昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

昭和 ・ 私の記憶

2024年05月13日 19時52分25秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る


昭和 ・ 私の記憶
親父は私に期待をかけていた。
『 鳶が鷹を生む 』
親父の好きな 文句であった。

私は
小学四年生 ( 10歳 ) の時、
将来、「 設計士 」 に成ろうと思った。
親父が謂う、
『 鷹 』 に成なろうと思ったのである。
・・・蛙の子は蛙



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昭和 ・ 私の記憶 1
    想い出る故郷
 
            昭和32年 ( 1957年 ) ~ 昭和37年 ( 1962年 )
    男前少年 
                  昭和38年 ( 1963年 ) ~ 昭和41年 ( 1966年 )  小学生 ・大阪
昭和 ・ 私の記憶 2
    青い鳥 
                      昭和42年 ( 1967年 ) ~ 昭和44年 ( 1969年 )  中学生
    力満ちてリ             
昭和45年 ( 1970年 ) ~ 昭和47年 ( 1972年 )  高校生
昭和 ・ 私の記憶 3
    青春のひとこま        
昭和48年 ( 1973年 ) ~ 昭和58年 ( 1983年 )  社会人
    右翼青年              
昭和49年 ( 1974年 ) ~
    バブルの頃            
昭和59年 ( 1984年 ) ~ 昭和63年 ( 1988年 )
    大阪ヒーロー
    大和撫子

昭和維新に殉じた人達の体験を、
恰も 己が実体験の如く記憶し 蓄積した

昭和 ・ 私の記憶 4
    昭和の聖代
    三島由紀夫
    二・二六事件


・・・と、吾心懐に存する。
其の 一つ一つが大切なものばかり。
その中でも
貞子さん(ていさん)
男前少年 と おんなせんせい
 「 青 い 鳥 」
腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根
憂 国
昭和48年 (1973年) 3月5日
巨人の星
生涯一の大風景
・・・の物語は、格別なもの。

殊に、
一番の想い出は
男前少年 と おんなせんせい
それは
吾人生の 『 核 』 を為す如き出来事であった。
・・・と、そう想う。

もう一つの
昭和 ・ 私の記憶
 ( ・・・※)  ・・パスワード
1  青年

男のロマン 1975
Process 1974~1977 自我      ( ・・・※)
Process 1977 温故知新 


2  青春のひとこま
「 男と女 」
勿忘草 ~1979               ( ・・・※)
見果てぬ夢・叶わぬ想ひ ~1982     ( ・・・※)


昭和64年 ( 1989年 ) 1月7日 (土)  昭和天皇崩御

『 昭和の余韻 』 
夢を追った  平成
設計士として

当時、
九州・福岡で、ゴルフ場を建設する為
クラブハウスの設計を依頼されていた私
その設計が、大詰めの段階に 差掛かっていた。
更に、建築の為の手続きも、
福岡県庁で着々と進めていた。
その最中の この大震災であった。

想へば、
私の人生 ・絶頂の瞬間は、
波乱万丈
阪神淡路大震災の記憶と重なる。
「 選りに選って、この時期に 」
その時の、吾想いである。
・・・
1995年1月17日の記憶

  基本プラン イメージスケッチ
  イメージ模型
吾ロマンを一心にデザインした
会長は 其のマンを汲取った

そして、己がロマンを私に託そうと想った
とんでもないことが  起きてしまったのである

1994年6月29日(水)
「 クラブハウス、コンペや想うてやってみいへんか 」
「 とれんかも、しれんど・・」
 ・・・と、社長が言う。
「 ハイ、やらせて下さい 」
・・・と、私は即座に答えた。

Design & Datail 1987~2007     ( ・・・※)

吾 生涯年を
『 12年を一日 』 ・・・と、 そう換算するなら
生涯は六日
七日目からは残生としよう

昭和64年 (1989年 ) 昭和が終った
而し  『 昭和 』 は、私にとって  
「 つい、昨日 」 ・・・こないだ なのである

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昭和 ・ 私の記憶 1 ( 想い出る故郷 、男前少年 )

2024年05月13日 19時33分49秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る


昭和・私の記憶  1
目次
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「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、『 遠きにありて 』 ・・・とは、過ぎ去った時を謂う。

そして 『 故郷 』 ・・・とは、母を謂う。
1  想い出る故郷   ~ 昭和37年 ( 1962年 )
昭和32年 ( 1957年 )  3歳
01  吾母との絆の証し   ・・私の手の甲のアザは、母の大切な形見 
02  下島小学校のブランコ 母と二人して 父の帰りを待つ・・・  ・・「 また、仕事先でよばりょうるんじゃろうて・・・」
03  「 雨がふりょうる 」  ・・「 おばあちゃん あめ こうて 」
04  ムカデの話し  ・・「ムカデの上に・・・」
昭和33年 ( 1958年 )  4歳 年少さん

05  弁財天神社  ・・山桜とニイニイ蝉  ・・カヤの葉飛ばし
06  アコウを釣った  ・・「 ガツン ゆうた 」
07  丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」  ・・♪夕焼け空がまっかっか
昭和34年 ( 1959年 )  5歳 年中さん

08  バンカラへの憧れ  ・・白い鉢巻をして颯爽と騎馬に跨る叔父の勇姿を観て、私は誇らしく想った
09  三つ子の魂百までも  ・・勇ましい・・は、男児の誉れ
10  大地蔵 ・ 峠越えて  ・・「 肥え かけたんじゃのうて、声 かけたんで 」 ・・峠、母と唄う
11  こんなうまいもん初めてじゃあ  ・・「 あれなんなぁ ? 」 
12  小ミカン畑  ・・皆のジャンパー、腰の回りが膨らんでいる
13  飛地 大久保  ・・櫓を漕いだは、10歳年長の叔父
14  しょうじきなきこり と わるいきこり  ・・「 あの時どうして笑うたん ? 」
昭和35年 ( 1960年 )  6歳 年長さん

15  寄りそいあって生きた時代  ・・米の量を補う為に、芋を混ぜた「芋飯」で腹を大きくした
16  総理大臣が軍艦に乗ってやって来た  ・・日本国の総理大臣が吾が島を訪れたのである
17  天下御免の向う傷  ・・「 主役は ワシがするんじゃ 」

18  タコ捕りの達人  ・・「 オッ、おるおる。 エッ、どこなあ。 ホレッ、そこにおろうが 」
19  丸谷の波止場 「 サッカン 早よ 助けんねー !! 」  ・・「 泳げるようになった 」
20   桃花の咲く頃  ・・おねえさんと桃花 ・・薄い日差し ・・冬のホタル
21  サトオッチャン  ・・「 サトルー、ユキノリがコケテのぉ 」
22  山ん中で路に迷う  ・・「 はぐれたんじゃ 」
23  ようちえんぼうず  ・・「 オーッ、総天然色かぁ 」
24  快傑 ハリマオ  ・・「 この歌 三橋美智也が唄ようるんで 」
昭和36年 ( 1961年 ) 7歳  小学一年生

25  日出子先生  ・・担任は おんな先生
26  三ノ瀬小学校  ・・宿題忘れて立たされて
27  ドジョウの話し  ・・妹が水に沈んだ ・・ドジョウに襲われる ・・夢
28  千代子と謂う名  ・・「 ししゃりでるな 」
29  「 捨ててきなさい 」  ・・猫を拾う ・・「 拾わにゃあ よかった 」
30  天神鼻  ・・「 なして こんなところに タコつぼがあるんじゃろ 」 
31  満天の空に 星は 星の数ほどあった  ・・「 ぶつからないのか 」 と、想うほどの星空があった
32  海峡を越えて   ・・「 はなだゆきのりくん 」 と、先生が呼ぶ声  時折、風に乗って、聞えて来る
33  夏の想い出と祖母がつくったアブラメの味噌汁  ・・「 アブラメ ( 稚魚 ) 、喰えるん?」
34  海に落ちた妹  ・・「 ミサエー、ミサエー 」・・・と  悲痛な声で母が叫んでいる
35  儚い命  ・・「 ヘソとヘソをくっつけて、三回まわるんじゃ 」
36  貞子さん(ていさん)  ・・「 貞子まっちょれよ。もうすぐじゃきんの。 ・・・ええ。 」
37  トイレでしみじみ想ったことは  ・・誰にも気づかれることなく死んでしまうのか
38  い た ん ぼ  ・・ 「 ワシが、採ってきちゃる 」
39  自転車ごと海に落ちた中学生  ・・「 大事じゃあ。大事じゃあ 」
40  痛ツ !!  ・・それは今迄経験したことのない痛みであった
41  サンタは煙突から入って来る  ・・「 サンタクロースが来ますように 」
42  相撲をとって 遊んだころ  ・・行司役の年長が存て、遊びを取仕切った
43  メジロ と とりもち と 百舌鳥獲り  ・・「 泥を付けたら取れるど 」
44  気がついてみたら  ・・八合戦 ・・気絶
45  散髪屋で見た漫画本  ・・従軍看護婦と兵隊
昭和37年 ( 1962年 )  8歳 小学二年生
46  テレビが吾家にやって来た  ・・少年ケニヤが見れる
47  七変化  ・・ 白ノスズメガ ソウユウタ ♪
48  上をむいて歩こウォウォウォ  ・・「ちがうわい 歩こおおお じゃ  
49  野球少年 ・ チャンバラから野球へ  ・・打者の打ち返した球がライナーで真向から飛んでくる
50  『 すれ違いざまのキャラメル一粒 』  ・・「 もういっぺん学校じゃあ 」 と、小学校へ向ったのである
51  「こんな と、喧嘩せえ」  ・・私が相手と顔を突き合わせている
52  故郷は遠きにありて想うもの  ・・瞼をとじさえすれば吾故郷はいつでも其処にある
53  トグロを巻いたヘビ  ・・私の姿を見るなり  いかにも気持ち悪い、かま首を持ち上げたのである
54  蒲刈病院  ・・あしながバチに刺される
55  公民館が炎ようるぞー  ・・「 オッ、校長が来た。教頭が来た 」
56  ムカデの話し  ・・体の中に ・・布団の上を這うムカデ
57  誉められると 思ったのに・・・  ・・山火事を消したのに
58  教えたとおり、言うんで  ・・「 親父さんがいつもお世話になっております 」


「 謝りなさい 」
怒りのこもった言葉であった。
「 そんなもん、
受容れられるものか 」
だから私は、何も言わなかった。
次の瞬間、往復ピンタをくらったのである。
こともあらうに、皆が見ている中だ。
「 如何して 殴られる 」
( ・・・男前少年 と おんなせんせい )

2  男前少年  昭和38年 ( 1963年 ) ~ 昭和41年 ( 1966年 )
昭和38年 ( 1963年 )  9歳 小学三年生 
01  びっくりしたなぁもう !!  ・・運動場を覆い尽くす千八百名を見て度肝を抜かれた
02  生意気な奴  ・・「 こんな奴と、友達になるな 」
03  笑いたいのをこらえたのに  ・・「 笑ろうたらあかん・・」 ・・9歳の少年は、堪えようとした
04  コカコーラ は くすりの味  ・・「 コカコーラは風邪に効くんじゃぜ 」
05  おまえ・・ブタマン屋の娘やろ  ・・「 これが、ブタマン…かあ 」
06  長島少年  ・・「 昨日の長島、凄かったなあ、四打数五安打やったで 」
07  山田 浩 「 男は泣いたら アカン 」  ・・大阪での友達第一号
08  世の中に、こんなにうまいもんがあるのか  ・・親子丼
昭和39年 ( 1964年 )  10歳  小学四年生  東京オリンピック

