あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

拵えられた憲兵調書

2016年12月10日 15時59分21秒 | 尾鰭


中田整一  ( 元 NHK プロデューサー)
講演

『 二・二六事件・・・71年目の真実 』
2007年9月17日掲載  から

本日お話させていただくのは、二・二六事件のときの電話の 「 盗聴 」 についてなのですが、
この春、ある方からお手紙がありました。
それは戦前の総理大臣をやっていた阿部信行という陸軍の軍人のお 孫さんからで、
「 父が、あなたがやった番組のことを語り残してい る。
父は二・二六事件のときに、戒厳司令部で電話の傍受をやって いた。
そして、録音もやっていた。秘密の部屋でその録音を聞いて いた。
電話の相手方は真崎甚三郎が中心であった。
あなたが番組を 放送した10年ほど前に、電話の傍受・録音のことを語り残してい る 」
というものであった。
父とは稲田正純という錚々たる陸軍の参謀であり、日中戦争の時には作戦課長だった人である。
私が放送 の取材をしていた時には、全くこういうことは分からなかった。
私は、偶々20枚の録音版を手に入れて、28年前から二・二六事 件について取材を始めていったのです。
それから8年後、これはス クープになったのですが、二・二六事件のときの、
今流に言えば、 検事総長、当時軍法会議の主席検察官の匂坂春平という人の極秘記録650点の中で、
初公開資料600点を掘り起こし、深く二・二 六事件に関わっていったわけです。
歴史というのは、断定してはいけない。後で取り返しが付かなくな ってしまう。
私が放送した番組の中にも誤りがありますが、後ほど この点については、修正させていただきます。

事件を結論から言うと、
これは私なりの独断的な解釈なのですが、 二・二六事件は ( 統制派幕僚の ) カウンタークーデターである
これは、予め事件を 予測して、二・二六事件の2年前に、
満州事変を起こした石原莞爾 らと一緒だった統制派の参謀の片倉衷がまとめた
「 政治的非常事変 の勃発に処する対策要綱 」 ・・・リンク→ 
「 政治的非常時変勃発に処する対策要綱 」 
に沿って、事件が起きたらこうする旨の 基本的戦略をすべて考え、
また、事件処理を見てもそのとおりなさ れていること、
それから、もう一つは裁判すなわち陸軍軍法会議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、
結論的に言うと、指揮権発動 もされている。

今日の話の中心である北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛乱幇助罪で3年くらいのところ、また、西田については、もっと軽くてよいところ、
強引に寺内陸軍大臣が指揮権発 動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事実である。
これは匂坂資料の中にも出てくる。
北一輝、西田税の強引な裁判の有力な証拠にさせられたのが電話で ある。
北一輝の判決文を読んでも十数か所に電話による激励という ことが出てくる。
青年将校たちの処刑が発表された昭和11年7月 5日の新聞には、戒厳令下ですから軍が書かせたものですが、
電 話による激励という大見出しが出ている。
電話は徹底的にマークされた。
二・二六事件を起こすということを西田が聞いたのが2月15日、 西田から北へ連絡があったのが2月20日であった。
彼らは、事が ここまで来ているのなら仕様がない、それなら青年将校たちをサポ ートするしかないと決心した。
事件の中でいろいろ不思議なことがあったが、今日は掻い摘んでお話します。

先ず一つのポイント。
私が20枚の録音盤をもとに番組を作って放送したのですが、その とき、取材していてどうしても所在が分からない人がいた。
それは 盗聴の主人公である。戒厳司令部で盗聴をやっていたのは分かっていたが、誰がやっていたのかは分からなかった。
その人から半年後、自分が盗聴をやっていたことを私に名乗ってき た。
自分は首都圏防衛の東部軍の通信主任参謀をやっていたが、
二・二 六事件とともに戒厳司令部の通信主任参謀となり、電話の盗聴を命 じられた。
盗聴・録音をやったのは自分であることを名乗ってきた。
そこで、すぐに横浜に濱田萬氏 ( 元陸軍大尉 ) を訪ねた。
縷々話を 聞いたが、一つ心に引っかかる言葉があった。
「 盗聴なんかやった ばっかりに・・・、軍人の名誉を汚してしまって・・・」。
この言 葉はこれまでにずっと私の心の重石なっており、今度、新しい本を 出版することにも繋がった。
彼は二・二六事件の当時、盗聴をやったが、当時盗聴は民間人3人、 兵士3人の合計6人であった。
二・二六事件が一段落すると、陸軍 は中野学校の前身である後方要員養成所 ( 中野学校は昭和14年設立 ) を立ち上げた。
濱田他3人はそこの教官として当時の盗聴シス テムをもって養成所に赴任した。
当時は、外国から様々な情報が盗 まれていたので、諜報組織の立ち上げが急がれていた。
濱田はその後またすぐに上海に渡り、日本のスパイ活動をやってい た。
そして外国の大・公使館の諜報活動に携わり、どちらかという と暗い街道を歩いてきた。
そこで、先ほど紹介した 「 盗聴なんかや ったばっかりに、軍人の名誉を汚してしまって・・・」
という言葉 がポツリと出てきたということが分かった。
もう一つ、盗聴・録音はどういうことでやったのかというのは、
昭 和9年頃から先ほどご紹介した片倉衷ら陸軍参謀本部第二部 ( 情報 )の人達が、民間人に頼んで録音機の開発を始めた。
その試作品で 昭和10年にソビエト大使館の盗聴を始めた。
このことは直接片倉 さんから聞いている。
録音機ができたのと、二・二六事件はほぼ同時期であった。
日本における録音機の歩みはこの時期に始まってい る。
当時の録音機は2台が必要で、円盤1枚が3分しか持たない、交互 にやっていかないと長時間の録音ができない。
録音機を開発した人 達の中に何と二・二六事件のときの侍従武官長本庄繁大将 ( 満州事 変のときの関東軍司令官 ) の娘婿、
山口一太郎大尉が民間人と一緒 に開発に携わったという歴史的事実もある。
それから、私が二・二六事件でもう一つ発掘した匂坂主席検察官の軍法会議資料についてですが、
ここには、いろんなことが秘められ ていた。
一つは、私が最初の二・二六事件の番組を作ってから8年後ですが、
匂坂主席検察官の資料から 「 電話傍受綴り 」 というものが出てきた。
軍法会議は昭和11年3月5日から始まるのですが、
匂坂主席検察 官が自分なりに電話傍受の整理を陸軍の罫紙に120数ページに亘 って記録している。
その中に、NHKが持っている20枚の録音盤 が書き写されている。
NHKの録音盤にはいつ録音されたか日付は 入っていないが、
電話傍受綴りには、いつ、何時何分、誰から誰へ ということがすべて書き込まれている。
二・二六事件に関する電話傍受の数は300件に上り、
1月8日の 斎藤瀏少将に始まり、2月21日の西田税から真崎甚三郎への電話、 21日以降は盗聴件数も増加している。
2月27日の戒厳令発令後は、第14条(郵信電報の開緘)により、発令前は盗聴、発令後は傍受ということとなる。
傍受は3月6日ま で続き合計件数は300件となっている。
これらの中には二・二六事件のいろんな断片が出てきます。
また、 様々なドラマが展開されています。

