あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

眞崎敎育總監更迭

2018年04月15日 05時16分33秒 | 眞崎敎育總監更迭

「 武官長はどうも眞崎の肩を持つようだね 」 
・・・と
昭和天皇が鈴木貫太郎侍從長に述べたことが本庄の耳に入る。
林銑十郎陸相が推進しようとした眞崎更迭案について、
本庄が 「 閑院宮總長 梨本宮元帥と善後策を協議されては 」
と 林の建議を再檢討するよう天皇に進言したことを指す。
それを受けて 『 本庄日記 』 には、
「 宮中では軍の立場を忘れて一切沈黙するしかない 」
と 述懐するに到る。


本庄は翌十六日、天皇に呼ばれ概略、次のように問われた。
「 林陸相は眞崎大將が總監の位置に在りては統制が困難なること、
 昨年十月 士官學校事件も眞崎一派の策謀なり。
(  恐らく事件軍法會議処理難を申せしならん乎、まさか士官學校候補生事件を指せしものにはあらざるべし。) 
其他、自分としても、眞崎が參謀次長時代、熱河作戰、熱河より北支への進出等、
自分の意圖に反して行動せしめたる場合、
一旦責任上辭表を捧呈するならば、氣持宜しきも 其儘にては如何なものかと思へり。
自分の聞く多くのものは、皆 眞崎、荒木等を非難す。
過般來對支意見の鞏固なりしことも、
眞崎、荒木等の意見に林陸相等が押されある結末とも想像せらる 」
・・・・と 仰せられたり。
天皇が西園寺や岡田首相をはじめとした統制派系からの情報を
極めて具體的に入手していたことがうかがえる。
ただ、
「 士官學校事件も眞崎一派の策謀 」 の くだりには 本庄も驚き、
注釋で軍法會議の經緯のことを指すのだろうが、と 書き留めている。

大御心
・  昭和十年四月九日 「 眞崎教育総監の機関説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」
・  昭和十年四月十九日 「 朕が聴糺さんとせしことを陸軍は妨げんとす 」
・  昭和十年七月十六日 「 眞崎大将が総監の位置に在りては統制が困難なる 」
・  昭和十年七月二十日 「 教育総監更迭・・ 在職中御苦労であった 」





眞崎敎育總監更迭

目次
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・ 
三長官會議・眞崎大將の手控 
・ 『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』 ・・眞崎甚三郎大将

陸軍派閥一覧表 
・ 林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」 
磯部手記 

・ 
『 國體明徴 』 天皇機關説に關する眞崎敎育總監の訓示 


・ 昭和の安政大獄 
・ 
軍閥重臣閥の大逆不逞 
・ 敎育總監更迭事情要點 ・村中孝次 
・ 村中孝次 「 私は常に正々堂々と名前を出しております 」 

・ 國體明徴とニ ・ニ六事件
・ 
渡邊敎育總監に呈する公開狀

・ 香田淸貞 ・ 眞崎大將を訪問 「 乃公は絶對に同意はしていない 」
・ 
磯部淺一 「 統帥權干犯の事實あり 」
・ 
小川三郎 ・ 古荘次官、眞崎大將を訪問 「 眞崎大將は辭表を出してはいない 」


陸軍派閥一覧表

2018年04月13日 05時07分25秒 | 眞崎敎育總監更迭


昭和九年十月頃の陸軍の派閥一覧表

憲兵隊の入手したるもの
       將官
西義一大將          植田謙吉大將      香月清司中將   山下奉文少將                    末次信正海軍大將




陸軍首脳部對立關係
昭和六年 ( 1929年 )  十二月~昭和九年 ( 1934年 ) 八月
荒木大將 陸軍大臣の頃

一、現幹部派

荒木貞夫 ( 陸相 )
現幹部派ノ巨頭ナルモ事實上ノ所謂ロボットニ等シク 其高潔ナル人格ト闘志ニ對シテハ
多數 靑年將校ノ支持アリ  從ツテ現幹部派ノ中心トナリ居ルモノナリ

眞崎甚三郎 ( 參謀次長 )
現幹部派ノ一人ニシテ 武藤信義、緒方勝一 ( 技術本部長 ) 香月清司 ( 大學校幹事 )
梅崎延太郎 ( 第二十師團長 ) 等ノ佐賀閥ノ牛耳ヲ執リ  參謀本部内ニ牢固タル荒木系ノ根ヲ下シタルモノ

秦真次 ( 憲兵司令官 )
現幹部派中唯一ノ策士ニシテ 且ツ 其イデオロギー、メーガーター
反宇垣ノ最モ鞏硬ナル一人ニシテ香椎浩平 ( 在支 中將 ) 入江仁六郎 ( 野砲兵學校長 )
等ノ福岡閥ヲ牛耳ルモノ

( 一 ) 荒木系ト目サレルヽモノ

川島義之 ( 中將 教育本部長 )
林教育總監ニ對スル荒木ノ目付役トシテ配セラレタルモノ

小野寺長治郎 ( 主計官経理部長 )
荒木ノ所謂國家非常時増税案ノ立役者

古荘幹郎 ( 少將 參謀本部第一部長 )

山岡重厚 ( 少將 軍務局長 )

広瀬猛 ( 中將 第十師團長 )

本間雅晴 ( 大佐 新聞班長 )
( 二 ) 眞崎系ト目サルヽモノ

岡村寧次 ( 少將 関東軍參謀副長 )
最近小磯ノ轉向ニヨリ極端ナル現幹部派ノ勢力ヲ関東軍内ニ入レント策動シツヽアルモノ

小畑敏四郎 ( 參謀本部第三部長 )
本部内ニ於テハ永田鐵山ト併稱セラレ招來ノ大臣候補ト目サレツヽアリ

梅津美治郎 ( 少將 參謀本部総務部長 )
但シ荒木系ニ對シテハ好感ヲ有セズ

緒方勝一 ( 中將 技術本部長 )

梅崎延太郎 ( 第二十師團長 )

( 三 ) 秦系ト目サルヽモノ

香椎浩平 ( 中將 志那駐屯軍司令官 )

建川美次 ( 軍縮主席全權中將 )
建川ハ小磯ノ日本主義ト相容レザルモ小磯ノ宇垣派轉向ト五 ・一五事件以來ノ壊滅ノタメ
最近 秦ニ接近 今回松岡全權ニ同行スル石原參謀等モ建川ト行動ヲ共ニス
建川ノ轉向ニヨリ左ノ右翼鞏硬派ガ秦派ト見ラレル

重藤千秋 ( 大佐 )
五 ・一五事件ノ裏面ノ總帥ト稱セラル

根本 博 ( 中佐 )
在上海、元參謀本部志那班 班長

板垣征四郎 ( 少將 )
元關東軍參謀 現満州國顧問

石原俊 ( 少將 )
元關東軍參謀

磯見廉 ( 大佐 )
參謀本部付部内ニ於ケル現在ノ最鞏硬派ニシテ大櫻會ヲ牛耳ル

鈴木貞一 ( 中佐 )
參謀本部付 大櫻會ノ中堅ニシテ
森恪ト共ニ平沼推薦ノ第一線ニ立チ時々地方靑年將校ヘパンフレット類ヲ送ルト稱セラル

難波大佐 ( 憲兵隊長 )
大阪ニ於ケル寺内中將ノ宇垣擁立運動ニ反對的策動ヲナス

持永大佐 ( 東京憲兵隊長 )

二、現幹部派ニ同情ヲ有スルモノ

武藤信義 ( 大將 関東軍司令官 )
對満政策ニ於テ秦等ト共鳴シ小磯ノ宇垣系轉向ト共ニ最近ハ岡村副長及荒木系河本大佐ヲ起用ス

本庄繁 ( 中將 )
軍事參議官 對満政策ニ對シ現幹部派ヲ支持ス

森 連 ( 中將 )
満州獨立守備隊長

多門二郎 ( 中將 )
第二師團長

三、宇垣派
( 一 ) 宇垣系ト目サルヽモノ

金谷範三 ( 大將 軍事參議官 )
宇垣ニヨリテ今日ノ地位ヲ得タル關係上 軍事參議官會議ニ於ケル反荒木派ノ中心ヲナス

阿部信行 ( 中將 臺灣軍司令官 )
牧野内府ト頗ル好ク 又 陸軍部内ニ於ケル石川閥ノ林銑十郎、中村孝太郎、林三弥吉中將等ト
宇垣派トノ握手ヲ實現セシメタルモノ

林 桂 ( 中將 整備局長 )
宇垣直系トシテ本省ニ殘ル唯一幹部ニシテ 大倉喜七郎ノ女婿ナリ
最近宇垣ト大倉組ノ朝鮮土木事業ヲ契機トシテ握手セル際ノ功勞者

二宮治重 ( 中將 第五師團長 )
宇垣陸相時代ノ參謀次長及次官ナリ
宇垣ト同郷ニシテ宇垣系ニ於テ阿部ト竝ンデ謀將タリ

鈴木孝雄 ( 大將 軍事參議官 )
侍從長の弟ニシテ宇垣ノタメ宮中方面ノ策動ニ奔走シ
且ツ 民政党方面ニモ知己多く招來宇垣系ノ後ヲ承ケ
政治的活動ノ可能性アル一人ト稱セラル

寺内寿一 ( 中將 第四師團長 )
現ニ長閥ノ中心トナレル一人ナルモ反荒木及秦ノ意志強ク
自然宇垣ニ接近シ最近大阪方面ノ實業家ヲ説キ宇垣系ノ財的約束ヲ固メツヽアリ

土肥原賢二 ( 元奉天特務機關長 )
當時ヨリ宇垣系ノ一人トシテ活動セルモノ

谷 寿夫 ( 少將 )
國際的ニ見タル現軍部ノ態度ハ日本ヲ孤立ニ導クモノトノ見地ヨリ宇垣系ニ傾ク

( 二 ) 宇垣同情派

南次郎 ( 大將 軍事參議官 )
嘗テハ荒木推薦タリシガ現幹部ノ擡頭たいとうヲ國家的見地ヨリ反對ナリシトシ
宇垣系ニ傾キ軍事參議官會議ニ於テ宇垣擁立派ノ急先鋒ナリ

渡邊錠太郎 ( 大將 航空本部長 )
軍事參議官會議ト三長官會議ノ衝突ノ因ヲ作リタル現幹部派ニ反對ノ立場ニアリ

柳川平助 ( 中將 次官 )
南次郎ノ推薦ニ係リ 古ヨリ南次郎大將ニ起用セラレ居ルモノ

林銑十郎 ( 大將 教育總監 )
中立ニ近キモ朝鮮軍司令官當時宇垣ニ接近シ
最近ハ三長官會議ニ於テ反荒木ノ態度強ク阿部信行トノ交誼深シ

杉山元 ( 中將 第十二師團長 )
荒木系ニヨリテ左遷セラレタル一人ニシテ個人的ニ於テ秦トヨキモ主義ニ於テ南ニ接近ス

松井石根 ( 中將 元軍縮全權 )
建川ノ同情者タリシモ大倉組トノ關係又反荒木意見ヨリ宇垣同情派ト見ラレル

小磯國昭 ( 中將 関東軍參謀長 )
荒木派ガ軍事參議官方面ト宮中方面ノ旗色惡シキヲ見テ再ビ宇垣系ニ接近ス
而モ 関東軍内ニ於ケル武藤大將ノ名ニ於テ實權ヲ掌握スル時ノ轉向ハ荒木系ノ大亀裂ヲ甘ンズルニ至リ
所謂小磯系ト目サルヽモノヽ内左ノモノハ何レモ宇垣系トナル

永田鐵山 ( 少將 參謀本部第二部長 )
陸軍部内ノ少壮將校ヨリ從來崇拝ヲ受ケ 且ツ 實力ニ於テモ眞崎ヲ凌グモノアリト稱セラル

安藤利吉 ( 少將 軍務課長)

東條英機 ( 大佐 第一部第一課長 )

( 三 ) 中立派ト目サルヽ一派

井上幾太郎 ( 大將 軍事參議官 )
 林 仙之 ?
林第一師團長
若山第三師團長
坂本第六師團長

荒蒔義勝 第九師團長
厚東第十師団團団長
?
西尾第四部長
松浦人事局長
畑砲兵監
吉岡騎兵監
杉原工兵監
岸本造兵長官
牛島 満 ?
牛島大學校長
稲垣士官學校長
大谷歩兵學校長
井上重砲兵學校長
上村工兵學校長
飯田自動車學校長
 大尉時代
澁谷伊之彦 戸山學校長
山田通信學校長
松木第十四師斷長
広瀬所沢飛行學校長

現代史資料4
国家主義運動1
から


渡邊敎育總監に呈する公開狀

2018年04月10日 05時02分25秒 | 眞崎敎育總監更迭

大眼目  第三號増刊
渡邊敎育總監に呈する公開狀
 
昭和十一年一月十七日
 
渡邊敎育總監に呈する公開狀
渡邊敎育總監閣下。
天皇機關説が國體反逆の不逞思想であり、
其の信奉者が逆臣國賊であること、
從って是れは斷じて芟除せんじょせざるべからざるものであることは、
今更此処に申述べるまでもない。
一木喜徳郎、美濃部達吉、金森徳次郎氏等が、
彼等を庇護し 支持する同質の勢力系統等と共に
擧國的彈劾を受けていることは固より其の所である。
然るに近時
「 陸軍に潛む天皇機關説信奉者を芟除すべし 」
「 渡邊敎育總監こそ這個の不逞奸なり 」
の 声 日を逐うて激化。
實に閣下 その人が彼の一木、美濃部、金森氏等に亜いで
 ----否、
敎育總監たり 陸軍大將なるが故に
却て彼等よりも遙かに重大に關心され彈劾されるに至ったとは、何事であるか。
新聞通信雑誌にも報道された。
國體明徴に尽瘁じんすいしつゝある諸方有志、就中在郷軍人團は續々 糺彈問責きゅうだんもんせきの態度に出でつゝある。
幾多有名無名の文書流言もとんで居る。
而して 客臘ろう九段に於て開催された全國在郷將校大會も
その動機の一半は閣下の此の問題に在ると 云はれて居る。
閣下。
傳へらるゝ事實は大體次ぎの如くである。
閣下は昨年十月三日午後、
名古屋第三師團留守司令部に於て下元司令官以下各隊長に訓示した後
懇談の席上で、
某隊長 ( 名を秘す) の
「 天皇機關説排撃、國體明徴問題に關しては、特に深甚なる注意を払ひつゝあり 」
の 報告事項を捉つかまへ來つて、次の如き意見を述べた。
天皇機關説が不都合であると云ふのは
今や天下の輿論
よろんで 万人無条件に之れを受入れて居る。
然し 之は明治四十三年頃からの問題で、
當時山県元帥の副官であつた自分は其の事情を承知して居る一人である。
元帥は學者を集めて種々研究を重ねた結果、
解決至難な問題として慎重な態度をとられ
終に今日に及んだのである。
同じく國體問題でも南北朝正閏
じゅんの如きは 簡單に片付いたが、
機關説問題は數十年來の難問題で到底解決するものではない。
機關と云ふ言葉が惡いと云ふ世論であるが、自分は惡いと斷定する必要はないと思ふ。
御勅諭の中に 「 朕を頭首と仰き 」 と仰せられてゐる。
頭首とは有機體たる人間の一機關である。
天皇を機關と仰ぎ奉ると思へば何の不都合もないではないか。
機關説排撃國體明徴と余り騒ぎ廻ること、殊に軍人が騒ぐのはいけない。
然して 翌四日某隊の演習視察後、再び各隊長を偕行社に招致して
「 昨日話したことに就いて誤解して貰っては困る 」
と 前提して
前日と同趣旨のことを繰返した。
尚 伝ふる所によれば 名古屋に於けるのみならず、
其他 二 三個所でも同様の説話をしたと云ふことである。
閣下。
果して然りとせば、是れ 實に純粋なる天皇機關説ではないか。