09  「目にあたらんで、よかったなぁ」  ・・独楽が少女の額を直撃した
10  強い は 男のロマン  ・・ゼロ戦
11  戦友  ・・♪ 赤い夕陽に照らされて ・・満洲
12  野球少年 「 近所の小伜 」   ・・「 何処どこの誰々を呼んで来い 」
13  新聞少年  ・・「 まあええ。働こういうことは ええことじゃ 」
14  鉄腕アトム  ・・「 扇風機の風は体に悪い。うちわが一番ええんじゃ 」
15  肩までつかれ  ・・「 100まで数えろ 」
16  ロケット花火を飛ばして、叱られて  ・・「 火事になったらどうします。警察を呼びましたから 」
17  爆弾池  ・・「爆弾池で魚は釣らん、捕まえるんや、網で掬うんや」
18  夏休みは いつも一人で  ・・塀を相手に一人キャッチボール
19  拾った金を寄付した・・けれど  ・・「 この三百円は恵まれない人の為に寄附をする 」
20  愛と死を みつめて  ・・儚い命に日本中が涙した
21  姿 三四郎 「鉄壁の不動心」  ・・「 卑怯なまねはするな 」
22  奮闘努力 と リーダーの条件  ・・すぐ横を、駆抜けた、一瞬 ・たちどころに、彼女の存在感を感じ取ったのである
23  ドッチボール ・ 「 あいつら 何もわかっとらへん 」
24  ミックスされた記憶 「 金メダル と 母の白いブラウス 」  ・・「 お母ちゃんが帰って来た 」
25  明日があるさ  ・・「 さっきまで あんなに笑っていたのに 」
26  紅白歌合戦を風呂屋で観る  ・・
ザ・ピーナッツが歌う 「ウナ・セラ・ディ・東京」が、流れていた
昭和40年 ( 1965年 )  11歳 小学五年生

27  若い いのち  ・・「 私は妻です 」
28  林間学校  ・・自分の帽子に吐いた奴
29  故郷に錦を飾る それまでは  ・・親父は精一杯 己が意地を張っていたのである
30  テケテケテケテェッ・・・・  ・・彼はギターを持って、得意満面の顔で私に弾いて聴かせた
31  親父の心意気  ・・「 ワシは、花田組のもんじゃ 」
32  あっという間に日が落ちて  ・・どうしよう・・・日が山に懸かり始めた
33  話せば分る・・問答無用  ・・「 偉人の名言・格言、を提出しなさい 」・・・宿題です  と

昭和41年 ( 1966年 )  12歳  小学六年生

34  集団登校  ・・「 ミサエー まだかあ 」
35  四つ葉のクローバー と ドナドナ  ・・♪ とてもすき  ボッコ  プッコ  ノッコ
36  風よ伝えてよ あの娘に  ・・「 ♪風ょ伝えてよ エテコに 」
37  私も オカワリ したい  ・・私と同じ班の〇〇さんが言った
38  遠足 帰りのバス  ・・「これ、誰が歌っているの」
39  君は王将だ !!  ・・自称 ・クラスの王将
40  ろくに犬も飼えないくせに  ・・「 この犬 育てんねん 」
41  勢い余って・・・シュン太郎  ・・「ハナダ・・ゲンキダセヨ、キニスンナヨ・・・」
42  あくびをして おんなせんせい に 叱られた  ・・「 勉強に集中していないから出るのです 」
43  学芸会 「 主役や言うから楽しみに観に行ったのに 」  ・・「 もう、折角頑張ったのに ・・・ 」
44  参観日 「 なんで 手をあげんのや 」  ・・「 ハイ、あんまの道を歩みます 」
45  男前少年 と おんな せんせい  ・・私の男前は飛ばされた
46  白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」  ・・「 白組が勝ったら、あなたが優勝旗を取りに行きなさい 」
47  ヒーローに成った  ・・都島球技大会
48  学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」  ・・「 そんな すごい病気なんか 」
49  学校を休む ・ 2 「 闘病とは辛抱我慢すること 」  ・・「 風呂で遊びょうるきんじゃ 」
50  ウルトラ Q  ・・「 ワシの見た 夢じゃあ 」
51  一生懸命なるが由に  ・・私の発音がおかしいと言うのだ
52  俺の目を見ろ 何にも言うな  ・・私は、感動してしまった

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 2 ( 青い鳥 、力満ちてり )  に続く

コメント (1)

昭和 ・ 私の記憶 2 ( 青い鳥 、力満ちてり )

2024年05月13日 18時38分56秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶 2
目次
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教室正面の黒板上には、
額に入った絵画が掛けられていた。
「 オッ!」
席に座って見上げると、
額のガラスが鏡に成って 私の後ろの景色が見えた。
なんとそこに、彼女が写っているではないか。
私は 小さな額の中に 『 青い鳥 』 を、みつけたのである。
毎日 『 青い鳥 』 を、見ることができる。
而も
一人、ひっそりと。
黒板を見る振りをして、『 青い鳥 』 を、見ていたのである。
それはもう、幸せな時間だった。

3  青い鳥   昭和42年 ( 1967年 ) ~ 昭和44年 (1969年 )
昭和42年 ( 1967年 )  13歳  中学一年生
01  あしたのジョー  ・・ヘビー級は凄い
02  ラジオ体操 第二 ・・「 教えて上げよう 」
03  ヒーローに成った・・脇役だった一年生
04  切身の塩サバ 一つ  ・・「 オッ、ハナダ 今日は豪勢な 」
05  ひとの心懐にあるもの  ・・読書とは
06  まんまんちゃん あん ・・サッカーの釜本
07  教師の驕り 人としての格  ・・教師は烈火の如く怒鳴った
08  禁じられた遊び ・・「 映画を観て 君らは如何想ったか 」
09  ブルー シャトー ・・元首相 ・吉田茂の国葬が行われた日
10  先生の親心  ・・「 このクラスの中で成績が一番良かった 」

昭和43年 ( 1968年 )  14歳  中学二年生
11  ヒーローに成った・・一躍 ヒーローに成った二年生
12  『 心を合わせる ということ 』 とは  ・・「 楽譜とおりに歌おう 」
13  ちょっと、つまづいただけの物語 ・・「 アッ ぶつかる 」
14  長島茂雄 感動のホームラン  ・・男の中の男
15  先生の親心  ・・「 本当は86点でしたと言って、皆にあやまりなさい 」
16  not only but also  ・・鉄人 ・吉田も笑ってた
17  「 なんやお前、教科書忘れたんと違うんか 」  ・・なにしてんやろ、こいつ
18  青い鳥 1 「 青 い 鳥 」  ・・「 〇〇〇  ヤロ ・・ 」
19  青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」  ・・「 花田君、黒板見るふりして キーコ見てやる 」

昭和44年 ( 1969年 )  15歳  中学三年生
20  ヒーローに成った ・・青い鳥の目の前で
21  余計な一言  ・・「 コケコッコー 」
22  「 茶目っ気 」・・・勢い余って  ・・「 男は少々ヤンチャなくらいがいい 」
23  置き碁・風鈴 「 もう、やめじゃあ 」  ・・「 クソー 」
24  がり勉  ・・「 花田君 ガリ勉 やてね 」

25  ジェラシー 「 なんで、あいつやねん 」・・「 優しい方が  良えんやぞ 」
26  修学旅行 1 ・ 消えた記憶 「 観音様です、おっ母さん」・・♪ 観音様ですおっ母さん
27  修学旅行 2 ・ 希望号 「カーディガン の 想い出 」・・「 もう、せっかくのところ・・・邪魔をして 」
28  恋心・・「 恋なぞしない 」 ・・と  ・・カーディガン
29  「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた ・・振り向くと、○○○とカーディガンの姿があった
30  引き潮が 満ち潮に変わる時  ・・「 ミヤチャーン ! !  ・・・あれは サユリさん じゃ 」
31  先生の親心  ・・「 かわいそうなことをした 」
32  文学少女にはなれなかった ・・友ガキ ・舟木が笑い出した
33  石川啄木 ・「 文学少女にはなれなかった 」 の、後書 ・・わかれ来て 年を重ねて  年ごとに 恋しくなれる  君にしあるかな
34  それは ちがうやろ  ・・教師は良い意見であると誉めた
35  虹のまち 「 ばら色の瞬間(とき)」 ・・♪ 大阪南の虹の町
36  一緒に行ったろかぁ  ・・よくよく、しょげている私を 見るに見かねてのこと
37  生涯最高のスコア・・・   ・・10フレームを残してスコアは190
38  東洋の魔女 ・・「 だけど涙がでてきちゃう  女の子だもン 」

39  進路相談 「 全くの、五分・五分ですか?」・・「 あそこって、あそこよ 」
40  青い鳥 3 ・ 卒業文集 「 でも 楽しかったわ 〇〇さん 」・・「 でも  楽しかったわ 〇〇さん 」
41  大阪市立淀川中学校 第9期生 (1970年卒)  ・・卒業アルバム


力 満ちてり                          これぞ建築の意気                これぞ 建築の意気
意気は湧けり                        栄えをばゆずらぬ俺の胸        俺の誠 空とぶ雲となる
剣とりて 皆 勇みたて             めぐり来たるこの時
おお選手達                           鐘は鳴る 意気は鳴る
意気は湧けり 戦い抜け         かざせ栄冠の盾を
ああ俺等の選手達よ               起てよ 勇み立て

4  力満ちてり  昭和45年 ( 1970年 ) ~ 昭和47年 (1972年 )
昭和45年 ( 1970年 )  16歳  高校一年生
01  バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」 ・・「 あった! 合格していた !! 」
02  バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」  ・・「 こんな処につくしが・・・」
03  バラ色の時 3 「 一寸した油断から魔が差す 」  ・・「 滑って転んだのは、腰が抜けたから 」
04  受験番号一番の男 と 人生航路  ・・一番と二番の出逢い
05  昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 1 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」  ・・「 大人扱いをするぞ 」
06  昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」  ・・「 見に行かんで良かった 」
07  旭屋書店の帰り、宝くじ を買ったら 当たった~  ・・「 下二桁、22を下さい 」
08  力 満ちてり 「 古き伝統 輝く歴史 」  ・・「 弁当食うの ヤメー ! ! 」
09  反骨な奴のレジスタンス  ・・「 分かったかァ ! ! 」  ・・「 分かりません ! 」
10  腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根  ・・「 30メートルやったら、石投げたら届くで 」
11  「先生、そんなん言うたらあきませんわ」  ・・此を、黙って聴いて居られるものか
12  「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」  ・・「 いいもん見せてもろたな 」 ・・「 ハイ 」
13  面白い 面々  ・・「 五郎はおかしいぞ、掛軸に自分の名は無いぞ 」
14  バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」  ・・小豆島の海、グリーンランドキャンプ場
15 茶目っけ  ・・「 なんぼ俺でも、一枚の絵で 3人に点はやれんぞ 」
16  憂 国  ・・「 三島由紀夫が自衛隊でクーデターを起こそうとして 失敗して、切腹して死んだそうだ 」
17  雄叫び  ・・「 やっぱり、セーラー服は良いいなあ 」
18
  貴ノ花の相撲を見たかったのです  ・・文化祭出展の模型作りに嫌気がさして・・
昭和46年 ( 1971年 )  17歳  高校二年生
19  面白い面々 泣いてたまるか  ・・「 こいつら、面白いヤッチャな 」
20  スター 誕生  ・・「 郵便局は、ハガキや切手を売る処、封筒は売ってない 」
21  鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」  ・・「 お前が入るんなら、俺も入る 」
22  人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして  ・・「 あれが小米かぁ 」
23  パトカー に乗って帰宅する  ・・「 チョット、金貸して呉へんか 」
24  「私は待っています」 と、伝えて  ・・折鶴
25  青い リンゴ  ・・大阪中央郵便局でアルバイト
昭和47年 ( 1972年 )  18歳  高校三年生
26  私はいつも 鬼ばかり  ・・浅間山荘事件
27  17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」  ・・♪ よんでいるのか 刑事君
28  17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」  ・・「 たのむから、もう 出んといてくれ 」
29  面白い面々・茶目っ気 「 カンニング 」  ・・「 エッ  そんなんアリ ・・かい ? 」
30  木枯し紋次郎の一膳めし  ・・一機に腹の中に流し込んだ
31  ひまわりの小径 ・ 「 セーラー服の後ろ姿 」  ・・「 どこの女子校やろ ? 」
32  背伸びした一分(イチブン)  ・・エースで四番 「 剛速球は男のロマン 」
33  メンチ切ったやろ  ・・「 おいおい、あいつからんでくる気やぞ 」
34  凄いやつ  ・・「 わしら、チョンコウ や 」
35  君は都工 ( ミヤコー ) のライトだ!  ・・「 俺は、フランク・ロイド・ライトを研究している 」
36  人は、こうして人生を選択する  ・・「 この成績で設計事務所入りを希望するのか ? 」
37  ヤングおーおー ・・「 機械科の三好が、出とったやろ 」
38  ひまわりの小径のレコード と 奇特なヤツ ・・「 お前にやったものであるから、お前の好きにしたらええ 」
39  cap of coffee  ・・英語の水原先生、それは駄目だと云う
40  卒業設計 ・ 「 工業高等学校 」  ・・これぞ、吾 卒業設計

