あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

十一月二十日事件 ( 陸軍士官学校事件 )

2018年03月30日 17時57分43秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

武藤も学校内に新たな同志がふえたことに、なんらの疑念を抱かずよろこんだであろうし、
その武藤の紹介する佐藤に、村中大尉らも別に警戒はしなかったのだろう。
スパイといっても、そのころの士官学校ではスパイの教育などしなかった。
だから無理もないことだが、佐藤のスパイ振りは功をあせる拙劣なものだった。
少しの警戒心さえあれば簡単に見破れたにちがいない。
一つには村中大尉が陸軍大学に入る前、士官学校で区隊長をしていて、
士官学校の生徒のことを知りすぎていたことも逆に佐藤に乗じられる結果となったのかも知れない。
士官候補生がまさかスパイをしようなど、恐らく村中大尉の思考の枠内にはなかったのだろう。
それでも流石に、少しはおかしいと思ったこともあったらしい。
私があとで村中大尉に、
「 どうして、あんなつまらないこといったんですか。」
と 別にとがめるわけでなく、きくと、
「 うん、あまりしつこく聞くんで、おれも変だとは思ったが・・・・」
と、照れ臭そうにいつて苦笑したものだった。

佐藤は村中大尉に、クーデターはいつやるかときいた。
村中大尉はいまそんな計画はないといった。佐藤は将校がやらなければ士官候補生だけでやる。
青年将校は五 ・一五のときのように、また士官候補生を見殺しにしていいのか、と畳みかけてきいた。
士官候補生を見殺しにするとは、いい殺し文句を知っていた。
これは村中大尉だけでなくても、当時の青年将校の誰にとっても痛いことだった。
さわられるとうずく、古傷ならぬ、まだ生々した傷痕だった。
村中大尉は、この文句にだまされてしまうのだった。
武藤も銅座して佐藤の言を真にうけた村中大尉は、士官候補生の軽挙を心配した。
近くやるから安心せよ、それまで待っておれと、その場逃れの約束をした。
これで引き下がってはスパイの任務は果たせない。
佐藤はなおもしつこく、時期はいつか、実行計画を示せと食いさがった。
・・・末松太平 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」

十月二十八日であった。
午後三時頃私が西田をたずねると、大ぜいの先客があって応接間はにぎやかであった。
西田は二、三名の士官候補生と磯部と交えて、深刻そうに話していた。
士官候補生の中に、新顔が一人肩をいからしているのが目にうつった。
私は廊下のすみに陣どった安藤らのグループの中にはいった。
野中と安藤と私の三人で話し込んでいるとき、
西田と新顔の士官候補生との対話が私の耳に飛び込んできた。
「 西田さんはこの堂々たる邸宅を構えて、豪奢な生活をしているようですが、その費用はどこから出ていますか 」
私は、生意気な候補生だと思った。
だが同時に気概のありそうな奴だとも思って、好奇心をもって眺めた。
「 あの士官候補生は何者だ? 」
私は、安藤にきいた。
「 私もさっききいたばかりですが、佐藤という候補生だそうです。
 武藤の話によると青島戦争のときの有名な軍神、佐藤聯隊長のわすれがたみだそうです 」
佐藤の直情径行的なぶつかり方な、西田は少々もてあましぎみであった。
話のころあいを見はからって、私は佐藤に近づいた。
「 佐藤候補生といったね。オレは大蔵大尉だ。おとうさんに負けんようがんばるんだなァ 」
「 これをやりますか 」
佐藤は、いきなり拳銃を撃つまねをしていった。


「 武藤与一候補生が佐藤勝郎という士官候補生をつれて日曜ごとにやってきた。
 青年将校が蹶起しなければ、士官候補生だけででも起つというんだ 」
「 それで、貴様、何と答えたんだ ? 」
「 やる時期がくればわれわれが起つから、おまえらは心配せんでもいい、と いっても佐藤はなかなかきかないんだ 」
「 それでどうしたんだ 」
「 だれだれがどこどこを襲撃するという風に、きわめて常識的なことを並べて説明したんだ。
まあいわば カイジョウロウカクみたいなものだ 」
「 なんだそのカイジョウロウカクとは 」
村中は、火ばしをとって火鉢の中の灰に字を書きながら、
「 灰の上の楼閣という意味だ。
佐藤はオレがこうやって灰の上に字を書きながら説明するのを熱心にきいていたんだ 」
・・・大蔵栄一・ 村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」

  
村中孝次

十一月二十日事件
( 陸軍士官学校事件 )
目次
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・ 幕僚の策謀 『 やった、やった、スバイを使ってやった 』
十一月二十日事件をデッチあげたは誰か 
・ 十一月二十日事件 ・ 辻大尉は誣告を犯した 
・ 辻正信大尉 
・ 憲兵 塚本誠の陸軍士官學校事件


・ 所謂 十一月二十日事件 
・ 十一月二十日事件の經過
・ 士官候補生の十一月二十日事件
・ 栗原中尉と十一月二十日事件
・ 荒木貞夫が観た十一月二十日事件 
 
西田税の十一月二十日事件

法務官 島田朋三郎 「 不起訴處分の命令相成然と思料す 」
・ 粛軍に關する意見書
正面衝突 ・ 村中孝次の決意
・ 栗原中尉と齋藤瀏少将 「 愈々 正面衝突になりました 」

・ 三角友幾 ・ 辻正信に抗議

士官学校予科に入学すると、一中隊三区隊に所属した。
このとき、村中さんが六区隊長をしていた。
入校した生徒たちは、正式の入学式のある前に、とりあえず週番士官から話を聞くことになっている。
ちょうど、村中さんが週番士官だったが 自習室に生徒一同を集めて訓示した。
『 お前らは士官学校へ入って、将来の元帥、大将を夢みているかもしらん。
或は 出世して金が入るとおもっている奴もいるかも分らん。
だが、そんな甘い考えは一切捨てろ。 市ヶ谷はそんな人間を育てるところではない 』
私には村中さんのこの言葉が衝撃で、なるほど、自分は村中に指摘されたような人間だと思い、
これではいかんと反省した。
その矢先に五・一五事件があった。
村中さんは、事件に関連して士官学校を去った。
部内には、この事件に参加した士官候補生に同情的で、
校長以下幹部も、彼らの手段は悪いが、その純真な精神は買うべきだという態度であった。
私などはそれに力を得た。
村中さんは士官学校には出入り禁止だったが、一度会ってゆっくり話を聞きたいと思っていた。
予科二年のとき、軽い病気で医務室へ入室したが、そこに当時本科生の田中哲夫という人が治療に来て話をしていた。
聞いていると村中さんの名前が出る。
そこで、村中さんを知っていますか、と田中に訊くと、
もちろん、村中さんも西田さんも、知っているという 田中の返事だった。
彼は一度連れて行ってやると私にいってくれた。
それをきっかけに村中さんへ出入りするようになった。

村中さんは旭川の二十六聯隊だが、当時陸大生で、明治神宮の近くのアパートに居た。
外出日にはちょくちょく 一人で行くようになった。
岡本という同期生も誘った。彼は山口県人で、同じ区隊だった。
彼とは革新運動をやるといって血判まで捺して誓った仲だったのに、後に運動は止めたと言って去って行った。
みんな 利口で、なかなか同志はできなかった。
思想運動をやると成績が下がる。
自分はあまり頭もよくないが、それでも一年は中ぐらいだったのに、
二年になると がた落ちになってビリ近くになり、区隊長に注意された。
しかし、『 国家改造法案 』 などは何遍も読んで勉強した。
それでないと運動からも置いてゆかれる。
日曜日に岐阜県人会の下宿で一生懸命 『 国家改造法案 』 を読んだ。
このころ、私は上級生とも会わず、村中宅へ個人的に出入りしていた。
百姓出の私は郷里での農民の生活を実際によく知っていたから、五・一五事件では大きな刺戟をうけた。
私はともすれば過激なことを口走った。
すると村中さんは、事件を起す起さぬ段階ではない、と、よくたしなめた。
しかし、農民生活の経験があり、政党や財閥の不正に義憤を感じて捨石になろうと誓っていた私は、
いつもそれを迎える村中さんに失望すら感じていた。
村中さんはこう言った。
『 やるやらないが問題ではなく、日本がこういうことではいかん、
 という理論が国民の間に澎湃ほうはいとして起ってくることが必要なのだ。
人を斬らずにすめば、それが一番いい。斬るとか斬らないとかいうのは末の末の問題だ 』
村中さんのところで、磯部さん、栗原さん、安藤さんにも知り合った。
栗原さんは挨拶代りに 『 ぶった斬れ 』 という人だった。
磯部さんはちょっと おっちょこちょいみたいなところがあった。
安藤さんは立派な人だった。
岐阜県人だし、近づきたかったが、あまり機会はなかった。
或る日、西田税を紹介してもらって行くと、栗原さんに会った。
『 オイ 武藤、いっちょうやるか 』 という風だった。
過激なのは栗原さんだけだったと思う。
もちろん五 ・一五のときも村中さんは西田さんと同じ立場だった。
相澤さんにも村中宅や西田宅で会ったことがあるが、おっとりした、よく考えてものをいう人だった。

私は昭和九年九月一日に本科へ入学したが、
同期生の中だ只一人の同志だった岡本に去れらてとても孤独だった。
早く 四十八期に同志をもちたいと焦っていた。
そんなとき佐藤が向うから近づいてきた。
ある晩、屋上で夕涼みをしていると、
『 武藤だね 』 と 近寄って来た候補生が、自分は四十八期の佐藤だと名乗り、
天下国家を論ずるようなことをいい出した。
藁をもつかみたいような気持だった私は、佐藤とすぐ意気投合した。
『 西田を知っているか。村中を知っているか 』
と 訊かれて、前後の見さかいもなく私はそれに飛びついた。
『 じゃ、今度村中のところへ連れて行け 』
と 佐藤が頼んだので、次の外出日に二人で行くことにした。
後から考えれば、まことに不自然な出遭いだった。
中隊の違う人間が私を知って名指しで近づいてくるのも変である。
隊が違うと生活が全く別で、お互いに知り合う機会は少ない。
それに、私も相手の人間を見もしないで仲間となった。
しかし、まさか士官候補生がスパイをするとは思ってもみなかった。
彼との出遭いは九月の終りだったか、もっと後だったか、記憶がはっきりしないが、
十月初めだったとしても十一月二十日の事件まで外出日は数えるほどしかなかった。

村中さんのところへ次の日曜日に早速 佐藤を連れて行った。
村中さんは会うと初対面の佐藤が、
『 誰を殺りますか。誰地誰をいつ殺るんですか 』 などと言い出した。
村中さんがどぎまぎして、
『 殺るのが問題じゃないのだ。革新運動は斬った張ったではないんだ 』
と たしなめた。
それでも佐藤は自分から、
『 ××と××を殺るんでしょう 』 などと言い出したので、
村中さんはたまりかねて、
『 何を言うか 』 と 佐藤を怒鳴った。

事件の前の日曜日に西田税の家に二人で行った。
西田さんのところで佐藤が、『 あれとあれを・・・・』 というような事を言った。
西田さんはいいかげんに 『 いいだろう 』 とか 『 うむ、そうだな 』 とか、『 時期は近いうちだ 』
などと相槌を打っていた。
それで、具体的なことは西田さんのほうから云わずに、全部佐藤のほうから質問のかたちで言ったのである。
この日が事件の前の最後の日だから、具体的な話は西田の家で出たと思う。
村中さんは佐藤がうるさくなったので彼から逃げたのだ。
西田のところへ行ってみろと村中さんに云われて、この日二人で西田を訪ねて来たのだった。
そんなわけで、佐藤には村中、磯部、西田の三人を紹介したと思う。
二人で村中宅へ行ったのは二回くらい。
たとえ村中さんたちに何か謀議があったとしても、私達にそんなことを言うわけがない。
佐藤は入ったばかりだし、私もまだヒヨコだったから、村中さん達が大事なことを打明けるわけはないのだ。
それに、佐藤があんまり激しいことを言うので村中さんも警戒していたと思う。

十一月二十日に手入れがあり、村中、磯部、片岡太郎の三人が憲兵隊へ連行され、私達候補生は校内に軟禁された。
自分は授業中に呼びにこられて中隊の小使室に入れられた。
別に見張りが付くわけでもなく、小使が居た様に思う。
中隊長と区隊長が蒼くなっていた。
この二人に調べられた訳だが、『 日誌を持ってこい 』 と言われて、
本当はつけていなかったのだが、『 下宿にある 』 と言うと、外出証明をやるから取ってこいと言われて下宿へ行った。
実はここにもないのを知っていたのだが、これを幸いに 『 改造法案 』 などを処分した。
誰か尾けてきたかもしれないが、ありませんでした と帰ると、何事もなかった。
自分のいる小使室へ一中隊の小使がやって来て、辻が呼んでいるという。
私は上官が使いをよこしたので隣の中隊へ出向いた。
辻が私を調べようとしたら、ろくにものを言わぬうちに自分の中隊長が怒鳴り込んで来た。
( 第二中隊長は古宮正次郎少佐、区隊長は田中義男中尉 )
辻はもう一度小使をつかって呼びに来た。
二回目は佐藤とどうとか言い出すと、やっぱり中隊長が呼びにきて駄目になった。
古宮中隊長は辻に 『 何だ、他人の中隊の候補生を・・・・』 と 怒鳴った。
辻は 『 悪い意味はない 』 と 弁解していた。
辻にとっては私が別の中隊だったのが全くの不幸だったといえる。
二中隊では私を監視するより、辻が捕まえにこないかと神経を使っていた。
これを見ても辻が工作したのは明らかだ。
この行為が校内で問題になって辻は重謹慎三十日かになったという。
我々の革新運動だけが問題なら、当局が辻にこの処分をするのがおかしいということになる。

何日か経って軍法会議へ行くと言って田中区隊長が付き添って学校を出た。
ところが、着いた先が代々木刑務所で、区隊長は驚き、学校側もあわてふためいて抗議した。
しかし、我々は未決へ入れられた。
学校が抗議するまでは犯人扱いだったが、後はストーブまで入れてくれた。
未決から軍法会議へ行く車で荒川達と一緒になり、佐藤がスパイだったと知った。
九十日間代々木の未決に居たわけだが、この間取調べは二度だけで、
一回は信念などを聴かれ、二回目は事件の経過を調べられた。
我々は証拠不十分で不起訴になった。

・・・ 候補生・武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」


幕僚の策謀 『 やった、やった、スバイを使ってやった 』

2018年03月28日 05時30分43秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

< 昭和九年十一月 >
二十日の日、私は兵要地誌班の部屋で池田純久と雑談していた。
そこに片倉が跳び込んできて
「 やった、やった、スバイを使ってやった 」 という。
二人がなにをやったのかときいたら、
「 村中、磯部をやった、これから大臣に報告にいく  」 
といって部屋を出て行った。
池田は、おなじ軍隊で、スパイを使ってやったのやられたのとは全く不愉快だとつぶやいた。
私は村中と原隊はおなじ旭川の二十六聯隊で、
村中が陸軍大学受験を志したとき、私が陸軍大学出というので、
個人教授 ( 教官、試験管のくせや問題について ) みたいなことを、
一週間に二日ほど村中にやったことがあるので、村中には特別の親しさをもっていた。
それに あの頃の情勢は十分わかっていたので、なにが起きたか、わかった。
二十分ぐらいして片倉がもどってきて、
「 さっきの話はきかんことにしてくれ 」  というから、
「 いやだめだ、もう耳に入っている。 しかし、いわんでおいてくれというなら、いっさいいわない 」 
と 答えたら 片倉は
「 それでいい 」 と いってでていった。 ・・・田中 清少佐
  
片倉衷少佐          
辻正信大尉         村中孝次大尉   磯部浅一一等主計 片岡太郎中尉      
幕僚の策謀
『 やった、やった、スバイを使ってやった 』
所謂 十一月二十日事件 
昭和9年
10月23日  片岡太郎中尉、武藤、佐々木、荒川、次木候補生に襲撃計画を語る
・・陸士予科の区隊長 歩兵中尉片岡太郎 ( 四十一期 ) は、高知県出身者の日曜下宿土陽会で、武藤与一他三名の質問に答え、
歩一、歩三それぞれに千葉の戦車隊が参加し、政府高官や重臣を襲撃する・・・・・・ 士官候補生の十一月二十日事件
同志将校は、大蔵、安藤、村中の各大尉、磯部主計、栗原中尉・・・・・・十一月二十日事件の経過
10月24日  辻大尉、佐藤候補生、青年將校の内部偵察に関し密某す
10月28日  佐藤候補生以下五名、磯部を訪問す
・・佐藤ハ此時、『 実行計画ハアルカ 』 『 軍刀ハ準備シアリヤ 』 『 青年將校ノ指導者ハ誰カ 』 等、質問す
10月28日 佐藤候補生他二名、
磯部と共に西田税を訪問す
・・
西田宅には、大蔵栄一、安藤、野中、が在た  ・・・村中孝次 「 カイジョウロウカク みたいなものだ 」
11月3日  佐藤、武藤候補生、村中宅を訪問す
・・佐藤は士官候補生のみにて臨時議会に直接行動を決行する決意ノアルのある事を
述べ、
青年將校の實行計畫ナルモノヲなるものを聞出さんと努めしも武藤候補生にたしなめられて質問を斷念中止して帰る
11月3日~10日  ( 辻大尉週番中 ) 佐藤の手引により、 佐々木、荒川、次木、武藤其他数名の士官候補生、辻大尉を訪問す
辻大尉 ・・ 「 青年將校は不純分子である、青年將校は自ら蹶起するに非ずして、士官候補生を煽動利用せんとするものである 」
11月11日 (日)    佐藤、武藤、佐々木、荒川、次木候補生、村中孝次宅を訪問 ・・村中、実行計画を語る
・・武藤ハ牧野伸顯邸ノ位置ヲ質シ、佐藤ハ候補生ノミニテ 輕機三挺ヲ以テ議會開會中ニ議會ヲ襲撃セント云ツテ實行計畫ノ開示ヲ強要シタルヲ以テ
私ハ前述ノ如ク一先ツコノ興奮ヲ鎭壓スル爲 青年將校ニモ決意ノアル事ヲ示サウト思ツテ 實行計畫ナルモノヲ即席作爲シテ、兩名ニ示シタノテアリマス。
此日武藤カ從來ノ傾向ト全ク異リ矯激ナ態度ニナツタノハ前項ノ辻大尉訪問ニ於テ同大尉ノ煽動示唆しさニヨリ
私共ニ對スル一抹ノ不信頼ノ感ヲ抱イタノカ、
或ハ 佐藤候補生カ 前回武藤ノ制止ヲ受ケタ失敗ニ鑑ミ 武藤ヲ煽動シテ同人ノ口ヨリ計畫開示ヲ強要サセタ結果テアリマセウ。

11月11日 (日)   塚本憲兵大尉、辻大尉宅へ
11月12日  佐藤候補生、村中との会見内容を辻大尉に報告す
11月15日  歩兵砲学校終業式
11月16日  辻大尉、北野生徒隊長に報告
、片岡中尉、生徒隊長から取調を受ける
                辻大尉、片倉少佐と會見、同夜 片倉少佐宅を訪問し佐藤の報告に關し連絡す
11月17日  新宿宝亭慰労会
11月18日 (日)    佐藤、佐々木、荒川、次木候補生、村中孝次宅を訪問 ・・佐藤、しつこく村中にくい下って時期の明示を迫る
11月18日 佐藤候補生、再度村中宅へ
 ・・佐藤ハ各種ノ口實ヲ設ケテ決行時機ヲ探索セントシ、 又 佐藤ハ武藤ヲ西田宅ニ到ラシメ、軍政府ノ首班ハ誰テアルカト探ラセテ居リマス。
( 11月18日以前に辻大尉は塚本大尉ニ内報す )
  夜  塚本大尉、辻大尉を訪問す ・・片倉少佐に會見すべき旨の勧告を受る。
11月19日  佐藤候補生、筆記報告を辻大尉に呈出 ・・辻正信、生徒隊長 北野憲造大佐に報告す
   午前中、辻大尉、片倉少佐に連絡す
   塚本大尉、片倉少佐を訪問 ・・概要を聴取 ・・是れを城倉憲兵中佐に報告す
   城倉中佐、片倉少佐から内報を受けた後塚本大尉の報告をける
   午後四時、片倉少佐、辻大尉に連絡す・・午後4時頃  塚本憲兵大尉、参謀本部に片倉少佐を訪る 
   此日辻大尉、佐藤候補生を取調
   塚本大尉、憲兵司令官に報告す ・・午後九時~ 20日午前三時迄 憲兵司令部会議・・検挙決定す
・・片倉少佐の話によれば、辻は佐藤候補生から、
「 陸大生の村中大尉、野砲一の磯部一等主計らの急進将校は、
十二月初め、兵力をもって臨時議会を襲い、同時に重臣および政府要人を襲撃することを計画している。
急進将校は部隊、学校に所属しているが、その中心勢力は 歩一、歩三である 」
との 報告を受けた
・・・憲兵 塚本誠の陸軍士官学校事件
片倉の口から 「 いま省部では 軍務局長永田鉄山少将、軍事調査部長山下奉文少将、
 参謀本部第二部長磯谷廉介少将 の 三人で対策を協議している 」
と 聞く、驚いて憲兵司令部に帰り、司令官の田代皖一郎中将に報告した。
夜九時すぎである。

