あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

43 二・二六事件湯河原班裁判研究 1 『 被告人らの経歴と思想 』

2016年05月30日 10時30分58秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二  被告人らの経歴と思想
1  河野壽
湯河原班のリーダー河野は、熊本陸軍幼年学校から士官学校に進み、
昭和三年一〇月陸軍砲兵少尉に任官した生粋の軍人である。( 陸士第四〇期 )
昭和九年に航空兵ニ転科し、一〇年八月には航空兵大尉に進級している。
河野は、同年一〇月から操縦科学生として所沢飛行学校に在学中であった。
いつ頃から革新思想の持主になったかは定かではないが、
昭和九年秋満洲に赴任する彼を東京駅に見送った実兄河野司は、
ホームで当時すでに軍を追われ要注意人物の村中孝次を紹介されて心中穏かでないものを感じたというから、
・・・(1)
河野司 『 私の二 ・二六事件 』 ( 1971年、河出書房新社 )  61頁

遅くともその頃には同志の契りを固めていたものと思われる。
磯部と河野は、昭和一一年一月頃一人一殺を誓い合い、
磯部は林銑十郎、河野は牧野伸顕をつけ狙っている。
・・・(2)
予審官の磯部浅一に対する昭和11年6月15日付証人尋問調書

このように、河野は急進派の中でも最右翼の一人であった。
決起計画は、昭和一一年二月一〇日歩兵第三聯隊での会合で初めて具体化されたが、
河野はその出席メンバーの一員であった。
彼はその席上で、牧野は自分がやると宣言した。
そして、一六日の午後には単身拳銃を携えて湯河原に赴き、牧野を探し求めている。
しかし、牧野の滞在先を突き止められなかったため、この単独行動は失敗に終わった。
河野は、実兄がいくら妻帯を勧めても、頑として応じなかったという。
・・・(3)
河野司 『 私の二 ・二六事件 』 ( 1971年、河出書房新社 )  63頁

後に述べるように、事件後河野は熱海の衛戍病院で自決を遂げている。
享年二八歳であった。

2  水上源一
水上は北海道瀬棚郡に生まれ、函館商船学校から日本大学専門部政治科を経て、
昭和九年三月同大学法学部政治学科を卒業し、弁理士を営んでいた。
もっとも、収入は月に二、三○円程度にしかならず、郷里の実兄の援助で生計を維持していたという。
事件当時二七歳の彼には、妻と一人の娘がいた。
水上は、学生時代に共産主義思想が跋扈していることに危機感を抱き、
政治 ・経済・社会問題の研究を始めたが、
やがて日本の資本主義経済機構に問題があるのではないかという認識を持つようになった。
革新運動に入った動機について、彼は法廷で次のように述べている。
「 ・・・・昭和五年ロンドン條約については、
 最初對英米日率最低七割でなければ國防の安全は期し得られずと主張し居りたるに拘わらず、
ついに六割何分にて條約を締結したるが、
これについても米國政府特使キャッスルが直接日本に乗り込み來りて誘惑し、
結局當時の内大臣牧野伸顕らは同特使より多額の金員の提供を受け、
わが全權をして譲歩せしめ、一方統帥權を干犯し、
以てかかる屈辱的條約を締結するに至ったのであるということを聞き、
更に、斯の國を擧げての關心たる満洲事變勃發し、
而も出征兵士の家族中には幾多悲惨の生活者あるのときに當たり、
財閥は國家國民を思わずドル買いにより私に巨利を博したる如く、
即ち、政党、重臣、財閥等特權階級は、何れも彼等の私利私欲のためには、
天皇も國家も、國體も國民も全然顧みないという有様にして、
是等は既に國民の常識と迄なって居るのであります。
茲に於て私は、彼等の爲めに歪められたる國體を何とかして匡さなければならぬとの氣持ちを抱くに至りました。
是、私が昭和維新運動をなすに至った、抑々そもそもの動機であります 」
水上も当初は合法的な運動を考えていたという。
しかし、意見を発表してみても、少しも反応がない。
これではとてもだめだという気持ちになりかけていたところに、
昭和七年五月、海軍士官らによる犬養首相暗殺事件が起きた。
いわゆる五 ・一五事件である。
水上は言う。
「 ・・・・まったくこれに共鳴し、
 自分も直接行動により、所謂昭和維新運動の捨石となろうと決心しました 」

水上は、同年五月中央 ・早稲田 ・慶応などの学生に呼びかけて、
救国学生同盟を組織した。
・・・(4)
救国学生同盟については、馬場義續 『 我國における最近の国家主義乃至国家社会主義運動に就て 』 ( 司法研究報告書集一九輯一〇号、1935年 )  628頁参照

その綱領は、
①  一君万民制の確立、
②  資本主義機構の改革
などであったが、彼の目的は、
真に維新運動の捨石となるべき人物を選び出すことにあったという。
参加者は四〇〇人にも達したが、
彼はその多くが自己の利益のために参加していることを知って失望し、
同年末にはこれを解散してしまった。
その後水上は、後述の救国埼玉挺身隊事件の関係者として検挙されたが、
釈放後の昭和九年二月には合法的政治団体の日本青年党を、・・・(5) 日本青年党については、前掲書804頁参照
また同年一〇月には在郷軍人の有志を集めて関東郷軍同志会をそれぞれ結成した。
しかし、官憲の圧迫がひどく、活動らしい活動はほとんどできなかったという。
水上は、昭和八年五月宇垣朝鮮総督暗殺計画の関係者として、約一月間西神田警察署に留置された。
また、同年一一月の救国埼玉挺身隊事件
 ・・・(6)
郷里の熊谷市で同志を指導していた吉田豊隆が、同志とともに、昭和八年一一月四日川越市で開催される立憲政友会関東大会に来会する
同党総裁鈴木喜三郎の暗殺を企てた事件で、大会前日に検挙された。
浦和地裁は、翌九年七月、吉田を懲役二年、他の六名を懲役いちねん六月から一年に処した。
宮本彦仙 『 社会思想の変遷と犯罪 』 ( 司法司法研究報告書集二〇輯一三号、1935年 )  354頁参照)

では、二月余りもの間埼玉県内のあちこちの警察署に留置されたが、
最終的には嫌疑が晴れて釈放されている。
水上が栗原と知り合ったのは、
昭和七年一二月幹部候補生として歩兵第一聯隊に入隊した友人山内一郎 ( 日大生 ) の紹介による。
爾来水上と意気投合し、山内や、後に埼玉挺身隊事件を起した吉田豊隆 ( 拓大生 ) らの同志も加えて、
国家改造運動についてしばしば協議していた。
栗原が指導するこのグループは、昭和八年九月二二日夜半を期して戦車数台を含む軍隊を出動させ、
西園寺公望、牧野伸顕ら重臣 ・政党首脳 ・財界人らを襲撃する計画を立てていた。
・・・(7)
救国埼玉挺身隊事件を捜査中にこの事件を探知した浦和地検は、
これを内乱予備事件として大審院検事局に移送し、同検事局は取調べを進めたが、
栗原らが 「 暴動を起こし本計画を実行するの真意の有無についてなお疑うべき点あり、
またこれ以上捜査を進むるの機に熟せざるものと認むるを以て、爾後の推移を厳重する 」 との理由で、昭和九年六月中止処分に付されたという。
現代史資料4 『 国家改造運動 』 1 ( 1936年、みすず書房 ) 137頁 ( 斎藤三郎 『 右翼思想犯罪事件の総合的研究 』 思想研究資料特輯五三号、1939年 )

これは西田税から察知され、厳しく叱責されて、暴発寸前で中止させられている。
・・・(8)
予審官の西田税に対する昭和一一年六月二日付第二回被告人訊問調書 ( 拙稿 「 二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 」 (二) ・獨協法学三九号17頁 )、
西田の第二回公判における供述 ( 同 (三) ・同誌四〇号344頁 )
検察官の磯部浅一に対する昭和一二年二月二一日付聴取書 ( 拙稿 「 二 ・二六事件北 ・西田裁判研究 」 同誌四二号138頁 ) 参照

実は、埼玉挺身隊事件は、この軍隊の出動中止に飽き足らない吉田らが企てた、
民間側同志のみによるテロ計画であった。
牧野らをなぜ奸賊と認めるのかという裁判官の質問に対して、水上は次のように答える。
これは、問いに答えたことにならないのだが、彼は論理の飛躍に気づかない。
「 私は、我が國體を考え、
 陛下の大御心は國民全體をして均しく恵擇せしむべきものと信じております。

然るに現狀は、一方に大富者あり、他方に貧者あり、一様になっておらぬのであります。
是、何故かと申しますに、これは畢竟するに翼賛の方法惡しく、
且、大御心を中途において横取りする牧野、齋藤らの
元老 ・重臣 ・財閥その他の特權階級があるために外ならぬので、
此の點より観察し、是等の者は奸賊なりといい得ると思います 」
水上は、現在の心境を次のように述べる。
「 今回の事件は餘りにも大きく、陛下の大御心を悩まし奉り、
 國内を一時にもせよ不安の思いをさせたことについては、誠に申譯ないと思っているものであります。
しかしながら、私の從來よりの信念には是が爲め少しも影響するところなく、微動だもしませぬ。
( 中略 )
( われわれが ) 今日のこのような境遇に立ち至ったのは、輔弼の責めにある者が、
私ら同志の本當の氣持ちを陛下に奏上し奉らなかったによるものと思います。
元老、重臣らは陛下と國民の間に介在し、中斷して、
上聖明を覆い、下國民を苦しましむるの一例證であります。
身はかかる輔弼者のために現在斯様な境地にありますけれど、
この度決起し、牧野を襲撃した點については、これが殺害の目的を遂げなかったにせよ、
維新運動史上何らかの役割を果たしたものと思っております。
將來維新實現の實が見えなければ、如何に宏なる牢獄を次々に増築するも、
とうてい私ら同志を収容し盡くせないであろう。
必ずや牢獄は内部より破壊さるるに至るものなることを、信じて疑いませぬ 」
このように水上は、民間人ではあるが、かなりファナイックな思想の持ち主であった。