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 3 ( 青春のひとこま 、右翼青年 、バブルの頃 、大阪ヒーロー 、大和撫子 )  に続く

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昭和 ・ 私の記憶 3 ( 青春のひとこま 、右翼青年 、バブルの頃 、大阪ヒーロー 、大和撫子 )

2024年05月13日 16時19分37秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶  3
目次
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昭和52年 ( 1977年 ) 12月11日(日)
新大阪駅近くの平安閣にて、親友・水阪の結婚式が行われた。
三々九度を終えると
新郎新婦が夫婦になった決意と抱負を語るプログラムがあり
吾々仲間一同も、水阪の計らいで以て特別に参加していたのである。
「 ほんまに、ほんまに 」・・と、水阪の決意は印象的であった。
プログラムが終ると、愈々披露宴。
会場は結婚式場の下階で行う。 吾々は、階段で下階に降りた。
披露宴会場へ向う途中エレベーターホールで、
ソファーに一人端座する 容姿端麗、美人の女性に気付いた。
「 綺麗な女性 (ヒト) がいる 」
此を・・一目惚れ・・と、謂う。
然し、とは謂っても、所詮、通りすがりの縁
そのまま、彼女の前を素通り披露宴会場に入った。
( ・・・ 見果てぬ夢 ・叶わぬ想ひ )

5  青春のひとこま  昭和48年 (1973年 ) ~ 昭和58年 ( 1983年 )
昭和48年 ( 1973年 )  19歳
01  VAN は、憧れであった  ・・黒ノスリムのスラックス、裾18cmのダブル・・・
02  昭和48年 (1973年) 3月5日 ・・「 いやいや、これは君への投資です 」
03  走れ歌謡曲  ・・深夜ラジオ
04  老いた母ひとり 残して行かれない ・・「 ありがとう浜村淳です」
05  チェリッシュの悦ちゃん ・・「 チェリッシュの悦っちゃんの方がいい 」
06  男の人が そんな事してはいけません!!  ・・
07  旅情 ・ 兼六園  ・・「 カーディガンに暑中見舞い送ろう 」
08  心の旅  ・・「 こいつ 」 そう想った
09  酢豚の想い出  ・・少女の心尽くしのおもてなしは、私を感動させた
昭和49年 ( 1974年 )  20歳
10  カーディガンの夢 ・・「 二級建築士になったら結婚しよう 」
11  巨人の星  ・・「 俺は、左門豊作 かー 」
12  調子にのって、叱られて  ・・「 なんやこの絵、下手くそやなあ 」
13  ミニサイクル と交通ゼネスト  ・・「 歩いて行けばよかった 」
14  意見具申、そこに居た第三者 ・・「 今回のコンペ、当選者はいません 」
15  古いお寺に ただひとり ・・目の前に広がる京都の町を眺めた
16  若い頃 ・・「 斯の子は、何処で如何しているのやら ・・ 」
17  りんご の 写真  ・・「 あのポスター、欲しいんでしょう ? 」
18  俺は男だ  ・・「 森田健作さーん 」
19  二十歳の誕生日に  ・・大学キャンパスで千葉信一に遇った
20  青春の ひとこま  ・・「 正子さん  野島正子さん・・・ハーイ  」
21  青年は夢を追いかけろ  ・・「 男気つかれて、その気になったんやろ 」
22  10時になったら、帰ります  ・・「 お父ちゃんは 泊まって来ることはいっぺんもないんで 」
23  羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話 ・・「 こうすると美味いんですよ 」
24  酔うた~  ・・宴会であれだけ呑んでもちっとも酔わなかったのに

25  「 どうして 俺が叱られる 」 ・・・因果な奴  ・・「 スケジュールは追って連絡します 」
26  想い出の セレナーデ  ・・「 天地真理、いいな 」
27  キック の 鬼  ・・チョビヒゲをはやした小柄の男 「 沢村忠 」
28  君達がいて僕がいた 1 「 仲 間 達 」  ・・「 オイ ちょっと待て、俺 肉食うてへんど 」
昭和50年 ( 1975年 )  21歳
29  隣りの あの女性(コ)  ・・「 本当に あの女性 (こ) ですよね 」
30  小さいけど 魂 こもってはる  ・・「 ほんまやったら 国宝なんやけどなぁ 」
31  「 お前、変わってるなあ 」  ・・「 お前の、北一輝に倣ったんや 」
32  叶うものであれは゛ 叶えて欲しい・・  ・・「 決めるべきです 」
33  あの時の少女の言葉 忘れないで存る ・・「 ミホさん・・私の手、輪ゴムより細い 」
34  君達がいて僕がいた 2 「 京橋はええとこ だっせ 」  ・・いくよくるよ との出逢い
35  君達がいて僕がいた 3 「 МA会 野球部 」  ・・「 オイ 8人じゃ 試合できんぞ 」
36  マルチ  ・・騙されても騙すな
37  青春時代 『 青天霹靂のリストラ 』  ・・「 悔しいだろうが、ここは大人の対応をしろ 」
昭和51年 ( 1976年 )  22歳
38  ほう・・・、それで、親孝行とは如何ですか  ・・「 親の傍を離れない事 」 と、答えた
39  「ママ、可哀そう」  ・・その言葉にホロッときたママさん、両の目が潤んだ
40  手編みのプレゼント  ・・「 可愛いい・・ 」 と、想った
41 二級建築士に成る  ・・「 屋根伏 描いとるけど、 違うやろ 小屋伏やろ 」
昭和52年 ( 1977年 )  23歳
42  君達がいて僕がいた 4 「 北の新地は想い出ばかり 」 ・・MA会で盛上げた披露宴
43  君達がいて僕がいた 5 「 スマン スマン 」  ・・水阪一人、未だ来ない

昭和53年 ( 1978年 )  24歳
44  クッターの公式  ・・「 いいものが出来ましたね 」 ・・まさにその時
昭和54年 ( 1979年 )  25歳
45  運転免許を取った理由はバスが来たからです  ・・然し、バスは来た
46  「 魅せられて 」  ・・「 これが、女優と謂うものか 」
47  人 間 革 命  ・・それもう、感動の涙の坩堝
48  帰り途は遠かった  ・・木曽駒ケ岳でテニス
昭和55年 ( 1980年 )  26歳
49  私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」  ・・まさに、時代を観たのである
50  大阪名物パチパチパンチ  ・・「 オッ、そうかそうか、そりゃすまなんだな 」

昭和56年 ( 1981年 )  27歳
51  蒜山高原  ・・「 ファーーー 」
昭和57年 ( 1982年 )  28歳
52  コートにかける青春  ・・「 こうして、よく アキレス腱を切るんですよ 」

53  プロローグ ・ 遥かなる想い  ・・旅行でもしたら少しは気が晴れるかも知れない ・・そう想った
54  「結婚式に出席しない」 は、俺の主義  ・・「 思い遣りに欠けた 」 それだけの事かも知れない

昭和58年 ( 1983年 )  29歳
55  甲子園のマウンドに登る  ・・「 私も一役買った 」

56  青雲の涯 遙かなる想い  ・・「 犬に餌やらなあかんのャ、そのままにして出かけてきたから 」
57  青春のたまり場 「 MA会 ・ 都島アーキテクチャー 」 ・・『 君たちがいて僕がいた 』 の、総集編



 檄
国土を離れて国民なく、国民を離れて国民社会なく、国民社会を離れて、人生なし
故に日本を愛せざるものは人に非ず
日本は尊厳極みなき道義精神を以て世界に比なき団結を有する
日本同胞の愛国同胞主義による日本たらざるべからず
実に、日本は愛国同胞主義に生き、愛国同胞主義は国体に生く
然も、日本愛国同胞主義や今何処  国体や今如何
世界の大勢、国内の実状、一として国体改造の急を告げざるものなし
日本の危機たる真に未曾有と称ざるべからず
これを救うものは何ぞ
ただ愛国革新の断行にあるのみ
生命に価するものはただ生命を以てのみすべし
日本愛国革新者ょ、日本愛国革新の大道の為に死を以て、ただ死を以て立て
クーデッタを起せ  我同志ょ蹶起せよ
( ・・・ 四年目の檄 クーデッタを起せ  同志よ蹶起せよ )

6  右翼青年  昭和49年 ( 1974年 ) ~
01  二・二六事件と私  ・・私は彼ら の言動を知るにつき、
       
それらは、私自身の 「 昭和の記憶 」 として
      
宛も私自身の実体験の如く蓄積されていったのである。
02  
晒を巻いて ・・「 死ぬときは割腹して はてたい 」
昭和49年 ( 1974年 )  20歳
03  超国家主義 『吾人は人間であると共に、真正の日本人たるを臨む』  ・・朝日平吾
04  祖父の訓育  ・・「 やるなら拳骨でやるんだ 」
05  祖父 の 遺伝子  ・・「 祖父の想い 」 として、これを継承しようと誓った
06  歴史との出逢い  ・・「 ああ ・・あった 」  一人声無き歓声を上げた私
07  尊 皇 討 奸  ・・「 何だ君は ! 」
08  生涯一の大風景  ・・「 自分にも、何か大きな事がやれる 」
09  私の DNA  ・・最初の一歩を踏み出した私、勢いついて止まらない
昭和50年 ( 1975年 )  21歳
10 一つの写真との出遭い  ・・日本人の面構え と、そう想った
11  何シブイ顔して、歩いてんの !?  ・・「 男がヘラヘラした顔して歩けるか 」
12  覚醒しても尚、覚えている夢  ・・「安全装置を外せ」
13  「サークル」  ・・俺は見た、今の日本の若者のサンプルを
14 右翼青年  ・・「ソ連の奴隷になれ言うのかァ」
15  嗚呼 あの時はもう帰らない  ・・「 なんや、交差点の写真ばかりやな 」


石亭での定例会議
此の日は、『 愛宕の間 』 で 行っていた。
座敷から、和風石庭の景色が堪能でき、庭は数寄屋建築の離れにも通じていた。
定例会議も最中
斯の庭を歩く人影・・・此方へやってくる。
ノーネクタイの下駄ばき・・というリラックススタイル
そして、私に向って声を掛けた。
「 確認、おりたやろ。言うといたからな 」
そう言って、通り過ぎて行った。
オーナーの南野理事長 ( 45 才 ・・当時は皆から 『 理事長 』 と 呼ばれていた )
斯の、大阪府民信用組合の理事長である。
その勢いたるや、『 飛ぶ鳥をも落さん 』 、まさに絶頂の頃。
『 俺が一声かければ、役所も直ちに動く。俺にはそれだけの力がある  』 ・・・と。
( ・・・
Design & Datail  )
7  バブルの頃
  昭和59年 ( 1984年 ) ~ 昭和63年 ( 1988年 )
昭和59年 ( 1984年 )  30歳
01  記憶しない大切な想い出もある  ・・ 東京モノレール
02  栗原小巻 「 こんなきれいな女性 (ひと) 見たことない 」  ・・目の前に、あの栗原小巻がたった
昭和61年 ( 1986年 )  32歳
03  どうか、通してくだしゃんせ  ・・「 何を言っているのか、分かりまへんわ 」
04  コレクトコール プリーズ  ・・Collect call Please  ok  japan osaka 0 ・・  whats ・・?
05  あのおつりは、私のだった  ・・あけてびっくり、玉手箱
昭和62年 ( 1987年 )  33歳
06  大阪つばめ  ・・「 まあ、こんな幼き子が  この演歌を唄うか 」
昭和63年 ( 1988年 )  34歳
07  イエス か ノー か  ・・「 kippu・・・、 kippu・・・」


   「 ドヤッ  わしらの時代は おもろいやろ 」
8  大阪ヒーロー
01  笑いたいのをこらえたのに  ・・漫才、中田ダイマル・ラケット
02  「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」  ・・漫才、横山やすし・西川きよし
03  すきがあったら どっからなと かかってこんかい  ・・吉本新喜劇、岡八郎
04  おまえ・・ブタマン屋の娘やろ  ・・吉本新喜劇、岡八郎
05  ガオー  ・・吉本新喜劇、岡八郎
06  革命児達  ・・落語、笑福亭仁鶴  ・・落語、桂三枝、・・落語、月亭可朝
07  人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして  ・・落語、桂枝雀
08  大阪名物パチパチパンチ  ・・吉本新喜劇、島木譲二


