人ででも蹶起し得べく、
田中勝の部隊を中心として實力編成に専念する事にした。
この考えから、
十月末以降は栗原との聯絡と田中、中島部隊及び、河野との聯絡打合せをしばしば實施した。

次頁 第三 「 アア 何か起った方が早いよ 」 に 続く
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行動記 ・ 第三 「 アア 何か起った方が早いよ 」

2017年06月23日 08時32分52秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第三

十一月中は専ら田中部隊を中心として、
少數の同志で快速なる活動により斬奸の目的達しようと考へ、
図上の考案や腹案をねったが、なかなか思ふ様に行かぬ。
特にどう考へても満足出來ぬのは、將校同志三名(田中勝、河野壽、余) だけで
數目標を攻撃することが至難である關係上、
下士官を如何に配置するかと云ふことと、
如何に之を短日時の間に訓練するかと云ふ事であった。
田中勝は砲兵學校在學中であったから、
十二月卒業歸隊後、
下士官、兵の革命教育を始めねばならぬ狀況にあるし、
河野は元野重七出身であるが、
飛行在學中で とても下士官等の訓練、訓とう は出來得べくもない。
何れの条件から云っても、
部隊はとても思ふ様に維新的訓練は出來さうにもない。
玆に於て余は、
下士官兵が思ふ様に訓練出來なければ、
指揮官の決心を異常に高めておく必要があると考へ、
田中、河野との聯繋を密にする一方、余自身の決意を確りとさせる修養をした。
十二月になってからは、
一日から二十日迄は他出して、雑多な人と雑談するをさけ、妄念の斷離につとめた。
之が為 毎朝早く起き、明治神宮に參拝することと、
北氏筆の國體論の精讀淨書を日課とした。
かくの如くして居る間に、余の腹中に何物か堅い決意の中心が出來た。
いよいよ決行出來る丈けの腹が出來たと云ふわけだ。
それで今度は少しく軍當局者の腹中もさぐって見たいと云ふ慾が出來たので、
秦中將を通じて荒木、眞崎、古莊、杉山等から、
何事か起った場合の中央部の態度を知ることにつとめた。
村上大佐を通じ
陸軍大臣の態度をたしかめ、
且、菅野氏を通じ森傳氏から 眞崎、川島の態度について確かめた処が、
どれもこれも大した返事はきかれぬ、
唯 一同一様に困ってゐるらしい事だけはたしかだ。
何事か起らねば かた付かぬ、起った方が早く片付く
と 云った事丈は皆考へてゐる事がたしかである。
十二月中には小川の上京を機會に、古莊、山下、眞崎に會った。
古莊は一流の理屈をクドクドと云ってゐて、
とても 吾々の様にせいている人間と話があひさうにもなかったが、
小川が、
「このままおいたら必ず血を見ますがいいですか」
と 云ったに対し、
ウウ と つまった。
そして急進ではいかんとの旨を述べた。
山下は
改造改造と云ふが、案があるか、案があるならもって來い、
アカヌケけのした案を見せてみろ、
と 云って 一應嘲笑した態度であったが
案よりも何事か起った時どうするかと云ふ問題の方が先だ
と いふ意味の余の返答に対して、

アア何か起った方が早いよ
と 云って泰然としていた。

又、眞崎は
非常に憤慨したおももちで、
このままでおいたら血を見る、
俺がそれを云ふと眞崎がせん動してゐると云ふ、
何しろ俺の周囲にはロシアのスパイがついている

等、
斷片的に時局いよいよ重大機に入らんとするを豫期せる如くに語った。
これより先、七月頃? 
余は川島を訪ねて談を聞いた所、
川島は
現狀を改造せねばいけない、
改造には細部の案なぞ始めは不必要だ、
三つ位ひの根本の方針をもって進めばいい、
國體明徴はその最も重要なる一つだ、
軍備は宇垣、山科時代に、
馬の脚を三本にした様に全くカタワにしたから至急に充實せねばいかん、
三十億位ひの豫算を必要とするのだ、
廣義の國防と云ふ見地から國民生活の事も考へねばいけない
と 云ふ様な話を二時間にわたって熱心にして呉れた。
そして眞崎、荒木の事を世間で彼是云ふが、二人とも立派な將軍だ、
余は人事局長時代、將崎、荒木を要職につかしむべきを具申した事がある。
眞崎を參謀次長にスイセンしたのは余である、と云ふ事も語った。
又、川島は林のあとをうけて大臣に就任する時、
菅野氏 ( 菅野氏は森氏より ? ) を通じて、靑年將校の動靜をたづねて來た。
余は時局の重大性をとき、靑年將校の蹶起の必然をほのめかし、
川島の斷じて大臣たるべからざるを力説して譲らなかった。
森氏の如きは、
余の意見に全部的同意をなし、川島の出馬を阻止したが、川島は斷乎出馬した。
彼が大臣に就任するにあたり、
眞崎と相談し、「靑年將校の方はどうだらふか」 と問ひために、
眞崎は
「この狀態では誰が大臣になってもむつかしいが、君がなるなら俺が出來る丈の事はして助ける」
と 答へたとの事は確實なる話しだ。
大臣就任早々、
彼は七月訪問の際、
余に語りたる所の三つの方針を發表して鞏硬態度で活動し出した。
余はヤルヤルと思ったので、
十二月迄に内閣を倒して川島に引け、といふ意見の具申をして見た所が、
なかなか さう急にはゆかぬが、ヤラネバナラヌコトはやると云った様な態度である事が分った。
以上の諸点を表裏から考案してみると、
川島には何等かの腹がある、
事件突發の時、頭から靑年將校を討伐はしない、
必ず好意的善処してくれると考えた。

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行動記 ・ 第四 「 昭和十一年の新春を迎へて世は新玉をことほぐ 」

