あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

山口一太郎 『 別格 』

2021年11月24日 12時32分26秒 | 山口一太郎

奉直命令が出たとの風評が陸相官邸に伝わってきたのは、二十七日夜も更けてのことであった。
その頃反乱部隊将兵は昨日来の疲労で各所に分宿してぐっすり眠っていた。
ちょうど、陸相官邸に居合せてこの噂を聞いた山口大尉は驚いて、
早速 鈴木貞一大佐、小藤大佐と相談した。
もし事実とすれば大変な事だ。
すぐにも戒厳司令官に強談してこれを喰い止めねばならない。
彼らは深夜の闇わついて三宅坂から九段下の司令部についた。
小藤大佐らはすでに用意されていた二階の司令官室に通され、
戒厳参謀列席の上で意見を具申した。
午前三時頃であった。
まず 鈴木大佐が口を開いて、
「 今となつて弾圧は考えものだ、軍は昭和維新へと推進すべきだ 」
と 所信を述べた。
次いで小藤大佐が立って 「 弾圧不可 」 を くどくどしく訴えた。
このあとをうけて
山口大尉が えらい気合いでまくしたてた。
「 今、陸相官邸を出て陸軍省脇の坂を下り三宅坂下の寺内銅像の前にさしかかると、
バリケードがつくってあった。
半蔵門前からイギリス大使館の前にかけては部隊がたむろしている。
戦車も散見する。
あのバリケードは何のためのバリケードだろうか。
あの部隊は何のための部隊だろうか、
そして物かげにかくれている戦車はどんな意味なのだろうか。
聞くところによれば、
明日蹶起部隊の撤退を命じ 聞きいれなければこれを攻撃されるという。
蹶起部隊は腐敗せる日本に最後の止めをさした首相官邸を神聖な聖地と考えて、
ここを占拠しておるのである。
そうして昭和維新の大業につくことを心から願っているのに 彼らを分散せしめて
聖地と信じている場所から撤退せしめるというのはどういうわけであろうか。
しかも、彼らは既に小藤部隊に編入され警備に任じておるのに、
わざわざ皇軍相撃つような事態をひきおこそうというのは、一体どういうわけであるのか、
皇軍相撃つということは日本の不幸これより大なるはない、同じ陛下の赤子である。
皇敵を撃つべき日本の軍隊が鉄砲火を交えて互いに殺しあうなどということが許さるべきことであろうか。
今や蹶起将校を処罰する前に、この日本を如何に導くかを考慮すべきときである。
昭和維新の黎明は近づいている。
しかもその功労者ともいうべき皇道絶対の蹶起部隊を名づけて反乱軍とは、何ということであろうか、
どうか、皇軍相撃つ最大の不祥事は未然に防いでいただきたい。
奉勅命令の実施は無期延期としていただきたい 」
声涙共に下って説く彼の弁舌は凄愴な気迫を伴い森閑とした真夜中に、
なみいる人々の心を痛く打つものがあった。
この間、香椎司令官はみずから山口に茶菓をすすめ、
その興奮した空気を和らげることに努めていた。
そして
攻撃開始に確定したわけではない
と 口ごもりながら答えていた。
水を打ったような静寂の中で山口はさらにつづけた。
一語また一語に力をこめて、
どうしても同意させずにはおかないといった気迫が全身にあふれていた。
一座は緊張した面持ちで傾聴している。
彼はこのようにして時余にわたって説き去り説き来りこの重大進言をおわった。
・・・彼らは朕が股肱の老臣を殺戮したではないか 


山口一太郎  ヤマグチ イチタロウ
『 別格 』
目次

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西田の病室を出た私は北一輝に会った。北は私の手を握って心から喜んだ。
「 やあ、実にいい時に来てくれました。
 幸い西田も名医(院長)の手当で、おかげで一命はとりとめたようです。
然し 当分は何の活動も出来ないし、私やここに来ている民間人も、いつ憲兵に連れて行かれるか判らない。
一歩もここから踏み出せず、外との連絡は全く断たれているのです。
山口さんは自由に市中を歩けますか?」
私は、現在のところ身柄は自由であり、
憲兵隊から自動車を提供されているので、市中どこでも飛び廻れること、
小畑少将と会い、事件の拡大防止をたのまれたこと、
西田の撃たれた事について同少将は心を痛めていること、
憲兵隊長は陸軍省の方針にもとづき、事件関係者に十分好意的態度をとっていること、
現在順天堂につめている憲兵は、皆さんの身柄を保護するように指示されていること
・・・などを告げた。
北は大変喜んで、
「 実にいい手を打ってくれてありがたい。
何しろここに居ては外の事が丸でわからないので、困り抜いていたのです。
ついては少し立ち入って相談しておきたい事があるからこっちへ来て下さい。」
と云って、
私を西田の病室のとなりの部屋の隅に導き声をひそめて、
「 順天堂は憲兵の手にはいり、しかも憲兵がわれわれに好意的なことがわかり、
おかげで一安心なのだが安心できないことがある。」
「 何です?」
「 あの向こう側の室にいる連中 ( 菅波、香田、安藤輝三、栗原 ) が弔合戦をやるんだと、
さわいでいるんですよ。」
「 そんなこと今やられては、丸でぶちこわしです。小畑さんの心配しいてるのはそこなんです。」
「 僕も全く同感です。
 きのう事件が起こり、一時放心状態にあった当局者が、急速に態勢を立て直し、
警戒を厳重にしている時、事を起こしても何も出来るものではない。
これはどうしても食い止めなければなりません。
何とかうまい手はありませんか。
僕等は山口さんと違い、自由に市中を歩けないのだから手も足も出んのでね----」
「 ぢゃ、この順天堂につめている将校は、憲兵を敵視しない。
また憲兵も青年将校を敵視しない。
これでいいんだが、西田君が動けないんだから困りましたね。」
北は言葉をついで、
「 僕には全く策がないんだ。あのとおり、西田は出血多量で真っ青になっている。
青年将校諸君は、いつ仇討に飛び出すかも知れない。
さっきから時間も大分たっているので、
山口さんもう一度大手町(憲兵隊のこと)へ連絡に行って来てくれませんか。」