9  大和撫子
01  女の まこと  ・・「 私くしは山崎烝の妻でございます 」

02  私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」  ・・「 あなたの妻と呼んでいただいて  私は幸せでした 」
03  二十四の瞳 花の絵  ・・「 お母さん、百合の花の弁当箱  ほんまに買うてよ 」
04  散髪屋で見た漫画本  ・・「 看護婦さんは食べないのかい 」
05  妻と共に消え去った、幼き命がいとおしい  ・・「 私たちが居たのでは後顧の憂い、一足先に逝って待っています 」
06  殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」  ・・ 「 菅波、お願いがある。貴様の妹を俺の妻にくれないか、一生大事にする 」
07  大和撫子 は 日本女性の鑑  ・・
凛としていて、清楚 慎まやかで 一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す 甲斐甲斐しい女性を謂う
08  東京だよ おっ母さん  ・・久しぶりの道
09  郷愁  ・・島倉千代子が謳う 「 女性 」
10  おさげ の女性  ・・おさげは女学生の代名詞
11  七変化  ・・琴姫七変化
12  東洋の魔女  ・・「 だけど涙がでちゃう 女の子だもん 」
13  「私は待っています」 と、伝えて  ・・優しい乙女心
14 男の人が そんな事してはいけません!!  ・・「 そういうことは女のすること 」
15  絶世の美人  ・・吉永小百合

・・・次頁  昭和 ・ 私の記憶 4 ( 昭和の聖代 、三島由紀夫 、二・二六事件 )  に続く

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昭和 ・ 私の記憶 4 ( 昭和の聖代 、三島由紀夫 、二・二六事件 )

2024年05月13日 13時53分53秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )


私の 「 昭和 」
・・・を 物語る

昭和・私の記憶  4
目次
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惟フニ 今後帝國ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ  朕 善ク之ヲ知ル然レトモ
朕 ハ時運ノ趨ク所
堪へ難キヲ堪へ
忍ヒ難キヲ忍ヒテ
以テ 萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕 ハ 茲ニ國體ヲ護持シ得テ
忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ存リ
若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ
或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ
爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ
朕 最モ之ヲ戒ム宜シク 擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ 道遠キヲ念ヒ 總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ
道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ
誓テ 國體ノ精華ヲ發揚シ
世界ノ進軍ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク 朕 カ意ヲ體セヨ 
( ・・・ 終戦の玉音放送 )

9 昭和の聖代  
00  修身と教育 ・・「 今の子供は修身を習わにゃいけん 」
01 
昭和ひとけた に 生まれていたら・・海ゆかば
02  伝承する、と 謂うこと・・「 自尊、責任、自己犠牲 」 ・・武士道の根幹精神である
03  万斛の恨み・・大阪大空襲、「 城北公園 ・ 長柄橋の悲劇 」
04  敗戦の日 ・・玉音放送 「 堪へ難キヲ堪へ  忍ヒ難キヲ忍ヒテ  以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 」


諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。
よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命………。

まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。
これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。
それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳 ! 
( ・・・バルコニーの演説 )
10  三島由紀夫  『 男一匹 命をかけて 』

01  憂 国  ・・「 三島由紀夫が自衛隊でクーデターを起こそうとして 失敗して、切腹して死んだそうだ 」
02  男一匹 命をかけて  ・・「
一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ 」
03  三島由紀夫の死 雷の衝撃  ・・三島由紀夫の死は 否定も肯定も超えて 僕に大きな衝撃を与えた
04  燃えよ剣  ・・「 誠 」 一字に命をかける  意味なぞ ない

05  三島由紀夫 の 二・二六事件 
・・二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった

06  三島由紀夫 と 二・二六事件  ・・あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます
07  などてすめろぎはひととなりたまいし  ・・血の叫びにこもる神への呼びかけは
                                                          
ついに天聴に達することなく、陛下は人として見捨ててたまえり

最後まで頑張って自己を尊重し、自尊心を護ることが
取りも直さず 人間を尊重することに成る。
自己を尊重する者が人間を尊重でき、真実を尊重できる。

08  最後に守るべきもの1
  ・・三島由紀夫 と 石原慎太郎
09  最後に守るべきもの 2  ・・三島由紀夫 と 石原慎太郎 
10  三島由紀夫の葉隠入門  ・・ 『 葉隠 』 は、生きる可死ぬかというときに、死ぬことを勧めている
11  勇者とは  ・・危機というものを、心の中に持ち、その危機のために、毎日毎日の日常生活を律してゆく
12  礼法について  ・・どうして日本料理に限って男から先に出さなければいけないのか
13  羞恥心について  ・・羞恥心のなさが、反省のなさに通じている
14  忠義とは何ぞや  ・・忠義は苛酷なものですよ
15  握り飯の忠義  ・・忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります


村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、
午前四時二十分出発して、
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。
其の時俄然、
官邸内に数発の銃声をきく。
いよいよ始まった。
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。
( 同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)
余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。
五時五、六分頃、陸相官邸に着く。 
( ・・・磯部浅一 『 行動記 』 )

11  二 ・二六事件
昭和 ・ 私の記憶 『 二・二六事件 』 
昭和 ・私の記憶  『 西田税との出逢い 』 
昭和 ・私の記憶  『
二 ・二六との出逢い 』
昭和 ・私の記憶  『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 
二 ・二六事件と私
 
歴史との出逢い  
尊 皇 討 奸  
男のロマン 1975 
私が観た映画 ・動乱 「 私は、幸せでした 」 


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鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」

2024年04月27日 04時16分03秒 | 4 力みちてり 1970年~

高校入学早々の体育の授業で体育館内をランニングさせられたことがあった。
吾々は指示されるまま 黙々と駈った。
「 ピーッ 」 と、笛の音。平野が呼び止められた。
体育教師・黒田先生に呼ばれた平野、 先生と二人でなにやらヒソヒソ喋っている。
なにごとがあったというのか。
戻って来た平野に その由を訊ねると、
「 先生、俺の走り方が変なのに気付いて、その理由を訊かれたんや。
中学の準硬式野球部でピッチャー していたころ、膝が痛うなったことがあってな、
検査したら 膝に結核菌が廻っとったらしい、
もう治ってる 想うて 気にもかけてなかったが、やっぱり ちゃんと走れんみたいや 」

大田幸司 
昭和44年 ( 1969年 ) 夏の甲子園 青森・三沢高校と愛媛・松山商業 との決勝戦は
延長18回でも決着がつかず、翌日再試合となった。  中学三年の私は 此を リアルタイムでみていた。

野球をしたい
「 高校入学したら、野球部に入る 」
ユニホームを着て、スパイクの金具をカチャカチャ鳴らして歩きたい。
其は私の夢であった。平野も亦、同じ想いであったろう。
しかし、互いに体力的に自身が持てず、躊躇していたのである。


私と鎖縁の平野、共に住宅研究部に入って遊んでいた。
リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです
住宅研究部、部室前で平野が戯れにピッチングしているところを、
偶々 通りがかった、建築科の一級先輩・藤原さんの眼に留った。
彼は、軟式野球部のレギュラーの一人だった。
平野の投球フォームは江夏豊そっくり、
スリークォーターの左腕からくりだす糸をひくよな 快速球、揺れながら落ちる
ナックルボール、
「 これなら三振が取れる 」

と、平野の投球を観た藤原さん、一目でその才を見抜いたのである。
「 軟式野球部に入れ 」
勧誘された平野、まんざらでもなかった。
「 軟式野球なら 」
・・そう、心が動いた。

阪神タイガース  ・ 江夏豊
スリークォーターの投球フォームから投げられた快速球は圧巻だった。
1971年7月17日のオールスター戦で、リアルタイムで観た 9連続奪三振は、生涯の記憶である。

「 お前が入るんなら、俺も入る 。お前、ピッチャーになれ。俺はショートをやる 」
彼の入部がこれまで躊躇していた私の背を押すことになったのである。
そして、二人 連れ以て軟式野球部に入部した。
昭和46年 ( 1971年 )、高校二年の4月28日の事である。・・・

滔々、「 野球をしたい 」 という希望が叶った。
「 イザ、ゆかん 」
"力満ちてり、意気は湧けり。 剣とりて、皆勇み立て。闘い抜け、嗚呼俺等の選手達よ。"
・・・と、それはもう意気揚々の私。
そしてこれから、平野との鎖縁の物語がもう一つ始まる・・と、そう想った。

ところが相棒の平野、
練習に参加したのは、初日の たった一日だけ。
『 三日坊主 』  に、二日も満たない。
だから、物語にもならない、・・・のである。
理由は知らない。


野球をしたかった私、
新チーム結成後では、
エースの四番としてデビュー

・・・したけれど
リンク→背伸びした一分(イチブン)

結果的に 彼は
『 私の背を押した 』
そういう運命的な役割を果たした。
これも鎖縁
そういうこと・・・である。

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桃花の咲く頃

2024年04月19日 18時32分12秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

ブンブンブン
ハチが飛ぶ

お池のまわりに
野ばらがさいたよ

ブンブンブン
ハチが飛ぶ


生涯で唯一私が知る 桃木
それは 井戸端の傍にあった
そして 桃花が咲く春、ミツバチも飛んで来る
そこから、物語が始まる
昭和35年 ( 1960年 ) のことである
 
写真は、斯の物語の一年後 昭和36年 ( 1961年 )
我家の外にある井戸端で水鉄砲して遊ぶ私の姿である。
そして、見返しの写真は、海へ落ちた頃の妹と私  ( ・・・リンク→海に落ちた妹  )
写真の井戸端から3、4メートル離れた位置に一本の桃の木があった。
ちょうど、私等兄弟が坐っている前辺りになろうか。


桃花の咲く頃
我家の隣に若い女の人が一人住んでいた
でも、家の障子はいつも閉まっていた
「 誰が住みょうるんじゃろ 」
家の前には一本の桃の木があった
偶に 障子窓をあけて 風を入れる
そして その女の人は桃の木を眺めていた
私が そーっと覗くと その女の人は優しく微笑んでくれた
いつも寝床があった
イメージ
桃の木に花が咲く頃、ミツバチが姿を現す
私は開けられた窓に坐り  ( ・・・上記、見返りの写真の様に )
その女の人と 一緒に眺めた
ブンブンブン 蜂が飛ぶ
お池のまわりに野ばらがさいたよ
ブンフンブン ハチが飛ぶ

その女の人が口遊んだ
私も一緒に口遊んだ
なんとなく 薄い日差しの中にいた
そして 季節はめぐらなかった
その女の人は、明るい日差しの中へ帰ることは無かったのだ
荼毘に附される 『 焼場 』 に大勢の人が連なった
私も、尻尾にいた
ふと、
母の従妹である トミちゃんの涙する姿を遠目に見た
友達だったのだ・・・

そして
昭和36年 (1961年 ) 、冬の宵。
私は、母の云いつけで祖母の家に出かけた。
櫓炬燵の灰床を作る為に、祖母の家から炭俵を貰うためである。
今年も櫓炬燵をする季節が来たのだ。

祖母の家からの帰り道、日はトップリと暮れていた。
街路灯などあるものか。
それでも、いつもの慣れた路、ちっとも心細くはなかった。
心細くはなかった とは雖も、冬のこと。
路には人も居らず、閑散としていたのである。
私は、薄明がりの中、炭俵を持って小走った。
松本店前、ていさんの家前、
月刊誌少年画報を購入していた丸本の前を過した。
そして、□□家の井戸が見える所まできた。  ( ・・・□□家は、『 その 女の人 』 の実家 )
其処でなんとなく足を止めて 山の麓にある井戸に目を遣ったのである。
すると どうであろう。
□□家の軒先から、井戸に向かって、
スーッ と 一本の糸を引いて 小さな光が走った。
「 ホタルが 飛びょうる 」
・・・そう呟いた その瞬間、背筋に冷たいものが走ったのである。
怖ろしくなった。
一刻も早く この場を去らんと、駆け出したちょうどその時、
「 幸徳君、ええとこへ来た。ちょっと手伝うて 」
2、3軒 ( ≒5m ) 先の 縁側辺りから、私を呼ぶ声がした。
□□家の 中学生のお姉ちゃんだった。
「 テレビの映りが悪いきん、アンテナの向きを変えようるんじゃ 」
「 一々確かめに行くんも面倒じゃきん、代わりに上って確めてくれんね 」
弾けるような声でそう言ったのである。
勝手知ったるこの家 うち
私は 縁側から上がってテレビの前に坐った。
・・・
我家にテレビが来る前のこと。
私は、この家でテレビを見せて貰ったことがあった。
テレビでは、ザ・ピーナッツ が歌っていた。