3  宮田晃
宮田は茨木県猿島郡の農家出身で、商船学校を中退した後、
昭和四年一月に歩兵第七五聯隊 ( 朝鮮 ・会寧 ) に入営し、
昭和八年八月戦車第二聯隊 ( 習志野 ) に転属となつた。
同一〇年一一月には陸軍歩兵曹長に進級し、同時に満期除隊となっている。
宮田と栗原との出会いは、戦車第二聯隊においてであった。
栗原は、昭和八年五月から約二年間聯隊に勤務したが、
その間下士官 ・兵に革命精神を植え付けるため、活発な洗脳教育を施している。
栗原の感化を受けて昭和維新への参加を誓った下士官 ・兵は、一時期かなりの数に上ったという。
しかし、栗原が昭和一〇年三月に転出するや、聯隊内の維新熱は急速に冷めてしまったが、
宮田はその後も栗原の忠実な弟子の一人であった。
除隊した宮田は、歩兵第一聯隊に栗原を訪ね、就職の斡旋方を依頼した。
栗原は、先輩の山口一太郎大尉にこれを頼み、
山口の口利きで、宮田は大森の日本特殊鋼合資会社に就職することができた。
彼はこれを非常に恩義に感じ、
「 決起するときは来い 」 との栗原の言葉に 「 喜んで死にます 」 と答えたという。
もっとも宮田は、就職させてくれた義理で決起に参加したものではなく、
この決心は昭和八年頃から変らなかったと述べている。
宮田は、現在の心境について次のように述べる。
「 私らのとった今回の行動の善惡はともかく、
 私ら下層階級の者として、社會の現狀を見て已むに止まれず、
直接行動より他にとるべき方法、手段なしと信じて決行したものでありまして、
現在においてもその信念に變わることはありませぬ。
( 中略 )
この度もも眞崎、荒木、柳川らの陸軍首脳部の人々が、
私らと同じ信念の下に率先して昭和維新の爲に盡力してくれておるとのみ信じておったので、
是等の人々が中心となってやるのだから、必ず決起の目的は達成せられ、
不成功に終わるようなことはないと絶對に信じておったのであります。
ところが後に聞く所によると、栗原中尉らは元軍人の磯部、村中らと一團となってことを決行したので、
軍首脳部では何も了解しておらなかったとのことで、
これでは、ただいま斯かる境地に立つのも致し方のないことだと諦めておりますと同時に、
この點は、さらによく考え直して見ればならぬと思っております 」
事件当時宮田は満二七歳、妻と二人の子供があった。

4  中島淸次
中島は、新潟県南魚沼郡に生まれ、
地元の小学校を卒業後前橋の姉の婚家の手伝いなどをしていたが、
昭和四年一月歩兵第三〇聯隊 ( 高田 ) に入営し、同八年一二月戦車第二聯隊に配属となり、
一〇年一一月陸軍歩兵曹長に進級して満期除隊となった。宮田と同年兵である。
彼は、昭和九年頃から栗原の感化 ・指導を受けるようになり、
やがて現在の重臣ブロックを倒し、天皇政治を確立することが急務であると考えるようになった。
宮田と同様に、この気持ちは除隊後も変わらなかったという。
中島は、法廷で次のように述べる。
「 漸進的改革を待っておれる間は結構でありますけれど、
 現在の國内情勢はそんなのんきなことを言っておるときではなく、・・・・最惡にして、
且 急進の場合にとるべき直接行動により維新を斷行するよりほか、
途がない・・・・・私は私として、この信念に基づき行動して居れるに拘らず、
今回決行するに際しては、何等信念なき者の如くみられ、恰も日雇い人足の如く扱われたかの感が起りました 」
この最後のくだりは、栗原 ・河野ら決行将校から同志扱いにして貰えず、
情報も満足に与えられないまま、一方的な命令 ・服従の関係のもとで、
将棋の駒のように扱われたことに対する不満であろう。
しかし、このように栗原らを批判した中島ではあるが、現在の心境らついては、
昂然と次のように言い切る。
「 現在の社會情勢を革新するの手段として私らが決起し、直接行動に出たことについては、
 今尚惡いことをしたとは思って居りませぬ。
私ら同志の今日の行動により、大なる意味においては必ずや社會がよくなるものと考えて居ります。
もし事實においてこれに反し、社會情勢が惡化するようなことがありとすれば、
それは、私ら決起したる者の決行の程度
及び襲撃の範囲が不足しておったために外ならぬと思うのであります 」
当時彼は二八歳、独身であった。

5  宇治野時参
千葉県東葛飾郡 ( 現松戸氏 ) に生まれ育った宇治野は、昭和七年一月入営の現役兵であり、
歩兵第一聯隊第一中隊に所属する陸軍歩兵軍曹 ( 二四歳 ) であった。
彼がいかに革命精神に燃えていたかは、裁判官から決起に参加した動機 ・理由を問われたのに対して、
「 私は、參加したのではありませぬ。強いて申せば、合流したのであります 」
と答ていることからも明らかであろう。
彼は、千葉県立葛飾中学校を一年で中退して上京し、呉服屋の店員見習いなどをしているうち、
蒲田にいた中国浪人深沢四郎を知り、三年間住み込んでその薫陶を受けた。
尊皇絶対と特権階級打倒の信念は、その頃に培われたという。
その彼の思想は、昭和一〇年一一月頃聯隊で栗原と相知るに及んで、
いよいよ確固たるものになって行った。
宇治野は、栗原と初対面のときに、
「 將校が社會問題を論じたり、
 鍬を持ったことのない者が農村問題を論じたとて、何がわかる。

それよりも將校は將校自らをまず改造し、
下士官をして眞の日本國の下士官たらしむべく敎育するのが急務ではなかろうか 」
と直言したという。
その反骨ぶりが窺われる。
彼が最大の標的としていた人物は、牧野伸顕その人であった。
彼は、法廷で次のように言う。
「 私は私として、自分が目標にしている牧野伸顕だけ倒せばよいと思っておりましたので、
 いつぞや栗原中尉と會った際にも、決行するときは私に牧野を撃たせて下さいと頼んでおいたことがあります。
今回牧野の襲撃部隊に振り當てられたのも、斯かる關係があったからではないかと思います 」
牧野を狙う理由を尋ねられて、宇治野は
「 君側の奸臣だと信じて居るからだ」
と答えるだけで、そう信じた理由については述べるところがない。
また、直接行動を決意した理由については、次のように述べる。
「 君に忠たるの途は、君の馬前で死ぬ場合/君を諫めて死ぬ場合の二つであると思います。
 私は、渡満して匪賊相手に死ぬよりも、渡満前に君側の奸を除き、
以て君を諫めて死ぬ方が、より以上忠たる所以と信じたからであります 」
しかし、彼は、栗原らが命令によって下士官 ・兵を出動させたことについては批判的であった。
以前に栗原からそのように企てを聞いたとき、宇治野は、
「 直接行動は必要だが、もともと國法に悖る惡いことだから、
 何の信念もない者を連れ出すことは良くないのみならず、決起將校の恥辱ではないか 」
と反対したという。
彼は、衛戍刑務所に収容されている叛乱部隊の下士官の多くが、自らの行動を泣いて悔み、
自らの将来について思い悩んでいることを指摘して、
「 彼等は信念なく、成功すれば將校となれるだろう、相當の地位にしてくれるだろう、
 多大の行賞が得られるだろうと思い、これを目途としておったものとしか思われない 」
と批判し、自分が栗原に忠告した所以もここにあったと述べる。
この点は、まさしく正論というべきであろう。

6  黒澤鶴一
黒澤は埼玉県秩父郡の出身で、
昭和九年一月に歩兵第一聯隊に入営した現役の陸軍一等兵であった ( 満二〇歳 )。
彼は最初機関銃隊に所属し、後に歩兵砲隊に転属となったが、
機関銃隊にいたときに栗原の指導を受けて啓発されるところがあり、
砲隊に移ってからも一週間に一度は栗原を訪ねて、指導を受けていた。
一月下旬と二月中旬の二回、栗原から、
「 覚悟はいいか 」 と真剣に尋ねられたので、
近々決起するのではないかと思っていたという。
黒澤は、入営前に西郷侯爵邸に住み込んで書生をしながら、
府立第五中学校の夜間部に通っていたことがあった ( 四年中退 )。
西郷家で、彼は上流階級の腐敗堕落ぶりを目の当たりに見せつけられ、
また、五 ・一五事件など刺激されて、特権階級打倒の思想を抱くようになったという。
黒澤は、現在の心境について次のように述べる。
「 直接行動の惡いということは、最初からわかっております。
 しかし、惡いと知りつつ、已むに止まれず決起するに至ったのでありまして、
現在においても私自らの考えが間違っておったとは思いませぬ。
しかし、今後は眞に僞らざる眞面目な生活を送りたいということを基盤にして、
さらに反省してみたいと思っております 」

7  黒田昶
黒田も埼玉県秩父郡の出身で、昭和六年一月に歩兵第一聯隊に入営し、
同七年七月に帰休除隊となった予備役陸軍上等兵である。
彼は、同聯隊で初年兵係教官だった栗原の指導を受けて、その感化を受けた。
除隊後は、農 ・養蚕業の家業を手伝っていた二四歳の青年である。
黒田は法廷で、多額の村債がある上、一戸平均八〇〇円もの個人負債を抱えた秩父の山村では、
「 村民は天衣粗食、家は雨の漏れるに任せ、尚且つ、喘いでいる狀態 」
であって、「 いかに励んでも食えない 」 と、その疲弊ぶりを訴える。
そして、これは 「 特権階級が陛下と国民の間に介在して、自己の利益のみを考えているから 」
であり、
「 國家改造は非常手段に訴えてでも速やかに着手せねばならぬと考えるようになった 」
と述懐する。
黒田は直情径行型の人物であったらしい。
彼は、単独で牧野伸顕と鈴木貫太郎に天誅を加えようと決意し、
二月一五日に家出して、栗原にその胸の内を明かにした。
しかし、お前ように興奮していてはだめだと叱られ、
少し頭を冷やすようにと宮田を紹介されたという。
黒田は、決起した目的について、
「 陛下の御仁政に、
 私ら農民や無産階級の者たちまでも
一様に浴し得られるような日本の社会情勢にしたいためであります 」
と答えている。

8  綿引正三
茨木県久慈郡出身の綿引は、県立茨木工業高校を経て、
昭和一〇年三月に日大専門部政治科を卒業した二一歳の青年であった。
卒業後も就職することなく、実家と先輩水上の家を行き来していた。
彼は、専門部在学中から国家改造運動に関心を抱き、
水上の指導のもとで救国学生同盟に加盟し、続いて日本青年党の党員となった。
綿引を信頼していた水上は、彼を日本青年党の学生の責任者の地位につけていた。
綿引は、昭和九年水上の紹介で栗原を知り、その後も水上に連れられて、ときどき栗原を訪ねていた。
彼は、いわば水上の舎弟分であって、二月二五日夜に栗原を訪ねたのも、
水上に誘われてのことであった。
綿引は現在の心境として、
「 一日も速やかに國體の眞顯現を祈るのみ 」
とだけ答えている。