時すでに五月十六日の夜十一時である。
新聞は検閲され、ラジオは、デリケートなことは何も言わぬ。
だから、北をはじめ順天堂組は、全くのつんぼ桟敷に置かれた形なのだ。
これ以上騒ぎを大きくしてはいけない。
これが北と私との合言葉であった。
私は云った。
「 夜どんなにおそくなっても、ここにかえってくるから、
北さんは若い者(将校)たちの立ちあがるのだけはとめておいてください。頼みます。」
北が
「 たしかに御引き受けましょう。
ただ一般情勢について僕の口から説明するより、山口さんから直接話してくれ 」
と いうので、
私は北につづいて若い将校の部屋に入った。
こうして私は、直接陸軍の急進青年将校達に会うことになり、
そうして以後彼等と特別な関係に立つことになるのである。
誰かが云った
「 ア、山口さんだ 」
一同は丁寧に名刺を出し、あいさつをした。
私は、
「 今まで北さんと根本的な打合せをした。
 結論は陸軍の若い者が今立つべきではないと云うにあるのだが、
情勢は時々刻々変わって行く。
権威ある結論を出すため、僕は今から憲兵隊や軍首脳に会ってくるから、
それまで何の動きもしないように、してくれ 」
と 言う。  と
「 ぢゃ我々だけで相談させてくれ 」
 と 部屋のすみで、こそこそ相談している。
( 今の全学連とすることは似ている )  そして菅波三郎が代表して私に
「 北さん、山口さんが、云うのだから 」
と  私が戻るまで何もしないことを約束した。・・・・一五事件と山口一太郎大尉 (2)
五 ・一五事件と山口一太郎大尉 (1)
五 ・一五事件と山口一太郎大尉 (2) 

・ 
昭和八年元旦 

・ 山口一太郎大尉 「バウンダリー ・コンディシン」

山口一太郎大尉の四日間 1 「 大臣告示 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 2 「 総軍事参議官と会見 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 4 「 奉勅命令が遂に出た 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 5 
・ 
山口一太郎大尉の四日間 6 

・ 山口一太郎 ・ 戒嚴司令部での意見具申 『 昭和維新の功勞者なる蹶起部隊を反亂軍とは何たる也 』

憲兵報告・公判状況 27 『 山口一太郎 』
・ 
憲兵報告・公判状況 28 『 山口一太郎 』

・ 
昭和維新・山口一太郎大尉 

國體明徴に関して何等誠意なき現内閣や
皇軍を国民の怨府たらしめようとする高橋蔵相の如き
私は憎みても余りあるのであります。
しかるに これ等内閣の権威は未だ地に堕ちず
相當の根強さを持ってをりますために、
雑誌その他これ等を謳歌するやうな記事が載り
或は皆様や子弟の中にも
かかる御考への方がありはしないかと心配してをります

・・・
山口一太郎大尉 ・ 壮丁父兄に訓示


山口一太郎 ・ 戒嚴司令部での意見具申 『 昭和維新の功勞者なる蹶起部隊を反亂軍とは何たる也 』

2019年12月25日 14時18分38秒 | 山口一太郎

被告の原則の如く上層部工作を爲したるものと認め難し。
殊に二十八日の戒嚴司令部に於ける言動は恰も行動將校と同様なり  ・・・法務官
今迄の努力が無になると思へば
落胆の余り 半狂亂となつて勅命を延期すべく申したのであります。

然し此頃から殆ど
行動將校と一処になつてもよいと思ひました。



山口一太郎 

二十七、八日の境、
鐵相官邸に居た山口大尉は、
柴大尉から遣いの自動車で至急陸相官邸へ向かう
陸相官邸には、松平紹光大尉も居た。
柴有時大尉は、

「 明朝五時 ( 二十八日 ) 行動部隊引上げの奉勅命令が下ることになつて居る 」 と告ぐ。
山口大尉は、官邸に宿する小藤恵大佐、鈴木貞一大佐 を起した。
そして、先發として松平大尉を戒嚴司令部に派遣し、次で一同は司令部に向つた。

