あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

下士官兵

2017年11月10日 05時37分21秒 | 下士官兵

宇治野時参
私は在郷中、建国会員深沢四郎の書生として雇はれ、
本人より常に社会情勢並に重臣、財閥、特権階級 等の腐敗堕落の実情を聴取し居たる関係上、
国家革新の必然を痛感するに至り、
更に入営後は、徹底的に精神修養に志し入営したるに、
全く自己の予想と相反し、将校並に下士官等は単に恩給並物質等のみに汲々し、
軍人の本分を顧るもの少なき折柄、栗原中尉を知り国家革新運動を学び、遂に事件に参加したるものなり。
現在に於ても、国家を毒するものは一掃しなくてはならぬと思って居り、
吾々の蹶起により、譬え一部たりとも社会の改革が出来得たなれば、本望と存じて居ります。


下士官兵
目次
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・ 中村軍曹 「 昭和維新建設成功の日 近きを喜びつゝあり 」 
堂込曹長 「 奸賊 覚悟しろ!」 
奥山軍曹 「 まだ温かい、近くにひそんでいるに違いない 」 
・ 下士官の演説 ・ 群集の声 「 諸君の今回の働きは国民は感謝しているよ 」 
・ 
前島清上等兵 「 農村もとうとう救えなかった 」 

安藤は、在室の将校を指して、
「 こちらは、所沢飛行学校の河野寿航空兵大尉だ・・・・」 と 紹介したあと、
「 我々は明朝蹶起するが、貴公は残って勉強せよ 」 と 言った。
長瀬は弾かれたように、「 私も出ます・・・・」 と 答えた。

長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」

反駁 ・ 長瀬一伍長 「 百年の計を得んが為には、今は悪い事をしても良いと思ひました 」 

・ 篠田喬栄上等兵 ・ 相澤中佐事件前夜 「 明日は早いよ、大きな事件が起こるぞ 」 

福本理本伍長
下士官の微衷 歩兵第三聯隊第十中隊伍長 ・ 四日間の行動記録 
一下士官の昭和維新 1 「 参加いたします 」 
・ 一下士官の昭和維新 2 「 おい、福島班長、これからが大変だぜ、しっかりやろうな 」 
・ 一下士官の昭和維新 3 「 尊皇義軍からは射たないが 貴様らの方から射てば応戦するぞ 」 
・ 
一下士官の昭和維新 4 「 今から第十中隊は各分隊ごとに議事堂に集結する。いいか。着け剣 」 
・ 下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」 
・ 下士官の赤誠 2 「 これ程言っても命令に服従したと云えんのか 」 
・ 反駁 ・ 福本理本伍長 「 相澤中佐はさすがだと思いました 」 

・ 
宇治野時参軍曹「 河野さん、私の懺悔話を聞いて下さい 」 

堂込喜市曹長
堂込小隊の旗を背負はしめ 日本刀を持ち半紙二枚の声明書を群集に向て朗読す。
尊皇愛国の精神を説き
軍人にして財閥と通じ皇軍をして私兵化せしむる如き国賊は
之を排除し其他国家の賊物を悉く打ち斃し、
次いで国家の安泰を計るが目的である云々
諸君
吾々は 歩兵第三聯隊安藤大尉の部下である、
吾々は 之より死を覚悟して居るものである、
而して 私の希望は何物もない。
吾々には国家の為に死ぬものである、
遺族の事は何分頼む
群衆
是れから尚国賊をやつて仕舞へ。
愛宕山の放送局を占領して今の声明書を全国に知らして下さい。
買収されるなよ。
腰を折るな確かりやれやれ。
妥協するな。
大勢御苦労であった。
なぜ牧野、一木をやらなんだのです。

山田伍長
牧野は焼き殺されて居るのだ。
諸君 吾々に共鳴するなら
一木でも牧野でも打殺して来て呉れ
群衆
諸君の今回の働きは国民は感謝して居るよ
・・・下士官の演説 ・ 群集の声 