2017年06月22日 08時28分07秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一 
第四

昭和十一年の
新春を迎えて
世は新玉の年をことほぎ、太平をうたふ
ので あったが、
余の心は太平所か新年早々、非常な高鳴りをなし、
ショウソウを感じて日々多忙を極めた。
年末に企圖した倒閣運動は功を奏しないのみか、重臣元老の陣營は微動もせぬ、
牧野の後任として齋藤が入り、一木は依然として辭任しない。
しかのみならず、
多少の信頼をつないでゐる川島の態度は、次第に軟化する様子さえ見える。
年末の軍事豫算問題にミソをつけた川島は部内から反對をされ、
後任として余の最も警戒し居たる寺内の呼び声が起った。
ここで寺内にでも出られたら、大變な事になる。
寺内は齋藤の腹臣児玉と従兄弟關係にあり、
湯淺とは同郷關係、木戸幸一とも裏面の關係がある事は想像にかたくない。
然る次第で、
寺内の陸軍大臣説に對して、
余は重臣元老群の逆襲拠点の補強作業がはじまったのだと観察した。

十二月末頃迄は倒閣によって少しでも局面の新しく展開することを希望してゐた。
玆に於て、余は倒閣運動に對する考へを一變した。
その理由は倒閣は必ずしも不可ではないが、
その結果寺内が出馬することになると、維新派のために極めて不利になる、
だから優柔でも川島が存在してゐる事の方が好都合だ、
從って倒閣運動などに力を入れることはつまらぬことだと云ふわけだ。

一月廿日すぎてからは
専ら武力解決の爲に全力をそそいだ。
議會が解散されて相當に世の中が騒しくて、
同志中にも選擧の結果がどうなるの、かうなるのと云って、
それに氣をとられて情況判斷の競爭をしてゐるかの感を抱かしむる物等もあったが、
余はそんな事に不關ず、否選擧運動に興味をもち之に没頭する様な同志はこの際、
見かぎりをつける可きだ、革命運動は選擧運動でもなく、政治ゴロの政治運動でもない、
革命家が選擧運動をすると云ふことは、革命家の堕落だとさへ考へた。
それでも同志中の誰かに語った事がある。
選擧運動なんかやる連中は、吾人の眞の同志にはなり得ないものだ。
愛國運動者の屑だ。
吾人はかくの如き同志の爲に、その冷嚴な革命精神をかき亂されてはならぬ。
特に革命將校は劍によって事を解決する事を誇りとしなければならぬ程度のものである筈だ。
だから選擧運動をやる連中などと絶縁せよ。
而して 二月の下旬に定る選擧の結果などを、
一ケ月も前からかれこれと想像したり 判斷したり してゐる事は、時間と精力の浪費だ。
今や吾人革命軍人が考へねばならぬことは選擧の結果ではなくて、
それがどうであらうと選擧終了の時機には劍をとって蹶起せねばならぬと云ふことだ。
今は情況判斷の時機ではない、決心の時機だと。
余は武力蹶起について、兵力部署等に關しては目安をつけてゐたので、
大體心配ないと考へたが、軍部の態度については一面憂慮した。
それで一月二十日以降に於ては、
軍上層部の意嚮を少しでも知っておきたいと考へたので、川島陸相の所を先づ訪ねた。
一月二十三、四日頃の夜、
森氏と共に官邸に至り、
三時間餘り會談したが、大した収穫もなかった。
唯 余は
「 渡邊敎育總監は世の疑惑大である。
 特に新年早々テキ屋にねらはれた事實さへあって、靑年將校の憤激は一通りではない。
あのままにしておくと必ず血をみる。
然も敎育總監部系統の將校が多數して渡邊大將を斬る様な事態が必ず起る。
靑年將校も今度やれば五 ・一五事件位ひの小さな事ではなくて、大仕掛な事をやると思ふが、
一體事件の起きた時、如何に軍部はなすべきや」
と 問を發してみた。
処が大臣は、
「 渡變大將は自分でやめるとよい、君等はそれをすすめたらいいだらう 」
と 答へ、
更に余が、
地方でも將校團の靑年將校や敎導學校の區隊長等が、
誠心をひらいて辭職をすすめてゐるが、却って之等の將校が彈壓されてゐる。
最早 つくすべき所は盡したのだから、
此の次なは必ず何事か起きるといふ事を返答したら、
大臣は大體、千葉歩校、豊橋敎校及び九州、朝鮮、東北各地將校の敎育總監に對する
辭職勧告乃之が彈壓の狀態を知っていて、
余に之を語りながら、仕方がないなあと云ふ旨をもらした。

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第五 「 何事か起るのなら、何も云って呉れるな 」 に 続く
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行動記 ・ 第五 「 何事か起るのなら、何も云って呉れるな 」

2017年06月21日 08時22分31秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一
第五

そこで余は、
必ず何事か起りますぞと強く一本釘をさした。
又、森氏は、
磯部君は靑年將校をなだめるのに困る狀態にあるらしい、
私は磯部君を常に引止める様にしてゐるが、
どうも一般の狀態は最早停止させる事は出來ぬらしいのだから、
大臣、あなたがウンと力コブを入れて努力せられねばいけません、
と 付加へた。