43 二・二六事件湯河原班裁判研究 2 『 標的・牧野伸顕 』

2016年05月28日 15時17分24秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三  標的 ・牧野伸顕
1  「 君側の奸 」
湯河原襲撃部隊八名のうち三名までもが、かねてから前内大臣牧野伸顕を最大の標的としていたことは、
前にみたとおりである。
彼らは、牧野を君側の奸と信じて疑わなかった。
牧野を狙ったのは、彼らに始まったことではない。
一九三二年 ( 昭和七年 ) の血盟団事件では、四元義隆が牧野の暗殺を担当することとなり、
偵察を続けていたが、警戒が厳重のために着手には至らなかった。
同年五 ・一五事件では、リーダーの古賀海軍中尉の指揮のもと、
手榴弾 ・拳銃等で武装した一隊が内大臣官邸を襲っている。
もっとも、この襲撃は、なぜか門内に向かって手榴弾を投擲し、
警護の巡査一名を射撃して負傷させただけという形だけのものに終わっている。
・・・(1) 
当日、牧野は奥座敷で碁を打っていた。
牧野襲撃を形だけのものに終わらせたのは、大川周明の意向によるのではないだろうか。
大川は古賀に、行動資金として六千円もの大金を与えている。
その大川は、大正末期の大学寮 ・行地社以来、牧野から資金援助を受けていたのである。
牧野も一時期大川を信頼しており、たとえば一九二四ねん( 大正十三年 ) 七月十日の牧野日記なは、
「 大川と安岡 ( 正篤 ) が来て二時間にわたり時事について談話をしたこと、今日これら二人ほど真面目な有志家をみないこと、
 確かに信頼すべき人々と信じていること 」 が記してある  ( 伊藤隆 ・広瀬順皓編 『 牧野伸顕日記 』 一九九〇年 ・中央公論社 ・146頁 )。
五 ・一五事件の襲撃計画では、犬養 ・牧野の二人を殺害することになっていた。
しかし、検察官の池松武志に対する第四回尋問調書によると、古賀は牧野襲撃グループの出発直前に、
内大臣については威嚇的襲撃にのみ止めるという命令を出している ( 原秀男ほか編 『 検察秘録五 ・一五事件 』 Ⅰ・一九八九年 ・角川書店 ・205頁 )。
他のグループに属していた者たちはこの突然の計画変更を全然知らされておらず、
後にこれを知って不審がっている ( 検察官の後藤英範に対する第七回尋問調書、前掲書380頁 )。
松本清張も 『 昭和史発掘 』 4 ( 一九七八年、文春文庫 ) 260頁以下で、筆者と同様の疑問を提起する。

続く一九三三年 ( 昭和八年 ) の神兵隊事件でも、牧野は暗殺目標の一人に挙げられていた。
牧野に対する攻撃は、後述する一九三〇年 ( 昭和五年 ) 三月のロンドン條約問題以来執拗に続いていた。
同年七月には、「 国民新聞 」紙上に、牧野が條約締結について策謀したとの広告が出され、
・・・(2)
河井弥八 『 昭和初期の天皇と宮中 』 第四巻 ( 一九九四年、岩波書店 ) 113頁

翌三一年九月には暗殺を教唆するかのような激烈な牧野攻撃文が 「 新聞日本 」 紙上に掲載された。
・・・(3)
木戸幸一 『 木戸幸一日記 』 上巻 ( 一九六六年、東京大学出版会 ) 102頁

三二年六月、続いて九月にも 「 日本 」 紙上に同様の記事があり、
前者は昭和天皇の目にも止まったという。
・・・(4)
河井弥八 『 昭和初期の天皇と宮中 』 第六巻 ( 一九九四年、岩波書店 ) 114頁、175頁

一九三三年 ( 昭和八年 ) 八月、五 ・一五事件被告人の陳述として、
ロンドン会議に関して内大臣が加藤軍令部長の上奏を阻止した旨の記事が各新聞に報じられた。
これにはさすがの牧野も腹に据えかねたと見え、陸海軍大臣宛に、そのような事実は全然なく、
将来のために何らかの方法によって事実を明らかにしておきたいから、
とくに配慮を願いたいとの文書を発している。
・・・(5)
木戸幸一 『 木戸幸一日記 』 上巻 ( 一九六六年、東京大学出版会 ) 252頁、254頁

しかし、そのための効果的な手段は、何ら講じられなかった。
その結果、諸悪の根元は牧野だという評価が定着して行った。
牧野は、一九三六年一二月病気を理由に内大臣を辞任するが、
ノイローゼ気味であったようである。
・・・(6)
木戸幸一 『 木戸幸一日記 』 上巻 ( 一九六六年、東京大学出版会 ) 441頁、444頁


2  牧野の人となり
ここで、牧野伸顕 ( 一八六一--一九四九 ) の人となりをスケッチしておきたい。
・・・(7)
牧野の経歴については、牧野伸顕 『 回顧録 』 下巻 ( 一九七八年、中公文庫 ) 237頁以下所収の 「 年譜 」 ( 大久保利謙作成 ) によった。

牧野は、維新の元勲大久保利通の次男として生まれたが、生後間もなく親戚の牧野家の養子となった。
福井県知事 ・茨木県知事 ・文部次官などを経て特命全権公使となり、
一八九六年 ( 明治二九年 ) から一〇年間、イタリア、次いでオーストラリアに駐在した。
帰国して間もなく第一次西園寺内閣の文部大臣 ( 一九〇六年 ) に就任し、
さらに第二次西園寺内閣の農商務大臣 ( 一九一一年 )、第一次山本内閣の外務大臣 ( 一九一三年 ) を歴任し、
一九一八年の第一次大戦講和会議では、首席全権西園寺公望を助けて全権を勤めた。
その後一九二一年宮内大臣として宮中に入り、一九二五年三月、牧野六五歳のときに内大臣に就任した。
爾来一〇年間、常に昭和天皇の側近にあって政務に携わった。
牧野は、容姿端然として、一見近寄りがたい風格の持ち主であったようである。
これは、父大久保利通からの父子相伝だったかも知れない。
彼は、いかに誤解され、いかに悪評を立てられても、沈黙を守った。
策を弄し、積極的に行動する人物ではなかったようで、伝記記者は彼を 「 消極的、受動的巨人 」 と評している。
・・・(8)
下園佐吉 『 牧野伸顕伯 』 ( 一九四〇年、人文閣 ) 238頁

牧野は、その経歴にみられるように、内政 ・外交の両面に明るく、その人柄も慎重かつ堅実であった。
したがって、天皇の輔弼者としては適任であったといえるであろう。
また、彼は、思想的には元老の西園寺と同様に、親英米派、国際協調派のリベラリストであった。
彼に対する昭和天皇の信任は、この点でも厚かったようである。
しかし、この牧野の思想的立場こそが、右翼 ・軍部から奸臣呼ばわりされる最大の原因であった。

3  ロンドン條約問題
牧野が 「 君側の奸 」 というレッテルを貼られたきっかけは、
一九三〇年のロンドン海軍軍縮條約
・・・(9)
安部源基 『 昭和動乱の真相 』 ( 一九七七年、原書房 ) 17頁は、ロンドン條約を昭和動乱の導火線と評価している。

をめぐる軍令部長の上奏阻止問題である。
ロンドン会議とは、主力艦に関する一九二一年のワシントン軍縮條約に続いて、
補助官についての日英米間の軍縮のための会議であった。
この会議での日本の提案は、対米比大型巡洋艦七〇 ・〇%、軽巡洋艦五五 ・六%、駆逐艦七〇 ・〇%、
潜水艦九六 ・二% ( 七七、九〇〇トン )、合計七〇 ・三%であったが、
交渉の結果、対米比大型巡洋艦六〇 ・二%、軽巡洋艦七〇 ・〇%、駆逐艦七〇 ・三%、
潜水艦一〇〇 ・〇% ( 五二、七〇〇トン )、合計六九 ・七五%で妥協するかどうかという瀬戸際となった。
・・・(10)
岡田啓介 『 岡田啓介回顧録 』 ( 一九八七年、中公文庫 ) 62頁

軍縮の決意を固めていた浜口内閣総理大臣は、海軍部内の反対を押し切って條約を批准することとし、
四月一日閣議の了解を得て天皇の裁可を仰いだ。
しかし、ときの海軍軍令部長加藤寛治は、妥協案では国防の安全を期しがたいとしてこれに反対し、
三月三一日と四月一日の二回にわたって帷幄上奏を試みたが、
條約批准に熱意を燃やす鈴木貫太郎侍従長に阻まれて失敗に終わった。
・・・(11)
河井弥八 『 昭和初期の天皇と宮中 』 第四巻 ( 一九九四年、岩波書店 ) 48頁、49頁   
岡田啓介 『 岡田啓介回顧録 』 ( 一九八七年、中公文庫 ) 273頁    波多野勝 『 浜靴雄幸 』( 一九九三年、中公新書 ) 166頁  以下

この加藤の上奏を阻止した人物と目されたのが、内大臣の牧野である。
帷幄上奏は、軍事に関しては天皇を補佐する侍従武官長を経て行われる。
内大臣がこれに関与することは、官制上あり得ない。
また、侍従長がこれに口を出すのも、もちろん越権である。
しかし、海軍の大先輩で軍令部長の前任者でもあった鈴木は、
自己の優越的立場を最大限に利用して、このような措置に出たものと思われる。
いずれにせよ、牧野はこの問題に直接関与しておらず、巷の噂は濡れ衣というべきであった。
しかし、前述のように、牧野攻撃はその後もますます激しさを増し、
ついに鈴木共々二 ・二六事件で襲われる結果となったのである。