然も單純なる機關説主張に非ずして、
御勅諭の一句を借り來って之れを曲解し奉ると共に、
自己の不逞思想を御勅諭に結びつけて誤魔化し、正義化し、
不逞思想の責任根拠を畏れ多くも御勅諭に轉嫁し、
免れて恥ぢなからんとするものではないか。
朝野、就中陸海軍及在郷軍人が特に關心重大事として盡瘁しつゝある
國體明徴を陸軍の樞機に在つて逆まに誣妄するものではないか。
閣下。
軍隊内務書綱領四に曰く
軍人精神ハ 戰勝ノ最大要素ニシテ其ノ消長ハ國運ノ隆替ニ關ス 
而シテ 名節ヲ尚ヒ廉恥ヲ重ンスルハ我武人ノ世々砥礪セシ所ニシテ職分ノ存スル所
身命ヲ君國ニ捧ケテ 水火尚辞セサルモノ實ニ軍人精神ノ精華ナリ
是ヲ以テ 上官ハ部下ヲシテ常ニ軍人ニ賜リタル勅諭勅語ヲ奉體シ
我國ノ萬國ニ冠絶セル所以ト國軍建設ノ本旨トヲ銘肝シ
----苟イヤシクモ思索ノ選ヲ誤ルカ如キコトナカラシムヘシ----
軍隊敎育令總則第十五ニに曰く
國總ノ特長就中皇室ト臣民トノ關係ヲ明ニスルハ 忠君愛國ノ信念ヲ鞏固ナラシムル所ナリ
故ニ教育ニ任スル者ハ----自ラ研鑚ヲ積ミ修養ヲ重ヌルト共ニ 特ニ時世ノ變遷ニ伴ヒ
之カ教育資料ノ準備ニ遺憾ナキヲ期セサルヘカラス
實に 「 我國國體ノ萬國ニ冠絶セル所以 」 「 國體ノ特長就中皇室ト臣民トノ關係 」 と 云ふ。
其の點の重點は、欧米國家思想に於ける君主が國家の機關たり人民の公僕たるに對して、
日本天皇が斷じて然らざる所に存する。
然して 「 國運ノ隆替ニ関ス 」る 軍人精神の正大鞏権なる養成の最大条件とは、一に此の國體の信認體現にある。
即ち國體明徴は軍人の生命であり本務であるのだ。
敎育總監たる閣下は此の 「 教育ニ任スル者 」 の 中に於ける臣下最高の當局者であり 天皇の輔翼者である。
閣下にとりて 「 身命ヲ君國ニ捧けて水火尚辞セサル 」 「 軍人精神ノ精華 」 を發揮すべき
「 職分 」 とは、正に此の國體の一大事を天皇親率下の全陸軍將兵に
明確徹底して教育することにあつた筈である。
過去に於て解決至難の問題であったと仮定しても 「 特ニ時世ノ變遷ニ伴ヒ 」
十分に對処すべきものである筈である。
然るに彼の説話の如くんば、
閣下は其身陸軍大將とし敎育總監として、其の職分を盡さゞるのみか、
逆まに國體の大義健軍の本旨に背いて之れを惑亂し、日本臣民就中日本軍人にとつて
國運隆替に關する至極の大事たるべき國體明徴の努力盡瘁を讒誣ざんぶ阻止する者である。
軍隊敎育令は軍令第二號、軍隊内務書は同第九號を以て發布せられたる軍令事項である。
然して軍令とは 「 陸海軍ノ統帥ニ關シ勅定ヲ經タル規定 」
( 明治四十年九月十二日發布、軍令ニ関スル件第一條 ) である。
閣下の言動が教育令内務書等に背いて居る時、
そは明かに統帥を紊り軍令に違反せるものであつて、
陸軍刑法第五十七條に規定せる 「 上官ノ命令ニ反抗シ又は之ニ服従セサル者 」
即ち 抗命罪中の最も重き犯人とならねばならぬ。
況や機關に非ざる天皇を機關なりと誣ひ奉つて居るをや。
公然人の名誉を毀損したる者は罰せられ、上官を侮辱したる者は罪あり。
多数部下將校の面前に於て、大元帥たる天皇を誣妄せりとすれば、
閣下は單なる統帥紊亂違反たるのみならず、
實に由々敷き不敬の罪責を負わねばならぬことになる。
閣下。
吾々は閣下に對して斯かる不敬の妄信不逞の行動を敢てする筈はあるまいとも考えた。
只、之れを裏書するかの如き事例を一 二承知して居るが故に、
断じて一笑に附し去ることは能ざる者である。
閣下は昨年七月空前の大紛糾を惹起した林陸相の眞崎敎育總監更迭事件の時、
陸相の招電により帰京途中、
新聞記者に對して車中談を試み
本來人事異動は大臣が責任者で立案した上
參謀總長 敎育總監は只その決定に參与するだけで何等の權限もないのである。
だから今度の処置については大臣が自分の責任を全うするについて障碍があれば
これを斷乎として取り去るのは當然で、この點 軍のために大いに喜んでいる。

( 七月十七日東朝々刊、原文の儘 )
と 言明して、
統帥權の確立保全のために 大正二年八月勅定を經たる省部關係業務担任規定中の人事々項、
及び其の細部覺書を無視する態度をとり、
皇軍私兵化統帥權干犯の疑惑極めて深き陸相の行動に絶對的支持を表明した。
此の勅定規定は、當時山県元帥副官たりし閣下が内部的一當事者として
立案の理論的根拠も制定の事情經緯も十分御承知のものであつたこと、
機關説研究に關して當時の山県元帥の行動を承知して居るのと同様である。
( 昨年車中で話さなかつたのは御自分等のために都合が惡かったからであらう。)
「 大臣の意見通りにならぬことは斷乎として取り去るのが當然である 」
と云ふ閣下の思想行動こそが、大臣が皇軍を私兵化して統帥權を干犯する恐れがあるが故に、
制定され勅定を經た此の規定なのである。
故に特に重要なる將官人事に就て
將官ノ人事ニ就テ内奏スル場合ハ參謀總長及敎育總監ニ協議ス
とされたのだ。
三長官の人事こそ此の規定の重點であるに拘らず、此の規定外であるなどと云ふ驚くべき曲解を以て、
兩者と協議して其の同意を得ざるに此の規定を蹂躙して更迭を決意し、
上奏宸慮を煩わずらはし奉るに至った陸相の行動が、 上天皇の神聖を憚らず統帥權を輕んじ
皇軍を私斷する不逞のものであつたのだ。
( 意見一致せざる協議は協議せざる狀態と見做すのが協議の法的意義である。)
實に此の規定は勅定を經て統帥に關する内容をもつ 「 公布せざる軍令 」 である。
閣下こそは之れを曲解し蹂躙した陸相の行動を是認礼讃し 而して敎育總監の後任に就いたのだ。
閣下の心事是くの如し。
故に就任後僅かに十日、七月二十七日陸軍砲工學校初年度巡視の際、
同校食堂に職員學生を集めて
陸軍大臣を中心として團結することを要す
と 訓示をしたとのことも首肯される。
是れ不用意なる天皇機關説以上の不臣思想の表明ではないか。
( 右の訓示は印刷配布に際し、此の一節を妥当ならずとして學校當局が削除したと云ふことである。)
憲法に
「 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 」
 とあり、
軍人勅諭に
「 朕は汝等軍人の大元帥なるそ 」
と 仰せられ、
「 夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは 其司々をこそ臣下には任すなれ 夫大綱は朕親ら之を攬り
肯て臣下に委ぬへきものにあらす 」
とも 仰せられ
「 下級の者は上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ 」
とも仰せられ、
軍隊内務書綱領一にも
「 軍ハ天皇親率ノ下ニ皇基ヲ恢弘シ國威ヲ宣揚スルヲ本義とす 」
と 大書してある。
大臣中心思想は、天皇を無視し奉る恐るべき不逞である。
閣下。
如是の事例は閣下が如何なる思想信念の所有者であるかを物語るものである。
世俗、此人にして此事ありと云ふ。
名古屋に於ける説話の如き、正に事實を疑ふ方が野暮かも知れない。
然も閣下は十一月特別大演習陪観に際して腕節の強さうな憲兵子を同伴してゐた。
是れが所謂派閥云々の或る立場に於て、或る種の豫想ある特異的存在の人物であるならば、
永田事件の後でもあり亦止むを得ざるものになきに非ずとして恕すべき點ないでもない。
此の點に於て、幸か不幸か、閣下はまだ夫程問題視とさるゝ底の人物ではない筈である。
然らば果して何が故であつたか。
無論名古屋問題に出發したる閣下自身の身邊警戒である。
嗚呼、閣下。
彼の問題が事實無根又は相違あつて、世上群議彈劾することが誤りであるならば、
何ぞ斯かる処行動に出づるの要があらう。
殊に身を以て君國に殉ずる本領とする軍人ではないか。
正々堂々として闊歩大踏すべきである。
脛に傷もつ人物が得てして犯す所の此種処置を、閣下如きまでが敢てするとは何事である。
疑はれても致方はない。
閣下は、凡て事實に非ず、相違誤解ありと申さるゝかも知れない。
然り。
吾々も亦 忠信り之れを折望する者である。
然らば閣下は、誤解され彈劾されつゝあることの眞相を率直に全軍全國民に公明にして、
自身受けつゝある逆臣國賊の疑惑、皇軍の浴びつゝある汚辱を一掃し、
動揺しつゝある國民を安んぜしめねばならぬ。
否1
先づ 閣下に伏して事情經緯を上聞し、斯かる大疑惑を受けたる不臣不徳を恐懼俯謝せらるべきであらう。
事は閣下自身の私的些事に非ず。
敎育總監陸軍大將たる帷幄の重臣渡邊錠太郎その人が、
畏れ多くも天皇に對し奉り國體に對して放ち打つた言動が 不敬不逞か否かの至重至大なる問題である。
純忠赤心の存する限り、寸刻と雖も 猶豫放任する能はざる所の事態ではないか。
々は囂々ごうごうの究明彈劾の國論に對して、
閣下が已に三月以上沈黙して何等の処置に出でられざることに深刻なる不満を抱く者である。
閣下。
美濃部氏も一切の公職を辭した。
金森氏も挂冠した。
一木氏も辭意を決していをる。
「 名節ヲ尚ヒ廉恥ヲ重ンスル 」
軍人精神は臣子股肱たるの本領に於て、
彼等よりも遙かに潔く鮮やかなる出処進退を要すと信ずるものである。
此処に至つては 區々たる事實の有無眞否ではない。
謹で茲ここに所見を披藶ひれきして 閣下の御心扉を叩く者である。
文辭礼にならはず、只衷情を諒とせられんことを。
恐惶再拝。


磯部浅一 「 統帥權干犯の事實あり 」

2018年04月09日 14時43分36秒 | 眞崎敎育總監更迭


磯部浅一 
憲兵訊問調書
昭和十一年四月十三日
東京衛戍刑務所に於て

永田事件に於て、統帥權干犯の事實ありと信ずるに至つた經緯、
蹶起青年將校と眞崎大將 及 平野少將との關係
竝に 柳川 乃至 眞崎内閣説を生むに至つた由來につき述べよ

私は昨年十二月末、
同志村中孝次 及 小川三郎の三人で、古荘陸軍次官を其官舎に訪問いたし、
「 今回眞崎大將が敎育總監を罷免せられましたことは統帥權干犯の事實がある様ですが、之を如何に見て居られるか 」 
と 御尋ねましたら、次官は、
「 眞崎大將が辭表を提出して居られたら、統帥權干犯といふが如き事實はないだらう。
 眞崎大將御自身から辭表を御出しになつたのだ 」 ・・次官
と 云ふ御答へでした。
私は翌日か翌々日に、小川三郎と共に眞崎大將を御宅に訪問し、御尋ねしましたら、
「 辭表は最後迄出さなかつた 」 ・・真崎
といふ御答へでした。
小川三郎は、此時は演習視察か何かでこちらに出張しておりました。
此時はニ、三十分位で辭しましたが、外には別に話をいたしません。
本件が統帥權干犯であると申すことは、
昨年七月二十日、當時早稲田大學の服務將校でした平野少將に、其お宅で私は直接聽きました。
此時の話の内容は、當時怪文書がこれにつき出ましたが、夫と同様なことであります。
即ち、軍閥、重臣閥の畫策により眞崎大將は教育總監を罷免されたと書いてあります。
尚、此時、平野少將の談話の内容を申上げますと、
(一)、七月の統帥權干犯事情は、林、永田両將軍の私情にて爲された疑惑が深く、
 參謀總長宮殿下に對し、南、林、稲垣三郎、建川、永田等が、眞崎派をたゝきのめすために策謀したらしい。
此策謀の一端は、七月十二、三日頃、三長官會議の席上にも表れておる。
即ち、席上、殿下は、
「 眞崎大將は事務の進捗を妨害するのか 」
と 云ふ きつい御下問があります。
(二)、七月十六日、林大臣は三長官會議決裂直後、自動車を駆り葉山に參られ、
 上奏されたのです。
其内容は甚だ畏いが、想像しますに、三長官會議の協議不成立の事情掩蔽えんぺいし、
眞崎大將を辭めさせねばなりませんと云ふことであつたみとを考へますと、統帥權干犯の事實は明瞭であります。
(三)、更に疑惑の根拠として、林、永田、軍務局員二、三人 及 根本大佐等が、
 會議三、四日以降の言動につき、歸納することが出來ます。
七月十日前後、此人達の言動に基き、其思想につき併せ判斷したのであります。
永田少將の統制思想は我國體に相容れぬものであります。
之に關し、七月十日か十二日に、陸相官舎と思ひますが、林閣下と眞崎閣下の問答内容は次の様なものです。
 眞崎大將
「 統制の中心思想は何でありますか。
 私は國體精神から發する軍人精神に統一せなければならないと信ずる。
夫は相當幅の広いものである。
此の広い幅の内に色々の人を含んで居るが、
我國體に背かない人であるなら皆許してやるべきものであると考へる。
此意味で秦中將を第二師團長から辭めさせることはいかんと信ずる 」
右は當時問題になつて居りました秦中將を待命にすると云ふ林大將の案に對し、
眞崎閣下が極力反對されて爲された言葉でありますが、
之を聴かれた林閣下は 「 ギャフン 」 と參られ、遂に本音を吐かれ、
「 實は南と永田の策謀でねー 」
と申された。
恐らく林陸相は永田少將を伴ひ朝鮮視察に參られた時、南閣下との間に爲された策動と思ひます。
眞崎閣下はそこで、
「 そんなら、永田を馘首すればよいではないか 」
「 永田は秦より惡いことをしておる。其證拠は私が持つて居るから見せてやらうか 」 ・・< 註 >
と申されました。
以上、(一)、(二)、(三) 共、私は平野少將閣下より聽きました。
私は之を信じます。

次に申上げますのは、眞崎大將は靑年將校に會ふのを大變きらつておられました。
私が小川三郎と共に前述の如く眞崎大將を訪問いたしました処、
閣下は 「 直接俺のところへ來てはいかない 」 と申されました。
軍の統制を紊すからとのお懸念からと思ひます。
平野少將が九州へ赴任せられましてからは、眞崎閣下の近況を知ることは出來なくなりました。
眞崎閣下は閣下として獨歩して居られ、統帥權干犯を主因として敢然立つた相澤公判には、
私共より以上に其持つ使命について眞劍であつたと思ひます。
私は何もかも、刀の外には解決の望みはないと信じ、刀を抜いたのであります。

