あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中佐の片影・其十八 『 厳乎たる正しき人 』

2022年02月28日 15時39分22秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其十八  〇中尉


相澤中佐は清廉潔白の士なり。
人誰か邪を好むべき、然れども凡人の悲しさ、
不識の間環境の支配を受け邪曲の道を歩みつつ、
敢て邪曲たるを悟らざること往々にして之れあるなり。
然れども相澤中佐の如きは如何なる場合如何なる時機と雖も、
事の大小となく特に些細な小事に対しては殊更に正邪の判断を明確にし、
以て常に正しき道に向つて邁進するの士風を有し、
歪める事に対しては徹底徹尾之を厭忌したりき。
相澤中佐は常に皇室の尊厳と国体の尊重に関し力説せられたり。
畏くも、皇室に対し奉り、一部国民中、
特に有識階級に誤れる観念を有する者あることに関しては常に慨嘆せられたり。
又我が国体の世界に冠絶する所以の理を我が国の歴史を通じて更に深刻に、
指導階級に徹底するの必要を高唱したり。
殊に准士官、下士官団に対しては、その監督たる立場、機会を捉え、
公室尊厳、国体観念の正しき認識把握に至らしむる様努力せられ、
以て兵教育の指針を示され、
将校特に中少尉に対しては集会所の座談時 或は演習場の休憩時等に於て、
個人毎に叙上の道を力説され、其の熱意 其の誠心に皆感激せざる者なんりき。
吾等は相澤中佐の風貌に一日数回接すると雖も、
毎日常に 「 厳乎たる正しき人 」 に遭ふ言ひ知れざる敬虔の念に打たれ、
我身我心の引締るを覚へたりき。
温容慈父の如く平素の性格慈母の如し。
然も歪曲邪悪を厭忌すること又峻烈。
而も尚 爆発的憤激を為すが如きことも些もなく、
諄々として誨おしへ 而して遂に声涙共に下る。
克く忍び克く容れ克く誨ふ。
以て将校以下に範を垂れたり。

次頁 中佐の片影・其十九 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其十九 『 現代の典型的武人 』

2022年02月27日 18時08分59秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其十九  ××少尉


自分が親しく中佐殿の薫陶を受けたのは士官候補生時代である。
當時聯隊は満洲事變の爲め出勤中のこととて若い將校は殆んど居らず、
繁激な勤務に追はれて誰も相手にしては呉れなかつた時
一人此の多忙の中にあつて、
愛撫され手を取つて指導された人は實に中佐殿であつた。
而も懇切丁寧、熱誠宛も親の子に對するが如くであつた。
一見硬骨な中佐殿はその接するや
慈母の如く温情溢れ、血もあり 涙もある 言ひ知れぬ懐しみを皆齊しく抱いて居た。
一度劍をとれば教士の腕ある人などとはどうしても見えなかつた。
一度口を開いて、皇室を説くや、熱誠言外に溢れ赤心鐵をも熔かす慨があつた。
昭和八年九月本科に入校
中隊長森田中佐は
候補生に對する訓話の時間、

現代の典型的武人として
相澤三郎中佐殿の偉大なる人格を引用して
我々に斯くあれと教へられた。

偉大なる中佐殿の人格。
その中に何処か大西郷に相通ずる何ものかが
多分にあるやうに思はれるのである。

次頁 中佐の片影・其二十 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其二十 『 部下を決して叱られません 』

2022年02月26日 18時49分59秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其二十  ○○曹長


中佐殿は武人として典型的な方として日常その壮容に接し、
不知不識の中に教化された點が實に多くあります。
特別指導的な立場から教育をうけた事はありませんが、
中佐殿は聯隊の教育主任であり、
自分はその直接の助手として居た関係上 殊に印象の深いものがあります。
一、第一に自分の心に映じたことは教育計畫其の他諸種の起業を致されます時、
 必ず自分の机に向ひ 合掌約十二、三分、それより仕事に取りかかられました。
 これは無念無想の境に入つてから物事に取り懸られる所だと私は推察して居りました。

二、次に筋道の通らぬことは絶對に承知せられません。
 無理なことは部下に向つてさへ鄭重なる謝辭を以て吩咐け、
又演習等に於ては常に部下の労苦を考へ、その労苦の按配を考へ、
細心の注意を払つて居られました。

三、軍隊を裨益する爲め上官に意見を陳べる時の精神は
 全く軍隊内務書に示されてある通りで
隊長に對しても自己の意見は忌憚なく暴露し、
實に其の際の熱心なる態度は言語にも現はれ勇ましいものでありました。
然し一旦隊長が決定されると、それは實に神妙に承知され
まるで別人の如くその決定事項に専念されました。

四、中佐殿は礼儀正しい人と申しますか敬虔の念の深い人と申しますか、
 如何に忙しい時でも部下に對する答礼は確實でありましたことは當番兵も噂して居る位でありました。
大抵の方は下士官以下の場合、
事務室で服務中は殆んど眞面目な正確な答礼は余り見うけられません。
又それが自然の如く考へていました。
然るに中佐殿は本部のあの出入の多い事務室で
一兵に至るまで一々確實な答礼をなされるのでありました。
此の点は實際私共には眞似の出來ないことでありました。
其の他 私用を他に依頼し、又其の復命の場合などは
一兵卒に向つても必ず立つて丁寧に御礼を申すのでありました。
是等の點全く皆一様に感銘した事と思ひます。

五、其の他細く申せば數限りありませんが、部下を決して叱られません。
 お叱りを受けたことはありません。
演習などに於ても不都合が起つたとすると必ず自分の計畫を不備とし、
部下を責めることはその原因が故意に非ざる以上決してありませんでした。
私の中佐殿に関する感想は以上の様であります

故に私は中佐殿を神様の如く信じて物事を行つて來ました。
これからも中佐殿の無言の中に教へられた教訓を守つて行きたいと思ひます。
又その覺悟であります。
本當に好いお方でありました。
何等欠点として擧げる所もなく、修養出來た立派な上官でありました。

次頁 中佐の片影・其二十一 に 続く

二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其二十一 『 不義と見れば権勢を恐れず敢然排除する人であつた 』

2022年02月25日 19時28分26秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其二十一  △△中佐


自分は大正六年六月から臺灣の獨立守備隊に居つて
相澤さんは翌七年の十二月に赴任して來られた。
相澤さんは第七中隊附で、
當時同中隊は劍術も射撃も聯隊の最下位で大隊長中島少佐も常に之を憂ひて居られた。
適々相澤さんの着任幾許もなく大隊内の劍術競技会が行はれた。
將校にも銃劍術の仕合をやらせると言ふので、
自分等は不心得な考ではあつたがお互いい加減にやる事にしやうと申合せた。
まだ來たばかりであつたから相澤さんにはこの申合せを告げなかつた。
所が 仕合になつて見ると相澤さんはあの炯炯けいけいたる眼光で猛烈果敢、
全く眞劍勝負の勢でやつて來るので我々の申合せはすつかり壓倒され打破られて了つた。
各中隊將校皆眞劍で闘はざるを得なくなつて了つた。
結局優勝したのは第六中隊から出た自分であつたが、その眞劍さに於て、その氣力に於て、
その態度に於て 正しく相澤さんが第一等の立派さであつた。
大隊長も大いに嬉しかつたと見えて講評中に
「 我が大隊には立派な將校が來て喜ばしい 」
と感嘆し、
「 第七中隊は凡て相澤中尉を模範として勉励すべきである 」
と述べられた。

相澤さんは非常に部下を可愛がつた人で、當時もよく下士兵卒と一緒にすき焼きなどやつて居られた。

當時同聯隊に熊本幼年學校の六期生で高岸昶雄中尉が居つたが、
その結婚が許された祝と言ふので自分等五六人各々一升瓶を一本づつひつ提げて押掛けたことがある。
相澤さんは高岸中尉の燐家に居つて俺もと云ふてやつて來た。
相澤さんはかねて高岸中尉やこの時押掛けた仲間の宮田と云ふ中尉に推服して居たが、
酒酣なるに及ぶや ほら立上つて、
「 宮田さんは偉い。高岸さんは偉い。偉い人に肖るのだ 」 
と、一々汚い靴下をなめて廻つた。
全く思つた通り、考へた通り、遠慮も外聞もなく、眞直にやつてのける風があつた。

然し又實に思ひ遣りの深い人であつた。
自分の亡くなつた家内は相澤さんの奥さんの妹であるが自分が豊橋教導學校に居た時、
家内が病むや わざわざ秋田から奥さんを看病に寄こされ、
その死んだ時には實に情のこもつた電報を寄せられて自分もホロリとさせられてしまつた。
そして一家を擧げて來弔された。
昨年六月亡妻の三年忌の時もわざわざ福山から來て下さつた。

相澤さんと一緒に輪王寺に福定無外老師を訪ね、一日語り合つたことがあつたが、
師弟の情 正に親子の如しと言ふか、實に麗はしいものであつた。
永田事件の直後新聞に
「 案内もなく料理店の大広間に上り込んで大きくなつていた云々 」
と、宮島の一料亭 「 岩惣 」 に関する記事が載つて居たが、
あれは事情を知らぬ新聞記者が勝手なことを書いたので事實はかうである。
嘗て無外老師が 「 岩惣 」 の乞ひを容れて書いて送られた人筆が額に出來たからとて
「 是非一度宮島へ御出でを願ひ度い 」
と報じて來たのを、老師は
「 自分は行けぬから、代りに行って見てやつて呉れ 」
と福山の相澤さんに書いてやられたからで、昨年秋季演習の後であつたか、
若い將校二三人を連れて見に行かれた時のことである。
「 女中も誰も見えなかつたので黙つて部屋を尋ねて拝見して來ましたが、
 立派に出來て居りました 」
と、言ふ意味の手紙が老師の許に届いて居たのを見せて戴いたことがある。

大井町の日本体育会体操學校の配属將校を命ぜられた時には、
同校教務主任は予備役の歩兵大佐で
相澤さんの前任者が全く手古摺つた程の人であつたが、
相澤さんは誠意よく盡されて
遂に同大佐も当時大尉であつた相澤さんに一目も二目も置くやうになつて了つたそうである。
同校生徒は毎年夏富士裾野に野営演習に行き富士登山をするのであつたが、
相澤さんはいつも生徒の眞先に立つて長靴のまま富士山頂を極められるのが例であつた。
皆その不屈不撓の精神に感嘆して居たさうである。
体操學校配属當時は盲腸炎を患はれたが、一日出勤の前、奥さんに
「 手拭と楊子と歯磨粉を出せ 」 と言はれるので
「 どうなさるのですか 」 と尋ねた所
「 軍医學校に行つて盲腸の手術をやつてもらうのだ。一週間で歸るから來るに及ばぬ 」
と言捨てて出掛けて、果して丁度一週間で帰つて來られたさうである。
奥さんも言附けに背く譯にいかず、たうたう病院に行かずにしまはれたさうだが實に気丈な人であつた。