43 二・二六事件湯河原班裁判研究 3 『 牧野邸襲撃 』

2016年05月26日 15時25分17秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四  牧野邸襲撃
1 反乱計画の確定
将校班 ( 香田清貞以下二三名 ) に対する判決書によれば、反乱計画が最終的に確定したのは、
昭和一一年二月二二日の夜、栗原安秀の自宅においてであった。
この夜の謀議に加わったのは、村中孝次、磯部淺一、河野壽それに栗原の四名である。
この席で、同月二六日午前五時を期して一斉に決起することと、
次のような役割分担が決められている。
一、栗原は、一隊を指揮して内閣総理大臣官邸を襲撃し、総理大臣岡田啓介を殺害すること。
一、中橋基明は、一隊を指揮して大蔵大臣高橋是清を襲撃し、同人を殺害した上、できれば皇居坂下門において重臣の参内を阻止すること。
一、坂井直は、一隊を指揮して内大臣齋藤實私邸を襲撃し、同人を殺害すること。
一、安藤輝三は、一隊を指揮して侍従長官邸を襲撃し、侍従長鈴木貫太郎を襲撃し、殺害すること。
一、河野は、一隊を指揮して神奈川県湯河原町滞在中の前内大臣牧野伸顕を襲撃し、殺害すること。
( 以下省略 )
河野は、かねてから牧野をつけ狙っていたので、この日も自ら牧野襲撃を希望したのであろう。
しかし、当時飛行学校学生の彼には、手足となるべき下士官 ・兵が一人もいない。
結局河野は、歩一 ( 歩兵第一聯隊 ) から下士官 ・兵一〇名ぐらいを部下に貰って牧野をやることになり ( 憲兵調書 )、
その人選は栗原に一任された ( 予審官の昭和一一年三月一三日付栗原訊問調書 )。
河野は、二五日午前一一時頃、所沢飛行学校を腹痛と称して早退し、
千駄ヶ谷の磯部宅で背広に着がえて午後五時頃湯河原に着いた。
そして、伊藤屋旅館で澁川善助に会い、夕食を共にしながら、牧野が同旅館の貸別荘に滞在していること、
護衛が四人くらいいること ( 実際は一名 ) などの情報を得た。
澁川は、妻キヌを同伴して佐藤光佑という偽名で二月二三日から伊藤屋旅館に投宿し ( 検察官の鈴木久雄聴取書 )、
牧野の動静を偵察中であった。
河野は、夕食後牧野邸の周囲を一周して、建物の状況や地形を調べている。
ゴミを出し戸外に出た牧野邸の炊婦田附モトは、見知らぬ男が家の周りをうろつき、
しかも湯殿の裏は通行できるかなどと尋ねたことに不審の念を抱き、
護衛の警官皆川にそのことを報告した ( 憲兵の牧野峯子訊問調書 )。
しかし、まさかその翌朝襲撃されるとは夢想だにしなかったはずの皆川は、これを放置し、
一二時間後に非業の最期を遂げることになる。
こうして河野は、牧野邸の状況を十分把握して帰京し、
磯部宅で軍装を整えた上、二六日午前一時頃歩兵第一聯隊に到着した。

2  歩兵第一聯隊への集合
水上は二月二四日午後歩兵第一聯隊機関銃隊に栗原を訪問し、対ソ関係が緊張する折柄、
国家改造を断行しないと勝算を得られない旨熱弁をふるっている。
しかし、栗原は、ただ笑うばかりで答えなかった。
そして、水上が帰る間際に、
「 明日は宿直だから、午後九時頃遊びに来い 」 と誘った。
翌二五日午後九時頃、水上は和服姿で、これも和服姿の後輩綿引を同道して、第一聯隊を訪れた。
水上と綿引は、そこで思いもかけず明朝決起のことを告げられたのである。
水上は法廷で次のように述べる。
「 その際、同中尉より、いよいよ昭和維新を斷行するとのことを聞き、初めて知った次第であります。
 私は、挺身隊事件後は毎日のように憲兵や警官が私方に来るので、
いつぞやそのことを栗原に話したことがありますから、同中尉としてはことの発覚をおそれて、
いよいよとなるまで私に打ち明けられなかったものと思われます 」
その前日も栗原に会っているのだから、知らぬはずはあるまいとの裁判官の質問には、
水上は次のように答えている。
「 私も、挺身隊事件に関係して出獄した者その他同志の強硬分子が大勢ありますから、
 もしその際栗原中尉から話のあったものならば、これらの同志を一人でも多く誘って参加したはずであります。
突然決行することを告げられたため、同志と連絡するの暇がなかった次第であります。
民間同志としてはこの事情を知らず、私が誘わなかったことにつき怨んでいると思います 」
しかし、水上には妻子がある。
かねて覚悟の行動とはいえ、あまりにも突然の告知に心の動揺はなかったであろうか。
綿引は次のように言っている。
「 水上は私に、『 やることがわかっていたら君に言うのだが、僕も知らなかったこととて失礼した 』 と言いました 」
宮田は、二月二一日頃栗原から、戦車隊の同志を連れてくるようにという予告めいた電話を受けていた。
しかし、具体的な呼びかけは、二四日勤務先への 「 二五日午後八時に来い 」 との電話であり、
その用件は告げられなかった。
それでも忠実な宮田は、就職運動のため前橋に行っていた中島を電報で呼び寄せ、
たまたまやってきた黒田も加えて、二五日午後一〇時三〇分頃三人で第一聯隊に赴いた。
宮田は在郷軍人の制服を着用していたが、ほかの二人は和服姿であった。
宮田は、法廷で次のように述べている。
「 栗原中尉の考えでは、私のような下っ端の者に打ち明けると決起前にことが暴露する危険があると思って、
自分たちの間では決定しておきながら、故意に決起間際となるまで打ち明けてくれなかったものと思います。
もし、少しでも前に打ち明けてくれておったら、貧困にして妻子のある家庭のこと故、
少しは後々のことも処理しておけたと存じます 」
宮田から電報で呼出された中島は、
「 あるいは決起するかも知れぬと思い、その決心をしてすべての後始末を 」 して上京したという。
しかし、その中島でさえも半信半疑であり、当日は和服姿で歩一に行っている。
事件前夜に決起を知らされたのは、現役兵として歩兵第一聯隊に勤務していた宇治野と黒澤についても同様であった。
二人とも、二五日の日夕点呼 ( 就寝前の点呼。午後八時ないし九時に行われていた ) 後に初めて事件への参加を呼びかけられている。
しかし、さすがに現役兵だけあって、二人が同様した様子はまったく見られない。

3  湯河原へ
こうして、三つのルートで集められた七人は、栗原から各自の紹介を受けた。
栗原は一同に対して、明朝いよいよ昭和維新断行のため決起するが、生死を賭けてやる気持ちがあるかどうか尋ねた。
もとより全員に異論のあるはずはなく、
栗原は決行計画のあらましを説明した上、
このグループの任務は、
河野大尉の指揮のもとで湯河原に滞在中の牧野内大臣を襲撃することであると告げた。
栗原によると、これを聞いた宇治野は勇躍していたという  ( 予審官の前掲栗原訊問調書 )。
栗原は、間もなく現れた河野を一同に引き合わせ、兵器 ・弾薬を手渡した。
一同が携行した兵器 ・弾薬は、
軽機関銃二丁、歩兵銃二丁、剣銃四丁、
日本刀四振、発煙筒若干、緑筒 ( 催涙ガス ) 若干、
実包数千発であった。
栗原の指図によって、水上 ・綿引 ・黒田は陸軍軍曹の、中島は陸軍曹長の肩章のついた軍服に着替え、
また宮田は自ら曹長の肩章を陸軍少尉のそれと交換した。

後の話だが、襲撃を受けて戸外に脱出した牧野夫人たちは、
屋敷を取り巻く軍服姿の被告人らを見て、一瞬軍隊が救援に来てくれたものと誤信している。
しかし、さすがに牧野は当初から事態を認識していたらしく、付添い看護婦に 
「 兵隊たちがやりに来たのでは仕方がない 」 と洩らしたという ( 憲兵の森すず江尋問調書 )。
後に検察官は、論告で被告人らの軍服着用を指摘して、皇軍の威信を著しく傷つけたと非難している。

出動準備を整えた一同は、二六日午前〇時三〇分頃、
栗原が現地戦術に行くと称して呼んであった二台のハイヤーに分乗して湯河原に向かった。
途中河野は人家のないところで停車を命じ、一同に牧野邸附近の要図を示して襲撃の手順を指示し、
軽機関銃は警官隊の妨害に対して使用するものであること、
銃器は附近の民間人を騒がせやすいから、なるべく使用しないこと、
目標の牧野以外はなるべく傷つけないこと、
警戒巡査が四名いること、
牧野殺害後は、生存者のうちの最古参の者が指揮をとって、首相官邸にいる栗原らの部隊に合流すること
などを指示した。
憲兵の検証調書は、伊藤屋旅館別館の所在地の状況について、次のように記す。
・・・(1)
伊藤屋旅館は現在も営業しており、貸別荘跡には伊藤屋所有の木造建物が再建されている。
権現橋は鉄筋コンクリート造りに架け替えられ、道路は拡幅 ・舗装されて自動車も通行でき、
また周囲には人家や温泉施設が密集する。
しかし、現場の地形そのものは、事件当時の面影を残している。
「 神奈川県足柄下郡湯河原町東海道線谷河原駅の西南方約三キロメートリ、
 静岡県との境界たる田方郡熱海町泉地区を距たる約二〇〇メートル、
温泉場を南流する千年川の上流藤木川に架したる権現橋の右岸を距たる約一五メートル、
俗称権現山の山麓斜面を開拓したる高さ約六メートルの断崖の上、
同町宮上橋上五六番地にして、付近は土地狭隘、かつ急坂をなし、人家の密度は中位なり 」
伊藤屋別館は、山を切り開いた高台に建てられた木造瓦葺き平屋建ての、
新築間もない建坪三九坪 ( 一二九平方メートル ) の建物であった。
牧野は、同年二、三月の二ヶ月間、五百円の家賃でこれを借り受けていた。
襲撃当日同家に泊まっていた者は、
牧野伸顕 ( 七六歳 )、同夫人峯子 ( 六七歳 )、孫の吉田和子 ( 二二歳 )、
・・・(2) 牧野夫妻の長女雪子と吉田茂 ( 後の内閣総理大臣 ) の間の長女で、後に麻生太賀吉と結婚した。
女中二人、看護婦一人、それに護衛の警官皆川義孝 ( 三一歳 ) の七人であった。
襲撃隊は、午前五時過ぎ頃権現橋の手前で下車し、約二〇〇メートルの坂道を登って目指す牧野邸に到着した。
この建物の裏手 ( 北側 ) は、検証調書のいう六メートルの断崖であり、
西側は山になっているから、表側、すなわち東と南からの攻撃だけで十分目的を達成できるはずであった。
河野は、現地で再度次のように襲撃の手順を指示している。
一  拳銃を携行する河野 ・宮田 ・黒田は、第一突入隊として裏口 ( 南側 ) より侵入する。
二  日本刀を携行する宇治野 ・水上 ・綿引は、第二突入隊として玄関 ( 東側 ) より侵入する。
三  軽機担当の中島と小銃担当の黒沢は、警戒隊として建物周囲の道路上の二個所に位置し、
     警官隊の警官隊の攻撃と牧野の脱出に備える。

