あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」

2020年06月29日 04時39分39秒 | 説得と鎭壓

やがて鉄格子のある囚人護送車に乗せられて、真暗な闇の中を走り続けた。
そして代々木の衛戍刑務所に到着した。
狭い事務室のような部屋に一同入れられ、そこで皆 軍服を脱いで浅黄色の囚人服を着せられた。
栗原さんや 澁川さんが、
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」
と 言って皆を励ました。
寒々とした暗い光の中に、なにか温かい心のつながりがあった。
一人一人、薄暗く冷たい監房の中に入れられたとき、
全く別世界に来てしまった違和感が全身を走った。
しかし、与えられた毛布をかけて横たわると 連日の疲れですぐ眠りに就いた。
・・・池田俊彦 著  生きている二・二六   から

昭和十一年二月二十九日夕刻、
陸軍大臣官邸において、自決を断念した蹶起の将校
( 野中四郎大尉、河野寿大尉を除き )、
村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄、栗原安秀、中橋基明、竹嶌繼夫、
丹生誠忠、坂井直、高橋太郎、中島莞爾、林八郎、田中勝、安田優
外将校五名 ( 池田俊彦、常盤稔、清原康平、鈴木金次郎、麥屋清濟 ) と、
民間人 澁川善助らが憲兵に護送されて入所した。
何しろ突然の入所で、
一時に多数であるので、平常のように正規の入所扱いも完全にできなかった。
そこで取りあえず゛、
一時 一同を事務室広間に雑居させて
氏名点検、
勾留状の対照等を済ませ、
ついでに身体検査、健康診断などを行い、
全員独居拘禁に付したのである。
そのときの一同の様子は、
連日連夜の激烈なる行動と、心身の異常な駆使とで、相当の疲労の色を見せていた。
しかし 心の中では煮え返るような興奮を押さえているのであろう。
無気味な顔つきで黙して語らなかった。
したがって静粛というよりは、むしろ凄惨の状を呈していた。
やがて 人員点検など一通り済み、
入房に先立ち、
村中、磯部の両名は十一月事件に入所して、今回は再度の入所のためか、謝辞など述べていた。
村中は前の出所のとき、
「 親切であると思った病院が案外不親切で、冷淡だと思っていた刑務所が、
 かえって親切であるのに驚いた。 私の病気 ( 腸炎 ) は病院で癒らないのに、刑務所で癒った 」
と 感謝して出たのであったが、
このことをこんな場合に平気で、緊張した一同の前で喋り出した。
要するに 入所については心配ないという意味を、一同の前に暗示したようにも聞こえた。
また 磯部は、十一月事件で入所する半月程前にも、私のところに面会にきたことがある。
別に用件もなく 数分の雑談で退去したが、
刑務所の警戒や取り扱い振りでも探索にきたのかも知れないと想像した。
このように 両人だけはすでに知っていたので、比較的落ちつきを見せていたが、
他はいずれも不機嫌な態度で沈黙を続けていた。
だが異常の沈黙は、かえって警戒に油断はならないと思わせた。
当時はまた外の警備もなく、内の監視も手薄であった。
あの陸相官邸で反乱軍の汚名を冠せられたとき激化したその感情、
憤邁激昂の余炎が再燃したら、
などと懸念したのだが、
想像に反し、平穏に規律が保たれ、
入所を完了したことは、まことに好都合であった。
負傷して入ってきた安藤と安田の傷痍はたいしたことはなかった。
以上の人員外の反乱被告人は、軍法会議の検察審理の進行に従い、逐次入所したのである。

・・当時東京陸軍刑務所長・塚本定吉
二・二六事件、軍獄秘話 から


兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」

2020年06月28日 04時34分24秒 | 説得と鎭壓

今からでも遅くない
野中大尉は村中とともに新議事堂前に部隊の集結を待っていた。
そこへ、栗原中尉が急ぎ足でツカツカとやって来た。
ちょっと遅れて坂井中尉も来た。
栗原は決然と、
兵をかえしましょう。
これ以上の抵抗は無駄です。兵を殺してはなりません
そうです、兵を返しましょう
坂井も同調した。
これで大勢はきまった。
奉勅命令が出たことがはっきりした以上、これに従わなければならない。
これは彼らの信念だった。
栗原も坂井も急いで部隊の位置にかえって行った。
だが、一方、首相官邸に一人とり残された磯部は、
あたりの騒音を身にうけながら、なお考えこんでいた。
彼はどうしても降伏する気になれないのだ。
部隊将校が勇気を振って一戦する決心をとってくれないのが、残念でならない、
なんとか、この転機を策する工夫はないものかと、じっと考え込んでいた。
空には飛行機がブンブン飛んでビラをまいている。
下士官はそれを拾って、手から手に、口から耳へと伝えて行く。
この兵隊たちの様子をじっと見ていた磯部は
「もう、これで駄目かな」
と 思ったが、
強気一徹の彼は、なおも、
もう一度、部隊の勇気を鼓舞してみようと首相官邸を出て行った。

磯部が官邸を出た、ちょうどそのあとに攻囲部隊が戦車を先頭に押しよせてきた。
首相官邸には栗原もほかの将校もいなかった。
下士官が指揮をとって応戦準備をととのえ、
門内一歩も討伐隊を入れまいと邸内要所に機関銃を据え、
まさに撃ち合いをはじめようとしていた。
このとき、新議事堂から帰ってきた栗原は、
「射ってはならんぞ!」
と はげしく叱りつけて事なきを得た。
まさに流血の危機であった。

磯部は同志将校の一戦を念じながら 重い足を運んで文相官邸まで引き返してきた。
だが、そこで彼の見たものはなんだったか。
官邸前にはすでに戦車が進入して攻撃部隊の兵隊で一杯だった。
しかも、常盤、鈴木の部隊は全く戦意を失って、ただ呆然としているではないか。
磯部はこの情勢の急変に唖然とした。
彼が首相官邸に行っている間に、歩三の大隊長が戦車の進出とともに説得に来た。
常盤も鈴木も上官の前には言葉はなかったのだ。
磯部はこの時の状況を、こう遺書している。
「 余が栗原と連絡中に歩三の大隊長が常盤、鈴木少尉および下士官兵を説得にきた。
この説得使と前後して戦車が進出する。
だから、まるで戦争にならない。
なんといっても自己の聯隊の大隊長だ。
その大隊長が常盤、鈴木少尉、下士官兵に十二分の同情を表わしつつ説得するのだ、
斬り合い射ち合いが始まる道理がない 」 (「行動記」)
その頃、
ラジオはアナウンサーの情感をこめた声で、なお、しきりに呼びかけていた。
勅命が發せられたのである。
すでに天皇陛下のご命令が發せられたのである。
お前たちは上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、
誠心誠意活動してきたのだろうが、
すでに天皇陛下のご命令によって
お前たちは 皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。
この上、お前たちがあくまでも抵抗したならばそれは勅命に反抗することになり、
逆賊とならなければならない。
正しいことをしていると信じていたのに、それが間違っておったと知ったならば、
いたずらにいままでの行きがかりや 義理上から
いつまでも反抗的態度をとって天皇陛下に叛き奉り、
逆賊として汚名を永久にうけるようなことがあってはならない。
今からでも決して遅くないから、
直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸するようにせよ、
そうしたら今までの罪も許されるのである。
お前たちの父兄はもちろんのこと、國民全體もそれを心から祈っているのである。
速やかに現在の位置を棄てて歸って來い。
戒嚴司令官 香椎中将

このアナウンサーの声涙ともに下る
「兵に告ぐ」 の 切々たる言葉は、
さすがに若い兵隊たちの肺腑をつくものがあった。
磯部は
「 これではもう駄目かな 」
と 観念しながら、
道をかえてドイツ大使館前に出た。
そこでは坂井中尉が憤然とした面持ちで、
「 なにも言ってくださるな、わたしは下士官兵をかえします 」
と 吐き出すようにいった。
そして迎えにきている大隊長や新井中尉と感激的な握手をかわしている。
磯部はよろめく足どりで溜池の方へ向かった。

大谷敬二郎  二・二六事件  から 


村中孝次 「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」

2020年06月27日 04時21分23秒 | 説得と鎭壓

深夜にこだまする奉勅命令
二十八日午後より夜にかけては必死の説得がつづけられていた。
だが、彼らは頑としてこれをうけつけなかった。
兵隊たちはいきりたった将校や下士官の気合に支えられ、
決死の覚悟で前面の包囲軍と相対峙し、その志気はいやが上にもたかぶっていた。

その夜
幸楽や山王ホテルにはこんなビラが貼られていた。
尊皇討奸ノ義軍ハ如何ナル大軍モ兵器モ恐レルモノデナイ。
又 如何ナル邪智策謀ヲモ明鏡ニヨッテ照破スル。
皇軍ノ名ノツク軍隊ガ我ガ義軍ヲ討テル道理ガナイ。
大御心ヲ奉戴セル軍隊ハ我ガ義軍ニ對シテ
全然同意同感シ、我ガ義軍ヲ激励シツツアル。
全國軍隊ハ各地ニ蹶起セントシ、全國民ハ萬歳ヲ絶叫シツツアル。
八百萬ノ神々モ我ガ至誠ニ感應シ加護ヲ垂レ給ウ。
至誠ハ天聽ニ達ス、
義軍ハアクマデ死生ヲ共ニシ昭和維新ノ天岩戸開キヲ待ツノミ。
進メ進メ、一歩モ退クナ、
一ニ勇敢、二ニ勇敢、三ニ勇敢、
以テ聖業ヲ翼賛シ奉レ
昭和十一年二月二八日    維新義軍


陸将官邸にあった蹶起部隊首脳が

部隊の志気を鼓舞するために、この夜ガリ版ずりのこのビラを配ったものであった。

この間にあつても包囲軍の説得使は、
彼らの抵抗にも屈せずなお執拗にその帰順をうながしていた。
なかでも、その夜の山王ホテル前における桜井徳太郎少佐の説得は悲壮なものだった。
桜井少佐は歩兵学校戦術教官だったが、
第一師団増加参謀として臨時に師団に配備せられていたのである。
福吉町の警備についていた歩三新井中尉のところに一台の自動車がすべり込んだ。
桜井少佐である。もう一人の大尉を連れている。
彼は新井中尉に大隊本部の所在をたずねた。
新井が大体本部に案内すると、
桜井少佐は、
「 実は、本物の奉勅命令
を持って来たのです。
兵隊たちは何も知らないのですから、今からこれを見せに行こうと思うのですが、
大隊長の意見はどうですか 」
「 異論はありません、むしろ、こちらから希望するところです 」
新井は桜井少佐の案内役を引きうけた。
そして最初の目標、山王ホテルに向かった。
ホテルの前で車を降り まず新井が歩哨に近づいて、
「 新井中尉が、写しでないホンモノの奉勅命令を持った方をお連れしたから、
将校の誰かに来るように伝えてくれ、できれば、丹生中尉が自分で出て来るように 」
兵は ホテルに駈け出した。
だが、その返事は拒否であった。
「 中隊長命令! その必要なし 」
と 伝令は大きな声で叫んだ。
新井は丹生と同期生だった。
その丹生の態度に心の煮えかえるのを抑えていた。
丹生部隊の兵隊たちが剣付鉄砲で取りまくように見守っている。
桜井少佐は
「仕方がない」 と 吐き出すようにつぶやいたが、
一段と声をはりあげ、
「 それでは、ここにいるものはみんな聞け、奉勅命令が出ているんだ。
早くここを引きあげて兵営へかえれという奉勅命令が出ているんだ。
これをきかなければみんな陛下のご命令にそむく逆賊として討伐される。
しかし攻撃開始前に兵営にかえれば逆賊ではない。いいか、よく聞け ! 」
少佐はうやうやしく奉勅命令を取り出して姿勢を正した。
随行の大尉は少佐の左にならび、新井はその少し左後方に不動の姿勢で立った。
狙いうちには絶対のチャンス、またとないよい目標である。
この危険に身をさらしながら少佐は街灯のうす明りの下で厳粛に読み上げた。
戒嚴司令官は 三宅坂附近を占拠しある將校以下をもって
速やかに現姿勢を撤退し各所属部隊長の隷下に歸帰せしむべし。
勅を奉ず、參謀總長  戴仁親王
一語一語、
ゆっくり読みあげる少佐の声は山王ホテル附近の夜のしじまにひびきわたった。
だが、山王ホテルではなんの反響も示さなかった。
・・・新井勲 「日本を震撼した四日間」 による

その頃、第一、近衛師団ではその攻撃命令はすでにその末端にまで伝達されていた。
攻撃開始は別命するとあるが、明朝午前五時が予定されている。
もう、あと数時間もすればお互いが血を流しあわなければならない。
反乱部隊を目の前にして、今やこれを攻撃しなければならない第一線の将兵にも憂色はあった。
事の是非善悪は別としても、昨日までの戦友を討つことは耐えがたい苦しいことだった。
皇軍同志が打ち合いすることは、いくら上官に命令されても出来ないことだと洩らす将校もいた。
討たれるものはいさぎよく真白い雪に血を染める覚悟はしているが、
 討つものは、この流血に心は動揺し、うちに、ためらいを感じていた。

死戦か屈服か
その夜 坂井直中尉とともに陸軍省附近にあった高橋太郎少尉の一隊は、
包囲軍がいよいよわれわれを攻撃すると聞いて、
その愛する兵隊たちと一緒に警備線上に死ぬことを誓った。
部隊を宮城の方角に向けて整列せしめ、
厳粛に 「捧げ銃」 の部隊礼を行って一同、この維新戦線に倒れるのを覚悟を新たにした。
だが、死戦を誓った若い将校にも懐疑はあった。
この夜半より農相官邸で出て半蔵門附近を守備していた歩三の清原少尉は、
攻囲軍が着々その準備を進めている状況を眺めて思い悩んだ。
二十六日以来大臣告示に感激し 戒厳令で麹町地区警備隊となって
維新の来るまで占拠をつづけようとしているが、状況は全くわれわれに不利である。
幹部たちは どうかんがえているかわからないが、
連れてきた兵隊たちは自分の責任で解決をつけねばならない。
明け方近くなると、青山の方角からスピーカーの音が聞こえてくる。
よくわからないが、
「 勅命が下った、今からでもおそくない、すぐ原隊にかえれ 」
と いうことをくり返し言っているようだ。
勅命が下ったのが本当だとすると一大事である。
すべては水の泡だ。
清原はここまで考えてくると幹部の意見を求めるため幸楽に走った。
来て見るとみんな山王ホテルに移っていた。
さらに山王ホテルに足をのばすと、
そこでは安藤中隊の兵隊たちが元気よく軍歌をうたって景気をつけているが、
電車線路をへだてた向側には攻囲軍が厳重に対峙している。
勅命は下ったのですか
いや、そんなことはない、あれは謀略だ
攻囲軍はドンドン攻撃準備をしているようですが
そんな心配するな、皇軍が相撃つなどということは絶対にない。
このまま時をかせいでいるうちに維新はできて行くのだ
それでも兵隊はどうします
下士官も兵に最後まで頑張るのだ !