そこへ、ターボン (  山本タダトシ・・・リンク→気がついてみたら ) がやって来て。
「 視たか、顔くっつけて唄ようたろうが 」
と、興奮した面持ちで語ったことがある。
その、テレビである

・・・
彼女の顔を見て、弱気の心が失せた。
そして、彼女の元気な声が
私の心に入らんとした邪気を払ったのである。

・・・でも、

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17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」

2024年04月13日 18時39分09秒 | 4 力みちてり 1970年~

17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」
の、エピローグ である

因果

ツジ病院で見舞した時、彼の顔を見た。
それは、3年前の祖母と同じ顔をしていた。  (  ・・・リンク→「 おばあさん どうやった? 」  )
「 嗚呼、死相が出ている。 もう、助からないだろう 」
・・・・その時、そう想った。
病院は、学校の傍に在る。
にも拘わらず、私はその後 見舞に行かなかった
哀しい想いをするのが 堪らなかったのだ。

見舞から一週間、4月14日 ( 金 )
友ガキ・舟木は力尽きた。
『 金縛りの夢 』 ・・・から、二週間。 たった二週間である。
まさに、あっという間の出来事であった。
こんなことがあって 堪るものか。
けれど、 こんなことに為ってしまった。

お通夜の日
4月16日 ( 日 )
お通夜の日、昼間に一人訪ねた私。
元気な躰で戻る事 叶わなかった彼が眠っていた。
もう、目覚めることは無い。 永遠の眠りである。
顔に白い布・打ち覆いが掛っていた。
彼の枕元にはお母さんが坐っていた。
「  伸次は、『 帰って、ハナダと 囲碁 するんや 』 と、そう云ってました。
 『  そや伸次、元気になって家に帰ろうな。 帰って ハナダ君と 囲碁しような 』
そう・・・声を掛けて励ましていたんですよ 」 ・・・と、涙ながらに話した。
然し、彼の そんな願いは叶わなかった。
今こうして、冷たい躰になって私の前で眠っている。
私は、打ち覆いをとって彼の顔を見た。
小さくなった顔があった。
それは 別人の顔であった。
どれほど苦しい想いをしたのであらうや。
見なければよかった。・・・そう想った。
( 私は 茲から、生涯打ち覆いはとらないと 肝に銘じた )

告別式の日
17日 ( 月 )
午後、平野と共に教室を移動中、
運動場で担任の木全先生に呼び止められた。
「 オイ 花田、君のお母さんから電話があったぞ。
友達の舟木君の葬式が始まるから帰って来る様に・・と、そう云ってたぞ。
どうするか。帰るか 」
平野は、舟木を知っている。
小豆島の海で私共々過ごした仲である。   (  ・・・リンク→「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」 )  ・・・
こん度の悲しい結末も知らせていた。
「 帰りません 」
私はそう、答えた。
ちょうどその頃、
葬儀に出た母は、私が現れるのを 「 今か 未だか 」 と 首を長くして待っていたのである。
然し 私は、葬儀 には出なかった

私は 悲しい場に身を置きたくなかった。
別れを告げたくなかったのである。
然しそれは、勝手な理由をつけて逃げたに過ぎない。
ちゃんと正面から向き合うべきであったのだ。 ・・・ちゃんと。
それが友ガキ ・舟木 に、私が取るべき 洵 だったのである。
然し、私は逃げた。 逃げてしまった。

四十九日
葬式が終わって数日経って、
私は線香をあげようと、仏壇前に坐った。
彼のお母さんが傍に坐って私を見ている。
仏壇には、額に入った顔写真があった。
こういった場合、テレビドラマなら写真の顔が微笑んだりするのであろうや ・・・。
そんなことを考えた。
すると どうだろう、写真の顔が笑いだしたのだ。
それだけではない。
写真の顔 が 姿に変わり、私に向かって歩いて来る。
その瞬間、冷たいものを感じた私。
声なき声をあげた。
「 ウワッー 」

そこで 覚醒したのである。

怖ろしい夢 を見た。・・・と、そう想った。

彼は夢の中に毎晩 現れた。
「 ハナダーッ !! 」
・・・そう言って 階段を上って来る。

夢は、一カ月半続いた。
眠れない・・・


『 逃げた 』 ・・・という 負い目、
彼に対して 『 すまない 』 との悔い、
そんな私の想いが、夢を 拵えるのであらう。

友ガキ・舟木との別れ
毛馬の洗堰に
二人居た。

病気になってしまう。
お前 たのむから、 もう 出んといてくれ。

俺も お前みたいに死んでしまうぞ。


私は、
夢の中で、
そう言った。

友ガキ・舟木が
頷いたか否かは判らない。
けれども、彼は
次の夜から
夢の中に現れなくなった。
ピタッ と。

如何 理解せん・・・

心霊的な所に逃げる気は無い。
自責の念があらばこそ、夢を見たのだ。
夢は、吾 心の現れ・・なのである。
然し、斯くも長期に亘って自責の念に苛まれようとは。
私は、猛烈に反省した。
私は、
此を教訓に
自責の念無きよう
「 洵を盡そう  」
そう、肝に銘じた。
しかし、
死んだ者に、
そんな反省の念・・・届くものか。

コメント

17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」

2024年04月07日 17時01分19秒 | 4 力みちてり 1970年~


17才で逝った
友ガキ・舟木伸次君
の為 にぞ歌う
♪ こんな小さな命だけれど
賭けてさすらう
コンクリート・ジャングル
埃まみれの  巷の風が
いつか馴染んで懐かしい
俺も人の子  涙はあれど
泣いちゃならない  刑事くん ♪

♪ 義理も捨てたし人情さえも
捨ててさすらう  
コンクリート・ジャングル
嘘でかためた都会の夕陽  
他人同士になぜ赤い
遠い汽笛はふるさと列車 
呼んでいるのか  刑事くん ♪


「 コンクリート・ジャングル 」 
TV映画 「刑事くん」 主題歌
主演・唄  桜木健一
昭和46年 ( 1971年 ) から始まった斯の番組、
毎週、欠かさずに視ていた。
そしてこの歌 
毛馬の閘門/洗い堰への路行 肩を並べ
友ガキ・舟木 と 二人して
きまって唄ったものである。


洗い堰、共に渡った かんそく橋                             戯れに さい銭 上げし  なに いのる

♪タンタータタン タンタータタン ターンタータタン    タンタータタン タンタータタン ターンターンタタン♪
・・・刑事君の劇中に決まって流れるサウンド。
30分の番組中、之が流れる頃 物語は佳境にはいる。
そして、聴ている者は ブラウン管にカブリツクのである。
私が鼻唄で唄うと、友ガキ・舟木が応じた。
♪タンタータタン タンタータタン ターンタータタン    タンタータタン タンタータタン ターンターンタタン♪
「 なんや、お前も ( 刑事君 ) 視てんのか 」
「 おー 」
そして、二人して唄った。
♪タンタータタン タンタータタン ターンタータタン    タンタータタン タンタータタン ターンターンタタン♪

昭和45 年 ( 1970 年 ) 5月 大川 ・毛馬の 洗堰/中洲/毛馬の 閘門・・中洲で

金縛りの夢
4月2日 ( 日 ) 事である。
「 ハナダーッ !! 」
いつものとおり、彼の声がする。
いつものとおり、階段を上ってくる足音が聞こえる。
日曜日のこと、当然のことよと、朝寝坊を決めこんでの床ん中。
横向け半身の姿勢で以て眠っていた。
彼からすれば背を向けた状態にある。
「 ハナダー 」
・・と、そう云って、背後から近づいてくる。
ところが、
返事しようにも声が出ない、体を向けようとするも、動けない ・・・
「 ハナダー 」
・・・と、耳元で彼の声。
然し、
顔を向けようとするが、動けない・・・
「 ウーウツ 」  唸り声だけで声にならない。
「 ハナダー 」
・・・と、彼の顔が近づいて来る。
然し、
どうしようも、体が動かない ・・・
「 ウーウツ 」
「 ウワーツ 」
・・と
ここで初めて覚醒した。
嫌な夢を見た。

暫くして
「 はなだー 」・・・と
白日の下、今度は本当にやって来た。
「 今朝、お前の夢・・見たぞ 」
「 それも、金縛りにおうてなあ、 ウワッ 言うて 大声だして跳び起きたんやで

「 正夢かも知れんぞ 」
「 なんかあるんかも知れん、お前、気 (い) 付けよ 」
「 怖いこと言うなよ 」
その頃私は、正夢 たるもの・・を、けっこう見ていた。
とは雖も、正夢とてやはり夢は夢、
所詮後付け、話上でのこと・・と、たかをくくった。
まさか
此が 彼の元気な姿を見た最後になるとは、夢にも想わなかったのである。

元気一杯の17才の吾々
明日の悲運を誰が予測しえようか ・・・

此の日
「 来週の日曜、ボーリングへ行こう 」
・・・そう、約束した。

約束の日曜日 ( 4月9日 )
「 アレッ ?  来んな 」
いつもなら、「 ちょっと早いで 」 ・・・と謂う時刻に、
「 ハナダー !! 」 と、只それだけで挨拶もろくにせず、
いきなり玄関戸を開けては、
勝手に二階の私の部屋に上がって来る彼が来ない。
そして、その日 滔々彼は現れなかった。
同級の前川か天野らの処でも行ったのであらう ・・・
あいつ、約束やぶりゃがって 」 ・・・・そう、想っていた。

私との約束
破ったわけではなかった。

10日 ( 月 ) か、
突然、近所に住いする矢野の小母さんが訪ねて来た。
近所ゆえ その顔くらいは知っていた。
とは雖も、これまで挨拶一つしたこともない他人であった。
その矢野さんが我家を訪れたのだ。
舟木とは親戚だと云う。
彼のお母さんから伝言を頼まれてたと云う。
伝言はこうだ。
一週間程前 に入院し、手術した 。
そして、私に会いたがっている 。
もう 危ない。
・・・と。
青天の霹靂、私は愕然とした。
「 えッ 」 ・・・言葉が出なかった。

矢野さんが話を続ける。
腹が痛くなって病院で診てもらったところ、「 盲腸 」だと診断された。
直ちに手術と謂うことに成った。
「 怖いわ 」 と、言いつつ 笑顔で手術室へ入ったくらい元気だった。
本人も、皆も 「 盲腸の手術 」 なら・・・と、たかをくくっていた。
ところが、
「 盲腸ではなかった。 腸閉塞だった 」 ・・・と、術後 医師が云った。
術後、病状が急激に悪化したのだ。
そして、危篤状態に陥った。
・・・と、こう云うのである。
「 ハナダー 」 と言って彼が来たのは、つい一週間前のことである。

私は病院へ駆った。
斯の ツジ病院 だった。 何という巡りあわせであらうか。 ・・・
学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」 
ベッドに横たわる彼を見た。
もう、別人だった。
たった一週間。
如何して、こんなことが 起こる ・・・・
「 祖母が危ないから・・ 」 と、帰郷したことがある。 ・・・リンク→「 おばあさん どうやった? 」 
「 おばあちゃんと同じ顔をしている 」
・・・と、そう想った。

( もう、これ以上は書けない ・・・ )

あっというまの
昭和47年 ( 1972年 ) 4月14日 ( 金 )
友ガキ・舟木 は 逝ってしまった。
私との約束、果せないままに。
凡てを、想い出に変えて逝ってしまったのである。
たった、17才で ・・・・

「 友との別れ 」  なんと 悲しいものである。
この感慨 たとえようもない。

あれはやっぱり 「 正夢 」 だったのか。
( ・・・後付けで想うことである )

♪ 遠い汽笛はふるさと列車  呼んでいるのか 舟木君 ♪

・・・17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」 に、続く

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番組タイトル 「 小さな恋 」
『 刑事君 』 昭和47年 ( 1972年 ) 5月1日 ( 月 ) 放送 
昭和46年 ( 1971年 ) 歌手デビューした天地真理。
その売出し中の天地真理が、
婦人警官の役でゲスト出演したものである。

微かな記憶なれど、忘れられない
クライマックスのシーン
・・・・
次の日曜日、デートの約束をした。
「 今度の日曜、青い空 」
ところが、前日 事件に捲き込まれ屋上から突落され殺されてしまう。
警察官の制服姿で屋上から落ちるシーン
「 赤い夕陽が今沈む 」
そして、デートの待合せ場所である 「 日比谷公園の噴水 」 で、一人佇み想いに耽る刑事君
バックミュージックに 「 小さな恋 」 が流れて来る。
♪ たまに会えない日もあるけれど
それでも私は待っている
ひみつの約束指切りは

