あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 1 西田税と北一輝 『 はじめから死刑に決めていた 』

2022年11月21日 05時13分50秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

陸軍首脳部は蹶起将校等が、
蹶起目的の本義を統帥権者である天皇に帷幄上奏を企てた事、
さらには皇族を巻き込んだ上部工作が進められた事、
これらを陸軍首脳が隠蔽しようとしている真実を
軍事法廷で国民に向けてアピールする事を危惧した。
相澤事件公判がそうであったように、公判闘争が繰り広げられたなら、軍は国民の信頼を失い、国民皆兵の土台さえ揺るがしかねない。
だから、こうした危惧を払拭するために
筋書を拵えたのである。
拵えられた筋書
・事件は憂国の念に駆られた将校達が起こした。
・あくまで計画性はない。
・要求項目にも 畏れ多くも陛下の大権私議を侵すものはなかった。
・純粋な将校達は、ひたすら昭和維新の捨石になろうとした。
・事件の収拾過程で北一輝や西田税に引きずられたに過ぎない。
・悪いのは陸軍ではない。無為無策な政治家と仮面を被った社会主義者だ。
・・・鬼頭春樹 著  『 禁断 二・二六事件 』 から


「 血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した 」
という形で世に公表された。
・・・幕僚の筋書き 「 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 」


両人は極刑にすべきである。
両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である。
 ・・・寺内陸相
二・二六事件を引き起こした青年将校は 荒木とか眞崎といった一部の将軍と結びつき、
それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです。・・・片倉衷

陸軍当局は、事件勃発直後から北一輝と西田税をその黒幕と断じ、電話盗聴その他の内定を怠らなかった。
二月二八日午後、憲兵の一隊が北邸を襲い、北を検束した。
西田は間一髪逃れたが、三月四日早朝警視庁係官によって検挙された。
陸軍が、司法当局の反対を押し切って東京陸軍軍法会議の管轄権を民間人にまで及ぼした最大の狙いは、
北 ・西田の断罪と抹殺にあったと推測される。
三月一日付の陸軍大臣通達
( 陸密第一四〇号 「 事件関係者ノ摘発捜査ニ関スル件 」 )
は、次のように述べる。
この通達が、予審も始まっていない段階のものであることに注目する必要がある。
北 ・西田を張本人とする路線は、最初から敷かれていたのである。
「 叛乱軍幹部及其一味ノ思想系統ハ、
 過激ナル赤色的國體変革陰謀ヲ機関説ニ基ク君主制ヲ以テ儀装シタル北一輝ノ社會改造法案、
順逆不二ノ法門等ニ基クモノニシテ、我ガ國體ト全然相容レザル不逞思想ナリトス 」
検察官は、このシナリオに則って、
論告の中で、事件の動機 ・目的として次のように述べる。
「 本叛乱首謀者ハ、日本改造法案大綱ヲ信奉シ、之ニ基キ国家改造ヲ爲スヲ以テ其ノ理想トスルモノニシテ、
 其企図スルトコロハ民主的革命ニアリ・・・・集団的武力ニ依リ 現支配階級ヲ打倒シ、
帝都を擾乱化シ、且帝都枢要地域ヲ占拠シ、戒厳令下ニ導キ 軍事内閣ヲ樹立シ、
以テ日本改造法案大綱ノ方針ニ則リ政治経済等各般ノ機構ニ一大変革ヲ加ヘ、
民主的革命ノ遂行ヲ期シタルモノナリ 」 ・・・ニ ・二六事件行動隊裁判研究 (ニ)  松本一郎

東京陸軍軍法会議
「 法律ニ定メタル裁判官 」 によることなく、非公開、かつ、弁護人抜きで行われた本裁判は、
少なくとも北一輝などの民間人に関する限り、
明治憲法の保障する 「 臣民の権利 」を蹂躙した違法のものであったということ、
本裁判には、通常の裁判では考えられないような、訴訟手続規定を無視した違法が数多く存在したということ、
北一輝 ・西田税を反乱の首魁として極刑に処した判決は、証拠によらないでっち上げであった
・・・松本一郎
陸軍軍法会議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、結論的に言うと、指揮権発動 もされている。
北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛乱幇助罪で3年くらいのところ、また、西田については、もっと軽くてよいところ、
強引に寺内陸軍大臣が指揮権発動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事実である。 これは匂坂資料の中にも出てくる。
・・・中田整
一  ( 元 NHK プロデューサー) 講演  『 二・二六事件・・・71年目の真実 』  ・・・拵えられた憲兵調書 


暗黒裁判
幕僚の謀略 1  西田税と北一輝
『 はじめから死刑に決めていた 
目次
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・ 暗黒裁判 ・幕僚の謀略 3 磯部淺一の闘爭  『北、西田両氏を助けてあげて下さい』
・ 西田税、北一輝 ・ 捜査経過
西田税、事件後ノ心境ヲ語ル
・ 暗黒裁判と大御心 
はじめから死刑に決めていた 
暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』
・ 
暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行為は首魁幇助の利敵行為でしかない 」
拵えられた裁判記録 
・  北一輝、西田税 論告 求刑 
・ 北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑


私モ結論ハ北ト同様、死ノ宣告ヲ御願ヒ致シマス。
私ノ事件ニ對スル關係ハ、
單ニ蹶起シタ彼等ノ人情ニ引カレ、彼等ヲ助ケルベク行動シタノデアツテ、
或型ニ入レテ彼等ヲ引イタノデモ、指導シタノデモアリマセヌガ、
私等ガ全部ノ責任ヲ負ハネバナラヌノハ時勢デ、致方ナク、之ハ運命デアリマス。
私ハ、世ノ中ハ既ニ動イテ居ルノデ、新シイ時代ニ入ツタモノト観察シテ居リマス。
今後ト雖、起ツテハナラナヌコトガ起ルト思ハレマスノデ、
此度今回ノ事件ハ私等ノ指導方針ト違フ、自分等ノ主義方針ハ斯々デアルト
天下ニ宣明シテ置キ度イト念願シテ居リマシタガ、此特設軍法会議デハ夫レモ叶ヒマセヌ。
若シ今回ノ事件ガ私ノ指導方針ニ合致シテ居ルモノナラバ、
最初ヨリ抑止スル筈ナク、北ト相談ノ上実際指導致シマスガ、
方針ガ異レバコソ之ヲ抑止シタノデアリマシテ、
之ヨリ観テモ私ガ主宰的地位ニ在ツテ行動シタモノデナイコトハ明瞭ダト思ヒマスケレド、
何事モ勢デアリ、勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
私ハ検察官ノ 言ハレタ不逞の思想、行動ノ如何ナルモノカ存ジマセヌガ、
蹶起シタ青年将校ハ 去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、天皇陛下万歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報国ト云フ言葉ガアリマスガ、私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。懲役ニシテ頂イテモ、此身体ガ續キマセヌ。
茲ニ、謹ンデ死刑ノ御論告ヲ御請ケ致シマス。
・・・西田税の最終陳述

次項暗黒裁判 ・ 幕僚の謀略 2 『 純眞な靑年將校は、北一輝と西田税に躍らされた 』 に 続く


北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑

2020年10月22日 09時25分20秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝


陸軍省發表 ( 八月十四日 )
客年二月二十六日勃發せる叛亂事件の直接參加者 及 關係者に對する
東京陸軍軍法會議審判の結果に就ては既に三次に亘り發表せる所なるが、
右以外の者に附 引續き愼重審理中の處、八月十四日左記四名に對し 判決言渡しありたり。
右軍法會議審判の結果に基く處刑 及 判決理由 概ね左の如し。
處刑
死刑  首魁  北輝次郎
死刑  首魁  西田税
無期禁錮  謀議參与  龜川哲也
禁錮三年 ( 但 未決拘留日数二百五十日参入 ) 諸般の職務に從事  中橋照夫
理由の要旨

