あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

國家改造・昭和維新運動

2021年09月30日 04時58分31秒 | 國家改造・昭和維新運動

一君萬民、
國民一體の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、

日本の國民がほんとうに、
天皇の下に一體となり
建国の理想に向って前進することである

・・・青年将校の国体論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」 

國家改造・昭和維新運動
目次

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國家改造運動・昭和維新運動 1 
國家改造運動・昭和維新運動 2 
西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」 
西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」 

維新運動とは何か 

國体明徴と天皇機關説問題  ( ←クリック  ↓目次 )
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 1 「 そもそも 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 2 「 一身上の弁明 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 3 「 機關説排撃 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 4 「 排撃運動 一 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 5 「 排撃運動 二 」
 ・國體明徴 ・ 天皇機關説問題 6 「 岡田内閣の態度と軍部 」
 ・本庄日記 ・ 昭和十年四月九日 「 眞崎教育総監の機關説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」 
 ・國體明徴と天皇機關説
 ・國體明徴と相澤中佐事件
 ・國體明徴とニ ・二六事件
 ・本庄日記 ・ 昭和十年三月二十九日 「 自分の如きも北朝の血を引けるもの 」

「 兵農おのづから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に移り遂に武士になり 」
「 兵馬の賢は一向 ( ヒタブル ) に其武士どもの棟梁たる者に帰し 」
「 世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち 」
「 凡七百年の間武家の政治とはなりぬ 」
ああ 民主民生---高御座を荊蕀雑草の裡深くもうづもれ参らせたる大逆不忠
「 且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき 」
臣道背離、國體原理無視の民主民政制度機構----大逆不逞
神怒りて神劍を大楠公中楠公小楠公諸々の楠公に授け給ふ
非理法権天とは國體を生活する忠義の士の至極の心境である
高御座が本來在しますべき天の下日の本の大表最高所より不逞の逆賊等によりて
荊蕀の奥深くうづもれ参らせ奉りたるを見ぬふりせる山陽の
所謂七道風を望んで豹狼を授くるの軍人等高位を盗みて天日全く昏し
かの不逞大逆妄説機關説の払拭を以て或は
「 天皇機關説排撃、國體明徴などと余り騒ぎ廻るな 」 
と云ふが如き不逞大逆の幕府庇護の随意的表白をなすが如き將軍がこの
陛下の神軍の高位に存在することが果して許されるべきであらうか
天皇陛下萬歳を以て集結さるべき軍隊教育に何を教へんとするのであらうか
岡田總理大臣が英人ビカリングに語ったと伝へらるる 
「上からの民主政」----「機關説的不逞大逆」 に協力しつつあるが如き軍人が
現役に留ることが
果して許さるべきであらうか
その將軍が軍に於ける至高輔弼に座して安如泰然たるが如きは
寔に神州の絶大なる不幸ではあるまいか

・・・
皇魂 1 


『 我國ノ軍隊ハ、世々 天皇ノ統率シ給フ所ニソアル。
昔 神武天皇、躬ツカラ大伴物部ノ兵トモヲ率キ、

中國 ( ナカツクニ ) ノ マツロハヌモノトモヲ討チ平ゲ給ヒ 
高御座ニ即カセラレテ天下シロシメシ給ヒシヨリ、二千五百有余年ヲ經ス。

此間世ノ様ノ移リ換ルニ随ヒテ、兵制ノ沿革モ亦屢々ナリキ。
古ハ 天皇躬ツカラ軍隊ヲ率ヒ給フ御制ニテ、時アリテハ、皇后皇太子ノ代ラセ給フコトモアリツレト、
大凡兵權ヲ臣下ニ委ネ給フコトナカリキ 』
『 夫れ兵馬ノ 大權ハ、 朕カ統フル所ナレハ、其司々ヲコソ臣下ニ任スナレ、
其ノ大綱ハ朕親之を攬り、肯テ臣下ニ委ヌヘキモノニアラス 』
『 朕ハ汝等軍人ノ 大元帥ナルソ、
サレハ 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ、汝等ハ 朕ヲ頭首ト仰キテソ、其親ハ特ニ深カルヘキ。
朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ應シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマキラスル事ヲ得ルモ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡サルトニ由ルソカシ。
我國ノ稜威振ハサレコトアラハ、汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、
我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ、 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ尽サハ、
我國ノ創生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光輝トモナリヌヘシ 』
皇軍の本義
「 陸海軍々人ニ賜リタル御勅諭 」  明治十五年一月四日

・・・
皇魂 2 

内務當局は美濃部達吉博士の著作中二三の主要なるものを禁止處分に付した。
司法當局は博士其人を起訴すべきか起訴猶豫にすべきかを目下 「 慎重 」 に考究中だと云ふ。
文部大臣は全國管下各方面に対し、教育總監は全陸軍に對し、
「 國體は確立して居る。邪説に惑ふ勿れ、更に益々國體顕現に努力せよ 」
と云ふ訓論を發した。
相成るべくは、先づ此の程度或は稍々 やや 進んだ程度の處置を以て、
換言すればいい加減に鎮撫解決したいといふ官邊の意嚮の如くである。
元來、國體とは何ぞや。
それは単なる学説ではない。
國家の現實の問題であり、國民の生活行動上の實際の問題である。
即ち、國家としては政治的にも經濟的にも其他百般の部門に政治的經濟其他各部門的に發現さるべく、
されてあるべき性質のものである。
國民としては此の國家の各部門に於ける其の生活行動に、國民として體現實践すべく、
して居るべき意味のものでなければならぬ。

伝へ聞く、十一月廿日事件に連座した青年將校諸君に対する當局の處分理由に曰く
「 被告人ハ我國現時ノ情勢ハ腐敗堕落セシ所謂支配階級ノ横暴ト無自覺トニ依リ
宿弊山積シ國體ノ原理タル一君萬民君民一體ノ理想ニ反スルコト甚シキモノアリ
速ニ國家ヲ改造シテ政治上經濟上等各般ノ部門ニ國體減にヲ顕セザルヘカラス爲シ 」 云々と。
これだ! 實に盡し得て妙である。
「 國體を明徴にする 」 とは、美濃部博士の著者との処分ではない。當局の訓論ではない。
誠に國體は今日の日本に維新を要求すること火の如く急なるものがある。
維新を要望するものは區々國民ではない。
三千年の國體其者が國民の魂を透し、國民の魂に命じて要求して居るのだ。
□は今日の日本が國體叛逆の思想勢力によつて左右され、國體の原理が埋没せしめられて居るからである。
例へば
元老重臣等中心思想。
議會中心主義的政党政治思想。
資本主義、共産主義。並に亜流として其の中に介在する所謂金融フアツシヨ、國家社會主義、一國社會主義。
官僚 ( 幕僚 ) 中心思想。
等々。凡そ是等は悉く所謂天皇機關説又はそれ以上の邪道を實践しつつある所のものである。
一般に口を開けば重臣、政党、財閥、官僚、軍閥と云ひ、その駆逐打倒が維新の主働であると云ふ。
然らば、「 國體を明徴にする 」 ための此の國體叛逆勢力を打倒することは同時に維新であらねばならぬ。
「 機關説 」 排撃は、美濃部博士に次いで一木樞府議長へ、金森法制局長官へ、
其他同學系の諸氏へ、躍進轉戰すると共に、一切の非國體思想に進撃せねばならぬ。
これが戰ひ一たん収まる時、昭和維新の旭日は東天を染めて居るであらう。
再言する今日の國體明徴は、維新と同義語である。

・・・核心 ・ 竜落子 『 時局寸観』 


昭和九年九月
『 核心 』 創刊号の巻頭は、
澁川論文が飾っている。
『 破邪顕正身弘法--昭和維新の大核心 』
概括すると
まず、基底におかれるのは、
日本國家が人と人との関係についての ある理想的状態を表している、
あるいは 表わさなければならないという考えである。
絶對的に偉い 一君 が 上に在り、
下にふつうの人々が平等にたがいに結ばれてある。
上と下とは源をたずねれば一つであるので、
上下のあいだには信頼関係があり、
父と子のような情愛の念が流れている。
こうして、一君 と 萬民 は 
一大生命體國家 という全體のなかに融けこんでいる
 ----そういうのが本來あるべき日本國家の姿なのである。
・・・渋川理論の展開 


西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」

2021年09月29日 13時58分15秒 | 國家改造・昭和維新運動

陸軍に、はっきりした形で靑年將校運動なるものが、捉えられるようになったのは、
昭和五年十月の櫻會結成以後のことである。
それまでの隊附靑年將校の動きは、非合法であり上長の眼をぬすんで、
ひそかに、西田税などの指導で動いたにすぎなかった。
では、軍に、このような國家改造を志す靑年將校の一群が、どうして誕生したものだろうか。
すでに述べたように、
第一次世界大戰後の平和思想とデモクラシーの高潮、ロシア革命による共産主義の浸潤
などによる社会思想運動の勃興は、將校もまたその思想開眼を餘儀なくせられたが、
その運動のおこるには、それが起るだけの社会會惡、政治惡の多くが、そこにひそんでいることを知った。
これに、軍隊教育に任ずる若い將校は、直接かつ現実實に兵隊達の家庭、
それは小商人といわず、小市民といわず、貧農といわず、
その家庭の實體に触れて、その社會惡、政治惡の存在を確認する。
當時の軍隊兵員の四分の三は農村出身だった。
だから農村の困窮は、とりもなおさず兵の困窮である。
日夜兵隊たちと寝食を共にする若い將校たちの眼に映ずるものは、
飢餓線上にただよう小作農民の悲惨な生活であり、中小企業者の轉落であり、
失業にあえぐ労働者の生活苦であり、花街に身賣りする憐れな子女の姿であつた。
しかもそれら巷にあふれる悲惨な姿は、健全な社會、正しい政治でないことを直感する。
考えれば、それは、また、仁慈無限の天皇をいただく日本のほんとうの姿ではない、
どこか狂うた日本の姿である。
その狂いはどこからきたのか、そのこれを狂わしめているのは何者か。
もともと、兵の訓練に任じ強兵を思念する隊附將校は、國民生活の安定と嚮上を希い、
また、なによりも國家を至上としてその隆々たる發展を願っていた。
だが、その國は本然の姿を失うて思想は惡化し經濟は振るわず、國民は窮乏に沈んでいる。
これではいけない、日本の現状をこのままにしておくことは許されない、
若い將校はこうした義憤に燃えた。 ・・・リンク→後顧の憂い 「 姉は・・・」
しかも、外に眼を轉ずると、
そこには國威の伸暢どころか、英米に屈する無力な外交の姿があった。
隊附將校の國家革新への志嚮はこうしておこった。
要するに、隊附將校のこのような思想的基盤の上に、革新の種が蒔かれ、
しかもそれが時に應じて培われて、そこに、根鞏い靑年將校の國家革新運動、
即ち靑年將校運動が育成されたのである。
いうまでもなく、その革新の種とは、國家改造運動者の靑年將校への働きかけであり、
これを培うものとは、彼等を國家改造意欲にかりたてた、内外事情の發生であった。

 
陸士三十四期生 卒業記念
前列中央・・秩父宮  右上○枠・・西田税 


さて、陸軍士官学校三十四期といえば、大正十一年の卒業であるが、
この卒業生には秩父宮もおられたが、騎兵科士官候補生に西田税なるものがいた。
彼はすでに中央幼年學校の頃から、満蒙問題や大アジア主義運動に關心をもち、
士官學校に進んでは、北一輝、満川亀太郎らのもとに出入りし、
ことに、北の 『 
日本改造法案大綱 』 を讀んで
深くこれに共鳴感動し、國家改造を志嚮するようになった。
大正 十一年末朝鮮騎兵第二十七聯隊で騎兵少尉に任官したが、
大正 十三年には廣島の騎兵第五聯隊に轉じ間もなく胸部疾患のため、
大正 十四年七月に依願退職した。
軍服を脱いだ彼は、上京して行地社に投じ雑誌日本の編集に從事するかたわら、
當時大川周明の主宰していた大學寮の軍事學講師となったが、軍事學とは名のみで、
寮生に對し國家改造思想を吹き込んでいた。
記述のように大學寮はその頃日本革新の源流の観を呈し、
陸海軍靑年將校、陸士生徒などの出入りも多く、西田と靑年將校との接触も頻繁となった。
當時陸士生徒だった澁川善助や末松太平は、ここで西田を知ったといわれている。

・・挿入・・
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。
が亀居見習士官は大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、
一ツ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。
すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。 
乾門である。
右手に見上げるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。
その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。 
木造のちょっとした構えである。
案内を乞うと、
声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、
変哲もなかったが、つづいての、
「このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
・・・ 天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 