田代皖一郎中将  持永浅治大佐   橋本寅之助中将
持永浅治東京憲兵隊長は 「 こんなことはいつもの事です 」 と、あまり問題視していなかったが、田代司令官は橋本陸軍次官に相談に出かけた。
その夜更け、事件のもみ消しを恐れた辻は塚本と片倉を誘い、
寝静まった次官の私邸に塀を乗り越えて入り、穏便に事を済まそうとしている橋本次官にハッパをかけて帰った・・・十一月二十日事件の経過
11月20日 午前2時   塚本大尉、辻大尉宅へ ・・共に片倉少佐宅へ ・・三名同道して陸軍次官宅へ
・・「 本事件が世間に擴まるに從い青年將校にも洩れ、準備未完了でも決行するであろう 」 と、強調シ弾圧を進言要請す。
11月28日  第六十六臨時議会が開催日
12月末  末松大尉、辻正信大尉宅で会見ス
・・・辻正信大尉
昭和10年
2月7日  村中孝次、三名を代表して片倉衷と辻正信を第一師団軍法会議に誣告罪で告訴す
・・・以上七項ヲ通覧スルニ、小官談話中目的、時機等最重要ナル點を擧ケテ
悉ク作爲捏造セルモノニシテ斷シテ誤解ニアラサルハ極メテ明瞭ナリ。
而モ右佐藤ノ陳述ヲ讀ミ聞ケニナリシ後、武藤ノ陳述ヲ讀ミ聞ケラレタリ。
コレニ依ツテ考察スルニ 武藤ノ陳述ハ多少ノ誤聞ト士官學校ニ於ケル訊問ニヨリ
多少佐藤ノ説ニ引キツケラレタリト疑ハルヽ點ナキニアラサルモ、
重要部分ニ於テハ殆ント小官ノ述ヘシ所ト符節ヲ合スル如クナルニ拘ラス、
同一事項ヲ二度反復耳ニセル佐藤カ
小官ノ陳フル所ト全ク表裏ヲ異ニスル所説ヲナスハ實ニ意外トスル所ニシテ
直覚的ニ小官等ヲ排陷センカ爲ノ作爲誣罔ナルコトヲ感知セシムルモノナリ。
而シテ斯クノ如キ捏造ハ佐藤候補生一人ノ能ク爲ス所ニアラスシテ、
片倉、辻ノ作爲カ否ラスンハ辻、佐藤ノ合作ナルコトハ敢テ想像ニ難カラサル所ナリ。
以上ノ事實ヨリ推論スルニ 小官カ佐藤士官候補生ニ向ツテ談話セシコトノ内容其儘ヲ以テハ
到底軍刑法ニヨり斷罪シ得サルコト明白ナルヲ以テ
片倉、辻ハ行政的解決ヲ企圖シ夫々當局ニ向ツテ策動シタルモノナルヘク
而モ佐藤カ小官宅ニ於テ諜知シタル事項ノ類ハ十月事件以降
直接行動乃至クーデター論トシテ既ニ俚耳ニモ洽あまねク 軍部ノ上下ハ勿論
民間同志ノ間ニ於テモ日常茶飯事トシテ論議シアルコトニシテ
今更問題視スヘキコトニ属セス、
況ヤ兩人等自ラモ口ニシ企圖シアルコトナルヲ以テ是レヲ以テシテハ
到底當局ノ發動ヲ促スヘクモアラサルコト明瞭ナリ。
玆ニ於テ佐藤ノ偵知事項ヲ基礎トシ之ヲ改竄かいざん歪曲遂ニ原形を留メサルニ至リシノミナラス、
醜惡人ヲシテ嫌忌増惡ノ念ヲ起サシムル内容ニ迄捏造シ
是レヲ以テ上司ヲ誣罔シ 玆ニ軍當局ノ發動ヲ見ルニ至リシモノナリ。
而シテ彼等ハモトヨリ検察處分ニ迄發展スル欲セサリシナルベシ。
蓋シ彼等ノ作爲ハ當然昭々乎タル明鏡ノ其假面ヲ剝カルヘキハ 僞作者自ラカ最モ明確ニ意識スル所ナレハナリ。
然レトモ叙叙上ノ如キ作爲誣罔ハ
當然ノ結果トシモ司直ノ發動ナルヘク彼等ノ欲セサルトニ拘ラス、
現實ニ於テ小官等ヲ誣告シタルモノナルコトハ否ムルヘカラサルモノナリトス。
片倉、辻兩人カ三月十九日深夜
本事件ヲ携ヘテ橋本陸軍次官ヲ往訪セルコトハ小官入所前 専ラ風評セラレタル所ナリ。
何カ故ニ兩人カ陸軍次官ヲ選定シテ直接ニ誣告セルカ、
又何カ故ニ殊更十九日深更ヲ選定セルカ大イニ疑惑ノ存スル所ナリ。
佐藤カスパイトシテ小官宅ヲ來訪セルハ前論ノ如ク疑フ餘地ナク、
然ラハ 十一月十一日歸校後
或ハ欲十二日、辻ニ偵察ノ結果ヲ報告セルハ亦理ノ當然ニシテ、
十八日ニ於ケル佐藤ノ態度ヨリ察スルニ其報告ニ基キ更ニ辻ヨリ第二次ノ命令ヲ受ケ、
小官ヨリ各種ノ言質ヲ得ント焦慮セシコト推想ニ難カラサルヲ以テ、
十一日或ハ十二日ニ於テ辻ニ報告シタルモノナルコトハ明確ニ推斷シ得ヘシ。
然ルトキ 辻ハ斯カル重大事項ヲ何カ故ニ上司ニ即刻報告スルコトヲ爲サスシテ一週日ヲ空過シ
其間一士官候補生ヲ駆使シテ再偵察ヲナサシムルニ留マリシカ、
何カ故ニ一刻モ速ヤカニ司直ノ手ニ移シテ捜査ヲ開始セシムルコトヲ爲サスシテ十九日ヲ待チ
而カモ深更突然橋本次官ヲ往訪セシヤ、實ニ一大怪事ト謂ハサルヘカラス、
小官ノ推測ヲ以テスレハ
是レ畢竟國家改造運動ノ内面事情ニ全ク不案内ナル橋本次官ヲ特ニ選定シ
臨時議會開催ノ直前ナル十九日而モ深更ヲ利用シテ、不意ニ橋本次官ヲ訪ヒ、是ヲ驚倒駭目セシメ、
如何ニモ一大陰謀カ目睫ノ間ナル臨時議會ヲ目標ニ著々準備セラレアリト信憑セシメシモノナランカ、
彼等ノ作戰ハ明カニ成功セルコトハ、
其後橋本次官カ周章シテ本問題解決ニ著手セルニ照ラシテ論證シ得ル所ナリ。
抑々本問題ノ如キ、若シ佐藤ノ述フル如クンハ到底士官學校単獨ニ處理シ得ルモノニアラス。
當然極秘梩ニ 且 最モ迅速ニ上申シ、司直ノ發動を待ツヘキモノナリ。
何ヲ求メテ 辻一個人カ職責上何等ノ関係ナキ片倉ノ許ニ走リ、
更ニ陸軍次官ヲ深夜衝動セシムルノ理アランヤ、
辻大尉トシテハ十九日夜ハ、當然徹宵校内ニアリテ取調ヘニ從事シ、
順序ヲ經、校長ヲ通シテ所要ノ捜査、処置ヲ行フタメ 一歩モ校門ヨリ出テ得サル狀態ナルヲ至當トス、
而シテ順序ヲ經ルイトマナキ焦眉ノ急ヲ要スル問題ナリト辯解スルナラハ
何カ故ニ 十一日或ハ十二日佐藤ヨリ報告ヲ受ケシ時、
直チニ上司ニ報告セサリシカ、小官ハ玆ニ於テ論斷セン。
片倉、辻兩人ハ密某ノ結果、殊更計畫的ニ発表時期ヲ留保シ置キ唐突ニ軍當局ヲ衝動シ、
當局ノ感受スル錯覚幻影ヲ大ナラシメ、決然一網打盡ノ掃滅ヲ小官等上ニ加ヘシメント欲セシモノニシテ、
彼等本来ノ目的ハ行政処分ニヨリ
陸軍ヨリ小官等ヲ駆逐スルノ決意ヲ当局ニトラシメント欲セシモノナルモ、
其誣罔捏造ノ結果カ當然司直ノ發動ニ至リシモノニシテ、
何レニセヨ小官等ヲ誣告スルノ結果ニ立チ至リシハ覆フヘカラサル事実ナルヲ斷言シテ憚ラサルナリ。
以上ヲ要約スルニ、片倉、辻兩人ハ從來ヨリ小官等ニ對シ敵意ヲ表シアリシカ、
辻ノ志願達成シテ士官學校中隊長トナルヤ、忽たちまチ腹臣トナルヘキ生徒ヲツクリ、
コレヲ密偵ニ仕立テ小官等ノ内部ヲ偵察セシメ 特ニ直接行動實行計畫ノ有無ヲ探索セシメタリ。
偶々小官カ即成架空ノモノヲ呈示スルヤ、得タリ賢シトナし、
尚重ネテ偵察ヲ命スルト共ニ其偵知内容ヲ改竄シ 當局ヲシテ決意發動シ得ル如キ程度ニ作爲捏造シ
機ヲ見テ軍首脳部ニ迫ツテ當局ヲ衝動セシメ 速ヤカニ處斷セシメント策動セシコト明瞭ニシテ
遂ニ司直ノ發動トナリシモノニナルヲ斷定シテ疑ハサルナリ。
而シテ單ニ小官等末輩ニ對シ刃を向クルハ所期ノ大目的ニアラススシテ
必スヤ林、荒木、眞崎 及其他ノ諸將軍ニ迄波及セシメント欲セシハ疑フ
餘地ナシ、
而モ此目的ノ爲單ニ片倉、辻兩人カ策動セシニ止マラス、
陰邪醜惡ノ徒之レニ附和シ雷同シテ嫉視排擠ノ爲ニ馳駆奔走セルモノ多キハ
入所中風評ノ耳ヲ椋メルモノ鮮シト雖モ 彼等從來ノ動向ニ鑑ミ尚推想感知セシムルモノアリ。
斯クノ如キ皇軍内部ニ低迷暗流スル不快ナル空氣ノ一掃ハ本事件ヲ契機トシテ斷乎決行セサル可カラサル所、
此機會ニ於テ片倉、辻兩人ノ行動ヲ判然タラシメ 其背後ノ密雲妖氣ヲモ照出セラレンコトヲ切切願望ニ堪ヘサル所ナリ。
是レ小官カ敢テ片倉、辻兩人ヲ小官ニ對スル誣告ノ故ヲ以テ告訴スル所以ナリ。
・・・粛軍に関する意見書 (5)
3月27日 不起訴処分 ・・・法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」
4月2日  磯部が、片倉、辻、塚本の三人を告訴す・・・粛軍に関する意見書 (9)
4月5日  停職処分 ( 行政処分 ) に

軍の内規によると、身分を保証せられた将校は恩給がつくまで行政処分できないが、
これを裁判にもかけずに断行したのです・・荒木貞夫・・・荒木貞夫が観た十一月二十日事件
4月24日  村中の名前で二月に提出した告訴の追加を提出す
以上ノ如ク辻大尉、片倉少佐等ハ、
私カ士官候補生ニ話シタ實行計畫ナルモノニ信ヲ置イテヰナカツタト事ハ明瞭テアリ
コノ自ラ信シ得ナイモノヲ以テ 上司ヲ信セシメ 彈壓ノ決行ヲ促ス爲メニハ各種ノ方策ヲ必要トシ之ガ爲
『 計畫ナルモノ 』 ヲ 惡意的ニ作為捏造シ或ハ 統帥系統ヲ紊ツテ唐突ニ陸軍次官ヲ訪問強請シ
又ハ 『 青年將校ハ未然ニ發覚シタ事ヲ知ツテ準備未完了テアルカ切羽詰ツテヤルタラウ 』
トイフ詭弁的進言ヲナシ彈壓を要請シタリシタノテアリマセウ。
以上縷術ろうじゅつシマシタ事カラ歸納シテ 彼等カ虚僞ノ申告ヲシタト云フ事ハ極メテ明白ナ事実テアリマス。
『・・・佐藤候補生カ青年將校ノ煽動ヨリ諸君ノ脱離セシメンコトヲ期シ 身ヲ挺シテ其ノ渦中ニ入リ
 諸君ヨリ裏切者トシテ斬ラルル事ヲ覚悟シテ立チシ行動ヲ容認シタルハ我ナリ。
諸君ヲシテ臺上ヨリ去ラシムルカ如キ狀ジョウ到ランカ・・・我正ニ死ヲ以テ諸君ニ謝セン、
諸君ノ手ニヨリテ瞑目スルヲ得ハ望外ノ幸ナリ・・・ 三月十三日 』
要スルニ佐藤候補生ハ辻大尉ノ掌頭ニ躍ラサレテ私共ノ情況ヲ探索シタモノテアル事ハ明カテアリマス。
人各々思想ト信念トヲ有シ、其異ナルニ從ツテ正々堂々ノ論争ヲ爲ス事ハ必然的現象テアリ、
社會進化ノ爲絶對的必要ノ事テアツテ、同シク 大元帥陛下ノ股肱テアツテモ、
軍人全部ニ機械的劃一ヲ望ミ得ナイノハ勿論 各々其ノ信スル所ニ向ツテ邁進スルノハ當然テアリマスマイカ。
同シク 陛下ノ股肱テアル軍人同士ニ於テ私利私黨的観念カラ スパイ行動ヲ敢ヘテシテ迄モ
排擠ニ是レ務メルニ至ツテハ斷シテ許スヘカラサル統帥大權ノ冒瀆テアリ、
國軍内部ノ攪亂テアリ、皇軍ノ破壊行爲テアルト申サナケレハナリマセヌ。 ・・・粛軍に関する意見書 (8) ・・(  西田が執筆して、大蔵栄一が清書 )
5月8日  磯部浅一、第一師団軍法会議に出頭し、告訴理由を説明す
5月11日  村中孝次、
陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに上申書を提出す
・・私共一部ノ青年將校ハ今日ニ至ル迄 上下一貫、左右一體ヲ標語トシテ軍ノ鞏固ナル維新的結束ニ努力シ
コレヲ以テ維新御奉公ノ主要事項トシテ終始シ來レルモノニシテ
私共ヲ目シテ直接行動ヲ企圖スル不穏分子トスルハ 寧ロ軍内一部ノ士カ軍事費捻出等ノ苦肉策トシテ
青年將校ノ不穏行動勃發ヲ頻りニ喧傳シテ 政界財界ヲ脅威恫喝スルヲ常套手段トセル結果ニヨルモノニシテ
私共ハ其他各種ノ中傷讒誣さんぶヤ彈壓ヲ甘受シ隠忍シテ 敢テ縅黙ヲ守リ只管擧軍一體ノ御維新翼賛ヘト努力シ來レリ。
然ルニ十一月廿日事件ナル虚構事實ニ驚駭目セシメラレ 且 本事件ト表裏ノ關係ニアル誣告ノ告訴ハ審理進展セス
加フルニ最近ニ於テハ一部青年將校 ( 恐ラクハ十一月廿日事件ノ證人關係 ) ノ昭和六年以降ノ行動ヲ數ヘ擧ゲ 是レヲ罪惡視シテ嚴重ニ處分スヘキ旨
陸軍當局ヨリ全軍ニ令達セラレタルヤノ風聞アリテ人心正ニ沸騰ノ徴アリ、
昭和六年以降ニ於ケル三月事件、十月事件其ノ他ノ國體破壊行動ヲ不問ニ附シ
國家ヲ思フカ故ノ純情熱意ノ下ニ奔走不休日夜ヲ辯ヘサルモノヲ、
青年將校ナルカ故ニ 階級ノ卑シキ者ナルカ故ニ無道ニ彈壓スルカ如クンハ
皇軍ノ紀綱ハ全ク崩壊シテ遂ニ救フ能ハサル結果ニ堕スルハ火ヲ睹ルヨリ明カナリ
私儀  深ク之ヲ憂フルカ故ニ自己一身ニ關係スルコトナルヲ憚ラス
敢テ私見ヲ具申スルモノナリ  幸ニ微衷ヲ諒トセラレンコトヲ 
・・・粛軍に関する意見書 (2) 上申書
5月13日  磯部浅一、第一師団軍法会議に出頭し、告訴理由を説明す
7月11日  粛軍に関する意見書 」 印刷、配布す
7月13日  栗原、坂井、斎藤瀏宅へ  ・・・栗原中尉と斎藤瀏少将 「 愈々 正面衝突になりました 」
7月16日  真崎教育総監更迭
8月2日  村中孝次、磯部浅一、免官

8月12日  相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

いうところのクーデター計画は、
片倉のところで整理され、彼によって新たに加筆されたのである。
・・・この摘発はデッチ上げによるものだった。
だから村中は、刑務所に収容中、辻、片倉を誣告罪で告訴し、
磯部も刑務所から開放されると、片倉、辻、塚本の三人を誣告罪で訴えた。
村中は再三再四、誣告罪による取調べを開始するよう当局に要請したが、何の反応もなかった。
彼等は四月出所と同時に行政処分としては再局限の停職処分をうけた。
停職になると六ケ月は復職はできないし、そのまま一年たてば自然に予備役に入ることになっていた。
彼等は停職中の五月頃、三長官に対し、粛軍に関する意見書を出し、その中で、誣告罪の取調開始を訴えた。
だが、これも梨の礫だった。
とうとう村中、磯部は、七月上旬、「 粛軍に関する意見書 」 と 題する小冊子を印刷して全軍にばらまいた。
いかった軍当局は、彼等を免官にしてしまった。
虎を野に放ってしまったのである。
だが、十一月事件および これに伴う陸軍の処置は拙劣だった。
なぜ、誣告罪の審理をやらなかったのか。
軍法会議が証拠不十分ならずとして不起訴処分にした以上、誣告罪の疑も十分の筈、
皇道派の弾圧に急して、統制派の不純策動を不問にしたのは、どのような理由があったにしても、軍の粛軍態度ではなかった。
この事件を契機として陸軍は大揺れに揺れて、二・二六の破局に至るのであるが、その原動力は、村中と磯部であった。
野に放たれた虎は青年将校を駆って、暴れに暴れた。
相澤事件後、陸相の任についた川島大将は、彼等の懐柔策として、村中、磯部の外国留学を考え、
山下少将その他の民間人を使って、彼等を打診したと伝えられていたが、時はすでに遅かった。
すでに彼等は錚々たる革命の闘志となっていたのである。
林陸相の下、明智をうたわれた永田軍務局長にして、この過失があったことは、くれぐれも残念なことと思われる。
・・・ 十一月二十日事件をデッチあげたは誰か 


所謂 十一月二十日事件

2018年03月27日 19時59分09秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

         
村中孝次            磯部浅一      片岡太郎         辻正信                  片倉衷                   塚本誠


昭和九年十一月
陸軍特別大演習
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(一)  発端
昭和九年十一月
群馬県高崎市附近に於て行われた陸軍特別大演習終了直後
東京の 料亭 宝亭 に於て陸軍青年将校ニ、三十名が会合した。
其中には在京の皇道派と目される急進派的青年将校多数と
金沢聯隊市川中尉、丸亀聯隊江藤中尉、小川中尉等の顔触も見え
皇道派の急進分子が会合し、何事か謀議したるものと思はれた折柄、
其一味の 陸大学生村中孝次大尉が来訪した士官候補生数名に不穏の計画を話した為め、
十一月二十日早朝 村中大尉、磯部浅一 一等主計 外数名の現役軍人が検挙せられ
軍法会議の取調を受けた。

(ニ)  事件の内容
同事件は遂に其の詳細が発表されずに終つたが、
村中、磯部自身取調べを受けた際の被疑事実として
『 粛軍に関する意見書  』 に記載する所によれば次の如くである。
一、事件の全貌
 概ね五 ・一五事件と同様の方法を以て元老、重臣 及警視庁を襲撃し 「 クーデター 」 を決行
ニ、決行時期
 当初は臨時議会前の予定としありしも臨時議会中 又は通常議会の間に決行することに延期したりやの聞込あり
三、襲撃目標
 第一次  斎藤実、牧野、後藤文雄、岡田、鈴木、西園寺、警視庁
 第二次  一木、伊沢、湯浅、財部、幣原
 第一目標襲撃後 首相官邸に集合 更に第二次目標襲撃に向ふ予定
四、首謀者と認むべき者 及 参加者
 軍部側    陸大---村中   砲一---磯部    戸山---大蔵    戦車---栗原
               歩一---佐藤竜雄    歩一---村田    歩一---佐藤操    歩三---安藤
               近歩三---飯淵    歩一八---間瀬惇三
 地方側    西田税
 歩兵学校補備教育中の左記将校 
              歩三八---鶴見    歩三---北村    歩一三---赤座    歩七三---池田
              歩五---鈴木    歩二五---高橋    歩三一---天野    外氏名不詳数名
五、実行方法
 歩一    両佐藤  ニケ中隊・・・・斎藤
 歩三    大蔵  村田  一ケ中隊・・・・後藤
 近歩三    飯淵  磯部  ニケ中隊・・・・牧野    一ケ中隊・・・・岡田
               鈴木  間瀬  不詳・・・・西園寺
 陸士予科 片岡  戦車ニ 栗原  三台・・・・首相官邸  四台・・・・警視庁

(三)  事件の処分
磯部、村中は斯る計画は架空のものなりと主張し、
却って軍内一派の皇道派弾圧の奸策なりとして、
強いて処分するに於ては三月事件、十月事件を公表し是非曲直を明かにすべき気勢を示し、
部内の暗流に絡んで複雑なる関係を生じたものの如くで、
遂に事件は嫌疑不十分の理由を以て不起訴処分に付せられた。
・・リンク→法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」
併し 俗間にてはこの事件を目して皇道派による空前の大規模なるクーデター計画なりとした。
陸軍当局は翌十年四月 当局談の形式を以て左の如く発表した。
( 陸軍当局談 )
昨年十一月中旬在京青年将校及び士官候補生若干名が
不穏の企図をなしあるやの疑ありしを以て
厳正調査のため軍法会議において関係者を取調べたり。
その結果によれば これ等将校及士官候補生は予てより、
我国の現状は建国の理想に遠ざかり宿弊山積し 国家の前途憂慮すべきものあるを以て、
速かにこれを刷新改善して我国体の真姿を顕現せざるべからずとの考を懐き、
これに関し談合連絡等をなしたることあり。
然れども不穏の行動に出づるの企図に関しては徹底的に取調べたるも
その事実を認むべき証拠十分ならず、
軍法会議においては本件を不起訴処分に付したり、
然るところ、これ等青年将校及士官候補生の言動において軍紀上適当ならざるものありたるに因り
それぞれ適応の処置を講じたり。
( 東朝昭和十年四月五日 )
同事件に関し
左記の三名に対して四月二日附行政処分が行はれ
四日附官報に発表せられた
歩兵第二十六聯隊大隊副官    村中孝次
陸軍士官学校付陸軍歩兵中尉    片岡太郎
野砲兵第一聯隊付一等主計    磯部浅一
停職被仰付 ( 各通 )
尚 停職処分は行政処分として最も重きものであつて、六カ月間は復職出来ず
又 一ヶ年以内に復職せざるときは自然休職になる規定となつて居る。
(四)  余波
村中、磯部 両名は三月事件、十月事件に対し何等の処置をも講じなかったのに拘らず、
単なる聞込を以て現役将校を三ヶ月余拘留して取調べたるが如きは
全く偏頗なる処置にして
一に永田軍務局長を中心とする統制派が正義を以て立つ皇道派を弾圧せんためにしたるものと断じ、
軍内攪乱の本源を中央部内軍当局者の間に伏在するものとして
『 粛軍に関する意見書  』 なる一文を作成し、
三月事件以来の諸事件 青年将校一団の行動 及 之に対立する一等あることを暴露し各方面に配布した。
これがため両名は同年八月二日附を以て部内の統制を紊すものとして免官処分に処せられた。
此後 斯る諸事情が因をなして益々部内の暗流の争闘激甚となり、
同年八月の人事異動に関連し
真崎教育総監更迭問題
永田軍務局長刺殺事件
となり、
更に
ニ ・ニ六事件
に迄至つたのであつた。

「 右翼思想犯罪事件の綜合的研究 」
第四章  十一月事件
現代史資料4  国家主義運動1  から


西田税の十一月二十日事件

2018年03月26日 16時39分48秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

< 昭和九年十一月 >
二十日の日、私は兵要地誌班の部屋で池田純久と雑談していた。
そこに片倉が跳び込んできて
「 やった、やった、スバイを使ってやった 」 という。
二人がなにをやったのかときいたら、
「 村中、磯部をやった、これから大臣に報告にいく  」 
といって部屋を出て行った。
池田は、おなじ軍隊で、スパイを使ってやったのやられたのとは全く不愉快だとつぶやいた。
私は村中と原隊はおなじ旭川の二十六聯隊で、
村中が陸軍大学受験を志したとき、私が陸軍大学出というので、
個人教授 ( 教官、試験管のくせや問題について ) みたいなことを、
一週間に二日ほど村中にやったことがあるので、村中には特別の親しさをもっていた。
それに あの頃の情勢は十分わかっていたので、なにが起きたか、わかった。
二十分ぐらいして片倉がもどってきて、
「 さっきの話はきかんことにしてくれ 」  というから、
「 いやだめだ、もう耳に入っている。 しかし、いわんでおいてくれというなら、いっさいいわない 」 
と 答えたら 片倉は
「 それでいい 」 と いってでていった。 ・・・田中 清少佐
・・・幕僚の策謀 『 やった、やった、スバイを使ってやった 』

 
西田税 

十一月二十日事件ヲ何ウ思ツテ居ルカ
私ハ、所謂十一月二十日事件ナルモノハ、全然形モ無カツタモノト確信シテ居リマス。
村中等ニ依ツテ其ノ計劃ヲ立テタトハ、信ジラレマセヌ。
春秋ノ筆法ヲ以テスレバ、
今回ノ二 ・二六事件ハ、十一月二十日事件ニ依ツテ引出サレタモノト謂ヒ得ルト思ヒマス。
十一月二十日事件ニ依ツテ或暗示ヲ与ヘラレテ起ツタノガ、今回ノ事件デアルト観テ居リマス。
私ト青年将校トノ關係ハ不即不離デアリ、
私ノ改造運動ニ附テハ相當信用シテクレテ居ル様デアリマシタガ、
私ノ考デハ、早ク軍ノ將校ガ一體化サレテ貰ヒタイト念願シテ居リマシタ。
改造運動者ノ立場トシテハ勿論、國民トシテノ立場ニ於テモ、
軍内ニ幾多ノ党脉ガアル位危險ナモノハナイノデアリマス。
此意味カラ、私ハ林陸相當時、
所謂統制派幕僚ト云フベキ片倉、田中、池田各少佐等ニ會ツテ、此點ヲ力説致シマシタ。
青年将將校等ハ、私ノ此工作ニ大分期待ヲ掛ケテ居タ様デアリマス。
処ガ、突然十一月二十日ノ陰謀事件ヲ起シ、平地ニ波瀾ヲ巻起シタノデアリマス。
私ハ、以前陸相ヨリ出サレテ居タ問題ノ當案ヲ持ツテ行キ、
序ニ近ク臨時会議ガ開催ニナルノデ、財政農村問題ニ附テ話シタイト考ヘ、
同年十一月十九日陸軍大臣秘書官ト打合セヲ爲シ、
翌二十日陸相ト會見スルコト、
時間ハ當日朝更ニ打合ス事ニシ、
翌十一月二十日朝電話ヲ以テ打合セタ結果、
陸相ガ會見スルカラ 同日午後四時頃陸相官邸ニ來ラレタイト秘書官ヨリ傳ハレ、喜ムデ居タ位デアリマス。
後デ聞クト、秘書官ハ私ニ會見時間ヲ通知シテカラ一時間程經テ陸軍次官ニ呼バレ、
西田ハ陰謀ヲ企テテ居タノダガ、
君ガ會ツタ時顔色デ夫レガ判ラナカツタカ、ト言ツテ叱責セラレタトノコトデアリマス。
兎ニ角不審ニ絶ヘナイノハ片倉少佐ノ態度デ、
同少佐ハ常ニ私ト情勢ニ附話合ヒ、意見ノ交換ヲシテ居リ、
何カ事ガアレバ、直ニ電話ヲ掛ケテ私ノ意見ヲ求メラレテ居タノデアリマスカラ、
所謂十一月二十日事件ガ實際企圖サレテ居ル事ヲ知ツタナラ、
一應私ニ電話ヲ掛ケル位ノ事ヲセラレテ然ルベキダト思ヒマス。
ニモ拘ラズ、其ノ事件ノ時ニ限ツテ何ノ連絡モセズ、
深夜陸軍次官ノ許ニ走リ込ムデ報告セラレタト云フ事ハ、
其ノ心事ノ那辺ニ在ツタカ、諒解ニ苦シム処デアリマス。
私ハ夫レ迄、軍ガ一體ニナラナケレバ、
此文明社會ニ於テ國家改造ハ出來ルモノデハナイト思ツテ居リマシタガ、
此事件ニ依ツテ、私ノ此從來ノ方針ヲ放棄セネバナラナクナリマシタ。

