あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

小川三郎 ・ 古荘次官、眞崎大將を訪問 「 眞崎大将は辭表を出してはいない 」

2018年04月08日 18時10分20秒 | 眞崎敎育總監更迭

憲兵聴取書

歩兵第十二聯隊第九中隊長
歩兵大尉小川三郎
昭和十一年四月二十三日
第一回聴取書


昨年の末 ( 昭和十年十二月末 ) 磯部と共に眞崎大將を訪問致しました事に就き申上げます。
昨年十二月末、歩兵学校 及 戸山学校の見学を命ぜられ出張中、
昭和十年十二月二十四日午後三時頃、戸山学校の見学終り、磯部方に立寄り、
磯部を誘ひ、眞崎閣下を私邸に訪問しました。
訪問時間は二十分位であります。
訪問の目的は、教育総監辞職問題に於て、閣下が辞表を出されたのか否かを確かめる為でありましたが、
確然たる御返事は得ませんでした。
私は閣下を訪問したのは、初めてであります。
右訪問後、磯部の案内で、新宿の 「 お座敷本郷 」 に於ける会合に出席した次第であります。

( 玆に於て、本件を明瞭ならしむる為め、問答する事左の如し )
眞崎閣下が辞表を出す、出さぬを確かめんとした目的は、
満井中佐の弁論の時、閣下が出されたか否かを確かめて置くことは必要であるからであります。

満井中佐に資料を提供せんとしたのか
辞表を出したと云ふ噂を聞きましたから、出したとすれば変なものになると思ったからであります。
小官が進んで弁論の資料を提供せんが為めではありません。
要するに私の気持ちからであります。

訪問を決意したのは貴官か、又、質問したのは。
小官が磯部を誘ひ、又、小官が質問しました。

返事は
「 其んな事は云へるか 」 と答へられましたと覚へます。

「 三長官会議に於て、自分は終り迄引退を肯じなかつた 」 と答へなかつたか
色々混沌として記憶致しません。

相澤事件収拾の事では
「 証人として立てる様になつたら、心から引受けて出て戴かなければなりません 」
と 申したと記憶します。

其他には
「 元老、重臣に対して、時勢をお話にならねばならぬのではないのですか。
 我々は会へませんが、閣下なら行けるでせうから 」
と 申したと覚へます。

閣下から何か云はれなかつたか
ありません。迷惑相な顔でありました。

「 もう来るな 」 と 云はれなかつたか
そんな風に言はれました。

磯部も閣下と初対面か
左様であります。
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歩兵大尉小川三郎
昭和十一年五月九日
第二回聴取書


昨年 ( 昭和十年年 ) 十二月、其方が陸軍次官を訪問したることありや。
私が歩兵学校、戸山学校の見学を命ぜられて上京した折に、
昨年十二月二十三日だつたと思ひますが、私一人で陸軍次官のお宅を訪ねました。
其の目的は、古荘閣下は前の第十一師団長であつた関係上、出発前に本郷聯隊長に頼まれ、
将校集会所に掲げる額の揮毫をお願ひに上つたのです。

其時に何か時局問題等につき話してることありや
話したことはありますが、判然と其の内容に就ては覚へて居りません。

それでは揮毫を頼みに行く時、其の序に何か話して見様と考へておらなかつたか
国体明徴に関する問題をお尋ねしてみやう、と思つて居りました

右の外に磯部、村中と訪問したることなきや
十二月二十五日に、右の両名と再び次官を訪ねました。
実は其時は行き度くはなかつたのですが、村中に誘はれて、不本意乍ら三名で訪ねました。
其日は村中が以前よりお訪ねすることに就き次官に御約束して居つた関係上、三人が同道した訳です。

第二回訪問の際、次官のお宅で如何なる事柄の話があつたか
大体私は村中に誘われて訪問したのですから、其時は私からは余りお尋ねしませんでしたが、
「 今の様な内閣を倒すことが国体明徴の一番大切な事柄ではないですか。
 之を其儘にして置くと、血が流れるかも解りません 」
「 倒閣 倒閣と云つて、意味の無いのに内閣を倒すことは、軍が国民の怨嗟の的になる。
 又、血はなるべく流さない様にせなければいかん 」 ・・次官
と云ふ様な問答があり、
最後に私から、「 唯其んな気がしますから申上げます 」 と云つた丈です。
話は主として、村中がして居つたのですが、其の内容に就ては覚へて居りませんが、
主として内閣不信任案、解散等との問題に就て話して居りました。