北輝次郎 は、
新潟県佐渡島に生れ、承久以降皇室に關係ある島内遺跡傳説等に刺戟せられ、
夙に國史 及び國體につき關心を有し、長じて同地中學校に學びしも 病気のため半途退學し、
爾來上京 獨學をもって広く社會科學に關する研究に没頭せしが、
二十四歳の頃 「 國體論及純正社會主義 」 と題する著述を出版し、
もって獨創的國史観に基き 當時幸徳秋水一派の唱道せし直譯的社會主義に痛烈なる反駁を加え世論を喚起し、
これが機縁となり 支那亡命客孫逸仙、横興、宋教仁、張繼 等と相識り、
終に同人等の支那革命党秘密結社に加入し、二十九歳の秋頃 支那第一革命勃發するや單身渡支し、
上海、武昌、南京 等の各地において革命達成のため各策奔走し居たるが、
三十一歳の時、帝國領事より三年間支那在留禁止處分を受けて歸朝し、
大正五年頃 「 革命の支那 及 日本の外交革命 」 を著述して朝野の人士に頒布し、
同年夏再び支那に渡り 第三革命に參加したるも事志と違い、
上海に滞在中遥かに祖國の情勢を顧るに、
欧州大戰以來世界を風靡せし左翼思想は澎湃として國内に瀰漫びまんし、
加うるに重臣、官僚、政党 等いわゆる特權階級は財閥と結託、私利私慾を肆つらにし
國政を紊り 國威を失墜、國民生活を窮乏に陥しめたりと思惟し、
今にしてこれ等特權階級の猛省を促し、
政治經濟その他 諸般の制度機構に一大變革を加うるに非ずんば、
我が國もまた露獨の轍を踏み、三千年の光輝ある歴史も一空に歸すべしとなし、
國家改造の急務なる所以を痛感し、
茲に近代革命の中核は軍部 竝に民間志士の團結により形成せらるるものなりとの信念の下に、
大正八年八月頃 國家改造案原理大綱と題し、
三年間帝國憲法を停止し、戒嚴令下において革命政府を樹立し、
私有財産 竝 個人の生産業に大なる制限を加え、
また 皇室財産を撤廢せんとする矯激なる思想体系の著書を執筆し、
當時渡支中の大川周明に示せしところ 深くその共鳴を得、
爾來これを基礎として日本國内の改造を斷行せんことを相約し、
大正九年一月 歸朝するや 大川周明、満川亀太郎 等と共に猶存社により前記思想の普及に努めたるも、
後 同人等と感情の阻隔を生じ之と關係を斷ち、
大正十五年頃前記著書を 「 日本改造法案大綱 」 と改題し、
之が版權を當時現役を離れ彼等の傘下に在りたる西田税に附与して出版せしめ、
同人と堅く相結ぶに至るや、専ら同人を指導督励し、
主として陸軍部内靑年將校等に對し 該著書を指導原理とせる國家革新思想の普及宣傳に當らしむると共に、
同志の獲得 竝にこれが指導統制に任ぜしめ、
昭和七年所謂五 ・一五事件發生の前後より逐次、菅波三郎、大蔵榮一、香田淸貞 及び栗原安秀 等の同志靑年將校と相識り、
斯くて西田税と共にこれ等同志の思想的中心となり、その指導誘掖に努むるところありしが、
更に獨自の立場において要路の大官、政党の領袖、若しくは財界の巨頭等に接觸し、
あるいは政治、外交等に關する私見を開陳し、または軍内の情勢、特に靑年將校の動向等に附き、
偵知したる情報を提供しもって巨額の生活資金を獲得し、
一方夙に法華經に歸依し、その誦經に専念し居たる處、
その讀誦中に屡々妻女が神憑となりて口授するものを以て靈告なりとし、
之によりて國事を豫斷し、自ら警世の士を以て任じ居たるものなり。

西田税は、
大正四年九月広島幼年學校に入校、爾來、陸軍中央幼年學校、陸軍士官學校本科 等、
陸軍將校生徒の過程を祖っ、大正十一年十月陸軍騎兵少尉に任ぜられ、
大正十四年六月病気のため依願豫備役仰附られ、
大正十五年北海道御料林払下問題に關し暴力行爲等處罰に關する法律違反罪に問はれ、
昭和五年十月三十日上告棄却懲役五カ月の判決確定し 失官したるが、
陸軍中央幼年學校在學中より満蒙問題、大亜細亜主義問題に關心を有し、
陸軍士官學校本科在學中、日本改造法案大綱を閲讀して深くその所説に共鳴し、
かつ満川亀太郎、北輝次郎より種々思想的に指導誘掖せられ、
國家革新の必要を痛感するに至り、
大正十四年六月軍職を退き上京し、大川周明、満川亀太郎、安岡正篤 等の行地社に入り、
機關誌 「 日本 」 の編輯に當り、
一方大川周明と共に主として陸海軍靑年將校に對し、
前記著書を指導原理とする國家革新思想の普及宣傳に努むるところありしが、
後、大川周明と感情の疎隔を來すに及び同社を脱退するや
北輝次郎の傘下に投じ、専ら同人の指導を受け
大正十五年四月頃、日本改造法案大綱の版權を委譲せられ、
これを出版し 共にその思想の普及に努め、
・・・リンク ↓
西田税と青年将校運動 1 「 革新の芽生え 」 
西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」 
・ 
西田税と大学寮 1 『 大学寮 』
・ 
西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 

次で星光同盟なる在郷軍人の勞働者無料宿泊所を經營して、
右翼勞働運動に進出したるも前記被告事件のため中絶し、
昭和二年二月に愛國運動の爲め士林莊を結成し、
同年七月頃 海軍將校藤井齊と共に天劔党規約を印刷頒布したるも結社の成立を見るに至らず、
この頃より國家革新運動の政治的進出に志し、所謂 日本主義に立脚せる大衆政党樹立の必要を認め、
昭和四年秋頃、中谷武世、津久井竜雄 等と相謀り、日本國民党を組織し その統制委員長となりしも、
後 党紀紊亂の責を負い 同党より脱退するの已む無きに至り、・・・リンク→ ロンドン条約をめぐって 2 『 西田税と日本国民党 』
同七年の所謂 五 ・一五事件 には陸軍側靑年將校の參加を牽制けんせい阻止したるため、
裏切者として狙撃せられ瀕死の重傷を負いたるも、北輝次郎の肉親的同情により一命を完うするや、
爾來兩者の間は恰も親子の如く一心同體の關係を生じ、
一方該事件を機縁として日本改造法案大綱を信奉せる陸軍部内同志靑年將校 
菅波三郎 末松太平 、
大岸頼好大蔵榮一 等との接觸、交友益々緊密となり、維新同志會を結成し、
斯くて西田は軍部、民間を通じ 日本改造法案大綱を信奉せる同志の思想的中心たると共に、
革新運動の指導者たるに至れり。
しかして彼は、近代革命の中核は軍部 竝に民間志士の團結により形成せらるべく、
就中軍隊を私用するに非ざれば我國家の革新は遂に期すべからずとの堅き信念に基き、
同志靑年將校に對し、或は日本改造法案大綱を基調とする革新理論を説き、
または革新運動に關する將校 及び軍隊の使命心得に附 研究作業を指示し、
所謂 「 上下一貫、左右一體、擧軍一體の爲の將校運動 」 なる標語を敎示し、
この根本方針に基き、軍内に於て益々同志の擴大鞏化を企圖すべき旨 指示し、
これが爲 皇軍内に矯激なる思想信念を抱懐せる同志を以て 横斷的團結を敢てするに至らしめ、
更にこの前後より、農村、都市、中央、地方を通じ各種の右翼運動に關与して、
國家革新思想の普及徹底 竝に同志の獲得指導に努め、
斯くて軍部民間等一切の各社會層に亘り、
専ら日本改造法案大綱を指導原理とする國家革新思想の普及
竝びに革新気運の醸成に努力しいたるところ、
昭和六年以降 血盟團事件、若しくは 五 ・一五事件等、
軍内外を通じ急進矯激なる國家革新運動の頻發を見るに至るや、
彼の指導下に在りたる前記靑年將校等の革新思想もまた漸く尖鋭となれり。
しかれども、彼は國家の生命及び制度組織の根本に触るゝ重大なる國策問題、
就中財政經濟問題に附き 廟議纏らず、國論亦動揺するの機會を以て所謂革新斷行の最後的決定時期なりとし、
國家革新の大成を期する爲、常に之等同志を誡告指導しつつ その輕擧妄動を抑制し來りしが、
一方、機會ある毎に各種の問題を捉え 巧に革新運動に結び附け、軍部民間を刺戟すべき宣傳を爲し、
以て革新氣運の醸成に努力し居たるものなり。

龜川哲也は、
沖縄県立第一中學校卒業後、臺灣総督府専賣局、會計檢査院、東京逓信局等の属官として轉々勤務し、
昭和二年九月退職し、昭和十年八月相澤中佐の永田軍務局長殺害事件發生するや、
盛に當時の第一師團長柳川平助を訪ね、詭辯を弄して相澤中佐の無罪論を主張し
次いで同年十一月頃 かねて旧知の間柄なる陸軍歩兵大尉山口一太郎、西田税の兩名より
相澤中佐の辯護人選定方法を依頼せられ、辯護士鵜澤聡明、陸軍歩兵中佐満井佐吉の兩名を推薦選定し、
爾來昭和十一年二月頃までの間に 右辯護資料の蒐集 及び公判對策打合せ等の爲、
自宅をその會合場所に充て、山口一太郎、村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀、
澁川善助 及び 西田税等と屡々會合協議を重ね、
その間 逐次同人等の抱懐せる思想信念を感得理解し、
かつ 一部靑年將校間には北輝次郎、西田税の指導誘掖に依り、その思想的影響を受け、
日本改造法案大綱を國家革新の指導原理として、革新機運の醸成に努力せる一派あるを信知するや、
巧に該機運に乗じて自己の野望を遂げんが爲、努めて聯絡接觸を緊密にし、陰に各種の策動をなしていたる
ものなり。

