あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

栗原部隊

2019年09月30日 16時53分51秒 | 栗原部隊


林八郎少尉 は、二六日の午後
倉友音吉上等兵を供に、銀座の松坂屋に買物に出かけた。
蹶起将校たる白襷をかけ
人々の視線の中、颯爽と店内を歩いた。
林少尉は、晒布、墨汁、筆 を購入し、首相官邸に帰ると
「 尊皇維新軍 」
と、大書した幟を作って、高々と掲げたのである。
・・・林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』


栗原部隊
目次
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・ 
「 今 首相官邸が襲われている。軍隊が襲っている!」 
・ 
林八郎少尉 「 中は俺がやる 」 

   
栗原安秀 中尉 
栗原中尉の専属運転手 
・ 
「 若い男前の将校 」 

・ 朝日新聞社襲撃 
・ 朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』 
・ 
朝日新聞社襲撃 ・緒方竹虎 

・ 
貧乏徳利 「 兵隊さんの心は解つて居ます 」 

・ 
池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては真崎閣下に御一任したいと思ひます 」 
・ 磯部浅一 「おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」 
・ 村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」 
・ 
栗原部隊の最期 

・ 
尾島健次郎曹長 「 たしかに岡田は、あの下にいたんですよ 」 
・ 栗原中尉の仇討計画 

「 戦いは終わった。
残念ながら昭和維新の達成はできなかった。
お前たちは四日間よく奮闘してくれて感謝にたえない。
第一師団は近々渡満の大命が降下する予定だが、
むこうへ行ったら皇国のために大いに働いてもらいたい。
俺はここで皆と別れるが
お前たちのことは決して忘れることはない。
呉々もお前たちの武運長久を祈る 」

あいさつがおわると
全員ワッと泣きながら栗原中尉の側にかけ寄り、
口々に 「 栗原中尉殿 」 と叫びながら、かわるがわる中尉の手を握りしめた。
それは二度と会うことのできない栗原中尉への永遠の別れであった。
日頃暖かく訓育してくれた立派な教官として、
反面国民が安んじて生活できることを悲願として昭和維新を目論んだ
熱血漢栗原中尉に対する悲しい別離の赤裸な姿でもあった。
下士官も 二年兵も そして初年兵も
ひたすら涙に濡れながら中尉を慕う真に劇的なシーンであった。
・・・栗原部隊の最期 


栗原部隊の最期

2019年09月28日 06時28分27秒 | 栗原部隊


栗原安秀

首相官邸・栗原隊の最期
一、
やがて九時頃 全員集合がかかり 中隊は玄関付近に各教練班別に整列した。

静かに台上にあがった栗原中尉はガックリした表情で訣別の訓示をのべた。
我々は万感胸迫る思いで 一語一句をかみしめるようにして聴き入った。
切々として述べられる中尉の訓示は 真に痛恨悲壮の極みで、
これを承る中隊の兵力二八〇余、寂として声なく、
唯 中尉を慕う想いのみが沸々として溢れ出るばかりだった。
やがて 列兵の中から嗚咽が洩れはじめた。
そして涙が止めどなく流れ出し、いつしか全員の号泣となった。
栗原中尉の人間味にほだされた全員の心は、
ひたすら 栗原中尉のためと それだけが生甲斐であったのである。
兵隊は手ばなしで泣いた。
この時隊員一同は死ぬ覚悟を決めていたのである。

訓示が終わると栗原中尉の万歳が唱えられ、
余韻のただよう中を迎えの参謀に伴われて正門を出ていかれた。

これが栗原中尉との永久の別れになろうとは知る由もなかった。
中尉が去ったあと 私は五体から力が抜けて行くのを自覚した。
やがて入れかわりに鎮圧軍がきて武装解除を命じた。
消沈した我々はいわれるままに
小銃と帯剣を所定の場所に置き丸腰になると
すぐトラックに乗り帰隊、
ここに四日間の事件の幕はおろされた。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 森田耕太郎 『 不審な女たち 』 
二・二六事件と郷土兵 から

二、栗原中尉と林少尉が山王ホテルの方から帰ってきた。
 中尉は紅白のタスキをかけ決意の様子をみせたが、
顔面に悲壮感をみなぎらせ、無言のまま入ってくるとすぐ門扉を閉じさせた。
すると それを待っていたかのように
鎮圧軍が戦車を先頭にして ナダレの如く門の外側まで包囲網を圧縮してきた。
正に袋の鼠である。
栗原中尉は正門近くの庭にリンゴ箱を置きその上に立った。
隊員は期せずして中尉を囲むように集った。
彼は しばらくあふれる涙を拭いていたが
ようやく思いなおして別れのあいさつを述べた。
その時の内容は大体次のようだったと記憶している。

「 戦いは終わった。 残念ながら昭和維新の達成はできなかった。
 お前たちは四日間よく奮闘してくれて感謝にたえない。
第一師団は近々渡満の大命が降下する予定だが、むこうへ行ったら皇国のために大いに働いてもらいたい。
俺はここで皆と別れるが お前たちのことは決して忘れることはない。
呉々もお前たちの武運長久を祈る 」

あいさつがおわると
全員ワッと泣きながら栗原中尉の側にかけ寄り、
口々に 「 栗原中尉殿 」 と叫びながら、かわるがわる中尉の手を握りしめた。
それは二度と会うことのできない栗原中尉への永遠の別れであった。
日頃暖かく訓育してくれた立派な教官として、
反面国民が安んじて生活できることを悲願として昭和維新を目論んだ
熱血漢栗原中尉に対する悲しい別離の赤裸な姿でもあった。
下士官も 二年兵も そして初年兵も
ひたすら涙に濡れながら中尉を慕う真に劇的なシーンであった。
中尉も泣く、林少尉も泣く、
四日間蹶起部隊として営門を出た時の気持とは裏肚に、
その情景はあまりにも悲愁に満ちたエピローグであった。

ここで同席していた桜井参謀の発意によって栗原中尉の万歳を三唱、
終了と同時に下士官以上は桜井参謀に誘導されて正門を出て行った。
これが 我々と栗原中尉、林少尉との永久の訣別となったのである。

間もな く幌つきのトラックが約十輌正門前に到着し、
我々は武装解除の後にこれに乗車、一路帰隊の途についた。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 小高修平 『 首相ではない 』
二・二六事件と郷土兵から

三、二十九日鎮圧軍の総攻撃があるというので、
 官邸内の椅子や机を窓や出入り口に積み上げ、バリケードを築き、
カーテンを引きさいて全員白ダスキ、白鉢巻きで身をかため戦闘準備につく。
私は二階の正面の窓で小銃を構えた。
すると何時頃だったか議事堂の方から将校がやってきた。
歩哨が 「トマレ!!」 と どなった。
将校はその場に足をひろげ仁王立ちになるや大声で
「俺は陸軍少佐戒厳参謀の桜井だ。天皇陛下の命により武装解除を命ずる」
と 二回くりかえいていった。
ここにおいて 栗原中尉は最早これまでと、
全員を前庭に集合させ徐に訓示をした。
「 永い間上官の命を守ってくれてありがとう。
今度の事はお前たちの知らないことで責任はこの栗原がとる。
この世では再び会うことはあるまい。
満洲に云ったら国のためしっかり御奉公してくれ 」
ここかしこに すすり泣く声がおこる。
栗原中尉も泣く。
やがて泣声は全員の合唱となった。
しばらくして栗原中尉は官邸内に消え、
我々はその場に小銃と帯革をはずし丸腰になってトラックに分乗した。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 小林太三 著
雪未だ降りやまず ( 続・二六事件と郷土兵 )  から

四、翌二十九日、その日は運命の日だった。
 明るくなると戦車が盛んに放送していたが私にはよく聞けなかった。
九時頃 突如 栗原中尉から命令が下った。
「 全員撤収せよ 」
鎮圧軍が包囲する中で撤収とはどういうことなのか、
全員が玄関前の広場に集合すると 栗原中尉がガッカリした表情で訓示をした。
その要旨は、
「戦いは終わった。お前たちはよく頑張ってくれた。
唯今から下士官兵は聯隊に帰れ、満洲に行ったらしっかり奉公せよ」
というのものであった。
すると間もなく鉄帽をつけた桜井戒厳参謀が装甲車でやってきた。
彼は我々の帰隊を誘導するためにきたようである。
そこで武装を解いた全員は栗原中尉との涙の別れを交した後、
表門を開けて外に出ると
何事ぞ鎮圧軍が議事堂工事に置かれた石材の間から銃口を出して
私たちを狙っているではないか。
その距離約三〇米、
しかもLGの射手はゆびを引鉄にかけ完全な戦闘態勢である。
私たちは武装を解き今から聯隊に帰ろうとしているのに、
鎮圧軍側はなお私たちに狙いを定めているとは何の真似だ! 
この時私たち全員は期せずしてムラムラと憤怒に燃え、
キビスを返して邸内に駈けもどり
MGをとって一斉に官邸内に立てこもり戦闘準備に移った。
この時私は二階に上った。
「 貴様らがその態度をとるのなら俺たちだって帰隊を中止して戦うぞ 」
銃隊はこうして再び鎮圧軍と対峙したのである。
ここであわてたのが桜井参謀で折角帰隊に移った私たちを怒らせ、
再び官邸内に入ってしまったのであるから
その驚きは大変なものだった。
ここにおいて銃隊から三年兵の猛者が選ばれて桜井参謀と交渉し、
鎮圧軍の将校と栗原中尉を加えて協議の末、
鎮圧軍側の布陣態勢を解くことを条件として
帰隊することに話がついた。
これで一触即発の危機が去り、
私たちは叉帰り仕たくをしていると
待っていたように輜重一のトラックがきた。
そこで 一コ分隊ずつ乗車し 一路帰隊した。