山口一太郎大尉
二十八日、戒嚴司令部での言動 


「 今、陸相官邸を出て陸軍省脇の坂を下り三宅坂下の寺内銅像の前にさしかかると、
 バリケードがつくってあった。
半蔵門前からイギリス大使館の前にかけては部隊がたむろしている。
戰車も散見する。
あのバリケードは何のためのバリケードだろうか。
あの部隊は何のための部隊だろうか、
そして物かげにかくれている戰車はどんな意味なのだろうか。
聞くところによれば、
明日蹶起部隊の撤退を命じ 聞きいれなければこれを攻撃されるという。
蹶起部隊は腐敗せる日本に最後の止めをさした首相官邸を神聖な聖地と考えて、
ここを占據しておるのである。
そうして昭和維新の大業につくことを心から願っているのに
彼らを分散せしめて
聖地と信じている場所から撤退せしめるというのはどういうわけであろうか。
しかも、彼らは既に小藤部隊に編入され警備に任じておるのに、
わざわざ皇軍相撃つような事態をひきおこそうというのは、一体どういうわけであるのか、
皇軍相撃つということは日本の不幸これより大なるはない、
同じ陛下の赤子である。
皇敵を撃つべき日本の軍隊が
鐵砲火を交えて互いに殺しあうなどということが許さるべきことであろうか。
今や蹶起將校を處罰する前に、この日本を如何に導くかを考慮すべきときである。
昭和維新の黎明は近づいている。
しかもその功勞者ともいうべき皇道絶對の蹶起部隊を
名づけて反亂軍とは、何ということであろうか、
どうか、皇軍相撃つ最大の不祥事は未然に防いでいただきたい。
奉勅命令の實施は無期延期としていただきたい 」


山口一太郎大尉 「 バウンダリー ・コンディション 」

2019年12月23日 17時07分06秒 | 山口一太郎

二 ・ 二六事件で蹶起将校を除くと最大の立役者は山口一太郎大尉であった。
暴発を食い止めるべく必死に努力しながらも、勃発から鎮圧にいたる四日間、
周章狼狽する軍首脳、幕僚たちを尻目に昭和維新の成功に向けて縦横無尽の活躍をした。
乱後、死刑にならなかったのが不思議なくらいだった。
そのため、彼に対する誤解や中傷が様々に生まれた。
陸軍担当記者として私が知り合った青年将校の中で最も親しかったのが山口だった。
事件にいたる激動の日々、私はしげしげと彼の許へ通い、青年将校たちの動きを取材した。
都合の悪いことは全て隠蔽する軍の体質。
彼がいなければ未だ闇の中にある問題も多々あると思う。
山口の真の姿を紹介することで、あとがきに代えたい。

 
山口一太郎 
山口は陸士三三期生。
皇道派青年将校たちの中では最古参の一人であった。
父親の勝は陸軍中将。
岳父は事件当時、侍従武官長の本庄繁陸軍大将である。
幼年学校、士官学校とも数学の天才とうたわれ、
東大理学部の委託学生となり歩兵用兵器の製作技術将校として知られた。
父の勝が長州閥のリーダー ・寺内陸相を 「 長閥横暴 」 と叫んで殴り、
退職したと伝えられるだけに、山口も父親ゆずりの反骨精神の持主だった。
東大に行ったのも、陸大出の天保銭組を嫌ったのだという。
また大変なワンパク坊主で部内では一太郎といわず 「 ワン太 」 と呼んでいた。
昭和十年、皇道派総帥の真崎甚三郎教育総監罷免にからんで
永田鉄山軍務局長暗殺事件が起きると青年将校たちはいきり立った。
山口はこのままでは第二、第三の永田事件が起きると心配、
十一年正月、荒木貞夫大将を訪れ、統制派と皇道派の和解の団結を要請した。
荒木が断ると怒った山口は酔ったふりをして 「 オイ大将、そのヒゲをひっぱらせろ 」 と 迫り、
荒木がはだしで庭に逃げたという話もある。

私が山口の名を初めて耳にしたのは昭和七年の十月事件の時であった。
当時参謀本部ロシア班長だった橋本金五郎中佐ら国家改造を唱える革新派幕僚らの桜会が、
中心になり大クーデターを計画、未遂のうちに首謀者全員が検挙され、山口もこれに連座した。
彼の容疑は科学研究所から毒ガスを持ち出したということだった。
しかし、これは彼の同期生の一人がやったことで、
彼はそれを知りながら黙って罪をかぶろうとしたという義に厚い面もあった。
この事件で、彼は大言壮語しながら酒池肉林にひたる幕僚たちの姿を見て反発、
以来、青年将校たちと幕僚の間に決定的な溝が生じた。
これが後に皇道派、統制派という陸軍を二分する派閥抗争に連なって行く。

永田事件と前後して、青年将校たちを支持する皇道派幹部は相次いで中央から遠ざけられ、
彼らを押える重しが消えた。
その中で山口は西田税らと必死になって、血気にはやる急進派将校たちを押える努力をした。
昭和十年暮れ、栗原安秀中尉が山口にこういったという。
「 第一師団が来春、満洲に派遣される前にコトを起さねばならぬ。
 戦争になれば貧乏百姓の子弟を殺すことになる 」
無謀だと山口が説得すると、
栗原は 「 無為無策の岡田内閣をつぶしてくれたら思いとどまる 」 といった。
山口は同志将校と糾合、政友会の久原房之介と図って帝国議会開会式当日の十二月二十六日、
一種の無欠クーデターを起こし、内閣総辞職に追い込もうとした。
結果は久原の断念で失敗、以後、栗原らは山口の説得に耳をかさなくなった。