清原は納得のゆかぬままに山王ホテルを出た。
一人でトボトボ溜池の坂を上ろうとしていると、
白みかけた電車道をかけ足で居って来る人がある、振りかえると見知らぬ少佐の人だった。
「 勅命が下ったのだ、逆賊になってくれるな、すぐに原隊にかえってくれ 」
と 手を握りしめて、ボロボロ泣き出した。
清原もわけもなく泣けてきた。
「 安心して下さい、兵隊は返します 」
急いで彼は自分の部署にもどった。
そして、兵隊たちとともに雪の上で朝食の乾パンをかじった。
頭上を飛行機が飛んでビラをまく、
兵隊たちはヒラヒラと落ちて行くビラを見つめているが拾おうともしなかった。
午前九時頃、一台の戦車が突進してきた。
清原部隊は、サッと機銃を構えてこれに応ずる。
戦車はとまって中から藤吉少尉が飛びおりて来た。
藤吉は清原の同期である。
「 おい! 勅命が下ったぞ! 」
「 ほんとうか 」
「 うん、武装解除を開始したところだ、捕虜にならんよう早く原隊にかえれ 」
いうだけ言うと藤吉は行ってしまった。
清原の決心はきまった。
歩哨を撤して全員を陣地から堀端に集合せしめた。
原隊帰還の勅命が下ったようであるから中隊は只今から勅命を奉じて聯隊にかえる
ついては天皇陛下に対し奉り至誠奉公を誓って宮城を遙拝する
捧げ銃 !

朝の静かな しじまを破って
君が代のラッパは朗々と半蔵門から三宅坂にいたるお堀端にひびきわたっていた。
 ( 本項 「 清原手記」  による )
こうして帰順の動きは出はじめたが、なお、各所に反乱軍は攻囲軍と対抗していた。

磯部は二十八日夜は農相官邸で仮眠していたが、夜中の三時頃鈴木少尉にたたきおこされた。
鈴木少尉は興奮の色を現わしながら、
磯部さん、すぐおきて下さい。
奉勅命令が下ったらしいですよ、ラジオがさかんに放送しているんですが。
なに、奉勅命令が出た?
跳ねおきた磯部は表にとび出した。
じっと耳をすまして青山の方向に注意を向けた。
 たしかに何か放送しているらしいが、はっきり聞きとれない。
ちょうど、そこへ下士官がとんできて
「歩哨線の附近に斥候らしい者が現れましたが、すぐ引き返しました」 と 報告した。
磯部は攻囲軍が攻撃してくる兆候かなと思って見たが、
「なあに、いくさになるものか」 と 独りぎめして、また自室に戻ってきた。
彼も安藤と同じように、いくら攻囲軍が押し寄せてきても、断じて撃ち合いにはならないとたかをくくっていたのだ。
だんだん夜が明けて来た。
磯部のところには、奉勅命令が下って攻囲軍がいよいよ攻撃してくるとの報告がひんびんと入ってきた。
前面の各所から戦車のごう音が聞こえてくる。
下士官兵の間にははげしい動揺の色が見える。
近づく戦車には、
「謹ンデ勅命ニ従イ武器ヲ捨テテ我方ニ来レ、惑ワズ直グ来レ」
と大書した紙をはりつけている。
そして、 そのごう音とともに、さかんに 「下士官兵ニ告グ」 というビラをまき散らす。
磯部はこんな状態を見ても、なお合点がいかないのだ。
昨日来のいわゆる奉勅命令がわれわれには未だ下達されていない。
だから、それがどうした内容のものかもわからない。
軍が奉勅命令によってわれわれを攻撃するというのが本当なら、
その奉勅命令は賊徒討伐の勅命であるはずだ。
われわれは戒厳部隊にあって依然警備の任にある、賊徒ではない。
それを攻撃するということは腑におちない 

こうした磯部の考えも無理からぬことだった。
彼らは依然小藤部隊として警備に任じ、その任務は解除されていなかったのだ。
戒厳司令官は小藤大佐の指揮は解いたが、これは彼らに知らされなかったのである。
だから、彼らが当面の攻撃に考え込むのも無理のないことだった。
ひどい指揮上の失態だといえる。

こんなことを考えていた磯部は、
思い余って一応同志と連絡して彼らの意見を聞いて見ようと、栗原のいる首相官邸に走った。
栗原は憔悴した顔で沈痛に考えこんでいた。
オイ、どうしたことになったのだ、ぼくにはわからない
奉勅命令が下ったようですね、どうしたらよいでしょう
やつぱり奉勅命令が出たというのは、本当なのか
下士官兵は一緒に死ぬといっいます。
自分たちを助けるために弱気をおこしてくれぬなと諫めてくれる下士官もいます。
しかし彼らを一緒に殺すことは可哀想でしてね、
どうせ、こんな十重二十重に包囲されてしまっては戦をしたところで勝目はないでしょう

磯部は栗原のこの悲痛な言葉にうなだれて聞き入っていた。
どうでしょう、下士官
が死んでも残された下士官によって第二革命ができるのではないでしょうか。
それに実をいうと、中橋兵隊は帰隊させましょう
そしたら、われわれ部隊の兵が昨夜から今朝にかけて逃げかえってしまったのです
の上他の部隊からもどんどん逃走するものが出たら、それこそ革命党の恥辱ですよ。

中橋部隊というのは近歩三の出動部隊である。
六十名ばかりの兵隊は二十八日の夜暗にまぎれて脱出したが、
逃げおくれた八人は引きとめられて一晩拘留されたが、
今朝方になってこれも逃げかえってしまったのだ。
磯部は実力部隊の中心だった栗原が状況ゆむなく戦闘を断念するという以上、
兵力を持たない自分がいくら強いことをいって見たところでどうにもならない。
残念なことだが致し方がないと思った。しかし彼はまだ降伏する気はなかった。
やっと重い口を開いて、
「 しかし、それは同志将校全部の生死にかかる重大問題だから、君ひとりで事をきめてしまってはいかんだろう 」
「 そうです、これから部隊本部にいって、村中さんや野中さんに会ってきましょう 」
栗原はそういうと一人で官邸を出て行った。

29日の誤認記事写真

村中は今朝未明 野中部隊と一緒に新議事堂に移っていた。
まだ夜は明けきっていないのに、遠くに拡声機をもって何事か放送しているのがわかる。
じっと耳をすまして聞くがよく聞き取れない。
しかし確か奉勅命令という言葉が二度ほど聞き取れた。
奉勅命令というところを見ると、一昨日の奉勅命令が下ったのではあるまいか、
すると軍はいよいよ奉勅命令をもって、われわれを討伐するのだろう。
彼の心のうちは悲憤に煮えくりかえって 思わず涙が頬を伝わってきた。
八時頃になると飛行機から 宣伝のビラがまかれ、議事堂附近にもヒラヒラと舞いおりる。
兵の拾ったものを見ると、
下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スルモノハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日  戒厳司令部
それは明かに下士官兵に帰営をすすめているものだった。
村中は、野中と話合って 兵を返すことにした。
野中大尉は部隊の集合を命じた。
傍らにいた 一下士官は、
「 中隊長殿、兵隊を集合してどうするのですか、
我々を帰すのではないでしょうね 」
と 泣きながら訴えた。
「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」
村中は、よこから、こう諭した。
下士官は、
「 残念です。私は死んでもかえりません 」
と、その場に号泣した。

次頁 兵に告ぐ 「 今からでも決して遅くない 」  に 続く
大谷敬二郎  二・二六事件  から 


「 斷乎、反徒の鎭壓を期す 」

2020年06月26日 04時28分02秒 | 説得と鎭壓


死の都東京

事件勃發以來四日目、
初めて晴れた二十九日早朝五時半、
戒嚴司令部は戒嚴區域内の一切の交通を停止した。
東海道線は列車は横浜、省電は川崎、東北線方面の列車は大宮、電車は川口、
中央線は列車は八王子、電車は吉祥寺までとし、市外との通話も禁止した。
こうして大東京は一切の活動を停止した。
市街は門戸をとざして人の通行さえまばせである。
午前六時二十分、
遂に勅命に抗した反亂部隊として武力鎭壓の旨がラジオを通じて發表され、
市民の暁眠を破った。

「 本職はさらに戒嚴令第十四條全部を適用し、
 斷乎、帝都麹町區附近において騒擾を起こしたる反徒の鎭壓を期す。
しかれども、その地域は狭少にして波及大ならざるべきを豫想するをもって、
官民一般は前告諭に示す兵力出動の目的を克く理解し、特に平靜なるを要す。
昭和十一年二月二十九日  戒嚴司令官  香椎浩平

すべての報道機關が停止されている中に、
ラジオが次々と重要報道を傳えて全國民に急迫した情勢の推移を傳えていた。
ついで戒嚴司令官は武力鎭定のやむを得ざるに至ったいきさつを發表して、
市民の強力を求めた。

「 戒嚴司令部發表第四號六時二十五分。
二月二十六日朝 蹶起せる部隊に對してはおのおの その固有の所屬に復歸することを
各上官よりあらゆる手段を盡し 誠意をもって再三再四説論したるも、
彼らはついにこれを聽き入らるに至らず。
そもそも、蹶起部隊に對する措置のため時日の遷延をあえて辭せざりし所以のものは
もしこれが鎭壓のため鞏硬手段をとるにおいては、流血の惨事あるいは免るゝ能わず、
不幸、かかる情勢を招來するにおいては、
その被彈地域は畏くも宮城をはじめ、皇王族邸におよび奉るおそれもあり、
かつ、その地域内には外國公館の存在するあり、
かかる情勢に導くことは極力これを回避せざるべからざるのみならず、
皇軍互いに相撃つがごときは皇國精神上誠に忍びえざるものありしに因るなり。
しかれども、いたずらに時日のみを遷延せしめて、しかも治安維持の確保を見ざるは、
まことに恐懼に堪えざるところなるをもって、
上奏の上勅を奉じ現姿勢を徹しおのおの所属に復歸すべき命令を、昨日傳達したるところ、
彼らはなおもこれに聽かず、遂に勅命に抗するに至れり。
事すでにここに到る。
遂にやむなく武力をもって事態の鞏行解決をはかるに決せり。
右に関し、不幸、兵火を交うる場合においても、
その範囲は麹町地區永田町附近の一地域に限定せらるべきを以て、
一般民衆はいたずらに流言蜚語にまどわさることなく、努めてその居所に安定せられんことを希望す」

だが、
この聲明にあるように
「おのおのその所属に復歸すべき命令」
は 彼らに傳達されたのであろうか、
彼らが軍の態度に硬化してこうした命令を受けつけなかったことはあるにしても、
事実、撤退して原隊にかえれとすすめても、
統帥系統を通じての命令として嚴格に下達されていなかったのである。
ここに彼らが四日間二わたってねばり通したわけがあった。
軍隊において命令を下達しないでおいて、あえて大命に叛いたとした。
このことに靑年將校は死ぬまで抗議しつづけた。
彼らの反逆の汚名はここに出發点とするものなることを注意しておきたい。

麹町地區における流血の危險は刻々と近づく。
ラジオは戰闘區域の住民に、

「 萬一、流彈あるやも知れず、戰闘區域附近の市民は次のようにご注意下さい。
一、銃聲のすめる方向に對して、掩護物を利用して難を避けること
二、なるべく低い所を利用すること
三、屋内では銃聲のする反對側にいること 」

を 呼びかける。
いよいよ始まろうとする軍隊の撃ち合いに市民は、
ひとしくその心をしめつけられる思いだった。
こうして全市民は身に迫る流血の惨事を眞近に感じて聲もなく、
ただラジオにかじりついて司令部の發表に心と耳を集中していた。
しかし、戰闘區域内の市民は緊張裏に、
憲兵、警察官の誘導に從い附近の小學校その他の施設に移って、
午前八時頃には全く避難をおわった。

續々と歸順を見る
「 兵に告ぐ 」
の放送はくり返しくりかえしつづけられた。
アナウンサーの聲も悲痛にふるえていた。
この聲涙ともに下る言葉の情感には、
さすがに混迷している兵隊たちにもつよくこたえるものがあった。
わが身の現在をかえりみて、遠く父母兄弟を思うのだった。
「 いまからでも遅くない、原隊にかえろう。いま、かえれば罪は許される 」
今朝からすでに將校の指揮から逃れて原隊に歸った兵隊もいた。
歩哨や警戒兵に出て單獨勤務についていた者は、さっさとその守地をすてて攻撃軍に歸順した。
説得使は彼我の最前線をかけずり廻って一兵でも多く歸順させようと、
最後の努力をつくして必死の説得につとめている。
かくて、首相官邸にいた近歩三の下士官兵の昨夜来の脱走に始まって、
暁方にかけてはすでに下士官兵 百名あまりが歸順したのである。

朝、九時ごろには
山王ホテルで丹生部隊百五十名 が、
また、赤坂見附附近では約二十名が、
さらに九時半頃には、
赤坂、溜池方面で約二十名ばかりの歸順者を見た。
戒厳司令部では、ひっきりなしにラジオを通じてその狀況を發表した。

「 午前十時十五分、戒嚴司令部發表
一、午前十時やや前 參謀本部附近において機關銃を有する下士官以下約三十名が歸順しました。
  さらに各方面においても歸順の兆候があります。
二、幸いにしてただ今に至るまで、まだ、兵火を交えていません。
  ついで、十時十五分には、
一、第一師團方面においては反亂軍に對し戰車を派遣して兵士説得のビラを撒布せり。
二、飛行機をもってする兵士説得のビラ撒布は依然繼續しあり。
三、今朝、避難を命ぜられ退去したる者の財産は、戒嚴部隊の進出に伴い、
  憲兵および警察官をして逐次保護に任ぜしめつつあり。
四、幸いにして只今に至るまで兵火を交えるに至らず 」

と、いまだ撃ち合いに至らないことを傳えていた。

次頁 「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」 に 続く
大谷敬二郎  二・二六事件 から


彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか

2020年06月25日 18時01分22秒 | 説得と鎭壓

天皇の意思
この事態収拾に関しては部内には二つの意見があった。
一つは 断乎として彼らを討伐せよというのに対し、
他の一つは 皇軍相撃を排して説得により撤退せしむべきだというにあった。
これまで見てきたように当時の軍政首脳部一連の動きは後者に属するものであり、
ことに軍事参議官の大勢は皇軍相撃を絶対に避くべきとする荒木、真崎の意見に同調していた。
だが、統帥部としては比較的はっきりと討伐を打ち出していた。
宇都宮の第十四師団、仙台の第二師団、四ツ街道の重砲、千葉の歩兵学校の戦車、
教導聯隊それに、下志津の飛行機まで出動する態勢を整えた。
正に千数百の反乱軍に対し約四個師団の兵力を集中したわけである。
これは威力をもって反乱軍を制圧することによって、無血鎮圧を試みたもので
それは最も強硬に戒厳令の公布を主張した石原作戦課長の一貫した 「 威迫 応ぜざれば討伐 」
という方針によるものであったと見てよい。