此の間聞いた話であるが、福山歩兵第四十一聯隊に赴任せられるとすぐ經理委員首座をやられた。
當時の聯隊長は、その卓子、椅子が古びたからとて規定を無視し、
將校集会所の金で立派な卓子椅子を造らせて聯隊長室で使用して居た。
相澤さんはこの事情を知るや、聯隊長の歸つた後商人を呼びその立派な卓子椅子を拂下げて了つて、
旧の規定の陣営具を備へさせて置いた。
翌日聯隊長が出勤して見ると様子が變つているので副官か誰かを呼びつけて、
理由を聞いて眞赤になつて怒つては見たものの、
經理委員首座たる相澤中佐が規定通り敢行したことなので如何ともしがたく、
中佐からも眞正面から難詰されてたうたう泣寝入りになつて了つたさうである。
相澤さんは不義と見れば權勢を恐れず敢然排除する人であつた。

次頁 中佐の片影・其二十二  に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐の片影・其二十二 『 腹の勉強を忘れるなよ 』

2022年02月24日 05時57分35秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其二十二  ○○中佐


相澤君の爲人其の他に就いては自分よりも諸君の方がよく御存じの筈だから、
自分としては唯特に
「 相澤君は十一月事件や教育總監更迭の事情等を知つて、
 此の儘で進んだら再び若い人達が五 ・一五事件のやうに飛び出すに違ひない。
若い人達を犠牲にしてはならないと言ふ一心であの決行をなされたものと思ふ 」
と、言ふて居たと諸君に傳へて貰ひ度い。
×  ×  ×
余の求めた所感に対して○○少尉から左の感想文を書き送つて來た。
同少尉と余、只僅かに一面識に過ぎざるもの、
素より共に國家國軍に關する意見を交換したることはなく、又少尉がかかる意見を吐き、
或ひは包蔵することは彼の周囲からも聞き得ない。
然るが故にこの所感は無色透明、純一無雑なる青年將校の聲と言ふべきであるまいか。
同僚との雑話の間 更に此の感を深くする。
聲なきに聞けば---更に一層その聲が聞こえる如く感ずるものである。
一、士官候補生時代の思ひ出に 「 鋼鐵の如き人だなあ 」 と感じ忘るゝ能はず。
一、本校入校の送別會の時、「 腹の勉強を忘れるなよ 」 と言はれし顔。
一、寝室の寝物語に悲憤の友が口にする言葉の中に中佐の名は幾度かあつた。
一、巷間の妄説を信じての決行に非ずと云ふ氣がしてならぬ。
 恥しき次第乍ら○○の訓示を聞かされても、新聞を見てもどうしても消えない大きな疑問があるのだ。
一、日本の現狀に、國軍の現狀に、何か大きな無理があるやうな氣がしてならぬ。
若しさうであつたら、義憤も血もある、熱もある。
身命もとより惜しむに足らず。
何だかヂツとして居られない氣持ち。
革新運動は他に非ず。
自分が先づ自分自身を深く掘り下げて行かねばと思ふと努めているのだが妖雲あり、
國法を仮面の毒蛇ありと聞く。
然しそれがどんなのか自分には明かにならぬのだ。
大きな悩み、
やがて信念に燃えて
腹の底から込み上げて來るものに依つて行動する時が來るのを待つて居る。
中佐は言はれた。
「 腹の勉強を忘れるなよ 」 と。
× ×  ×
神韻漂渺。
高い精神界にある相澤中佐の風格は、
傳へんとして傳ふることの至難であるのを今更乍ら痛感せざるを得ない。
劍と禅とに養ひ、國體観に徹し、大慈大非心に發して、國家の革新を念としたものであらうか。
武人中の武人であり、軍服を纏ふた聖者高僧であると言ふべきか。

  左に某中尉に与へられた相澤中佐の一絶を掲げて本分の結びとする。
述懐
妙在精神飛動虚    不須形似劉費安排
乞看百天懸流勢    凡自胸中傾冩來

次頁 中佐最近の書信・八月十四日 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐最近の書信・八月十四日 『 母の至情を心肝に銘じ毎日励むこと 』

2022年02月23日 09時00分40秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
(三 )  中佐最近の書信
八月十四日 ( 宣子殿宛 )

「 親の命に意見を傳ふてもよい 」
と先生から聞いたと云ふことを誤つてはいけない。
大事な事だから説明する。
父三郎は幼少のころ評判の親孝行だつたが、之は全く恥しい次第であるが、
親を懐ふ至情は幼年學校 殊に中央幼年學校で幾夜人知れず泣いたものである。
是は親が有難い懐しい余りで理屈ではない。
親 殊に父親の御薫陶で大君を懐ふことも漸次増し
近頃は中央幼年學校時代と同様に大君を懐ふて人知れず泣くことがあるばかりでなく、
相濟まぬ 「 壯心劍を横へ功なきを恥づ 」 と南洲が申されたが、
同様に全く申譯ないと思ふ流涕。
この方が正しいと思つた行ひに対して若し親が何んとか言はれたら、
始めて親に謹んで意見を申し上ぐるも惡くないだらうが、
御前等の母が思はるる至情を心肝に銘じ妹弟に率先し毎日励むことを要望する。
先日海水浴から歸り静子が下駄の緒を切らした時、
迎へに来て居つた母が徒足になつて母の履物を静子に与へられたのを見ただらう。
忘れてはならないぞ。
しからないで妹や弟のよく云ふことを聞くやうに工夫しなさい。
御前等は然し皆おとーさんの幼いときよりも親孝行だよ。
荷物は返送して
尠くも来年春までは居を更へないで皆學校も更へないで居つた方がよいと思ふ。
此のことは母とも相談してきめたらよいと思ふ。
父は殊の外丁寧な麹町憲兵分隊の御世話になつて
其の後も亦此所に各位の手厚い御取扱ひを受けて出發前の下痢も全快し
何一つ不自由不足なく壯健で居る。
皆呉々も安心せよ。一同の健康を祈る。
父三郎
御一同様

次頁 中佐最近の書信・九月二十日 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐最近の書信・九月二十日 『 私の心持をちやんと承知して居ることを何よりうれしく思ふ 』

2022年02月22日 11時13分09秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
(三 )  中佐最近の書信
九月二十日 ( 静子殿、正彦殿宛 )

秋のよい天候になつたようだから、
道子をはじめ皆屋外で運動をして丈夫な身と立派な心持を養ひなさい。
本日四日附の正彦の手紙も大層よろこんで見ました。
昨日も亦靜子よりの手紙と正彦の画と書方の大部好くなつたのを見ました。
皆一生懸命に勉強して居ることが能くわかりまして非常によろこんでいます。
殊に私の心持をちやんと承知して居ると云ふことを何よりうれしく思ふ。
私も至極壯健で毎日運動もし、勉強もし、規則正しく心地よく日を送つていますから安心して下さい。
次に一、二心懸けを申します。
一、常に姿勢を正しくすること。
二、汗をかいた後よく拭くこと。
三、雨天の際 殊に電車の踏切りに注意すること。
尚鈴木主計さんに御礼狀を差上げましたことを母さんに申上げて下さい。さようなら。
父より
靜子殿
正彦殿
皆々様

次頁 中佐最近の書信・九月二十七日  に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐最近の書信・九月二十七日 『 うがひ もよいですよ 』

2022年02月21日 12時15分40秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
(三 )  中佐最近の書信
九月二十七日  ( 宣子殿宛 )


随分雨が降り續きました。
折角の御彼岸も沈黙でしたらう。
然し皆元氣そうでうれしく思ひます。
おとーさんの所では運動も出來、御菓子や牡丹餅の甘いのを頂きまして、
雨は降つても有難い祭日でありました。
御蔭で至極元氣です。
今日より天気も續きませう。
皆愉快に學校に通ふことが目の前に見へている。
顧れば本年は大変雨が多かつた。
大部水害で困つて居る人も多かつたと思ふ。
此の冬は此度天氣が續いて乾燥し、殊に鷺の宮はほこりが立つだらう。
咽喉を痛めない様に今から注意することが必要です。
「 うがひ 」 もよいですよ。
黒川先生に和尚さんの薬を言ふてやりました。
仙台の屋敷のことは別に記憶が確かでないから鈴木氏と安藤氏とに私から出した手紙がありました。
問ひ合はして取りよせて相談されるのもよいと思ひますが、
若し問ひ合せても不明な時には松山の意見等を參酌して昨日おかあさんの御考への通りでよいと思ふ。
おかあさんにも、靜子ちゃんにも、正彦にも、道子ちゃんにもよろしく。
さようなら。
父より
宣子殿
學校はどーですか。

次頁 中佐最近の書信・十月十六日 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から


中佐最近の書信・十月十六日  『 少しのことで長い間曇つた心を持つていてはいけないよ 』

2022年02月20日 12時43分46秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐


昭和十年十月十三日、長女宣子  「 衛戍刑務所にて接見・・・学校の件 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

相澤中佐の片影
(三 )  中佐最近の書信
十月十六日  ( 正彦殿宛 )


昨日は宣子ねーさんが元氣なく訪れてきたことは
本十四日朝になつてその理由がわかりました。
父は覺悟のことであるからなんとも思はない。
福山で別れる時言つたことを心に銘じて
少しのことで長い間曇つた心を持つていてはいけないよ。
生死は命あり、唯時所を得るのみであります。
獅子は三日にして可愛い赤坊を千仭の谷に投ずるではありませんか。
紊りに憂愁を以て忠魂を損ずることは嚴にいましめなさい。
想起せよ。
大義桜井驛前途茫々として妖雲天に迷ふも別に弱氣心を起すべきに非ず。
唯正に聖訓を奉戴して進みなさい。
妖雲は自ら消散します。
正彦は朝ねぼーではないか。
天気の朝は富士山が見える筈です。
未だ左手で書描する癖がとれないではないか。
大部皆上手になりましたねー。
おかーさんの言ふことをよく守つて皆一生懸命に勉強しなさい。
おとーさんは非常に元気だよ。
父より
正彦殿
おかーさんや、宣、靜ねーさんや道子ちゃんにも、尚大野大佐殿にもよろしく。