今日は二つの事例をビデオで見ていただきたい。
一つは外国大使館を傍受したものです。
300件の中で外国大使館 を傍受したものはこれが一つです。
二・二六事件が起きたら、外国への通信をすぐに止めてしまいます。
沢山いる、日本の特派員に対しても、また、満州への通信もすぐに 止めています。
海外へ情報が流れるのを戒厳司令部は一番嫌ったわ けです。
それで26日午前9時半以降通信を止めてしまったわけです。
ただし、膨大な情報が流れています。
録音盤についてみると、時間にして約4時間半、聞きとれた通話は 64通話です。
この中にドイツ大使館を傍受したものがあります。
聞いていると 「 大使 」 という言葉が出てくる。
これから、ビデオを見ていただいて 裏話をお話したいと思います。
具体的な会話のやり取りは残念ながら文字化できておりません。
ビデオの解説部分のみ文章化します。
銀座2317番。これはドイツ大使館、大使専用の電話である。
当時、ドイツ大使館は国会議事堂の隣、陸軍省や参謀本部の向かい側、つまり反乱軍のど真ん中にあった。
二・二六事件の最中、  日本人がドイツ大使館に入ったという記録はない。
国際法上、大使館はその統治権を保障されている。
しかし、いかに二・二六が大事件とはいえ、
日本の軍人が外国の大使館のしかも大使の執務室に情報収集のため出入りすることが何故できたのか。
事件の最中、ドイツ大使館の窓越しに反乱軍の動きを通報した日本人は一体何者なのか。
そこには、どのような事実が秘められているのか。
幸いに当時のスタッフのうちただ一人、商務官のハース氏がドイツに健在であることが分かった。
当時の大使館員ウィルヘルム・ハース氏は西ドイツのブレーメンの町外れにひっそりと暮らしていた。
ハース氏を訪れたとき、町はすっぽりと深い雪に覆われていた。
戦後、駐日大使を務めたことのあるハース氏は、外交官としての自分の半生を振り返って回想録を執筆中であった。
ハース氏の数ある思い出の中でも、二・二六事件は特に強い記憶となって残っているという。
事件のとき、ドイツ大使館は決起部隊に包囲される形となっていた。
ディレクセン大使以下館員達は、日本政府の避難勧告を断って、館内で事態の推移を見守ったという。
そのとき、大使館に確か「まつい」とかなにか「まつ」の名のつく日本人がやってきた。
これがハース氏から得たかすかな手がかりである。
西ドイツ外務省にディレクセン大使によって報告された膨大な二  ・二六の事件記録が眠っていた。
その2月28日の記録の中に、一人の日本人の名前がはっきりと記されていた。
馬奈木中佐である。
その日、10時15分頃馬奈木中佐があたふたと来訪した。
彼は顔色も青ざめひどく興奮した様子で、早く通訳を呼んでくれと叫んだ。
外交記録部の報告書はこう記している。
馬奈木中佐とは、当時、参謀本部ドイツ班長として、ドイツとの折衝役の立場にあった馬奈木敬信氏である。
当時、彼は戒厳司令部の設置とともに戒厳参謀に任命されていた。
2月28日、事態は決起部隊との衝突が避けられない方向に進みつつある中で、
馬奈木中佐は反乱軍の目を掠めて、密かに裏門から大使館に進入したという。
馬奈木氏の話しによれば、日本とドイツの軍部の間では、
既に前の年の秋から外務省には極秘で、日独防共協定への下工作が進められていたという。
今、ゾルゲの話が出てきました。先ほどのビデオで西ドイツ外務省 (1978年、取材当時)に膨大な文書がありました。
その文書の かなりの部分は、あるいは、ゾルゲが書いた可能性があります。
こ れを読んでみると、相当学術的な日本の分析をやっている。
二・二 六事件の「前史」、「起因」、「影響」などの章には、ゾルゲの手 が入っているのではないか。
ゾルゲの証言の中で、彼がドイツやソビエトに信頼を得るようにな った一番のきっかけは二・二六事件であったと自ら言っている。
彼 の書いた報告書はドイツの「地政学」(ゲオポリティーク)という 雑誌、ドイツ外務省とソビエトの赤軍第4本部へ送られている。
こ こで信頼を築いて昭和16年のゾルゲ事件まで行くこととなる。
また、私がインタビューしたとき、
馬奈木敬信中佐(参謀本部第二 部ドイツ班長・・・欧州および南洋方面の情報収集の主務者)
も自分の名前が出てくるので、びっくりしていましたが、
彼が証言した 中で、一つだけ違うことがある。録音を聞いていると、
大使の執務 室の中でコツコツと3人くらい動き回っている音がする。
私もこれ はてっきり馬奈木さんの班の軍人かと思っていたら、
報告書には、 28日の午後2時に、憲兵が3人くらい大使館の警備に来たとある。
何故警備かというと、28日の午後は奉勅命令が出て、討伐命令が 出されており、
反乱軍は国会議事堂の周りにバリケードを築いて一 触即発の状態にあった。
東京湾には、戦艦長門をはじめ連合艦隊の40隻の艦艇が国会議事堂の尖った塔屋に照準を定め、
いつでも艦 砲射撃ができる体制にあった。
国会議事堂は当時できたばかりで、反乱軍の兵士達はここに立てこ もり、
いざ開戦となれば、最終的にみんなが国会議事堂に潜り込む こととなっていた。
憲兵が来て監視というのにはそういう理由もある。
時刻については、匂坂資料ではっきり分かったのが、夕方5時頃と 思われる。
何故かというと、ディレクセン大使が長崎に行っており、
急遽帰ってくるのが午後4時頃で、その後、大使の了解を得て云々との会話 も入っているので、
28日午後5時頃の会話と判断できる。
ゾルゲが情報収集していた時期に、ドイツからもう一人スパイが来 る。
馬奈木さんが先ほど話されましたが、日独防共協定の交渉を前の年 の10月から始めていた。
外務省にも全く極秘でやっていた。
当時 は、外交官が出る幕がなく、統帥権の下に外交権まで軍が握ってい て、
ヒットラーと結びつけようとしていた、重要な証言が彼の中に 出てきた。
私は日独防共協定に至る経緯についても取材したが、
そ のきっかけと日独が提携する一番の山場つまり難しい時期がこの2 月だった。
その後、ドイツからナチスと日本の二重スパイのドクタ ーハックという男が来て、
日本の陸海軍と防共協定の根回しをやっ た丁度その時期とぶつかる。
それをゾルゲが知って、逆にそれに目をつけて、
原節子出演の映画 のプロデューサーの触れ込みで来たスパイの後を追うとともに、
映 画監督のアーノルド・ファンクの美貌の奥さんに言い寄って何とか 情報を取ろうとしていた。
私が奥さんにお会いしたとき、後でゾル ゲがスパイだったことが分かり、奥さんはぞっとしていました。
一本の電話の中にもいろんな含みがあります。