だが、宮中でははじめから天皇の意思ははっきりしていた。
天皇は彼らを叛徒と断定し、
しかも急速にこれを討伐せよと大臣、
次長さらに 政府にもその意思を明示されていた。
陸軍の首脳部がいつまでも鎮圧に出ることなく、モタモタしていることに宮中では、
彼らはどちらを向いているのか知れたものではないと強い非難をあびせていた。
天皇は戒厳司令官の鎮圧措置が緩慢であることに不満だった。
二十七日午後
本庄武官長を召された天皇は、これについて彼の意見を求められている。
「 行動をおこしました將校の行爲は陛下の軍隊を勝手に動かしましたる意味において、
統帥權を犯すの甚だしきものと心得ます。
その罪もとより許すべからざることは明白でござりますが、
しかしその精神に至っては
一途に君國を思うに出たるものであることは疑う餘地もあるまいと存じます。
よって、武官長個人の考えといたしましては、
今一度説得して大御心の存するところを知らしめることが肝要と心得まする。
戒嚴司令官においても武官長と同意見であろうと考えます 」
「 武官長 」
---- 天皇の声は凛として冴えかえっていた。
「 彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか、
かくの如き兇暴な行動を敢えてした將校らをその精神において、何の恕すべきところがあるか、
朕がもっとも信頼する老臣を悉く殺害するのは、朕が首を眞綿で締むるのと同じ行爲ではないか 」
「 仰せの如く 老臣殺傷は軍人として最惡の行爲であることは勿論でございまするが、
しかし、たとへ彼らの行動が誤解によって生じたものとしても、
彼ら少壮將校といたしましては、
かくすることが國家のためであるという考えに端を發するものと考えます 」
「 もし、そうだとしても、
それはただ私利私慾のためにするものではないというだけのことではないか、
戒嚴司令官が影響の他に及ぶことを恐れて、
穏便にことを圖ろうとしていることはわかるが、時機を失すれば取りかえしのつかぬ結果になるぞ、
直ちに戒嚴司令官を呼んで朕の命令を傳えよ、
これ以上躊躇するならば 朕みずから近衛師団を率いて出動する 」
「 そのように御軫念をわずらわすことは恐れ多き限りでございます。
早速、戒嚴司令官に傳えて決斷を促すように致します 」
(以上本庄日記より)

二十七日 朝八時二十分
杉山次長は天皇に拝謁して 「奉勅命令」 を仰いだが、
天皇は至極満足にて ただちに、充裁になった。
この時、
「 皇軍相撃は努めて避けたく
目下軍事參議官は軍の長老として所属部隊長とともに極力反亂軍を説得中でありますので、
奉勅命令を戒嚴司令官に交付する時間については參謀総長に御委任を乞い奉ります 」
と 上奏してお許しを得た。
この奉勅命令は、
「 戒嚴司令官ハ三宅坂附近ニ占拠シアル證校以下ヲ以テ
速カニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊長の隷下ニ復歸セシムベシ 」
と いうのであったが、
この命令を下し
彼らが原隊にかえらなければ 断乎討伐するというのであった。

村中、北宅に現われる
この夜、兵に休養を与えるために、
野中部隊は鉄相官邸、鈴木部隊は文相官邸、清原部隊は蔵相官邸、中橋部隊は首相官邸、
田中部隊は農相官邸、丹生部隊は山王ホテル、安藤部隊は幸楽、
そして支援本隊は鉄相官邸におきそれぞれ宿営した。
これは反乱部隊が小藤大佐の指揮に入って
はじめてその命令下に宿営についたのであった。
夜、八時頃、
村中は夜陰に乗じて部隊を抜け出し中野区桃園町の北一輝宅に現われた。
そこで北宅に潜伏していた西田、
また西田の招きで来宅していた亀川とも会って今後の措置について話合った。
北は青年将校一致の意見として時局収拾を真崎大将に一人したことに関し、
参議官が一致してこれを上奏することの成り行きについて、
いまだに参議官から青年将校に回答がないことを憂慮し、
今日、薩摩雄次に頼んで
加藤海軍大将に海軍側の善処を申入れさせたが、
早速、小笠原長生とも相談して尽力しようということになり、
加藤大将は
伏見宮軍令部長にお目にかかって意見を申し上げた。
宮様は明早朝参内して意見を上奏しようと約束されたので、
海軍は挙げて君等を支持していると語り、
村中は雑談的に、事件以来の出来事、
例えば 陸相官邸での大臣との面接や、華族会館への威迫などを面白く話していた。
ここで問題だったのは、北、西田から
「 真崎内閣がきまらないうちは部隊を引きあげることは犬死に等しい。
なんとか早く真崎内閣を成立させる途はないものか 」
と いったことから、亀川は、
「 むしろ早く引きあげる方が世間の同情もあり解決が容易になるのではないか 」
と 異見を述べたが、
北と西田は真崎内閣ができるまではどんなことがあっても一歩も退いてはならぬと強く主張した。
亀川は重ねてお上の御召しもよくないということだから慎重に考えよといい、
村中はそんなことはないといい張る。
北も信念に基づいてご奉公するのが真の忠義だとくり返す。
西田は、
「 同志の杉田正吾、渋川善助を使って全国各地の愛国団体に働きかけている。
この際これを契機に愛国団体を解いて一つにまとめる。
そして維新を促進するために全国的に興論を喚起し広い国民運動を展開する必要があり
目下この工作も進展している。
また、一般的に外部の情勢も、漸次蹶起部隊に有利に展開している。
現に、全国各地から数千にのぼる激励電報がきているのだ。
ともかくも軍事参議官から正式な回答があるまでは絶対に現在の占拠をつづけよ 」
と 村中を激励した。
この会見はわずか一時間ぐらいであったが、
村中は深く心に期するものをもって官邸に戻って来た。

軍は反乱軍を全滅せんとす
奉直命令が出たとの風評が陸相官邸に伝わってきたのは、二十七日夜も更けてのことであった。
その頃反乱部隊将兵は昨日来の疲労で各所に分宿してぐっすり眠っていた。
ちょうど、陸相官邸に居合せてこの噂を聞いた山口大尉は驚いて、
早速 鈴木貞一大佐、小藤大佐と相談した。
もし事実とすれば大変な事だ。
すぐにも戒厳司令官に強談してこれを喰い止めねばならない。
彼らは深夜の闇をついて三宅坂から九段下の司令部についた。
小藤大佐らはすでに用意されていた二階の司令官室に通され、
戒厳参謀列席の上で意見を具申した。
午前三時頃であった。
まず 鈴木大佐が口を開いて、
「今となつて弾圧は考えものだ、軍は昭和維新へと推進すべきだ 」
と 所信を述べた。
次いで小藤大佐が立って 「 弾圧不可 」 を くどくどしく訴えた。
このあとをうけて

山口大尉が
えらい気合いでまくしたてた。
「 今、陸相官邸を出て陸軍省脇の坂を下り三宅坂下の寺内銅像の前にさしかかると、
バリケードがつくってあった。
半蔵門前からイギリス大使館の前にかけては部隊がたむろしている。
戦車も散見する。
あのバリケードは何のためのバリケードだろうか。
あの部隊は何のための部隊だろうか、
そして物かげにかくれている戦車はどんな意味なのだろうか。
聞くところによれば、
明日蹶起部隊の撤退を命じ 聞きいれなければこれを攻撃されるという。
蹶起部隊は腐敗せる日本に最後の止めをさした首相官邸を神聖な聖地と考えて、
ここを占拠しておるのである。
そうして昭和維新の大業につくことを心から願っているのに 彼らを分散せしめて
聖地と信じている場所から撤退せしめるというのはどういうわけであろうか。
しかも、彼らは既に小藤部隊に編入され警備に任じておるのに、
わざわざ皇軍相撃つような事態をひきおこそうというのは、一体どういうわけであるのか、
皇軍相撃つということは日本の不幸これより大なるはない、同じ陛下の赤子である。
皇敵を撃つべき日本の軍隊が鉄砲火を交えて互いに殺しあうなどということが許さるべきことであろうか。
今や蹶起将校を処罰する前に、この日本を如何に導くかを考慮すべきときである。
昭和維新の黎明は近づいている。
しかもその功労者ともいうべき皇道絶対の蹶起部隊を名づけて反乱軍とは、何ということであろうか、
どうか、皇軍相撃つ最大の不祥事は未然に防いでいただきたい。
奉勅命令の実施は無期延期としていただきたい 」
声涙共に下って説く彼の弁舌は凄愴な気迫を伴い森閑とした真夜中に、
なみいる人々の心を痛く打つものがあった。
この間、香椎司令官はみずから山口に茶菓をすすめ、
その興奮した空気を和らげることに努めていた。
そして
攻撃開始に確定したわけではない
と 口ごもりながら答えていた。
水を打ったような静寂の中で山口はさらにつづけた。
一語また一語に力をこめて、
どうしても同意させずにはおかないといった気迫が全身にあふれていた。
一座は緊張した面持ちで傾聴している。
彼はこのようにして時余にわたって説き去り説き来りこの重大進言をおわった。
誰も発言するものがない、
突然、
大きなテーブルの端にいた石原大佐がすくっと立ち上がった。
静かな声であったが力強く、「 ただちに攻撃 ! 命令受領者集まれ! 」 といいながら部屋を出た。
そして ドアの前に待機していた命令受領者に向かって、
「 軍は本日二十八日正午を期して総攻撃を開始し反乱軍を全滅せんとす 」
つづいて爆撃隊の出動、重砲の砲撃、地上部隊の攻撃要領等について落ちついた調子で、
整然と戒厳命令を口達した。
命令の下達をおわった石原は
傍らにいた小藤大佐と満井中佐を願みて、
「 奉勅命令は下ったのですぞ、御覧の通り部隊の集結は終り攻撃準備は完了した。
飛行機も戦車も重砲も参加します。
降参すればよし
然らざれば 殲滅する旨をハッキリとお伝えください。
大事な軍使の役目です。さあ行って下さい 」
左右の手で両軍使の首すじをつかまえて階段の降り口の方へ押しやった。
なみいる幕僚はこのあざやかな石原の演技にただ感嘆の眼をみはっていた。

もう、夜明けに近かった。
三人の勧告者も 石原のこの果断の前にすごすご引き退らざるを得なかった。
だが 山口はなおも 偕行社に軍事参議官を訪ねて、
撤退命令の無期延期に尽力せられるよう懇請した。

二十八日 朝、
戒厳司令部では満井中佐が軍首脳部に意見を具申したいと申し出た。
戒厳司令官のとりなしで、大臣、次官、軍務局長、次長、総務部長らの首脳が集まり、
それに林、荒木の両軍事参議官も同席した。
荒木、林の両大将は、
この朝偕行社での参議官擬議の結果、
近く討伐実施の運びにありと驚いて、
討伐絶対不可の意見を開陳するため司令部を訪れたのであった。
満井中佐は、参会の諸官に対し自己の意見を印刷した文章を配った。
前夜陸相官邸で村中から聞いた意見を参考とし起案したものであった。
一、
維新部隊は
昭和維新の中核となり現在地に位置して昭和維新の大御心のご渙發を念願しつつあり。
右部隊將校らは皇軍相撃の意思は毛頭なきも維新精神抑壓せらるゝ場合は死を覺悟しあり。
また、右將校らと下士官兵とは大體において同志的關係にありて結束固し。
二、
全國の諸部隊には未だ勃發せざるも各部隊にも同様維新的氣勢あるものと豫想せらる。
三、
この部隊を斷乎として撃つことは全國に相當の混亂起こらざるやを憂慮す。
四、
混亂を未然に防ぐ方法としては、
イ、全軍速やかに維新の精神を奉じ、輔弼の大任を盡し速やかに維新の大御心の渙關を仰ぐこと。
ロ、これがため速やかに鞏力内閣を奏請し維新遂行の方針を決定し諸政を一新すること。
ハ、もし、内閣の奏請、擁立急に不可能なるにおいては、軍において輔弼し維新を奉行すること。
    
右の場合には維新に關し左の方針を最高意思をもってご決定の上、
     大御心の渙發を詔勅として仰ぐこと。
   
「 維新を斷行せんとす、これがため建國精神を明徴にす、國民生活を安定せしむ、國防を充實せしむ 」
ニ、萬一、右、不可能の場合、犠牲者を最小限度にする如く戰術的に工夫し維新部隊を處置すること。
  
 ただしこの場合全軍全國に影響をおよぼさざることに關し大いに考慮を要す。
  これが實行は影響するところ大なるべきをもって特に實行に先だち、
  まず現状を奏上の上御裁可を仰ぐを要するものと認む。
この満井案の討議に入るに先だって石原大佐は発言を求め、軍事参議官の退場を要求した。
つまり、軍事参議官が直接、統帥に対して干渉することを避けるためだった。
だが、荒木大将は軍の長老として軍事参議官は本朝に至って切迫せる状況を知り
一同相談の結果、
維新部隊を武力討伐するにおいてはきわめて重大なる影響あるにつき、
ここに次の意見を提案するといい、
一、
事件當初より參議官の主張せる通り、皇軍相撃ち市民に損害を与え官民地方
その他いろいろと不利なる影響を与える討伐の斷行は恐懼に堪えない。
手段を尽しこれを回避するよう希望する。
二、
彼らの行動のけしからぬことに議論の餘地はない。
然れども彼らもまた吾人の戰友なるをもって日本軍人らしい態度に出るようにせられたい。
三、
占拠部隊の將校の最後は日本武士たる態度を明らかにするようにせられたい。
下士官以下を傷つけぬようにして、もって皇軍と國民との関係を惡化せしめざることに努められたい。
と いう三つの意見を述べた。
要するに荒木の意見は兵力使用の回避であった。
この荒木発言がおわると
石原大佐は再び軍事参議官の退場を迫った。
「 軍事参議官ご一同のご退場を願います 」
林、荒木は石原の断乎たる態度にあってすごすご退場した。
この時のことである。
当時戒厳司令部で石原が荒木大将らに罵言を浴びせて退場を強要したとの流説がとんでいた。
が、これにつき荒木は
「----そこへ、たまたま石原が入ってきたので不審に思って、
「 君は一体、何でこんな所に来てるんだ 」
と たずねると 石原は
「 自分は増加参謀として今日ここへ派遣されたのです。
しかし、こうなっちゃ、これゃどうしても討伐しか手はありませんよ 」
と いい放った。
荒木もムーッとして
「何をいうか、
何とかして皇軍相撃の悲惨をさけんとワシらがどんなに心配しているかがわからんか、
どんな場合でも皇軍互いに撃ち合ってはいかんぞ、必ず説得するのだ 」
と たしなめると、
石原はケロリとした顔で、
「 それならたった一つ良い方法があります、
これから直ぐ軍事参議官一同が拝謁して、
蹶起部隊の希望する首班の内閣を奏請することです、
それも一時間以内でなければ間に合いませんよ 」
「 この場になって何を馬鹿なことをいうか、
この際、軍事参議官が揃って参内するような大それたことができるか、
かりに拝謁をお許しになったとしても、そんな短時間でこの重大な時局を担当する内閣が、
そう簡単に出来ると思っているのか、
とにかく、この際君らが先走って軽率に討伐などと騒いでは絶対にいかんぞ、
あくまでも彼らを説得して兵を原隊にかえすのだ 」
と 強く念を押した 」
( 嵐と闘う哲将荒木) と 書かれている。
何れが真か偽か、筆者も事の次第は知らないが、
当時の統帥部のそうそうたる中堅幹部の
軍事参議官追い出しの一幕はいささか興味のあることである。

