昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

昭和 ・ 私の記憶

2022年06月29日 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る


昭和 ・ 私の記憶
親父は私に期待をかけていた。
『 鳶が鷹を生む 』
親父の好きな 文句であった。
私は
小学四年生 ( 10歳 ) の時、
将来、「 設計士 」 に成ろうと思った。
親父が謂う、『 鷹 』 に成なろうと思ったのである。
・・・蛙の子は蛙



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昭和 ・ 私の記憶 1
    想い出る故郷
 
            昭和32年 ( 1957年 ) ~ 昭和37年 ( 1962年 )
    男前少年 
                  昭和38年 ( 1963年 ) ~ 昭和41年 ( 1966年 )  小学生 ・大阪
昭和 ・ 私の記憶 2
    青い鳥 
                      昭和42年 ( 1967年 ) ~ 昭和44年 ( 1969年 )  中学生
    力満ちてリ             
昭和45年 ( 1970年 ) ~ 昭和47年 ( 1972年 )  高校生
昭和 ・ 私の記憶 3
    青春のひとこま        
昭和48年 ( 1973年 ) ~ 昭和58年 ( 1983年 )  社会人
    右翼青年              
昭和49年 ( 1974年 ) ~
    バブルの頃            
昭和59年 ( 1984年 ) ~ 昭和63年 ( 1988年 )
    大阪ヒーロー
    大和撫子

昭和維新に殉じた人達の体験を、
恰も 己が実体験の如く記憶し 蓄積した

昭和 ・ 私の記憶 4
    昭和の聖代
    三島由紀夫
    二・二六事件


・・・と、吾心懐に存する。
其の 一つ一つが大切なものばかり。
その中でも 、
貞子さん(ていさん)
男前少年 と おんなせんせい
 「 青 い 鳥 」
腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根
憂 国
昭和48年 (1973年) 3月5日
巨人の星
生涯一の大風景
・・・の物語は、格別なもの。

殊に、
一番の想い出は
男前少年 と おんなせんせい
それは
吾人生の 『 核 』 を為す如き出来事であった。
・・・と、そう想う。

もう一つの
昭和 ・ 私の記憶
 ( ・・・※)  ・・パスワード
1  青年

男のロマン 1975
Process 1974~1977 自我      ( ・・・※)
Process 1977 温故知新

2  青春のひとこま
「 男と女 」
勿忘草 ~1979               ( ・・・※)
見果てぬ夢・叶わぬ想ひ ~1982     ( ・・・※)


昭和64年 ( 1989年 ) 1月7日 (土)  昭和天皇崩御

『 昭和の余韻 』 
夢を追った  平成
設計士として

当時、
九州・福岡で、ゴルフ場を建設する為
クラブハウスの設計を依頼されていた私
その設計が、大詰めの段階に 差掛かっていた。
更に、建築の為の手続きも、
福岡県庁で着々と進めていた。
その最中の この大震災であった。

想へば、
私の人生 ・絶頂の瞬間は、
波乱万丈
阪神淡路大震災の記憶と重なる。
「 選りに選って、この時期に 」
その時の、吾想いである。
・・・1995年1月17日の記憶

  基本プラン イメージスケッチ
  イメージ模型
吾ロマンを一心にデザインした
会長は 其のマンを汲取った

そして、己がロマンを私に託そうと想った
とんでもないことが  起きてしまったのである

1994年6月29日(水)
「 クラブハウス、コンペや想うてやってみいへんか 」
「 とれんかも、しれんど・・」
 ・・・と、社長が言う。
「 ハイ、やらせて下さい 」
・・・と、私は即座に答えた。

Design & Datail 1987~2007     ( ・・・※)

吾 生涯年を
『 12年を一日 』 ・・・と、 そう換算するなら
生涯は六日
七日目からは残生としよう

昭和64年 (1989年 ) 昭和が終った
然し
『 昭和 』 は、私にとって  
「 つい、昨日 こないだ  」 ・・・なのである

次頁 昭和 ・ 私の記憶 1 ( 想い出る故郷 、男前少年 ) に 続く

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昭和 ・ 私の記憶 1 ( 想い出る故郷 、男前少年 )

2022年06月29日 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る


昭和・私の記憶  1
目次
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「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、『 遠きにありて 』 ・・・とは、過ぎ去った時を謂う。

そして 『 故郷 』 ・・・とは、母を謂う。
1  想い出る故郷   ~ 昭和37年 ( 1962年 )
昭和32年 ( 1957年 )  3歳
01  吾母との絆の証し   ・・私の手の甲のアザは、母の大切な形見 
02  下島小学校のブランコ 母と二人して 父の帰りを待つ・・・  ・・「 また、仕事先でよばりょうるんじゃろうて・・・」
03  「 雨がふりょうる 」  ・・「 おばあちゃん あめ こうて 」
04  ムカデの話し  ・・「ムカデの上に・・・」
昭和33年 ( 1958年 )  4歳 年少さん

05  弁財天神社  ・・山桜とニイニイ蝉  ・・カヤの葉飛ばし
06  アコウを釣った  ・・「 ガツン ゆうた 」
07  丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」  ・・♪夕焼け空がまっかっか
昭和34年 ( 1959年 )  5歳 年中さん

08  バンカラへの憧れ  ・・白い鉢巻をして颯爽と騎馬に跨る叔父の勇姿を観て、私は誇らしく想った
09  三つ子の魂百までも  ・・勇ましい・・は、男児の誉れ
10  大地蔵 ・ 峠越えて  ・・「 肥え かけたんじゃのうて、声 かけたんで 」 ・・峠、母と唄う
11  こんなうまいもん初めてじゃあ  ・・「 あれなんなぁ ? 」 
12  小ミカン畑  ・・皆のジャンパー、腰の回りが膨らんでいる
13  飛地 大久保  ・・櫓を漕いだは、10歳年長の叔父
14  しょうじきなきこり と わるいきこり  ・・「 あの時どうして笑うたん ? 」
昭和35年 ( 1960年 )  6歳 年長さん

15  寄りそいあって生きた時代  ・・米の量を補う為に、芋を混ぜた「芋飯」で腹を大きくした
16  総理大臣が軍艦に乗ってやって来た  ・・日本国の総理大臣が吾が島を訪れたのである
17  天下御免の向う傷  ・・「 主役は ワシがするんじゃ 」

18  タコ捕りの達人  ・・「 オッ、おるおる。 エッ、どこなあ。 ホレッ、そこにおろうが 」
19  丸谷の波止場 「 サッカン 早よ 助けんねー !! 」  ・・「 泳げるようになった 」
20   桃花の咲く頃  ・・おねえさんと桃花 ・・薄い日差し ・・冬のホタル
21  サトオッチャン  ・・「 サトルー、ユキノリがコケテのぉ 」
22  山ん中で路に迷う  ・・「 はぐれたんじゃ 」
23  ようちえんぼうず  ・・「 オーッ、総天然色かぁ 」
24  快傑 ハリマオ  ・・「 この歌 三橋美智也が唄ようるんで 」
昭和36年 ( 1961年 ) 7歳  小学一年生

25  日出子先生  ・・担任は おんな先生
26  三ノ瀬小学校  ・・宿題忘れて立たされて
27  ドジョウの話し  ・・妹が水に沈んだ ・・ドジョウに襲われる ・・夢
28  千代子と謂う名  ・・「 ししゃりでるな 」
29  「 捨ててきなさい 」  ・・猫を拾う ・・「 拾わにゃあ よかった 」
30  天神鼻  ・・「 なして こんなところに タコつぼがあるんじゃろ 」 
31  満天の空に 星は 星の数ほどあった  ・・「 ぶつからないのか 」 と、想うほどの星空があった
32  海峡を越えて   ・・「 はなだゆきのりくん 」 と、先生が呼ぶ声  時折、風に乗って、聞えて来る
33  夏の想い出と祖母がつくったアブラメの味噌汁  ・・「 アブラメ ( 稚魚 ) 、喰えるん?」
34  海に落ちた妹  ・・「 ミサエー、ミサエー 」・・・と  悲痛な声で母が叫んでいる
35  儚い命  ・・「 ヘソとヘソをくっつけて、三回まわるんじゃ 」
36  貞子さん(ていさん)  ・・「 貞子まっちょれよ。もうすぐじゃきんの。 ・・・ええ。 」
37  トイレでしみじみ想ったことは  ・・誰にも気づかれることなく死んでしまうのか
38  い た ん ぼ  ・・ 「 ワシが、採ってきちゃる 」
39  自転車ごと海に落ちた中学生  ・・「 大事じゃあ。大事じゃあ 」
40  痛ツ !!  ・・それは今迄経験したことのない痛みであった
41  サンタは煙突から入って来る  ・・「 サンタクロースが来ますように 」
42  相撲をとって 遊んだころ  ・・行司役の年長が存て、遊びを取仕切った
43  メジロ と とりもち と 百舌鳥獲り  ・・「 泥を付けたら取れるど 」
44  気がついてみたら  ・・八合戦 ・・気絶
45  散髪屋で見た漫画本  ・・従軍看護婦と兵隊
昭和37年 ( 1962年 )  8歳 小学二年生
46  テレビが吾家にやって来た  ・・少年ケニヤが見れる
47  七変化  ・・ 白ノスズメガ ソウユウタ ♪
48  上をむいて歩こウォウォウォ  ・・「ちがうわい 歩こおおお じゃ  
49  野球少年 ・ チャンバラから野球へ  ・・打者の打ち返した球がライナーで真向から飛んでくる
50  『 すれ違いざまのキャラメル一粒 』  ・・「 もういっぺん学校じゃあ 」 と、小学校へ向ったのである
51  「こんな と、喧嘩せえ」  ・・私が相手と顔を突き合わせている
52  故郷は遠きにありて想うもの  ・・瞼をとじさえすれば吾故郷はいつでも其処にある
53  トグロを巻いたヘビ  ・・私の姿を見るなり  いかにも気持ち悪い、かま首を持ち上げたのである
54  蒲刈病院  ・・あしながバチに刺される
55  公民館が炎ようるぞー  ・・「 オッ、校長が来た。教頭が来た 」
56  ムカデの話し  ・・体の中に ・・布団の上を這うムカデ
57  誉められると 思ったのに・・・  ・・山火事を消したのに
58  教えたとおり、言うんで  ・・「 親父さんがいつもお世話になっております 」


「 謝りなさい 」
怒りのこもった言葉であった。
「 そんなもん、
受容れられるものか 」
だから私は、何も言わなかった。
次の瞬間、往復ピンタをくらったのである。
こともあらうに、皆が見ている中だ。
「 如何して 殴られる 」
( ・・・男前少年 と おんなせんせい )