4  襲撃
午前五時三〇分、河野は襲撃開始を命令した。
河野は自ら拳銃を構えて先頭に立ち、
宮田と黒田を従えて裏口の戸をたたき破って暗闇の屋内に侵入した。
廊下を進んでいると護衛警官の宮川が現れたので、河野はこれを捕え、牧野の部屋に案内するように命じた。
しかし、宮川は案内の途中に河野の隙を見て、隠し持っていた拳銃を発射し、
河野に一発、宮田に二発を命中させた。
しかし撃たれた二人もほとんど同時に撃ち返し、皆川はその場に倒れた。
河野は右胸を撃たれ、右腕がほとんど利かなくなってしまった。
後に熱海の衛戍病院で外科手術を受けていることから推測すると、盲管銃創だったのであろう。
宮田も、右側頸部貫通と左下腿部貫通の重傷を負った。
玄関先で銃声を聞きつけた水上は、裏手に回って屋内に入ったが、銃弾が飛んでくるので外に出て、
軽機を担当する中島を呼び、射撃を命じた。
しかし、軽機が故障して弾が出ないので、ぐずぐずしていては牧野を取り逃がすのではないかとおそれ、
建物への放火を思い立ち、玄関脇の壁に炭俵を立てかけ、マッチで火を放った。
室内から銃弾が飛んでくると思った彼は ( 皆川はすでに死に瀕していたから、これは水上の錯覚であろう )、
中島に命じて軽機で援護射撃をさせている。
火は、やがて屋敷をおおい、
絶命した皆川巡査を除く牧野家の一同は、雨戸を外して戸外に脱出した。
水上は後に裁判官から、
「 屋内には牧野だけではなく、その家族 ・使用人らがいたのだが、これらの者に対してはどう考えていたのか 」
と詰問され、
「 牧野殺害の目的を達するための最前の方法を選んだまてで、家族などのことは考え及びませんでした 」
と答えている。
水上は、牧野の脱出を警戒し、
他の者に対して 「 奸賊を逃すな 」 と呼びかけて注意を喚起し、
また、消防に駆けつけた住民に対しては、抜刀して、
「 軍隊が出動しているのだから、大丈夫だ、手出しをするな 」
と叫んで威嚇し、消火活動を阻止した。
宇治野は、屋内に向けて拳銃を乱射し、
黒澤は集まってきた群衆に対して、小銃で威嚇射撃を加えている。
黒澤は逃げまどう婦女子の中に牧野らしい人物を認めたので、
これを狙い打ちしようとしたが、河野から危ないから止めろと言われ、
自分でも危険と思ったので、射撃を諦めたという。
石垣の下から燃えさかる火を見上げていた黒田は、
脱出した婦女子の中に白衣を着て黒布をかぶった牧野らしき者を発見したので、
「 天誅 」 と叫びながら三、四発拳銃を発射した。
ところがその一弾は、牧野をかばっていた看護婦森すず江の右腕に当たった。
すず江の悲鳴を聞いた黒田は、
「 自分の妹を撃ったような 」 思いにとらわれてたじろぎ、射撃を諦めてしまった。
このため牧野は、裏山に避難して九死に一生を得た。
綿引は、屋内に向けて拳銃を発射し、また、消防手の接近を威嚇して阻止した。
負傷した二名のうち、宮田は自動車に戻って横臥し、
河野は玄関前の路上で刀を杖にして身体を休めていた。

以上が、証拠によって認められる現場における各人の行動の概略である。
こうして伊藤屋別館は、ほぼ全焼した。
しかし、牧野が持って行っていた橋本関雪の絵だけは、奇跡的に灰燼に帰するのを免れたという。
・・・(3) 下園 ・前掲書210頁
後に黒澤は、
「 襲撃が失敗に終わった最大の原因は、互に知らない者の寄り集まりにあったと思う 」
と述懐し、
また栗原は前掲の予審調書で、杜撰な襲撃計画を指摘している。
指揮者たる河野が部下の名前さえ知らないという、超インスタントな部隊編成が失敗の最大の原因だが、
地上戦闘に不慣れな飛行機乗りの河野がリーダーとなったことも、その一因ではなかったであろうか。

5  事件後の行動
午前七時頃、牧野邸が焼け落ちたのを見た襲撃隊は、牧野を仕留めたものと即断して、
負傷した宮田を近くの回春園医院に入院させた上、帰途についた。
・・・(4) 同医院の跡地には、現在平間歯科医院が建っている。
しかし、負傷のため声がほとんど出なくなった河野は、
途中で進路を変更して車を熱海町荒見場三九番地にある東京第一衛戍病院熱海分院に向けた。
河野は、同病院で直ちに外科手術を受けている。
おそらく、右胸部の弾丸を摘出したものと思われる。
手術後、河野は水上を呼んで、急を聞いて駆けつけた憲兵の指示に従うように命令した。
次官もかなり経過しており、とても無事に東京までは行き着けまいと判断したのであろう。
一同は命令に不服であったが、
午前一〇時、河野を病院に残したまま憲兵に従って三島憲兵分隊に赴き、縛についた。
河野の予後は、順調であった。
しかし、決起が失敗に終わり、同志らが収監されたことを知った彼は、自決を決意した。
三月四日、河野は、見舞いに訪れた兄の司に果物ナイフの差し入れを頼んだ。
短刀などの鋭利な刃物を使えば楽に死ねるが、それでは死後に累を他に及ぼすおそれがある。
これに反して、果物ナイフなら、病室にあったとしても少しも不思議ではない。
彼は、あえて切れ味の悪い果物ナイフを選んだのである。
三月五日午後三時三〇分頃、河野は病室を抜け出し、敷地の外の空き地に端座して、
古式に則り、刃渡り八センチの折り畳み式果物ナイフで切腹した上、
返す刃で頸動脈を突いて自決を企て、翌六日午前六時四〇分絶命した。
内府の刃は、ボロボロに滅していたという。
・・・(5) 河野司 ・前掲書35頁
河野の遺書の一項には、
「 ・・・・陸軍兵器資材ノ整備、殊ニ航空ノ充実ヲ図リ、至急空軍ヲ独立セシメ、
 列強空軍ト対立セシムルヲ要ス・・・・」
とある。
しかし、彼の悲願は、ついに敗戦に至るまで達成されることはなかった。


43 二・二六事件湯河原班裁判研究 4 『 裁判 』

2016年05月24日 06時19分57秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
五  裁判
1  公判の審理状況
自決した河野を除くその余の七名は、東京衛戍刑務所に収容され、
予審手続きを経て、昭和一一年四月二四日東京陸軍軍法会議に基礎された。
検察官香椎浩平名義の控訴状によると、
・・・(1)
訴訟記録には控訴状が編綴されていないので、原秀男ほか編 『 検察秘録 二 ・二六事件 』 Ⅲ ( 一九九〇年、角川書店 ) 62頁所収の 「 予審終了報告 」
と、同書104頁所収の 「 公訴提起命令 」 及び 「 控訴状 」 によった。

罪名は全員反乱罪の 「 諸般の職務従事者 」 ( 陸軍刑法二五条二号後段 ) とされている。
・・・(2)
陸軍刑法第二五條  党ヲ結ビ、兵器ヲ執リ、反乱ヲ爲シタル者ハ、左ノ區別ニ從テ處斷す。
一  首魁ハ死刑ニ處ス
二  謀議ニ参与シ、又ハ群衆ノ指揮ヲ爲シタル者ハ、死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ處シ、
     其ノ他諸般ノ職務ニ從事シタル者ハ、三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

三  附和雷同シタル者ハ、五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
被告人らは、第四公判廷で併合審理を受けた。
裁判長は陸軍歩兵中佐人見秀三、
法務官はその後北一輝 ・西田税 ・亀川哲也の審理に関与した陸軍法務官伊藤章信、
判士は陸軍砲兵大尉根岸主計、陸軍歩兵大尉石井秋穂、同杉田一次、
補充裁判官は陸軍騎兵大尉吉橋健児であった。
また、立会検察官は、陸軍法務官石井一男である。
第一回公判は、昭和一一年五月五日午前一〇時に開廷され、
陸軍軍法会議法四一七条によって、審判は非公開とされた。
・・・(3)
陸軍軍法会議法第四一七條  本節中審判ノ公開ニ関スル規定ハ、之ヲ特設軍法会議ノ訴訟手續ニ適用セズ

特設軍法会議のため、被告人らには弁護人を依頼することも許されない。
人定質問の後、水上 ・宮田 ・中島の順序で伊藤法務官の被告人尋問がおこなわれた。
翌六日の第二回公判では、
残りの者について、宇治野 ・黒澤 ・黒田 ・綿引の順で被告人尋問がなされている。
被告人らは、いずれも率直に犯罪事実を認めた。
しかし、彼らは、天皇と国民を騒がせたことについては恐懼し、謝罪の意を表したが、
自らの行動については、誰一人としてこれを悔いなかった。
彼らは、その全員が確信犯だったのである。
これは、将校班の一部の者が、公判で泣き言めいたことを述べたのと対照的である。
その供述の内容は、すでにそのあらましを紹介したので、ここでは省略する。
第三回公判 ( 同月七日 ) では、
予審官の各被告人尋問調書、
陸軍司法警察官 ( 憲兵 ) の河野壽に対する尋問調書、
検証調書などの書証の取調が行われた。
これで検察側の立証を終え、
裁判官は被告人らに対して、利益となる証拠があれば差し出すことができる旨を告げたが、
被告人らはないと答えている。
第四回公判 ( 同月一〇日 ) では、
検察官の論告 ・求刑と各被告人の最終陳述があって結審し、
判決日は追って指定すると告げられた。
論告 ・求刑と被告人らの最終陳述については、項を改めて紹介する。

2  検察官の論告 ・求刑
検察官の論告は、諸言 ・事実論 ・情状論 ・法律論の四部からなる。
以下、事実論と情状論のうち、重要な個所のみを抄録する。
(一)  事実論について
一  事実及び証明 ( 省略 )
二  本件決起の目的
本件は、一部の青年將校が北輝次郎、西田税らの矯激なる思想に心酔し、
民間同志と相結託し、私に兵力を使用し、多数の重臣顕官を殺害し、武力をもって枢要中央官庁等を占拠し、
民主的クーデターを敢行し、軍上層部に対し、いわゆる昭和維新断行を要請し、
その意図に即する後継内閣をして時局を収拾せしめ、
日本改造法案大綱の趣旨に基づき革新を計らむことを期し決起したるものにして、
本件被告人らはその目的 ・企図 ・認識の点においては多少相違するところあるも、
大体において同一目的の下にこれに参加するに至りたること、疑いを入れず。