次に、早淵中佐と私の關係は、
私が近歩四の次級主計をしております時、中佐は經理委員首座をしておりましたので、知つております。
本事件關係では何も關係はありません。
又、事件前中佐殿を訪問したことも、会つたこともありません。

次は眞崎大將と蹶起將校との關係であります。
閣下は、靑年將校より尊敬されて居りました。
巷間よく眞崎大將により煽動を受けて立つたと申して居りますが、之は靑年將校を見縊った話であります。
私共の行動は信念により決行しましたので、煽動によりやつたのではありません。
閣下の偉い処は斷行力があり、思想、信念につき一致した點があるからであります。
將軍が恰も黒幕の様に疑惑を受けつゝある事は、洵に御氣毒であります。
私共が煽動によりやつたとしたら、自主的に零であります。
全國の靑年將校が眞崎閣下を見る処は、期せずして一致して居ります。
平野少將を通じて見た眞崎大將も同じであります。

次に、私共が眞崎大將に時局収拾を一任したいと申す希望につき、
大分間違つてとられて居る様でありますから、一言申上げますと、
時局収拾の實行力のあるのは閣下丈で、外にないと考へました。
宇垣さんとか南さんでは駄目であります。
実は蹶起後すぐに、參謀本部の意嚮として榊原大尉が私共に傳へましたところは、
皇族内閣とか、平沼内閣ではどうだと申しましたが、皇族内閣は我國體に容れません、
平沼内閣でも若し出來たら私はすぐに襲撃しますと申しました。
眞崎大將に時局を収拾して頂きたいと申しますのは、強ち首相になつて頂きたいと申す意味ではありません。
三長官の一人になつて頂いて、早く此の時局を収拾して頂き、
爾後の処置も、私共の希望する様な社會になして頂く様にお骨折りを願ふといふ意味であります。
首相になつて頂けば、或は尚更よかつたかも知れません。
此意味は、蹶起直後の私共の心境があまりに衝動を受けて居りましたので、
よく私共の眞意が川島閣下に徹底致します様に御達しする事が出來ませんでした。
と申しますのは、丁度、私と村中 及 香田が大臣と對談して居りますと、坂井中尉がやつて來まして、
「 只今、完全に渡邊大將を殺して來ました 」
と 香田に報告し、
外には其部下が血をあびた絨衣袴 じゅういはかま を着て、「 トラツク 」上で銃を上に擧げて、
「 萬歳 」 を連呼して居り、
私共の心も殺気立て落付かなかつたから、明確に御伝ひすることは出來ませんでした。

次に、私共の心裡を述べますと、
柳川閣下と申すのも、同様の誤傳であります。
之は二月二十二、三日、村中と私が山口を訪問しましたとき、
時局収拾は 「 シツクリ 」 思想の一致した人の一人として出た名前であります。
此の運動に没頭して居りますと或る信念を持ち、外の人から見れば其心裡状態は御判りになりません。
結局、相澤中佐と同じで、法律を超越して有する一つの精神界にみ、神の様な気持ちが致し、人を殺すのも何でもないのです。
維新と申す事の内には、凡有難業苦業、流血、投獄、人を訪問して叱られて歸ると云ふ様に、
斯ることは革命家の朝飯事であり、少しも苦痛とはいたしません。
私共の決行する時の考は、
「 あとは野となれ、山となれ 」 と申す様な捨鉢的なものではなく、或一つの望を以ております。
破壊後の建設は誰か適當な人が出て、収拾して下さればよい。
其適當な人は眞崎大將を指すものではなく、實行力のある人なら誰でもよいのであります。

次に、私共が蹶起迄如何なる処置を執りしやといふことを申上げれば、
如斯して立つより外に方法がなかつたことが判るのであります。
私共は、幾度か上司や要路者に各種の手段を盡して來ました。
五 ・一五事件、神兵隊事件、三月事件、十月事件と幾多の尊い犠牲を拂つて來たのでありますが、
更に更に當路者は反省の實が擧らず、軍當局は靑年將校と全く離れて存在して居ります。
之を明治維新史上の大名は志士を中心に討幕策を練つたことゝ比較しますれば、
甚だ遺憾であります。
今日の靑年將校が政治を論じ、上司に意見がましい事を申せば、直に処罰を受ける。
例へば、渡邊大將に天皇機關説につき忠告申上げれば、重謹愼を喰ふという事情であります。 ( ・・對馬勝雄 )
維新運動を阻害し、軍淨化を妨げるものは軍幕僚であります。
之を倒さねば日本は直りません。
私は參謀本部と陸軍省の全幕僚をやつつける覺悟でありましたが、
他の同志の爲め出來ませんでした。
僅かに片倉などゝ申す小者をやりましたのは気の毒であります。

次に、日本が現在如何に維新を必要とするかの一例を申します。
靑年將校が兵に話をしますと、終つてから敎官の後にぞろぞろ澤山ついて來て、
今のお話をもう少し聞かせて下さいと熱心にやつて參ります。
今回の事件を下手に処置せらるゝなら、全國的に庶民運動が起ります。
兵に對する同情は、同年輩の士官候補生出身の將校のみがよく判ります。
私共が事件決行後、何故自決せなかつたかといふ話をよくきゝますが、
そんなつまらぬ考へは私には毛頭ありません。
世人は賞讃するでせう。
然し、私共は賞められやうとか、そんな下らぬ考で國家改造運動に志て居るものはありません。
二月二十八日に、同志のものは自決しやうと申しましたが、私は之を中止させました。

山口一太郎大尉につき申上げますと、
一体に、私共は三十三期以前の人は之を別格と申しております。
山口大尉は夫で、其任務は軍上層部に対する工作を担任いたすのであります。

外に申し立つことはないか
靑年將校と眞崎大將は結託して居ると軍部内に想像しておる人もあると思ひますが、
若し此考へ方があるとしたら、今の軍部は維新階級ではなく、
佐幕階級であると申すことが的中すると思ひます。
惡口を私共に向けるものは、其思想信念に於て支配階級と同じものであります。
佐幕派に好意的な階級であります。
斯る空気がある様でしたら、日本維新の為め由々敷問題であります。
この思想が軍部内にあれば、私共は百方手段を盡して是正いたします。
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< 註 >
永田が立案作成した三月事件の計画書。
事件が未遂に終わった後、計画書は焼却することになったが、
小磯がその一部を軍務局長室の金庫に入れたまま忘れてしまい、
後任の山岡重厚が問題の計画書を手に入れたということである。

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磯部浅一
憲兵聴取書
昭和十一年五月八日
東京衛戍刑務所に於て

昨年十二月末、村中孝次、小川三郎と其方との三名で陸軍次官を尋ねたのは、如何なる関係で次官を尋ねたか
古荘次官は以前第十一師團長であつた關係上、小川三郎が良く知つており、
閣下の人物が立派であり、良く時局につき心配して居らるゝ方であるから、
一度會つて見よとの話でありましたが、其機會を得なかつた所、
小川が丁度演習の關係上、上京したので三名で御訪ねした譯です。

訪問するのは、其方等に何か目的があつたか
相澤公判の事と國體明徴問題に関して、軍の確固たる決意を促すことを目的として、
行つた様に思つて居ります。

其の時次官より如何なる意志表示が聞きたかつたか
此の儘に放て置けば血が流れることを予想したので、色々事情を申上げ、
軍の確固たる決意を聞かして戴きたかつたのです。

其の時次官から如何なる話があつたか
君達は急進的な事を考へ居るが、其れは出來ない、漸進的にやつて行かなければいかん、
と云はれました。

其の方等が次官を訪問する時の目的に考へ、右の様な答では其方等の意に満たないと思ふが、如何
全く左様であります。
次官は以前より立派な方だと聞いて居りましたが、
維新運動に対する充分なる認識を御持ちにならぬ方だと直感し、
最早話しても駄目だと思ひ、質問することを止めました。

右の様な話だけで次官の宅を辞して後、何か三人で話し合つた事はないか
山下奉文の所へ行つて話して見やうではないかと云ふ事になり、
直ちに三名で山下閣下の御宅を訪ねましたが、御留守でしたので、直ぐ歸りました。

其翌日か翌々日、小川三郎と共に真崎大将を訪問したと云つておるが、其目的は何か
次官閣下を訪問した時、次官より、
「 眞崎大將は御自分から辭表を御出しになつたのだ、云々 」
との事でしたから、其を確めに行つたのです。

右の様に真崎大将を訪問したのは、如何なる事から行く話になつたか。
確か小川は兄の内に泊つて居りましたが、私の宅にやつて來まして一緒に行つたのです。
行く事になつたのは、時期は忘れましたが、
其れより前、小川と二人で行くことに豫め打ち合しておつたのです。

右の様な考で眞崎大將を訪問し、如何なる話であつたか。
小川が單刀直入に、
「 陸軍次官を訪問した処、閣下は敎育總監更迭に関して辭表を出された
と 次官が云ひますが、「 本當ですか 」 と云つたと思ひます。
眞崎大將は、
「 左様な事を言つておるか。そんな事はない 」
と云はれたと覺へております。

右の外、何か話が無かつたか
話に前後あり、斷片的ではありますが、
「 西園寺公には會はれては如何か 」 ・・小川
「 乃公が会ふと大變な噂が出て、誤解を生ずる。
 なにしろ乃公の周囲には、ロシアのスパイが付いて居るので、非常に警戒して居る 」 ・・眞崎
私は成る程なあと思ひました。
「 七月統帥權干犯問題は、
 林大將が陛下に上奏した内容と、其方法態度が問題だと思ふが如何ですか 」 ・・磯部
「 乃公は最後迄頑張つたんだ。林は違勅である 」 ・・眞崎
と云ふ事を、非常に興奮した面持ちで話されました。
私は其処で心證を得ましたから追及しませんでした。

其方 「 七月統帥権干犯問題は、林大将が陛下に上奏した内容云々 」 と眞崎大将に云つた意味は如何
省部規定に対する違勅なることは明かである。
人事に關する勅に對して違勅した事が統帥權に對する干犯である。
陛下に上奏する時に、協議不成立の事實を隠蔽して上奏する林の自恣専斷に依つて、
渡邊大將を推薦したと云ふ場合には、明に統帥權干犯であります。
然し、右の様な事柄は、
砲工學校に於ける渡邊總監の訓示、
東日に報道せられた渡邊總監の車中談等より推察したのであります。

右の様な抽象的な事柄を基礎に推察した丈では、今回の事件に奮起する様な心境にはならないと思ふが、
他に統帥権干犯問題に関し聞いたことありや
陛下が眞崎大將の敎育總監更迭に就ては、「 林、永田が惡い 」
と 本庄侍從武官長に御洩らしになつたと云ふ事を聞いて、
我は林大將が統帥権を犯しておる事が事實なりと感じまして、非常に憤激を覺えました。

右の話しは何時誰から聞いたか
右の話は日時は判然としませんが、昨年十月か十月前であつたと思ひますが、
村中孝次から聞きました。

其の際、何か他の話はなかつたか
其の時であつたと思ひますが、
本庄大將が、「 陸軍の中央部の者が何故之れに憤慨せないのか 」
と云ふ様な意味の事を話されたと聞きました。

右のことを聞いて、其の方は何の事と思つたのか
統帥權干犯問題の事と思ひました。

何うしてそんなに思はれるのか
陛下の仰せられた 「 今度の事は林、永田が惡い 」 の話に續いての話でありますから、
統帥權干犯なる事は明瞭であると思ひます。

村中は誰から聞いたか、話はなかつたか
知りません。

村中は誰から聞いて来たのだと、其の時想像したか
恐らく山口大尉から聞いたのだと思ひました。

一月下旬、渡辺大将の事に就き話を聞いたと云ふが、其の詳細は何ふか
私が渡邊大將を辭職さして戴く様、川島大臣に御願ひに上つた時の話でありますが、
「 渡邊大將を辭職させて戴きたい。天皇機關説の信奉者であるから 」 ・・磯部
「 そんな事はない 」 ・・大臣
「 明瞭じやないか 」 ・・磯部
「 自分から辭職する様になると良いのだがなあ。
君等将校達が渡邊大将に意見を云へば良いではないか 」・・大臣
「 意見は云つて居るのだが、聞かれない。三月に變られる様にしたら何うですか 」 ・・磯部
「 三月には變らん 」 ・・大臣

其の話があつて、何と思つたか。
其時は、既に今度の蹶起の事に就き、私は決心して居りましたから、
三月に變らなければ、殺すより他に致し方がないと思ひました。

右の様な決心で行つたとすれば、大臣には何かそんな事を仄めかしたか
教育總監を更迭せなければ血を見る、と云ふ様な事を云ひました。
渡邊大將が危險だと云ふ意味であります。

右は何処で話したか
大臣官邸で、私と大臣とが對談したのです。

先きに山下少将の宅を訪問して留守であつたと云つたが、其後少将のお宅を訪ねたことありや
其の晩か其翌晩であつたと思ひますが、村中と二人で御宅を訪ね、
大体、
「 現内閣を倒さなければ駄目だ。現狀を早く打開せなければ駄目だ。 此の儘で行けば一部の将將の蹶起を見る 」
と云ふ様な事を骨子として話しました。
閣下からは、 「 其う云ふ事があるであらう。止むを得まい 」 と云ふ様な話がありました。

右の様な事柄で、其の外の方を訪問したる事ありや
村上大佐、今井閣下も御訪ねしました。

村上大佐を訪問したのは如何なる目的か
山下少將を御訪ねの時と同じ様に、私等は既に決心して居りましたので、
成可 血を見ない様に現状打開の意見を申上げに行つたのです。

其方等が其時、現状打開が出来ないとすれば、青年将校が蹶起して、
血を見るより外致し方なしと云つた時、大佐は如何に云はれたか
大佐は
「 煽動するのではないが、こえなつた以上、最早そうするより外致し方なからう 」
と 云ふ事を言はれました。

村上啓作大佐を訪問したのは何時頃か
幾度も行きましたが、最近では本年一月一人で行きました。
右に云つた様な意見は、村上大佐には何度も云ひました。

眞崎大将訪問の際の話は、前に云つただけか
其の時 小川三郎から、
「 此の儘放つて置くと、血を見るかも判りません 」
と云ひますと、眞崎大將は
「 確かにそうだ。血を見るかも判らん。
 其事に就ては各方面にも云つておるのだが、眞崎が靑年將校を煽動してる様に云ふものだから、余り言ぬ、云々 」
と云はれまして、
眞崎大將も私等の蹶起の決心を察しておる様でありました。
思ひ出しましたから申上げます。

眞崎大将を訪問して帰る時、如何なる感じを持つたか
唯勇斷な人であると云ふ事を感じた丈であります。

小川が「 血を見るかも判らん云々 」 と言つた時の眞崎大将の言に対し、其の方達は如何に思ふたか
此の人は、維新的状勢に対する認識が相當ある人だと思ひました。

外に申立つることはなきや
別にありません

二・二六事件秘録 ( 二 )  から


小川三郎 ・ 古荘次官、眞崎大將を訪問 「 眞崎大将は辭表を出してはいない 」

2018年04月08日 18時10分20秒 | 眞崎敎育總監更迭

憲兵聴取書

歩兵第十二聯隊第九中隊長
歩兵大尉小川三郎
昭和十一年四月二十三日
第一回聴取書


昨年の末 ( 昭和十年十二月末 ) 磯部と共に眞崎大將を訪問致しました事に就き申上げます。
昨年十二月末、歩兵学校 及 戸山学校の見学を命ぜられ出張中、
昭和十年十二月二十四日午後三時頃、戸山学校の見学終り、磯部方に立寄り、
磯部を誘ひ、眞崎閣下を私邸に訪問しました。
訪問時間は二十分位であります。
訪問の目的は、教育総監辞職問題に於て、閣下が辞表を出されたのか否かを確かめる為でありましたが、
確然たる御返事は得ませんでした。
私は閣下を訪問したのは、初めてであります。
右訪問後、磯部の案内で、新宿の 「 お座敷本郷 」 に於ける会合に出席した次第であります。