2  男前少年  昭和38年 ( 1963年 ) ~ 昭和41年 ( 1966年 )
昭和38年 ( 1963年 )  9歳 小学三年生 
01  びっくりしたなぁもう !!  ・・運動場を覆い尽くす千八百名を見て度肝を抜かれた
02  生意気な奴  ・・「 こんな奴と、友達になるな 」
03  笑いたいのをこらえたのに  ・・「 笑ろうたらあかん・・」 ・・9歳の少年は、堪えようとした
04  コカコーラ は くすりの味  ・・「 コカコーラは風邪に効くんじゃぜ 」
05  おまえ・・ブタマン屋の娘やろ  ・・「 これが、ブタマン…かあ 」
06  長島少年  ・・「 昨日の長島、凄かったなあ、四打数五安打やったで 」
07  山田 浩 「 男は泣いたら アカン 」  ・・大阪での友達第一号
08  世の中に、こんなにうまいもんがあるのか  ・・親子丼
昭和39年 ( 1964年 )  10歳  小学四年生  東京オリンピック

09  「目にあたらんで、よかったなぁ」  ・・独楽が少女の額を直撃した
10  強い は 男のロマン  ・・ゼロ戦
11  戦友  ・・♪ 赤い夕陽に照らされて ・・満洲
12  野球少年 「 近所の小伜 」   ・・「 何処どこの誰々を呼んで来い 」
13  新聞少年  ・・「 まあええ。働こういうことは ええことじゃ 」
14  鉄腕アトム  ・・「 扇風機の風は体に悪い。うちわが一番ええんじゃ 」
15  肩までつかれ  ・・「 100まで数えろ 」
16  ロケット花火を飛ばして、叱られて  ・・「 火事になったらどうします。警察を呼びましたから 」
17  爆弾池  ・・「爆弾池で魚は釣らん、捕まえるんや、網で掬うんや」
18  夏休みは いつも一人で  ・・塀を相手に一人キャッチボール
19  拾った金を寄付した・・けれど  ・・「 この三百円は恵まれない人の為に寄附をする 」
20  愛と死を みつめて  ・・儚い命に日本中が涙した
21  姿 三四郎 「鉄壁の不動心」  ・・「 卑怯なまねはするな 」
22  奮闘努力 と リーダーの条件  ・・すぐ横を、駆抜けた、一瞬 ・たちどころに、彼女の存在感を感じ取ったのである
23  ドッチボール ・ 「 あいつら 何もわかっとらへん 」
24  ミックスされた記憶 「 金メダル と 母の白いブラウス 」  ・・「 お母ちゃんが帰って来た 」
25  明日があるさ  ・・「 さっきまで あんなに笑っていたのに 」
26  紅白歌合戦を風呂屋で観る  ・・
ザ・ピーナッツが歌う 「ウナ・セラ・ディ・東京」が、流れていた
昭和40年 ( 1965年 )  11歳 小学五年生

27  若い いのち  ・・「 私は妻です 」
28  林間学校  ・・自分の帽子に吐いた奴
29  故郷に錦を飾る それまでは  ・・親父は精一杯 己が意地を張っていたのである
30  テケテケテケテェッ・・・・  ・・彼はギターを持って、得意満面の顔で私に弾いて聴かせた
31  親父の心意気  ・・「 ワシは、花田組のもんじゃ 」
32  あっという間に日が落ちて  ・・どうしよう・・・日が山に懸かり始めた
33  話せば分る・・問答無用  ・・「 偉人の名言・格言、を提出しなさい 」・・・宿題です  と

昭和41年 ( 1966年 )  12歳  小学六年生

34  集団登校  ・・「 ミサエー まだかあ 」
35  四つ葉のクローバー と ドナドナ  ・・♪ とてもすき  ボッコ  プッコ  ノッコ
36  風よ伝えてよ あの娘に  ・・「 ♪風ょ伝えてよ エテコに 」
37  私も オカワリ したい  ・・私と同じ班の〇〇さんが言った
38  遠足 帰りのバス  ・・「これ、誰が歌っているの」
39  君は王将だ !!  ・・自称 ・クラスの王将
40  ろくに犬も飼えないくせに  ・・「 この犬 育てんねん 」
41  勢い余って・・・シュン太郎  ・・「ハナダ・・ゲンキダセヨ、キニスンナヨ・・・」
42  あくびをして おんなせんせい に 叱られた  ・・「 勉強に集中していないから出るのです 」
43  学芸会 「 主役や言うから楽しみに観に行ったのに 」  ・・「 もう、折角頑張ったのに ・・・ 」
44  参観日 「 なんで 手をあげんのや 」  ・・「 ハイ、あんまの道を歩みます 」
45  男前少年 と おんな せんせい  ・・私の男前は飛ばされた
46  白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」  ・・「 白組が勝ったら、あなたが優勝旗を取りに行きなさい 」
47  ヒーローに成った  ・・都島球技大会
48  学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」  ・・「 そんな すごい病気なんか 」
49  学校を休む ・ 2 「 闘病とは辛抱我慢すること 」  ・・「 風呂で遊びょうるきんじゃ 」
50  ウルトラ Q  ・・「 ワシの見た 夢じゃあ 」
51  一生懸命なるが由に  ・・私の発音がおかしいと言うのだ
52  俺の目を見ろ 何にも言うな  ・・私は、感動してしまった

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 2 ( 青い鳥 、力満ちてり )  に続く

コメント (1)

昭和 ・ 私の記憶 2 ( 青い鳥 、力満ちてり )

2022年06月29日 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶 2
目次
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教室正面の黒板上には、
額に入った絵画が掛けられていた。
「 オッ!」
席に座って見上げると、
額のガラスが鏡に成って 私の後ろの景色が見えた。
なんとそこに、彼女が写っているではないか。
私は 小さな額の中に 『 青い鳥 』 を、みつけたのである。
毎日 『 青い鳥 』 を、見ることができる。
而も
一人、ひっそりと。
黒板を見る振りをして、『 青い鳥 』 を、見ていたのである。
それはもう、幸せな時間だった。

3  青い鳥   昭和42年 ( 1967年 ) ~ 昭和44年 (1969年 )
昭和42年 ( 1967年 )  13歳  中学一年生
01  あしたのジョー  ・・ヘビー級は凄い
02  ラジオ体操 第二 ・・「 教えて上げよう 」
03  ヒーローに成った・・脇役だった一年生
04  切身の塩サバ 一つ  ・・「 オッ、ハナダ 今日は豪勢な 」
05  ひとの心懐にあるもの  ・・読書とは
06  まんまんちゃん あん ・・サッカーの釜本
07  教師の驕り 人としての格  ・・教師は烈火の如く怒鳴った
08  禁じられた遊び ・・「 映画を観て 君らは如何想ったか 」
09  ブルー シャトー ・・元首相 ・吉田茂の国葬が行われた日
10  先生の親心  ・・「 このクラスの中で成績が一番良かった 」

昭和43年 ( 1968年 )  14歳  中学二年生
11  ヒーローに成った・・一躍 ヒーローに成った二年生
12  『 心を合わせる ということ 』 とは  ・・「 楽譜とおりに歌おう 」
13  ちょっと、つまづいただけの物語 ・・「 アッ ぶつかる 」
14  長島茂雄 感動のホームラン  ・・男の中の男
15  先生の親心  ・・「 本当は86点でしたと言って、皆にあやまりなさい 」
16  not only but also  ・・鉄人 ・吉田も笑ってた
17  「 なんやお前、教科書忘れたんと違うんか 」  ・・なにしてんやろ、こいつ
18  青い鳥 1 「 青 い 鳥 」  ・・「 〇〇〇  ヤロ ・・ 」
19  青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」  ・・「 花田君、黒板見るふりして キーコ見てやる 」

昭和44年 ( 1969年 )  15歳  中学三年生
20  ヒーローに成った ・・青い鳥の目の前で
21  余計な一言  ・・「 コケコッコー 」
22  「 茶目っ気 」・・・勢い余って  ・・「 男は少々ヤンチャなくらいがいい 」
23  置き碁・風鈴 「 もう、やめじゃあ 」  ・・「 クソー 」
24  がり勉  ・・「 花田君 ガリ勉 やてね 」

25  ジェラシー 「 なんで、あいつやねん 」・・「 優しい方が  良えんやぞ 」
26  修学旅行 1 ・ 消えた記憶 「 観音様です、おっ母さん」・・♪ 観音様ですおっ母さん
27  修学旅行 2 ・ 希望号 「カーディガン の 想い出 」・・「 もう、せっかくのところ・・・邪魔をして 」
28  恋心・・「 恋なぞしない 」 ・・と  ・・カーディガン
29  「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた ・・振り向くと、○○○とカーディガンの姿があった
30  引き潮が 満ち潮に変わる時  ・・「 ミヤチャーン ! !  ・・・あれは サユリさん じゃ 」
31  先生の親心  ・・「 かわいそうなことをした 」
32  文学少女にはなれなかった ・・友ガキ ・舟木が笑い出した
33  石川啄木 ・「 文学少女にはなれなかった 」 の、後書 ・・わかれ来て 年を重ねて  年ごとに 恋しくなれる  君にしあるかな
34  それは ちがうやろ  ・・教師は良い意見であると誉めた
35  虹のまち 「 ばら色の瞬間(とき)」 ・・♪ 大阪南の虹の町
36  一緒に行ったろかぁ  ・・よくよく、しょげている私を 見るに見かねてのこと
37  生涯最高のスコア・・・   ・・10フレームを残してスコアは190
38  東洋の魔女 ・・「 だけど涙がでてきちゃう  女の子だもン 」

39  進路相談 「 全くの、五分・五分ですか?」・・「 あそこって、あそこよ 」
40  青い鳥 3 ・ 卒業文集 「 でも 楽しかったわ 〇〇さん 」・・「 でも  楽しかったわ 〇〇さん 」
41  大阪市立淀川中学校 第9期生 (1970年卒)  ・・卒業アルバム


力 満ちてり                          これぞ建築の意気                これぞ 建築の意気
意気は湧けり                        栄えをばゆずらぬ俺の胸        俺の誠 空とぶ雲となる
剣とりて 皆 勇みたて             めぐり来たるこの時
おお選手達                           鐘は鳴る 意気は鳴る
意気は湧けり 戦い抜け         かざせ栄冠の盾を
ああ俺等の選手達よ               起てよ 勇み立て