事件直前、山口は計画の全容を知って驚愕した。
何しろ部隊を使った大規模な蹶起である。
襲撃目標も想像を超えるものであった。
いまさらやめろといってもきく相手ではない。
さりとて意見を異にしても、後輩の同志将校たちだ。
密告して事前に一網打尽にする気にもならぬ。
彼は悩んだ。
後に、彼はこの時の心境をバウンダリー ・コンディションという言葉を用いて説明している。
物理学で境界状況という語である。
門外漢の私には良くわからぬが、
極めて複雑な問題が入り組んですぐに答えが出せるような問題ではないということだろう。


血で彩られた蹶起は昭和天皇の激怒の前に崩壊した。
蹶起将校はもとより、北一輝、西田税といった事件と関係の薄い民間人までもが死刑となる中で
山口に対する判決は無期禁錮であった。
なぜ彼が死刑をまぬかれたのか、真相はわからない。
岳父が本庄であったからだという説も流すものもいる。
しかし判決当時、本庄はすでに予備役で陸軍大将といっても市井しせいの人にすぎぬ。
軍当局には何らの発言権もなかったはずだ。
あえて私の推論をいえば、やはり彼の技術将校としての天才的頭脳が買われたためと思う。
事件翌年、新聞に彼が獄中で山口式新兵器を発明したという記事が大々的に載った。
太平洋戦争初期に活躍した海軍零式戦闘機の二〇ミリ機関砲も彼が獄中で設計したものであった。

彼が仮釈放されたのは戦時中。
一時蒙古の鉄鉱山で鉄の増産に励んだ。
戦後は不遇だったが意気だけは盛んで 「 当時と何も変わっておらん 」
と 政財界の腐敗ぶりを慨嘆していた。
死去したのは昭和三十六年二月二十三日。
あと三日で事件満二十五年を抑える日であった。
享年、六十歳。

実録コミックス   ( 1991年3月10 日初版)
叛乱!
二 ・二六事件 ❶  雪の章
あとがき
山口一太郎大尉のこと
元東京日日新聞記者  石橋恒喜
・・・全文引用・・・


五・一五事件と山口一太郎大尉 (1)

2018年02月24日 04時33分35秒 | 山口一太郎


山口一太郎 大尉
五・一五事件は、随分奇妙な事件である。
あれだけの大事件でありながら、計画の大要は各方面に洩れていた。
憲兵隊も、したがって陸軍省も、そして恐らくは警視庁も相当程度知っていた。
行動の隠密性が悪かったためである。
私も五月の始め頃から西田税 に情勢を知らされた。
かほど重大な陰謀が、こんなに知れ渡っていたのでは碌な結果にはなるまい。
海軍将校が計画し、海軍や民間人がやるのなら別に云う所はないが、
陸軍が巻き込まれることは避けたいと思った。

小畑敏四郎少将に御会いして見ると考えは全く同じであった。
「 陸軍が巻き込まれることは絶対におさえてもらいたい。
西田君とも相談して宜しく頼む 」
ということだった。
これまた随分おかしな話だ。
小畑少将は知る人も知る荒木陸軍大臣のブレーンの第一人者なのだ。
決行時期が五月一五日ということは五月十日頃わかった。
私と西田とは日に二度位会った。
陸軍将校の参加は西田が完全に思いとどまらせた。
陸軍士官学校生徒の参加をも止めようとしたが、
その説得役の村中 [孝次]( 陸軍士官学校区隊長、中尉 ) が
生徒に接近することを学校当事者が勘違い(煽動と)の結果 阻止したので、
ついに目的は達せられなかった。
私も西田も、日ごと夜ごと焦燥感を空しくなめるばかりであった。
このような東京をあとにして、
私は富士裾野、滝ケ原の演習場に行かなければならなかった。
かねて私の設計していた機関砲の実弾射撃が予定を繰り上げ、
五月十四日から十六日までになったからだ。
恐らく技術本部首脳部が、事件の計画をうすうす知り、
五月十五日に私が東京に居ないように計らったものであろう。
御殿場の大きい宿屋数件は
技術本部長緒方勝一大将以下数十人のメンバーによって占められた。

五月十五日の演習が済むと、
私は転がるように自分の宿にかけ戻り、帳場のラジオにかじりついた。
ラジオは海軍将校と陸軍士官学校生徒によって決行された五・一五の大事件を報じ、
ひとびとは目を丸くして刻々の報道に聞き入っていた。
私にとってはすべてあるべき事が、スケジュール通り行われただけなので、
一向驚くことはなかった。
しかし報道が進むにつれ、本当に驚かなくてはならなかった。
それは予定にも何もない
西田が狙撃され、順天堂病院に収容されたが、生命はおぼつかないということだ。
西田の呼吸、脈ハク、輸血の状況などは、要路の大官なみに刻々と報ぜられた。
私がラジオの前を去ったのは夜半すぎていた。

明けて十六日の朝六時頃、
隣の宿から
「 本部長閣下が御呼びでごさ゛います 」
と 迎えに来た。
その室に入ると 人は、
室中に新聞をひろげ
「 実にけしからん 」
と 憤慨している。
「 君これは一体どうした事だ。飛んでもない話だ。
君のことだからいずれ前から知っとんダろう 」
と きめつける。
「 風説はうすうす聞いていました 」
「 聞いとったら、われわれ上司に報告せにゃいかんじゃないか。」
「 技術に関する事だったら細大もらさず報告してますよ。
会った事も、名前も聞いた事もない海軍将校に関する風説まで、
事ごとに報告する義務はないと思います。」
大将これで喜んだ。
「 君本当にこの連中の名前すら聞いた事がないのか?
後日上司(この場合陸軍大臣)からわれわれの方へ御とがめが来るような事はないのか?」
なんだ、私を早朝呼びつけた問題の核心はここにあったのだ。
当時の軍の上官の大部分は、保身に汲々たるものだった。
部下の急進将校のため、
わざわいがこの身に及んでは大変ということだけなのだ。
何回も念を押し、
私がこの事件に全く関係ないと得心が行くと、
急にニコニコして
「 では宿へ引き取りたまえ。朝早くから呼んですまなかった。」
その日(十六)の射撃は正午に終わった。