( 玆に於て、本件を明瞭ならしむる為め、問答する事左の如し )
眞崎閣下が辞表を出す、出さぬを確かめんとした目的は、
満井中佐の弁論の時、閣下が出されたか否かを確かめて置くことは必要であるからであります。

満井中佐に資料を提供せんとしたのか
辞表を出したと云ふ噂を聞きましたから、出したとすれば変なものになると思ったからであります。
小官が進んで弁論の資料を提供せんが為めではありません。
要するに私の気持ちからであります。

訪問を決意したのは貴官か、又、質問したのは。
小官が磯部を誘ひ、又、小官が質問しました。

返事は
「 其んな事は云へるか 」 と答へられましたと覚へます。

「 三長官会議に於て、自分は終り迄引退を肯じなかつた 」 と答へなかつたか
色々混沌として記憶致しません。

相澤事件収拾の事では
「 証人として立てる様になつたら、心から引受けて出て戴かなければなりません 」
と 申したと記憶します。

其他には
「 元老、重臣に対して、時勢をお話にならねばならぬのではないのですか。
 我々は会へませんが、閣下なら行けるでせうから 」
と 申したと覚へます。

閣下から何か云はれなかつたか
ありません。迷惑相な顔でありました。

「 もう来るな 」 と 云はれなかつたか
そんな風に言はれました。

磯部も閣下と初対面か
左様であります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
歩兵大尉小川三郎
昭和十一年五月九日
第二回聴取書


昨年 ( 昭和十年年 ) 十二月、其方が陸軍次官を訪問したることありや。
私が歩兵学校、戸山学校の見学を命ぜられて上京した折に、
昨年十二月二十三日だつたと思ひますが、私一人で陸軍次官のお宅を訪ねました。
其の目的は、古荘閣下は前の第十一師団長であつた関係上、出発前に本郷聯隊長に頼まれ、
将校集会所に掲げる額の揮毫をお願ひに上つたのです。

其時に何か時局問題等につき話してることありや
話したことはありますが、判然と其の内容に就ては覚へて居りません。

それでは揮毫を頼みに行く時、其の序に何か話して見様と考へておらなかつたか
国体明徴に関する問題をお尋ねしてみやう、と思つて居りました

右の外に磯部、村中と訪問したることなきや
十二月二十五日に、右の両名と再び次官を訪ねました。
実は其時は行き度くはなかつたのですが、村中に誘はれて、不本意乍ら三名で訪ねました。
其日は村中が以前よりお訪ねすることに就き次官に御約束して居つた関係上、三人が同道した訳です。

第二回訪問の際、次官のお宅で如何なる事柄の話があつたか
大体私は村中に誘われて訪問したのですから、其時は私からは余りお尋ねしませんでしたが、
「 今の様な内閣を倒すことが国体明徴の一番大切な事柄ではないですか。
 之を其儘にして置くと、血が流れるかも解りません 」
「 倒閣 倒閣と云つて、意味の無いのに内閣を倒すことは、軍が国民の怨嗟の的になる。
 又、血はなるべく流さない様にせなければいかん 」 ・・次官
と云ふ様な問答があり、
最後に私から、「 唯其んな気がしますから申上げます 」 と云つた丈です。
話は主として、村中がして居つたのですが、其の内容に就ては覚へて居りませんが、
主として内閣不信任案、解散等との問題に就て話して居りました。

第一回に、其方が単独で訪問したる時の談話の内容につき、思ひ出さないか
一番始めに聯隊の様子を申上げ、続いて、
「 政府の国体明徴の声明には、天皇は統治権の主体と云ふ言葉があるが、
 主体があれば客体がある事になり、国体が二元的に考へられて、
君臣一体たるべき日本の国体かに考へたら、具合が悪い様に思ふが、如何 」
「 そう主体とか客体とか言はれて、在郷軍人の声明にも出て居る言葉でもあるし、
 読流しに読んで見て、そう支障のない様な言葉である。
そう一つ一つ詮議立てゝは切りがないではないか 」 ・・次官
「 今の内閣は一木、金森問題の解決さへ出来ないのだから、国体明徴の為めには倒閣より外に致し方なし 」
「 岡田内閣も悪いことは悪いが、そう娑婆で云ふ程の事はない 」 ・・次官
「 今度の議会に、国体明徴と高橋蔵相の軍民離間の声明の事に就き
内閣不信任案を出すと云ふこともありますが、そう云ふ事が出来た時、政府が解散を決意しますならば、
陸軍としては解散反対をせねばならぬと思ひます 」
「 何故か 」 ・・次官
「 先に言つた声明に対しては、軍の立場上 之れに反対する事は出来ないではありませんか 」
「 まあ来年になつてからゆつくり考へやう 」 ・・次官
「 来年でなくて、今年の内に不信任案が出ると云ふ噂があるから、
 若しも出た時に、今の儘であつて解散に賛成したら、軍は軍自ら自殺する事になる 」
「 今の儘であつては、解散賛成と云ふ訳には行くまい 」 ・・次官
( 其の言葉の内に、一木問題等は解決する緒にあるを察しました )
「 今 閣下は陸軍次官でありますから、西園寺公とか色々偉い人の所へ行つて、
 現在の情勢を話して見られては如何ですか 」
「 そう何時も何時も行く訳にはゆくまい 」 ・・次官
「 相澤中佐の公判が来年になれば始まりませうが、其の際は徹底的に調べて戴かねばならぬと思ひます 」
「 裁判長も定まつて居るから、確かりやるであらう 」 ・・次官
「 武藤中佐はよく真崎閣下の宅へ行かれると云ふ話ですが、実際ですか 」
「 乃公は知らんが、村中なんかに言はすれば武藤の悪口ばかり云つて居る。
 統制派とか、何派とか云ふが、解らないじやないか 」 ・・次官
右の様な話を終り、閣下のお宅を辞する前に、私から、
「 国体明徴問題を確かりやらなければ、血が流れるかも知れません 」
と 云ひますと、次官は 確かりやる 」 と云はれました。

右の問答の中にム「 今の間迄つて解散に賛成したら云々 」 と云ふ事は如何なる意味か
一木、金森問題を今の儘に解決せずに放つておいて、議会の解散に賛成したら、と云ふ意味です。

眞崎大将を磯部と訪問したと云ふが、それは何時頃か。
私が第一回に次官を訪問した翌二十三日、千葉県歩兵学校に行き、
翌日戸山学校を見学して、其の帰途 真崎大将を訪問したのですから、確かに二十四日です。
第二回に磯部、村中と共に次官を訪問したのは、其の翌日の二十五日であることは間違ひありません。

陸軍次官訪問の際、眞崎教育総監罷免問題につき話があつた様に磯部が言ふが、如何
其の話は第一回に、私一人で御訪ねした時にあつた様に覚へて居ります。
確か私から、
「 眞崎大将が辞表を出しておらないのに、教育總監を罷免せられたのは、統帥権干犯ではありませんか 」
「大将は辞表を出して居られると云ふことであるから、統帥権干犯にはならないであらう 」
夫れで私は、
「 そんな事はないでせう 」 と云つて、
私の今迄聞いて居ることと違つて居るので、驚いた訳です。
右の話は、確か相澤公判に関する話の序に出たと思ひます。

右の總崎大将罷免問題に関する問答の、今迄との相違しあることを磯部に話したことがあるか
二十二日次官のお宅から帰り、直に磯部の宅を訪問して其の状況を話しました処、
磯部も非常に驚いた様子で、
「 そうかなあ。それはさつぱりだ 」
と言つた様に記憶して居ります。
尚、私は上京の序に真崎大将訪問を考へて居りましたので、其際磯部と共に大将訪問を申合せました。

總崎大将を訪問し、教育總監の辞表提出の真相を確かめることは、其時申合せなかつたのか
申し合はせたかも解りませんが、判然と覚へて居りません。

眞崎大将は辞表をお出しになつてあると次官が云はれた事を磯部が聞いて、
「 そうかな、それはさつぱりだ 」 と云つたと云ふが、夫れは何を意味するか
それは磯部等が相澤中佐の公判は
眞崎大将を中心とする統帥権干犯を骨子として進めやうと思つて居つたので、
最早や其の事実が論ぜられなくなつたため、さつぱりだと云つたと思ひます。
私もそれが事実であれば、同感であると思ひました。

十二月二十四日、磯部と二人で眞崎大将を訪問したのは何の為か
前にも申上げました様に、眞崎大将には何となくお会ひしたかつたためもありますが、
昭和維新に成るべく早く社会情勢を向はせる為には 上の方でやつて戴くことを御願したい為と、
私が上京後、次官から真崎大将の辞表提出に関し意外な事柄を聞き、
之が真否を確かめたいが為とであります。

眞崎大将訪問の際には如何なる問答があつたか
私等二人で午後五時頃御訪ねし、御宅の応接室にて、私と閣下とは次の問答がありました。
「 閣下は教育總監の辞表を出された相ですが、如何ですか 」
「 そんな事を誰が言つたか 」 ・・眞崎
「 さあ、誰と云つても、一寸聞いたのです 」
眞崎答なし。
「 相澤中佐の公判の時、証人として呼ばれたら出られるのでありますか 」
「 御許しがあれば、出なければならない 」 ・・眞崎
其時、眞崎は磯部の方に向つて、
「 永田が殺された時、君等がやつたのではないかと思つた 」 ・・眞崎
「 相澤中佐は立派な人ですなあ 」 ・・磯部
「 此の事件は重大な事だから、徹底的にやつて貰はなければいけません。
 辞表を出されたと云ふが、一体どうするのですか 」
「 俺はそんな弱い事はしておらん。
 相澤は命迄捧げたんだが、俺は其処迄行つて居らんが、そんな弱い事はしておらん 」 ・・眞崎
「 国体明徴問題とか今度の相澤公判がうまく行かないと、うつかりすれば、血が流れるかも知れません 」
「 それはそう云ふ事になるかも知れんが、
 俺はそんな事を云ふたら若い者を煽てゝ居る様に云ふから、どうも困るのだ 」 ・・眞崎
「 それでは、閣下が西園寺公とか、其他の偉い人を訪ねられて、一般の社会情勢を云つたらどうですか 」
「 そうだな。然し、俺の今迄の経験では、そんな話をするのには三時間もかゝるのだが、
 老人が三時間も聞けるかどうか解らんからなあ 」 ・・真崎
「 然し、そんな事は当然やらなければいかんではないですか 」
「 まあそうだな 」 ・・眞崎

眞崎大将に対する右の問答に於て、社会情勢に就ては尚詳細に説明せなかつたか
右の問答の程度以上には説明しませんでした。

其方は前に陸軍次官を二回訪問した時も、社会情勢が此の儘に放任せられると、
血を見るかも知れんと云つておるが、それは何して左様な事を言つたのか
国体明徴問題がやかましいと言はれ、相澤公判が尖鋭化するの傾きがあり、
国内一般の空気から見て、此儘にすれば何となく血を見る様に判断せられて、
そんな事はでかしたくないから言つた丈です。

眞崎大将に西園寺公訪問等を勧めたのは如何なる考へからか
西園寺公等に、右に言ひました様な現在の一般社会情勢を充分に知つて戴き、
真に輔弼の責を尽して貰ふ様にしたい考へから申上げたのです。

其の様な考へは、真崎大将も持つて居ることが察せられたか
それは判りません。

其方は簡単な言葉で、西園寺公訪問を勧めたに対し、眞崎大将が
「そうだなあ。俺の今迄の経験には、そんな話をするのには三時間もかゝる、云々 」
と 答へられたのは、何の事か判断し兼ねるではないか
平素から教育總監時代の閣下の訓示等を聞き、相澤中佐からも色々聞いて居つたので、
眞崎大将は充分に時局を認識せられあるものと以前より考へて居りましたので、
其の様な答も矢張り私と同じ様な考へで言はれたと直感しました。

其の方が 「 血が流れるかも知れん 」 と云ひ、
眞崎大将が それはそう云ふ事になるかも知れん、云々 」
と 言つた時、如何に思つたか
閣下は吾々の様に維新的状勢に対する時局に対し、相当突込んだ考へを持つておらるゝと思ひました。

眞崎大将を訪問して帰る時、如何なる感を持つたか
非常に立派なる御方だと感じました。

其翌日、第二回目の陸軍次官訪問の際、眞崎大将辞表提出の真否にさき、
次官と眞崎大将との言葉の創意に関して、再び訊ねはしなかつたか
「 眞崎大将は確かに辞表を出して居られません 」
と私が言つたと思ひます。

外に申立つることなきや
別になにもありません。


村中孝次 ・ 敎育總監更迭事情要點 「 私は常に正々堂々と名前を出しております 」

2018年04月08日 08時16分00秒 | 眞崎敎育總監更迭


村中孝次  
第一回訊問調書
昭和十一年四月十日
東京衛戍刑務所に於て

私は元陸軍歩兵大尉でありましたが、
昭和九年十一月二十日事件の為停職となり、
昭和十年八月五日免官処分となつたのであります。

お前は屢々怪文書を出さゞりしや
私は怪文書を出した覚へはありません。
私の出したものは常に正々堂々と名前を出してあります。

敎育總監更迭事情要點 はお前が出したか
その通りであります。

中々詳細に出て居るが、これは誰より材料を得たか
第一の更迭内容は、現在豊予要塞司令官、当時早稲田大学配属将校たる平野少将より得ました。
第二の總監更迭の裡に潜む事情は、従来より諸所よりの情報を綜合して作つたものであります。
誰から特に余計に聞いたと云ふ様な事はありません。

如何なる経路で平野少将より入手せしや
私は平野少将とは昭和九年初頭、特に十一月事件以来、屢々面会して居ります。
又、平野少将は眞崎大将とは同県人で、且、親交がありますので、
同少将は更迭内容を知つて居ると思ひ尋ねました。
又、知つて居なかつたならば、同少将より眞崎大将に聞いて貰ふつもりでありました。

何時頃か
更迭問題の世上に沸騰した頃ですが、月日は明確に覚へて居りません。

将官人事異動に関する 「 省部規定 」 は、如何にして知れるや。
其の詳しい内容は 「 軍閥重臣閥の大逆不逞 」 なる怪文書により始めて知りましたやうな訳で、
それ迄は私は知りませんでした。
平野少将よりは 「 敎育總監更迭事情要點 」 にある如く、
将官の人事は三長官に於て協定の上で上奏する、と云ふ程度しか聞いておりません。

肅軍に關する意見書 の材料は、如何にして入手せるや
大体私も諸情報により知つて居ましたが、三月事件、十月事件に関する事は、
菅波大尉、大蔵大尉には比較的詳細に聞きました。
又、□□少佐手記の内容なるものは、「 中のの住人 」 より送つて来ました。
それで知つた丈であります。
田中少佐が中野に住まはれて居たので、同少佐と思ひ尋ねましたが、
自分が送つたのではないと言はれました。
私は〇〇少佐の手記を出すに就ては、同少佐に其内容の違はざるか否やを確かめた後、
出したものであります。
然し、発表してよいと言ふ様な許可とか、黙認といふものは得て居ません。
独断で出したのであります。