第一回に、其方が単独で訪問したる時の談話の内容につき、思ひ出さないか
一番始めに聯隊の様子を申上げ、続いて、
「 政府の国体明徴の声明には、天皇は統治権の主体と云ふ言葉があるが、
 主体があれば客体がある事になり、国体が二元的に考へられて、
君臣一体たるべき日本の国体かに考へたら、具合が悪い様に思ふが、如何 」
「 そう主体とか客体とか言はれて、在郷軍人の声明にも出て居る言葉でもあるし、
 読流しに読んで見て、そう支障のない様な言葉である。
そう一つ一つ詮議立てゝは切りがないではないか 」 ・・次官
「 今の内閣は一木、金森問題の解決さへ出来ないのだから、国体明徴の為めには倒閣より外に致し方なし 」
「 岡田内閣も悪いことは悪いが、そう娑婆で云ふ程の事はない 」 ・・次官
「 今度の議会に、国体明徴と高橋蔵相の軍民離間の声明の事に就き
内閣不信任案を出すと云ふこともありますが、そう云ふ事が出来た時、政府が解散を決意しますならば、
陸軍としては解散反対をせねばならぬと思ひます 」
「 何故か 」 ・・次官
「 先に言つた声明に対しては、軍の立場上 之れに反対する事は出来ないではありませんか 」
「 まあ来年になつてからゆつくり考へやう 」 ・・次官
「 来年でなくて、今年の内に不信任案が出ると云ふ噂があるから、
 若しも出た時に、今の儘であつて解散に賛成したら、軍は軍自ら自殺する事になる 」
「 今の儘であつては、解散賛成と云ふ訳には行くまい 」 ・・次官
( 其の言葉の内に、一木問題等は解決する緒にあるを察しました )
「 今 閣下は陸軍次官でありますから、西園寺公とか色々偉い人の所へ行つて、
 現在の情勢を話して見られては如何ですか 」
「 そう何時も何時も行く訳にはゆくまい 」 ・・次官
「 相澤中佐の公判が来年になれば始まりませうが、其の際は徹底的に調べて戴かねばならぬと思ひます 」
「 裁判長も定まつて居るから、確かりやるであらう 」 ・・次官
「 武藤中佐はよく真崎閣下の宅へ行かれると云ふ話ですが、実際ですか 」
「 乃公は知らんが、村中なんかに言はすれば武藤の悪口ばかり云つて居る。
 統制派とか、何派とか云ふが、解らないじやないか 」 ・・次官
右の様な話を終り、閣下のお宅を辞する前に、私から、
「 国体明徴問題を確かりやらなければ、血が流れるかも知れません 」
と 云ひますと、次官は 確かりやる 」 と云はれました。

右の問答の中にム「 今の間迄つて解散に賛成したら云々 」 と云ふ事は如何なる意味か
一木、金森問題を今の儘に解決せずに放つておいて、議会の解散に賛成したら、と云ふ意味です。

眞崎大将を磯部と訪問したと云ふが、それは何時頃か。
私が第一回に次官を訪問した翌二十三日、千葉県歩兵学校に行き、
翌日戸山学校を見学して、其の帰途 真崎大将を訪問したのですから、確かに二十四日です。
第二回に磯部、村中と共に次官を訪問したのは、其の翌日の二十五日であることは間違ひありません。

陸軍次官訪問の際、眞崎教育総監罷免問題につき話があつた様に磯部が言ふが、如何
其の話は第一回に、私一人で御訪ねした時にあつた様に覚へて居ります。
確か私から、
「 眞崎大将が辞表を出しておらないのに、教育總監を罷免せられたのは、統帥権干犯ではありませんか 」
「大将は辞表を出して居られると云ふことであるから、統帥権干犯にはならないであらう 」
夫れで私は、
「 そんな事はないでせう 」 と云つて、
私の今迄聞いて居ることと違つて居るので、驚いた訳です。
右の話は、確か相澤公判に関する話の序に出たと思ひます。

右の總崎大将罷免問題に関する問答の、今迄との相違しあることを磯部に話したことがあるか
二十二日次官のお宅から帰り、直に磯部の宅を訪問して其の状況を話しました処、
磯部も非常に驚いた様子で、
「 そうかなあ。それはさつぱりだ 」
と言つた様に記憶して居ります。
尚、私は上京の序に真崎大将訪問を考へて居りましたので、其際磯部と共に大将訪問を申合せました。

總崎大将を訪問し、教育總監の辞表提出の真相を確かめることは、其時申合せなかつたのか
申し合はせたかも解りませんが、判然と覚へて居りません。

眞崎大将は辞表をお出しになつてあると次官が云はれた事を磯部が聞いて、
「 そうかな、それはさつぱりだ 」 と云つたと云ふが、夫れは何を意味するか
それは磯部等が相澤中佐の公判は
眞崎大将を中心とする統帥権干犯を骨子として進めやうと思つて居つたので、
最早や其の事実が論ぜられなくなつたため、さつぱりだと云つたと思ひます。
私もそれが事実であれば、同感であると思ひました。