もう一つ、私は今も疑問に思っているのですが、匂坂資料の中にコ ミンテルンからの革命指導書が入っている。
2月3日に満鉄経済調 査会のロシアの専門家から満鉄東京支部を経由して、
西田税あてに コミンテルンの活動報告書があって、それが横浜税関に差し押さえられた。
同じくそこにもう一つ文書、「 ソビエト革命武装指導要領 」 が紛れ込んでいる。
その中には、クーデターを起こすには、武力 機関、権力機関など占拠するなどいろいろなことを挙げている。
昭和13年の内務省の報告書の中に、
二・二六事件に関係する対馬勝雄中尉が持っていて押収されたとあるが、信憑性は分からない。
このように二・二六事件の影がある。
それから、戦後の日本週報という雑誌があり、その中に録音機を作 った山口一太郎が、
烏森の料亭で、赤い人 ( これはゾルゲのことで すが ) と会ったと、多分これは栗原安秀だと思われるが、
座談会の 席で話している。
このような胡散臭い情報もあるが、
匂坂主席検察官は二・二六事件とコミンテルンの関係を軍法会議の中でもずっと 追いかけている。
息子さんが私に言ってくれたのは、
親父は、二・ 二六事件はコミンテルンの影があったのだと、死ぬまでそう言って いた・・・ ただし、それはそういう事実もあるが、
あるいは3月、事件が終わ って3日後にソビエト大使館が強制捜査を受けて日本人の通訳など 8人が逮捕されたのは、
目くらましの可能性もある。
このように、 二・二六事件に関連する、波及的な事件も起こっている。

これから、私は冒頭申し上げました濱田大尉のことに触れます。
事件のときに、北一輝から安藤大尉に電話が入った。
NHKに残っ ている20枚の録音盤の中で、1枚だけ2月29日 北→安藤と日 付と名前が書かれている。
ここでビデオを見てもらい、分かったことについて説明したいと思 います。
具体的な会話のやり取りは残念ながら文字化できておりません。
ビデオの解説部分のみ文章化します。
何故か1枚だけ声の主の名前が記されている。