西田税は
昭和九年十一月、同志村中孝次、磯部淺一等がその叛亂陰謀事件 により檢擧せらるゝや、
これを以て軍内に反對派ありて部外不純勢力と結託し、
同人等の所謂維新勢力を彈壓せんがための爲作陰謀なりと斷じ、
當局の措置を秘儀宣傳すると共に、前記兩人等をして敢て誣告の告訴をなさしめ、
同十年四月頃これ等反對勢力に對する闘爭方針として、
錦旗を樹立し討幕に邁進すべしとの指令を各地同志に發し、
次いで同年七月 敎育總監更迭 問題惹起するや、
該人事異動の背後には所謂重臣閥軍閥の恐るべき陰謀策動ありと爲し、
然も該軍閥の中心は永田軍務局長にして、林陸軍大臣を以てその傀儡となし、
終に統帥大權を干犯し皇軍を私兵化するに至れりと臆斷し、
軍閥重臣閥の大逆不逞 」 と題する急進矯激なる不穏文書を作成し、
同月二十五日頃 密に巷間に流布宣傳すると共に、全國同志に密送してその奮起を促して
以て同志相澤三郎中佐の永田軍務局長殺害の動因を作爲したるのみならず、
同中佐の擧を以て國家國法を超越せる維新的志士の先驅捨身なりと稱揚し、
更に同中佐の公判を内外に通じ、所謂暴露戰術を以て反對勢力を潰滅すべき企圖の下に、
公判對策大綱を樹立し、爾來 山口一太郎 ( 大尉 )、龜川哲也等と共に専ら同公判對策の協議指導に任じ、
軍部民間の同志を刺戟すべき矯激なる記事を執筆掲載する等、・・・< 註 1 >
只管革新斷行の機運の醸成 竝にその促進に努力しありたるところ、
昭和十年十二月中旬頃に至り、
村中孝次より同志の間に明春第一師團渡満前に事を擧ぐるの陽りとの議あるを聞き、
次で同十一年二月初旬頃、
相澤中佐事件の公判を繞り在京靑年將校等の一部同志が愈々蹶起の意を固めたるを察知し、
更に同月中頃より二十日前後頃までの間に
村中孝次、磯部淺一、安藤輝三、栗原安秀等の同志と逐次會見の結果、
同人等が幹部となり在京靑年將校同志等を糾合し、前記の實行計畫を樹立し、
且 著々その蹶起準備を進めあるを知るや、
當時の國内情勢に於ては ・・・リンク→ 「 私の客観情勢に対する認識 及び御維新実現に関する方針 」
未だ以て彼の所謂革新斷行の最後的決定時期に到達しあらざるものと判斷し
一應その抑止説得に努めたるも、・・・リンク→ 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」
今回は第一師團満洲派遣なる特殊事情もありて
同志將校等の團結決意頗る鞏固にして抑止に應ずる色なきのみならず、
却って前記同志等より指導者として蹶起部隊に直接參加を促され、之を不可能とすれば、
外部に在りて破壊後の建設工作に任じ 之に努力せられ度き旨 懇望せらるゝ状況なりし爲、
從來同人等に對し指導的立場に在りし彼は、前記同志等との多年の情誼に從い、
同人等の蹶起を承認し其の希望を容るゝの外なしと思惟し、
終に蹶起の前後に亘り同人等を適切に指導督励し、
其の目的達成の爲、政治工作に任ずべきことを決意するに至るや、
同月二十日前後頃北輝次郎を訪ね、同人に對し前記の決意を披瀝し、
且 村中孝次等より聞知したる蹶起計画畫の至情に打たるゝと共に、
西田税の悲壯なる決意に同情し、終にこれに承認を与え ・・・<  註 2 >
西田と共に青年將校等に殉ずるの覺悟を以て之に参加し、
極力その目的達成のため蹶起の前後に亘り、同人等を指導督励せんことを決意するに至れり。
・・・リンク→ 「 万感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます 」

龜川哲也は、
相澤中佐事件に付、山口一太郎大尉及び西田税等と共に専ら 同公判對策の指導に任じ、
永田軍務局長の死亡時刻に附、控訴狀記載と陸軍當局發表と矛盾せる點を指摘し、
且 同控訴狀には相澤中佐の行爲を以て公人の資格に於て爲したりや、
將又 私的個人の資格に於て爲したる所爲なりやを確定しあらざるを以て、これを明かにする陽りと提議し、
よりて昭和十一年一月下旬開廷せられたる第一回公判に於て、
將校辯護人満井佐吉をして動もすれば被害者永田中將の死屍に無恥つかの如き極端なる提言をなさしめ、
亦 同公判の進行に伴い、辯護人鵜澤聡明に對し巧に同公判の重要性を鞏調説得して、
終に政党脱退の聲明書を發表するに至らしめ、更に同辯護人に對し、
相澤中佐を精神異常者と爲し その行爲を超人的人格的神秘行爲と認め、
之により控訴取下げに導くべきを提案し、
陸軍上層部に工作するなど同公判内外を通じ頻に畫策努力する所ありしが、
一方 同年二月初旬頃より、
かねて西田税の指導下にある村中孝次、磯部淺一、澁川善助 その他在京靑年將校同志等が、
同事件公判を繞めぐり各種の不穏なる宣傳策動を爲し、同公判の推移如何に依りては、
何時直接行動に突出するやも計り難き情勢にあることを察知し、之が對策協議の爲、
同月十五、六日頃より二十日前後頃までの間に山口一太郎、西田税等と屡々會見したるが、
同人等より栗原安秀 その他一部靑年將校等は
所謂昭和維新斷行の目的をもって近く蹶起すべく決意を固め、
著々その實行計畫を進めるを關知し、
更に被告人西田税よりその指導下にある靑年將校等の蹶起の情勢は、
最早抑止不可能の常態に進展しあるを以て、寧ろ破壊後の建設計畫を考慮し、
政治工作を以てその目的を達成せしむるの外なしと決意したるにより、
これに参加して該工作に努力せられたき旨要望せらるるや、ついにこれを承諾するに至れり。
茲に於て
西田税は、該建設計畫の根本方針として、
かねて靑年將校等の維新運動に對し多大の理解あり、
且 實行力ありとして同人等より崇敬せられある眞崎大將、柳川中將等を以て
首班とする鞏力なる軍部内閣を速に組織せしめ、
これにより事態を有利に導き目的を達成すべきことを決定したるが、
その萬全を期するため同月二十日前後頃、同志山本大將 及び龜川哲也等に謀り、
同人等の同意を得たるをもって、爾後同月二十五日頃までの間に同人等と随時各所に會合し、
更にこれに關聯する所要の協議を遂げたる結果、前記根本方針に基き、
それぞれ公私の關係を辿り上層部に聯絡折衝すべきことを決定し、
その間龜川哲也より蹶起後、眞崎大將を以て内閣を組織し、
事態を収拾せしむるには西園寺公を利用せざるべからず、
而して同公に対する工作には鵜澤聡明を興津に派遣する方とり、
依りて靑年將校等の同公に対する襲撃計畫はこれを抛棄ほうきせしむる要あるべしと提案し、
山口一太郎大尉に於て可燃處置すべきことに決したるを以て、
事前に於て龜川哲也は鵜澤聡明、眞崎大將等に、
西田は小笠原長生に對しそれぞれ聯絡して所要の準備工作を爲し、
山口一太郎大尉も亦その分担任務につき所要の準備工作を爲し、
斯くて蹶起後の建設計畫につき、著々その準備を進めありしが、
西田税は同月二十四日夜、磯部淺一の密信により
愈々同月二十六日早朝を期し蹶起することに決したるを承知し、
更に翌二十五日午前十一時前後頃、
磯部淺一と會見したる際 腹心の同志澁川善助が既に湯河原に到り、
牧野伸顕伯の所在を偵察中にしてその襲撃に參加すべく豫定しあるを知るや、
磯部淺一に對し、民間同志を直接襲撃部隊に參加せしむるは不可なりと主張し、
殊に澁川善助は蹶起後民間側同志、若しくは右翼團體の外郭運動を統制指導せしむる要あるに附、
該偵察任務終了後速に上京せしむるべしと指示し、
且 當時澁川善助妻きぬ子が湯河原より密書を携え上京し 偶々西田税宅に來合せ居たるにより、
更に同人に密書を託し前記趣旨 其の他所要の聯絡を爲し、
・・・リンク ↓
渋川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 渋川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