宇治野時参軍曹「 河野さん、私の懺悔話を聞いて下さい 」

2017年11月09日 17時51分58秒 | 下士官兵

襲撃失敗の責任に悩む
「 事件以来、家族のこと、殊に弟のことについて、親身も及ばぬお世話になった御恩は、
私の脳裡に焼きついています。
出所して間もなく、如水会館で初めて御会いしたあと、
直にでもお宅に伺って御礼を申上げねばならないことは、百も承知でした。
しかし、私は、どうしても亡くなられた隊長のお兄さんに改めて顔を合せることが出来なかったのでした。
そのまま今日まで、十年近くも無音を重ねた非礼をお詫びします 」
宇治野はこう前置きして、今日会うまでの心境を語ってくれた。
同君がその時に、打明けてくれた話は、今日まで、私は誰にも語ったことはない。

密かに私の胸中に秘めたまま、もう十年が経った。
当の宇治野君も故人になってしまい、事件からは三十年が過ぎた。
同君の七周忌も終ったのに当り、
個人の深刻な心境をここに書残して置くことは、同君の人柄を語る挿話として意義のあることと思い、
あえて書くことにした。
宇治野君が私に合わす顔がないと語った理由はこうであった。
<湯河原襲撃 >
雪の東海道を南下して、湯河原に牧野伯を襲撃した河野隊は、
宇治野軍曹を除いては、ほとんどが除隊組か民間人であった。
単身、所沢飛行学校から参加した河野大尉の手兵として栗原中尉が動員し編成した隊員は七名であり、
皆、一騎当千の夕刻熱血の士であったが、いざ戦闘行動となると、誰か中心となる現役の下士官が欲しかった。
栗原中尉が選んだのが宇治野軍曹であった。
襲撃は当の牧野伯を逃して失敗に終った。
護衛警官の戦闘応戦に、河野隊長、宮田隊員の受傷によって襲撃が頓挫したことが原因であった。
この失敗について宇治野君は、それはすべて自分の責任であると自責の念に悩んだのだった。
 ・
屋内に踏込んだ隊長と宮田隊員が、予期しなかった警官の抵抗にあって受傷し、
前進を阻止されたとき、河野隊長は屋外の待機隊員に対して、続いて突入するように再三にわたって命令した。
断続する銃声で、この命令が消されたのかも知れないが、外部から誰一人、飛込む者はなかった。
胸部盲貫銃創の隊長が、やむなく屋外に後退し、第二次襲撃の非常手段としてとられたことは、
放火であり、機銃打込みであった。
これは措置としては明らかに拙劣であり、失敗でもあった。
私が熱海の陸軍病院に弟を訪れたとき、弟はこのことに触れて
「 もう一人将校がいてくれたら 」 と洩らした。
この話は、その後誰にも語らず、ただ私一人の胸の中に封じこんでおいたが、
襲撃目標の牧野伯を逃した失敗の原因の一つがこの辺にもあったことがうかがえた。
十余年の後、奇しくも宇治野君の口から、裏付けるかのような当時の状況を聞いたが、
宇治野君はそれはすべて自分の責任であるとの自責の念に悔い悩み続けたことを知った。
殊に事件後の軍法会議の裁判の結果、
湯河原襲撃隊員のうち、水上源一氏ただ一人が死刑の判決をうけて刑場の露と消えた。
その判決理由書によれば、河野隊長受傷後、隊長に代って指揮をとり、
機銃掃射、放火を行ったことが罪に問われている。
隊長に代るべきものは、隊の編成上は、自分であった筈である。
それが民間の学生、水上氏一人が責を問われて死んで行った。
宇治野君の性格として、これは堪えられない苦悩であったことは想像に難くないことである。
宇治野君は私に語ってくれた。
「 私は、隊長の御遺族に顔を合せる資格のない人間でした。
何とかしてこの責任をつぐなうに足りる仕事をするまでは、お会いする気持ちになれなかったのです。
しかし戦争は私にその機会を与えてくれました。
軍籍を失った私でしたが、進んで軍属となって従軍し、
ビルマ戦線の第一線に参戦し生命をかけて、恥ずかしくない働きをして来たつもりです。
不幸、敗戦の恥を忍んで帰国した私でしたが、私個人としては、これで二・二六事件の関係同志とも、
肩身狭い思いをせずに相交わる心のゆとりがもてるようになりました 」

