あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中橋基明 『 義を見てせざるは勇無きなり 』

2021年08月26日 12時13分28秒 | 中橋基明

「諸君!チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。
冬は零下三〇度にまで下がる大地です。
食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、
新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。
もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、
市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。
果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、
必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。
ですがゲリラにも遭遇しません。
これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。
皇軍は腐敗し切っているのです。
こんなことで満蒙の生命線は守れますか?
日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!
みなさん!
必要なのは粛軍!
それゆえ我々は蹶起したのです!」

・・・中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 

万民に
一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が
我々を暴徒と退けられた。
君側の奸を討つことで大御心に副う国内改革を断行する。
これらを大義とした蹶起が、なんと陛下ご自身から拒絶を受ける。
一命を賭した直接行動は、単に大元帥陛下に弓を引くだけに終わったのか。
オレの蹶起行動になんの意味があったのか。
・・・万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた


中橋基明  ナカハシ モトアキ
『 義を見てせざるは勇無きなり 』
参加の動機は如何との法務官の問に、そう答えた

目次
クリック して頁を読む


・ 昭和維新 ・中橋基明中尉
・ 中橋基明中尉の四日間 

中橋中尉は抜刀して号令をかけた
「 気を付け 前列三歩前へ 番号 右向け右 前へ進め 」

こうして前列の者が第一小隊となって出発した
途中シャム公使館のくらがりで停止、
第一小隊だけに実包が配られた

中橋中尉は実包を私ながら小さな声で
「 国賊高橋是清を倒せ 」 と号令した
・・・近衛歩兵第三聯隊七中 隊龍前新也二等兵

  雪未だ降りやまず(続二・二六事件と郷土兵)から

中橋基明中尉 「 吾、宮城を占拠す 」 
・ 朝日新聞社襲撃 『 国賊 朝日新聞を叩き壊すのだ 』 
・ 朝日新聞社襲撃 ・緒方竹虎 
中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
・ 最期の陳述 ・ 中橋基明 「 大義のために法を破ったものであります 」 

吾人は決して社会民主革命を行ひしに非ず。
国体叛逆を行ひしに非ず。
国の御稜威を犯せし者を払ひしのみ。
事件間、維新の詔勅の原稿を見たる将校あり、
明らかに維新にならんとして反転せるなり、
奸臣の為に汚名を着せられ且つ清算せれるるなり。
正しく残念なり。
我々を民主革命者と称し、我々を清算せる幕僚共は昭和維新と称するなり。
秩父宮殿下、歩三に居られし当時、
国家改造法案も良く御研究になり、改造に関しては良く理解せられ、
此度蹶起せる坂井中尉に対しては御殿において
「 蹶起の際は一中隊を引率して迎へに来い 」 と仰せられしなり。
之を以てしても民主革命ならざる事を知り得るなり。
国体擁護の為に蹶起せるものを惨殺して後に何が残るや、
来るべきは共産革命に非ざるやを心配するものなり。
日蘇会戦の場合果して勝算ありや、内外に敵を受けて如何となす。
吾人が成仏せんが為には昭和維新あるのみ。
「日本国家改造法案」は共産革命ならず。
真意を読取るを要す。
吾人は北、西田に引きづられしに非ず、
現在の弊風を目視し之を改革せんとするには、
軍人の外非ざるを以て行ひしなり。
« 註 » 
文中、維新の詔勅の原稿を見たる将校あり、というのは安藤輝三大尉のことである。
また、秩父宮殿下が坂井直中尉に対して 「 蹶起の際は一中隊引率して迎へに来い 」 と謂われたとあるが、
坂井中尉は これについて何も書く残していないので、確める術はない。
殿下との連絡将校であった坂井中尉がふと話したことが、おそらく中橋中尉に強く印象づけられたのであろう。


・ 
中橋基明 『 感想 』 
・ 
中橋基明 『 随筆 』 
あを雲の涯 (十一) 中橋基明 
・ 昭和11年7月12日 (十一) 中橋基明中尉 


昭和一一年七月一二日(日)早朝 死刑が執行される
中橋基明中尉のみは
一発、二発で落命せず、三発目にして落命した、
全身血達磨であったと謂う 
笑ひ声もきこえる。
その声たるや誠にいん惨である。
悪鬼がゲラゲラと笑う声にも比較できぬ声だ。
澄み切った非常なる怒りと恨みと憤激とから来る涙のはての笑声だ。
カラカラしたちっともウルオイのない澄み切った笑声だ。
うれしくてたまらぬ時の涙よりもっともっとひどい、形容の出来ぬ悲しみの極の笑だ
・・・磯部浅一 ・  獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」 