會見は以上の程度の内容しかなかったが、
この會見に於て、余の川島から受けた感じは、
何事か突發した場合、彈壓はしないと云ふ事であった。
夜十二時過、
歸宅せんとするとき大臣は、わざわざ銘酒の箱詰になったのを玄關に持出し、
一升ビン一本を取り出し
この酒は名前がいい 雄叫と云ふのだ、
一本あげよう、三、四本あるといいが 二本しかないから一本あげやう、
自重してやりたまへ、
等 云ってすこぶる上機嫌であった所などを考へても、
何だか吾々靑年將校に好意を有してゐる事推察するに難くなかった。
川島の會見に於て充分なね結果を得なかったので、
川島と交友關係に於て最も厚い眞崎を訪ねる事にして、
一月二十八日、
相澤公判の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした。
面會を求めた所が用件を尋ねられたので、
名刺の裏に火急の用件であるから是非御引見を得たい、
との旨を記して差出したら、應接して呉れることになった。
眞崎は何事かを察知せるものの如く、
何事か起るのなら、何も云って呉れるな
と 前提した。
余は統帥權干犯問題に關しては決死的な努力をしたい、
相澤公判も始まる事だから、
閣下も御努力していただきたいと云って、金子の都合を願った。
大將は俺は貧乏で金がないが、いくら位ひいるのだと云ふ。
金は千圓位あればいい、なければ五百圓でもいいと云って、大まけをして半額に下げた。
「 それ位ひか、それなら物でも賣ってこしらへてやらう、
 君は森を知ってゐるか、森の方へ話してみて必ずつくってやらう」
と 云って、快諾して呉れた。
余は、これなら必ず眞崎大將はやって呉れる、
余とは生れて二度目の面會であるだけなのに、これだけの好意と援助とをして呉れると云ふ事は、
靑年將校の思想信念、行動に理解と同情を有してゐる動かぬ證拠だと信じた。
特に森氏を眞崎が絶對に信じてゐる事、
及び川島と森氏とが極めて親交があることを先に實現した事から、
川島、眞崎の關係が絶對に良好であることの確信を得た。
森氏が實によく靑年將校の狀態を知ってゐるのは、眞崎、川島から聞くのだ。
この事から想像すると、
兩将軍が靑年將校の威武を相當にたよりにしてゐる事が明らかである。
殊に眞崎は
村中、磯部は免官になったが、
復職させてやるなどと森に語った事すらあるらしいのだから、
尚更だと云へる。

次頁 
第六 「 牧野は何処に 」 に 続く
目次 磯部浅一 ・ 行動記 


行動記 ・ 第六 「 牧野は何処に 」

2017年06月20日 08時17分40秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一 

第六

陸軍に於て、
陸軍大臣と之を中心とした一團の勢力が吾人の行動を認め、
且つ 軍内の強行派たる眞崎が背後から支援をして呉れたら、
元老、重臣に突撃する所の吾人を彈壓する勢力はない筈だ。
若し彈壓することになると、
彈壓した勢力は 國民の敵たる元老、重臣の一派とならねばならなくなるのだから、
大變なことになる。
まさか軍部が國民の敵となって重臣、元老と結託はすまい。
多少の異論、或は相當の混亂は軍部内にも起るだらふが、
頭から靑年將校をたたきつける様に事はすまいと云ふのが、余の一月迄に得た情況判断だ。
これは、眞崎、川島、古莊、山下、村上軍事課長と直接面會して感得した所だ。
村上の如きは余に對して、
君等を煽動するのではないが、
何か起らねば片付かぬ、起った方が早い、
と云って、宛も事の起るのを待つかの如くであった。

相澤中佐の公判は劈頭より大波亂を起した。
豫審のズサンなる取調べに對し、弁護士が俄然鋭い攻撃を始めたからだ、
公判に對する世論の評は、將に中佐に九割の勝利を示してゐる、
全國民の声援も甚だしく高まりつつある。

余は去年來の決心をいよいよ鞏固にした。
それで他の同志がたとい蹶起せずとも、
余は田中部隊を以て河野、山本と共に蹶起する決心で着々準備をした。
栗原もその周囲 (歩一を中心として近三) を ガッチリとかためる事に日夜をあげている様子だ。
唯 困った事は襲撃目標を如何なる範囲にし、如何に部隊を配當するかと云ふ事である。
余は最初は少數同志でやるつもりでゐたが、栗原の言によると相當なる部隊を出し得るとの事だ。
余の計畫は最初は田中、河野、余の三人で
岡田及び内府をたほして變を起す程度で満足せねばならぬと思ってゐたのであったが、
栗原は、その關係方面の實力を以て、三目標は完全にやれると云ふのだ。
そこで栗原が一案を出して、岡田、齋藤、鈴木貫位ひでどうですかと云ふのだ。
余は牧野は如何と云ふたら、牧野はいいでせう。
もう内府をしりぞいて力を振ふわけにはゆかぬではないか、と云ふのだ。
余は牧野、西園寺をたほさねば革命にはならぬ、維新の維の字にもならぬ。
政變が起って、しかもそれが吾々同志に不利な政變になるかも知れぬぞ、と答へて。
大きくやるなら徹底的に殺してしまはぬと駄目だ、特に牧、西は絶對に討たねばだめだ、と主張した。
そしたら栗原も同意して、牧野は一體どこに居るのだと云ふことになった。
さあ困った、
牧野の居所も知らずに
ヤルヤル云ふの愚を恥ぢ、
且つ 笑った。
急に考へついて、牧野の住所を偵察する事にして色々と調べてみると、
鎌倉に居ると云ひ、芝に居ると云ひ 麻布の内府官邸にまだ居ると云ひ、
一向に見當がつかぬが、二人して一心に探した。
栗原は鎌倉に二度も行って別荘の要図を作製して來た。

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第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戦わしてはいけない 」 に 続く
目次 磯部浅一 ・ 行動記 