十二月二十四日、磯部と二人で眞崎大将を訪問したのは何の為か
前にも申上げました様に、眞崎大将には何となくお会ひしたかつたためもありますが、
昭和維新に成るべく早く社会情勢を向はせる為には 上の方でやつて戴くことを御願したい為と、
私が上京後、次官から真崎大将の辞表提出に関し意外な事柄を聞き、
之が真否を確かめたいが為とであります。

眞崎大将訪問の際には如何なる問答があつたか
私等二人で午後五時頃御訪ねし、御宅の応接室にて、私と閣下とは次の問答がありました。
「 閣下は教育總監の辞表を出された相ですが、如何ですか 」
「 そんな事を誰が言つたか 」 ・・眞崎
「 さあ、誰と云つても、一寸聞いたのです 」
眞崎答なし。
「 相澤中佐の公判の時、証人として呼ばれたら出られるのでありますか 」
「 御許しがあれば、出なければならない 」 ・・眞崎
其時、眞崎は磯部の方に向つて、
「 永田が殺された時、君等がやつたのではないかと思つた 」 ・・眞崎
「 相澤中佐は立派な人ですなあ 」 ・・磯部
「 此の事件は重大な事だから、徹底的にやつて貰はなければいけません。
 辞表を出されたと云ふが、一体どうするのですか 」
「 俺はそんな弱い事はしておらん。
 相澤は命迄捧げたんだが、俺は其処迄行つて居らんが、そんな弱い事はしておらん 」 ・・眞崎
「 国体明徴問題とか今度の相澤公判がうまく行かないと、うつかりすれば、血が流れるかも知れません 」
「 それはそう云ふ事になるかも知れんが、
 俺はそんな事を云ふたら若い者を煽てゝ居る様に云ふから、どうも困るのだ 」 ・・眞崎
「 それでは、閣下が西園寺公とか、其他の偉い人を訪ねられて、一般の社会情勢を云つたらどうですか 」
「 そうだな。然し、俺の今迄の経験では、そんな話をするのには三時間もかゝるのだが、
 老人が三時間も聞けるかどうか解らんからなあ 」 ・・真崎
「 然し、そんな事は当然やらなければいかんではないですか 」
「 まあそうだな 」 ・・眞崎

眞崎大将に対する右の問答に於て、社会情勢に就ては尚詳細に説明せなかつたか
右の問答の程度以上には説明しませんでした。

其方は前に陸軍次官を二回訪問した時も、社会情勢が此の儘に放任せられると、
血を見るかも知れんと云つておるが、それは何して左様な事を言つたのか
国体明徴問題がやかましいと言はれ、相澤公判が尖鋭化するの傾きがあり、
国内一般の空気から見て、此儘にすれば何となく血を見る様に判断せられて、
そんな事はでかしたくないから言つた丈です。

眞崎大将に西園寺公訪問等を勧めたのは如何なる考へからか
西園寺公等に、右に言ひました様な現在の一般社会情勢を充分に知つて戴き、
真に輔弼の責を尽して貰ふ様にしたい考へから申上げたのです。

其の様な考へは、真崎大将も持つて居ることが察せられたか
それは判りません。

其方は簡単な言葉で、西園寺公訪問を勧めたに対し、眞崎大将が
「そうだなあ。俺の今迄の経験には、そんな話をするのには三時間もかゝる、云々 」
と 答へられたのは、何の事か判断し兼ねるではないか
平素から教育總監時代の閣下の訓示等を聞き、相澤中佐からも色々聞いて居つたので、
眞崎大将は充分に時局を認識せられあるものと以前より考へて居りましたので、
其の様な答も矢張り私と同じ様な考へで言はれたと直感しました。

其の方が 「 血が流れるかも知れん 」 と云ひ、
眞崎大将が それはそう云ふ事になるかも知れん、云々 」
と 言つた時、如何に思つたか
閣下は吾々の様に維新的状勢に対する時局に対し、相当突込んだ考へを持つておらるゝと思ひました。

眞崎大将を訪問して帰る時、如何なる感を持つたか
非常に立派なる御方だと感じました。

其翌日、第二回目の陸軍次官訪問の際、眞崎大将辞表提出の真否にさき、
次官と眞崎大将との言葉の創意に関して、再び訊ねはしなかつたか
「 眞崎大将は確かに辞表を出して居られません 」
と私が言つたと思ひます。

外に申立つることなきや
別になにもありません。


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