大谷敬二郎  二・二六事件  から 


撤回せる上奏案

2020年06月24日 19時09分59秒 | 説得と鎭壓


廿八日午前五時過ぎ、奉勅命令が正式に下された。
« 二月二十八日午前六時三十分發令の第一師團命令 ( 一師戒令第三號 ) の 別紙命令が 、
いわゆる奉勅命令である。 
即ち
戒嚴司令官ハ三宅坂附近ヲ占據シアル將校以下ヲ徹シ各所屬部隊長ノ隸下ニ復歸セシムベシ 
奉勅     參謀總長  戴仁親王 »

即ち、戒嚴司令官に對して發動したるなり。
前記 山本又少尉の來りしは廿八日午前七時廿分頃にして、
叛軍の武装を解除するな、とか、現地の撤去は延期され度し、など要求せり。
予は説得に努め、彼の肯うなずくに及び握手を与へ、尋常の握手にあらざることを告げ、
必ず速に命令に服せよと念を押した。
予は事件突發以來、終始一貫無血の解決に盡瘁じんすいし來きたつたが、
遂に勅命を拝するに及びしは 恐懼に堪へず。
而も此の聖旨さへ叛軍が奉ぜずして流血を見るに至りはせぬ乎と、
心中頗る穏かならぬものがあつた。
何とかして尚ほも流血を避けて収容する方法もがな、と焦心苦慮を重て居ると、
たまたま
石原作戰課長來り

進言して曰く、
此際、昭和維新の聖勅を拝しては如何、
其要綱は、

1  國體明徴の徹底
2  兵力増強
3  國民生活の安定
之なり、と
« 昭和維新の聖勅・・詔勅案は陸軍省軍事課長 ・村上啓作大佐らによつて實際に起草され、
蹶起將校 ・安藤輝三らに提示されたが未發に終った。
事件終盤でこの大詔案をめぐつて
あくまでも渙發を求める蹶起側と 「 討伐 」 へ路線を變えた軍との息づまる應酬がつづいた »

此の頃、満井中佐來り
情報を呈すと稱しながら、
昭和維新斷行の必要に關し意見を縷陳るちんす。( ・・・ リンク →満井佐吉 『 28日 戒嚴司令部に於る意見具申 』 )
予は其言動を出過ぎたることなりと考へしも、其大綱を承り置きて引き取らしめたり。
此の席には荒木大將外一、二の軍事參議官ありき。
予は最後の手段として、更に聖勅を仰ぎ奉るべきや否やを一應 陸軍省、參謀本部に相談するに決す。
軍事參議官退席。
大臣 ( 川島陸軍大臣 ) 、次官 ( 古莊幹郎陸軍次官 )、予の室に來る。
予は之れ迄 手を盡して流血の惨を起せば最早萬事休するが、
此の手段は如何、之が唯一つ殘された手段と云へば云へる旨述べ、一案を示す。


上奏案 ( 未定稿、要旨也 )
現時迄の情勢に依るに、三宅坂附近占據の將校以下、事件決行後、
其待望せる昭和維新への實際的進行遅々として進まざるを憂慮し、
其端緒を見る迄は身命を捧げて君國に殉ずるの決心を堅持しあり。
爲に事體の推移を此儘に放置する時は、皇軍相撃ち且無辜むこの臣民、
外國人等に對しても死傷者を生ずる大不祥事を見ずしては
本日拝受せる奉勅命令の實行や不可能となりたるものと判斷せけれらる。
若し萬一建國以來の皇謨こうぼに則のつとり、  « 皇謨・・天皇のはかりごと »
昭和維新に發進せしめらるゝ聖旨を拝することを得るに於ては、
流血なく前記奉勅命令を實行し、事體を完全に収拾し得るものと信ず。
此かくの如きことを上聞に達するは恐懼措おく能はざるも、
事態の重大性極めて深刻にして、皇國興廢の岐わかるる秋ときなるに鑑み
臣等謹みて聖斷を仰ぎ奉る。
戒厳司令官  香椎浩平


次長 ( 杉山元參謀次長 ) 反對す。
之は豫期する処なりき。
次で 大臣は其の意見として
「 陛下に昭和維新を鞏要し奉るは恐懼に堪へず 」
と 述べたり。
そもそも戒嚴司令官は、軍政及人事に關しては大臣の區処を受くることゝなり居れり。
本件、大臣が反對するものを單獨上奏することは不可なる故、之を撤回す。

香椎戒厳司令官  秘録 二・二六事件 から


「 小藤大佐ハ爾後占據部隊ノ將校以下を指揮スルニ及バズ 」

2020年06月23日 04時13分56秒 | 説得と鎭壓


抗議の拠点幸楽
ここ、赤坂の料亭幸楽に陣どった安藤中隊は闘志もっとも旺盛だった。
幸楽には続々同志将校があつまって強硬派の牙城となった。
近く戦闘が予想せられる幸楽はあたかも決戦場のような様相を呈していた。
事件以来部外にあって愛国団体を動員するはずの 澁川善助は前日から安藤部隊にもぐり込んでいた。
そこへ歩三の新井中尉が来て安藤に撤退をすすめた。
香田がいかって、
「 奉勅命令がどうしたというんだ! そんなものはにせものだ、くだらんことをいうな ! 」
と 叱りつけた。

澁川は
「 幕僚が悪いんだ、彼らをやっつけてしまわねばダメだ 」
と 怒号する。

そんな空気のところへ野中大尉が入ってきた。
野中はさきに部隊を代表して軍事参議官の最後の回答を求めに行ってきたのである。
野中は人々の興奮を尻目に、至極おちついていた。
「 一切を委せて帰ることにした 」
「 委せてかえる----それはどうしてですか 」
澁川が鋭く詰めよった。
兵隊がかわいそうだから 」 と 野中の声は低かった。
澁川はなおも二言三言くってかかっていたが、
「 何もかも幕僚が悪いのだ! 幕僚ファッショをやっつけてしまわねばダメだ 」
と再び怒号した。
この十数人の集まった幸楽の応接間は激怒と悲憤のうずまきだった。
村中はちょうどここに居合せて、じっとこの様子を見ていた。
彼はこうなりゃ決裂だ、
戦争だ戦争だと叫びながら部屋を飛び出して陸将官邸にかえった。
そして磯部に、
「 磯部やろう、安藤も坂井も絶対に退かんといっている。安藤部隊の気勢はあがっている、団結は固い。
 幸楽附近は敵の攻撃をうけそうな気配だ、もう、こうなったら後へは引けん、やろう 」
磯部は二つ返事で賛成した。そして首相官邸に走った。
こでは栗原も幸楽からかえっていて、お互いにやりましょうと闘志をはっきりした。
磯部はもう討死の覚悟だった。
田中部隊それに栗原から一小隊をかりてみずから閑院宮邸附近に進出して、この台地の一角をおさえた。
夜にな入ると、磯部は常盤、鈴木両部隊とともに陸相官邸を守った。
坂井と清原の部隊が陸軍省と参謀本部附近、
栗原、中橋が首相官邸、安藤が幸楽、丹生が山王ホテル、
野中と村中は予備隊として新議事堂にそれぞれ位置してすっかり戦闘態勢を整えた。

この日の夕方頃には幸楽、
山王下附近には物見高い群衆も集まって雑とうをきわめていた。
栗原中尉が乗用車の上から大声で市民に演説していた。
「 諸君、私たちは わが国の現状を見るにしのびず 止むなくたち上ったのであります。
この非常時局に
元老、重臣、官僚、政党、財閥等の いわゆる特権階級が私利私慾をほしいままにし、
国政をみだり国威を失墜している。
われわれは
真に一君万民たるべき皇国本然の姿を顕現せんがために
特権階級の打倒に立ったのであります。
諸君、わが国の軍隊は天皇陛下の軍隊であり、同時に国民の軍隊であります。
私たちは国防の第一線に立って笑って死にたいのであります。
それには何よりも後顧の憂いをとり除かなくてはなりません。
それがどうでしょう、農村漁村はいまや窮乏のどん底にあります。
こんなことでは兵隊たちは安心して死んでいかれません。
われわれは立ち上がりました。
今こそわれわれは昭和維新を実現しなければなりません。
われわれはこれがための挺身隊であります 」

群集は拍手を送る。
麻布三聯隊万歳、大日本帝国万歳のどよめきが群衆の中に湧き上がっていた。
こうして、彼らはこの一戦に討死を期して敵の攻撃を待った。
だが、この間、なお説得がつづけられていた。
一触即発の険悪な情勢の中に、冬の夜は更けていった。

鎮圧の態勢なる
二十八日の夕方になると三宅坂台上一帯は立退きを始めていた。
赤坂見附、半蔵門、警視庁等各方面には、戦車を先頭に鎮圧軍隊はその包囲網を縮小して、
交通通信はすべて断たれ、騒擾部隊は外部との連絡は完全に不可能となった。
二十八日午前五時奉勅命令の下達をうけた戒厳司令官は、
なお兵力使用に躊躇していたが、統帥部の反対にあって、ついに討伐にふみきった。
だが、第一師団の討伐準備遅延が禍して その日の攻撃開始は二十九日払暁に待たなくてはならなかった。
この夕六時、陸軍大臣は在京師団長に対し左の通達を行った
「 今次三宅坂占拠部隊幹部、行動の動機は国体の真姿顕現を目的とする昭和維新の断行にありと思考するも、
 その行動は軍紀を紊り国法を侵犯せるものたるは論議の余地なし。
当局は輦轂の下同胞相撃つの不祥事をなるべく避け、
なしうれば流血の惨を見ずして事件を解決せんとし、万般の措置を講じたるも、
未だその目的を達せず、痛く宸襟を悩し奉りたるは恐悚恐懼の至りに堪えず。
本職の責任極めて重且つ大なるを痛感しあり。
陛下は遂に戒厳司令官に対し最後の措置を勅命され、
戒厳司令官はこの勅命に反するものに対しては、たとえ流血の惨を見るも断乎たる処置をとるに決心せり。
事ここに至る、順逆おのずから明らかなり。
各師団長はこの際一刻も猶予することなく、
所要の者に対し要すれば適時断乎たる処置を講じ 後害を胎さざるに違算なきを期せられたし 」
この通達は
始めてこの事件に対する陸軍の意思を部内に示したもので、
特に、その末尾にある 「 所要の者に対し要すれば適時断乎たる処置を講じ 」
とあるのは、いわゆる散在する地方青年将校の蠢動に対する弾圧を意味するものであり、
こうした通達をうけては、もはや第一師団も部下の情誼とか
お互いの撃ち合いとかを理由に討伐を回避することを許されなかった。
夜十時戒厳司令官は戒作命第十四号をもって討伐命令を下達した。
その要旨。
一、反亂部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、ヨッテ斷乎武力ヲ以テ當面ノ治安ヲ恢復セントス
二、第一師團ハ明二十九日午前五時マデニ
   概ネ現在ノ戰ヲ堅固ニ守備シ随時攻撃ヲ開始シ得ルノ準備ヲ整エ戰闘地域内ノ敵ヲ掃蕩スベシ
三、近衛師團ハ明二十九日午前五時マデニ
   概ネ現在ノ戰ヲ守備シ随時攻撃ヲ開始シ得ルの準備ヲ整エ戰闘地域内ノ敵ヲ掃蕩スベシ、
   又師團ハ主トシテ禁闕守衛ニ任ズルノ外、
   依然戒嚴司令部附近ノ警備ヲ續行シ且特ニ桜田門附近ヲ確保スベシ
四、攻撃開始ノ時機ハ別令ス
五、第十四師團ハ二十九日午前五時マデニ靖國神社附近ニ至り待機シアルベシ
この戒嚴命令に基づいて、第一師団では、佐倉部隊主力に砲兵工兵を加えて左翼に、
そして第二旅団長工藤義雄少将を長とする佐倉の一個大隊、歩兵学校教導聯隊、
工兵第十四大隊の一部をもって中央に配し、攻撃態勢を整えた。
夜十時、第一師団長は反乱部隊長小藤大佐の指揮を解いた。
事態の悪化によって小藤大佐は師団長にその任務遂行の不可能を訴えこの解任になった。
「 小藤大佐ハ爾後占據部隊ノ將校以下ヲ指揮スルニ及バズ 」
だが、この命令は反乱部隊には下達されることはなかった。
戒厳部隊に編入され麹町地区警備隊としてこれが警備に任ずるように命令されていた反乱部隊には、
その戒厳部隊から除外されることもなく、また警備の任務も解かれることはなかった。
そして彼らは、その同じ戒厳部隊から包囲され攻撃されたのであった。
ここに重大な指揮の混乱がある。

いよいよ部隊が攻撃態勢を整えて同士打ちをするということになると、
蹶起部隊を出している歩一も歩三もあわて出した。
なんとかしてその犠牲と惨害を避けねばならない。
歩三では部隊長以下反乱軍の説得に本気にとりかかることになった。
部隊長が先頭に立ち佐官級の将校や古参大尉らが
それぞれ上官と部下との系列をたどって戦線をかけ廻った。
ついこの十二月まで部隊長だった参謀本部課長の井出宣時大佐もその責任を痛感してか、
安藤中隊や野中中隊を訪ねて説得に積極的だった。
歩一では小藤大佐が反乱部隊を指揮していたので、
聯隊付中佐が主として対策を練っていたが、
栗原や丹生に対する怒りよりも、山口大尉に対して憤慨するものが多かった。
山口が週番司令としてやすやすと部隊を出動せしめたのだ。
あいつこそ聯隊の歴史を汚した元兇だと、
山口がかえれば、たたき殺してやるといきまいていた。
小藤大佐に対しても反感をもっていた。
聯隊長があまり若い者をあまやかすからこういうことになるのだとつぶやく将校もいた。
しかし、彼らを連れ戻すことにはあまり熱心でなかった。
小藤大佐は二十八日夜、その指揮権を解かれてから みずから第一線の兵隊たちを説得して歩いていた。

第一線で最も強硬なのは安藤大尉だと信ぜられていた。
従って、安藤の占拠していた幸楽にはひっきりなしに説得使がやってきた。
その日の正午頃には
軍事課長村中大佐が安藤大尉に維新の大詔なるものを示して撤退をすすめている。
村上大佐は皇道派に好意をもつ幕僚として彼らには考えられていた。
事実、二十六日以来の村上大佐の行動には反乱軍支援のうたがわしいものがあった。
宮中での参議官会同の席につながり大臣告示の立案にも関与していたし、
もともと、大臣の政治幕僚としてこの事態を契機として維新に進むべきだとし
「 蹶起部隊を叛徒と認めてはならない 」 との意見を大臣に具申したとも伝えられていた。
だが、この機になって維新の大詔はどうしたことだろう。
彼は二十六日正午頃、宮中より陸軍省の移転先だった憲兵司令部に戻り、
軍事課員河村参郎少佐と岩畔豪雄少佐に、維新大詔の原案の起草を命じている。
正午頃といえば、まだ参議官たちの説得案もできていない時であるから、
おそらく幕僚として大臣に献策するつもりの一案であったであろう。
ところが、午後三時頃村上大佐は再び軍事課に現われ、
未完成のその草案をひったくるようにして持ち去った。
もはや宮中の情勢はそうしたものの不必要を知ったのであろう。
そして彼はその秘案を懐中にしまい込んでいた。
これを安藤の説得に、
「 もう、こんなものができかけているのだから、君等もすぐいうことを聞いて引きあげよ 」
と この草稿の一部をのぞかせたのであろう。罪なことである。
これがのちに問題になり裁判では彼らはこれを持ち出して争った。
だが村上はこれを全く否認して、
「 維新大詔案は自分は知らない。
 自分の知っているのは、軍人が政治運動に関係するのがよくないから、
大詔を仰ぎたいと思っていたので、それらのことを間違えたのだろう 」
と 証言したという。