次いで同日夕刻頃龜川哲也宅に於て、同人及び村中孝次と會見して聯絡協議し、
その際 龜川哲也が蹶起資金として金二千圓を提供するや、
固辭せる村中孝次をして内金千五百圓を受領せしめ、
自らもまた金百圓を受領し、同日午後八時頃北輝次郎方に到り、以上の狀況を詳細報告し、
その後 翌二十六日午前一時頃 再び同人宅に到り、
その頃澁川善助よりの電話報告に依り同人が湯河原より歸京したることゝ、
ここに豊橋教導學校の竹嶌繼夫、對馬勝雄 兩中尉が興津別邸の襲撃計畫を抛棄し、
相携えて上京したることを知り、更に同人に対し蹶起部隊の出動狀況を視察し、
速に西田の許に報告すべき旨を指示したり。

北輝次郎は、
同月二十一日頃村中孝次の來邸を受け、
同人より第一師團將士の渡満前に蹶起の趣旨に就き意見を求めらるるや、
蹶起の趣旨を單一化するを可とする旨を指示し、
次で同二十三日頃、
西田税より同志靑年將校等の計畫しある襲撃目標 及び襲撃担任部隊等詳細の報告を受けたる際、
之に對し既に靑年將校間に於て決定したる
内閣總理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是清、内大臣齋藤實、
侍従長鈴木貫太郎、公爵西園寺公望、前内大臣牧野伸顕
等に附ては容喙ようかいの限りに非らざるも、
第二次襲撃目標として考慮せられつつある
一木喜徳郎、後藤文夫、伊澤多喜男、池田成彬、三井三菱の當主 等の如きは之を中止し、
常に言う通り 殺害は最小限度に止むるを可とする旨敎示し、
更に同月二十四日北宅に來訪せる村中孝次より
一定の場所に兵力を集結占據したる上、
その目的達成のため上部工作を持續することは、我が國體観念上 如何あるべきか
と尋ねられたるに對し、
北は大詔渙發を鞏要し奉るが如きは國體観念上許されざるも、
然らざる範囲内に於て上部工作を爲すことは差支えなし、
而してこれを爲す以上は、
一歩も退かざる覺悟を持って徹底的に該目的の貫徹を計るべき要ある
旨を指示すると共に、同人等の蹶起を稱揚激励し、
同時に村中孝次の持參せる同志野中大尉起草に係る蹶起に關する決意文を閲讀し激賞し、
村中孝次に二階の一室を貸与して 決起趣意書を起草するに至らしむる等、
専ら同人等の指導督励に任じありたるが、
同二十六日午後一時頃、來宅中の西田税と共に蹶起部隊出動の結果如何を待てり、
斯くして北輝次郎、西田税の兩名は、
一、
二十六日午前四時三十分前後頃、澁川善助よりの電話報告に依り
前記村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀 その他 在京同志靑年將校等が、
豫定の計畫に基き遂に出動したることを知るや、
西田税は澁川善助を招致し、同人に對し蹶起部隊内外の情報蒐集に努むると共に、
民間側同志 竝に右翼團體等に聯絡して、・・・リンク →澁川善助 ・ 昭和維新情報
外廓運動を指導統制し、以て専ら外部工作に任ずべき旨を指示し、
北輝次郎は官憲の彈壓に依り西田税が捕縛せられんことを慮り、
同人と協議の結果、
當時東京市豊島区西巣鴨木村病院に入院中なる同志岩田富美夫を招致し、
同人に前記の情を告げ、
その同件に依り 同日午前八時前後頃、前記病院に逃避せしむるに至り、
西田税は同日午前十時頃 病院より電話を以て海軍中將小笠原長生に對し、
蹶起將校の精神を是認し、事態収拾につき助力あり度き旨懇請し、
次で栗原安秀が首相官邸を占據しあるを知り、これと電話聯絡を爲したる結果、
同人等は總て豫定の如く襲撃目標を斃したる上、警視廳、陸軍大臣官邸 その他を占據し
意気軒昂として、寧ろ前途好望なるものあるを知るや、
直に北輝次郎に對しその旨電話報告を爲すと共に、
同日午後三次前後頃同人宅に歸還し、
爾來同人と共に蹶起の目的達成のため畫策努力する所ありしが、
北輝次郎は同日の靈告ありたりと稱し、
西田税と共にその旨電話を以て磯部淺一に傳達し、
以て同人等の行動を激励し、
更に同日午後九時頃 同志杉田省吾に対しその旨電話聯絡爲し、
民間側同志に宣傳せしめ、
二、
同月二十七日 北、西田の兩名は、
前日來の情報により
蹶起部隊の幹部等は事前に於て陸軍の中堅層等に對し諒解聯絡なかりしこと、
及び陸軍大臣官邸に於て香田淸貞が陸軍首脳部に對し、
當時臺灣軍司令官柳川中將を以て後繼内閣首班に要望せることを知るや、
斯くの如きは徒らに 時局の収拾を遷延せしむべく、・・・リンク→ 「 仕舞った 」
一日一刻を爭うこの際、寧ろ彼等の爲に採らざる所となし、
専ら之が善後處置に附 苦慮しありたるが、
北輝次郎は同日午前十時頃
「 人無し 勇將眞崎あり 國家正義軍のため號令し 正義軍速かに一任せよ 」
との靈告ありたりとて、西田税と共に村中孝次、磯部淺一等に對しその旨電話聯絡を爲し、
且 この蹶起將校等は靈告の趣旨に從い、・・・リンク→ 「 国家人無し、勇将真崎あり 」 
全員一致の意見として無条件にて時局の収拾を眞崎大將に一任すると共に、
軍事參議官もまた意見一致して、同大將に時局収拾を一任せらるゝ様懇請し、
斯くして軍事參議官と蹶起將校との上下一致の意見として、
上奏實現を期すべきなりとの趣旨を諄々教示し、
同日蹶起將校等をして右趣旨の如く行動するに至らしめ、
同日午後五時前後頃 村中孝次、磯部淺一等より蹶起將校等は陸軍大臣官邸に於て
軍事參議官、阿部、眞崎、西 各大將と會見し、
前記趣旨の如く懇請したる旨の電話報告に接し、
一方かねて招致し置きたる同志薩摩雄次をして、
電話を以て海軍大將加藤寛治に對し、
蹶起將校等は一致して時局収拾を眞崎大將に一任するこしに決したるを以て、
海軍側よりも推進善處せられ度 旨懇請せしめ、
更に西田税は全掲 小笠原中將に對し、電話を以て、
蹶起部隊は昭和維新の目的を貫徹するまで現在の占據位置より撤退せずと主張しあり、
且 時局収拾に附、眞崎大将の推戴を希望しあるに附、この趣旨に基き善処處せられ度、
猶 海軍陸戰隊と蹶起部隊と對立し、
兩者の間には漸次險惡化しつつあるを以て海軍側を抑制せられ度き旨懇請し、
次で 兩名は同日午後五時頃、
首相官邸に占據しある栗原安秀より同人等蹶起部隊内部の情勢に附 電話報告を受けたる際、
同人に對し外部の一般的情勢は漸次蹶起部隊の爲有利に進展しつつあり、
殊に海軍側は一致して支援しあるのみならず、
全國各地よりは数千の激励電報到着しある情勢なるを以て、
飽くまで目的を貫徹すべしと激励し、
更に同日午後八時頃、とつじょ村中孝次が夜陰に乗じて包囲線を脱出し、
爾後の處置に關し指令を仰ぐべく來訪するや、・・・リンク→ 西田税 (七) 道程 2 
偶々爾後の對策協議の爲來合せいたる龜川哲也も同席の上、
同人より蹶起後の内部情勢に附き詳細なる報告に接したる後
同人に對し、國民は蹶起部隊に同情しあり、
殊に海軍側は擧って支援しある情勢なるに附、
前示懇請に對する軍事參議官側の回答あり次第、
その内容を速に北、西田に聯絡せられ度く、
それまでは現在の占據を持續するを可とする旨を司令し、
三、
同日午後一時頃、西田税は同志杉田省吾を招致し、
同人に對し 今次事件に於ける同志靑年将校等の行動は、
到底通常人の企 及し得ざるものなるを以て、
この義擧を無駄にせざるよう更に一層努力する必要ありと強調し、
爾後民間側同志の採るべき態度につき根本方針を指示し、
更に蹶起の理由、占據地点、決行部隊、同部隊の決行後の情勢
及び その他判明したる各種の情報等を説明しつつ、
紙片に記載し、之を同人に交附し、民間同志に聯絡し、
前記方針に基き維新實現のため外廓運動を一層促進すべき旨指導し、
よって同人、澁川善助 及び 福井幸等をして
各地軍部 竝に民間同志の蹶起を促すべき趣旨の檄文を作成し、
之を各地に郵送頒布するに至らしめ、
四、
斯くて同月二十八日、
北、西田の兩名は前日來入手した諸情勢を綜合し、
蹶起部隊にたいする一般情勢は著しくも有利に進展しあるものと判斷しありたるが、
更に同日朝、北輝次郎は法華經讀誦中に靈告ありたりとて、
方に國家革新の好機は目睫もくしょうの間に迫られるものとなし、
その意外の成功を祝福しありたるところ、
同日正午前後頃、突如 栗原安秀より終に責を負い自決するの已む無きに至り、
萬事休止したる旨の電話報告に接するや、被告人兩名はその情勢の急變に驚き、
急遽 栗原安秀を電話口に呼出し
前示軍事參議官の會頭るまでは斷じて自決すべからずと敎示して、
同人等の自決を阻止し、・・・リンク→ 「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」
更に午後三時頃村中孝次より、
奉勅命令により蹶起部隊を討伐するとの事成るも その眞意不明なり、
との電話報告に接したるが、
同人に対し 奉勅命令は 「 脅かし 」 ならん、・・・リンク→ ・ 「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」
一度蹶起したる以上はその目的貫徹のため 徹底的に上部工作を爲すべく、
猶自決は最後の問題なり、君等死せば 吾々は晏如として生きておらざるなりと告げ、
次で同日午後五時 事態漸次惡化し、
愈々奉勅命令により斷乎として討伐せらるるの風評を關知したるを以て、
栗原安秀にその眞意を電話照会したる際、
同人に對し事態収拾について陸軍首脳部の態度は極めて軟弱なるも、
海軍側は擧って支援に傾きつつありて外部の情勢は有利に展開し、
萬事今 一息 というべき狀態なるを以て各自一致結束して自重すべく、
自決の如きは最後の問題なる旨鞏調し、
更にその前後頃、
西田税は磯部淺一により電話を以て
蹶起將校中には奉勅命令により脅かさるるものあるも、
自分は斷乎として撤退せず、最後迄残り 一戰を交ゆる決心なるが如何
と尋ねられたるに對し、
「 其処までやらなくてはなるまい 」
と 指示し、
以て兩名は一旦責を負い自決を決意したる蹶起將校等に對し、
極力その自決を阻止すると共に、
初志貫徹のため 飽く迄上部工作を続行すべく指導し居る處、
同日午後八時前後頃 北輝次郎は前記自宅に於て憲兵のため取押えられ、
西田税はその頃 北輝次郎方より遁走し、
爾来東京市内各所を轉々潜伏中、
同年三月三日午後五時三十分頃、警視廳巡査のため取押えられたり。