述懐    十月六日
神州男子坐大義    盲虎信脚不堪
誰知萬里一条鐵    一劍己離起雨情
述懐    十月十一日
丹心挺身揮宝刃    妖邪移影無常観
唯膺聖恩期一事    二八閑居無秋心
述懐    十月十五日
善勝惡敗浮雲如    危乎同胞八千萬
永夜靜宵間大空    天邊拂雲仁兄誠
 呉々も皆元氣でやりなさい。さようなら。

次頁 中佐最近の書信・十一月一日  に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から
 


中佐最近の書信・十一月一日 『 尊い人になりなさい 』

2022年02月19日 13時24分31秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
(三 )  中佐最近の書信
十一月一日  ( 道子殿宛 )

道子や大變元氣になつたそーだが、かぜをひかないよーにしなさい。
正彦は大變よくお母さんの云ふことを聞くそーだねー。
踏切の百姓やさんに毎日ただいまをするそーだが、大層よいことだ。
いつまでもやりなさい。
靜子はのどが惡いから學校から歸つたら何時でも塩水でうがいなさい。
又宣子はお母さんを助けてやつて下さい。
ねーやは姿勢をよくしなさい。
胸は必ずなほる。
此の歌は去る十七日の述懐でした。
さらでだに立ち去りがたき神の國
雲の上石の上なる駒草を想ふ
皆しつかり元氣を出してよいことをしようと心がけて行くやうになさい。
尊い人になりなさい。
尊い人とは偉い人と云ふのではありません。
正しい人、尊い人になる様になさい。
私は大層元氣ですから御安心下さい。
さよーなら。
父より
道子殿

次頁 雑録 に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から
 


雑録 『 腕力に訴ふるが如き暴擧は愼んでなすな 』

2022年02月18日 15時21分36秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
(四)  雑録


  在福山市の一老人からの書信を載せる。
 因に 「 小生相澤氏とは未だ一面識無之、文通せしことも無之候得共、
書中の青年を通じ互に 『 宜しく言ふて呉れ 』 的の挨拶を交せし仲に有之 」
と追伸してある。

未見の知己、眞に相澤中佐を語るものと言ひ得やうか。

皇國の政治は 「 祭事 」 と心得申候 
「 親が子に臨むが如し 」 と解し居り候。
然るに大正以來の政治は
「 駈引 」 「 策略 」 を以て終始し居り候事は
小生體験を以て之を承知罷在候。
殊に昭和と成りては
政府は娼婦にも劣る白々しき詐欺虚言を吐いて
平然たるに至りては何とも申様も無之、
皇國として刺客の起るは當然の儀と存候。
相澤中佐殿が永田を誅されし理由を、陸軍省公然の發表として新聞に發表せられし処を讀むに、
曰く  「 謬まれる巷間の浮説を妄信し云々 」 と。
嗚呼
、吾相澤中佐は單に世間の噂を盲信して輕擧妄動するが如き
オツチヨコチヨイ、三文奴には無之候。
歩兵第四十一聯隊の將兵が心より語る処に聞け。
曰く
「 隊中の將兵は中佐を高山彦九郎と呼べり 」
「 隊中の將兵一人として中佐を惡く言ふものなく、皆其の謹嚴にして温厚なるに心服せり 」
「 中佐は不言實行の人なり 」
と。
而して小生が玆に輕擧妄動に非ざる證拠として特筆仕り度は、
中佐が永田を誅すべく上京さるゝ時、小生指導下にあり常に中佐に私淑しありし一青年
( 中學校を卒業し、目下青年團長を勤めをる ) が岡山まで同車せしが、
中佐は同青年に訓へて曰く、
「 此際青年として勤むべきは皇魂の宣布である。腕力に訴ふるが如き暴擧は慎んでなすな 」
と。
自己は今君側の奸を除かんとして行途にありつゝ
農村青年團長に向つては、團員に皇魂の扶植を訓論し、
青年の熟して爲す易き輕擧妄動を訓戒せらるる如きは、
之果して 「 巷間の浮説 」 に心を狂はすが如き者の爲す可き行爲に御座候や。
永田鐵山なる匹夫が自己の奸才を弄して皇國を蠧毒きくいむしどくしつつありし事は、
十目の視る処、十指の指す処に御座候。
殊に今回の人事に就き、鐵山が中心になつて大いに力をつくしたる事は新聞にすら載り居り候処、
然るに陸軍當局は自ら欺き 而して人を欺き 以て其の威信を保ち、
統制を圖らんと策せるも 是れ却つて陛下の皇軍を冒瀆し奉り、
世人より侮辱さるゝの基と成り、益々統制を亂す者に外ならず候。
長上の命令に服從するは啻ただに陸軍の規定たるのみならず實に人道に御座候。
然れども苟いやしくも皇國の御爲めに成らざる事を看過し自己一身保安の爲め荏苒日を送るは、
本當の---口頭だけでなく---日本精神を有する者の肯んぜざる処に候。
故に陸軍の幹部にして眞に統制を欲するものならば、權力を以て部下を威壓するの妄念を去り、
眞に部下軍人をして心服さすに足るの行を執らんことを敢て忠告致度候。
×  ×  ×
  中佐の一辱知じょくちの寄せた文
一、昭和七年頃私が中佐殿に初めてお會ひした時、いたく感動したことはその大自然的な風格であつた。
 言行の總てが自他を詐らざる、無理のない、極く自然なそして雄大なことであつた。
初對面の時笑ひ乍ら申された言志録の一章
「 身に老少ありて心老少なし、氣に老少ありて理に老少なし、能く老少なきの心を執つて
 以て老少なきの理を體すべし 」
は、其の後私の生活の基準になつた。

二、昭和九年二月頃中佐殿が中耳炎を病んで慶応病院に入院しておられた頃
 私は友人と二人で御見舞いに行つた。
私共が病室に入つて直感したことは病状の只ならぬことであつた。
患部を繃帯して寝台の上に呻吟して居られる姿は傷々しい限りであつた。
「 中佐殿如何で御座いますか 」 と申上げると、
中佐殿は苦痛を噛みしめて奥様を呼ばれ無理に寝台の上に起き、
「 ハイ、相澤の病気はいいです。Y君はいけない。部屋に入った時の敬礼がいけない。
 I 君は少しいい。然し君は礼儀を知らぬ。
上官の部屋に入つて外套もぬがぬ様な將校はいけないのだ 」
と、いきなり注意を受けた。
私共が冷寒をおぼえて恥入つて威儀を正すと、
「 それでいいそれでいい 」 と申されて満悦至極の態であつた。
その時中佐殿はこんなことも言はれた。
「 私は今は病気を治すことだけする。
 若い偉い人が居られるから御維新の事はその方々にたのむ 」 と。
私共がやがて病室を辭し去り、靖國神社に參拝の途次二人はつくづく中佐殿の偉さを語合つた。

三、中佐殿は退院して間もなく私の宅をお訪ね下さった。
 木綿絣かすりにセルの袴をつけ、日本手拭を腰にはさんだ例の通りの質素な服装で、
「 やあ I さん、入院中お見舞いの節は大變叱つたさうですネ、 ハツハツハー--- 」
と割れるやうな大聲で笑はれた。
雑談している中ヒヨイと私の落書した高杉晋作の詩
「 眞個浮世価三銭 」 の句を床の間に見つけて、いきなり剥ぎ取つて
「 これはいい これはいい これ下さい 」
と言ふなり懐にねぢ込んでトントンと階段を降り、
さよならと言葉を残して帰つて行かれた。
私は友人と中佐殿の人生観の奥深い所を交々語り合つたが遂ひに語り盡し得なかつた。

断片一束
一、中佐殿が慶応病院に入院されて居つたとき、士官候補生の○○が肺結核で入院していると聞き、
 非常に同情されて早速懇ろな手紙と共に 「 養生する様に 」 と申添へて二十円送つて呉れました。
  ( □□少尉談 )

二、大隊長が精神訓話され、言 皇室の御事に及ぶと涙を流して話されました。
  ( 一除隊兵談 )

三、或夜不寝番が下番になつたので私が床の中へもぐり込んだ所へ、
 夜中にも不拘寝室を巡つて来られた大隊長殿が尋ねられました。
「 寒くて眠らないのか、それとも風邪てもひいたのか 」
なんでも寒い冬の夜でした。
あの温容がまだはつきりと目の前に浮んで来ます。
  ( 一憲兵伍長談 )

四、中佐と共に留守隊にて勤務せし将校は異口同音に
 「 至誠の人 」 「 精神の人 」 と言つて居る。
小生も亦見習士官より任官迄御薫陶に与つたが
ツツツポの着物を着られた中佐の姿が目のあたり浮び、
殊に青年將校を可愛がつて呉れた思ひ出に感慨無量なるものがある。
  ( ××中尉談 )

五、昭和七年三月二十日。
 歩兵第三聯隊第十一中隊將校室に、大蔵、朝山、村中、佐藤、安藤の各陸軍中尉、
中村海軍中尉、坂元士官候補生が會合し、
中村海軍中尉は直接行動の必要を鞏調力説せり。
偶々相澤中佐來室され、事情を聞くや、「 神武不殺 」 を説き、
又 「 日本の國は血を流さずして奇麗に立て直る國である 」 と説き、
「 若しやる必要があるならば若いものにはやらさぬ、私がやる 」
と斷言したり。
此の爲め海軍側の提議は容れられず、
遂に陸軍將校の參加なくして五 ・一五事件は決行せられたり。
  ( △△大尉談 )

目次頁 
相澤三郎中佐の追悼録 に戻る
次頁 相澤中佐遺影 一、に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から
 


相澤中佐遺影 三、風格雑錄 (一)

2022年02月16日 04時52分58秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐遺影
三、風格雑錄 (一) 

皇天人を選んで過りなし。
相澤中佐の爲人寔に神の如く、
此の人にして此の事あるを察せずんば
永田事件の眞相を味識することは出來ない。
以下各方面の談話、信書等を編録して中佐の風格を窺ふことにする。

