あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大御心 『 天皇親政とは、大御心とは 』

2020年05月31日 14時50分56秒 | 大御心


大御心
神国の中核となっているのが現人信仰である。
日本民族の祖先神のうち、もっとも重要視され、信仰の中心になっているのが、天照大御神。
これは 古代における太陽信仰と偉大な祖先神と 合体した人格神であるが、
この太陽信仰こそ、農耕民族である日本人の民族性の核心を成すものである。
この太陽神と祖先神の合体した人格者である天照大御神の、
直系の子孫が天皇であるというのが現人神信仰なのである。
天皇を現人神または現御神 アキツミカミ と称するのは、
天皇が神であるという意味でなく、
天照大御神と それにつづく祖先神の神霊を体現して国民に臨む、
つまり神と同一の心境、
純粋無私の精神で君臨するという意味である

・・・
大御心 「 罪あらば我を咎めよ天つ神 民は我が身のうみし子なれば 」 

大御心

罪あらば我を咎めよ天つ神
民は我が身のうみし子なれば

目次

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1 秩父宮と天皇
先般、不幸にして勃発いたしました陸海軍将校の、首相暗殺事件につき、
聖上陛下にはいかに御宸念遊ばされましたことか、
洵に恐懼の至りに堪えぬところでございます。
しかし乍ら今回の事件は偶発的に起こったものでなく、
その根底には国家の現状と将来を深憂する多数の皇軍将校と、愛国青年群が存在いたします。
政党政治は国家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗争を事とし
財界は皇恩を忘れて私利私欲の追求に余念がありません。
近年の経済不況によって、一億国民の大多数は塗炭の苦境に呻吟いたしております。
洵に餓民天下に満つと申しても過言ではありません。
天下万民の仁父慈母に存します聖上陛下におかせられましては、
この国民の困窮を救うため、速やかに昭和維新の大詔を渙発あらせられ、
内は百僚有司の襟を正さしめ、財界の猛省を促し、上下一体となって国利民福の実をあげ、
外に向っては国交の親善を増進して、大いに皇威を発揚し、
以て帝国興隆の基を築かれんことを、
草莽の微臣、闕下にひれ伏して、謹んで奏上仕ります。
・・・西田税  秩父宮に託した天皇陛下への建白書
・・・紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」 

陛下、現実は建白書にある通りです。
『 餓民天下に満つ 』 これですよ !
世界恐慌で繭の価格が下がり、飯米も買えない農家が娘を売る。
『 途端の苦境に呻吟』
陛下はどれだけ国民が窮乏しているかご存知ないでしょう。
政治家はなにもしない。
『 国家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗争を事とし 』
その通り !
政友会と民政党は交互に政権に就くたびに、
相手方の汚職事件を暴くことに血眼になっている。
財閥は
『 私利私欲の追及に 』 巨利をむさぼる。
ドル買いがいい例です。
陛下 これが現実ですよ ! 判りますか。
政治を変えなくてはならない。それには天皇大権を発動して、
憲政の正道を一時外れてでも非常措置をとるべきです。

・ 
昭和天皇と秩父宮 1 
・ 
昭和天皇と秩父宮 2 

当時は満洲事変勃発に伴ひ、
国内の空気自然殺気を帯び、十月事件の発生を見る等
特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来れる折柄、 或日、
秩父宮殿下参内 陛下に御対談遊ばされ、
切りに 陛下の御親政の必要を説かれ、
要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、
陛下との間に相当の激論あらせられし趣なるが、
後にて 陛下は、 侍従長に、
祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、
親政と云ふも自分は憲法の命ずる処に拠り、
現に大綱を把持して大政を総攬せり。

之れ以上何を為すべき。
又 憲法の停止の如きは明治大帝の創成せられたる処のものを破壊するものにして、
 断じて不可なりと信ずる  
と 漏らされたりと。 誠に恐懼の次第なり。
・ 
本庄日記 ・ 大御心 「 陛下と秩父宮、天皇親政の是非を論す 」

陛下は、
憲法第四条 天皇は 「 国家の元首 」 云々は即ち機関説なり、
之が改正をも要求するとせば憲法を改正せざるべからざることとなるべし、
又 伊藤の憲法義解には 「 天皇は 国家に臨御し 」 云々の説明あり。
と 仰せらる。
・ 
本庄日記 ・ 大御心 「 国家立前云々は即ち機関説なり

「 立憲国の天皇は、憲法の枠の中にその言動を制約せられる。
この枠を勝手に外して、任意の言動にでることは許されない半面、
同じ憲法には国務大臣についての規定があって、
大臣は平素より大なる権限を委ねられ、重い責任を負わされている。
この大臣の憲法による権限、責任の範囲内には、天皇は勝手に容赦し、干渉することは許されない。
それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、
これを管掌する官庁において、衆智を傾けて慎重に審議した上、
この成果をわたしの前に持ってきて裁可を請うといわれた場合、
合法的の手続きをつくしてここまでとり運んだ場合には、
たとえそのことがわたしとしては甚だ好ましからざることであっても、
裁可するのほかはない。
立憲国の天皇の執るべき唯一の途である。
もし、かかる場合 私がそのときの考えで脚下したとしたら、どういうことになるか。
憲法に立脚して合法的に運んだことでも、
天皇のそのときの考え一つで裁可となるか、脚下せられるか判らないということでは、
責任の位置にいることはできない。
このことは、とりもなおさず天皇が憲法を破壊したということになる。
立憲国の天皇として執るべからざる態度である。
断じて許されないことである 」
・ 
大御心・「合法手続ならば裁可する、其れが立憲国の天皇の執るべき唯一の途である

2 農民亦自ら楽天地あり
・ 天皇と農民
将校等、殊に下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、
関心を持するは止むを得ずとするも、之に趣味を持ち過ぐる時は、却て害ありとの仰せあり。
之に就き、余儀なく関心を持するに止まり、
決して趣味を持ち、積極的に働きかくる意味にあらざる次第を反復奉答せり。
陛下は此時
農村の窮状に同情するは固より、必要なるも、
而も農民亦自ら楽天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず、
自分の如き欧州を巡りて、自由の気分に移りたるならんも心境の愉快は、
又其自由の気分に成り得る間にあり
・・と
・・・ 本庄日記 ・ 大御心 「 農民亦自ら楽天地あり 」
・・・これを読んで、秩父宮殿下の如く
実際に兵の家庭の事情に触れられた方とはお考えが違うと思った。
農村で娘の身売りをしなければならない者に楽天地などあったであろうか。
陛下は政治に御熱心で
側近の人々から様々な情報を御聴取遊ばされておられたようであるが、
私は側近の人々の気持が分らない。
陛下のお側近く仕える人々は、すべて名門の出である。
これ等の人々は
当時の逼迫した大陸の情勢や国内の農村の窮状、
労働者の生活状態を見て、
青年将校がどんな心情を抱いていたかなど
全く理解していなかったのではないかとしみじみ思った。
まさに陛下は雲の上におわしめたのである。
・・・大御心 『 まさに陛下は雲の上におわしめたのである 』 

 

3  天皇親政
一君万民、国民一体の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、
日本の国民がほんとうに、
天皇の下に一体となり
建国の理想に向って前進することである
・・・
青年将校運動とは何か  から
・・・
天皇と青年将校のあいだ 1 一君万民、君臣一界の境地 

軍人勅諭 「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」 
朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。
されば
朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ、
其親
は特に深かるべき。


教育勅語

相澤中佐事件は、

わが建国以来の歴史や、軍人への勅諭、教育勅語、大日本帝国憲法 等によつて、
真面目に教育を受けた軍人が敢行した事件である。
当時の将兵が軍隊教育によつて教えられていたのは、
わが国柄が万邦に優れた所以は、天皇の御親政にある ということであつた。
天皇の御親政とは、心理即応の政治ということであり、
造物主の意思そのままの政治ということである。
しからば、その真理とか造物主の意思とかいうのは、何を意味するのかといえば、
それは、
「 総てのものの間に大調和あらしめて、万人をしてその生存の意義を全うせしめる道 」
を いうのである。
・・・ 
注目すべき鵜沢博士の所論 
・・・
天皇の大御心にも副う所以であると考えてやつたのである 

「 教育勅語に国憲を重んじ、国法に遵い、とあります。自分はこの勅語を重んじ、従うものであります 」
「 それでは、被告は国法の大切なことは知っているが、今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか 」
「 そうであります。 大悟徹底の境地に達したのであります 」
・・・ 
所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」 

相澤事件
《昭和10年》 八月十二日
此日午前九時過、永田軍務局長、中佐相澤三郎の為、局長室にて斬殺さる、
午後一時二十分 人事局課員 御用邸に三代、
右永田局長を中将に進級内奏を請ひしに因り 直に伝奏せし処、
陛下には、
「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり。
更に詳しく聴取し上奏すべく 」
仰せられ、
尚ほ
「 此儘水泳に出て差閊なきや 」
と 御下問あらせらる。
之に対し繁は、誠に申訳なき出来事にして、今後特別の波瀾あるべしとは想はざるも、
充分注意すべき旨、奉答し、
且つ 御運動は御予定通り遊ばされ度旨御願ひせり。
真に恐懼の次第なり。
本庄日記 ・ 大御心  「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 

・ 
大御心 「 朕が憾みとするところなり に 続く


大御心 「 朕が憾みとするところなり 」

2020年05月30日 11時24分49秒 | 大御心

蹶起の眞精神は
大權を犯し國體をみだる君側の重臣を討って大權を守り、
國體を守らんとしたのです

藤田東湖の

「大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 」
これが維新の眞精神でありまして、青年将校蹶起の眞精神であるのです。

維新とは具体案でもなく、建設計畫でもなく、
又、案と計畫を實現すること、そのことでもありません。

大御心
朕が憾みとするところなり
目次
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昭和天皇と昭和維新
陸軍首脳の事件収拾方針の協議が進められていたのであるが、
これに対する 陛下の不信、激怒
は 変らなかった。
「 事件の処理は私がやった 」
との 陛下のお言葉のように、
この段階で進めらていた陸軍首脳の方針に、待った、を かけられた。
陛下のご意志のまえに、軍当局は絶対的な苦悩に陥ることになった。
朝令暮改というが、
陛下の激怒によって軍首脳は、今や施す術がなかった。
百八十度の変転である。
・・・
二・二六事件の収拾処置は自分が命令した 
・・・
天皇の一党一派に偏した御態度が、 その後の国の歩みを誤らす原因になった 


速やかに暴徒を鎮圧せよ、
秩序の回復するまで職務に精励せよ


・ 本庄日記 ・ 帝都大不祥事件 第一  騒乱の四日間


・ 
速やかに暴徒を鎮圧せよ
俺の回りの者に関し、こんなことをしてどうするのか
 
天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、 そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません 
・ 伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」 
・ なにゆえにそのようなものを読みきかせるのか 
・ 自殺するなら勝手に自殺するがよかろう
・ 陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ 
・ 
本庄日記 ・ 帝都大不祥事 第四 陸相への御言葉

二十七日午後、本庄武官長を召された天皇は、
これについて彼の意見を求められている。
「 行動をおこしました将校の行為は陛下の軍隊を勝手に動かしましたる意味において、
統帥権を犯すの甚だしきものと心得ます。
その罪もとより許すべからざることは明白でござりますが、
しかしその精神に至っては
一途に君国を思うに出たるものであることは疑う余地もあるまいと存じます。
よって、武官長個人の考えといたしましては、
今一度説得して大御心の存するところを知らしめることが肝要と心得まする。
戒厳司令官においても武官長と同意見であろうと考えます 」
「 武官長 」
天皇の声は凛として冴えかえっていた。
「 彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか、
かくの如き兇暴な行動を敢えてした将校らをその精神において、何の恕すべきところがあるか、
朕がもっとも信頼する老臣を悉く殺害するのは、朕が首を真綿で締むるのと同じ行為ではないか 」
「 仰せの如く 老臣殺傷は軍人として最悪の行為であることは勿論でございまするが、
しかし、たとへ彼らの行動が誤解によって生じたものとしても、
彼ら少壮将校といたしましては、
かくすることが国家のためであるという考えに端を発するものと考えます 」
「 もし、そうだとしても、
それはただ私利私慾のためにするものではないというだけのことではないか、
戒厳司令官が影響の他に及ぶことを恐れて、
穏便にことを図ろうとしていることはわかるが、時機を失すれば取りかえしのつかぬ結果になるぞ、
直ちに戒厳司令官を呼んで朕の命令を伝えよ、
これ以上躊躇するならば 朕みずから近衛師団を率いて出動する 」
「 そのように御軫念をわずらわすことは恐れ多き限りでございます。
早速、戒厳司令官に伝えて決断を促すように致します 」
・・・「 彼等は朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 」 

立憲君主国の最高権力者である天皇は、
自分の握っている制度の破壊者を許すことができなかったのである。
青年将校達が 「 君側の奸 」 と呼んだ者は、天皇によれば 「 最モ信頼セル老臣 」であった。
のみならず、天皇は 「 真綿ニテ朕ガ自ヲ締ムルニモ等シキ行為 」 といって、
天皇 自らがこの事件の被害者であることを訴えている。
青年将校達の思ってもみなかったことであろう。
・・・
天皇と青年将校のあいだ 4 天皇が天皇に向って叛乱したようなもの 

それで陸軍の威信を保ち責任をはたしうると思うのか、
自殺するなら勝手に自殺するがよかろう。
このようなものに勅使などとは、もっての外である。
また、第一師団長が部下を愛するのあまり、
進んで行動をおこすことができないというのは、
みずからの責任を解せざるものである。
もはや、論議の余地はない。
立ちどころに討伐し反乱を鎮定するように厳達するがよい。
・・・
自殺するなら勝手に自殺するがよかろう 
・・・
天皇と青年将校のあいだ 3 極めて特殊で異例な天皇の言動


 
勅語
「 今次東京ニ起レル事件ハ、朕ガ憾ミトスル所ナリ 」
 

あの勅語の中

朕の恨みとする所 というお言葉があるが、
 
ああいうお言葉があると、
叛乱将校達に対し、天皇の深い憎しみがかかっていることが、
明らかに看取せられるが故に、いわゆる皇道派と統制派の相剋が一層ヒドクなる。
殊に それが下々にいくほど鋏状に甚だしくなって、
軍内部の相剋が激しくなることを、
お考えにならなかったのでしょうか。
・・・
『 朕の憾みとする 』 との お言葉 
・・・
天皇の一党一派に偏した御態度が、 その後の国の歩みを誤らす原因になった 

天皇は陸軍に対し非常な不信を表明された。
事件終結のあと、川島陸相に対し、
「 陸軍において発生せる今次の事件は、
国威を失墜し 皇軍の歴史と伝統に一大汚点を印たるものと認める。
陸軍はこの機会に厳にその禍根を一掃せよ 」
、きびしくいわれている。
・・・
陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ 
・・・
本庄日記 ・ 帝都大不祥事 第四 陸相への御言葉

処刑されてゆく青年将校はじめ、その同調者達は、
彼等を敗北に追い込んだ統制派の策謀に万斛の恨みを抱く。
青年将校達の天皇帰一の至純な運動も、統制派によって穢けがされ 歪められ、ついに葬られた。
本来なら天皇に届くはずの彼等の忠誠心もファッショ的軍閥によって遮られてしまった。
然し、青年将校達の意図を踏みにじったのは、果して統制派だったのか。
実は、どの勢力よりも断固として青年将校を許さない大権力があった、
それは、天皇自身であった。
・・・
天皇と青年将校のあいだ 2 天皇制の至純を踏み蹂ったのは天皇自身であった 

「 大御心 」 が 改造を必要なしと判断した。
青年将校達は、天皇の名により叛徒とされ処刑された。
然し、彼等はそれが天皇の真の判断ではなく、
君側の奸によって曇らされた天皇の形式的判断だと思って死んでいった。
だからこそ、
死にあたってもなお、彼等は 「 天皇陛下万歳 」 」 を 叫ぶことができた。

戦後に公にされたいくつかの文書は 甚だ特殊で異例な天皇の強烈の意志を明るみにだした。
青年将校達は、それと知らないで死んでいった。
若しそれを知っていたら、
彼等は絶望という言葉ではとても事足りないほどの 徹底的な絶望を味わねばならなかったことになる。
・・・
天皇と青年将校のあいだ 6 大御心は大御心に非ず