「 二十二士之墓 」 開眼供養法要 
二十二士の十七回忌の年だった。
この機に合同埋葬と墓碑の建設を行うこととし、その準備を進めた。
万事順調に進捗し、いよいよ七月十二日の命日に除幕式を行う手筈が整ったが
肝心の墓碑と墓所の工事が遅々として進まない。工事費の前渡金が充分でなかったせいもあったか、
施行の 『 石勝 』 をいくら督促しても煮えきらない。
除幕開眼式の二日前になっても、墓所の聖地すれ着手しない。
すでに案内状も発送し 抜きさしならない土壇場だった。
事情を知って 宇治野君が、血相を変えて飛び出して行った。
石勝へ行ってからの宇治野君のこう活躍振りは想像に難くない。
多数の人夫が動員され、資材も搬入された。
あの賢崇寺の長い石段を大きな墓碑石が夜をかけて運び上げられた。
そして明日が除幕式という前日の夕方に、辛うじて、墓石の下部工事が済んで、
遺族立会いの上で、二十二士の遺骨の埋葬を終えた。
それから徹夜の作業が続けられ、
墓碑が建ち、墓所の工事が終わったのが、当日の朝十時過ぎであった。
厳冬の深夜、夜を通して現場に立っていた宇治野君の姿は、まだ忘れることが出来ない。
無事に、盛大に、除幕式の開眼供養を終えた時、
もう日は暮れ落ちて、参列者の帰った無人の 『 二十二士の墓 』 の前で
同君と二人で手を握り合って嬉し泣きに泣いたことだった。

河野司 著  湯河原襲撃 から


篠田喬栄上等兵 ・ 相澤中佐事件前夜 「 明日は早いよ、大きな事件が起こるぞ 」

2017年11月08日 06時18分31秒 | 下士官兵


教官の栗原中尉等の幹部と親しくなったのは初年兵の頃からである。
私は入隊前剣道二段だったので入隊後にはじめた短剣術もすぐ要領を習得し、
中隊でも右に出る者がいない程技倆が高くなっていた。
そのため剣術の訓練時にはいつも模範演技者として皆の前でやらされたため
いつの間にか栗原中尉の目にとまり、教官が週番の時にはよく部屋に呼ばれたものである。
また栗原中尉は私の郷里に居る藤崎という少尉と同期だったことから私を特別に意識していたように思われた。
次に林少尉とのつき合いでは、彼は剣術が好きで、いつも私の短剣を相手にして稽古された。
彼は小柄ながら腕っ節が強く その上ガムシャラなので面を打たれるとクラクラした。
そこで私は剣先であしらっていたが、時々打たせないと承知しないので、
痛さをこらえて一本取らせることにしていた。
こんなことからいつの間にか林少尉とも気心が通じ 親密の度が深まっていった。
これらの経緯から二年兵になった頃にはすっかり両名からお気に入りになってしまった。

昭和十年 つまり前の年に歩工連合演習で調子方面に行った時のこと、
私は現地滞在間栗原中尉の当番を命ぜられ身の廻りの世話をした。
この仕事は通常食事の上げ下げ、洗濯、手入れ等を行うものであるが、
中尉は演習から帰ってくると汚れ物をひとまとめにして行李につめ 逐次自宅に送ってしまい、
私には何一つ洗濯をやらせなかった。・・・「 お前は自分の兵器を手入れすればよい 」
他の将校とはこの点全く違っていた、
いってみれば割切った性格で
当番兵を伝令と考え雑用などに使うことを極力謹んでいたように思われた。