歩兵第一聯隊機関銃隊 上等兵 内野嘉重 『 断水作戦に備えて 』
  二・二六事件と郷土兵 から


村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」

2019年09月26日 05時23分05秒 | 栗原部隊



革命は血なくしては成らず
幸楽に向かった安藤中隊である。
謀略宣伝が盛んに、今にも包囲軍が攻撃してくるという。
安藤部隊は戦いへの備えを厳しくして、意気軒昂、一触即発である。
私は情況を偵察するため、近くの歩兵営舎の真下に行き、偵察した。
歩哨が立っていた。
兵舎の窓を仰ぎ見てみると、人影はない。
静かである。
人馬の声は聞こえない。
時々、窓に人影が見えた。
まだ攻撃してくる気配はない。
帰って安藤大尉に報告した。
私は連絡警戒のために、まず文相官邸に行こうと幸楽を出発した。
山王ホテルの前に歩哨がいた。
「尊皇」 と唯何してくる。
私は 「討奸」 と答える。
「尊皇討奸」
は同志の合言葉である。
さらに同志の目印として三銭切手を帽子の庇、または脚袢に貼っておくのだ。
三銭切手は高山彦九郎先生の詩の中にある 「 其価三銭 」 から 取ったものだ。
二つの案はともに磯部の案である。
本二八日午前、農相官邸を磯部とともに飛び出し、
新国会議事堂の丁字路の上で、雪の中にこの天真の声を聞く。
天の声だ。
「革命は血なくしては成らず」
天の声、天の声なのか、と三嘆した。
文相官邸に行くと、野中隊がいた。
志気はさかんだった。
常盤少尉が大刀を脇にさして悠然としていた。
磯部に会う。
ともに首相官邸に行った。
栗原、對馬、林、池田がいた。村中もいた。
磯部が言う。
「 村中さん、おとなしくしていれば陸大を出て、今頃は参謀ですなあ 」
村中が答える。
「 勤皇道楽の慣れの果てか 」
一同は アッハッハと大笑いする。 (大西郷の言葉を借用していたので)
栗原が言った。
「 明日の朝は、雪の中で昼寝か 」
「 未来永劫に起きませんな 」
林が答えると、
栗原が返した。
「 起きるよ。この次の世に青年将校として生まれて、また尊皇討奸だ 」
栗原が
「 山本さん、一杯やりませんか 」
と 言う。
見ると、四斗樽の鏡を抜いて、一本の柄杓があった。
一口、二口、三口、冷えた五臓六腑にキューッと沁みわたる。
各々も互いに飲み交わす。

酒を慎むべしという取り決めを解いた。
これは涙の物語である。


現代語訳「二・二六日本革命史」
山本 又 著  
二・二六事件蹶起将校 最後の手記 から 


磯部浅一 「おい、林、参謀本部を襲撃しよう 」

2019年09月24日 06時03分18秒 | 池田俊彦


蹶起部隊と包囲軍

二十八日ははじめから険悪な日であった。
朝から混乱していた。
陸軍省や参謀本部の将校 その他多くの人々が、
入れかわりたちかわり、首相官邸にやってきて話をして帰っていった。
どうやら奉勅命令が下されたような雰囲気であった。
そして我々が守備する地域の周囲には他の部隊が逐次終結しつつあった。
そしてこの蹶起が不成功に終わったということがはっきりしてきた。
午前九時頃であったと記憶するが、
私の陸士予科の区隊長松山大尉が私に会いに来られた。
事件前、私が訪ねて行こうと思って雪のため果たせなかった方である。
松山大尉は門の所に私を呼んで、
これからどうするか、
こうなったらお前は自分の身をどう処するか分っているだろう
と 言われた。
私は
分っています
と きっぱり答えた。
栗原中尉が側によってきてこの様子を見ていた。
松山大尉は私に自決の決意を確かめに来たのである。
栗原中尉は松山大尉と一緒に出かけたが、後で聞くと陸相官邸に行ったそうである。

磯部浅一
昼近くであったと思うが、
磯部さんが血相を変えてすさまじい勢いで首相官邸にやってきた。
栗原中尉と  と私のいる所へ来て、
参謀連中は駄目だ、徹底的にやっつけなければいかんと言い、
林に向かって、
「おい、林、参謀本部を襲撃しよう
と 言った。
林は黙っていたが、
栗原中尉は、そこ迄やってはお終いです。
それは止めましょうと穏やかに反対していた。
私はこの時、
軍人をやめてしまった磯部さんと現役軍人としての栗原中尉との相違を見る思いがした。

・・・挿入・・・
維新運動を阻害し、軍浄化を妨げるものは軍幕僚であります。
之を倒さねば日本は直りません。
私は参謀本部と陸軍省の全幕僚をやっつける覚悟でありましたが、
外の同志の為め 出来ませんでした。

・・・磯部浅一 訊問調書 1 昭和11年4月13日 「 真崎大将のこと 」 


栗原さんと磯部さんはこの事件を引き起こした最大の牽引力である。
しかし、栗原さんは磯部さん程徹底した破壊主義者ではなかったし、
現役軍人としての越えられない一戦ははっきりしていた。
まして この期にいたって部下の兵を犠牲にすることは出来なかったのだ。

この日の午後、
栗原さんは出て行き、首相官邸はひっそりしていた。
午後二時頃、
私が一人で官邸にいたとき、小藤聯隊長がやって来られた。
そして私に栗原中尉を呼んでくるように命じられた。
私は栗原中尉が安藤部隊に行ったことを知っていたので、
安藤部隊のいる料亭の幸楽へ出かけた。
この時、
攻撃軍は われわれの周囲をびっしりと取り囲み、
虫の這い出ることも出来ない状態であった。
部隊の中には戦車も見られた。
私は攻撃軍の前をよぎって行かねばならないので、
明らかに蹶起部隊の将校と見られ狙撃されることもあり得ると考え、
はっきりそれと判断しにくいように持参していたマントを着て出かけた。
幸楽の前に来ると、安藤大尉と丹生中尉がいた。
兵達は鉢巻をして前を睨み、攻撃軍と対決し、皆、非常に興奮していた。
私が近づいてゆくと
安藤大尉が進み出て、
貴様は誰だ、
と 怒鳴った。
丹生中尉が あわてて私を同志だと紹介したので、
安藤大尉の顔色は和らいだ。
丹生中尉でもいなければ、突きとばされかねまじき勢いであった。
私は安藤大尉を知っているけれども、先方は私を覚えていないから無理もない。
栗原中尉は先程迄いたが、帰ったとのことで、
私は急いで官邸に帰ってきたが、小藤聯隊長の姿はすでになかった。

しばらくして栗原さん達が帰ってきた。
この時いた者は 對馬中尉、中橋中尉、田中中尉、中島少尉と 林と私であった。
栗原中尉の顔には憔悴の色が漂っていた。
栗原さんは我々に向かって言った。
「ここまで来たのだから、兵は原隊に帰し、我々は自決しよう 」
皆、黙然として一言も発しなかった。
誰も自決に反対する者はいなかった。
首相官邸にいた者はこの時、全員自決を決心した。
私は林と向き合って、拳銃の引鉄を引けばそれで終わりだと思った。
不思議にさっぱりした気持ちであった。

それからしばらくして村中さんが来た。
村中さんもやはり兵を引いて自決しようと考えていた一人である。
この時、突然ざわめきが聞こえてきた。
攻撃軍が攻めて来るというのである。
我々は一斉に立ち上り、
急いで坂の下の方へ駆け下りて行った。
村中さんは抵抗してはいけない、討たれて死のうではないかと言った。
私は第一線をかけ廻って兵達に絶対に撃ってはならぬと厳命した。
私も、やはり村中さんの言った通り撃たれて死のうと覚悟をきめた。
しかし攻撃軍は動かず静かであり、じっとこちらの動きを見守っているようであった。
この頃、何処からともなく群衆が集まってきた。
私に対して話を聞かせてくれとしきりにせがんだ。
私は次のような話をしたことをかすかに覚えている。

「我々は天皇陛下の聖明を掩い奉り、
我が国の前途に障害をきたす奸賊を斬って、昭和維新のために立ち上ったのだ。
大化の改新の際も
中大兄皇子が奸物蘇我入鹿を倒して、
破邪顕正の剣を振るわれて大化の新政を実現したように、
奸賊共を斬ったのだ。
日本の歴史はいつもこのような正義の力によってのみ切り開かれてゆくのだ。」

このようなことを言って、
ちょっと言葉が途切れたとき、
一人の風采いやしからぬ四十位の人が私に近づいて、
「おっしゃることはよく解りました。
しかし、皇軍同志撃ち合うようなことにならぬようにくれぐれもお願いします。
私共はそれが一番心配なのです」
と 言った。

私は、
「そのようなことは絶対にありません。
私達はこちらから撃ったりするようなことはありません」
と 答えた。

後で聞く所によると栗原中尉も演説をしたというし、
その他の将校も何か一言ぐらい群衆に向かって話していたらしい。


池田俊彦 著
生きている二・二六 から


池田俊彦少尉 「 事態の収拾に付ては眞崎閣下に御一任したいと思ひます 」

2019年09月22日 05時09分23秒 | 池田俊彦


池田俊彦少尉
憲兵調書
« 國家革新運動に從事するに至りたる原因動機 »
学問的、歴史的、社会的方面、皇軍将校としての立場の順序に就いて申述べます。
(1) 学問的方面
陸軍士官学校予科二学年の頃より漢丈に興味を持ち、
始めは朱子学を考究し、漸次 陽明学に傾き来り。
就中、安岡正篤の 「 王陽明の研究 」 は 特に感激を深くしました。
又、日本精神に関する種々の書物を読み、仏教の方面も稍やや研究し、
東洋思想の内観的価値重大にして深遠なるを感じました。
西洋学問の概念的普遍的なるに対し、
東洋倫理の玄(東洋学の意) にして 幽遠なるを銘記したのであります。
陸軍士官学校本科の中頃より、日本精神の総べてを超越して尊きものなることを更に感じ、
而して之れは日本国民の理念と至情なることを痛感致しました。
(2) 歴史的方面
日本精神 即ち 皇道は、天御中主神を中心として中心分派し、
遠心求心兼備せる世界大道宇宙(自己及天体) の真理であって、
恰も太陽が万物を生成育化する如きものであり、
大御心が世界を隈なく照らすものなることを確信しまして、
而して 此 精神の日本に於て最も発揚せられたる時代は、
大化の改新、建武の中興、明治の維新にあることは疑なき事実であります。
日本の 「 神ながらの道 」 が 歪めらるれば、それに対して常に天誅の刃は下されたのであります。
人間界が動物界と異なる点は 甲が或る処から或る処までやれば、
次の時代の乙は又 或る処から始めると言ふが如き 人間の意志及事業の継続であり、
而して それは純にして真直なるものであります。
日本家族主義が一貫し、孝なる事 即ち 忠なる君民一体の国家の永続であります。
往昔、仁徳天皇が民の心を心となされ給ひし如き国家の永昌にあることを確信するものであります。
蘇我入鹿が天皇の命を勝手に作り、天子の威を着て私腹を肥し、
大逆を敢てなしたるに対し、中大兄皇子は破邪顕正の剱を取って、
宮中にて剱を抜くの法度を破りても大極殿に於て 天誅の刃を下されました。
而して 「 神ながらの道 」 に復し奉り、大化の新政を現出し奉ったのであります。
又、建武の中興に於ても 御宇多天皇の御意志に基き、
後醍醐天皇の御代に高時を破りて中興の大業を成就しました。
是れ即ち 高時の勅を奉ぜざるを打破して大業を翼賛し奉る
楠公以下忠臣の業に依るものが大なのであります。
明治維新亦然りであり、
昭和維新も亦然る可きものと考えるのであります。
(3) 社会的方面
現今の情勢を見ますると、天日照々として輝く真の国体を現出せんと云ふ可きか。
何人もこれを打破せんとする希望に燃へつつあると思ひます。
但し 現今、
自己の地位を確立しあるものは私慾の為に汲々として現状を維持するに急なのであります。
米が余る程出来て 食ふことの出来ぬものがある一方に於て、
生産過剰に苦しむ者ありて一方に物資を持たぬ者がある。
これが現今の矛盾の一つであります。
何処かに やりくりの悪い所があるやうに思ひます。
農民は貧苦のどん底にあるも 之れに対する処置は僅少であります。
帝都の大震災、金融界の動揺に対する救済は大々的になされましたが、
下層民の窮境には極めて冷淡であります。
天皇陛下に対し奉り、機関なりとする天皇機関説論者を保護せんとするが如き政府の声明、
党利のみを第一とする政党政治の堕落を見る時、
何んとかせんと忠臣は努力しつつあるが総て法規に依って阻止されて居るのが現状であります。
陛下に対し奉り、植物学の御研究をお薦めし、
天皇の大権の御発動を御裁下のみを縮小し奉り、
自己等の地位権勢を以て国家を動かさんとする元老、重臣の横暴、
而して仁徳天皇の如く、明治天皇の如く、
民の心を十分に大御心を以て滋育し給ひたるが如きことをせず、
極端に言へば 陛下に蓋をし奉り 自己の地位を保護せんとするが如き
実に慨嘆に堪へません。
我等は断固 妖雲を一掃して、
天皇御親政の真の国体を顕現せんことを期すのであります。
我等は過去に於て如何に善人たりとも、如何に国家に功労があるも、
現在国家の発展を阻止せんとするが如きは逆賊と言はざるを得ないものであります。
(4) 皇軍の将校としての立場
軍は天皇親率の下に皇基を恢弘かいこうし、国威を宣揚するを本義とせられて居ります。
而して 対外的、対内的 何れに対しても国家の奸たる者は討伐をせなければなりません。
平戦両時を問はずに軍の行動を妨害すのものは、外人たると日本人たるとを問はず、
正義の剣を振って打倒すべきであります。
軍は細民の為めの軍に非ず。
政党、財閥、元老、重臣の軍にも非ず。
一に、天皇陛下の皇軍にあります。
軍は一元的中心の下に製正敏活一致して行動し得るを以て本質とするのであります。
即ち統帥の一貫であります。
これが歪められれば軍の絶滅であります。
而るに数年来、屡々、統帥権干犯問題を惹起し、軍をして私兵化せんとせる傾向があります。
今回、相沢中佐殿の立たれたる最大の原因又ここにありと信ずるのであります。
軍が資本家と供託して殖民地を作り、 「 ダンピング 」 を以て市場を獲得し、
民の利害を顧ず、威力を発展せしむるが如きは、
所謂覇道の軍であって 決して皇軍ではないのであります。
皇軍は万民を生成育化する皇道精神の具現にあるのであります。