4  力満ちてり  昭和45年 ( 1970年 ) ~ 昭和47年 (1972年 )
昭和45年 ( 1970年 )  16歳  高校一年生
01  バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」 ・・「 あった! 合格していた !! 」
02  バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」  ・・「 こんな処につくしが・・・」
03  バラ色の時 3 「 一寸した油断から魔が差す 」  ・・「 滑って転んだのは、腰が抜けたから 」
04  受験番号一番の男 と 人生航路  ・・一番と二番の出逢い
05  昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 1 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」  ・・「 大人扱いをするぞ 」
06  昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」  ・・「 見に行かんで良かった 」
07  旭屋書店の帰り、宝くじ を買ったら 当たった~  ・・「 下二桁、22を下さい 」
08  力 満ちてり 「 古き伝統 輝く歴史 」  ・・「 弁当食うの ヤメー ! ! 」
09  反骨な奴のレジスタンス  ・・「 分かったかァ ! ! 」  ・・「 分かりません ! 」
10  腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根  ・・「 30メートルやったら、石投げたら届くで 」
11  「先生、そんなん言うたらあきませんわ」  ・・此を、黙って聴いて居られるものか
12  「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」  ・・「 いいもん見せてもろたな 」 ・・「 ハイ 」
13  面白い 面々  ・・「 五郎はおかしいぞ、掛軸に自分の名は無いぞ 」
14  バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」  ・・小豆島の海、グリーンランドキャンプ場
15 茶目っけ  ・・「 なんぼ俺でも、一枚の絵で 3人に点はやれんぞ 」
16  憂 国  ・・「 三島由紀夫が自衛隊でクーデターを起こそうとして 失敗して、切腹して死んだそうだ 」
17  雄叫び  ・・「 やっぱり、セーラー服は良いいなあ 」
18
  貴ノ花の相撲を見たかったのです  ・・文化祭出展の模型作りに嫌気がさして・・
昭和46年 ( 1971年 )  17歳  高校二年生
19  面白い面々 泣いてたまるか  ・・「 こいつら、面白いヤッチャな 」
20  スター 誕生  ・・「 郵便局は、ハガキや切手を売る処、封筒は売ってない 」
21  鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」  ・・「 お前が入るんなら、俺も入る 」
22  人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして  ・・「 あれが小米かぁ 」
23  パトカー に乗って帰宅する  ・・「 チョット、金貸して呉へんか 」
24  「私は待っています」 と、伝えて  ・・折鶴
25  青い リンゴ  ・・大阪中央郵便局でアルバイト
昭和47年 ( 1972年 )  18歳  高校三年生
26  私はいつも 鬼ばかり  ・・浅間山荘事件
27  17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」  ・・♪ よんでいるのか 刑事君
28  17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」  ・・「 たのむから、もう 出んといてくれ 」
29  面白い面々・茶目っ気 「 カンニング 」  ・・「 エッ  そんなんアリ ・・かい ? 」
30  木枯し紋次郎の一膳めし  ・・一機に腹の中に流し込んだ
31  ひまわりの小径 ・ 「 セーラー服の後ろ姿 」  ・・「 どこの女子校やろ ? 」
32  背伸びした一分(イチブン)  ・・エースで四番 「 剛速球は男のロマン 」
33  メンチ切ったやろ  ・・「 おいおい、あいつからんでくる気やぞ 」
34  凄いやつ  ・・「 わしら、チョンコウ や 」
35  君は都工 ( ミヤコー ) のライトだ!  ・・「 俺は、フランク・ロイド・ライトを研究している 」
36  人は、こうして人生を選択する  ・・「 この成績で設計事務所入りを希望するのか ? 」
37  ヤングおーおー ・・「 機械科の三好が、出とったやろ 」
38  ひまわりの小径のレコード と 奇特なヤツ ・・「 お前にやったものであるから、お前の好きにしたらええ 」
39  cap of coffee  ・・英語の水原先生、それは駄目だと云う
40  卒業設計 ・ 「 工業高等学校 」  ・・これぞ、吾 卒業設計

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 3 ( 青春のひとこま 、右翼青年 、バブルの頃 、大阪ヒーロー 、大和撫子 )  に続く

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昭和 ・ 私の記憶 3 ( 青春のひとこま 、右翼青年 、バブルの頃 、大阪ヒーロー 、大和撫子 )

2022年06月29日 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶  3
目次
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昭和52年 ( 1977年 ) 12月11日(日)
新大阪駅近くの平安閣にて、親友・水阪の結婚式が行われた。
三々九度を終えると
新郎新婦が夫婦になった決意と抱負を語るプログラムがあり
吾々仲間一同も、水阪の計らいで以て特別に参加していたのである。
「 ほんまに、ほんまに 」・・と、水阪の決意は印象的であった。
プログラムが終ると、愈々披露宴。
会場は結婚式場の下階で行う。 吾々は、階段で下階に降りた。
披露宴会場へ向う途中エレベーターホールで、
ソファーに一人端座する 容姿端麗、美人の女性に気付いた。
「 綺麗な女性 (ヒト) がいる 」
此を・・一目惚れ・・と、謂う。
然し、とは謂っても、所詮、通りすがりの縁
そのまま、彼女の前を素通り披露宴会場に入った。
( ・・・ 見果てぬ夢 ・叶わぬ想ひ )

5  青春のひとこま  昭和48年 (1973年 ) ~ 昭和58年 ( 1983年 )
昭和48年 ( 1973年 )  19歳
01  VAN は、憧れであった  ・・黒ノスリムのスラックス、裾18cmのダブル・・・
02  昭和48年 (1973年) 3月5日 ・・「 いやいや、これは君への投資です 」
03  走れ歌謡曲  ・・深夜ラジオ
04  老いた母ひとり 残して行かれない ・・「 ありがとう浜村淳です」
05  チェリッシュの悦ちゃん ・・「 チェリッシュの悦っちゃんの方がいい 」
06  男の人が そんな事してはいけません!!  ・・
07  旅情 ・ 兼六園  ・・「 カーディガンに暑中見舞い送ろう 」
08  心の旅  ・・「 こいつ 」 そう想った
09  酢豚の想い出  ・・少女の心尽くしのおもてなしは、私を感動させた
昭和49年 ( 1974年 )  20歳
10  カーディガンの夢 ・・「 二級建築士になったら結婚しよう 」
11  巨人の星  ・・「 俺は、左門豊作 かー 」
12  調子にのって、叱られて  ・・「 なんやこの絵、下手くそやなあ 」
13  ミニサイクル と交通ゼネスト  ・・「 歩いて行けばよかった 」
14  意見具申、そこに居た第三者 ・・「 今回のコンペ、当選者はいません 」
15  古いお寺に ただひとり ・・目の前に広がる京都の町を眺めた
16  若い頃 ・・「 斯の子は、何処で如何しているのやら ・・ 」
17  りんご の 写真  ・・「 あのポスター、欲しいんでしょう ? 」
18  俺は男だ  ・・「 森田健作さーん 」
19  二十歳の誕生日に  ・・大学キャンパスで千葉信一に遇った
20  青春の ひとこま  ・・「 正子さん  野島正子さん・・・ハーイ  」
21  青年は夢を追いかけろ  ・・「 男気つかれて、その気になったんやろ 」
22  10時になったら、帰ります  ・・「 お父ちゃんは 泊まって来ることはいっぺんもないんで 」
23  羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話 ・・「 こうすると美味いんですよ 」
24  酔うた~  ・・宴会であれだけ呑んでもちっとも酔わなかったのに

25  「 どうして 俺が叱られる 」 ・・・因果な奴  ・・「 スケジュールは追って連絡します 」
26  想い出の セレナーデ  ・・「 天地真理、いいな 」
27  キック の 鬼  ・・チョビヒゲをはやした小柄の男 「 沢村忠 」
28  君達がいて僕がいた 1 「 仲 間 達 」  ・・「 オイ ちょっと待て、俺 肉食うてへんど 」
昭和50年 ( 1975年 )  21歳
29  隣りの あの女性(コ)  ・・「 本当に あの女性 (こ) ですよね 」
30  小さいけど 魂 こもってはる  ・・「 ほんまやったら 国宝なんやけどなぁ 」
31  「 お前、変わってるなあ 」  ・・「 お前の、北一輝に倣ったんや 」
32  叶うものであれは゛ 叶えて欲しい・・  ・・「 決めるべきです 」
33  あの時の少女の言葉 忘れないで存る ・・「 ミホさん・・私の手、輪ゴムより細い 」
34  君達がいて僕がいた 2 「 京橋はええとこ だっせ 」  ・・いくよくるよ との出逢い
35  君達がいて僕がいた 3 「 МA会 野球部 」  ・・「 オイ 8人じゃ 試合できんぞ 」
36  マルチ  ・・騙されても騙すな
37  青春時代 『 青天霹靂のリストラ 』  ・・「 悔しいだろうが、ここは大人の対応をしろ 」
昭和51年 ( 1976年 )  22歳
38  ほう・・・、それで、親孝行とは如何ですか  ・・「 親の傍を離れない事 」 と、答えた
39  「ママ、可哀そう」  ・・その言葉にホロッときたママさん、両の目が潤んだ
40  手編みのプレゼント  ・・「 可愛いい・・ 」 と、想った
41 二級建築士に成る  ・・「 屋根伏 描いとるけど、 違うやろ 小屋伏やろ 」
昭和52年 ( 1977年 )  23歳
42  君達がいて僕がいた 4 「 北の新地は想い出ばかり 」 ・・MA会で盛上げた披露宴
43  君達がいて僕がいた 5 「 スマン スマン 」  ・・水阪一人、未だ来ない

昭和53年 ( 1978年 )  24歳
44  クッターの公式  ・・「 いいものが出来ましたね 」 ・・そう云おうとした まさにその時
昭和54年 ( 1979年 )  25歳
45  運転免許を取った理由はバスが来たからです  ・・然し、バスは来た
46  「 魅せられて 」  ・・「 これが、女優と謂うものか 」
47  人 間 革 命  ・・それもう、感動の涙の坩堝・・・・
48  帰り途は遠かった  ・・木曽駒ケ岳でテニス
昭和55年 ( 1980年 )  26歳
49  私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」  ・・まさに、時代を観たのである
50  大阪名物パチパチパンチ  ・・「 オッ、そうかそうか、そりゃすまなんだな 」

昭和56年 ( 1981年 )  27歳
51  蒜山高原  ・・「 ファーーー 」
昭和57年 ( 1982年 )  28歳
52  コートにかける青春  ・・「 こうして、よく アキレス腱を切るんですよ 」

53  プロローグ ・ 遥かなる想い  ・・旅行でもしたら少しは気が晴れるかも知れない ・・そう想った
54  「結婚式に出席しない」 は、俺の主義  ・・「 思い遣りに欠けた 」 ・・・それだけの事かも知れない

昭和58年 ( 1983年 )  29歳
55  甲子園のマウンドに登る  ・・「 私も一役買った 」

56  青雲の涯 遙かなる想い  ・・「 犬に餌やらなあかんのャ、そのままにして出かけてきたから 」

57  青春のたまり場 「 MA会 ・ 都島アーキテクチャー 」 ・・『 君たちがいて僕がいた 』 の、総集編



 檄
国土を離れて国民なく、国民を離れて国民社会なく、国民社会を離れて、人生なし
故に日本を愛せざるものは人に非ず
日本は尊厳極みなき道義精神を以て世界に比なき団結を有する
日本同胞の愛国同胞主義による日本たらざるべからず
実に、日本は愛国同胞主義に生き、愛国同胞主義は国体に生く
然も、日本愛国同胞主義や今何処  国体や今如何
世界の大勢、国内の実状、一として国体改造の急を告げざるものなし
日本の危機たる真に未曾有と称ざるべからず
これを救うものは何ぞ
ただ愛国革新の断行にあるのみ
生命に価するものはただ生命を以てのみすべし
日本愛国革新者ょ、日本愛国革新の大道の為に死を以て、ただを以て立て
クーデッタを起せ  我同志ょ蹶起せよ
( ・・・ 四年目の檄 クーデッタを起せ  同志よ蹶起せよ )