今度の日曜  青い空
ちょっとこわいの 恋かしら
赤い夕陽が今沈む  ♪

50年 遙昔の、二シーン が 瞼の裏に焼きついている。
タイミングもタイミング、
傷心の最中さなかに存た私には、
身につまされた、なんとも、哀しい 切ない物語であった。
   
リアルタイムで視ていた。
母も、妹も 一緒に視ていた。
その 『 切ない物語 』
妹らの心懐にも沁みたようである。
   
これらのシーン画像、何ひとつ記憶に無い。・・・50 年の歳月は遙遠き ・・である。

青雲の涯に逝った友ガキ・舟木。
此を 視ることは出来なかった。

『 死ぬ 』 ・・・とは、
そういうことなのである。

コメント

青雲の涯 遙かなる想い

2024年03月27日 18時32分18秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

今年こそは
単身、東京へ行こう
2月26日に、渋谷の二・二六事件慰霊像に、行こう
と、そう決心していた

「東京に行くの、やめとけョ、ゴルフしようャ、ミニコース行こう」
私の決心
簡単に緩む
そして
大土の希望通り
花園の
ミニコースへ行くことになった
そして
同窓仲間の梶と、梶の友人の4人でプレイを楽しんだのである
昭和58年(1983年)2月26日(土)の事である

JR徳庵駅の踏切
「(カジュアルで)エエ、ジャンパー着とるなァ」
私は、(建築)工事現場にも、着ていくことができる、カジュアルなジャンパーが欲しいと思っていた
JR片町線(現・学研都市線)徳庵駅の近くの店で購入したと言う
店は今津中側に在り、彼に、案内して貰うことになったのである
ジャンパー購入の日
 ←踏切とホーム(2016年)
彼と二人 稲田新町側からJR徳庵の踏切を渡った
踏切の中程左側直ぐにホームの端がある、線路敷からホームに上る階段もある
「この踏切渡って、ホームまで行っているのか?、グルッと大周りして・・」
「遠周りやなァ」
「あの階段、上ったら直ぐヤデ
「急いでいる時、ヨッポド上ろかと、思う事があるョ」
JRを利用する人なら、誰しもそう思いたくなるだろうに・・

 遙かなる想い
昭和58年(1983年)3月29日(火)
この日は二人して呑むことに成っていた
午後6時半頃、備後町に在る私の勤める事務所に、ベージュのコート姿の彼が到着した
府職員の彼、府庁から(20分程) 歩いて来た と言う
「仕事が残っているから、ちょっと、まっといて」
「分かった」
と、彼は文庫本に目を遣った
仕事を片づけると、午後7時頃事務所の傍に在る 瓦町の居酒屋(炉端)に入ったのである

世は、ゴルフブーム
老いも若きも、沸騰していた
 リンク→蒜山高原

近畿車輛のゴルフ練習場
尾崎将司をめざし、二人が打った球は端のフェンスを突き
破る程の大ドライブであった

「最近、ゴルフの楽しみが、分ってきてなァ」
「そやろ、楽しいやろ、俺がゴルフ誘った訳がよく分ったやろ」
うん、あの頃(誘われた頃)ゴルフの何処が楽しいのかと思っていたけど
 昔、本を読んでてなァ、ゴルフの場面があったんャ、
 その時は余りピンとこなかったけれど、最近それがよく分るんヤ」
私は、元気の無かった彼を気晴らしにと、誘っていたのである
「・・でも良かったなあ、元気になって」
「ん、もう大丈夫や」
ほんのり酔いもまわっていい気分であった
「そろそろ、おひらきといこか」
「そやな」
「今週の土曜日、(ゴルフの)打ち放し、に行こうか」
「行こう・・で、何処へ行く」
「やっぱり、ミニコースにしようか」
「エエよ、で 何処のミニコース・・花園か?」
「何処でもエエよ、白山でも、住之江でも」
「土曜日の午後は、住之江は混んでるかも知れんな」
「白山でも、エエよ」
「・・マ、土曜日に決めヨ」
「ん、出かける時間は金曜日に電話するワ」
「そうしてャ 待ってるワ」
と、土曜日二人してゴルフをすること、約束したのである

帰りは、地下鉄堺筋線にて、北浜から扇町へ
そこから天神橋筋商店街を2分程北へ歩き、JR環状線天満駅へ、
彼はここからJRで、徳庵まで帰る(途中京橋で乗換え)
私は更に5、6分歩いて天六へ、天六からはタクシーで帰ることになる

天満駅前のガード下で、ふと私は
俺の家に、泊まって行くか?」・・と、声をかけた
「イャ、今日は帰る」
「もう遅いデ、時間かかるし、遠慮せんでええで」
「犬に餌やらなあかんのャ、そのままにして、出かけてきたから・・」
「そうか・・・、ホナ亦、電話待ってるワ」
「そんじゃあ」
そう言い合って、この日は別れたのである

4月1日金曜日
この日の昼間降った雨は、夕刻には上がった
地下鉄堺筋線・天神橋六丁目駅までは自転車で通う私
雨に濡れた舗道を、何となく欝な気分で以て、自転車を走らせた
水溜りを跨ぎもって、フト
「あいつ、(電話)掛けてこんかったなァ・・」
なんとなく、そう呟いた
午後7時頃のことである
「マア、明日(土曜日)の朝、電話してくるやろ」
・・・そんな想いで以て、その日は眠りについたのである 

4月2日土曜日、午前7時30分
電話が鳴った・・きっと彼からだろう
「大土、の兄です」
「エッ?」
「弟が、亡くなりました」
「エーーッ」
「昨夜の7時頃、踏切事故で・・・」
「徳庵の踏切ですか?」
「どうして、それを知っているのですか・・」
知る由もない
私は咄嗟に、そう直感したのである
とは雖も、俄に信じがたく、実感がまるで湧かない
「弟の日記に、花田さんの事が書かれてありました、一番の親友と・・」
「だから真っ先に連絡を入れました」
「判りました、皆(同窓生の仲間)には、私から連絡します」
・・と、淡々と遣りとりしたのである
ポカン・・とした情態で、感慨なにも湧きあがるべくもない
土曜日の朝7時半
出勤の時間帯にもかかわらず、同窓生の仲間全員に連絡がついた
「徳庵の駅に集合」・・と
半ドンを終えて昼過ぎ、徳庵の駅に皆が集合した
事故のあった踏切を、嫌でも通らねばならない
そこには、白い粉が撒かれてあった
家に着くと、母上
「花田さん、うちの子は、どうして死んだのですか・・」
「判りません、火曜日一緒に呑んだ時、今日、ゴルフに行こうと約束していたんです・・」
こんな事しか、言えなかった
今頃は、二人してゴルフを楽しんでいるはずだのに
こうして、焼香して合掌している
どうして

明日は告別式に参加する
通夜の晩、仲間の内、遠方の者は一人暮らしの私の家に泊まることになった
皆の入浴後、私も風呂に入った
生前、彼が遊びに来た時、入った風呂である・・そう想うと
・・・頭を洗えない・・・
・・・目を閉じれない・・・
目を閉じると、背筋が寒い
とうとう・・私は、洗髪できなかった

翌日4月3日、日曜日は告別式
大阪府庁の職員が葬儀を取仕切っていた
その余りにも多勢に、私等同窓生たかが10人、出る幕など無かった
大阪府庁の一職員の踏切り事故死に
ここまで役所が入って来るのかと、その異様差に戸惑いながら、彼を送ったのである
出棺のアイズの音
彼を乗せた車が去って行く時、悲しいものが込上げた
28歳
青雲の涯へ、逝ってしまった・・
感慨表現のしようもない

出棺を見送って各々が帰宅する前に
同窓生の仲間全員、近くの喫茶店に集まろうと謂う事になった
「皆、揃ったか?」
「大土 が、まだや」
「・・・・」

 ←大土と梶

叶ぬ侭の、斯の想い
若い頃、
同窓生の仲間が集まって、野球をしていた
試合の日に、一度だけ
彼は彼女を連れてきたことがあった
斯の3月29日も
「できるだけ近いうちに、お前に会わせるよ」
「お前に、どんな娘か見てもらいたいんや」
・・と
心中、期するものがあったのであらう
その彼女に、連絡を取りたかった
せめて、彼の死を知らせて上げたかった
・・・
「あいつ、結婚もしないまま、死んでしまった」
「人並みの幸福、・・・知らんままに」
その時の、
私の想いである

リンク →
リンク→プロローグ ・ 遥かなる想い



「氷雨」・・ 
この頃の印象曲である
 

コメント

プロローグ ・ 遥かなる想い

2024年03月25日 08時19分19秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和57年 ( 1982年 )
「 今度の夏休みは、江田島へ行こう」
とりわけ目的があって決めた訳ではない。
「 海軍兵学校の江田島に、一度行ってみたい 」
・・・なんとなく、そう想った。 何処でもよかったのだ。
本当の理由は、ほかにあった。

しかし、親友・大土は二つ返事で応えてくれた。

 画像はイメージ
my CAR 日産パルサー
「 弟がディラーに勤めているから、そこで買ってやってくれ 」
・・と、友・下辻の推薦で購入したもの。
大阪58-8850 のナンバープレートだった。

8月12日(木) 快晴。
「 まかせなさい 」
・・そう言って、
吾々は パルサーに乗って出立した。
これから、グリンピア三木へ向かう。
そこで、赤崎建築事務所時代の同僚・美濃さん家族と合流する。
彼等と、テニスをすることになっていたのだ。
テニススクールに通っていた吾々。 ・・・リンク→コートにかける青春
それは、うってつけの機会だったのである。

『 行き掛けの駄賃 』 に、行った テニス 、昼下がり まで遊ぶ。

一路、広島へ。  再び、中国自動車道へ乗る。
さあ、これからが旅の本番だ。
まだまだ日は高い、西からの日射しが眩しかった。
東條で夕食を取った。
三次東で国道54号線にスイッチした頃、日はトップリ 暮れていた。
広島市に入るまで ずっと 街の灯りが続いた。

8月13日(金) 快晴の夏空。
アーケードの商店街にある喫茶店で 「 モーニング 」を注文、是を朝食とした。
そして、本日観光する広島平和公園へ向かった。
ところが、道路がなんとなく混雑していて勢いがつかない。
少々イラついてきた。
気がつくと、追い越し車線に車が一台もいない。
皆が走行車線だけを走っているのである。
ノロノロ運転の因は、そこにあったのだ。
「 おい、見てみ、 誰も追い越し車線に入らんぞ。 
 右に 入ろうと想うとるんやけど、誰も入らんもんやから ・・・・ 」
「 ほんまやな、広島はマナーがええんや な 」
「 大阪やったら、追い越し車線もくそもないもんな 」
「 大阪は全国一 マナーが悪い 謂うからな 」
・・と、 その時 前方で一台の車が追い越し車線に入った。
みらば、『 和泉 』 ナンバーの車。 是、大阪・南地区のナンバーである。
「 やっぱり、大阪やで 」 ・・・二人でもう大笑い。


建築家 ・丹下健三設計の平和祈念資料館
祈念資料館の中芯から一直線上に、原爆死没者慰霊碑、原爆ドームが並ぶ配置になっている。


広島市も、平和公園も何もかもが、初めて尽くし。
私は この時初めて平和公園に足を踏み入れたのである。
一週間前に祈念式典を行ったばかりの広場では、若者がフリスビーを興じていた。
『 平和 』 とは、こういうことなのであろう。

斯の有名な、原爆資料館に入った。
そこで私が見たものは・・・

昭和20年 (1945年) 8月6日
永劫に、此の日を忘れるな

 原爆ドーム                            人影の石                                資料館展示
是はまさに、地獄の鬼の仕打ちである。 なんと惨むごたらし
い。
もう、絶句・・・・悔しさが込上げて来る。

痛切な反省
既の大戦に於いて
アメリカに ぐーの音も出ない程に
コテンパンに打ちのめされた日本。
「 こんなに痛い目をするのは もうたくさんです。 堪忍して下さい。
みんな、私が悪うございました。 どうか、命だけは助けて下さい。
二度と刃向いはいたしません。 どうぞ、お許し下さい 」
・・・リンク→私達は、戦いません