彼等 ( 村中孝次と磯部淺 ) ガ粛軍ニ關スル意見書ヲ出シタ事ニ附、
被告人ハ其ノ信念ヨリ観テ何ウ思ツタカ
彼等ハ、十一月二十日事件ヨリ半年程後ニナツテ夫レヲ出シタノデアリマスガ、
私ハ斯様ナ物ヲ出スノガヨイトハ思ヒマセヌデシタガ、猥みだりニ平地ニ波瀾ヲ起シ、
刑務所ニ勾留シテ取調ベタノデアリマスカラ、
村中、磯部ノ如ク、アレダケ踏ムダリ蹴ツタリセラレタ者ガ奮イ起ツ其ノ気持ハ察シテ遣ラネバナラズ、
又抑ヘテ止マルモノデモアリマセヌ。
私トシテモ、夫レ迄ハ陸軍部内ガ纏ツテ貰ヒタイト云フ気持デ居リマシタガ、
此事件ヨリハ、
先ヅ惡イ分子ヲ軍ヨリ除カネバナラヌト云フ考ニモナツテ居マシタ。

夫レヲ出ス事ニ賛成シタノカ
十一月事件以後、陸軍首脳部デハ私ニ對シ自ラ會フノヲ遠慮シ、
青年将校ニハ西田ニ會ツテハイカヌト注意スル始末デ、軍ノ統一化ヲ計ルニモ話ス相手ガ無クナツテ了ヒマシタ。
私ハ、從來國民トシテ陸軍ノ一體化ヲ念願シ、手ヲ替ヘ品ヲ替ヘ、恥ヲ忍ムデヤツテ來マシタガ、
ヤレバヤル程逆ニ解セラレルノデ、最早斯クナル上ハ手ガ着ケラレヌト思ヒマシタ。
村中、磯部等若イ者ガ、
自分達ガ受ケタ気持ヲ以テ同情アル上司ニ
自分ノ心情ヲ理解シテ貰フ爲ニ出ス粛軍ノ意見書デアリマスノデ、
夫レハ陸軍自ラ陸軍ヲ清メル、所謂粛軍ダケガ目的デアリマスノデ、
夫レハ私ノ第一使命デモナク、範囲外デアリマスカラ、賛成モ反対モアリマセヌ。
何事ガアツテモ、直グ私ガ原動力ナルカノ如ク世間ハ考ヘマスガ、
若イ者等ハ相当ノ年輩デモアリ、相当ノ学問モアリ、
且皇軍ノ将校デモアツタモノデ、之等ヲ奴隷視シタクアリマセヌ。
・・・第一回公判 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

西田は冗談に
「 君は奇妙な男だよ。十月事件のときもそうだったが、こんども事件の元凶でありながら、
なんともないんだからな。 君は無風帯にいるんだな 」
といって笑った。
冗談にもそういわれてみると、村中大尉らが拘留されているのに、
自分がのうのうと娑婆にいることはすまないような気がした。
が 村中大尉らと肩替りするために自首する理由もなかった。
東京が起つというから、あてにして人寄せをしていたのが、
 それが嘘だったので、もとにかえしだけだった。
具体的計画は何一つしたわけではなかった。
ただ千葉の動きが外に伝わって佐藤候補生をスパイにつかう動機となり、
架空な叛乱陰謀をデッチあげることになったとすると
私は西田税のいうように、
冗談ではなく、正しく元凶ということになる。
・・・末松太平 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」


荒木貞夫が観た十一月二十日事件

2018年03月25日 09時21分47秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

永田は人から嫌われるいやな仕事では正面に立たない人です。
この場合は一直線に進む東條を使ったのです。
昭和九年三月 東條は士官学校の幹事になると、生徒隊の中隊長に陸大出の秀才 辻正信大尉をすえた。
辻は皇道派青年将校を陸士からしめだすため策を練り、東條の同意を得たので佐藤候補生を使い実行に移します。
佐藤を革新的な仲間の候補生と共に日曜ごとに青年将校を訪ねさせては彼等の真意を内偵させていた。
しかし、大部分の将校たちは、学生を相手にしなかったので手がかりがつかめない。
ところが、村中 、磯部、片岡という三人の正直者がいた。
或る日 佐藤が村中の所へ行った時 彼が時局を憤慨しているので
「 ではどうしてやるんですか 」
と 誘うと、
村中は
「 そんなことはお前たちにいうかぎりではない 」
という。
佐藤は胸に一物あるので、
「 お話はよくわかりました。いい意見ですが、ご実行にならないのですか 」
といった。
正直者の村中は
「 実は・・・・」
と、さも本当らしく事細かくデタラメをいい、その場をつくろったわけです。
五・一五事件前後には青年将校は非合法行動はいっさいとらないと申し合わせができていました。
それまで若い将校は、捨て石 になるため、結婚と陸大受験はしないことになっていたが、
再び落ちついて両方とも 望むようになっていた。
村中も
「 これからは上層部を信じ軍務に専念します。その代わり上層部はしっかりやって下さい 」
と 私に手紙をくれ、八年には結婚し、陸大の試験も受けています。
そんな状態だったから、佐藤にしゃべった件について村中は
「 五・一五事件の時も我々は非合法を行わなかった。
今、佐藤らの過激な若者を放っておけば、非合法活動に追いやるかもしれない。
これを防ぐためには、何かと彼等の心を握っておかなくちゃならんと思いウソをついた 」
と いっています。
しかし、佐藤はよいネタを握ったとばかり辻に報告、
辻は本来なら教育総監である真崎のところへ持って行くべきものを、陸軍省へ行って林陸相に伝えた。
翌十一月二十日 直に各隊に憲兵隊が派遣され
村中大尉、磯部主計、片岡中尉、候補生五名が検挙され投獄されました。
しかも 憲兵の捜査を経ないで直接軍法会議にかけたが、現実に非合法計画の証拠も出ず、
十月四日不起訴となった。
これだけなら何も起こらなかったであろうが、
同時に村中ら三人を停職処分にして窮地におとし入れ、村中は陸大を退校させられた。
これが十一月事件です。
そこで事情のある片岡をのぞいて、村中と磯部は激怒し、「 粛軍に関する意見書 」 を 書いた。
これは美濃紙に印刷し、番号をふって十二冊だけ作り、三長官と軍事参議官などに上申したのです。
ところがこれを政党が利用し、印刷してバラまいたために、
これがまた永田の逆鱗に触れ、二人とも免官にされた。
軍の内規によると、身分を保証せられた将校は恩給がつくまで行政処分できないが、
これを裁判にもかけずに断行したのです。
そこで再び青年将校が怒り出した。
上層部が非合法手段をとるなら、俺たちもやるぞ、ということになったのです。
そのうち閑院宮まで利用した無理な手段で統制派の最大の障碍である真崎教育総監を
十年七月十五日、強引に更迭してしまいました。
これが相澤事件となり、二・二六事件の近因となったのです。


新人物往来社  昭和40年2月
目撃者が語る昭和史  二・二六事件
インタビュー・事件の真因を衝く
元陸軍大将 荒木貞夫 
から

私が熊本の師団長時代、
鹿児島の菅波中尉や、大村、佐世保の海軍士官が日曜毎に訪ねてきた。

そして彼等は、今の日本の現状はこれでいいかと、迫って来る。
当然私は、このままではいかんと答える。
次に ではどうすればいいかと質問する、そこで私は何がしかの改革案を答えざるを得ない。
また彼等の示す具体案に 「 反対 」 というと必ず 「 ダラ幹!」 と 言う。
そして中大兄皇子の例をひいて実行を迫った。
この質問の設定、迫る態度はおよそ国家革新に志す青年将校のきまったやりかたで、
私も大分内心では弱ったものだった。
十一月二十日事件は、ちょうど私が青年将校に迫られて、
何か具体的返事をしなくてはおさまらなかったのと同様なことを、
皮肉にも村中が士官候補生にやられたのだ。
・・・荒木貞夫   昭和三六年十月一日
現代史資料4
国家主義運動 1  から


栗原中尉と齋藤瀏少将 「 愈々 正面衝突になりました 」

2018年03月22日 16時04分40秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

行政処分を受けた村中、磯部の両名は連名で
粛軍に関する意見書
なるものを、十年七月十一日付で印刷、関係方面に配布した。
事件を陰謀だと糾弾した 「 意見書 」 の矛先が
永田軍務局長に向けられていることは確かなものだったが、
陸軍当局はこれを怪文書扱いとした。

百十頁に及ぶ冊子を持って 栗原と坂井が上池上の斎藤のところにやって来た。
七月十三日、お盆の入りの夕刻だった。
門の前で史が盆提灯にむかえ火を入れているのに出会った。
「 済南事件で亡くなった兵隊さんたちが還ってくるのよ 」
そう言ってマッチを擦る浴衣姿に目をとめてから、栗原が声をかけた。
「 やあ、フミ公、やっぱり東京式のお盆はいいなあ。おじさん、いるかい 」
「 はい、中尉殿。齋藤閣下はおられます 」
と 敬礼しておどける史に笑顔を投げた栗原は、玄関に向ながらひとこと史に言った。
「 あとで見せたいものがある 」

粛軍に関する意見書 をざっと見終わると
齋藤は栗原にこう尋ねた。
「 これなら私憤から書いたことにはならず、よくその精神を分ってもらえると思う。
ただ、村中と磯部の署名になっているが あとの隊附き将校との関係はどうか 」
「 ことのいきがかり上、二人の名前にしてありますが、 あれは我々青年将校全部の意見です。
 全員が結束して二人を支持しており、歩調をひとつにしています。
おじさん、いよいよ正面衝突になりました。もう直進のほかありません 」

この日、齋藤はいつものように 「 自重せよ 」 「 軽挙を慎め 」 とは 言わなかった。
浴衣姿の史が入ってきて、栗原のコップに麦茶を注いだ。
男の世界のことは口出しはしないわ、というのが彼女の口癖だった。
またこれまで、栗原たちのほうから、史に政治や軍閥のことを語ることも決してなかった。
開け放たれた窓から、真夏にもかかわらず夕方の涼風が流れ込んでくる。
栗原安秀は八年八月に戦車第二聯隊附に出されていたが、
この年の三月に再び 歩兵第一聯隊機関銃隊に復帰した。
そして (十年) 四月に、安雙玉枝と祝言を挙げた。
坂井はこのときまだ独身である。

栗原は突然のように小箱をポケットから取り出すと、それを史の掌に載せた。
渡されたものを史が何気なく受け取ると、栗原がこう言った。
「 ちょっと重いぞー 」
と 注意しました。
名刺の箱くらいの、それは、たしかに持ち重りがし、
蓋を開けると、びっしりとピストルの実弾が入っていたのです。
「・・・・・・」
何も見なかったようにごく普通の顔でそれを彼にかえし、彼もごく普通にそれを収めました 」
・・『遠景近景』

齋藤は実包を取り出した栗原を前に、
黙ったまま窓越しに夏の夕空を見やっていた。
もはや自分がとめ立てをする段階ではないことを悟っていたのだ。
( いよいよ 「 知行一致 」 のときが来たか )
口には出さない言葉が齋藤の目に走ったのを栗原は認めた。
工藤美代子 著  昭和維新の朝  から


正面衝突 ・ 村中孝次の決意

2018年03月21日 16時42分06秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

二月七日、村中は三名を代表して
片倉衷と辻正信を第一師団軍法会議に誣告罪で告訴した。
恐らく獄中で同情した憲兵の口から、片倉や辻の陰謀を聞いたものであろう。
・・・リンク ↓
・ 粛軍に関する意見書 (3) 告訴理由1 
・ 粛軍に関する意見書 (4) 告訴理由2 
・ 粛軍に関する意見書 (5) 告訴理由3 

しかし、軍当局は彼の告訴を黙殺した。

「 このころ村中は、もう不合理な企てはしないといって
 『 妻帯はしない、陸大には入らぬ 』 という、かつての盟約に背いて妻帯もし、陸大にも入っていた。
私のところへも手紙をよこし、『 もうこれからは上司を信頼し軍務に忠実に服します・・・・』
と いっていた。 」 ・・・リンク→  荒木貞夫が観た十一月二十日事件
と、荒木があとで述懐しているように、当時の村中は不穏な計画などなかった。

磯部は威勢のよい急進論をぶってはいたが、実兵を握っていない彼にできることは、
せいぜい血盟団のような一人一殺の暗殺であるが、
彼が同志に先んじてやれば、同志は一網打尽でそれこそ幕僚たちの思う壺にはまることだ。
磯部はそれがいかに愚劣なことかは知っていた。

四月二日、こんどは磯部が、片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (9) 告訴状 及 陳述要旨  

ついで 四月二十四日、村中の名前で二月に提出した告訴の追加を提出した。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (8) 前言3、告訴追加其二 
これは西田が執筆して、大蔵栄一が清書した長文のものである。
「 今回の誣告事件は 私的策謀と公的権力乱用との結託した所の彼等の陰謀の一つの現われであります 」
と、先づ辻等の陰謀の本質を衝き、
統制派、清軍派の人脈から、中央の幕僚たちによる三月事件、十月事件、神兵隊事件への関連性、
隊付青年将校への圧迫を述べ、片倉、辻、塚本の三名の背後関係に言及し、
誣告の全容を余すところなく暴露したものである。
しかし、陸軍当局は受理したのみでいっさい黙殺して、何の反応も示さない。
業をにやした村中は、
五月十一日、陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、
上申書を提出し・・・リンク→  粛軍に関する意見書 (2) 上申書 
磯部は第一師団軍法会議に出頭し、
五月八日と十三日の二回に亘って告訴理由を説明したが、当局は何らの処置もとらなかった。

ここで村中と磯部は最後の肚をきめた。
幕僚たちの旧悪をあばき、その非違を糾弾しようと暴露戦術にでた。
もちろん免官は覚悟の上である。
昨年十一月二十日、逮捕されたのは三名であったが、
磯部は後輩の片岡は俺たちと行動を共にするなと、誣告の告発には加わらさなかった。
『 風雪三十年 』 には荒木の回顧談で
「 片岡、お前はお母さんがいる。親子二人だから、どいてくれ、俺たち二人でやる 」
と、片岡に参加させなかったとある。
彼ら二人が犠牲になる覚悟でいたのである。

以上、前頁   十一月二十日事件の経過 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
七月十一日
「 粛軍に関する意見書 」
を 陸軍の三長官及び軍事参議官全員にナンバーをつけて、初めは十三部だけ郵送した。
「 ・・・実に皇軍最近の乱脈は所謂三月事件、十月事件、なる
 逆臣行動を欺瞞隠蔽せるを動因として軍内外の攪乱其の極みに達せり、

而かも其の思想に於て 其の行動に於て 一点の看過斟酌しんしゃくを許すべからざる
大逆不逞のものなりしは世間周知の事実にして
附録第五 『 〇〇少佐の手記 』 によりて其の大体を察し得べし。
而して 上は時の陸軍大臣を首班とし中央部幕僚群を網羅せる此の二大陰謀事件を
皇軍の威信保持に藉口しゃこうし掩覆えんぷ不問に附するは其の事自体、
上軍御親率の至尊を欺瞞ぎまんし奉る大不忠にして
建軍五十年未曾有の此の二大不祥事件を公正厳粛に処置するを敢へてせざりしは
寔に大権の無視 『 天皇機関説 』 の現実と謂ふべく、
断じて臣子の道 股肱の分を踏み行へるものに非らず・・・」
これは文書の冒頭にしるした 「 粛軍に関する意見 」 の一節であるが、
陸軍の中央幕僚群を前にして、一歩も引かぬという激しい気迫と憤怒に満ちた抗議であった。
附録としてつけた文書のうち
第一から第四までは 「 十一月二十日事件 」 に対して、
村中と磯部が第一師団軍法会議に提出した上申書や告訴状の写しであるが、
第五の 「 所謂十月事件、ニ関スル手記、〇〇少佐 」
の 一文は
今まで軍の威信に傷がつくとして公表していなかった
三月事件と十月事件の克明な記録であったから、
異常なまでの反響をよんだ。
○○少佐とは当時参謀本部員であった田中清少佐 ( 陸士二十九期 ) のことで、
戦後公表した田中の手記によれば、
昭和六年十二月、十月事件が未遂に終わった後、
かつて上司であった石丸志都磨少将 ( 陸士十一期 ) の要望で、
自分の日記風の記録から抜き書きしてまとめたものという。
客観的な描写だからきわめて正確だということになる。
それを伝え聞いた持永浅治東京憲兵隊長が石丸から借り、
少部数印刷して極秘の憲兵情報として部内に配布した。
村中孝次が入手したのは恐らく持永少将かその配下の手からであろう。
筆者の田中少佐の諒解を得て匿名として附録につけた。
( そのため田中はこの後、姫路の聯隊に飛ばされる )
しかし、皇道派に不利な所は省き、かわりに桜会の趣意書や名簿をつけて判りやすくし、
いわば自刃をふりかざして敵陣に切り込むような淒壮な文書であった。
しかし、これも軍の長老たちから黙殺される気配があったので、
さらに五百部ほど印刷して全軍に配布したからたちまち大反響をよんだ。
折柄世間注視の的であった真崎教育総監の罷免とも重なって、
軍部はもとより、政、財界、言論界に大きな衝撃を与え、
なかには大金を投じてでもこれを入手しようとする者さえでてきた。
当然中央の幕僚たちは激昂し、緊急に手配してこの文書の回収をはかった。

それから二十日余り後の八月十二日、
陸軍省軍務局長室で執筆中斬殺された永田鉄山少将の机の上には
「 粛軍に関する意見書 」 が ひらかれたままになっていた。
「 一歩踏み入れてみて驚いた。
茶色の絨毯は血の海となり、
室内の中央稍々右寄に仰向に倒れている永田少将の無惨な斬殺屍体が、
窓から射し込む八月の陽を一杯に浴びていた。
屍体の傍には犯人のものと思われる軍帽が、血に染まって落ちている。
局長の机の上には、新見憲兵隊長が報告のため持って来たと思われる、
今朝私が報告した 『 粛軍に関する意見書 』 が、拡げた儘になっていた 」
村中と磯部が弾劾して止まなかった統制派の総帥の無残な最期と八月の烈日、
それに彼らが書いた文書の取り合わせは、何か象徴的ですらある。

八月二日、
村中と磯部は免官となり、陸軍から永久に追放されるが、
これも幕僚たちの理不尽な恣意しいに基くものであった。
荒木貞夫はこう述べている。
「 二人を行政処分によって、免官とした。
 陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、
受恩給年限に達する前には行政処分による免官は出来ない。
裁判によるべきこととなっていた。
二人はこの処分を、非合法なりとして反対し、
われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、
上で非合法をやるなら、オレ達も非合法を採らざるを得ないというにいたった 」
 


村中孝次        磯部浅一 

村中孝次と磯部浅一が 昭和十年八月二日、軍籍を剥奪されてから、
翌年二月二十六日の早暁蹶起するまでほぼ七ヶ月経っている。
この間、蹶起への主導力となり主人公となったのは磯部であり、副主人公になったのは村中である。
「 これは死んだ連中には気の毒だが、まさに天の配剤というべきであろうか。
沈毅で思慮に富んだ村中と、熱血漢で行動力に勝った磯部が組んだからこそ、
たかが元一大尉の身分であれだけの大兵力を動員できたのだ。
これがもし、磯部と栗原だったらこうまでも兵力は動かせないだろう。
せいぜい五 ・一五事件か血盟団のような散発的な暗殺に終わっていたであろう。
『 このままでは血がながされる 』
ことは、あの時点で心ある将軍や幕僚、青年将校はみな知っていた。
それほど切迫した空気であった。
しかし たとえ起っても五 ・一五事件に輪をかけたぐらいのものだと軽く見ていたことはたしかだ。
それが約千五百人の兵力を動員したことは村中の人徳 ( おかしな表現だが ) の然らしむところである 」
と、大蔵は追想している。

「 村中孝次は同期のうち隋一の人格者というべきであろう。
 真面目で正直、温順、寡黙、軽々しいことは口にしない。秀才で人格者という珍しい男であった 」
とは、菅波三郎の追想である。
「 真に勇気と胆力のある者は、ふだんは平静温厚でめったに覇気を外に表さないというが、
 村中は正にピタリの男であった。
第一頭が冴えている。 文才も豊かで、努力家で勤直、人間に深みがあった。
後輩や教え子が彼を慕ったのは、彼の人間的な深みに魅せられたからである 」
と、めったに人を褒めたことがない大蔵栄一も、村中のこととなると褒め賛える。

その人格で温厚な村中も
八月二日の免官を境にして次第に変わって行ったという。

次第に沈鬱になり、激昂することが多くなった。
後で考えれば免官によって心中深く決するところがあったのだという。
「 村中は陸軍の軍人であることに自信と誇りをもっていた。
 腐敗し切った世の中でも、陸軍だけは正義があると信じ切っていた。
いやしくも天皇陛下御親率の軍隊に不正不義が存在することなど、
村中は夢にも考えなかった。

十一月二十日事件と それにつづく一連の処置によって、
陸軍も等しく腐敗の府であり、不正不義が罷り通っていることを否応なく知らされた。

村中は心の底から痛憤したのだ。
信じ切っていた陸軍に裏切られた、陸軍が軍閥によって毒された。
軍閥を倒さねば陸軍も日本も駄目になると信じたのだ 」
と、大蔵は語っている。
大蔵によると
半年後に起こった二・二六事件が
大部隊による空前の武力蜂起となったそもそもの原因は村中の決意にあるという。

つねに急進論を唱えていた磯部でも栗原でも多くの同志を心服させる器量はない。
平常は目立たないが温厚な野中四郎や村中孝次が起ったことによって、
安藤輝三が決心したのだという。

末松太平はその著書の中で、大岸頼好の言葉として
「 理窟が通る通らぬより、あの人のやったことだから間違いないと言われるようにならなければ嘘だ 」
と 言ったというが、村中の決意こそまさにその言葉通りであった。
二・二六事の件最中、陸相官邸に憲兵として乗り込んだ同期の岡村適三も
「 村中が起っているからにはまさしく昭和維新に間違いはあるまい 」
と、思ったという。 ・・・「 あの温厚な村中が起ったのだ 」 

須山幸雄 著
二・二六事件  青春群像  から


法務官 島田朋三郎 「 不起訴處分の命令相成然と思料す 」

2018年03月18日 10時59分03秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )


十一月二十日事件意見書

島田朋三郎
意見書
歩兵第二十六聯隊大隊副官  陸軍大學生  陸軍歩兵大尉 村中孝次 
野砲兵第一聯隊  陸軍一等主計 磯部淺一 
陸軍士官学校豫科生徒隊附  陸軍歩兵中尉 片岡太郎
近衛歩兵第一聯隊  陸軍士官學校本科第一中隊
士官候補生 佐藤勝郎
歩兵第七十九聯隊  陸軍士官學校本科第二中隊
士官候補生 武藤与一
近衛歩兵第四聯隊  陸軍士官學校本科第三中隊
士官候補生 佐々木貞雄
飛行第六聯隊  陸軍士官學校本科第三中隊
士官候補生 次木 一
工兵第九大隊  陸軍士官學校本科第四中隊
士官候補生 荒川嘉彰
第一  各被告人の國家改造に關する思想及運動
被告人村中孝次は士官學校本科在校中より國家社會に關する問題に關心を有し、
日本改造法案大綱を閲讀して大いに之に共鳴し、
同校内に於て同期生菅波三郎等と屢しばしば日本改造法案大綱を中心として國家改造問題に附論議し、
昭和六年九月 士官学校豫科區隊長在職中、
歩兵第三聯隊附と爲り上京したる菅波三郎と相會するに及び、
同人の國家改造對する識見に敬服し其の勧誘に依り所謂十月事件に參与し、
之を契機として爾來菅波三郎を中心とする國家改造運動に參加し、
同七年八月 菅波三郎の満州轉任の後を承け、
同志被告人 磯部淺一歩兵大尉、大蔵榮一、同 安藤輝三、
同佐藤龍雄、同中尉栗原安秀 等と屡會合し、
或は西田税を訪問して共に國體観、社會事情、政治的情勢等を論議し、
國家改造に關する理論方法等につき意見を交換し、
茲に現時の我國の情勢は國體の原理たる一君萬民 君民一體の理想に反すること甚だしく、
特權階級は 天皇と國民との間に介在する妖雲にして猥みだりに大權の發動を拘束掣討し奉り、
政黨は腐敗して大御心に副ひ奉らず、民意の上達を妨げ、
經濟機構は徒らに貧富の懸隔を助長し 天皇の御仁慈は萬民に光被せず、
思想は混亂し、國民精神は萎微し、國家の前途洵に憂ふべきものあり、
速に國家機構を改造し、政治上、經濟上 等 各般の部門に國體原理を顯現し、
軍備を充實し、國民精神の作興を計らざるべからずと爲し、之が爲 先づ軍部が國體原理に覺醒し、
國體の眞姿顯現を目標として、所謂維新的に擧軍一體の實を擧ぐると共に、
軍隊敎育を通じ 且 軍部を樞軸として全國民の覺醒を促し、
全國的に國家改造の機運を醸成し、軍部を中心主體とする擧國一致の改造内閣を成立せしめ、
因て以て國家改造の途に進ましめんことを企圖するに至り、
或は同志の會合を催し、或は地方在住の同志 歩兵大尉大岸頼好、同小川三郎、
同中尉江藤五郎 等と氣脈を通じ、或は同志獲得に力め、
特に昭和九年初頭以降 數回大蔵榮一方、
及 赤坂区青山四丁目梅窓院に於て同志將校及靑年將校等と會合し、
靑年將校に對する國家改造に關する思想の注入 竝 意識嚮上を計り、
同年五月末 軍人會館に於て數期聯合の大會を開催して専ら國家改造の實現を期し
之が機運の促進に力めたるもの。

被告人磯部淺一は予て國家社会の問題に關心を有したるが、
昭和七年五月 五一五事件に依り大なる刺戟を受け、
同年六、七月頃より菅波三郎と相知り、同年八月 同人が満州に轉任する迄 數回同人に面會し、
更に 西田税、北一輝 等に接し 同人等の所説を聽くに及び深く之に共鳴し、
爾來熱烈なる國家改造論者として被告人村中孝次、大蔵大尉、安藤大尉、佐藤大尉、
栗原中尉等と共に該運動に從事し、同志聯絡の中心的地位に在りたるもの。

被告人片岡太郎は士官學校本科在校中より満蒙問題に附研究したる結果、
自主的強硬外交の必要を痛感し、其の爲 國力を一層鞏固ならしめざるべからずとの念を懐き居りたるが、
偶 昭和六年八月当時 福岡市 歩兵二十四聯隊附歩兵少尉竹中英雄より招かれ
福岡市に於ける陸海軍將校 ( 藤井、古賀、三上、菅波、樽木、後藤 等 ) の會合に出席して
國家改造に關する處論を聽き、爾來之に關心を有するに至り、
同九年三月 士官學校予科區隊長に轉ずるに及び、元同聯隊附なりし被告人磯部淺一を通じて
被告人村中孝次、大蔵大尉、安藤大尉、栗原中尉 等と相知り、
同人等を中心とする國家改造運動の同志と爲り、屡 同志の會合に出席したるもの。

被告人佐藤勝郎は國家改造問題に附 從來全く關心を有せず、
同人が本件に關与するに至りたるは後記の如く、
同僚候補生が國家改造を目的とする直接行動に參加せんとするを阻止せんが爲、
僞って同志たるが如く装ひたるもの。

被告人武藤与一は昭和八年士官學校豫科在校中、五一五事件公判に於ける各被告の言動に刺戟せられ、
爾來 國家改造問題に關心を有するに至り、現在の世相は建國の精神に反し、
政治、繼濟、外交、敎育 等 各部門共に宿弊山積し、國家の前途洵に憂ふべきものあり、
速に國家を改造して我國の眞姿を顯せざるべからずと爲し、
同校本科入校後 屡 同意見を有する被告人佐々木貞雄、同次木一、同荒川嘉彰
等と互に國家改造問題につき論議すると共に、
被告人村中孝次、同磯部淺一 等を訪問して同人等の國家改造に關する所論を聽き、
其の指導を受け同志と爲りたるもの。

被告人佐々木貞雄は昭和七年 士官學校豫科在校中、
五一五事件に刺戟せられ國家改造問題につき稍やや關心を有するに至るが、
同八年豫科を卒業し士官候補生として隊附勤務中、
同聯隊附なりし被告人磯部淺一より五一五事件公判を通じ、
國家改造に關する處説を聽き、爾來改造意識嚮上し、
本科入校後被告人次木一、同荒川嘉彰、同武藤与一 等と互に國家改造問題につき論議すると共に、
屡 被告人磯部淺一を訪問し、
更に同人を通じて被告人村中孝次と相知り 同人等の國家改造に關する處論を聽き、
其の指導を受け 同志と爲りたるもの。

被告人次木一は昭和八年士官候補生として隊附勤務中、
靑年將校の往くべき道 、と題する檄文を閲讀し 初めて國家問題に關心を有するに至り、
同年五一五事件公判に依り 現在の腐敗堕落せる國内の情勢は、
我國體の本義に悖り 速に革新を要するものと爲し、
本科入校後 被告人佐々木貞雄、同荒川嘉彰、同武藤与一 等と
互に國家改造問題につき論議すると共に、
屡 被告人磯部淺一、同村中孝次を訪問し 同人等の國家改造に關する處論を聽き
其の指導を受け 同志と爲りたるもの。

被告人荒川嘉彰は昭和七年士官學校豫科在校中 五一五事件に依り大なる刺戟を受け
同八年一月以降、當時本科在校中の候補生 ( 現少尉 ) 市川芳男、明石寛二より
國家改造に關する思想を注入せられ、
同人等に從ひ 西田税を訪問して社會情勢及國家改造に關する意見を聽き、
同年隊附勤務中 農漁村疲弊の狀況を知るに及び、國家改造の必要を痛感し、
我國の現狀は各方面共に全く行詰り 宿弊山積せるを以て、
速に國家を改造し、皇國本然の姿に還らしめざるべからずと爲し、
同年九月本科入校後被告人佐々木貞雄、同次木一、同武藤与一
等と國家改造問題につき論議すると共に、
被告人村中孝次、同磯部淺一 等を訪問して同人等の國家改造に關する處論を聽き
其の指導を受け 同志と爲りたるものなり。

而して被告人村中孝次、同磯部淺一は、
同人等の國家改造運動は國民的精神運動にして
非合法手段たる直接行動に依り國家改造の機運を促進し、
又は其の實現を企圖するものにあらずと陳述するも、
同被告人等より指導せられた其の國家改造意見に共鳴せる
被告人佐々木貞雄、、同次木一、同武藤与一は 何れも國家改造の爲直接行動を決行せんことを決意し、
被告人荒川嘉彰も亦全然直接行動を否定排斥するものにあらずと認めらるゝ點より観察すれば、
被告人村中孝次、同磯部淺一は右被告人たる候補生を指導するに方り、
國家改造の手段として全然直接行動を否定排斥したるものと斷じ難きのみならず、
被告人村中孝次は十一月三日、
被告人佐藤勝郎より直接行動の計畫時期及手段等につき質問を受けたるに對し、
「 僅かに一、二回 面會したる者に對し言明の限りにあらず 」
と 答へ、
同志大蔵榮一は十月二十八日、
被告人佐藤勝郎より國家改造の手段につき質問を受けたるに對し、
「 一、二回の面識あるに過ぎざる者に對し答弁の限りにあらず 」
と答へたるに止まり、
何れも國家改造の手段につき
毫も直接行動を否定排斥するものなるを弁明せざりし點より推測するも、
被告人村中孝次、同磯部淺一等は必ずしも直接行動を否定排斥するものにあらずして、
少なくとも場合に依りては直接行動を敢行することあるべきを豫想せるものと推定するを相當とす。
加之被告人磯部淺一、同志栗原安秀は被告人片岡太郎及び被告人たる候補生等に對し、
屡 直接行動を決行すべき旨を揚言したることあるを以て、
被告人村中孝次、同磯部淺一の直接行動決行の意思なしとの弁疏は輙く信を措き難く、
被告人片岡太郎も亦被告人村中孝次、同磯部淺一の同志にして、
同人等と同様全然直接行動を否定排斥するものと斷じ難し。
第二  本件事實の眞相
被告人片岡太郎は昭和九年十月二十三日、被告人磯部淺一の斡旋に依り、
四谷區坂町土陽会 ( 高知県出身將校の下宿 ) に於て
被告人武藤与一、同佐々木貞雄、同次木一、
同荒川嘉彰と會合し、被告人佐々木貞雄より靑年將校は果たして直接行動を決行するや、
決行するとせば其の時期は何時なりやと質問せられたるに對し、
東京部隊より歩一、歩三が出勤し、
佐藤大尉、安藤大尉、磯部主計、村中大尉、大蔵大尉等が之を指揮又は同行し、
千葉より戰車出動し栗原中尉之を指揮す。
襲撃の目標は栗原中尉の指揮する戰車は警視廳を襲撃し、
其の他の部隊は首相官邸、西園寺公望、牧野伸顕等所謂國家の重臣を殺害す。
自分は士官學校豫科の區隊生徒を引率して出動する豫定なるを以て、
若し候補生も共に決行せんとするならば自分と共に決行せよ。
襲撃目標は鈴木 ( 喜三郎 ) 武器は銃及銃剣にして彈薬は夫々各隊の彈薬庫より遂行すと答へたり。
之より先 被告人佐藤勝郎は昭和八年九月頃、
當時本科在校中の候補生飯尾裕幸及其の友人安田某より現時の社會情勢を説明し、
國家改造の必要あることを説示せられたことあり、
又同九年十月初旬 同中隊村山他だしり同人が當時所澤飛行學校に在校中の歩兵少尉黒田武文より、
靑年將校は軍隊を出動せしめ直接行動に依り國家改造を決行せんとするものの如くなるを以て、
士官候補生も覺悟をせよと告げられたる由を聞き、
所謂靑年將校が直接行動を計畫し士官候補生を誘惑煽動するものにあらずやと思惟し、
予て被告人武藤与一は相當右傾せるものなることを同人の友人 小川光より聞知し居たるに依り、
被告人武藤与一を通じて此間の事情を偵知せんと欲し、
同年十月二十三日 所要の爲同人に面会したる際 之を校舎屋上に誘ひ、
自分も亦予て國家改造に關心を有し
靑年將校が直接行動に依り國家改造の實行を企圖せることを知悉せるものゝ如く装ひ、
同人により靑年將校が右實行を企圖せること、及士官候補生にも其の同志あることを偵知し、
士官候補生が靑年將校に誘惑煽動せられて
第二の五一五事件を惹起するが如き事態發生せんことを大に憂慮し、
被告人武藤与一等士官候補生をして靑年將校より絶縁せしめんと欲し、
翌二十四日朝親密なる同僚向井正武に右事情を告げ、
靑年將校より候補生を絶縁せしむるべき方法を協議したるに、
正武は辞退重大にして到底吾人の力の及ぶ処にあらずとし、
適切なる對策を示さざりしに依り種々考慮の結果、
所属中隊長に計り教を乞はんと決意し同日所属中隊長歩兵大尉辻正信に對し、
中隊長たる資格を離れ先輩として教を乞ふ旨を前提し、
士官候補生中外部の靑年將校と聯絡して
軍隊及戰車を出動せしめて五一五事件の轍を踏まんとする動向り、
自分は友人たる候補生を此の渦中より救出せんとするも、
思慮経験に乏しく適切なる方法を知らざるを以て指導を受け度しと述べたるに、
辻大尉は事態重大にしてとうてい尋常一般の方法を以てしては其の友を救ふこと能はずと述べ、
平素の訓話を引例して万一の場合は共に斃るゝの覺悟を以て身命を賭し、
自ら其の渦中に投ずべき旨指示したるに依り、
僞って被告人武藤与一等と同志と僞り暫く同人等と行動を共にし、
其の狀況を確め以て直接行動參加を阻止せんことを決意し、
同日夕再び被告人武藤与一を屋上に誘ひ、
自分も國家改造に關心を有する者にして自分と同一の意思を有する同志約十名あり、
國家改造の爲一命を抛なげう信念あるも 適當の指導者なきを以て紹介せられ度、
尚招來同志として交際せられ度 旨 申入れたるに、
被告人武藤与一は意外の同志を得たるを喜び、
自分等士官候補生は外部の靑年將校と聯絡して直接行動に依る國家改造を企圖しつゝあり、
其の實行計畫は未だ判然せざるも、在京の軍隊及千葉の戰車出動するものの如し、
校内に於ける同志は佐々木、次木、荒川各候補生の外 片岡中尉にして、
外部の靑年將校同志は
村中大尉、大蔵大尉、磯部主計、菅波大尉、安藤大尉、佐藤大尉、栗原中尉等にして、
尚是等の將校は西田税、北一輝と聯絡あるものと思はるる旨
及 次の日曜日に西田税及び村中大尉方に同行すべき旨を告げたり。
同月二十八日 被告人佐藤勝郎は被告人武藤与一に伴はれ被告人磯部淺一を訪問し、
國家改造の實行につき具體案ありやと質したるに、
同人はパチンコ ( 拳銃の意 ) にて始末を告ぐべきものなりと答へ、
猶 同運動の實行方著々其の緒に就きつつあるが如き口吻を洩らし、
又 被告人荒川嘉彰 及 候補生岡沢某と共に後れて道家に來合せたる被告人佐々木貞雄は、
軍隊を動かして直接行動を決行したる際
之が鎭壓の爲 出動せる軍旗を捧持せる軍隊に遭遇したる場合は如何にすべきや、
軍隊を使用することは不可ならずやと問ひたるに、
被告人磯部淺一は之に對し 明答を与ふること能はず、
更に被告人佐々木貞雄は軍政府に關する理論判明せざるを以て、
北一輝を訪問して其の説明を聽かんとする旨を述べたるに、
被告人磯部淺一は之に同意し一同携えて北一輝を訪問したるも
同人不在なりしを以て一同西田税方に赴きたるに、
被告人佐藤勝郎は同家に居合はせたる大蔵大尉に對し、
國家改造は如何なる手段に依るやと質したるも同大尉は
一、二回の面識あるに過ぎざる者に對し答弁の限りにあらずと述べたり。
同月三十一日頃
被告人佐藤勝郎は狀況偵察の目的を以て週番士官服務中の片岡中尉を訪問し、
故らに頗る昂奮せる態度を以て、
自分は佐々木、武藤等と同様の意見を有するものにして
貴官の國家改造に關する思想につきては豫て同人等より聞及びたる旨
及 過日 西田税 及 磯部主計を訪問したるに、
同人等は自分を信用せず甚だ侮辱せられたる感あるも、
國家改造の爲自分は只一人にても蹶起決行せんとする覺悟なりと告げ、
被告人片岡太郎をして其の同志なりと誤信せしめたる上、
實行計畫の内容を質したるに同人は、自分は所謂陣笠にて詳細の事情を承知せざるも、
村中大尉の指示に依れば自分は區隊の生徒 及 士官候補生を率い週番指令を襲ひ、
彈薬庫の鍵を奪ひ彈薬を取出し、侍従長鈴木貫太郎を襲撃する豫定にて、
決行の時期は自分の考えにては多分臨時議會
若は今年中にて遅くも明年軍縮會議の際ならんと述べたり。
被告人佐藤勝郎は同月二十六日頃、
本科第四中隊士官候補生林八郎 及 同第三中隊士官候補生小林友一に對し、
候補生中右翼に奔る者あり、自分は之を阻止せんが爲、心ならずも同一思想を有するものゝ如く装ひ
彼等に接近し居れるが、同期生を阻止することは自分に於て之を引受くるも、
四十七期生は上級者たる關係上密接なる接触を保つこと困難なして自分の力及ばざる虞おそれあるを以て、
兄等の力を借り度しと依頼し、
翌二日頃被告人佐々木貞雄、同武藤与一に對し辻大尉を訪問し其の意見を聽くべきことを勧説したり。
仍て小林、林両候補生は同月三日 被告人佐々木貞雄、同次木一、同荒川嘉彰を伴ひ、
被告人武藤与一は單獨にて同月四日 及 五日に何れも當時週番服務中の辻大尉を訪問したるに
同大尉は、國家改造の必要は之を認むるも直接行動に依るは不可なること
及 靑年將校は不純にして信用し難きこと等を縷々るる説明したる爲、
各被告人候補生は直接行動決行に對する信念 及 靑年將校に對する信頼に多大の動揺を生ずるに至れり。
十一月三日、被告人佐藤勝郎は被告人武藤与一と共に被告人村中孝次を訪問し
直接行動決行の計畫時期、手段等につき質問したるに、
同人は僅に一、二回面會してる者に對し言明の限りにあらずと答へ、
日本改造法案大綱の一部及農村の狀況等を説明したり。
同月七日、被告人佐藤勝郎は
被告人佐々木貞雄、同次木一、同荒川嘉彰、同武藤与一と校内雄健神社に會合し
靑年將校は蹶起の意思なきものにして頼むに足らざる旨を述べ、
今後靑年將校と絶縁すべきや否やにつき協議した結果、
次の日曜日に被告人武藤与一、同佐藤勝郎は
被告人村中孝次を訪問し靑年將校の眞意を確かめることとせり。
同月十一日、被告人佐藤勝郎、同武藤与一は被告人村中孝次を其の居宅に訪問したり。
當時被告人佐藤勝郎は候補生等の直接行動決行に對する信念動揺せるを幸いとし、
被告人村中孝次に對し
實行計畫の有無を質するも、同人が之に對し明答を与へざるべきを豫期し、
之を利用して靑年將校恃むに足らずとして
一擧候補生をして靑年將校と絶縁せしめんことを企圖し居りたるに依り、
直に村中大尉に對し単刀直入的に實行計畫の内容、時期に附質問し、
同大尉が言を左右にし明答を与へざりしに依り、
被告人佐藤勝郎は實行計畫を示さざるは結局 計畫なきに依るものならん、
然らば自分等候補生のみにて機關銃三挺位を使用し、臨時議會を襲撃すべしと述べ、
或は西郷南洲の部下に對する情誼、五一五事件に於ける青年將校の不信等につき論難し、
今後青年將校と絶縁する旨を告げ、被告人武藤与一を促し退去せんとしたるに、
同人は從來に於ける被告人村中孝次との情誼上其の儘立去るに忍びず、
一言申述べ度しとて、
眞に實行計畫あるならば示され度しと述べたるに、
被告人村中孝次は悲壮なる顔色を爲し、
將に立去らんとする姿勢に在りたる兩名に對し、
急に 「 待て 」 と之を止め、
已むを得ざるに依り語らんとて兩名を隣室に伴ひ、
徐々斷片的に實行計畫を告げたり、
其の内容を總括すれば左の如し。
一、目的方法
軍隊及戰車を出動せしめ、武器を使用し、目標人物を殺害し、目標場所を襲撃して帝都を擾亂に陥れ、
戒嚴令を布き、軍政府を樹立す。
軍政府の首班は林、荒木、眞崎、三大將を以て之に充つ。
時期は早ければ臨時議會中、又は直後とし、遅ければ明年一月迄の間とす。
但し 場合に依りては一年後、或は二年後となるやも計り難し。
二、出動部隊兵力、指揮者、目標
1、歩一より村田中尉の指揮する一箇中隊出動し、佐藤大尉之に同行し目標は齋藤實。
2、歩三より安藤大尉の指揮する二、三箇中隊出動し、磯部主計、坂井中尉、新井中尉、明石寛二少尉 之に同行し、
目標は牧野伸顕、岩崎小弥太。
3、近歩二より山形少尉の指揮する二、三十名の兵出動し、村中大尉 之に同行し、目標は一木喜徳郎。
4、近歩三より飯淵中尉の指揮する一箇中隊出動し、大蔵大尉 之に同行し、目標は首相官邸岡田啓介。
5、士官學校豫科一箇區隊 及 士官候補生出動し、片岡中尉 之を指揮し、目標は鈴木貫太郎、湯浅倉平。
6、豊橋、國府台の有志將校十数名出動し、目標は西園寺公望。
7、習志野より戰車十台出動し、栗原中尉 之を指揮し、目標は首相官邸 及 警視廳
 ( 戰車十台中 三台は首相官邸に、七台は警視廳に充用す )。
以上は第一次行動にして、各部隊は成功後、第二次行動として 幣原喜重郎、若槻礼次郎、財部彪、
清浦奎吾、伊沢多喜男を殺害し、首相官邸に集合し待機の姿勢を執り 其の後の情勢變化に應ず。
尚 被告人村中孝次は候補生の使用すべき武器は、銃剣にして彈薬は學校の彈薬庫を占領して之を充用し、
其の爲必要の場合には週番諸官を斬るべし、又今後の聯絡は毎日曜日、一名宛自分に聯絡せよと告げたり。
リンク→ 十一月二十日事件をデッチあげたは誰か 
同月十八日、被告人佐藤勝郎は
被告人佐々木貞雄、同次木一、同荒川嘉彰と共に被告人村中孝次を訪問したるに、
同人は、被告人候補生に對し概ね前記同様の實行計畫、
及 士官候補生は片岡中尉を中心として精神的に團結し、同志獲得に力むべき旨を告げ、
被告人佐藤勝郎が林、眞崎、荒木 三大將は不和なるを以て竝立し難からんと質したるに、
同大尉は然らば鈴木貞一大佐、石原莞爾大佐を推戴しても可なりと答へ、
週番指令を斬り、彈薬庫を占領せんとするも、
同志にあらざる他の候補生に妨げらるる虞あるを以て
彈薬は他より入手するを可とせずやとの意見を述べたるに對し之を肯定し、
拳銃と軍刀を入手し度き希望を述べたるに對し、
拳銃は入手困難にして配給し難く、
軍刀は早晩入用の軍装品なるを以て各人毎に準備せば可なりと答へ、
更に被告人佐藤勝郎が決行の時刻を質問したるに對し、當然払暁戰なるを以て、
候補生等は司令受領後直に外出し得る如く學校脱出の方法を豫め考究し置くを要すと答へ、
尚 秘密下宿を設くべしと告げたり。
被告人磯部淺一は當日被告人村中孝次方に來合せ、
中途より被告人村中孝次及被告人候補生等と同席し、
被告人荒川嘉彰より上部に聯絡ありやとの質問に對し、
上部との聯絡に手段を尽しある旨を答へたり。
第三  本件犯罪の成否に就て
被告人片岡太郎は昭和九年十月二十三日、
土陽會に於て被告人佐々木貞雄、同次木一、同荒川嘉彰、同武藤与一に對し、
更に同月三十一日頃、士官學校内に於て
被告人佐藤勝郎に對し前記實行計畫の一部を告知したること、
及 被告人村中孝次の自宅に於て同年十一月十一日、被告人佐藤勝郎、同武藤与一に對し、
再び同月十八日 被告人佐々木貞雄、、同次木一、同荒川嘉彰、同佐藤勝郎に対し
前記の實行計畫を告知したることは明確なる事實にして、
被告人佐藤勝郎を除く各被告人は何れも直接行動を必ずしも否認するものにあらざるを以て、
被告人等が本計畫の如く兵力を動かして直接行動を決行せんことを企圖したる疑なきにあらず、
特に被告人片岡太郎の語りたる計畫は、
被告人村中孝次の語りたる計畫の當該部分と著しく符號する處あるを以て
一層其の嫌疑濃厚なるものあるが如しと雖、
各被告人に本件計覺を實行する意思ありと認むべき的確なる證拠なく、
却て被告人村中孝次は被告人たる各候補生に對し本計畫を告知したるは、
當時の狀況上何等かの計畫あることを示さざるに於ては、
被告人たる候補生等は被告人村中孝次一派の將校より離反し、
他の不法なる團體又は勢力に誘惑せらるること、
恰も五一五事件に於て候補生が陸軍青年將校恃むに足らずとし、
海軍將校と行動を共にしたるが如き先轍を踏む虞ありたるに依り、
一時被告人たる候補生等を慰撫して其の離反を防がんが爲、
全く虚構の計畫を告知したるものにして、
固より實行の意思ありたるにあらずと弁疏し、
右の各弁疏は當時の狀況に照し必ずしも排斥し難きものあり。
而して各被告人は國家改造の目的を以て直接行動を決行せんが爲、
本計畫以外更に別箇の計畫を爲したりとの事實も亦之を認むべき證拠なきものとす。
之を要するに被告人等が本件反亂陰謀を爲したりとの事實は之を認むべき證拠十分ならざるものとす。
よりて本件は陸軍軍法會議法第三百三十一條に依り
不起訴處分の命令相成可然と思料す。
昭和十年三月二十七日
第一師團軍法會議
檢察官  陸軍法務官  島田朋三郎