東京へ心急ぐ私は、
射撃の終わる地点間近かに、
大型のハイヤー「ハドソン」を待たせておいた。
乗る。
走り出す。
宿でトランクを受け取る。
そして駅へ。
列車は入っている。
運よく車中の人となった。
一路東京へ・・・・・。

煙を吐き立てて走る汽車の歩みが、こんなに遅く感じられた事はなかった。
車中何時間、全くつんぼ桟敷だ。
愛宕山のあの小さいアンテナから電波の出されていた当時である。
トランジスタ・ラジオを聞きながら旅行するなんて事は思いもよらない。
何はともあれ情況を明らかにしなけりゃならぬ。
それにはまず憲兵隊に行くにかぎる。

 次頁 
五・一五事件と山口一太郎大尉 (2)  へ 続く


五・一五事件と山口一太郎大尉 (2)

2018年02月23日 04時16分02秒 | 山口一太郎


山口一太郎大尉

前頁 五・一五事件と山口一太郎大尉 (1)  の 続き

タクシーは東京駅から大手町の東京憲兵隊に私を運んでくれた。
運転手に聞くと
「 あの西田という人は、まだ生きているらしいですよ 」 とのこと。
隊に着くと階段をかけ上がって難波光造 隊長に会った。
西田 は生きていますか?」
「 大丈夫らしい。」
「 連中はどうなっていますか?」
「 皆隣の応接室に元気にしているよ。君会って見るか?」
「 いやそれは後日でかまいません。それよりか陸軍の将校達が気がかりです。」
「 うん。それなんだ。
ついさっきもその事について、小畑閣下から御連絡があったばかりだ。
西田は撃たれ、君が富士に行っているので心配しておられた。
今お宅に居られるから呼び出そうか?」
「 ぜひお願いします。」
電話はすぐ通じた。
「 山口です。」
「 ああいい所に帰って来てくれた。すぐに家へ来てくれないか。
チョット隊長と代わってくれたまえ・・・・・・」
電話を切ると隊長は向き直った。
「 君小畑閣下の御宅へ行くんだろう?
閣下からも御口添えがあったので車を用意する。
憲兵の下士官を同乗させる。こうしないと制服の将校でも自由に町を通れないからね。」
事実憲兵隊の自動車で憲兵の下士官でも同乗させないかぎり、
東京を勝手に歩けない程帝都の情勢は差し迫っていた。
戒厳寸前であった。