・・挿入・・
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 

さて、西田の行地社入りは、彼の國家革新運動の第一歩で、
北一輝の 『日本改造法案大綱 』を革命の聖典として、これが普及にのり出したわけだが、
北と大川の不和から行地社が分裂すると、西田は北の許に走り、
大正 十五年四月には北から 『 日本改造法案大綱 』 の版權を得て、いよいよ革新運動に乗り出した。
彼は代々木山谷に一戸を構え、ここを 士林莊 と稱した。
だが彼の古巣は陸軍だった。
その革新思想の啓蒙はいきおい軍の將校に向けられる。
西田は陸士卒業後も全国同期生の志を同じくするものには、たえず情報をおくりその思想の啓蒙に努めていた。
例えば 大正 十二年ヨッフェが後藤新平の招きにより、來朝したときは
北は ヨッフェに与える書 と題するパンフレットを全國にばらまいたが、
その文書は西田の手によって全軍同志將校に配布されていた。
それは西田の同志獲得の手段であり、
こうして彼の士林莊當時すでに數十名に及ぶ靑年将將校を同志として握っていた。
たしかに、靑年將校運動における西田税は絶對に見逃すことのできない存在である。
すでに述べたように、彼は陸士在學中より國家革新の洗礼をうけて、その志を固くしていた。
大正十一年 かれが在學中病を得て入院中、書き殘したといわれる
無眼私論 」 と題する一篇が最近發掘されて
『 現代史資料5国家革新運動 』 ( みすず書房 ) にのせられている。
一讀して、すでに彼が北一輝の國家改造法案に魅了されていることが理解されるが、
その大正維新という一文には、
「 今に於ては最早直接破壊のために劍でなければならぬ。劍である、そして血でなければならぬ。
吾等は劍を把つて起ち血を以て濺がねばこの破壊は出來ない、建設は出來ない。
神聖なる血を以て此汚れたる國家を洗ひ、而して其上に新に眞日本を建設しなければならぬ。
而して 天皇の民族である、國民の天皇である この理想を實現しなければならぬ。
噫、大権--神聖なる現人神の享有し給ふ眞理實現の本基たるべき--の發動による國家の改造
クーデッタ 吾等はこれを斷行しなければ無効だと信ずるものである。
--爆彈である、劍である。」 と書いている。
すでに一かどの白色革命の闘士だったのである。
陸軍士官学校
一體、陸軍將校を養成するこの學校には、いつ頃から革新の風が流れていたのだろうか。
五 ・一五事件には後藤英範ら十一名の陸士生徒が海軍將校らと行動を共にしたし、
昭和 九年の十一月事件にも武藤、佐々木、佐藤など五人の生徒が連座しているところを見ると、
そこに何かしら代々に伝わる革新の流れといったものが感ぜられることである。
たしかに、いかめしいこの武窓には昔から一つの風潮があった。
昔からといっても私がここに在学していたのは、大正の中期であったが、
その頃ここには大陸党とか金魚党とかいわれた一種の血盟があった。
もちろん、それは極く少數のグループであったが、
これらの人々は、わが國の將來の發展が大陸問題にあったためか、
支那、満洲に飛躍する志士、國士といった人々への強い憧れから、課業をよそに、
ひそかにその道の先達を求めて教を請うていた。
それは一面この學校教育の無味乾燥劃一性に反逆しての志向とも見られるのであるが、
これらの一群の人々は國の現狀に悲憤憤慨して、その行動ややもすれば常規を逸し、
いわゆる勤勉從順なる生徒ではなかった。
肩をいからし弊衣弊帽、口を開けば國家、國事を談ずる東洋豪傑ぶりを喜び、
かつこれを實踐していた人達であつた。
もとよりこうした行動や、人々の結びつきは、學校當局の容認するところではなく、
それはあく迄も非合法的な存在だったのである。
しかし、これが學校教育への反逆である限り、時と共に形を變えてくる。
或は國體信念に透徹しようと國體学究の門をくぐるものもあれば、
社會思想運動に興味をもち思想家の教をうけるものもあり、
時には文學にこって文學者に師事するものもあった。
そして西田のように國家革新、國家現狀の認識を高め
そこから現狀打開、國家改造への志嚮に奮い立つ一群も生れてきた。
こうした一群の人々は卒業して將校團にかえれば、
すでに一かどの自他共に許す革新將校であった。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』 
二 革新のあらしの中の憲兵 ・・から

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西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」 に続く


西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」

2021年09月27日 05時40分32秒 | 國家改造・昭和維新運動

昭和二年七月 西田は、
軍部、民間における少壯革新分子を糾合して鞏力な國家改造團體の結成を圖るため、
それらの革新分子に天劔党規約と題し急進的な革新意欲を盛った文章を配布した。
・・・リンク→ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
その同志録には七十一名の名がのせられていたが、
大部は大尉以下の隊附將校で、彼がこれ迄獲得した同志將校であった。
その天劔党規約は天劔党大綱、天劔党戰闘指導綱領よりなっていたが、
その大綱の中には、
「 天劔党ハ日本ノ對世界的使命ヲ全國ニ理解セシメ、
以テ日本ノ合理的改造ヲ斷行スル根源的勢力タルヲ目的トス
天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ普ク指導的戰士ノ結合ヲ計リ、
以テ全國ニ號令スルノ日ヲ努力ス 」
とあり、
また、その戰闘指導綱領には、冒頭に、
「 天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ全國ノ戰闘的同志ヲ聯絡結盟スル、
國家改造ノ秘密結社ニシテ、日本改造法案大綱ヲ經典トスル實行ノ劔ナリトス 」
といい、また、
「 古今東西凡テノ革命ノ成否ガ其國軍人軍隊ノ嚮背ニ存スルコトヲ知ラバ、
眞ニ近ク到來スベキ日本ノ革命ニ於ケル帝國軍隊ノ使命ガ、如何ニ重大ナルカハ考察ニ餘リアリト云ベシ。
然シテ革命指導者ノ中堅的戰士ガ、其ノ大部ヲ擧ゲテ軍隊ノ中ニ潜在協力シ、
軍隊外ノ同志ト秘盟聯絡シテ、革命ノ根源的勢力、軍人部隊ガ--劔ヲ國家其者ヨリ奪取スルコトガ、
不可欠ノ條件タルコトヲ悟得セザルベカラズ。
國家ノ革命ハ、軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ、最終トス 」
と 書いていた。
それは明らかに 『 日本改造法案大綱 』 に示す國家革命の主動力を軍隊に求めたものであった。
しかし、これが配布されたのは、昭和 二年九月のことであった。
彼の同期生では、片山、平木の両中尉、三十七期の菅波、村中、野々山の各少尉、
生駒、高村、両見習士官 ほか 四十数名に及んだ。
東京憲兵隊では特高課長坂本俊馬少佐が主となって、西田税を取調べた。
また、これが配布をうけた在京将校に対しても憲兵隊に出頭せしめ、
西田との関係を追及したが、名は秘密の結盟というが、実は西田の独創であることがわかり、
秘密結社としての存在を確認することができなかったので、
西田に対しては、将来を厳重戒告して釈放し、
配布をうけた将校は所属長において訓戒し その監督を厳重することにして、
この事件を解決した。
だが、何等の連絡もなく配布をうけた将校の中には、西田の勝手な独走に不快を示し、
西田との絶交を宣言するものもあり、一時は、西田の人気もおちた観があったが、
しかし在野における西田の存在は不動で、彼による隊附将校の啓蒙、獲得は、堅実に伸びていた。
だが、それらは、あくまでも秘密のものであったし、一つの結盟というには、なお程遠いものだった。
大岸頼好中尉
ところが、それから三年たって昭和五年に入ると、
一世を聳動した浜口内閣のロンドン軍縮にからんで、政府の統帥権干犯、
これにつづく宮中での加藤軍令部長帷幄上奏阻止の問題がおこった。
新聞もかきたてたが、革新右翼はいかった。
このとき陸軍に 「 兵火事件 」 なるものがおこった。昭和 五年四月のことである。
仙台陸軍教導学校の区隊長だった大岸頼好中尉は、
浜口内閣の統帥権干犯、
ことに、浜口政府が宮中の側近と結んで、加藤軍令部長の帷幄上奏
を阻止したことに痛憤し、
同志達に蹶起を促そうと、「 兵火第一号 」 を 四月二十九日 ( 天長節 ) 附を以て秘密出版し、
同志に配布し、さらに、引きつづき 「 兵火第二号 」 を印刷配布して、
同志を激発しようとした。
その第二号、戦闘方針を定むべしという項の中で、
一、東京を鎮圧し宮城を守護し天皇を奉戴することを根本方針とす。
     この故に、陸海国民軍の三位一体的武力を必要とす
一、現在、日本に跳梁跋扈せる不正罪悪--宮内省、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等々を明らかに摘出し、
     国民の義憤心を興起せしめ、正義戦闘を開始せよ
一、陸海軍を覚醒せしむると共に、軍部以外に戦闘団体を組織し、この三軍は鉄のごとき団結をなすべし。
    これ結局はクーデターにあるが故なり。
    最初の点火は民間団体にして最後の鎮圧は軍隊たるべきことを識るべし
と 書いている。
この革命の思想は、国家改造法案に通じ、
西田の天剣党の戦闘指導綱領に通じていることが注目される。
この檄文配布は憲兵の探知するところとなり、大岸中尉はもちろん、配布をうけた将校も、
ことごとく取調べられ その数三十数名に及んだ。
しかし、それは大岸中尉の激発的行動で、
そこには、いささかの計画準備と認められるものはなかったので、
憲兵は単なる説論に止め、その処置は所属長に一任した。
だが、西田を中心とした青年将校一連の結びつきは、天剣党当時よりは、さらに一歩の前進を示し、
このような行動にも出かねまじき状態にまで進んでいた。
その後の国内情勢は、国民は不況にあえぎ政党は利権の争奪に終始し、
外は幣原軟弱外交により満蒙の権益は危殆に瀕していた。
したがって、青年将校の啓蒙宣伝には多くの好条件をもっていた。
西田は北と結んで、その 「 改造法案 」 の実現のために、いよいよ軍の内部に同志の獲得をはかった。
しかも、その機会には、いつも恵まれていた。
東京及びその周辺には軍の実施学校がおおかった。
東京には、砲工学校と戸山学校があった。
千葉、習志野、下志津には、歩兵学校、騎兵学校、戦車学校、瓦斯学校、
野戦砲兵学校、飛行学校、工兵学校 ( 松戸 ) 等々、
ここには三ヵ月乃至六ヵ月の短期間、隊附将校を入校させて、普及ないし補備教育が行われていた。
将校団をはなれてこの短期間に、同志の獲得が行われ、革新の洗礼をうけて帰隊した青年将校は、
さらに、その将校団ないし衛戍地将校に、同志を拡げて行く。
だが、現役の軍人、軍隊を以て革命の中核とする、北、西田の思想は、軍にとっては危険なことだった。
「 改造法案 」 のみならず、
のちのニ・二六事件将校らの信条とした 「 順逆不二ノ法門 」には、
国家ノ革命ハ軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ、最終トス。
革命ハ暗殺ニ始リ暗殺ニ終ル。
近代武士ガ単ニ階級ノ上ナル者ト云フノミニ対シテ拝詭はいきする奴隷ノ心ハ、
階級ノ下ナル者ニ向ツテ増上尊大トナル。
近代武士ハ速ニ封建思想ヨリ脱却スベシ
と教えている。
それは軍の階級観念を消磨せしめ、下剋上思想を扶植し これを革命軍隊に導入しようとするもので、
軍隊存立上、許容すべからざる思想が、淊々と一部の青年将校の心根に流れていたのであった。
これこそ、軍の健全化を願う憲兵のもっとも力を注ぐべき軍事思想警察であったが、
憲兵も軍人であり、軍隊である限り、時代の悪弊の前に、国家改造運動に理解をもつと称していた。
そのために、これらに対する抜本的警察的処理に欠いていたことは、
結果として青年将校運動を助長せしめることになったといえる。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』
二  革新のあらしの中の憲兵 ・・から