三  本件決起の動機
( 前略 )
要路の重臣を除けば、直ちに国民の窮状を打開しうるもののごとく考えたるは、被告人らの認識不足なり。
今日各方面における窮状は、我が国のみの現象に非ず。
世界各国共通の現象なり。
もって、その原因の深刻複雑なるを知るべし。
破壊のみにより、断じて現下の窮状を救済し得るものに非ず。
これを要するに、被告人らは自己の偏狭なる判断にとらわれ、社会の一方面のみにと着眼し、
多方面の観察を怠り、大局の判断を誤るに至りたるものなり。

四  本被告人らの反乱参加の事情
被告人らは、かねてより社会問題に関心を有し、施政に対し疑念を抱き、
革新思想を所有し居りたるところ、
栗原安秀と相知るに及び、その所説に深く共鳴し、その信念を強め、
ついに直接行動の避くべからざる所以を確信し、爾来同志となり、
昭和維新運動に参加し、決起の時機を待望し居りたる者なり。
( 中略 )
各人につき論ずれば、
黒澤 ・中島は、栗原の感化 ・指導を受け、その人格に敬服し、確固たる信念を獲得し、
参加するに至りたるものなり。

宇治野は、栗原に感化 ・啓蒙せられたるも、根本の思想はかねてより抱懐せるところにして、
栗原の勧誘に盲目的に従いたるものに非ず。
年来の信念を決行せむがため、栗原らの行為に合流するに至りたるものなり。
また、牧野に対しては、従来より我が国を蠱毒する有害の人物なりと私に思惟し、
同志決起の際は自ら同人を暗殺すべく、栗原に対しかねて申し出ておりたるものなり。

黒田は、在隊栗原の感化 ・指導を受け、帰郷後も同人と相連携し、革新の意識濃厚なるものなり。
本件勃発前二月一五日国家革新のため牧野伸顕、鈴木貫太郎ら重臣に天誅を加うる必要ありとなし、
わざわざ郷里より上京し、栗原に進言したることあり。
( 中略 )
水上 ・綿引は、幼時より父兄の感化を受け、あるいは郷土の関係より皇国精神を注入 ・薫育せられ、
愛国の念に燃え、国家革新の先駆者たらむことを決意し、
日本大学在学中救国学生同盟または日本青年党等に関係し、
右翼運動に従事し、栗原と相知るに及び、共に事を挙ぐべき人物なりとし、
同志として相連絡し、決起を待望し居りたるものなり。
而して水上は、西田 ・澁川らとも関係あり。
西田に対してはこれを先生と呼び、昨年一二月までしばしば会合し、その啓蒙を受け居たるものにして、
なお同人は栗原より約三〇〇円の交付を受け、民間同志の獲得に努力したるものなり。

宮田は、中島と共々戦車隊に勤務中その指導啓蒙を受け、国家革新の同志となり、
当時下士官数名に対し啓蒙運動をなし、「 核心 」 「 皇魂 」 を交付し、
同人らの意識向上ら努め、除隊後も栗原と連絡し、待機し居りたるものなり。

五  犯行の原因
1  国権国法の無視 ( 省略 )
2  怪文書の横行
本件首謀者らは、昭和維新断行のため、同志の獲得 ・啓蒙の手段として多数の怪文書
を頒布し、
同志の意識向上に専心しおりたるものなり。
これら文書の大部分は、確実なる証拠に基づくものに非ず。
巷説を主とし、自己の主観を加え、扇動的記事を記載し、
重臣大官らの中傷讒誣を事となし居たるものにして、被告人らもこれら怪文書の影響を受け、
正鴰なる判断を誤り、事実をなんら批判することなく軽信するに至りたるものなり。
3  日本改造法案大綱の感化 ( 省略 )
4  自ら国士または志士なりと爲す正確
本件犯行は、被告人らがその同志を以て忠君愛国の所有者なりとし、
昭和維新を論ぜられば人に非ずと爲すは、かえって被告人らの偏見を立証するものなり。 ( 後略 )

(二)  情状論について
一  本件犯行の重大性  ( 省略 )
二  合法的手段を尽くさず ( 省略 )
三  出所進退に遺憾の点あり
一死報国は、被告人らの常套語なり。
真に国家を憂え、本件を敢行したらむには、速やかに出処進退を決し、
闕下に謝罪し、毀誉褒貶は後世の史家にまつこそ、憂国の士たる態度なり、
しかるに被告人らは、ことここに出でざるのみか、今にしてその非を飾るものあるは、
臣子の真道を弁えざるものといわざるべからず。

四  軍紀をみだり、皇軍の威信を傷つけたること
被告人宮田、中島は在隊中、宇治野、黒澤は現役軍人として、事前において昭和維新運動の同志となり、
軍紀上もっとも忌むべき結党を形成し、横断的結束をなしたるものにして、
軍秩をみだり、軍紀を破壊してることは大なるものあり。
宇治野、黒澤は当時軍籍にありたるにかかわらず、現役軍人たるの本分に背き、
かつ所属上巻を無視し、統帥関係なき栗原安秀の招致により参加したるものにして、
その本分に背き、統帥をみだりたる点は、その情状とくに重きものなり。
被告人らは、何れも軍服を着用し、参加したるものにして、この点に於て、皇軍の威信を傷つけたること大なり。

五  非人道的行為
( 前略 ) 被告人らは、本件襲撃に当たり携行したる軽機関銃を単に警戒に使用したるに止まらず、
屋内に乱発し、あまつさえ牧野伸顕を焼殺せむがため貸別荘に放火かるに至っては、
匪賊の行為と何等選ぶところなし。
放火は古来より御法度にして、極刑を以て望みたるたるところなり。
被告人らがかかる残虐なる手段を以て襲撃を敢行したるは、人道上最も非難攻撃すべきものにして、
切に糾弾を要するところなり。

六  被告人の心境
被告人らは、いずれも国家革新の意識濃厚なるものにして、今尚その非行を反省せず、
幾度でも国家革新の捨石たらむことを明言せるものにして、
何等改悛の情なく、将来決起の可能性あるものと信ず。

七  結果
( 前略 ) 被告人らは、反乱部隊の一部として参加したるものならば、
反乱より生じたる全結果に対し責任を負うべきは、論をまたざるところなり。( 後略 )

3  求刑
検察官は、被告人全員を反乱罪の 「 諸般の職務従事者 」 として、
水上 ・宇治野 ・宮田 ・黒田の四名に懲役一五年、綿引 ・中島の二人に懲役一三年、黒澤に懲役一〇年の刑を求めた。

4  被告人らの最終陳述
(一)  水上源一
私の氣持ちは、學理的に観察しては判りませぬ。
檢察官は、尊皇絶對の信念は等しく同胞の堅持するところなりと言われましたが、
牧野伸顕は加藤寛治大将の帷幄上奏を阻止して統帥權を干犯し、
これが帝國議會の問題となるや時の内閣總理大臣加藤友三郎は、兵馬の權は議會にありと明言したのであります。
・・・(4)
これは水上の記憶違いであり、ロンドン條約締結時の内閣総理大臣は浜口雄幸 ( 一八七〇--一九三一 ) である。
私は、陛下にあらせらるゝと判斷するものであります。
また、天皇機關説問題にしても、陛下は會社の社長と同様なりや。
なお、満洲事變後、政治家は軍部より頭を押えらるゝところより軍民離間策を講じ、
軍部が國防充實の爲めに相當の軍事費を豫算に計上せむとするや、
時の大蔵大臣高橋是清は農村疲弊の現狀を見ろと絶叫したのであります。
これらの例をしても、なおかつ尊皇絶對の信念は全國民の等しく抱懐せるところとなりと言い得るでしょうか。
斷じてしからずと答えざるを得ないのであります。
何れにせよ、國民はひとしく私らの行動に對して感謝しており、
從って、これがため軍隊に對する信頼を裏切ることなく、依然軍隊を絶對に信頼するものと思います。
ただ、宸襟を悩まし奉ったことについては、恐懼に堪えませぬ。

(二)  宮田晃
現在、各國共々悩み居るは、國防、ことに航空機の問題だと思います。
現在の飛行機は完全なりといえませぬ。
世界を一周し得る飛行機こそ、初めて完全である。
將來は必ずやこの完全なるものが完成されるでありましょうが、
これが完成の早き國ほど世界を征服し得ると思います。
わが國民はひとしく思いをここに致し、お互いに國防問題に關心を持ち、
平面計畫を立體化し、世界各國に先驅けて一日も早く現狀を改革し、
何事も先驅すべきだと思います。
また、現状は實際國民の疲弊はその極に達しております。
よって、至急これが對策を講じて頂きたいと思います。

(三)  中島淸治
何も申し上げることはありませぬ。

(四)  宇治野時參
私らは、もともと統帥權に基づかず行動しております。
しかし、これは所謂 「 君を諫めて死す 」 の場合に當たりむ、結局は忠節であります。
これに反して、たとえば奉勅命令が出でたるにもかかわらずこれに抗するが如きは、
君を諫めた後のことにして、即ち逆賊であります。
私らは三を捨てて決行する。
しかし、決行した以上は、大御心の儘に動くという精神で行動したのであります。
( 中略 )
私ら牧野襲撃部隊は、奉勅命令の下される以前、すでに憲兵隊にいたのでありますから、
普通の反乱罪、すなわち惡い事をしたというので罰せらるゝならば喜んで服從致しますが、
奉勅命令に反抗した逆賊としては罰を受けるに忍びませぬから、
この點、特に申上げておきたいと存じます。
猶ほ、私の思想 ・行動については、よく考えた上、もし間違いなることに氣づけば改めます。

(五)  黒澤鶴一
檢察官は、私らの考えを以て偏狭 ・獨斷なりと論告せられました。
もちろん無智でありますから、ある點に於て偏狭であり、獨斷もあると思いますが、
支配階級にある者の裏面に於ける思想行動に非國民のところのあるのは、
爭われない事實であります。
又、檢察官は、尊皇絶對の信念は我が國民の等しく抱懐せるところのように言われ、
尊皇絶對 ・忠君愛國は
私らが勝手に私ら同志のみの専有の如き考えを持って居るという趣旨を述べられましたけれど、
私はこの非常時に際して捨石となるつもりで今回の擧に出たので、
決して尊皇絶對 ・忠君愛國は乃公一人なりとうぬぼれ、
志士然として參加したものではないのであります。 (後略 )