龜川哲也は、
西田税と謀議決定したる前掲建設計畫の根本方針に基き、右蹶起の前後に亘り、
一、
同月二十一、二日頃、東京市世田谷區世田谷一丁目百六十八番地の眞崎大將を訪問したる際、
同大將に對し、靑年將校等の蹶起の機運急迫せる動向を告げ、
如何なる事態惹起するとも決して彼等を見殺しにせざるよう懇請し、
又 同月二十日前後頃より 山口一太郎大尉 及び 西田税と屡々會見し、
所要の聯絡協議を遂げたる結果、同人等の努力により興津西園寺公の襲撃は中止せられ、
同公の身邊は安全なるべしと確信し、同月二十四日頃 かねて同公と懇意の間柄なる鵜澤聡明をその自宅に訪問し、
同人に對し、相澤公判をめぐり激化しある靑年將校等は、所謂昭和斷行の目的をもって近く蹶起の情勢にありて
著々その準備を進めあるも、
西園寺公に對してはこれを襲撃せざる様儘力しあるに附、同公の身邊は大丈夫なり、
よって右蹶起の場合には興津に到り西園寺公に對し、
靑年將校等の最も信頼し 且 崇敬しある眞崎大將を以て速かに内閣を組織し事態を収拾し得る様、
意見具申せられたしと要請し、
二、
同月二十五日午後六時前後頃、東京市麻布區竜土町六十五番地の龜川宅に於て、
村中孝次、西田税と會合し所要の聯絡を爲したる際、
村中孝次より翌朝決行すべき旨を告げられ 且 その後事を託さるるや、
龜川は靑年將校等の蹶起が愈々 翌二十六日未明に迫れることを確信するに至り、
金二千圓をその蹶起資金として村中孝次に提供せんとし、
同人の固辭せるに拘らず鞏いてこれに金千五百圓を、又 西田税に金百圓を各交附し、
間もなく辭去せんとする村中孝次と握手を爲し、之を激励しつつ その出發を見送りたるが、
その後 西田税と共に蹶起後の建設計畫に附、
( イ ) 即日収拾、即日大赦の方針を以て工作を進める事
( ロ ) 東京市内の各要所は蹶起と共警戒網が張られ、之を突破することは相當困難なるべしと豫想し、
その事前に飛出し 既定の根本方針に基き迅速に聯絡すべき要あること、
( ハ ) その他所要の事項等細部に亘り協議を遂げ、同區六本木町一番地自動車商會寺松久太郎に對し、
翌朝四時迄に乗用車一台派遣せられ度旨注文し、以て著々建設計畫に關する準備を進め、
三、
斯くて同月二十六日午前三時頃、澁川善助よりの電話を以て、蹶起部隊は方に出動準備中なること、
及び 西園寺公の襲撃は中止に決したることなどの確報に接するや、
直ちに出發準備を整え、同日午前四時過頃、前示眞崎大將邸を訪問し、
同大將に對し速かに同朝 歩兵第一聯隊、同第三聯隊の靑年將校等が蹶起することとなりたる旨を告ぐると共に、
彼等は同大將による時局収拾を希望せる旨を述べ、
以てその援助方を懇請し、これより鵜澤聡明宅に赴くべく旨を告げ、
同大將よりも速かに行け と命ぜられて退去したるが、一旦自宅に歸り、各所に所要の電話聯絡を爲したる上、
同日午前五時三十分前後頃、東京市渋谷區千駄ヶ谷二丁目四百五十六番地 鵜澤聡明方を訪問し、
同人に對し同朝 歩一、歩三の靑年將校等は愈々蹶起したるも、元老の身邊は安全なるに附、
速かに興津に赴き眞崎大將、柳川中將を中心とする軍部内閣を組織し、
之により 事態を有利に収拾し得る如く 西園寺公に進言せられ度旨を極力懇請して同意せしめ、
猶要すれば自己を補佐役として同伴せられ度と述べ、
更に同日午前六時五十分頃品川驛に到り興津に赴くべく列車を待合せ中なる鵜澤聡明に對し、
重ねて前記趣旨を鞏調して、其の意見具申方を懇請し、其の出發を見送りたる上、
歸途久原房之介を訪れ 以上の經過を報告し、爾後の處置に附 所要の懇談を遂げたる後、
更に眞崎大將に對し右鵜澤出發の件を報告すると共に 同大將に随行し、
之を補佐しつゝ直接事態収拾の衝に當らんことを決意し、
同日午前八時三十分頃、再び同大將宅に赴きたるも、同大將不在のため空しく歸宅し、
一方興津に派遣したる鵜沢澤聡明は、
同日午前十一時前後頃、西園寺公邸に到りたるも同公は既に他に避難し不在なりしため、
同日午後四時頃歸宅したるものなるが、
同時頃龜川哲也は鵜澤聡明より右顛末の電話報告を受け、
又 同日午後三時頃 海軍省に在る山本英輔大將に電話聯絡を爲し、
一刻も速かに事態を収拾するの要ある旨を力説してその善處方を要望し、
その後 同日午後十時頃、海軍省に同大將を訪ね、
大命降下の場合には急速に組閣し時局の収拾を圖られ度旨進言する等、
各種の政治工作を任じ、
四、
同月二十七日午前三時頃、陸軍歩兵中佐満井佐吉より、電話により帝國ホテルに來訪を求められ
直ちに同所に赴き、同中佐より村中孝次に對し 撤退勧告方を依頼せられ、
間もなく同ホテルに來着したる村中孝次と會見し、・・・リンク→ 帝国ホテルの会合 
蹶起部隊がこれ以上占據を持續するときは却って不利になる結果を招くべしと説き、その撤退を勧告したる際、
同人より蹶起部隊を戒嚴部隊に編入し、現位置を警備する様取計われ度旨要望せらるゝや、
満井中佐と共にその實現に努力する旨約束し、
次で同日午前八時頃、北輝次郎方に西田税を訪ねて、
帝國ホテルの會合、際、に對する軍部内閣の進言 及び 眞崎大將訪問等、
二十六日以來 彼が活動の結果得たる諸情報を傳えるが、
同月二十八日に至り、俄然情勢の變化に伴い 身邊の危險を察知するや、
各種の證據隠滅手段を講じたる上、
同日午後十時頃 從來の親交をたどり 東京市芝區白金今里町十八番地久原房之介方に潜入し
爾來同人の庇護の下に同家に隠避して至るが、
同年三月二日午後九時前後頃、更に夜陰に乗じて巧に同家より脱出遁走し、
同市内各所を轉々潜伏し居りたるも、
憲兵の追跡急にして 到底その免れ難きを知るや、終に自首せんことを決意し、
同月九日午後八時頃、前記自宅に歸還したるところを憲兵の爲 取押えられたるものにして、
北輝次郎、西田税、龜川哲也は孰いずれも 昭和十一年二月二十六日事件に參加した
香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部淺一等の叛亂行爲に協同荷担し、
北輝次郎、西田税は叛亂の主動者として行動し、龜川哲也は叛亂の謀議に參与したるものなり。