小畑少将に会った。
「 若い連中 ( 青年将校 ) がなにをやらかすかわからん。
西田君はやられ、君は富士だろう?困っていた所だ。
事件がこれ以上拡大して、陸軍の連中が動くということになると大変だ。
これは何としても食いとめたい。」
「 私は取りあえず順天堂に西田君を見舞おうと思ってます。
あそこへ行けば色々の事がわかるでしょうから・・・・・。
この事については難波さんにも同意を得てあります。」
「 そうか、そうしてくれるか。じゃあ僕も一緒に行こう。」
「 おやめください 」
「 いかんか 」
「 いけませんね。
参謀本部第三部長 閣下が参謀肩章いかめしく、順天堂にいって御覧なさい。
いい新聞種になります。
さわぎが大きくなるだけです。」
「 でもねー。西田は陸軍の連中が思い止るよう説得したために撃たれたのだ。
僕が間接の加害者みたいなもので、気がすまないんだが・・・・・」
と 面を伏せ、奥にはいってから、
「 ではこれで、花でも買って慰めてくれ給え。その他の事もくれぐれも頼むよ 」
と花の代金百円と花につける名刺を渡された。
飯田橋の花屋で豪華な花を買って順天堂病院にはいった。
その他の事を処理するため・・・・・。
西田税
順天堂病院は西田関係で、四部屋使っていた。
西田の病室の入口には仁王様が頑張っている。
薩摩雄次と杉田省吾である。
杉田は西田に輸血をしたとかいっていた。
西田は出血多量の瀕死の重傷で、
私の顔をみて、青い顔でただこっくりとうなずいただけである。
ここで当時の情勢の大要を述べておこう。
その頃順天堂は、中尉を指揮者とする憲兵の一隊が、かためていた。
その外の方に警察官もいた。
私が順天堂に行くことは、難波隊長から順天堂のこの中尉にすでに電話してあった。
憲兵の見張りがたち、順天堂は憲兵隊の管轄下にある。
これは陸軍省の指示によったものらしい。
勿論警察官もきていた。
そして、この憲兵と警察官はべつにいがみ合いもせずなごやかであった。
しかし問題はある。
今は予備役軍人、即ち民間人西田税が民間人川崎長光に撃たれた事件だとみれば、
ここは当然警視庁の手のうちにあるべきである。
だから、彼等の職業意識から云っても、警視庁がこの順天堂に手を入れ、
今回の事件 ( 五・一五 ) を契機として、
右翼急進分子に検挙の手を伸ばしたいことは山々であろう。
しかしそれをやられると、右翼民間人の口から、
陸軍青年将校の思想動向や行動計画めいたものが、内務省に知れ、
それがやがては国会における軍部攻撃の好材料になることは火を見るよりも明らかだ。
軍の威勢まことに不振の時点に突発した満州事変。
それはまだ八ヶ月しか経過しておらず、
外からは列国の非難を浴び、国論また軍部を攻撃していた当時である。
後年の軍部横暴時代とは全く事情がちがい、
軍の首脳部は戦々兢々として、ひたすら事なかれと祈って居た極めて情けない頃の話なのである。
警視庁の手が順天堂に及べば、そこには北一輝もいる。
薩摩等傘下の民間人も、また香田清貞、菅波三郎、栗原安秀等現役陸軍将校もいる。
軍としては何とかして七重の膝を八重に折っても、警視庁に手を引いてもらいたいのだ。
私が順天堂に行ったとき、警備の憲兵中尉は私に向かってこぼした。
「実は警察から普通人が普通人を撃った殺人未遂事件ではないか。---といってきている」 と。
青年将校は西田の身辺を見守るため、ここに詰めている。
現役将校には警察は指一本ふれられないことになっているからだ。
ことに青年将校が屯しているので、一応これを警戒するという名目で憲兵が出張っててる。
憲兵が来ているので、警察は遠慮して控えている、というのが当時の状態であったわけだ。
したがって 北にしてもその傘下の民間人にしても、青年将校達にしても、
憲兵は果たして自分達の敵なのか、あるいは味方なのか一向にわかっていない。
否 何しろ内閣総理大臣が殺されてしまい、犯人一同は憲兵隊に自首収容され、
上から下まで、テンヤワンヤで、何をどうしていいのか、誰にもわかっていない。
犯人が全部憲兵隊に居るのだから、警察では背後関係がどの程度のものなのか、
全く見当がつかない。
うかつに手を出して、警視庁が陸軍部隊に襲われないとも限らない。
だから八方すくみのにらみ合いをしている。
皆がキョトンとしているこの間に、万事うまく運んでしまうのが上策だと私は考えた。
軍の意向は大体呑み込んでいるしもりだ。
いつ飛び出すかわからない青年将校をなだめなくてはならない。
と同時に警視庁には事件を見送ってもらいたいところだ。
ここいら辺を軸にして大体の方針を立て、それを既定のり事実として、
角方面を手早く押し切るよりほかに手はない。
その方針と云うのは
一、順天堂を含め、今回の事件に関する一連の捜査は、軍の手で行い、警視庁には手を引いてもらう。
 そのため迂濶に警察が介入する場合には、陸軍の青年将校が激昂して、
事態が不測の拡大を示すことがあるとにおわす。
二、陸軍は一体のものであり、上司も憲兵も青年将校も、互いに相手を信ずる。
三、青年将校は事態の拡大を一切避ける。
と云った所である。
ここに参考のため、当時の憲兵の立場や権限について一言触れておく。
憲兵----やかましく云えば軍司法警察----は憲兵司令官の統括により、
軍内の司法警察に任じ、必要に応じては、一般人まで権限を及ぼしいてよいことになっていた。
そして憲兵司令官は検事正同様、令状の発行権を持っていた。
だから民間人に関する順天堂を、憲兵が取締ることは、違法でも越権でもなかったわけだ。
情勢の説明が大変長くなった。
西田の病室を出た私は北一輝に会った。北は私の手を握って心から喜んだ。
「やあ、実にいい時に来てくれました。
幸い西田も名医(院長)の手当で、おかげで一命はとりとめたようです。
然し 当分は何の活動も出来ないし、私やここに来ている民間人も、
いつ憲兵に連れて行かれるか判らない。
一歩もここから踏み出せず、外との連絡は全く断たれているのです。
山口さんは自由に市中を歩けますか?」
私は、現在のところ身柄は自由であり、憲兵隊から自動車を提供されているので、
市中どこでも飛び廻れること、
小畑少将と会い、事件の拡大防止をたのまれたこと、
西田の撃たれた事について同少将は心を痛めていること、
憲兵隊長は陸軍省の方針にもとづき、事件関係者に十分好意的態度をとっていること、
現在順天堂につめている憲兵は、皆さんの身柄を保護するように指示されていること
・・・などを告げた。
北は大変喜んで、
「 実にいい手を打ってくれてありがたい。
何しろここに居ては外の事が丸でわからないので、困り抜いていたのです。
ついては少し立ち入って相談しておきたい事があるからこっちへ来て下さい。」
と云って、
私を西田の病室のとなりの部屋の隅に導き声をひそめて、
「 順天堂は憲兵の手にはいり、しかも憲兵がわれわれに好意的なことがわかり、
おかげで一安心なのだが安心できないことがある。」
「 何です?」
「 あの向こう側の室にいる連中 ( 菅波、香田、安藤輝三、栗原 ) が弔合戦をやるんだと、
 さわいでいるんですよ。」
「 そんなこと今やられては、丸でぶちこわしです。小畑さんの心配しいてるのはそこなんです。」
「 僕も全く同感です。きのう事件が起こり、一時放心状態にあった当局者が、急速に態勢を立て直し、
 警戒を厳重にしている時、事を起こしても何も出来るものではない。
これはどうしても食い止めなければなりません。何とかうまい手はありませんか。
僕等は山口さんと違い、自由に市中を歩けないのだから手も足も出んのでね----」
「 ぢゃ、この順天堂につめている将校は、憲兵を敵視しない。
 また憲兵も青年将校を敵視しない。 これでいいんだが、西田君が動けないんだから困りましたね。」
北は言葉をついで、
「 僕には全く策がないんだ。あのとおり、西田は出血多量で真っ青になっている。
 青年将校諸君は、いつ仇討に飛び出すかも知れない。
さっきから時間も大分たっているので、 山口さんもう一度大手町(憲兵隊のこと)へ連絡に行って来てくれませんか。」

