あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

國士・中岡艮一

2021年11月14日 05時27分22秒 | 其の他


大正十年 ( 1921年 ) 十一月四日
原敬首相刺殺さる
下手人は十九歳の少年 『 中岡艮一 』


中岡艮一が書いたと謂われる斬奸状

斬奸狀
内閣總理大臣原敬就任

以來政道を掌どるに私慾を
かさみ己の利す處に万民の愁
苦を顧みず列國の笑侮を
悟らずに其の罪数奇
若し唾手以て之を誅
せずんば何時の日か天日を
迎えん
憂國士
中岡良一

 
中岡艮一
なかおかこんいち


---中岡艮一が原首相を東京駅頭に刺殺した当時、
自習室の黒板に誰が書いたか
「 吉良首相 東京駅頭に暗殺さる 犯人中岡良一十九歳 」
と ありしを、
犯人の二字を刺客に改書して 多数の友と論争し
「 苟いやしくも一國の首相を刺殺せんとする動機は、
彼が社會主義者や反國家思想者でない限り 
國家を思ふこと深甚なる國士的勇者に外ならぬ。
其の刺殺を決心したる心事は げに悲壯の極みである。
況や 原首相は一國政治の重任に當りて 
無理想の白紙主義を表明したる日和見的才子であり
華盛頓會議に國威を失墜せし人であり、
政友會の首領として所謂党弊の責任者である
犯人とは苟も 國士を遇する道でない。」
と 叫んで、
狂人の如く思ひなされし半歳以前のことを思ひ浮べつゝ。
然して暗殺の二字よりして、
曾つて宮中重大事件の時、
一切を長崎氏から聽取したる同人が校内に集合して執るべき道を協議せし際、
福永が余に短刀を示して
「 夜陰校を抜けて小田原に潜行し大奸山県を刺さん 」
と 憤叫して止まざりしに、
慰撫苦心せし一年前のことを思ひ浮べつゝ。
・・・西田税 ・・・リンク→戦雲を麾く 5 「 青年亜細亜同盟 」 


倫敦海軍條約 竝ニ 教育總監更迭ニ於ケル 統帥權干犯、
至尊兵馬大權ノ僣窃ヲ圖リタル 三月事件 或ハ 学匪共匪大逆教團等
利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
ソノ滔天ノ罪惡ハ流血憤怒眞ニ譬ヘ難キ所ナリ
中岡、佐郷屋、血盟團ノ先駆捨者、
五 ・一五事件ノ噴騰、相澤中佐ノ閃發トナル 寔ニ故ナキニ非ズ
而モ 幾度カ頸血ヲ濺ギ來ツテ 今尚些カモ懺悔反省ナク、
然モ 依然トシテ 私權自慾ニ居ツテ苟且偸安ヲ事トセリ
露支英米トノ間一触即發シテ
祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ 一擲破滅ニ堕ラシムルハ 火ヲ睹ルヨリモ明カナリ
内外眞ニ重大危急、
今ニシテ國體破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ 芟序除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
・・・ニ ・二六事件 蹶起趣意書 


政党政治の時代
大正七年 ( 一九一八 ) 九月に成立した原敬はらたかし内閣は、
戦前の日本における最初の本格的な政党内閣として有名である。
しかし、明治十年代の自由民権運動、大正初年の第一次憲政擁護運動などを見聞
もしくは経験してきた同時代の自由主義者にとっては、
国内政治における原内閣は、保守主義と金権政治の典型であって、
彼らの長年の期待を裏切るものであった。
第一次大戦後の世界的な民主化の時代には、その保守性は特にきわだって見えた。
それにもかかわらず、
民主主義者 吉野作造や社会主義者 山川均が、原内閣の成立を一応は歓迎したのは、
その前の寺内正毅まさたけの超然内閣と比較しての話であった。
国内政治における原内閣の保守性は、
大正九年 ( 一九二〇 ) 二月の 「 普通選挙 」 で誰の眼にも明らかになった。
ヨーロッパ諸国では男子普通選挙制は第一次世界大戦前、遅くとも大戦中は実現しており、
大戦後の民主化の課題は、政治的民主化ではなく社会的民主化であった。
そのような時に、
日本で最初の本格的な政党内閣は
男子普通選を尚早として衆議院を解散し、
民意を問うたのである。
陸軍の宇垣一成ですら、
制限選挙下の三百万人の有権者に残り九百万人に選挙権を与えるかどうかを問うのは
「 軍人の一団に軍隊の用不用を聞くが如きもの 」
と 嘲笑していた。
しかし総選挙で全議席の約六十パーセント ( 二百七十八議席 ) を獲得すると、
政友会は、
「 此選挙の結果に依て、
 普通選挙を即時断行することは非なりと云ふ決定を見て居る。
 是は国民の宣言である 」 
と断言したのである。
これ以後政友会はこの 「 国民の宣言 」 を楯にとって、
大正十年にも 十一年にも 十二年にも、普通選挙に反対しつづけたのである。

国内の政治的民主化には極端に保守的であった政友会は、
しかし、対外政策に関しては帝国主義的色彩がかなり弱かった。
これは政友会の伝統的体質といってもいいものであった。
日露戦争前には日露協商を唱えて戦争の回避を望み、
戦争の末期には無賠償でも早期講和を主張した。
また一九一一年末の中国辛亥革命に際しても、
陸軍の満洲出兵要求を海軍の強力をえて抑えた。
原敬と高橋是清の政友会内閣の対外政策は、
この伝統的な政策を一層推し進めたものであった。
一九一九年 ( 大正八年 ) のパリ平和会議では満蒙権益だけではなく、
大戦中にドイツから奪った山東権益の大半を確保して中国の五 ・四運動の非難を浴びたが、
それでも将来における返還は原則的には認めていた。
また 一九二一年から二二年のワシントン会議では、
海軍軍縮、九カ国条約、四カ国条約の締結に応じただけではなく、
会議の場を利用して負い米両国代表の仲介の下に、山東権益を全面的に中国に返還した。
中国では一九二三年 ( 大正十二年 ) にも二十一カ条廃棄の反日運動が起こったが、
二十一カ条中この時代に残っていたのは主として満蒙権益だけであった。
対英米強調と中国内政不干渉という日本のワシントン体制への適応は、
原内閣の手によって切り開かれたのである
・・・


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