大谷敬二郎  二・二六事件  から


奉勅命令 「 現姿勢ヲ撤シ 各所屬師團長ノ隸下ニ復歸セシムヘシ 」

2020年06月22日 18時31分48秒 | 説得と鎭壓



臨變參命第三號
命令
戒嚴司令官ハ 三宅坂附近ヲ占據シアル將
校以下ヲシテ速ニ
現姿勢ヲ撤シ
各所屬師團長ノ隸下ニ復歸セシムヘシ

昭和十一年二月二十八日  
奉勅    參謀總長載仁親王

戒嚴司令官香椎浩平殿


この奉勅命令に服さなかった理由で、蹶起将校達は勅命違反の逆賊として処断された。
しかしこの命令が彼らに正式に下達されたかどうかは疑問となっている。
蹶起将校らは一斉に、
その遺書の中で、命令が実際に下達されていなかったことを主張している。
これについて、陸軍省発表の判決理由書の中では
「・・・会々小藤大佐は戒厳司令官に対し下されたる、
 占拠部隊を速やかに原所属に復帰せしむべき旨の勅令に基づく第一師団命令を受領し、
これが伝達を企図せる時なりしも、
同人等の感情の激化甚しきに由り しばらくこれを保留せり・・・」
と あり、
その後のこれを具体的に伝達したことは書いていない。
なお、この点は帝国議会でもしばしば問題とされたが、
十分納得させるような回答はなされていない。

二・二六事件 獄中手記遺書 河野司編から


「 オイ磯部、君らは奉勅命令が下ったらどうするか 」

2020年06月20日 18時48分49秒 | 説得と鎭壓

 
磯部浅一 
前頁  「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」 の続き

磯部、幕僚の説得きかず

前夜来、武装解除の流説に先制攻撃をしかけようかと意気込んでいた磯部は、
何事もなく 農相官邸にこの朝を迎えた。
だが、早朝から入ってくる情報は悪かった。
その一つ、
「 清浦伯が二十六日参内しようとしたが、湯浅、一木らに阻止された 」
これは磯部と森伝との密約で 事件勃発せば清浦伯をして、
宮中工作を行わしめようとしたことの失敗を示すものであった。
磯部が、官邸でいささかくさっているとき、同志の山本又少尉が憲兵隊の神谷少佐を連れてきた。
神谷は、戒厳司令官に会って直接意見具申することをすすめた。
磯部はこの勧説に応じ、この際戒厳司令官に直接ぶつかって赤心を吐露しようと決心して、
神谷とともに還元司令部を訪ねることにした。
自動車で市中の雑踏を縫って戒厳司令部についた。
実にものものしい警戒だった。
昨日にかわって武力弾圧が準備されていることをひしひしと感じた。
この空気ではとてもわれわれの意見をうけ入れてくれそうにも思えない。
まかり違えば、ここで非常の手段をとらねばならぬかもしれない。
次第によっては司令官と差し違える腹をきめていた。
司令官との面会はなかなかできなくて、彼は一時間以上も待ち呆けをくった。
ぼんやりと椅子に坐っていると 神谷少佐が現れて、
「 司令官はただ今陸軍大臣や参謀次長と会談中だからちょっと面会はできない 」 と 告げた。
磯部は
「 それはかえって都合がいい、大臣 次長同席のところで面会さしていただこう 」
と 強談したが、とても駄目だと取りあってくれない。
胸にぐっとこたえたが、今にみろとその憤りをこらえた。
そこへ突然石原大佐が入って来た。
「 オイ磯部、君らは奉勅命令が下ったらどうするか 」
「 ハア、いいですね 」
「 いいですねではわからん、きくか、きかぬかだ 」
「 それは問題ではないではありませんか、きくもきかないもないでしょう 」
石原は
「 ヨシ、それじゃ きくんだな 」
と 念を押すが、彼ははっきり答えない。
「 大佐殿、それよりわれわれは依然として現在地に置くように、司令官に意見具申して下さい 」
「 わかった 」
と いい放つと 石原はそそくさと出て行った。
入れ違いに満井中佐が入ってきた。
磯部は満井の姿を見ると、いきなり、こういった。
「 中佐殿、あなた方は私どもを退かすことばかり奔走しておられるが、
それは間違いではありませんか、
われわれがあの台上にがんばっていればこそ、機関説信奉者が頭をもたげないのです。
一歩でも引けば反対勢力がドッとばかり押しよせるのではないですか、
お願いです、何とかしてわれわれを現地において下さい。
われわれが退けば、もう維新もヘチマもありません 」
その声は肺腑をしぼる悲痛な叫びだった。
心からの哀願だった。
満井はじっと考え込むようにうなだれていたが、
もう一度司令官に具申してみようと出ていった。
磯部は満井中佐にして、
どうしてこの哀願がわかってもらえないのかと、
すっかり考え込んでしまった。

そこへ、司令官の決心をきいたという石原大佐が再び姿を現わした。
「 磯部だめだ、軍司令部には強硬な意見を具申したがとうとう聞かれない。
今朝五時に奉勅命令が出たのだ。
戒厳司令官は奉勅命令が出た以上、これを実施しないわけにはいかん。
お上を欺くことはできないといって断乎たる決心だ。
もう、こうなってはどうすることもできない。
どうだ、君らは引いてくれんか、
この上は男と男の腹ではないか 」
満井中佐も再び入ってきて、磯部の手をとり涙を流しながら
「 磯部引いてくれ、男らしくいさぎよく引いてくれ 」 と いい、
石原大佐も磯部の手をしっかり握って、
「 いさぎよく引いてくれ 」 と 目に一杯の涙をためていた。
磯部も感動した。迷った。
だが彼の闘志はなお盛んだった。
「 私は私の力でできるだけ善処します。ただ、磯部個人としては絶対に引きません。
林大将の如きが現存して策動している以上
これを倒さずに引きさがるような事があっては蹶起の主旨にもとるのです。
一人になってもやります。絶対に引きません」
と きっぱりはねつけた。
「 林大将の問題はおそからず解決されるのだから引いてくれ 」
と、二人の説得に 磯部は力なく
「 ハイ 」 と答えはしたが、心の中は無念さににえくりかえっていた。
磯部は柴大尉と同車して陸相官邸にかえりついた。
彼は同志の所在を探した。
会議室には村中、香田、栗原らが額を集めていた。
山下、鈴木、山口もそこにいた。
磯部は、
「 オーイ、一体どうするというんだ、
今引いたら大変なことになるぞ、絶対に引けないぞ 」
と 先刻からこらえにこらえてきた悲憤を大声でぶちまけた。

奉勅命令を知る
この朝 (二十八日) 村中は鉄相官邸の支隊本部にいたが、
そこへ栗原が顔色をかえて飛び込んで来た。
村中を見るなり一枚の通信紙を示しながら、
「 これは、今朝早く中橋中尉に近衛歩兵三聯隊から電話による命令だといって、
通信手が中橋に渡したものですが 中橋も驚いて僕のところへ持ってきたのです。
内容がどうも変なので村中さんの意見を聞こうと思い、急いでやって来ました。」
村中が手にとってその通信紙を見ると、
一、奉勅命令により中橋部隊は小藤大佐の指揮に入らしめる。
二、奉勅命令により中橋部隊は現在地を徹し歩兵第一聯隊に到るべし。
と 書いてある。
「 これはどうもおかしい、われわれは、いま、小藤部隊長の指揮に入っているのに、
近歩三聯隊長から直接命令してくるのは解せないことだ。
殊にわれわれは麹町地区警備の任にあるのに、
歩一にかえれというのは任務を放棄せよということになる。
きっと近歩三では われわれが小藤大佐の指揮にはいったのを、
歩一にかえれと間違ったものに違いない 」
村中はこう判断した。
「 何かの間違いだろう、僕が善処しよう 」
と 栗原をかえしたから、
早速、陸相官邸に出向いた村中は、

小藤大佐に会いその 「 メモ 」 を示して、
「 この命令は何等かの誤解に基づくものと考えられます。
これからもこういった指揮の混乱を来すことのないように、
部隊長から近歩三聯隊長に交渉していただきたい 」
と 申し入れた。
小藤大佐はにがりきった顔であっさり 「 連絡しておこう 」 と答えた。
だが、この近歩三聯隊長の命令は不当なものでも、指揮を混乱させるものではなかった。
それは既に述べたように奉勅命令は、この朝五時に戒厳司令官に下達されたので、
戒厳司令官はこれに基づいて近衛、第一師団に命令した。
この命令に基づいて近衛師団から、本命令の下達に先だって、近衛第三聯隊長に、
さらに聯隊長は同隊から出動している中橋中尉に、
歩一に帰還することを 「要旨命令」 したものであった。
ちょうど、第一師団長もこの朝六時三十分にはこんな命令を出している。
一師戒命第三号
第一師団命令    二月二十八日午前六時三十分
於師団司令部
一、別紙ノ通り奉勅命令ヲ下達セラル
二、師団ハ三宅坂附近占拠部隊ヲ先ズ師団司令部南側空地ニ集結セントス
三、小藤大佐ハ速ヤカニ奉勅命令ヲ占拠部隊ニ伝達タル後之ヲ師団司令部南側ニ集結スベシ、
   集合地ニ至ルタメ赤坂見附を通過スベシ
四、歩兵第二旅団ハ占拠部隊通過ノタメ
   午前八時以後赤坂見附ヨリ集合地ニ至ルマデノ警戒ヲ撤去スベシ
五、余ハ依然司令部ニアリ
第一師団長 堀中将
「別紙」 とは さきの 「奉勅命令」 である。

はたしてこうした命令が、当時、この時刻に各隊に下達されたかどうかは疑問であるが、
奉勅命令と師団命令によって、
近歩三聯隊長が中橋に右のような要旨命令を出したことは異とするにあたらない。
したがって小藤大佐にしてみれば、このような近歩三命令はともかくとして、
奉勅命令の下達のあったことはわかっていたのに、
その態度を明確にしなかったことはどうしたことだろう。
彼は反乱軍を部隊に連れ戻すために彼らの部隊長になっていたはずなのに、
いたづらに彼らにひきずられて右往左往していることは見苦しい。
いずれにしても彼ら蹶起将校は、この時に至っても、奉勅命令、奉勅命令と耳にはするけれども、
その内容については少しも知らされていなかったのである。
村中は小藤大佐と別れてその部屋を出た。途端に廊下で柴有時大尉に出会った。
柴は戸山学校の教官だったが皇道派のシンパ。
彼は、
「 オイ、大変だぞ、
夜半から戒厳司令部の空気が変化して、
君らを現在地から撤退せしめようとして、
これに関して奉勅命令を仰ごうとする形勢があったので、早速、山口に知らせた。
山口はびっくりしてすぐに戒厳司令官や軍事参議官らに会ってこれを止めるために努力している筈だ」
と 告げた。
村中は形勢の逆転に驚いた。
一瞬、棒をのんだように言葉も出なかった。
ちょうど、そこへ満井中佐が来た。
香田、對馬などもやてきた。村中は興奮していた。
内心の憤りに眼をつりあげて、満井に向かい、
「 柴大尉の情報では戒厳司令官は行動部隊を撤退させるために奉勅命令を仰ぐというが本当か、
維新遂行のためにはどんなことがあっても、小藤部隊を現位置におかなくてはならない。
どうか戒厳司令部を動かして、そうしたことのないように極力工作せられたい 」
と 喰ってかかるように願った。
満井は、
「成否は不明だが賭せ力しよう」 と 自信なげに答えた。
だが、彼らがあまりにも興奮しているので、これをなだめようとしたのであろう。
満井は、
「 昨日来、石原大佐の奔走で維新の大詔が渙発せられんとする運びに至っているが、
何分にも各閣僚が辞表を捧呈しているので副署ができないのだ。
形勢はよい、決して心配することはない。君らの意思は必ず貫徹されるであろう。
ただ、君らは軽挙して大義を誤ってはならない 」
と 教えた。
だが、この維新大昭渙発も満井が石原大佐へ意見具申したまでのことで、
当時そうした見通しがあったわけではなかった。
それを閣僚の副署云々のデタラメで若い将校を喜ばした罪が深い。
彼らは満井のこの激励でいくらか安堵した。
しばらくすると山口大尉がやって来た。山口は村中の顔を見ると胸がつまってきた。
彼は夜半来、戒厳司令官や幕僚たちの前で、
このからだを張って奉勅命令をくいとめようとしたが、
石原の一言であっさり幕切れとなってしまったことが残念でたまらないのだ。
「 オイ村中、万策つきた、あけ方から努力してみたが微力及ばず残念だ! 」
その声も涙でくれてしまった。
村中はそれでも落ちついていた。
「 なお、策がありますよ、統帥系統を通じていま一度、意見を具申することです 」
「 そうだ、それも一案だ、早速、小藤大佐に話すことにしよう 」
村中は山口とともに再び小藤大佐の部屋を訪ねて、
「 断じて部隊をこの位置から撤退せしめてはならない 」
と 強く意見具申した。
小藤大佐もそれでは師団長にもこの意見を陳べようではないかと、
かたわらにいた鈴木貞一大佐を誘い、山口大尉とともに第一師団司令部に急いだ。
村中、香田、竹嶌、對馬も同行することになった。
司令部につくと小藤、鈴木、山口は師団長室に入り、香田、村中らは参謀長室に待たされた。
しばらくすると、参謀長舞大佐が現れて、
「 奉勅命令はまだ第一師団には下達されていないから安心するがよい。
しかし諸君はあまり熱しすぎて策をあやまってはならんぞ 」 と 伝えた。
ついで、堀師団長もにこにこして、その大きな身体を彼らの前にあらわし、
「 戒厳司令部では奉勅命令は、いま、実施の時機ではないといっている。
また、今朝近衛師団から中橋部隊に命令があったというが、
近衛師団が小藤部隊に対して不当な行動に出る場合には、
わが師団としてもまた期するところがある。決して心配するではない 」
と、はっきり言った。
村中、香田らは気色満面、一大安心を得て陸相官邸に帰来した。

大谷敬二郎  二・二六事件  から


「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」

2020年06月18日 18時52分03秒 | 説得と鎭壓


決心を変更します

林、荒木 両参議官の退場で
残るは大臣、次長、局長、部長、戒厳司令官らの首脳部のみとなった。
戒厳司令官は 改まった態度で、
「 この機会に及んでは
平和解決唯一の手段は昭和維新断行のためご聖断を仰ぐにある。
自分は今より参内して上奏しようと考えている。
上奏の要点は昭和維新の ご内意を拝承するにある。
目下の状況においては
反乱将校は
たとえ逆賊の名を与えられるも奉勅命令に従わずという堅い決心をもっている。
奉勅命令は まだ出していないが、
これを出すときは皇軍相撃は必然的に明らかである。
兵には全く罪はない、幹部の責任のみである。
しかして この罪は独り将校の負うべきもので 罪は軍法会議において問えばよい。
しかも 将校とても その主張する主義精神は全く昭和維新が横溢おういつしている。
深く咎むるべき限りではない。
また 場合によっては 後に至り大赦をおおせ出されることも考えられる。
元来、彼らは演習名義にて出動せるもので他意はない。
もしこれに対して兵力を使用せんか、弾丸皇居に飛び 外国公館に損害を与え
無辜むこの人民にも負傷させることになろう。
本来、自分は
彼らの行動を必ずしも否認しないものである。
特に 皇軍相撃に至らば 彼らを撤退せしむべき勅諭命令の実行は不可能となろう 」
と 述べたてた。
だが、