其方に送りし「 〇〇少佐手記 」 は、如何なる方面より送附せしと判断するか
田中少佐は、
「 自分 ( 田中 ) が石丸少将 ( 満州国侍従武官長たりし人 ) に其の内容を大体話した時に、
石丸少将はそれを書いて呉れとの事で、
自分は三部作り、一部は陸軍省に、一部は石丸少将に送り、
他の一部は其後焼いてしまつた。
石丸少将ら渡したのを、持永少将 ( 当時大佐にて東京隊長 ) が借りて居つたそうだ。
それで、自分 ( 田中少佐 ) が判断するに、「 〇〇少佐手記 」 なるものは、
持永少将が借りた時、それを持永少将か秦中将かゞ印刷して配布したのではないか 」
と 言つて居りました。
又、世上私が直接或は間接に持永少将より材料を得た様に言ふ人がありますが、
これは全く誤りであります。 

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村中孝次

第二回訊問調書
昭和十一年四月十三日
東京衛戍刑務所に於て


相澤事件の一因を為した統帥権干犯事実を知つた経緯、真崎大将を内閣の首班として主張した顚末、
眞崎大将と蹶起青年将校等との関係につき述べよ
昨年十二月中、平野少将から次の様な事を聴きました。
 昨年 ( 昭和十年 ) 八月の人事異動の事前に
眞崎大将は林陸相から相談を受けなかつたばかりでなく、
陸相は眞崎大将に勇退を迫られました。
其理由は、「 眞崎は佐賀閥を作り、軍の統制を阻害してをるから、軍部内全体の輿論として、眞崎大将の勇退を望んでおる 」
と 云ふのである。
之に対し、眞崎大将は陸相に、
「 閥など作つたことはないし、軍の統制も紊しはせぬ。
 軍の輿論であるから教育総監を辞めよとのことは、即、下剋上の思想に基くにより、辞めない 」
と 申されて、林陸相に反対された。
「 寧ろ軍の統制を紊しておるのは永田である 」
「 私は其材料をもつて来るから、あと二、三日してから も一度会見しやう 」 ---
眞崎さんは申されたが、翌々日三長官会議が突然開かれ、席上前と同じ様な議論が反復された。
林陸相は形勢が不利となると、「 宮殿下の御意図である 」 と 押しつけた。
眞崎大将は事態重大と考へたから、永田を其儘許せないと信じ、
第二回目の長官会議に大詔は、
「 永田を辞めさせよ 」
と 主張し、眞崎さんは最後迄自分が辞職することに反対しました。
三長官が陸軍将官の人事を決定すべき規定なるに不拘、
第二回の三長官会議後、直ちに陸相は上奏御裁可を仰ぎ、大将を罷免しました。
右は平野少将が、眞崎大将から直接聴かれた事実であります。
蹶起後、陸相官邸で時局収拾の為め眞崎大将を押しましたのは、
荒木は五相会議の失敗其他凡て試験済で、要するに実行の人でない、
今此場に此荒木さんを呼んで一言居士をやられたらたまらない、
といふので、呼ぶことはやめて頂きました。
眞崎さんの方はより実効的でありますから、此方に時局を収拾して頂こうと思ひ、
眞崎さんに一任するといふ同志の考であります。
陸相官邸軍事参議官の会議には中心点がありません。
陸軍大臣は頼むに足りません。
同志の信頼に足る人、又、我々の行動も亦事態と共に収拾して貰ふと云ふて、
同志相談の上一決しました。
私自身としては眞崎さんよりも、もつと若い人の方がよいと思ひました。
眞崎さんは平素軍部内に不平が多いから、
内閣の首班とか陸相とかになつてもだめかも知れないけれども、
時局を収めるだけの実行力は有しておると思ひました。
しかし、今申上げた様に、必ずしも眞崎内閣に執はれる要はないのですが、
大将は陸軍の一致を見出すことが出来るから、総理になれば一番よいと思ひました。
私共の同志に 「 別格 」 と申すものがあります。
これは合法運動に依り改造をやる案の方で、直接行動には反対して居ります。
山口大尉などはこの別格で、私共の思想には共鳴はして居りますが、
直接何もかも打まけて話をする迄は行かないものもあります。
平素はこの別格は、軍上層部と吾人間を斡旋してくれる担任をして居ります。
この外、別格には、
松平大尉、    柴 大尉、
などあります。
松平大尉のところには、私の方から相談に出て行くことがあります。
其の人物には敬服しております。
柴大尉は改造運動に興味を持つて居りますが、
身を入れて迄やると云ふ程の人ではありません。
平野少将はよく理解ある先輩で、維新に対しては熱烈な考を持て居ます。
しかし、維新の方法につきましては、
皇道精神を基調としまして、飽く迄穏健な方法を執られる方であります。
次に、
眞崎大将を最近訪問しましたのは一昨年で、月日は不明であります。
平素は私共が参りましても、大将は会つて呉れません。
眞崎大将の意中がこうだから、我々青年将校が蹶起するのせないの、
如何に行動すると云ふ様なことはありません。
私共はそんな人の意中により動く様な人間ではありません。
大将の意中を忖度した様なこともありません。
私の眼からすれば、党派的のことはありません。
柳川閣下と申す様なことは、私共の間には始めから出て居りません。
私共が次期内閣を誰にするといふ様なことを、平素論じた事はありません。
呉々も此度の事は全く私共丈でこつそりとやりましたことで、外へは一切連絡などはありません。
相澤事件が起つた直接の原因は、( 永田氏天誅 ) 統帥権干犯の確立にあります。
即ち、重臣、財閥の重圧による統帥権干犯を排除するにあります。
私共は相澤公判が如何に展開され様とも、之に依つて国内改造は出来ないと信じます。
せいぜい少し位の粛軍は出来るとも思ひました。
しかし、満井中佐は其の公判に依り、昭和維新の確信を持つて居られたのですが、
私共は中佐と議論こそは致しませぬが、公判を通じては出来ないと思つて居りました。
満井中佐は元来直接行動はきらつて居ります。
石原大佐や橋本大佐と結合して、革新をしたいといふ持論の方であります。
之は、昨年あたり何回も満井中佐にお会いして、よく其気持は私共には判つて居るのであります。
私は香田大尉から、眞崎大将は相澤公判の証人に立つて確信を徹底的に述べるといふことを聴きました。

真崎閣下に時局を収拾して頂くといふことを、具体的に述べて見よ
眞崎大将を中心にして、即、三長官も外の軍事参議官も皆 眞崎閣下に一任して、
蹶起部隊の行動 及 爾後の時局を収拾して頂く考であります。
大将なら吾々の精神もよく判つてくれるし、蹶起部隊をさげるにしても、
政治工作してあと我々の志は活かして呉れるだらうと、
莫然とそう考へたので、時局収拾を一任したいと申出たのであります。
眞崎大将のお宅には一昨年二回参りました。
内一回は玄関丈けで帰り、一回は一時間半ばかり話をしました。
又、大将は教育總監時代、国体明徴に関する訓示を出されたので、
之れを見たり、 ・・・リンク→『 国体明徴 』 天皇機関説に関する真崎教育総監の訓示 
又、間接には平野少将からも眞崎閣下の人物をお聴いたし、
我々の考と同じと云ふことは
思想信念 ( 国体に関する ) に関して同じであると云ふ意味であります。

平野少将と青年将校との関係は如何
蹶起将校の内で平野少将と交渉をもつものは
私と磯部でありますが、磯部は私より薄いのであります。
私は少将と十回前後お会ひして居ります。
少将の思想は笑つて国家の改造をやると云ふ方でありますが、
行動精神と云ふことは私共同志と同じであれくす。

眞崎大将と平野少将との関係は如何
両将軍は親しい間柄であつて、殊に同郷の関係から、
平野閣下はよく真崎大将のお宅に行かれると言ふことは
平野少将のお話からお聴き致しました。

外に申立つることはないか
私共は君側の奸を除くと云ふことに目的を限定して蹶起したのでありますから、
一挙に昭和維新に這入れるといふ成算は最初からなかつた。
企図を秘匿して決行を可能ならしめる為め、細心の注意を必要としました。
此の関係で、今回の事は決行した同志丈の相談で、
夫以外のものと広く連絡することは控へたのであります。

二・二六事件秘録 ( 二 )  から


三長官会議・眞崎大将の手控

2018年04月07日 20時46分06秒 | 眞崎敎育總監更迭

眞崎甚三郎関係書類綴


眞崎大将の手控
押第四十二号の三一
其の一、    昭和十年七月十二日
                三長官会議に於て述べたる意見
抑抑よくよく皇軍をして事の今日に至らしめたるもの、
実に三月事件に発するものにして、其根底は全く皇軍将校の思想問題に懸る所たり。
三月事件は当時国内政情に刺戟せられたる皇軍中央部将校が、
部外革新分子と相応じ、政変を惹起せしめ首相に時の陸相宇垣大将を擁し、
革新的政事を行はんと企図するものにして、皇軍としては断じて許すべからざる行為たり。
幸にして御稜威の光に拠り其発動に至らずして終れりと雖も、
此策謀の結果は皇軍思想の上に重大なる影響を及ぼし、再び十月事件の策謀を見るに至れり。
当時、皇軍の一部は挙国支持の下に、満洲の野に皇威発揚の戦に従ひつつありしに因り、
之れが為皇軍の信望を失するの不利なるを察し、敢えて科罰の処断に出でず、
之れを善導し其思想を改禍遷善せしむるの方途に出でたりしなり。
然るに、是等将校の部外者との関係は容易に清算すべくも非ず、
互に彼此相作用して皇軍にして部外者批判の渦中に投ずるに至れるものなり。
真に皇軍をして時難打開の中核たらしむるの責を全からしむる為には、
奉公の一誠に集中する皇軍の結果を強化せしむるを以て唯一の道となす。
然り而して此の結束を固むるの道は適正なる人事を措いて他に之れを求むべからず。
然るに、一昨日陸相が小官に語りたる如く
「 陸軍が現状に立ち至りたるは南大将 及 永田少将の策謀する所にして
満州より帰京後 稍稍
強化せる徴あり 南大将は陸相をして火中の栗を拾はしむ 」
と云ふ事は 小官も或は然らんと疑ふ節あり。
何となれば今回の異動 数ケ月前より、高級文官方面より頻々として伝へられたる風説
並 小官が五月熊本に滞在中 或筋の少佐、大尉級の将校が述べありし事が、
今回の異動案に奇跡的にも符号するを以てなり。
陸相自身に於て斯の如く策謀を認めつつ其人事を断行するに於ては、
皇軍の前途痛心に堪へず、今回の人事は諸種の情況上 一段の慎重を要す。
然るに小官は未だ的確なる所見を述べ得る如く準備整ひあらず。
人事の事務は成る可く早く決定することは可とすること勿論なりと雖も、
此の重大なる問題を事務の為一、ニ日を争ふ可きものに非ず、
依て本案に対する小官の意見陳述には若干の余裕を与へられんことを乞ふ。

眞崎大将の手控
押第四十二号の三ニ
其のニ、    昭和十年七月十五日
                三長官会議に於て述べし意見
従来人事其他に関し小官が執り来りし方針と云ふべきか、
或は心掛けと云ふべきものを述ぶれば、
第一に  殿下の御徳を傷ひ奉ることのなき第一の心掛としたり。
 故に両長官の話合ひの定まらざる間に、殿下の御臨場を仰ぐ様のこと無き様にすること。
 然るに、今回其此所に至らざる前に、御臨場を仰ぐこととなり 小官の恐懼措く能はざる所なり。
第二に  軍将来の威信を保つに心すべきこと、即ち三月事件、十月事件等の外部暴露を防ぎ、
 軍内部のみにて処理する如く心掛けたり。
 従て小官が如何なる悪宣伝を受くるとも
之に対し抗争弁論することなく、 部内関係者とのみ熟議を遂げ、
時の経過と共に自然に解決する如くし 隠忍して今日に及びたり。
第三に  軍統制に関し 其実現の手段を立つること、
 即ち主義方針を明にすること。
 国体を明徴にする如く考察すること、従来の情勢を明にすることなり。

皇軍統制の基準を為すものは、皇軍精神に発したる軍人精神なり、
之に反する者は之を指導教育して正道に則らしむるは上官の任にして、
軍人精神に遠ざかること甚だしき者は之を除外せざるべからず。
人事行政に於ては、常に此精神を主とし 能力、経歴、組合せ等を考慮して、
所謂適材を適所に置かざるべからず。
陸相の著意 元より此所に存するを信ずるも、本案を見るに此根本の大精神の現はれあるを見ず。
陸相は軍の統制を強調す。
而して此統制を紊るに至りたる根本原因は、過日も述べたる如く三月事件に在りと雖も、
近時其中心を為すものは永田少将なり。
小官は必ずしも永田少将のみとは信ぜず。
或は背後に尚ほ何者か伏在せざるかを疑ひあれども、稍稍確実に認識し得るのは、
同少将は所謂三月事件の中心人物にして、其証拠 及 証人は有り余れり。
同少将の持する思想は穏かならざる所あり。 ( 肉筆の証拠は必要の際に示す )
此思想に基き陸相も承認せる如く策動しあるものにして、
彼の五十万元事件、士官学校事件の調査を進むれば
其根元を同少将に発しあることは推定し得る所迄至りあれども、
之を為さざる為 暗雲に包まれあり。

 陸軍士官学校事件 当時も軍務局の某将校は総監部将校に対し
今回は真崎の一味は見事に永田局長の決戦防備の網に陥れり、
局長は実に作戦計画巧妙なりと賞讃せり。
又 永田は警視総監を動かし小官等に監視を附し、
其欠点を摘発せんとせしも遺憾ながら恐らくは発見し得ざりしならん。
之には有力なる証人あり。
斯の如く彼の為すことは 悉く彼の根本思想より発し
之を司法処分 ( 肉筆証拠は司法処分の価値ありと信ず ) に附するには尚 深刻なる調査を要するも、
之を道徳的軍人精神的に見れば其不都合なること既に充分なり。
永田が新官僚派と通じて策動しあることは軍部 並 一般の認識する所にして、
之を処置せずして軍の統制を計らんとすることは、小官の承服する能はざる所なり。
其軍人精神を離るるの度は他の者の比にあらず。

大臣の統制案は此に両派ありと仮定せんか、
交互に一方を圧へつつ権衡けんこうを得んとするに在るが如きも、
此の如きは物品ならば兎に角、人間は益益対立を強化するに至るべし。
統制の要は一定の方針基準を以て或範囲外の者は之を排除し、
其以内の者は之を包容するの外なかるべしと信ず。
次に陸相は去る十二日に小官が原位置を去るを適当とする理由として、
小官は或種閥の中心を為す、之を除く為小官を去らしむることは陸軍の輿論なりとの論なり。
之れ甚だ謂れなきことにして、
小官が閥を忌いまわしみ厭ひしことは人後に落ちず、
人は他を悪口せんと欲せば如何様にも理由を発見し得るものなり、
小官を閥の中心と云ひ得べくんば、
要職に在る者は大小の差異こそあれ 皆 閥の中心と云ひ得べきなり。
又 予を去らしむるは輿論なりとは如何なることを根拠としたるものなるや、
大臣の周囲には特種の目的にて日々集る者は、小官を悪口せんが為にする者多く、
又 中立中正と称する者多くは主義節操信念なきを常とす。
小官の周囲に日々集る者は全然反対のことを主張す。
故に真の輿論を知らんとせば、厳正なる投票でも行はぜれば能はざることとす。
軍内に於て輿論云々を口にすることは慎まざるべからず。
斯る思想は下剋上の風を生ずる最大の原因たり。