以上の様な心境にありましたので、士官学校卒業以来、
歩兵第一聯隊中隊長山口一太郎殿、機関銃隊附中尉栗原安秀殿、
同少尉林八郎氏と語る機会が多く、
益々改造運動に努力致し度く思って居りましたが、
特に初年兵教育を担任して身上調査をしてみて
深刻に国家組織の欠陥を認識しましたが、
更に 現に行はれつつある相沢中佐殿の公判状況を
元歩兵大尉村中孝次氏より聞くに及び、憤慨の至りに堪へず、
どうしても軍の力に依りて国家を改造しなければならないと思ふ様になったのであります。

« 此の事件誰が計画したか »
誰が計画したのか存じませんが、臆測で
歩兵中尉  栗原安秀
元歩兵大尉  村中孝次
元一等主計  磯部浅一
歩兵大尉  山口一太郎
の 四人であらうと思ひます。
二月二十三日 午前十時頃、
林少尉が私の部屋に来り 決行の日は示さないが、
近くやると云ふことを言ひますので、
私は五・一五事件の如き火花線香式の如きものはやらないと申しました。
すると林は
今度は、
歩兵第一聯隊七中隊、第一中隊、及 機関銃隊
近衛歩兵第三聯隊 一箇中隊
歩兵第三聯隊 八箇中隊
豊橋 若干
野重 同右
出動し、帝都の実力を握り、戒厳令を戴き、維新を断行すると申して居ましたので、
是なら出来ると思ひ、私も参加すると申しました。
然し私の中隊は機関銃隊みたいな下士官兵に御維新に参加する丈の教育が出来ていないことと、
又 中隊長がこの運動をしない人ですから 迷惑を掛けてはならないと思ひ、
更に不成功となった時、多数の兵員を犠牲にすると思って 連れて行かず、
私一人参加しました。
そして爾後二日間は演習に忙しく、全然同志と会合せず、
二十五日演習より帰り、
午後六時半頃、私の部屋で林より
「 今晩やるぞ 」
と 聞かされました。
そこで私は
午後十時頃機関銃隊将校室へ行きますと、
栗原中尉(歩一)  中島少尉(鉄道第二聯隊 現在砲工学校在学中)  が居りまして、
私は栗原中尉り計画を聞きました。
・・略・・
右の計画を聞いてから 暫らく沈黙の状態が続きました処へ、
山口大尉は当時週番司令でありましたが、私等が居ります処へ来、
「 本庄閣下の親戚である私は 一個の山口と二つの肩書を持ちたい 」
と 申されました。
此意味は 皆と一緒に第一線に立つて行きたいが、
他に任務があるから一緒に行けないと云ふことで、他の仕事は外交面担任すると云ふ事であります。
・・略・・
午前五時頃、
栗原中尉は第一教練班及機関銃の主力を率ひ、
表門より突入し、次で林少尉の部下の大部分侵入し、
私の教練班並林少尉及林の部下一部は裏門から突入しました。
そして林少尉は中に入り、私は機関銃二銃を持って裏門の警戒に当たりましたが、
栗原部隊が首相を中庭でやっつけたので兵を表門に集結し、
万歳を三唱しました。
当時大蔵大臣担任の近歩三中橋基明中尉及中島少尉の指揮する一隊も、
首相官邸に到着して居りました。
又、田中中尉は自動車一台、トラック二台(共に軍用) を持来て居りました。
・・略・・
二月二十七日夕、
陸相官邸に於て 栗原中尉の除く外の全将校と軍事参議官と会見し、
野中大尉が一同を代表して次の事をお願ひしました。
「 事態の収拾に付ては眞崎閣下に御一任したいと思ひます。
宜しくお願ひします。
軍事参議官閣下は眞崎閣下を中心としてやられる事をお願ひ致します 」
それに対し阿部閣下は、誰を中心とすると言ふのではなく、
軍事参議官が一体となって努力するといわれました。
眞崎閣下は、
「 諸氏の尊い立派なる行動を生かさんとして努力して居る。
軍事参議官は何等の職権もない。
只、陸軍の長老として道義上、顔も広いから色々奔走して居る。
陛下に於かされては 不
眠不休にて、御政務を総攬あらせられ給ひ、真に恐懼の至りである。
お前達が此処迄立派な行動をやって来て、陛下の御命令に従はぬとなると大問題である。
その時は俺も陣頭に立って君等を討伐する。
よく考へて聯隊長の命令に従ってくれ 」
と 言はれました。
そこで私等は退場し、聯隊長とは誰か、元の聯隊長か今の小藤大佐かと色々話合ひましたが、
そこへ山口大尉が来られ、眞崎大将に対し、
「 奉勅命令の内容は我々を不利に導き、御維新を瓦解せしむるものなるや 」
と 問ひたる処、
「 決して然らず 」
と 答へられました。
山口大尉は更に、
「 聯隊長とは誰か 」
と 問ひたるに、
「 小藤大佐なり 」
と 答へられました。
そこで吾等は、一に大御心にまかせ、聯隊長の命令に従ふことを誓ひました。

二・二六事件秘録 (二)  から


尾島健次郎曹長 「 たしかに岡田は、あの下にいたんですよ 」

2019年09月20日 04時30分27秒 | 後に殘りし者

昭和十四年の天長節に、あと九ヶ月残して仮出獄した私は、
しばらく静養したのち、
蒲田にあった創立まもない富士飛行機という会社に、青年学校をつくることを頼まれ出向いていた。
尾島がでてきたころは校舎もでき、見習工である生徒も、私が青森県下から縁故で予約してきたところであった。
富士飛行機で待っている私のもとに、出獄したばかりの尾島は訪ねてきた。
ところが、互いに自由に口が利けるようになった尾島が、
挨拶もそこそこに、待ち切れなかったとでもいうように、先ず 話しだしたのが、次のようなことだった。

栗原中尉に率いられて、首相官邸を襲撃した尾島曹長は、
首相を斃したことに疑念は持っていなかった。
ここが映画 「 脱出 」 に設定されている下士官と先づちがうところである。
それで別に目的を持っていたわけでなく、ただ何気なく、ぶらぶら官邸内をみてまわっていた。
そのうち問題の女中部屋を覗いてみることになるのである。
女中が二人坐っていた。
が 女中が坐っている位置に尾島は不審を抱いた。
背後の押入れにくっついて坐っている。
いかにも押入れのなかをかばうかのような格好である。
といっても、赤穂浪士の討入りのように吉良上野介のありかが、最後までわからないというのであれば、
邸内隈なく、床をあばき天井をはがしても、血まなこになって探したであろうが、
このときは目ざす仇、吉良はすでに討ち果たしたことになっている。

尾島はたしかに変だと思ったから、女中部屋にはいり、
退こうとしない女中を押し退け、押入れをあけてみた。
----なあんだ、なんでもないじゃないか。
尾島は馬鹿をみたと思っただけで女中部屋をでた。
が、これが恐らく獄中生活中、
絶えず尾島をくやしがらしつづけたであろう遺恨事となるのである。
私と会うやいきなり、せきを切ったように話しだしたのもこのためだったろう。
「 たしかに あの下にいましたよ。
押入れのなかに、たたんだ女の着物がながくのべてありました。
たたんだ女の着物は、あんなしまいかたは しないでしょう。
たしかに岡田は、あの下にいたんですよ。
残念なことをしたと、あとで悔やまれて仕方がありませんでした 」
岡田が生きていたと知った尾島の眼底に、
当時は別に気にもとまらなかった押入れのなかの、
ながくのべられた女の着物のことが、
恐らくは色まで、柄まで、まざまざと よみがえってきたにちがいない。
尾島は熱を帯びて話した。
それは 二・二六事件失敗の原因の一つを背負っているという自責をこめたものであった。
が、それを聞く 当時の私は冷静だった。
否、むしろ冷淡だった。
尾島の自責の気持を緩和しようとしたためではなかった。
当時は襲撃の当夜、首相は妾宅にいて官邸はもぬけの殻だったという説が圧倒的に強かった。
私もそれを信じていた。
私が冷淡だったのは、尾島、つまらぬ勘違いをしている----と 思ったからである。
勘違いに熱がはいって、拡大されるほど、滑稽であり 気の毒なことはない。
しかし勘違いだよ、首相は妾宅にいたんだよ、とも いえなかった。
その確証を握っていないからでもあったが、
それより、尾島のひたむきに思いつめている気持ちをはぐらかすことを可哀想に思ったからだった。
二、三日すると、これにまた、おまけが附いた。
「 石丸少将のところに ( 刑務所を ) 一緒に出た者と挨拶にいったら、
誰かこのなかに 岡田大将をみのがしてくれた者はいないかと、
この前 お話した押入れの一件のことが話にでて、
岡田大将から、
命の恩人だが それが誰であるかがわからない、
調べてわかったら教えてくれ
と、かねてから頼まれている
と いうのですよ。