目下大日本赤子會の理事として東奔西走中の佐藤光永氏は、
中佐が一ノ關中學時代の竹馬の友である。
同氏は語る。
( ・・・中佐の片影  其の六  )
相澤君の少年時代は温順な思慮深い性質でした。
御宅は役場の前邊りにありましたが、
御家庭は嚴格な様子で歸宅すればいつも兩親に丁寧に挨拶されい居りました。
御兩親には好く仕へられ、御姉弟仲も睦じかつた様です。
學校の成績もずつとよい方でした。
たしか四年生か五年生の頃でしたらう。
鎮守の八幡様の裏山に坂上田村麿を祀つた祠がありますが
その奥は何かお姫様の崇があるとか言ふ傳説で人の立入を禁ぜられて居りました。
そこへ私共三四人が入つて見やうとしました時、相澤君は皆を引き留めて
「 昔からしてはならぬと禁ぜられていることを犯しては、惡いことはあつても善いことがある筈はない 」
と言ふ意味のことを言つたことがありました。
子供の當時から既に思慮深かつたことが今でも想ひ出されます。
その相澤君が今度のやうなことを決行したのは、よくよくの事情があつたに違ひありません
その事情の善し惡しは知らず、唯 君國の爲めと言ふ一念が根本であつたことだけは毛頭疑ひません。
近頃は自分の立身出世の爲め、自分の立場をよくする爲めならばどんなことでもする。
人を陥れても構はぬと言ふ一般の世相でそれが殊に上のものに多い。
軍人の中に於てさへ私共が顔を背けさせられる様な人々の多い時に、
自己の一切を賭して大事を決行されたと言ふことは なんとも敬服に堪へず、
誠に有難いことに感ぜられます。
私も八年この方大日本赤子會の運動に一切を捧げて來ましたが、
その間に不愉快なこと、憤慨に堪へないことが尠くなかつただけ一層痛切に相澤君の心境に感ぜられます。

相澤中佐は仙台歩兵第二十九聯隊の少中尉時代、
同市輪王寺の僧坊に寄寓して、雲水と一緒に運水搬紫しつつ、福定無外老師の指導を受けて居た。
仙台一友が無外老師から次の様なお話しを伺った。
( ・・・中佐の片影  其の七  )
一、相澤さんは少中尉の頃三ケ年に亘り ( 満二年余 ) 輪王寺で修行し、
 全く禅僧と同様につとめられたが、それは普通人には到底出來ぬ刻苦精励であつた。
性質は生一本で純粋で幼少からの破邪顕正の道念を禅宗の修行で益々固められた。
今度の事件も實にこの二十歳余の青年將校時代からの純情、破邪の理念に燃えての事と思ふ。
「 一寛せる相澤君の態度である 」 と。
二、常に腐敗せる我が國の現状を嘆じて居た。
 軍隊さへも士気が弛緩し、その結果は國家の危殆であると憂へて居た。
仙台に來れば必ず訪ねて來、又屢々文通もあつたが、憂國の至情は常に溢れて居た。
特に二、三年この方やるせなき心持を述べて居た。
(  「 その點わしも同感であつた 」 と 老師は特に附け加へて言はれた。)
三、この國の非常時を如何にして打開せんと日夜心を痛めて居たことは明瞭である
今度のことは止むに止まれぬ精神の發露である と思ふ。
單身根源を切つて軍の清純を期せんとするものであつて、初めから身を捨てている。
自己の前途、立身出世のみを望む現在の大部分の人間には解し難い行爲であるかも知れぬが、
相澤の今度の行爲はわしにはよく判る。 決して狂ひではない
事の善惡は今論ぜられぬが、
相澤があの行動を爲すに至るまでには多くの幾多の熱慮が重ねられたらう。
決して輕擧ではない
世間でとやかく云ふやうだが、賣名でもない、妄信でもないと信ずる。
相澤の生一本な性質とあの純情とを以て現今の腐敗を見る時、
止むに止まれぬものがあったに相違ない。
わしは相澤を信じている。
確固不動の信念に依り生死を超越して君國に盡さんとするのが相澤の一貫せる性質である。
尚 同期の人々にも相澤の立派な精神を知る人があると思ふ、
決してわし一人のみの過信ではないと思ふ。

( ・・・中佐の片影  其の八 )
相澤中佐は聯隊から僧坊起臥きがを不可とせられたので、
 無外和尚の法友、當時の東北帝国大學總長北条時敬氏宅に寄寓することになつた。
( 北条氏は後學習院長に任じ千年物故された )
當時北条氏宅に黒川恵寛氏が家庭教師として寄寓しつつ東北帝大に通つて居たが、
同氏が肺を患ふや二人で自炊生活を始め、喀血しても同じ部屋で寝起し、食事を共にしていた。
同氏が帰郷の已むなきに至るや身廻り一切の世話をして無事歸郷させた。
黒川氏は現に京都市吉田に医師を開業して居られ中佐とはずつと親交があつた。
中佐は収容後、無外老師の健康勝れざるを知つて黒川氏に頼んで薬を届けさせた。
中佐夫人宛同氏最近の書翰の一節に曰く、
  輪王寺老師の御儀拝承いたし候、本日早速仙台宛護送薬致置候。御了意被下度候。
大兄の御心境御美しく候。今は唯心靜かに悟道御精進願はしく、
為皇國切に御自愛被下度。

少中尉時代から部下を可愛がること非常なものであつた。
 職務以外は概ね粗末な綿服に小倉袴の朴々たるいでたちでよく旧部下の家庭を訪問した。
中尉時代臺灣赴任の途次、福島県石城海岸に旧部下を訪れ、偶々大漁祝ひがあり、
大漁祝ひの印半纏 はんてんと鰹節をもらつて來たことがあつたが
半纏は今でも大事な記念としてしまつてある。

朝鮮新義州守備隊附の少尉時代、中佐の當番兵であつた猪狩定与氏が
 自作の 「 麦こがし 」 と酒とを収容中の中佐に差上げやうと思ひ上京して來て、
浅草の某交番の巡査に差入れの方法を尋ねたところ、
中佐を表する巡査の言が余りにも無礼であるのに
同氏は沸然怒をなして方に殴り付けやうとまで思つたが、
此際却つて中佐に悪影響を及ぼすかも知れぬと
思ひ止まつて旧番地を思ひ出して鷺の宮の留守宅に訪ねた。
数々の思ひ出話しにその夜を留守宅に語り明かし帰郷したが、
帰郷後自作の白米一俵と馬鈴薯などを送つて留守宅を慰めた。
猪狩氏の話の一節に次の様な思ひ出がある。
  中佐の部下の兵が肺肝で在隊中死亡したが、
  その時中佐は死に至るまで肉身の弟か子供を看病するが如く附添つて、
  湯灌ゆかんや輕帷子を着せるまで、一切手づから行ひ、河原で火葬した時も自分で火を点け、
 骨から灰まで自分でさらつて郷里に送り届けた。
  兵の戰友、友達一同感激せざるものがなかつた。
尚猪狩氏は編者に一書を宛てて次の様に述べている。
 前略、小生相澤殿とは朝鮮新義州守備隊に於て種々御懇篤なる御教鞭を賜はり、
其の後も屢々御訓戒を戴き常に生神として敬恭致候、
今回図らずも駭報に接し只々恐懼に堪へ申さず候
相澤殿御風格たるや、小生申上ぐる迄もなく、
神聖至純誠神の如きに平素心の守として崇拝致し居り、