安藤大尉である。
「 日本改造法案大綱 」 の著者北一輝。
北一輝は特権的地位にある華族や貴族院の廃止、国民の自由を拘束する取締り令の廃止、
天皇や国民の私有財産の制限などを主張した。
そして、彼は天皇親政による国家改造を目指し、青年将校にも少なからぬ影響を与えたとみなされていた。
安藤輝三大尉は決起には最後まで反対した。
だが、昭和維新を夢見た彼は、ついに妻と乳飲み子を残してたった。
彼は、料亭幸楽に立てこもった。
冒頭、私は、歴史は断言してはいけないと申し上げましたが、
私自 身自分で反省するのですけど、この録音を始めて聞いたとき、
2月29日 北から安藤となっていますので、放送でも注釈をつけずに 北→安藤ということで放送しています。
ただ、自分の心の中では、疑問はあったのです。
北という人はこんなしゃべり方をする人なのか、どうもこれは謀略臭くないかなど疑 問はありました。
最初の放送はこれで放送しました。
その後、匂坂資料の電話傍受綴りを見ていましたら、これと同じ内容のものを匂坂主席検察官が書き写しされており、
しかも対話の時間も2月28 日午後11時50分とある。
今、見ていただいたビデオでは、はっきり聞こえませんが、料亭幸楽は赤坂の昔のホテルニュージャパンがあったところ、
そこの周囲を28,000人くらいの軍隊、8,000人ほどの警察官、東京の消防団などが取り囲んでおり、
そういう中での電話です。
また、ごーっという音も聞こえるのです。
後で分かったのですが、これは 戦車の音です。
よく聞こえないと安藤が言っているのはそんな中の電話ということ です。
匂坂資料の中に、憲兵司令部と称し、まるはあるか、金はあるかと 書いてある。
それで私はあれっと思ったのです。
憲兵司令部という のはどういうことかと思い、いろいろ調べていたところ、
北は、実 は、憲兵隊の記録を見ても、2月28日の遅くとも午後8時頃までには逮捕され憲兵司令部へ連れて行かれている。
そうすると北が電 話をかけるはずがない。
おかしいなと思って、更に調べていたら、
北を取り調べた憲兵は当時の東京憲兵隊の特高課長の福本亀次という男です。
この人は中野学校を作った男です。
彼が北を調べて彼の 尋問調書が残っている。
それによると、その方は2月27日午後、 安藤に金はあるか、給与はよいかと電話をかけたことはないか
とい う一問一答の調書が残っている。
何故2月27日が出てきたのだろ う、2月27日ならばすべて辻褄は合う、北が逮捕される前ですから。
これは明らかにでっち上げの調書だと思った。
北はこれに対し て、そんな電話は勿論かけたことがないし、
金はあるかとか給与は どうかとか、そんなことは全く知りませんと述べている。
そういう 疑問点が出てきて非常に辻褄が合わない。
その電話は2月28日の 午後11時50分にかけられている。
北はその前に逮捕されている。
福本の調書では、2月27日午後に北が安藤に電話したことになっ ている。
憲兵隊としてはそれで辻褄は合う。
いろんな疑問を抱えな がら、傍受綴りを読み進めました。
そうしたら、3月2日のところ に実は、私に名乗りを上げてきた濱田萬大尉が、
角田男爵邸に西田 税を探して3月2日午前0時過ぎに電話している記録が出てきた。
西田は、2月29日に北の家から逃走していなくなったので、
憲兵隊が西田を捜索し、電話の盗聴をやりながらほぼ居所を掴んでいた。
それで、私はてっきり濱田大尉が偽電話をしたのではないかと思い込み、すぐに濱田宅へ電話しました。
濱田大尉から最初に手紙をも らってから8年後のことです。
電話には娘さんが出てこられて、父 は2年前に亡くなりましたとのことでしたので、それで私の取材は 終わっていました。
ただその後、かれこれ20数年経ちましたが、
いつも私の頭の隅に残っていた濱田大尉のあの一言
( 盗聴なんかや ったばっかりに・・・軍人の名誉を汚してしまって・・・) と偽電 話とが自然に符合して、
私は昨年夏に再取材するまで濱田大尉が北を騙ったものと信じていました。
実は、去年の夏、濱田大尉の遺族を探した。
偶々戦友会の方のご協 力等もあって、濱田大尉が住んでいたところに娘さんが住んでいた。
そこで、テープを持参してご遺族の娘さん宅を訪問した。
私はあな たのお父さんを偽電話の犯人と思っているが、是非このテープを聴 いてほしい。
娘さん、息子さんとも社会的に活躍された方でしたが、 聞いてもらった結果、
「 いや、これは父の声ではない。父はこんな ものの言い方はしない。
非常に正義感の強い男だったけど、
安藤大尉とは仙台の陸軍幼年学校時代から1年先輩・後輩の間柄で、
父の性格からして安藤をだますことはない 」
とはっきり断言された。
そ れで、では、誰が犯人なのかもう一度、30年前からの取材ノート を点検していったところ、私が全く見逃していることがあった。
そ れは、金子という真崎甚三郎についていた憲兵のことだった。
金子は皇道派の首魁として真崎甚三郎が宮中へ行くときの護衛憲兵であ ったが、
彼が当時語ってくれた証言が私のノートの片隅に残ってい た。
全く私が迂闊だったのですが、やはり憲兵司令部の中でも電話 の盗聴・傍受をやっていた。
先ほど出てきた福本亀次が指示してやっていた。
   
