あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天劔党事件 (1) 概要

2017年08月13日 14時59分53秒 | 西田税


一、西田税 

西田税は大正四年九月広島地方幼年學校に入學し、
爾来陸軍中央幼年學校、
陸軍士官學校本科等陸軍士官學校生徒の過程を終へ、
大正十一年十月陸軍騎兵少尉に任ぜられた者である
中央幼年学校在學中より満蒙問題大亜細亜主義運動に關心を持ち、
士官學校に進み
満川亀太郎、北一輝と交わるに至り、
『日本改造法案大綱』 を讀み、深く之に共鳴した。
大正十四年六月軍職を退き革新運動に専念従事するべく上京し、
大川周明の行地社に入り、機關紙「日本」の編輯に當り
大學寮の寮監兼軍事學講師となって國家革新運動の普及宣傳に務めた。
西田は士官學校在學當時優秀な頭脳を以て校内に鳴り、信望を集めていたと云はれている。
其の西田が今大學寮に在って革新を叫び改造運動に邁進しておったので、
容易に陸軍士官學校在學中の士官候補生、澁川善助、末松太平等との交友關係を生じた。
當時の軍縮熱、軍部蔑視風潮思想的社會不安定に大なる關心を持って居った士官候補生
又は少壮青年將校は、
新しき頭脳を持って社會運動の渦中に身を投じ革新を叫んで居た西田税より、
其の解決を求め様として頓とみに接近して行った。
西田は夫等青年將校士官候補生に對し、
殆ど其の居宅を提供し
彼等は其の休暇や上京の都度自己の家の如く出入りして居ったと云はれて居る。
大正十五年頃行地社に内訌が起り、西田は大川と絶縁し北一輝の下に走った。
其の頃 代々木山谷附近に一戸を構へ妻帯したのであったが、
其の時、澁川は命を捨てて革命に當る者が妻帯するとは何事だ、
と云って西田に詰つたとの一挿話 ( 末松太平述 ) がある。

二、士林莊 
西田は行地社を出て東京市代々木山谷一四四番地に一戸を持ち、
北一輝と連絡しつつ陸軍少壮軍人に革新意識を注入し同志として獲得に努め、
昭和二年二月頃右の自宅に於て士林莊なるものを作った。
之は同人及び同人方に出入りする少壯軍人の集りに過ぎなかったものゝ様である。
但し青年將校を中心としたる最初の改造團體であった。

三、天劔党事件 
昭和二年七月、
西田税は軍部民間に於ける少壯革新的分子を糾合して、
鞏力なる国家改造團體の結成を計り
其等革新分子に天劔党規約と題した急進的革新的意識を盛った趣旨書を配布した。
其の同人目録に記載せられているのは陸軍青年將校が大部分であって、
海軍部内の藤井齊、其他民間分子の名も加わっている。
併して之等の氏名は本人の承諾を得ずして西田が獨斷にて記載したものであると云はれている。
此の計畫は直ちに憲兵隊の知る所となって彈壓を受け
天劔党は遂に其の正式結成を見るに至らずして終ったと云はれている。
急進的青年將校の或る者は之を目して西田は容易に彈壓に屈伏したと云って批難する者があり、
西田の青年將校間に於ける信望は一時衰へたものゝ如くであった。

兎もあれ 西田は以上の如く士林莊に拠り
陸軍部内に於ける尉官級の青年將校に革新思想を宣傳し夫等と聯絡を計って居った。
一方西田は大正十五年頃行地社分裂の際大川周明より離れ
北一輝と親密な間柄となり
北の思想に心酔し自ら小一輝を以て任じて居たと傳へられる。
大正十五年四月頃
西田は北より 『日本改造法案大綱』 の版權を譲渡せられ
之を印刷し全國の軍部及び民間の有志に
同書及び大正十年財閥の横暴を憤って安田善次郎を暗殺した朝日平吾の遺書等
を 頒布し革新思想の宣傳に努力して居った。
西田税の革新的思想は全く北一輝の影響に依るものであって
其の抱懐する革新手段改造方針は 『日本改造法案大綱』 そのものであった。
斯の如くにして
北の革新思想、『日本改造法案大綱』 流の改造計畫は西田税を通じて軍部内尉官級青年將校
及び之と關係を持つ民間有志の間に力強く浸潤して行った。

一方、行地社の頃に於て述べた如く
大川周明の抱く革新思想の改造計畫は大川個人の特殊な個人的親密
及び行地社綱に依って軍部佐官級以上の中堅高級將校の間に浸潤して行った。
然も その思想潮流の源泉に當る大川、北の両巨頭は相互に反目し、
相敵視して居たので
自ら 軍部側に大川系とも見るべき中堅高級將校派
と 北、西田派とも稱すべき尉官級青年將校
の 二派が同じく國家改造を目的としながら相對立するに至る端緒となった。

現代史資料4 国家主義運動1
右翼思想犯罪事件の綜合的研究(血盟団事件より二・二六事件まで)・・司法省刑事局・昭和14年
第二章第四節 から

次頁 天劔党事件 (2) 天劔党規約 に 続く


この記事についてブログを書く
« 天劔党事件 (2) 天劔党規約 | トップ | 「 俺は殺される時、青年将校... »