あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」

2018年05月25日 19時36分07秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


中央に立つ相澤三郎中佐
昭和11年1月28日、第一回軍法会議公判廷の様子

杉原法務官は
判士長にかわって被告に対し訊問を開始した。
「 さきほどの檢察官の申し述べた公訴事實は認めるか 」
「 だいたい認めますが----永田閣下に刃をむけたのはそのとおりでありますが、
 根本にわたることについては、腑におちない點があります。
原因については詳細お取り調べを願います」
それから、
位階學歴、家庭健康、趣味信仰などについて訊問がつづけられたが、
その訊問が國家革新の思想に及ぶと、中佐は聲を一段とはりあげ、
「 相澤の申し上げることに、革新などという言葉をあてはめられるのは、全く誤りであります。
 天子様のまします國に 國家革新などということがありえよう筈はありません。
まずこの點をはっきりきめてかかります 」
とて、
政党、財閥の積弊を痛感し、
ついで
靑年將校運動の本質は、

上下一致の精神的合一をなんとかつくり上げたい、
それのみを念願するものだ
といい、
「 靑年將校が國家革新のためには、直接行動もあえて辭せぬ、
 などと簡單に申されるのには、全く心外のいたりであります。
靑年將校の日夜切磋琢磨する實情を見れば、日本の國民として涙にむせぶものがありましょうか 」
と 叫ぶように述べたてた。
なお、この第一日において注目をひいたことは、
彼が趣味を問われて參禅修養と答えたことから、
禅について問いただされ、
「 自分は東久邇宮のお伴をして仙台の松島瑞巖寺に行ったとき、
 殿下は中隊附將校に、
「 禅は國家のためにやるべきものだ 」
と 仰せられましたので、れに感じて禅をやるようになりました。
自分は仙台市で有名な輪王寺の無外和尚の門を叩いたところ、
とうてい辛抱できるものではないから、と斷られました、
が、志を曲げず、和尚にたのみこんで輪王寺に止宿し、
約三年間、軍務の余暇をさいて參禅して自己を解脱し
一心御奉公の修養をつづけたのであります 」
と、修行の固さのほどを明らかにした。

最後に裁判長が、
「 仙台の和尚とは、いまなお交渉があるのか 」
と たずねると、
相澤は急に顔を伏せて泣き出した。
そして涙声で、
「 決行後、二回、面会に來られました 」
「 一番、心に殘った教えはなにか 」
相澤は、きっとなって、
「 尊皇絶對であります。
 あらゆるものは尊皇絶對でなければなりません。
軍人は今こそ幾分なりともざんげして天皇の赤子にかえれ 」
と、大聲をあげた。

公判第一日、
この事件に異常の關心をもってつめかけた傍聴のひとびとは、
相澤の人となりを目のあたりにみ、かつ、この裁判の前途の重大さをひしひしと感じ、
あらためて、陸軍部内の見えざる暗流、葛藤の實在を信じ、ひとしく眉をひそめ、軍のために痛嘆した。

神がかり問答
相澤公判は二日か三日おきぐらいに行われた。
その第三回目の二月一日だった。
鵜沢弁護人は、佐藤裁判長に師團司令部にもたされた血書二通を提出した。
佐藤少將がいちおう 眼を通してから、相澤中佐に示すと、彼は深く頭をたれて涙をふいていた。
やがて、頭をあげると、軍隊や陸士敎育の欠陥を論じ、
「----私慾のために、ほらが峠をきめこんで、いつも利口に立ちまわっているようなものは、
  あくまでも一刀両斷にすべきであります」
と、結んだ。

第四回目の二月四日は、
前三回にくらべ、相澤の態度はずっと落ちついていた。
もういうべきことは言ってしまった、という安堵感があったのであろう。
劈頭、裁判長が  「 何か話したいことがあるか 」 と たずねたのに対し、
相澤は、
「 この尊い法廷において、相澤の信念を吐露させていただいたことは、無上の光榮と思います。
また、鵜沢先生のような尊敬すべき方から弁護をうけることは、なによりもありがたいことであります。
自分は、さきに三長官會議にふれて、輔弼の責任云々といって、
參謀總長宮殿下に言葉をおよぼしましたが、これは考えるだに畏れ多いことであります。
最後に齋藤内府が、今朝の陸軍定期異動について、
「 この異動は大御心に副ったものである 」
と いったが、その點全く同感でありまして、
今後側近にあって、ますます重責を果たされることをねがってやみません 」
いかにも最後の挨拶のような陳述をしたが、裁判長は、なお、審理上必要があるので、いま少したずねたい。
重複をかえりみずに答えるよう と、さとした。
これから審理はつづけられ 相澤の決行と國法との関係、決行の決意、決行後の臺灣赴任などの神がかり問答が行われた
「 被告は今回の決行と國法との關係を、どういうふうに考えたか 」
「 決行を決意するにいたりましたのは、絶對の境地においてであります。
 主観と申しますか、絶對の境地になったときは、尊い気持ちが支配しておりますから、
ほかのことは考えなかたのであります」