杉山次長は 断乎としてこれに反対した。
「 全然、不同意、
二日間にわたって所属長官から懇切に訓示し、
軍の長老もまた 身を屈して説得せるにかかわらず、
遂に これに聴従する所がない。
もはやこれ以上は軍紀維持上よりするも許し難い。
また、陛下に対し奉り
この機に及んで昭和維新断行の勅語を賜わるべくお願いするは恐懼に堪えない。
統帥部としては断じて不同意である。
奉勅命令に示された通り 兵力にて討伐せよ 」
と 強硬な態度を示した。
ここにおいて
香椎中将は数分にわたって沈思黙考した。
既に攻撃命令を下しながらも、まだ、奉勅命令の下達をためらっていた香椎司令官も、
この統帥部の反対にあって苦しんだ。
彼は皇道派の同情者であった。
だが、ついに 討伐断行の腹をきめた。
「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」
と 言い切った。
時に午前十時十分であった。

これより前々日
宮中で の説得案審議のおり、
「 香椎警備司令官は起って、
自分は相沢公判を傍聴せるが その際感じたる所によれば、
相沢は決行の後 ゆうゆう台湾に赴任を考えありしが、
これは恐らく 一念昭和維新のみを考え、他を顧みざりし結果ならん。
相沢の一刀両断は鳥羽伏見の戦いなり、
鳥羽伏見の戦に勝ったが実は蛤御門の戰なりしを知らざりしが如し。
今回の反乱将校のいい分もかくの如き観念に発せるものならん 」
と 述べ、大いに反軍に同情的態度を有することを示す。
後日討伐の実行を躊躇せる宜なる哉と思わしむ。
自分は討伐鞭撻べんたつの必要を確信せしは実にこれに起因す 」
・・杉山手記
と 述べている。

ともかくも杉山次長は香椎のこの決心を見届けたので、
午前十一時 参内して
侍従武官長に いよいよ兵力を使うことになった旨を伝え
これが伝奏方を依頼した。
愈々 討伐することになった。
ところが 十一時四十分頃になると、
第一師団から現態勢においては攻撃不可能なりとの報告がなされた。
正午頃、荒木、林、寺内、植田の各軍事参議官は
打ち揃って憲兵司令部に杉山次長を訪ねて討伐回避を申言した。
次長は兵力使用のやむなきを説明したが、林大将は、
「 彼らの考えているところを汲んでやるような考慮されたい 」
と 意見を述べた。
事態はなかなか統帥部の考えているようには運ばなかった。
また、同じ頃
真田戒厳参謀は統帥部に意見を具申した。
それは反乱部隊がわれわれ将校に敬礼するようになった。
反乱兵士と話して見ると往々にして泣くものもある。
反乱将校十三名は師団長の命令に服従しますという一札を入れた。
そこで第二師団、第十四師団よりの兵力増派の件は
上奏を見合わされたいというものであった。
いわば情勢の好転を伝えるものであったのだ。
その反乱将校が師団長に服従するとて一札を入れたというのは誤伝ではあったが、
しかしその頃には確かに兵隊たちは 蹶起当日の興奮からさめかけていた。
だが、統帥部は依然討伐方針を堅持し、
午後三時には第二師団、第十四師団の一部、諸学校よりの
兵力召致の件を上奏 御裁可を仰いだ。
この拝謁の際、
次長は、すでに討伐に決し着々実施中なる旨を言上した。
ところが、戒厳司令部は第一師団の準備が整わないことを理由に、
二十八日の攻撃は不可能という。
あわてた統帥部は あくまでも攻撃即行を強要したが、
そのうちに今から開始しても野戦となり かえって戦闘の終結を遅らし、
かつ、混乱と損害を増大することとなるおそれがあるので、
総攻撃は二十九日払暁に延期することになった。
次長は戒厳司令官を同道して 再び参内し
これが延期方につき陛下のお許しを得た。
・・・大谷敬二郎 二・二六事件 から

第三日 ( 二十八日 ) 奉勅命令出て討伐に決した時は、
軍事参議官中の某より、
「 何としても流血の惨を避けようではないか、
其方法としては 維新断行に関する御沙汰書を戴き 之を彼等に示せば速に納まらん 」
と 強硬なる意見あり。
而し 自分 及 他の軍事参議官は
今 奉勅命令を頂き 直に之と反対の御沙汰書を頂くは不可なりと反対す。
・・・川島陸相


地區隊から占據部隊へ

2020年06月16日 18時13分21秒 | 説得と鎭壓

(27日)
夜の十時頃であろう。
わたくしは幸楽の安藤中隊の模様を見に行くよう、聯隊長から命令を受けた。
今井町から福吉町までは電車通り沿い、
それから左に切れて暗い道を真直に山王下に抜け、
再び赤坂見附へ出る電車道路を幸楽に歩いて行った。
事件勃発後かれらと顔を合わすのは、わたくしはこれが初めてである。

幸楽
門の所には衛兵所があったが、
わたくしは案じたことのほどもなく通過できた。
同行者には学校配属将校の一大尉がいた。
安藤と会ったのはソファーのある応接間である。
「 やあ、御苦労さん 」
安藤は機嫌がよかった。
そしてかれの口から鈴木侍従長殺害の場面が語られた。
「 どうだ新井、聯隊では俺らを凱旋将軍のように迎えるだろうな 」
わたくしは苟且にも虚言はつけなかった。
「 そんな考えでいては間違いですよ。
現に安藤さんの部隊では地区隊と云ってますが、
わたくしの方では占拠部隊と云ってます。
勿論 占拠部隊と云っても、敵じゃないことは聞いてますが・・・・・
でも地区隊の方が友軍であるのはハッキリしています。」
わたくしは何の気なしに云ったのだが、これで安藤の態度がガラッと変わった。
かれは気魄で軍を引摺ろうとする、もとのやり方に帰ったのである。
「 近衛師団のやつらが俺の方に機関銃を向けている。
不届きだ。
中隊の者、みんな聞け。
われらの希望達成の為には、われわれは飽く迄頑張らにゃならん。
動作はもっと機敏に、言語はもっと活潑厳正に、一以て百にあたるの気概が必要である 」
安藤はわたくしの見ている前でこんな注意を部下に与えた。
「 安藤さん、そういきり立っても仕方がないじゃありませんか、
それよりも地区隊の小藤大佐の命令を守ることじゃありませんか 」
わたくしの言葉に、安藤はキョトンとしている風であったが、
それが何の為かはわたくしにはわからなかった。
同行した天野大尉は、陸軍大臣の告示を盾に、もう帰らないかと説得したが、
之以外は大御心に俟つとある以上
それにはあたらぬ説得であった。

山王ホテル
幸楽を出たわたくしは、帰宅する天野大尉とその門前で別れた。
聯隊本部への道すがら、
山王ホテルの丹生中尉とも、わたくしはこの際連絡をとろうと立ち寄った。
かれらの警戒は非常に厳重であった。
「 歩三の同期生の新井中尉が来たと、丹生中尉に伝えてくれ 」
と 歩哨に申し入れると、
「 暫らく待て 」
と 言残して一名が中に這入って行った。
その態度は軍の兵卒が将校に対する態度ではない。
その上後に残った二名の歩哨までが、着剣した銃をわたくしに擬しているのである。
将校としてわたくしは屈辱を感じた。
「 無礼者 」
と 叫びたい気持ちで、胸の中がワクワクした。
しかし怒ってしまっては連絡の任務も果せぬと思い、暫らく二人の歩哨の間に立たされていた。
五分程経ったろう、
中から下士官が迎えに来て、わたくしは立派な応接間に通された。

ものの一分とも待たぬうちに、何処からともなく丹生中尉が姿を現した。
かれは士官学校の同期生だが、
十月事件にも関係せずこうした事をする人間とは、
わたくしは殆ど思わなかった。
「 やあ、どうだい 」
同期生の気安さで、二人はこんな挨拶から始まった。
自分は部下中隊を指揮して福吉町に来ているが、
それは行動部隊を敵として来ているのではなく、
同じ第一師団長の隷下にある旨を告げ、
なお今後も連絡を密にする必要があると語った。
そして最期に冗談を混えてこう云った。
「 貴様らは随分贅沢だな。ホテルや料理屋に宿営して・・・・・」
「 まあそう云うなよ。地区隊命令でこうやっているのだから・・・・」
「 それは知っている。俺の方は電話局だよ 」
「 うんそうか、気の毒だな。共産党の蜂起に備えているんだが、左翼は何もできまい 」
先刻安藤の所で何気なしに聞いていたが、かれらは共産党の蜂起に備え、
警備を命ぜられていたのである。
これは事件関係の将校以下殆ど全員がそう信じていたのである。

かれらがこのことに疑問を持ち始めたのは二十八日の夜半からである。


新井 勲 著  日本を震撼させた四日間 二・二六事件青年将校の回想
現代のエスプリ 二・二六事件 №92 から
 


維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」

2020年06月14日 18時01分12秒 | 説得と鎭壓

「 維新大詔 」 について
磯部、安藤、林、香田、中橋、對馬、村中等はその遺書の中で、
それぞれ 「 維新大詔 」 という言葉を殘している。
實際、事件を起した靑年將校らの目的は、
君側の奸をたおして大義を正し、
國體を擁護開顯し、
もって昭和維新を斷行し、
日本を革新しようとするところにあった。
それゆえ、蹶起將校らは一日も早い大詔の渙発を期待し、
ま た陸軍當局(一部を除いて) も 一時はそれに傾き、
「 維新大詔降下運動 」 すら 行われたのであった。
この狀況が、靑年將校たちを大いに力づけたことは否定できない。
とにかく
「 維新大詔 」 は 實際に起草されていたのである。
岩畔豪雄氏 ( 元陸軍少將、事件當時少佐、陸軍省軍務局課員で對満事務局に勤務していた)
の談は、この間の事情を明かにしている。
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・・・挿入・・・
2.26事件の蹶起當初は、
陸軍上層部の一部にも蹶起の趣旨に賛同し
靑年將校らの 「 昭和維新 」 を 助けようとする動きもあった。
「 今にして思へば大臣告示の如きものは師團長の処に置きし方 良かりし様に思ふ。
然し 當時の僞らざる師團長の感じとしては、頻々として入來する情報に依り、
軍事參議官の軍上層部の人々が非常に努力し居らるる事を聞きたれば

或は、彼等の希望し居るが如き事が出來するにあらざるかと云ふ雰囲氣を感じ居たり 」
・・・堀丈夫 第一師團長中將 憲兵聴取書
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又 陸軍省 ・參謀本部では、クーデターが萬一成就した時の仮政府について、
下記のように豫想していた
・内閣總理大臣 眞崎甚三郎
・内大臣あるいは參謀總長 荒木貞夫
・陸軍大臣 小畑敏四郎 あるいは 柳川平助
・大蔵大臣 勝田主計 あるいは 結城豊太郎
・司法大臣 光行次郎
・(不詳) 北一輝
・内閣書記官長 西田税
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二・二六事件のとき武藤は軍事課の高級参謀ですね。そして我々を眞っ向からつぶした。
當時の軍事課長は村上啓作さんで、
村上さんは何とか蹶起將校のメンツがたつようにしてやろうと思っていた。
しかし、かれの部下の武藤が徹底的にぶっつぶそうとして、結局勝った譯けですね。
・・・池田俊彦  リンク→生き残りし者 ・ 我々はなぜ蹶起したのか 2 
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村上啓作大佐

岩畔豪雄の談話
事件の勃發で、陸軍全体が混亂の眞最中の二月二十六日正午頃、
所は陸軍省の移轉先だった九段会館の憲兵司令部であった。
村上啓作軍事課長が、河村参郎少佐と私に、
「 維新大詔 」 の草案の起草を命ぜられた。
陸軍に關する勅語は、軍事課で作ることになっていた。
しかしこれは容易ならぬ文章であるので、河村少佐と協力して、苦心しながら起案にかかった。
ところが、午後三時頃だったと思う、
再び村上課長がアタフタと入って來て、至急に草案が欲しいという。
だが、まだその時には半分くらいしか書けていない。
半分くらいしかできておりませんと言うと、
それでもよいからと、書きかけの草案をもって、
急いで蹶起部隊の靑年將校首脳が集まっている陸相官邸へ車を飛ばしていった。
仄聞すると、
すでに 「 陸軍大臣告示 」 が 山下奉文少将から傳達されて欣喜している靑年將校達に、
村上大佐はこの草案を示して、
いよいよ維新大詔の渙發も間近い情勢にあることを傳えたという。
ところが、この草案は再び私の所に歸って來なかった。
その後の事態の變化をみれば、
死産に終わった 「 維新大詔 」 の 運命は自明のことであろう。
今では草案原稿の控えもないし、その内容は忘れたが、
靑年將校らの蹶起趣意書を認めた意味のものだったように憶えている。
もちろん天皇の御意思ではなく、
村上課長が一人できめたものではないかと思う、
後で裁判の時、
問題化して村上課長が 若い者たちをなだめるためだったと弁明していた。
その後の推移からそう思われるのである。


うして、
村上啓作大佐に持ち去られた未完の 「 維新大詔案 」 は、
同じ二十六日に
「 大詔渙發に至らんとしているが、内閣が辭表を出しているため復署ができないから、それにいたらぬ 」
と 傳えられ、 ( ・・・満井中佐 )
さらに 二十八日には、
蹶起將校の一人安藤輝三大尉が
村上大佐から
「 ここまで來ているのだから 」
と 直接、原文を示されている。
とにかく、
一部幕僚等によって進められていた維新大詔降下運動は
事情の急變によって二十八日、
奉勅命令による叛亂軍討伐に變ったことは、その後の事情がよく説明している。
結局、この大詔案は、
村上大佐が二十六日午後から二十八日まで持ち廻ったあげく、
そのまま握りつぶしたものではないかと推測される。
なお、叛亂軍討伐と變った事情の急變がどのような理由によるものか、
この點はいろいろ言われているが、いずれも臆測の域を出ていない。
・・・二・二六事件 獄中手記遺書 河野司編から


大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」

2020年06月12日 17時53分40秒 | 説得と鎭壓


陸軍大臣告示
二月二十六日午後三時三十分
東京警備司令部
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、國體ノ眞姿顯現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事參議モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ俟ツ


原文を箇条書きに改められて告示されたもの
宮中にあった香椎東京警備司令官から電話をもって示達され、
午後三時三十分、
東京警備司令部からガリ版刷りとなって各部隊に配布された
特に陸相官邸にあった蹶起将校に対しては、
山下奉文少将が派遣され、口頭で通達された
このとき、この告示文のうち、
第二項の「 諸子ノ行動 」 の字句が 「 諸子ノ眞意 」 となっていた
原文を見れば眞意である
どうして「 告示 」として示達される過程で変わったかは、今日まで判明していない
「 獄中遺書 」項中の磯部浅一、
安藤輝三が、これにふれて書いている
リンク→第十七 「 吾々の行動を認めるか 否か 」 
リンク→あを雲の涯 (五) 安藤輝三 