こちらは 討ちもらして残念でしようがないのに、命の恩人もないものですよ。
誰が、それは私だといえますかね 」
腹立ちまぎれの尻を私に持ってきたように尾島は言った。
おや、満更の話でもなかったようだと思いはしたものの、
話のつじつまが合ってきたことが、かえって 尾島に気の毒のように思えた。
そんな私を頼りなく思ったのか、その後尾島は私の前ではこの話は蒸しかえさなかった。
石丸少将は少将でやめて、その後 満洲皇帝の侍従武官になったりしたが、
それをやめたあとは、栗原中尉の厳父栗原勇大佐の同期生でもあり、
栗原大佐に依頼され、将校を除く、二・二六事件関係者の留守宅に対し
二・二六事件に対する宥和政策の軍当局と連絡しながら、ある程度の物資的世話をしていたようである。
尾島たちが石丸少将のもとに顔をだしたのは、その お礼を言うためだった。
富士飛行機の青年学校は昭和十五年の春、青森から生徒がやってきて開校された。
ちょうどその前に 菅波大尉が出獄してきていたので、
私は菅波大尉に青年学校長を頼んで、職を求めて満洲に渡った。
尾島は菅波校長の下で、誠実に舎監を勤めた。

終戦後言論が自由になると、真相ブームがおとずれた。
岡田大将は ある新聞に 「 岡田啓介秘話 」 を連載しはじめた。
当然 二・二六事件にもふれた。
そのなかに女中部屋の一件が書かれてあった。
おや! 尾島の言ったことは本当だったんだ、と 思った。
新聞の 「 岡田啓介秘話 」 に ひきつづき
中央公論 ( 二四年二月号 ) に岡田啓介は 「 二・二六のその日 」 を書いた。
それは新聞連載のものと大同小異だったが、やはり女中部屋の一件が書かれてあった。
映画 「 脱出 」 は、この 「 二・二六のその日 」 をもとにして演出されているようである。
「 二・二六のその日 」 によれば、押入れをあけた兵は二人いる事になって居る。
そのどちらが尾島であるかわからない。
「 ・・・・また少尉と上等兵くらいの兵隊と、あと二人の新兵が、この女中部屋にやってきました。
少尉は下女が二人おるものだから部屋の中へ入らず、部屋の襖を開けて外におる。
上等兵が中に入って調べるわけです。
押入れの唐紙を少し開けて----その前に下女に身体の縁を少し囲わしたりしたものですから、
そう明瞭には見えないようになっているのですが、
しかし 私の体にも触っているし、確かに私を見ているのです。
しかしながら その上等兵は、
押入れの上の方に洗濯物みたいものだとか、布団など少し載っていたのですが、
それをポンと 二つ三つ放り出して、それから反対の側も開けて、
『 異状りません 』 と やっているのですよ。
私はその時、
『 来たものは殆んど全部が味方だ 』
こう思った。
実際、青年将校が兵隊を率いて来たのだから、
この率いて来た青年将校は、私をやっつけてしまおうという考えを持っておったけれども、
率いられて来たものはそんな考えを持っておらないのです。
尤も私が隠れておったせいもあるけれど・・・・
『 岡田啓介 ここにあり 』
と 出ていったら、どうもせぬというわけにいかなかっただろうが、黙っておるとそうじゃないのです。
みんなこっちの味方なんだ 」
というのが第一回目、
「 ・・・・ところがその日の四時ごろですか、下女二人が----これも馬鹿な話で、
私が入っている押入の襖の一つずつに二人が背中をつけて、頑張って居るのですよ。
そこへ一等兵ぐらいでしょうね、それが兵隊を二人か 攣れて廻って来ました。
そうして下女が二人居るのを見て、
『 もう お前 帰れ、この官邸で女というのは お前ら二人しかおらぬのだから、
もう日は暮れるし、どこでも自動車で送ってやるから帰れ 』
と云う。
下女は
『 私は秘書官から云いつけられたのだ。 総理の遺骸のこちらにある間は帰らない 』
と 言うのですよ。
そうすると、
『 そんなこと言っても、秘書官には俺がよくいってやる。総理に尽くすお前の心はそれで十分だから帰れ 』
と 言って手を引っ張った。
こちらを見て、私がおるものだから----私は もうとてもいかぬと思って起きようとしたのだ----
そしたら
『 わかった、わかった 』
と 言って閉めてしまって、
『 そりじゃ 遺骸のある間は居ってもいい、飯をどうかせぬといかぬな 』
と いうことを仲間の者と話して・・・・」
というのが二回目である。

尾島はどちらであろうか。
二回目のほうが尾島のようであるが、はっきりしない。
はっきりさせたらいいではないか----が、それは私が 「 岡田啓介秘話 」 「 二・二六のその日 」
を 読んだころでは、もうできないことだった。
尾島が此の世にいなかったからである。
尾島は終戦少し前に亡くなった。
せんそうが苛烈になって、東京がB29によって方っぱしから焼野原にされようとするころになって、
あわただしく工場疎開がどこでも行われたが、富士飛行機も、どこかに疎開することになった。
トラックが山のように疎開荷物を積んでは、つぎつぎ工場の門を出た。
尾島はある日、この疎開荷物を積んだトラックの上乗りをしていて交通事故にあい、
即死したのである。
尾島が生きていたら 「 岡田啓介秘話 」 も 「 二・二六のその日 」 も そのままでは通用しないし、
したがって 映画 「 脱出 」 も 構成を一変しなければならなかったにちがいない。

女中部屋の押入れに隠れていた岡田首相が、押入れの襖の外のことまで書いているが、
そんなことが、真実であり得よう筈はない。
現に 「 岡田啓介秘話 」 と 「 二・二六のその日 」 とでは、それが相前後して書かれたものでありながら、
かなり内容にちがいがある。
大同小異とはいったが、小異は小異ながら、実は相当に違いがあるのである。
肝心の押入れの襖をあける兵の話が、前者と後者とでは、あべこべになっているのである。
が、それはともかく、
青年将校以外は 「 来たものは殆んど全部が味方だ 」 「 みんなこっちの味方なんだ 」
と 思ったというのは、早合点であり、独り合点だろう。
もちろん千数百名の下士官、兵が全部同志であったとは私は云わない。
そんなことはあり得ない。
・・・略・・・
  映画 「 脱出 」 1962
ともあれ、
革命の決は軍隊の動向如何にあるといっても、全部の兵の動向を問題にすることはない。
要は指揮官の動向であり、兵一人一人の問題でなく、組織の問題である。
二・二六事件がおさまっての後、兵のなかに 「 将校にだまされた 」 と 云う者があったというが、
たとえ そういうものがあったとしても、
それは二・二六事件の革命、革新としての評価を左右する根本問題にはならない。
尤も 村中孝次は 『 丹心録 』 のなかで、
「 吾人は蹶起部隊の全員が悉く同志なりとは主張せず、
初年兵は入隊後日尚ほ浅く、従って是れを啓蒙する余地なかりしは固より 其の所にして、
且つ 蹶起将校中二三士は平素同志的教育啓蒙を部下に施しあらざりしことも否定するものにあらず 」
と 云いながらも、
「 然れども、参加せる下士官及二年兵の多くに於ては、吾人と同一精神を有し、
其の決意の鞏固なる点に於て、将校同志に比し 遜色なきもの亦多数ありしことを信じて疑はざるものなり 」
と 云って、下士官、兵の決意鞏固であった具体例を、くわしくあげてはいる。

映画 「 脱出 」 では兵隊が押入れの襖を開けた時、岡田は坐った姿勢でいるが
「 二・二六のその日 」 では
第一回目は 「 ---その前に下女に身体の縁を少し囲わしたものですから 」
と 言っているし、
第二回目は 「 ---私は もう とてもいかぬと思って起きようとしたのだ 」
と 言っているから、寝た姿勢でいたようだし、
身体の縁を少し囲わしたというのが、多分女中が自分からの着物で囲ったのだろうと思われるから、
尾島の話と、この辺も合致するようである。
尚 「 二・二六のその日 」 には ないが 「 岡田啓介秘話 」 のほうには、
押入の襖を開けた者のうち
一人は篠田憲兵上等兵と、その名が明記されてある。
おそらくこの方は後で岡田が礼も言ったであろうが、
もう一人の方は
「 このことについては現在でもわからないままになっている。
もし その間の事情を知っている当時の兵隊がいたら、いきさつを聞かせてもらいたいものだ 」
と 言って、わからないままになっているのである。
石丸少将に頼んだのは、
その兵隊のことを知り、命の恩人として会って礼も言いたかったのだろうが、
その兵隊はついに現れなかったし、
その 「 いきさつ 」 も 聞かしてもらえなかったわけである。
が、そのほうが岡田啓介にとっては好都合だったはずである。
「 みんなこっちの味方なんだ 」 の 幻想がこわれなくてすんだから。

岡田啓介が女中部屋に隠れていたことが、本人によって語られた後になっても、
たしかに二・二六事件勃発の日に岡田は妾宅にいたと実証をあげて反論する者がいる。
が、女中部屋の一件について、尾島曹長と岡田啓介の語るところに符号する点があるので、
岡田啓介の名誉のためにも、やはり女中部屋に隠れていた、
すなわち首相官邸に居たという説を、私は事実と思うことにしている。
映画 「 脱出 」 をセミ・ドキューメンタリーと思う所以である。

最後に、さる女性のこれに関連した手記の一節を抜萃しておこう。
「 二十九日夜になりて襲撃をうけて即死を伝へられし犠牲者の一人
岡田内閣総理大臣が奇跡的にも命拾ひをして現存し、
首相に酷似した松尾大佐身代りとしてたふれたる由を聞きて
 あの世より よみがへりたる心地して うべなへかねまつ まことなるかと
 いかにして弾をのがれし そのかたきかこみを逃げし ふしぎなるかな
西園寺は妾と共にトラック ( 貨物自動車 ) に荷物と化けて逃げ、
牧野内府は女の着物を着て山へ逃げ、
岡田首相はむくろに化けて棺に入りて逃げたり
といへる噂
正に昭和の御代の逃避行三幅対なると聞きて
 この御代に まことふしぎのありとせば かかることかと思はるるかな
実に皇国万世のけがれと申しはべれめ 」
さる女性と云ったのは 高貴の方であるから、その名を憚ったのである。