國家改造運動・昭和維新運動 1

2021年09月25日 15時32分15秒 | 國家改造・昭和維新運動

昭和十一年七月十二日
十五名が処刑された時、獄中にあった西田税が
かの子等はあを
ぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもすおもふ 
と 歌ったように
「 涯なるくに 」 に 「 かの子等 」 は消え去ったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二・二六事件は、いわゆる 「 國家改造運動 」 「 昭和維新運動 」 が、
最大の規模の直接行動となったものである。
事件の決行者であった靑年將校らの敗北と処刑によってそれは終熄し、
「 運動 」 もまた、ここに大きな劃期を印すこととなった。
ここで彼等を行動にかりたてた「 國家改造運動 」、「 昭和維新運動 」
というイデオロギーの生れてくる過程を簡単に辿ってみる。
大正六年十月のロシア革命、
大正七年八月の米騒動、
大正七年十一月の第一次世界大戦の終結、
それにつづいて、戦後世界をおおった民族自決主義と世界的 「 改造 」 熱、
デモクラシー・自由主義の流行、
イタリーのファッショ独裁政権の出現、
こうした事件や状況を背景に、「 改造 」 という言葉が、新鮮な響きで人々に意識されるようになる。
雑誌 「 改造 」 は大正八年四月に創刊された。
吉野作造は民本位主義を提唱し、
日本共産党が大正十一年七月に非合法ながら結党された。
自由学園という名の学校も成立された。 ( 大正十年四月 )
この新しい改造時代の到来を如実に示す一つの例が老壮会の集りであった。
会の実質的世話人であった満川亀太郎は 『 三國干渉以後 』 ( 昭和十年九月、平凡社 )
老壮会の前身 「 夜光会 」の集りから老壮会になるまでの回想を記している。
この本の第十章は 『 改造運動揺籃期 』 と題されているが、
その冒頭の一節に左を引用して、この頃の運動家の持つ雰囲気を知る一端としたい。
米騒動によって爆発したる社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想とは、
大正七年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき一個の契機とさへ見られた。
一つ誤てば国家を台無しにして終ふかも知れないが、またこれを巧みに応用して行けば、
國家改造の基調となり得るかも測り難い。
そこで私共は三年前から清風亭に集まって、時々研究に従事しつつあつた三五会を拡大強化し、
一個の有力なる思想交換機関を作らうと考へた。
かくして老壮会は出来上がつた。
老壮会の創立第一回の会合は、大正七年十月九日午後六時清風亭に開かれた。
・・・・・。
この老壮会の会員の右派が、いわゆる 「 國家改造運動 」 の指導者や、各種団体の中心人物となった。
周知のごとく 北一輝は大正八年八月上海で まさに直截的な題名をもつ
『 國家改造案原理大綱 』 ( 後の 『 日本改造法案大綱 』 ) を 書き上げた。
なお大川周明は、この時期の改造運動の傾向について説明している。
それは
第一、無政府主義的、
第二、共産党となるもの、
第三、社会民主主義的、
第四、國家社会主義的、
第五、猶存社を中心とするもの、
の 五つであるとしている。
満川、北、大川は国家改造を画策し、
これを実現する運動の第一歩として猶存社を結成した。( 大正八年八月一日 )
大川は後に北と別れ 大正十四年二月十一日 ( 紀元節の日 ) に行地社を設立する。
このとき定めた行地社の綱領と機関誌 「日本 」 でのべた、いわば行地社宣言の一節には
「 行地運動は國家改造運動である 」 と 明確にうたっている。
同時に陸軍においても、
さきの大戦終結前後の内外の風潮や諸事件に無関心ではありえなかった。
とくに戦車、戦闘機、爆撃機、毒ガス等の新兵器の出現は、
これまでの戦略、戦術に一大転換を招来することを予想させるに至った。
また ロシア革命の勃発からロシアの単独休戦、
自國に敵の一兵も侵入せしめずして降伏したドイツの状況をみて、
今後の戦争はたんなる戦場の勝敗のみで決するのではなく、
思想、経済もまた戦争に大きく繰り込まれるものと判断した。
この判断は、本書の 「 國家総動員に就て 」 の解説でふれるように、
整備局の新設、内閣資源局の設置となって具体化する。
大正十四年五月の高田、豊橋、岡山、久留米の四個師団廃止を骨子とした宇垣軍縮の目的は、
結果はともあれ、歩兵師団を縮小して重機関銃、戦車、航空機の増強をはかったものであった。
こうした改造機運を陸軍の軍人としてもっとも端的に表明したのが陸軍大佐小林順一郎であった。
小林は陸軍砲工学校、同高等科を、ともに主席で卒業し、あえて陸軍大学には入らず、
フランスに駐在する。 ( 明治四十二年--四十五年 )
第一次世界大戦でフランス軍に従軍を命ぜられ、
大正五年八月から同十一年二月までフランスに駐在した。
彼はこの戦争に参加し、また講和会議での平和条約実施委員となって、
つぶさに新しい戦争における化学兵器の威力を目撃し、その体験、知識から、
日露戦争時とかわらぬ歩兵の肉弾戦を基幹とする我が陸軍の戦争方式に抜本的改革を行う必要を痛感し、
自分の意見をまとめて山梨半造陸相に提出した。( 大正十一年、小林四十三歳のとき )
しかしこの意見の容れられる余地の全く無いのを知った彼は、大正十三年二月 自ら軍籍を退いたのである。
フランス人を妻とし、陸軍でもっともフランス語に堪能であり、かつ砲工学校以来フランスで勉強した小林は、
野に下るや山梨陸相に提出した意見をもとに一著を公刊した。
この小林の意見がいかに抜本的であったかは、日本の陸軍を一度解散して新軍を編成せよという主張でも知られる。
そしてこの著の題名が 『 陸軍の根本改造 』 であった。 ( 大正十三年十一月、時友社 )
小林の場合は野にあっての提言であるが、現役軍人として陸軍を改造し、ひいては日本の改造を意図し、
それを着々と実行していった軍人たちがいた。
永田鉄山を中心とする軍人たちである。
彼等は昭和の初頭、双葉会、一夕会の名でしばしば会合を続け、方策を練っていたのであった。
その最初の具体的なあらわれが満洲事変であり、この事変の計画と実行には一夕会の会員であり、
共に論じあった仲間である関東軍高級参謀板垣征四郎、参謀石原莞爾、
陸軍省の軍事課長永田鉄山の緊密な協力が強く作用していたといわれている。
爾来日中戦争、太平洋戦争において一夕会に集まった軍人は戦争の指導者となり、
東條英機に代表されるごとく、政府の首脳ともなった。
彼らが実現せんとした改造とは、一言にいえば軍事はもとより、
思想、政治、経済のすべてを軍政の下に一元化する 「 國家総動員体制 」 を完成することであった。

しかしながら右のごとき陸軍の上級將校、とくに省部  ( 陸軍省、参謀本部 ) の枢要な地位にあった將校たち、
別の言葉でいえば 「 幕僚 」 による國家改造運動とはまったく別個の方式で、
同じく国家改造を目ざし 運動を続けた下級将校---憲兵隊の書類の上では 「 
一部青年将校等  と記載され、
通称では、「 靑年將校 」 と呼ばれ、勤務上の区分から 「 隊付將校 」 といわれた---の一団があった。
この軍人たちが後年 二・二六事件を起すのである。
彼等の 「 國家改造 」 とは何を意味し、どう実現するのか。

西田税 
ここであらためて考えられるのは西田税の存在であろう。
西田は陸軍士官学校在学中 北の 『 支那革命外史 』 に大なる影響を受け、
当時の言葉で 「 大アジア主義者 」 の自覚を持つに至る。
広島幼年学校を首席で卒業 ( 大正七年七月 ) 
陸士では秩父宮と同期生。
秩父宮とは「 殿下に特別親近した一人 」 だった。
秩父宮がイギリスに留学にあたって意見書を呈している。
大正十四年 病気を理由に軍籍を退いた西田は上京して大学寮に入る。
この大学寮時代に陸士の後輩でニ・二六事件まで國家改造運動を続ける
菅波三郎、大岸頼好、末松太平、村中孝次らと相識り、
海軍の藤井斉や五・一五事件の首謀者となった古賀清志との交わりも始まるのである。
大川と北とが分離してから、西田は生涯 北の忠実かつ唯一人の門下となる。
北が西田を必要とした一つの理由は、
北が中国革命から得た教訓---近代國家の革命は下級將校と下士官、兵の武力によってのみ達成される。
大隊長 ( 少佐 ) 以上の軍人は権力層の一員で必然的に腐敗している---から、
西田の下に集る靑年將校への大なる期待にあった。
この西田に 「 無眼私論 」 という 随想録がある。
陸士在学中に病気で入院中に書いたもので大正十一年三月十一日より筆を起している。
「 而も十億の同族が涙ににじむ今宵の月 」 のように大アジア主義が感傷的にうたわれたりしているが、
三月二十日付の随想には 「 大正維新 」 という表題で頗る重大な考えが述べられている。
たとえば
「 大権---神聖なる現人神の享有し給ふ心理実現の本基たるべき---の発動による國家の改造、
『 クーデッタ 』 吾等はこれを断行しなければ無効だと信ずるのである。
---爆弾である。剣である。」
と。
次の一節は 「 昭和維新 」 の本基 についての考え方を見事に示している。
今や現実を直視するとき、一たび明治維新の革命に於て建設したる
「 天皇の民族である、國民の天皇である 」 といふ理想を闡明せんめい
燦然さんぜんたる真理の聖光を宇内に宣揚したる至美の真日本は已に已にその一端をも留め得ずして
後人理想の誤り 真理を忘れ、至聖至美至親の天皇は民族国民より望み得ず
両者の中間には蒙昧愚劣不正不義なる疎隔群を生ずるに至つたのである。
この中間の 「 蒙昧愚劣不正不義なる疎隔群 」 の排除を、
爆弾と剣によるクーデターで実現すること、
この要求が 「 昭和維新断行 」 への直接行動のエネルギーの源なのである。
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佐郷屋留雄  井上日召
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佐郷屋留雄の浜口雄幸首相暗殺事件 ( 昭和五年十一月十四日、死去は翌年八月二十六日 ) 、
血盟団事件 ( 昭和七年二月九日、三月五日 )、五・一五事件 ( 昭和七年五月十五日 )
と 連続し、最後に二・二六事件に至る。
昭和維新運動には、この 「 疎隔群 」 の打倒にその目的の一つがあった。
即ちこれらの事件の報告の被告の法廷での陳述や、いわゆる怪文書、
二・二六事件の 「 蹶起趣意書 」、「 獄中遺書 」 などには、
「 君側の奸を排除し、斃して天皇と国民が直結する、即ち天王親政の政治体制を実現する 」
ことが繰り返し述べられているのである。
当時の政治、社会、経済の状況は、政党政治が自党の政権獲得と維持に狂奔し、
國民不在の政治に堕し、さらに資金関係から党人は腐敗し、
確かに彼らのこの信念を強めさせる客観的状況を展開していた。 
「 疎隔群 」 たる 「 君側の奸 」とは、
元老 ( 西園寺公望 )、重臣 ( 総理大臣の前官礼遇者、内大臣、侍従長、区内大臣らをいう )
軍閥、財閥、政党、官僚の首脳を指している。
國家を改造する、という第一次世界大戦終結前後頃より起った運動に
維新 という意識をもちきたしたのは西田だけではない。
たとえば大川は行地社の綱領第一項に 「一、維新日本の建設 」 とうたい、この綱領第一の説明をしている。
「 維新日本の建設とは 」 「 君臣君民一体の実を挙げる 」 我國を現出することであり、
「 君民の間に介在して一体の実を妨げるものが現れた場合は晩かれ早かれ其の介在者を掃蕩して
國家本来の面目に復帰せしめずば止まぬ、」 
すなわち天皇と国民との間の権力たる 「 介在者の掃蕩 」 が維新運動である。
「 介在者 」 は西田のいう 「 疎隔群 」であることはいうまでもない。
『 日本及日本人の道 』 ( 大正十五年二月、行地社出版部 ) において雑誌 「 日本 」 に宣言したのと同様に、
行地社の名の由来をのべ、行地社は今後何をなさんとするかをのべている。
そしてここでも 「 かくて行地同人は維新日本の建設に一身を献げる 」 といっている。

大川・西田に代表される 維新 とは王政復古を実現した明治維新につらなっている。
しかし昭和時代になって実際に 「 昭和維新運動 」 で直接行動をなした人々の法廷での陳述、
獄中遺書を読むと、彼らの行動の歴史的範例の一つは大化改新にもとめられていたことがわかる。
それは天皇の眼前で皇太子とともに革新を志す者が、君側の奸---蘇我入鹿---を暗殺したという事実に、
自分らの行動のありうべきイメージとの一致を見い出していたのである。
大化改新をこう解釈しうるかどうかは別の問題であろうが、彼らの理解はこうであったのだ。
国家を改造するには維新を断行しなくてはならない。
それでは維新とは何か。
これは西田の 「 随想録 」 大川の所説からでもその一端がうかがえるが、次のようなものと思われる。
天皇は神であるとともに日本を統治する最高の主体である。
神には信仰も思想も倫理も、統治には此の世のすべての政治行為が、天皇に帰一し奉っている。
この天皇が君臨する日本において、現実に悪い政治が行われていれば、
それは全く、現在政治を担当している人々と、これを支える人々、即ち権力層が悪いのである。
だからこの人々を君側の奸して屠つてしまえば、
天皇がいるのだから、日本はおのずから良くなる、という論理である。
この場合、天皇はいわば絶対の規範として考えられた。
これが後にいう彼らの 「 國體観念 」 である。
だから西欧の革命と 維新 が根本的に異るのは、
革命が最高主権者を打倒して政治変革をめざすのに対し、
維新 は絶対にこの最高主権者には手をふれず、
それどころか、そこに自分たちの行動、運動の正当性の根源を置いたのである。


現代史資料23  国家主義運動3
解説

二・二六事件以後の国家主義運動について
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國家改造運動・昭和維新運動 2

2021年09月23日 12時09分39秒 | 國家改造・昭和維新運動

二・二六事件は、いわゆる 「 國家改造運動 」 「 昭和維新運動 」 が、
最大の規模の直接行動となったものである。
事件の決行者であった靑年將校らの敗北と処刑によってそれは終熄し、
「 運動 」 もまた、ここに大きな劃期を印すこととなった。
・・・國家改造運動・昭和維新運動 1

 昭和天皇と鈴木貫太郎

最初に記したように、二・二六事件はこの運動の頂点となった直接行動である。
ところが事件の収拾から、軍事裁判へと進んでいった時、
決行した将校たちを苦悩の底におとしいれたのは、
自分たちの行動の正当性の根源であると信じていた 天皇・國體 が、
此の世の政治からきり離
された超然たる信仰対象ではなく、
現実の政治的最高主権者であり、
頗る人間的反応を示し、
討伐の実行を権力層に命じる西欧におけると同じ元首だったということである。
この事件の判決こそは、
彼らが、攻撃目標とした --事実殺害した-- 権力層の、その頂点に立つ天皇の彼らへの回答なのであった。
この苦悩の底から天皇制の本質を剔抉しているのが磯部浅一の 「
獄中手記 」 である。
青年将校がニ・二六事件を決行し、
内大臣という天皇の唯一の政治顧問をはじめ、首相以下の大官を襲撃した時、
つまり 「 蹶起趣意書 」 にうたった 「 稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除 」
し 「 奸賊を誅滅シテ大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顕 」 せんとした瞬間 出てきたのが 「 大臣告示
」 である。
これは事件の起きた日の正午頃から軍事参議官が宮中に集った会議の席で作成された文書である。
「 告示 」 は五項目からなっているがその全文は本書の五八九頁にある。
第二項 「 諸子の行動は國體顕現の至情に基くものと認む 」 は、
叛乱行為を明確に肯定し かつ、 「 蹶起趣意書 」 に十分応えたことを意味する。
叛乱を起した靑年將校たちが、之れを読んで 「 昭和維新成れり 」 と 一瞬信じたのは当然である。
だが この第二項が事件に直接的にかかわるものとすれば、
第三項 「 國體の真姿顕現 ( 弊風を含む ) に就ては恐懼に堪へず 」
第五項 「 之れ以上は一つに大御心に俟つ 」 は、事件の処理を天皇に一任して甚だ漠然としている。
具体的処理という実務を、天皇がとられるはずはないという、考え、
逆に天皇は神であらせられるのだから無謬であり、
したがって自分らの真意に十分に添うよう処理して下さるはずだという、期待を持った。
このことは彼らの 「 獄中遺書 」 でうかがえるのである。
もちろんこの 「 告示 」 は当然公表されていない。
叛乱軍にこれを伝えるべく命ぜられた堀第一師団長、橋本近衛師団長のうち
橋本師団長にいたっては、「 こんな怪文書 」 といって握りつぶしてしまったという。
まして新聞にも報道されず、一般の国民誰一人、この 「 告示 」 の存在すら知る事はなかった。
これがどんなに当時は秘密にされていたかは次の事例でもわかる。
この 「 告示 」 の問題を衝いた --もちろんこれのみではないが-- 磯部浅一の 「 獄中手記 」
の一部が刑務所に面会に来た磯部夫人から岩田富美夫 ( 北一輝の門下、大化会会長、このときは、やまと新聞社長 )
の手に入った。・・・リンク→磯部浅一の嘆願書と獄中手記をめぐって 
岩田はこれを絶対に公表しないことを取引の条件として、
第一次処刑の後、獄中にいる、北、西田、磯部、村中孝次の救命
( 磯部、村中の死刑判決の有期刑への減刑、北、西田の刑量考慮 ) を杉山陸相に迫った。
しかしこの交渉の間、直心道場の一員が、磯部夫人から一日この 「 手記 」 を借り、
謄写して一部の人々に発送してしまった。
これが 「 磯部怪文書 」 といわれ、憲兵隊に押収され、
杉山陸相は岩田に 「 約束を破った 」 として交渉を御破算にしてしまった。
関係者は不穏文書臨時取締法違反で検挙あるいは留置された。 ( 磯部夫人、西田夫人も含む )