<十年> 前年八月のある日のこと、田島曹長と私は栗原中尉に呼ばれ、書物の複写を命ぜられた。
提出した書物をもとに六冊ほど できるだけ早く作ってくれとのことだった。
そこで曹長と打合せ、曹長室で三冊ずつ作成することにした。
本の標題が何であったか失念したが
内容に秩父騒動の原因とか日本国家の立直しの具体策といったようなことが論文調で記されていたのを覚えている。
早速作業にかかり毎日続けたために一週間で終わった。
すると栗原中尉はでき上った本を全部携行してどこかへ出かけていった。
多分同志に配布したのであろう。
残った書き損じの紙はまとめて私の家に持ち帰ったが、
後日 ( 事件後 ) 憲兵がきて総ざらい押収していったので今では何一つ残ってはいない。

相澤事件発生前日の明治神宮参拝のことである。
八月十一日、日夕点呼後 私が清水曹長の個室でしばらく話しこみ、
出てきたところ廊下で栗原中尉に呼び止められ、「 すぐ外出の支度をせよ 」 といわれた。
間もなく私は栗原中尉に随行して営門を出た。
行き先は原宿駅であった。
するとそこに相澤中佐が待っていて三人はそのまま明治神宮に向った。
もう夜中の十一時頃で人通りはなく静かな周囲を月光が青白く照らしていた。
私は両名の後方について歩くうち、橋のたもとで待っているようにいわれた。
( ここは大小二つの橋があって二人は大きな橋を渡っていった )
待つこと約五十分、両名は参拝をすませて戻ってくると相澤中佐は自動車を拾いどこかへ行かれた。
帰隊の途中 栗原中尉は私に
明日は早いよ、大きな事件が起こるぞ
と 一言いった。 ・・・今日本で一番悪い奴はだれですか
兵隊の私にそれがどんなことなのか到底考えが及ばなかった。
翌十二日、永田軍務局長は相澤中佐に斬殺されたのである。

  昭和11年 東京
<十年> 十月中における私の行動。
その頃 栗原中尉のところに色々の人がやってきた。
その都度私は呼ばれてお茶を入れたがこの中に参謀の人も見受けた。
西園寺公襲撃計画を耳にはさんだのもその頃である。
こんなことで栗原中尉は演習にあまり顔をださず林少尉一人が指導していた。
従って栗原中尉が突然姿を現わすときはきまって
私が呼び出され中尉から渡された通信紙をもって伝令に早がわりするのが常であった。
行き先は歩三の安藤大尉か近歩三の中橋中尉で 月に三~五回ぐらいであった。

竜土軒の見張り
竜土軒というのは歩三の営門を出た左方にあるレストランで、
青年将校たちがよく利用した場所で、十月以降ここにおける会合が大分多くなっていった。
集合する将校たちは背広や普段着などに服装を変えてポツリ、ポツリやってきた。
会合する部屋は奥の方で、会合のある日は私も店にきて伝令と見張りを受持った。
会議中 店の近くに憲兵らしい姿を見かけると、すぐに奥に連絡するのである。
だから万一憲兵に踏込まれても
話題を切替えて世間話や雑談などをしているので得る所なく引揚げるのがつねだった。
このため会合は順調に進んだようで時折集まった将校たちから感謝とお礼をいわれたこともあった。
こうして計画は着々進捗し、やがて一月十日頃 下士官兵の使用をめぐり栗原中尉と対立した中村中尉 ( 不確定 )
が同志を脱退したため、計画がバレるのを恐れ 決行時期が早まったということの他は一応円滑に準備が進んだそうである。

兵器の保管
<十年> 前年十二月、栗原中尉から重たい荷物を預かった。
持参したのは元戦車隊の宇治野軍曹 ( 当時歩一、六中隊 ) と名乗る下士官であった。
栗原中尉は私に、
「 誰にも判らないように被服庫の中に保管しておけ 」 といった。
私は簡単に引受けて倉庫に運び、念のためあけてみると、
中に白鞘の日本刀五振、ピストル三挺、軽機一挺が収められていた。
どうして被服庫などに保管するのか不審に思ったが、いわれたとおり白布で包みなおし、
誰にも気づかれぬ場所に隠した。