次に小官が派閥的の人事を行ふとの評あるが、
仮令 小官に万一斯る誤りたる考ありしにせよ、小官の権能は軍全般に及び得るものにあらず、
人事は凡て三長官に於て協議の上決定せるものなれば、
小官にも勿論責任ありと雖も 人事の主なる責任は寧ろ大臣にありと云はざるべからず。

以上述べたる所は枝葉のことなり、
抑抑よくよく教育総監の地位は
一、教育総監は 天皇直隷にして教育大権の輔翼最高地位に在り。
二、其人事上に於ける地位は、省部担任規定 ( 上奏御裁可のもの ) に明示せられあり。
 陸軍大臣 及 参謀総長との協議に参与する権能を附与せられあり。
三、右権能は 陛下の教育大権 ( 即ち統帥大権の一分派 ) 輔翼者として附与せられたるものなり。
四、教育総監の地位は総監以外よりの示唆はありとするも、
 結局 大御心を拝する総監自身の処決によるの外 動かすべきものにあらず。
 之を紊る時は軍部の建制を同様せしむべし。
五、陸軍大臣は上奏せる省部協議事項に基き、三長官の協議纏らざれば、
人事の決定を為し得ざる所に統帥権の確立存するなり。
、三長官の意 合致せざるに強て之を決行するは
是れ 陛下より協議することを定められあることを無にするものにして臣道に背反する所為なりとす。
七、然るに之を一方意思に於て決定せられ、総監の要求する人事と相容れざる結果、
 総監をも除かんとするは、建軍の大義に反する所為にして、将来大なる禍根を胎すべきものなり。
 教育総監として職を辱ふしある以上 軍の為同意する能はず。
 本問題は参謀総長に関する問題の起る場合に於ても然り。
八、陸軍大臣、参謀総長、教育総監
 何れも一方意思のみに依り強硬的に人事が決定せられざる所に皇軍の本義存し、
 統帥大権 ( 即ち 教育大権も亦然り ) の確立全きを得るなり。
九、聖慮を安んずる道は、三長官の円満協議纏まる範囲に於て人事が行はるべきものなり。

最後に附加すべきものあり。
天皇機関説問題、議会に上りし以来、
政界特に三、四の大臣級の者よりして 小官を退かしむることは現政府の最高政策の一にして、
斯る工作行はれつつありとて 屢屢注意を喚起せられしありが、
爾来此風説日々伝播し、
昨今に至りては政界に関係を有する者の定説確信と称しても差支なき程度に至れり。
小官が機関説問題に関し訓示したるは 其当時の状況之を必要としたるにより、
大臣と協議し参謀本部にては次長とも協議せしめて発したるものなり。
・・・リンク→『 国体明徴 』 天皇機関説に関する眞崎教育総監の訓示 
国体を明徴にすることは軍人軍隊教育の基礎なり。
此精神こそ国防力の根底を為すものなり。
之なくして何の軍備充実ぞや。
今や共に結束して国体を明徴ならしむることに渾身の努力を要する秋に方り、
小官と数十年来同思想を以て貢献し来りし大臣が、
小官に関する些細たる悪宣伝を以て此非常時に際し、
小官の転職を迫るが如きは小官の了解に苦しむ所なり。
若し世評の如く夢にも政界の事情に依り軍の人事が影響を受くるか、
或は仮令一時誤解にもせよ斯る感を一般に与ふる如きことありては、
我光輝ある皇軍に千載の汚点を附するものにして其結果如何になり行くものなりや。
一真崎の進退に関する軽易なる問題にあらず、
本問題を強行せば大臣は 勅裁の協定を無視することになり、
其位置に留まることを得ざるべし、
大臣留まらずして何人が統制するや、
思ひを玆に致す時 上 陛下に対し奉り恐懼の至りに堪へず。
大臣は更に熟考せられ、
周囲の感情其他枝葉の問題に捉はれたる説に惑はさるることなく、
大義大局より達観せられんことを乞ふて已まざるなり。


眞崎大将の手控
押第四十二号の三三
其の三
覚 ( 相澤公判の承認として立ちたる場合に述ぶる為 )

内容は ・・
『 相澤中佐公判廷に於ける陳述要旨 』 ・に依る

眞崎大将の手控
押第四十二号の三四
其の四、三長官会議意見資料
一、本職〔真崎〕 は教育の重職に在り。
二、皇軍の人事は亦軍隊教育上の観点よりも之を取捨するを要す。
三、之れ最高人事は三長官に於て協議するの規定慣例ある所以なり。
四、故に本職は人事上教育面の最高者なり。
五、夫れ故本職の地位は 大元帥陛下の御意を拝して自ら決定すべきものなり。
六、万一にも総監の地位にして陸相の意のままに動かるる如きことあらんか、総監存置の意義は滅却す。
七、陸相には動もすれば政界空気の浸潤するあり、故に統帥系統の独立は絶対に之を死守せざるべからず。
八、之れ本職が原位置を敢て離れざる根本なりとす。
九、若し夫れ本職にして教育上 及ばざる点あるに於ては他の要求を待たず自ら其職を退くべし。
一〇、殊に現下の如く思想混沌として皇軍精神の浄化未だ充分ならざるものあるときに於て然りとす。

眞崎大将の手控
押第四十二号の三五
其の五、三長官会議意見資料
判決
皇軍現下の情勢は本職辞職の機にあらず。
理由
一、教育總監の天職は軍人軍隊教育に在り。
二、軍人軍隊教育の至上目的は皇軍精神の確立強化に存す。
三、現下皇軍精神は未だ充分に確立強化せられあらず、其の適例は、
1、皇軍人事が南大将、永田少将の策謀に依ると称する陸相の言、
 軍司令官が人事行政に容喙ようかいし、軍務局長が之に参与するが如きは司々を弁ぜざるの行為なり。
2、三月事件以来瀰漫びまんし来りたる下剋上の風潮今尚息まず。
 陸相は人事を為すに当り其理由として斯の如くせざれば部下の統制採れずと称す、又事実然るべし。
3、三月事件当時の中心人物永田少将要位に在り、大臣の言にして真ならば
 南大将と通謀して人事に容喙したるが如し。
4、陸軍高級人事を協議すべき一人たる教育総監に対し、
 陸相が辞職を迫るが如きは非皇軍思想の最大なるものなり。
 元来我軍高級人事は参謀総長、教育総監、陸軍大臣 三人の協議事項と為したる所以のものは、
 統帥大権確保の大精神に立脚して人事の公平を期せんとの 大御心なりと拝察す。
 特に動もすれば政党其他外界の空気に左右せれるる陸軍大臣の専断を
 防止せんとの深慮に出であるものと信ず。
 陸相の要望に依り総監が常に其地位を左右せられが如きことあらんか、
 将来の禍根を生ずること大なり。
四、陸相の要求は陸相の真意にあらずと信ず。
 蓋し陸相は今日迄に常に 荒木、真崎、林三人にて
 軍の大事を負荷すべきを誓言し来りたるものなればなり。
 其一人たる小官に辞職を迫る、他に陸相を動かすものなくんばあらず。
五、現下皇国の情勢は内外共に混沌たるものあり、
 為に軍も亦其波動を蒙り諸事紛糾を見る、
 従て小官に対する非難も亦大なりと雖も、至誠奉公の一点に於て絶対に欠くる所なきを確信す。
六、今や三長官は確乎不動の意思に依り皇軍精神の浄化に努むべきなり、
 之れ 陛下に忠なる所以の途なりとす。
七、粛軍の根本は三月事件の清算に在り、三月事件は法的に之を論ぜずと雖も、
 皇軍人事の上には皇軍精神浄化の観点より逐次之を処断すべきものと信ず。
 尤も特に改過遷善の跡顕著なるに於ては之を用ゆるに不可なきなり。
八、然るに永田少将の如きは身軍務局長の重責に在りながら、
 軍司令官と団結して陸相をして火中の栗を拾はしめんとす、
 其思想今に至るも改まざるものと認む。
九、統帥大権確保の為 予は如何なる世評を蒙るも敢て其地位を去らざるなり。

現代史資料23  国家主義運動3 から


「 武官長はどうも眞崎の肩を持つようだね 」

2018年04月07日 04時51分22秒 | 眞崎敎育總監更迭


齋藤實内閣の陸軍大臣だった荒木貞夫大將が體調を崩したため辭任し、林銑十郎が陸相に就任した。
昭和九年の一月のことであった。
そのことが人事面などで反荒木色が強かった中央の幕僚たち及びその中核ともいえる永田鐵山に絶好の反撃チャンスを与えた。
直後の三月五日、
さっそく要の軍務局長には自他ともにその手腕を認められている永田鐵山が就任した。
統制派が林陸相を掌に載せながら人事をほしいままにし、首相は齋藤實から岡田啓介の時代へと変る。
その總仕上げでもやるかのように
林陸相、永田軍務局長というコンビは突如 敎育總監だった眞崎甚三郎大將を罷免、更迭してしまった。
十年七月十六日である。
後任の敎育總監に就いたのは渡邊錠太郎だった。
かつて齋藤瀏が旭川の第七師團參謀長として赴任していた際、大正十五年に師團長として旭川へやってきた人物である。
蛍雪の軍人というのがふさわしいかもしれない。
苦学の末、上り詰めた軍人だった。
渡邊はヨーロッパ駐在が長かったこともあろう、外國の書物を獨むのが趣味だった。
毎月の給料が丸善の支払いで消えるほどだとの噂もあった。
そんなところも國家の危急存亡を訴える皇道派靑年將校には誤解されやすかったのかもしれない。
眞崎更迭までの經緯はおおよそ次のような順序で進んだ。
陸軍將官級の人事は通常、陸相の原案があってそれを參謀総長、敎育總監という
いわゆる三官衙さんかんが ( 陸軍省、參謀本部、敎育總監部 ) の 長が協議し決定することになっていた。
この時期、參謀總長は閑院宮だったので、
陸相と敎育総監二人が相談してから宮總長に見せるというのが慣例である。
八月の定期異動人事に際して大掛かりな皇道派追放を畫策していた林陸相は、
眞崎敎育總監に相談する前に永田軍務局長と渡邊軍事參議官という同志にまず相談を持ちかけ、密かに周邊を固める工作を優先した。
永田、渡邊らの強い支持を得て林が考えた異動案は、
眞崎直系の秦真次第二師團長の豫備役編入をはじめとする皇道派錚々の一掃だった。
主なところでは、柳川平助第一師團長の豫備役編入、山下奉文軍事調査部長は朝鮮へ轉出、
山岡重厚整備局長を第九師團長に出すなど 徹底したものだった。
代わりに小磯國昭や東條英機など皇道派に睨まれていた人物の中央復歸が人事案としてまとめられた。
七月初め、
永田軍務局長とともに満洲、朝鮮巡視に向っていた林陸相は歸國するや眞崎敎育總監に會って辭任を迫った。
はたして眞崎は林が示した人事案を烈火のごとく怒りをあらわにし、
斷固として辭任はしない、秦、柳川の豫備役編入には絶對反對と言い出した。
十日に再び會談がもたれたが、眞崎は承知しない。
こうしている間に、林陸相の弱腰が周邊の心配を誘い始めたのだろう、
岡田首相をはじめ財界や元老など皇道派を危險視している方面から眞崎を追い込む作戰がとられた。
岡田啓介首相と西園寺の秘書原田熊雄が林の苦境を察し、この間に會っている。
これは重臣クラスが陸相を支持し、皇道派追放人事を期待していた證しともいえる。
例えば 『西園寺公と政局』 には 次のような記述がある。
「 林満鐵總裁も最近來て いろいろ話していたが・・中略・・なほ現在の様子では、
陸軍大臣は両兩方から責められて困っているやうである。
で、結局内閣に累を及ぼすかもしれんから、さういう場合には、
陛下から一言 「 その儀に及ばない 」 といふ お言葉があれば、
その機會に陸軍大臣は ばっさり思ひきつたことがてきるかもしれない。」
「 歸京後、十四日の朝、總理を訪ねて公爵の意を傳へたところ、
「 現に十三日に拝謁して、陛下に現在の陸軍大臣の狀況---萬一の場合についてもいろいろ申上げておいた。
とにかく陸軍大臣を鞭撻して、できるだけ一つの全幅の援助をするつもりであるから、どうか公爵も もう少し見ていて戴きたい。」
と くれぐれも 言つてをられた 」
「 十五日の朝、總理は陸軍大臣に電話をかけて、「 この際、陸軍大臣として一つの思ひきつてやつてもらひたい。
内閣の生命とか、或は内閣が幾つ倒れても、そんなことは問題ぢやあない。
寧ろこの際、八月の異動において、一つできるだけ軍の思ひきつた覺醒をやつてもらひたい。
即ち その禍根である眞崎を動かすことを主たる目的にして、
どうしてもやつてもらひたい。」 と 話したとのことで、「 非常に激励した 」 と 言つてをられた 」
こうして外堀を埋められた眞崎が辭任に追い込まれたのは十五日の三長官會議でのことだった。
林に代わって閑院宮參謀長から最後の決斷を突きつけられた眞崎は遂に抵抗をあきらめた。
 閑院宮   林陸相   眞崎甚三郎大将
相手が皇族であるから眞崎は反論の無駄を知っていた。
林陸相は會議の結果を天皇に上奏し その裁可をもって眞崎の罷免はようやく決着し、
七月十五日夕、眞崎は一介の軍事參議官となったのである。
新總監には豫定通り 渡邊錠太郎軍事參議官が補せられた。
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・・・挿入・・・
「 武官長はどうも眞崎の肩をもつようだね 」
と 昭和天皇が鈴木貫太郎侍從長に述べたことが本庄の耳に入る。
林銑十郎陸相が推進しようとした眞崎更迭案について、
本庄が 「 閑院宮總長 梨本宮元帥と善後策を協議されては 」
と 林の建議を再檢討するよう天皇に進言したことを指す。
それを受けて 『 本庄日記 』 には、
「 宮中では軍の立場を忘れて一切沈黙するしかない 」 と 述懐するに到る。

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本庄は翌十六日、天皇に呼ばれ概略、次のように問われた。
林陸相は眞崎大将將が總監の位置に在りては統制が困難なること、
昨年十月 士官學校事件も眞崎一派の策謀なり。
( 恐らく事件軍法會議処理難を申せしならん乎、
まさか士官學校候補生事件を指せしものにはあらざるべし。) 
其他、自分としても、眞崎が參謀次長時代、熱河作戰、熱河より北支への進出等、
自分の意圖に反して行動せしめたる場合、
一旦責任上辭表を捧呈するならば、氣持宜しきも 其儘にては如何なものかと思へり。
自分の聞く多くのものは、皆 眞崎、荒木等を非難す。
過般來對支意見の鞏固なりしことも、
眞崎、荒木等の意見に林陸相等が押されある結末とも想像せらる。
・・・・と 仰せられたり 」

天皇が西園寺や岡田首相をはじめとした統制派系からの情報を極めて具體的に入手していたことがうかがえる。
ただ、
「 士官學校事件も眞崎一派の策謀 」 の くだりには 本庄も驚き、
注釋で軍法會議の經緯のことを指すのだろうが、と 書き留めている。