行動記 ・ 第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戰わしてはいけない 」

2017年06月19日 08時13分45秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第七

栗原と余は、牧野の偵察に餘念がないのだが、
どうも所在が分らない。
警察へきけばわかるだらうが、
うかつな事をしたらとんでもない事になるし、
それかと云って、
知名の士で牧野と近い人との知り合ひももたぬし、
新聞記者にでもきけばよからうとも思ったが、適當な人物を見出さぬ。
ほとほと困ってゐた所が、
二月三、四日頃の東京朝日?
の人事消息爛に牧野伯、湯河原の光風荘に入る、
午後一時卅幾分に小田原驛通過、
の 記事があるのだ。
余はシメタと思ひ河野に聯絡したら、
河野は至急に偵察して、見當り次第ヤルと意氣込む。
河野の決意を部隊の担當者たる栗原に通じたら、
彼は今やられたら部隊で困る、
同時決行でないと各個撃破を受けるから、
一時 隠忍して貰いたいといふ。
余はここに於て、
速かに歩三部隊の決意をきき、
且つ 歩一、歩三、田中部隊、近三、單獨將校
各々の間の聯絡打合せもしておかねばならぬ事に氣がついた。
何故にもっと早く各部隊の決意を正し、
聯絡を完了しておかなかったかと云へば、それには多少の理由がある。
即ち余は、最近迄は余の周囲の力 (田中、河野) のみで決行し、
他部隊に迷惑をかけずに
歩一、歩三等、多くの部隊を殘しておこうと云ふ腹であったが一つ、
それに企圖の秘匿だ。
この事は決心が鞏固になればなる程、
完全に出來ると云ふ哲理を附記しておかふ。
いよいよ強い決心をしてしまふと、
俺はやるのだが等、他人に云へなくなる。
他人に決心を打ち明けて見たい氣のする時は、
まだまだ自己の決意が固くないのだ。
この場合は他人に話してみて他人の意見をきき、
自分の決心の不足分を補足せねばならぬわけだ。
この哲學を理解せぬ憲兵や法務官に、
「 一人でもやると云ふかたい決心をしたのだから、西田税に相談しない筈はない、
西田には早くから相談したのだらふ 」
と 云って責められて、
説明に困った事が豫審中しばしばあったが、
実際ウソでもかくし事でもない、鞏固な決心をすると他人に相談する必要がない、
したがって企圖の秘匿は完全にゆく。
余は昨冬より獨力決行の決意であった爲に、
部隊の將校にやらぬかやらぬかと云って 勧誘をする必要がなく、
下手な勧誘が企圖の暴露にもなると考へた事が理由の一つだ。
以上の様な理由で、
二月はじめ迄は殆んど部隊との聯絡打合せの必要を感じなかったので、
二月初めに河野が先駆すると云ひ出した時には、相當にあわてねばならなかった。
そこで河野は一つの意見を出して、
磯部さん、
ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を今になって戰はしてはいけない、
それでは永久に決行出來ぬ事になるから、
この度は眞に決行の強い者だけ結束して斷行しよう、
二月十一日に決行同志の會合を催してもらいたい、
其の席で行動計畫等をシッカリと練らねばならん

と云ふのであった。

次頁 第八 「 飛びついて行って殺せ 」 に 続く
目次 磯部浅一 ・ 行動記 


行動記 ・ 第八 「 飛びついて行って殺せ 」

2017年06月18日 08時10分11秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第八

河野の意見にもとづいて
二月十日夜、
歩三の週番指令室に於て、
安藤、栗原、中橋、河野と余の五人が會合した。
會談の内容は、
いよいよ實行の準備にとりかからふ、
準備の爲には實行部隊の長となるものの充分なる打合せが必要だから、
今後時機を定めて會合する事にしやう、
而して 秘匿の爲、
この會合をA會合として、
五人以外の他の者を本會合には參加させまい、
他の同志を參加させる會合 を B會合としておく事にする
等のバク然たる打合せをした。
余は安藤の決心を充分に聞きたかったので、
一應正してみると
「いよいよ準備するかなあ」
と 云った返答だ。
愼重な安藤が云ふことであるから、安藤も決心していると考へた。
河野は余に語って
「今度こそは出來る、顔ブレがいい」
と 非常に喜んでいた。
二月十一日に西田氏を訪ねた所、
氏は五 ・一五事件の時、射たれた時の着物類を裁判所から受取って來たと云ったので、
余は見せて呉れと頼んで之を見た。
ベットリと黒ずんだ血が一杯についてゐる
當時の惨劇を偲ばせる。
余は
西田さん、
血がかへって來るといふことはいい事です、
今年はきっといいですよ
と 云った。
此の時、同志の情況について語らふかとも思ったがやめた。
西田氏の血のついた記念品を見てかへって、
十一日の夜は
相澤中佐の冩眞の前で 「 私は近く決行します 」 と誓言をした。
もとより西田氏の仇討ちだと云ふ簡短な感慨も多分にあった。

余は日本改造法案を絶對に信じてゐるし、
北、西田両氏を非常に尊敬しているから、
西田氏を射った時世と人間どもに對して激しい怒りを有してゐる。
二月十四、五日頃(土曜日の晩)、
河野が軍刀とピストルをもって訪ねて來て
「 私は一足先にやるかも知れぬ 」 と いふのだ。
我慢出來ないかと云ったら、
いや牧野の偵察をしに湯河原へ行くだけですよ、と云って笑っている。
余は部隊の方の關係から云ふと輕擧は出來ぬぞ、
と 注意したら、
「 何にッ、牧野と云ふ奴は惡の本尊だ、
 それにもかかわらず運がいい奴だから、やれる時やっておかぬと、
又何時やれるかわかりませんよ、やられたらやってもいいでせう  」
と 云って笑っている。
余も河野の人物を信じているから、
「 よからふ、やって下さい、
 東京の方は小生が直ちに聯絡をして、急な彈壓にはそなへる事にしやう、
若しひどく彈壓をする様なら、
彈壓勢力の中心点に向って突入する事位ひは出來るだらふからやって呉れ 」
と たのんだ。

これより先、河野は余に
磯部さん、私は小學校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下のロボを亂す惡漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が嚴然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました。
私は理屈は知りません、
しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、
賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
牧野だけは私にやらして下さい、
牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ

と、其の信念のとう徹せる、其の心境の濟み切ったる、
余は強く肺肝をさされた様に感じた。

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第九 「 安藤がヤレナイという 」 に 続く
目次 磯部浅一 ・ 行動記 