中橋基明 『 感想 』

2021年08月25日 05時07分57秒 | 中橋基明


中橋基明

感想

明治維新の志士をしのびて
國史を繙ひもときて 特に感を深こうするものは中大兄皇子の入鹿を大極殿に誅せし事、
次に和気清麿の精忠、次に南朝の忠臣、次に明治維新を中心とせる志士の活躍なりとす
就中 明治維新の志士に就て其傳記等を讀むに萬感交々至り、
痛く盡忠報告の念を湧起せしめらる、
此度蹶起し一死以て邦に報ゆるてふ精神は正しく維新志士より受けしもの、
蓋し莫大なるものあり
即ち 志士の難を破りし第一にして足らず、
或は刑場の露と消え 或は獄裡に憤死し 或は戰場に斃れ 或は毒刃に衂じく
或は孤島に呻吟し 或は天涯に漂泊する等 其趾惨又惨、其憂悶の情如何ばかりなりしぞ、
仰で訴へんと欲するも訴ふべきの天なし、俯して哭せんと欲するも容るべきの地なし、
徒に恨を呑んで不歸の鬼と化するあらんのみなりしなり、嗚呼
されど、果せる哉 其熱誠は空しからず、
凝結して一大変動を生じ大政復古---四海統一、制度齊整、文物燦燃、
玆に光輝燦然たる明治聖代は現出しぬ、
昔日鬱屈を呑んで地に入りし之等英霊、僅かに瞑目するを得たり、
其鞠躬盡瘁、忠烈義勇を天下に發揮し、
多年積威の覇府を倒し天日を既倒に挽回し維新の新天地を作る、其功や蔽ふべからず、
東奔西走するや妻子を捨て父母を離れ、総てを犠牲として王事に勤労す、
亦吾人の範たり
志士の折にふれて、或は時世として詠める歌の多き中、
いささか吾人の胸中と一脈相通るものを述べ、彼を称え己の蹶起前後の心事に及ばん
古來、和歌は其人の胸中を率直簡潔に表現せるものにして、
以て詠者の憂國の至情を知り得て余あり、言々句句深く肺腑を衝く、
之を讀み之を口誦む者誰か勤王の志を抱からん、
之等志士は明治に至りて皆贈位せられ、以て其微忠を認められしなり、
以下若干、特に感を深うせしものを記さんとす

大和の義擧に參加せる伴林光平の詠める
  時のまに茨からたち刈のけて  埋れし御代の道ひらきせん
げに昭和の御代にも茨、からたちの多きを感嘆せずんばあらず、
同じく義擧に參加せる乾十郎の歌に
  いましめの縄は血汐に染まるとも  赤きこころはなどかはるべき
正しく悲壮なり、
天忠組として蹶起せるも李らず、朝議亦変更せられ、遂に四周より攻撃を受くるに至る、
遂には十津川の人民も寝返りを打ち、勅命なりとて之を誘ひ討つ、
天忠組の一人 水郡善之祐の謂へる
「 行けば敵丸に斃れ留れば餓死せん、
均しく死なんか雑兵の手に斃れ狼猪の口腹を飽さんよりは從容自首し、
我党義擧の由來を声明し、
以て天下後世の人をして大義名分の爲めに一身を犠牲に供したることを知らしめんに如かず 」
と言へり、
而して大和の義擧、
則ち天忠組の志士は當時大部殺されたりしも明治の大御代に至りて皆其精神を認められたり、
一方勅命として行動せし十津川の民其他各藩の攻撃軍は別に後世勤王と認めず、
これ等の事實は彼の吾人の蹶起せし時と相似たる点の甚だ多きを見るなり、
義擧に加はりし伴林光平は實に賭し五十二なりしとぞ

生野銀山の義擧に加はれる河上弥一郎の詠める
  おくれなば梅も桜も劣るらん  さきがけてこそ色も香もあれ
  議論より實を行なへなまけ武士  くにの大事をよそに見る馬鹿
同じく參加せる伊藤竜太郎の詠める
  事なきをいのるは人の常なれど  やむにやまれぬ今の世の中
其意気や誠に壮なり、
殊に 河上弥一郎の死せる其歳僅か二十一、
良く其名を後世に止めたり、
吾既に三十、人生の半ばを過ぎぬ、
などか命の惜しかるらん
桜田門の変に參加せる鯉淵要人の詠みし
  ひとすぢに國の御爲と思ひ立つ  身は武蔵野の露と消ゆとも
同じく参加せる齋藤監物の詠める
  國の爲つもる思ひも天津日に  とけてうれしき今朝の淡雪
岡部三十郎の桜田の成功を知りて詠める
  願ふより嬉しと思ふ  今朝の雪
桜田に奮戰せし彼の鯉淵は年五十一なり、
大和義擧の伴林光平と共に合せ考ふる時、吾人は徒に坐するに忍びず、
正に懦夫をして奮起せしむ、
即義により節に殉じて毫も死生を顧みざること期せしむ