6  右翼青年  昭和49年 ( 1974年 ) ~
01  二・二六事件と私  ・・私は彼ら の言動を知るにつき、
                                
それらは、私自身の 「 昭和の記憶 」 として
                                
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである。

昭和49年 ( 1974年 )  20歳
02  超国家主義 『吾人は人間であると共に、真正の日本人たるを臨む』  ・・朝日平吾
03  祖父の訓育  ・・「 やるなら拳骨でやるんだ 」
04  祖父 の 遺伝子  ・・「 祖父の想い 」 として、これを継承しようと誓った
05  歴史との出逢い  ・・「 ああ ・・あった 」  一人声無き歓声を上げた私
06  尊 皇 討 奸  ・・「 何だ君は ! 」
07  生涯一の大風景  ・・「 自分にも、何か大きな事がやれる 」
08  私の DNA  ・・最初の一歩を踏み出した私、勢いついて止まらない
昭和50年 ( 1975年 )  21歳
08  一つの写真との出遭い  ・・日本人の面構え と、そう想った
09  何シブイ顔して、歩いてんの !?  ・・「 男がヘラヘラした顔して歩けるか 」
10  覚醒しても尚、覚えている夢  ・・「安全装置を外せ」
11  「サークル」  ・・俺は見た、今の日本の若者のサンプルを
12  右翼青年  ・・「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
13  嗚呼 あの時はもう帰らない  ・・「 なんや、交差点の写真ばかりやな 」


石亭での定例会議
此の日は、『 愛宕の間 』 で 行っていた。
座敷から、和風石庭の景色が堪能でき、庭は数寄屋建築の離れにも通じていた。
定例会議も最中
斯の庭を歩く人影・・・此方へやってくる。
ノーネクタイの下駄ばき・・というリラックススタイル
そして、私に向って声を掛けた。
「 確認、おりたやろ。言うといたからな 」
そう言って、通り過ぎて行った。
オーナーの南野理事長 ( 45 才 ・・当時は皆から 『 理事長 』 と 呼ばれていた )
斯の、大阪府民信用組合の理事長である。
その勢いたるや、『 飛ぶ鳥をも落さん 』 、まさに絶頂の頃。
『 俺が一声かければ、役所も直ちに動く。俺にはそれだけの力がある  』 ・・・と。
( ・・・
Design & Datail  )
7  バブルの頃
  昭和59年 ( 1984年 ) ~ 昭和63年 ( 1988年 )
昭和59年 ( 1984年 )  30歳
01  記憶しない大切な想い出もある  ・・ 東京モノレール
02  栗原小巻 「 こんなきれいな女性 (ひと) 見たことない 」  ・・目の前に、あの栗原小巻がたった
昭和61年 ( 1986年 )  32歳
03  どうか、通してくだしゃんせ  ・・「 何を言っているのか、分かりまへんわ 」
04  コレクトコール プリーズ  ・・Collect call Please  ok  japan osaka 0 ・・  whats ・・?
05  あのおつりは、私のだった  ・・あけてびっくり、玉手箱
昭和62年 ( 1987年 )  33歳
06  大阪つばめ  ・・「 まあ、こんな幼き子が  この演歌を唄うか 」
昭和63年 ( 1988年 )  34歳
07  イエス か ノー か  ・・「 kippu・・・、 kippu・・・」


   「 ドヤッ  わしらの時代は おもろいやろ 」
8  大阪ヒーロー
01  笑いたいのをこらえたのに  ・・漫才、中田ダイマル・ラケット
02  「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」  ・・漫才、横山やすし・西川きよし
03  すきがあったら どっからなと かかってこんかい  ・・吉本新喜劇、岡八郎
04  おまえ・・ブタマン屋の娘やろ  ・・吉本新喜劇、岡八郎
05  ガオー  ・・吉本新喜劇、岡八郎
06  革命児達  ・・落語、笑福亭仁鶴  ・・落語、桂三枝、・・落語、月亭可朝
07  人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして  ・・落語、桂枝雀
08  大阪名物パチパチパンチ  ・・吉本新喜劇、島木譲二


9  大和撫子
01  女の まこと  ・・「 私くしは山崎烝の妻でございます 」

02  私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」  ・・「 あなたの妻と呼んでいただいて  私は幸せでした 」
03  二十四の瞳 花の絵  ・・「 お母さん、百合の花の弁当箱  ほんまに買うてよ 」
04  散髪屋で見た漫画本  ・・「 看護婦さんは食べないのかい 」
05  妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい  ・・「 私たちが居たのでは後顧の憂い、一足先に逝って待っています 」
06  殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」  ・・ 「 菅波、お願いがある。貴様の妹を俺の妻にくれないか、一生大事にする 」
07  大和撫子 は 日本女性の鑑  ・・
凛としていて、清楚 慎まやかで 一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す 甲斐甲斐しい女性を謂う
08  東京だよ おっ母さん  ・・久しぶりの道
09  郷愁  ・・島倉千代子が謳う 「 女性 」
10  おさげ の女性  ・・おさげは女学生の代名詞
11  七変化  ・・琴姫七変化
12  東洋の魔女  ・・「 だけど涙がでちゃう 女の子だもん 」
13  「私は待っています」 と、伝えて  ・・優しい乙女心
14 男の人が そんな事してはいけません!!  ・・「 そういうことは女のすること 」
15  絶世の美人  ・・吉永小百合

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 4 ( 昭和の聖代 、三島由紀夫 、二・二六事件 )  に続く

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昭和 ・ 私の記憶 4 ( 昭和の聖代 、三島由紀夫 、二・二六事件 )

2022年06月29日 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶  4
目次
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おも フニ 今後帝国ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨オモム ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕 ハ 茲ニ国体ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚しんいシ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫みだり ニ事端ヲ滋しげ クシ
或ハ同胞排擠はいせい互ニ時局ヲ乱リ
為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 挙国一家子孫相伝ヘ確かたク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏かた クシ
ちかつ テ 国体ノ精華ヲ発揚シ
世界ノ進軍ニ後おくレサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克 ク 朕 カ意ヲ体セヨ 
( ・・・ 終戦の玉音放送 )

9  昭和の聖代
01  乃木大将 「お伴はんはお人悪や、閣下もあんまりや、と 女将が怨ってのォ 」
02  現御神 アキツミカミ・・・神と同一の心境、純粋無私の精神で君臨す
03  軍人勅諭 「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」・・朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ
04  伝承する、と 謂うこと・・「 自尊、責任、自己犠牲 」 ・・武士道の根幹精神である
05  昭和ひとけた に 生まれていたら・・海ゆかば
06  修身と教育 ・・「 今の子供は修身を習わにゃいけん 」
07  愛国百人一首  ・・海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草生す屍 大皇の邊にこそ死なめ 顧みはせじ
08  戦陣訓 「 是戦陣訓の本旨とする所なり 」  ・・生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ

09  妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい ・・父ちゃんは戦地で立派な手柄をたてゝ御土産にして参ります
10  などてすめろぎは ひと となりたまいし ・・そして命中の瞬間を、ついに意識は知ることがなかった
11  万斛の恨み・・大阪大空襲、「 城北公園 ・ 長柄橋の悲劇 」

12  敗戦の日 ・・玉音放送 「 堪へ難キヲ堪へ  忍ヒ難キヲ忍ヒテ  以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 」
13  佐々木二郎大尉の八月十五日  ・・「 今の陛下が大切です 」
14  殉国 「 愛児とともに是非お連れ下さい 」  ・・「 自決して国民にお詫びなされたのだ 」

15  「 日本は負けたんだ 」  ・・「 あんたは警官じゃないか、なぜ救わないんだ 」
16  「 挙国の士以て自立するなくば即ちその国倒る 」  ・・敗戦の結果、敵国軍隊の軍靴の下に祖国は蹂躙された
17  亡き戦友の声 ・・私は戦死した人々の顔が浮び、声が聞こえるように思った
18  マッカーサーの行った日本の改革 ・・『 日本改造法案大綱 』 と甚だ似たものであった
19  大御心 ・「合法手続ならば裁可する、其れが立憲国の天皇の執るべき唯一の途である」
20  「 実は 朕は人間 (ひと) である 」  ・・
ある日より 現神は人間となりたまひ    年号長く 長く続ける昭和
21  などてすめろぎは人間となりたまひし  ・・神でなくなった天皇


諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。
よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命………。

まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。
これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。
それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳 ! 
( ・・・バルコニーの演説 )
10  三島由紀夫  『 男一匹 命をかけて 』

01  憂 国  ・・「 三島由紀夫が自衛隊でクーデターを起こそうとして 失敗して、切腹して死んだそうだ 」
02  男一匹 命をかけて  ・・「
一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ 」
03  三島由紀夫の死 雷の衝撃  ・・三島由紀夫の死は 否定も肯定も超えて 僕に大きな衝撃を与えた
04  燃えよ剣  ・・「 誠 」 一字に命をかける  意味なぞ ない

05  三島由紀夫 の 二・二六事件 
・・二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった

06  三島由紀夫 と 二・二六事件  ・・あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます
07  などてすめろぎはひととなりたまいし  ・・血の叫びにこもる神への呼びかけは
                                                          
ついに天聴に達することなく、陛下は人として見捨ててたまえり

最後まで頑張って自己を尊重し、自尊心を護ることが
取りも直さず 人間を尊重することに成る。
自己を尊重する者が人間を尊重でき、真実を尊重できる。

08  最後に守るべきもの1
  ・・三島由紀夫 と 石原慎太郎
09  最後に守るべきもの 2  ・・三島由紀夫 と 石原慎太郎 
10  三島由紀夫の葉隠入門  ・・ 『 葉隠 』 は、生きる可死ぬかというときに、死ぬことを勧めている
11  勇者とは  ・・危機というものを、心の中に持ち、その危機のために、毎日毎日の日常生活を律してゆく
12  礼法について  ・・どうして日本料理に限って男から先に出さなければいけないのか
13  羞恥心について  ・・羞恥心のなさが、反省のなさに通じている
14  忠義とは何ぞや  ・・忠義は苛酷なものですよ
15  握り飯の忠義  ・・忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります


村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
午前四時二十分出発して、
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、
官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
( 同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)
余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。
五時五、六分頃、陸相官邸に着く。 
( ・・・磯部浅一 『 行動記 』 )

11  二 ・二六事件
昭和 ・ 私の記憶 『 二・二六事件 』 
二・二六事件と私 
歴史との出逢い  
尊 皇 討 奸  
男のロマン 1975 
私が観た映画 ・動乱 「 私は、幸せでした 」 


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殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」

2021年08月15日 | 9 昭和の聖代


東宝映画
「 日本で一番ながい日 」
三船敏郎演じる阿南惟幾陸軍大臣
「 一死ヲ以テ 大罪ヲ謝シ奉ル 」
敗戦の責任をとって自決する場面である。

時代劇での割腹シーンは、吾々の世代は馴染み深い

「 武士が責任をとる 」 ・・・とは、切腹するもの。
吾々は、子供の頃から そう認識していたのである。

明治維新なりて
国民は天皇に忠誠を誓った。
『 七生報国 』
「 殉死する覚悟をもつ者、憂国の至誠と認む 」 

国に殉じることは、天皇陛下への忠義であったのだ。

 神風特攻隊

殉国
親泊朝省

いよいよ降伏と決定
大日本帝国は有史以来初めて敗北を喫した。
親泊が精神の拠り処と仰いだ大元帥陛下は敵の軍門に降られ、皇軍は消滅する。
その上、故郷の沖縄は敵手に落ち、同胞の軍官民 数千人が戦死したという。
 