行動記 ・ 第九 「 安藤がヤレナイという 」

2017年06月17日 07時58分23秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第九

確乎たる決心をもって湯河原に行った河野が
翌日夜に入って、ガッカリしましたと云って歸って來た。
湯河原の光風荘をさがしたが、そんな所はないとの事だ。
牧野は天野屋へ時々やって來るとの事を旅館のものにきいたので、
それとなく天野屋をさまーぐってみたが、牧野は來ていない事がたしかだとの報告だ。
余は何等かの方法で探る事を約した。
清浦が最近牧野に會見を申込んだ所が、
牧野から斷られたとの旨を記した清浦の手紙を、森氏の宅で見た事を思ひ出して、
それとなく森氏に尋ねてみたらと思って訪問してきいてみると、
それは何とかしてしらべてみようとの話だ。

二月一八日、
栗原宅に村、栗、安、余が會合して、
いよいよ何日に如何なる方法で決行するかを決定しようとの考へで、意見の交換をした。
所が以外にも、安藤が今はやれないといふのだ。
村中が理由をきいたが、
理由は大して述べないで時機尚早をとなへた。
最後の紙一重と云ふむづかしい事になると、
ヤルと云ふ方も、やらぬと云ふ方も お互ひに理由など大してないのが自然だらふ
(直感といふか、カンと云ふか)。
余はヤルと主張した。
余のヤルと云ふのも大した理由はないのだ。
一日も早く日本の惡を斬り除かねば氣がすまなかった迄だ。
惡を斬るといふ事にだけ成功すれば、先ずそれでいいではないか、
と 云ふのが
余の不斷の主張だからだ。
惡を斬っただけでは駄目だ、
その次に何か起る、その又次を考へよと云ふ、
よくを出すときりがない。
今一度に昭和三十年頃迄の事を豫定して、蹶起か否かを決定する様な事は出來ない。
余は最初から、
歩一がやらぬでも、歩三がやらぬでも、獨力決行するつもりでいたのだから、
安藤の時機尚早の時機早しとの意見に左右される程の事もないと考へたので、
「俺はヤル」 と 云った迄だ。
とに角 この會合で來週中にやると云ふことだけは決定した。
二月十九日
朝十時、東京發で豊橋へ行く。
對馬に愈々在京同志が近く決行する事を語り、興津の襲撃を依頼した所、直ちに快諾した。
金の入用を訴へたので、
鈴木に話して見てくれと云って、余より鈴木宛の依頼状をしたためておいて、
翌日歸京した。
西園寺邸は對馬、竹嶌と共に、余が昭和九年偵察したし、
去年八月田中勝が再度の偵察をして、地形及び警戒狀態は詳細にわかってゐた。
特に余は西田氏を通じ、サツマ氏より邸内の様子
家屋の間取り迄くはしく研究して (昭和九年より) いたので、
大して困難な襲撃目標でない事を知ってゐるが、
豊橋より興津迄自動車で夜間七時間近くを要するので、此の點を心配した。
二月二十一日、
山口大尉を村中と共に訪ね、
行動發起直後に於ける歩一の殘部部隊の行動に關し依頼をした所、
殘部隊は週番司令の獨斷で市中の警戒につける事、
柳川を臺灣から呼ぶこと等を大尉は語った。
余は柳川問題なんかたぬきの皮をとってからの話だと考へ、大して問題にしなかった。
又、山口大尉より西園寺を襲撃することはやめたら如何、
との話があったが、余は斷乎之に反對した。

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第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 に 続く
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行動記 ・ 第十 「 戒嚴令を布いて斬るのだなあ 」

2017年06月16日 07時49分07秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第十
同じく二月二十一日の夜、
森氏を訪ね、先日以來の牧野の居場所をたずねると、
湯河原の伊藤屋旅館にいるとの事だ。
余は平然をよそほっていたが、内心飛び立つ程にうれしかった。
この夜十一時頃、
安藤を訪ねて、この數日間の情況について語って、
不安なく決行して呉れる様に話した。
山口大尉の決心処置、眞崎、本庄、清浦等の工作
竝びに豊橋部隊の情況等がその主なるものだ。
二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ

と 例の如くに簡單に返事をして呉れた。
本日の午後四時には、
野中大尉の宅で村中と余と三人會ふ事になってゐるので、
定刻に四谷の野中宅に行く。
村中は既に來てゐた。
野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇嚴な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。
野中氏は十五日より二十二日の午前仲迄、週番司令として服務し、
自分の週番中に決行すると云って安藤を叱った程であったから、
其の決意も實に牢固としてゐた。

これより先、
十五日、夜、
安藤と共に山下奉文を訪ねた。
歩三の靑年將校は
山下から、
統帥權干犯者は
「戒嚴令を布いて斬るのだなあ」
と の話をきき、
非常に元氣づいてゐた。
野中大尉の部下たる常盤少尉の如きは十六、七日頃、
警視廳襲撃の豫行演習をやった事があって、
歩三は警視廳から仁義をきられた様なうわさもあった。
野中、安藤、栗原、河野、中橋、村中等、同志の決心はシッカリとキマッタので、
二十二日の夜は
栗原宅に河野、中橋、栗、村、余の五人が會合して、
襲撃の目標、決行日時、兵力部署等を決定した。
襲撃目標は五 ・一五以來、
同志の間に常識化してゐたから大した問題にならず、簡單に決定した。
唯 世間のわけを知らぬ者共から見て、
渡邊と高橋は問題になると思ふから、理由を記しておく。
高橋は
五 ・一五以來、維新反對勢力として上層財界人の人気を受けてゐた。
その上、彼は參謀本部廢止論なぞを唱へ、
昨冬豫算問題の時には、軍部に對して反對的言辭をさえ發している。
又、重臣、元老なき後の重臣でもある。
渡邊は
同志將校を彈壓したばかりでなく、
三長官の一人として、吾人の行動に反對して彈壓しさうな人物の筆頭だ。
天皇機關説の軍部に於ける本尊だ。
玆に 特に附記せねばならぬ事は、
林銑十郎を何故やらなかったかである。
それは第二次的にやると云ふことと、
林はすでに永田事件でみそをつけていて一般の人氣もないし、
單なる軍事參議官にすぎぬから
大して問題にせぬでもよからふ位ひに極くカンタンに考へてしまったからだ。
名分の上から言ふと、
統帥權干犯の首カイたる林は、
どうしても討たねばならぬのであった。