顧みれば 二月二十六日より 三日間、
淡雪頻りに降りしきるあの時を思ひ、桜田の擧を思ひ、
亦同じき場所にありて實に感慨無量なるものあり、澤島信三郎の詠める
  よしあしは人のおもひにまかしつつ  御國の仇に死する大丈夫
  ながらへて浮世のはしを思ふより  いさぎよくふめ死出の旅路を
  木枯らしに散れる木葉の有りてこそ  霜ふる秋としる人ぞしる
生死褒貶ほうへん度外視せる之等の男々しき決意を見て、
吾人の心境も亦近しと感ずるなり
僧信海の獄に入りし時に詠める
  まごころを盡さん時と思ふには  うきに逢ふ身を嬉しかりける
増田仁右衛門の獄中の述懐に
  君が爲め盡ししかひも難波江の  よしもあしきと替る世の中
これ等が歌を口誦む時、今日轉た感慨無量なるものあり
青木新三郎の詠める
  朝夕に君がみためと思ふより  外に心はたもたざりしを
國司信濃の詠める辭世に
  よしよし世を去るとても我心  御國の爲に猶盡さばや
毛利登人の辭世の歌に叉り
  すめらぎの道しるき代をねがふ哉  我身は苔の下に住むとも
大和國之助の同じく
  國の爲世の為何か惜しからん  君にささぐるやまと心は
松島剛蔵の同じく
  君が爲盡す心のすぐなるは  空行く月やひとり知るらん
井出孫太郎の詠める
  捨小舟よる瀬の湖の差引きは  きみが心にまかせはててん
福岡総助の詠める
  やがて見よ曇らぬ月は九重の  みやこの空にすみ渡るらん

之等の歌は吾人の今日の心境にさも似たり、
此処に始めて維新の志士の心境を審に體験するを得たり、
以上の志士にして多くは獄中に斬らる、
されど其志聊かも屈する処なく、死するも勤王の念慮を失はず、
正を持して空しく消えし亦惜しからずや
高橋庄左衛門の絶命の歌にあり
  今更に何をか言はんいはずとも  盡す心は神や知るらん
年十九にして勤王に殉ず、
其玉砕の跡や正に大和魂の華なれや、男子すべからく瓦全を恥づべし、
齷齪あくせくとして全を求むるは世にも多きも、吾人の執らざる処たり
明治大帝、彼の高橋に従四位を贈らる、蓋し異教なりと謂ふべきも又故なきに非ざるなり
下野甚平の詠める
  身は苔の下に朽つとも五月雨の  露とは消えし大和だましひ
其烈々たるジン盡忠、心誰がたたへざらん、亦吾人の範たり
彼の水戸藩の志士武田正生は如何なりしぞ、
終始勤王の爲に盡し、
家族の男子を悉く率い水戸の變に会し、
正を持して奮闘せしも遂に幕兵の攻撃する処となれり、
力戰の後、遂に京師に上り闕下に伏して素志を訴へんとして水戸城を斷念し、
障碍を排除しつつ進軍せしも力竭き金沢藩に捕へられ斬せられて水戸に梟きょうせらる、
武田が平常の行爲たるや實に勤王そのものにして、水戸の變に於ても藩の奸党を攻撃中、
幕兵の攻撃を受くるに至りしなり、
其終始を踏みて遂に梟きょうせらる、明治の聖代に正四位を贈らるると雖、
彼が心事を思ひて一鞠の涙なき能はず、天を仰いで嘆息せずんばあらず
白石内蔵進の詠める
  魁けて散れややまとの桜花  よしやうき名は世にのこるとも
此の儀性的精神ありて志士は己を空しうして國に殉ぜしにあらずや、
亦吾人の範たり、
名もいらず 地位も金も總ては吾人に不要のものなり、
只君國の二字あるのみ
維新の志士は大部は正を持して屈せず、
獄に栲こうせられ 或は憤死し斬に処せられ 或は梟きょうせられ 其屍は徒に刑場に放棄せられたり、
而して之に至るに讒言ざんげんせられ、誣告せられ、蜚語を鞏いられ、註計に陥入れられ、
或は忌避せられしもの其の大部なりとす、
事全く無根なりとても直に官禄を褫うばい脱し 禁錮し 或は遠島となる、
何ぞ其の悲惨暴戻なる、明治維新の偉大なる程それ程、
裏面には大なる志士の血の叫びあるなり、犠牲の存在するなり、
維新亦志士の血の結晶なりと言ふも過言にはあらじ

志士たるや其年齢の上下を問はず、
弱冠より古希に亙るいやしくも勤王の志ある者總て蹶起せるなり、
身命喪とり顧ず、
されど一般に三十歳以下の者多く國事に斃れたり、
橋本佐内然り 吉田松陰然り 藤田小四郎然り、彼等にして天寿を全うせば如何ばかりならん、
國家の爲に無念と言ふべし、
楠公父子の盡忠を當時誰か知りしぞ、賊臣として埋るる事数百年、亦何をか言はん、
吉田松陰の間部閣老を刺さんとして言へる
「 もし運拙く 却て我身を失ふとも
天下の義旗打挙り 闕に赴くの首唱となり
千載の公憤を發し義を取り仁をなす道理なれば いかで命を惜まんや 」 と、
今日 明治維新の志士を偲びて萬感交々至る、
玆に思ひ出づる儘に記す