「 帰りなん、いざ、魂は南溟の果てに 」
敗戦と決定して以来、親泊の心中を去来したのは
この思いではなかったか。

彼の動かぬ決意を知った妻の英子は、
「 愛児とともに是非お連れ下さい 」
と、同行を願った。


長文の遺書 「 草莽の文 」 をしたため

この命断つも残すも大君の
勅命 (マケ) のままに益荒男達よ

九月二日の夜
「 ガ島で死すべかりし命を今断ちます、諸兄皇国の前途よろしく頼む 」
と、同期の井本、種村、杉田宛にしたため
妻子とともに 四十三年の清冽な生涯を終えた。

敗戦時は大本営陸軍報道部員として、
民間の報道機関に戦況を報知する任務についていた。

しかし、この任務は正直な親泊にとっては、辛い、耐え難い職務であったらしい。
「 軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。
心の中では申し訳ないと詫びつづけている。 ほんとうに辛い職務だ 」
と、うつむいていたという。

「 その時は大佐殿はもう四十をすぎておられたが、青年時代そのままの純真で清潔な、
心中一点の曇りもないようなお人柄であった。

終戦の前後はたいむが忙しくてお会いする機会はなかったが、
その悲痛な御心中はよくお察しすることができる。

大佐殿が御家族もろ共自決されたことは、九月上旬たしかに騎兵学校内で開いた。
ああ、やっぱり誤りの報道をしていた ( それはたとえ軍の命令であったにしても ) ことを、
自決して国民にお詫びなされたのだと思った。

大佐殿の平素の御性格、御心中を知る私には、
乃木大将と同じく立派な御最期だと、今でも感服し敬慕している」
と・・・岡治男 元機甲大尉

親泊の自決は、親しい人にはうすうす感づかれていたらしい。
形見わけのつもりで持ち物を知人にやっていた。
終戦処理のため、
名古屋東海軍管区司令部に転じていた私は、
憲兵隊の課長をしていた
岡村適三の世話になった。
ある日 東京から帰った岡村は、
「 小山、親泊は死ぬらしい。新聞記者がそういうとる。
何でも持ち物は自分のものは勿論奥さんや子供さんのものも惜し気なく人に呉れるそうだ 」
「 そらいかん、貴様いってとめてくれ 」
「 うん 」
岡村が上京した時は既に後の祭り、
親泊は夫人と共に愛児を道連れに朱にそまっていた。

たしか彼が陸大専科学生の頃だったろう。
夫人は可愛い子供さんをつれて私の家を訪れた。
夫人は妻の兄の教え子
その義兄から 「 妻を娶らばああいう人を 」 とすすめられた人である。
私は うちくつろぐ二人の女を比較して、親泊の幸を羨ましく思った。
それは 私の浮気性ばかりではなく、真に非のうち所のない婦人であった。
その人も共々・・ ( ・・小山公利手記 )

昔から
「 慷慨死に赴くは易く、従容義に就くは難し 」 と、言う。
従容死に赴くのはさらに難しいのではあるまいか。
大日本帝国は降伏し
天皇陛下は 「 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 」 と仰せられた。
これから平和が来るのだという時に、その平和に背を向け、
祖国の終焉に殉ずる決意は容易なものではあるまい。

額田坦著 「 世紀の自決 」 に五百六十八柱の芳名が載っている。
しかしそれ以外に、民間人でありながら祖国の難に殉じた人も多い。
尊攘同志会の人々の愛宕山上の自決、明朗会 ( 高級船員の団体 ) の人々、大東塾の人々の集団自決がある。
これらの人々はまことに国難に殉じた人であり、日本人の華である。
降伏時陸軍大臣であった阿南惟幾、
東部軍司令官であった田中静壱、
特攻隊の生みの親であり軍司令部次長であった大西滝治郎、
後には杉山元、本庄繁と、いずれも立派な最期を遂げている。
しかし、この人々は軍における枢機に参じ、責任のある地位にいた人々である。
この 五百八十六柱の中には、中少尉から兵士までいわゆる草莽に生きた人々が、
国の内外で祖国の敗北に殉じている。
岡潔は 「 世紀の自決 」 の序文で、この人々の散り際を花吹雪にたとえている。
「 日本人が桜の好きなのは散り際が潔いからである 」 といっている。

親泊朝省もそのうちの一人である。
「 親泊は敗戦と決定した直後から、自決を心中深く決していた、
もっと壮烈な死に方をしたいと思っていたようだ。 いつ死ぬか、その日を選ぶのに苦慮したようだ。
出来れば降伏した八月十五日に死にたかったようであろうが、
大本営の後始末、
書類の焼却などで、自決などできる状態ではなかった 」
と、親泊の親友菅波三郎は語ってゐる。
そこで、九月三日、東京湾上のミズリー号で降伏文書に調印される日の前夜、
降伏を潔しとせぬ皇軍軍人としての誇りを秘めて、妻子ともども皇軍の終焉に殉じたのである。

菅波三郎と親泊朝省(右)

満蒙の風雲がしだいに険しさを増しつつあった昭和五年の春、
鹿児島にいる菅波三郎の下宿へ、ひょっこり親泊朝省が訪ねてきた。
つもる四方山話に興じていた親泊が、急に姿勢を正すと、
菅波の目を見すえながら、
「 菅波、お願いがある。貴様の妹を俺の妻にくれないか、一生大事にする 」
と、言った。
突然のことで 菅波も返事の言葉に窮したが、

「 うむ、英子本人が何と言うか、こういう事は本人次第だ。俺には異存はない 」
と、言うより外はなかった。
その年の秋、東京で式をあげた。
この時 親泊二十五歳、英子十九歳

「 親泊様、御一家一同御自害、相果てられました 」
昭和二十年九月三日の早朝、
小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、
目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。

かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものとなってみると、
哀痛、万感交 ゝ この胸に迫る。

取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。
空襲を免れた古い街並みの一角、シーンと静まる親泊の家、
一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。

「 あそこ、か 」。
玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、
親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、
右から親泊朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。

凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち抜き、
十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
件 (クダン) の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、
二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニング二号であった。

通夜、翌日納棺、荼毘に付す。
いよいよ出棺の間際、
「 お別れを 」 と 係の者が蓋を開けると、
大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、
「 ワーッ 」  と  一斉に声をあげて泣き出した。

無理もない。
きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、
まのあたりにして、ああ。

・・・・・・
終戦の日から、ミズリー艦上の降伏調印の日までの間に、
一度だけ朝省が拙宅に来た。

「 千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。
その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで」
と 語った。

「上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。
だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない」
とも。

また別の日、
妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、

帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、
「 うちに行こう、一緒に行こう 」
と 言って泣き出した。

虫が知らせたのかと、あとで思った。・・・・」
・・・菅波三郎談


親泊朝省時に四十三歳、
妻英子三十七歳、
十歳の長女、
五歳の長男と共に逝いた。
英子は菅波三郎の妹である

・・・二・二六事件 青春群像 須山幸雄著から

嗚呼
敗戦が為、殉死したと
嘆に想うな
哀しいことと想うな

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敗戦の日

2021年08月15日 | 9 昭和の聖代

815 

 

 

 

 

 

 


昭和20年8月15日
アメリカに降伏した日である

朕 深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ
非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ
ここ ニ忠良ナル爾なんじ臣民ニ告ク
朕 ハ帝国政府ヲシテ 米英支蘇四国ニ対シ
其ノ共同宣言ヲ 受諾スル旨 通告セシメタリ
抑々そもそも帝国臣民ノ康寧ヲ図リ
万邦共栄ノ 楽たのしみ ヲ偕もと ニスルハ
皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕 ノ拳々措カサル所 
さき ニ 米英二国ニ宣戦セル所以モ亦
実ニ帝国ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ 庶幾しょき スルニ出テ
他国ノ主権ヲ排シ 領土ヲ侵スか如キハ固ヨリ 朕 カ志ニアラス
然ルニ 交戦 已すで ニ四歳しさいを閲くみ
朕 カ陸海将兵ノ勇戦 
朕 カ百僚有司ノ励精れいせい
朕 カ一億衆庶ノ奉公
各々最善ヲ尽セルニ拘ラス
戦局必スシモ好転セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之しかしのみならず 敵ハ 新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
しきり ニ無辜むこ ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚 交戦ヲ継続セムカ
つい ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス
延テ 人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ 朕 何ヲ以テカ
億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ
是レ 朕 カ帝国政府ニシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕 ハ帝国ト共に終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝国臣民ニシテ
戦陣ニ死シ
職域ニ殉シ
非命ニ斃レタル者
及 其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク
且 戦場傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ
朕 ノ深ク軫念しんねん スル所ナリ
おも フニ 今後帝国ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨オモム ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕 ハ 茲ニ国体ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚しんいシ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫みだり ニ事端ヲ滋しげ クシ
或ハ同胞排擠はいせい互ニ時局ヲ乱リ
為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 挙国一家子孫相伝ヘ確かたク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏かた クシ
ちかつ テ 国体ノ精華ヲ発揚シ
世界ノ進軍ニ後おくレサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克 ク 朕 カ意ヲ体セヨ

・・・玉音放送原文
  

   
爾 臣民

昭和21年1月1日
天皇は人間宣言をして、「現人神」では、なくなった
この日より、日本人の魂が、凍結された

昭和29年
敗戦の日から九年后、私は生まれた
たった九年后に・・・・・・

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妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい

2021年08月14日 | 9 昭和の聖代

冷え十二月の風の吹き荒む日
荒川の河原の露と消し命
母と共に 殉国の血に燃ゆる父の意志に添って
一足先に父と殉じた哀れにも悲しい

然も 笑っている如く
喜んで母と共に
消え去った幼い命がいとおしい

父も近く御前達の後を追って行けることだろう
厭がらずに 今度は父の膝に懐でだっこして寝んねしようね
千恵子ちゃんが泣いたらよく御守しなさい
では暫らく左様なら
父ちゃんは戦地で立派な手柄をたてゝ御土産にして参ります
では
一子ちゃんも、千恵子ちゃんもそれまで待ってゝ頂戴
井 一 陸軍中尉 (29才) の遺書である

陸軍飛行学校で少年飛行兵に精神教育を担当していた
次々と特攻隊として飛び立ってゆく、教え子を見送る
「 必ずオレも後に続くぞ 」・・・と 

然し、特攻を志願すれどすれど、パイロットでない中尉の願いは叶わない
彼の妻は死なないで欲しいとひたすらこいねがうも
夫の決意の固きを悟った妻は覚悟し
「 私たちが居たのでは後顧の憂い・・思う存分の活躍ができないでしょう
・・一足先に逝って待っています 」