時すでに五月十六日の夜十一時である。
新聞は検閲され、ラジオは、デリケートなことは何も言わぬ。
だから、北をはじめ順天堂組は、全くのつんぼ桟敷に置かれた形なのだ。
これ以上騒ぎを大きくしてはいけない。
これが北と私との合言葉であった。
私は云った。
「 夜どんなにおそくなっても、ここにかえってくるから、
 北さんは若い者(将校)たちの立ちあがるのだけはとめておいてください。頼みます。」
北が
「 たしかに御引き受けましょう。
ただ一般情勢について僕の口から説明するより、山口さんから直接話してくれ 」
と いうので、
私は北につづいて若い将校の部屋に入った。
こうして私は、直接陸軍の急進青年将校達に会うことになり、そうして以後彼等と特別な関係に立つことになるのである。
誰かが云った
「 ア、山口さんだ 」
一同は丁寧に名刺を出し、あいさつをした。
私は、
「 今まで北さんと根本的な打合せをした。
 結論は陸軍の若い者が今立つべきではないと云うにあるのだが、情勢は時々刻々変わって行く。
権威ある結論を出すため、僕は今から憲兵隊や軍首脳に会ってくるから、
それまで何の動きもしないように、してくれ 」
と 言う。

「 ぢゃ我々だけで相談させてくれ 」
と 部屋のすみで、こそこそ相談している。
( 今の全学連とすることは似ている )  そして菅波三郎が代表して私に
「 北さん、山口さんが、云うのだから 」
と  私が戻るまで何もしないことを約束した。
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「 西田税 撃たる 」・・・と、順天堂病院へ駆けつけた
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私は乗ってきた車に再び憲兵軍曹を同乗させて、憲兵隊に行き 難波隊長に会った。
私は隊長に云った。
「 たった今まで、順天堂に居ました。
若い連中はなかなかいきり立っているので、北さんと二人でなだめています。
何しろ情勢が全くわからないので、一応連絡に来ました。」
隊長は云う。
「 困っているのは君だけじゃないんだ。われわれも全く手も足も出ないで弱っているのだ。
君みたいに自由の立場にないんでね。」
私は直ちに、
その場で小畑少将に電話した。
陸軍で一大尉が、少将に、しかも憲兵隊長の目の前で、直接電話をするということ、
これは当時は、大したことなのである。
小畑少将のこのときの立場をいうと、
彼は陸相、荒木貞夫のスタッフの随一、
すなわち荒木貞夫は、
柳川平助(騎兵監)、小畑敏四郎、山岡重厚、黒木親慶等を相談役とし、
この難局を切り抜けるべく徹夜の打合せをしているのであった。
黒木親慶という人は、
小畑と陸士同期、”シベリヤ出兵” に出征した退役騎兵少佐で、
白系露軍セミヨノフの参謀長をしたこともあり、知略縦横の豪傑でもあった。
従って小畑少将、黒木親慶に話をすることは、陸相荒木に話をすることであり、
この時点の陸軍首脳の考えが把握できるわけである。
小畑家に電話して
「 山口ですが 」
というと小畑夫人が出て
「 主人は今黒木さんのところにいます 」  という。
直ちに黒木家に電話すると、陸相官邸にすぐきてくれという。
当時陸相官邸は、現在の三宅坂の社会党本部のすぐ裏手である。
私は直ちに陸相官邸に行くわけにもいかず、ともかく電話に小畑少将に出てもらった。
なおこれまでの電話、次の電話は、すべて警視庁の盗聴をおそれ、
全部、私達の符牒で話しをしたのである。
小畑 「 どこにいる。」
山口 「 憲兵隊長のそばにいます。」
小畑 「 連中は大丈夫か。」
山口 「 実は大変なことになつている。北さんの心配の通りになりそうだ。」
小畑 「 現在はどうなんだ。」
山口 「 全体の情勢をのみこんで、順天堂に私が帰るまでは、なにもしない。
     寿司でも喰べていることになつている。」
小畑 「 あの連中に、がたがたされたのでは今立案中の計画も全部オジャンになる。
     陸相官邸では、大臣、参謀総長、次官、参謀次長、軍務局長が集って、
          協議しているところだ。」
結局、私が順天堂で名刺をもらった連中を北一輝と私が、
目下おさえているということで、その処置について話あった。
将校の処罰、カク首等は、
師団長から陸軍大臣に上申して行われるもので、申請の権限は師団長にある。
この場合、近衛、第一師団連絡協議会で決定されるだろう。
しかし、小畑少将は、
この協議会を形成する、時の近衛師団長、同参謀長、第一師団長、同参謀長を
「 世の裏の裏を知らぬ純軍人 」 と言い
隊長職権でなんらかの処置に出るとしても、
最後的な決定は陸軍省人事局補任課に於いて行われる。
そして陸相官邸における協議の成り行きによれば、陸軍省、参謀本部の最高首脳は、
順天堂にいる青年将校の最後の身分を確実に保証したのであった。
小畑少将に代り 黒木は
「 北さんに、近衛、第一師団は強硬に出てくるが憤激せず、若い人が落着くようよろしく願う 」
と云い、
結局次のように決まった。
① 近衛師団長、第一師団長、及び教育総監の意図で若干の青年将校を軟禁するかもしれない。
② 憲兵隊は保護検束も尾行もしない。
③ カク首の上申があっても陸軍省は請けつけぬ。
④ 以上北一輝に善処せしめるよう。
かくて私は五月十七日の朝三時か、四時頃に順天堂にかえった。
青年将校を集めて前記の四項目を伝えると、
栗原などは
「 俺達は何もしておらん、軟禁とはなんだ 」
と 憤激している。
私は
「 最終的な責任は俺がもつ、まあ軟禁ぐらいはしようがない、ここらぐらいでおとなしくしろ 」
と言うと、
やがて菅波三郎、香田清貞が代表して云った。
「 山口さんが責任をもつというのでしたら、おまかせいたします。大変なお骨折りでしたね。」
北一輝は二人きりになると、涙ぐんで長いこと私の手を握り、たったひとこと。
「 ああ助かった 」
と 言った。
( こうまで国を憂い、軍に尽した北一輝は、後にいわれなく、軍の手によって銃殺されるのである。)
かくて私は再び順天堂の結果を報告に、
憲兵隊---陸相官邸と廻り、眼を真っ赤にして大久保の自宅に帰った。
夜は完全に明けていた。
そして陸軍青年将校は微動だもしなかったのである。