正に相澤殿の一擧一道は菩薩業と確信罷在る処に御座候、
御窮窟なる公判に當り及ばず乍ら御高恩の万分の一に酬ひ度く神に念じ居り候、 ( 下略 )
×  ×  ×
事件が新聞に報道せられて、相澤中佐の決行と判明した日、
 福山市在住石川某が留守宅に訪ねて来て、夫人に向つて、
  此の聯隊では相澤さんこそ軍人らしいお方と思つて居ましたが、
  矢張り私の考へは間違ひませんでした。
  正月でしたか私が酒に酔つて往来で中佐に無礼を働きかけましたら、
  ヂロリと見てにつこり笑つて黙つて行き過ぎられましたが、
  あの眼光は今でも忘れることが出来ません。
  今度のこともあの眼光が然らしめたものに違ひないと思ひます。
  私はやくざ見たいなものですが何んなりと御世話申上げさせて戴きたうございます。
と 涙を流し乍ら語つた。
×  ×  ×
鷺宮の中佐宅の隣家に引籠つて永らく病を養つて居られる退役陸軍大佐大野虎六氏は、
中佐の辱知じょくちであり中佐が最も尊敬して居られた方の一人である。
同氏の談に曰く
( ・・・中佐の片影  其の四 )
相澤さんの御人格は私が申すまでもなく
相澤さんに接せられた人は皆よく御存じであらうが、
全く尽忠至誠一点のまじりけない人でした。
今度のこともその事の善し悪しは私は申すまでもないが、
相澤さんがそれによつて期待された所と云ひ、その動機と云ひ、全く立派なもので
此の事件のあつた後と雖も私の相澤さんを信じていることには微塵も変りはありません。
私は病床にあつて何事も為し得ないが、
唯 相澤さんの期待された所を一日も早く実現せられんことを祈つて居る次第です。
同氏は更に、
私は相澤さんと同隊に居つたこともなく、相澤さんはあの通りで、
自己宣伝と言ふことの少しもない人であるから御性格はよく判つて居て、
その行動となると一向に知らんので、これは極く一端に過ぎないと前提して、
次の様に語られた
嘗て此の附近で見まはりの不寝番をやつたことがあるが、
一戸一人と云ふ訳で相澤さんは自分躬ら出られた。
現役の将校で百姓と一緒に夜警に出るなどは相澤さんならではやう出来んことだと思ひます。
この先に私の同期生で予備役少将の○○と云ふ人が住んで居ますが、
相澤さんは先輩と云ふので転任の挨拶に行かれたのでせう。
その時本人は古服古ズボンの汚いなりで畠いぢりをして居たのに対して
誠に厳然たる態度で、まるで見習士官か何かが直属上官に申告でもする様に挨拶されたので、
こちらは何んとしてよいか誠に恐縮に堪へなかつたと語つて居ました。
相澤さんは周囲に迷惑をかけないやうに極力注意されて鋳たうで、
これは事件後に思ひ当つたのですが、
何時も上京すると挨拶に立寄られたのが暫くは一向にお見えにならなかつたのです。
×  ×  ×
福山聯隊最後の当番兵であつた尾崎秀雄氏は、中佐の家族が引上げる時なども親身になつて尽された。
上京後の後片附けなども至れり尽くせりであつたさうである。
編者への書信で同氏は次のやうに述懐して居る。
( ・・・中佐の片影  其の一 )
自分は中佐殿の当番として半年毎日御宅へ公用に出て居りました。
尾崎として一番感じたことは軍隊で一番大切な不言実行のお方であり、
礼儀の正しいお方と毎日思つて居りました。
それは一寸したことでも当番としての自分が用事を行ふと
親しい御顔で有難う有難うと何度も礼を言はれたり、
又通勤に乗られる馬も乗られるのは朝だけで、帰られる時は何時も歩いて帰られて居りました。
それはお前等も忙しいから自分の事が十分に出来るやうにとの感謝に堪へぬ御心からです。
又御旅行の時など駅まで馬で送つて自分が帰る時、
自動車など多く通るから馬が荒れると危ないと言はれて、
自分が恐縮してお断りしたのを、
無理に中佐殿は私が乗る馬の銜くつわをしつかり御持ちになつて下さいました。
部下を思ふ御心から上官が人前でも而も平気で親切にこんなことまでも行つて下さつたのです。
又演習に行かれても 「 歩くお前は疲れるだらう 」 と言はれて、
何度も何度も休んで行かれたり、よく兵隊の事に気をつけて下さる方でした。
又夕方御宅に公用に行く時、雨など降つている日には 「 本日は天気が悪いから来ぬでもよい 」
と云つて休ませたり、その部下を愛する御心は口筆に言はれない色々なことが多くあります。
今度のことに就きましても私は唯々中佐殿の御武運の強からんことを神にお願ひする次第であります。
何か後先となり読みにくい事ではありませうが、
私の言ひ度いことは 中佐殿は人一倍愛と武勇な心であつた ことを書き度いのでしたが、
演習で疲れて何やかやで思ふように書けませんでした。
×  ×  ×
秋田聯隊に在勤中親交のあつた某氏からの書信中に、中佐の風格の一端として次の如く述べて居る。
( ・・・中佐の片影  其の九)
一、奥様の御教育のよかつた為めでもありませうが、
・・・・御子様を中佐も非常に可愛がつて居られました。
 やさしい率直な気分が満ち溢れて居ました。
其半面無口な武士的凛然たる冒すべからざる威厳を包蔵せられて居ました。
二、当時中佐の部下であつた伊藤上等兵から聴いた直話ですが、
 中佐は部下を可愛がられたことは非常なもので゛、部下も亦慈父の如くに慕ひ服従して居た由。
殊に演習の場合、出発に当つては
「 これから出陣するのだ。真の戦場と心得て生命がけでやれ 」
と訓示され、その厳格さは苛酷に思ふ程軍紀を重んぜられたが、
帰営に当つては
「 これから凱旋するのだ。戦勝つて帰るのだから皆元気よく帰れ 」
と常に思ひ切つた慰労会をなされた由。
尚 よく御土産を留守者に買つて来られた由です。
三、当地の憲兵分隊○○曹長の直話ですが ( これは永田事件以前屢々聴かされた話です )
 自分は永らく軍隊生活をなして来たし、又職務柄色々営外の生活状況も調べて居るが、
相澤中佐 ( 当時少佐 ) 程立派な又部下の信頼を集めて居る将校を知らない。
まるで磁石が鉄を吸ひつけるやうなものだ、
青年将校は一種畏怖と畏敬の念を以て仰いでいると。
四、相澤中佐宅の女中は、小生が世話したものであるが、
 同女中から来る手紙に依れば、全く慈父のやうに感ぜられ、
非常なる親切と行き届いた世話をされて居たことが時々書かれてありました。
五、中佐殿より戴いた数通の書簡を読んで見ると、まことに気品の高い一種の霊気に打たれます。
 憂国の至情が常に書面に満ち溢れています。
六、私の見た相澤さん。
 相澤さんは剣道の修練に依つて絶対無礙むげの世界を悠々自若として歩み得た人である。
国難はいつもこの武道の精神に依つて排除せられて来た。
これを言葉に現はして見ると 「 熟慮断行 」 である。
由来 日本国民性は熟慮の際は殆んど無表情で多くの侮辱に堪へ、
殆んど忍び難きまで忍んで居るが実行とすると死そのものの中へ驀進ばくしんに飛び込んで活を求める。
死中に活を求めた人。
人間正義のために邪悪と闘ひし人。
武士の品格と体面と教養とを豊かにした人。
等々、私は畏敬の念を以て接している一人である。
×  ×  ×
中佐の部下や後輩を思ふ真情は正に骨肉の情であつた。
殊に戦死者に対する情愛は涙なしでは語られない。
中佐が青森歩兵第五聯隊当時最も信頼して居た後輩の一人である遠藤幸道中尉が、
山海関の戦闘で戦死したことは中佐にとつて痛惜に堪へない所であつた。
遠藤大尉 ( 歿後大尉に進級 ) の令弟美樹氏より編者に寄せられた次の書翰に委曲を尽くして居る。
( ・・・中佐の片影  其のニ)
私が中佐にお目にかかつたのは二度です。
昭和八年一月五日 山海関西関に於きまして戦死した兄幸道の遺骨を懐いて白石に帰着致しましたのが、
同年二月十日午前八時半で、九時から親族を交えて極く内輪の慰霊祭を行ひました。
他人としては当町分会長長谷川大尉、小学校長五十嵐氏が入つて居ました。
神主の祭文中、ふと目を動かした時、
一人の軍人----巨大な身体、襟章は十七、じつと下を凝視してゐるのが私の目に入りました。
式が終わるまで誰だらう、十七と云えば秋田だが誰だらう、とのみ考へてゐました。
私には今でもはっきり其の姿が見えます。
膝をしつかり合わせて、拳をしっかり握つて、下を凝視して居られた姿が。
その方が相澤少佐殿でした。
後に聞いたのですが遺骨の着く前八時頃には停車場に居られ、
遺骨を迎へに出た人々は何か用があるのだらうかと思ったさうです。
愈々汽車の到着間近になるとプラットホームに入り他の人々と離れて独りブリッジに倚りかかって居られたさうです。
遺骨がつくと、皆のあとから又構外に出て自動車が動き出すと
一番最後の自動車に 「 乗せて下さい 」 と云はれて来られたのださうです。
式が終わっても、しばらくは霊前に座して依然として同じ態度を持して居られました。
久しうして始めて私達に挨拶されましたが、多くのことはおっしゃいませんでした。
唯一言
「 遠藤さんはまだまだ死なし度はなかった。今死んでは遠藤さんは死んでも死に切れはしない 」
とポツリポツリおっしゃいました。
それから白石町分会長長谷川大尉と話し出されました。
大体こんな内容でした。
遠藤さんはすばらしく偉い人だ。
こんな偉い人を出したのは白石町の名誉だ。
と 力をこめておつしゃいました。
分会長は仕方なく相槌を打つて居たやうでした。
話はたまたま多聞師団長の事に移りました。
( 其の頃は第二師団が凱旋したばかりで、
白石町では近日中に多聞師団長を招待し、胸像を贈呈する予定になつて居ました )
すると中佐殿は之を聞いて非常に立腹されたかのやうで、
「 多聞師団長に胸像をやるよりりも、遠藤さんの記念碑でも建てるべきだ 」
と口を極めて申されました。
それから私に 「 遠藤さんの骨を持たせて写真をとらせてくれ 」 と申されました。
私は喜んで承知しました。
中佐殿はゴムの長靴をはかれ、縁側の外へ立たれました。
私が骨をお手に渡そうとした刹那、中佐殿は大きな声を上げて泣き出されました。
私は、愕然としました。
いまでもあのお声は耳の底にこびりついてゐます。
しばらく続きました。
私も泣いて了ひました。
居られること二時間ばかりで多額の香料を供えられ、
「 お葬式の時には参ります 」
と 申されてお帰りになりました。
之が最初にお目にかかった時の印象でございます。

葬式の時は、現地戦術で参れないと言ふ御懇篤な御書面がありました。

同年六月、
青森の歩兵第五聯隊の陸軍墓地に満洲事変戦歿者の記念塔が建立されましたので
其の除幕式に参列し、奥羽戦で帰ります途中、
ふと中佐殿にお目にかかり度くなって秋田に下車し直ちに聯隊に中佐殿を訪問しました。
中佐は非常にお喜びになり、
( 其の喜び方は想像以上でした。私は下車するまでは、やめやうかとも再三思ったのでした )
丁度会議の最中だからとおっしゃって三十分許り待たせ、
すぐにお宅に案内下され、奥様や御子様方に紹介して下さいました。
汽車時間まで一時間余りビールの御馳走になり乍らお話しました。
そのときこんなことをおつしゃいました。
「 あの白石に向ったとき、私は八日に東京まで遠藤さんを御出迎えへしたのです。
 そして遠藤さんとゆっくりお話しましたのでした。
それから用を達して十日に白石でお出迎へしたのでした 」
「 遠藤さんはほんとうに偉い人だった。死なれて残念でたまらない。
 しかし遠藤さんの精神は私達同志が受け継いでゐる。
遠藤さんのお考へは実に立派なものだった。今其の内容を話すことは出来ない。
十年待ってください。話します。今に遠藤さんの為めに同志が記念碑を建てます 」 と
お別れの間近に中佐殿は
「 どれ、遠藤さんに報告しやうかな 」 と言はれて奥に入られたので
私も後から参りますと
立派な厨子を床の間に安置し、兄の写真がかざつてありました。
私も拝みましたが私は泣いて了ひました。
私は今かうして書いて居ましても目頭が熱くなって来てたまりません。
それから御子様三人を連れられて無理に送つて下さいました。
発車致しました。
挨拶致しました。
しばらく経つて窓から顔を出すと中佐殿は未だ立つて居られます。
又敬礼されました。
私はびつくりして頭を下げました。
胸は一杯でした。
しばらくは泣いてゐました。
これが二度目でした。

