あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平 『 失敗もとより死、成功もまた死だ 』

2021年12月06日 19時49分12秒 | 末松太平

もし陛下がお前らの精神 あるひは
行動を御嘉納にならなかった場合は、
どうするつもりか
はい、神風連のやうに、すぐ腹を切ります
それならばだ、もし御嘉納になつたらどうする
はい、その場合も直ちに腹を切ります
・・・握り飯の忠義 


末松太平  スエマツ タヘイ
『 失敗もとより死、成功もまた死だ 』
目次
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・ 澁川善助の士官学校退校理由 
對馬勝雄中尉 ・ 残生  

・ 
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録

・ 「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」 
・ 末松太平 ・赤化将校事件 1 
・ 末松太平 ・赤化将校事件 2 

やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。
道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、
十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。
私はつづけていった。
「クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「天野中尉がいいましたよ。」
「よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。
末松太平 ・十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
・ 絆 ・西田税と末松太平
後顧の憂い 「 お前は必ず死んで帰れ 」

・ 改造方案は金科玉条なのか 
澁川善助と末松太平 「 東京通い 」 
末松の慶事、万歳!! 


私は 昭和九年十月、

千葉の歩兵学校に学生で派遣された。
派遣されるまえに渋川善助から、
この秋に東京はいよいよ蹶起するといってきていた。
私は二度と帰らないつもりで、身の廻りの整理をして青森を発った。
千葉にくると、
各地から歩兵学校にきている青年将校二十人ばかり結集して、東京の蹶起にそなえた。
が、いつまでたっても東京は蹶起する気配がなかった。
村中大尉に問いただすと
「 何かの間違いだろう 」
と いった。
私は腹立ちまぎれに
「 東京は、どうせ起つ気はないんでしょう 」
と いった。
流石温厚な村中大尉もおこって
「 起つときがくれば起つさ 」
と 私を叱りつけた。
予め たしかめなかった私も悪かった。

肝心の渋川善助は統天塾事件で収監され不在だった。
何かの間違いだろうと村中大尉にいわれ、
起つときがくれば起つさ、といって叱られれば、
そうですか、
と ひき下がるほかはなかった。
・・・悲哀の浪人革命家 ・ 西田税 

時期をきく奴はニセ者だと、むかし大岸大尉がいったことがある。
これで対馬中尉と大岸大尉の間がまずくなり、
私は間に立ってどうにも恰好がつかなくなって困ったことがある。
「郷詩会」の会合などのある前のことだった。
まだ仙台の教導学校にいた大岸中尉が、青森にでてきたので一緒に、
任官して間のない対馬少尉に会うため弘前にいった。
対馬は私たち二人を下宿につれていってもてなした。
酒はあったが新任少尉に肴といったもののありようはなかった。
対馬は、津軽味噌を焼いてそれを肴にしようとした。
かいがいしく接待につとめながら、
にこにこして大岸中尉に 「時期はいつになりますかね」 と蹶起の時期をなにげなく聞いた。
対馬のことばが終わるか終らぬうちに、大岸中尉は 「貴様ニセ者だ」 ときめつけた。
「 どうしてですか 」 と対馬が反問すると
「 昔から時期を聞くものに本物はいないといわれている。
意気地がないから、ついに時期を聴きたくなるのだ。
時期が気になるくらいなら、いっそのこと止めたがいいよ 」
といった。
対馬も腹を立ててしまった。
「 止めるよ 」 といったきり動かなくなった。
味噌はじりじり焦げて炭になっていった。
もちろんあとで、これは仲なおりできたけれど、
私からやるのかやらないのかと詰問されて、困惑を満面にあらわして、
やらない、といわざるを得なかった村中大尉が、佐藤に時期は、実行計画はと追求されて、
それを一々口述してメモすることまで許したのだから、これ以上の皮肉なことはない。
・・・
村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」

十一月二十日事件をデッチあげたは誰か 
・ 十一月二十日事件 ・ 辻大尉は誣告を犯した 
辻正信大尉
三角友幾 ・ 辻正信に抗議


・ 「 永田鉄山のことですか 」 
「 年寄りから、先ですよ 」 
本朝のこと寸毫も罪悪なし 

・ 
青森聯隊の呼応計画 『 将校がたが起つなら、おれたちも・・・・』
・ 末松太平大尉の四日間 1
・ 末松太平大尉の四日間 2
・ 
末松太平大尉の四日間 3

・ 反駁 ・青森聯隊 「 師團は我々と共に行動する體制にあり 」 
・ 反駁 ・末松太平へ西田税からの伝言 『 出る工夫をせよ 』

「 おおい、ひどいやね。おれと村中さんを残しやがった 」 

・ 昭和維新 ・末松太平大尉
西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、
大学寮にきていたのである。
案内を乞うと、 声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、 変哲もなかったが、
つづいての、
「 このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、
このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
・・・天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 

・ 末松太平 『 二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ 』


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