「 陸軍大臣告示 」 の原文となった
軍事參議官の申合せ
事件勃発直後、宮中に集合した軍事参議官が、
事件の進展を食い止めるため

青年将校を慰撫しようとして、
合議して作成したもの

原文と
「告示 」 と なった発表文の二種類があるが、

いずれも青年将校の行動を認めた形であったので、
この発表が、
後の蹶起部隊の戒厳軍隊
への編入

奉勅命令下達の際の混乱とからみ合い、
事件の解決を一層複雑にした


 軍事參議官の申合書
 午後零時半於宮中
諸子蹶起ノ趣旨ハ
天聽ニ達シ 諸子ノ眞意ハ國体ノ眞
姿顯現ノ至情ハ之ヲ認ム眞姿顯
現ニ就テハ我等恐懼ニ堪ヘザルモノ
アリ參議官一同ハ國体顯現ノ上ニ
一層匪躬ノ誠ヲ効ス其以上ハ一ニ
大御心ヲ体スベキモノナリ
以上ハ宮中ニ於テ軍事參議官一同相会
シ陸軍長老ノ意見トシテ確立シタ
ルモノニシテ閣僚モ亦一致協力益々
國体ノ眞姿顕現ニ努力スベ
ク申合ハサレタリ

 この申合書の存在は戦後まで知られていなかった。
 偶々、昭和三十四年荒木貞夫元大将宅に掲示されたもの

「 陸軍大臣告示 」
の できたいきさつ
元陸軍大将、
軍事参議 荒木貞夫(談)
「 陸軍大臣告示 」 の 原案ができた経緯は次のようなものだとおぼえている。
当日の朝、事件勃発を知らされた私は、午前十一時頃、急遽、宮中に参内した。
御記帳をすませて、そこの者に、
荒木が来たと伝えてくれというと、
川島陸相が出てきて、
「 いま皆さんを集めるために電話をかけたところです。 このままお集りを願う 」 
と いうので、東溜の間に行った。
しばらくすると、
眞崎甚三郎大将をはじめ他の軍事参議官が集合してきた。
大体十二時頃であつたと思う。
さて、ここで相談したことは、
ともかく これ以上、一発でも弾丸を撃たせてはならぬ。
これには皆 同調した。
そこで、青年将校を何とかして納得させねばならない。
彼らの蹶起趣意書は、
この朝、陸軍大臣が手に入れて
すでに陛下に申し上げておるらしい。
それなら
それで青年将校達の意思は上聞に達しているのだから、
彼らは満足すべきではないか。
これ以上、現在のように兵力を擁して陸軍の中枢部を占拠していることが、
大義に反するということがわかれば、
もともと君国のために憂えた心から でたことなのだからやめるだろう。
大体こんなことを われわれが相談した結果、
軍事参議官たちで何とか言ってやろうじゃないか、
ということに意見が一致した。
とにかく、事件直後のごたごたしている時なので、文句を錬って名分を作る暇はない。
そこで、大体以上のような意見にもとづいて案分を作ることとし、
山下奉文少将、村上啓作大佐等、同席していた幕僚に命じた。
彼らが別室で書いてきた案分を、大体これでよかろうというので読み上げると、
阿部信行大将が考えていた。
何を言ったか覚えておらぬが
そこで植田謙吉大将が鉛筆を出して、訂正も何もない、ちょこちょこ書いた。
これを山下少将に
「 軍事参議官は全部こういうことだから、兵隊をすぐ返すように-------
お前、これをすぐ青年将校の方へ持っていってくれ 」
と 言った。
しかしその時、
これは筋が違う、権限がない軍事参議官がやってはおかしいではないか、
と いう意見が出た。
もっともな正論なので、
同席の川島陸軍大臣の賛同を得て、
「 陸軍大臣告示 」 で やろうということになった。
そこで原案を、告示のかたちに直して作りあげたものだろう。
文章を直すか 直さぬかは私の知る範囲とならなかった。
だから、告示がどういう手順で誰がどのようにしたか私は知らない。
この後、香椎中将が誰かに電話をかけていた。
この原案が書かれたのは零時半であった。
二・二六事件 獄中手記遺書 河野司編より

こうして成文化された 『 陸軍大臣告示 』 は、
ただちに山下少将によって陸相官邸にあった蹶起将校に口頭で読みあげられた。
これを聞いた青年将校たちは、我事成れり の感激に涙を流したというのも当然のことである。
しかもこの告示文はただちにガリ版刷りとなって各部隊に頒布されたのである。
ところが、この感激の告示がわずか半日たらずでいっさいの公式文書から姿を消すのである。
この重大な決定が生んだ矛盾撞着の抜差しならない問題の事後処理のため、
事件終結後、軍当局としては、すでに各部隊に配布した告示通達文書の回収に躍起となって奔命している。
軍当局としては、抹殺することが最上の方法であったろう。
地方部隊に対して、その回収を命ずるとともに、在京部隊に対しては、
告示の周知された範囲、状況を調査させている。
河野司  天皇と二・二六事件


堀丈夫 ( 第一師團長中將 ) 憲兵聴取書
今にして思へば
大臣告示の如きものは師團長の処に止め置きし方良かりし様に思ふ、
然し 當時の爲 僞らざる師團長の感じとしては
頻々として入來する情報に依り
軍事參議官 其の他上層部の人々が非常に努力し居らるゝ事を聞きたれば
或は 彼等の希望し居るが如き事が出來するにあらざるか
と 云ふ雰囲氣を感じ居たり


軍事參議官・阿部信行大將 『 我々軍事參議官ハ一致結束シテ時局収拾ニ當ル 』

2020年06月11日 13時42分57秒 | 説得と鎭壓


阿部信行
二 ・二ロ事件ニ關シ
阿部大將ノ陳述ニ關スル件報告
昭和十一年四月五日
陸軍憲兵中佐  上砂勝七
東京憲兵隊長  坂本俊馬 殿
二 ・二ロ事件ニ關シ、四月五日午前十時、西大久保一ノ三六一陸軍大將阿部信行ヲ訪問、
陳述ヲ聴取シタル狀況別紙ノ通リニ附、報告ス
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二 ・二六事件

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阿部大將陳述ノ要旨
阿部大將ノ行動ヲ基礎トシ、事件當時ノ狀況ヲ陳述セラル
要旨
<二十六日>
二十六日午前六時半頃憲兵分隊ヨリ憲兵護衛ノタメ來邸、事件突發ヲ知ル。
午前九時半頃、偕行社ヨリ元軍事參議官副官ヨリ、事件ノ情報々告アリ。
其前後ニ、工藤豪吉少將來邸、渡邊大將横死ニ關スル報告ヲ受ケ、其処置ヲ相談受ケタレバ、
憲兵檢死セバ何時迄モ見苦シキ狀ニ放置セズ、仮ニ納棺シ置クガ可ト意見ヲ述ベタリ。
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午後十二時半頃、平河門ヨリ宮内省ニ入ル。
既ニ大部ノ軍事參議官集合シアリシモ、一人、二人私ヨリ遅カツタ者アリ。
其席ニ山下少將、村上軍事課長アリ。
川島陸軍大臣モ居タルモ、大臣ハ閣僚ノ控室ト往復ト居タリ。
香椎警備司令官モ入リ來リヌ。
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・ 大臣告示の成立經過 
・ 大臣告示 「 諸子ノ行動ハ國體顯現の至情ニ基クモノト認ム 」
・ 山口一太郎大尉の四日間 1 「 大臣告示 」
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例ノ陸軍大臣告示ハ、軍事課長ニ起案ヲ命ジ、
寺内大將、植田大將ガ筆ヲ執リ修正シテ居タ。
他ノ軍事參議官ハ之ヲ見テ居ル。
殊ニ初メノ時ハ混雑シ、何トカ事件ヲ早ク収拾シタキ一念デ、兎モ角案ヲ作ツテ見ヤウトテ、
軍事課長ガ案ヲ作ルコトニナツタ。
出來タ案デ軍事參議官ガ一句一句修正シタノデアル。
最初ノ案ハ確カ行動トアリシヲ、眞意ニ直シタノデアル。
其他ニモ処々直シタ。
最後ノ文句ハ荒木大將ガ修正シタ様ナリ。
其時、警備司令官ガ電話デ警備司令部ヘ此告示ヲ傳ヘ、之ガ兩師團長ニ發セラレタモノト認ム。
此修正シタ文句ハ蹶起部隊ヘ出ス筈ノモノナリシニ、兩師團ヘモ行ツタノデアリ、
何処デ間違ヒシカ、修正セザルモノガ蹶起部隊ヘモ行ツタ。
誰カノ話デハ、新井參謀ガ右告示ヲ安藤大尉ヘ示シタラバ、安藤大尉ハ喜ンダトノ事ナリ。
ソレデ、宮中ニハ兩殿下モ居ラルル事デ、夜ニナリ午後八時半頃、
一度軍事參議官デ説得シヤウト云フ事ニナリ、山下少將ヲ先頭ニ宮中ヲ出テ、
陸軍大臣官邸ノ便所ノ手前ノ大キナ室ニ入ツタ。
コノ時兩殿下モ一緒ニ行カウト仰セラレタルモ、我々丈ケデ來リ、
御用ヲ願フ時ハ御願スト申上ゲ、処々デ誰何すいかセラレツツ、約四十分間ヲ要シタ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
・ 川島義之陸軍大臣參内 「 軍當局は、吾々の行動を認めたのですか 」 
軍事參議官との會見 『 軍は自體の粛正をすると共に維新に進入するを要する 』
・ 山口一太郎大尉の四日間 2 「 軍事參議官と會見 」
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官邸デハ
村中、磯部、香田、栗原、對馬、山口ト鈴木貞一大佐、満井中佐、小藤大佐モ來合セ、
香田ガ主トシテ口ヲ開キ、
「 昭和維新ヲ飽ク迄斷行シテ貰ヒ度イ。
  之ガ爲ニハ後藤ト、後藤ヲ宮中デ操縦スル伊澤ヲ逮捕シテ貰ヒ度イ 」
ト要求シタレバ、荒木大將ハ
「 ソンナ事ハ出來ナイ 」
ト返事シタルニ、香田大尉ハ、
「 逮捕ガ不可能ナレバ、保護檢束ヲシテ貰ヒタイ 」
ト申出セリ。
荒木大將ハ語ヲ續ケ、
「 オ前達ガ國家ノ現狀ニアキタラズシテヤツタ心持ハ同情スルモ斯カル意表ノ事ヲシタコトハ宜シクナイ。
  オ前達ハ早ク引揚ゲテ、後ハ我々ニ委セ 」
ト懇々ト説得スレバ、磯部カ村中カガ、
「 今迄モソウ云フ様ニ云ハレテ居タガ、實現シタ事ガナイ。
  今度ハ如何シテモ實現シテ頂キタイ。
尚ホ襲ヒ度イ人モアツタガ、兵力不足デヤレナカツタ。
又、我々同志ノ者ガ地方ニ居ルガ、ソレヲ東京ヘ呼ンデ貰ヒタイ。
各方面ノ將校ノ任免ヲヤツテ貰ヒタイ 」
ト附言セリ。
以上ハ主トシテ荒木大將應答ニ當リ、此以上道カズニ所属部隊長ノ命ニ從フ様、
懇々ト説得ニ努メラル。
ソコデ、蹶起部隊ノ將校ハ一應別室ヘ退ク。
橋本大佐、満井中佐ト私 ( 阿部大將 ) ト三人デ話ス。
橋本大佐ノ考ヘハ尠シ違フ様ダツタガ、私ハ直接行動ハ宜シクナイ。
然シ、後ハハツキリトシナクテハイカント思フタ。
別室ニ退ツタ蹶起部隊ノ將校カラ更ニ要望アリ、
「 軍ハ自ラ肅正ノ範ヲ垂レ、昭和維新斷行ニ邁進スルト言明シテ頂ケバ、蹶起部隊ハ之デ引キ下ル 」
ト、村中ダッタカ言ツテ來タノデ、荒木大將ハ、
「 改メテ會フ必要ハナイ 」
トハネツケタ。

大臣ガ歸ツテ來ルトテ出掛ケテ行ツタガ、何時迄待ツテモ歸ツテ來ナカツタ。
ソシテ、山下少將ヲ憲兵司令部、陸軍省、參謀本部ヘ見ニ使ハセシニ、
ナカナカ強硬論モアリ、軍事參議官ノ意見ト相違シ、山下少將モ困ツタラシイ。

二十七日午前六時半頃、軍事參議官ハ宮内省ヘ行キ、川島大臣ニ會ヒ、
「 後繼内閣ニハ克ク注意スベク 」
希望セリ。

狀況ヲ知ルタメ、午前九時頃、軍事參議官一同 ( 宮殿下ヲ除ク ) 憲兵司令部ニ參謀次長ヲ訪問シタルニ、
岡村少將等大臣告示ヲ憤慨シ、斯カルモノヲ出サレテハ困ルト云ヒタルヲ以テ、
大臣告示ノ原案ヲ説明シタルニ、參謀本部ノ者モ諒解セリ。
我々ハ此時初メテ告示ノ誤傳ヲ知ル。
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・ 軍事參議官との會談 1 『 國家人無し 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』
・ 
軍事參議官との會談 2 『 事態の収拾を眞崎大將に御願します 』
・ 山口一太郎大尉の四日間 3 「 總てを眞崎大將に一任します 」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<二十七日>
午前十時偕行社ニ入ル。
蹶起部隊モ一時鎭靜ノ模様ナレバ、私ハ鼻ノ治療ニ趨キタリ。

午後三時頃、香椎司令官偕行社ニ來リ、眞崎大將ニ會フ。
眞崎大將 軍事參議官ノ室ニ歸來シ、
蹶起部隊ノ將校ガ自分ニ會ヒタイト云ツテ居ルソウダガ、自分丈ケ行クノハドウカト思フ
ト相談ヲ掛ケタリ。
其時、香椎司令官モ入リ來リ、
蹶起部隊ハ今ハ頼ルベキ人モナク、心淋シクナツテ居ルノデ、私 ( 香椎 ) モ頼ンデヤルカラ充分甘ヘルガ良イ
ト云ツテオイタカラ、是非眞崎閣下ニ行ツテ頂キ、高ブツテ居ル神經ヲ靜メテ頂キ度イト話ス。
ソコデ、他ノ軍事參議官モ、
「 ソンナ程度ナラ、行ツタ方ガヨカラウ 」
ト云フ事ニナリ、眞崎大將ハ一人デ出掛ケラレタ。
室ヲ出ラレルト直グ蹶起部隊將校ヨリノ電話ダトテ、軍事参參議官全部來テ頂キタイトノ事ナリ。
ソレカラ間モナク眞崎大將ヨリ、
要求ガマシキ事ガアルト一人デハ困ルカラ阿部ト西大將ニ來テ呉レ
ト電話アリ、私ト西大將ト二人デ陸軍大臣官邸ヘ行ク。
ソコニハ眞崎大將一人ボンヤリト坐ツテ居タ。
我々ガ行ツタノデ、山口一太郎ガ入リ來リ、
大部ハ集メタガ、栗原ガ來ナイ。
栗原ハ 「 苦勞シテ占據シタ首相官邸ハ離レル事ハ出來ナイ 」 ト云ツテ居ルト。
ソコデ、眞崎大將ガ、
「 一人ヤ二人ニ引ツカカツテ、聯レテ來ラレナイ様デハ駄目ジャナイカ 」
ト言ハレタレバ、山口ハ出テ行キ、野中大尉以下十七名聯レテ來タ。
栗原ト今一人ハ來ナカツタ。
ソノ席ニハ決起將校ト吾々三軍事參議官ト山口、小藤大佐、鈴木大佐丈ケナリ。