八月に進級御礼の挨拶を戴きました。
私は中佐殿にお目にかかつたのは僅か二度ですが、どうしても忘れることが出来ません。
兄の写真を見る度に中佐殿が思ひ浮べられます。
新聞を見る度に中佐殿のお姿が髣髴と致します。
中佐殿が私の如き一面識もない人間に接せられるあの御態度、私はなんと申してよいかわかりません。
私は中佐殿を維新の志士の如き方と思つて居りました。
熱烈なる御精神。
あの温容。
私のこの手紙がもしお役に立ちますならば私は兄と等しく喜びに堪へません。
この手紙は一日兄の霊前に供へました。
何卒国家の為に中佐殿御決行の精神を社会に明かにして下さるやうに
兄と共に神かけて御祈り申し上げます。
二度お目にかかった時の感想、私の心持はとても申し上げることは出来ません。
表現するに適当な言葉がありません。
如何としても忘れることの出来ないありがたいお方 としか申すことが出来ません。
×  ×  ×
同じく中佐にその令弟の戦死を弔はれた
秋田県岩崎町の小田島皓橘からの来信によると次のやうである。
( ・・・中佐の片影  其の三 )
( 前略 )
相澤中佐殿の件に就きて生等も甚だ吃驚罷在候。
如何なればああした直接行動に出でられ候や 判断に苦しむものに御座候。
嘗つて弟戦死壮候節、
最初に秋田より 片道二時間余の行程を大吹雪を冒してお訪ね被下しは相澤中佐殿に候ひき。
物静かなる中にドッシリとした真の武士とも申上ぐべき方と拝し候が、
果して後に新聞にて拝見仕るに武道の練達者との御事成程とうなづかれ申候。
相澤中佐殿と拙家何等の縁故も御座なく候に、
他の何人も未だ来らざる前、
大吹雪をついて二時間半の遠路をわざわざと
軍務御多望の折柄御来訪被下
し御芳志に感謝申上げ候に、
「 自分の時間が六時間近くありましたから 」
「 エライ方の御霊を拝し度くて 」 と御言葉僅かに申されて、
何んの御接待を致す暇もなく御出発被遊候。
後 小生 聯隊に御礼言上に参上せし時も
極く物静かにして礼を厚くして御迎へ被下、
 いたく恐縮仕候事御座候ひき。
其の後も一度、
弟の墓地新築せるを聞かせられ、又わざわざ墓参に御光来被下、
武人の温情に小生等一同感激仕り、
郷党人も亦 「 日本の軍人は、否日本軍は是れだから強いのだぞ 」
と、郷軍分会員と共に称し申候ひし程に御座候。
かかる物静かな真の武人とも申上ぐべき中佐殿が、何故ああした行動に出でられしか、
惟ふに中佐殿が余りにも生真面目なる軍人に候故、
つまり軍人として一点非の打ちところなき亀鑑たるべき半面に於て世を余り知り不被申る ( 失礼ながら ) 故に、
新聞にも御座候様に 「 巷間の浮説を盲信 」 せられ候ひしにあらず候や。
真に事此処に至り見るに中佐殿としても決して無謀なること
( 事実無謀なるもその信念に於て ) とは考へられず、
生等の関知し得ぬ処の何事かに義憤を感ぜられて、
為すべからざる行動を敢えて為されねばならざりしか、
その真情到底普通人の考へ及ぶ処に非ずと存ぜられ候。
出来申せしことは如何とも致方御座なく候も、
あの風格をお慕ひ申上ぐる生等として出来うべくんば
否是非々々寛大の御処置を望むものに御座候。
( 後略 )
×  ×  ×
福山で時々中佐宅を訪問して居た近在の一青年より寄せられた一文を掲げる。
( ・・・中佐の片影  其の十 )
あのやうな温厚な人がどうしてあんな重大なことを決行されたか。
これは私達青年にとりて重大な問題であります。
熱烈な皇魂の保持者、
天子様への忠誠をもつて終生の念願とせられて居た中佐殿が今回の義挙は、
余程重大な意義があるやうに思ひます。
否、断言します。
重大なものが確にある。
重大なものがなくてあの温厚な人がどうして起たれやうか。
私達は三思三省すべき秋です。
「 天子様の御地位は安全ですか 」
「 お国は発展してゐますか 」
「 皇民は安心して生活してゐますか 」
私は相澤中佐殿が私に語られた言葉の二、三を発表します。
「 私が日夜憂へてゐるのはお国の事です 」
「 尊皇心程重大なものはない。尊皇心なきものは日本人ではない 」
「 永田さんは立派な現在の政府の官吏であるかも知れないが、大御心の解らない人だ 」
「 若い人は決して無謀な事をやってはいけない。
 前途ある青年は、皇国を守る為、 天子様の御為めに生命を大切にして下さい 」
「 全世界の人々は皆天子様の赤子です。赤子お互ひに争ふことはまちがいです 」
「 軍人の中に尊皇心の欠けてゐる人が居る。
 又軍人精神の真義の解らない人々が居るのが残念でたまらない 」
「 私達の行動は、皇道精神の命ずる処に従って動くのです。
 大御心を奉じて行けばよいのです。
唯 天子様への御奉公あるのみです。
全身全霊を以て天子様に忠誠を尽くすのです 」
×  ×  ×
相澤中佐を狂人扱ひにしやうとしたものがあつた。
中佐が脳膜炎を患つたとき新聞に書き立てさせた者があつた。
全く虚報である。
中佐が中耳炎から丹毒を患つて慶応病院に入院した時、
親身も及ばぬ程に看護していた派出看護婦 今泉富吉与氏の手紙があるが、
これについて見ても脳膜炎に冒されて居なかつたことは明瞭であり、
往年草刈海軍少佐の憤死を狂死とした故智にならつて
相澤中佐を葬り去らうとしたものの心事を憎まざるを得ない。
左に掲げるのは今泉氏の手紙の一節である。
( ・・・中佐の片影  其の五 )
相澤様のやうなお方にお側近くお仕へ出来ましたことはほんたうに嬉しく、一生の光栄であり、
又今後の力でもあると存じて居ります。
御病床にあらせられながら、辱けなき事には存じますが、
大君のため、
御国のための御事より
他にあらせられなかった相澤様が只今の御心の内、御察し申上げられます。
よく御重態でいらせられし頃、
「 今泉、私はベッドの上で死にたくない。 戦地で死ぬのだから、お前もその気でしっかりやってくれ 」
と仰せになりました。
私も不束乍ら神に祈誓をなし、どうしても御恢復あらせられる様にと御仕へ致しました。
御食事を遊ばすにも決して神に御挨拶なくしては召あがられしことなく、
君の為めに御働きになる
 武勇の士であり乍ら、
数にも入らぬ私共への御やさしき御言葉、誠に誠に今にも
頂きし御言葉は生活の力でございます。
かかる義勇の御方なればこそ、
神様が相澤様を御選びになられましたのかも存じませんが、
世上の風評を御あび遊ばさるる御心中如何ばかりで居らせらるるかを御推察申上げます。
唯々この上は神に祈り居る私で御座います。


続きは・・次頁 風格雑録 (ニ) 
二 ・二六事件秘録  ( 一 )  から


相澤中佐遺影 三、風格雑錄 (ニ)

2022年02月15日 08時36分50秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐遺影
三、風格雑錄 (ニ) 


相澤中佐は令息正彦君の為め座右銘として、
畏敬する諸先輩の揮毫を集めて 「 雛鳳帳 」 と題している。
以下載せる数通の書翰は、
中佐が収容後代々木原頭の衛戍刑務所から愛児に宛てて出したもの、
中佐が子女を教養するに如何に真率熱心であるかを窺ひ、
且つその聲咳の一端を伝へる為め、これを蒐録する。

◇        ◇

四、雑録 ・・・雑録 『 腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな 』 

八月十四日 ( 宣子殿宛 )  ( ・・・中佐最近の書信・八月十四日  )
「 親の命に意見を伝ふてもよい 」
と先生から聞いたと云ふことを誤つてはいけない。
大事な事だから説明する。
父三郎は幼少のころ評判の親孝行だつたが、之は全く恥しい次第であるが、
親を懐ふ至情は幼年学校 殊に中央幼年学校で幾夜人知れず泣いたものである。
是は親が有難い懐しい余りで理屈ではない。
親 殊に父親の御薫陶で大君を懐ふことも漸次増し
近頃は中央幼年学校時代と同様に大君を懐ふて人知れず泣くことがあるばかりでなく、
相済まぬ 「 壮心剣を横へ功なきを恥づ 」 と南洲が申されたが、
同様に全く申訳ないと思ふ流涕。
この方が正しいと思つた行ひに対して若し親が何んとか言はれたら、
始めて親に謹んで意見を申し上ぐるも悪くないだらうが、
御前等の母が思はるる至情を心肝に銘じ妹弟に率先し毎日励むことを要望する。
先日海水浴から帰り静子が下駄の緒を切らした時、
迎へに来て居つた母が徒足になつて母の履物を静子に与へられたのを見ただらう。
忘れてはならないぞ。
しからないで妹や弟のよく云ふことを聞くやうに工夫しなさい。
御前等は然し皆おとーさんの幼いときよりも親孝行だよ。
荷物は返送して
尠くも来年春までは居を更へないで皆学校も更へないで居つた方がよいと思ふ。
此のことは母とも相談してきめたらよいと思ふ。
父は殊の外丁寧な麹町憲兵分隊の御世話になつて
其の後も亦此所に各位の手厚い御取扱ひを受けて出発前の下痢も全快し
何一つ不自由不足なく壮健で居る。
皆呉々も安心せよ。一同の健康を祈る。
八月十四日    父三郎
御一同様

◇        ◇

九月二十日 ( 静子殿、正彦殿宛 ) ( ・・・中佐最近の書信・九月二十日  )
秋のよい天候になつたようだから、
道子をはじめ皆屋外で運動をして丈夫な身と立派な心持を養ひなさい。
本日四日附の正彦の手紙も大層よろこんで見ました。
昨日も亦静子よりの手紙と正彦の画と書方の大部好くなつたのを見ました。
皆一生懸命に勉強して居ることが能くわかりまして非常によろこんでいます。
殊に私の心持をちやんと承知して居ると云ふことを何よりうれしく思ふ。
私も至極壮健で毎日運動もし、勉強もし、規則正しく心地よく日を送つていますから安心して下さい。
次に一、二心懸けを申します。
一、常に姿勢を正しくすること。
二、汗をかいた後よく拭くこと。
三、雨天の際 殊に電車の踏切りに注意すること。
尚鈴木主計さんに御礼状を差上げましたことを母さんに申上げて下さい。さようなら。
九月二十日    父より
静子殿
正彦殿
皆々様

◇        ◇

九月二十七日  ( 宣子殿宛 )  ( ・・・中佐最近の書信・九月二十七日  )
随分雨が降り続きました。
折角の御彼岸も沈黙でしたらう。
然し皆元気そうでうれしく思ひます。
おとーさんの所では運動も出来、御菓子や牡丹餅の甘いのを頂きまして、
雨は降つても有難い祭日でありました。
御蔭で至極元気です。
今日より天気も続きませう。
皆愉快に学校に通ふことが目の前に見へている。
顧れば本年は大変雨が多かつた。
大部水害で困つて居る人も多かつたと思ふ。
此の冬は此度天気が続いて乾燥し、殊に鷺の宮はほこりが立つだらう。
咽喉を痛めない様に今から注意することが必要です。
「 うがひ 」 もよいですよ。
黒川先生に和尚さんの薬を言ふてやりました。
仙台の屋敷のことは別に記憶が確かでないから鈴木氏と安藤氏とに私から出した手紙がありました。
問ひ合はして取りよせて相談されるのもよいと思ひますが、
若し問ひ合せても不明な時には松山の意見等を参酌して昨日おかあさんの御考への通りでよいと思ふ。
おかあさんにも、静子ちゃんにも、正彦にも、道子ちゃんにもよろしく。
さようなら。
二十六日夕    父より
宣子殿
学校はどーですか。