末松太平 著

軍隊と戦後のなかで
映画 「 脱出 」 について  1962.6
から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・
二十六日の午後は、それからどういうふうに過ごしたか、はっきりした記憶がない。
ただ一つだけ残っていることがある。
それは女中部屋に料理番の老人が風邪のため寝ているという知らせがあったことである。
栗原中尉は、兵には日本間の方には行かぬように、そして部屋の中には入らぬように注意していた。
そして 要所には歩哨を立て、幹部は時々見廻りをしていた。
私が見廻りをしている時、女中部屋には一人の女中が廊下の方を向いて正座していた。
そして向って右側の押入の戸は開けたまま、
その中に足を部屋の入口の方に向けて布団を眼の下位までかぶって寝ている老人がいた。
私は、二言、三言、この女中さんと言葉をかわしたような記憶があるが判然としない。
私達の頭の中では、岡田首相は既に亡骸となって座敷に安置してあったから、
この老人に何等の疑いを差しはさまなかった。
後から聞いた話では 尾島曹長も一部の下士官兵も何人かここに来て様子を見ているが、
誰も気の付く者はなかった。
私は女中さんのきちんとした態度に敬意を抱き、何かしら近づき難いものを感じて立ち去った。
『 岡田啓介回顧録 』 には ここの場面を次のように記してある。

「 ・・・その後も三十分おきぐらいに兵隊が見回りにくる。
将校は、さすがに女二人しかいない部屋に入るのを遠慮して廊下に立ったまま、
「 異状はないか 」 と 聞く。
兵隊が二人くらい入ってきて女中に 「 異状はないね 」 と聞き、「 ありません 」 と 答えると、
今度は押入れの唐紙を・・・・両端をすこしずつ開けて、
中にあった洗濯物を一つ二つ外へ つかみ出して中を改めるようなしぐさをして唐紙を閉めて、
「 異状ありません 」 と 将校に報告する。
そこで つくづく考えたのであるが、兵隊は私の見方だということだ。
ちゃんと私の顔を見ている。
私が押入れにいることを知っている。
それでいて別段 私をどうしようという気を起さないのは、不思議である。
私は首相だと感づいているのに、黙っていたのか、
それとも、もう首相は死んだものと思い込んでいるので、
妙なじいさんがいるのを見つけても関心を持たなかったためなのか。・・・」
一部の兵士の中には首相が生きていると思っていた者もいたらしいが、
その時は そんなことは全くあり得ないと思っていた。


池田俊彦 著

生きている二・二六  から
の 記述から


貧乏徳利 「 兵隊さんの心は解つて居ます 」

2019年09月18日 05時14分45秒 | 栗原部隊

≪ 首相官邸 ≫
一老人、
三、四才ノ幼童ニ古キ手拭デホオカムリヲナシ背負ヒ、自ラモ古キ着物ヲ着、
六十以上ノミスボラシキ労働者風ノ一老人、
其日ノ糧ニモ貧シカルナランニ、
イズコデ求メシカ、貧乏徳利ニ酒一升ヲ持参。
首相官邸ニ来り。
涙ヲ流シ、泣き乍ラ、
兵隊サンノ心ハ解ツテ居マス。
ドーカ之ヲ呑ンデ下サイ。
コノ老人ノ真心ニハ並居ル将士、心ヲ打レザルハナカッタ。
人ヲ動カスモノハ誠デアル。
真ニ至誠デアル。
少シモイツワラズ、カザラズ、心ヲ込メタルコノ一升徳利ニハ、
赤垣源蔵ノ徳利ノ別レナラデ実ニ心カラ感謝シタ。
コノ酒ハ有難ク戴キ、共ニ呑ンダ其味ノウマサヲ、未ダニ忘レラレナイ。
思ヘハ此ノ老人、今達者カ。
幼キ子供ハ無事成長シテオレカ。
何カ方法ガアツタラ、尋ネテ御礼ガシタイ。
姓モ語ラズ、名モ語ラナカツタ。
二・二六ト貧乏徳利、誠ニフサワシイ天意妙。
雪、血、涙。
今ニシテ思ハム徳利ノ別レナリ。
同志酢ニナシ。
同志ノ遺嘱一念貫徹。
コノ貧乏老人ノ貧乏徳利、一片ノ詩ナリ。
對馬曰ク、国民ノ昭和維新万歳ノ声ガキコエル。
山本曰ク、ソーダ、アナタハ心ノ耳デキクカラ声ナキ声ヲ聞ク。
志士ハ声ナキ天真ノ声ヲキク。
コノ事件ハ雪、血涙事件ダ。
對馬、ソーデス。
君ノタメニ流ス血涙デス。
コノ夜同志、君、国ヲ思ヒ国家ノ前途ヲ憂フ。
首相官邸表玄関入口ニ重機関銃ヲスヘ、コノ傍ニ我等同志語ル。
君、国アルヲ知リ、我、身アルヲ知ラズ。


現代語訳「二・二六日本革命史」
山本 又 著
二・二六事件蹶起将校 最後の手記 から 


朝日新聞社襲撃 ・緒方竹虎

2019年09月16日 10時18分47秒 | 栗原部隊

日劇前の布陣
二 ・二六事件当時の想い出話はよく聞かれることだが、
事件後に聞くと色々その気配はあったらしいが、実は我々は全然予感を持たなかった。
ところが当日朝、社会部にいた磯部記者が朝早く 七時頃僕の所に電話をかけて来て、
今暁 軍のクーデターがあって、高橋蔵相、斎藤内大臣、岡田総理等が殺された。
戒厳令が出るかも知れぬから、すぐ来てくださいという。
その時の僕の受けた衝撃は、五 ・一五の時より小さかった。
五 ・一五の時は白昼に総理官邸で総理大臣が銃殺されたということを聞いた時は、
これはえらいことが起こったと思った。
いくらかこういう事件に馴らされていたのだろう。
自動車が来て、新聞社に行ったが、
憲兵司令部の前なんか交通止めで自動車が通れないためにずっと神田の南の方を迂回して社に行った。
行ってすぐ僕は、当時主筆であったが、編集局長室に入って編集幹部と話をしていると、
そこへ何か兵隊が外で非常な大声でがたがたやっているというので、
ベランダに出てみると、日劇の前で円陣を作って、
日比谷の方に銃口を向けて伏射の姿勢をしている。
八時五十分だったと記憶する。
これは何か市街戦が始まって朝日新聞を守ってくれるのじゃないかという気がした。
すると社の守衛の一人が飛んでやって来て、
今、下に反乱軍の将校がやって来て 代表とここで会見したいといっている。
どうしましょうかという。
僕が代表者だから、僕が会おうということになり、同時に大阪に電話をかけた気がする。
「 こういうことで残念だが、これが最後の電話になるかも知れぬ 」
というようなことを大阪側に対していった。はっきりは憶えはないが・・・・。
それからエレベーターで下りて行こうとすると鳥越君が追っかけて来て、大丈夫ですかという。
大丈夫だといって下りて行った。
下りて行くと、エレベーターを出たすぐ前の一段低くなった所に、一人の青年将校が立っている。
目が血走って疲れたような恰好。
右手にピストルを持ち、左に紙を持っている。
僕は初め 前述の磯部君の電話で社に呼び出された時に、
社へ来るまでの自動車の中で
新聞社にもし反乱軍が来て何か書かせようというのなら拒絶しなければならない。
新聞社を破壊するというのなら人命だけは何とか保護せねばならぬ。
しかし出会い頭に やられれば しようがないじゃないか
というようなことを考えておったのであるが、
目の前に立った将校は手に書類を持っているので、
これは何か新聞に宣言書でも強要するのかと思った。
ピストルが危ないから、なるべく身体を近接させた方が無事だと思って、
ほとんど顔がつく位に立って名刺を出して、僕が代表者のこういうものだといった。

朝日につけつけた銃口
そうすると、その若い将校は ひよっと目をそらしてしまって、物をいわないのだ。
僕がそういった時に、ちょっと何というか、会釈したような感じがしたので、
これは大丈夫だなというように感じたことを記憶している。
これを新聞に載せてくれというのかとも予期して行ったところが、そういうこともいわない。
その間に非常に長い沈黙が続いたような気がするが、恐らく十秒か二十秒だろう。
すると急にピストルを上に向けて国賊朝日新聞を叩き壊すのだと叫んだ。
それで射ったかと思ったが、弾が出ない。
そこでちょっと待ってくれ、中には女も子供もいる。
そういうものを一応出すから、待ってくれ、といって、三階に上って行くと、
久野印刷局長や鳥越君が死んだ者が上がって来るとでも思ったか、
びっくりした顔をして、よかったよかったと寄って来た。
それから皆一応近くのニュー・グランドに退避させようじゃないか、
怪我しても詰らぬから、なるべく慌てぬように急がぬように
ニュー・グランドに一つ退避してくれということにして、
大阪にも電話をかけ、こうこうこういう訳だと報告して、
それで社員一同は外へ出てしまった。
僕の部屋は四階にあったが、一番後から僕が下りようとすると、剣付鉄砲の兵隊が上がって来た。
その間を抜けて面に出たが、表は静かだった。
ところが、暫く玄関に立って中の様子を見ている内に 三々五々兵隊が社内から外へ出て来る。
この調子では大したことはないと思っていると、やがてその連中はトラックに乗って行ってしまった。
それから早速僕は社の階段を駈けあがって見ると、電話の机の上に蹶起趣意書が貼りつけてあった。

あとで聞いた話だがこの連中は前の日に朝日新聞に見学に来ているのだ。
しかも屋上で写真を写している。
それから見ると これはただ気紛れに来たのではなく、計画的に来たものと見る外はない。
撮った写真で見て、その将校が中橋基明という中尉であったことがわかった。

それからずっと後になるが、
田中軍吉という大尉が私を訪問して来たことがある。
何かと思って会った所が、
自分も奉勅命令を知っておったということから気違いにされて
代々木の軍刑務所に入れられておったが、今日出て来た。
刑務所の中で 中橋基明中尉に便所で会った時に、
「 お前 いずれ出るんだろうが、
 出たら、朝日新聞に行って緒方という人に はなはだ無作法をしたが、宜しくと言ってくれ 」

という言伝を受けたから来たということであった。
この田中軍吉も大東亜戦争の後で支那戦犯になって南支で銃殺されたと聞いている。
(文芸春秋 / S ・ 30 ・ 10 ・ 5 臨時増刊 )