次頁 
第十一 「 僕は五一五の時既に死んだのだから諦めもある 」 に 続く
目次 磯部浅一 ・ 行動記 


行動記 ・ 第十一 「 僕は五 ・ 一五の時既に死んだのだから諦めもある 」

2017年06月15日 07時44分13秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一 
第十一

栗原は二十三日に豊橋に行き、
對馬部隊と細部の打合せをなす事になる。
この時當然に、
栗原は平素準備しておいた小銃弾 (二千發) を携行した。
村中は、演習出張の爲不在であって、
未だ決定事項の聯絡或は意見の聽取をしていなかった香田と聯絡し、
余、中橋等と各々聯絡を担任する。
二十三日夜は
歩三週番指令室に於て
安藤、村中、香田、野中、余、坂井の會合をなし、
いよいよ計畫の細部打合せをする。
二十四日は
歩一司令室にて 野中、山口、香田、村、余、會合す。
當日も行動計畫の研究が主であった。
夜、田中勝が夫人同伴で聯絡旁々來る。
二十五日は
湯河原へ偵察に行った澁川の聯絡を待った。
午前十一時、澁川の夫人が西田宅に歸って來たので手紙を見ると、
牧野はたしかに伊藤屋の別館に滞在してゐるとの通知、
伊藤屋本館に滞在中の徳大寺の所へ時々囲碁をやりに來る。
その時も警戒付で、平素四、五人の警官がつしてゐるとの報だ。
此の報を余は河野に傳へる約束で、
自宅で河野を待ったが、定刻の十一時になっても來ず、
午後二時迄待って來ぬので、
余が自ら牧野を討ちに行く事を栗原に相談して出發しようとしていたら、
河野が急いでヤッテ來た。
そして遅刻の弁解が面白い。
「 今朝登校したら、急に金丸原へ飛行せよと命ぜられて、
 斷る譯にもゆかず、仕方なく飛行機を出しましたよ。
午前十一時におくれては大變と思ひ、ママヨ墜落したら其れ迄だと思って、
無茶に速力を出してとびましてね。
一番乗りをやりました。
神様が助けて呉れたか、無茶苦茶をやって飛んだのに落ちなかったですよ 」

と 云ふのだ。
余は少々あきれた、
大胆不敵な男だと思ってあきれたのだ。

河野が出發した後、西田氏を訪ねた。
西田氏は、今回の決行に何等かの不安を有してゐる事を余は知ってゐるので、
安心をさせるために、豫定通りに着々と進んでゐる旨を知らすためであった。
西田氏の不安といふのは、
察するに失敗したら大變になるぞ、
取りかえしがつかぬ、有爲な同志が惜しいと云ふ心配であった様だ。
余は所期には西田氏にも村中にも何事も語らないで、
自力で所信に邁進しようとしてゐたので、
昨年末以來、西田氏に對してヤルとかヤラヌとか云ふ話は少しもしなかったのだ。
所が 二月中旬になって、
在京同志全部で決行する様な風になったので、
一應 西田氏に打ち明けるの必要を考へ、
村中と相談の上、
十八、九日頃になって打ち明けた。
氏は沈思してゐた。
その表情は沈痛でさへあった。
そして余に語った。
僕としては未だ色々としておかねばならぬ事があるけれども、
君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出來ぬ。
海軍の藤井が、革命のために國内で死にたい、
是非一度國奸討伐がしてみたいと云っていたのに上海にやられた。
彼の死は悶死であったかもしれぬ。
第一師團が渡満するのだから、
渡満前に決行すると云って思ひつめてゐた靑年將校をとめる事は出來ぬのでなあ

と 云って、
何か良好な方法はないかと苦心している風だった。
余は若し失敗した場合、
西田氏に迷惑のかかる事は、氏の十年間の苦闘を水泡に歸してしまふので相すまぬし、
又、革命日本の非常なる損失と考へたので、
一寸その意をもらしたら、
氏は、
僕自身は五 ・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある、
僕に對する君等の同情はまあいいとしても、おしいなあ

と 云った。
余はこの言をきいて、
何とも云へぬ気になった。
どこのどいつが何と惡口を云っても、
氏は偉大な存在だ、革命日本の柱石だ。
我等在京同志の死はおしくないが、氏のそれはおしみても余りある事だ、
どうしても氏に迷惑をかけてはならぬと考えた。

次頁 第十二 「 計画ズサンなりと云ふな 」  に 続く
目次  磯部浅一 ・ 行動記 


行動記 ・ 第十二 「 計畫ズサンなりと云ふな 」

2017年06月14日 06時25分17秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一 
第十二

二十五日
夕、山本又を待つ。
午後六時すぎ来たので
いよいよ夜半より準備して、
明払暁決行する旨を語り、参加を求む。
直ちに諾す。
流石法華經の行者だけに、
尊皇討奸の折伏をのみ込むのも早い。
平素立派な人だと信じていた通り、
大事に臨んでひるむ色を見せぬ大男児である。
午後七時
平然と家を出る。

妻は何事も知らず歸宅の時刻を尋ねる。
「 今夜はおそい、先に休め 」 と 簡短に云って別れる。
自動車を飛ばして歩一へ急ぐ。
大東京は何も知らぬ夜の幕につつまれてしまってゐる。