(六)  黒田昶
檢察官は私らに對し、偏狭なりと斷言せられましたが、
農村に於いて眞面目に働いて居る者はいくら働いても少しも目の出ることのない現狀を見て、
そこに何だか矛盾があるのでなかろうかというような考えを起すのは當然で、
私のみではないと思います。
又、非行を反省せずと言われましたが、
私は七度生れて敵を滅ぼすの考えはありますけれど、
社會の情勢を観察せず、盲目的に起つものではありませぬ。
終りに一言申し上げます。
農村現在の實情は、秩父暴徒蜂起當時以上に疲弊しております。
理屈でなく、實際に即したる農村救濟および在郷軍人の指導を講ぜられたいと念じて居ります。
( 後略 )

(七)  綿引正三
今次の事件につき宸襟を悩まし奉ったことについては、寔に恐懼に堪えませぬ。
然し乍ら、私は、歴史的に、家系的に日本精神を植え付けられ、
この精神が今回の事件に參加せしむるに至ったのであります。

5  判決
昭和一一年七月四日、第五回公判期日を翌五日午前一一時とする旨の命令が為され、
同日午後各被告人にその旨の通知があった。
こうして、七月五日に判決が宣告された。
この日、反乱実行部隊参加者全員に対して、一斉に判決が為されている。
判決は、ほぼ先に述べたような犯罪事実を認定した上、
水上を反乱罪の 「 群衆指揮者 」 と認定して、同人に死刑を宣告した。
又、その余の被告人については 「 諸般ま職務従事者 」 として、
一律に禁錮一五年の刑に處した。
水上の死刑はもちろんのこと、綿引 ・中島 ・黒澤の三名についても、
禁錮刑ではあるが求刑を上回る刑期が言い渡された。
然し、宇治野 ・宮田 ・黒田については、求刑が懲役刑であったから、
むしろ刑が軽減されたことになる。
水上が、どのような心境で死刑判決を受けたかは、わからない。
求刑が有期刑だっただけに、それは青天の霹靂だったのではないだろうか。
然し、残された遺書には、そのような心の乱れを感じさせるものは一つとして見当たらない。
・・・(5)
河野司編 『 二 ・二六事件--獄中手記 ・遺書 』 ( 一九七二年、河出書房新社 ) 401頁以下

同月一二日、水上は東京衛戍刑務所に特設された刑場に於て、
反乱将校たちとともに銃殺刑に処せられた。
享年二八歳であった。


43 二・二六事件湯河原班裁判研究 5 『 判決の問題点 』

2016年05月20日 15時38分01秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第43号 ( 1996年12月 )
論説
二・二六事件湯河原班裁判研究
松本一郎
一  はじめに
二  被告人らの経歴と思想
三  標的 ・牧野伸顕
四  牧野邸襲撃
五  裁判
六  判決の問題点
七  おわりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六  判決の問題点
1  反乱罪の正否について
判決は、その理由中で、牧野襲撃の事実を適示する前に、
「 栗原ら二十数名の者らが兵員を引率指揮し、内閣総理大臣らの官私邸を襲撃して重臣 ・大官らを殺傷し、
 他方帝都の枢要部分を占拠して国権の発動を妨害した 」
旨の事実を掲げている。
しかし、この適示が、東京部隊の行為をも被告人らの 「 反乱行為 」 として認定した趣旨なのか、
それとも牧野襲撃行為の事情として掲げた趣旨なのかは、必ずしも明らかではない。
判決が、右事実に続けて、被告人らが 
「 栗原より前記襲撃目標、決起の日時及び実行計画の概要を説示せられ、
 かつ被告人らは亡元陸軍航空兵大尉河野壽指揮の下に、
神奈川県湯河原町伊藤屋旅館貸別荘に滞在静養中なる、
前内大臣牧野伸顕を襲撃暗殺すべき任務を授けられるや、
いずれも勇躍してこれに参加せむことを快諾し 」 と説示しているところからみると、
おそらく前者の趣旨であろうと思われるが、
そうだとすると、後述のように証拠適示の関係で問題が生じる。
これに対して、もしも後者だとすれば、
判決は、被告人らについて、牧野襲撃行為それだけで反乱罪が成立するという解釈をとったことになる。
この場合には証拠上の問題は起きないものの、このような解釈論の妥当性が問われなければならない。
そこで、以下のこの点について若干の考察を試みる。

陸軍刑法二五條の反乱罪は、陸軍軍人が 「 党を結び、兵器をとり、反乱をなす 」 ことによって成立する。
「 党を結ぶ 」 とは、多数の者が同一事項の実行に関して意思を合一させることとか、
・・・(1)
菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 81頁。

共通の目的のために共通の意思をもって相団結することをいうとされ、
・・・(2)
日高巴雄 『 軍刑法 』 ( 新法学全集二四巻、一九四〇年、日本評論社 ) 23頁
「 反乱を為す 」 とは、国の権力の組織又は発動に対して、侵害を加える手段として暴行脅迫を為すこととか、
・・・(3)
菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 196頁。

暴行脅迫を以て兵力または官憲に反抗することをいうと理解されていた。
・・・(4)
日高巴雄 『 軍刑法 』 ( 新法学全集二四巻、一九四〇年、日本評論社 ) 24頁 

被告人らの牧野襲撃行為は、東京部隊の行動と切り離してそれ自体で、これらの要件に該当するのであろうか。
まず、自決した河野を含む牧野襲撃部隊の人員は八名である。
これで党を結ぶための要件である 「 多数 」 といえるかどうか、まず疑わしいが、
この点をさておいても、反乱罪の主体たり得る陸軍軍人の身分を有する者は、
そのうちわずか三名に過ぎない。
これを以て 「 多数 」 に当たるとは、とてもいえないはずである。
・・・(5)
菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 81頁は、
結党の要件としての多数人は、集団犯の本質から二、三人の者で足りるとすべきかは疑いか゜あるとし、
結局具体的事案において規定の趣旨を考え、社会的危険を生じ得るかどうかを調べて決定すべきであるとする。

もっとも、大審院の判例によれば、陸軍軍人の身分を有しない残りの五名についても、
刑法六五条一項の適用によって本罪が成立する。
・・・(6) 
大審院昭和一〇年一〇月二四日判決、刑集一四巻 1267頁
しかし、それは、身分者について本罪が成立した場合に、
それに共同した非身分者についても共犯の成立を認めるという趣旨に過ぎず、
「 多数 」 の認定について、身分者 ・非身分者を問わないとした趣旨ではない。
この問題は、軍刑法の趣旨と反乱罪の法的性質から論じなければならないであろう。
軍とは、国家防衛の任務を有する戦闘的機構ないし集団をいう。
その戦闘能力、すなわち戦力を保持するためには、軍の規律、すなわち軍紀の維持がきわめて重要である。
軍紀は軍の生命であって、軍紀の乱れた軍隊はその存在価値を失うに至る。
・・・(7) 
日高巴雄 『 軍刑法 』 ( 新法学全集二四巻、一九四〇年、日本評論社 ) 2頁 

そこで軍刑法は、その構成員である軍人に対して、一般刑法では罪とならない行為をとくに犯罪とし、
あるいはその刑罰を一般の場合よりも加重するのである。
このような軍刑法の趣旨から考えると、軍刑法犯罪の正否は、
原則的にその犯罪の主体たり得る軍人について論ずるのが当然といわなければならない。
軍刑法は、戦力保持の観点から集団犯罪をことさらに重視し、
一般刑法の共犯例のほかに、「 結党 」 「 党与 」 「 多衆聚合 」 という概念を設けて、
これらに対して厳罰をもって望んでいる。
・・・(8)
これらの概念については、菅原保之 『 陸軍刑法概論 』 ( 一九四三年、松華堂書店 ) 80頁以下参照

今ここでその詳細を述べることは差し控えるが、反乱罪はこの 「 結党 」 をその成立要件としている。
この反乱罪の法的性質からすると、党を結ぶ主体は、まさに先頭集団の構成員である軍人でなければならない。
以上の二つの理由で、
結党の要件である多数者の認定は、軍人の身分を有する行為者について論ずべきであると解する。
そうでないと、党を結んだ多数の者のうち軍人がわずか一名で、残りはすべて非軍人であった場合であっても、
反乱罪の成立を認めることになってしまう。
これは、本罪の性質を無視した、非常識な結論というべきであろう。

次に、「 反乱 」 要件への該当性について検討する。
牧野の暗殺を企てたことが、はたして 「 反乱 」 といえるかという問題である。
牧野はその前年に内大臣を辞しており、すでに 「 君側 」 を退き、悠々自適の身分であった。
このように、もはや国の権力組織の構成員とはいえない牧野である以上、
これを殺害することは、何等国の権力の組織 ・発動に侵害を加えることにはならない。
即ち、これだけでは反乱行為に該当しないというべきである。
以上の二点によって、東京部隊の行動と切り離した被告人らの牧野襲撃行為だけでは、
反乱罪の成立を認めることはできないと考える。
被告人らの行為を、東京部隊の行動を含めた反乱計画の一環と捉えてこそ、
初めてこれを反乱罪に問うことができるのである。