現代史資料 23
国家主義運動 3


辻正信大尉

2018年03月15日 08時38分16秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )


辻大尉が江口中尉を通じて私に会いたいといってきたのは、
もうこの年の暮も迫って機関砲学生の終業式が間近の頃だった。
私は辻大尉とはこれまで一面識もなかつた。
その辻大尉が私に会いたいといってくるからには、
誰かが千葉の動静と、その中の私の存在
を告げたものがなければならなかった。
それは当然江口中尉であるべきだった。
「 本当かね。筋がちがいはしないか。」
江口中尉の申し出に、私はまずこうききただした。
「 いや、辻さんが是非あなたにお会いしたいといっています。
 それで、できれば自宅にきてくれると好都合ということですが。」
思案は会ってのあとと思った。
私は会いにいくことを約束した。
「 ではそう辻さんに伝えて、日取りをお知らせします。」
江口中尉のきめてきた日に私は千葉の下宿を出て、途中大蔵大尉のうちに寄ってみた。
「 辻大尉が会いたいといってきたが、どういうわけですかね。」
「 ほう貴様にな・・・。それで貴様いくつもりか。」
「 これからいきますよ。」
「 貴様また物ずきだよ。」
また二股膏薬が始まったといわぬばかりの口振りだった。
それでも
「 結果が聞きたいから帰りに寄ってくれ、大岸さんも上京しているから・・・」
と 大蔵大尉は立ちかけた私にいった。
・・・
薄暗くはなっていたが、暮れるに早い十二月末のこと、時計は五時を少しまわったくらいだった。
が 門の戸は引いてみたが開かなかった。
錠がさしてあるのだった。
戸をたたいた。 犬が吠えだした。
「 どなた 」 と 辻大尉の声がした。
「 末松です。」
「 ちょっと待ってくれ給え。いま犬を入れるから。」
犬をつないだあとで、門の戸を開けてくれた。
座敷に通ると、坐る間も与えず、
何故私に来てもらったか、何故 村中大尉らとこんな関係になったか、などを述べたてた。
それは大体こういうことだった。
自分も前から国家の将来を憂え革新に志している。
それでこの前満洲にいったときも菅波大尉に会い、意気投合してきてもいる。
が村中大尉ら東京の連中と菅波大尉はちがう。
菅波大尉は質素でボロ服を着ていたが、
村中、大蔵らは、不純な浪人西田税とつきあっていて、ぜいたくだ。
といって村中らに対して敵意を抱いているわけではない。
佐藤、武藤らの士官候補生を学校の方針にしたがって指導した結果が、
図らずもああいうことになったのだ。
学校としては、まだ思想のかたまらぬ士官候補生を
西田や村中に近づけることは教育上
面白くないので禁止している。
が武藤らは、この禁をおかしていた。
それを佐藤が心配して救いたいと相談にきたから、
泥沼に落ちたものを救うには自分も泥沼
に入らなければ救えないと教えた。
それで佐藤が武藤らと一緒に西田、村中らのうちに出入りするようになったので、
佐藤は、別に村中らの非をあばこうために行ったのではない。
たまたまそこで村中らの直接行動の計画を知っただけだ。
自分は士官候補生の挙動に不審を抱き、問いただしているうちに、それを知ったわけで、
士官候補生をその渦中におとしいれたくないので、
中隊長としての当然の処置にでたのだ――。
座敷の天井一面に、五万分の一の地図をつなげて張りつけてあった。

それをときどき見上げて、
ナポレオンが青年士官時代、これは壁にだが、同じように地図を張りつけ、
それで絶えず戦術の工夫をしたという伝説を思い浮かべながら、私は黙って聞いていた。
万事了解したからだまっていたのではない。
全部が全部了解できなかったからだった。
が、もともと私には辻大尉の意向がどうあろうと、弁解をききたいために来たのではなかった。
もし辻大尉も革新に志しているのなら、
互いの私闘はやめて、共通の革新にあい携えて前進してほしい、ということをいいたいためだった。
その趣旨は辻大尉が君に来てもらったのは、
僕の気持ちを述べて誤解を解いてもらいたいためだといったとき、すかさず述べてはおいた。
辻大尉のいったことが了解できても、できなくても、そんなことは私にとっては二の次だった。
それでも
「 村中大尉らに敵意を抱いていないとすれば、
 現在村中大尉らが拘留されるに
至っていることにつき、どう思いますか 」
とは聞いてみた。

辻大尉はこれに対し、
すまないと思っている、村中、磯部らが首をくれといえば、やる覚悟はしている、といった。
そのために遺書も書いてある、といってそれを出しても見せた。
私は見せられたものの、
遺書というものは、書いた本人が死んでから見るもので、

本人が生きているのに、しかもその本人の前で読むのは変だと思ったが、
折角渡されたものを見もせずに返すのも、相手は上官だし失礼と思ったから、
ただひらいて読むような恰好だけして返した。
奉書の巻紙に筆で書いた長いものだったが、どんなことが書いてあったかは、読まないから知らない。
私はしかし辻大尉に対し悪感情は抱かなかった。 むしろこの人も気の毒な人だと同情した。
軍務だけやっておれば将軍街道を同期生のトップで楽々行ける人が、
なまじっか革新などという道に踏み込んだばっかりに、
三期後輩の私ふぜいに遺書までみせて苦しい弁解もしなければならない羽目になったんだと思ったから。
ただしかし、これだけはちょっと意地悪をした。
辻大尉が、
西田税が暴力団を派遣するということだが、
と さぐるように聞いたのに対して、事実そんな馬鹿げたことはないのだから、
絶対にそんなことはないといって安心させてやろうとしたのを、
この人はまだ本当の苦労が足りない、少しはここで苦労させたほうが本人のため、いい勉強になるだろうと一瞬考えがかわり、
それを否定しないことは、暴力団派遣を肯定したことにとられることを予想にいれて、わざと返辞しなかった。
だいぶ長居をしたので、
辻大尉がいうべきことを大体いってしまったらしい頃合いをみはからって、私は腰を浮かした。
すると辻大尉は、
「 今夜のはなしは秘密にして口外しないでくれ給え。」 といった。
私は聞き返した。
「 それは変ではありませんか。
 今夜のはなしこそみなにはなして、あなたに対する誤解をとくべきだと思うのですが。」
「 いや、こんどの事件がおこってから、まだ誰にも会っていない。君がはじめてだから 」
これも腑に落ちないはなしだったが、腑に落ちないことにこだわれば全部が全部なので、
そうしますと約束して座をたった。
玄関に出て履物をはこうとすると、背後から辻大尉はさらに声をかけた。
「 末松君、正月はどうしますか。」
「 三日までに帰ればいいので、元日は東京で迎えるつもりにしています。」
「 では元日にうちにき給えよ。」
「 おうかがいします。」
私は素直にそう約束した。
本当に気持ちよく辻大尉と正月を一緒に祝い、もっと仲よくなりたいと思った。

辻大尉のうちを出て暗い夜道を歩きながら、私の心はほのぼのと明るかった。
腑に落ちないことだらけだったが、それは前から気にせぬつもりだった。
やはり来てよかったと思った。
これで対立のほぐれるきっかけが一つ見つかったと思ったから。
もう大蔵大尉のうちに寄らず、このまま千葉に帰ったほうがいいような気がした。
大蔵大尉は結果を知りたがっていたが、口外せぬと約束した以上は寄っても意味はなかった。
が、大岸大尉が上京しているといっていたから、
ひょっとすると大蔵大尉のうちで私の寄るのを待っているかも知れないと思った。
まあ一応寄ってみよう――と気がかわった。

大蔵大尉のうちには、やはり大岸大尉が私の寄るのを待っていた。
「 おい、どうだった。」
私の顔をみるやいきなり大蔵大尉は聞いた。
「 なにもいわない、約束だから。」
意外な私の出方に大蔵大尉は憤然とした面持ちで、
「 そりゃ、どういうわけだ。」 となじった。
「 辻大尉が、こんどの事件がおこってから、会ったのは君がはじめてだし、
 今夜のことは口外しないでくれといったから・・・」
と、私のいい終えるのも待たず、
「 だから貴様は馬鹿正直といわれるんだ。貴様がはじめてなもんか。」
と 大蔵大尉は吐き捨てすてるようにいって、事件以来辻大尉が会っている将校の名前をならべたてた。
そのなかには辻大尉の同期生で、大蔵大尉と同じ戸山学校の教官高柳大尉の名前もあった。
そういわれて気がつくと、江口中尉だって会っているわけだった。
私は一部始終をはなした。
が、なおも辻大尉を弁護しようとする立場はくずさず、元日に訪問する約束をしてきたことまではなした。
村中らが首をくれといえばやるといった辻大尉のことばも辻大尉の現在の心境を、
辻大尉に代って弁明する意味で披露したのだったが、
これは大蔵大尉から
「 貴様はごまかされたんだ。
 高柳さんのはなしでは、
辻は村中、磯部に会ったら一刀両断してやる、
と 豪語して
軍刀拳銃を吊って歩いているそうだよ 」

とたちどころに否定される始末だった。

大岸大尉はだまって聞いていたが、二人のはなしが終ったところで、このところにはふれず、
「 相澤さんも三十日には上京してくる。
 おれは相澤さんと一緒に、
大晦日に仙台に行くことにしているが、貴公も帰るついでだし、どうだ一緒に行かないか。」
と、私をさそった。
私はしかしまだ辻大尉との元日の約束にこだわっていた。
「 元日に辻大尉のうちに行くと約束してしまったからなァ・・・」
と、ついためらいを口に出すと、
「 そうまで義理堅くしなくてもよかろう。」
といって大岸大尉は笑った。
私は同行を約束した。


末松太平 著 私の昭和史
十一月二十日事件 から 


三角友幾 ・ 辻正信に抗議

2018年03月13日 11時29分37秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

十一月二十日事件には
生きた資料がげんぞんしているのである。

前がき によれば
『亜細亜の共感』 は、
辻政信自身の中国観を述べることが目的だったようである。
が、そのなかに十一月二十日事件を中心とした、
青年将校運動のことが、取ってつけたように挿入されているのである。
しかもこれは
「 赤裸々に告白した懺悔録 」 であることが同じ 前がき に述べてある。
とすれば、
何故赤裸々な告白もせず、
懺悔もせずに、
洒落れではないが 
辻褄のあわぬ自己弁護に腐心したのだろうか。
辻大尉の 『亜細亜の共感』 における叙述では、
十一月二十日事件に関するかぎり、
私の引用は全部を原文のまま網羅しているから 「引用の誤謬ごびょう」 は冒していないつもりだが、
それが如何に狡知抗弁にみちたものであるかは、
私の粗末な解説によっても、ざっと文脈をたどるだけで誰にも了解できると思う。
バタ野みたいに、自分に都合のいいものばかりを手当たり次第拾いあつめて、
あとはほったらかした格好である。
もともとこの 『亜細亜の共感』 を私に提示したのは三角友幾である。

三角友幾は澁川善助に兄事した関係から、村中大尉らとも相識の間柄だったが、
二・二六事件ごろから脊髄カリエスを病み、爾来東京や信州で闘病の生活をつづけ、
ここ十数年は松本市豊丘の療養所で病臥したままである。
・・・
『亜細亜の共感』 が発刊された直後、三角友幾はこれを病床で読み、
辻正信が二・二六事件を誹謗していることに黙っておれなかった。
病床で抗議文をつづり辻正信に送った。
抗議文とはいってもそれはつつましく、へりくだったおだやかなものだった。
が 辻正信からはなんとも返事はなかった。
黙殺されたと思った。
やむなく、その抗議文の控えと 『亜細亜の共感』 を私に送り、
ひきつづき辻政信に釈明を求めることを依頼した。
その抗議文というのは次のようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
( 前文略 )
過日 『亜細亜の共感』 を拝見しました。
人には各々立場や考え方の相違は止むを得ないことで、
私なりの愚見が無いではありませんが、当時至誠一貫御苦心されたことはよく分りました。
ただその中で私として一読看過出来ない点が有りましたので、
そのことに就て先生のお考えを承ることが出来ればと存ずる次第であります。
その一つは
その六七頁に 二・二六事件を 「 不純なる陰謀 」 と断定しておられる箇所であります。
先生は今日尚お 「 不純なる陰謀 」 と確信しておられるのでしょうか。
それとも当時に於て左様にお考えになっていただけなのでしょうか。
若し今日尚お不純なる陰謀なりとお考えでしたら、その理由を知り度いと存じます。
而して当時左様にお考えになっただけと致しますれば、
どうして 「 死者に鞭うつ 」 様な書き方をされたのでしょうか。
先生は同じく九頁に
「 青年将校がM (真崎) 大将に煽動されて起った 」 と言っておられますが、
ずっと以前は知りませんけれ共、
事件直前に於て、青年将校は真崎氏とは直接の関係は有りません。
その前に真崎氏 (勿論外の将星も) には期待しないと言うことを私は、はっきり聞いています。
尚お又 「煽動」 で起こったという断定は、大丈夫を侮辱する言ではありますまいか。
恐らく先生も未だ人の煽動で行動されたことは無いと信じます。
それと同様に青年将校も亦自ら信ずる道で、あったからこそ一筋に直進した筈です。
「 純真なる青年将校 」 と言い
「 躍らされた 」 と言い、
言は之を弁護するかに見えて、
その実は軽率無用の事を仕出かしたと言う意味にも通じ、
侮辱にも甚だしいとしか感じられません。
若しかしたら先生は青年将校の背後にあって、
西田氏等が陰謀を企んだ様にお考えかも知れませんが、
あの事件に関する限り、西田氏は首導者ではありません。
むしろ之をとめています。
此の事は齋藤瀏氏も認めておられることであります。
してみれば西田氏は事件に殉じたのであって、
同氏をも併せて極刑に処した事こそ当局者の陰謀ではありますまいか。
実は私は事件関係の人で澁川氏を最もよく知っております。
次いで西田氏を知っており、村中磯部両氏とも面識は有りました。
そうした立場で事件の前後のことは一通り直視して来たつもりであります。
非合法行動でありますから、その意味では確かに陰謀でありましょうが、
之を不純なりと一括誹謗することは出来ないと確信いたします。
三月事件や十月事件では予め閣僚名簿まで用意されていた由でありますから、
見方によっては不純とも言えましょう。
然し二・二六事件はその蹶起趣意書にも述べてあります様に、
第一師団の満洲出動決定によって、
国内の奸臣軍賊を斬る以外に、何らの用意もないではありませんか。
或は蹶起後直ちに原隊に復帰しなかったとか 自決しなかったという論議も成り立ちましょうが、
それはそうして貰った方が都合の良い立場の人の論で、
又国防の任に当たる軍の首脳や政局担当者が ( 先生方にも責任なしとは言えないのではないでしょうか )
祖国を未曾有の敗戦に導いておき乍ら、
戦後尚お永らえているのと、どれだけの差が有ると言えるのでしょうか。
恐らくは何れも祖国の前途を憂えてのこと。
前者不純ならば後者も亦不純ならずとの論は成り立たないと考えられます。
又二十六日から二十八、九日まで混乱状態に在ったことに就ては、
当局軍首脳部のとった態度、
例えば 大臣告示を提示してアイマイに回避を試みた等 重大な責任の有ることではありますまいか。
当時あれだけの兵力を以てすれば、若しやる気が有れば宮城の占領も出来た筈です。
もっと多くの人を殺すことも出来た筈です。
而もそれを為さず唯自ら断頭台に送る結果に終ったことは、
その事の批判は別として掬すべきものが有りはしないでしょうか。
問題はそれよりも何故あの事件が起こったかという当時の客観的状勢にあるのではないでしょうか。
勿論誘因は沢山有るでしょうが、
新井勲氏の手記を読みますと、
二十八日頃野中大尉が
「 兵隊が可愛そうだ 」 と言ったのに対して
澁川氏が
「 兵隊が可愛そうだと言って、農民が可愛そうではないのか 」  と 食ってかかり、
野中氏が
「 そうか 」 と うなだれるところが有ります。   ・・・全国の農民が可哀想ではないんですか 
私は此の言こそ澁川氏の本然の絶叫だと信じます。
渋川氏は東北、会津若松の出身であります。
昭和八年は農村は豊作饑饉と言われた年であり、
後藤農相は米価維持のための減反案を発表した位でありました。
ところが翌九年、翌々十年は東北は相次ぐ冷害でひどい凶作となり、
農民自身に食べる物もない者が多く、娘が十五円位でどんどん身売りしていた時代であります。
此のため後藤農相が救農予算を要求しても政府に財源無く、
荒木陸相が所謂竹槍三万本論を振りまわし、軍事予算から二千万か四千万を回した時代でありました。
然も大陸の風雲は決して穏やかではなく、
何時又新しい軍事行動が起こされるか分らぬ実状に在ったのであります。
此のころ私は特別に思想的関心の無い青年将校からさえ
「 後顧の憂いを持つ兵隊に突撃号令をかけなければならぬ自分の立場が苦しい 」
と 訴えられたことを覚えています。
省みてみますと、
斯かる時代に何も起らなかったとしたら、それこそ その方が不思議ではありますまいか。
・・・略・・・
過去のことに就ては吾々は永らえておればこそ兎角の論を為せるのではありますまいか。
その意味に於て、神の審判ならいざ知らず、
先生若し事件関係者の蹶起とその刑死に対し、一片の義心を認められますならば、
之をむちつよりも、
むしろ瞑せんとして尚お瞑することの出来ない関係霊位を回向慰霊さるべきではないかと
存ずる次第であります。
尚お玆には二・二六関係者を挙げて申し上げましたが、
敢て同関係者の人々に対してのみと申し上げるわけではありません。
(後文略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

辻政信は、
十一月二十日事件が 辻自身の考えたとおりに処理されなかったから、

二 ・二六事件が起こった、だからいわぬことじゃない・・・・
といった口吻で予言者を揚言しているけれど、
そういういいかたが辻政信にゆるされるならば、
私にも次のようなことがゆるされてよかろう。

「 辻政信が余計なことに手出しするから
相澤事件を誘発し、
拙速に 二・二六事件を激発することになった 」
と。


末松太平
私の昭和史 から


十一月二十日事件 ・ 辻大尉は誣告を犯した

2018年03月12日 11時42分01秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

・・・ここで辻政信著 『亜細亜の共感』 ( 昭二五 ・一二・二三発行 ) によって、
著者の十一月二十日事件観を検討してみたい。
辻大尉が革新に志したのは
『 亜細亜の共感 』 によれば陸軍大学校察行の年、
柳条溝の一発によって満洲事変が勃発したことが契機なようである。
それまでは
「 力を以て大陸に伸びようとするものと、これを阻まうとするものとが、
革新陣営と保守陣営とに分れて相剋し、軍の内部にも鋭い対立を見るやうになった。
北一輝氏の 『支那革命外史』 はこのような雰囲気に愛読せられ、
『日本改造方案』 が革新運動を志す青年のバイブルとなったのである。
併し、私はこの空気を呼吸し、この空気の中に生きながら、異なった考へを抱いた。
大厦は堅固な基礎の上に建てられねばならぬと、
傍目もふらず兵学の研究に、与へられた軍務に没頭し、
大陸問題や、国内革新問題を、本末顚倒であると冷ややかに見ながら、
脚下を固め、踏むべき途を踏んでいった 」 ( 『亜細亜の共感』 6~7頁)
といって、
辻大尉は革新には容易に心を奪われなかったという。

が、満洲事変勃発を契機に
「 満洲問題を解決するには、国内の革新も已むを得ないと考へて、進んで桜会に入った 」  ( 『亜細亜の共感』 6~8頁)
と いう
桜会に入った辻大尉は
「 身を挺し、妻子を捨てて決起の準備を整へ、学生の本分を省みずに、何時でも参加しようと考へていた 」  ( 『亜細亜の共感』 8頁)
と いっているように、
十月事件に参加しようとする。
が 陸軍大学校の演習で九州にいっていたとき、十月事件の陰謀発覚を知らされ、
事件の真相を東京に帰ってきてきくに及んで、つぎのように橋本中佐らに疑惑を抱くに至ったという。
「 信頼した桜会の先輩達は、赤坂の待合で流連し、謀議した為発覚したとも噂され、
 或は故意に洩らし、決行に先だって検挙を受けたとも言はれてゐる。
殊に心外であったのは、謂はゆる事件をリードした人々がクーデターの後に、
総理や陸軍大臣の椅子さへも覘ってゐたことが、判明したことである。
生命を捨て、妻子を棄てて、唯々国のために死のうと悲壮な覚悟をしてゐたのに、
これを指導した先輩は、「 死ぬ 」 気がないのみならず、
犠牲を踏台にして、栄達を夢見ていたのではなからうかの疑問が深く起った。」  ( 『亜細亜の共感』 9頁)
これによれば、私などは革新へ踏み切った動機が全然ちがうが、
それでも十月事件に対しては、ほぼ同じ感想を持っている。
陰謀発覚の原因が、大川 ・橋本の線か北 ・西田の線かということは、
当時偕行社の会合で、両者を対決させようとまで緊迫したものだったが、
これについても辻大尉は、
発覚の原因は橋本中佐ら幕僚側だったと推測している。
もっとも最近発刊された 今村均元大将の 『回想録』 によれば、
当時参謀本部の作戦課長だった今村均に、部下の池田純久大尉が、橋本中佐らが陰謀を企てていると、
裏切りの密告をしたことが、発覚の端緒ということになっている。
革新へ踏み切った動機が全然ちがうせいか、十月事件後の動向も私どもと全然ちがっている。
私どもは一度は迷いこんだ幕僚の革新ベースから、もとの自己本来のペースに復帰したまでのことだったが、
辻大尉は革新の途から百八十度の大転換をするのである。

前の引用つづけて
『亜細亜の共感』 に、次のように述べている。
「 当然の反動として、彼等に同様の手段で煽動されてゐる青年を救はねばならぬと考へるに至った。 
 まさに百八十度の大転換である。 
後年陸士の中隊長となって市ヶ谷台に職を奉じたとき同様の機運に煽られた生徒を救うべく、
革新を喰い物にする背後の勢力と戦って敗れ、水戸の連隊付に追ひ出されたのが、謂はゆる十一月事件であった。
デマは飛び、圧迫は加はったが,
正邪は二・二六事件によってはっきりした今日、敢へて弁解し説明する必要はあるまい。
明かに背後にあって、純真な青年将校を指導し、煽動したM大将等が今日なお恬然てんぜんとして、自己弁護に之れ努め、
躍らされた多数の青年将校が、代々木の刑場に黙々と眠ってゐる事実は、永久に歴史の批判を受けるであらう。」

果して事実、辻大尉は、日本海開戦の東郷大将のように百八十度の歴史的大転換をしたのであろうか。
そうであるとすれば自宅で私に、自分も革新に志しているといったことは嘘であるし、
事実十月事件後の辻大尉の言動はそうではない。
しばしば革新的会合に顔を出して、大蔵、磯部大尉らとも同席しているし、
村中大尉とも何度か、革新ついて意見の交換をしている。
大蔵、磯部大尉と同席した永井大尉の自宅での会合では二人に
「 君らがやる時はすぐ知らせてくれ、そのときは決してひけはとらない 」
なとどともいっている。
もし百八十度の大転換が本当だとすれば、
それは佐藤候補生をスパイに使う前に、
自分自らがすでにスパイをつとめていたということになる。