◇        ◇

十月十六日  ( 正彦殿宛 )  (  ・・・中佐最近の書信・十月十六日 )
昨日は宣子ねーさんが元気なく訪れてきたことは
本十四日朝になつてその理由がわかりました。
父は覚悟のことであるからなんとも思はない。
福山で別れる時言つたことを心に銘じて
少しのことで長い間曇つた心を持つていてはいけないよ。
生死は命あり、唯時所を得るのみであります。
獅子は三日にして可愛い赤坊を千仭の谷に投ずるではありませんか。
紊りに憂愁を以て忠魂を損ずることは厳にいましめなさい。
想起せよ。
大義桜井駅前途茫々として妖雲天に迷ふも別に弱気心を起すべきに非ず。
唯正に聖訓を奉戴して進みなさい。
妖雲は自ら消散します。
正彦は朝ねぼーではないか。
天気の朝は富士山が見える筈です。
未だ左手で書描する癖がとれないではないか。
大部皆上手になりましたねー。
おかーさんの言ふことをよく守つて皆一生懸命に勉強しなさい。
おとーさんは非常に元気だよ。
十六日    父より
正彦殿
おかーさんや、宣、静ねーさんや道子ちゃんにも、尚大野大佐殿にもよろしく。

述懐    十月六日
神州男子坐大義    盲虎信脚不堪
誰知万里一条鉄    一剣己離起雨情
述懐    十月十一日
丹心挺身揮宝刃    妖邪移影無常観
唯膺聖恩期一事    二八閑居無秋心
述懐    十月十五日
善勝悪敗浮雲如    危乎同胞八千万
永夜静宵間大空    天辺払雲仁兄誠
 呉々も皆元気でやりなさい。さようなら。

◇        ◇

十一月一日  ( 道子殿宛 )  ( ・・・中佐最近の書信・十一月一日  )
道子や大変元気になつたそーだが、かぜをひかないよーにしなさい。
正彦は大変よくお母さんの云ふことを聞くそーだねー。
踏切の百姓やさんに毎日ただいまをするそーだが、大層よいことだ。
いつまでもやりなさい。
静子はのどが悪いから学校から帰つたら何時でも塩水でうがいなさい。
又宣子はお母さんを助けてやつて下さい。
ねーやは姿勢をよくしなさい。
胸は必ずなほる。
此の歌は去る十七日の述懐でした。
さらでだに立ち去りがたき神の国
雲の上石の上なる駒草を想ふ
皆しつかり元気を出してよいことをしようと心がけて行くやうになさい。
尊い人になりなさい。
尊い人とは偉い人と云ふのではありません。
正しい人、尊い人になる様になさい。
私は大層元気ですから御安心下さい。
さよーなら。
十一月一日稿    父より
道子殿

×  ×  ×
・・・雑録 )
  在福山市の一老人からの書信を載せる。
 因に 「 小生相澤氏とは未だ一面識無之、文通せしことも無之候得共、
書中の青年を通じ互に 『 宜しく言ふて呉れ 』 的の挨拶を交せし仲に有之 」
と追伸してある。

未見の知己、真に相澤中佐を語るものと言ひ得やうか。

皇国の政治は 「 祭事 」 と心得申候 
「 親が子に臨むが如し 」 と解し居り候。
然るに大正以来の政治は
「 駈引 」 「 策略 」 を以て終始し居り候事は
小生体験を以て之を承知罷在候。
殊に昭和と成りては
政府は娼婦にも劣る白々しき詐欺虚言を吐いて
平然たるに至りては何とも申様も無之、
皇国として刺客の起るは当然の儀と存候。
相澤中佐殿が永田を誅されし理由を、陸軍省公然の発表として新聞に発表せられし処を読むに、
曰く  「 謬まれる巷間の浮説を妄信し云々 」 と。
嗚呼、吾相澤中佐は単に世間の噂を盲信して軽挙妄動するが如き
オツチヨコチヨイ、三文奴には無之候。
歩兵第四十一聯隊の将兵が心より語る処に聞け。
曰く
「 隊中の将兵は中佐を高山彦九郎と呼べり 」
「 隊中の将兵一人として中佐を悪く言ふものなく、皆其の謹厳にして温厚なるに心服せり 」
「 中佐は不言実行の人なり 」
と。
而して小生が玆に軽挙妄動に非ざる証拠として特筆仕り度は、
中佐が永田を誅すべく上京さるる時、小生指導下にあり常に中佐に私淑しありし一青年
( 中学校を卒業し、目下青年団長を勤めをる ) が岡山まで同車せしが、
中佐は同青年に訓へて曰く、
「 此際青年として勤むべきは皇魂の宣布である。腕力に訴ふるが如き暴挙は慎んでなすな 」
と。
自己は今君側の奸を除かんとして行途にありつつ
農村青年団長に向つては、団員に皇魂の扶植を訓論し、
青年の熟して為す易き軽挙妄動を訓戒せらるる如きは、
之果して 「 巷間の浮説 」 に心を狂はすが如き者の為す可き行為に御座候や。
永田鉄山なる匹夫が自己の奸才を弄して皇国を蠧毒きくいむしどくしつつありし事は、
十目の視る処、十指の指す処に御座候。
殊に今回の人事に就き、鉄山が中心になつて大いに力をつくしたる事は新聞にすら載り居り候処、
然るに陸軍当局は自ら欺き 而して人を欺き 以て其の威信を保ち、
統制を図らんと策せるも 是れ却つて陛下の皇軍を冒瀆し奉り、
世人より侮辱さるるの基と成り、益々統制を乱す者に外ならず候。
長上の命令に服従するは啻ただに陸軍の規定たるのみならず実に人道に御座候。
然れども苟いやしくも皇国の御為めに成らざる事を看過し自己一身保安の為め荏苒日を送るは、
本当の---口頭だけでなく---日本精神を有する者の肯んぜざる処に候。
故に陸軍の幹部にして真に統制を欲するものならば、権力を以て部下を威圧するの妄念を去り、
真に部下軍人をして心服さすに足るの行を執らんことを敢て忠告致度候。

×  ×  ×
・・・雑録 )
  中佐の一辱知じょくちの寄せた文
一、昭和七年頃私が中佐殿に初めてお会ひした時、いたく感動したことはその大自然的な風格であつた。
 言行の総てが自他を詐らざる、無理のない、極く自然なそして雄大なことであつた。
初対面の時笑ひ乍ら申された言志録の一章
「 身に老少ありて心老少なし、気に老少ありて理に老少なし、能く老少なきの心を執つて
 以て老少なきの理を体すべし 」
は、其の後私の生活の基準になつた。
二、昭和九年二月頃中佐殿が中耳炎を病んで慶応病院に入院しておられた頃
 私は友人と二人で御見舞いに行つた。
私共が病室に入つて直感したことは病状の只ならぬことであつた。
患部を繃帯して寝台の上に呻吟して居られる姿は傷々しい限りであつた。
「 中佐殿如何で御座いますか 」 と申上げると、
中佐殿は苦痛を噛みしめて奥様を呼ばれ無理に寝台の上に起き、
「 ハイ、相澤の病気はいいです。Y君はいけない。部屋に入った時の敬礼がいけない。
 I 君は少しいい。然し君は礼儀を知らぬ。
上官の部屋に入つて外套もぬがぬ様な将校はいけないのだ 」
と、いきなり注意を受けた。
私共が冷寒をおぼえて恥入つて威儀を正すと、
「 それでいいそれでいい 」 と申されて満悦至極の態であつた。
その時中佐殿はこんなことも言はれた。
「 私は今は病気を治すことだけする。
 若い偉い人が居られるから御維新の事はその方々にたのむ 」 と。
私共がやがて病室を辞し去り、靖国神社に参拝の途次二人はつくづく中佐殿の偉さを語合つた。
三、中佐殿は退院して間もなく私の宅をお訪ね下さった。
 木綿絣かすりにセルの袴をつけ、日本手拭を腰にはさんだ例の通りの質素な服装で、
「 やあ I さん、入院中お見舞いの節は大変叱つたさうですネ、
 ハツハツハー--- 」 と割れるやうな大声で笑はれた。
雑談している中ヒヨイと私の落書した高杉晋作の詩
「 真個浮世価三銭 」 の句を床の間に見つけて、いきなり剥ぎ取つて
「 これはいいこれはいい これ下さい 」
と言ふなり懐にねぢ込んでトントンと階段を降り、
さよならと言葉を残して帰つて行かれた。
私は友人と中佐殿の人生観の奥深い所を交々語り合つたが遂ひに語り尽し得なかつた。

後感二、三
一、相澤中佐殿は何故切腹しなかつたか
俗人は自刃して自分のしたことを正義化しやうとしたり、
世間に悪く思われまいとしたり、或は懺悔と絶望の中から逃避したりしやうとする。
然しこれ等の心境は決して最上のものとは言ひ得ぬ。
即ち自己の行動を死に依って正義化しやうとする所に
未だ未だ真に正義を体得し切って居らぬ一面を見出し得る。
世間に悪く思われまいとする心情の中に俗世間に阿ねる所がある。
又懺悔と絶望を死に依って逃れやうとする心の中に透徹し切れぬ人間の弱さを曝露してゐる。
中佐殿はその行動を死に依って正義化せずとも、既に正義の十分を体得してゐた。
また俗世間に阿諛して自分のしたことを美化しやうとか
世間の人気を呼ばうとか言った風の俗臭粉々たる人物ではなかった。
尚又懺悔と絶望とを透過せられた正しい強い人であった。
そして非合法が悪いとか、合法がいいとか言ふやうな世間並の人物ではなくて、
常に合法と非合法の上に居て神様と共に居ての立場から正邪を裁いてゐた人である。
斯くの如き中佐殿に向って、「 相澤は何故切腹しなかったか 」
と言ふ世間の詰問に対して私は笑ひを禁じ得ぬものである。
二、相澤中佐は無思想であったか
禅の不立文字とは、文字にも口舌にも現はし得ぬ所の高い悟道の境地を言ふたものである。
一切の思想、一切の智慧を超越した所に悟道の真諦がある。
中佐殿は俗思想、俗智を超越して不立文字の理念を把握して居られた。
三、相澤中佐は脳を病んでゐたので大それたことをしたのか
「 相澤中佐は中耳炎を患って以来脳を冒されてゐた 」
と言ふ風評を耳にしたが、私はその然らざることを断言する。
中佐殿は止むに止まれぬ義憤から発したものである。
松陰の辞世の
かくすれば かくなるものと知りながら
止むに止まれぬ大和魂
と言ふ歌の真意を探ると、中佐殿の高い心境の一端を窺い知ることが出来る。
「 かくすればかくなる 」 と云ふ判断を下すのは頭脳のよさを示すものであって、
中佐殿が大事を決行するまでに智慧をしぼり、一切の手段を尽し乍ら、
如何に心志を用ひたかは知る人ぞ知るである。
一切の智慧をしぼり、手段をつくして最後には、
「 かくすればかくなる 」 と言ふ理窟めいた所から飛躍して一段高い心持に進んで、
「 かくすればかくなる 」 と言ふ事すら考へない心境、無我の境に入った。
そして唯 「 止むに止まれぬ 」 心持で 「 天に代って不義を討つ 」 心境にまで到達せられたのであらう。
かかる高い心境には脳を病んでゐる病人や俗智、小智、邪知の人は到底達し得ない。
唯大智の人、透澄清明なる頭脳の人のみが達し得る。
要するに中佐殿は俗人に理解する事の出来ない高い精神世界に居て、
革命的道念を体現した人である。
そして吾々にとっては軍隊の上官であったと共に維新運動の上官であった。