2  証拠法則違反
前項でみたように、被告人らの行為について反乱罪を適用するためには、
それが決起将校の反乱計画の一部であり、東京部隊の行動と合わせて 「 党を結び、兵器をとり、反乱を為した 」
事実が認定されなければならない。
東京部隊の行動は、被告人らにとってもまさに 「 罪となるべき事実 」 であるから、
これを判決理由中に示し、且、「 その事実を認めたる理由 」、すなわち証拠説明をすべきである。
・・・(9)
陸軍軍法会議法一〇一条二項  刑ノ言渡ヲ爲スニハ、罪ト爲るべき事実及其ノ事実ヲ認メタル理由竝法令ノ適用ヲ示スベシ
そこで判決をみると、全体の反乱計画と東京部隊の反乱行為についての適示は、
次のようなきわめて簡単なものである。
「 栗原安秀その他二十数名の同志が、所謂昭和維新断行の目的を以て相団結し、
 昭和一一年二月二六日午前五時を期し一斉に決起し、
かねて謀議決定したる部署に基づき、夫々所要の兵員を引率指揮し、
機関銃、軽機関銃、小銃、拳銃、その他の兵器竝びに弾薬を携行し、
内閣総理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、侍従長鈴木貫太郎、
教育総監渡邊錠太郎、前内大臣牧野伸顕らの官私邸を襲撃して、前記の重臣、大官その他の者を殺傷し、
一方警視廳を襲いこれを占拠して警察力の発動を阻止し、
又東京市麹町區永田町を中心とする帝都の樞要地域を占拠して交通を制限し、
国権の発動を妨害したる上、
陸軍首脳部に対し維新実現の爲めの建設耕作工作を爲さむとするに當たり、云々 」
はたしてこれで、法の要求する 「 罪となるべき事実 」 の判示として十分かどうか疑問なしとしないが、
この点はさておき、ここで問題としたいことは、
かかる事実を認定した証拠説明が判決書に欠けていることであり、
又、公判調書上この事実について証拠を取調べた記載がまったくないことである。
陸軍軍法会議法一一二条二項七号によると、朗読した書類等は公判調書の記載事項とされており、
また一一六条は、公判期日における訴訟手続きは公判調書によってのみ証明できると規定している。
したがって、調書に記載がない以上む、その手続きは為されなかったものといわなければならない。
本件牧野襲撃を取り仕切ったのは、前述のとおり栗原であったが、
その栗原の調書さえ公判廷には提出されていない。
・・・(10)
先に本稿で引用した栗原、磯部の調書は、他事件の証拠とされたもので、本事件の公判に提出されたものではない。
すなわち、本軍法会議は、証拠に基づくことなく罪となるべき事実を認定したのである。
もっとも、判例によると、公知の事実及び裁判所が職務上知り得た事実、
すなわち裁判所に顕著な事実については、証拠による認定を必要としない。
そこで、次にこの二点について検討を加える。
本事件の弁論集結は昭和一一年五月十日であるが、
当時はいまだ戒厳令施行中であり ( 解止は七月一八日 )、当局の発表以外一切の報道が禁止されていた。
したがって、国民は、いまだ事件の全貌を知る由もなかった。
このような状況であるから、東京部隊の行動が公知といえないことは論をまたないであろう。
次に、「 裁判所の顕著な事実 」 という場合の 「 裁判所 」 とは、
審判を担当する訴訟法上の意味における裁判所を指している。
したがって、湯河原班の裁判を担当した訴訟法上の意味における軍法会議がその職務上知り得た事実であれば、
証拠に基づかずしてこれを認定することが可能である。
しかし、当該軍法会議 ( 人見ノート ) は、湯河原班以外の裁判を担当していないから、
東京部隊に関する事実を裁判所に顕著な事実ということはできない。
もっとも、伊藤法務官は湯河原班以外に属する被告人の予審官あるいは検察官として、
又その余の判士はすべて兵班の判士として、それぞれ事件の概要を知り得た立場にはあった。
しかし、それは、当該軍法会議そのものが職務上知り得た事実ではなく、
あくまでも各裁判官の個人的知識 ( 私知 )に過ぎない。
したがって、かかる私的な知識に基づく事実については、立証が必要となるのである。

以上の検討から明らかなように、
本判決は、証拠によることなく犯罪事実を認定するという、

近代法の大原則というべき証拠裁判主義に反する重大な違法をおかしているのである
・・・(11)
陸軍軍法会議法三八三条  事実ノ認定ハ証拠ニ依ル

3  中島に対する法令適用の誤り
本判決は、水上 ・宮田 ・黒田 ・綿引にのみ刑法六五条一項、六〇条を適用し、
中島に対してはこれらの刑法の条項を適用していない。
しかし、中島は水上らと同様に、現役の陸軍軍人ではない。
したがって、同人に陸軍刑法を適用するためには、右条項の適用が必要である。
本判決はこれを遺漏しており、この点において法令適用の誤りがあるといわなければならない。

4  水上に対する量刑について
本判決は、水上を 「 群衆指揮者 」 と認め、同人に対して死刑を宣告した。
検察官は、水上を他の被告人らと同様に 「 諸般の職務従事者 」 として起訴し、
求刑も懲役一五年であった。
求刑を上回った綿引 ・中島 ・黒澤に対する量刑も問題であるが、
本稿では水上に対する死刑の選択について考察を加えることにする。

水上は、河野が負傷して戸外に脱出した後、先頭に立って屋内に侵入し、
中島に対して軽機の射撃を命じ、次いで放火を思い立って自ら建物に火を放ち、
他の被告らに牧野を逃がさないように注意を呼びかけるなど、事実上サブ ・リーダー的な役割を果たしている。
これらの行動をみると、同人を単なる諸般の職務従事者ではなく、
群衆指揮者とした本判決の認定は、むしろ正しかったように思われる。
そこで、次に量刑について検討する。
判決が水上に対して法定刑中の最高刑を選択したのは、
同人の果した役割が大きかったことのほかに、
右翼革命運動の指導者として活躍してきた同人のキャリアを重視したからであろうと思われる。
その経歴と思想の強固な点において、水上は他の被告人らとは格が違うからである。
しかし、被告人らが狙った牧野伸顕は、身をもって逃げることができた。
護衛警官の皆川が死亡したが、これは皆川の攻撃に河野らが防戦したため発生した、
偶発的ともいえる不幸な出来事であった。
人の現住する建造物にたいする放火行為は、水上の刑事責任を考える上で見落とせない要因であるが、
本件では、幸いにも放火行為による死傷者はなかった。
医師の検案書によると、皆川の死因は火熱のための焼死ではなく、
右胸部の二個所の銃創による失血死であって、判決もこの事実を認めているからである。
被告人らの射撃によって、牧野をかばっていた看護婦と消火に駆けつけた付近の住民の二名が負傷したが、
二人とも幸にそれほどの重傷ではなかった。
焼け落ちた建物の被害額は、家具類を含めて七、五〇〇円であるが、
そのうち五、〇〇〇円は火災保険でカバーされたはずである。
このようにみてくると、被告人ら、とくに水上の責任が重いことはいうまでもないが、
極刑を相当とするほどの重大な結果の発生はなかったというべきではないであろうか。

次に、水上の経歴について考える。
確かに同人は、筋金入りの革命家であり、確信犯である。
しかし、彼には検挙歴こそあるものの、前科はない。
したがって、通常の量刑感覚で考える限りは、いかに彼の前歴を重視したとしても、
死刑を導く要因とはなり得ない。
他方、被告人らは、本件犯行後河野の命令に従って、平穏裡に三島憲兵分隊に赴き、捕縛されている。
陸軍司法警察官 ( 三島憲兵分隊長 ) が作成した送致書には、
「 ・・・・厳重処分の要あるものと認むるも、犯行の原因、前述の如く憂国の至誠に出でたるものにして、
 決行後は潔く兵器を捨て、憲兵の指示を乞うに至れるものにして、その情状相当酌量の余地あるものと認む 」
とある。
このような、実質的には自首にも匹敵する犯行後の状況は、
通常ならば被告人らに有利に作用するはずであったが、本判決は、なぜかそれに一顧だも与えることがなかった。
これらの情状を総合して考えると、被告人らに対する量刑、とくに水上に対する死刑の選択は、
不当に重過ぎるといわざるを得ない。
・・・(12)
戒厳司令部が集めた判決の反響中に、
「 ことに湯河原組は軍関係者に比しとくに重し 」 ( 右翼ならびに弁護士方面 )、
「 湯河原組に対し同一主旨に基づくにもかかわらずとくに厳刑を科せば、判断に苦しむ 」 ( 在郷軍人 )
「 水上の極刑は意外なり 」 
などの意見がみられる。
松本清張編 『 二 ・二六事件  研究資料 』 Ⅰ ( 一九七六年、文芸春秋 ) 281頁

七  おわりに
最後に、裁判記録の検討を終えてその感想を二、三記しておきたい。
まず、被告人らが揃いも揃って、自らの行動を少しも悔いていないことには驚かされた。
まさに全員が確信犯であって、彼らは栗原の甘言に乗せられたわけではなかったのである。
その強固たる意思には脱帽のほかはないが、
問題と思われるのは、検察官が論告で指摘しているように、
被告人らの牧野に対する敵意が、
何らの証拠にも基づかない巷説を無批判に軽信した結果によるものであった点である。
前述のように、ロンドン條約に関する加藤軍令部長の上奏を直接阻止した人物は、
牧野内府ではなく鈴木侍従長であった。
国際協調派であった牧野が同条約の批准を希望していたことは疑う余地はなく、
したがって彼がその実現のため最善の努力をしたであろうことも想像に難くない。
その意味では、牧野に対する軍部と右翼の敵意は必ずしも的外れではなかったというべきであろうが、
少なくとも巷説のように、彼が直接加藤の上奏を阻止した事実はなかったのである。
しかし、牧野はロンドン條約以降相次ぐ怪文書によって、「 君側の奸 」 の筆頭に祭り上げられてしまった。
水上は、法廷で、牧野がロンドン会議を成功させるために来日したアメリカのキャッスル大使から買収されて、
わが全権に譲歩をさせたと述べている。
・・・(1)
原田熊雄 『 西園寺公と政局 』 第一巻 ( 一九五〇年、岩波書店 ) 22頁に、キャッスル大使の着任後、
政教社の同人五百木良三の子分が同大使を訪ねて詰問したところ、
大使から軍縮会議の使命 ・日米親善 ・世界平和などの問題について諄々と説かれ、
その真摯な態度と誠意に感激して帰り、大使の人格を賞揚したというエピソードが紹介されている。
アメリカ大使が一流国の高官に対して直接買収工作をするなどということは、
およそ常識的にあり得ないことといわなければならない。
しかも、牧野は、天皇の側近とはいえ単なる廷臣に過ぎず、
外交 ・政治に関して何らの発言権も有していないのである。
また、このような牧野がロンドンにある若槻礼次郎らの全権に対して、
条約締結についての指示を与えるようなことができるはずもない。
しかし水上は、そのような噂を信じて疑わなかった。
このような単純きわまる思考様式は、水上に限ったことではなく、他の被告人にもみられるところであり、
そこにデマゴトギーの恐ろしさを感ぜずにはいられないのである。

記録に収録されている証拠を検討した結果、
水上を群衆指揮者と認定した判決の判断には、
合理性があることがわかった。
したがって、同人に対する量刑がその他の被告人よりも重くなることは、むしろ当然というべきであろう。
しかし、それにもかかわらず、水上を極刑に処すべき理由は、ついに見出せなかった。
水上は、河野の亡き後のいけにえにされたのである。
ここに、きわめて政治的な東京軍法会議の実体が浮き彫りにされている。
思うに、陸軍は、水上を血祭りにあげることによって、
軍人に接触のある民間右翼を恫喝しようとしたのではないだろうか。
後に北一輝 ・西田税をなりふり構わず殺してしまったやり方とは若干構図を異にしているが、
なぜか担当法務官がどちらも伊藤章信であったことは、興味をそそられる点である。