それから三日後の二十日、
渡邊敎育總監と眞崎軍事參議官が天皇に挨拶のため參上することになった。
二人の拝謁に先立って本庄武官長は天皇に一言、願い出た。
「 新任者には 『 ご苦勞である 』、前任者に 『 御苦勞であつた 』
 との 意味の御言葉を給はらば難有存ずる旨 内奏す 」
だが、天皇はこれに不快感を示した。
「 眞崎は加藤 (寛治軍令部長) の如き性格にあらざるや、
 前に加藤が、軍令部長より軍事參議官に移るとき、自分は其在職間の勤勞を想ひ、
御苦勞でありし旨を述べし処、
彼は、陛下より如此御言葉を賜はりし以上、御信任あるものと見るべく、
従て 敢て自己に欠点ある次第にあらずと他へ漏らしありとのことを耳にせしが、
眞崎に萬一之に類することありては迷惑なり 」

と 仰せらる。
結局、本庄は眞崎が御言葉を惡用するようなことは斷じてございません、
と 申し上げたため、
眞崎にも 「 在職中御苦勞であつた 」 との 御言葉があった。
だが 本庄は日記に、
陛下は自分が眞崎を弁護しているとの ご感想を鈴木侍從長に對しお漏らしだったが、
自分は いずれにも偏してはいない、ただ軍の統一を願うだけだ、
今回の眞崎更迭人事ほど不愉快なものはない
と 記している。
この人事移動をめぐる動きは元老西園寺とその秘書原田熊雄と岡田啓介を結びつけた。
さらに 木戸、原田の宮廷側近グループと永田、東條ら統制派の接近をも促進する結果となる。
天皇に渡る情報が二・二六事件以前から既に反皇道派に絞られていたことも浮かび上ってくるようだ。
また、皇道派に通じていたため西園寺から警戒されていた平沼騏一郎樞密院副議長とともに
眞崎とも親交があった近衛文麿は、この時期から西園寺、木戸との間に距離が生じるようになる。
工藤美代子著  昭和維新の朝  から


敎育總監更迭事情要點・村中孝次

2018年04月05日 04時36分49秒 | 眞崎敎育總監更迭


敎育總監更迭事情要點

一、七月十六日夕刊に依って 「陸軍大異動斷行」に先づ敎育總監更迭し、
『 陸相部内統制の勇斷 』 を 『 突如けふ異例の發令 』 として報ぜられた。
眞崎大將を目して  『 人事異動全般に眞向から反對 』 し、
『 部内に於て朋党比周 』 して軍の統制を攪亂する巨魁であると宣傳する一方
『 空前の英斷 』 『 部内外頗る好評 』 等々盛んに宣傳謀略を以て自画自讃に努めてゐる。
一、此の更迭は如何なる經緯を辿って行はれたか、以下概要を略述する。
七月十日、從來の慣例を破り何等の下交渉的準備なしに突如陸相から敎育總監に對して、高級人事に關する折衝が開始された。
そして眞崎大將始め某々將軍等の勇退を迫ったのである。
陸相は云ふ。
『 眞崎大將は軍内に於ける或種派閥の中心人物として軍の統制を紊すを以て勇退せしむるを可とするといふ軍内の輿論である 』 と。
眞崎大將は之を反駁したるに陸相は苦しまぎれに
『 之は南大將と永田局長との策謀で、南大将は自分に火中の栗を拾はせようとしてゐる。 満洲から歸ってから此の策謀は激しくなった 』 ・・< 註 >
といひ、
眞崎大將は高級人事を事務上の都合に籍口して輕率に即決するを不可となし、
書類準備の爲め二、三日の余裕を得たき旨を告げて此の日は相別れたのである。
然るに、翌十一日、
閑院宮殿下の御召なりとて總監を招致し、直に三長官會議を開始せんとせしも、總監は準備整はざる故を以て延期を求めた。
十二日は總監から會議は延期し大臣、總監の二人で熟議の上で大體の決定案を作成したる後
三長官會議を開くことの至當なる所以を力説せるも、採用されず此の日第一次の三長官會議は開かれた。
眞崎大将は
一、總監部門に北九州ありと云ふも斯くの如きものなし、派閥の中心といふが如き事なし。
二、統制々々といふも如何なる統制原理を有するや。
 單に當局に盲従せよといふことを以て統制し得るものに非ず。
國體原理に基く軍人精神の確立によって統制を期すべし。
三、輿論といひ軍の總意と云ふは何ぞや。
 輿論により事を決するは軍内に下剋上の風を作り、建軍の本義を破壊するものなり。
四、敎育總監は大元帥陛下に直隷する親補職にして大御心によつて自ら処決すべきもの、
 軍隊敎育といふ重大統帥事項を輔翼し奉る要職にあるものが軍の輿論に依って辭める梩なし。
五、今次の異動については部外よりの干渉り。
 統帥權に對する此の容喙ようけいに膝を屈することは敎育總監の地位を穢けがすもの、
且又將來に亘り重大なる禍根を貽すものなり、一眞崎の進退問題に非ず。
六、三長官會議の上決定すべきものを陸相單獨決裁の例を開かば延いては參謀總長の地位も動揺し、
 軍の人事は全く紊亂するに至るべし。

七、所謂十一月事件は陸軍省を中心とする陰謀僞作といはれ永田少將が其中心人物なること明瞭にして、
 三月事件又永田中心に畫策せられ ( 永田將自筆の同事件計畫書を呈出 )

近くは新官僚と通謀して各種の政治策動をなしつゝある永田少將を先づ處斷するを要す。
等々と峻烈に陸相を駁論した。
陸相は是れに答ふる術を失ひ遂に決裂の状態を以て次回に譲ることになったのである。
七月十五日 眞崎大將は前述の論を繰返へして力説し、
部外の策動に乗ぜられ或は御裁可事項に背反することの不可なる所以を切言したのであるが、
陸相は、總長宮殿下の御威光を頼んで是れに耳を化籍さず、總監の辭職不承諾の儘
決裂狀態を以て第二次三長官會議の終幕となった。
斯くて即日御裁可を仰ぎ十六日眞に突如、最後まで峻拒してゐた眞崎大將は林陸相の
人事異動を妨害阻止すると云ふ惡名を着せられて葬り去られたのである。

一 總監更迭の裡に潛む事情
昭和八年高橋現藏相を中心に牧野内府を始め重臣、政財界巨頭等が集って軍部抑壓の密議を凝らしたことがある。
その理由は軍部鞏硬派の嚴存は維新機運を促進し、現状維持派から見て對外國策の遂行に委ねず
且国内不安が永く除かれざるを以て速やかに之を抑壓するを要すると云ふに在る。
而して此の目的達成の使命は齋藤内閣に負はされた。
齋藤内閣は使命を果さず倒れ、當然の結果として軍部抑壓は重臣ブロックの第二次傀儡たる岡田内閣によって踏襲された、
その手先となつて策謀し畫策したものに南、永田がゐる。
過去一年余に亘って荒木、眞崎一派の陸軍鞏硬派打倒の準備工作は重臣ブロックにより
財閥により、然り而して南、永田等に依って進められて來た。
林陸相は此事情を知るや知らずや 『 軍の總意 』 といふ掛聲につれて躍り踊って來たのである。
この趨勢すうせいに拍車をかけたものは 『 天皇機關説問題 』 に關する敎育總監の訓示とそれの上奏とである。
『 機關説 』 排撃の巨火から免れんが爲め、宮中府中を始め各方面共に陸軍正義派の制壓は焦眉の急となつたのである。
斯くて牧野、高橋、齋藤、岡田、鈴木(貫)、宇垣、永田、南と云ふ傀儡師の操る糸のまゝに林陸相の人事強行突破となったのである。
事は一、眞崎大将の更迭、二、三将軍の勇退による陸軍正義派の壓狀と云ふ問題でない、
統帥事項中重要なる人事が重臣、財閥等部外者によつて干渉され左右されたと云ふ
重大問題の發生である事に留意せねばならない。
而して更に考察するを要する事がある。
大正二年將官の人事は三長官に於て協定の上で上奏するといふ内規が出來て御裁可を經てゐる。
今次の總監更迭は總監の事理を盡した峻拒にも拘はらず、
即ち三長官の協定が成立しないのを無視して上奏御裁可を仰いだのである。
正しく大正二年の御裁可事項に反する違勅と謂はねばならない。
軍の統制をモットーとし來つた陸相が部外者に踊らせられ 『 軍の總意 』 に操られて、
違勅を敢てしてまでも強行突破を計畫的に實行したのは、自ら統制を破壊し後患を永く貽すものと云はざるを得ぬ。
一、是れを要するに統帥權に對する容喙ようけいと云ひ違勅と云ひ看過し得ざる重大事件、
 陸軍史に印せるロンドン條約汚点と云はなければならない。
一、而して之に維新的観察を加へるならば、
 軍内外の機關説思想の旧勢力が軍内國體思想的新興維新勢力に反撃を加へ來つたもの、
軍内維新、非維新の兩勢力は物の見事に分裂對峙して戰端を開始したのである。
斥候戰は今や尖兵前衛の戰闘開始となつた。
維新の天機は刻々に着々と動いてゐる。
維新の同志よ、文久三年八月の非常政變に次いで來つた大和、生野の義擧、禁門戰争の無用なる犠牲に痛心する勿れ
吾人はひたぶるに維新の翼賛に直參すれば足る。
維新のこと今日を以て愈々本格的に進展飛躍して來た。
深く皇天の寵恩に謝して勇奮誠に禁じ得ぬものがある、天下の事これより愈々多事。
切に同志諸兄の健闘を祈る。
七月十六日
村中孝次  

二伸
本書は同志以外に手交せざる様願ひ度、然れども宣傳戰に致されざる様積極的工作を
願ひ上候東京同志一同結束、牢固たる決意にあり。

平野少將から次の様な事を聽きました。
昨年(昭和十年)八月の人事異動の事前に眞崎大將は
林陸相から相談を受けなかったばかりでなく、陸相は眞崎大將の勇退を迫られました。
反り理由は、
「 眞崎は佐賀閥を作り、軍の統制を阻害してをるから、軍部全體の輿論として、眞崎大將の勇退を望んでおる 」
と云ふのである。
之に對し、眞崎大將は陸相に、
「 閥など作ったことはないし、軍の統制も紊しはせぬ。
 軍の輿論であるから敎育總監を辭めよとのことは、即、下剋上の思想に基くにより、辭めない 」
と 申されて、林陸相に反對された。
「 寧ろ軍の統制を紊しておるのは永田である 」
「 私は其資料をもつて来るから、あと二、三日してからも一度會見しやう 」
――
眞崎さんは申されたが、翌々日三長官會議が突然開かれ、席上前と同じ様な議論が反復された。

林陸相は形勢が不利となると、
「 宮殿下の御意圖である 」
と押しつけた。
眞崎大將は事態重大と考へたから、永田を其儘許せないと信じ、第二回の長官會議に大將は、
「 永田を辭めさせよ 」
と主張し、眞崎さんは最後迄自分が辭職することに反對しました。
三長官が陸軍將官の人事を決定すべき規定なるに不拘、第二回の三長官會議後、
直ちに陸相は上奏裁可を仰ぎ、大將を罷免しました。
之は平野少將が、眞崎大將から直接聽かれた事實であります。
 
< 註 >
昭和十年八月一日夜、
陸軍省整備局長の山岡重厚中將が林銑十郎陸軍大臣と會談し、
「 眞崎大將はなぜに免ぜられたるや ?」
という山岡の質問に對し、
林大臣は
「 南、永田の工作にして その他 稲垣次郎中將 ( 閑院宮別當 )、鈴木荘六大將 ( 前參謀總長 )、
 植田謙吉、林弥之吉中將らより總長宮に申し上げ、
殿下は眞崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、總監を免ずるだけとせり 」 
と返答した。・・・菅原祐 『 相澤中佐事件の真相 』


昭和の安政大獄

2018年04月03日 04時28分09秒 | 眞崎敎育總監更迭


安政五年九月から翌六年十一月にわたる一年余日は
間部詮勝、長野主膳、目明し文吉等が井伊大老の手足となって志士の大彈壓を強行した年で、
勤王志士にとりては切羽痛憤の時期であった。
昭和九年九月以降に進められている現代幕府の實質上の中心である陸軍では、
安政の大獄以上の策謀がなされている。
陸軍省軍務局長永田鐵山が間部詮勝だとすれば、武藤章、片倉衷は長野主膳、
目明し文吉の役を演じた者に彼の勇名な辻政信その他の者があるといえよう。
  

安政第一次斷獄
カーキ色の服を着したモダン詮勝は、
井伊の懐刀長野主膳と秘かに靑年將校の彈壓を企圖していた。
主膳は全國靑年將校の動靜を探知する洋りと凡ゆる陰險な策謀をめぐらしていた。
第一に
荒木、眞崎、林の忠誠將軍を陥れるため
「 荒木派將軍等が靑年將校を駆使して陰策をなせり 」
というデマを飛ばして
「 水戸老公御謀叛 」
と 宣傳した。
その第二は
才媛に非ざる愛婦を仲立にして或は神楽坂の待合梅林に、
或は築地の河内屋に、
錦水にダラ幹右翼浪人中谷某等を懐柔せんとしたること。
第三は
目明し文吉を京洛の地に非ざる市ヶ谷士官學校に於て密使つして使ったこと等々。
密計は日を追って着々進行し
安政第一次斷獄の日 昭和九年十一月二十日の早暁は來た。
主膳、文吉等は闇を衝いて橋本大夫の門をたたいて急を告げた。
斯くして遂に數名の將校士官候補生を代々木の獄に投じ終ったのである。

安政第二次斷獄 ( 昭和十年四月、五月 )
詮勝 ( 永田 ) は第二次斷獄を強行すべく後藤公卿 ( 新官僚 ) と密謀し、
昭和十年暴力團狩りに籍口して一切の愛國運動者
特に天皇機關説 ( ロンドン條約派が中堅である ) 排撃の尊皇討幕派彈壓を大々的に斷行した。

第三次斷獄陰謀
永田鐵山の渡満、永田は今第一次第二次彈壓を終り、大老井伊 ( 宇垣及び南 ) に満鮮でその復命をしている。
間部詮勝安政五年九月入京するや九条関白(井伊と極めてよし)の辭職を停めて内覧を復し、
近衛忠熙 ( 勤王派 ) の内覧を免じ、關東奏上の道を聞き以て勤王公卿、討幕志士の大彈壓を策した。
永田の渡満は恐らく八月の定期異動に於いて尊皇討幕派軍人の第三次彈壓を行い、
佐幕派に軍の統制の權力を与え、
これを以て尊皇派水戸の老公の去勢を圖らんとするのであろう。
噫、天下これより益々多事ならんとす。
憂國赤誠の士は如何なる彈壓にも抗して維新の大道を勇進せねばならぬ。
今や維新の敵は財閥でも政党でもなく、
軍閥の亜流末流たる軍部幕僚の一群であるということを、
天下憂國の士に告げて置く。

昭和十年六月頃、
西田税、村中孝次、磯部浅一らによって青年将校に激発した所謂怪文書


軍閥重臣閥の大逆不逞

2018年04月01日 04時23分16秒 | 眞崎敎育總監更迭


軍閥重臣閥の大逆不逞

天皇機關説を實行し皇軍を
乱し
維新を阻止し國家壟断ろうだん
体破壊を強行せんとする
逆謀--
天人倶に許さゞる七 ・一五統帥權
干犯事情--國民總蹶起の秋 !


大眼目 昭和10年7月25日

軍閥重臣閥の大逆不逞
天皇機關説を實行し皇軍を撹亂し維新を
阻止し
國家壟断國體破壊を強行せんとす
逆謀 = 天人共に許さざる七 ・一五統帥
權干犯事情 = 國民總蹶起の秋 !