磯部浅一 ・ 獄中手記 
・ 磯部浅一 獄中日記
・ 
磯部浅一 ・ 獄中からの通信

このように一般には、その存在すら知られておらず、
叛乱を起した靑年將校には、唯一の約束の文書であった 「 大臣告示 」 が具体化された結果が
一九名刑死という判決であった。
判決を知った國民の大多数には、陸軍の断固たる決意の現れと感じられた。
しかし國家主義者たちには、もともと陸軍に対する彼等の期待と一体感ともいうべき親近性があったのである。
本書x1iii頁にある吉村検事の報告に
「 実務上感ずる事柄は今日右翼団体の活動の背後には必ず或る種の強力なるものの存在することなり 」
とあり、婉曲えんきょくな言いまわしであるが 「或る種の強力なるもの 」 とは陸軍を指している。
だからこの峻厳な判決の背後に、
あらためて元老、重臣と一体となっている天皇の存在を感じざるを得なかった。
彼らは 「 昭和維新運動 」 はこの事件をもって、ひとまず終熄したと判断するに至る。
このことは後に紹介する
「 新聞紙雑誌に現れたる二十六日事件の批判 」 の一節が如実に物語っている。

昭和維新運動が、
「 君側の奸の芟除 」 と 「 國體の擁護開顕 」 に最終の目標がおかれたとすれば、
ここで 「 國體 」 とは、彼らにとり、どう観念せられていたかが問題となる。
これは遠く 明治末年の一木喜徳郎・美濃部達吉 対 穂積八束・上杉慎吉の論争にまでさかのぼる。
この論争が純然たる憲法上の論争にとどまらず
最後に昭和十年の國體明徴問題 ( 天皇機関説問題 ) と爆発し、
この機関説問題が 「 無血クーデター 」 とまでいわれるほど
國家主義運動の一大劃
期を呈したのは一つは上杉の存在による。
上杉は東京帝國大学教授であって、
同時にまた桐花学会 ( 大正二年 )
経綸学盟 ( 大正十二年 )
七生社 ( 大正十四年 ) の創立者、会長であり、
建国会 ( 大正十五年、会長赤尾敏で、初期の頃は井上日召、前田虎雄も関係す ) 顧問でもあった。
東京帝大の教え子、また薫陶を受けた者には 天野辰夫 ( 新兵隊事件の首謀者 )、
四元義隆、池袋正釟郎、田中邦雄、久木田祐弘 ( いずれも東京帝大の学生で血盟団の一員 ) 
を出している。
昭和九年九月十一日、血盟団事件の公判廷で林逸郎弁護人は
「 昭和維新促進連盟に於きまして相集めました減刑の 『 上申書 』 壱千四百枚を御覧賜りたいと思ひます 」
として藤井五一郎裁判長に 「 減刑上申書 」 を提出した。
その第三章は 「 國家革新運動の醸成 」 と題され、
第一節の(一)は 「 天皇機関主義の思想 」(イ) 「 逆徒一木喜徳郎 」 という見出しから始まっている。
ここで林は一木が明治三十二年に出版した 『 國法学プリント 』 をあげて一木を批判する。
その最大の要点は 「 憲法が國務大臣は元首の行為に付ても責に任ずることを規定せるは 即ち、
国務大臣に与ふるに元首の命令の適法なるや否やを審査するの権を有し
従て其違法と認むるものは之を執行せざる責任を有する 」 という一木の学説にあった。
ここで元首とは、日本では天皇である。
國務大臣には、天皇が下す命令を審査する権利を持つ、
また 天皇の命令に違法があるかもしれないとは、何事か、
それでは 「 斯の如き説を仮に信じますならば國務大臣の地位は洵に元首の地位の更に上位に位する 」
こととなると林は一木学説を批判したのである。
政党政治にあっては、立法府たる議会を構成する議員を過半数集めた者が内閣総理大臣になる。
その議員とは何者か、
三井、三菱、住友という大財閥から地方財界におよぶ独占資本から選挙資金を貰い、
日頃金を得て養われている走狗である。
選挙ともなればこの金を使い、法定選挙費用違反に始まり、
各種の違反、買収をやって当選してくる犯罪人なのである。
提出する法案、成立する法律は國民生活よりも、
この財閥の利益を必ず優先させ、自党と自己の利益のみ考え行動する。
この犯罪人を過半数集めた者が首相になり、国務大臣を決定する。
かくて立法府と行政府の長は同一人で、しかも司法大臣もまた首相が任命するとすれば、
憲法にうたった三権分立の定めは有名無実ではないか。
この國務大臣が天皇を審査するとは---と批判し攻撃するのである。

「 最近の右翼思想運動に就いて 」 において、
佐野検事と被告との間に 「 幕吏 」 問答がなされたことが記されているが、
この被告とは血盟団員を指している。
彼らは以上のごとく、首相以下、政治を担任する者、これを支えている者を 「 君側の奸 」 とし、
林と同じ論旨を幾度も陳述している。
内閣、議会が天皇を機関としてのみ扱って権力をほしいがままに行使するとき、
政治を担う人々の一群を幕吏とみたてた。
相澤事件前後に出た怪文書には、
林陸相、永田軍務局長で動かされている陸軍を幕府になぞらえたものがあり、
また、後の大政翼賛会を幕府だと攻撃して骨抜きにしたのも同じ発想である。
一木の学説は
「 天皇と議会とは同質の機関とみなされ、一応 天皇は議会の制限を受ける 」
というにあった。
美濃部学説は
「 立法権に関する議会の権限を天皇のそれと対等なものに位置づける 」、
「 原則として議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない 」
という。
この一木・美濃部学説についての議論は、ここでは問題でない。
ただ 昭和初年の政党内閣が失政を繰り返すばかりか、疑獄 ( 汚職 ) の続出などによって
議員を犯罪人だと断定していた國家主義者には、
「 議会は天皇の命令に服するものではない 」
という説は到底承認しえなかったであろう。
ましてこの時、天皇とは彼らにとっては神であったのである。
また美濃部は 「 國體 」 は 「 本来法律上の語ではなく
歴史的観念もしくは倫理的観念 」 だとして 「 政體 」 と峻別しているが、
國家主義者には、この区別こそ重大であり、行動への起爆力となったのであった。
「 國體 」 は観念ではなく、実存する天皇と一體化している、倫理的かつ政治的実体であり、
神聖にして侵すべからざるものであった。
「 政體 」 は内閣総理大臣を長とする、下からの國民の代表の集団であり、
交代を前提とする政治機構にすぎなかった。
まさに中江兆民がいうごとく
「 政府とは何ぞ、役人と成りたる人民の集合体 即ち是れなり 」
であった。
だからもし政府が、悪しき政治を行っていると判断すれば、
いかなる手段 --時には暗殺しても-- を用いても打倒しなければならない。
これが、國體 ・天皇に忠実なる人間の責務だと信じていた。
相澤中佐は 「 上告趣意書 」 に、
「 永田を殺さずして台湾に赴任することは不忠であり、永田を殺して台湾に行くことこそ、忠義である 」
と のべている。
・ 相澤三郎 ・上申書 1 
・ 相澤三郎 ・上申書 2 

また 二・二六事件の 「 憲兵調書 」 で叛乱軍の将校は、
第一師団が満洲に移駐する前に 「 君側の奸の芟除 」 をしなければ、
國家の為に、なすべきことをなさないという結果になる、
と 陳述している。

「 昭和維新運動 」 とは、
大日本帝國憲法第四条 「 天皇ハ國ノ元首にして統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ 」
ヲ超えて 第三条 「 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ 」 を絶対化してしまう運動なのであった。
たとえば、相澤中佐が死の直前まで唱えていた言葉は 「 尊王絶対 」 であった。
・・・リンク→
新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』 
だが 二・二六事件が決行されたとき、
天皇は 「 第四条 」 通りの元首であった。
天皇は元首として事件を起した軍隊を自ら最初に 「 叛乱軍 」 と定義し、討伐を要求した。
この強い意志 ( 大御心 
) は、腰を浮かし、去就定まらぬ陸軍の首脳を叱咜して急速に事件を終熄させたのである。
「 磯部手記 」 に代表される、この大御心の実體につき当り、天皇信仰が崩壊していく過程は、
戦後になり、遺書、手記が公刊されるまでは、國家主義者はもとより殆どの國民には不明であった。
前に述べたように苛酷な刑の実行は、ひとえに陸軍の意志と受けとられたのであった。

つぎに内乱の問題。
事件四日間の後半二日は叛乱軍と包囲軍との間に 「 皇軍相撃 」 という事態の発生が予想されてきた。
叛乱軍は 「 大臣告示 」 第二項で自分らの行動は天皇に承認されたと安堵し、
第三項により、國體の真姿は顕現したと、その目的達成に楽観し、
第五項により、あとは天皇がよろしく処置して下さることと確信して、
占拠地帯を動かなかった。
他方、この事件に対する 「 大御心 」 の内容を知った陸軍の首脳部は、
高崎、甲府、佐倉にある歩兵聯隊を東京に終結し、残留した近衛師団の兵とともに叛乱軍を包囲した。
ここで叛乱軍と包囲軍が戦端を開けば、「 皇軍相撃 」 =内乱は十分に予想された。
地方にある聯隊には東京の状況は正確に伝わっておらず、
旅団長、連隊長、師団参謀長という上級者には判断停止に陥っていた者もあり、
まして天皇の意志が那辺にあるかなどは全然不明であった。
だからもし両軍が弾丸を撃ち合ったとなれば、必然的に隊付將校を中心に動揺を来し、
第二の蹶起が続出する懸念があった。
内乱の招来である。
内乱とは権力を持つ人々には、秩序の崩壊、國體損傷の危険を来すものであった。
叛乱軍には、陛下の軍隊の同志討ち、戦友との殺戮であった。
この両面からの危機感が辛うじて相撃を回避せしめ、
叛乱軍の降伏をもって事件は終結したのである。


現代史資料23  国家主義運動3
解説

二・二六事件以後の国家主義運動について
1 はじめに   ・・を書写


維新運動とは何か

2018年01月17日 18時49分08秒 | 國家改造・昭和維新運動

彼等の心中には革命という意識は毛頭なかった。
彼等はその行動を 『 維新 』 と称し、
それは 天皇の大御心に副ったものであると信じていた。
我国には革命ということは絶対にあり得ないことであり、
若し有るとすれば、肇國の精神に則り、天皇によってのみ行われるものであると信じていた。
彼等にとって天皇は神聖であり、絶対であり、神であった。
そして己れの立場は、天皇親率の軍隊の一員であり、
天皇の意思を忖度そんたくして部下に号令する指揮官としての使命観に燃えていた。
然るに 現下の社会情勢を眺めるとき、この神聖なるべき天皇の大御心が、
君側にある 元老、重臣、政党、財閥、軍閥、官僚の一部佞臣ねいしんによって歪められているばかりでなく、
天皇を擁し、若しくは 天皇の御名を藉りて天下に号令し、私利私慾を恣ほしいままにしているかの如くである。
純真な青年将校たちは、この大権を壟断ろうだんしたり、私議する徒輩こそ君側の奸であり、
これを芟除せんじょすることによって我国本然の天皇親政の姿に立ち還ると信じた。
この考えが君側の奸を斃すという非常手段の発想となり、これこそが国体を危殆きたいから救う唯一の道であり、
これを決行する事こそが青年将校に課せられた使命であると思い込んだ。
そして、この考えが強くなればなるほど 君側の奸に対する憎悪の念が激しくなっていった。
次に彼等の考えていた維新実現の順序は、
先ず 憂国の青年将校が、天皇の大御心を心として尖兵となって口火を切り、
次いで本隊である軍当局がこれを是認し、行動に参加することによって軍が維新に入り、
そして国民が賛同すれば、国民が維新に加わる。
そこで大号令が発せられ、初めて本当の維新がその緒につくというものであった。

だが、予想に反し、
大御心に副うことが出来なかったことに気付いた。
最後の極点に立って自己の信念を再検討してみた揚句、
残された道は唯一つ、自決しかなかったのではなかろうか。
この点、平戦両時を通じて天皇に対するお詫びは是にあるのみと云っていたことに合致する。
従って彼等は最後迄自分達の行動は正しいものと信じ、
これを弾圧するものは君側の奸の陰謀であって、
決して大御心の真意ではないと思い込んでいたものと思う。
銃殺刑に処せられたにも拘らず、その最後に臨んでも尚、
「 天皇陛下万歳 」 を叫んだということから推してもはっきりしている。
彼等は後続部隊のあるを信じ 蹶起したのであったが、遂に逆賊の汚名を着て殺されてしまった。


青柳利之 遺著 
首相官邸の血しぶき 
から


靑年將校の國體論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」

2018年01月15日 20時56分19秒 | 國家改造・昭和維新運動

靑年將校の國體論
上、天子のもと、下、万民が平等なるべしというもの
村中孝次は
「 我国体は上に万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、
この万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命的結合なることにおいて、
万邦無比といわざるべからざる。
吾が国体の真髄は実に玆にぞんす。
天皇と国民と直通一体なるとき、
日本は隆々発展し、権臣武門両者を分断して専横を極むるや、
皇道陵夷りょういして国民は塗炭す。
全日本国民は国体に対する大自覚、大覚醒を以て
その官民たると職の貴賤、社会的国家的階級の高下なるとを問わず、
一路平等に天皇に直通直参し天皇の赤子として奉公翼賛に当り、
真に天皇を中心生命とする渾一的こんいつてき生命体の完成に進まざるべからず」
リンク→ 続丹心録  「 死刑は既定の方針だから 」 
と書いているが、
その思想は、
日本の国体は一天子を中心として万民一律に平等無差別である、
とするのであるが、
それは天皇と国民の精神的結合を示すものである