     
2月28日午後11時50分、憲兵司令部から北を騙っ て安藤に電話してきた男は
ほぼ、100%とはいえないが、98% くらいは金子憲兵に間違いないと思っています。
北をいかにして罪に陥れるかいろんな謀略がなされた証拠だろうと思います。
北を裁 いた裁判官に聞いても、精々叛乱幇助罪で禁固3年くらいというの が妥当といい、北の裁判は1年延びた。
5人の裁判官の意見が割れ、また、北を死刑にすることに裁判長が反対したからである。
その後、濱田大尉のご遺族のところにお邪魔し、何か残っているも のはないかお尋ねしてみた。
父は二・二六事件については家族には 何も語らなかった。
今あるものはこれだけですと言って、二つのも のを差し出された。
一つは紙。
それには自分の職歴から、自分の子供、孫、その成長と かずっと年代順に書いてある。
ただし、二・二六事件の昭和11年と自分がスパイ活動をやった昭和14年から昭和16年のところは ブランクになっている。
余程、彼の人生にとって、苦渋の人生、苦 渋の期間であったかが分かるように思います。
それから、娘さんがもう一つ出されました。
それはベルトのバックルだった。
父は82歳で亡くなるまで約50年の間、一日も欠かさ ずこのバックルを身につけていた。
バックルは、当時、威厳司令部 に記者会があったが、
そこの新聞記者達から濱田大尉に、「 贈濱田 大尉 戒厳 二・二六 」 と書いてプレゼントされたものであった。
これが何を意味するのかは分かりませんが、苦渋の二・二六事件だ ったが、
二・二六事件の思い出を自分でバックルに秘めていたもの と思われます。
そういうことが、昨年はじめて分かりました。

二・二六事件によって、いろんな影響がありました。
昭和天皇が絶対、事件でぶれなかったことが、二・二六事件が4日間で無事収束した一つの大きな理由になっている。
事実そうだと思 います。
自分の重臣達が殺された。
当初、青年将校たちをちやほやしていた連中がみんな寝返っていく中で、昭和天皇だけはぶれていない。
二・二六事件の一つの結論として、二・二六事件は太平洋戦争に直結している。
それはどういうことから言えるかというと、
片倉衷が まとめた 「 政治的非常事変の勃発に処する対策要綱 」、
これに沿っ た事件処理がずっとなされていく。
当時統制派といわれた連中の戦 略がそこに書かれている。
事件処理も正に軍法会議から戒厳令から そのとおりとなった。
戒厳令を一早く主張したのが、片倉の上司の石原莞爾である。
戒厳令を敷くについては当時ものすごく反対があ った。
それは、5・15事件のときも軍は戒厳令を敷こうとして権力を握ろうとした。
そういう失敗があったが、反対を抑えて電話の 傍受などいろんなことをやった。
その中で、二・二六事件が終わって4つほど矢継ぎ早に制度・政策等に変化が生じ、時代が大きく変 わっていく。
一つは、5月に首相の広田弘毅は軍に脅されて陸海軍大臣の現役武官制をのむ。
そして、その後の内閣の生殺与奪の権を陸軍が握っていく。
6月に、不穏文書臨時取締法を作る。
これにより様々な言論弾圧が できるようになる。
( 二・二六事件を梃子・口実にしながら ) 8月に、広田内閣が国策の基準を作る。
国策の基準で何が決まった かというと
南方進出、軍部の充実 ( 国防強化 )、満蒙開拓 ( 満蒙に 様々な経済政策の強化 ) などである。
それから、11月に日独防共協定を締結する。昨年10月から検討 を進め、
一時頓挫しかかるが、協定締結の方向で進む。
日独防共協定、三国同盟、そして太平洋戦争へと進んでゆく。


「 政治的非常時變勃發に処する對策要綱 」

2016年12月08日 15時57分26秒 | 尾鰭

 片倉衷
「 二 ・二六事件の時の戒嚴令は、私が中心になって作った對策要綱が原案になって居るんです 」
・・・片倉衷 ( 戦後、NHKの中田整一にそう語る )

豫測される皇道派による軍事クーデター勃發に際し、その鎭壓過程を逆手にとり、
自分達の側が依り鞏力な政治權力を確立するための好機として利用しようという、
カウンター・クーデター の構想 をまとめたもので、昭和九年に片倉衷等が作っていたもの。
「 政治的非常時變勃發に処する對策要綱 」
序文
帝國内外の情勢に鑑み・・・國内諸般の動向は政治的非常事變勃發の虞 おそれ 少なしとせず。
事變勃發せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の歸趨 きすう にして、
此場合 政府 竝 國民を指導鞭撻し禍を轉じて福となすは緊契 まま の事たるのみならず、
革新の結果は克く國力を充實し國策遂行を容易ならしめ來るべき對外危機を克服し得るに至るものとす。
即ち 爰 ここ に軍人關与の政治的非常事變勃發に對する對策要綱を考究し、萬一に処するの準備に遺憾なからしむる。
「 對策要綱 」 の實施案
(一) 事變勃發するや直ちに左の処置を講ず

イ、後継内閣組閣に必要なる空氣の醸成
口、事變と共に革新斷行要望の輿論惹起竝盡忠の志より資本逃避防止に關する輿論作成
ハ、軍隊の事變に關係なき旨の声明
但社會の腐敗老朽が事變勃發に至らしめたるを明にし一部軍人の關与せるを遺憾とす
(二) 戒嚴宣告 ( 治安用兵 ) の場合には軍部は所要の布告を發す
(三) 後継内閣組閣せらるゝや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱竝總理論告等の普及
ロ、企業家勞働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる斷壓
( 檢閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に關する事項 )
(四) 内閣直属の情報機關を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ
・・・片倉衷・『 片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧 』
この 「 要綱 」 は、國内において軍人による事變が勃發することを豫見しつつ、
併せて、國力充實のため、國家體制の革新が求められているとの基本認識 に立って、
こうした事變勃發を逆に利用して軍部自らは直接手を汚すことなく、
しかも結果的に 『 革新の原動力 』 たらんとする意思を明確に打ち出したもの。
それは、皇道派靑年將校らの國家改造案とは異なり、
緻密な計畫性と戰略をもった、統制派の省部幕僚たちによる反クーデター計畫案であった。

