あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「年寄りから、先ですよ」

2017年09月13日 09時57分17秒 | 相澤三郎


相澤三郎
« 「 年寄りから  先ですよ 」・・末松大尉の話 »

五 ・一五事件のとき相澤中佐は、
そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、中村中尉らをいさめ、
「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。

「 年寄りから先ですよ 」 は 前から相澤中佐の口癖であり信念だった。
私が満洲事変から帰って東京にでたとき、
相澤中佐は中耳炎で慶応病院に入院していたのが全快して退院するところだった。
澁川善助に案内されて私が病室をたずねたときは、
相澤中佐は後片付けも終わり、病院をでようとして、羽織袴姿になったところだったが、
そばにいた夫人が澁川に
「 いろいろとお世話に・・・・」 と 礼をいいかけると
「 そんな礼などいっても仕方ないよ。口の先きでいくらいっても追っつくことじゃない 」
と、むしろ苦りきって、夫人の口を抑えた
・・・リンク→相澤中佐の中耳炎さわぎ

相澤中佐は九死に一生の命を、東京の同志の献身によって助かったと思いこんだ。
これからの自分の命は、若い人たちからの預りものだと思いこんだ。
たしかに渋川などは 特に献身したであろうが、
このとき以来、
いよいよ 「 年寄りから  先ですよ  」
が 相澤中佐の堅い信念になった。

「 年寄りから  先ですよ  」
は 「 若いものは先立った年寄りにつづけ 」
ということではなかった。
「 神武不殺 」 とはいえ、
革新への突破孔を開くために、
どうしても犠牲が必要とすれば、
自分がそれになって、
愛すべき若い人々の散ろうとするのを防ごうとすることだった。


末松太平 著
私の昭和史 から


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