河野司著  ニ ・ ニ六事件 獄中手記遺書 から


中橋基明『 随筆 』

2021年08月24日 05時17分47秒 | 中橋基明

随筆
塞翁が馬
「 人間萬事塞翁馬 」 といふ古語があるが、

世の中は 全く此の通りだと思ふ、
自分の思ふ通りになつた 嬉しいと思って居ると、
それが不幸の原因となつてくる、
實際 世の中の事は儘にならぬ、
自分の今迄の生立を考へると正しく 「 塞翁が馬 」 である、
幸福は不幸の原因となり、
之が亦幸福の原因となつて居る、
結局人間は幸福を願ふ事が余りに強烈であり過ぎるのぢやないかと思ふ、
そして 不幸だ不幸だと思ひつつ不愉快に日を送る、
実に無駄な話である、
それから又幸福だと言つて決して之に酔つてはいけない、
幸福の裏に不幸が待構へて居る事を考へ、
戒心と過度とを失はない事が必要である

世の中に大した不自由もなく生活して居ると、

特に現代の如き社會に居る時、
人は恩と言ふものを忘れ勝である、
特に浮薄なる外來思想の輸入は益々之を増長せしめて居る、
吾人の受けて居る恩は君、國、父、師の恩のみではない、
而して
これのみにても とやかく説明をしなければ分らない徒輩がだんだん多くなつて來たのは残念であるが、
一つは世間が甚だ功利主義に流れ、
平穏で便利な 且 忘恩的な施設に基因するが、
之等を駆りて不自由な不便な境遇に入れる時、
始めて衆生の恩をつくづく感ずる事である、
自分一人自主独行して居ると思つたら大間違ひである、
吾人は一粒の米にも 百姓馳走の恩を感ずる、
まして 日常吾人をそだててくれる萬象、すべてに恩を感ぜざるを得ないのである、
太陽の無心にして無上の寄進に対しては、つくづく感謝の念を起すことである、
人間は慣れてはいけない、 絶えず 深く 己に反省しつつ 世を送る事が必要である、
しかる時 この己一個に対する衆生の恩をひしひしと感ずる事が出來るのである

「 生者必減 」 即ち 死は此の世に生を享くる者にとりて不可能の事である、

いくらもがいても時の大きな歩みは 吾人をして一歩々々死に追ひつめて居る、
この様にして 死は一日々々と近づく、
又 何時突発的の事が必要つて不意に死ぬかも知れない、
かう思ふと實に人生は たよりなくなる、 どうしたら良いか、
即ち 生き甲斐のある様にするにはどうしたら良いか、
此の生き甲斐は決して幸福を追ふ者には与へられない、
生き甲斐とは 言換へれば 死に甲斐でもある、
一つは 大きな事業をなし終へた時には もう死んでも良いと思ふ、
之が生き甲斐でもある、
只 食つて生きて 其の中に死んで行くと言ふ様な生活では とても死と言ふものを超越することは出來ない、
其の日の境遇に満足し 反省し 充實した生活をしてこそ、
亦 生き甲斐があると言へる、 人間の慾は果てしない、
之を追つたら満足することは決して無いだらう、 結局慾を追ふ内に死の中へ飛び込む事になる、
人間はよろしく笑を含んで死んで行ける境地にまで進むを要する、
死に甲斐のある様な生活をする、 死は即ち 生の完成である
善悪
時代と言ふものは面白い、
絶えず大きな歩みを進めて居る、
そして世間に善惡の物差を示して居る、
由來、 時代と言ふものは先覚者を迫害する 若干 例を述べると次の様である クリストは十字架の露と消え、
ソクラテスは毒殺せられ、 我國に於ては日蓮上人は様々な迫害を受けた、
宗教でさへも之である、 だから宗教の勃興した中世紀の西洋に於ては 科學者は極刑に遭つて居る、
之等の事實は現代に當てはめて考へると不思議に感じさへする、
これは結局、 時代の物差の寸法の異りから生ずる善惡の境界によつて生ずるのである、
今日の惡い事も 將來善くなると言ふ事を、
誰が斷言しても之を反對する事は出來ぬだらう、
時代と言ふものは得て気まぐれではある、
時代よ、
すべてに寛大であれ
感謝
じつと考へると、自分の身の上を考へると、