革新将校の思想系譜
軍における革新運動は、その発生よりみて、二つの流があった。
その一つは、隊付青年将校のそれであり、
他の一つは、大体において中央部幕僚のそれである。

青年将校運動は、
すでに大正の末年から昭和の初頭にかけて、
北一輝の 『日本改造方案大綱』 を聖典として、
これが実現をもくろんだ西田税によって、青年将校に働きかけられ、
ようやく一つの同志結集にまでいたっているが、
それは、あくまで隠密潜行的なものであり、軍当局の許容するものではなかった。

ところが、
昭和五年に入ると、時局に刺戟せられた軍中央部一部幕僚の手によって、
国家改造を研究しこれが実現を期そうとする一つの結集ができた。
これが昭和五年十月東京にできた「桜会」である。
この動きには、軍当局は黙認のかたちをとったので、こうして論議が表面的に行われ、
あたかも陸軍は国家改造を志すやに見られた。
もともと
桜会は国家改造に志あるものを求めたので、
ここにはすでに西田により思想的啓蒙をうけていた青年将校も参加した。
したがって
桜会は思想的にはバラバラで統一あるものではなかったが、
大体において、
急進的な数名の幕僚がこれをひきまわしていた感があり、
そこでの論議も改造政策を討議するのではなく、
時局の悲憤慷慨に終始していたといっても過言ではない。
はっきりいえば、
発起者 ( 指導者 ) たちによって、
真に国家改造に挺身しうる人材を物色しようとするものであったともいえる。
だからそこには改造政策の具体策はなかった。

桜会を背景として十月事件が計画されたが、
それは武力革命そのもので、
その権力的な行き方に批判的な青年将校群はこれから脱落していく。
しかし、
この桜会から十月事件に発展する過程において、
一部有志幕僚により国家改造政策が研究され、これから統制派へと発展していくのである。
のちに統制派といわれた一部有志幕僚の改造政策研究への志向は、
この十月事件が破壊をこととし、破壊後の建設に何等の案を持たなかったからである。
もともと統制派幕僚は、
合法、非合法いずれにしても、改造案なくしてことの成功するものでないことの自覚から、
改造案の立案に積極的に進んでいったのである。
この統制派の合法的改造策が発展して
昭和九年秋の広義国防論の主張となって、
一応、軍の革新政策として表面化されるにいたった。
これが有名な 『 国防の本義とその強化の提唱 』 である。

そして、
軍のもつ革新政策の基礎は、国防的観点に立つことが闡明せんめいされた。
本来、
青年将校の革新運動は国家の革新、それ自体を目的としたものであったが、
幕僚は、もともと、国防政策の担当者であることから、
その国家改造の基底は 「 国防 」 にあった。
国防上の必要にもとづく国家改造であったことは銘記されねばならない。

二・二六事件は青年将校が維新革命を企図して失敗した歴史として理解される。
それにまちがいはないが、
しかし彼らは重臣殺傷はしたが、
その武力を背景に自ら国家改造を行なおうとしたものではなかった。
重心殺傷によって国民に一大警鐘を乱打し、陸軍を説得し、
陸軍が維新の主体となって国家改造にのぞむことを求めようとしたものであった。

いわゆる寺内粛軍はきびしかったが、
青年将校にかわった幕僚群は革新の気鋭するどいものがあった。
軍は自ら革新政治の責任者たることを嫌った。
そこに 「部門政治」 への遠慮があったからだ。
かくて
庶政一心をもって政府を鞭撻推進することになった。
この場合、
推進する政治とは名は 「革新」 というが、
実は革新自体はその目的ではなく目的は 「国防」 にあった。

 西田税
国家改造案
陸軍に国家革新の 「種」 をまいたのは、西田税であり、
そのまかれた革新の 「種」 は、
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 であったことは、今日あまねく知られている。

西田が、昭和二年七月 「天剣党」 の組織を企図し、
かねてから培養しておいた
隊付青年将校たちに天剣党規約を配布したが、
その中の戦闘指導要領には、
「 天剣党は軍人を根基として、
あまねく全国の戦闘的同志を連絡結盟する国家改造の秘密結社にして、
日本改造方案大綱を経典とせる実行の剣なりとす」
と示していた。
リンク
・ 天劔党事件 (1) 概要 

・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
天剣党は軍当局の弾圧によって結盟に至らなかったが、
西田税はこの改造方案を以て
青年将校に働きかけ、これを啓蒙し指導し、多くの同志を獲得したのである。
したがって、
のちに皇道派といわれた青年将校の一群には、北一輝のこの革命法典が生きていた。
しかし、
皇道派青年将校のすべてが北一輝の革命法典を身につけていたということはできない。
少なくとも、
この青年将校運動の指導的地位にあった人々、
ことに二・二六事件の首謀者たちは、
この革命の法典を通じて国家改造の理論を与えられたとみることができる。

たしかに
この蹶起の首謀者たちの間には、あるいはそのままに、
あるいは彼らの思考を通じて消化され、北の改造方案が、その身にしみついていた。
なかでも
その首謀者の
一人磯部浅一は、
改造方案こそ革命をはかる尺度であり、
一点一字の修正を許してはならないといった改造方案絶対信奉者であったし、
また同じ村中孝次は
改造方案をよく読みこなし、よく消化し、その理論をさらに自らの手で発展せしめていた。
ともかくも、
彼らの二・二六事件謀議では、
改造方案そのものをもって建設の具体案とすることは、同志間の議題はのぼっていないので、
この蹶起には具体的にこの案によって建設工作を進めようとしたものでないことはたしかだが、
しかし、政治にせよ、経済にせよ、教育文化にせよ、
今日の弊害を改善刷新するためには、どんな制度や運営がなさるべきかは、
誰にも考えられており、
そして、こま場合彼らの思考に占めたものは、まず北の改造方案だったといつてよいであろう。
なぜなら、
北の改造方案はこれらの青年将校たちにとっては、
その血肉となっていたと見られるからである。
ともかくも
北一輝が、西田税を通じ、その改造方案の思想を、
青年将校に定着せしめたことは事実であるが、
彼が直接に、青年将校の思想啓蒙にあたったという事実はない。
もちろん、
古くからの青年将校運動に挺身してきた、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀といった、
この事件の首謀者たちは、北一輝の謦咳けいがいに接したことはあるが、
いわゆる皇道派青年将校の大部、ことに年少の中少尉クラスは、
ほとんど、北の名は知っていても、その改造方案を手にしたことはなかった。
ただ、
これらの思想的先達によって、その啓蒙をうけたとみるべきである。

それにしても、北の改造方案が軍に与えた影響は大きい。
青年将校運動の基礎は、この書の普及によってなり、
軍はこれがために、
青年将校運動という爆弾を、うちにかかえることになったからだ。
北が、のちにこの事件に連座して捕えられ、死刑の判決をうけ、
刑死二日前、弟、北昤吉が会ったとき、
わたしはこの事件に何ら関係はしない。
しかしわたしの書物を愛読していた連中がやったので、
責任を問われれば責任を負う。 
もし、ぼくが無罪放免になっても、他の諸君のあとを追うて自決する
と 語った といわれるが、 ( 北昤吉 『 風雲児北一輝 』 )
これこそ、北一輝の自著 「 日本改造方案大綱 」 に対する、きびしい責任感であろう。

その改造方案が軍にもちこまれたのは、
西田が、北より改造方案の版権を得た大正十五年囲碁のことであるが、
その後西田の手によって、
ずっと精力的に、軍隊工作が行なわれたかというと、そうではなかった。
天剣党事件による軍の弾圧もあり、
その後は軍の警戒監視のもとに細々とつづけられていたにすぎない。
だが、国家革新のあらしは、昭和七年頃より激化し、
これにつれて西田の青年将校との接触もしげく、その彼の働きかけも活発となった。
しかし、その西田の青年将校への接触面は、直接に拡大されることなく、
旧来の同志を通じての運動の拡大であった。
これがため、たとえば、二・二六に蹶起した二十名の将校についてみても、その大部は、
北のこの革命の書は開いていなかった。
いわば、
若い隊付将校は
『 改造方案 』 によっては国家改造への意欲をかりたてられてはいなかった。
彼らはその軍隊教育を通じて社会悪、政治悪を実感し、
そこから国家改造へと志向していったのである。


北一輝

青年将校は 「国体」 にコチコチに固まっていたといわれるが、
彼らはそこにどんな国体観をいだいていたのか、
そしてその国体観からどんな政治が行われるべきだ、と確信していたのだろうか。
彼らはいう。
一君万民、
国民一体の境地、
大君と共に喜び大君と共に悲しみ、
日本の国民がほんとうに、
天皇の下に一体となり
建国の理想に向って前進することである
( 『 青年将校運動とは何か 』 昭和十一年三月 「日本評論」 所載 )
だが、
その言葉は抽象的で真意をとらえがたいが、
おおよそ、一君万民、君民一体という表現は、
当時、青年将校も、日本主義右翼も一致してとなえられていた理想の政治形態であるが、
さて、その一君万民、君民一体の政治とは何か。

日本主義者はこれを、
「 一君万民、君民一体の大家族体国家、上大御親、絶対、下万民赤子、平等、
そこには、一物一民も私有支配する私なく、
したがって、天下億兆皆そのところを得、万民一魂一体、
ひたすら君が御稜威みいつの弥栄いやさかを仰ぎまつろい志向帰一する皇国体 」
といい、
また、あるものは
「 一刻一家、天皇のもと共存共栄、無階級、無差別の社会、
それは、また、われわれ人間社会の理想形態であり、かつ、その本然の姿である。
天皇の下における
強力な国家主権と国民各自の自治的精神との完全なる調和による
強力一致の健全な国家統制機関を確立することである 」
とも説いていた。
そのどれもが原理的な抽象的解説で、一君万民の政治の具体的な姿は示されていない。
だが、青年将校が天皇とともに喜びともに悲しむという一体観、
そこでは一君を中心とした国民の結集であり、
そこに君と国民との間には、なにものをの介在を許さないもので、
国民は無差別、平等に天皇に直参するものであることを表現して
天皇に一切をささげる国民が、
天皇の御声のままに、翼賛する政治の体制を、理想としていたといえよう。

はなはだ漠然としているが、
では、どうすれば、このような理想形態に導きうるのか。
彼らは現支配機構を否定するのではなくて、
現支配機構を支える悪者をとりのぞき、
これに代って人徳髙い補翼者を天皇の側近におきかえ。
同時に全国民に維新への感動を激発すれば、
ことはなるとしんじていたようである。
これが二・二六事件の思想的根基であったわけであるが、
それにしても、
この一君万民の原理は、外形的にみれば、明らかに徹底せる日本的社会主義、
あるいは国体的社会主義、
かの近衛のいう天皇共産主義といえないではない。
ことに、さきにいう日本主義者の ”無差別、無階級の社会”
あるいは、”万民平等にして、そこには一物一民も私有支配なき社会”
というに至っては、明らかに原始共産主義にちかい。
だが、青年将校たちは、極度の精神主義者であるので、
結局は国民個々人の精神革命を強調したものと思われる。

ここで、われわれは、
一つの不思議な現象に目をみはる。
それは
右のような国体観をもつ彼らが、
その指導の書とした北一輝の 『改造方案』 に流れる、
北の 「高天ケ原式国体観」 の否定、
日本国をもって天皇を政治的中心とする近代的民主国だという不思議さである。

北一輝の 『 改造方案 』 を一読すれば、その思想根柢に、
民権主義、社会主義それに国権主義のさまざまが入り乱れているように思われるが、
北の思想は、彼が二十四歳で著わすところの 『 国体論及純正社会主義 』、
三十五歳の 『 支那革命外史 』、
それにこの 『 日本改造方案 』 の 三部作を通ずることによって明瞭となる。
その 『 国体論及純正社会主義 』 は、
北にしたがえば
「 若気の強がり 」
であったというが、そこに流れる思想は何か。
大川周明は
北の社会主義はマルクスの社会主義でなく、
孔孟の 「王道」 の近代的表現だ
とかいているが、 ( 『 北一輝君を億う 』 ) 
そこには、
「 万国社会党大会の決議に反して、
日露戦争を是認し、全日本国民の輿論にこうして国体論を否認す」
と 宣言して、
有賀長雄、穂積八束、美濃部達吉らの、家長的国家論、万世一系論、
不徹底なる天皇機関説のことごとくを痛撃し、
論鉾は、金井延、丘浅次郎、一木喜徳郎、山路愛山、安部磯雄から
ダーウィン、マルクスにも及び、
資本主義の害悪を攻撃し同時に「平民主義」をも否定している。
そして当時における国体論を徹底して罵倒するところは奇矯に近い。
いわく、
「 明治憲法における天皇
――白痴にして低腦なる現代学者どもの国体論者の神輿みこしの中に、
安置されたる天皇は、真の天皇にあらず、
国家の本質及法理に対する無知と、新道的迷信と、
奴隷道徳と、転倒せる虚妄の歴史解釈を以て捏造せる土人部落の木偶 」
だと。
そしてまた、
「 世の所謂国体論とは決して今日の国体論にあらず、
また過去の日本歴史にもあらず。
明らかに今日の国体を破壊する反動的復古的革命主義 」
といい
当面の国体論の打破を叫びつづけている。
明らかに復古的高天ヶ原的国体論の徹底した否定である。