目撃者が語る昭和史  2・26事件

新人物往来社
当時朝日新聞主筆  緒方竹虎  著  反乱将校との対決  から


朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』

2019年09月15日 10時13分33秒 | 栗原部隊

有楽町日劇に隣接する朝日新聞本社ビル。
真偽とりまぜた情報は刻々と入ってくる。
岡田首相、高橋蔵相、渡辺教育総監、牧野前内大臣、
鈴木侍従長、斎藤内大臣をはじめ西園寺公、若槻男も危い
新聞社は深刻な表情につつまれ、デスクの前の記者たちは青白く緊張していた。
「 アッ、また雪がふってきた 」
一人の年若い給仕が窓から首を突き出して、
ふり出してきた牡丹雪を眺めていたが、
「 おやッ、兵隊がトラックで通りますよ 」 という。
「 何処かに警戒に行くのだろう 」
と 誰かが答えた。
「 オヤ! 社の前で止まった、社の前で 」
さきの給仕が頓狂な声をあげながら走り出した。
----社の玄関前に機関銃を据えている。
日劇や数寄屋橋の方向に銃口を向けている。
----将校が日劇の前にいる人をピストルを向けて追っ払っている。
----将校が社の玄関に来て朝日の代表に会いたいというので、今 緒方さんが下におりた。
『 いよいよ来たな 』
と 記者たちは、さっと心にさすものを感じて慄然とした。


この朝九時すぎ
朝日新聞社を襲ったのは首相官邸を襲撃した栗原中尉の一隊だった。
栗原中尉、中橋中尉、中島、池田の両少尉らに指揮された下士官兵五十名は、
乗用車一、トラック二台に分乗して朝日新聞社にのりつけた。
げしゃすると同時に機関銃を配置して外部の警戒にあたった。
まず 社の代表に面会を求めた。
この代表者として中橋に応対したのが緒方竹虎主筆だった。
この間の事情について緒方氏は次のように手記している。
「 ---編集局長室に入って編集幹部と話をしていると、
そこへ何か兵隊が外で非常な大声でガタガタやっているいうので、
ベランダに出て見ると日劇の前で円陣を作って日比谷の方に銃を向けて伏射の姿勢をしている。
これは何か市街戦が始まって朝日新聞を守ってくれるのじゃないかという気がした。
すると社の守衛の一人が飛んで来て、
今、下に反乱軍の将校がやって来て代表とここで会見したいといっている、
どうしましょうかという。
僕が代表だから会おうというので、エレベーターを下りていった。
エレベーターを出た直ぐ前の一段低くなったところに、一人の青年将校が立っている。
目が血走って疲れたような恰好、右手にピストルを持ち左手に紙を持っている。
----ピストルが危ないから
なるべく身体を近接させた方が無事だと思って 殆ど顔がつく位に立って名刺を出して
僕が代表者のこういうものだといった。
すると、その若い将校は ひょっと目をそらしてしまって物をいわないのだ。
----その間に非常に長い沈黙が続いたような気がするが 恐らく十秒か二十秒だったろう。
すると、急にピストルを上に向けて
『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』 と叫んだ。
それで射ったのかと思ったが弾が出ない。
そこで ちょっと待ってくれ、中には女も子供もいる、そういうものを一応出すから待ってくれといって三階に上がった。
----皆をニューグランドに退避させることにした。
僕の部屋は四階にあったが一番後から僕が下りようとすると兵隊が上がってきた。
その間を抜けて面に出たが 暫くすると三々五々兵隊が社内から外に出て来る。
彼等はトラックに乗って行ってしまった。
それから早速僕は社の階段を駈け上って見ると電話の机の上には決起趣意書が貼りつけてあった 」
( 文春 特ダネ読本 )
こんな情景で朝日新聞社の襲撃といってもたいしたことはなかったが、
社員の総退出のあと、どっと闖入 ちんにゅう した兵隊たちは印刷局におどりこんで
活字ケースを片端しから ひっくりかえし 一時間ばかりで引きあげた。
これがため朝日新聞は一時その発行を不能にされた。

朝日新聞社を襲った彼らは 更に東京日日新聞、時事、国民、報知の各社、
電報通信社を回って蹶起趣意書の掲載を要求して引きあげた。
ここで注意すべきことは、なぜ朝日新聞社だけがこんな被害をうけたかということである。
それは当時の朝日新聞が最も自由主義的色彩がつよく、
反軍的でつねに陸軍の政治態度、革新態度に批判的であったから、
青年将校の憤激を買っていたからである。

大谷啓二郎著 二・二六事件  から


朝日新聞社襲撃

2019年09月14日 21時09分46秒 | 栗原部隊

間もなく正面玄関に四斗樽が運びこまれ、全員で乾杯し成功を祝った。
私は酒が入ったため、昨夜からの不眠がたたり忽ち寝こんでしまった。
どの位眠ったか、いきなり起されて、出勤だから支度せよといわれた。
急いで、分隊を掌握して外に出るとそこに乗用車とトラックが二輌きていた。

準備が完了すると我々はトラックに乗車した。
携行した兵器は重機一、軽機二と記憶している。
乗用車には将校が乗った。
栗原中尉、池田少尉の他外部からきた三名の計五名だ。
この時の兵力は約六〇名である。
目標が告げられた。
有楽町の朝日新聞だ。
間もなく出発、雪が降って来た。
車輛は街並をぬって進む。
車上の兵士は無表情である。

午前8時55分頃  東京朝日新聞社 → 日本電報通信社 午前・・頃 → 報知新聞社 午前9時30分
→ 東京日日新聞社 午前9時35分 → 国民新聞社 午前9時40分 → 時事新聞社 午前9時50分

やがてトラックは数寄屋橋のたもとで停止し 私たち分隊は下車、重機をすえて警備につく。
目的地が目の前なので、万一を考慮し交通遮断の挙に出たのである。
主力はそのまま進み 社前で全員が下車、忽ち社屋を包囲した。
将校たちは兵約二〇名をつれて堂々と乗りこんで行った。
私は警備かたがた主力の様子を見守っていると
間もなく上衣とズボンを持った下着姿の社員たちがゾロゾロ出てきて
雪の降る中に一列に並ばされたのを目撃した。
寒さと恐怖で全員ブルブル震えている。
気の毒だが私たちは眺めているばかりだった。
そのうち三階の窓ぎわに兵隊たちがチラチラするのが見えた。
時々手を振って合図している者もいた。
そしてザワザワした音が聞こえてきた。
何をやっているのか判らないが、部屋の中を飛廻っているようだ。
後で聞くと活字ケースを引出して次々にひっくり反してきたという。

こうして朝日新聞社の襲撃は一時間足らずで終了し 再びトラックに乗車した。
帰路、東京日日、時事新聞等報道機関に立寄り
蹶起趣意書を手交し 夕刊に掲載することを要求し首相官邸に引上げた。

歩兵第一聯隊機関銃隊  伍長 栗田良作 著 『 銃撃戦下の首相官邸 』
二・二六事件と郷土兵 から


林八郎少尉 『 尊皇維新軍と大書した幟 』

2019年09月12日 21時29分32秒 | 栗原部隊

林八郎少尉 は、
二六日の午後
倉友音吉上等兵を供に、
銀座の松坂屋に買物に出かけた
蹶起将校たる白襷をかけ
人々の視線の中、颯爽と店内を歩いた
林少尉は、
晒布、墨汁、筆 を購入し、
首相官邸に帰ると
「 尊皇維新軍 」
と、大書した幟を作って、
高々と掲げたのである 


「 今 首相官邸が襲われている。軍隊が襲っている!」

2019年09月10日 20時41分06秒 | 栗原部隊

昭和十一年二月二十六日早朝、
東京日日新聞 ( 現・毎日新聞 ) の宿直部屋の電話が、けたたましい音を発して、ベルを鳴らした。
「 今 首相官邸が襲われている。軍隊が襲っている!」
すごく早口の、カスレて興奮した声。
やっと聞き取れるくらいで、問い返す暇もなく電話は切れてしまった。
腕時計の針は四時半を過ぎていた。
身支度をして一番早く社を飛び出したのは、写真部の白井と社会部の鈴木だった。
両人の乗った車は雪がやんで一面銀世界の日比谷交叉点を過ぎ、堀端に沿って社旗をはためかせて走って行った。
すると警視庁の前あたりだったろうか。
十人ばかりの兵隊が銃剣のついた銃を小脇にかまえて人垣をなしていた。
何くわぬ恰好で 「 新聞社だ!」 と 怒鳴って通り抜けようとしたがダメだった。
「 止まれ!」
ピストルをかざした軍曹らしい兵隊が車のそばへ来て、
「 新聞社もクソもない!帰れ 」
その目を見るとすごく真剣だった。
ここで初めて 「 大事件 」 の恐怖の一端を感じた。
鈴木、白井 ともども、異様な雰囲気から、
「 これは大変だ。革命だ 」
と すぐに車をUターンさせて帰社。
軍の蜂起による大官殺害の悲報は相次いで入り、社内は騒然としていた 。

白井写真部員に次いで、中村写真部員が単独で社を飛び出した。
その時は警視庁前には兵隊がいなかったので、霞ヶ関を回って永田町の首相官邸に近づいて車を降りた。
≪ 首相官邸 ≫
目の前にいた歩哨に 「 えらい人に会わせてくれ 」 という。
すると その歩哨は中村のうしろから、銃剣を突き付けながら案内してくれた。
官邸の中にいたのは後でわかったことだが、栗原中尉、安藤大尉、野中大尉だった。
中村は気さくな性質から、
緊張した雰囲気の中で 「 タバコを切らしたので、一本いただけませんか 」

と、野中大尉に申し出た。
すると野中がゴールデンバットを出したので、
中村は 「 チェリーを吸いつけているので、チェリーがありましたら 」

というと、野中は 「 栗原!」 と 彼を呼んだ。
すると栗原中尉が来て、ポケットからチェリーを出してくれた。
そのタバコを吸いながら、官邸の前庭で将兵と一緒に焚火にあたっていると、
「 これから陸相官邸に行くから自動車を貸せ。お前案内しろ 」 という。
同乗して走行中に栗原はポケットから新聞の切り抜きを出し、
岡田首相の新聞写真を見せて、

「 今、これを殺してきた 」
と いった。

陸相官邸へ行くと、
ちょうど撃たれた将校 ( 片倉少佐?) が運び出されるところだった。

陸相官邸から警視庁を回って首相官邸へ帰ると、栗原が 「 記事を書け 」 という。
中村は 「 それより君たちが各新聞社を回ったらどうだ 」 と
いって、官邸の外に待たせてあった社の車に乗って、逃げる様にして社へ帰った。


 
銃剣下で撮影
この日が夕刊勤務だったので社へは十時出勤。
九時二十分頃 渋谷から東京駅行きのバスに乗った。
虎ノ門からバスは左折して霞ヶ関へ来ると、
外務省と内務省の間の道路に沿って、剣つきの銃を小脇にかまえた兵隊が二メートル間隔に並んで、交通を遮断している。
バスは仕方なく右折して桜田門通りに出て、堀端を右折して有楽町へ出た。
陸軍の演習にしてはおかしいと思いながら、社の編集局へ入ると大変な騒ぎだ。
「 青年将校が叛乱を起した 」 「 首相が殺された 」 という。
「 新聞はいつ出るかわからない 」 と編集局の空気は異様だ。
しかし遅かれ早かれ新聞が出るとき、叛乱軍の実態を撮っておこうと写真部を出ようとすると、
「 弾丸たまの入った鉄砲を持っているんだぞ。無茶をするなよ!」
と、デスクの声が響いた。