「 君らがやる時はすぐ知らせてくれ、すぐ告発するから 」
とでも腹のなかで思っていたとしか、とることはできない。
また十月事件と 「 同様の機運が煽られた生徒を救うべく 」
といって内情を探らせた先が橋本中佐らであるか、
でなければ 「 革新を喰い物にする背後の勢力 」 の M大将ら、すなわち真崎大将らであれば筋が通るが、
辻大尉自らが 「 純真な青年将校 」 といっている 村中大尉らであっては辻褄が合うまい。
それどころか、筋道からいえば、村中大尉らの陰謀が察知されたとすれば、
告発する前に、村中大尉らのもとに駈けつけるなり、先輩でもあるのだから村中大尉らを呼びつけるなりして、
革新を喰い物にするものに躍らされていることを忠告して当然である。
このことについては辻大尉は、
告発した十九日の前日、
すなわち十八日に村中大尉のうちにいくつもりでいたが、来客があってできなかったと弁疏したらしいが、

天下の一大事と来客と、どちらが大切かわからない辻大尉でもなかったはずである。
十一月二十日事件のことは、どういうわけか、
同工異曲で、重ねて 『亜細亜の共感』 に次のように述べてある。
「 新疆しんきょう旅行の翌年八月、参謀本部から陸士の中隊長に転出した。
叛乱前夜の切迫した空気の中に、
桜会以来、謂はゆる革新将校なるものの正体に、愛想をつかしてゐたので、
せめて市ヶ谷台の生徒達だけでも、このやうな不純な陰謀の手先から護らうと、覚悟してゐたのが、
明かに台上に触手を伸ばしつつある確証を握ったので、その防止に身を挺したのは、二・二六事件の一年前であった。
時に利らず、却って 「生徒の指導を誤りたる科」 との理由で、重謹慎三十日に処せられ、
満罰と同時に水戸連隊付となり、一年間、世の中の事を忘れて、唯只管青年将校と共に、本務に精進している時、
不幸にして、一年前の予言が的中し、未曾有の叛乱事件が起きた。
この事件により、初めて過去の黒白が明かにせられ、被告の立場から、原告の立場に帰った訳である」 (67~68頁)

新疆旅行の翌年八月というのは昭和九年、
辻大尉が十一月事件といっている十一月二十日事件のあった年の八月である。
同じ年の九月、
すなわち辻大尉が陸軍士官学校本科中隊長に着任した翌月には、
千葉の歩兵学校に通信、歩兵砲の学生が集り、鶴見中尉の周囲に二三十人の将校が結束するのである。
それは 「叛乱前夜の切迫した空気」 といっていいものかも知れなかった。
が、このグループは辻正信のいう、桜会以来の、いわゆる革新将校とは、なんの類縁もない。
むしろ辻正信が 『亜細亜の共感』 で述べているところのものと同じ立場の批判者たちである。
辻正信の論旨が一貫するならば、愛想をつかされる正体のものでもなければ、
たとえ陰謀はあっても、辻正信のいう意味の不純なものではなかったはずである。
待合で流連はおろか、私の下宿に集まって、番茶をすすり、たまに茶菓子が出れば上等の部で、
人の死を踏み台にして、栄達を夢見るものはいなかった。
死ぬ覚悟もあった。

このとき歩兵砲学生に瀬戸口という中尉がいた。
五 ・一五事件の士官候補生と同期の四十四期生で鶴見中尉の傘下にいたが、
赤穂義士を気取ったわけではないが、革新のことは父親に打ち明けずにいた。
が、なにかの拍子に自分の覚悟を話しかけてみたくなった。
話してみた。
父親の出方によっては仲間を裏切ることになると、内心はらはらしながら。
が、それに対する父親のことばは意外といえば意外だった。
「 自分はいままでなにもいわなかったが、
実は五・一五事件のとき、参加した士官候補生のなかに、お前の名前がなかったことを遺憾に思った。
やっとお前にもそんな覚悟ができて満足だ。」
瀬戸口中尉の父親は退役の老少将だった。
志村中尉と二人で私の前に坐った瀬戸口中尉は、
親に打ち明けたことを私からとがめられはすまいかと、小さくなっていた。
老少将のことばは、かねて無口の瀬戸口中尉に代わって、志村中尉が私に伝えた。

この瀬戸口中尉のような純真な将校ばかりが寄り合ったのが、千葉のグループだった。
辻大尉自身 「純真な青年将校」 といっているそのもの自体だった。
不純な陰謀の元締めと辻大尉にみられているM大将ら、
すなわち真崎大将らから、
なんらの指導も受けていなかったし、受けようとも思っていなかった。
強いて叛乱前夜の切迫した空気というものを模索するならば、
千葉のグループがそれに該当するのだが、スパイを向けた先きは、千葉のグループではなかった。
叛乱前夜の切迫した空気など藥にしたくもなかった村中大尉らに向けられたわけである。
当時の東京の青年将校の空気が、いかに千葉グループにとって微温的に感じられたかは、すでに述べたとおりであり、
大蔵大尉のうちでの 「革新教室」 の講師、多田督知大尉や坂西一良大佐も、それは実感していたはずである。
「叛乱前夜」 と殊更にいうことは当時の辻大尉の幻覚か捏造かでなければ、
規定の事実の二・二六事件の結果から逆に原因を虚構して実情案内のものに、
そう思いこませようとするだけのことである。

百八十度転換して革新に背を向けたものが、
満洲でわざわざ菅波大尉に会い、しかも菅波大尉と意気投合したものが、
何故菅波大尉の同期生で、親友であり、古い同志である村中大尉をスパイしようとしたのか。
そのわけは菅波は純粋で質素でボロ服を着ていたが、
村中は不純な浪人西田税と密接だから、不純でぜいたくだということだった。
これも詭弁の甚だしいものだった。
もちろん菅波大尉は純粋で質素であることに相違なかったが、決してボロ服は着ていなかった。
むしろお洒落れと思えるくらい、いつも身だしなみがよく、
その颯爽とした軍服姿は私どものあいだでさえ定評があった。
村中、大蔵大尉が、ぜいたくだということも苦しい言訳だったが、
純不純が西田税と密接であるかないかによってはかられるとすれば、
菅波大尉こそ、不純の最たるものだったはずである。
西田税を菅波大尉が知ったのは士官学校時代からで、
私などよりも二期先輩だけに二年は古いし、
村中大尉や大蔵大尉は菅波大尉の紹介で、あとになって西田税と知り合うのである。
なかでも大蔵大尉が西田税と密接になったのは、
私がすでに述べているように、
十月事件後、私が出征したのちのことである。
また村中大尉らをスパイしたことは、私には泥沼談義であいまいにしたけれども、
『亜細亜の共感』 では明らかに 「 その防止に身を挺した 」 と、積極的に自分から内偵させたことを告白している。
もっとも、十一月二十日事件の審理の過程で、すでに辻大尉ハスパイの事実を自認していたもののようである。

拘留中の村中大尉が陸軍大臣と第一師団軍法会議長官にあてた上申書には、
「 辻大尉は青年将校の内情を探らんと欲し、
佐藤候補生をスパイとして私共に接近せしめたり。
右は辻大尉、佐藤候補生の両名斉しく之を認むる所にして、
其の目的動機を美化しあるも、
少なくとも辻大尉に於ては、
従来私共に対し悪意的な言動ありしこと、対立的態度に在りし
こと等より推測して、
其の目的は当然に私共を排撃するための資料を獲得するに在りしは

明瞭にして疑念の余地なし 」
と 辻大尉のスパイ行動が述べられてある。
すなわち、これと 『亜細亜の共感』 の辻大尉の記述とを対照すると、
村中大尉の推測は的中していることになる。
私に対する言訳はともかく、
この 『 亜細亜の共感 』 のとおりのことが、
十一月二十日事件の審理中に表明されていたとすれば、
十一月二十日事件は、これがきっかけで継起した爾後の事件とともに、
あるいはちがった様相を呈したかも知れない。
二・二六事件によって、
「 初めて過去の黒白が明かにせられ、被告の立場から、
原告の立場に帰った訳 」
だから、もう大丈夫と、あからさまに本音をいったわけかも
知れないが、

その二・二六事件は、
では辻大尉の 「 一年前の予言が的中した 」 ものだろうか。

また 「 正邪は二・二六事件によってはっきりした 」 といい切って、いいものかどうか。
話の調子で、不純にしてみたり、純真にしてみたり、勝手に青年将校の首のすげかえをして、
予言が的中したとか、正邪ははっきりしたとか、自己審判をいそいでいるが、
事情をくわしく知らないものには、これで通るかも知れないし、
「 不純な 」 「 躍らされた多数の青年将校 」 は
「 代々木の刑場に黙々と眠って」 いて一言の抗弁もしないだろう。

 (いつまでも代々木の刑場などに眠っていはしない) 

が、これはちょっと待ってもらわなければならない。
予言者を自認することも、正邪を自己審判することも待ってもらわなければならない。
過去の黒白は明らかだが、辻大尉自身で、自分を白と決めることも待ってもらおう。
被告の立場から原告の立場に帰ることも待ってもらおう。
もともと十一月二十日事件では、被告は村中大尉らであり、原告は辻大尉自身であったはずである。
勝手に原告が被告になったり、また原告にもどったりされては見当がつけにくい。
私は当時の体験者として、事実だから、なんの変哲もなくいう。
十一月二十日事件に関するかぎり、辻大尉は誣告を犯したのであり、
したがって、たとえ二・二六事件のあとであっても、辻大尉は予言者とはならない。
村中大尉 磯部大尉が、すでにこの世になく、
死人に口なしで、意志表示はできなくとも、

私をはじめ当時の関係者は、大東亜戦争を戦い抜いてなお多数生存している。
私の結論は、この全国に散在している多数の懐かしい同志の代弁にすぎない。


末松太平
私の昭和史
十一月二十日事件 より
 


十一月二十日事件をデッチあげたは誰か

2018年03月10日 08時34分03秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

十一月事件とその摘発
昨年十一月中旬、
在京青年将校及士官候補生若干名が、不穏の企図をなしあるやの疑ありしを以て、
厳正調査のため軍法会議において関係者を取調べたり。
その結果によれば、
これ等将校及士官候補生は予てより、我国の現状は建国の理想に遠ざかり、
宿弊山積し国家の前途憂慮すべきものあるを以て、速やかにこれを刷新改善して、
我国体の真姿を顕現せざるべからずとの考を懐き、これに関し談合連絡をなしたることあり。
然れども、不穏の行動に出づるの企図に関しては、
徹底的に取調べたるも、その事実を認むべき証拠十分ならず、

軍法会議においては本件を不起訴処分に附したり。
然るところ、これ等青年将校及士官候補生の言動において、
軍紀上適当ならざるものありたるに因り、それぞれ適応の処置を講じたり

これは、昭和十年四月四日、陸軍省当局の発表した、
いわゆる十一月事件の内容であるが、これだけではなんのことかわからない。
林陸相の粛軍企図の途上に発生した十一月事件とは、
昭和九年十一月二十日、
村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉、
それに陸士在学中の士官候補生五名が、
臨時議会開会前後を期してクーデターを企図していたとして検挙されたものである。

その計画の内容とは、次のようなものであった。
一、
襲撃目標
第一次、
齋藤実、牧野、後藤文夫、岡田、鈴木、西園寺、警視庁
第二次、
一木、伊沢、湯浅、財部、幣原、第一次目標襲撃後、首相官邸に集合、
更に第二次目標襲撃に向う予定
二、決行時期
当初臨時議会前の予定としありしも、
臨時議会中又は通常国会の間に決行することに延期したりやの聞込あり
三、
首謀者と認むべき者及び参加者
軍部側 
陸大―村中  砲一―磯部  戸山―大蔵  戦車二―栗原  歩一―佐藤竜雄
歩一―村田  歩一―佐藤操  歩三―安藤  近歩三―飯淵  歩一八―間瀬淳三
地方側 西田税
歩兵学校補備教育中の左記将校
歩三八―鶴見  歩三―北村  歩一三―赤座  歩七三―池田
歩五―鈴木  歩二五―高橋  歩三一―天野  外氏名不詳数名
四、
実行方法
歩一両佐藤 二コ中隊―斎藤
歩三大蔵、村田―一コ中隊―後藤
近歩三飯淵、磯部―二コ中隊―牧野
                     一コ中隊―岡田
           鈴木、間瀬―不詳―西園寺
陸士予科―片岡  戦車三台―首相官邸
戦車二台―栗原  戦車七台―警視庁

だが、このクーデター計画は、たいへん杜撰なもので、
その頃の革新将校なら誰でも口にする月なみ的なもので、
実現性に乏しく実行の具体性に欠くものであった。
だから、この事件が起こったというよりも、起されたというのが正しい。
むしろ私は、
青年将校弾圧のためにデッチ上げられた架空のクーデター企図だった
と信じている。


陸士中隊長には辻政信大尉がいた。
辻は後年、”辻参謀”で有名な彼だ。
陸大恩賜組の秀才、
第一次上海戦では、中隊長として出征し勇名を馳せたのち参謀本部勤務となったが、
自ら志願して異例の陸士中隊長となった。
もともと陸士の中隊長は生徒の訓育をあずかる。
したがって、智能の才子よりも円満篤実な人格者を求めることが多く、
彼のような陸大出身者を迎えることはめずらしいことだった。
彼が何を目的に、わざわざ参謀修行をやめて、陸士入りしたのか、
三笠宮の御在学のためともいわれていたが
中隊長として彼は生徒達には人気があった。

その頃、陸士生徒の中には国家革新に血道をあげていた僅かな人々がいたし、
お隣りの陸士予科には区隊長で片岡太郎という皇道派の中尉がおり、
革新候補生を指導していた。
むろん、これらの革新生徒は外に先輩を求め
当時陸大在学中だった村中大尉のところにも出入りし、その啓蒙を受けていた。
この革新生徒のリーダー格に武藤候補生がおり、
その武藤の親友に佐藤勝郎という候補生がいた。
この佐藤は陸軍少将とかの遺児で、なかなか、しっかり者だったが、
その中隊長が辻大尉だった。
辻は、佐藤が親友武藤候補生の革新運動に深入りしているのを救うとする
青年の客気と純真さを利用して、
佐藤を革新運動に擬装参加せしめて、青年将校運動をスパイさせた。
辻の指示に動いた佐藤は、
もっともラジカルに、武藤の出入りする村中大尉にぶつかり、
直接行動のたくらみを捉えようとした。
数回の訪問で、佐藤、武藤それに佐々木、荒川、次木の五人組は、
一応クーデター計画なるものを、村中から打ちあけられた。
それが十一月十一日の日曜日だ。
もちろん、佐藤はこれを辻に報告している。
さらに、そのクーデターの時期をたしかめるため、
次の日曜日十一月十八日村中宅を、他の三人の候補生と共に訪ね、
しつこく村中にくい下って時期の明示を迫った。
丁度十一月事件二十八日から
第六十六臨時議会が開催されることになっていたので、
この臨時議会の機に、クーデターにでるかどうかを確めた。
もちろん村中は臨時議会には間に合わなくてやれないといった。
佐藤は帰校後、この顚末を辻大尉に報告した。
辻は、早速、憲兵司令部部員塚本誠大尉に、村中らのクーデター陰謀を知らせ、
また、参謀本部の片倉少佐にも連絡した。
塚本は、辻とは幼年学校以来の親友であり、片倉は辻の師事する同志的先輩だった。
辻は翌十九日、
佐藤候補生から、その入手したクーデター計画なるものの詳細な筆記報告を求め、
これを携えて、片倉少佐に詳報した。
そこで辻、片倉、塚本の間にどんな協議が行われたかは不明だが、
十九日、塚本は片倉少佐を訪ねて事件の概要をきき、
これを憲兵司令部警務部長城倉義衛大佐に報告したが、
さらに、片倉少佐を訪ねて、同少佐から事件の詳細を聴取した。
ここで気のつくことは、この情報の中心は辻ではなく片倉であったということである。
片倉のところでこの情報が整理されてから、
外に流されていることを、はっきり認識しておく必要がある。

デッチあげたものは誰か
この夜九時頃、
憲兵司令部では田代憲兵司令官以下部課長参集し、
塚本大尉の報告に基いて対策が協議され、
二十日午前三時すぎ、村中、好さ邊らの検挙をほほ決定した。
ところが、塚本は午前三時頃、
辻大尉を訪ね、相携えて片倉を訪問会談したあと、
三名同道で橋本陸軍次官を官邸に訪ね、事件を報告緊急逮捕を要請した。
こうして二十日早暁、村中、磯部、片岡の三名の検挙となった。
だが、この事件の発覚から検挙に至るまでには、奇々怪々な事実が多い
1、
辻大尉はなんの必要があって、
部下の候補生を使って青年将校のクーデター計画を知ろうとしたのか、
他の候補生を革新運動から救出するには、もっと他にたしかな策がある筈だ。
あえて、候補生を使ったことは、
身、いやしくも陸士の中隊長としては不謹慎のそしりは免れないが、
それよりも、そこに、何かのたくらみが、始めから存在したのではないかと疑われる。
ことに、佐藤を使って、ことさらに直接行動の存在をたしかめさせていることは、
益々この疑を深くするものがある。
2、
辻は、すでに十一月十一日、この内容を知っている。
だが、何等の処置にでないでおいて十八日、さらに、これを確認せしめ、
特にクーデター発起の時期を執拗に聞き出さそうとした。
もし、これが善意であるならば、当然に十一日、その処置を当局に要請するのが常識である。
なぜ、十八日に至るまで、この情報を温めておいたのか。
とりようによっては、臨時議会の期日に近く暴露することを狙ったと考えられる。
臨時議会に近ければ近いほど、
当局に緊急逮捕を要請するに都合がよく、かつ効果的であるからだ。
3、
辻は中隊長としての職責をもっている。
陸士における事故は、即刻にその上長たる生徒隊長に報告するよう義務づけられている。
にもかかわらず、塚本や片倉に注進した、それだけではない。
自らこれら二人の同志と共に、深夜陸軍次官を訪ねて、緊急な逮捕を要請した。
陸士生徒隊長北野憲造大佐は二十日、
陸軍省の命令で関係候補生の調査を命ぜられて、事を知っている。
これはどうしたことか、当時教育総監は真崎大将であった。
学校当局に報告することは教育総監に通じられて、
この弾圧の企図が崩れることをおそれての処置ではなかったか。
4、
辻が事件を報告した片倉少佐は、
前の参謀本部第二部第四班長で、国内情勢に関し情報を集め、
情勢判断することを任務としていたが、その頃は軍事課員で司直の人ではない。
また、塚本は憲兵だったが、憲兵司令部部員で第一線勤務者ではなかった。
事件を申告するならば東京憲兵隊になすべきだ。
だが、東京憲兵隊は皇道派の持永少将が控えている。
下手に連絡すれば握り潰されると考えたのかもしれない。
しかし握り潰されるようなものなら、
始から容疑事実そのものがあやしいといわねばならない。
5、
軍法会議は徹底的に調べたが、
不穏の企図に出ずべき事実は、証拠が十分でなかったといっている。
事実、計画参加者としてあげられた人々は、全く寝耳に水に驚いた。
こうした企みは全くなかったからである。
村中は、佐藤の強引な喰い下がりに、始から佐藤を疑った。
余りにも実行計画のみを知ろうとした佐藤の態度をいぶかったが、
クーデター計画を話してやらねば、彼らは離れて勝手な行動に出ることを恐れた。
そこで、これがばれても問題にならぬことを計算に入れ、あえて月なみな、
革新将校なら誰でも口走る内容を伝えた。
ところが村中の話さないことが密告されたクーデター案には書かれていた。
例えば、計画には、歩兵学校補備教育中の将校を使うことになっているが、
その学生たちは、すでに十一月十五日卒業帰隊して千葉にはいなかった。
また佐藤操、間瀬淳二 この二人が参加することになっているが、
この二人はすでに二、三年前に満洲に転じて内地にはいなかった。
その他、鶴見、赤座、田尻、戸次らの名は、村中はかつて口にしたことがないのに、
ちゃんと参加することになっている。
これは、他に書き加えたものがいる。
それは、国内情報ことに青年将校の動向を知っている
片倉少佐を措いて外にないということになる。
すなわち、
いうところのクーデター計画は、
片倉のところで整理され、彼によって新たに加筆されたのである。
以上のように、この摘発はデッチ上げによるものだった。
 
だから村中は、刑務所に収容中、辻、片倉を誣告罪で告訴し、
磯部も刑務所から開放されると、片倉、辻、塚本の三人を誣告罪で訴えた。
村中は再三再四、
誣告罪による取調べを開始するよう当局に要請したが、何の反応もなかった。
彼等は四月出所と同時に行政処分としては再局限の停職処分をうけた。
停職になると六ケ月は復職はできないし、
そのまま一年たてば自然に予備役に入ることになっていた。
彼等は停職中の五月頃、三長官に対し、粛軍に関する意見書を出し、
その中で、誣告罪の取調開始を訴えた。
だが、これも梨の礫だった。
とうとう村中、磯部は、七月上旬、
「 粛軍に関する意見書 」 と 題する小冊子を印刷して全軍にばらまいた。
いかった軍当局は、彼等を免官にしてしまった。
虎を野に放ってしまったのである。
だが、十一月事件および これに伴う陸軍の処置は拙劣だった。
なぜ、誣告罪の審理をやらなかったのか。
軍法会議が証拠不十分ならずとして不起訴処分にした以上、誣告罪の疑も十分の筈、
皇道派の弾圧に急して、統制派の不純策動を不問にしたのは、
どのような理由があったにしても、軍の粛軍態度ではなかった。

この事件を契機として陸軍は大揺れに揺れて、二・二六の破局に至るのであるが、
その原動力は、村中と磯部であった。
野に放たれた虎は青年将校を駆って、暴れに暴れた。
相沢事件後、陸相の任についた川島大将は、
彼等の懐柔策として、村中、磯部の外国留学を考え、
山下少将その他の民間人を使って、彼等を打診したと伝えられていたが、
時はすでに遅かった。
すでに彼等は錚々たる革命の闘志となっていたのである。
林陸相の下、明智をうたわれた永田軍務局長にして、この過失があったことは、
くれぐれも残念なことと思われる。

遺憾なことといえば、この場合の憲兵の態度である。
憲兵はこの不純な検挙に強引に引きずられている。
当面の治安責任者たる東京憲兵隊は、たとえ皇道派憲兵との負い目は感じていても、
中央において検挙をけっていしておいて、
これを実施部隊に形式的に捜査のかたちをとらせようとした企図に、
なぜ反撥して合理的な捜査を推進しなかったか、
部内混乱の動機をつくったとすれば、
当初における憲兵の処置の不当は、大きく非難されねばならない。   


憲兵 塚本誠の陸軍士官學校事件

2018年03月09日 09時13分56秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

辻正信と士官學校事件
麻布竜土町に家を借りて大手町の憲兵司令部への通勤が始まる。
憲兵司令官は秦真次中将、
憲兵を統轄する陸軍大臣はこの年の初め荒木貞夫大将から林銑十郎大将に代わっている。
司令部の編成は総務部と警務部の二部、
私は警察務を担当する警務部の第二課で勤務することになった。
総務部長 二宮晋一大佐、警務部長 藤井慎二大佐、第二課長 平野豊次少佐 ( 25期 ) である。
第二課の業務は軍事特別高等警察務で、その中は二つに分かれ、
「 軍特 」 と略称して 主たる対象が軍人軍隊である軍事特別高等軽率務を受け持つ係と、
「 特高 」 といって 一般特別高等警察務を受け持つ係とがある。
山中平三大尉 ( 32期 ) が 「 軍特 」 の主任将校。
「 特高 」 は柴野芳三大尉 ( 30期 ) が主任将校で、私は柴野大尉の補佐で副主任である。
なお、課長の平野少佐と柴野大尉は陸軍省兵務課の兼勤であるため、午後は通常兵務課へ出向する。
兵務課というのは陸軍省兵務局の一課で軍人軍隊の軍紀、風紀といったことの課であり、
また憲兵の業務はその所管に属する。
私は司令部においては最年少の将校であり周囲は経験豊富な先輩ばかりである。
当時の司令部内では荒木前陸軍大臣の 「 皇道精神、皇軍意識 」 とか
秦司令官の 「 皇道即誠の道 」 とかいった言葉なり、考え方が少なからず影響している。
また、日々 目を通す各隊の現場報告書類は必ずといってもいいくらいに
いわゆる軍統制派、軍皇道派の二つの流れをまことしやかに書いた檄文等が添付されている。
大臣の 「 皇道精神 」 も 司令官の 「 誠の道 」 も 結構である。
しかし、軍人には軍人勅諭がある。
個人的な、しかも抽象的な精神主義や神懸かり式の発言は、
一部急進将校や民間浪人の国家改造運動に対処することは出来ないばかりか、
これらのことが却って派閥的傾向の強い政治乃至右翼浪人らをして軍内にその派閥を持ち込み、
軍の統制を乱す結果を招くものと私はひそかに心配した。
秦中将は政党政治を嫌悪するばかりでなく、自身政治的に動かれる憲兵司令官のようである。
犬養内閣が倒れ 後継内閣首班の御下問に答えるべく上京する西園寺公爵を玉川大橋に迎え、
軍の意図なるものを伝え、斎藤挙国一致内閣の実現を図ったのは同中将である。
司令官は藤井警務部長と共に岩川清士曹長らを使って政治情報を集めさせている。
また、東京憲兵隊長持永浅治少将 ( 佐賀出身 ) も 秦司令官とおなじ動きがあるように推察される。
下川晴輝准尉が隊長の鞄持ち的な役割をしていて、
とくに真崎大将 ( 佐賀出身 ) の下に使いに毎日のように行くそううであ。
政治情勢の軍の統制に及ぼす影響を見ることは憲兵徳高警察の重要な仕事ではあるが、
政治行動はあってはならない。
ある日、わたしが陸軍省の調査班室 ( 政策班ともいわれる ) に 同期の山形有光大尉を訪ねた。
その時、いわゆる政策グループの一人で
「 戦争は文化の母 」 と 題した陸軍省調査班発行のパンフレットの原文を執筆したといわれる
田中清少佐 ( 29期 )が、その自席から私に、
「 憲兵は何だ。皇道派とか何とか、真崎、荒木の走狗ではないか 」
と 彼一流の暴言をあびせたから 私は、
「 憲兵をかれこれいうより、自分の頭の蠅を追ったらどうです 」
と やり返した。
田中少佐のような感じで憲兵を見ていた人が
陸軍省 参謀本部のいわゆる政策グループの中にはあったと思う一方、
急進青年将校は真崎、荒木両大将に大なる期待を持っているように思われた。