以上の如く
北輝次郎、西田税の兩名は我國現下の情勢を目し、
建國の精神に悖り 惡弊累積せるものとなし、
痛く國家 竝に皇軍の前途を憂慮するに至りたるはこれを諒とすべきものありと雖も、
苟も皇軍を利用して國家革新の具に供せんことを企圖し、
密に一部靑年將校等に接近し、
急進矯激なる思想を注入宣傳し、
終に統帥大權を破壊するの結果を招來するに至らしめたるは、
その罪重且大なりと認むべくによって、前記の如く處断せり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<  註 1 >
相澤中佐は十月十一日予備役に編入せられたが、
其の審理は第一師団軍法会議岡田予審官によって続行せられ、
十一月二日予審終了し、用兵器暴行、殺人及傷害事件として同日公訴を提起せられた。
而して其の後、歩兵第一旅団長佐藤正三郎少将以下が夫々 判士長、判士に任命せられ、
弁護人は鵜沢聡明博士、特別弁護人として陸軍大学教官松井佐吉中佐と決定した。
一方、本事件発生の当初より一部に於ては所謂怪文書の頒布によりて、相澤中佐の行為を激賞し
単なる私憤私慾に発したるものにあらず。
真に天誅とも称すべき事件にして已むに已まれぬ大和魂の流露である。
等と称しつつあつたが、
公判期日の切迫と共に、西田税 及直心道場の一派にあつては愈々其の立場を明かにして
「 国体明徴--粛軍--維新革命 」 は正しく三位一体にして、相澤中佐蹶起の真因亦茲にあり。
従って 「 超法律的の団体、超法律的維新に殉ずるものの受くる所、又同様超法律的でなければならぬ 」
と強調するに至り、左記文章等によつて他の革新団体に飛檄し、
公判公開の要請及減刑運動を慫慂し、以て昭和維新達成の機運醸成に努めた。
・・・相澤中佐公判 ・ 西田税、渋川善助の戦略
<  註 2 >
わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。
西田の留守に磯部さんが見えまして、
「 奥さん、いよいよ二十六日にやります。
西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」
と おっしゃったのです。
その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。
「 あなたの立場はどうなのですか 」
「 今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。黙認する 」
西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、
緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひとときでございました。
・・・
西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」


暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行為は首魁幇助の利敵行為でしかない 」

2020年10月12日 08時54分12秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

「 青年将校運動 」 を 培ったもの
二・二六事件の母体は軍の青年将校運動にあった。
そして、その青年将校運動を軍内に扶植し育成したのは、
たしかに 北の改造方案と西田の指導によるものであることは一点の疑いもない。
彼等は軍を維新革命の中核体とすることに目標をおいて、軍内の維新運動を推し進め、
これがために、軍内に革新思想をもつ青年将校の同志的横断的結成をみた。
このことは軍としては必然に国軍の団結にひびを入れ、
国家革新という魔ものに荒されて、著しい被害をうけたわけで、
その意味では彼等は軍の思想的破壊者であり憎むべき存在であったのである。
たしかに、青年将校運動がなければ彼等の蹶起もなかったわけで、
この事件と彼等の長い間の一部将校に対する働きかけには、因果関係はあった。
だが この事件、つまり 『 反乱 』 という犯罪事実を処罰するのに、
ここまで、その因果関係を遡及することは、法律上許されるものではない。
裁判は、この反乱において彼等の果たした役割とその実行を審理しうるだけであるからである。
粛軍裁判の名において、青年将校運動の発展と 北、西田の存在との関係を究明し、
このような思想的根源を叩き潰す必要があったとしても、
すでに一〇年にわたるその思想工作を、事件原因として捕捉することは、
法律的には無理なことであった。
だが、裁判は、
「 北は西田税と共に青年将校同志の思想的中心となり、その指導誘掖たすけるに努め 」
「 西田は同志の思想的中心にあると共に、革新運動の指導者たるに至れり 」
と 判示している。
西田税 
ことに、西田については、
「 近代革命の中核は軍部並に民間摘志士の団結により形成せらるべく、
就中、軍隊を使用するに非させれば 我国家の革新は遂に期すべからず
との堅き信念に基き、同志青年将校に対し、
或は日本改造方案大綱を基調とする革命理論を説き、
または 革新運動に関する将校及び軍隊の使命、心得に付 研究作業を指示し、
いわゆる 『 上下一貫、左右一体、挙軍一致の将校団運動 』 なる標語を教示し、
この根本方針に基き、軍内において益々同志の拡大強化を企図すべき旨 指示し、
これがため、
皇軍内に矯激なる思想信念を抱懐せる同志を以て横断的団結を敢てするに至らしめ 」
といい、
その後の 十一月事件、真崎教育総監更迭、
ついで 相澤事件の発生に対して西田がとった策動、
とりわけ相澤公判には、いわゆる曝露戦術で、反対勢力を潰滅する企図のもとに、
その公判対策の協議指導に任したなど、
ひたすら革新断行の醸成に努めたと、判示しているが、
これらは、西田が北と共に、青年将校の思想的中心としての実行を示して、
彼がすでに青年将校の首魁的地位にあることを示唆しさするものである。
たしかに、西田と青年将校との関係はまことに深いものがあった。
彼はいつでも青年将校の背後にあって彼等を指導鞭撻していた。
例えば、昭和八年秋 統制派幕僚が革新運動より青年将校を離そうとして、
青年将校と懇談したが、結局物わかれに終わった。
この時、西田は、
統制派幕僚の中心池田純久中佐を訪れ
その不当を詰っているが、  ・・リンク→
統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」 
青年将校の情勢不利であれば、
いつでも背後から飛び出して 軍に噛みついていた彼であった。
さらに、十一月事件によって村中、磯部らが検挙されると、
これは統制派が部外不純の勢力と結託して、
いわゆる維新勢力を弾圧するための偽作陰謀だと断定して、
村中、磯部らに勧めて誣告の告訴をなさしめたのであった。
そして彼等が出獄してくると、いよいよ彼等と共に統制派への一戦を試みようとし、
一〇年四月、統制派に対する闘争方針として、
『 錦旗を樹立して討幕に邁進すべし 』
との 指令を全国同志に発して青年将校を激発していた。
七月、真崎教育総監更迭問題がおこると、
人事異動の背後には、いわゆる重臣閥、軍閥の恐るべき陰謀策動があるといい、
しかもその軍閥の中心は永田軍務局長で林陸相はそのロボットにすぎないとし、
この更迭は統帥権を干犯し皇軍を私兵化したものだと断じて、
『 軍閥重臣の大逆不逞 』 ・・リンク→軍閥重臣閥の大逆不逞 
と 題する怪文書を全国同志に密送して、その奮起を促していた。
相沢中佐が永田軍務局長を斬ったのは、
このような文書や西田の言説がその動機となったことはもちろんである。
相沢が永田少将を殺害すると、
西田は、同中佐の一挙を国憲国法を越えた維新的志士の先駆的捨身だと称揚し、
この公判対策の中心となり、
一方、民間同志と共に 「 大眼目 」 という新聞を発行配布して、
青年将校を激発していた。
たしかに、そこでは、西田は青年将校の思想的中心であった。
だが、これをもって彼をこの事件の中心的存在だということはできない。
しかし、軍法会議は軍内青年将校運動と北、西田との関係を重視していた。
青年将校の矯激な思想運動が、二・二六蹶起に決定的な影響を持つというのである。
これには間違いはない。
が、反乱は、『 党ヲ結ビ 兵器ヲ執リ反乱 』 することで、
思想的な条件は、反乱罪の構成要件ではない。
わずかにその動因たるにすぎない。
さきの吉田判士長が同じ判士藤室大佐に送った書簡というのが、
高宮太平氏の 「 軍国太平記 」 に 紹介されているが、
その一節に、こう書いてある。
「 事件前の被告の思想問題はどんなに矯激なものであって事件に影響があったとしても、
それはつまるところ情状に属するものである。
基本刑決定の要素にはならない。
その上、三月事件、十月事件は不問に付している。
この両事件関係も現存している状態に於いては、特に軍法会議が常人を審理する場合、
この情状は大局上の利害を較量して不問に付するのがよいと認める。
それゆえ彼等 ( 北、西田 ) の事件関係行為のみをとらえ、犯罪の軽重を観察するを要する。
したがってその行為は首魁幇助の利敵行為である。
それはすなわち普通刑法の従犯の立場である利敵であり、
したがって刑は普通の見解では主犯よりも軽減されるべきである 」
この吉田判士長の意見は正しい。
北、西田は青年将校運動の思想的中心であっても、
それが直にこの叛乱事件の中心となるわけではなく、
事件の指導中心であるかどうかは、
さらに事件前および事件中の具体的行動について見なければならない。
・・・大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 「青年将校運動」 を培ったもの
リンク→はじめから死刑に決めていた