警視庁が占拠されているというので行ってみた。
正面入口にはだれもいない。
勝手知った階段を上がって最上階の廊下から、こっそりと中庭をのぞいてみた。
約四百人、叉銃さじゅうした一団の兵士もいれば、重機関銃に弾薬箱も見える。
そっと窓ガラスを上げてカメラのレンズを出し、それらの状況を四枚、五枚と場所を変えて撮った。
不思議なことに警察官の姿は見えなかった。

二十九日の夕方だった。
溜池から六本木へ、そして原隊へ帰る叛乱軍の一隊が、福吉町あたりを行進していた。
銃を肩に歩いて行く姿を見ると、軍靴が重く引きずられるようだ。
敗残兵のような寂しげな姿が印象的だった。

毎日新聞写真部員  佐藤振寿
『 戒厳令下の四日間 』
決定版  昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年  7  から


林八郎少尉 「 中は俺がやる 」

2019年09月06日 21時36分22秒 | 栗原部隊

官邸の中の様子を見ようと、私は玄関から中に入っていった。
中は暗く、所々兵隊らしい者の歩く足音がした。
私は不意の襲撃に備えて拳銃を構えながら、静かに進んでいった。
玄関横の警官の部屋と思われる部屋には、
裏門の方に向けて低い窓が作られてあって、そこに枕が二つ並んでいた。
先程 討入の時、撃たれたのは此処からだと判った。
廊下を進み、部屋を一つ一つ見てまわった。
二、三回、兵と顔を合せた。
私が再び玄関に戻ってくると、林とばったり出合った。
林は私に
「 貴様は外部をしっかり固めていてくれ。中は俺がやる 」
と 言って中へ入っていった。


 頭脳明晰であると共に
 
「 五尺の小身これ胆 」 と称されし同期生随一の豪傑
   リンク→憲兵・青柳利之軍曹 「 駆けつける 」

林は
私と日本間の玄関で会った後、
屋内に入り、
抜刀して暗い廊下を進み、
電話室か浴室の前あたりに来たとき、矢庭に警官に後から組みつかれた。
ややもみ合っているうちに腰を落して、
左手で警官の襟を掴んで背負い投げをし、
右手の軍刀で斬った。
さらに、
もう一人の警官が身体をひるがえして離れようとする所を、
突きの一手を以て倒したという。
その時、近くの中庭に人がいるという報告を受け、
どうしますかとの問いに、
林は即座に射撃を命じた。
この中庭で撃たれた老人が、
首相の義弟で秘書をしている松尾陸軍大佐で、
後刻、岡田首相と誤認せられた方である。

・・・挿入・・・
「ようやくあたりが明るくなってきた。
もう六時かも知れぬ。
私たちはその後日本間の廊下附近で警戒にあたっていたが、
そこへ林少尉がやってきた。
するとその背後から警官が近ずいてきた。
私はどうするのかと見ていると
警官がいきなり林少尉に飛びつき羽がい締めをかけた。
少尉は不意の攻撃に面喰い懸命に振りほどこうともがいたが、
警官の体は一向に離れる様子がみえない。
少尉は顔を青くしてワメいたが数秒沈黙した後 背負投げを打った。
技は見事に決まり、
警官の体が ドウ と 前にノメリ 一本決まったかと思った時
警官はスックと立上がった。
相手もその道の達人のようだ。
すると林少尉は
間一髪 軍刀でバサッと袈裟切りを浴びせ 一刀の元に斬倒した。
まことに見事な腕前であった。
後刻十時頃
玄関付近で打合せをしていた林少尉が、
近くの机にもたれて待機していた私たちをみつけてツカツカとやってきて
銘刀長船に刃こぼれを残念だとこぼした。
話によると
警官を斬った時、力があまり障子のレールに刃があたったそうで
刃先が大きくえぐれているのを見せてくれた。」
歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵・森田耕太郎 
   二・二六事件と郷土兵 から

    ・・・○・・・○・・・

林に組み付いた警官は土井清松という柔道四段、剣道二段の猛者で、
林はこれとの果し合いに興奮していたのであろう。
暗がりの中、
何処から警官が現れるかも分らない状況の下で、
相手をよく確かめる余裕もなく 松尾大佐を射たしめてしまったのだ。
生命のぎりぎりの瀬戸際では、冷静な時には考えられぬことが起るものである。
私が屋内を廻って出たのと、
林が再び屋内に入ったのと時間のずれは一分位であったと考える。
まさにこの一分の差で
私と警官が出合うことなく、そして林が乱闘を演ずることになったのだ。
土井、村上の両警官が、首相を一時、浴室に隠している時に私がその前の廊下を通り過ぎ、
しばらくして警官が出て来た時に林とぶつかったのだ。
運命のいたずらと言うべきであろうか。


池田俊彦 著
生きている二・二六  から


栗原中尉の専属運転手

2019年09月04日 04時22分52秒 | 栗原部隊

首相官邸を襲撃
二月二十五日、午後十一時ごろ栗田班長に起され、班員約二、三十名とともに弾薬庫に連れていかれました。
小銃とМG ( 機関銃 ) の 各実弾を銃隊事務所に運び入れましたが、何のためか初年兵の私には知るよしもありません。
班に帰りますと、今晩非常呼集があるといわれ、そのまま就寝しました。
栗原安秀
二十六日午前三時過ぎになって非常呼集がかかり、全員営庭に整列、そこで、弾薬を受取り、
「 尊皇 」 「 討奸 」 の合言葉などの伝達があったのち、出発しました。
行き先は首相官邸です。
隊列は営門を出て六本木を左に折れ、溜池より特許庁わきの坂を登り首相官邸横に止まりました。
午前五時を期して一斉に襲撃です。
私の第一分隊は非常門から進入、日本間近くの庭園に散開しました。
栗田分隊長より 「 班長が撃てとて命令するまでは発砲するな 」 と 言われ、伏せて待ちました。
やがて官邸警備の警官が発砲してきたので撃ち合いとなったのです。
二年兵は庭石の景りポンポン撃っています。
目の前 七、八メートルの所で、拳銃を撃っていた警官が銃弾を受けて倒れ、長い呻き声のあと、亡くなってしまいました。
日本間のほうからは、怒号とともにパチパチと激しい撃ち合いの音がします。
私たち隊員の中にも負傷者が出たもようです。
空が白み始めたころ、銃声も止み、目的達成の連絡がありました。
待ちかまえていた私たちは、ドッと日本間になだれ込み、六、七名の者と力を合せ、
中庭で死んでいる首相の遺体を寝室へ運びました。
頭のほうは重いので何人かで持ち、私は足のほうへまわりました。
首相は大柄なので、ずい分重い人だなと思ったことを覚えています。
運んでいるとき、首相の寝巻きの裾がはだけて下着が見えました。
このとき、ふと、首相ではないような、別人のような気がしました。
この私の勘が的中していたことが、あとになってわかりました。
このとき、当の首相は女中部屋の押し入れの中に隠れ続け、翌日、弔問客にまぎれて脱出したのでした。
しかし、栗原中尉と林少尉が日本間にかけてあった首相の写真と遺体とを見比べ、
間違いなしと言われてその場はすみました。

栗原中尉の専属運転手
その後私は表玄関の警備につきましたが、栗田分隊長の命令で負傷者を若松町の陸軍第一病院へ運ぶことになりました。
今では ほとんどが免許を持っていますが、当時は銃隊では私だけでした。
官邸備え付けの車を借用することとなり、早速車庫に行きました。
キャデラック、パッカード、ナッシュ、ハドソン、エセックスなど運転したことのない外車ばかりです。
その中からまずパッカードを選びました。
病院へ負傷者を運んだところ、軍医が負傷者の銃創を見て 「 どうしたんだ、何かあったのか 」 と 言いました。
私は 「 そのうちにわかるでしょう 」 と 軽く返事をしただけでした。
あわただしく病院と官邸とを四往復して、負傷者の入院を完了させました。
それが終ると、今度は栗原中尉のお供で四日間専属運転手を務めました。
栗原中尉には、教官として演習後講話を受けていました。
国家の現状 ( 東北地方農民の窮状 ) 、相沢事件など常に国政を憂えての精神訓話でした。
中尉は軍人精神の厳しいなかにも温情溢れる、兵隊あこがれの青年将校でしたから、
専属運転手の大役を仰せつかったことは、非常に光栄でした。
行き先は首相官邸、陸相官邸、警視庁、幸楽、山王ホテル、九段の軍人会館、憲兵隊司令部などでした。
いたるところで歩哨線を通過、その際 「 尊皇 」 「 討奸 」 の 合言葉を交わしました。
無理に通ればズドンと一発くるからです。
車は首相官邸のものですから、内閣のマークはついていましたが、蹶起部隊の印はなかったので、
間違えられてズドンとやられるかもしれないと、いつもハラハラしていました。
その緊張が二十九日まで続きました。
出勤してから四日目の二十九日、尊皇義勇軍として活躍したわれわれは反乱軍ということになり、
奉勅命令を受けて武装を解き、原隊に復帰することになったのです。
官邸の広場で栗原中尉の最後の訓示を聞くことになりました。
「 昭和維新は成らず、教官 ( 栗原中尉のこと ) は負けた。
満洲に行っての活躍と、みんなの武運長久を祈る。
今後も教官の意思を継いでくれ 」
この言葉に一同は声をあげて泣きました。
私は特に身近でお仕えしておりましたので、感無量でした。
民百姓の苦しみを救う道は消えた、と 栗原中尉のガックリと肩を落として去っていく後ろ姿を、
私は泣きながらあとを追って見送りました。

この事件を振り返っていつも苦々しく思うことは、われわれ叛乱軍に対する扱いです。
拾ったビラには、原隊に帰れば罪は許されると書いておきながら、
実際は帰隊後、下士官以下全員が取り調べを受け、一部の兵隊を含めた下士官全員は刑務所に送られました。
われわれは放免されたとはいえ、反乱軍の汚名をずっと着せられ続けました。

歩兵第一聯隊機関銃隊 二等兵 横道記武
『 首相の死体に疑問を抱く 』

決定版  昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年  7  から


「 若い男前の将校 」

2019年09月02日 04時18分08秒 | 栗原部隊

総理の写真
私は昭和十一年、
明治時大学英法学部在学中
徴兵によって歩一機関銃隊に入隊した。
その時 二十五歳であった。
私はそれまで 学生運動に参加したため 赤アカの嫌疑をもたれ、
徴兵検査時には憲兵が終始つきまとっていたのを覚えている
  