青年将校がその武窓でたたきこまれた国体論を、
寒膚なきまでに痛撃論難したこの国体否定論者を、
彼らはやすやすと受け入れている。
村中は、その改造方案を、
「 社会主義乃至デモクラシー万能の徒が我が国体の尊厳性に目をおおい、
いたずらに理想社会を欧米の学説に求めんとするに対し、
”日本国こそ本質的に爾等の求める理想社会の国なり” 
と 説き聞かせたる者なり」 ( 『 丹心録 』 ) リンク→
村中孝次 ・ 丹心録 
といい、
また、磯部も
「 北氏は著書 国体論において、
本書の力を用いたるところは、いわゆる講壇社会といい、
国家社会主義と称せらるヌエ的思想の駆逐なり 」 ( 『 獄中手記 』 ) リンク→獄中手記(三) 一、北、西田両氏の思想
と 書き、
それぞれ北の思想を弁護している。
これを、私は一見不思議といったが、それは不思議でも何でもない。
北の思想には、尊皇思想もあれば、強い国権主義も、
また、はなはだしい民主主義もあるが、それがときに刺激に応じて表現されている。

青年将校は北の強い尊皇思想を確認した。
さきの磯部は言う。
「 氏の日常
”自分は祈りによって自らを救うのだ”
”日本は神国である”
”天皇の御稜威に刃向うものは滅ぶ”
等の言々句々は、
すべて、天皇に対する神格信仰
の あらわれであります」 ( 『 獄中手記 』 ) リンク→獄中手記 (三) の一 ・ 北、西田両氏の思想 
彼は北の尊皇心をうたがわなかった。
北は改造方案に天皇を規定していて、「 天皇は国民の総代表なり 」 とし、
日本国は 「 天皇を政治的中心とした近代的民主国なり 」 としている。
それはその頃やかましかった美濃部博士の天皇機関説以上の進歩的なものだったが、
彼は一面、天皇を国民親愛尊敬の中心としてとらえ、
「 日本の皇室は、いうまでもなく国民の大神であり、
国民はこの大神の氏子である 」 ( 陳述書 )
「 日本の国体は一に天子を中心として、万民一律に平等無差別である 」 ( 同上 )
と いっている。
ここに青年将校は彼の尊皇愛国を信じ、
安心してその天皇機関説いじょうのものに魅了されていた。
そこでは、
青年将校は一君万民の原理は、
全国民が天皇に一路平等無差別に直通直参するものであり、
それは決して北のいう国体原理に矛盾するものではなかった。

青年将校は国家改造の理念ないし政策といえば、大げさだが、
彼らが国家改造を思念するかぎり、そこにどんな構想をもっていたか。
「 日本国内の状勢は明瞭に改造を要するものがある。
国民の大部分というものが、経済的の疲弊し、経済上の権力は天皇に対して、
まさに、一部の支配階級が独占している。
時として、彼らは政治機構と結託して、一切の独占を弄している。
それらの支配階級が、非常に腐敗している状態だから、承知できないのだ 」
という。 ( 『 青年将校運動とは何か 』 ) 
いまの世の中は、一部支配階級、それは資本階級が経済上の権力を、
そしてまた政治をも壟断している。
いわば、今日は金権政治であり、これが政治の腐敗をきたしているのだ
というのである。

そこで、政治の腐敗が金権政治にあるとすると、
その経済における彼らの改造理念ないし政策はなにか。
「 今日の資本主義経済機構は明瞭に否定する。
今日までのいわゆる資本主義経済組織、
明治維新の時に取入られた富国強兵の資本主義というものは、
過去においては、有力な働きをしていたが、
いまや、その役目を果たし、
だんだん破綻して、何らかの新しき形式に移りつつあるということは、
支配階級ですら、何らかの形で是正せんとしているのでわかる。
だが、今日の資本主義の組織権力というものを根底としている、
統制経済主義には明瞭に反対だ。
われわれは今日の資本主義組織というものを打破するためには、
少なくとも三大原則があると信じている。
大資本と私有財産と土地と、この三つの部門というものが、
今日、資本主義経済の三つの大きな因子であると思うが、
この因子に根本的終生を求めねばならぬ。
先ず大資本を国家の統一に帰する。
私有財産を制限する。
土地の所有を制限する。
この三つである」 ( 『 
青年将校運動とは何か 』 )
そのいうところは、表現が正確でないので真意の捕捉に難渋するが、
資本主義を否定するかぎり、社会主義を受容するものともとれる。
だが、それは北一輝の改造方案そのものである。
北の改造原理の根本を流れるものは、金権政治の打破にあった。
「 現在の日本はその内容は経済的封建制度とも申すべきものであります。
三井、三菱、住友等を、往年の御三家にたとえるならば、
日本はその経済生活において、
黄金大名らの三百諸侯によって、支配されているとも思われます。
したがって、政治の局に当る者が、政党にせよ、官僚にせよ、軍閥にせよ、
それらは表面とは別に、内容は経済的大名らすなわち、
財閥の指示によって在立するものであります。
金権政治は、いかなる国の歴史も示す通り、
政界上層はもちろん、細末の部分にわたっても、
ことごとく、腐敗堕落を暴露することは、改めて申すまでもありません。
国内の改造方針としては、金権政治を一掃すること、
すなわち、御三家はじめ三百諸侯の所有している富を、
国家の所有に移して国家の経営となし、
その利益を国家に帰属せしむることを第一といたします」 ( 『 北一輝 調書 』 )

この北の金権政治の打破こそ、
その改造方案の大眼目であった。
試みにこの法案をひらけば、
「 巻一、私有財産の制限」、
「巻二、土地処分の三則」、
「巻三、大資本の国家統一」
とある。
この三つが、改造方案のもっとも重要な部門であるがそれは、
さきの青年将校の改造策と全く符節を合している。
北の改造方案は、ここに、青年将校に定着している観がある。
しかし、
北のこの策案をもって、彼を社会主義革命を志したものとはいえない。
彼は大資本を抑制し、私有財産を制限し、私有地に限度を設けたが、
その私有財産の尊重をも忘れてはいない。
「 限度を設けて私有財産を認むるは、
一切のそれを許さざらんことを終局の目的とする諸種の社会革命説と社会
及び人生の理解を根本より異にするを以てなり。
古人の自由なる活動または享楽はこれをその私有財産に求めざるべからず。
貧富を無視したる画一的平等を考えることは、
誠に社会万能説に出発するものにして、ある者はこの非難に対抗せんがために、
個人の名誉的不平等を認むる制度をもってせんというも、
こは価値なき別問題なり。
人は物質的享楽または物質的活動そのものにつき画一的なる能わざればなり。
自由の物質的基本を保証す」 ( 『 改造方案 』 私有財産制限の註 )

したがって、彼はマルクス社会主義者ではなかった。
彼は自ら 「社会主義」 というも、
それは彼、独自のそれであって私有財産を否認する共産主義ではなかったし、
また、資本主義を全面的に否定することなく、
これが抑制を試みた修正資本主義者であった。
だからこそこの思想と軌を一にする青年将校の思想も、
また、まったくの社会主義思想というわけにはいかないのではなかろうか。

大谷啓二郎著 軍閥 より


核心 ・ 竜落子 『 時局寸観』

2018年01月08日 10時24分58秒 | 國家改造・昭和維新運動


時局寸観

竜 落 子

満洲國皇帝の御來朝
明治天皇對露宣戰の詔勅に宣ふ
---若シ満洲ニシテ露國ノ領有ニ帰セン乎 韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク
極東ノ平和 亦 素ヨリ望ムヘカラス---
と。
然して日本は日本自身の興廢を賭し一切をあげて戰つた。
星移り物換る玆に三十年。
當時の韓國は日本と併合して、其の大陸に於ける重要なる一地方朝鮮となつた。
當時日本と同盟の盟約を結んでいた英國、陰に陽に日本を支援した米國は、
今日日本を向ふに廻して極東制覇、從つて世界制覇に砕心しつつある。
當年勧告を攪亂しながら露國と款を通じて日本に對抗した支那は、革命を遂行して孫文之れを支配するや、
爾來彼の英米を語り 更にボルセビキ露國と聯繋し 一層烈しき抗日を繼續して來て居る。
然して彼の露國はロマノフ王政仆れてボルビキ政權を樹立したが、
其の極東侵略は宿命の如く、電燈の如く 寧ろ激化するとも一歩の退轉もない。
即ち對露宣戰當時に於ける満洲其者の 「 極東の平和 」 に對する立場は、
韓國が朝鮮となりて日本と満洲とが直接々壌するに至つた今日、
革命と共に更に凶惡化したる露支兩國と、日本を押へんとする英米が之を暗に支持擁護するに至つて居る今日、
いよいよその重大性を可とも、決し輕減していないのだ。
換言すれば前掲詔勅の 「 露國 」 は今日 「 英米を背景とし支援者とする露支兩國 」 に擴大され強化されて居る。
是れ当年 「 露國の満洲領有 」 を忌いまわしみ恐れねばならぬことである。
日本の爲め、極東の爲め、而して満洲其者の爲めに、
この凶惡なる魔手から満洲を救出し庇護し扶導する日本最上の途は、
日満の一體的發展にあること正に當然の理であり必要の事である。
已にして満洲事変あり、満洲國家なり、
而して昭和十年四月六日地球上唯一の盟邦元首として 満洲國皇帝親ら來朝して、
天皇陛下と握手の礼をなし給ふ。
誠に歴史的壮観である。
對露の血戰終つて三十年にして略々成る。

國體問題
内務當局は美濃部達吉博士の著作中二三の主要なるものを禁止處分に附した。
司法當局は博士其人を起訴すべきか起訴猶豫にすべきかを目下 「 慎重 」 に考究中だと云ふ。
文部大臣は全國管下各方面に對し、教育總監は全陸軍に對し、
「 國體は確立して居る。邪説に惑ふ勿れ、更に益々國體顯現に努力せよ 」
と云ふ訓論を發した。
相成るべくは、先づ此の程度或は稍々 やや 進んだ程度の処置を以て、
換言すればいい加減に鎮撫解決したいといふ官邊の意嚮の如くである。
元來、國體とは何ぞや。
それは單なる學説ではない。
國家の現実實としては政治的にも經濟的にも其他百般の部門に政治的經濟的其他各部門的に發現さるべく、
されてあるべき性質のものである。
國民としては此の國家の各部門に於ける其の生活行動に、國民として體現實践すべく、
して居るべき意味のものでなければならぬ。

伝へ聞く、十一月廿日事件に連座した青年將校諸君に對する當局の處分理由に曰く
「 被告人ハ我國現時ノ情勢ハ腐敗堕落セシ所謂支配階級ノ横暴ト無自覺トニ依リ
宿弊山積シ國體ノ原理タル一君萬民君民一體ノ理想ニ反スルコト甚シキモノアリ
速ニ國家ヲ改造シテ政治上經濟上等各般ノ部門ニ國體減にヲ顕セザルヘカラス爲シ 」 云々と。
これだ! 實に盡し得て妙である。
「 國體を明徴にする 」 とは、美濃部博士の著者との処分ではない。當局の訓論ではない。
誠に國體は今日の日本に維新を要求すること火の如く急なるものがある。
維新を要望するものは區々國民ではない。
三千年の國體其者が國民の魂を透し、國民の魂に命じて要求して居るのだ。
□は今日の日本が國體叛逆の思想勢力によつて左右され、國體の原理が埋没せしめられて居るからである。
例へば
元老重臣等中心思想。
議會中心主義的政黨政治思想。
資本主義、共産主義。竝に亜流として其の中に介在する所謂金融フアツシヨ、國家社會主義、一國社會主義。
官僚 ( 幕僚 ) 中心思想。
等々。凡そ是等は悉く所謂天皇機關説又はそれ以上の邪道を實践しつつある所のものである。
一般に口を開けば重臣、政黨、財閥、官僚、軍閥と云ひ、その駆逐打倒が維新の主働であると云ふ。
然らば、「 國體を明徴にする 」 ための此の國體叛逆勢力を打倒することは同時に維新であらねばならぬ。
「 機關説 」 排撃は、美濃部博士に次いで一木樞府議長へ、金森法制局長官へ、
其他同學系の諸氏へ、躍進轉戰すると共に、一切の非國體思想に進撃せねばならぬ。
これが戰ひ一たん収まる時、昭和維新の旭日は東天を染めて居るであらう。
再言する今日の國體明徴は、維新と同義語である。