目次頁 相澤三郎中佐の追悼録 に戻る
二 ・二六事件秘録  ( 一 )  から


相澤中佐遺影 一、〔 ○○中佐談 〕

2022年02月14日 18時07分07秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐遺影
一、〔 ○○中佐談 〕

( ・・中佐の片影・其二十一 )
一、自分は大正六年六月から台湾の独立守備隊に居つて
 相澤さんは翌七年の十二月に赴任して来られた。
相澤さんは第七中隊附で、
当時同中隊は剣術も射撃も聯隊の最下位で大隊長中島少佐も常に之を憂ひて居られた。
適々相澤さんの着任幾許もなく大隊内の剣術競技会が行はれた。
将校にも銃剣述の仕合をやらせると言ふので、
自分等は不心得な考ではあつたがお互いい加減にやる事にしやうと申合せた。
まだ来たばかりであつたから相澤さんにはこの申合せを告げなかつた。
所が 仕合になつて見ると相澤さんはあの炯炯けいけいたる眼光で猛烈果敢、
全く真剣勝負の勢でやつて来るので我々の申合せはすつかり圧倒され打破られて了つた。
各中隊将校皆真剣で闘はざるを得なくなつて了つた。
結局優勝したのは第六中隊から出た自分であつたが、その真剣さに於て、その気力に於て、
その態度に於て 正しく相澤さんが第一等の立派さであつた。
大隊長も大いに嬉しかつたと見えて講評中に
「 我が大隊には立派な将校が来て喜ばしい 」
と感嘆し、
「 第七中隊は凡て相澤中尉を模範として勉励すべきである 」
と述べられた。

一、相澤さんは非常に部下を可愛がつた人で、当時もよく下士兵卒と一緒にすき焼きなどやつて居られた。

一、当時同聯隊に熊本幼年学校の六期生で高岸昶雄中尉が居つたが、
 その結婚が許された祝と言ふので自分等五六人各々一升瓶を一本づつひつ提げて押掛けたことがある。
相澤さんは高岸中尉の燐家に居つて俺もと云ふてやつて来た。
相澤さんはかねて高岸中尉やこの時押掛けた仲間の宮田と云ふ中尉に推服して居たが、
酒酣なるに及ぶや ほら立上つて、
「 宮田さんは偉い。高岸さんは偉い。偉い人に肖るのだ 」 
と、一々汚い靴下をなめて廻つた。
全く思つた通り、考へた通り、遠慮も外聞もなく、真直にやつてのける風があつた。

一、然し又実に思ひ遣りの深い人であつた。
 自分の亡くなつた家内は相澤さんの奥さんの妹であるが自分が豊橋教導学校に居た時、
家内が病むや わざわざ秋田から奥さんを看病に寄こされ、
その死んだ時には実に情のこもつた電報を寄せられて自分もホロリとさせられてしまつた。
そして一家を挙げて来弔された。
昨年六月亡妻の三年忌の時もわざわざ福山から来て下さつた。

一、相澤さんと一緒に輪王寺に福定無外老師を訪ね、一日語り合つたことがあつたが、
 師弟の情 正に親子の如しと言ふか、実に麗はしいものであつた。
永田事件の直後新聞に
「 案内もなく料理店の大広間に上り込んで大きくなつていた云々 」
と、宮島の一料亭 「 岩惣 」 に関する記事が載つて居たが、
あれは事情を知らぬ新聞記者が勝手なことを書いたので事実はかうである。
嘗て無外老師が 「 岩惣 」 の乞ひを容れて書いて送られた人筆が額に出来たからとて
「 是非一度宮島へ御出でを願ひ度い 」
と報じて来たのを、老師は
「 自分は行けぬから、代りに行って見てやつて呉れ 」
と福山の相澤さんに書いてやられたからで、昨年秋季演習の後であつたか、
若い将校二三人を連れて見に行かれた時のことである。
「 女中も誰も見えなかつたので黙つて部屋を尋ねて拝見して来ましたが、
 立派に出来て居りました 」
と、言ふ意味の手紙が老師の許に届いて居たのを見せて戴いたことがある。

一、大井町の日本体育会体操学校の配属将校を命ぜられた時には、
 同校教務主任は予備役の歩兵大佐で
相澤さんの前任者が全く手古摺つた程の人であつたが、
相澤さんは誠意よく尽されて
遂に同大佐も当時大尉であつた相澤さんに一目も二目も置くやうになつて了つたそうである。
同校生徒は毎年夏富士裾野に野営演習に行き富士登山をするのであつたが、
相澤さんはいつも生徒の真先に立つて長靴のまま富士山頂を極められるのが例であつた。
皆その不屈不撓の精神に感嘆して居たさうである。

一、体操学校配属当時は盲腸炎を患はれたが、一日出勤の前、奥さんに
 「 手拭と楊子と歯磨粉を出せ 」 と言はれるので
「 どうなさるのですか 」 と尋ねた所
「 軍医学校に行つて盲腸の手術をやつてもらうのだ。一週間で帰るから来るに及ばぬ 」
と言捨てて出掛けて、果して丁度一週間で帰つて来られたさうである。
奥さんも言附けに背く訳にいかず、たうたう病院に行かずにしまはれたさうだが実に気丈な人であつた。

一、此の間聞いた話であるが、福山歩兵第四十一聯隊に赴任せられるとすぐ経理委員首座をやられた。
当時の聯隊長は、その卓子、椅子が古びたからとて規定を無視し、
将校集会所の金で立派な卓子椅子を造らせて聯隊長室で使用して居た。
相澤さんはこの事情を知るや、聯隊長の帰つた後商人を呼びその立派な卓子椅子を払下げて了つて、
旧の規定の陣営具を備へさせて置いた。
翌日聯隊長が出勤して見ると様子が変つているので副官か誰かを呼びつけて、
理由を聞いて真赤になつて怒つては見たものの、
経理委員首座たる相澤中佐が規定通り敢行したことなので如何ともしがたく、
中佐からも真正面から難詰されてたうたう泣寝入りになつて了つたさうである。
相澤さんは不義と見れば権勢を恐れず敢然排除する人であつた。

次頁・・・に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から
 


相澤中佐遺影 二、○○中佐談

2022年02月11日 19時16分42秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐遺影
二、○○中佐談

( ・・中佐の片影・其二十二 )
相澤君の為人其の他に就いては自分よりも諸君の方がよく御存じの筈だから、
自分としては唯特に
「 相澤君は十一月事件や教育総監更迭の事情等を知つて、
 此の儘で進んだら再び若い人達が五 ・一五事件のやうに飛び出すに違ひない。
若い人達を犠牲にしてはならないと言ふ一心であの決行をなされたものと思ふ 」
と、言ふて居たと諸君に伝へて貰ひ度い。
×  ×  ×
余の求めた所感に対して○○少尉から左の感想文を書き送つて来た。
同少尉と余、只僅かに一面識に過ぎざるもの、
素より共に国家国軍に関する意見を交換したることはなく、又少尉がかかる意見を吐き、
或ひは包蔵することは彼の周囲からも聞き得ない。
然るが故にこの所感は無色透明、純一無雑なる青年将校の声と言ふべきであるまいか。
同僚との雑話の間 更に此の感を深くする。
声なきに聞けば---更に一層その声が聞こえる如く感ずるものである。
 士官候補生時代の思ひ出に 「 鋼鉄の如き人だなあ 」 と感じ忘るる能はず。
 本校入校の送別会の時、「 腹の勉強を忘れるなよ 」 と言はれし顔。
 寝室の寝物語に悲憤の友が口にする言葉の中に中佐の名は幾度かあつた。
 巷間の妄説を信じての決行に非ずと云ふ気がしてならぬ。
 恥しき次第乍ら○○の訓示を聞かされても、新聞を見てもどうしても消えない大きな疑問があるのだ。
 日本の現状に、国軍の現状に、何か大きな無理があるやうな気がしてならぬ。
若しさうであつたら、義憤も血もある、熱もある。
身命もとより惜しむに足らず。
何だかヂツとして居られない気持ち。
革新運動は他に非ず。
自分が先づ自分自身を深く掘り下げて行かねばと思ふと努めているのだが妖雲あり、
国法を仮面の毒蛇ありと聞く。
然しそれがどんなのか自分には明かにならぬのだ。
大きな悩み、
やがて信念に燃えて
腹の底から込み上げて来るものに依つて行動する時が来るのを待つて居る。
中佐は言はれた。
「 腹の勉強を忘れるなよ 」 と。
× ×  ×
神韻漂渺。
高い精神界にある相澤中佐の風格は、
伝へんとして伝ふることの至難であるのを今更乍ら痛感せざるを得ない。
剣と禅とに養ひ、国体観に徹し、大慈大非心に発して、国家の革新を念としたものであらうか。
武人中の武人であり、軍服を纏ふた聖者高僧であると言ふべきか。

  左に某中尉に与へられた相澤中佐の一絶を掲げて本分の結びとする。
述懐
妙在精神飛動虚    不須形似劉費安排
乞看百天懸流勢    凡自胸中傾写来

次頁 風格雑録 (一) に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から