しかし事態は妙なことになった。
菅波三郎は、その中隊だけ習志野に演習に出され、大蔵栄一も戸山学校長宅に軟禁された。
私も技術本部の射撃場にある愛知県の伊良湖岬、
芭蕉が 「鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬」 と 詠んだあの岬の端に演習にやられた。
上官なんて全くいい気なものだ・・・・・・・。

昭和7(1932年)年5月15日


山口一太郎

著者 山口一太郎 (1900ー1961) 元陸軍大尉
陸軍士官学校33期生
昭和10年3月歩兵第一連体第7中隊長
2.26事件で「反乱者を利す」の罪で無期禁固に処せられた
昭和36年2月22日に死去
本稿は亡くなる1年前に、病床で同氏の体験を鉛筆で書かれた「思い出」の一節である
--現代史資料月報-- 1963年5月 第4回配本「国家主義運動」(一)付録・・・から転載
五 ・一五事件


山口一太郎大尉 ・ 壮丁父兄に訓示

2018年01月24日 10時59分12秒 | 山口一太郎

私はこのたび 中隊長として皆さんの大事な息子さんを預ることになりましたが、
まことに申訳がないのは、その息子さん方に満足なものを着せ、
充分なものを食べさせてやることができないことです。
特に兵舎はごらんのように粗末なものです。
隙間風も入れば、寝台も酷いものです。
それもこれもすべて大蔵大臣がわれわれの要求する軍事予算をとおしてくれないからです。
皆さん、息子さんを可愛いいと思ったら、
どうか大蔵大臣に文句をいって軍事予算を増額させて下さい。
われわれはいつ満洲へ行くかわかりません。
命を捨てる覚悟で戦場に行く青年を、もっと大切にしてやろうではありませんか

山口一太郎 
昭和十一年一月十日
初年兵の入隊式に於いて、見送りの父兄に向って行った
歩兵第一聯隊の第七中隊長の山口一太郎大尉の
大演説の一部である


赤坂歩兵第壱聯隊第七中隊長 山口一太郎大尉は、
青年将校間の中核的存在として知られているが、
十日 中隊の壮丁見送りの父兄に對し、
壮丁入營後における訓練等に関して約一時間にわたり挨拶を述べる
そのうち第二項 「 精神的後援について 」 のもとにおいて、
国體明徴問題に論及し
國體明徴に関して何等誠意なき現内閣や
皇軍を国民の怨府たらしめようとする高橋蔵相の如き
私は憎みても余りあるのであります。
しかるに これ等内閣の権威は未だ地に堕ちず
相當の根強さを持ってをりますために、
雑誌その他これ等を謳歌するやうな記事が載り
或は皆様や子弟の中にも
かかる御考への方がありはしないかと心配してをります・・云々 」
( ・・謄写版刷りによる )
さらに高橋蔵相の陸軍予算八百萬円追加問題にも触れ、
型を破ったこの挨拶は参集者を一驚せしめた。
謄写印刷は任意持帰らせしめたので
参会後 会衆は三々五々この挨拶を中心として、
現場取締りの憲兵はこの状況を上司に報告、
これが成行に関して慎重なる態度で注視している。


昭和八年元旦

2017年12月14日 01時15分51秒 | 山口一太郎

昭和八年の元旦に私は酒に酔って、
陸軍省の玄関の時計を叩きこわした。
陸相の荒木はそれで怒った。
私は荒木はこれでたいした者ではないと思った。

山口一太郎          荒木貞夫         渋川善助
同じ正月
渋川善助が家に年始に来て
座敷の隅に重ねておいた客用座布団を日本刀で五枚切り落とした。
・・・山口一太郎