と、遺書を残し 
三才と一才の女の子を連れて入水自殺をする

引上げられる妻子の遺体のそばで号泣した中尉
血書の嘆願書を以て決死の再志願、
遂に特攻の願いは認められ
昭和20年5月28日戦死、
藤井一中尉は家族の許へ

・・・是の
何処を どう捉えるかは、
人それぞれの想いに依るだらう
然し
祖国の為
かけがえのない命を挺した先達
その歴史の上に今の吾々の命は存在する
此の事
忘れてはならぬ
そして
此を
戦争がもたらす悲愴と言うな

とはいえども
情を以てすれば


妻と共に、消え去った
幼き命がいとおしい
もうすぐ、会いにゆくからね
お父さんの膝で抱っこして寝んねしようね
それまで、泣かずにまっていてね
・・・

嗚呼
誰が此を
泣かずに居られよか
・・・
絶句

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5 右翼青年 昭和49年(1974年)~

2021年08月12日 | 5 右翼青年 1974年~

右翼青年
昭和49年(1974年)~
左翼全盛の頃
「君は右翼か」・・・そう言われた
「日本人です」・・・そう応えた

己が心懐の
日本人たるDNAを物語る

目次
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私の DNA
1970年代
「本を読む」・・は、ステータスであった頃
通勤の車内で以て、文庫本を読むのも、日常の事であった
吊皮片手に本を読んでいる者も当りまえの如く居た
「なにも、この朝の忙しい時に・・・」

十九歳の私
「文学少女には成れない」 と、諦めた中学以来
「本を読む」 に、縁遠い存在であった

昭和49年(1974年) 年頭
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に立ち寄った
先輩に つられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた
そして
並んでいる本の中に、目を引く物を見つけたのである
「天皇制の歴史心理」
それは、偶然の如く か、必然の如く なりしか
私は、「天皇」 と、出遭ったのである

最初の一歩を踏み出した私
以降、勢いついて、止まらない
「自分とは何ぞや」・・・を、発見していったのである
それは、私にとっての 「歴史上の大発見」 と、いうものであった
読みたい、との想いは
必ずや
読みたいもの、と出遭う
そう、実感した私である


男一匹 命をかけて
「静聴せよ、静聴、静聴せい」
「静聴せい、静聴せい」
「静聴せいと言ったら分からんのか、静聴せい」
「おまえら聞けぇ、聞けぇ!」
「静かにせい、静かにせい!」
「話を聞けっ!」
「男一匹が、命をかけて諸君に訴えているんだぞ」
「いいか、いいか」

「それでも武士かぁ!」
「それでも武士かぁ!」 ・・・自衛官からの野次
    
昭和45年(1970年)11月25日
市ヶ谷台上で 天皇陛下万歳を三唱 して
壮絶なる死を遂げた、三島由紀夫の 「死の叫び聲」 である
軍隊とは、武士の集団であろう ・・と
武士なる、自衛隊と信じて 蹶起したのである
であるが・・
もはや、武士の魂 を 抜取られた、時代の申子 自衛隊
「檄」 を、飛ばせど
三島由紀夫の意志など、通じる筈も 無かったのである
されど
三島由紀夫の 飛ばした「檄」は、「死の叫び聲」は
私の中に潜在した 「吾は日本人」 と謂う 意識を喚起した
これぞ
私のDNA なのである

左翼思想全盛の昭和45年(1970年)に於いて
素直に そう 掬び付くことは、稀有な存在 であった
今も尚
吾々のDNA は、凍結されしまま 眠っている
これから日本が、世界の中で生存しようとするなら
凍結されし、吾々のDNA  を、解凍し
吾々のDNA に眠る
武士の魂 を 喚起する
そこれこそ
吾々日本人に求められているもの
と、私は想うのである

二・二六事件と私
昭和40年(1965年)11才                                       
「陸海軍流血史・五一五から二・二六」 との出逢いは、
何かしらん重々しいものを感じたものの、如何せ11才の私、それは幼稚なもの
昭和45年(1970年)16才                                       
市ヶ谷での三島由紀夫の自決は、16才の私の潜在意識を喚起させた
然しそれは、未だ漠然としたもので核心までは至らなかった
そして、
昭和49年(1974年)19才
『自分が日本人である』 という潜在意識の核心を はっきりとを自覚した私
『日本人とは如何』・・・この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなった
それは、逢うべくして逢ったのである
蹶起の青年将校こそ、『純真無垢の日本人である』・・そう確信したのである
神達の言動を知るにつき
それらは、私自身の昭和の記憶 として
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである

四-1
超国家主義

多感であった19歳の私が、亦、自分を磨かんとして磨いていた私が、これ等と出遭い
憧れを感じる程に、素直に受け入れたのである
これ等は、慾すればこその出逢い、と謂えよう

私は、これ等を 慾するところ慾するが儘に読んだ
そして、私はこれらを精読、浄書することで、私の中に眠るDNAを読み取っていたのである
まさに、どこをどう読むかは、その時点に於ける私自身の資質、素容そのものと謂えようか
しかし、これ等を何故そんなに 憧れたのか
亦、素直に受入れることができたかは、私自身説明できない
それは私のDNAとしか 謂い様がないのである
四-2
一つの写真との出遭い
 ・ 

歴史との出逢い

目的地は直ぐそこ哉、気が逸る・・・・
そして
「ああ・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年(1974年)8月7日
二十歳の私 昭和維新の神達 と、初めて、直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった



祖父 の 遺伝子

西田 税 の、乃公自作の真理は、52年後の昭和49年(1974年)、19歳の私に届いた
「意を得たり」
これが、私の実感であった
而して 私は
祖父の遺伝子 を、しかと確認したのである



祖父の訓育
昭和49年(1974年)、二十歳の私が出遭ったもの
やるなら拳骨でやるんだ」

正々堂々を信条に、卑怯な真似はするな
此が祖父の訓育・・と、素直に『よし』とし、肝に銘じたのである

何シブイ顔して、歩いてんの!?
若き二十歳
私は眉間を寄せて、街路を歩いた
「何シブイ顔して、歩いてんの !?」  (カッコウ付け過ぎヤヨ)
バス停に向かう途中の路で、〇〇〇が、そう声をかけた
「男がヘラヘラした顔して、歩けるか」
私は、そう云い返した


尊 皇 討 奸
昭和維新の象徴である
神達は是を、合言葉にも使った
二十歳の私 は
どうしても、神達と逢いたい
そう想ったのである
昭和49年(1974年)11月25日
念願の 山王ホテル に、遂に来た
「オオーッ」
  
昭和11年2月26日
あの、尊皇打奸の旗 が、たなびいた、屋上搭屋は当時の姿のままであった
こそ 昭和維新
昭和維新の風を肌で感じた気に為ったのである
 


生涯一の大風景
  
意を決して 上って
塀超しに見た風景は、素晴らしきものであった
二十歳 にして
それは
生涯一の大風景であった
 
十一
覚醒しても尚、覚えている夢
徴兵制が復活した
こともあろうに 私は、最初の出征兵士となったのである
日本国最初の兵士

任期は一年
「最初だから まさかこの1年の間に戦争は起らないだろうし、そのまま満期除隊となるだろう」
 と、たかをくくっていた私は、暢気に構えていた
ところが、戦争が起きてしまった
そしてとうとう、東南アジアに派遣されることと成ったのである

十二
右翼青年

21歳(1975年)昭和50年頃の、友・平野との会話

「ソ連が攻めてきたら、どうする?」
「戦争反対、唱えるしかないな」
「北海道に攻め入ってきて、日本人が殺されているんやで、それでも、戦争反対唱えるのか?」
「俺は戦いに行く」
「勝ち目ないで、ソ連には敵わん」
「日本人が殺されるのを、手を拱いて視とけ、言うのか?、占領されたら、どうするんャ」
「白旗挙げて降伏する、戦ったら死ぬデ、死んだら終わりヤ、死んで、残った家族どうなるんャ
  降伏しても、命までは取らんヤロ」
「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
「死ぬよりましヤデ」
「お前、本当に、そう思っているのか?・・・」
十三
「サークル」

夢とは ロマン のこと
究極の行動とは 殉じる こと
彼等は それを知らない
彼等は、真剣に 「憂国」 を、語り合っていると謂う
軽々しい
憂国 とは 同胞の為に殉じる こと
相当な覚悟をもって、発言すべく事柄であらう
彼等が、そんな覚悟を持っている 筈は無い
十四
あの時はもう帰らない

昭和50年(1975年)11月24日
神達の面影を求めて、一人、大東京へ

霞ヶ関ビル
エレベーターで昇るにつれ、気持ちが昂ぶってゆく
何と、地上150mから、大東京を見渡す
是、素晴らしき風景哉
「オオッー」
「万歳、万歳、万歳」

十五
男のロマン 1975
男のロマン 大東京
二・二六事件 一人歩き

次頁
6 バブルの頃 昭和62年(1986年)~昭和64年(1988年)
に続く
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明日があるさ

2021年07月09日 | 2 男前少年 1963年~

 ケイトウ
昭和38年 ( 1963年 )
小学三年生、9歳の頃のこと、私は、夜 眠りに着くのが嫌だった。
トイレへ行きたくなかったのだ。
トイレは部屋を出て廊下のつきあたりにある。
ところが、トイレには灯りがなかった。
だから夜中に一人、トイレに行くのが怖かったのだ。
幼い妹等は母が連れて行って呉れる。
しかし、『 あんちゃん 』 の私、『 男前 』 の私、
恐ろしいから、ついて行って・・・とは、言えなかったのである。
寝る前にチャンと用を足したのに、布団に入ると もよおす。
「 さっき したばっかりなのに・・・・」
我慢すれば、我慢するほど、したくなる。
辛抱我慢の末、せっかくトイレへ行ったけれども、小便は出ない。
仕方なく、戻って布団の中で しばらくすると 又もよおすのである。
もういやになっちゃう のである。
「 ホースを便所から布団の中まで伸ばしてそれでション便したら、便所迄行かんでもええのに 」
・・・私は、そんなことで毎晩 葛藤していたのである。

訃報
夜中のトイレに対する葛藤が漸くなくなった。
もう、平気。
・・と、自信も出て来た 昭和39年 ( 1964年 ) 8月、
10歳、小学四年生の 或る夜。
ドンドンドッ 、と、戸を叩く音。
驚いて戸を開けると、血相を変えた顔で叔父が入って来た。
もっと驚いたのは、故郷に存る筈の祖父が続いて入って来たことだ。
「 どしたんな。こんな晩に。」
と、親父が訊いた。
「 ・・・・・」
薫・伯父が亡くなったこと、知らせに来たのだ。