吉田悳裁判長が
「 北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、
不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、

寺内陸相は、
「 両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である 」
と 極刑の判決を示唆した

「 一部の軍首脳部が関係したりと称するも事実無根なり云々とあり、
北、西田に全く操れたりと云ふ風に称するも 無誠意なり 卑怯なり。
軍は徹底的に粛軍すると称し、却って稍鈍りあるにあらずや。
軍事課に於ても議論ありたり。検挙は徹底的に行ふ主義に変りなし。
陸軍は責任を民間に嫁しあり。常人の参加は三名位なり。
北、西田と雖も 謀議には参画し居らず 」 ・・・木内曾益検事 ( 四月一日 )


暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』

2020年10月11日 05時48分29秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

暗黒裁判の象徴
北と西田を 「 反亂の首魁 」 にする
北一輝 ( 本名 ・ 輝次郎 ) が逮捕されたのは事件さなかの二月二十八日の午後八時ごろであった。
このとき中野区桃園町の北邸の奥の間には西田税と薩摩雄次がおり、
事件の對策について話し合っていたといわれる。
そこへ十数名の憲兵がやってきて北を逮捕した。
北が憲兵と対応している間、西田は北邸を逃げだした。
その後、知人宅を轉々としたが、
三月四日早朝に滞在先を私服警官に踏み込まれ、逮捕された。
西田が逮捕された日、特別陸軍軍法會議を設置する緊急勅令が公布された。
のちに陸軍次官が軍法會議の判士たちに對して行った 「 陸軍次官口演要旨 」 には次の一條がある。
「 本事件ニ關係アル者ニ附テハ常人モ公判ニ附シ 且 全國各地ニ於ケル事件ヲ併セテ裁判ス 」
これによって北と西田は蹶起將校らと同じように < 暗黒裁判 > によって裁かれることになった。
そして陸軍上層部は 「 北、西田は死刑 」 という既定方針の下、その準備を着々と進めていた。


わが國未曾有の不祥事二・・
事件勃發直後檢擧された北 一輝と西田税は
爾來東京憲兵隊並に警視廳で嚴重なる取り調べを受け
けてゐたが、
右兩名は今回の不祥事件の思想的バックをなすと共に
その黒幕となつて一部青年將校を操っていたものである
北一輝が著述し、西田税名義により發行せられた
「 日本改造法案 」 はこれを立証して余りあるものである、

即ち同書は大正八年八月上海において執筆せられ、
爾後法網を潜り所謂 「 怪文書 」 として秘密裡に頒布せられたもので、

現在に歩の政治經濟などの缼陥を摘し、
一見その弊害を芟除するが如き具體案を記述した点において、

国家改造に関心を有する一部人士の根本的思想を極めなかつた
中心分子をして 妄信せしめるに至つたものである、

その主張するところは、本流は右翼の仮面を被つた僞装左翼思想に基き、
直接行動によつてクーデターを斷行し、政權を獲得せんとするものであつて、
これが目的達成のためには軍隊に呼びかけ、
統帥權を干犯し、
神聖なる皇軍をも私兵化して手段に利用せんとした
矯激極まる所謂 「 武力行使による革命 」 を唱えたものである、・・・・


事件が終結してから半月ほど経った三月十五日、
新聞各紙には
「 二 ・二六事件の背後には北一輝、西田税あり 」
とする記事が躍った。
東京日日新聞の記者だった石橋恒喜の 『 昭和の反乱 』 によれば、
掲載の経緯はおおよそ次のようだった。
三月十三日、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐が記者クラブを訪れ
「 重大ニュース 」 があると語った。
「 北一輝と西田税は、憲兵隊と警視庁とで厳重取り調べ中である。
 その結果、驚くべし、彼らは右翼の仮面をかぶった共産主義者であることが判明した。
北の著書 『 日本改造法案大綱 』 を見るがいい、それは共産主義を基調としていることは明らかである。
彼らはこの左翼革命理論に基づき、世間にうとい青年将校たちに近づいて
『 上下一貫、左右一体、挙軍一体のための将校団運動 』 なるものを吹きこんだ。
そして、巧みに軍隊を、こんどのような不祥事に利用したのだ 」
北や西田が共産主義者でないことは記者もよく知っていた。
だから
「 見当違いなことを言うな。 北、西田は右翼の浪人ではあるが、アカじゃないよ 」
と笑い飛ばした。
ところが翌日、松村少佐は記者クラブに 『 日本改造法案大綱 』 を持参し、
一つひとつ北が共産主義者であるという、" 根拠 " を挙げ、
「 これでもニュースにならないと否定するのか 」 と迫った。
「 どうしても記事にしてほしいなら 『 戒厳司令部発表 』 としたらどうですか 」
と石橋がいうと、
「 諸君の自主的な取材によるものとしてもらいたい 」
という。
記事にしなければ軍部と対立することになる。
結局、記者たちは思ってもいないことを書かざるを得なかった。

なぜ陸軍はこうした手段をとったのか。
石橋は前掲 『 昭和の反乱 』 で次のように論じている。
「 確かに直接行動に出たのは、急進将校である。
 それについては軍事当局が、いかに報道管制をしこうとしても隠せ通せるものではない。
だが、その背後に北、西田がいて、事件の演出から監督まで一切を手がけていたならば、
軍もまた " 被害者 " の立場に立つことができる。
つまり、軍の面子を保つために 北、西田を
" 純真な青年将校 " を 操った元凶と しなければならなかったのである 」


十月一日、
吉田悳騎兵大佐 ( 裁判中少将に昇進 ) を裁判長に、
北、西田、亀川哲也の第一回公判が開かれ、
以後十二回にわたって開廷された。
公判が進むにしたがって、吉田裁判長と他の判士との意見が対立しはじめた。
吉田裁判長は北、西田と二 ・二六事件との関係は
「 幇助 ・従犯 」 以上のものではないと考えていたが、
ほかの判士は北、西田を 「 首魁 」 としたかった。
十月二十二日、
論告求刑があり、北、西田に死刑が求刑された。
吉田裁判長は手記の中で次のように書いている。
「 論告は殆んど価値を認め難し。
 本人又は周囲の陳述を籍り、悉く之を悪意に解し、
 しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。
そもそも 今次事変の最大の責任者は軍自体である。
軍上層部の責任である。
之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、
国民として断じて許し難きことであつて、
将来愈々全国民一致の支持を必要とする国軍の為放任し得ざるものがある。
国家の為に職を賭するも争はざるを得ない問題と思ふ。
奉職三十年初めて逢着した問題である ・・・松本清張著 『 二 ・二六事件 』
このあと、吉田裁判長は文字通り職を賭して奔走し、
一時は 「 依然過重なるも一歩希望に近づく 」 ・・・吉田手記
と その主張がみとめられるかに見えたが、
翌十二年一月十四日、
寺内寿一陸相の希望で裁判経過を報告すると、
ふたたび北、西田に対する死刑論が大勢を占めた。
寺内陸相への報告でどんな話が交わされたのか定かではないが、
陸軍省の強力な影響の下で 「 北、西田は死刑 」 とする方針が定まったといえる。
それでも吉田裁判長は、
死刑論の強硬派である藤室良輔判士の罷免か、
あるいは北、西田に対する判決言い渡しを延期しては、などと抵抗を示した。
その結果、判決は六ヵ月以上延期された。
しかし判決を延期しても状況は好転せず、
八月十四日に北と西田は死刑判決を言い渡された。
吉田は死刑を宣告したときの心境を手記にこう記している。
「 八月十四日、北、西田に対する判決を下す。
 好漢惜しみても余りあり。今や如何ともするなし 」
北と西田、そしてこの両名の証人として系の執行が延期されていた磯部、村中の処刑は、
判決から五日後の八月十九日に行われた。
この四名は、すでに処刑された蹶起将校らと異なり、刑が執行されるときには
「 天皇陛下万歳 」 をいわなかった。
そこにはどのような思いがあったのだろうか。
・・・図説  2 ・26事件  太平洋研究会編  平塚柾緒著 から
・・・リンク→ 
はじめから死刑に決めていた