統制派幕僚たちは、いつクーデターが起こっても素早く對應できるよう、既に萬全の體制を整えていた。

「 二 ・二六事件の勃發についても、それは第一師團の満洲移駐が決定的な引き金になるだろうと豫測し、
2月22,23日には、憲兵より事件勃發の警告を得ていた 」・・・片倉衷


片倉衷 ・ 二・二六事件を語る

2016年12月06日 15時55分40秒 | 尾鰭

磯部はなぜ私を撃ったか
十一月事件で磯部が停職になりました。
その後、磯部はちょっとした事件を起して免職になりました。
そうさせた張本人が僕だと彼等は想定していたんです。
磯部は私を恨んでてたのです。
しかし、あの事件の背後には彼等がいたということは間違いないし、
辻君が佐藤勝郎候補生あたりを使って調査したということも間違いない。
しかし、よく言われているように永田軍務局長の指示により、私と辻が事件をデッチ上げたというようなことでは断じてない。
私は参謀本部員であり、陸軍省の軍務局長から指示や命令を受ける立場になかったのだから。
・・・陸相官邸で撃たれた時、倒れたまま何か言われたそうですね。
「 天皇の命令なくして兵を動かしちゃいかん 」 と、叫んだのです。
撃った将校は香田とばかり思っていてたが、実際は磯部だった。
免官になっていたのに歩兵将校の軍服を着ていたからわからなかった。
・・・当時、事件が起りそうだという雰囲気を感じていらっしゃったでしょうか。
一週間ほど前にわかっていました。
当時私は軍務局軍事課満洲班にいたのですが、今も生きていますが、部下に三品という者がいて、
三品の友達で元大尉だった松平という者から 「 歩三の連中が渡満を前にコトをあげるそうだ 」 という話を聞きこんできました。
それを聞いて、私は陸相官邸室で憲兵司令官とか次官などがいるとき、
「 コトが起りますよ 」 と 忠告したことがあります。
憲兵司令官が 「 どこからの情報だ 」 と 聞いてきましたが、「 どこからということは言えない 」 と 言ったのです。
・・・二月二十六日ということもわかっていたのですか。
二月の下旬ということだったですよ。

私はテロには反対だった
私は昭和八年八月に参謀本部の第二部第四課四班に入ったのです。
陸軍士官学校事件もこのポストにいたときの事件です。
ここは情報の統合、防諜関係、国内情勢等の処理を行うところで、
入ってすぐ当時まだ続いていた五・一五事件軍法会議の特別傍聴人になった。
これも一つの任務だった。
青年将校の動向はそれ以前からずいぶん心配していたことの一つです。
参謀本部に入る前は、満洲の関東軍にいて、そこから久留米にあった第十二師団に転属になった。
五・一五事件の定期異動のときです。
十二師団では教育関係の一部と警備、国防宣伝を仕事とする幕僚勤務を命じられた。
当時久留米には五・一五事件の残党がたくさんいましてね。
連中を集めて懇談したり、後援会で演説したりしていた。
私は五・一五事件のようなことをやっちゃいかんということを主張していたのです。
満井佐吉君も久留米師団の大隊長をしていましてね、この人も盛んに講演活動をやっていたが、
私の行き方とは違っていたことはもちろんです。
・・・いわゆる青年将校がやろうとしていた国家改造の方向とはちがっていたわけですね。
当時、荒木さんのところなどに青年将校が盛んに出入りしていて、
隊付の将校の中には師団長や聯隊長といった上官の意見より荒木さんの意見を尊重するといった雰囲気が強かった。
これでは軍秩がうまくいかない。
私はそういう状況を憂えていたのです。
そこで 『 筑水の片言 』 という小冊子を作って、自分の所属する師団の杉山師団長や石田参謀長をはじめ、
本庄中将、南大将、荒木陸相、永田少将、石原大佐など要路の二十数名に配ったことがあります。
・・・国家改造の方向としては一言でいえばどういう立場を表明されていたのでしょうか。
それは、満洲事変をきっかけにして、国民も軍部に協力しようとしているこの時期をとらえて、
この勢いを利用して陸相が強力に総理大臣を動かして国政の検討をやらなければいけないというものです。
・・・軍部が主導権を握るとしてもあくまで内閣を通じてということですか。
そういうことです。
私はまもなく久留米から参謀本部に転属になりましたが、班長の武藤さんに挨拶にいったとき、
「 君、これはやらんだろうね 」 と 人差し指を曲げて拳銃をうつ真似をするので、
「 イヤ、私はそっちのほうじゃない 」 と 言ったのです。
『 筑水の片言 』 には日本国家の内容はこのままではいけない。
直すべきところは直さなければいけないと書いたけど、革命を示唆することは一切ないのです。