吾人は感謝の念が強く湧き起るのをおぼえる、
かうやつて三十年の長い間 此の世の中に生を享けて來た事を考へると、
之迄に あらゆるものから受けた恩を思ふと、実に無限大で無数である、
之等に対して只 合掌したい気持である、
只 「 ありがたうよ 」 「 ありがたうよ 」 と、萬遍となく 口の中にくりかへさざるを得ない、
實に有難い極みである、
之を思ふと涙さへ出る、
感謝の念である、
世の中一切に對する感謝の念である
名も知らぬ 真白き虫を室に見つけて 
---七・六
御仏の使なるらん
眞白なる 

小さき虫の室に居りたる
名も知らぬ
小さき眞白の虫を取り
窓辺にそつと はなちやりけり
御使の役を果して虫は今
何処ともなく飛去りうせぬ
中橋基明 

有難き事
昭和九年二月
皇太后陛下の高尾御稜へ行啓になられし際、
供奉將校として服務せり、
還御の際に御召列車中に於て 拝謁を仰せ付けられ、
畏くも 御語を賜はれり
今日の勤務御苦労様でした
實にこの世に生を享けてはじめての最大の光榮なりき
昭和九年四月 満洲派遣に際し 両陛下に拝謁を仰せ付けられ、
皇后陛下より 畏くも御語を賜れり
御體を大切に
實に有難き極なり

以上の二の有難き事どもを記し残す
謹みて 天皇陛下 皇后陛下 皇太后陛下 に 對し奉り、
此世に生を享けし事の感謝感激の意を表し奉る
謹みて而 父の恩 母の恩
此の広大無辺の兩恩の前に、靜に瞑目合掌す
不肖  孝未だ全からず、
十分に副ひ得ざりしを遺憾とす
天を仰ぎ 地に俯し 深く感謝の念に燃ゆ、
庶幾くば 多幸ならん事を祈上ぐ
天皇陛下萬々歳
昭和十一年七月十一日終之

絶筆
只今最後の御勅諭を奉讀し奉る。
盡忠報告の至誠は益々勃々たり、心境鏡の如し
七月十二日午前五時

永別
五月雨の 明け往ゆく空の 星のごと
  笑を含みて 我はゆくなり
いざともに まだ見ぬ道を 進みなん
  御空の月日 しるく照せよ
身は竝に 消えゆくとも永く 我が霊は
  残りて國に なほ盡さなん
國のため いたせし赤き 誠心は
  風のたよりに 傳へらるらん
身は此処に 消ゆくとも永く 我が霊は
  残りて國に なほ盡さなん
憂き事の かゝらばかゝれ 此の我が身
 鏡に清き 心やうつらめ
春寒み 梅と散りなば 小春日の
 菊の花咲く 時も來つらん
三十歳の はかなき夢は 醒めんとて
 雲足重く 五月雨の降る
身を捨てゝ 千代を祈らぬ 益荒夫も
 此の世の幸は これ祈りつゝ
今更に 何をか言はん 五月雨に
 唯濁りなき 世をぞ祈れる
今此処に 世をば思ふと すべなきも
 なほ心にする 黒き浮き雲
大宮の 御階の塵を 払ひしも
 なほぞ残れる 心地こそすれ
降りしきる 五月雨やがて 晴れゆきて
 宮居の空は 澄みわたるらん
昭和拾一年七月十一日  中橋基明

河野司著  ニ ・ ニ六事件 獄中手記遺書 から


万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた

2021年02月20日 11時35分50秒 | 中橋基明

 
大元帥天皇陛下 


中橋基明中尉の死

近歩三聯隊長、
園山大佐は 中橋基明の叛乱参加の責任を負って退任したが、
その後任聯隊長、
井上政吉大佐は 七月一一日同隊の中橋を刑務所に訪ねた

中橋には家族以外は ほとんど面会人がいなかった。
近衛師団の事なかれ主義者のお利口さんたちから見れば、
中橋基明の名はすでに抹殺されたに等しい忌避すべき存在であったろう。
聯隊で中橋を慰問することが知れれば白眼視されかねない。
その点、名古屋六聯隊から転入した井上は大柄でどこかヌーボーとしていた。
中橋は明日 処刑されることを知っていた。
この日、すでに昼食に菓子と果物が特別に出る。
全員が入浴させられ、新しい獄衣が支給された。
これが刑務所側からのサインだった。
そして面会所には立看板が用意される。

明日一二日は、日曜日で面会できません 

「 園山聯隊長殿は、いかがされたのですか ? 」
「 辞職退任した。貴様のせいだぞ 」
「 貴様の中隊は宮城を一時たりといえども反逆占拠した、近衛聯隊史で最大の汚点だ 」
「 反逆などそんな・・・。
蹶起目的の帷幄上奏にあたっては大御心のご判断を仰ぎ、
いかようにも身を処す所存でした。
その場でハラを切れと申されるなら覚悟は出来ておりました。
しかし上奏は叶いませんでした。
奉勅命令で本来の大御心が曇りました 」