はじめから死刑に決めていた

2020年10月10日 08時07分22秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝

 
西田税 
軍事法廷の北・西田

北・西田ら民間人の公判が開かれたのは十月一日であった。
同期の西田が法廷に立つというので河辺も傍聴にいった。
第五法廷の民間関係のかかり裁判長は、陸軍省の吉田悳ただし騎兵大佐 ( 裁判中少将に昇進 )
だと 聞いて心ひそかに 西田のために喜んだ。
かねてから、吉田大佐の剛直な武人らしい爽やかな人柄を耳にしていたからである。
しかし、吉田大佐も公判前は、予審調書や省内の噂話などから、北や西田に対して偏見をもっていたようだ。
手記にも
「 事件に依って刺激された一切の感情を去り、公正な審判を下すため各判士の気持を平静ならしめる 」
ことが必要だとか
「 吾々の公判開始前の心境そのままである 」
などと書いているところを見ると、北や西田に好感をもってはいない。
しかし、初対面ですっかり変わる。
手記にはこうしるしている。
「 十月一日、北、西田 第一回公判、北の風貌全く想像に反す。
柔和にして品よく白皙せき、流石に一方の大将たる風格あり。
西田 第一戦の闘士らしく体軀堂々、言語明晰にして 検察官の所説を反駁するあたり 略ぼ予想したような人物 」
こうして、北、西田らに対する公判は十月二十二日まで十二回開かれ、二十二日に検察官の論告があり、
事件の首魁として死刑の求刑があった。
裁判長の吉田少将は 北や西田の陳述を聞くうちに、心境が次第に変わる。
被告の陳述に、より真実味が見出せると思うようになった。
「 十月二日、西田第二回公判、愈々難かしくなる。
本人の陳述する経過は大体に於て真に近いと思われる。
十月三日、西田第三回公判、判士全般と自分の考とは相容れぬものがある。
憐むべき心情だと思う 」
と、その手記にしるしている。
五日の項では 北一輝の人物を評価し 「 偉材たるを失はず 」 と みとめ、
北ほどの人物が世表に顯れなかったのは、
学歴がないためついに浪人の境涯から抜け出せなかったのであろうと推測している。
十月二十二日の手記は、
剛直で良識のある吉田裁判長の人柄がしのばれる公平、中正な観察を書きしるしている。
「 北、西田 論告、論告には殆んど価値を認め難し、
本人又は周囲の陳述を藉り、悉く之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、
責任の全部を被告に帰す。
抑々そもそも 今次事変の最大の責任者は軍自体である。
軍部特に上層部の責任である。
之を不問に附して 民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、
国民として断じて許し難きところであって、
将来愈々全国民一致の支持を必要とする国軍の為 放任し得ざるものがある。
国家の為に職を賭するも争はざるを得ない問題と思う。
奉職三十年 初めて逢着した問題である 」
こう 決意した吉田裁判長は北、西田が事件に対して
「 幇助・従犯 」
で あるとの正論を、寺内陸軍大臣や梅津次官に、幾度か意見具申をした。
その結果、幾分かその意見が認められそうな時もあったらしい。
手記にも 「 一歩希望に近づく 」 と しるした時もあったが、
陸軍上層部の意向は、はじめから死刑に決めていた から
吉田裁判長の正論も容れられる余地はなかった。
「 一月十四日、陸軍大臣の注文にて各班毎に裁判経過を報告する。
北、西田責任問題に対する大臣の意見 全く訳の解らないのに驚く。
あの分なら 公判は無用の手数だ。 吾々の公判開始前の心境そのままである 」
と、しるしている。
吉田裁判長はそれにも屈せず、首魁、死刑説を強硬に主張する伊藤法務官を職権で罷免しようとしたが、
陸軍省の反対で、それもできなかった。
しかし、陸軍省当局も吉田裁判長の強硬な意見に てこずり 北、西田の判決を延期に決する。
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・・・挿入・・・
吉田悳裁判長が
「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、
不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、

寺内陸相は、

「 両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である 」
と 極刑の判決を示唆した
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「 一部の軍首脳部が関係したりと称するも事実無根なり云々とあり、
北、西田に全く操れたりと云ふ風に称するも 無誠意なり 卑怯なり。
軍は徹底的に粛軍すると称し、却って稍鈍りあるにあらずや。
軍事課に於ても議論ありたり。検挙は徹底的に行ふ主義に変りなし。
陸軍は責任を民間に嫁しあり。常人の参加は三名位なり。
北、西田と雖も 謀議には参画し居らず 」 ・・・木内曾益検事 ( 四月一日 )

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・・・中略  ( リンク→ 西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 ) ・・・

昭和十二年八月十一日、
頑強に反論する吉田裁判長を抑えて判士会議は遂に北、西田の死刑を決した。
「 北、西田に対する最後の会議、過去半年に亙る努力も空しく、
大勢遂に目的を達するに至らず、無念至極なるも 今や如何ともするなし、
それも天意とすれば致し方なし 」
と、吉田裁判長はその手記にしるしている。
十四日、吉田悳少将は軍人らしいキビキビした語調で判決文を朗読したが、
心中には無限の愛惜の感をたたえていたであろうことは、
その残された手記からでも推測できる。
「 八月十四日、北、西田に対する判決を下す。
好漢惜みても余りあり、今や、如何ともするなし。   噫 」
と、嘆息している。
判決を聞いたあと、西田は裁判官に対して何か発言しようとしたが、
北は静かにこれを制し、二人は裁判官に一礼して静かに退出したという。

判決から五日たった八月十九日早暁、
一年前に青年将校たちが処刑された同じ場所で
村中、磯部ら四人、静かに刑架につき  四発の銃声とともに昇天した。

刑架前で西田が天皇陛下万歳を三唱しようと言い、
北は静かにそれを制して、それには及ぶまい、私はやめると言ったという。
『 北一輝 』 (田中惣五郎著) の記述は、著者がだれの証言でこう書いたかはわからないが、
公式の記録には残されてもおらず、

北、西田の平素からの言動からみて、そんな殊勝なことを言い出すとも思えない。
恐らく事実ではあるまい。
北一輝ら四名の処刑が終り、
ついで 九月二十五日 真崎甚三郎大将に、無罪の判決が言いわたされて、
二・二六事件関係のあと始末は一切終った。

もうその頃には、
日華事変の戦火は燎原の火のように、
支那大陸に拡がりつつあった。
刑死した多くの人が予見していた通り、
省部の高級軍人によって戦火は拡大され、
その侵略作戦は飽くことを知らぬありさまとなった。
しかも、
二・二六事件以後の日本の政治は、
二・二六事件を脅迫の手段にした陸軍の手に握られ、
歩、一歩と転落の度を速めつつあった。
これは 北、西田をはじめ 青年将校たちが
もっとも排撃し、嫌悪し、杞憂する方向であった。
この意味で二・二六事件は、
無意味な流血事件に過ぎなかったように見える。
青年将校たちが、純粋に、一途に冀求ききゅうしたものは、
そのような歪んだ国家の姿ではなかった。
二・二六事件が、稔りのない不毛の叛乱に終った最大の要因は、
天皇陛下の激怒にあったことは明白で、多くの人々から指摘されている。
「 大御心を忖度そんたくして、公的権限によらないで 自らの行動を正しいとする点では、
真崎も青年将校も表面では一致していた。
だがここにこそ、二・二六事件が
『 維新 』 を 標榜しつつ 敗退し壊滅していく原因があったのである 」
と、いう人もある。  ( 高橋正衛著 『 二・二六事件 』 )
大御心という表現には疑問がある。
日本の歴史上、大御心というのは
至公、至平、広大無辺の御仁慈を表す言葉である。
天皇の生々しい御感情を、そのまま大御心とは言えない。
青年将校たちは、
たしかに天皇の広大無辺な仁慈の大御心を冀こいねがっていた
ことは たしかである。
しかし、それは現実の政治的権力者たる天皇の御考えとは異質のものであった。
ここに青年将校たちの誤算があり、誤認があったと説く論者もある。
「 天皇は二重の性格をもっている。
二・二六事件は、青年将校にとって、その神聖天皇の面をひきだし、
拡大し、絶対化する運動であったが、
二・二六事件は、天皇にとっては、
機関説的天皇制を守るためにみずからが異例な権力行使をこころみた出来事であった。
二・二六事件は、天皇のもっている二重性が、それぞれ極限まで発動され、
そのため正面衝突せざるをえなかった事件である 」  ( 『 現代のエスプリ 』 九二号 )
また、
松本淸張の 『 昭和史発掘 』には、

「 磯部は天皇個人と天皇体制とを混同して考えている。
古代天皇の個人的幻想のみがあって、天皇絶対の神権は政治体制にひきつがれ、
『 近代 』 天皇はその機関でしかないことが分らない。
天皇の存立は、鞏固なピラミッド型の権力体制に支えられ、利用されているからで、
体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部は知らない。
『 朕は汝等を股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ其親しみは特ことに深かるべき 』
という 軍人勅諭の 『 天皇←→軍人 』 という直接的な図式は、軍人に天皇を個人的神権者に錯覚させる 」
と、述べているが、いずれも戦後の発想であり、批判であって、
戦前の青年将校たちの抱いた天皇信仰を真に理解した上での発言とは受取りがたい。
・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から