同志を誘って国家改造研究会
・・・そういう国家改造の内容について、研究会を主宰されたことがありましたね。それはどういうきっかけからですか。
直接には当時陸軍大臣の秘書官をやっていた若松二郎さんから声をかけられたことだったのです。
とにかく所謂青年将校運動というのは活発でしたからね。
五・一五事件以後は海軍との連携はなくなっていたのですが、八年から九年にかけて、
参謀本部と陸軍省の中堅幕僚が青年将校運動の指導的立場にいる者と何回か会って話を聞いたことがある。
満井佐吉、村中孝次、西田税といった人たちですリンク→統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら、認識不足だ」
しかし、話を聞くにつけ 私が不安を強くしていったことは事実です。
それはやはり彼等が非合法的な何かをやるのではないかといった不安です。
しかし、もし事態がそこまで進んだら、逆にそれを利用して新しい世界に導くこともできるのではないかとも考えたのです
そういう考えに取りつかれ始めていたころ、若松さんから何とか今の事態に対する対策を研究してくれという話があったので、
それではやってみようということになった。
・・・どういうメンバーを集められたのですか。
若松さんと参謀本部の服部卓四郎、辻なんかと相談して決めたんですがね。
真田穣一郎、河越重定、板間訓一、中山源夫、永井八津次、島村矩康、久門有文、西浦進、荒尾興功、堀場一雄、加藤道雄などで、
いずれも当時大尉です。私も当時は大尉でしたから。
・・・片倉さんがリードされたのですか。
私より上席の人もいたのですが、『 筑水の片言 』 を配布したり、
研究会を始めるにあたって 叩き台のつもりで書いた 『 瞑想余禄 』 と題して自分の所感を綴ったものを配っていたこともあって、
私が座長ということになったのです。
・・・研究はどれくらいの機関でまとめられたのですか。
第一回は 八年十一月七日で、翌年一月四日には要綱をまとめた。
・・・『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』 というのがそれですね。
そうです。それ ( 『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』  ) が二・二六事件のとき、暴徒鎮圧に役立った。
対策要綱はそういう事態をも想定したものだったからです。
・・・国家改造の方向も盛り込んであったわけでしょう。
もちろんです。
あれを読んでもらうとわかりますが、
軍部主導のもとでなるべく早く革新を断行するが、非合法手段の直接行為はとらないと謳ってあるのです。
・・・その案は軍部の正式採用となったものですか。
秘密に採用された形になったと言っていいのです。
というのは、研究メンバーが陸軍省と参謀本部の各部署からきていますから、
それぞれのメンバーがそれぞれの上司に報告する形をとったのです。
軍部の首脳部の間では、「 大体この方向でいこう 」 ということになっていたはずです。
・・・そういう研究案は軍部の中では初めてのものだったのでしょうか。
いや、そうじゃないんです。
そういう研究案があるということは、参謀本部に移ってからウスウス気づいていたのですが、
偶々 武藤班長が海外出張をして留守をした。
或る日、仕事の必要から金庫を開けて ある書類を捜していた時、偶然に発見して、
失礼かと思ったが 読ませてもらったことがある。
しかし、内容は要綱書き程度の疎略なものでしたよ。
・・・それはどういうメンバーが研究していたものですか。
陸軍省調査部長の工藤義雄少将を中心として、
永田鉄山、東条英機、武藤章、影佐貞昭、池田純久、田中清 などの将、佐官クラスですね。
これを読んだとき、将、佐官クラスではダメだ、やっぱり我々尉官クラスがしっかりしなければ
という気持ちを強く持ったものです。
しかし、 『 瞑想余禄 』 にしても それを下敷きにした 『 対策要綱 』 にしても、
よく書いたものだと、おかしいくらいだが・・・・。

青年将校の心情は尊敬するが・・・・
・・・片倉さん等と青年将校との間の国家改造に対する取り組みは結局どういう点に違いがあったのでしょうか。
歴史的には皇道派と統制派の争いということになっていますが。
池田純久さんは統制派と言っていたし、満井佐吉君は皇道派と名乗っていたな。
しかし、実際はそういう区別というものはなかった。
・・・片倉さんは第四班にいたとき、全国各地をまわって若い将校達の意見を聞いてまわったということがあるそうですが、
具体的には彼等はどういう不平不満があったのでしょうか。
満洲事変の後のことですから、若い将校の間にはしっかりしなければという雰囲気が強かった。
そういう気持ちに対して、聯隊長あたりが案外のんびりしていることに対する苛立ちというものがあったと思います。
聯隊長への不満というのは直接中央部幕僚に対する不満ともなっていたわけです。
その点、荒木さんあたりはそういう元気のいい将校から意見を求められると、
はっきりものを言うので人気があったわけです。
・・・当時の慢性的な不況から来る農村の疲弊というものが、二・二六事件の背景になっていったということですが、
そういう問題に対する政治への不信、不満という声も当然あったわけですね。
農民は軍の下部を作っているわけですから、兵に直接接している若い将校の間からはそういう不満が強かったわけです。
聯隊付の将校団に対する教育が足りないという印象でした。
しかし、全体にはやはり農民の窮状や大資本と一般国民との遊離、或は政党が政争ばかり繰り返して
何等 庶民の窮状を救おうとしない現実があったわけで、それに対する青年将校の強い不平不満があったことは事実でした。
私もこういう状況は何とか早く解決しなければ大変なことになるという気持ちを強く抱いたものです。
・・・なんとか解決しなければならないと思ったところは、青年将校と同じだと・・・。
二・二六事件を引き起こした青年将校は 荒木とか真崎といった一部の将軍と結びつき、
それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです。
私等は組織を動かして革新をやろうとした。
それが決定的な違いです。
革新への心情というところでは 重なるところがあるんですが、彼等の手段がね・・・・。
私はピストルで撃たれましたが、ある程度は彼等の心情については尊敬するところがあったのです。
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片倉衷元少将  二・二六事件を語る
新人物往来社  2・26事件の謎  から