昭和37年 ( 1962年 ) 8月、
あの和歌山でのこと。 ・・・リンク→教えたとおり、言うんで
和歌山に着いたその晩、私は三人の伯父 ( 一人は叔父 ) たちと一緒に寝ることにした。
薫・伯父が私に寝ながら話を聞かせて呉れると言う。
私は 5歳の頃 叔父たちと一緒に寝た夜、定・叔父から寝ながら 『 日本狼の絶滅 』
という話を聞かされたことがあった。
その時の楽しかった一夜を思い浮かべた私、「 それじゃあ 」 と、喜んで応えた。
ところが、これがとんでもない恐ろしい話であった。
『 怪談・田んぼの一軒家 』
「 大阪へ来る時、列車の窓から田んぼが見えたじゃろう、
ほいて、田んぼの中に家があったじゃろうが・・・・ 」
山陽本線上り、窓から見える風景は、田んぼ ばかり。
私は、田んぼに点在する一軒家の風景や、広告看板が並ぶ風景を眺めてきた。
「 その、田んぼの一軒家に住んじょった 家族の話なんじゃ。
家にはのお、
おとうさん、おかあさん、小さい赤ちゃんの三人が居ったんじゃ。
家族三人で仲よお暮しょうたんじゃ・・・けど、
ある時、おとうさんが病気で死んでしもおてのお。
残された おかあさんは、たいそう悲しんで泣いてばかり居ったそうじゃ。
その おかあさんも いつのまにか姿が見えんようになったんじゃ。
『 こりゃ、おかしい 、どうしたんじゃろ 』
村の人らが心配してのお、・・・その、田んぼの一軒家を訪ねて行ったんじゃ。
そしたらのお、その家にはのお、
赤ちゃんを抱っこした、おかあさんがおったんじゃ・・・
そのおかあさんはのお・・・やせ細ってのお、白い着物を着て、長い髪を垂らしてのお・・・
・・・赤ちゃん、よう見たら、もう死んじょる。
『 死んじょる赤ちゃんをずっと抱っこ しちょったんじゃ 』
『 気が狂うちょる 』
村のみなは それはもう 恐ろしゅうなってのう・・・ 」
伯父が さも恐ろしいげに話す。
「 いびしい !!  」
私は恐ろしくって、枕を被った。
それでも、伯父は私の耳元で尚も話を続ける。
もう二人の伯父たちは、その様子を微笑んで見ていた。
「 赤ちゃんは腐っちょってのお、体には ウジ虫が ウジョウジョ・・・ 
ほいてのお、
おかあさんが 長い髪をだらーんと垂らしたまま こっちへ向ってくるんじゃ。
うつむいた顔をあげて のお・・・ イーヒッヒッヒ・・・・ 」

斯の話、8歳の私には度が過ぎた。 

昭和38年4月、
大阪に移住して来た吾が家族。 伯父の近所に居を構えたのである。
明日は、転校初日 亦 始業式である。
不安一杯の私に、

「都会のもん はなあ、体は大きいても、力はないんじゃ」
「田舎のもん はなあ、
ちいちょうても、強いんじゃ!」
と、私を勇気づけて呉れた伯父。 
・・・リンク→びっくりしたなぁもう !!

その伯父が亡くなったのである。

訃報を聞きつけて、
祖父母、伯父・叔父、叔母と親戚の全てが伯父の家に駆け付けた。
私も親父と一緒に駆け付けたのである。
伯父の遺体はまだ家には帰って無かった。
皆は遺体が帰ってくるのを待った。誰の気持も重かった。
そんな緊張の最中に、いったい何をどう話 したらいいというのか。
誰もが黙りこくってシーンとしていたのである。
伯父の娘、二人の幼い従妹 ( 8歳と6歳 ) も、親の死に 未だピンと来ていないみたい。
いつもの様に、貢・叔父に 『 カモネギ 』 の話を従妹がすると、叔父はいつもの様に笑って愛想した。
その笑い方がいつもの笑い方より一段大げさだった。
私はそれを不思議に感じた。
がしかし、10歳の私、それがどういうことか判ろう筈もない。
そんな中、伯父の小母 ( 義伯母 )さんや、お姉ちゃん ( 叔母 ) が私を相手に絡んで来た。
皆の悲しみなぞ判ろう筈のない私が無邪気にそれに応える。
私のその無邪気な応へに、大声を上げて笑う小母さんとお姉ちゃん。
「 喜んでいる 」 と、勘違いした私、さも得意になって喋った。
そんな時、遺体が帰って来た。
すると、つい今しがた、大声で笑っていた二人、
笑い声は一転、大地も裂けんが如く、泣き叫んだのである。
私は、愕然とした。
「 さっきまで、あんなに笑っていたのに・・・・」
そして、その姿を茫然と見つづけたのである。

人が死ぬとは、殊に親兄弟が死ぬとは、・・・こういうことなのである。

この家のトイレは、家の外にあった。  そして、灯りが無かった。
夜、こわごわ用足しに向かうと、
「 ワシも一緒に行く 」・・と、祖母が追っかけて来た。
私は祖母と一緒に用を足したのである。

♪いつもの駅でいつも逢う
セーラー服のお下げ髪
もうくる頃  もうくる頃
今日も待ちぼうけ
明日がある  明日がある  明日があるさ ♪
・・・斯の時、
従妹が口遊んでいた歌である。

幼い娘二人を抱えて、女手一人で育てて行かねばならぬ小母さん。
酷な人生であろうと、生きて行くしかないのである。

 おしろい花
トイレの傍に、従妹らが植えたものか。
おしろい花が咲いていた。

その中にひとつだけ、
真赤に咲いた鶏頭 ケイトウ の花
・・・ひと際鮮やかであった。

そして私
一時は克服したと想った、夜中のトイレでの葛藤。
又 始まったのである。

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夏の想い出と祖母がつくったアブラメの味噌汁

2021年07月08日 | 1 想い出る故郷 ~1962年

松本の店と山口の家の間の小径を少しだけ登ると右手に大きな杉の木があった。
大きな杉の木には、夏になるとアブラゼミが鳴いた。
松本の店で一個十円の桃を買うと、
松本の小母さんが店先においてあるガロン缶に溜めた水で洗って呉れる。
洗い終わると、俟ちきれんとばかりに大きな口を開けて頬張るのである。
いちいち皮など剥かない。
私は、大きな柔らかい桃より、小さな堅い桃の方をいつも選んだ。
其れには、チョットした理由があって。
小さく堅い桃は、甘さは控えめなれど、コリコリした食感が好きだった。 ( 此は、大人になっても変わらない )
しかし、それは真の理由ではない。、
柔らかい実の桃には、ときどき その芯に虫が居たからである。
だからといって、誰が 折角の桃 捨てるものか。
『 桃とはそんなもの 』 ・・だと、そう想っていたのである。

  アブラメを釣った場所からは、ドンコも釣れた

昭和36年 ( 1961年 ) の夏休

朝から魚釣りに出かけた私。
道路から海を覗けば、透き通っていて底まで見える。
いつでも、小魚は泳いでいる。
この日は、気まぐれに松本店前の道端に坐り、釣り糸を垂れた。
釣りの好きな私は、いつもなら波止場での釣りをするのであるが、
偶には、こうして道端から ドンコ釣りをして遊ぶこともあったのである。
一度だけ、25㎝程の スズキ が釣れたこともあって、偶にそんなこともあるのが 亦 楽しかったのだ。
 アブラメの稚魚
アブラメの稚魚ばかりが釣れた。
一人で ご機嫌よろしゅう、釣ったアブラメを提げて祖母の家に持ち帰った。
「 おばあちゃん、アブラメ ようけ釣ったケン 」
「 昼にちょうどえかったワイ、味噌汁に入れちゃるケンノー 」
「 アブラメ ( 稚魚 ) 、喰えるん?」
「 喰える、 喰える、美味いドー 」
果して、食べてみると、祖母の言いうとおり。
これが まあ 美味いこと。
白身の淡白な味が、みそ汁の味にマッチして美味かったのである。

 イメージ
♪ 紅い夕陽よ 燃え落ちて・・・
夏の夕暮れ
海辺に佇み 夕涼みする大人たち
浴衣と下駄ばき姿で尚 はしゃいでいる子供ら
そんな風景を眺めながら、
今日も無事に過ごせたと、一日を惜しむのである


カニの大群
毎年、夏の夕暮れに決まって現れるカニの大群。
サワガニ が産卵の為、山から海に大移動するのである。
「 どこから こんなに、カニが来るんじゃろうか 」
海辺の道路を埋め尽くすカニの大群に、男の児は もう有頂天。
自転車に乗って 疾走したのである。
 イメージ

祖母がつくった味噌汁のアブラメ
たった 一度っきりだけど、それが意外にも 美味かった。
『 意外に 』
・・そのことが、
たったそれだけのことで、

私の生涯の想い出として、今も尚 忘れないでいるのである。
想い出とは、そういうものなのかも知れない。

コメント

満天の空に 星は 星の数ほどあった

2021年07月07日 | 1 想い出る故郷 ~1962年

昭和36年 ( 1961年 ) 夏の夜
親父と二人 チヌ 釣り をすることになった。
 イメージ
「 餌を捕っちょけ 」
・・と、親父
引き潮を待って、
水の退いた波止場の床 ( 底 ) に降りて、
波止の脚下に敷かれた波消し岩 ( 基礎 ) の間を掘った。
チヌは 『 虫 』 ・ゴカイの餌だと、食いが悪い。
食いの良い 『 オオ虫 』 ・イソメ を捕る為である。
然し、
『 オオ虫 』 は そう簡単に捕れない。
限られた場所にしか生殖せず、以て ただでも数が少ない。
にもかかわらず、皆が挙って捕るものだから 既に捕り尽くされていたのである。
それだけではない。
五歳の頃 指先を噛まれたこともあって、
『 虫 』  には平気な私でも、『 オオ虫 』 は苦手だったのだ。
『 虫 』 を捕るときのように ホイホイ 手を出せなかった。
そんなことが相俟って、やっぱり 捕れなかった。 
だから、結局この日も 砂浜にいる 『 虫 』 を捕って、此を餌にすることにしたのである。
そして、
いつもの通り
チヌばりに 一度に数匹引掛けて、
これを 『 オオ虫 』 一匹の代用とすることにしたのである。
 
『 オオ虫 』 ・イソメ                   『 虫 』 ・ゴカイ

「 イザ 行かん 」
・・・意気揚々、目指すは丸谷の波止場。
波止場に、灯りなぞあるものか。
だから、提灯を提げて波止路を歩く。・・もう、お手のものである。
そして、波止の先端に陣取ったのである。

「 さあ、釣るどー 」
親父は波止の延長線上に天神鼻に向かって 真直ぐ 仕掛けを投げた。
私は波止に直角に入江側に向かって仕掛けを投げた。
釣り竿なんかは持たない。
 テグス
餌を付ける時だけ提灯を燈す
糸をほどいて、左手にテグスを掴み、右手で仕掛けを投げた。
これが、普段の釣り方 ・・・船で漁師がする釣り方と同じ


真っ暗の中、頼りは星明りだけである。
べた凪の入江の水面に、対岸の家々の灯りが揺らめいている。
私は、この景色が堪らなく好きであった。

コンクリートの波止に直接坐って、
仕掛けのテグスを人差し指の先に掛け、 チヌの当りを待った。
・・・・
が 然し
チヌ が そう簡単に釣れるものか。
・・・・
どのくらい、時間が経ったであろう。
当りなぞあるものか。
退屈の極である。
いつもなら、とっくに眠っている時刻なのである。 況してや星明りの下、さすがに眠たい。
それでも 吾は男の児・・・茲は辛抱我慢と、閉じようとする眼をひっしに堪えていたのである。
が 然し、もう・・眠たくて 眠たくて
ウトウト・・と、していた
・・・将にその時