五月の初めだと思うが、全国の憲兵隊長会議の行われる前日の夕方、
外出先から自分の席に戻ると、
私のところの書記の机の上に 大きな白紙に図表の書かれたものがある。
何だときくと、司令官の原稿を清書したもので、
司令官が明日の会議でこの図を使って話をされるのだとのこと。
よく見ると大きな円があり、これが軍全体を示す。
その円の内に三つの円が書かれて、
一つは皇道派、一つは統制派、他の一つの円が憲兵を示している。
憲兵は皇道派でも統制派でもないということを説明するためであろうが、
司令官がこんな図を書くことは大変なことであると直感した。
かりに軍内に皇道派的、統制派てきな者が何人あるとしても、
それを派閥的に表示するなぞもってほかであるが、
かりに一歩譲って一部軍人の動きを図示して説明するためにしても、
対立的に憲兵を図示することは大変な誤りである。
この憲兵の円は絶対に削除すべきであると考える。
おりよく柴野大尉が兵務課から戻られた。
私が柴野さんに意見を述べると、柴野大尉は、
「 その通りだ。俺が司令官のところへ行って来る 」
と すぐに司令官の部屋へ行かれた。
戻って来て憲兵という円の削除を書記に命じた。

八月の定期異動、
秦司令官は第二師団長に転補、後任は、関東憲兵隊司令官 田代晥一郎中将。
警務部長藤井大佐は横浜隊長に、高級副官城倉義衛中佐は進級の上、警務部長にそれぞれ転補。
新司令官田代中将は、いわゆる支那通で知られた謹直な将軍で、
新警務部長 城倉大佐は憲兵部内きっての人格者、
憲兵司令部もこれで刷新されると私はひそかに喜んだ。
東京には二十二日会と呼ぶ同期生会がある。
当時俸給日は毎月二十二日で、陸士三十六期の在京者はその日の夕方から九段の偕行社に集まる。
会費は一円でビール一本、酒一本を飲みながら歓談することを常例としていた。
陸軍省 松下勇三、増田繁雄 等、参謀本部 辻正信、甲谷悦雄 等、常連として歩一の横田洋を初め
三品隆以、田邊新之 など三十名近くが集まる。
憲兵は私一人。
いつも楽しい会合だったが、八月の異動で辻が陸軍士官学校本科生徒隊 中隊長になった。
参謀本部 部員でしかも陸大優等卒業者が、陸士生徒隊 中隊長になったことは全く前例がない。
近く澄宮崇仁親王殿下 ( 後の三笠宮 ) が 陸士四十八期生として御入校になるので、
それに備えての人事である。
九月一日、
殿下は辻中隊長の第一中隊に配属になった。
九月の二十二日会における皆の話題は主として辻の中隊長振りに集まった。
入校時、生徒は中隊長にひとりひとり申告するが、その時辻は、殿下と次のような会話をしたそうである。
「 殿下は将来 天皇陛下のご補佐をなさるお立場になられるのでありますが、
在学中に他の生徒と成績を競うようなことは一切あってはなりません。
殿下は、運動の中で何が一番おきらいですか 」
「 機械体操であります 」
「ご卒業までに機械体操が一番お好きになられますよう!」
ある日、辻は殿下区隊の体操訓練に立ち会った。
科目は木馬の跳越だったが、殿下は踏切りを失敗して、やり直しをしようとされた。
すぐ殿下を呼んで、
「 一般生徒のまねをしてはいけません。
この科目は、殿下にとっては、障害を勇敢にのり越えるという徳目を養われるだけのもの、
躊躇なくお跳びなさい 」
と 中尉したところ、殿下は真剣そのもので見事に跳ばれたという。
「 けがでもされては、と 本当に肝を冷やした 」
と 辻は付け加えた。
「 陸大 ・軍刀 」 の中隊長は純情な生徒によほど魅力があったらしい。
辻が週番指令の時は、夜ごと生徒の来訪が絶えず、他中隊の生徒まで辻の話を聞きに来ていたという。

《 十一月二十日事件 》
十一月十一日、私は辻を鷺宮の自宅に訪ねた。
同期生某の結婚手続について、彼の援助を求めるためだった。
その頃、現役将校の婚姻には師団長、もしくはこれに準ずる所属長の許可を必要とした。
某は近く満州に派遣される予定だが、彼にはすでに内縁の妻があった。
それで彼はこのさい後顧の憂 ないように婚姻手続を完了したい、と 私に相談に来たのである。
関係上司の諒解を取り付けるには、私は辻を最適任者と思ったからである。
辻は即座に私の依頼を快諾したあとで、
「 いい時に来てくれた。これは極秘だが 」
と 前置きして、私に次のような話をした。
「 俺が週番指令をしていると、よく生徒が訪ねて来るが、
その中には五 ・一五事件に参加した士官候補生と同じような考えを持っている者がいる。
俺はそのつど説教しているが、先日、佐藤という候補生から、
『 生徒の中には、村中大尉や磯部主計のところへ、休みの日に出入りしている者がおります。
私もこれに誘われていますが、どうしたものでしょうか 』 と、相談を持ち込まれた。
俺は、生徒に、
『 人のあやまちを見てほっておくのは、正しい友情ではない。
もし友達がどろ沼にはまったら、自分もいっしょにとびこんで助けねばならん。
岸から手を差し伸べただけでは助けられない 』 と いっているのだが、
佐藤候補生に、
『 お前を誘っている候補生と一緒に行動し、その状況を俺に報告しろ、俺が指導するから 』
と いっておいた。
その後、佐藤の報告によると、
村中、磯部 らは、北、西田 らと つながりがあり、歩三、歩一、その他の急進将校の間には、
何か計画があるように思われるのだが、確たる証拠がない。
確証をつかんで、断固処分しなければ、この種の風潮は根絶できない。
三月事件、十月事件、五・一五事件に対する陸軍の不徹底な処置が、
怪文書その他 今日の不穏傾向を呼んでいるのだ。
いよいよの時には貴様に連絡するから善処してくれ。
どうも憲兵に連絡すると、すぐ真崎、荒木に筒抜けになり、徹底した処理ができなくなる。
これからは、貴様だけを憲兵の連絡先にするから、そのつもりでいてくれ。
きょうの話は、参謀本部第四課の国内班長、片倉少佐だけには話してあるから、
近いうちに一度 片倉さんに会っておいてくれ 」
話は想像の域を出ていないので、私はただ聞いただけで辻の家を辞去した。
片倉に会うこともそれほど急ぐことではないと ほっておいたが、

十一月十九日午後四時頃、参謀本部をたずねた。
片倉少佐は、私を見るやいなや、
「 いいところへ来た 」 といって、話しだした。
片倉少佐の話によれば、
《  辻は佐藤候補生から、「 陸大生の村中大尉、野砲一の磯部一等主計らの急進将校は、
十二月初め、兵力をもって臨時議会を襲い、同時に重臣および政府要人を襲撃することを計画している。
急進将校は部隊、学校に所属しているが、その中心勢力は 歩一、歩三である 」
との 報告を受けた。
辻は、今朝これを生徒隊長 北野憲造大佐に報告し、十二月初めに予定されている現地戦術の延期を進言した。
この現戦の専修員は、生徒隊長、統裁官は北野大佐だったから、予定通り実施すれば、
事件が起きた時、学校主要幹部がいないことになるからである。
なお辻は、北野大佐に情報を決して他言しないよう くれぐれね頼んでおいたが、
東京警備司令部の情報参謀が今朝警備連絡に来た時、北野大佐は不用意に辻情報を話してしまった。
東京警備司令部は、五・一五事件以後 月一回定期的に昼食時に警備会議
( 参集者は、在京官衛、学校、師団司令部などの警備担当者 ) を 開いているが、
この席で情報参謀はその朝 北野大佐から聞いた話を伝達した。
この会議に参謀本部から出席した参謀が、さきほど終ったばかりの参謀本部の班長会議で辻情報を披露しかけた。
しかし、これは自分が制止した。
いま 省、部では軍務局長 永田鉄山少将、軍事調査部長 山下奉文少将、参謀本部第二部長 磯谷廉介少将
の 三人で対策を協議している。
私は 片倉さんの話を聞いてすぐ陸軍省兵務課に回り、私の課長平野少佐に報告し、
午後六時過ぎ 連れだって憲兵司令部に帰った。
この夜、田代司令官は芝の紅葉館に内務次官初め警察首脳部を招待していた。
平野少佐は警務部長に電話し、私らは司令官の帰りを九段の司令官 官舎で待ち受けた。
軍特主任の山中大尉も駆けつけて来た。
午後九時頃、司令官、両部長らが帰って来た。
平野少佐に命ぜられて、先週 辻が私に話したこと、きょう 片倉少佐から聞いたことを、
私から直接、司令官に報告した。
司令官は、私に意見を求められたので、
「 急進将校が情報の通り決起を決意しているなら、事が漏れた以上、一刻を争って決起することもあり得る。
しかし、かれらが純真な心情から決意しているなら、誠意をこめて訓戒すれば、決意を変えさすことはできる。
本来決行する決意は全然ないのに、同志の獲得、派閥勢力の拡張、
あるいは革新運動を利用するためにこんなことをいっているなら、厳重に処断せねばならない。
いずれにせよ、憲兵は事件の突発に備えるとともに、すみやかに真相を究明し禍根を断たねばならない 」
との趣旨を述べた。
司令官は、私らを待たせておいて、陸軍次官 橋本虎之助中将のもとへ出かけた。
このあと、持永東京隊長が和服で来邸、平野少佐が一応状況を話した。
間もなく司令官は帰って来たが、すぐ持永少将に所見を求めた。
「 こんなことは、いつものことです 」
と 言外にあわてるなといった返事であった。
さすがに温厚な司令官もこの返事に ムッ とした口調で、
「 この情報の確度は高い、私は就任以来まだ日が浅いので よく補佐してくれといったのだが 」
と いいながら、
「 塚本大尉、不満かも知れぬが、この対策は明日に延ばすことに決まった 」
と 終止符を打たれた。
私は、自動車で山中大尉を四谷志雄町に送ったが、辻の身辺が気になり、そのまま鷺宮にむかった。
辻は、
「 よく来てくれた。片倉さんのところへ行こう 」
という。
二人は中野新井の片倉宅を訪ねた。
こんどは片倉少佐と辻が陸軍次官のところへ行くという。
二人を私の車に乗せて、英国大使館裏の次官官舎に送った。
私は次官に関係がないから、二人をおろしてすぐ帰りかけると、片倉少佐が、
「 次官から憲兵的立場の意見を尋ねられるかも知れぬから、君がおってくれた方がよい 」
と 引き止めた。
門があかぬので、三人は塀を乗り越えた。
玄関のベルを押すと女中が出て来て、応接間に案内した。
次官は和服に袴をつけてすぐ出て来られ、自らストーブに火をつけられた。
片倉少佐は、
「 このさい、急進将校の取調べを行い、不穏行動の根を断ち切るきっかけにせねばならぬ 」
と 協調した。
次官は、陸軍の統制について議会が非難している現在、あまり事を荒だてると、またそれが批判の種になる、
と苦衷を述べられた。
二人はこれに対し一言もない。
そこで私は、
「 そんなことでは陸軍の対議会姿勢は全く受身ではないですか。
陸軍は議会の主張を尊重して、このように軍紀の粛正に努めている。
しかし、青年将校がなぜ政治革新というような意欲に駆られるか、
その根本原因について政治家の猛省を願いたいと議会でいえませんか 」
と 私は思ったまましゃべった。
次官官舎を辞去した時、すでに夜は明けていた。
私は片倉、辻 両氏を市ヶ谷駅に送って、警務部長城倉大佐に報告のため官舎を訪ね、
朝食の供応にあずかりながら、昨夜司令官官舎を出てから今朝までの私の行動、見聞を一部始終報告した。

この日 十一月二十日、
陸軍上層部合議の結果、容疑将校らに対する捜査は、第一師団軍法会議検察官の担当となった。
村中、磯部らはこの日 検挙、翌年三月四日まで東京陸軍刑務所に拘禁され、
検察官、予審官の取調べを受けた。
私も軍法会議に呼ばれ、取調べを受けた。
質問の重点は、十一月十九日、二十日 両日の私の行動に向けられたが、
法務官の話を聞いていると、私の行動を知らぬはずの村中、磯部が私の行動を詳しく法務官に申したてていることは、
全く意外だった。
尋問の最後に法務官は念を押すように、
「 あなたは職務として、行動されたのですか 」
と たずねた。
「 そうです 」
「 上司にご報告になりましたか 」
「 一部始終、詳しく報告しました 」
「 よくわかりました 」
これで法務官の尋問は終わった。
私はすかさず法務官に反問した。
「 拘禁されている連中が、どうして十一月十九日の私の行動まで細大もらさず知っているのでしょう 」
「 私にもわかりません 」
十一月十九日、二十日の私の行動は 片倉少佐、辻といえども断片的にしか知らない。
総合的に知っているのは、憲兵部内の極少数の特定者だけ、私は法務官の取調べを受けて、
この少数特定人のだれかが、被拘禁者と直接、間接に密接不可分の関係にあるように思えた。
二月七日、村中は片倉少佐と辻を誣告罪で告訴した。
その告訴状には関係者として私の名も出ていた。
三月十日頃、突然総務部長 二宮大佐に呼ばれた。
「 君は、近く大阪憲兵隊付に発令されるが、いま上海にいる川村大尉と交代し、
支那における国際共産党の活動を見てもらうことになろう。
細部は訓令で示される。
しばらくほとぼりをさまして来なさい 」
と 転任を内示された。
三月十五日、大阪憲兵隊付に補され、四月十九日、
「 在上海憲兵大尉 河村愛三と交代のため上海へ出張を命ず 」
と 発令された。
また大臣の訓令受領までは東京、大阪におって出発を準備せよと指示があった。
これより先、
村中、磯部らは三月四日責付となり 三月二十九日 不起訴に決定、
四月二日 停職となった。
この日、磯部が片倉少佐、辻、私の三名を誣告罪で告訴した。
しかし、私に対しては その後なんらの取調べもなかった。

塚本 誠 著

ある情報将校の記録  から
 
塚本誠 (  S15当時 )


十一月二十日事件の経過

2018年03月08日 13時23分14秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

《 十一月二十日事件の経過 》
磯部たち革新運動の青年将校には、
陸軍上層部の派閥抗争は無縁のものであり、関心もなかった。
それが否応なく その派閥争いのなかに
巻き込まれざるを得なくなったのが、「 十一月二十日事件 」 である。
この事件は陰険な謀略事件といわれているが、その因って来るところの根は深い。
橋本欣五郎らの桜会急進分子による三月事件、十月事件の二回の挫折でも彼らは国家改造を諦めたけではない。
特に三月事件の計画立案者といわれる永田鉄山は早くから重武装による高度国防国家の構想を樹て、
これを軍が主体となった統制経済によって支える国家改造を考えていた。
省部の中堅幕僚の殆んどはその信奉者となり、いわゆる統制派の幕僚を形成してきた。
ところがこれに反撥する革新派の隊附青年将校は上下一貫、左右一体を合言葉に、
軍隊が横断的に結束して国政を改革し、
特権階級を除去した一君万民の天皇政治の国家改造をやろうとしていた。
「 小官等は口を極めて十月事件首謀者の実行方法は国体反逆なりと非難し
且つ 其の行動は陰謀的にして 又 彼等の理想が軍部独裁主義なるを論議否認するを以て 」
・・・リンク→  粛軍に関する意見書 (4) 告訴理由2 
と、後日 村中が告訴状に認めているように、両者の間には氷炭相容れないものがあった。

     
永田鉄山少将                      片倉衷少佐            辻正信大尉           塚本誠憲兵少佐

「 永田鉄山は第三聯隊長時代は青年将校を愛し ( 安藤は特に愛された ) 、評判も良かった。
しかし、陸軍省の軍事課長となり 次いで軍務局長の要職に就くようになると、
その野望はだんだん大きくなり、
自分の力で陸軍を一本化し、その上で己が理想を実現しようとした。
青年将校にもはじめは懐柔策に出た。
「 私が満州にいる時、
 辻正信が出張の度に訪ねて来たり、武藤章が欧州へ行く途中 私を訪れた。
言うことは一つだ。永田鉄山の傘下に入れ、優遇するというのだ。
私は言下に断った。
それ以来 淫に陽に圧迫が加わってきた 」
と、これは菅波三郎の証言である。
これら革新派の青年将校の影響を強くうけるのが陸軍士官学校の生徒たちであった。
もともと陸士にはその忠君愛国から かもし出される一種独特の雰囲気があった。
一言でいえば
「 天皇の馬前に死ぬ 」 という 殉教的な精神である。
それがアジアの解放や国家革新という具体的な行動に結びつくと、熱烈に燃える。
五 ・一五事件の際、
菅波三郎や大蔵栄一の制止を振り切って参加した士官候補生の例でもわかるように、
彼らは一様に自決用の短刀をもって参加していた。
その精神的な伝統は消えるどころか、ますます燃えてきている。
学校当局も生徒たちが革新派の青年将校に近づくのを厳禁していたが、
正義感の強い士官候補生たちは、教官の目を盗んで日曜毎に訪問していた。


そこへ登場するのが辻正信である。
辻の人物については多くの証言があり、
智能は優れていたが、人格的には幾多の欠陥があったことが指摘されている。
辻は陸士三十六期の幼年学校から陸士、陸大 ( 四十三期、昭和六年卒 ) と
いずれも トップで稀有の秀才といわれた。
昭和七年二月、
上海事変に中隊長として出征、豪胆不適な戦いぶりで勇名を馳せた。
その辻が昭和九年八月、
参謀本部員から、自ら望んで陸士本科の第一中隊長として赴任してきた。
( 陸士内部の反対を押し切って 成ったといわれる )
士官候補生たちから熱狂的に歓迎され、崇敬の的となった。
辻の目的は士官候補生を隊附の青年将校から絶縁させることにあったといわれる。
後日、村中孝次の提出した告発状だけでは、一方的な判断だが推測は成り立つ。
当時、陸士本科には四十七期生と四十八期生がいた。
辻の中隊の四十八期生に佐藤勝郎という候補生がいた。
佐藤は大正三年、日独戦争の折戦死した陸軍少将佐藤嘉平次の遺児である。
母と姉との女ばかりの家庭で育っていた関係からか、辻中隊長には早くから心酔していたらしい。
陸軍士官学校幹事の談によれば、
 辻大尉は佐藤候補生の区隊長を佐藤宅に遣はし
其母及び姉に対し 佐藤をして青年将校の内情を探らしむることに関し同意を求めしが、
母及び姉 共に拒絶の意を述べ流涕するに至れり。
而して母は佐藤に対し 其の不可なる所以を懇ねんごろに論せしも、
辻中隊長を盲信せる佐藤は遂に母の言に承服せざりきと云ふ
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (8) 前言3、告訴追加其二 
これは村中の告訴状にある譬話ひわだが、
後年の辻の言動と照らし合わせ見ると、事実であると思われる。
自分の信念のためなら他の犠牲にはいささかも顧みないという辻の酷薄な性格がよく現れている。
自分に心酔している士官候補生を操って、スパイとして利用し、
事が発覚して己れの不利となれば、敢て捨てて顧みない。

佐藤もスパイ行為が生涯の負い目になり、自責の念がはなれなかったようだ。
事件後佐藤は他の四名と共に退校処分となり、満州国軍に入り将校となったが負傷し、
帰国して東北帝大に入り、卒業後北支に渡り、敗戦のため帰国、昭和三十年死亡した。
「 終戦後、某食品会社にいた佐藤氏に逢った時、
その話をしてみたが、彼は言葉を濁して深くは答えなかった 」
佐藤もまた辻正信の謀略の犠牲者であったと感ぜざるを得ない。

この事件を取り調べた第一師団軍法会議の検察官島田朋三郎の意見書によれば、
同期生の第二中隊の候補生武藤与一が、村中や磯部の家に出入りし、
革新運動の同志を獲得しようと奔走しているのを憂慮した佐藤が、
十月二十四日、中隊長の辻正信に
「 中隊長たる資格を離れ先輩として教を乞ふ旨 」
を前おきして、
士官候補生の中には青年将校と結んで軍隊や戦車を出動させて、
五 ・一五事件のような不穏の動きがある、
彼らをなんとかその渦中から救い出したい、どうしたらよいか、
と 相談した。
辻は
「 事態重大にして到底尋常一般の方法を以てしては其の友を救ふことは能はず、
・・・中略・・・
万一の場合は共に斃るるの覚悟を以て身命を賭し、自ら其の渦中の中に投ずべき旨 」
指示した。
その前日 (十月二十三日 )、陸士予科の区隊長 歩兵中尉片岡太郎 ( 四十一期 ) は、
高知県出身者の日曜下宿土陽会で、武藤与一他三名の質問に答え、
歩一、歩三それぞれに千葉の戦車隊が参加し、政府高官や重臣を襲撃すると話し、
同志将校として大蔵、安藤、村中の各大尉、磯部主計、栗原中尉の名をあげている。
しかし、その期日は答えていない。
これを伝え聞いた佐藤は武藤と同志のように装い、磯部や村中、大蔵に近づくが一蹴される。
一計を案じた佐藤は十一月十一日、村中の家を訪れ、
青年将校が起たねば候補生だけでも起つ、
五 ・一五事件の時のように青年将校は候補生を見捨てるのか、
と 叫んで袂を別って帰ろうとした。
正直な村中はこの演技にまんまと引っかかった。
・・・リンク→ 十一月二十日事件をデッチあげたは誰か 

佐藤の口からその日のうちに辻の耳に入った。
ちょうどその日 同期の東京憲兵隊の憲兵大尉 塚本が訪ねてきた。
辻は候補生とのやりとりを語り、
「 佐藤の報告によると、村中、磯部らは、北、西田とのつながりがあり、
歩三、歩一、その他の急進将校の間には 何か計画があるように思はれるのだが、確たる証拠がない。
確証をつかんで、断固処分しなければ、この種の風潮は拒絶できない 」
と、語っている、
確証を掴んだら革新派の青年将校を一網打尽にする考えであった。
だから辻は十一日に佐藤の情報を聞いても、校長にも生徒隊長にも報告していない。
かえって参謀本部の片倉衷少佐にだけは話してあるから、塚本に一度会ってくれと言っている。
塚本は 「 話は想像の域を出ていないので、そう急ぐことはあるまい 」 と 放っておいた。
十一月十九日になって片倉を訪ねた。
片倉の口から
「 いま省部では 軍務局長永田鉄山少将、軍事調査部長山下奉文少将、
 参謀本部第二部長磯谷廉介少将 の 三人で対策を協議している 」
と 聞く、驚いて憲兵司令部に帰り、司令官の田代皖一郎中将に報告した。
夜九時すぎである。

  
田代皖一郎中将  持永浅治大佐   橋本寅之助中将

持永浅治東京憲兵隊長は 「 こんなことはいつもの事です 」
と、あまり問題視していなかったが、田代司令官は橋本陸軍次官に相談に出かけた。

その夜更け、事件のもみ消しを恐れた辻は塚本と片倉を誘い、
寝静まった次官の私邸に塀を乗り越えて入り、
穏便に事を済まそうとしている橋本次官にハッパをかけて帰った。
もうすっかり夜が明けていたという。