大御心は一視同仁 
天皇陛下は嘉し給わなかった
陛下の嘉し給わぬ行動は天人共に許さぬ行動であろうか
若し我々が天下の義に背いた行動をしたのであれば、
直ちに死するべきである
天皇陛下の為に国を憂えて身命を擲ったこの行動が、
陛下の逆鱗に触れ、そして逆徒になる
こんな馬鹿げたことがあろうか
我々は軍に入り陛下の大命により戦場に生命を捧げることを身上とした者である
しかも自ら進んで天下大義の為に立ったのだ
それにも拘わらずその義軍が叛徒として葬り去られたのだ
こんな悲しみがあろうか
天を仰いで長大息しても、この恨みは尽きるものではない
これは神に対する絶望であろうか  身震いするような恐怖であった
我々が蹶起した昭和維新の大義がこの世に存在の価値がないとすれば、
今日迄我々の生きてきた支えは壊滅してしまうのだ


朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ
確かに陛下は股肱を殺されたとお考えあそばされた。
だがな、陛下からご覧になれば股肱でも、我々から見れば君側の奸だった。
陛下のお考えは極めて理にかなつたことだったと俺は思う。
だから、合理と不合理のぶつかり合いを起こしたのさ。
維新なんてものは、合理じゃ片付かんよ。
勝つことを計算しない、後の人事も見返りも考えないのだから不合理な行動さ。
・・・
ある日より 現神は人間となりたまひ

天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あやまりなされませ


勅語 「「 今次東京ニ起レル事件ハ、朕ガ憾ミトスル所ナリ 」

2020年05月29日 20時04分21秒 | 大御心

事件が終息して後、
三ヵ月たった
 イメージ
五月三日の帝国議会
臨時議会の開院式に臨まれた天皇は
その勅語のなかで
「 今次東京ニ起レル事件ハ、朕ガ憾ミトスル所ナリ 」
と仰せられたことである。
現在では考えられないほど、
勅語が国民に大きな影響を与えていた当時のことである。
この勅語が
二・二六事件に対する国民感情に水をさしたことは否めない。
今までの勅語に例を見ない
「 朕が憾ミトスル 」
という文面を読んだ瞬間
なにか一沫の肌寒さが背中を走るのを感じた記憶がある。

勅語に不穏な批評を加えることなど以ての外であった当時、
口外することはなかったが
それをわざわざ内大臣の湯浅倉平に進言した勇敢な人がいた。
国家主義運動の論客、橋本徹馬である。
この勅語が新聞に載った数日後、橋本は内大臣府に湯浅を訪ね、
勅語について、こう進言したという。
「 あの勅語の中に朕の恨みとする所 というお言葉があるが、 
ああいうお言葉があると、
叛乱将校達に対し、天皇の深い憎しみがかかっていることが、明らかに看取せられるが故に、
いわゆる皇道派と統制派の相剋が一層ヒドクなる。
殊に それが下々にいくほど鋏状に甚だしくなって、
軍内部の相剋が激しくなることを、
お考えにならなかったのでしょうか 」
湯浅は
「 憾みとする所とは、遺憾に思うということである 」
と反駁(ハンバク)するが、
橋本が、
「 陛下が皇道派の事を憤っておられるぞということになって、
統制派は威丈高に皇道派に圧迫を加える 」
という予測に服して
「 ではどういう言葉を用いればよいのか 」
と 問う。
橋本は、
「 あのような場合は、
こういう事件が起ったのは、皆朕の不徳による 
と 仰せられるべきものです ・・・・
もし今度の勅語が朕の憾みとする所というお言葉の代りに、
皆朕の不徳によると仰せられたならばどうであるか。
皇道派も統制派もともに、そのお言葉の前に恐懼して
われわれの至らぬために陛下が不徳だと仰せられた、
これは相すまぬことだと相互に深く反省し、
理非はどちらにあろうともこの上相剋をやって、
陛下に御心配をおかけしてはならぬと思って、
相剋が治まる方向に向かうでしょう 」
橋本はさらに語を強めて、
古来 国に不祥事が起った場合は、
如何なる場合でも、「朕の不徳による」 と仰せられている。
昔の聖天子は天災地変に際してさえ、
朕の不徳によると仰せられた、として湯浅を納得させている。

橋本からその話を聞いた将軍たちは涙を浮かべて
「そういう勅語を賜わったら、これほど有難いことはなかったのに」
と残念がったという。
橋本はこの文章のなかで、
「 皇軍はすでにあの時に亡んだ 」
として、当時の陸軍の上層部を非難し、
「 彼等を銃殺のために撃ったあの銃声は、
 実は皇道精神の崩潰を知らしめる響であったのである 」
と、暗に天皇や宮中の側近のなされ方を批判している。

これは何も民間の一思想家だけではなく、軍人のなかにも内心、
この批判に近い感想を抱いた人もいた。
当時、近衛歩兵第三聯隊の隊付中佐であった岡崎清三郎(二六期)は、
晩年取材に訪れた私に対して、
「 私はあの当時、近歩三の隊付中佐をしていた。
私の隊から中橋基明が出ているんだ。
あとで高橋是清の邸に謝罪に行った。
聯隊長は夫人や遺族に合わせる顔がない、どの面さげて行けるのか、
と言われて悄然としておられるから、私が代理で行った。
さんざん皮肉を言われて、顔も上げられなかったことを覚えている。
私は、二・二六事件には絶対反対だ、軍人は政治に係るべきではない。
まして陛下の大命なくして兵を動かすことなど、以ての外、
言語道断の所業だと憤慨したものだ。
しかし、陛下は別だ、
殺した者も、殺された者も、皆等しく陛下の赤子だ。
まして私怨(シエン)や私情で暗殺したのではない。
やや残酷な殺し方はしているものの、
戦場体験のない青年士官では止むを得まい。
二・二六事件の際の天皇陛下の御言葉には、腑に落ちない点が多い。
まさかあの謹厳な本庄大将がウソを書くとは思われない。
本庄証言で見る限りでは、
陛下は逆上なされて冷静な御判断ができなくなっていたとしか思われない。
あの際、陛下が冷静に臣下の進言を裁かれ、
禍を転じて福となすよう公正な御裁断を下されていたら、
その後の一群の幕僚の暴走を抑えて、
恐らく翌年の支那事変は起らなかったであろう。
あるいは中共の謀略があったとしても、武力衝突は拡大せずに収まった筈である 」
と、感想を洩らした。
たとえ敗戦後の感想であるとしても、
天皇絶対教育で育った元将軍にとっては、
皇軍敗亡の一因となった陸軍の暴走は、我慢がならなかったものと思われる。
その暴走は橋本徹馬の文章の言うように、
天皇の一方に偏した御言動に力を得たものである・・・

・・須山幸雄著 作戦の鬼 小畑敏四郎 から

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『 朕のうらみとする 』 とのお言葉

叛乱将校達が縛(ばく)についた後の統制派軍部の態度は、
世上の言論取締りのうえにおいても、陰険と苛酷をきわめた
新聞雑誌の記事は厳重に検閲せられ、
いささかたりとも叛乱将校達に同情めいた記事を載せたるもの、
或は軍の発表せざる機微な情報を伝えたものは、
片っぱしから発売を禁止せられたうえに、憲兵隊の取調べを受けた。
また、平素多少たりとも叛乱将校達のなかの誰れかと親しみのあった者は、
軍人たると民間人たるとを問わず、残るところなく検挙せられた
個人の親書も検閲を受け、二・二六事件の消息を伝えた者は、
ことごとく呼出しを承けてその出所を追及せられたが、
なかにも麹町内幸町の〇〇料理店で、
ある学生が二・二六事件の話しをしていた際のごとき、
私服憲兵にそれを聞かれて拘引せられ、
その消息出所を同学生の母親以下、
芋づる式に十六人まで追及検挙せられた事実等もあって、
叛乱将校達にたいする暗黒裁判進行中の世上は、
陰鬱な空気に充ち満ちていた
かかる空気のなかにあつて、
同年(昭和十一年) 五月一日、
広田内閣のもとに帝国議会が召集せられたが、
同四日の開院式に臨まれた陛下の勅語のなかには、
今次東京に起れる事件は、朕の憾みとする処なり
という お言葉があつた
憾みは恨みに響く
この御一言が、
その頃進行中の叛乱将校裁判に如何なる影響をおよぼしたかは、
多くいうにおよばぬであろう
その後のある日私は、
湯浅内大臣を、宮内省の内大臣府に訪問して所見を述べた
私が湯浅内大臣に面会した節、最初に持出した問題は右の勅語のなかの、
「 朕の憾みとする処なり 」
というお言葉についてであった
「 一体あの勅語は、誰が陛下に奏請したものであるか
あの勅語奏請の責任者は、内大臣たるあなたですか 」
湯浅内府は答えていう
「 あの勅語の奏請は政府の責任であつて、
私の与(あず)からぬところである
しかしあの勅語にたいして、
あなたに意見があるといわれるならば試みに私が承りましょう 」
そこで私はいつた
「 あの勅語のなかに・・・・朕の憾みとする処というお言葉があるが、
ああいうお言葉があると、
叛乱将校にたいし、天皇の深い御憎しみがかかつていることが、
明らかに観取せられるが故に、
いわゆる皇道派と統制派との間の相剋が一層ヒドクなる
ことにそれが下々にいくほど鋏状にはなはだしくなつて、
軍部内の相剋が激しくなることを、お考えにならなかつたのでしようか 」
内府はいう
「 憾みとするところは、遺憾に思うということであるが、
ああいう事件が起こったのを、
陛下が遺憾に思われるのが何で悪いでしよう
あなただつて遺憾に思うでしよう 」
「 遺憾な出来事には相違ないが、それが国民にたいし軍部にたいし、
如何なる影響を与えるかを考えて、勅語は奏請すべきものである
ああいうお言葉があると、
それ見よ皇道派のことを憤つておられるのだということになつて、
統制派は威丈高になつて皇道派に圧迫を加える
皇道派はまた自分達の心事の方が、
統制派よりも遙かに正しいのだという信念のもとに、
これを反撃するということになつて、軍部の対立に油を注ぐことになります
だからあのようなお言葉は、
勅語には奏請してはならぬものと私は考えます 」

湯浅内府は例の思慮深げな顔付をしていつた
「 それではどういうお言葉を用いればよいのか、
あなたの考えをいつて御覧なさい 」
「 しからば、御免を被(こうむ)つて申上げます
あのような場合は、
こういう事件が起ったのは、皆朕の不徳によると仰せられるべきものです
もし今度の勅語が、
朕の憾みとするところというお言葉の代りに、
皆朕の不徳によると仰せられたならばどうであるか
皇道派も統制派もともに、そのお言葉の前に恐懼(きょうく)して、
われわれがいたらぬために、陛下が不徳だと仰せられた
これは相すまぬことだと相互に深く反省し、
どちらに理があるにしてもこの上相剋をやつて、
陛下に御心配をおかけしてはならぬと思うて、
相克が治まる方向にむかうでしよう
今度の勅語はその逆であるから、
これから一層軍部内の相剋がヒドクなるでしよう 」
このとき湯浅内府は小声で、
「 陛下が遺憾に思われたということがどうして悪いか 」
とつぶやかれた
そこで私は、さらにいつた
「 国家に不祥事が起った場合には、わが国柄のうえからいえば
( 明治天皇の前記の御宸翰を拝読してもわかることであるが) 如何なる場合にも、
朕の不徳によるという勅語を奏請すべきです
昔の聖天子は天災地変にたいしてさえ、
朕の不徳によると仰せられて、御位(みくらい)を譲られた方もある
こんどの勅語のために、
恐らく軍部内の相剋がますます盛んになつて、国家が禍をこうむるでしよう 」
私と湯浅内府との勅語問答は以上で終った

さきに私は、天皇は真理すなわち、造物主の意思の体現者であるといつた
その天皇が国家の一大不祥事にさいして、
一方に憎しみのかかるような勅語を下さるべきではないくらいなことが、
当時の広田首相以下の各大臣、西園寺元老以下の各重臣らに
わからなかつたのであろうか
不祥事が大きければ大きいほど、
天皇は造物主そのままの無限の大愛をもつて、
相剋せる両派の迷妄をさまし、その良心を引きだして、
これを融和せしめる意味にかのう勅語を賜るべきであり、
そこにわが天皇政治が他国にはあり得ざる、
万邦無比なる所以が存するのである
しかるに、当時の輔弼の責任者達が、
わが立国の本義を解せざる機関説派であつたがために、
かかる大事な勅語奏請の道を誤るという、失態を仕出かしたのである
・・・このときの勅語問題は、日本歴史上の一大痛恨事であつたといえよう
・・橋本徹馬 『 天皇と叛乱将校 』 から


天皇と農民

2020年05月28日 17時21分53秒 | 大御心

天皇と農民
昭和九年二月七日
対露方針について奏上した陸軍大臣林銑十郎は、
そのあとで、
青年将校たちが 「 部下の教育統率上、政治に無関心でいられない 」
と申している。

陸軍としては、政治上の意見があれば筋道を経て意見具申をすべく、
断じて直接行動してはならないという方針を明示している、
旨を奏上した。
それに対して天皇は、
「 将校等、殊に下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、
関心を持するは止むを得ずとするも、之に趣味を持ち過ぐる時は、却て害あり 」
と、いう お言葉であった。
これに対し、
本庄侍従武官長は
「積極的に働きかける意味ではございません」
と、お答えすると、
天皇は、
「 農民の窮状に同情するは固より、必要時なるも、而も農民亦みずから楽天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず」
と、仰せられ、
欧州巡遊の際の自由な気分を語られ、
大正天皇の御病気の原因も、その窮屈な御生活にあったのではないか、
との お話があった後、
「 斯様な次第故、農民も其の自然を楽しむ方面をも考へ、
不快な方面のみを云々すべきにあらず、
要するに農民指導には、法理一片に拠らず、道義的に努むべきなりと仰せられたり 」
と、本庄日記は伝えている。
 
後顧の憂い 
  娘身売り
昭和八年の農作はやや小康状態であったが、
昭和四年から七年にかけて、全国の農民は苦境に墜ちた。
とりわけ 東北から北陸の農民の惨状は、この世のものとは思われない、
真に塗炭の惨苦にあえいでいた。
天皇はこの惨状を御存知なかったのであろうか。
側近たちも輔翼の大臣たちも、それをありのまま言上しなかったのであろうか。
当時の東北の農民たちに、
とても 「 自ら楽天地 」 を 求める気持のゆとりなど、求め得べくもない。
最愛の娘を売春婦に売らねばならぬ農民の痛苦の心情を、
どうして、ありのまま言上しなかったのか。
この農民の惨状がわからなければ
生命をすてて国家、国民を救おうとした青年将校たちの心情は理解できない。
彼らは自分のことよりも
国家や国民の前途を心から憂えていた。
だから肉身の恩愛を断ち、暖かい家庭の団欒をふりすてて 起ち上がったのだ。
もし、あの時、

惨状に呻吟する農民に莫大な皇室財産の一部を割いて救恤されたなら、
青年将校は蹶起しなかったであろう。
・・・リンク→ 大御心 『 まさに陛下は雲の上におわしめたのである 』

敗戦後、GHQによって、皇室財産が詳細に調査され、
ついで 凍結され、やがて九割の財産税によって日本国に没収された。
「 土地、134万ヘクタール、大部分が御料林と呼ばれる山林である。
建物、62万7000平方メートル。
立木、1億6千800万立方メートル。
現金・有価証券、3億3千615万円。
土地は、日本の全面積の3%強、長野県の面積に匹敵する 」
その時の評価額は37億円に達したという。
昭和二十年の政府の一般会計の歳出が292億円であることを比較して見れば、
これがどんなに巨額であるかがわかるであろう。
この莫大な皇室財産の一部を、
昭和の初年、窮況にあえぐ国民の救恤金きゅうじゅつきんとして下賜かしされたならば、
その後の日本の運命は変っていたであろう。

北一輝は、この皇室財産の国家下付を「日本改造法案大綱」のなかにうたっている。
いまの皇室財産は徳川氏のものを継承したもので、かかる中世的財政によるのは誤りである。
国民の天皇は、その経済はすべて国家が負担するのは当たり前だといっている。
昭和四、五年頃、農村不況が深刻となり町でも失業者が急増し出した頃、
北邸に顔を出した寺田稲次郎に、北一輝は世間話の末、
仁徳天皇の例をひいて
「 日本の天子は、昔から民の富めるは朕の富めるなりといって、
国民と苦楽を共にするのが天子の務めと心得ていた。
寒夜に衣をぬいで貧民の痛苦をしのんだという天子もあった。
今、国民がこんなに苦しんでいるのに、
大財閥に匹敵する程の財宝をもちながら、アッケラカンと見すごしている奴もあるからなあ 」
と、言ってにやりと笑った。
大蔵栄一が 『 国体論及純正社会主義 』のなかに、
皇室に対する不敬の言辞が多い点を詰問すると
「 あのころは若くて、すべてがけんか腰だったからなァ 」
と、軽く逃げて まともに答えていない。
西田税にも同じような傾きが見える。
昭和六年の春、西田の家を訪れた血盟団の小沼正に
「 ときにあんなバカでかい物が、東京のどまん中にあるなんて、市民のいい迷惑だよ。
宮城をとっ払ってしまって、どこかへ引っ越ししてもらうんだなあ、将来は 」
と、笑いながら言った。
「 私は、西田氏の思想のどこかに、危険なものが陰さしているのではないかと疑ってみた。
だが、それは全く、私の思いすごしであった 」  ( 『 一殺多生 』 )
と、小沼はその著書の中に記しているが、はたしてどうだったのであろうか。
「 たしかに軍人時代の西田の天皇観と、浪人してからの西田のそれには、
ニュアンスに違いが見られた。
とりたてて天皇論をたたかわしたわけではないが、幾十度かの手紙の往復で、
たとえば語句の使い方、敬語の用い方にも変化があったことは感知していた。
革命家として生涯を賭している西田だから、さもあろうと思っていた 」
と、語るは福永憲である。

北も西田も、獄中で天皇に関しては何も書き残してはいないし、言ってもいない。
しかし、天皇が蹶起した青年将校に対して、ひどくお怒りの様子であることはわかっていた。
北一輝の最後の陳述
「 これで極楽へ行けます 」
と いう一言は、彼一流の痛烈な皮肉ではなかったか。
北のかねてからの持論
「 国民の天皇 」
というにはあまりにほど遠い天皇のお姿に、
暗い日本の未来を予見したのではあるまいか。
事実、この年からまる九年、日本人の多くは地獄の業火のなかに呻吟した。
西田も
「 このように乱れた世の中に、二度と生まれたくありません 」
と 言っている。
この時、西田の胸中には、
天皇の御態度に対する悲痛な絶望感がみなぎっていた、
と 思うのは 思いすごしというものであろうか。
「 誰から、どうして伝えられたかわからぬが、
天皇が立腹されたという話は、たしかに獄中で聞いた。
同志の将校はみんなそれを知っていた。
磯部だけは、はっきりそれを遺書に書いている。
敗戦後ならいざ知らず、
あの頃 天皇絶対の教育をうけた者が、あれ程極言したのはよくよくのことだ。
同志将校の遺書にもそれとは言っていないが、
たしかに怨んで書いたと見られるニュアンスがある。
安藤の
「 国体を護らんとして逆徒の名、万斛の恨、涙も涸れぬ、あゝ天は 」
と いう遺書も まさにそれだ。
天は天運の天の意味もあるが、天皇の天の意味もあると私には思える」  ( 菅波三郎 ) 
この明確な御態度は、北にとっては意外であったと思われる。
かつて北は
「クラゲの研究者がいけないんだ」
とか、
「デクノボーだとわかりゃ、ガラガラッと崩れるよ 」  ( 寺田稲次郎 )
と、陰口をたたいていた北は、
この時、はじめて天皇の人間臭を感じ、自分の敗北を認めたのではあるまいか。
西田も同じ感懐をもったと思われる。
かつて 「 日本の最高我 」 として、
恋闕の思いに胸を焦がした西田も、
天皇が国民の天皇でなく、貴族としての天皇と悟って失望する。
「 俺は殺される時、青年将校のように、
天皇陛下万歳は言わんけんな、黙って死ぬるよ 」  村田茂子談 )
と、面会に来た肉親たちに、
米子弁でつぶやくように言った一言こそ、
天皇に失望した西田の意を言外に含めた、精一杯の天皇批判であったのだ。

西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


大御心は一視同仁

2020年05月27日 17時14分55秒 | 池田俊彦

天皇陛下は嘉し給わなかった
陛下の嘉し給わぬ行動は天人共に許さぬ行動であろうか
若し我々が天下の義に背いた行動をしたのであれば、
直ちに死するべきである
天皇陛下の為に国を憂えて身命を擲ったこの行動が、
陛下の逆鱗に触れ、そして逆徒になる
こんな馬鹿げたことがあろうか

我々は軍に入り陛下の大命により戦場に生命を捧げることを身上とした者である
しかも自ら進んで天下大義の為に立ったのだ
それにも拘わらずその義軍が叛徒として葬り去られたのだ
こんな悲しみがあろうか
天を仰いで長大息しても、この恨みは尽きるものではない
これは神に対する絶望であろうか  身震いするような恐怖であった
我々が蹶起した昭和維新の大義がこの世に存在の価値がないとすれば、
今日迄我々の生きてきた支えは壊滅してしまうのだ

 蹶起の寄書

しかし
世論の動向とか一時的に上に立つ人の心がどうあろうとも
陛下の真の大御心は一視同仁であらせられ
名も無き民の赤心に通ずるものであり
それが天下の正義であり
我々の赤心もきっと通じるに違いないと思った
ここに生きてゆく心の支えがあった


池田俊彦 著
きている二・二六  から 


大御心 『 まさに陛下は雲の上におわしめたのである 』

2020年05月26日 09時28分58秒 | 池田俊彦

本庄日記
昭和九年二月八日
尚、此機会に繰り返して将校等が、
部下の教育統率上政治に無関心なる能はずとする事情を述べ、
同時に政治上の意見等ありとすれば、
其筋を経て改善の方法を申言すべく、
断じて直接行動すべからずとの方針なる旨言上したり、
然る処、
二月八日午前十時
之に対し、更に御下問あり
将校等、
殊に下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、
関心を持するは止むを得ずとするも、
之に趣味を持ち過ぐる時は、却て害ありとの仰せあり。
之に就き、余儀なく関心を持するに止まり、
決して趣味を持ち、積極的に働きかくる意味にあらざる次第を反復奉答せり。
陛下は此時
農村の窮状に同情するは固より、必要なるも、
而も農民亦自ら楽天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず、
自分の如き欧州を巡りて、自由の気分に移りたるならんも心境の愉快は、
又其自由の気分に成り得る間にあり。

これを読んで、秩父宮殿下の如く
実際に兵の家庭の事情に触れられた方とはお考えが違うと思った。
農村で娘の身売りをしなければならない者に楽天地などあったであろうか。

陛下は政治に御熱心で
側近の人々から様々な情報を御聴取遊ばされておられたようであるが、
私は側近の人々の気持が分らない。
陛下のお側近く仕える人々は、すべて名門の出である。
これ等の人々は
当時の逼迫した大陸の情勢や国内の農村の窮状、
労働者の生活状態を見て、
青年将校がどんな心情を抱いていたかなど
全く理解していなかったのではないかとしみじみ思った。
まさに陛下は雲の上におわしめたのである


池田俊彦 著
生きている二・二六 から


天皇の一党一派に偏した御態度が、 その後の国の歩みを誤らす原因になった

2020年05月25日 18時21分52秒 | 大御心

二・二六事件の当時、現役の陸軍大将は十名いた。
この度の叛乱の責任をとって全員辞職すべきであると、阿部信行 (陸士九期)が発言したが、
異論あり、陸士十期以下の三名は現役に止まることになった。
西義一(十期)、植田謙吉(十期)、と寺内寿一(十一期)の三人である。
このうち寺内が一番幸運をつかんだ。
寺内は元帥で内閣総理大臣にもなった長州人寺内正毅の長男で、
禿頭童顔
はげあたま
のため好人物の印象を人に与えた。
実際、坊ちゃんらしい一面もあった。
原田熊雄述 『 西園寺公と政局 』 を見ると、
寺内は毛並みの良さに加えて元老重臣に受けが良く、
前年の天皇機関説問題で政局が紛糾し、
川島陸相の進退が云々された時、
後任には 「 やはり寺内が一番強い 」
と 杉山参謀次長が言っている。
この書物で見るかぎり、
寺内はしばしば西園寺の坐漁荘へ報告に行っている。
社交にたけた一面がうかがえる。

こうして、全軍の輿望よぼうを荷になて 寺内は広田弘毅内閣の陸相になった。
広田内閣誕生のさいは、陸軍がさんざん横槍を入れ、
さすが硬骨漢の広田も一時組閣を断念するか、とまで危ぶまれたほどであった。
その陸軍横暴の先頭に起ったのが寺内であり、
その寺内を自在に操ったのは省部の中堅幕僚たちであり、
その中堅幕僚の中の中心的存在は
陸軍省軍務局の高級課員 陸軍中佐武藤章 ( 陸士二十五期 )
であったことはもはや通説となっている。
 武藤章
武藤章は後に陸軍中将となり、東京裁判でA級戦犯として絞首刑になっている。
五十七歳、同時に処刑された七人の仲では一番の年少である。
このことは武藤がいかに年若な時から軍政の中枢にいたかの証明になる。
武藤が陸軍軍政の要といわれた軍務局長になったのは昭和十四年十月、わずか四十六歳の時であった。
不世出の英才と言われた永田鉄山でさえ軍務局長になったのは四十九歳の時である。
陸士でも陸大でも大体、中の上の成績で、頭の回転は早かったらしいが、
頭脳明晰とは言えない武藤がなぜ同期生を圧して出世頭になったのか。
その答えはひとつしかない。
武藤が永田鉄山の思想、信条の信奉者であり、
永田の衣鉢いはつをうけつぐ奇策縦横の政治軍人であったからに外ならない。
しかも永田や武藤の策した北支那進出論は、もはや省部の幕僚たちの持論になっていた。
永田鉄山は満洲国の基礎を強化するため、
北支那に親日政権を樹立せねばならないという持論をもっていた事は前にも述べたが、武藤もそうであった。
武藤は平素から 「 支那と手をつなぐ位ならロシアと手をつないだ方がましだ 」
と言っていた。
永田の横死後もその政策の忠実な実践者であった。
満洲事変を計画、遂行した石原莞爾は、こうした省部の中堅幕僚たちの、
粗大な暴論と暴走には手をやいていた。
当時、石原は陸軍大佐で参謀本部の戦争指導課長であった。
昭和十一年の秋、綏遠事件すいえんじけん ( 関東軍参謀の陸軍中佐、田中隆吉らの謀略で、
内蒙古の独立を図ったが失敗した事件 ) が 起った際、
石原は急遽渡満して 関東軍司令部を訪れ、
対支謀略の責任者となっていた武藤章に、対支謀略の無謀さをたしなめた。
すると、武藤は憤然として、
「 これは異なことを承る。 あんたは満洲事変の張本人ではないか、
私共はあんたの業績にあやかろうとしているに過ぎない 」
と、やり返した。
座が白けたので参謀副長の今村均少将がうまくとりなして急場をしのいだという。
武藤は当時の支那は統一のない弱国と見て、
一撃を加えれば わが国の言い分は通るというきわめて粗大で、高慢な中国観に立っていた。
しかも、これは省部の幕僚の一般的な中国観でもあった。

翌十二年七月、日華事変が起って後、
石原は作戦部長として事変不拡大を唱え、懸命にこれをくい止めようとした。
日華両軍の本格的な交戦は、必然的に事変が長期戦となり、
ついには米英両国の介入を招き、解決できない泥沼に陥る。
これでは折角軌道に乗り出した国防国策も、ついに画餅に帰するであろうと、
懸命に説得したがついに大勢を阻止できなかった。
次第に孤立し、作戦部長在任わずか六ケ月にして、関東軍参謀副長に笈られてしまう。
当時、関東軍参謀長は東條英機であった。
両人の対立反目はここに芽生えるのである。
陸軍の逸材として、早くから衆望をあつめていた石原ですら、
ついに抑え得なかった幕僚たちの暴走、下剋上もさることながら、
幕僚たちの無軌道をここまで許した原因は、いったい何であったのであろうか。

その出発は二・二六事件からである。
昭和十一年春以来のいわゆる寺内粛軍によって、
彼らの政敵、彼らの批判者は陸軍から追放され、
あるいは権力の中枢から遠ざけられてしまった。

しかも、彼ら « 幕僚 » の背景には光背があった。
それは天皇であり、統帥権であった。
何人も容喙ようかいすることの出来ない聖域に、その源があった。
そもそもの事の起りは、
天皇の異様とも思えるお怒りからであった。

二月二十六日のクーデターに対して、
天皇は激怒なされ
蹶起将校に対して増悪にちかい感情すらお持ちになった
のではあるまいかとも思えるほどの激昂ぶりであった。

「 暴徒にして軍統帥部の命令に聴従せずば、朕自ら出動すべし
と 屡々繰り返され、
其後二十八日も亦、朕自ら近衛師団を率ひて現地に臨まんと仰せられ、
其都度左様な恐れ多きことに及ばずと御諫止申上ぐ。
其当時陛下には、声涙共に下る御気色にて、早く鎮定する様伝へ呉れと仰せらる 」 ( 本庄日記 )

日頃われわれ国民が仰ぎ見る温厚典雅な天皇の面影とは全く別人の感がある。
この時は昂奮の極にあられたものと想像されるものの、なにか異様の感じをうける。
この時、天皇は三十代の半ばすぎの御壮齢で、
いわば青年天子、感情に激されたとしても不思議ではないが、
平素の思慮深い天皇の御言動からは、なにか異質なものを感ずる。
梨本宮守正王が御前に出て 「 陸軍の長老として責任の重大感に絶えず」 と お詫びして落涙した。
天皇も共に泣かれ
「 朕も涙燦然さんぜんたるものありとて、殆んど涙を以て 」
本庄武官長に、その様に伝えられた。
本庄が、彼ら行動部隊の将校は、陛下の軍隊を勝手に動かし、
統帥権を犯した罪はもとより許すべからざることであるが、
と 前置きして、
「 其精神ニ至リテハ君国ヲ思フニ出デタルモノニシテ、必ズシモ咎トガムベカラズ 」
と、言上した。
天皇は退下した本庄を再び召してこう仰せられた。
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ凶暴ノ将校等、
其精神ニ於テモ何ノ恕ユルスベキノアリヤト仰セラレ、
又或時ハ、
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ、
ト漏ラサル 

日本の歴史をひもとき、
御歴代の天皇の言行を調べて見ても、
このように人間臭むき出しの 生の御感情を漏らされた天皇は一人も見当たらない。
しかも自分の臣下、といっても身分のごく低い下級の青年士官に対して、
増悪または怨嗟えんさにちかい御感情を示された天皇は他に見当らない

御歴代の天皇のなかで、
臣下から迫害をうけられた天皇は、第九十六代の後醍醐天皇と第百八代後水尾天皇のお二方である。

( それ以前に遠島に処せられたお方は数人いられるが、これは上皇になられてからである )
後醍醐天皇は朝権を恢復しようと、早くから討幕の計をたて、一度は失敗されたが、
多くの武将に助けられて建武の中興を成し遂げられた。
しかし、間もなく失敗、足利尊氏の叛乱によって、世は南北朝の争乱時代なる。
吉野に潜幸された後醍醐天皇は、雄図空しく延元四年八月十六日、宝算五十二歳で崩御された。
「 玉骨はたとへ南山の苔に埋むるとも、魂魄こんばくは常に北闕の天を望まんと思ふ 」
と、遺言され、左手に法華経を、右手に剣をもって崩ぜられたと、太平記は伝えている。
いかにも不屈な御生涯にふさわしい雄々しい御最期である。
 木戸幸一
ところで 今上天皇は、この後醍醐天皇の御業績にやや批判的であられたらしい。
『 木戸日記 』 上巻に、昭和七年十二月五日、
東大教授平泉登が、楠正成の誠忠、後醍醐天皇の建武の中興について、
天皇に御進講申し上げたことを記述し、「 感銘深く陪聴した 」 と しるしている。
その同じ木戸が内大臣の牧野伸顕に対しては 「 実につまらないことを申し上げたものだ 」 と 言っている。
木戸幸一という人は、相手の顔色を見てものを言った人と見える。
この時、牧野も平泉の御進講を陪聴していた。
 牧野伸顕
牧野は
「 非常に極端な右の方だ 」
だという平泉の噂さを聴いていて、あまり良い感じをもっていなかったから
「 いかにも現在の陛下に当てつけるような話し方であった 」
と 批評している。
御進講のあと、お茶の席で 天皇は平泉に、
「 今の話は よくきいた。
後醍醐天皇の御英明なことも自分はよく知っておるが、
当時後醍醐天皇のおとりになった処置について何か誤りはなかったか 」
と、御下問になった。
平泉が何と奉答したか記録にはないが、傍で聞いていた牧野は後でこう語っている。
「 陛下も実につまらないことを話したもんだと思ひになつたやうで、(中略)
それをただ建武の中興を絶対的に礼讃したといふことについて、
陛下はあんまり面白く思つておいでにならなかつたらしい 」 ( 西園寺公と政局 )
天皇が平泉の神がかり的な歴史の観方に、反撥を感じられたさまがうかがえる。
科学者であられる天皇は、つねに何事も客観的に見ようと努めておられたのであろう。

第百八代後水尾天皇は、江戸時代初期に在位された天皇で、
中宮は二代将軍秀忠の女東福門院である。
古くか京都の名刹に座主高層たちに、天皇は上人号を授け、紫衣を勅許される慣わしがあり、
これが乏しい皇室には大きな収入源にもなっていた。
徳川家康は禁中並公家諸法度を制定して、天皇の行動を規制し、
官位の任免も名目は天皇にあったが、実質的には幕府が左右できるようにした。
ついで二代目秀忠は 寛永四年、僧侶出世の法を定め、
元和以降、上人号、紫衣を賜った者を再調査して、不当なものは取消すよう命じた。
この調査は寛永六年まで行われ、その結果天皇が発給さけた口宣が 七、八十枚も破棄された。
これが有名な紫衣しえ事件である。
後水尾天皇は激怒され
「 主上この上の御恥これ有るべきや 」
と 仰せられて、十一月八日 俄に位を皇女、興子内親王に譲られた。
これが明正天皇である。
幕府の厳しい干渉のなかで、微力な天皇が皇位の尊厳を守るには、譲位しか残された方法はなかったからである。
  ともかくもなさばなりなむ心もて
  この身の一つを歎くおろかさ
とは、欝々として楽しまれぬ天皇の心からのお嘆きである。
この二天皇の悲痛な不本意な御生涯は、武力に圧迫された非力の皇室の悲劇であった。
 昭和天皇
しかし、現在はそれとは根本的に違う。
天皇の御意志は聖旨として、絶対的な権威をもっていた。
一億の国民のうち、天皇の御意志に逆らう者は、共産主義者と気狂いだけの時代であった。
二・二六事件の蹶起将校たちは、
一君万民の理想国家を目ざしてクーデターを敢行した。
彼らの叫びは 尊皇討奸、天皇絶対であり、天皇への叛逆などは夢にも考えていない。
しかし、天皇の激怒のさまは、
奉勅命令と共に伝わり、去就の定かでなかった中央幕僚たちの態度を一変させた。
蹶起将校たちは叛徒となり、短日時の形式的な裁判を経て死刑になった。

昭和十一年三月からはじまる陸軍の不当な政治介入は、天皇の御立腹の結果として起こった。
天皇の御意志は、いわゆる統制派の幕僚たちに勇気を与えた。
当時の宮廷に出入りした人々の日記をみると、
天皇は 荒木、眞崎の二大将をはじめ、
皇道派の将軍には特別な感情をもって見ておられたことがわかる。
しかもそれが いちねん二年の短期間ではない。
「 而して今日の軍指導者に対する不信は、
 国の内外を問はざるを以て、全然別派を以て代置せざるべからず。
而して 別派とは所謂皇道派にして、人物としては、柳川、小畑あること、
然れども 此の皇道派に対しては、恐れ乍ら、従来とも御上の御覚え宜しからざる様、
洩れ承り居るも、此の点拝聞するを得ば幸ひなること 」 ( 細川日記 )
これは八年後の昭和十九年三月、
東條政権打倒を画策しつつあった近衛文麿の使いとして、
高松宮邸に伺候した著者・細川護貞の言葉である。
こうした 天皇の一党一派に偏した御態度が、その後の国の歩みを誤らす原因になった。
元より 天皇は全知全能の神ではない、すべてに完全であれとは求める方が無理である。
これは要するに補佐の元老、重臣たちの罪である。
側近の廷臣たちがあらぬ噂さに尾ひれをつけ、
荒木、眞崎らの悪口をさかんに宮廷に流したものであろう。
『 細川日記 』 にも 昭和六年秋の十月事件に
「 荒木も加はり居るとの聞込あり 」
と記入しているほどである。
 寺内陸相と広田首相
こうした砂上の楼閣ならぬ、陰湿な謀略の上に、寺内陸相の粛軍人事が遂行されたのである。
いかに国家にとって、須要欠くべからざる人材であっても、
二・二六事件の同調者、あるいは皇道派と目された人々は、すべて左遷、粛正の対象となった。
台湾軍司令官陸軍中将柳川平助、陸軍大学校校長陸軍少将小畑敏四郎は、その尤なるものであった。
寺内は昭和十一年七月五日、叛乱軍将校らに死刑の判決のあった日、
原田熊雄のもとを訪れ、粛軍人事について興津の西園寺に次のような報告を依頼している。
「 まあ、結局八月には 建川にも自発的に辞めるようにして引退してもらいたいし、
まあ 柳川にしろ小畑とか山下とか、そんな連中も、結局やっぱり十二月頃には全部辞めてもらうつもりだ 」  (西園寺公と政局)
と、語っている。

須山幸雄著  二・二六事件 青春群像 から


天皇の大御心にも副う所以であると考えてやつたのである

2020年05月22日 18時08分16秒 | 大御心

私は、叛乱将校中に一人の知人もなく、
この人達と関係の深い民間人中の北一輝氏に、
ただ一度 ( それも数年前に ) 面識があるだけであったから、
もちろん 二・二六事件に関係があるはずがなかった。
ことに、この人達の企てた叛乱。
すなわち、上官の意向を無視して兵を動かし、
多くの要職にある人物を殺し、天下を騒がせたのであるから、
その重大犯罪のまえに、この人達を弁護のしようがなかつた。
ただ、この人達の既述のごとき蹶起の理由については、
当時の元老重臣や政界上層部の人達、並びに軍の上層部の人達の意向に反し、
私には深く察せられるものがあつた。
簡単にいえば 叛乱将校達の仕出かしたことは、言語道断の非道であるが、
しかしその志が、深く君国を思う一念に発していることだけは、
疑いようがないと信じたのである。
そうして
それには、十分の理由が存するのである。

ここで、その頃なお進行中であった、
相澤事件の公判を振りかえってみる必要がある。
それは 相澤事件と二・二六事件とは、
その勃発の動機において大体同様のものであるから、
相澤事件の本質を知ることが、
二・二六事件の本質を知る所以ともなるからである。

昭和十一年二月七日 ( 二・二六事件に先立つ二十日程以前 )
当時相澤事件の弁護人であった鵜沢総明博士が、
新聞記者に発表して世間を驚かしめた声明文がある。
その一節にいう、
「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を単に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に、国運を有する問題といわなければなりません。
したがって、統帥の本義はじめとして、
政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、
実にその深刻にして真摯なること、
裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・・」
右の文中において鵜沢博士が、
日本国民の使命に忠実に、ことに軍教育を受けたる者のここに到達した事件でありまして、
遠く建国以来の歴史に関連を有する云々 」
と いつておられる点が 最も重要であるが、
これは具体的には何を意味するかといえば、
相澤中佐事件は、
わが建国以来の歴史や、軍人への勅諭、教育勅語、大日本帝国憲法等によつて、

真面目に教育を受けた軍人が敢行した事件であるという意味である
したがつて、そこに相沢事件の重大性があるというのが、鵜沢博士の意見である。

終戦後育った諸君が聞けば、はなはだ時代離れがしているように思うであろうが、
当時の将兵が軍隊教育によつて教えられていたのは、
わが国柄が万邦に優れた所以は、天皇の御親政にある
ということであつた。
天皇の御親政とは、心理即応の政治ということであり、
造物主の意思そのままの政治ということである。
しからば、
その真理とか造物主の意思とかいうのは、何を意味するのかといえば、
 それは、
「 総てのものの間に大調和あらしめて、万人をしてその生存の意義を全うせしめる道 」
を いうのである。
試みに明治二年に下し給うた 明治天皇の御宸翰しんかんをみれば、
「 ・・・・今般朝政一新の時に膺あたり、天下億兆、一人も其処そのところを得ざる時は、
皆 朕が罪なれば、今日の事 朕 自ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難かんなんの先に立ち、
いにしえ列祖の尽くさせ給ひし蹤あとを履み、治蹟を勤めてこそ、
始めて天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし・・・・」
との お言葉があるが、このような御心構えで、天皇が御自らわが国を統治し給うて、
「 一人の処を得ざる者----すなわち一人の生存の意義を全うし得ざる者
----をも無からしめることに努められるのが、わが国の特色であつて、
他の民主国や君主機関説の国とは、全然国柄を異にするのである 」
と 教えられていた。
さらに、帝国憲法公布の際の明治天皇の 「 告文 」 を見れば
「 皇朕すめわれ、天壌無窮の宏謨こうぼに従ひ、惟神かんながらの宝祚ほうそを承継し、
旧図きゅうとを保持して、敢て失墜することなし・・・(中略)・・・玆に皇室典範及び憲法を制定す。
おもふに此れ皆皇祖皇宗の後裔こうえいに貽のこし給へる、
統治の洪範を紹述するに外ならず (下略) 」
とあり、
天皇の国家統治の大権は、
憲法以前からのものであるゆえんを、明らかにされているのである。
私は、ここて゛のような天皇政治が、善いか悪いかを論じているのではない。
国体擁護論者や軍人は、かく教えられてきたといっているのである。
帝国憲法の草案起草者である伊藤博文公の 「 大日本帝国憲法義解 」 中の
「 第一章  天皇 」 の 項の解釈にも、
「 恭つつしんで按ずるに天皇の宝祚は、之を祖宗に承け、之を子孫に伝ふ。
国家統治権の存する処なり。
而して
憲法に殊に大権を掲げて之を条章に明記するは、
憲法によりて新設の義を表するに非ずして、
固有の国体は憲法によりて、益々鞏固きょうこなることを示すなり 」
と あつて、
日本は他の法治諸国と違い、憲法によつて大権が保証されたのではなく、
それは憲法以前よりのものであり、
憲法はただその大権行使の道筋を示すものである所以が、明らかにされているのである。
世には帝国憲法四条に、
「 天皇は国の元首にして統治権を総攬し、此の憲法の条規により之を行ふ 」
と あるのをみて、
天皇は元首、すなわち機関であると解釈する者があるが、
それは法治国なみの解釈であつて、
固有の国体に基礎をおくわが帝国憲法においては、
そのような解釈をとらぬことは、伊藤公の憲法義解にある憲法第一条より、
第四条を熟読すれば明白である。

「 天皇の御親政などてあつては、政治の責任がすべて陛下に帰して大変です 」
などという者もあるが、
そのような人も天皇政治の本質と、帝国憲法第五十五条にある国務大臣の輔弼の責任をしれば、
さういう誤解がなくなるのである。
天皇の御親政ということは、
何もかも天皇が独断的に命令を下し給うて、諸大臣がこれを執行するというのではない。
それは先にもいうがごとく、
心理即応の政治、造物主の意思そのままの政治ということであつて、
天皇はそのような真理、そのような造物主の意思を体現せられていて、
その見地から国政上の万機を御覧になる。
諸大臣はまた、
その天皇の体現せられている真理に背かざるように---
具体的にいえば、わが国民中に一人の処を得ざる者をもなからしめるように---
天皇を輔弼しつつ政治をしていくのである。
無論その間、天皇は真理の体現者としてのお立場から、
お気付きになつたことを諸大臣に遠慮なくお伝へになるが、それは決して独断的な御命令ではない。
それは常に必ず大臣の意思を問われるのである。
神代の頃の御政治すら、天津祝詞あまつのりとにもあるように、
「 八百万やおろずの神等かみたちを神集へに集へ給ひ、神議かむばかりに議はかり給ひて 」
というのが、わが国柄なのであつて、天皇は決して独断はなさらぬのである。
それに対して諸大臣は、また遠慮なく御下問にお答えして、その輔翼の責任を尽し、
結局
「一人の処を得ざる者をもなからしめる 」 政治の全きを期するのであって、
その政治に誤りがあれば、如何なる場合にも時の内閣諸大臣がその責に任ずるのが、
憲法にいうところの輔弼の責任なのである。
天皇の国家統治の大権というのは、
前述のごとく 造物主の意思を行わせられるための権利であるから、その大権が無限なのである。
さらに明白にいえば、
全世界に一人の処を得ざる者をも無からしめねば止まぬという、
天皇の無限の大愛と不退転の意思とが、その大権の裏付けなのであるから、
大権は無限であるというのである。
ただしそれは、
天皇が勝手に何をなさつてもよいということではない。
そのような大権を行われるに当っては、必ず憲法の条規によりて行われるのが、
明治天皇が御自ら定め給うた帝国憲法の規定であつた。

「 大御心 」 というのは、何を意味するかといえば、
それは造物主の意思を体現せられている天皇の御心という意味であるから、
別言すれば、
万人をしてその生存の意義を全うせしめずんば止まざる造物主の意思が、
すなわち天皇の大御心なのである。
したがつて、
その意味にかのうことを行うのが、
大御心に副う所以なのであつて、
天皇の個人的御趣味や御嗜好しこうを尊重することのごときは、
大御心に副う の 意味には当らぬのである。
たとえば、
今上陛下が生物学の御研究を好まれる御心のごときは、
個人的の御趣味であって、
大御心とは謂わぬのである。
たとえば、
一時の御感情から激語されるがごとき場合のお言葉も、
それが大御心の発揚であるかどうかは、
輔弼の大臣がよく考えて、輔弼を誤らぬようにせねばならぬのである。

天皇機関説論者として有名な、美濃部博士の説によれば、
「 君主が統治権の主体であるといえば、
統治権は君主御一身の利益のために存する権利であり、
したがつて
統治の行為は、君主一個人としての行為であるという意味に帰着する。
しかし、
君主が御一身の利益のために統治権を行わるるということは、
わが国古来の歴史に反し、
わが国体に反することの甚だしきものである 」・・( 尾崎士郎著 「 天皇機関説 」 )
と いうのだそうであるが、
これも美濃部博士が西洋憲法学の上から、
他の法治国家なみの解釈をするから、そういうことを考えるのであつて、
以上述べてきたつたごとき、
わが国有の天皇政治の上からいえば、
天皇即真理であり、天皇即国家であり、天皇即国民であつて、
天皇が個人的お立場で、
御一身の利益のために政治をされるなどということは、有り得ないのである。
さらに帝国憲法第十一条には、
「 天皇は陸海軍を統帥す 」
とあり、
伊藤公の憲法義解には、
天皇が 「 自ら陸海軍を統べ給ふ 」
所以 および、
日本の征討は、かならず天皇の御親征である所以を明記されている。
同十二条には、
「 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む 」
と あつて、憲法義解には、
「・・・・本条は陸海軍の編制及び常備兵額も、亦天皇の親裁する処なることを示す。
此れ固もとより責任大臣の輔翼に依ると雖いえども、叉帷幄いあくの軍令に均しく、
至尊の大権に属すべくして、而して議会の干渉を須たざるべきなり 」
と ある。
ここに喧しい統帥権問題や、
兵力量問題が起る根拠が存するのであつて、
天皇は軍の統帥と兵力量との決定に関しては、
政府や議会の干渉を許さぬ権限を持たれ、
それを 直接参謀総長、軍令部長および軍務大臣に命じて、
行使されるたてまえに、憲法が出来上つていたのである。
そのように 統帥権の独立が、善いか悪いかは別問題として、
帝国憲法では明らかにそうなつていたのである。

しかして、
この天皇の統帥の大権は、さらに軍人への勅諭によりて、一層明白にされている。
軍人への勅諭は明治十五年、
すなわち 大日本帝国憲法発布より七年以前に賜ったものであるが、
しかしこの勅諭は、憲法発布後に改められておらぬのみならず、
終戦のときまでわが将兵は、
皆この勅諭の御趣旨を奉じて、身命を荒野に捨てたのである。
しかもその勅諭は、
「 我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ処にぞある 」
と いうお言葉より始めて、
「・・・・夫れ兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば---その大綱は朕親みずから之を攬り、
あえて臣下に委ゆだぬべきものに非ず、
子々孫々に至るまで篤く斯旨このむねを伝へ、
天子は文武の大権を掌握するの義を存して、
ふたたび中世以降の如き失態なからんことを望むなり。
朕は汝等軍人の大元帥なるぞ 」
と いうお言葉以下、
天皇と軍隊および軍人が直結直属の理義を厳粛かつ懇切に示されている。
なお 以上の所説を裏書するものに、
占領統治が始まるまで、全国の学校で教えられていた教育勅語がある。
試みに教育勅語の始めの数行を見よ、
「 朕 惟ふに我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり、
我が臣民 克く忠に 克く孝に、億兆心を一にして世々厥その美を済せるは、
此れ我が国体の精華にして、教育の淵源えんげん亦実に此に存す 」
と あるではないか。
すなわち明治以来の教育の本義は、
国体を明徴にし、国体を擁護するにあつたことは明白であつて、
それさえ確かなれば、
万徳皆その中に備わるというたてまえであることがしられるのである。
さらに教育勅語の最後の一節には、
「 斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶ともに遵守すべき所、
之を古今に通じて誤らず、之を中外に施して悖もとらず、
朕爾臣民と共に拳々服膺けんけんふくようして、咸みな其德を一にせんことを庶幾こいねがふ 」
 
 とあるのをみよ。
もし この教育勅語の御趣旨を誠実に学んだ者ならば、当然わが国体明徴問題に、
 熱心になるべきはずなのである。
日本国民、特に軍人が以上のごとき思想で毎日鍛えられ、
それがいわゆる軍人精神となつていることは、秘密でも何でもない公然のことであつて、
元老も重臣も、またその時々の政府当局も、常に明確に意識していなければならぬことなのである。
皇道派の青年将校達が、特に真面目な将校であればあるほど、
齋藤内閣や岡田内閣の国体明徴問題に不徹底なるを憤り、また統帥権問題に興奮するのは、
多年かかる教育を受けているからに外ならない。

しかし当時の元老重臣政界の上層部、並びに一部の官僚や学者の考えは、
以上私が述べたごとき教育を受けた皇道派将校達の見解とは、違っていたようである。
右の人達は一種の欧化主義からか、或いは英国カブレからか、
それとも時代にたいする新しい認識のうえからか、
日本もヨーロッパ流の法治国とし、
日本の天皇をイギリス流の君主同様にしたいという考えであつて、
この風潮は宮中方面にも充満していた。
したがつて、これらの人達からみれば、
軍の統帥の問題とか、国体明徴問題とかを喧しくいう者は、
頑迷度し難き厄介千万な存在であつて、
天皇にたいしても、世にいうヒイキの引倒しをする連中であると見えるのであつた。
もつとも元老重臣および、宮中方面の意向に同調していた政治家や軍人諸君の中には、
必ずしも 純真君国を思うの念からでなく、天皇の個人的御趣味や、
元老重臣の好むところにおもねつて、自己の栄達保身を計ろうとした者も、
相当いたようである。
この人達の国家の重臣としての他日の言動をみれば、それがわかるのである。
ともかく斎藤内閣および岡田内閣は、当時の世上に喧しかった統帥権問題や、
天皇機関説排撃論に困惑はしながら、憲法や軍人への勅諭の線にそう、明快なる断案を下さず、
逆に統制派の軍人と策謀して、国体擁護論者を排撃しようとしたときに起ったのが、
相沢事件であり、二・二六事件である。
相沢事件の弁護人の鵜沢博士はまた、
「 皇軍全体、何かゆがんでいる。
どこか間違っている。
これを明かにしなければ、この裁判の公正は期し難い 」
と考えられたらしいが、ゆがんでいたのは軍部だけであろうか。
急元老重臣および、当時の主なる政治家並びに統制派の軍人達と、
国体擁護論者との間には以上述べるがごとき、わが立国の本義に関し、
重大なる見解信念の相違がある。
これが各種の国家的悲劇となつて、現れるのに不思議があるまい。
たとえば、
永田軍務局長を斬殺した相澤中佐は、
当時の機関説派からみれば、狂暴憎むべき不逞の徒であるが、

しかし その相澤中佐自身は、
かくすることが国家を擁護し、粛軍を断行する所以であつて、

当然天皇の大御心にも副う所以であると考えてやつたのである。
さればこそ彼は、その決行以前に伊勢神宮に参拝し、
また明治神宮をも遙拝して心身を潔きよめ、
自己の心境に曇りなきを期したのである。

さらに二・二六事件の叛乱将校達も、
あれだけの重大事を仕出かしながら、

それが国家を擁護し、天皇の大御心に副う所以であると信じたればこそ、
あれだけ勇敢に邁進し得たのである。
彼らのなかには実に性格の美しい、模範的軍人が幾人もいたことは注意すべきである。
相澤中佐や二・二六事件の将兵の犯した罪が、如何に大きくとも、
彼らの志には察するべきものがあると私がいつたのは、
いじょう述べるがごとき憲法上、
教育上、その他の疑う余地なき根拠によるものである。

橋本徹馬著  天皇と叛乱将校 から


「 秩父宮殿下を鎮圧を前提とした戒厳司令官になさりませ 」

2020年05月21日 18時15分38秒 | 大御心

鬼頭春樹 氏が、その著書 『 禁断 二・二六事件 』 で、
恰も再現ドラマの如く物語る
 近衛文麿
< 二月二十七日 >
夕刻六時半、行進ラッパが威勢よく鳴っていた。
宵闇迫る永田町を歩三安藤中隊と坂井中隊、合せて三百五十名の大部隊が二列縦隊で颯爽と進む。
外堀通りに面した山王下の料亭 幸楽 に宿泊先をあてがわれての移動だ。
宿営地配布命令が戒厳司令部から夕刻五時に出た結果だった。
 
行進の先陣を務める坂井隊の旗手は高々と 『 尊皇討奸 』 と書かれた幡を掲げていた。
坂井中尉の楷書の整った筆になる。
安藤は 『 志気団結』 と書かれた日章旗と進む。
夕暮れの沿道には蹶起軍の行進を一目見ようと鈴なりの野次馬が押し掛けた。

七時頃、「 幸楽 」 の広いロビーの大きな籐椅子に安藤大尉は腰掛けていた。
三百名を超える大部隊の移駐ゆえ ロビーはごった返す。
和風料亭とあって兵士たちは一々靴を脱がなくてはならない。
後に畳が裏返されて土足の儘 出入りが行われたが、下足番だけでも大変な作業だ。
先程 五時、真崎大将など三名の軍事参議官と蹶起将校十八名との会談が陸相官邸で終わる。
これという収穫はなかった。
出席しなかった将校は安藤と栗原だけ。
事件の膠着状況は蹶起軍の敗色を物語っていた。
・・・・起死回生の軍事作戦は何かないものか・・・・
安藤の表情はすぐれなかった。
その時だ。雑踏の玄関先に詰襟の学生服を着た青年が一人立っていることに気付く。
安藤と目が合うと、学生がオズオズと尋ねた。
「 安藤先生はおいででしょうか 」
「 俺が安藤だが・・・・」
青年はまだ少年の面影が残る。緊張と寒さで頬を赤く染めていた。
「 私は東大国史学科で平泉先生の門下生、青柳と申します 」
「 おー、平泉先生の・・・・、そうか、よくここまで来れたなァ、まあ 掛け給え 」
安藤と平泉澄きよし ( 41 ) は 日本青年協会で知り合う。
歩三に事務局が置かれた人材育成の全国組織で、松下村塾をモデルに青年教育をめざした。
ここで二人は何度か顔を合わせる。
平泉史学は皇国史観と云われた。
前年に東大教授となった平泉は卒論で中世の農民史をやりたいと云うと、こう宣うたと巷間伝えられる。
『 君、百姓に歴史があるのかね。 「 豚 」 に歴史が・・・・』
平泉史学にあって歴史とは自覚された精神的所産を指す。
農民であれば二宮尊徳がこれにあたる。
無名の農民は視野には入らない。
秩父宮が参謀本部作戦課時代には日本政治史の講義を週一回赤坂表町御殿で二年四ヶ月にわたり続けた。
「 お渡しするものがあります。平泉先生からこの封書を預かって参りました 」
青柳は、神妙な顔付で 『 親展 』 と書かれた封筒を両手で安藤に差出す。
「 この場で お読み頂きたいとのことです。よろしければ、私に口頭でご返事が頂ければ、
駒込曙町のご自宅にすぐ戻りまして、私からお伝えしたいと存じます 」
なにやら火急のことと見え、学生の丁重な口調は震えている。
「 判った、少し待ち給え 」
封を切るのももどかしく、安藤は手紙に目を通す。
和紙の便箋に達者な毛筆で書かれていた。

・・・・諸君の身を挺した蹶起行動から二日目にはいったが捗々しい進展が見られない。
此の儘では 生死を賭した諸君の行動は何等歴史的に結実を見ることなく 葬り去られる恐れがある。
この場に及んで、浅学ながら小生は重大な決意をなさんとす。
明朝、近衛文麿公爵邸に出向き、
近衛公より陛下に次の行動に出られるよう進言上奏されよと直言致さんと思案する。

即ち 香椎戒厳司令官を更迭し、勅命を以て秩父宮殿下を転補奉る。
蹶起軍はこれを契機に兵を退き、将校は宮城前にて全員自決。
之を陛下よりの差遣された侍従武官が見届ける。
戒厳令は続行し、内閣は総辞職。
新内閣は近衛公を首班に、昭和維新の勅命を発す。
疲弊した農村の救済に供する施策などを早急に実施・・・・。
斯くの如き私案に対し賢明なる貴殿の御所見を口頭にて門下生、青柳にお聞かせ願いたく存ずる。
学生は胸ポケットから小さな手帳を出すと、挟んである鉛筆でメモがとれるように準備をしている。
読み終えた安藤は即座に答えた。
「 青柳君、平泉先生に伝えてくれ給え。
御趣旨はよく承った。異存はない。先生と近衛公の御尽力で維新が成就されんことを願っている。
元より吾ら捨石の覚悟ゆえ御安心あれ 」

この日、平泉教授の行動は大胆だった。
上京する宮の列車に単独で箱乗りしたのだ。
早朝に弘前に電話をすると、宮は既に昨晩、上京のために旅立った後と知る。
列車の時刻表を調べ、教授は上野から九時十分発の上越線急行で水上駅まで下った。
そこで宮が乗った上り列車の特別車両を待つ。
午後一時二分、到着した列車に乗車、水上駅から高崎駅まで約一時間にわたり秩父宮と時間を共にする。
特別車両は中央が木の壁で仕切られ、宮は後部の部屋に一人乗車していた。
そこで教授は一人言上したのだった。
次の三点が骨子であったとされる。

一、天皇が下々の脅迫・強要に屈服して方針を変更するは断じてあるべからず。
二、蹶起将校たちの精神は汲むべきであり、この際、勇敢に時弊を確信すべき。
三、時局の収拾のため近衛文麿を中心にし、荒木貞夫、末次信正を補佐として進めるべし。
だが教授の独断行動は各方面、とりわけ宮中筋からの疑惑の目で見られた。
教授が詠んだ和歌が思わせぶりであったことに起因する。
『 道の奥  ながき雪みち  おしひらき  日の皇子みこは  今のほりめすなり 』
『 降る雪を  稜威のちわきに  ちわきつつ  日の皇子こそは  今のほりませ 』
これではまるで皇位が交代するようではないか。まさに壬申の乱ではないか。
もともと平泉教授の思想は立憲政治とは異なった。
三年前、木戸は近衛と同席して平泉と食事を共にした際、こう書き記す。
『 昭和維新の大眼目は天皇ご親政にありと説く 』 ・木戸幸一日記・昭和八年二月七日
こう考えていた教授は二・二六事件を絶好の好機と見たのだ。

安藤は早速伝令を陸相官邸に送る。
磯部と村中を 「 幸楽 」 に呼ぶためだ。
蹶起軍にとって起死回生の機会がきたのだった。
< その頃 >
「 幸楽 」 へ栗原中尉が横溝二等兵が運転する外車で悠然とやって来る。
七時だからすでに夜の帳とばりが下りていた。
事件は膠着状態にぶち当たっていた。
「 ここは昭和維新のタネを蒔くことだ。我々に続く次の時代を育てなくては 」
栗原は街頭演説にやって来たのだった。
幸楽傍の特許庁前に集まった野次馬に檄を飛ばす。
「 諸君、さきほど秩父宮殿下が上野駅に御帰京になった。今 宮中で陛下に拝謁されている。
愈々我々の頭目として戴くべき時が来た。昭和維新の成功も間近い。
明日には大詔が渙発され、昭和維新の歴史的な局面の幕が切って落とされようとしている。
諸君、我々はもとより己の一命に拘泥しない。
いつでも大命の仰せにより割腹する覚悟だ。昭和維新の捨石になる。
そのための蹶起だ。どうか我々に続いて欲しい。
諸君が明日の日本を切り開いて欲しい 」
・・・元事務官・松本徹はこの演説を聞き、翌二十八日 ( 金 ) に秩父宮邸で宮に内容を言上した。
『 宮様として迷惑この上ない話ではあるが、
新聞にも出ないようなこのような民衆を集めての演説の内容は、お耳に入れるべきと決心した次第であった 』
・・・「 昭和十一年、事件突発の翌日だったか、急遽御上京の宮様を上野駅にお迎えし、
御着の翌日だったか翌々日だったか、相当長時間、御下問に対し私自身 見聞した事を申しあげ、
更に 『 一般ではどういう事を言っているか 』 とか 『 一般ではどういう風に見ているか 』 等、
事細かに痛い所を突込んでの御下問があった。
その中で特に殿下が心を痛められたと思われるのは、
何と云っても殿下御自身に関するデマであったろうと思われる。
この様な時に率直に遠慮なく市井の噂等ありのままを申上げる事こそ、
何かの御参考になるものと考えて、当時としては崖から飛び下りる位の覚悟で、
思い切って次の様な事迄申上げた。
その一つは、
私自身が山王ホテル附近の反乱軍の第一線で、
その青年将校の二、三がやっていた街頭演説をきいていたその内容であった。
彼等は
『 秩父宮殿下が御帰京になったので、
愈々我々の頭目として戴き、我々の立場は好転して、昭和維新の成功も近い 』
という様な演説を堂々とやっている事であった。
又、この事件の首謀者というか、黒幕に就いて、巷の噂はどんな事を言っているか、
という御下問に対し、
何と云っても当時の一番多い噂であった 荒木、真崎 両大将という専らの噂の外、
稀には 『 宮様が関係ある 』 という一部の説まで、包まず申上げた 」
・・・松本徹

27日・上野駅
二十七日夜、秩父宮は十一時過ぎには大宮御所と地続きの青山御所に入る。
深夜にもかかわらず拝謁者が引きも切らない。川島陸相、古荘次官、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官。
それぞれの心中は複雑なものが渦を巻いていた事だろう。
『 もしかしたら 秩父宮殿下が 』
と いう心理がなかったと云えばうそになろう。まだ事件の形勢は定かでなかったのだから
二十七日 ( 木 ) の秩父宮上京には蹶起将校たちから熱いまなざしが注がれた。

翌二十八日 ( 金 ) 朝六時頃、
安藤輝三大尉のいる 幸楽に歩三第五中隊長の小林美文中尉 ( 32 ) が訪ねて来る。
第五中隊は前日から市電通りの向い側、米国大使館の傍にある大倉高商に蹶起軍包囲の布陣を張っていた。
小林は江戸っ子で竹を割ったような性格から安藤とは馬が合う。
「 小林、昨晩、秩父宮殿下が弘前からお出ましになった。陛下とも宮中で会われている。
誰か青山御所に行ってくれないか。お話さえ出来れば、直ぐ解決するのだがなァ 」
ロビーの大きな籐椅子に座ったま安藤の表情は明るかった。
平泉教授の起死回生の建議に未来を賭けていたのだろう。
「 そう簡単に拝謁できるものかネ 」
「 いや小林、簡単だ。
この事件を起す時には、予め殿下に御連絡すれば、直にお出になると言われておったんだ。
誰かいってくれないか・・・・」 ・・・小林美文・憲兵調書


« 二十八日 »

正午、近衛貴族院議長が御学問所で拝謁する。
蹶起軍にとっては起死回生となる平泉教授の建議を携えてのことだ。
この拝謁者は日頃からリラックスした物腰だった。
近衛家の第三〇代当主、近衛文麿 ( 44 ) は
身長一七〇センチの長身で足を組み、深々と椅子の背もたれに寄りかかる。
天皇の前で足を組んだ者は他に例を見ない。
侍従たちが部屋を片付ける際、
近衛公の拝謁後だけは、絹張りの椅子の背もたれに温もりがあったと云う。
他者ならば浅く腰掛けて、背もたれなど使わない。
この態度は
摂政関白となる五摂家の筆頭、
万葉集にも登場する藤原北家に発している家柄というプライドから来るのか、
それとも 革新派を標榜する政治的な姿勢がなせる業なのか。
拝謁に使用される一の間と待機する二の間の境には 六曲の金屏風が立てられていた。
つまり 二の間からは金屏風に妨げられ天皇が玉座にいるかどうか判らない。
やがて侍従が誘導して天皇が二階御政務室から階段を下りてお出ましになる。
その玉座に座るタイミングと拝謁者が一の間に進み着席するタイミングが一致することが理想とされた。

この日、近衛は挨拶もそこそこにズバリ切り込んだ。
「 お上、蹶起軍の鎮圧が進みませぬが、いかに・・・・」
「 近衛、予は参っておる。
暴徒を鎮圧するために戒厳令を布いたにもかかわらず、遅々として作戦が進まぬ。
討伐の奉勅命令を今朝ほど戒厳司令官に下達してあるのだが・・・・」
天皇は明らかに憔悴していた。
玉座と拝謁者の椅子の間には小机が置かれ、龍村織のテーブルクロスが掛けられる。
玉座の背後には大理石のマントルピースがあり、電熱器が燃えていた。
「 暴徒なるかどうかは別として、
お上、戒厳司令官の香椎を更迭なさりませ 」
「 香椎を更迭 ?  とすると、後任は ? 」
昭和天皇の窪んだ眼がやや光を帯びた。
近衛はかまわず真ん中に直球を投げる。
「 秩父宮殿下を鎮圧を前提とした戒厳司令官になさりませ 」
「 なに!  秩父?・・・・なぜ秩父を戒厳司令官などに!」
天皇が驚きを露にした。
オールバックの黒髪も隆々、脂ぎった表情の近衛が驚きを無視するかのごとく平然と云う。
「 蹶起軍を直ちに鎮圧するためです。
職名は鎮圧司令官でもよろしいでしょう。
蹶起将校たちは、宮城前広場にて速やかに自決させます。
ただし武士の情け、侍従武官を差遣さけんなさりませ。
下士官兵は原隊に帰順。
責任は問いませぬ。
しかる後、蹶起将校らの心情を汲み、その訴えを聴いて、
政治の流れを変え、維新の精神に戻るべきでしょう。
不肖、近衛もそのためなら労苦を厭いませぬ 」
近衛が一〇歳年下の天皇に悠然と話し終わると、天皇の声がオクターブ高くなる。
「 それはなにを申すのか!
暴徒の論理など聴くに及ばぬ!
秩父との議論は五・一五事件のあとでこりごりだ。
土台、香椎は中将ではないか。
秩父はたかが陸軍少佐の身で なにゆえ戒厳司令官に就けるのか。
釣り合いがとれぬではないか!」
近衛は天皇の感情的な発言にいささか ムッ となったものの、
勤めて平静を装って語る。
「 お上が勅令で就任させるのです。
ここは超法規的な措置です。
その上で、昭和維新に邁進する勅語をお出しなさりませ。
未来はアジアの盟主として羽ばたかなくてはなりませぬ。
アジア各国の有色人種が欧米の白色人種の植民地主義から訣別する、世界新秩序の時代です。
アジア維新です。
それを我が国が率先するのです。
従来の英米協調主義では日本の未来は立ち行かぬ新時代が到来します 」
昭和天皇の唇が震えていた。
「 昭和維新など必要ない!
暴徒を鎮圧し、軍部を刷新すれば充分ではないか。
予は明治天皇の遺訓である 立憲政治を踏みにじるつもりは毛頭ない!」
近衛が鷹揚おうように構えながらも、やや苛立たしさを隠そうとせず直言する。
「 陛下、周囲をよくご覧なさりませ。
瑞穂の国が疲弊しております。
満洲の派遣部隊で戦死者が出る。
遺骨が故郷の聯隊に帰って合同慰霊祭をやる。
ところが遺骨が営門を出たとたん、遺族が遺骨を奪い合うのです。
なぜか?
国から出る弔慰金目当てです。
ひどい父親はハガキで前線の息子に 死んでくれ とまで云って来る。
兵士の供給源たる農民の困窮は由々しき事態です。
しかるに既成政党の腐敗は深刻です。
党利党略に堕し、国益を求める志などどこにも見当りませぬ。
今日の議会政治には明らかに限界がありましょう。
決起将校たちが抱く焦燥感には汲むべきものがあります 」
「 近衛は気楽な立場であれこれ云えよう。
朕はそうは行かない。
憲法に則った立憲君主制の国是を崩せばなにが起きるか判らない。
そのような暴挙は出来かねる!」
近衛は昭和天皇をまっすぐ見つめて口を開く。
最後通告と心中では思ったことだろう。
「 陛下、よろしいですか。
内外の事態は急を告げております。
事件の評価は措くとしても、輔弼による政治の最大の欠点は統合性に欠けることでありましょう。
とりわけ外交と軍事という本来、連動すべき二つの大車輪が実態としてはバラバラでしかない。
戦略的な有効性をあげ得ない。
ここは立憲政治を見限り、お上が中心となり君主親政をお進めなさるのが先決かと存じます。
繰り返しますが 不肖、近衛もそのためなら労苦を厭いませぬ 」
昭和天皇は真一文字に口を結び黙して語らない。
近衛はこれ以上の言上はムリと思ったのであろう。
組んだ足を閉じ 腰を浮かしかかった。
そのときだ。
天皇が呻くように言葉を洩らすのだった。
「 近衛、そちは 朕を宮中に押し込めて、秩父の御世を画策しておるのではないか。
壬申の乱の如き、兄弟が相食む争いを起そうとしているのではあるまいな 」
近衛はあっけにとられ、しばし言葉を忘れた。
我に返ると、すでに天皇が焦燥しきった表情で立ち上っている。
頭を下げた近衛は後ろ姿を見送った


陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ

2020年05月20日 18時06分08秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達

そして暗黒裁判に
陸軍創設以来、かつてなかったこの一大不祥事件は 
天皇の激怒をうけ、
天皇は陸軍に対する不信を表明された。
事件終結後、
川島陸相に対し、
陸軍は国威を失墜し皇軍の歴史と伝統に一大汚点を印したるものと認める。
陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ。
との 厳しい言葉があった。
陸軍は、真に恐懼して その禍根の徹底的粛正 に のり出した。
したがって この事件処理は非情峻厳をきわめ、
いやしくも 革新運動に関係のあった全軍の将校はことごとく検挙せられ、
あるいは検挙せられないまでも
一応は所属部隊長の調査をうけ
それぞれ行政処分に付されたのであった。

二十九日
兵をかえして陸将官邸に集まった反乱将校たちは、
その夕刻渋谷の軍刑務所に送られた。
また、原隊にかえった千三百五十八名の兵隊たちは 一様に隔離収容された。
そして、この反乱事件の司法的処理のためには
三月四日
緊急勅令をもって東京軍法会議法が公布され、
陸軍はこれに基づいて東京に 「 東京軍法会議 」 を 開設した。
この事件のみを管轄する軍法会議である。
だが、この軍法会議はその裁判の構成、審判などすべて
特設軍法会議の原則を適用するものであった。
緊急勅令は
「 陸軍軍法会議法ノ適用ニツイテハ之ヲ特設軍法会議ト見做ス 」
と 既定したのである。
そもそも、特設軍法会議というのは、
戦地または戒厳地域に設けられるもので、
その内容はすこぶる簡明直截で公開の原則や弁護制度も認められていないし、
しかも一審制である。
いわば裁判というも おおよそ近代的な訴訟、審判制度ではなかったのである。
それは勿論戦場や急迫る地域における軍司法の要請に応ずるもの、
これがこの事件に適用されたところに最初から問題があった。
事実、この事件の司法的処理のために、
このような特設軍法会議を設置する必要があったかどうか。
これを全軍的一途の方針のもとに処理するためには、
一個の独立した軍法会議を必要としたことは首肯できても、
しかし、これをもって戦地に準ずる軍法会議を設けたことは、
彼らの弁護を封じ 簡単にかたづけるといった意図以外に意味はない。
それは戒厳令下における迅速な事件処理という名目に飾られてはいたが、
こうした裁判形式を用いたこと自体、初めから軍の企図は察知できることであった。
世に、この裁判を目して暗黒裁判というも、正に然りである。
さて、参加下士官の取扱いについては寛大な処理がとられた。
いうまでもなくそれらは彼らの多くが命令をもって連れ出されたという事実、
たとえもし革新意慾に燃え積極的に参加したとしても、
それは自己の自由意思によって革新意慾をもつに至ったものではない、
たまたま徴 兵によって入隊した、
そこに革新将校の訓育によって醸成せられたもの、
もし 彼らが他部隊、他中隊に入隊しておれば、
かような事態にをひきおこすことはなかったであろう。
だから純粋な意味での自由意思による犯意を肯定することは酷である。
こうして 彼らは三月一日から
市内所在の近衛、第一師団各隊の兵営内に十数個所の臨時訊問所が設けられ、
一千数百名に上る下士官兵は数日にわたって憲兵の訊問をうけ、
殺人、上官暴行などの容疑者を除いて一斉に釈放された。
その軍法会議に送致された者、兵三十名、元准士官下士官八十九名、
見習医官下士官五名、合計約百三十名であった。
だが、これらの准士官以下にしてもその後の検察官の取り調べによって、
起訴された者 下士官二、元准士官下士官七十三、兵十九名 合計九十四名となった。
しかも、これらは裁判の結果、
准士官 下士官にして実刑を科せられた者わずかに十八名(最高十五年最低二年)、
執行猶予者二十七名(禁錮二年及至一年半)、
兵では有罪がたった三名でいずれも執行猶予となった。
すなわち 准士官 下士官四十四、兵三が有罪となり、
その約半数以上が執行を猶予されたのである。
たしかに下士官兵は軽かった。寛大にすぎる断罪であった。

だが、反乱将校には厳罰だった。
これ等将校二十名はすでに二月二十九日付をもって、位記返上、免官となった
陸相官邸で自決した野中大尉、熱海陸軍病院で自刃した河野大尉を除く
生存者十八名は、
シャム公使館附近に待機して高橋蔵相襲撃には直接参加しなかった今泉少尉、
それに村中、磯部、水上らの常人十人と ともに起訴、
予審に付され、
七月五日判決の言い渡しがあった。
香田大尉以下十三名は死刑、
麦屋少尉以下五名は無期禁錮、
山本又少尉のみは十年、
村中らの常人は、村中、磯部、渋川、水上が死刑
その他は禁錮十五年という重刑だった。
それは きびしさを通りこして過酷に近いものであった。
しかも、直接行動者の起訴された者
下士官兵を加えて百二十三名の大量を、
僅々百日以内をもって捜査、起訴、予審、審判といったものをかたずけたのであるから、
まさに驚嘆すべき迅速さであった。

この第一次直接参加者の処罰につづいて、
七月三十一日第二処分を発表したが、
反乱者を利したものとして、
山口大尉(無期禁錮) 以下将校六名が四年及至六年の禁錮刑に処せられた。
更に翌年一月十九日には 
満井佐吉、齋藤瀏、菅波三郎、大蔵栄一、末松太平といった将校七名が、
それぞれ五年以下の禁固、常人関係としいは福井幸ほか六名が三年以下の禁錮となった。
この場合、
大蔵大尉の如きは遠く朝鮮の辺境で将校団の若いものに働きかけたというので禁錮四年、
末松大尉の如きも青森から電報で激励したというので禁錮四年
と いうものであるから、
反乱将校と同志関係にあった青年将校は、根こそぎに厳罰に処せられたということになる。

昭和十二年八月一四日、
軍法会議は北一輝、西田税に死刑、亀川哲也に無期禁錮、
そして山形農民同盟の中橋照夫に禁錮三年を言渡し、
ついで
九月に入って、
真崎大将の無罪を判決した。
こうして
東京軍法会議は一年八カ月にわたって、この事件の審理にあたったわけであるが、
その間、
有罪とした者 
軍人関係七十九名、常人関係二十一名、総計百名に及んだのであり、
なかんずく、死刑十九、無期七、という重刑者を出しているのである。
もって、この軍法会議が、いかに峻烈過酷であり、
しかもその裁判の進行が拙速主義に徹したかを、
うかがい知ることができる。
まさしく暗黒裁判であった。

一方、事件の行政責任については、
三月六日、
林、荒木、真崎、阿部の四軍事参議官は待命となり、
つづいて 関東軍司令官南次郎大将も、
また、陸軍大臣川島大将、侍従武官長本庄大将も軍を去った。
四月に入ると、
戒厳司令官香椎中将、憲兵司令官岩佐緑郎中将、近衛師団長橋本中将、
第一師団長堀丈夫中将らも待命となり、
さらに 反乱部隊をだした歩一、歩三両聯隊長、歩一、歩二両旅団長らも責任退職をした。
こうして 陸軍の首脳は
西教育総監、寺内陸軍大臣、植田関東軍司令官の三大将を残すのみとなった。
さらに
この年八月
寺内陸相による粛軍人事は約三千余名に上る大移動だった。
第四師団長建川美次中将、陸軍大学校長小畑敏四郎中将をはじめとする、
かつての革新運動におどった人々は、それが佐尉官級にまで粛正せられたのである。
しかし 過去においてとかくの革新のいわくつきの人々を一掃したという、
この 粛軍人事も皇道派には重かった。
そこには、もはや皇道派と名のつく人々の存在を許さなかったのである。
だから、この粛正も必ずしも公正ではなかった。
いや抜本的なものでなかった。
そこでの思想粛正は必然的に、
かつての三月事件、十月事件にも及ぼすべきであったのに、
それらの幕僚はしゃあしゃあと闊歩していた。
そしてこの粛正を尻目に、寺内を推したてて革新政治に広田内閣を押しつぶした。
ここにこの粛軍の不徹底さと根本的な誤謬があった。
いうまでもなく、この粛軍はそれが軍のもつ禍根の一掃であるならば、
必然にこの軍のもつ「革新政治」的体質を洗い清めることであった。
それはそこでの司法的処理や行政責任の追及だけではなかった。
より根源的なこの昭和陸軍のもつその政治体質の脱皮であった。
だが、寺内軍政は青年将校に代って革新政治におどり出た。
いまにして思う、
このときこの根源的な真に抜本的なる軍の粛正が謙虚に行われていたならば、
あの一二 ・八の開戦も、八 ・一五の敗戦も、いやこの国の亡国も、
この国の歴史の中には書かれることがなかったであろうに。

二・二六事件 大谷敬二郎 著より


伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」

2020年05月16日 19時03分08秒 | 大御心


伏見宮
( 二十六日 ) 午前八時すぎ、
眞崎は陸相官邸を出て、近くの紀尾井町の伏見宮邸へ車で行った。
加藤はすでに來ていた。
眞崎は伏見宮に、陸相官邸で見聞した狀況を報告した後、
「 事態はかくのごとくなりましては、もはや臣下にては収拾できません。
 強力なる内閣をつくって、大詔渙發により事態を収拾するようにしていただきたい。
一刻猶予すればそれだけ危險です 」
と 進言した。
強力な内閣とは、軍部内閣か、軍部と一體の擧國一致内閣である。
大詔は、集團テロを實行した將校らは法に從って斷罪するが、
大權の發動によってその罪を赦すことにする、 というものである。
眞崎の進言は、事件を惹き起こした將校らの主張とするものであった。

このころの農村の窮状が言語に絶するものであったことは事實で、岡田啓介は、戰後、つぎのように語っている。
「 冷害によるその年 ( 昭和九年 ) の東北農村の惨狀はかつてないほどで、
 いま思い出しても涙を催すような哀話ばかりだつた。
東北地方から上野に着く汽車で、毎日のように身賣りする娘が現れたのもそのころで、
身売り防止運動がさかんに行われていた。
雪が降っているのに子供はゴム靴すれ履けない。
凶作でなんにも食べるものがないから、わらびの根を漁あさたり、飯米購入費の村債を起す村も多い・・・。
こういつた農村の苦しみは、直接ではないにしても、二 ・二六事件の原因になったと思う。
軍を構成しているものは農村靑年であり、その農村が疲弊しては軍隊は強くならん。
そういつたことが若い將校の革命思想をつくることに影響したようだ 」

午前九時十分、
伏見宮は自分の車で、
加藤賢治は金子憲兵伍長が同乗する眞崎甚三郎の車で、
伏見宮邸を出發して、宮城に向かった。
伏見宮と眞崎の車は、午前九時二十五分、宮城の侍従武官府に到着した。
參内して天皇と會見した伏見宮が何を話したか、詳しくは分らない。
木戸幸一は日記に、つぎのように書いた。
この當時の木戸は、暗殺された齊藤實内大臣 ( 昭和十年十二月二十六日から ) の 秘書官長である。
「 朝、軍令部總長の宮が御參内になり、速かに内閣を組織せしめられること、
 戒嚴令は御發令にならざる様にせられたきこと等の御意見の上申あり、
且つ 右に対する陛下の御意見を伺はる。
陛下は自分ノ意見ハ 宮内大臣 ( 昭和八年二月十五日から湯淺倉平 ) ニ 話シ置ケリ
との御言葉あり。
殿下より重ねて宮内大臣に尋ねて宜しきやの御詞ありしに、
ソレハ保留スル
との御言葉なりし由、
右は武官府の手違いにて、單に情況を御報告なさるとの意味にて拝謁を許されたるなり 」

「 戒嚴令は御發令にならざる様にせられたきこと 」
というのは、
「 御發令なさる様に・・・・」
と 上申したのがほんとうではないかという設もあるが、眞相は不明である。
しかし、いずれにしても天皇は、伏見宮に自分の考えを話さなかったし、
宮内大臣から聞くこともなかつた。
このような問題は、軍令部總長が容喙ようかいるものではなく、
また 伏見宮の意見はまちがっている、
と 思ったからであろう。
天皇はただ、
「 マズ事件ヲスミヤカニ鎭定セシメヨ 」
と 命じた。
靑年將校らが部隊を獨斷で動かし、
重臣、閣僚たちを襲撃殺傷したことは、
反逆と斷定していたのであつた。

少しのちの三月四日、
天皇は午前九時に本庄侍從武官長をよび、要旨、
「 最モ信頼スル股肱ノ重臣オヨビ大將ヲ殺害シ、
自分ヲ眞綿デ首ヲ締メルガゴトク苦悩セシムルモノデ、ハナハダ遺憾ニ堪エナイ。
ソノ行爲ハ、憲法ニ違たが ( 統帥権を蹂躙した )、
明治天皇ノオ勅諭ニモ悖もと ( 「 世論に惑わず政治に拘らず 」 という  )、
國體ヲ汚シ、ソノ明徴ヲ傷ツケルモノデ、深ク憂慮スル。
コノ際十分に肅軍の実實を擧ゲ、再ビカカル失態ノナキヨウニシナクテハナラナイ 」
と 戒めている。
國體明徴、統帥權確立を騒ぎ立てる者が、最もそれに違反することをやる、と 感歎したのである。
昭和十年二月、美濃部達吉博士の 「 天皇機關説 」 に 對して、
陸軍の眞崎、海軍の加藤、それに政友會などが、「 崇高無比な國體と相容れない現説 」
と 神がかり的になって、猛烈な排撃運動を起した。
政党がこのようなことに走るのは、自らの理論的基盤を破壊する自殺行爲だが、
政友會はかつて 「 統帥權干犯 」 で 浜口内閣を倒そうとしたのと同じように、
「 國體明徴 」で岡田内閣を倒そうとしたのである。
この騒ぎの最中、天皇は侍從次長の広幡忠隆に、
「 機關説排撃論者が自分を機關にしてしまっている。何と言っても自分の意志を遵奉してくれない 」
と、歎かわしそうに語っていた。
四月二十三日の朝には、侍從長の鈴木に、
「 主權 ( 統治權 ) が 君主にあるか國家にあるかということを論ずるならまだ事がわかっているけれども、
ただ機關説がよいとか惡いとかいう議論をすることは、はなはだ無茶な話だ。
君主主權は、自分から言えば、むしろ國家主權の方がよいと思うが、
日本のような 君國同一の國であるならば、どうでもよいじゃないか。
君主主權はややもすれば専制に陥りやすい。・・・・」
と、意中を洩らしている。

このような天皇に、伏見宮が眞崎から言われたとおりに、
「 ・・・もはや臣下にては収拾ができません。強力なる ( 平沼か眞崎首班の ) を つくって、
 大詔渙發により事態を収拾するようにしていただきたい・・・・」
と 意見具申をすれば、結果は明らかであろう。
伏見宮、加藤、眞崎の天皇に對するはなはだ見當ちがいの工作は、完全に失敗に終わった。
天皇の前から引き下がった伏見宮は、加藤や眞崎に、
「 事件をすみやかに鎭定せよということであった 」
とだけ告げた。
加藤と眞崎は、事敗れたと知って、暗然とした。
天皇の命令で反亂軍を鎭定することになった伏見宮は、
海相の大角らと協議し、勅裁を得て、海軍部隊を配置に就かせることにした。

昭和天皇に背いた
伏見宮元帥
生出寿著 から


自殺するなら勝手に自殺するがよかろう

2020年05月12日 18時03分25秒 | 大御心

村中、香田らが師団司令部から陸相官邸にかえって間もなく、
山下少将があわただしく官邸にやって来た。
そしてすぐ青年将校は集まれという。
香田、村中、栗原らは鈴木大佐、山口大尉の立会いで山下少将と会った。
山下は沈痛な面持ちで、
「 奉勅命令の下令は、いまや、避けられ得ない情勢に立ち至った。
もし、奉勅命令が下れば、お前たちはどうするか 」
一同、ことの以外に唖然として答えるものがない。
「 奉勅命令が出たとなればわれわれはこれに従うより外に途はない。
 われわれの国体信念は陛下にたてをつくことはできない 」
というのが、暗黙の間に通ずる彼らの支配的な意見だった。
だが、誰も発言しない。
沈うつな空気がこの場をおおっていた。
そこへ戒厳司令部からかえった磯部がとび込んで来た。 
そして、
「 おーい、一体どうするんだ ! 」
と どなりたてた。
村中は磯部に ここでの事の次第を説明した。
「 オレは反対だ、
いま撤退したらこの台上は反対派の勢力に掌握されてしまって、
われわれの蹶起が無意味になる。
それだけではない、もっと悪い事態がおこる。
奴らは われわれを弾圧して自分たちの都合のよいように、軍をつくりかえてしまうだろう 」
この磯部の強い反対で、一応、撤退の空気はくずれてしまった。
もう一度よく協議しようということになって、
山下、鈴木は別室に去り 山口だけは居残った。
彼らは山口を交えて改めてもう一度協議した。
奉勅命令が師団の方では未だ出ないというのに、
幕僚は出たという。どちらが本当かわからない。
これは彼らの おどかしかも知れない。
協議は、ことの真否をめぐって堂々めぐりをしていた。
この暗たんたる前途に対して、もはや、誰も思いきって発言するものがなかった。
この沈黙を破って栗原が、
「 それでは、こうしようじゃないですか、
今一度、統帥系統を経てお上にお伺い申上げようではないか、
奉勅命令が出るとか出ないとか、一向にわれわれにはわからない。
もう一度、陛下の命令を仰いで、一同その大元帥陛下のご命令に服従しましょう。
もし、死を賜わるならば、
侍従武官のご差遺を願い将校は立派に屠腹して、下士官兵のお許しをお願い致しましょう 」
と いって泣いた。

なみいる同志は感動した。
この栗原の発言は一同の胸をひしひしと かきむしったのだ。
突然、山口が大声をあげて泣き出した。
「 栗原、貴様はえらい ! 」
山口はたち上りざま、ツカツカと栗原のところによって肩を抱いた。
栗原も立って山口を抱いた。
二人は頬と頬をくっつけるようにして声をあげて泣いた。
香田も泣いた。
村中も磯部も泣いていた。
磯部は統帥系統を通じてお上にわれわれの真精神を奏上してお伺いするという方針は、
この際、きわめて妥当なものだと感じたので、
「 よかろう、それで進もう 」
と いった。

村中も香田もこれに同意した。
山口が部屋を出て別室の山下と鈴木を呼んできた。
そして山口から改めて栗原の意見を開陳すると、
山下も鈴木も共に涙を流し、
「 ありがとう、有難う 」
と 栗原をはじめ香田、村中、磯部らの手を一人一人固く握りしめた。
そして山下は侍従武官のご差遺には努力しようと約束した。
そこへ、
堀第一師団長と小藤大佐が急ぎ足で入ってきた。
堀中将は奉勅命令が午前八時に実施というのが延期されたので、
香田、村中らの さきの訪問に対しては、
命令は下達されていないと あいまいに答えたのだったが、
それが また正午に実施ということになったので、
驚いて彼らに撤退をすすめにきたのだった。
だが、彼らはそこで栗原の意見を聞いて同じく感動の涙を流した。
もはや、多くをいう必要を認めなかった。
「 奉勅命令は近く下る状況にあるから君らはしりぞいてくれ 」
と いうだけで安心して帰っていった。

人々がこの感激に涙しているとき、磯部はへんな気持ちになっていた。
なんだかおかしい。
人はわれわれが自決するものと決めてかかっているが、
俺は死ぬことに同意したのではない。
もう一度、陛下の御意思を拝するというのだ。
磯部は別室で陛下の上奏文を書きかけている山口大尉の机の前に立って、
「山口さん、上奏文には何と書くのですか、死を賜わりたいなどと書いたら大変ですよ」
山口はけげんそうに磯部を見つめていたが、ちょっと考えて、
「われわれは陛下の御命令に服従します」 と 書いた。
それでも磯部はなお何かいいたげに山口を見守っていた。

彼ら一同が自決することになったというので、
第一師団、戒厳司令部をはじめ軍首脳部も何かしらホッとした。
これですべてが解決されたかに感ぜられたからである。
だが、磯部のこの疑念、何だか話がくいちがっているとしたところ、
のちの形勢逆転の発端があった。
この日の午後一時頃
川島陸相は山下少将とともに本庄武官長を訪問した。
山下が行動将校らは兵を返し 将校は自決するとの決定によって
勅使ご差遺をお願いするためだった。
山下少将は行動将校一同は大臣官邸にあっていずれも 陛下に罪を謝するために自刃し、
下士官兵はただちに原隊に復帰させる予定である。
ついては彼らをしてや安んじて自刃せしめるために、
特に勅使を賜わり  死出の光栄を与えられるよう取りはからわれたい、
と 申し出た。
また、川島陸相からは、
第一師団から部下の兵をもって同じ部下の兵を討つのは
到底忍び得ないところであるという申し出のあったことを報告した。
これはこの日の午前十一時頃 堀師団長が、
戒厳司令官に第一師団は攻撃準備整わないので
討伐開始の延期を申し出たことの心裏を率直に語ったものであった。
本庄武官長は、
陛下が軍の処置に不満の気持を明らかにしておられる今日、
勅使の差遺などは到底不可能であると答えたが、
川島や山下からたってのお願いだと懇請されたので、
やむなく一応これを伝奏することを約束した。
それからすぐ政務室で拝謁し、
山下からの懇願の次第を詳細に言上すると、

陛下の顔はたちまち、
これまで拝したこともないような怒気があふれてきた。
そしてきびしい態度で、武官長をにらみすえられ、
それで陸軍の威信を保ち責任をはたしうると思うのか、
自殺するなら勝手に自殺するがよかろう。
このようなものに勅使などとは、もっての外である。
また、第一師団長が部下を愛するのあまり、
進んで行動をおこすことができないというのは、
みずからの責任を解せざるものである。
もはや、論議の余地はない。
立ちどころに討伐し反乱を鎮定するように厳達するがよい」  ( 本庄日記 )  
と、激しい叱責を受けた。
このような陛下の厳然たる態度は、
武官長就任以来初めてのことで本庄はいたく恐懼感激して御前を退下したという。
・・・大谷敬二郎  二・二六事件 『 陛下の命令に服従します 』 から 

・・・リンク→磯部浅一 『 
行動記 
 第二十一 「 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう 」 


「 彼等は朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 」

2020年05月11日 06時27分40秒 | 大御心

宮中では はじめから天皇の意思ははっきりしていた。
天皇は彼等を叛徒と断定し、しかも急速にこれを討伐せよと大臣、次長さらに政府にもその意思を明示されていた。
陸軍の首脳部がいつまでも鎮圧に出ることなく、モタモタしていることに宮中では、
彼らはどちらを向いているのか知れたものではないと強い非難をあびせていた。
天皇は戒厳司令官の鎮圧措置が緩慢であることに不満だった。
 ・
二十七日午後、本庄武官長を召された天皇は、
これについて彼の意見を求められている。
「 行動をおこしました将校の行為は陛下の軍隊を勝手に動かしましたる意味において、
 統帥権を犯すの甚だしきものと心得ます。
その罪もとより許すべからざることは明白でござりますが、
しかしその精神に至っては
一途に君国を思うに出たるものであることは疑う余地もあるまいと存じます。
よって、武官長個人の考えといたしましては、
今一度説得して大御心の存するところを知らしめることが肝要と心得まする。
戒厳司令官においても武官長と同意見であろうと考えます 」
「 武官長 」
天皇の声は凛として冴えかえっていた。
「 彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか、
かくの如き兇暴な行動を敢えてした将校らをその精神において、何の恕すべきところがあるか、
朕がもっとも信頼する老臣を悉く殺害するのは、朕が首を真綿で締むるのと同じ行為ではないか 」
「 仰せの如く 老臣殺傷は軍人として最悪の行為であることは勿論でございまするが、
 しかし、たとへ彼らの行動が誤解によって生じたものとしても、
彼ら少壮将校といたしましては、
かくすることが国家のためであるという考えに端を発するものと考えます 」
「 もし、そうだとしても、
それはただ私利私慾のためにするものではないというだけのことではないか、
戒厳司令官が影響の他に及ぶことを恐れて、
穏便にことを図ろうとしていることはわかるが、時機を失すれば取りかえしのつかぬ結果になるぞ、
直ちに戒厳司令官を呼んで朕の命令を伝えよ、
これ以上躊躇するならば 朕みずから近衛師団を率いて出動する 」
「 そのように御軫念をわずらわすことは恐れ多き限りでございます。
 早速、戒厳司令官に伝えて決断を促すように致します 」

このような儼乎 ごんこ たる天皇の意思は武官長から戒厳司令官に伝達されたことであろう。
だが、香椎司令官の態度は、なお、はっきりしなかった。
彼の行動には皇道派に偏するものがあり、
その態度は青年将校に同情すること強きものがあったからである。
二十七日朝八時二十分 杉山次長は天皇に拝謁して 「 奉勅命令 」 を仰いだが、
天皇は至極満足にて ただちに、允裁 いんさい になられた。
この時、
「 皇軍相撃は努めて避けたく
目下軍事参議官は軍の長老として所属部隊長とともに
極力反乱軍を説得中でありますので、
奉勅命令を戒厳司令官に交付する時期については
参謀総長に御委任を乞い奉ります 」
と上奏して お許しを得た。
この奉勅命令は、
『 戒厳司令官ハ 三宅坂附近ニ占拠シアル将校以下ヲ以テ速カニ現姿勢ヲ徹シ
 各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ 』
というのであったが、
この命令を下し 彼らが原隊にかえらなければ断乎討伐するというものであった。

大谷啓二郎著  二・二六事件  から


速やかに暴徒を鎮圧せよ

2020年05月10日 17時58分45秒 | 大御心

政治中枢部の動き
軍においては、
このように宮中に集まった軍事参議官たちが事件対策を凝議していたが、
首相官邸を反乱軍に占拠された岡田首相、高橋蔵相を失った政府首脳部はどうしていたのか。
その朝、
木戸内大臣秘書官長は軍事参議官たちが参内しているのに、
政府閣僚は一人も参内していない。
政治の中心を速やかに確立しなくては事件の前後処理もできないので、
広幡侍従次長と協議し、
湯浅宮相の指図で、ともかくも児玉拓相に電話連絡し閣僚の参内を求めた。
こうして閣僚たちは午前から午後にかけてあわただしく参内した。

そして午後四時頃から閣議が開かれ陸相から事件報告がなされた。
川島陸相は
ここでも協力内閣の必要を強調したが、
閣僚の誰一人として耳を傾けるまのはなかった。
これは、
この日の午後、
蹶起将校から
「 われわれを義軍と認めよ 」
「 真崎内閣をつくれ 」
などの要求がなされ、
大臣も強力内閣をつくることに意が動いたが、
統帥部の反対で立ち消えとなった。
するとさらに蹶起将校側から
「 それでは内閣をして国政の大改革を断行することを声明せしめよ 」
との
代案が持ち出され、
これをとり上げて 大臣が閣僚に要求したのだということであった。
その夜九時、

後藤内相は
臨時内閣総理大臣代理に任命せられ、
つづいて閣議において総辞職に決定し後藤大臣より閣僚の辞表を陛下に捧呈した。・・註1
陛下より
「 速やかに暴徒を鎮圧せよ、秩序の回復するまで職務に精励せよ 」 
との言葉があった。

軍首脳部は第一師団管区に戦時警備を実施することに議がなり、
 杉山参謀次長は午後二時二十分これを上奏、
同四時十五分允裁があったのでただちにこれを下令した。
香椎警備司令官は午後三時警備命令を下したが、
これに基づいて出された第一師団命令には、
歩兵第三聯隊長は本朝来行動シアル部隊を併セ指揮シ
担任警備地区ヲ警備シ治安維持ニ任スベシ

とあったし、
また、警備司令官が出した軍隊に対する告示には

本朝来出動シアル諸隊ハ
戦時警備部隊ノ一部トシテ新ニ出動スル部隊ト共ニ
師館内ノ警備ニ任ゼシメラレルモノニシテ
軍隊相互間ニ於テ絶対ニ相撃チヲナスベカラズ
と指示した。
ここに警備命令をもって 反乱部隊を警備部隊に編入して警備に任ぜしめたことが
統帥指揮上注目さるべきものがある。
また、本命令では
彼らは歩三渋谷大佐の指揮に入れられたのであったが、
渋谷大佐が皇道派の同情者でなかったので、
その指揮に入ることはかえって事態を紛糾せしめるものだ
との 山口大尉の進言を入れ、
その夕刻には彼らの信頼する歩一聯隊長小藤大佐の指揮下に入れたのであった。
その夕、統帥部は宇都宮第十四師団の一部の東京派遣に関する允栽を得た。
また、その夜八時四十分には閣議において戒厳令施行を可決した。
戒厳令を布いて討伐態勢を整えることは今朝来作戦課長石原大佐の強硬な意見だった。

その日の午後、東溜りの間で参議官たちが説得策をいじくっている頃、
石原大佐は閣議室の方へ行こうとする川島陸相をとらえて、
「 とにかく早く戒厳令を布きなさい、反乱が全国に飛火したらどうしますか、
全国戒厳です、東京だけでは駄目ですぞ ! 」
「まあまあ、今、閣僚と相談するから」
「この期におよんで相談などと悠長なことは言っておられない、
全国に飛火したら日本はどうなる。一時を争う時です。
すぐ戒厳令の公布を要請しなさい。
何のための帷幄上奏ですか、すぐおやりなさい」
閣議室まで陸相を追っかけて痛言した。
閣僚は石原が入ってきたので、
びっくりして統帥部との直接交渉はおことわりだといった。
しかし この明快な進言を聞いてエライ男だと感心した人もあった。
閣僚中で一番しっかりしていたのは町田商相と望月逓相だったという。
戒厳令は閣議でも難航した。
はじめは海軍も反対するし後藤内相は最も強硬に反対しつづけた。
海軍がしぶしぶ同意し後藤内相も最後に納得してやっと通過したのであった。

内大臣齋藤実の死去によって
一木枢密院議長が午後三時頃参内し 内大臣室にあって側近に奉仕することになった。
これは、陛下の進言によるものだった。
平沼枢密院副議長始め枢密顧問官も相ついで参内したが、
すべて宮中に足止めされていた。
枢密院がその本会議で戒厳令を可決したのは正午少し前だった。
そしてこれが公布されたのは二十七日午前三時であった。
杉山参謀次長は午前一時二十分戒厳司令部の編成、
司令官に警備司令官の指揮転属の件などの裁可をうけたが、
この時、陛下より、

「 徹底的に始末せよ、戒厳令を悪用してはならない 」

との言葉があり、
痛く恐懼して引きさがった。
こうして戒厳司令官は香椎浩平中将、戒厳参謀長安井藤治少将、
そして戒厳司令部は二十七日午前六時九段下軍人会館に設置された。

なおこの戒厳は
その革命の法典といわれていた北一輝の「日本改造法案大綱」以来、
右翼の常套語となっていた。
重臣暗殺、戒厳の施行、そのもとでの革新政策の断行は彼らのクーデターの鉄則だった。
事件の朝、
香椎警備司令官が山下少将の誘導で参内のため三宅坂の司令部を出ようとすると、
附近を占拠していた一将校が走りよって
「 是非、戒厳を布くようにしていただきたい 」
と 懇願したほどで、

彼ら蹶起将校たちは、この戒厳をひそかに待望していたのであった。
宮中での動きをはっきりつかみかねていた彼らであったが、戒厳が施行せられ、
しかも 依然として戒厳司令官の許に麹町地区警備隊の称呼を与えられて
警備を命ぜられたことは、
さきの大臣告示の示達と併せて
彼らをして、事の成功に有頂天ならしめたことも無理のないことであった。

宮中で立案された説得案は、
もともとそれが参議官たちの叛軍説得のためのものであったが、
この説得案は大臣告示として軍首脳部のこの事件に対する意志として公表されてしまった。
即ち 山下少将によって蹶起将校に伝達され、
また、警備司令官の隷下への下達によって軍隊に周知された。
殊に 第一師団にあってはそれが印刷物としてあまねく配布されてしまったのである。
だが、軍の長老たちはこの説得案をもってはあえて説得にあたらなかった。
彼らは依然として宮中に止まり、
進んで占拠地域に挺身して蹶起将校の一人一人を説得することはなかったのである。
そもそも、本来、説得のためにする文案が、
彼らをして 「わが事なれり」 と 凱歌をあげしめたることはどうしたことだろう。
撤退せしめるための説得案が、事実、占拠継続の気勢をあげさせてしまったことは、
はたして軍長老たちの意図外であったのだろうか、
あるいは、そこに一部参議官のかくされた たくらみがあったのだろうか。
ともかくも このことはこの事件処理を最初からあいまいにしてしまったのである。
しかし、大臣告示を示達された彼らも、
山下少将の確答を得られないまま、軍首脳部の態度に、なお一抹の疑惑をもっていた。
何だか ぼやけている。
これを はっきりさせなくてはならない。
そこで彼らは
われらの行動を義軍の義挙と認めよとて、
これを陸軍が正式に決定することを望んだのであった。
古莊次官を通じ 宮中にある大臣に速やかにこの決定を促す要請をしたことは、
これがためであった。

ところで、午後になると陸相官邸には幕僚たちが入れかわり立ちかわり入って来た。
菅波一郎中佐 (菅波三郎の実兄)は 磯部に握手を求めて
「俺は菅波中佐だ、君らはそれほどまでに思っているのか、もうわかった、俺もやる」
と 感激を語る。
同じ参謀本部の土井少佐は、
君等がやったからには我々もやるんだ、
皇族内閣ぐらいつくって政治も経済も改革して、軍備の充実をせねばならなん、
どうだ、われわれと一緒にやろう、
君らは荒木とか真崎とか年寄りとばかりやっても駄目だ、
あんなのは皆やめさしてしまわなければいかん」
などと 威勢はよかったが、
磯部から
「 維新は軍の粛正から始めるべきだ 」
と 逆襲され、

村中からは
「 そんなのがファッショだ、そ奴から先にやっつけねばならん」
などと やじられる一幕もあった。

また、

馬奈木啓信少佐がやってきて、
「われわれもやる、君らは一体どんな考えをもっているのだ」
「われわれは維新内閣を希望する」
「参謀本部には皇族内閣説があるが、君らはこれをどう考えるか」
「皇族内閣は断じて不可、累を皇室に及ぼしてはいけない」
こんな問答も行われていた。
そこへ満井中佐が現れて磯部を呼び、
「磯部! 馬奈木から聞いたか」
「いやあ、皇族内閣ですか、石原案ですか、それなら断じて許しませんぞ」
「俺も同意だ、皇族内閣では君らの精神はいかされない。
このままブラブラしているといけない。
そんな内閣ができてはたいへんだ、これから宮中に行こう、
そして参議官に直接会って話をつけよう」
ちょうど、来邸中の山下少将が参内する手筈になっていた。
村中、香田、磯部の三人は、
満井、馬奈木とともに山下について参内しようと自動車を準備し、
まさに出発しようとしていた時、山下は、
「君等はここで待っていた方がいいだろう、オレが参議官をこちらへつれてきてやるから」
と いささか困惑顔に言うと、さっさと自動車にのり込んでしまった。
磯部は
「ぐずぐずしているとどんなことになるかも知れん、とにかく宮中に行こう」
と いい張り
一同は山下の車のあとを迫った。
だが、
平河門を通行したのは山下少将だけで満井中佐らの一行は通門が許されなかった。
止むなく官邸に戻り軍事参議官の来邸を待つことにした。
宮中に入った山下は軍事参議官にこの空気を伝えた。
とくに軍の長老がいたずらに宮中に逃避し第一線に出向いて彼らを説得しないことは、
時局の収拾を一層複雑困難にするものであることを説いた。
また、山下は彼ら幹部たちが、
軍首脳部において速やかに山下、鈴木、西村、村上、小藤、満井らの意見をきかれたい旨を
希望しておることをつけ加えた

次頁  軍事参議官との会見 「 理屈はモウ沢山です 」  に 続く
大谷敬二郎 二・二六事件 から
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
註1
午後二時頃、宮中で非公式の軍事参議官会議・・・『 陸軍大臣より ( 陸軍大臣告示 ) 』 決定

川島陸相工作 ・本庄侍従武官長工作の瓦解
 ・午後二時前後に宮中に入った古荘次官は川島陸相に再度後継内閣工作を積極化するように進言。
   川島は閣議で暫定内閣の選考を提案したが他の閣僚拒絶。
・この後、後藤文夫首相臨時代理が閣僚の辞表をまとめて天皇に提出してが、
  天皇は、『 現内閣で時局を安定させよ 』 として辞表の受け取りを保留。
  これを天皇が受け取ればたちまち暫定内閣の選考に入り、
  事態は反乱軍に有利に傾くのだから木戸の献言がなければ危いところ。
・川島は本庄侍従武官長を通じて暫定内閣を献言。
  天皇は広幡侍従次長を呼び相談後、 『 すでに現内閣に時局収拾を命じてある 』 としてこれを拒絶。
・・・二・二六事件の考察--日本的クーデターの構想と瓦解  筒井清忠 2014.6.12  から


なにゆえにそのようなものを讀みきかせるのか

2020年05月08日 18時18分14秒 | 大御心

蹶起部隊が占拠する警視庁、首相官邸、議事堂周辺にも、見物の市民が群集していた。
各官庁も概要を知って執務はほぼ中断状態となり、株式取引所は閉鎖され、
新聞記者たちは取材にかけまわった。
そのひとり、
米紙 『クリスチャン・サイエンス・モニター』 極東主席特派員W・チェンバレンも、
警視庁前にやって来た。
早朝、友人の日本人記者が電話で事件を知らせてくれたが、
その話によると、
「 信頼すべき筋の情報だがね。
 ふたりの将軍が白馬にのって全閣僚と元老を殺しているそうだ 」
チェンバレン記者は仰天してとびだし、
外務省、『ジャパンタイムズ』 を 訪ねたが、
正確なニュースは得られずに警視庁前に来たのである。

そして、また びっくりした。
明らかに叛乱軍らしい兵士が集合しているが、
市民男女はその銃口にすりよるようにして見物しているのである。
チェンバレン記者は、インテリ風の紳士に質問した。
「 失礼、革命ですか 」
「 ノー 」
と、相手は予想どおり英語で答えてくれた。
「 天皇陛下の国に革命はありませんよ 」
「 それじゃ、クーデターで?」
「 ノー、天皇陛下の国にクーデターはありません 」
では、革命でもクーデターでもないのに、なぜ軍人が閣僚を殺すのか。
やはり将軍が発狂したのか、と チェンバレン記者は途方にくれた
・・が、じつはこの紳士の回答は事件の本質を意外に的確にとらえていた、
と いえる。


武力を使用しての政治体制の変革をもとめるのがクーデターだとすれば、
昭和維新 という政治改革をめざした 「 二・二六事件 」 もまた、クーデターである。
しかし、
「 ノー 」 と 紳士が首をふったように、
「 二・二六事件 」 は 基本的にクーデターの要件を放棄していた。
クーデターは無法の所為であり、現秩序の破壊行為である。
現に蹶起部隊は六人の高官の殺傷をはかり、首都の一部を占拠する無法行動をした。
ところが、趣意書および要望事項が明示する如く、
蹶起部隊はひたすらその行動が天皇の是認をうけることを望み、
秩序の破戒よりは秩序のなかでの地位をもとめている。
いわば、一種の 「 諫言 」 である。
要望事項は、明らかに陸軍部内における、«皇道派» の 勢力拡大をねらっていて、
その限りではひどく露骨な «私意» を感じさせるが、
青年将校たちにしてみれば、ひたすら天皇を 現人神あらひとがみ 視する教育をうけ、
それに反する意見の持主を 非国民 と信じているのだから、
反皇道派の一掃も天皇のためということになる。
「 尊皇討奸 」 といい、
「 天皇親政 」 といい、
「 昭和維新 」 という
蹶起部隊のスローガンは、

だから、いみじくもそういう青年将校の
諫言クーデター思想を表現しているわけである。

そして、この発想は、
「 君側の奸 」 を 討つことを是認する教育と、
軍内部の皇道的粛正を叫ぶ上級将校の意図にも合致するはずである。

だが
天皇の立場からみれば、
蹶起は明白な叛乱であり、憲法にたいする挑戦となる。
「 大日本帝国憲法 」 は、天皇を統治権の総攬者と定めているが、
同時にその大権はすべて責任者の輔弼によって行使される制限を与えている。
直属する軍隊との関係においても、天皇は大元帥とはいえ、
作戦用兵にかんする統帥大権は陸海幕僚長 ( 参謀総長、軍令部総長 )、
編成にかんする大権は陸海相の輔弼を承認する立場にある。
いいかえれば、
「 大日本帝国憲法 」 は実質的な 天皇不親政 を規定しているのであるから、
天皇親政を叫んで君側の高官を殺すのは、憲法の否定であり、
そこに定められた天皇の権能を破壊することになる。
その意味で、「 二・二六事件 」 が 天皇の心にかなうことを志したとしたら、
なによりもまず天皇の立場にたいする誤解にもとづいていた、といえるであろう。

はたして。
午前九時半、
参内した川島陸相を迎えた天皇の態度は、かつてない怒りと厳しさに満ちていた。
河島陸相は、自室で頭をかかえているうちに来邸した山下奉文少将、
さらに眞崎甚三郎大将に、
はげまされて宮城にやってきた。
眞崎大将は、陸相官邸に到着すると、
「 お前たちの心はヨオッわかっとる、ヨオッーわかっとる 」 と 磯部淺一に声をかけた。
そして、川島陸相に会うと、
テーブルにおかれた 蹶起趣意書 と要望事項の紙片をおさえて、いった。

「 こうなったら仕方ないだろう・・・これでいこうじゃないか 」
川島陸相はうなずき、
天皇に拝謁すると、

事件の経過を報告するとともに 蹶起趣意書 を読みあげた。
天皇の表情は、陸相の朗読がすすむにつれて嶮けわしさを増し、
陸相の言葉が終わると、
ナニユエニ ソノヨウナモノヲ讀ミキカセルノカ
と 語気鋭く下問した。
川島陸相が、
蹶起部隊の行為は明かに天皇の名においてのみ行動すべき統帥の本義にもとり、
また 大官殺害も不祥事ではあるが、陛下ならびに国家につくす至情にもとづいている。
彼らのその心情を理解いただきたいためである、
と 答えると・・・。
今回ノコトハ精神ノ如何ヲ問ハズ甚ダ不本意ナリ。
國體ノ精華ヲ傷ツクルモノト認ム

天皇はきっぱりと断言され、
思わず陸相が はっと頭を下げると
その首筋をさらに鋭く天皇の言葉が痛打した。

朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス 
斯ノ如キ兇暴ノ將校等、其精神ニ於テモ恕ユルスベキモノアリヤ
天皇は、
一刻モ早ク、事件ヲ鎭定セヨ
と 川島陸相に命じ、
陸相が恐懼して さらに拝礼するのをみると、

速ヤカニ暴徒ヲ鎭壓セヨ
と はっきり蹶起部隊を 暴徒 と断定する意向をしめした。
川島陸相が退出したあと、
天皇は二、三十分間おきに本庄武官長を呼んで、

暴徒鎭壓 の処置を催促しつづけた。
陸軍は自分の首を真綿で締めるのか
なぜ明確な処置をとにぬのか、なにをしているのか
・・・と、天皇は怒りと焦慮を荒い足どりに顕示しながら、室内をぐるぐると歩きまわった。
・・・以上  児島襄 著  天皇 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
川島陸相の上奏要領
一、叛亂軍の希望事項は概略のみを上聞する。
二、午前五時頃 齋藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡邊教育總監、牧野伯を襲撃したこと。
三、蹶起趣意書は御前で朗讀上聞する。
四、不徳のいたすところ、かくのごとき重大事を惹起し まことに恐懼に堪えないことを上聞する。
五、陛下の赤子たる同胞相撃つの惨事を招來せず、出來るだけ銃火をまじえずして事態を収拾いたしたき旨言上。
陛下は この事態収拾の方針に関しては 「 宜よ し 」 と 仰せ給う

「 事件勃發當初は蹶起部隊を叛亂軍とは考えず。

 その理由は下士官以下は演習と稱して連出されたのものにして、叛亂の意思に出でたるものにあらずして
ただ將校が下士官以下を騙して連出し人殺しをなしたるものと考えいたり。
したがって蹶起部隊全體をもって叛亂軍とは考えず。
またこれを討伐するは同胞相撃となり、兵役關係は勿論、對地方關係等 今後に非常なる惡影響をもたらすものと考えたり。
また 蹶起部隊は命令に服從せざるに至りたるときは叛徒なるも、
蹶起當時においては いまだ叛亂軍と目すべきものにあらずと 今日においても考えあり  」
・・川島陸相訊問調書