広島城へ上った。
県立美術館にも入った。

県立美術館には、
飲み物が、オレンジジュース しかなかった。

いよいよ、
今回の旅の目的地である 江田島へ向った。
ところが、
海岸道路は渋滞していて、とうてい埒が明かない。
海上自衛隊の護衛艦の姿が見えるところまで来たのに、これ以上は前へ進めないのだ。

私は即決した。
「 俺の故郷へ行こう 」
・・・と、ハンドルを切ったのである。


独断専行で以て、ハンドルを切った私。
「 ええよ 」 ・・と、応えてくれた。
彼の性格からして、イヤだとは言えなかったのだろう。
無理やり彼を、私の帰郷に付き合した形になったのである。
それでも彼は、文句ひとつ言わず付いてきた。
「 ♪ ヤーアイトセ 」・・・盆踊りも観た。
8月14日(土) 快晴の夏空が続く。
墓参りをした。
親戚中に顔を出した。
前触れもなく、いきなり訪ねた吾々に、誰もが親切にして呉れる。
それはもう、 感激する程 もてなしてくれたのである。
そして、快く泊めてくれた。
『 戸聞きしに来た 』
伯父 ( 母の兄 ) は、妹の結婚相手と勘違いしたらしい。


果して、彼は楽しかったのだろうか。
それは判らない。

8月15日(日) 今日も亦、快晴の夏空
復路、
中国自動車道 ・ 院庄からずっと渋滞した。
佐用あたりで、虹を観た。
西宮まで帰って来た・・・流石に疲れた。
日はトップリ暮れた。
隣りで親友・大土は眠っている。
「 眠たらあかん 」
・・・と、カーステレオのボリュームを上げた

それから、もうひとつ
この旅行中、私はずっと 腸・腹の具合が悪かった。
断続的に、シクシク 軽い痛みを感じていたのである。 大したことは なかったけれど。
14日に従姉いとこ しのぶ姐から正露丸を貰って飲んだものの全く効かない。
「 やっぱり、水が合わないのか 」 ・・・そう想った。
ところが、大阪へ帰った途端、それが治まったのである。
腹痛の因は、マインドから。 繊細な神経の持ち主の私、やっぱり緊張していたようである。

プロローグ ・ 遙かなる想い
・・・リンク→青雲の涯 遙かなる想い


『 ミュンヘン 』 からの エアメイルである。 

庁内の仲間と共に ヨーロッパ旅行した時のもの。 
彼の人生に於て 一番頑張っていた頃であり、亦、絶頂の頃でもあった。


親友・大土の様子がおかしい。
いったい、どうしたというのか。

「 最近調子悪うてな。薬、飲んでるんや。 仕事も二週間ほど休んどる 」
「 何があったんや 」
「 最近、職場での皆の態度が変ってな。
あいつは偉い人やから、自分等と違うんや
そこまで頑張らんでもええやろに残業までして、それじゃ自分等がサボっている様に見えるやろ
・・・陰で、そう云うとるんや。
外課たかの同僚と共同した論文が賞を取って本に載ったことや、
そいつらと、ヨーロッパ旅行した事を嫉んどるんや。
でも、そんなことぐらい別にどうってことはない、云わしとったらええんや。
・・・でもな、
最近、設備工事の見積金額が業者に洩れていることが庁内で判ってな。
・・・キャリアの上司が遣ったことなんや。 周りの者もそれを知っているくせに。 皆 黙っとる。
そのキャリアが俺に罪を擦り付けたんや・・・。
君の面倒はちゃんとみるから黙っておいてくれ。 悪いようにはしないから。
・・・そう云うて、そのキャリア 俺にはヘラヘラ機嫌をとってくる。
そのくせ、裏で犯人は俺・・と言いふらしているんや 」
薬の副作用からか、ろれつが回っていない。
「 そんな阿保なことがあってたまるか。 何か手立てはないんか 」
「 相手はキャリアや、組織が護ってくれる。ノンキャリの俺なんか、トカゲのしっぽでしかないんや。
闘こうても、結局負ける・・・云われるが侭 黙っておるしかないんや 」
涙声になっている。
「 庁内に仲間は居らんのか 」
「 居る・・・けど、皆、黙っとる ・・・」
「 そんな ぁ・・・」

彼は大蔵省の役人ではない。
がしかし、
伏魔殿の中に引き擦り込まれ苦悩している。
その悩みたるもの、私が推して知るにはあまりにも深すぎる。
計り知れない。 ・・・そう、想った。

私には友達は救えない
あいつの心の痛みなど解らない 
とうてい計り知れないのだ
だからあいつの苦痛を、吾苦痛として慮ることなどできない

 唯々 心配してオロオロするだけである
だから 適切なアドバイスなんか出来やしない 

寺内には、兎に角 会ってってくれ、悩みを聞いてやってくれ。
・・と、そう云った。

しかし、悩みを聞いてやる ・・ことが、
どれだけ力になると謂うのか
・・・・S 57.5.3
の 記述から
・・・・その頃の 私の想いである・・・

危なっかしくて、放ってはおけん。
亦、独りにしちぁならん。・・・そう想った。
私は努めて、彼と一緒に居る時間をとるようにしたのである。

そして、

旅行でもしたら、少しは気が晴れようか。
そう、考えたのである。

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青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」

2024年02月11日 06時17分01秒 | 3 青い鳥 1967年~

青 い 鳥 
の、続き

♪♪
あなたが 耳もとで  ささやいた夜明けは
ふたりが 結ばれた  美しい夜明けよ
ひとすじこぼれる  このほほの涙に
あなたも濡れていた  懐かしい夜明けよ
忘れないわ  あのひととき
私は今  あなたのもの


ピンキー と  キラーズ 唄う
「 涙の季節 」 も、流行っていた
学年末、
最後の 『 席替え 』 が行われた。

私の席は、教室中央列の前から2列目の位置。
彼女の席は、私の席の1列左横・後ろ2列目。
やっぱり、
相席、机を合せること ・・・適わなかったのである


小さな幸せ
教室正面の黒板上には、
額に入った絵画が掛けられていた。
額中絵画
「 オッ!」
席に座って見上げると、
額のガラスが鏡に成って 私の後ろの景色が見えた。
なんとそこに、彼女が写っているではないか。
私は 小さな額の中に 『 青い鳥 』 を、みつけたのである。
毎日 『 青い鳥 』 を、見ることができる。
而も
一人、ひっそりと。
黒板を見る振りをして、『 青い鳥 』 を、見ていたのである。
それはもう、幸せな時間だった。

♪  小さな幸福を ぼくの手に乗せたのに ・・・・

ところが、
幸せな時間は、長くは続かなかった。

「 花田君、黒板見る振りして、キーコ 見てやる!」
選りにも選って、
告白の時、彼女が 「 OOOやろ 」
と、言った OOOが 皆の前でそう告げたのである。

「 私、知っているよ 」 と、彼女。
( なんてこったい ・・・かっこ悪いったらありゃしない )

私から彼女の姿が見えるのである。
だから当然、彼女からも見える。
しかも、彼女は私の後ろに居て、私の動きが見えるのである。
そんなこと、考えなくっても判ること。
然し私は、そう云われるまで、その事に気がつかなかったのだ。

そして、
「 知っているよ 」
と、彼女がそう言ったこと、
私の耳に届いたのである。

それ以来、
私は、カナシバリにあったが如く、
黒板上に目を向ける事ができなくなった。
もう 『 青い鳥 』 を、
見ることが できなくなったのである。

OOO ・・・おまえの所為やぞ


昭和44年 ( 1969年 ) 3月15日 (土)
三年生の卒業式の日。
二年生の吾々は半ドン、教室で自習していた。

教室の窓から、淀川堤に大勢の卒業生の姿が見えた。
話声が聞こえそうなほどの近距離である。
ついさっき、卒業式を終えたばかりの卒業生。
クラスメイトとの名残りを惜しんでいるのだ。
一年前と同じ光景である。

その中に、クラブの先輩も居た。
「 如何して、( 判を押したように ) 卒業生はああして堤に上るのであらうや 」
・・・と、そんな想いで眺めたのである。

泪する女子生徒。
杉本さんが泣いていた。
『 青い鳥 』 も、目に泪を浮かべている。
誰の為に、泣いているのであらう ・・や


千昌夫  『 星影のワルツ 』
この頃 流行っていた
当時の吾 心境にピッタリ・・・と、唄った

別れることは つらいけど  しかたがないんだ。
君の為、別れに 星影のワルツ を歌おう ・・・♪

愈々二年生も終る。
三年生になると、クラス替がある。
あれだけ仲の良かったクラスメイト とも お別れ。
それは、
『 青い鳥 』 との、別れでもある。

昭和44年 ( 1969年 ) 3月24日、終業式
中学二年生を終了した。

・・・ 青い鳥 3 ・ 卒業文集 「 でも 楽しかったわ 〇〇さん 」 に 続く

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青い鳥 1 「 青 い 鳥 」

2022年09月25日 05時20分03秒 | 3 青い鳥 1967年~

♪♪
青い鳥を見つけたよ 美しい島で

幸福はこぶ 小さな鳥を
だけど君は あの空へ飛んで行くんだろう
ぼくがこんなに 愛していても
小さな幸福を ぼくの手に乗せたのに
青い鳥 青い鳥 行かないで
君がそばにいるだけで ぼくは嬉しいのさ
そのまま ぼくを見つめておくれ
・・・ザ ・ タイガース

 
告白

昭和43年 ( 1968年 ) 秋の放課後
掃除当番だった私は、大橋達と共に教室を掃除していた。

掃除がほとんど終わりかけた頃
教室の後側に5、6人の女子のグループが、
前の黒板側には、同じように男子のグループがあった。
私は、その男子のグループに居た。

「 行ってくる 」
私は独り、女子グループへ向った。
めざすは一人 女子グループの中に居る。
彼女は、クラスの男子生徒のマドンナ。
吾々は 『 青い鳥 ・ガール 』 と、呼んでいた。

「 ちょっと、話しがあるねん 」
「 何・・」

彼女は、私がこれから何をし様としているのか判っている。
前の男子達も、後ろの女子達も、皆判っている。
女子の集りから彼女一人を連れ出し、黒板前の教卓へ・・

教卓を挟んで差し向かえ、彼女は黒板を背にしている。
皆が固唾を飲んで、こちらを見つめている。
彼女は、うつむいている。

「 俺の好きナン誰か、知っているやろ 」
「 〇〇〇 ヤロ・・ 」
「 違う ・・お前やで 」

然し
私の期待していた、
「 私も・・」
は、無かったのである。

「 好きとか、嫌いとか、謂うの抜きで、話し したい 」
と、予期しなかった返事に私は対応できなかった。
だから、それ以後何を話したか てんで覚えていない。

只 茫然と、
戻って行く彼女の後姿を見送ったのである。

私は、フラレタのか・・・否か
中途半端な結末となってしまった。
白黒はっきり した方が スッキリしたのに。

然し
おんな心は、解らない
フラレタ 訳ではなかった。
それだけではない
クラスの皆に認知されたのだ。

吾々の時代、中学2年生は純粋であった。
女子と会話するだけで
あいつ、男のくせに、「 チャラチャラ 」 していると、非難される。
さもあらん。  私も、そう考えて居た。
そういう時代であったのだ。
だから
クラスの皆が認知してくれるだけで、良かった。
二人で交際するなどとは、考えもしなかったのである。

とは雖も
告白以来
彼女とは、まともに話すことができなくなってしまった。
なぜかしらん、意識してしまった。 ( 彼女にも、亦 周りにも )

「 話しをしよう 」
そう言って、一度だけ 呼びかけたことがある。
その時、私に示した 彼女の嬉しそうな笑顔、
生涯忘れない。

その時の
彼女の笑顔は

ピンキーこと
今陽子にそっくりだった

男はつらい
昭和44年 ( 1969年 )
年が代わって3学期、席替えがあった。
抽選で、男女二人一組で机を並べて座る。
これまでに、一度も、ペアにならなかった者ドウシが席を並べる、というのがルール。

抽選番号の席へ着席すると、私の相手は一度ペアになった女子であった。
彼女も同じであった。
お互いのペアが二回目どうしで、重なったのである。
ルールでは入れ替わらなければ成らない。