その日、陸軍首脳部の会議の結果、
村中、磯部、片岡の三将校と士官候補生五名 ( 四十七期三名、四十八期二名 )
が逮捕、投獄された、
これが十一月二十日事件とよばれる事件の経過である。

 
村中孝次大尉     磯部浅一 一等主計  片岡太郎中尉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第一師団軍法会議で厳重な取り調べをおこなっても、反乱罪を立証するものはでてこない。
村中らは血気にはやる士官候補生をなだめるために、
架空の計画を話したまでで あくまで暴発を阻止する方便であったとして譲らない。
軍法会議の記録にはでていないが、
革新派の青年将校の間に、不穏な空気が漲みなぎっていた事はたしかである。
その頃、千葉の陸軍歩兵学校
青森の第五聯隊から派遣されていた歩兵中尉末松太平がいた。
「 歩兵学校は革新運動拡大のためには、うってつけの場所だった 」
と、急進的な青年将校がその周りに集まっていた。
当然 「 やる 」、「 いつやるか 」 といった不穏な会話が熱っぽく語られていたであろう。
「 毎土曜から日曜にかけて東京に出た。いつも何人かが千葉駅に落ち合って同行した 」
と 述べているように、その行動は派手だから、当然憲兵にマークされていたであろう。
それがきまったように、これも要注意将校の戸山学校教官大蔵栄一大尉の家に行く、
憲兵や特高が神経を尖らしたのも無理はない。
その矢先、憲兵を刺激する青年将校の会合が新宿の宝亭で行われ、
地方から来た青年将校が 「 東京は何をぐずぐずしているか、早く蹶起せよ 」
などと論じたてた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
歩兵砲学生は十一月十五日が終業式である。
その日がせまってもいたのである。
いよいよ鶴見中尉らの歩兵砲学生が千葉を去る時期が迫っていたころだった。
東京から歩兵砲学生の送別会を開きたいから 新宿の宝亭 に集まるようにといってきた。
当日宝亭の大広間に集まったのは相当の人数だった。
正面の席には早淵中佐、満井中佐らの先輩格も坐っていた。
歩兵学校グループはこの送別会にでることに、あまり気乗りしていなかった。
いまさら宴会でもあるまいといった気持だった。
偶然丸亀から小川中尉、江藤少尉、金沢から市川少尉が上京していて、これに出席していた。
酒がほどよくまわったところで市川少尉が立ちあがって、
東京は何をぐずぐずしているか、早く蹶起せよ、
と元気のいいところをみせた。
それに呼応するかのように、満井中佐が、東京の若い将校は意気地がない。
僕がなん度蹶起する準備をしたか知れないのに、誰もついてこない、
とこれまた市川少尉に輪をかけたような元気のいいところをみせた。
これには、なに口先きだけだよと、聞こえよがしに半畳をいれるものがいた。
歩兵学校グループは一ヵ所にかたまって、ただ黙々と酒を飲み料理をつついていた。
そこだけが真空をつくっていた。
座が乱れたところで、私は真空のなかから満井中佐の前に出向いて、
さっきいったことは本気ですかと聞いた。
満井中佐は本気であることを強調し、力説しはじめた。
みなまで聞かず、其れが本気なら、そのうちお訪ねして、ゆっくりうけたまわります、
といって私は満井中佐の力説から退避した。
二三日して私は約束どおり満井中佐を自宅に訪ねた。
満井中佐は、滔々と革新を急がねばならない理由をのべたてたあと、
「実行計画なんて簡単なものだ。二時間もあれば十文だ。
起とうと思えば今日いますぐでも起てるのだが、誰も協力するものがいない。」
といった。
「何人ぐらい協力者がいりますか。」
「なあに、何人もいらないよ。」
「では すぐやりませんか。協力者はいますよ。
私の手もとに三十人ばかり、五 ・一五の二の舞でもいいからやろうといってきかない将校がいます。
千葉の歩兵学校ですから、急がないと、もうすぐ主力が帰ってしまいます。」
半分本気で半分はったりだった。
・・・リンク→ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」 ・・・末松太平

たまたま 四国から小川三郎大尉、江藤五郎中尉、金沢から市川芳男少尉も上京していたので、
これを機会に大演習の慰労の意味をかねて、新宿宝亭で一夕の宴を催すことになった。
それは、十一月十七日ごろであったと記憶している。
この席には千葉の歩兵学校の学生も参加することになって、総勢三十数名にふくれ上がった。
先輩では早淵四郎中佐、富永良男中佐、満井佐吉中佐などが顔を出した。
宴会のはじまるまえであった。
数か所のグループに分かれて雑談にふけっていたとき、
「 われわれの頭上に岡田啓介輩ばらの書が掲げてあるとはけしからん 」
栗原中尉が、欄間を見上げてどなった。
見ると なるほど、四字の草書に啓介と署名入りの横顔が、金箔の表装で掲げてあった。
「 うまい字だよ 」
と、いうものもあった。
「 いや、けしからん 」
栗原中尉は、騎虎の勢い、立ち上がったかと思うと、額を欄間から引きずり下して廊下にほうりだした。
女中が周章あわてて、大事なものを破られては大変と、廊下に持ち去って注進に及んだ。
これはあとからわかったことであるが、女中が注進に及んだ時、
たまたまそこに憲兵が居合わせていて、いち早くこの慰労宴のことが誇大に報告された。
・・・リンク→  栗原中尉と十一月二十日事件 ・・・
大蔵栄一
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これも当然憲兵の耳に入っていたであろう。
「 あの時期、四、五人の青年将校が暗殺をやるなら別だが、
軍隊を率いて起つなどとは空想に等しいことであった。
僕をはじめ 村中も磯部も部下の兵をもっていない。
多少軍事常識のある者なら、
村中が語った蹶起計画がいかに噴飯ものかがすぐわかる。
しかし、これが彼らの思う壺だったかも知れない
いくつかの要因が憲兵の手で総合されて、
すわ蹶起と思ったか、
或はこれを突破口にして革新派を一掃しようと企てたのだろう。
塚本の本にある 永田軍務局長らが密儀をこらした
というのも、この点からは肯ける。
ついで 荒木、真崎 二将軍の外、皇道派の将星に累を及ぼそうと企てたものと思う 」
と、大蔵は生前、語っている。
「 黒幕は永田鉄山だ 」
と、当時はみなそう思ったと大蔵は語っているが、
八ヶ月後に永田を斬殺する相澤三郎中佐も、
その頃から 「 永田斬るべし 」 と思い定めていた。

昭和九年の年末から十年の正月にかけて、
和歌山の第六十一聯隊の歩兵大尉大岸頼好が相沢三郎や末松太平と共に
仙台に旅行するさまが 『 私の昭和史 』 に語られている。 
・・・リンク→ 「 永田鉄山のことですか 」 
大岸の目的は仙台の第二師団長 秦真次中将を訪問して、
秦中将を介して親友の第一師団長柳川平助中将を動かし、
村中らを救うことであった。
相澤の同行は仙台にある家、屋敷を整理することであったが、
三十一日の夜、相澤は大岸に
「 こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか 」
と 相談している。
しかし、この時は大岸に止められていったんは思いとどまっている。

陰謀の元凶は永田軍務局長であることは誰の目にも明らかであった。
辻正信は後年いろいろと弁解しているが、
佐藤をスパイに使ったことは、軍法会議でも認めているし、佐藤も肯定している。
辻は誰に命令されたかは言っていないが、
辻の人脈を辿って行けば、
永田鉄山であることは当時の常識であった
と大蔵は証言している。

憲兵の塚本誠も軍法会議に呼ばれて取り調べをうけた。
要点は十一月十九、二十日両日の行動であった。
「 憲兵部内の極少数の特定者だけしか知らない 」
塚本の行動を村中や磯部が知っていたのに驚いた、
と 彼は著書の中で述べている。
「 この少数特定人の誰かが、被拘禁者と直接、間接不可分の関係にあるように思えた 」
と 想像している。
「 それは恐らく憲兵隊長の持永浅治少将か、
 その息のかかった目黒茂臣憲兵大尉ではなかろうか。
牛込分隊長の森木五郎少佐も吾々に好意的であったから、
憲兵から好意的に情報を洩らされたものであろう 」・・大蔵栄一
当の目黒茂臣はこう述べている。
「 十一月二十日事件事件は 憲兵隊の、こうした計画および動きはないとの報告により、
憲兵隊の手を離れて軍法会議により直接調査されることになった。
このことはすなわち陸軍省が憲兵隊の報告は信用できない、ということであり、
逆に憲兵隊に不満を抱かせ、内部亀裂を生じさせる。
・・・中略・・・
私は十一月二十日事件は全くのでっちあげ事件であり、この策源地は辻正信中隊長であります
と、永田鉄山は単に事務的な指示をしたにすぎず、辻正信の陰謀であったことを証言している。

当時投獄された三人のために全国の同志から激励の手紙や援助金が寄せられ、
一歩もひくなと励まされたと大蔵は追想している。
結局、翌十年三月四日、釈放され、
三月二十日、証拠不十分で不起訴になったが、そのままでは済まなかった。
リンク→ 法務官 島田朋三郎 「 不起訴処分の命令相成然と思料す 」
四月一日、村中ら三名は定職という重い行政処分をうけた。
これは六ヶ月間、大過がなければ復職できるが、必ず復職できるという保証はない。
一ヶ年以内に復職できない場合は 自然に免官になるという厳しい処分であった。
士官候補生は全員退校、
辻正信は三十日の重謹慎処分に付され、ついで水戸の歩兵第二聯隊に左遷された。
塚本はそれより前の三月十五日、大阪憲兵隊に転勤を命ぜられ、
やがて上海憲兵隊に派遣されて内地から去った。

二月七日、村中は三名を代表して
片倉衷とつじ辻正信を第一師団軍法会議に誣告罪で告訴した。
恐らく獄中で同情した憲兵の口から、片倉や辻の陰謀を聞いたものであろう。
・・・リンク ↓
・ 粛軍に関する意見書 (3) 告訴理由1 
・ 粛軍に関する意見書 (4) 告訴理由2 
・ 粛軍に関する意見書 (5) 告訴理由3 

しかし、軍当局は彼の告訴を黙殺した。

「 このころ村中は、もう不合理な企てはしないといって
 『 妻帯はしない、陸大には入らぬ 』 という、
かつての盟約に背いて妻帯もし、陸大にも入っていた。
私のところへも手紙をよこし、
『 もうこれからは上司を信頼し軍務に忠実に服します・・・・』
と いっていた。 ・・・リンク→  荒木貞夫が観た十一月二十日事件
と、荒木があとで述懐しているように、当時の村中は不穏な計画などなかった。
磯部は威勢のよい急進論をぶってはいたが、実兵を握っていない彼にできることは、
せいぜい血盟団のような一人一殺の暗殺であるが、
彼が同志に先んじてやれば、
同志は一網打尽でそれこそ幕僚たちの思う壺にはまることだ。
磯部はそれがいかに愚劣なことかは知っていた。
四月二日、こんどは磯部が、片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (9) 告訴状 及 陳述要旨  
ついで 四月二十四日、村中の名前で二月に提出した告訴の追加を提出した。
・・・リンク→ 粛軍に関する意見書 (8) 前言3、告訴追加其二 
これは西田が執筆して、大蔵栄一が清書した長文のものである。
「 今回の誣告事件は 私的策謀と公的権力乱用との結託した所の彼等の陰謀の一つの現われであります 」
と、先づ辻等の陰謀の本質を衝き、
統制派、清軍派の人脈から、中央の幕僚たちによる三月事件、十月事件、神兵隊事件への関連性、
隊付青年将校への圧迫を述べ、片倉、辻、塚本の三名の背後関係に言及し、
誣告の全容を余すところなく暴露したものである。
しかし、陸軍当局は受理したのみでいっさい黙殺して、何の反応も示さない。
業をにやした村中は、
五月十一日、陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、
上申書を提出し、・・・リンク→  粛軍に関する意見書 (2) 上申書 
磯部は第一師団軍法会議に出頭し、
五月八日と十三日の二回に亘って告訴理由を説明したが、当局は何らの処置もとらなかった。

ここで村中と磯部は最後の肚をきめた。
幕僚たちの旧悪をあばき、その非違を糾弾しようと暴露戦術にでた。
もちろん免官は覚悟の上である。
昨年十一月二十日、逮捕されたのは三名であったが、
磯部は後輩の片岡は俺たちと行動を共にするなと、誣告の告発には加わらさなかった。
『 風雪三十年 』 には荒木の回顧談で
「 片岡、お前はお母さんがいる。親子二人だから、どいてくれ、俺たち二人でやる 」
と、片岡に参加させなかったとある。
彼ら二人が犠牲になる覚悟でいたのである。
七月十一日
「 
粛軍に関する意見書 

を 陸軍の三長官及び軍事参議官全員にナンバーをつけて、
初めは十三部だけ郵送した。
・・・以降、 正面衝突 ・ 村中孝次の決意 に続く

須山幸雄著
二・二六事件青春群像  から


候補生・武藤与一 「 自分が佐藤という人間を見抜けていたら 」

2018年03月06日 05時43分38秒 | 十一月二十日事件 ( 陸軍士官學校事件 )

武藤与一は、
昭和七年 士官学校予科に入学、
予科卒業後、朝鮮竜山七十九聯隊へ配属され、

半年の聯隊生活を送り、
九年九月士官学校本科に入学した。

< 武藤与一談 >
私は岐阜の貧農の出身。
五つのとき叔父の家に養子に行ったが、叔父は、無理して私を中学へ上げてくれた。
だが、中学を出ても貧乏百姓では それを継ぐほどのこともなく、将来を考えて悩んでいたとき、
中学の先輩で士官学校に入った人があったので、世に出るには軍人の途を行くのが適当だと考えるようになった。
それに、士官学校だと何でも官給だから金の要らないのが魅力だった。
士官学校の試験に合格したときは、やっとこの貧乏から抜け出す希望が見え、将来の出世を夢みた。
   
村中孝次 


士官学校予科に入学すると、一中隊三区隊に所属した。
このとき、村中さんが六区隊長をしていた。
入校した生徒たちは、正式の入学式のある前に、とりあえず週番士官から話を聞くことになっている。
ちょうど、村中さんが週番士官だったが 自習室に生徒一同を集めて訓示した。
『 お前らは士官学校へ入って、将来の元帥、大将を夢みているかもしらん。
或は 出世して金が入るとおもっている奴もいるかも分らん。
だが、そんな甘い考えは一切捨てろ。 市ヶ谷はそんな人間を育てるところではない 』
私には村中さんのこの言葉が衝撃で、なるほど、自分は村中に指摘されたような人間だと思い、
これではいかんと反省した。
その矢先に五・一五事件があった。
村中さんは、事件に関連して士官学校を去った。
部内には、この事件に参加した士官候補生に同情的で、
校長以下幹部も、彼らの手段は悪いが、その純真な精神は買うべきだという態度であった。
私などはそれに力を得た。
村中さんは士官学校には出入り禁止だったが、一度会ってゆっくり話を聞きたいと思っていた。
予科二年のとき、軽い病気で医務室へ入室したが、そこに当時本科生の田中哲夫という人が治療に来て話をしていた。
聞いていると村中さんの名前が出る。
そこで、村中さんを知っていますか、
と田中に訊くと、
もちろん、村中さんも西田さんも、知っているという 田中の返事だった。
彼は一度連れて行ってやると私にいってくれた。
それをきっかけに村中さんへ出入りするようになった。

村中さんは旭川の二十六聯隊だが、当時陸大生で、明治神宮の近くのアパートに居た。
外出日にはちょくちょく 一人で行くようになった。
岡本という同期生も誘った。彼は山口県人で、同じ区隊だった。
彼とは革新運動をやるといって血判まで捺して誓った仲だったのに、後に運動は止めたと言って去って行った。
みんな 利口で、なかなか同志はできなかった。
思想運動をやると成績が下がる。
自分はあまり頭もよくないが、それでも一年は中ぐらいだったのに、
二年になると がた落ちになってビリ近くになり、区隊長に注意された。
しかし、『 国家改造法案 』 などは何遍も読んで勉強した。
それでないと運動からも置いてゆかれる。
日曜日に岐阜県人会の下宿で一生懸命 『 国家改造法案 』 を読んだ。
このころ、私は上級生とも会わず、村中宅へ個人的に出入りしていた。
百姓出の私は郷里での農民の生活を実際によく知っていたから、五・一五事件では大きな刺戟をうけた。
私はともすれば過激なことを口走った。
すると村中さんは、事件を起す起さぬ段階ではない、と、よくたしなめた。
しかし、農民生活の経験があり、政党や財閥の不正に義憤を感じて捨石になろうと誓っていた私は、
いつもそれを迎える村中さんに失望すら感じていた。
村中さんはこう言った。
『 やるやらないが問題ではなく、日本がこういうことではいかん、
という理論が国民の間に澎湃ほうはいとして起ってくることが必要なのだ。
人を斬らずにすめば、それが一番いい。斬るとか斬らないとかいうのは末の末の問題だ 』
村中さんのところで、磯部さん、栗原さん、安藤さんにも知り合った。
栗原さんは挨拶代りに 『 ぶった斬れ 』 という人だった。
磯部さんはちょっと おっちょこちょいみたいなところがあった。
安藤さんは立派な人だった。
岐阜県人だし、近づきたかったが、あまり機会はなかった。
或る日、西田税を紹介してもらって行くと、栗原さんに会った。
『 オイ 武藤、いっちょうやるか 』 という風だった。
過激なのは栗原さんだけだったと思う。
もちろん五・一五のときも村中さんは西田さんと同じ立場だった。
相沢さんにも村中宅や西田宅で会ったことがあるが、おっとりした、よく考えてものをいう人だった。

私は昭和九年九月一日に本科へ入学したが、
同期生の中だ只一人の同志だった岡本に去れらてとても孤独だった。
早く 四十八期に同志をもちたいと焦っていた。
そんなとき佐藤が向うから近づいてきた。
ある晩、屋上で夕涼みをしていると、
『 武藤だね 』 と 近寄って来た候補生が、自分は四十八期の佐藤だと名乗り、
天下国家を論ずるようなことをいい出した。
藁をもつかみたいような気持だった私は、佐藤とすぐ意気投合した。
『 西田を知っているか。村中を知っているか 』
と 訊かれて、前後の見さかいもなく私はそれに飛びついた。
『 じゃ、今度村中のところへ連れて行け 』
と 佐藤が頼んだので、次の外出日に二人で行くことにした。
後から考えれば、まことに不自然な出遭いだった。
中隊の違う人間が私を知って名指しで近づいてくるのも変である。
隊が違うと生活が全く別で、お互いに知り合う機会は少ない。
それに、私も相手の人間を見もしないで仲間となった。
しかし、まさか士官候補生がスパイをするとは思ってもみなかった。
彼との出遭いは九月の終りだったか、もっと後だったか、記憶がはっきりしないが、
十月初めだったとしても十一月二十日の事件まで外出日は数えるほどしかなかった。

村中さんのところへ次の日曜日に早速 佐藤を連れて行った。
村中さんは会うと初対面の佐藤が、
『 誰を殺りますか。誰地誰をいつ殺るんですか 』 などと言い出した。
村中さんがどぎまぎして、
『 殺るのが問題じゃないのだ。革新運動は斬った張ったではないんだ 』
と たしなめた。
それでも佐藤は自分から、
『 ××と××を殺るんでしょう 』 などと言い出したので、
村中さんはたまりかねて、
『 何を言うか 』 と 佐藤を怒鳴った。

事件の前の日曜日に西田税の家に二人で行った。
西田さんのところで佐藤が、『 あれとあれを・・・・』 というような事を言った。
西田さんはいいかげんに 『 いいだろう 』 とか 『 うむ、そうだな 』 とか、『 時期は近いうちだ 』
などと相槌を打っていた。
それで、具体的なことは西田さんのほうから云わずに、全部佐藤のほうから質問のかたちで言ったのである。
この日が事件の前の最後の日だから、具体的な話は西田の家で出たと思う。
村中さんは佐藤がうるさくなったので彼から逃げたのだ。
西田のところへ行ってみろと村中さんに云われて、この日二人で西田を訪ねて来たのだった。
そんなわけで、佐藤には村中、磯部、西田の三人を紹介したと思う。
二人で村中宅へ行ったのは二回くらい。
たとえ村中さんたちに何か謀議があったとしても、私達にそんなことを言うわけがない。
佐藤は入ったばかりだし、私もまだヒヨコだったから、村中さん達が大事なことを打明けるわけはないのだ。
それに、佐藤があんまり激しいことを言うので村中さんも警戒していたと思う。

十一月二十日に手入れがあり、村中、磯部、片岡太郎の三人が憲兵隊へ連行され、
私達候補生は校内に軟禁された。
自分は授業中に呼びにこられて中隊の小使室に入れられた。
別に見張りが付くわけでもなく、小使が居た様に思う。
中隊長と区隊長が蒼くなっていた。
この二人に調べられた訳だが、『 日誌を持ってこい 』 と言われて、
本当はつけていなかったのだが、『 下宿にある 』 と言うと、外出証明をやるから取ってこいと言われて下宿へ行った。
実はここにもないのを知っていたのだが、これを幸いに 『 改造法案 』 などを処分した。
誰か尾けてきたかもしれないが、ありませんでした と帰ると、何事もなかった。
自分のいる小使室へ一中隊の小使がやって来て、辻が呼んでいるという。
私は上官が使いをよこしたので隣の中隊へ出向いた。
辻が私を調べようとしたら、ろくにものを言わぬうちに自分の中隊長が怒鳴り込んで来た。
( 第二中隊長は古宮正次郎少佐、区隊長は田中義男中尉 )
辻はもう一度小使をつかって呼びに来た。
二回目は佐藤とどうとか言い出すと、やっぱり中隊長が呼びにきて駄目になった。
古宮中隊長は辻に 『 何だ、他人の中隊の候補生を・・・・』 と 怒鳴った。
辻は 『 悪い意味はない 』 と 弁解していた。
辻にとっては私が別の中隊だったのが全くの不幸だったといえる。
二中隊では私を監視するより、辻が捕まえにこないかと神経を使っていた。
これを見ても辻が工作したのは明らかだ。
この行為が校内で問題になって辻は重謹慎三十日かになったという。
我々の革新運動だけが問題なら、当局が辻にこの処分をするのがおかしいということになる。

何日か経って軍法会議へ行くと言って田中区隊長が付き添って学校を出た。
ところが、着いた先が代々木刑務所で、区隊長は驚き、学校側もあわてふためいて抗議した。
しかし、我々は未決へ入れられた。
学校が抗議するまでは犯人扱いだったが、後はストーブまで入れてくれた。
未決から軍法会議へ行く車で荒川達と一緒になり、佐藤がスパイだったと知った。
九十日間代々木の未決に居たわけだが、この間取調べは二度だけで、
一回は信念などを聴かれ、二回目は事件の経過を調べられた。
我々は証拠不十分で不起訴になった。
尚、片岡さんが事件に関係したとされたのは、私が
『 予科の区隊長に片岡太郎さんが居るから行ってみろ 』
と 佐藤に言ったことがあるので、佐藤が加えたのだと思う。
片岡さんはただそれだけの関係だ。
佐藤は会っても居ないはずだ。

我々は退校となり、一度隊へ帰り 満軍へ行って再出発を期すことになった。
満洲へ渡る前一度郷里へ帰った。
村中さんからハガキをもらって東京に残れと言われたが、私としては村中さんに会わせる顔もなかった。
自分がバカだったのだ。
満洲へ行ってもう一度出直そう、と新天地を求めて出発することに決めていた。
それからすぐ渡満したので、村中さんにはその後一度も会って居ない。
退校した五名は満軍に入り、私は軍務に励んだ。
だから、『 粛軍に関する意見書 』 も見ていない。
二・二六事件のとき、日本の憲兵隊に二度調べられた。もちろん、連絡もなかったので何事もなかった。

私は、永田事件が起ったのも、二・二六も自分の不明の致すところだと慚愧に堪えない。
今でも本当に申訳なく思っている。
自分が佐藤という人間を見抜けたら、もう少し警戒心があったら、
士官学校事件のようにバカなことも起きないで済んだと思う。
いつも、革新的気運を盛上げる仕事をすればよいのだと言っていた村中さんが、この事件で感情に走ったのは私の責任だ。
国民的支持のある革新を目指していた村中さんらしくない行為だと感じた。
相澤さんもああいう人ではなかった。
村中さん達を過激に走らせた責任を現在でも感じている。

松本清張 著  昭和史発掘 6  から