「 刀を収めろッ 」 と 大喝しました

2016年12月04日 15時51分17秒 | 尾鰭

 片倉衷少佐
大雪の朝
当時、私は陸軍省の軍務局におりました。
ちょうど相沢事件の公判が進行中で、
裁判長の佐藤正三少将が橋本近衛師団長や林陸軍大臣などを証人喚問していました。
永田軍務局長が刺殺されたとき、たまたま私は参謀本部から陸軍省に転勤し、
軍事課勤務として現場に居合わせたこともあって、この相沢事件の軍法法廷には多大の関心をもっていました。
そして、かねてより佐藤裁判長の公判の進め方に、疑問を抱いていた私は、
上司である村上軍事課長と今井軍務局長に、裁判長を取り替える必要があることを、進言したのです。
これが昭和十一年二月二十五日のことでした。
その日の夜、一晩中隣家の犬が吠えて寝つかれなかったことを記憶しています。
朝 起きると雪がかなり降り積もっていました。
その日は、前日に続いて陸軍大臣に意見具申するつもりでいましたので、
いつもより早く起きて、中野の新井の家を出ました。
雪を踏んで中野駅に近い三差路まで来ると、警官が四人、ものものしい警戒態勢で、
軍刀を吊りマントを羽織った私を呼び止め、行き先を尋ねるのです。
陸軍省へ出勤する旨を伝えると
「 今朝、神兵隊事件以上の大事件が起り、陸相官邸にも何かあった模様だ 」
と、警官はただごとならぬ口調です。
私はとっさに、これは青年将校の蹶起だ、と考え、自宅にもどって拳銃を携行しようと一瞬考えましたが、
むしろそのほうが危険だと思いとどまり、その場から円タクを拾って三宅坂の陸軍省へ急行しました。
途中、車が電信隊の営門の前にさしかかったとき、見るといつも一人しかいない歩哨が六名もいて、
いずれも銃に着剣しています。
これは非常呼集があったものと判断して、タクシーの中で、ひそかにマントの下の軍刀の具合を確め、
鯉口をいつでも抜けるようにしておきました。

青山から赤坂見附を抜け 平河町の三差路に来ると、
機関銃を持った兵隊が四、五十名並んでいて、車を通してくれません。
これが反乱軍との出会いの最初ということになります。
車から降りて 兵卒に 「 小隊長を呼べ 」 と 命じたところ小隊長がすぐに来たので、
「 陸軍省の職員だ 」 と 告げると通ってもいいという。
徒歩で陸軍省へ急ぎながら、大蔵大臣官邸や首相官邸のほうを見ますと、
一、二の兵隊が動いているだけで非常に静かでした。
陸相官邸の手前の銅像のあった附近へさしかかると、再び銃剣を構えた兵隊が私の通行を阻止します。
中隊長の命令がないかぎり通すわけにはいかないというので、中隊長を呼び
「 貴官はいったい誰の命令で動いているのか 」
と 詰問すると、しばらく考えた末、
「 同志の命令です 」 という。
そこで私は 「 兵を動かすには天皇陛下のご命令でなすべきで、同志の命令などで動くべきではない 」
と さとしました。
周囲にいた兵隊たちが、天皇陛下という私の言葉に、一斉に直立不動の姿勢をとったのが、緊迫したやりとりの中で印象的でした。
次いで中隊長を同行して官邸門前にくると、閉門されて、若干の将校が動いています。


門を入っていくと、ちょうどそこへ参謀本部員菅波中佐が来合せました。
私と菅波中佐は名刺を出して 「 大臣に会わせろ 」 と中隊長に要求し、官邸の前庭に立っていました。
        
石原大佐          真崎大将                       古荘次官             山下少将                          斎藤少将

そこへ石原莞爾大佐 ( 参謀本部作戦課長 ) が官邸の内部から出て来ました。
一瞬私は、石原さんも反乱軍に与くみしたなと思いましたが、そうではなかったことがやがてわかりました。
しばらくすると、官邸玄関に古荘幹郎次官が現れたので、私は次官にも大臣への面会を申し込むと、しばらく待ってくれという。
そこへ陸軍大将の正装をした真崎甚三郎が現れました。
石原大佐が真崎大将に向って
「 これは、あなた方の責任ですよ。早く収めなければいけませんね 」
と 語りかけるのを私は耳にしました。
先の中隊長は、やがて官邸から出てきて
「 大臣にお会いになることはできません 」 という。
「 それは大臣自信の言葉か 」 と ただすと、「 香田大尉の言です 」 と 答える。
そこで私はそこへ居合わせた数名の憲兵に
「 君らは何をしているんだ。大臣の身近は大丈夫かッ 」 と 怒鳴りました。
官邸内には斎藤少将、山下少将の姿も散見されました。
続く中隊長の言によると、大臣はこれから宮中に参内するところだという。
私は反乱軍の武力に強要されて大臣が上奏するというのは由々しきことだと考え、
何としてでも、玄関先ででも大臣に一言しようと思っているところへ、左側にふと人の近づく気配を感じ、
同時に、ガンと左頭部に衝撃を受けました。
思わず右によろめき、手袋のまま左手で左頭部を押さえながら振り返ると、
歩兵大尉の軍服を着た将校が抜刀して近づいて来ます。
私はその男が私を撃ったなと思い、その将校に向って 「 刀を収めろッ 」 と 大喝しました。
そのとき、玄関先にいた古荘次官か真崎大将かが
「 皇軍将校同士で血を流してはいかん 」 と 叫んだようでした。
私を撃った大尉を、私は香田大尉だと思っていましたが、のちに磯部浅一であったことを知りました。
磯部は偕行社か何かの青年将校の会合で私の顔を覚えていたらしいのです。
磯部が刀を収めたので、私は山崎大尉、谷川大尉、生田大尉らに介添えされて反乱軍の歩哨線を突破、
赤坂の前田病院に入りました。
ピストルの弾丸たまは幸い 骨が二重になっているところの二枚目で止まり、文字どおり間一髪で助かりました。

片倉衷
『 大雪の朝、私は 』
決定版  昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年  7  から
リンク
天皇陛下の命令でヤレ
エイッ この野郎、ウルサイ奴だ、まだグズグズ文句をいうか

国家の一大事でありますぞ!
弾圧 「それでは、軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか」