あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

伏見宮 「 大詔渙発により事態を収拾するようにしていただきたい・・」

2020年05月16日 19時03分08秒 | 大御心


伏見宮
( 二十六日 ) 午前八時すぎ、
眞崎は陸相官邸を出て、近くの紀尾井町の伏見宮邸へ車で行った。
加藤はすでに來ていた。
眞崎は伏見宮に、陸相官邸で見聞した狀況を報告した後、
「 事態はかくのごとくなりましては、もはや臣下にては収拾できません。
 強力なる内閣をつくって、大詔渙發により事態を収拾するようにしていただきたい。
一刻猶予すればそれだけ危險です 」
と 進言した。
強力な内閣とは、軍部内閣か、軍部と一體の擧國一致内閣である。
大詔は、集團テロを實行した將校らは法に從って斷罪するが、
大權の發動によってその罪を赦すことにする、 というものである。
眞崎の進言は、事件を惹き起こした將校らの主張とするものであった。

このころの農村の窮状が言語に絶するものであったことは事實で、岡田啓介は、戰後、つぎのように語っている。
「 冷害によるその年 ( 昭和九年 ) の東北農村の惨狀はかつてないほどで、
 いま思い出しても涙を催すような哀話ばかりだつた。
東北地方から上野に着く汽車で、毎日のように身賣りする娘が現れたのもそのころで、
身売り防止運動がさかんに行われていた。
雪が降っているのに子供はゴム靴すれ履けない。
凶作でなんにも食べるものがないから、わらびの根を漁あさたり、飯米購入費の村債を起す村も多い・・・。
こういつた農村の苦しみは、直接ではないにしても、二 ・二六事件の原因になったと思う。
軍を構成しているものは農村靑年であり、その農村が疲弊しては軍隊は強くならん。
そういつたことが若い將校の革命思想をつくることに影響したようだ 」

午前九時十分、
伏見宮は自分の車で、
加藤賢治は金子憲兵伍長が同乗する眞崎甚三郎の車で、
伏見宮邸を出發して、宮城に向かった。
伏見宮と眞崎の車は、午前九時二十五分、宮城の侍従武官府に到着した。
參内して天皇と會見した伏見宮が何を話したか、詳しくは分らない。
木戸幸一は日記に、つぎのように書いた。
この當時の木戸は、暗殺された齊藤實内大臣 ( 昭和十年十二月二十六日から ) の 秘書官長である。
「 朝、軍令部總長の宮が御參内になり、速かに内閣を組織せしめられること、
 戒嚴令は御發令にならざる様にせられたきこと等の御意見の上申あり、
且つ 右に対する陛下の御意見を伺はる。
陛下は自分ノ意見ハ 宮内大臣 ( 昭和八年二月十五日から湯淺倉平 ) ニ 話シ置ケリ
との御言葉あり。
殿下より重ねて宮内大臣に尋ねて宜しきやの御詞ありしに、
ソレハ保留スル
との御言葉なりし由、
右は武官府の手違いにて、單に情況を御報告なさるとの意味にて拝謁を許されたるなり 」

「 戒嚴令は御發令にならざる様にせられたきこと 」
というのは、
「 御發令なさる様に・・・・」
と 上申したのがほんとうではないかという設もあるが、眞相は不明である。
しかし、いずれにしても天皇は、伏見宮に自分の考えを話さなかったし、
宮内大臣から聞くこともなかつた。
このような問題は、軍令部總長が容喙ようかいるものではなく、
また 伏見宮の意見はまちがっている、
と 思ったからであろう。
天皇はただ、
「 マズ事件ヲスミヤカニ鎭定セシメヨ 」
と 命じた。
靑年將校らが部隊を獨斷で動かし、
重臣、閣僚たちを襲撃殺傷したことは、
反逆と斷定していたのであつた。

少しのちの三月四日、
天皇は午前九時に本庄侍從武官長をよび、要旨、
「 最モ信頼スル股肱ノ重臣オヨビ大將ヲ殺害シ、
自分ヲ眞綿デ首ヲ締メルガゴトク苦悩セシムルモノデ、ハナハダ遺憾ニ堪エナイ。
ソノ行爲ハ、憲法ニ違たが ( 統帥権を蹂躙した )、
明治天皇ノオ勅諭ニモ悖もと ( 「 世論に惑わず政治に拘らず 」 という  )、
國體ヲ汚シ、ソノ明徴ヲ傷ツケルモノデ、深ク憂慮スル。
コノ際十分に肅軍の実實を擧ゲ、再ビカカル失態ノナキヨウニシナクテハナラナイ 」
と 戒めている。
國體明徴、統帥權確立を騒ぎ立てる者が、最もそれに違反することをやる、と 感歎したのである。
昭和十年二月、美濃部達吉博士の 「 天皇機關説 」 に 對して、
陸軍の眞崎、海軍の加藤、それに政友會などが、「 崇高無比な國體と相容れない現説 」
と 神がかり的になって、猛烈な排撃運動を起した。
政党がこのようなことに走るのは、自らの理論的基盤を破壊する自殺行爲だが、
政友會はかつて 「 統帥權干犯 」 で 浜口内閣を倒そうとしたのと同じように、
「 國體明徴 」で岡田内閣を倒そうとしたのである。
この騒ぎの最中、天皇は侍從次長の広幡忠隆に、
「 機關説排撃論者が自分を機關にしてしまっている。何と言っても自分の意志を遵奉してくれない 」
と、歎かわしそうに語っていた。
四月二十三日の朝には、侍從長の鈴木に、
「 主權 ( 統治權 ) が 君主にあるか國家にあるかということを論ずるならまだ事がわかっているけれども、
ただ機關説がよいとか惡いとかいう議論をすることは、はなはだ無茶な話だ。
君主主權は、自分から言えば、むしろ國家主權の方がよいと思うが、
日本のような 君國同一の國であるならば、どうでもよいじゃないか。
君主主權はややもすれば専制に陥りやすい。・・・・」
と、意中を洩らしている。

このような天皇に、伏見宮が眞崎から言われたとおりに、
「 ・・・もはや臣下にては収拾ができません。強力なる ( 平沼か眞崎首班の ) を つくって、
 大詔渙發により事態を収拾するようにしていただきたい・・・・」
と 意見具申をすれば、結果は明らかであろう。
伏見宮、加藤、眞崎の天皇に對するはなはだ見當ちがいの工作は、完全に失敗に終わった。
天皇の前から引き下がった伏見宮は、加藤や眞崎に、
「 事件をすみやかに鎭定せよということであった 」
とだけ告げた。
加藤と眞崎は、事敗れたと知って、暗然とした。
天皇の命令で反亂軍を鎭定することになった伏見宮は、
海相の大角らと協議し、勅裁を得て、海軍部隊を配置に就かせることにした。

昭和天皇に背いた
伏見宮元帥
生出寿著 から


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