栗原安秀
一月十日入営した日、
若い男前の将校がきて 我々新兵と父兄を前に置き、
世の中の腐敗振りを痛烈に批判し、
これを改革しなければ 日本は亡びる と 述べた。
堂々たる演説に一同は舌を巻いたが
歩一には随分思切ったことをいう将校がいるものだ と 思った。
それが 栗原中尉で我々の教官となった人であった。
教官としての栗原中尉は 初年兵に対し面倒見がよく、
訓練の方は常に実践的だった。
MG や 小銃の取扱いもさることながら
実弾射撃を早くから始め、
明日からでも戦闘に参加できることを目的に訓練が進められた。
また 代々木にも随分通ったが、
ここでは演習よりも 精神訓話に重点が置かれ、
全員を車座にして その中で
中尉が現代社会の情勢をはじめ、国民の苦しんでいる原因など
熱のこもった口調で話された。
「 このままでよいと思う者・・・・ウム、誰しも不満のようだ、当然である。
では どうすれば世の中がよくなるか、
悪い奴等を葬るのが改革の早道だ。
即ち 天皇の御威光を遮っている連中を取除くことである。
明治維新によって日本は文明国に生れかわることができた。
それと同じように国民全部が幸福になるには昭和維新が行なわれなくてはならない 」
私は教官の話を聞いているうちに、
彼は近いうちに 何かやるのではないかと直感した。

代々木練兵場の往復はいつも師団司令部の前を通った。
当時 司令部の中に軍法会議が特設されていて、
今をときめく 相澤事件の公判が一月二十八日から進められていたのである。
教官はそのことを承知しているので、
正門近くにくると必ず抜刀して号令をかけるのが常であった。
歩調トレー !
相澤中佐殿ニ対シ 敬礼
カシラーツ、左ー !
郡靴の音と共に 中尉の号令が凛然として響く
「 相澤中佐殿 頑張って下さい。栗原達も近くやりますぞ。」
おそらく中尉はそのように 相澤中佐に呼びかけていたのであろう。
果してその声が 法廷に届いたかどうか、
中尉の相澤中佐を想う気持が痛い程 判るような気がした。

日曜日は休日で 用のない者には外出が許可される。
そんな時 栗原中尉は外出者を集めて次のように訓示した。
「 お前たちは天皇の軍隊であり軍人である。
だから 外出中警官に文句をいわれたら ブッとばせ、
連絡あり次第 俺が馬に乗って応援に行く 」
以上のように
栗原中尉の気質や思想は いしつか私達初年兵にしみこみ、信頼を深めていった。
従って 事件への参加は独り将校だけでなく、
下士官兵も気脈をあわせて立ち上がったとしか考えられない。
中尉は我々の入隊時 勅諭など形式的なものは覚えなくてもよい。
それよりも 何日何時でも 天皇の前で潔よく死ぬ覚悟を堅持してもらいたい
と いったが、これこそ真に憂国の至情というものであろう。
栗原中尉という人は
そういう無駄のない赤誠にあふれた青年将校であった。

« 2月25日 »
二十五日の晩、
点呼後 我々は二装用軍服を着て待機するよう命令された。
班長たちはピストルに実弾を込めて張切っているし
何かが始まる気配がヒシヒシと迫っているようだった。
私はフト、ベッドの上で友達の東郷ヒロシ、松津耕平の二人に手紙を書いた。
< 大事件発生、株暴落 >
この手紙は本人に届いたが、その後憲兵によって没収されたそうである。
« 2月26日 »
二十六日 ○三・三〇 非常呼集がかかった。
私はいよいよ始まったなと直感した。
その後大急ぎで仕度をして宿舎に集合した。
ここで実包を一人 六〇発ずつ受領したあと、栗原中尉から訓示を受けたが、
興奮していたためか 何を話されたか覚えていない。
そして 出動先も判らなかった。
その夜 雪は止んでいたが 前日までの残雪で外は明るかった。
四時過ぎ 出発、
営門を出ると隊列は左折し 赤坂方面に向った。
途中私は 鉄道大臣官邸前のポストに手紙を投函した。
やがて三十分もたった頃 首相官邸に通ずる坂道を上って行った。
いつも演習できた道だ。
すると官邸の非常門と思われるあたりから ビービー という非常ベルの音が聴えてきた。
何のための合図なのか不明である。
隊列は官邸を左に見ながら十字路を通過するとみるや、
先頭の栗原中尉が突然戻ってきて 通用門に近づき 警戒していた警官を無言のうちに制圧、
それを合図に 各部隊は持場に散った。
何事ぞ、
襲撃目標は総理大臣だったのである。
私は機関銃の第六分隊で裏門にまわり その付近の警戒にあたったが、
その時 襲撃隊は早くも屋内に入った模様で銃声が聞こえてきた。
しばらく銃声が響き緊張が続いたが 間もなく静かになった。
私は中の様子を見ようと加藤二等兵と共に警戒しながら家屋に近づくと、
栗原中尉が出てきて
「 日本間にある総理の写真を持ってきてくれ 」
と 命令された。
すでに射殺されている総理と照合するためであった。
そこで私は写真をはずし 栗原中尉の所に持って行くと、
中尉は両方の顔を交互に見ていたが、
その結果間違いないという確認を得たので遺体を日本間に移し安置した。

襲撃終了後全員車廻し付近に集合して 四斗樽を抜いて乾杯した。
次いで 私は別働隊となり、
栗原中尉と共にトラックで朝日新聞社の襲撃に出発した。
間もなく数寄屋橋を渡った所で我々MG班が下車、将校と小銃班が現地に向った。
我々は橋のたもとにMGをすえて 一般人の渡橋を遮断した。
警戒中数名の民間人がきて
「 演習ですか 」 と 聞いたので 「 これを見れば判るだろう 」 と いって実弾を見せたが、
彼等はそれでもまだ演習だと思っていたようである。
新聞社の襲撃は一時間足らずで終了した。
我々は再びトラックに乗り 各報道機関を巡回した後 官邸に引揚げた。
その日は寒い一日だった。
歩哨以外は適宜暖をとったが、
正門脇の詰所では戸を閉めて木炭を一俵一度に焚いたため
忽ち一酸化炭素の中毒をおこし 気が狂って発砲する騒ぎまでおこった。
« 2月27日 »
翌日 霊柩車がきて遺体を運び出したので、近くにいた我々は清冽して見送った。
将校たちが忙しく出入し 状況が刻々変ってゆく様子がみえる。
栗原中尉は他所に行ったまま 長時間戻ってこないので、
下士官兵は警備体制のままでノンビリしていた。

その夜私が非常門の歩哨に立ったとき、荒木大将がきた。
私は早速
「 誰カッ!」 と誰何した。
すると相手は、
「 お前は何年兵か 」
と 反問したので
「 初年兵であります 」
というと
「 そうか 立派なものだ 」
と いって帰って行った。
当時歩哨線を通過できるものは
合言葉 「 尊皇--討奸 」 及び 体のどこかに 三銭切手を貼布してある者
と されていたのである。

夜 何時頃だったか、
民間人が大八車に 握り飯を山のように積んで持ってきたことがあった。
「 兵隊さん、これが私共の気持です。ゼヒ たべて下さい 」
その人は 泣きながら そういって握り飯を置いていった。
民衆が我々を味方し援助してくれることは 実に有がたいことだ。
我々の蹶起は民衆も認めているのである。
栗原中尉は坂を下った交叉点付近に出向いて 白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた。
民衆がそれにこたえて盛んに拍手と檄を送っている。
民衆にとって我々の蹶起が当然のことのように受け止めているようであった。
« 2月28日 »

二十八日になると
今までの好ましい情勢が一変し 門前市をなした市民の姿が一人も見えなくなった。
そのうち我々は反乱軍となったことを知らされた。
一体これはどうしたことか。
その夜 私と菱谷は 栗原、林 両教官の当番となった。
私はその時、二人の世話をすることができる光栄にからだが震えた。
そして充分に慰めてあげねばならないと決心した。
そこで身辺の護衛には充分気をつかった。
事態は刻々急迫を告げ 道路の向い側にある露路には いつしか鎮圧軍がつめかけていた。
ここで何かのキッカケがあれば忽ち戦闘に発展することは明かだ。
このため銃隊はすでに覚悟を決め、栗原、林 両教官のために死ぬことを誓い合った。
そして 遺書を書き、最後に刺し違いする戦友まで選定した。
« 2月29日 »
明けて二十九日、
戦闘に備えて官邸内に銃座を作り、
我々 MG は 門外において特許局の方から上ってくる鎮圧軍を阻止するように陣地を構えた。
その時 私は射手であった。
私の両側に菱谷と井口が付添い、すぐ後に池田少尉が指揮官として位置した。
「 金子、俺が命令するまで絶対撃ってはいかんぞ、いいか撃つなよ 」
池田少尉は神経をピリピリさせながら私にそういった。
ここで万一 私の親ユビが押鉄を圧したら取返しのつかぬことになるであろう。
緊張が続く。
そのうち二階で 一発銃声が鳴った。
初年兵が緊張のあまり暴発とたらしい。

明るくなった時 戦車がやって来た。
そして目前 十米位いの所で停止した。
飛行機もきた。
盛んにビラをまき、地上ではスピーカーがボリュームをあげ、
繰返し 繰返し 原隊復帰を呼びかけてきた。
「 逆賊とは何たるいい草だ。
我々の蹶起は陛下がお認め下さっているのだ。
今更戒厳司令官の命令など 以ての外だ。
フザケるな。」
中尉はそう云って 詩吟を口ずさんだという。

九時頃突如 栗原中尉が命令を下した。
「 全員撤収 ! 」
遂に最悪事態が到来した。
我々 MG班は陣地を撤去して中に入り、全部の門扉を閉じた。
すると鎮圧軍がいっきょに門前に殺到してきた。
その中にヒゲをつけた少佐参謀がいて 大声で叫びはじめた。
「 ヤメロッ ! 天皇の命令だ。撃つな、たのむ ! 」
彼は 我々が邸内で戦闘をはじめると思ったらしい。
参謀の声が我々の耳に入るたび ムッ となった。
「 天皇の命令がいつ出たのか、そのような命令は一切聴いてはおらん。この野郎ふざけるな 」
とうとう 一部の物が門扉をあけて着剣で飛出した。
すると相手はワッと後退し逃げた。
再び邸内に入って門を閉ざす。
そんなことを何回か繰返した後、徐に銃を置いた。
やがて全員は庭に集合し中尉から訓示をきいた。
その要旨は次のようだった。
「 七度 生れかわって国の為に尽す覚悟、皆も余の意志を継いで奉公されたい 」
中尉は自殺するつもりのようだ
そう察知した我々は中尉を抱きかかえて屋内につれて行った。
そしたら死ぬなら一緒にと皆 男泣きに泣いた。
すると中尉は、
「 俺は自殺などせんぞ、これから軍法会議に出廷して所信を天下に問うつもりだ 」
と いって 自殺を否定した。
やがて栗原中尉の万歳を唱え終ると
下士官以上の幹部は参謀の導きによって自動車で官邸を去っていった。
それから間もなく我々は憲兵によって武装を解かれ、
待機しててたトラックで近歩一に送り込まれた。

歩兵第一聯隊機関銃隊  二等兵 金子良雄 著 『 総理の写真 』
二・二六事件と郷土兵 から