機關銃隊にて栗原、林八郎、池田俊彦、丹生誠忠等の同志と、萬端の準備を急ぐ。
鴻之台より傳令が來て、田中部隊の支障なきを知らせる。
余は軍服に着換へ、十一中隊に移動した。
村中、香田と共に諸々の打合せをする。
蹶起趣意書を刷り、
陸軍大臣に對する要望事項の案等をつくる。
又、斬殺すべき軍人、通過を許すべき人名表等を作る。
要望事項は村中、香田兩人が作案した。
其の概要を記すると、
一、事態容易なるざるを以て、速やかに善処すべきこと。
一、小磯国昭、建川美次、宇垣、南次郎等將軍をタイホすること。
一、同志將校、大岸頼好、菅波等を招致すること。
一、行動部隊を現地より動かさぬこと。
吾等は維新の曙光を見る迄は斷じて引かず、死を期して目的を貫徹する。
と 云ふのであった。
又、余の作製した斬殺すべき軍人は
林、石原莞爾、片倉衷、武藤章、根本博の五人であったと記憶する。
斯くする内、
二月二十五日夜は刻々に更けてゆく。

憲兵法務官等が余に、二月事件は計畫がズサンだと云ふ事を廔々云った。
恐らくこの批評は社會の公評であらふ。
余は第三者的法務官、憲兵などから、計畫がズサンだと云はれても大して恐る者ではない。
たとへそれが社會の公評であっても、何等意に介するを要しない。
然し、同志から計畫がズサンと云って、一笑にせらるゝことは限りない苦痛だ。
だから玆に、計畫に關する一つの所見を付しておくことにする。
蹶起の目的は----
重臣、元老、特にロンドン條約以來の統帥權干犯の賊を斬り、
軍部を被帽して維新の第一段階に進むことであって、
決して五 ・一五でも、血盟団でもなく、生野の變でも、十津川の變でもない。
鳥羽伏見の戰のかくごである。
所が表面あく迄軍部を被帽して進むものであるが、
軍部が彈壓態度を示した時には自爆して、帽軍部と共に炸裂せねばならぬ、
すこぶる微妙な鳥羽、伏見である。
このために實行計畫も甚しく立案の困難なものである事になる。
例へば襲撃目標についても、
最初から軍内の彈壓勢力を相当數斬るか、軍内には全然刃を向けないか、
と云ふハンモンすべき問題にブッ突かる。
襲撃後の部隊の集結位置及び行動計畫に於ても、陸軍省、參謀本部を包囲する如くやるか、
或ひは全然兩所を解放してしまふか。
又は最初から省、部内への交通を杜絶して、
幕僚等の大臣に對する一切の策動を避くる如くするか。
第一次目標襲撃後、軍内の空氣を速やかに看取して、
第二次目標を襲撃すべきか否かを決定せねばならぬのであって、
不適當な時機に無暗に動亂化を計れば、却って軍部の怒りを買わねばならなくなる等、
一切合切の問題が極めて複雑であって、
すべて最初から計畫することの不可能な条件ばかりである。

情況は陣内戰である。
各級指揮官の果敢なる獨斷と、各部隊の勇敢なる戰闘によって
戰果を擴張せしむるより外に方法がないのだ。
余は二月二十三日 北先生を訪ね、
支那革命の武昌の一擧の時、
サウサウたる革命の志士が皆過失をおかしてゐるのは何故かとたずねたら、
「 何しろ革命と云ふ奴には計畫がないのだからね、
計畫も何もなく、自然に突發するのだから、どんな人だってあわてるよ 」
と 云はれた。
成程と思った。
革命は機運の熟成した時、自然發火をするものだから計畫がない、
豫定表を作成しておくわけにゆかぬ。
その發起より終末迄、殆ど無計畫狀態にて終始する。
この哲理を理解せずに、二月義軍事件を評する勿れだ。
計畫ズサンなりと云ふな、
相當の計畫腹案はあったのだ。
然し それがいちいちあてはまらなくなってしまったり、
豫想外に的中したりするのだ。

次頁 第十三 「 いよいよ始まった 」  に 続く
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行動記 ・ 第十三 「 いよいよ始まった 」

2017年06月13日 06時21分22秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部浅一 
第十三

又、一部の急進者がアセリすぎて失敗したのだ等云ふな。
決して然らず。
機運の熟しない時は一部や半部の急進同志があせっても、
決して火發火するものではない。
今回の決行は余や河野が強引にかけたものでもなく、
栗原があせったわけでもない。
同志の大部分が期せずして一致し、モウヨシ 決行しようと云ふ氣になったのだ。
日本の二月革命は計畫ズサンの爲に破れたのではない。
又 急進一部同志があせり過ぎた爲に破れたのでもない。
兵力が少數なる爲でもなく、彈丸が不足のためでもない。
機運の熟成漸く蛤御門の變の時機にしか達してゐないのに、
鳥羽、伏見を企圖したが、
収穫は矢張り機の熟した程度にしか得られなかったと云ふ迄の事だ。
同志よ、蛤御門なに長藩の損失になるのみだ。
やらぬがいい等と云ふ様な愚論をするな。
維新の長藩を以て自任する現代の我が革命党が、
蛤御門も長州征伐も經過する事なく直ちに、
鳥羽、伏見の成功をかち得やうとする事が、
余りに虫のよすぎる注文であることを知って呉れよ。

二月二十六日午前四時、
各隊は既に準備を完了した。
出發せんとするもの、
出發前の訓示をするもの、
休憩をしてゐるもの等、
まちまちであるが、
皆一様に落ちついた様に見えるのは
事の成功を豫告するかの如くであった。
豊橋部隊は板垣徹の反對に會って決行不能となったが、
湯河原部隊はすでに小田原附近迄は到着してゐる筈である。
各同志の聯絡共同と、各部隊の統制ある行動に苦心した余は、
午前四時頃の情況を見て、戰ひは勝利だと確信した。
衛門を出る迄に彈壓の手が下らねば、
あとはやれると云ふのが余の判斷であったからだ。