「 原因動機をきけば、決して發作的でなく、熟慮を重ねたのちの決行で、 決行前に法的關係を考えなかったのか。
 人を殺害すること、ことに上官を殺害することは、軍人としては重大にことだ 上官を殺害すればどうなるか、その点を考えなかったのか 」
「 それは、しじゅう考えていましたが、いま申し上げましたような心境になったので、
  決行は正しいから、法はかえりみる必要はないと思っていたのであります 」

「 國法をかえりみないというのは、國法を尊重しなくてもよいというのか 」
「 敎育勅語に國憲を重んじ、國法に遵い、とあります。自分はこの勅語を重んじ、從うものであります 」
「 それでは、被告は國法の大切なことは知っているが、今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか 」
「 そうであります。大悟徹底の境地に達したのであります 」
さらに、この決意にいたるまでの事實認識について、
「 なにをもって、かかる事實を信じたのか 」
「 前、述べたような私の眞劍な感じと、實際見聞した點からであります 」
「 永田局長に辭職勧告の日、西田方における會合の模様はどうか 」
「 大蔵大尉以外には會わず、翌朝歸福し、村中からの文章を受けとったのであります 」
「 それを真實と思ったのか 」
「 そうであります 」
「 そのとき、せっかく事情をたしかめるために上京したのだから、なぜ、もう少しほかの方面で確かめなかったのか 」
「 そのときの氣分は、ちょうど軍人が戰場において、刃の下で向かい合っているような鋭い氣分で、
 いま、この法廷で考えられるような呑氣なものではありません 」

訊問はここでも、相澤精神の不可認知論につきあたった。
「 では、要するに、その間の事情が、永田局長の術策によるものと信じたのかね 」
「 南、林閣下らが、元老、重臣、官僚、財閥たちとともに、背後にいて、
 永田閣下にやらせていた、と かたく信じていました 」

「 その意見が、どういう根拠から出たかということを、いま少し、考える餘地はなかったか 」
「 わたしはどこまでもご奉公する、と いう氣分で、他に考えはありませんでした 」

このようにして、相澤の神がかり問答は、
決行後の臺灣赴任におよび、彼のいう認識不足の問題、
すなわち、うまくいけば無罪放免、惡くいけば殺されるということ
----しかし、彼のやったことは、うまくいかなかった。
そこに認識の不足があったと述べたことから、
杉原法務官との間に、この「認識不足」の問題をめぐって、二、三の押問答がくりかえされた。
すると、鵜沢弁護人が立って、
「 被告は、決行した行爲自體が認識不足と思ったのか、
決行後、目的の維新に達しなかったのが、認識不足というのか、
はっきりしないものがある。この點をはっきりしていたたきたい 」
と 發言したので、杉原法務官が相澤に問いただすと、
「 決行することに認識不足はありません。よいことだと思っています。
  決行後のことが認識不足であったのであります 」

「 それでは、維新が來るという、それができなかったと解釋してよろしいか」
と鵜沢博士が念を押すと、
「 そのとおりであります 」
と 相澤は、はっきり答えた。

・・・
大谷敬二郎 著 
二・二六事件 相澤公判から
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鵜沢聡明


昭和十一年二月七日 ( 二・二六事件に先立つ二十日以前 )
當時相澤事件の弁護人であつた鵜沢総明博士が、
新聞記者に發表して世間を驚かしめた聲明文がある。
その一節にいう、
「 ・・・・陸軍省における相澤中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事であります。
本事件を單に殺人暴行という角度から見るのは、皮相の讒そしりをまぬかれません。
日本國民の使命に忠實に、ことに軍敎育を受けた者のここに到達した事件でありまして、
遠く建國以來の歴史に、關連を有する問題といわなければなりません。
したがつて、統帥の本義をはじめとして、
政治、經濟、民族の發展に關する根本問題にも触れるものがありまして、
實にその深刻にして眞摯なること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります・・・(下略) 」
右の文中において鵜沢博士が、
「 日本國民の使命に忠實に、ことに軍敎育を受けたる者のここに到達した事件でありまして、
遠く建國以來の歴史に関連を有する云々 」
と いつておられる點が最も重要であるが、これは具體的には何を意味するかといえば、
相澤中佐事件は、
わが建國以來の歴史や、軍人への勅諭、敎育勅語、大日本帝國憲法等によつて、
眞面目に敎育を受けた軍人が敢行した事件である という意味である。
したがつて、そこに相澤事件の重大性があるというのが、鵜沢博士の意見である。
・・・リンク→ 注目すべき鵜沢博士の所論 


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