「 貴様、陛下がどれだけご軫念あそばれたか、考えたことがあるのか 」

「 決して天皇陛下に弓を引くことを企図した訳ではありません。
ただ君側の奸を取り除き天皇を戴き維新を達成する。
君主親政のお立場から帝国の窮状を御一新願う。
それが主眼でありました。
しかしこのことは詳しくは軍事法廷で申し上げることが叶いませんでした。
残念なことです 」

「 陛下は蹶起の朝から暴徒と貴様らをお呼びだったと洩れ伺う 」

「 暴徒 ?  暴徒とは、あんまりです ! 」
中橋の表情がこわばる。声が大きくなった。
「 しかし、大佐、おかしいではないですか ? 
当日深夜に出された戒厳令では、
蹶起部隊が戒厳部隊に編入を命ぜられたではないですか ? 
戒厳令は大元帥陛下のご命令ではなかったのですか ? 
それがなぜ暴徒と・・・・」

「 それはあくまで一時の方便にすぎない。
興奮している蹶起軍を鎮静化するための謀略とも云える。
陛下のご意志は戒厳令による蹶起軍の鎮圧にあった 」

中橋基明の表情が蒼白になる。
右手の拳が強く握りしめられた。
「 では我々はいったいなんのために ! 
乏しい国内資源だけでは成り立って行かない皇国。
それが満蒙に活路を見出し対外進出を果たすためには、
兵士の供給源たる農村に後顧の憂いがあってはならない。
そのために国内改革をめざしたのです。
直接行動が非合法であることは論をまちません。
もとより自刃は覚悟の上です。
しかしそれ以外に農村の疲弊を解決する方途がありましょうか ? 
腐敗した議会政治にいったいなにができるのですか ? 
それを暴徒とは・・・・」

「 貴様、政治のことは軍人が関わるべき領域ではない。
ともかく蹶起は陛下の大御心に添わなかった。
五・一五事件とは違って、恩赦をお赦しにならなかったのも陛下だ 」

「 大佐、それでは我々は犬死ではありませんか? 
蹶起の本義はまったく天聴に達していないではありませんか ! 
いったいなんのための蹶起・・・・」
中橋の整った切れ長の目元から涙が流れる。
とどめなく頬を伝った。
和服の獄衣に滴り落ち、喉元はびしょびしょに濡れる。

井上が慌てた。
少しいいすぎたかと反省する。
ハンカチを軍服の懐から取り出して渡そうとした。
だが中橋はそれを手で遮り、うな垂れて面会室を後にする。
「 中橋、明日は静かに行け ! 」
井上大佐の声が背中に飛ぶ。
・・・・

万民に
一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が
我々を暴徒と退けられた。
君側の奸を討つことで大御心に副う国内改革を断行する。
これらを大義とした蹶起が、なんと陛下ご自身から拒絶を受ける。
一命を賭した直接行動は、単に大元帥陛下に弓を引くだけに終わったのか。
オレの蹶起行動になんの意味があったのか。

まるで浅草の小屋の安っぽい喜劇にすぎないではないか。
中橋は心のなかで繰り返し反問する。
必死にもがく。
だが出口がない。
大御心
と 蹶起精神との絶対的乖離
を 事もあろうに
中橋は処刑の直前に知らされたのだった。

 

昭和一一年七月一二日(日)早朝 死刑が執行される

中橋基明中尉のみは
一発、二発で落命せず、三発目にして落命した、
全身血達磨であったと謂う

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
笑ひ声もきこえる。
その声たるや誠にいん惨である。
悪鬼がゲラゲラと笑う声にも比較できぬ声だ。
澄み切った非常なる怒りと恨みと憤激とから来る涙のはての笑声だ。
カラカラしたちっともウルオイのない澄み切った笑声だ。
うれしくてたまらぬ時の涙よりもっともっとひどい、形容の出来ぬ悲しみの極の笑だ
・・・・磯部浅一 「 獄中日記・昭和一一年八月一二日 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

眼と耳を塞がれた奇妙な架空の空間にいるカラッポさ。
その隙間を打ち破るように突然、中橋基明の口から大声でけたたましく笑いはじめた。
「いっひっひ、いひひ・・・・おっほっほ、おほほほほ・・・ワッハッハ、ハハハ・・・・」
同時に身体が力任せに激しく前後に揺さぶられる。
顔のない白い亡霊の鬼気迫る笑いだった。
射撃指揮官はまったく虚を衝かれる。狼狽した。
歩五七聯隊中隊長、山之口甫大尉(32)が慌てて白手袋の手を下す。
まごついた正射手がターゲットに銃弾を浴びせるが呼吸を乱され手元が狂う。
白い亡霊が一瞬にして真赤な鮮血で包まれるが致命傷には至らない。
さらに二発目が副射手から飛ぶ。
これも平常心を乱され心臓急所を外す。
白いターゲットは真っ赤に染まり、悲痛な声を挙げ、のたうつ。
そして正射手が必死の思いで三発目を放つと、巨大な赤いヒルに膨れ上がった。
断末魔に絶叫する。
この世のものとは思えない白日夢と云うべきか。
白ずくめの儀式は中橋の血ダルマで穢された。