一、七 ・一五の經過

一、暦日經過
六月十六日、林陸相永田軍務局長等満鮮旅行より歸京。
新京にて南司令官京城にて宇垣總督と懇談したるは周知の通りである。
七月八日、宇垣總督入京。
七月十日、午前八時半宇垣總督陸相訪問。
十時半より陸相、眞崎教育總監と人事協議。
陸相は突如總監の辭職を迫った。
「 眞崎總監の勇退は軍内の与論である 」 と。
總監の論駁に對し陸相は苦し紛れに 
「 之は總長宮殿下の御要求である 」
「 之は實は南大將と永田軍務局長の策謀であって南は自分に火中の栗を拾はせようとしてゐる。
 満洲から歸ってからこの策謀が激しくなつた 」
と 弁解し
總監は同意せず
且 永田少將等に關する參考資料準備の餘裕を得たき旨を述べて別れた。
午後三時 陸相は杉山參謀次長を招致し對策を協議した。
七月十一日、陸相は總長宮殿下の御召なりとて總監を招致し
直に三長官會議を開かんとしたが總監は準備整はざる故を以て延期した。
七月十二日、午前八時
總監は陸相と會見して二人熟議して大體成案を得た上改めて會議を開くことの妥當なる所以を力説した。
陸相は別に次官及び次長人事局長等を招集して對策を練り、午後一時三長官會議を開催を決した。
席上總監は、
1、統制々々と云ふも如何なる原理によるや、單に當局に盲從せよと云ふ意味の統制は眞の統制に非ず、
 國體原理に基く軍人精神の確立によつて統制するを要す。
2、与論と云ひ軍の總意と云ふは何事ぞ
 与論により事を決し總意の名に於て事をなすは軍内に下剋上の風を作り
統帥の本義に背き建軍の本旨を破壊するものなり。
3、教育總監は大元帥陛下に直隷する新補職にして大御心により自ら処決すべきもの、
 軍隊教育と云ふ重大統帥事項を輔翼する重職にあるものが与論云々に依って辭める理由なし。
4、今次の異動方針については外部よりの干渉あり
 統帥權に對する此の容啄に膝を屈する事は辱職にして且 將來に重大なる禍根を遺すものなり、
一眞崎の進退問題に非ず。
5、三長官會議の上決定すべきものを陸相單獨決定の例外を開かば延いて參謀總長の地位も動揺し
軍の人事は全く政党政治の如く紊亂し私兵化せん。
此の爲に親裁を經たる業務規程あり陸相の態度は統帥權の干犯を惹起する恐れあり。
6、所謂十一月事件は陸軍省を中心とする陰謀僞作と云はれ永田少將がその中心人物なる事明瞭にして、
 三月事件 亦 永田が有力なる關係者 ( 永田自筆の計畫文書提示 )
最近は新官僚と通謀して 各種の政治策動を爲しつゝある統制攪亂の中心たる永田を
先づ處斷するに非ざれば他の一切の人事は価値なし。
況や 今次の人事の原案が永田中心に作られつゝあるに於てをや、
等々陸相を論難し、陸相は終に答ふる事能はず決裂狀態を以て散會。
七月十五日、午後一時第二次三長官會議開會。
總監は統帥大權中 特に重大なる教育大權の輔弼者として重要性、
人事に關する親裁規定等を切論したが總長宮殿下の御威光を頼む陸相は之に服せず、決裂して三時半散會。
陸相は既定の策戰で直に山陰地方出張中の渡邊大將に招電を發し
三時四十分自動車を駆つて當日行幸遊ばされたばかりの葉山御用邸に參内し眞崎罷免、渡邊後任を奏請して七時歸京した。
渡邊大將は同夜浜田發。
七月十六日、午前九時四十分
陸相、首相を訪問し懇談し十時半閣議を中途で抜け出して杉山次長帯同、總長宮殿下邸に伺候。
此の時豫め梨本元帥宮を招ぜられて御同席あり。
豫定の如く經過を言上して御了解を求め奉つた後、
陸相は昨年の白上事件の辭任問題を繰返す如く 懐中から辭表を取出して總長宮に供覧し、
宮が必要なしと申されるのを待って再び懐中した。
兩元帥宮は直に御同道參内遊ばさる。
午後一時半總監更迭發令。
最後まで正論を持して譲らなかった眞崎大將は陸相の人事方針を妨害かると云ふ惡名を着せられて罷免された。
七月十七日、渡邊大將は早朝熱海で待合せた人事局長から車中で經過報告をうけつつ着京。
八時 陸相を訪問 官記を受けた。
陸相は人事異動について意見を問ふた。
新總監は
「 萬事君のする事に異存なし 」
と 答へ、
會見時間僅か五分にして別れた。
皇軍將校の人事は之で決定したのである。
十一時總監は總長宮に伺候した。
午後一時定例軍事參議官會同あり。
更迭問題に就て荒木大將其他より峻烈なる意見の開陳あり。
誤まれる陸相の方針態度を痛烈に指摘し永田少将等の陋劣ろうれつなる策謀を難じ
肅軍は彼等を先づ処斷するにあるを鞏調し、
三月事件に關する永田が作案した 宇垣内閣を鞏請し奉る自筆の計畫書を一同に提示した。
満座唖然として陸相は弁明に窮したが、一旦打切り午後六時散會した。
七月二十二日、午後二時陸相參内々奏。
異動の内令を發す。
一、宣傳機關の操縦
1、六月二十日頃全國の書店停車場売店等一齊に 「 軍部の系派同嚮 」 と 稱する小冊子が發売された。
 宇垣、南、小磯、建川、植田一派を礼讃し林を支持鞭撻し永田、東條等をその中心部として論じ、
荒木、眞崎、秦、柳川等を徹底的に非難した。
某々新聞班員等が永田等の内意を受けてした仕事と言はれ、今次異動の準備宣傳だと見られてゐる。
2、七月上旬頃から根本新聞班長は各新聞通信社の政治部幹部に働きかけた。
 三長官會議、軍事參議官會同の紛糾した時は一々歴訪して諒解を求め、御用記事を依頼した。
3、永田の直系武藤中佐、池田、片倉兩少佐は東日、東朝、讀賣を中心として各社記者方面に露骨に策動した。
 一人當たり五百圓乃至三千圓を使用されたと噂されてゐる。
各新聞社が何れも軌を一にして 「 軍部の系派動嚮 」 と 同一内容を以て中央部を支持し弁解する提灯記事を満載した。
十七日東日朝刊の 「 更迭事情 」 の 如きは 陸相が同日午後軍參會同で説明したと同一の内容章句が
其儘出てゐるとまで言はれてゐる。
内令發令後二十三日朝刊は一齊に中央部を弁護し、小磯、建川、東條の不運、松井の引退を惜しんでゐる。
4、永田少將は之より先き七月上旬參謀本部に機密費三百四十萬圓を要求して一蹴されたと云ふ。
 結局本省から出したとも云ひ折柄上京中の宇垣總督から出されたとも言ひ伝へられてゐる。
5、要するに宣傳機關の宣傳は全く彼等の爲めにするもので眞相の陰蔽は勿論不純極まるもので信を置くことは絶對出來ない。
 此の爲に醜惡な策動かせ行はれたことも事實である。

二、 七 ・一五は統帥權干犯皇軍私兵化である
大正二年八月 大元帥陛下の御親裁を經て決定實施した
省部關係第十一條將校同相當官の人事取扱ひに就ては左記各号に依る
(一) 將校同相當官の任免進退補職に關する事項 及び 抜擢候補者決定の件は陸軍大臣より
 參謀總長 及 教育總監へ協議の上陸軍大臣に於て取扱ふ
(二) 事務の敏活を計る爲め陸軍大臣、參謀總長、教育總監協議の上細部に關する規定を設くる事を得
一、右 (二) に依りて 昭和二年四月三長官會議に於て協定した 「人事に關する省部覺書 」 に曰く
一、當分の内將校同相當官の任免進退 及 補職は左に掲ぐるものを除くの外は參謀總長、
 教育總監に協議を經ずして陸軍大臣に於て取扱ふこと
(イ) 將官の人事に就て内奏する場合は參謀總長及教育總監に協議す
(ロ) 參謀總長所管内の者の人事は參謀總長、教育總監の所管の者の人事は教育總監より陸軍大臣に移牒す
一、右規定の軍部大臣文官制問題が与論を制せんとし爲に奏薦範囲が豫後備大、中將にまで擴大された當時、
 皇軍の重大なる人事を大臣のみで決定することは將來皇軍を私兵化する知名的問題なりとし、
如何なる場合と雖も 現役將校たるを要する統帥系統の參謀總長教育總監を大臣と同格に置きて
以て 三長官協議の上に非ざれば決定し得ざる如く大臣を抑制して、皇軍御親率輔翼の完全を期したものである。
一、從って林陸相の今次の処置は、此の原則に照らし明かに統帥を干犯し皇軍を私兵化するものである。
 名を軍統制に仮りて御親裁規定を蹂躙し与論を理由として重大統帥事項たる軍教育の輔翼者を恣ほしいままに更迭するとは
不敬不逞も極まると云はねばなぬ。
一、渡邊新總監が帰京途中、車中談を試みて曰く
「 本來人事異動は大體が責任者で立案した上、
 參謀總長 教育總監は只其の決定ら參与するだけで何等の權限もないのである。
だから今度の処置については大臣が自分の責任を全うするについて障碍があれば
これを斷乎として取り去るのは當然で この點軍のため大いに喜んでゐる 」 ( 十七日東朝々刊 )
彼は旅行出發前に陸相と後任内約を陰謀してゐた形跡あるのみならず
信念に於て陸相と同腹の不敬漢であり、自ら總監たるの職責を知らざる人物である。
学舎肌の君子人と云はれてゐるが
武蔵山部屋などを舞台とし角力趣味に隠れて姑息な政治的暗躍をするのみならず、
右の如き放談をする如きは皇軍の風上に立つ底の人物に非ざる證明である。
一、彼等は何事に依らず
「 一にも總長宮 」
「 二にも總長宮 」
を 以て鞏制する。
行軍動揺の禍根は正しくこの不臣の心事行動にあると云はねばならぬ。

三、 背後に潛もの――戰慄すべき皇國壟断ろうだんの大陰謀團
一、八方美人優柔不斷の後入齋である、林陸相が
( 往年の越境出兵は神田參謀等に引かれた善光寺詣であつて、林自身の受くるべき賞賛の何物もない )
 何故に大それた人事鞏行を敢てするに至ったか。
一、重臣閥と其れを繞めぐる官僚政党財閥、即ち彼の倫敦條約統帥權干犯問題を惹起した一連の亡國支配階級が、
 根本方針とする陸海軍及民間の鞏硬な維新派に對する彈壓要求である。
齋藤内閣は之を果さずして仆れた。
岡田内閣は之を繼承している。
昭和八年の秋には齋藤首相、高橋藏相を中心として
牧野内府其他政財界巨頭が軍部維新派抑壓を密議した事實もある。
一、又 此の閥族と禍福相通じて權勢慾政權慾の他何ものもなき不純不臣の軍閥がある。
 海軍々閥たる齋藤、戝部、岡田系は重臣閥に包含されて了つたが、
陸軍々閥たる宇垣、南系、小磯、建川系、新官僚に對應して
新軍閥とも云ふべき永田派は彼の重臣閥、民政系官僚、
新官僚の關係の如くに不即不難の相互依存を以て
軍内維新派に對しては重臣系を通じ、
一般國民に對しては國家革新を企圖するが如く宣傳して來た。
而して常に眼前に立塞がってその政權慾貫徹の爲には大逆不逞
( 例へば宇垣、小磯、建川、永田等を中心とし牧野内府等と通謀した議會破壊軍隊私用の三月事件 )
をも辭せざる彼等の獣慾を抑壓阻止する
所謂荒木、眞崎派を仇敵視し隙もあらば放逐せんと企圖して來た。
一、更に重臣閥軍閥を背景とし且つその脊髄せきずい部に潜んで此の一連の暗躍策動の主動部を爲してゐるのが、
 伊澤多喜男を中心とする 「 朝飯會 」 である。
元老重臣のメッセンヂャーボーイたる原田熊雄、木戸幸一、岡部長景、黒田長和、後藤文夫、唐沢俊樹、然り
而して永田鐵山等がその幹部である。
築地の待合〇〇〇などはその秘密集合の本陣である。
一、彼等の望む所は、所謂非常時の解消である。
 國體の本業を把握して君民間の暗雲たる中間の似而非支配階級を一掃して
皇道精神を實現する爲に心血を注ぎつゝある維新派の中堅たる軍部就中陸軍の鞏硬派を逆襲抑壓することである。
兩三年來、殊に永田少將が軍務局長となり後藤が内相となつて以來、
政府軍部を中心とする施設の一切は維新派の彈壓、維新派の信念たる國體本義の否認である。
策動暗躍の凡ては彼等閥族の權勢維持 進んでは國家壟断の完成の爲めのもののみである。
一、然るに天皇機關説排撃の烽火あがり國民的大運動化するや
 皇軍教育大權の輔翼者としての眞崎總監が率先して斷乎上奏し全軍に布達して機關説絶滅の鐵信を中外に明かするに遭ひ、
終に利害相結んで 「 統制淸軍に籍口する攪亂私兵化 」 の鞏行となるに至つたのである。
宇垣、南、林は永田を總參謀長として満鮮旅行中に重大なる約束を結び
重臣閥の中心人物たる齋藤氏は密會して
「 眞崎を切れば君の將來を約束する 」 と囁いてゐる。
總監更迭の翌朝齋藤氏は訪客に向って涙を流さんばかりに陸相の不逞な処置を礼讃した。
林は林内閣を夢みてゐる。
松井大將勇退に對して外務大臣を約束した。
松井は林内閣の外相を夢みてゐるのである。
一、倫敦條約に統帥權を干犯した一味であり、三月事件の大逆を鞏行せんとした一派である。
 天皇機關説の實行者である。
親裁規定の蹂躙如きは尋常茶飯事である。
國民が期待する陸相の國體明徴は結局政府をして屁の如き聲名を出さしめる程度を越えない申譯的のものである。
その國防國策も財政外交本位のものに退却譲歩することは火を看りも明かである。
藤井前蔵相が死ぬ三日前某友に云った。
「 十年度豫算編成の時 永田少將が新兵器製造費が七百萬圓是非必要だと言ったから
 國家の爲めだと信じて豫定控置して置いたが 其の後部内にも要否二論ありといふ理由で斷って來た。
蔵相としては政財窮乏の際有難い事だが 一體永田と云附男は國防豫算を減らすことに依って
何人かの歓心を買はんとする宇垣第二世ではないのかね 」 と。
林は永田の傀儡である。
嗚呼、目あるものは見よ、耳あるものは聞け。
天皇機關説の大逆思想を包蔵し實行して上は皇権稜威を凌犯して憚らず、
下は萬民を殘虐してその窮乏を顧ず、
内は皇軍を撹亂し、
外は國家を外侮に晒し維新の機運を根底より覆滅し
國家を破滅の深淵に投じても
朋党私閥の獣心を遂げんとする戰慄すべき大陰謀が着々と進行してゐるのである。
陸軍教育總監の更迭は一眞崎大將排斥ではなく反動革命の一露頭に外ならない。
皇國の非常時は外患に非ず、
社會不安にも非ず、
此の閥族のユダヤ的陰謀の進行そのものである。
皇國國民の總蹶起すべき秋は到來した。
愼んで進路を誤るなからんこと、毫
末の懈怠躊躇なからんことを祈るものである。
昭和十年七月二十五日
維新同志會同人

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