彼女が席を立った。
続いて私の隣の女子が席を立つ。
私は彼女と席を並べることが出来る ・・・

「 ワーッ 」
クラスの皆が歓声を上げた。

私は席を移動しようとしていた隣の女子を制してしまった。
制して、座らせたのである。

若し、彼女が、こちらに来たなら、私はもう嬉しくて、嬉しくてたまらない・・
その気持ちを隠すことが出来ないだろうと、想ったのである。
ニヤケタ私の顔を、皆に見せたくは無かった。

私は、世紀の やせ我慢をしてしまった。

・・・青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」 へ、続く

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スター 誕生

2022年08月28日 08時57分02秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 おい 昨日の、あのコマーシャル、見たか?」
「 おおっ、見た 見た 」

 
昭和46年 ( 1971年 )、高校1年の学年末
エチケットライオンのTV・CMが流れた。
♪ いつかきっと、だれかと、キィッス・・・・誰かな?
そこに現れし、同年齢の少女
それはもう 可愛いかった。
クラスの皆も、同じ思いだったようだ。

「 どの時間帯の、あの番組の後に ( 小林稔子出演の ) CM、出るぞ 」
「 ペレ・・というCMにも、出てるぞ 」
放課後のクラブ活動の部室でも、上級生達が、話題にしていた。
やっぱり、皆も、可愛いと思ったのである。

  
小林稔子 17歳
同い年ではないか。
( 実年齢は一つ上とか、クラスの皆の声 )
アイドルの誕生である。

昭和47年 ( 1972年 )
TV・CMに、グリコクリームコロンを摘む小林麻美が登場した。
別品に可愛い
私はポスターを手に入れたかった。
どうしたら手に入るのか分らない
店頭で、「 ポスター下さい 」・・は、恥かしい し

級友・吉田五郎と
「 おい、グリコの宣伝部に、手紙を出したら、貰えるかも知れんで 」
これが、放課後の教室で級友吉田五郎 と、無い知恵を絞った結果、二人で出した結論であった。
「 便箋 と 封筒が要るな 」
「 とにかく、買いに行こう 」
行った先が、JR桜宮駅近くの郵便局
「 郵便局は、ハガキや切手を売る処で、封筒は売ってない 」
そう云われてしまった。
郵便局の職員、
「 君等、二人とも、( 都工の ) 高校生やろ 」
・・・
そう言いたげな顔をしていた。
考えなくても分るくらいの事
しかし、二人とも、そう云われるまで気が着かなかったのである。
二人して
赤っ恥をかいて、退散したのである。

 ・

とびっきり綺麗な訳でもなく、絶世の美人でもなかった。
しかし、可愛いかった。
時代に マッチ したのである。
TV・CM 一本で、
全国の中高生がいっせいに、アイドルとして認めたのである。
世に出る 』 ・・・と、謂う事とは
そういうことなのであらう

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受験番号一番の男 と 人生航路

2022年08月25日 16時55分01秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 受験番号 ・ 一番を取ろう 」
受験番号は入試願書の提出順で決まる。  所謂 「 早いもん順 」
高校入試の願書受付が開始されるや否や提出に駈った。
ところが、折角の吾望おもい外れ 受験番号は なんと 二番 であった。
「 一番は誰哉?」

都島工業高校
『 天下の都工 』 ・・そう 呼ばれていた 伝統校である
明治40年 ( 1907 年 ) 5月、
市立大阪工業学校として大阪市北区北野牛丸町 ( 現在の大阪駅北側付近 ) に創立
大正14年 ( 1925 年 ) 12月に 現在の都島区善源寺町に移転
写真は、北区から都島区へ皆が歩いで机椅子を持ち運んだと謂う、伝説の移転の光景と推われる


昭和50年1月15日 撮影の本館                        昭和47年の鳥観
昭和45年 ( 1970 年 ) 3月16
淀川中学校では受験生を集めて、
学年主任の大沢先生が各々に激励して廻った
「心配するな、大丈夫・・」 と
私の番が来た
「お前はなァ、・・・」 と、それだけ 
リンク→進路相談
明けて 3月17日、
大阪市立都島工業高校 入学試験の日である。
私は建築科を受験する。 緊張に包まれ吾身が重い。
私は家を出ると、先づ 淀川神社で参拝、 茲に心身を清めん、褌 ふんどし を締め直した私、
「 いざ 行かん
と、これから戦の始まる戦場へと向ったのである。

国土地理院・・昭和49 年 ( 1974 年 ) 当時の航空写真
徒歩で15分、
学校に着くと、校庭の 「 建築科 」 と 定められた位置に就いて受験番号順に並んだ。
受験番号一番の男
「 一番は誰哉?」
興味津々の私の前に立つは 小柄の坊主頭の男・平野匡勇だった。
一番と二番の出逢い
此が縁 えにし茲に、彼との友情が始まる。
『 共に生きるを、友と謂う 』 ・・
こうして彼とは鎖縁、以後なにくれと行動を共にすることになるのである。
リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです

再会
校庭に並んで居た時、中学校の森洋一先生が顔を覗かせた。
吾々淀川中学校から受験する者の 出欠を確認する為、見廻っていたのである。
私の顔を確認しただけで
帰って行った。 森先生・・・リンク→not only but also
ところが、森先生と入り替わりのタイミングで、中学一年時の担任だった丸山 博先生と顔を合したのである。
一学年終了の昭和43年3月末、異動により淡路中学に転校したのでそれ以来の再会である。
担任の時、私に期待をかけて呉れていた先生であった。 ・・・リンク→先生の親心
此も 巡り合わせと謂うのであろう。
「 建築科を受験します 」
私は、頑張った甲斐あって この位置 ( 建築科 ) に 今こうして居ることを褒めて貰いたかった。
方や 先生は この時、どう想ったのであろうか。
因みに、淡路中学からの受験生・森本とは高校一年生で同じクラスとなった。
これも何かの縁というものなのであろう。
出逢い
試験会場である本館中央二階・東の建築科の教室に入った。
廊下側から一番奥の列、窓際の席に前から順次坐って行った。
一番前が 受験番号一番の平野、次が二番の私、私の後ろは三番・西田・・・
窓の外には、昭和天皇臨幸記念碑に雪がチラついていた。この日に限って寒かったのだ。
「 こいつ、口の周りにカビ・・生えてる 」
直ぐ右の二列目・私の真横に坐った安藤の無精ひげ。( 彼は年齢の割には、髯が特に濃かったのだ )
試験時間の合間に、隣の教室から中学同窓の顔を覗きに来た大土の黒縁のメガネ。
・・・斯の時 殊更、私の目を惹いた。
( 呉津との出逢いについては、改めて別に記しるすことにする )

昭和47年 ( 1972 年 ) 万博記念公園 太陽の塔 前にて    平野
人生航路
中学二年生の二学期から精魂込めて勉強を始めた私、
「 基礎から勉強する、数学の問題は、よく読んで、解けるまで、一つ ひとつ 解いて行く。
英語は、頭で覚えず、自然に手が動くようになるまで書いて覚える 」
これが、できるようになると、成績は上がった。
嬉しくなって、一段努力すると、これまでが低かったので当然のことだが、
成績は上がる は 上がる それはもう、100人以上の ごぼう抜き、遂に、トップに昇りつめた。
・・・とまで 行きたかったが、なにせ時間切れ。
「 勉強始めるのが遅かった、もう一年早く勉強していたらよかった 」 は、後から想うこと。
それでも、勉強することが楽しい、この勢いで以て勉強を続け、
意気軒昂、『 高校では一番になろう 』 と、そう決意したのである。
・・・リンク→がり勉

「 皆の学力をみ観させて貰うぞ 」
入学早々数学のテストが行われた。
問題用紙を配り以て 数学担任の大家おおや先生、
問題の内容は数Ⅰ、中学三年のレベルのものである・・と。
中三の学年末試験の 内容とレベル と謂えば、
採点されたテストを返却し終わって時の数学担任の沢野先生、
「 クラスの平均点が低すぎるぞ、そんなに難しい問題だったとはおもわないが 」
と、如何にも不満の面持ちでクラスの皆を前にして告げたのである。
クラスの平均点が30点以下だと云うのだ。
「 でも、難しかった 」 と、皆は云う。
その時私は81点、学年トップの秀才が92点 (? ・・だったと思う )
「 こんな難しいテストに90点以上とるんか 」
と、学年トップの実力を、学力の差を、見せつけられたのであった。
( ちなみに、学年トップの服部、彼は大手前高校へ入学した )
しかしそれでも尚、意気軒昂、『 高校では一番になろう 』 と、そう決意していた私。
果して、テストのレベルは大家先生の云った通り、中学の学年末程度であった。

採点されたテストが返却されると、83点 「 まあ、こんなもんか 」 と、満足したのである。
ところが然し、クラスの平均点は86点、しかも満点の100点が8人もいると云う。
「 エーッ、俺の83点は平均点にも届かんのか 」
クラスの皆の学力の高さに脱帽、もう・・意気消沈。
『 高校で一番になる 』 との、私の決意は 逸早くも 高校入学早々に沈没したのである。
その時の満点8人衆の一人に平野が存た。
 
昭和46年 ( 1971年 ) 一年生の三学期早々
吾々の専らの関心事は、エチケットライオンのテレビCМにから "スター誕生" した小林麻美。

リンク→スター 誕生
そんな中
クラスの数名が退校すると云う。
「 ナニーッ、やめるー
「 なんでや 、お前 建築士に成りたかったんちがうんか 」
「 なりたいワイ、けど 大学へ行って学んでからでも遅くはないやろ 」
「 ほな、なんで都工へ来たんや 」
「 中三の時は そこまで考えんかったし、成績で振分けられただけや 」
「 大学受験しても、建築学部に合格するのは難しいぞ 」
「 建築、スベッたら どうするんや 」
「 その時は建築諦める 」
「それで、お前、ほんとうにええんか 」
「 おー 」
高度成長期の日本、建築学部は人気で相当の難関である。
そして、一級建築士は世のトレンドだった。
それでもやっぱり、大学で学びたいと云う。何も18歳で働くこともあるまいと云うのだ。
担任・木全 先生は必至に慰留に努めた。
「 君らの考えも解る、中学卒業時の君らの成績が良かったから、そういうふうに考えるのであろうが、
しかし 普通科高校への転校は不可能だし、
といって、この春の受験といっても、工業高校で一年学んだ事が反って ( 高校 ) 受験にはマイナスになる。
現役受験なら合格したであろう普通科高校も今となっては受験するリスクは高いのだ。
一浪して 来年受験為直すには更にリスクが高くなろうし、落ちればそれこそ 元も子もなく成る。
担任としては、素直に "よし頑張れ" とは言い難い 」 ・・と。
人生色々、誰も自分の思うが儘に生きたいものである。
この問題、クラスの皆で以て 真面目に考えた。
大学へ進みたいと真剣に想っているものが吾クラス40人中10人程存在することも分った。
その中には、『 仲間達 』 の 平野、呉津 も、存したことを知った。
西村、大土、寺内、梶、彼等もそんなことを考えていた様である。
みんな 夫々、いろんな想いを持って生きていることを 私は知ったのである。
そして私は、
「 設計士に成る 」 と謂う、10歳の決意
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」 と、中三の表明
一途に 一直線 
初期の目的を貫徹しよう
改めて、そう決意した。
それで十分である・・と、そう想ったのである。

和室の透視図
宿題として着色したものである
教師より指摘された部分が、私のオリジナリティ
16歳の個性 なのであらう
「これが、2万円か・・」 と、眼がくらんだ私
とにかく、こういうものを画くのが、好きな私であった
そして
こういうものを画いている自分が、誇らしくもあった
・・・面白い 面々


  平野君           呉津君
1972年5月・修学旅行で
結局、吾クラスから二名去って行った。
その中うちの 一人は この昭和46年春に合格し、もう一人は 一浪して翌年の昭和47年春、
それぞれ希望する普通科高校へ入学したと、担任より知らされた。
吾々は彼等の希望が叶ったことに安堵の想いであった。
平野と呉津は共に在学することになり、
在学して建築の専門科目も学びながら大学受験の勉強もするという、『 二刀流 』 の路を選んだ。
彼等のこの器用、学力がある故に為せる業であろう、私にはとうてい真似は出来ない。
高校入学時に担任・木全先生が吾々に云った、
「 君らは高校生だ、中学生ではない。君らはもう大人なのだ 」
この言葉に私は感動した。クラスの皆も同じ想いだったであろう。
高校生とは、16歳とは、斯くの如きものかな・・・と、そう シミジミ 考えさせられた。
そんな出来事であった。

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