鬼頭春樹 著 禁断 二・二六事件 から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

処刑後間もなく中隊内に幽霊騒ぎが起こった。
不寝番に立った誰かが見たとのことで、しかも毎晩出るというのである。
目撃者の話によると
夜中寝しずまった頃銃架のあたりを上半身の姿でさまよっているとのことであった。
そのため全員は恐怖に包まれ不寝番につく者がいなくなった。
週番士官も軍刀を抱いて寝る有様である。
これを聞いた田中中隊長は、
「 中橋中尉の亡霊かもしれぬ、中隊全員で成仏を祈ってやるのが一番だ 」
と いって
早速中隊長当番兵だった私が使約となって一ツ木町に出て線香と線香立てを買ってきた。
その日の夕方
全員が一堂に集合し線香をたてて中尉の冥福を祈ったところその日から幽霊は出なくなった。
おそらく中橋中尉にとっては中隊が何よりも恋しかったのであろう。
これは事件終了後のショッキングな事実としい忘れることができない思い出である。

高橋蔵相邸襲撃
近衛歩兵第三聯隊第七中隊 二等兵 松本芳雄 著
二・二六事件と郷土兵 から  


中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」

2019年05月12日 19時05分50秒 | 中橋基明

淀橋区諏訪町にある森邸の書斎に
書生が走り込んで来たのは日が暮れてからだった。
「 先生、蹶起部隊の占拠地帯がヤジ馬でごった帰しているそうです。行ってみませんか」
すぐにマントを羽織ると明治通りに出て円タクを拾う。
「 赤坂見附にやってくれ。行ける所まででいい」
渋谷から青山通りに入ると赤坂表町電停附近で鎮圧軍の阻止線にあう。
二六日早朝に襲撃された高橋蔵相私邸のあたりだ。
車で行けるのはここまで。
警戒にあたる兵士の襟章には数字の「3」が付いている。
蹶起した歩三の残存部隊であろう。
あたりは芋の子を洗う混雑ぶりで、森も意表を突かれる。
隅田川の花火見物並の人出とでも云おうか。
群衆が黙々とひたすら赤坂見附方向に歩いている。
雪が溶け、グジョグジュになった道路。
ゴム長靴を履いた男性が目立つ。
外気が冷えて吐息が真っ白に立ち上がる。
皆、押し黙っていた。寒いばかりが理由ではあるまい。
内心こう思っていたに違いない。
「 余計な口を叩いて私服の耳にでも入り、しょっ引かれてはたまらない。」
外堀通りに着くと、最後の阻止線が張られていた。
その先は決起軍占拠地帯だ。
土豪が積まれ重機関銃が据えられる。通りの向こう側に向けられた銃口・・・・・・。

翌二九日(土)の決戦に向けて鎮圧軍では着々と包囲網を布く。
石原戒厳参謀の指揮だ。
赤坂見附交差点には甲府の歩四九聯隊、「 幸楽 」 に対するは歩三聯隊残留組、
山王下電停には宇都宮の歩五九聯隊が布陣した。
さらに応援部隊が続々到着の手筈だ。
水戸の歩二聯隊は夜九時に渋谷駅、高崎の歩一五聯隊は同時刻に新宿駅、
さらには富士山麓で演習中の歩兵学校教導隊が零時に両国駅。
とりわけ千葉習志野に駐屯地がある教導隊は猛訓練を積んだ最新鋭エリート部隊。
両国に到着すると、
装備を背負って現場までの約一〇キロの距離を駆け足で夜間行軍、
未明までに展開を終える予定とされた。
重機九挺(うち空砲銃身三)で武装した決起軍最大の拠点、首相官邸を攻略する想定だ。

こうした緊迫感のなかでも鎮圧軍の兵士たちは庶民の行動にまでは干渉しない。
それゆえ阻止線を越えて、
永田町界隈に群衆が五〇〇〇人は流れ込む。
数は万に達したという説もある。
森が到着したのは午後八時過ぎ、
すでに現場は夕刻から常ならざる群集心理に包まれていた。
あちこちで街頭演説が行われる。
夕刻、民間人の 渋川善助 ら数名の者がきて
幸楽 前の大通りに集った群衆に対し大演説を行った。
大喝采の声が四囲に響き渡るほどの白熱的な情況であった
「明朝は皇軍相撃もやむなし!」
大群衆を前に次々に演説する蹶起将校や下士官たちの声は上ずっていた。
白鉢巻きに白襷姿の歩三大六中隊の下士官たちがとりわけ眼を引く。
天下無敵、山田分隊と書かれた大日章旗を掲げる。
山田政男伍長(20)率いる一隊だ。
尊皇討奸 と認めた赤い幟を持つ兵を従えて移動した。
そのあとをゾロゾロと群衆が従う。
あたかも街頭野外劇を俳優と共に移動しながら楽しむ観客のようだ。
大部隊が駐屯する料亭 幸楽 には、ピリピリした殺気が漲った。
赤坂見附交差点から五〇〇メートルほど溜池方向に進んだ門前には
尊皇討奸 と大書した白い幟が林立する。
軽機関銃が備えられ白襷、白鉢巻で安藤中隊の一〇名もの歩哨が着剣し厳戒にあたった。
中庭には薪火が二か所で焚かれ残雪にあかあかと反射する。