村中、香田、余等の參加する丹生部隊は、
午前四時二十分出發して、
栗原部隊の後尾より溜池を經て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、
官邸内に數發の銃聲をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊對抗の第一遭遇戰のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
( 同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
 とに角云ふに云へぬ程面白い。
一度やって見るといい。

余はもう一度やりたい。
あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)

余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。
五時五、六分頃、陸相官邸に着く。

「 これから後の手記は成るべく詳細にして、
 後世發表の官報、官吏のインチキを叱正したいのだが、
手記が余の行動を中心としたものたるをまぬかれ難いので、
全同志の行動、竝 各方面の情況に對する全般的のものたる事を保し難い。
又、遺憾なのは、余も村中も明日にも銃殺されるかも知れぬ身だから、
記錄が毎日、毎日、序論と本論と結論とをせねばならぬので、
一貫した系統のあるものに成し難いことである。
願くば革命同志諸君の理論と信念と情熱とに依って判讀せられんことを。」

香、村、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余は遅れて到着す。
余と山本は部隊の後尾にゐたのと、
獨逸大使館前の三叉路で交番の巡査が電話をかけてゐるのを見たので、
威カクの爲と、ピストルの試射とを兼ねて射撃をしたりしていたのでおくれたのだ。
官邸内には既に兵が入ってゐる。
香田、村中は
國家の重大事につき、陸軍大臣に會見がしたいと云って、憲兵とおし問答してゐる。
余は香、村は 面白い事を云ふ人達だ、えらいぞと思った。
重大事は自分等が好んで起し、むしろ自分等の重大事であるかも知れないのに、
国家 の重大事と云ふ所が日本人らしくて健氣だ、と 思って苦笑した。
憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと云ふ。
そんな事をするのではない、國家の重大事だ、早く會ふ様に云って來いと叱る。
奥さんが出て來る、
主人は風邪氣だからと斷る。
風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々惡化すると申し込む。
風邪ならたくさん着物でも着て是非出て來て會って戴きたい、
と 懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。

川島義之陸軍大臣 

次頁 第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」  続く
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行動記 ・ 第十四 「 ヤッタカ !! ヤッタ、ヤッタ 」

2017年06月12日 06時17分08秒 | 磯部淺一 ・ 行動記


磯部淺一 
第十四

余はこの間に、
正門其の他の部隊配置を見て歩く。
田中部隊の官邸到着が七、八分位ひ豫定よりおくれた爲に心配したが、
田中は意氣けんこうとして、
「 面白いぞ 」
と 云ひつつ
余をさがして官邸に來る。
余は田中のトラック一台を直ちに赤坂離宮前へ向はしめ、渡邊襲撃隊の爲にそなへる。
時間はどんどん經過するに大臣はまだ會見しようとせぬ。
高橋是清襲撃の中島 歸來し、完全に目的を達したと報ず。
續いて首相官邸よりも岡田をやったとの報、
更に坂井部隊より 麥屋清濟が急ぎ來り、齋藤を見事にやったと告ぐ。
快報しきりに至る時、
歩哨が走って來て、
憲兵が多數來て、無理矢理に歩哨線を通過しやうとする由報告する。
見ると、トラックに乗った二十名ばかりが既に來て居る。
余は隊長(少佐)に會ひて、しばらく後退して呉れと頼む。
隊長はウンと云はなかったが、
軍隊同士が打ち合ひを演ずる様な事の不可なるを説き、
又、大臣に危害を加えざる旨を告げると、
それなら憲兵も一所に警備させて呉れと云うふので、
余は何等差支へなし、勝手にするといいだらふ、と云ひて自由意思にまかせる。

安藤は
部下中隊の先頭に立ちて颯爽として來る。
ヤッタカ ! ! 
と 問へば、
ヤッタ、ヤッタ と 答へる。

各方面すべて完全に目的を達した。
天佑を喜ぶ。
官邸門前より邸内に入りて見れば、今だ大臣は出て來る様子。
小松秘書官が來た時、余、香、村、三人にて事情を話したる爲、
大臣も安心して會見することにしたらしい。

午前六時三十分をすぎて、大臣漸く來る。
余等は廣間に於て會見する。
香田が蹶起趣意書を讀み上げ、
現在狀況を図上説明し、
更に大臣に対する要望事項を口述する。
小松秘書官は側にて筆記。
此の時、
渡邊襲撃部隊より、目的達成の報告あり。
大臣に之を告げると
「 皇軍同士が打ち合ってはいかん 」 と 云ふ。
卒然 栗原が來り色をなし、
香田と口を揃へ
「 渡辺邊大將は皇軍ではない ! ! 」 と 鋭い應シュウをする。
大臣少しひるむ様子。
余は同志の國體信念にとうてつせる事をよろこんだ。
渡邊を皇軍と混同して平然たる陸軍大臣に、
嚴然として其の非を叱りてゆづらざる同志の偉大なる事がうれしくてたまらなかったのだ。
大臣はウムとつまって、
「 皇軍ではないか 」
と 言ひ、
成程と云った態度。
要望事項に對して大臣は、
「この中に自分としてやれることもあればやれぬこともある。
 勅許を得なければならぬものは自分としては何とも云へぬ 」
旨を語る。
この頃 山口大尉、小藤惠大佐、齋藤少將等、相前後して來る。
余等は大臣に對し、眞崎、山下、古莊、今井、村上等の招集を願ふ。
直ちに秘書官に依って電話で聯絡がされる。
更に、満井佐吉、鈴木貞一等の招致をする事となる。
官邸正門より將校がたくさん這入って來て、靜止し切れないとの報があったが、
余は丹生に向ひ、
成るべくテイ重に斷り、
省内に入れない様にしておいて呉れとたのむ。
情況を見ようと思って玄關を出た所、山下少將の來るのに會ふ。
余は 「 ヤリマシタ、ドウカ善処して戴きたい 」 と 言ふ。
少將は ウムというとうなづき、
「 來る可きものが遂に來た 」
と 云ふ様な態度で官邸内に入る。

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