・・・革新 記事の一部  現代史資料5 から


皇魂 1 ( 第二巻 第十五號 ) 十二月號 昭和10年12月20日發行

2018年01月06日 18時54分04秒 | 國家改造・昭和維新運動


みこと
いともかしこし
將校の本務
将校はその本務の遂行に於て遺憾なきや
明治十五年の 聖論は軍隊に賜りたるに非ず 「軍人」 に賜りたるもの
軍人就中將校の本務は擧げてその中に宣示あらせ給ふ
高御座
上天授國の惠に應じ御親り高御座に即かせられて天の下しろしめし給ひしより二千五百有余年
高御座とは申すも畏し天の下しろしめし給ふ御親政の御神位
「 君絶對に仰ぎ参らす天下萬民の尊皇心の上に 」 の御事である
日の本の、あめのしたの高御座
「 朕が國家を保護して上天の惠に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得る得ざるも」
これを祭即政---祭政一本御親政原義の大本御宣明であると拝し奉る
「汝等軍人が其職を盡すと盡さざるとに由るぞかし」
天の下日本の高御座にましまして 上天授國の恵に応じ 祖宗の恩に報いまゐらすのこと
即ち 朕が親政の可能
不可能は汝等軍人がその職を盡すと盡さざるとに由るぞかしと大御言のらせ給ふ
みこといともかしこし
「 朕斯も深く汝等軍人に望む」
と御信倚を垂れさせ給ふその望ませ給ふ御事とは何ぞ
「 天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり」
文武の大權御親掌これこそ 天皇御親政の大義である
朕と一心なりてその職を尽せ、然らば我國の創生は永く太平の福 ( サイハヒ ) を受け
我國の威烈は大に世界の光華ともならんと仰せ給ふ
みこといともかしこし
軍人の本務
臣民皆兵の御制なれば殊更に軍人のみを謂ふにあらねど就中軍人の本務は
「 すめらみことがその本來の高御座にましまして天の下日の本をしろしめし給ふ事
即ち文武の大權を御親掌あらせ給ふ様弥益高御座を高く仰が固み參らすこと」
軍人の生命
軍人の本務は斯に存るぞと大御言のらせ給ふ
みこともかしこし
軍人精神五条一誠のみ旨も斯の本職を守り行ふために
「 猶訓論すべきこと 」 とて宣らせ給へり
斯のみ旨を思はず今のあるべきからざる民主民生の世論政治に眩惑拘泥する軍人は最早生ける屍である
君のまします高御座をいや高め参らすることこそ國體の原理大本の教令する処であり、
これこそ内にには創生太平の福たれとの大御心に副ひ奉る所以であり、外には世界の光華たる威烈となる
日ねもす夜もすがら、高御座を弥々益々高く参らすることを念ぜざるの人は最早軍人ではない
往古軍人の本務を怠るやや
「 兵農おのづから二に分れ古の徴兵はいつとなく將兵の姿に移り遂に武士になり 」
「 兵馬の賢は一向 ( ヒタブル ) に其武士どもの棟梁たる者に歸し 」
「世 の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち 」
「 凡7百年の間武家の政治とはなりぬ 」
ああ 民主民生---高御座を荊蕀雑草の裡深くもうづもれ参らせたる大逆不忠
「 且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき 」
臣道背離、國體原理無視の民主民政制度機構----大逆不逞
神怒りて神剣を大楠公中楠公小楠公諸々の楠公に授け給ふ
非理法権天とは國體を生活する忠義の士の至極の心境である
高御座が本來在しますべき天の下日の本の大表最高所より不逞の逆賊等によりて
荊蕀の奥深くうづもれ参らせ奉りたるを見ぬふりせる山陽の
所謂七道風を望んで豹狼を授くるの軍人等高位を盗みて天日全く昏し
かの不逞大逆妄説機關説の払拭を以て或は
「 天皇機關説排撃、國體明徴などと余り騒ぎ廻るな 」 
と云ふが如き不逞大逆の幕府庇護の随意的表白をなすが如き將軍がこの
陛下の神軍の高位に存在することが果して許されるべきであらうか
天皇陛下萬歳を以て集結さるべき軍隊教育に何を教へんとするのであらうか
岡田総理大臣が英人ビカリングに語ったと伝へらるる 
「 上からの民主政 」----「 機關説的不逞大逆 」 に協力しつつあるが如き軍人が現役に留ることが
果して許さるべきであらうか
その將軍が軍に於ける至高輔弼に座して安如泰然たるが如きは寔に神州の絶大なる不幸ではあるまいか
×   ×   ×
重ねて曰ふ
みこといともかしこし
聖論は軍人に下し賜へるもの、軍人諸公謹みかしこみて誦し奉るべし
神軍の光華はこれより発す
神軍の威烈戰力はこれより迸る
みことかしこみ敢て諸公に向ひ熱禱祈願する

雑誌 皇魂 十二月号  昭和十年十二月廿日發行 から
現代史資料5 国家主義運動2 から


皇魂 2 ( 第二巻 第十五號 ) 十二月號 昭和10年12月20日發行

2018年01月05日 18時51分56秒 | 國家改造・昭和維新運動


皇軍精神の十全徹底

發揮に直進せよ !
國体本義の明徴に斷乎徹底的に
盲信するぞ皇國軍人の本分たり
(一) 前言
「 軍隊内務書 」 は、その綱領第一に記して曰く、
『 軍ハ 天皇親率の下 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義トス 』 と
げに皇軍は、「 天皇親率ノ下 」----天皇御親裁
ノ下 「 朕ト一心ニナリテ 」 
なる神ながらの國魂を熾烈最も強く体現せる日本民族の先頭首脳部なり
皇國軍人たる者、いかでか尊き己が本分を三思、
以て皇軍精神の十全徹底發揮に直進せざるを得んや
まして劃期的皇國非常重大の今日、之が打開皇國維新----國体本義の明徴が緊切絶對事たるに於ておやである

(二) 皇軍の本義
皇軍の本義は、明治十五年一月四日、
「 陸海軍々人ニ賜リタル御勅諭 」 として輝いてゐる
『 我國ノ軍隊ハ、世々 天皇ノ統率シ給フ所ニソアル。
昔 神武天皇、躬ツカラ大伴物部ノ兵トモヲ率キ、

中國(ナカツクニ)ノマツロハヌモノトモヲ討チ平ゲ給ヒ 
高御座ニ即カセラレテ天下シロシメシ給ヒシヨリ、二千五百有余年ヲ經ス。

此間世ノ様ノ移リ換ルニ随ヒテ、兵制ノ沿革モ亦屢々ナリキ。
古ハ 天皇躬ツカラ軍隊ヲ率ヒ給フ御制ニテ、
時アリテハ、皇后皇太子ノ代ラセ給フコトモアリツレト、
大凡兵權ヲ臣下ニ委ネ給フコトナカリキ 』
『 夫れ兵馬ノ 大權ハ、 朕カ統フル所ナレハ、其司々ヲコソ臣下ニ任スナレ、
其ノ大綱ハ朕親之を攬り、肯テ臣下ニ委ヌヘキモノニアラス 』
『 朕ハ汝等軍人ノ 大元帥ナルソ、
サレハ 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ、汝等ハ 朕ヲ頭首ト仰キテソ、其親ハ特ニ深カルヘキ。
朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ恵ニ応シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラスル事ヲ得ルモ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ尽スト盡サルトニ由ルソカシ。
我國ノ稜威振ハサレコトアラハ、汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、
我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ、 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ尽サハ、
我國ノ創生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光輝トモナリヌヘシ 』
---と
即ち 『天皇親率ノ下』 「朕ト一心ニナリテ」 『皇基を恢弘シ國威ヲ宣揚スル』 こと、之皇軍の本たり
処でここに注意を喚起しておかなければならぬことは、
皇軍が 『 天皇親率ノ下 』 に在るの大權は、
断じて憲法第十一條の 『 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 』 なる 統帥大權の定めあるに基けるに非ず
憲法十一條の該規定は、却って皇軍の在るべき本義を法的に御宣示し給へるに過ぎざるものなり
皇軍は憲法にその規定があらうがなからうが本來的に 「 天皇親率ノ下」 に在るの軍隊である、
といふことを明確に理解すべきことである
何となれば、皇軍は、その本質を根本的に究きつめれば、
畏こくも 「 修理個成 」 な御實践、御まつらひ給ふ 陛下の御稜威そのものなればなり
「 朕ト一心ニナリテ 」 が不動絶對皇國軍人の根本精神で、
「 一將一兵の進止は、即ち 「 股肱 」 おのもおのもがそれぞれの地位立場より 
大元帥陛下にまつろひ志向帰一する 「 朕ト一心ニナリテ 」 であり、
あらねばならぬを本義するは、別言を以てせば一將一兵の進止そのものが即 大元帥陛下の御進止、
御稜威であり、あらねばならぬを本義とするは、實に然るが故の必然事である
而して、ここに「上官ノ命ヲ承ルコト實ニ直ニ 朕か命ヲ承ルナリト心得ヨ 」 との大御論の大生命である
かくて又ここに皇軍の 「 上元帥ヨリ下一卒ニ至ルマテ其間に官職ノ階級アリテ從属スル 」 
は、威壓支配のためのものに非ずして 「 股肱 」 おのもおのもの
大元帥陛下に まつろひ 志向帰一し奉るの體制であり、命令服從は、
その實、即ち 「 國民はひとつ心にまもりけり遠つみおやの神のをしへを 」 なる 「 一ノ誠心 」
上下一体の まつろひ のものたるの所似があるのである
* 以上の義よりにして、「 軍制學教程 」 第四章--統帥權の条章中に述べられてゐる 
「 天皇に直隷スル指揮官ノ部下ニ在ル各級ノ指揮官ハ各々其部下ヲ統率シ間接ニ、
大元帥ニ隷属ス、統帥權作用ノ系統右ノ如クナルヲ以テ上官ノ命令ハ即チ
大命ヲ代表スル モノニシテ絶對服従ヲ 要求 ス 」 といふ點は最だ不徹底、
特に傍点を附した点の表現は、寧ろ皇軍の本義を歪曲せるものといふべきなり
之を要するに皇軍の生命は、 天皇の御親帥 「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 」 そのものである
故に從ってこの大義の--世上伝ふる偕上民主幕府的統帥大權の非議は、即皇軍そのものの否認であり、
この大義に徹せず皇軍の統帥を謂ふは、恐懼皇軍の統制を私にする 御親帥本義の冒瀆である
以上以て職るべし、現人神にして天下億兆の 大御親にまします 「 天皇親率ノ下 」
「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義トス 」 る、
即ち皇國体の眞姿--一君萬民、君民一體の大家族体國家上大御親、絶對、下萬民赤子、平等、
其処には一物一民も私有支配する私なく、從って天下億兆皆其処を得、
萬民一魂一體只管に 君が御稜威の弥榮を仰ぎまつろひ志嚮歸一する皇國體の本義を愈々明徴にし、
皇國を在るべき本來の世界民生の 「 光華 」 「 國といふふくのかがみ 」 世界の 御父帥表國たらしめ、
八紘一宇、世界修理固成の神業に直進するを、その本分となす皇軍は、正に之れ神軍たり
* 断じて皇軍は、かの共産主義共の云ふ、
或る階級的支配のための階級軍に非らざるは勿論、「 國民の軍隊 」 ともいふべきものに非ずして、
絶對に天下億兆の大御親にまします全體者 「 天皇の軍隊」 である
故に又皇國には、「 武士トモノ棟梁 」、「 軍閥 」 の在る可からざるは勿論、
厳密には今日一般に謂はれてゐる 「 軍部 」 なるものの在ることなし
皇軍の本義、本質たるや即ち斯の如しである

(三) 皇國の現勢と之に処する軍人の本分
処で、今日皇國の軍人おのもおのもは、果して皇軍の本義、その本質を十全之を體認し、
「 朕ト一心ニナリテ 」 なる國魂を熾烈最も強く體現せる日本民族の先頭首脳部たる皇軍の一員として
「 朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ応シ 祖宗ノ恩ニ報ヒマイラスル事ヲ得ルモ得サルモ汝等軍人カ 
其職ヲ尽スト盡ササルトニ由ルソカシ」 「 朕ハ汝等ヲ股肱ト頼ミ 」 「 深ク汝等軍人ニ望ムナレ 」 
との深厚なる御信任に答へ奉ってゐるであろうか? 顧みて自らの今日を謙恭に猛思三省すべきである
今その行蔵の一々に云々はしない、ただ一點
「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義を存シテ、再中世以降ノ如き 」
「 且ハ我國体ニ戻リ、且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 」 る 「 失體ナカランコトヲ望ムナリ 」
との大御論をそも何と拝誦し奉つてゐるか? 軍人たるもの恐懼三省すべきなり
『 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義を存シテ 』 とは、謹承せよ !
斷じて 『 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握シ 』 「 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ----( 憲法第四條より )----」
といふ、國家の××、人民の代表者といふが如き 『 中世如何 『 且ハ我國體ニ戻リ且ハ、我 祖宗ノ御制ニ
背キ奉リ、浅間敷次第ナ 』 る主權在民的機關説の謂に非ずして、
そは 「 昔 神武天皇、躬ツカカラス大伴物部ノ兵トモヲ率ヰ、中國ノモツロハヌモノトモヲ討チ平ケ給ヒ
高御座ニ即カセラレテ天下あめのしたシロシメ給ヒシヨリ、二千五百有余年ヲ經ヌ 』
一貫不動神ながらの事實たる 「 高御座ニ即カセラレテ天下あめのしたシロシメ給ふ 」、
『 列聖ノ御偉業ヲ繼述シ、一身の艱難辛苦を問ス、親ラ四方ヲ経営シ』給はる天皇御親裁本義の 御宣示である。
即ち、右の大御論は汝等軍人は、 天皇御裁本義を夢忘るゝ事なく、之を護持し、以て 「 中世以降ノ如キ 」
「 且ハ我國體ニ戻リ、且は我 祖宗ノ御前ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 」 る機關説的主權在民覇道制覇ノ
「 失體ナカラン 」 様 「 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ盡 」 せよとの御思召しである。
処で、見よ !  皇國今日の實狀や如何 !  「 中世以降ノ」武家に代り、今や資本家財閥 「 權ヲ専ラニシ、
表ハ 朝廷ヲ推尊シテ、實ハ敬シテ是ヲ×ケ、億兆ノ父母トシテ、總テ赤子ノ情ヲ知ル事能ハサルヤウ計リナシ。
遂ニ億兆ノ君タルモ、唯×ノミニ成リ果、其カ爲ニ今日 朝廷ノ尊重ハ、古ニ倍セルカ如クニシテ
朝廷ハ倍×へ 」 爲めに、天下億兆其処を得ず、『 上下相離ルル事霄壌ノ如  』 き 『 且ハ我國體ニ戻リ、
且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 』 る民主機關説的金權覇者の覇道制覇に在るのである。
かくてその結果、成る程皇國の今日は、産業に於て、軍事に於て、將又學術等々日進月歩、
大いに世界にその威を輝かしてゐるが如くである。
がその半面に其の日の生活に喘ぎ苦しんでゐる大多數の赤子同胞のあるを忘れてはならぬ。
然るに、噫 ! 然るに、これ等生活苦に呻吟する大多数の赤子同胞は、
にも拘らず 「 身のために、君を想ふは口惜しや 君のためにと身をば想はで 」
「 海ゆかば水づく屍 山ゆかば草むす屍 大君のへにこそ死なめ 顧みはせじ 」 と、
「 君が代を思ふ心の一すじに我身ありとは思は 」で、身を鴻毛の輕きに置き、
「 只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守リ 」 戰場に、軍營に、工場に、或は又農場に等々それぞれの
地位立場よりまつろひ奉行翼賛し奉つてゐる。
その彼等の姿、噫! そは正に無私無我、嚴粛そのものである。
それは 神の御姿、現人神陛下の御稜威みいつに非ずして何んぞや。
然るにこの忠良なる大多數の同胞は、その日の生活に事欠ぎ喘ぎ苦み、
「 表ハ 朝廷ヲ推尊シテ、實ハ敬シテ是ヲ×ケ 」 參らせ給へる彼金權覇者とその手代共が
却って益々冨み且つ栄えてゐるのである。
何たる矛盾 ! 何たる國體本義の歪曲ぞ ! 
「 天下億兆、一人モ其処ヲ得サル時ハ、皆 朕カ罪 ナ」 りと、
噫 ! 皇國今日の実態、そは君の御式徴に非ずして何んである。
正に 「 且ハ我國體ニ戻り、且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第 」 といふべきなり。
然らばこの矛盾、この歪曲はそも何に原由せるか?
即ちそは、我國今日の進歩發達なるものが、實は 「 開くべき道は開きてかみつ代の國のすがたを忘れざらなむ 」
「 智識ヲ世界ニ求メテ大イニ皇基ヲ振起スヘシ 」 と仰せ給へる