幸楽 の門前の雑踏に、一台のサイドカー がエンジンの音も高らかに止まる。
運転席には陸軍中尉の制服の将校が乗り、
横の座席には日の丸の鉢巻に日本刀を背負った若い将校が鎮座している。
上半身はシャツのままで上着は腰に巻き付け伊達ないでたちだ。
凛々しく端整な顔立ちは寒さと緊張感でことさらに引き締まっている。
たちまち黒山の人だかりとなった。
いかにも決戦の雰囲気が感じられたからだろう。
「兵隊さん!頑張って日本を良くして下さい」
どこから来たのか、乳飲み子を背負い引っ詰め髪の女が金切り声で叫ぶ。
さらに若い職工風の菜っ葉服を着た男が手を差し伸べた。
機関車の運転手か
「私たちが後ろにいますよ、応援します!」
若い将校に向かって人々は口々に訴える。どの表情も真剣でしかも輝いていた。

これが 森伝 と 中橋中尉 との最初で最後の出会いだった。
サイドカーを運転していたのは 田中中尉。
二人は明朝の決戦を前に鎮圧軍の包囲網を偵察するため占拠地域を見回っていたのだ。
この夜、無名の庶民たちの励ましで意を強くしたのだろう。
中橋は次々に手を差し伸べ握手したあと、門前に置かれたテーブルに上がる。
若々しい声で拳を振り上げながらの熱弁だった。

皆さん、最後のアピールです。
明朝、決戦が待ち受けています。
生きて永らえることは毛頭考えていません。
決死の覚悟です。
ですが私たちには大義がある!
それは腐敗した日本を壊して、明治維新に続く昭和維新を断行することです。
実は腐っているのは政治家や財閥ばかりではありません。
軍もまた腐敗しているのです。
私は最近まで北満州のチャムスで抗日ゲリラの掃討作戦に従事していました。
しかし関東軍には阿片の密売から上がる多額の機密費が流れ込み、
軍の幹部たちはこれを私的に使い込んでいるのです。
ある師団参謀長は八〇円のチップを出して飛行機に売春婦を乗せて出張したと云われます。
そうした幹部にかぎって弾丸を恐れる輩が多い。
怒った下士官兵が将校を威嚇する。
ある中隊長は部下に後から射殺されました。公務死亡で処理されています」

「ダラ幹を殺るんだ!」
「そうだ血祭りにしろ!」

の、ヤジが飛ぶ

「諸君!チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。
冬は零下三〇度にまで下がる大地です。
食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、
新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。
もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、
市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。
果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、
必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。
ですがゲリラにも遭遇しません。
これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。
皇軍は腐敗し切っているのです。
こんなことで満蒙の生命線は守れますか?
日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!
みなさん!
必要なのは粛軍!
それゆえ我々は蹶起したのです!」
地鳴りのような拍手が起こる。
尊皇討奸万歳の唸りが津波のように押し寄せて来た。

四年後の冬のことだ。
昭和一五年十一、一〇日に快晴の宮城前広場には全国から五万四千八〇〇人が動員された。
天皇皇后臨席の紀元二六〇〇年奉祝式典である。
この日の式典実行総裁は秩父宮である。
すでに胸の病気が進行し、このセレモニーの一週間後、高熱を発するのだ。
単に物理的な数で云えば、そこでの万歳三唱、これが戦前のレコードであろう。
だがその熱気、その自発性、そのエネルギーの求心力において、この晩の永田町の比ではなかった。

大半の群衆は演説中脱帽して、神妙に聞き入っていた。
「生命を投げ出してやっているのだから、聴いていて涙がこぼれる」
森伝の隣にいた老紳士は、息子の世代にあたる下士官や将校たちを前にこう呟いた。

だがこの騒乱状況は永田町の局地的な高揚にすぎない。
大局に於いてはすでに蹶起軍の敗色は覆い難かった。

「明朝は決戦やむなし!」
そのなかをサイドカーに乗り、中橋は 幸楽 をさる。
後から大声援が飛んだ。
「頑張れよ!」
「応援するぞ!」


森伝の二八日(金)
これが森伝の脳裡に刻まれた中橋中尉なのだ。

鬼頭春樹 著
禁断 二・二六事件から