!!!
猛烈に 糸を引っ張った。
「 スワッ 釣れた 」
と 勇んで糸を引く。 でも、チヌではなさそうな。
引き揚げて見ると、なんと アナゴ であった。

「 アナゴかぁ ほれに飲み込まれちょる 」

満天の星空
波止場の先端に座って
眠たい目を擦りながら、夜空を見あげると そこには、
「 ぶつからないのか 」
と、想うほどの星空があった。
そして いつもの様に、
天の川 を はっきりと、確認したのである。

幼き頃、当然の如く見上げていた夜空
そこに
星は 「 星の数ほど あった 」
しかし、それは 今や
記憶の中にしか 存在しない のである。
叶うものなら
あの頃の私にもどって
もう一度
親父と共に
星空を 眺めてみたい
・・・そう想う私である

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丸谷の波止場 「 サッカン 早よ 助けんねー !! 」

2021年07月06日 | 1 想い出る故郷 ~1962年

夏に泳ぐ・・・と言えば 丸谷の波止場
たいていは内海・入江で泳いだ。
海から上がると 波止に腹這いになって甲羅干しをする。
そして 又 海へ飛び込んだ。
 外海と波止場と親父
物語は小舟の辺り
「 船がきたどー 」
仁方港から三ノ瀬港へ向かう巡航船が沖合を通過しているのだ。
「 ソレーッ 」 ・・・と、ばかりに
大きい人達 ( 小学高学年~中学生 ) は 一斉に外海へ飛込む。
船が かき分けた波は、波止場に到着するころには その勢いも衰え ユッタリ した波になっている。
それはまさに 波のゆりかご
そして、ユラリ 揺らめく 心地よいゆりかごに乗るのである。
私のことは語らない。

泳いだ後は、必ずや井戸で水浴びし、躰に着いた塩分を流した。
大きい人 ( 中学生 ) が、海パンの尻を引っ張って、そこへ手押しポンプから出る井戸水を注ぐのである。
母や叔父達が天秤かついで水を汲みに行く 斯の井戸である。
・・・リンク→吾母との絆の証し

「 泳げるようになった 」
道端の階段から波止の階段まで約30m ( 満潮時 )、
この間を、浮き輪なしで泳いだら一人前とされた。
皆から、「 泳げるようになった 」 ・・・と、称されたのである。
此は、島の子にとっては名誉なことであったのだ。
斯の 『 階段~階段 』 までが、吾々にとっての登龍門だったのである。

私は 昭和35年 ( 1960年 ) 6歳の夏、そこを通過した。
然しこれには、からくりがあった。
最後の1、2m程を 10歳年長 ( 16歳 ) の叔父が後押して呉れたのだ。
叔父の手心が加わった成果だったのである。
それでも私は、そんなことはいっこうにかまわずに、
「 泳げるようになった 」  「 泳げるようになった 」 と、得意になって自慢したのである。

泳げるようになったのはこの年の前年 昭和35年 (1960年 ) のことである。
保育所の卒園式を終え 記念品のパンを食う私・・・リンク→丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」


弱虫を救った母の必死の叫び声
「 泳げるようになった 」 と、自慢していた私
皆へ それを披露する時が来た。  謂うならば デビュー 戦である。
男前の私、意気揚々、「 イザ飛込まん 」 と、波止路に立った。
ところが然し、そこから海を見遣って驚いた。
「 高い 」 
意外に 高かったのである。
「 飛込むことなぞ できるものか 」
そう、直感した。ヒビッタ。
意気消沈。すっかり弱虫になってしまったのである。
類似イメージ ・1954年頃
波止路の角に尻をついて、かかとを石堤の隙間に入れ、
出来るだけ低くして海へ入ろうとした。
然し、それでもまだ高い。
そもそも、波止の路から飛込むことなぞ 無理だったのである。
二の足を踏んだ。尻込みした。・・・もう、どっちもどっち
大きい人達が 波止の上で腹這いになって甲羅干しをしていた。
その中に、10歳年長 ( 16歳 ) の叔父も居た。
「 早よ、飛込まんかー 」
と、叔父が 腹這いの侭 ハッパをかける。
然し、すくんでしまった弱気の躰が 動くものか。
いつまでも、モゾモゾ していたのである。

弱い心が 災いを引き寄せる
後ろから、 両手で以て背を押された。
無邪気な悪戯をしたのは、トヨ君の弟 ( 私より2歳ばかり年少の幼児 ) 。
ドッボーン
突き落されたのである。
私はたいそう慌てた。  もう パニック 。
自分が泳げることすらも判らない。
徒に、バシャバシャ もがく だけだった。
如何な かっこうで もがいたかは憶えちゃあいない。
もがき以て、波止上で腹這いになった侭、叔父達が私を眺めている顔が見えた。
彼等は目前の出来事を承知しながらも、唯茫然と眺めているのだった。
一時 いっとき 空白の中にいたのであらう。 
だから、「 溺れるかも 」 と、想いつつも  躰が反応しなかったのである。
そんな時、波止路から 母の必死に叫ぶ甲高い声が聞えた。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
母の叱咤は 空白に縛られた叔父を動かしたのである。
忽ち、躰が反応した。
それからの 叔父の動きは如何にも機敏だった。  そして叔父の咄嗟の判断が功を奏した。
近くには停泊する舟もあった。
サッ と、立上るや、波止の上から飛降り、波止路に一番近い舟に飛乗った。
続いて 私に近い舟に渡り、それを私の傍まで動かした。
そして、手を伸ばして私を掴み上げたのである。
海から上がって、 『 一件落着 』。

私は溺れなかった。 ( もがいただけ・・・手前みその基準 )
偶々、水を飲まなかったことが その因である。
然し、偶々、大事に至らなかっただけのこと、生死の境は紙一重だったのである。
『 魔が差す』 ‥一瞬 とき は、こういう場合を謂うのであらう。
「 サッカン 早よ 助けんねー !!
厄を払い、叔父を動かしたものは母の必死の想いであったのだ。

「 あの時、母は何故 波止場に居たのであらう 」
このこと、今 初めて気づいた。
私が母のいる青雲の涯に逝った時、このこと尋ねてみよう。

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ひまわりの小径 ・ 「 セーラー服の後ろ姿 」

2021年07月05日 | 4 力みちてり 1970年~


あなたにとっては、突然でしょう

ひまわりの咲いてる径で 出遭ったことを
わたしの夢は おわりでしょうか
もう一度 愛のゆくえをたしかめたくて
恋は風船みたい だから離さないでね
風に吹かれ 飛んでゆくわ
立止まる二人には 交わす言葉もなくて
恋はいつも消えてゆくの
 ・
チェリッシュ
ひまわりの小径
昭和47年 ( 1972年 )

悦ちゃん・・・の
かぼそい声、可愛い声、可愛い容姿に、
一目惚れ

「 こんな  可愛いい 女性ひと に出逢いたい 」
・・・と、そう想った。

昭和47年 ( 1972年 )
私は、
徒歩で通学していた。
そして、必ずや善源寺楠公園内を横切ったのである。

セーラー服の後ろ姿

夏休み
軟式野球部員の私は
高校最後、夏の大会に向けて
日々、練習に精を出した。
されど、真夏の炎天下である。
練習を終えて、くたくたになっての下校は、しんどかった。
その日も快晴・・・暑かった。
私は、いつもの様に、善源寺楠公園内に入ると、
偶々
前方を行く、セーラー服の後ろ姿 を、認めたのである。
ライトグレーのスカートに白い上着、ライトグレーの襟には白いライン。
「 何処の女子高やろ?」
「 クラブ ( 活動 ) の 帰りかな?」

セーラー服の後ろ姿 に
淡い想いを抱いた私
なんて女性は、偉大哉
それまでの、くたくたな私の心身は、
俄然元気に変わった

♪ あなたにとっては、突然でしょう
ひまわりの咲いてる径で 出遭ったことを♪

一度っきりの
『 セーラー服の後ろ
姿 』
の想い出は、
チェリッシュの悦ちゃんの歌声と、
その歌詞が、オーバーラップする。
・・・のである。

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ちょっと、つまづいただけの物語

2021年07月04日 | 3 青い鳥 1967年~


                                                                                 2年4組
昭和43年 ( 1968年
) 8月10日
中学二年の吾々は、
一泊二日の林間学舎を
大阪能勢の野外活動センターで行った。
一日の予定が終わると

宿泊は班毎にバンガローで取る。
宿泊の班構成は、
一クラス ( 全7クラス ) 男女2班づつ、4班に分かれた。



こぉらっ!!

バンガローでの解放感も相俟って、眠るのももったいない。
皆一様に昂揚していた。
だから、消灯後も中々就寝せずに、はしゃいでいた。
吾班の隣りに、他組 ( 6組、岩出の存る班 ) の男子の班があった。
彼等は、羽目を外して、一際騒いでいる。
バンガロー越しに、彼等の騒ぎが聞こえてくる。
「 6組の奴、やかましいな 」
「 ええかげんにせえよ 」
とは言いつつも、別に腹も立たなかった。
むしろ、吾々も彼等に続け
・・と、そんな気持ちで居たのである。
ところが、突然、静かに成った。
先生の声が聞こえる。
「 あいつら、怒られとるで 」
「 怒られとる 怒られとる、あいつらアホや 」
 
広場での集合写真に 6 組の 舟木が映っている
その後ろに顔だけ写っているのが 岩出
バンガローで、舟木が岩出と同じ班だったかは知らない


翌日、当人等に聞くと

「 電気消した後、真っ暗の中で枕投げしとったんや 」
「 いつの間にか変な奴が居ってな、お前、誰や ? 、言うたら 」
コォラッ!! や 」
「 それが、先生やってな 」
「 入って来たん、判らんかったんや 」
「 全員 正座させられてなあ、もう、怒られた怒られた 」
と、
怒られた事が、さも 武勇伝の如く、語ったのである。


ちょっとつまづいただけの物語

班毎に分れての夕食が終り
全員集合
キャンプファイヤーである。
一度広場まで降りたものの、忘れ物に気付いた。
引きかえさねば。
降りてくる皆とは反対に、一人上って行く。

途中
巾1メートル程のクリークに架かる床を丸太で組んだ木橋に差しかかった。
駈足で上る私は、偶々 そこで つまづいた。
ところが


丁度そこに降りてきた女子生徒○○弘子さん ( 中一の時の同級生 )
木橋に差しかかった時、
偶々、同じタイミングで、つまづいたのである。

「 アッ ! 」
ぶつかる・・・

然し、
物語は起きなかった。
咄嗟に伸ばした彼女の手が、
彼女を かばおうとした私の手が、
もうちょっとで 触れる所で 止まった。
お互い 顔を見合わせた。
彼女は 微笑んでいた。

私は、
そのまま駆け上って行ったのである。

偶々おきた、ほん些細なこと
でも、
どちらかが  ほんの僅か手前で

つまづいていたなら
物語りに為ったであらうに
「 おしかったなぁ 」

・・・は
後で想うことである。

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