明治天皇の御叡慮に戻り、「 さだめたる國のおきてはいにしへの聖の君のみこゑなりけり 」
「 あまてらす神の御光ありてこそわが日のもとはくもらざりけれ 」----皇國體の本義 ( 祭政一本
天皇御親裁本義 ) を忘却せる、欧米の利益社會観的民主個人主義文明の無批判的
殖模做に基く弱肉強食覇者の利害を中心にせるものなればなりといふ所にあるのである。
げにや皇國は今日、「 七百年ノ間ノ、武家ノ政治 」 のそれにも幾倍かする金權覇者のうしはぎによって、
國體本義はなし崩し的に破壊され、爲に國際的に國内的に劃期的非常重大れんきてきの機器に當面してゐるのである。
明治天皇は明治元年三月十四日 「 億兆安撫國威宣布ノ御宸翰 ごしんかん に於て、
『 汝億兆旧来ノ陋習ろうしゅう ニ慣レ、尊重ノミヲ 朝廷ノ事トシ、神州ノ危急ヲ知ラス。
朕一度ヒ足ヲ擧クレハ、非常ニ驚キ、種々ノ疑惑ヲ生シ、萬口紛紜トシテ 朕カ志ヲナササラシムル時ハ、
是 朕ヲシテ 君タル道ヲ失ハシムルノミナラス、從テ、列祖ノ天下ヲ失ハシムルナリ汝億兆能々、
朕カ志ヲ體認シ、相率テ私見ヲ去リ、公議ヲ採リ、 朕カ業ヲ助テ 神州ヲ保全シ 列祖ノ
神霊ヲ慰シ奉ラシメハ、生前ノ幸甚ナラン 』----と。
『 朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ應シ、 祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラスル事ヲ得サルモ、
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡ササルトニ由ルソカシ。我國ノ稜威振ハサルコトアラハ 
汝等能ク 朕ト其憂ヲ共ニセヨ、我武維揚リテ、其榮ヲ耀サハ 朕汝等ト其誉ヲ偕ニスヘシ。
汝等皆其職ヲ守リ、 朕ト一心ニナリテ、力ヲ國家ノ保護ニ盡サハ、我國ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ、
我國ノ威烈ハ、大ニ世界ノ光華トモナリヌヘシ、 朕斯モ深ク汝等軍人ニ望ムナ シ』
----と仰せ給へり。
「 朕カ國家ヲ保護シテ、上天ノ惠ニ応シ、祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラスル事ヲ得ルモ得サルモ
汝等軍人カ 其職ヲ盡スト盡ササルトニ由ルソカシ」----と
噫! 皇國軍人たるもの、いかでか想ひを皇國の今日に致し、顧みて自分らの實践行蔵を三省、
斷乎勇躍以て 「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル 」 ----國體主義の明徴に猛進せざる可けんやである。

(四) 「 政治ニ拘ラス 」 なる大御言葉の眞義を體せ
國体主義の明徴の問題に対する皇國軍人今日の態度について、今こゝでは具體的に一々を
云々するは控へる。
だが要するに今日緊切重大なる國体本義の明徴とは、断じて単なる、然も攻略的な声明や、
一文部省の數學刷新によつて期成される問題でなく、實にそは前述、
『 且ハ我國體ニ戻リ、且ハ我祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 』 る民主機關説的金權覇者の覇道的制覇の下、
天下億兆其処を得ざる今日の國家、社會の中心力を革新する維新の
問題である。
從ってそれは結局するに、「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義」----天皇御親裁の十全を仰ぐ、
現存覇道的制度機構の御改革に翼賛し奉る、この維新的實践に根基し 輔弼の重責、
國家の樞機に在るの人物を斷乎徹底的に刷新するを具體的第一義と爲す。
然り民主機關説的金權覇者の覇道的制覇の支柱になり下れる、
かの重臣ブロックとその一類の
うしはぎを、その儘にして國體本義の明徴を期せんとするは、
正に百年河清を俟つ天下の愚事である。

然るに責任の局にある皇國軍人のこの問題に對する態度は、例へば稱揚激励をこそ爲すべき
皇魂軍人のそのためへの至誠を却って抑壓し、
恰も政府内閣の死命問題を國體本義の
明徴より重しとするが如き消極不徹底そのものである。
静思せよ ! 
こうした責任の局にある皇國軍人今日の態度は、實に、軍人勅諭に御論し給へる五ケ条の第一なる
「 軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスヘシ 」 といふ条項の終りごろにある 「 世論ニ迷ハス、政治ニ拘ラス、
只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守リ 」 といふ 大御言葉を、御勅諭の全體に流れる大精神である。
明治十五年に至る世論よりして民主主義的政黨覇権政治の檯頭だいとうするであらう危険を、
恐れ多くも感じさせられ給ひ、痛く之を御軫念遊ばされ 「 股肱と賴 」 み給へる軍人に
「 朕ト一心ナリテ 」 皇國を 「 再ヒ中世以降ノ如キ 」 「 且ハ我國體ニ戻リ、且ハ我祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、
浅間敷次第ナ 」 る、覇道に陥し入れない様 「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ 」
----天皇御親裁本義を堅持、「 順逆ノ理ヲ弁ヘ大義ノ重キヲ知リ 」、
「 只々一途ニ己カ本分の忠節を守リ 」 世論や政治に惑はされ、支配されることなく、
「 朕カ國家を保護シテ 上天ノ惠ニ応シ 祖宗ノ恩ニ報ヒマヰラセスル事 」 を期せよ ! と御論し給へるものであるといふ、
その深さ御思召を拝察し奉るこしなく、右の一句を、
例へば林前陸相が某貴族議員の質問に答へ、
勅諭の中の 「 政治に拘らず 」 との御言葉の
意義は 「 軍人ハ政治ニ干与セズト解スル 」 と答弁せるそれの如く、
全體から切り離し単に字義的に、
世論がどうであらうと、政治が如何何様な行はれてゐようとそれに構らずといふ、
所謂 
「 政治不干与論 」 的に展解し、
前述皇國今日の反國體的實態、その意識的な支柱である政治に
對し消極不干与的態度を持し、
結果に於てそれに支配された無意識的にではあるが身苟も
皇國軍人にあり乍ら
「 且ハ我國體ニ戻リ、且は我祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、
 浅間敷次第ナ 」 る今日の民主機關説的金權覇者の
衛兵になり下がってゐる所に原因してゐるのである。

(五) 國體本義の明徴----維新への奉公こそ皇國軍人今日の重大責務たり
或る軍人が日常の職分とする処は國防である。
処がその國防の本義たるや
『 列祖ノ御偉業ヲ継述シ、一身ノ艱難辛苦ヲ問ス。
親ヲ四方ヲ経営シ、汝億兆ヲ安撫シ、遂ニハ万里ノ波濤はとう拓開シ、國賊ヲ四方ニ宣布シ 』
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キ、八紘ヲ掩ヒテおおいて宇ト爲  』 す
「 世界修理固成 」 の神業を使命とする皇國日本の國家生活それ自體である。
故にそは絶對に政治の現實に不干与的たり得ない。
然も今日、『 國家の全活力を締合統制し 』 之を 『 最大限度に發揚せしむる如く、
國家社會を組織し運營する事が國防國策の眼目と 』 爲すがため、
『 現存の如き機構を以て窮乏せる大衆を救濟し、
 國民生活の嚮上を庶幾しつゝ非常時局打開
に必要なる各般の緊急施設を爲し、
皇國の前途を保障せんことは至難事に属するであらう。

須らく國家の全機構を國際競爭の見地から----( 筆写註 = 國際競爭の見地からでなく
天下億兆皆其心を得る一君萬民、君民一體家族體的皇國體の本義からであらねばならぬ )
----再檢討し、財政に經濟に、外交と攻略に將た國民教化に根本的の樹て直しを斷行し
皇國の有する偉大なる精神的物質的潜勢を國防目的の爲め組織統制して、
之を一元的に
運營し、最大限の現勢たらしむる如く努力せねばならぬ。』
----( 以上引用は凡て陸軍省發行
『 國防の本義と其鞏化の提唱 』 より )、
即ち金權覇者の利害を中心とする民主機關説的

現存國家社會の制度機構を根本的に改革し、皇國をその本來なる天下億兆皆其処を得さしめ、
「 世界の光華 」 世界の親父師表國と完成完美する、
皇國體本義の明徴--維新を
緊切絶對とするに於ておやである。
全く今日のそれの如く國家の政治が經濟が等々、
即ち國家の現實的態勢が上層指導階層と
大多數の赤子臣民との間に一魂一體の家族的協翼なき状態で、
いかでか強力なる
國防あらんやである。
皇國軍人が日常の職分とする國防たるや、即ち斯の如くである。
かくて今日皇國軍人が國體本義の明徴--維新のために斷乎徹底的に猛進することは、
正に皇軍精神の十全發揮であり、それは實に、
「 天子ハ文武ノ大權ヲ掌握スルノ義ヲ有シ 」 「 且ハ我國體ニ戻リ、且ハ我 祖宗ノ御制ニ背キ奉リ、浅間敷次第ナ 」 る
「 中世以降ノ如キ失體ナカランコトヲ望ムナリ 」 との大御論を眷々服膺 けんけんふくよう 
「 順逆ノ理ヲ辨へわきまえ大義ノ重キヲ知レル 」 に基く、 「 只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守 」 るの
道である。
これを以て軍人の許すべからず 「政治干与 」 「 政治的干渉 」 と爲すは、
金權覇者のデマに惑はされたる全く採るに足らざる俗論である
又或は云はん、皇國の今日に維新の緊切絶對であるは認める。
併し軍人の 「 政治干与 」 は、國防的立場の限りに於てで、
それを越え維新の問題にまで突入するは
不可であると、この一見尤もらしき見解は、
前述せる所によつて識らるるが如く、

實は解った振りをして軍人自らが積極的に皇國々防の本義を歪め、
己が日常の職分である國防を危きに陥し入るるの許すべからざる日和見的腰抜論である。
識る可し、皇國軍人は、身を 「 天皇神率ノ下 」、天皇御親裁の下
「 朕ト一心ニナリテ 」
なる神ながらの國魂を熾烈しれつ
最も強く體現せる日本民族の先頭首脳部たる皇軍に
奉じてゐるのである。
即ち皇國軍人にして國體本義の明徴--維新のために斷乎徹底的たらずして、
いかでか之が達成は期し得られんゆである。
想ひをこゝに致さんか、皇國軍人今日の重大責務は、毅然として何者にも動かされることなく、
軍人が日常の職分とする國防とは、單に外國に対する 「 國の護り 」 といふが如き消極的なものに非ずして、
その 「 國の護り 」 たるや、積極的に 「 皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル
ヲ本義トス 」 る、
即ち皇國體の本義を發輝し、御稜威みいつを世界光被する 「世界修理固成 」
の使命國、
皇國日本の國家生活そのものである。

從って皇國の軍人たる者は不動絶對の國体を持つことなく、ただ政體に生活する、
即ちそのために時の政治家の勢ひ、その求めの儘に動かされ、動くをよしとなす、
外國の軍人に於けるそれより類推せる所謂 「 政治干与 」 を本義とし、
政治の現實に不干与的
であるを絶對に許さない。
と政治に対する軍人の態度を堂々宣言し、
( 併しこのことは云ふまでもなく軍人個々の勝手気儘な
政治行動を主張するのでなく、
それは飽くまでも皇軍一體としての態度である )

その統帥大權の下、皇國本然の態勢を牙保せる独自の地位を斷乎徹底的に發揮し、
以て國體本義の明徴--維新のために猛進することである。

(六) 結言
即ち皇國軍人今日の重大責務は、國體本義の明徴--維新のため斷乎堂々の軍を進め、
皇軍精神を十全徹底的に發輝することである。
このために今日軍に必要なることは、正に相澤中佐が一死以て指教せる粛軍である。
粛軍の叫は今日色々の方面より擧げられてゐる。
されど以上の本義に基かざるのそれは、
恐懼 「皇軍ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル 」 皇軍の本義を
蹂躙する私のための粛軍であり、
それは潜上 天皇御親率の大義を冒瀆するの大逆である。

耳を掩ひておおいて 鈴を盗むの類ひなる 「 派閥的策動排撃 」 「 流言蜚語翦成 」 「怪文書清算 」
なる叫びは即ち、こうした爲めにせんがための粛軍のスローガンである。
識るべし粛軍とは、
要するに 「 天皇親率ノ下皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル本義トス 」 る皇軍精神
の十全徹底發輝そのものである。
重語以て結論とせん。
粛軍とは 「 天皇親率ノ下皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スル本義トス 」 皇軍精神の十全徹底發輝そのものであり、
皇軍精神の十全徹底發輝は今日具體的には、

軍が國體本義の本義の明徴--維新のために斷乎徹底的に猛進することである。
即ち皇國軍人は今日の重大責務は國體本義の本義の明徴--維新のために斷乎徹底的に猛進すべく
それぞれの地位立場よりおのもおのもが本分を盡すことである。

(十二月十五日)