野中大尉代表シ、書イタモノヲ見ナガラ、次ノ要旨ヲ申出ル。
「 私ハ同志一同ヲ代表シ、眞崎閣下ニ此時局ノ収拾ニ當ツテ頂キタイ。
  他ノ軍事參議官ハ、眞崎閣下ト同心一體ノ精神ヲ以テ 眞崎閣下ヲ援ケ、
  以テ此時局ヲ収メラレ度シ。

  阿部閣下、西閣下如何デスカ 」
ト。ソコデ私 ( 阿部大將 )ハ、
「 我々軍事參議官ハ一致結束シテ此時局ノ収拾ニ當ツテ居ルノデアル。
  眞崎大將ガ時局ヲ収拾セネバナラヌ時代ニ至ラバ、一同協力シテ之ニ當ラン。
然シ、眞崎大將ヲ除イタ他ノ方法デ時局ヲ収拾シ得ルナラバ、
敢テ眞崎大將デアラネバナラヌト云フモノデナイ 」
ト、述ベ、西大將モ同様述ベラル。
野中語ヲ繼ギ、
「 眞崎大將ヲ立ツルコトヲ、兩大將ヨリ他ノ軍事參議官ヘモ御傳ヘ願ヒタイ。
  尚、此事ハ天聽ニ達スル様、取計ハレ度 」
ト。阿部大將ヨリ、
「 斯ル手續上ノ事ハ答弁ノ限リニアラズ 」
ト答ヘタリ。
此時眞崎大將ヨリ、
「 軍事參議官ハ、陛下ノ御諮詢ガ無クテハ動クモノデハナイ。
  今斯ウシテ居ルノハ、道徳的ニ動イテオルノデアル。其以上ハ答ヘル事ハ出來ン。
次ハ小藤大佐ノ指揮下ニ入ラレタル者ハ、小藤大佐ノ指揮ノ下ニ行動スベキモノナリ。
モウコレ迄來タノダカラ、早ク小藤大佐ノ指揮ニ歸ラント、遂ニハ錦ノ御旗ニ弓ヲ引ク事トナル。
依ツテ自ラ軍ノ先頭ニ立チ、モウココラデ上官ノ命令ニ從フベシ。
直グ返事ヲセヨ。出來ナケレバ研究シテ返事セヨ 」
山口一太郎ヨリ、
「 皆ハ疑ツテ居ル。特殊ノ命令デモ下ルノデセウカ 」
阿部大將ヨリ、
「 隊長ノ命令デアル。軍隊トシテノ行動ヲ律スル爲メノ命令デ、於前達ニ行動ヲ要求スルノデアル 」
野中大尉ヨリ、
「 私共ハ、只今ハ確實ニ隊長ノ指揮ノ下ニ行動ヲシテ居マス。
  聯日ノ疲勞ノ爲メニ、速急行動ハ困難ナレバ、今夜ハ休マセテ頂キタイ 」
之ニ對シ 鈴木大佐、小藤大佐、何カ話シテ居ツタ。
未ダ暗クハナカツタガ、我々三人ハ偕行社ヘ歸リ、他ノ軍事参參議官ニ以上ノ情況ヲ話ス。

宮中ニハ、兩軍事參議官宮殿下御待チノ事デ、眞崎大將ト私 ( 阿部 ) ト二人デ宮中ヘ伺ヒマシタ。
ソコニハ本庄侍從武官長モ居ラレタ。
兩大将將ハ戒厳司令官ヘ右ノ情況ヲ傳ヘニ行カレタ。
其時川島大臣ガ情況ヲ聞キ度イト云フノデ、私ト眞崎大將ト二人デ憲兵司令部ヘ行キ、
局長等參集ノ席デ會見ノ狀況ヲ話シマシタ。
此大臣ノ処ヘ行ク前、小藤大佐カ、鈴木大佐カラ栗原外一名モ隊長ノ指揮下ニ入リ、
今夜ハ休息スルガ、明日ハ小藤大佐ノ指揮下ニ行動ス、トノ旨聞ク。
ヨツテ、私モ大久保ノ自邸ヘ安心シテ歸リマシタ。

<二十八日>
二十八日午前七時半、偕行社ヘ行ツタ処ガ、栗原ガ首相官邸ヲ動カズ、
或ハ奉勅命令ガ出ルトカ、蹶起部隊ガ惡化シタトノ情報ヲ知リ、驚ク。

午前十時頃、林大將、荒木大將ニ戒嚴司令部ニ行ツテ貰ヒ、
兵力使用ハ注意ヲ要スル旨忠言セシメ、他參議官ハ待機ス。

午前十一時頃林大將、荒木大將 歸リ來リ、
戒嚴司令部ノ蹶起部隊ニ對スル態度ハナカナカ強硬ニシテ、殊ニ石原大佐ノ如キ最モ強硬ナリ、
戒嚴司令官ハ命令ヲ下シタルガ、第一師団ハ兵ヲ動カスノハ夕刻迄待ツテ貰ヒ度イトノ事ナリ。

◎  二十七日夕刻宮中ノ參議官宮殿下ヘ、私ト眞崎が情況報告ニ來リシ際、
  東久邇宮殿下ヨリ眞崎大將ヘ、
「 罪ノ無イ下士官以下ヲ殪スハ大御心デナイ。
  命ニ從ハンナラバ、同志ノ者丈ケ殘シ、他ハ歸ラシテハ如何カ 」
トノ御言葉アリ。

午後荒木大將ハ陸軍省ヘ、植田、寺内大將ハ戒嚴司令部ヘ行ク。
寺内大將ノ歸ツテノ話ニ、第一師團ハ午前中ハ道カヌ話デアツタガ、
山口ガ來テノ話デハ命令通リ道クト云ツテ居タ。

二十八日午後五時頃、鈴木大佐ヨリ、
蹶起部隊ハ兵ヲ歸シテ將校ハ全部自仭スルニ決ス、ヨツテ勅使ヲ賜ハリ度イ、トノ話アリ。
其當時小藤大佐ハ未ダ現地ヲ撤シ、屯所ヘ復歸スル命令ハ下シ居ラズ、
ソノ内、幸楽ヘ行ツテシマツタ。
鈴木大佐モ其儘トナツテシマツタ。
其時、鈴木大佐モ、外部カラ手ガ廻ツタ、將校丈ケナラバ方法モ有ツタガ、此デハ駄目ダ、
ト言ツテ居タ。
私モ當時北一輝カラ 「 腹ヲ切ルノヲ待テ 」 トノ通信が彼等將校ニ在ツタト聞イテ、
コレデハ駄目ト覺ヘタ。

<二十八日>
二十九日は午前中、宮中デ情報ヲ聽キツツ、大體事件ノ見透シモツキ、
私ガ進退伺ノ案ヲ立テ、皆デ直シ、夕刻川島大臣ガ見エタカラ之ヲ提出、
一同謹愼シ居タリ。

阿部大將ノ感想
荒木大將ハ彼等將校ニハ評判ハ惡カツタ。
眞崎大將ハ前述ノ如ク彼等ニ信頼アリ。
然シ、本事件ニツキ、眞崎大將ガ何処迄事前ニ承知シ居タルヤハ推測シ難キモ、
オソラク本事件ニ關与ナキモノト思フ。
只、若イ將校ガ斯ル事件ヲ起シタナラバ、
其後ハ眞崎大將ガ時局ヲ収拾シテ呉レル位ニ考ヘテ居タモノニアラズヤ。
北、西田ノ如キモノハ此際処置セザレバ、悔ヲ後世ニ殘スモノト思フ。
荒木大將モ、
北ノ如キハ革命ノ魔王ナリ、
ト評シ居タリ。


二 ・二六事件秘録(二) から


大臣告示の成立経過

2020年06月10日 17時49分55秒 | 説得と鎭壓



大臣告示の成立経過及発表方法の誤
大臣告示
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘス
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ 大御心ニ俟ツ
右は、
二十六日宮中に於ける陸軍軍事参議官会議で審議成立した。
尤も 成立するまでは、軍事課長村上啓作の起案に係るものあり、
或は 荒木大将の改訂起案したものもある等で、
非常に議論沸騰容易に纏らず。
漸く一応前記の如く成立したが、
之を如何なる形式に依って発表するか、
或は 軍事参議官一同の名を以てしては如何かとの意見を述べたものもあった。
然るに 軍事参議官中には宮殿下もおありのことなれば、
斯くては穏やかでないとの理由に依り、大臣告示の形式に依ることとなった。
而して、該告示は、
単に参議官が蹶起部隊を説得する為の手控えとする積りであったのを、
当時各方面が殆ど混乱の極に陥って居た為、種々の手違いから、
之を印刷に附し戒厳司令部の手に依って、蹶起部隊に配布せられた。
之に依って
蹶起部隊は
我目的の達成近きに在り、情勢好転せりと、大に歓喜したとのことであった。
告示審議の際、
「 諸子ノ真意 」の点、最初は 「 諸子ノ行動 」 と あったが、
行動とするは 極めて穏やかならずとの論が出て、
後に 「 真意 」 と 改められた。
之は海軍側からの異論に依ったことと聞いたやう語った者もあった。
第一項 「 蹶起ノ趣旨天聴ニ達セル件 」 は
言ふ必要なしとの意見多くありしも
荒木 真崎両大将 極力之を支持し天聴に達せることを言はされば
叛乱将校 ( 叛軍幹部 ) は 到底説得に応ずるものに非ずとの主張により成立す
之は当時の杉山 ( 中将 ) 参謀次長が、
軍事参議官会議に列席し手配した一節で、其の訂正の個所等全部原文の儘である。
其の際に於ける、真崎大将等が主として発現せし意見の趣旨を十分窺うかがふに足り。
特に注意して其の真意を観るべき点なりと思考す。

 参考
一 堀丈夫 ( 第一師団長中将 ) 憲兵聴取書、
今にして思へば
大臣告示の如きものは師団長の処に止め置きし方良かりし様に思ふ、
然し 当時の為 偽らざる師団長の感じとしては
頻々として入来する情報に依り 軍事参議官
其の他上層部の人々が非常に努力し居らるる事を聞きたれば
或は 彼等の希望し居るが如き事が出来するにあらざるかと云ふ雰囲気を感じ居たり

二 真田穣一郎 ( 戒厳司令部参謀 ) 検察官聴取書、
私は其の後 ( 安井藤治少将 ) 参謀長に対し
「 大体変なもの ( 大臣告示 ) が 出て居ます 」 と 申したるに
参謀長は、
変なるものと云ふかも知れないが
上司が定められ警備司令官から電話で伝へられ
自分は之を復唱して書いたのだから上司の言はれる通りにするより仕方ない
旨を 云はれたり、
私は香椎司令官にも参謀長に対すると同じ意見を述べたるに、
司令官は
其れはそうだがそう急にはいかぬ、上よりの事だから
と 云はれ
ポケットより手帳を取出し 読上げられたるが
内容は陸軍大臣よりとの同様なり、
私は司令官に
叛軍に銃剣をつきつけられて書いた契文の様なものです、
左様なものは駄目です
との 意見を述べたるに
司令官は、
君は個人として左様云ふか 上司から定められたもので叛軍は宮中に這入って居ない、
銃剣を突付けられて居ない、
責任を以て自分が遣って行くのであるから
自分が斯うと定めた事は其の通り遣って貰はねばならぬ、
又 意見のある処はどしどし述べて呉れとの意味を云はれたり。

当日下令せられた警備令是非論
一、東警作令第三号(二十六日午後三時)
 第一師団長ヲシテ本朝来行動シアル軍隊ヲモ含メ昭和十年度戦時警備計画ニ基キ
 所要ノ方面ヲ警備シ治安ノ維持ニ任セシメ
二、師戦警第二号(二十六日午後七時二十分)
 歩一長は本朝来行動シアル部下部隊及歩三、野重七ノ部隊ヲ指揮シ概ネ桜田内、
 公園西北側角議事堂、虎ノ門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ヌル
 線内ノ警備ニ任スヘシ
 歩三長ハ其他ノ担任警備地区ノ警備ニ任スヘシ
三、師戦警第一号
 歩三長ハ本朝来行動シアル部隊ヲ併セ指揮シ担任警備地区ヲ警備シ治安維持ニ任スヘシ
 但シ歩一ノ部隊ハ適時歩三ノ部隊ト交代セシムヘシ
右 発令せられた当時、
何人も奇怪極まる命令なりと驚いた。
一体 叛乱部隊をして其の占拠地区方面を警備し治安の維持に任ぜしむるとは何事であるか、
矛盾撞著も甚だしき限りであると批評した。
蹶起部隊にたいする判決中にも
「 斯クテ被告人等ノ大部ハ一般ノ情勢好転セリト判断シ 益々其ノ所信ヲ深メ
香田清貞等ハ其ノ形式ノ下ニ於テ被告人等ノ企図ヲ断行推進セムト志シ
小藤恵ニ対シ全面的ニハ其ノ指揮下ニ入ルヲ肯セス云々 」
とありて、蹶起将校が右発令に依って
情勢好転せりと喜んだのは当然であると思ふ。
後日
当局は右警備令に付て
「 警備令ニ基ク警備ノ対象ハ
行動部隊並ニ之ニ呼応蜂起ノ虞オソレアル過激及此虚ニ乗ジ
治安ノ攪乱ヲ企図スベク予想セラレシ赤系分子ナルガ
行動部隊ノ名ヲ警備司令部告示ニ掲ケザリシ所以ハ
之ヲ掲ゲタル場合ニ於テハ指揮下警備部隊ノ対敵行動ト相俟アイマッ
行動部隊ヲ無理ニ刺戟シ却テ事件解決ノ方針ニ反シ
直ニ流血ノ惨ヲ見ルヤ必セリト判断セルニ因ル 」
弁明せしも
之は一の言逃れに過ぎずして論理一貫しない
又 栗原安秀は
「 当時ノ陸軍大臣告示ノ如キ 又 戒厳司令官命令ノ如キ
明カニ吾々ノ行動ヲ助勢セレレタモノデアリマス云々、
然ルニ
今トナツテ
戒厳司令官ノ命令ヤ告示其他ノ行動ヲ以テ
吾々ヲ鎮撫スル手段テアツタ等
ト 申シテ居リ
マスコトハ欺瞞モ甚タシイコトデアリマス 」
と 言って居る。

二・二六事件秘史 小川関治郎手記 現代史資料23 国家主義運動3 より
 小川関治郎・・二・二六事件を裁く特設軍法会議の法務官