外泊のこと
二月二十四日 栗原中尉から突然
「 外泊を許可するから家に帰って一晩ゆっくり休んでこい 」 といわれた。
この時 恩恵を受けたのは私一人で狐につままれた気持だった。
何はともあれ家に帰りタタミの上で過ごしたが、
恐らく数日後に控えた蹶起でどんなことになるかを考慮した私への温情であったと思われる。

湯河原襲撃隊の出動援助
二月二十五日 夜八時頃栗原中尉に呼ばれて将校室に入ってみると見知らぬ人たちが出入りしていて、
何かあわただしい空気であった。
私は早速お茶を出したり連絡に出たりしながら伝令としての役目を続けた。
やがて十一時前、二重廻しを着た男が五人将校室に入ってきた。
いずれもガッシリした壮士風の顔立ちである。
註 ・・ この五名とは 宮田晃、中島清治、黒田昶、水上源一、綿引正三でいずれも民間人である。
すると栗原中尉は彼等にあいさつを交わした後、私に向って軍服四着とこの前預けた包みを持ってくるよう指示し、
重ねて階級章は全部軍曹にせよといった。
この中の一人は持参したと思われる将校服を着用しはじめた。
駈足で倉庫に行き準備をした後、品物をもってくると彼等は隣の曹長室に行き早速着換え、忽ち下士官の姿に早がわりした。
将校室の中には栗原、林両名のほか 二、三名の者が壮行のために集っていたが、河野大尉の姿は見えなかった。
服装を整えた彼等は将校室に戻ると包みの中から日本刀を一振ずつとり、なおピストル、軽機を分け合った。
ここで私は栗原中尉からまた命令を受けた。
「 営門前に待機している乗用車を銃隊玄関前に誘導せよ 」
すぐ衛兵所に行き 指令にその旨を連絡し 乗用車を営内に入れた。
車は二台とも民間のハイヤーであった。
準備完了した彼等はここで歩一差出しの二名を加え一同に出発のあいさつをすると車の人となった。
この時舎前に週番指令の山口大尉もきていて彼等を見送っていた。
これが湯河原襲撃隊出動の状況で、指揮官河野大尉は営外で乗車することになっていたという。

銃隊将校室における壮行会
湯河原襲撃隊を送り出して間もなく二三・○○頃 山口大尉が荒木大将をともなって将校室に入ってきた。
荒木大将は聯隊本部で山口大尉と話合っていたようで時間を見て本部の玄関から出て縦隊にこられた。
数分たった頃 栗原中尉は一寸いらいらしてきて、私たち ( 私と梅沢上等兵 ) に向って
「 真崎閣下はまだこんのか 」 といった。
私は返す言葉がないので、「 そのようです 」 と返事した。
やがて二〇分ぐらい遅れて待ち望んだ真崎大将がマント姿で入ってきた。
かくて部屋には集合した香田大尉以下数名の青年将校が両名の高官を囲むようにして集まると
真崎大将の音頭によって出陣への決意と壮行をあわせた乾杯が行われた。
この時 シャンパンを抜いたのは勿論私達であった。
乾杯が済むと両高官は帰ったが その間将校室にいた時間は僅かだった。
私はこの時廊下で両名を見送った。

・・・以下挿入・・・
<昭和> 五十五年の二月六日、私は防衛大学秦郁彦教授から突然電話を受けた。
事件の前夜、出発前に、真崎大将が歩一の機関銃隊を訪れたという話を、
当時、機関銃隊にいた篠田という人が読売新聞、二月四日の夕刊に載せているが、
その真偽の程を確めたいとのことであった。
私はその概略を電話で聞いた。
身なりの立派な五十がらみの二人の将校が、軍服姿をマントに包んで機関銃隊の将校室に現われ、
そのうちの背の高い人の音頭でシャンパンを抜いて乾杯し、門出を祝したというのである。
その後で栗原中尉が篠田上等兵に、今の方は真崎大将だと言ったというのである。
私は当夜身支度をする短い時間の外、ずっと機関銃隊の将校室にいたので、そのような事実はないと答えた。
仮にも陸軍大将が、予告なしに夜間兵営を訪れるようなことはあり得ないことであるし、
もし私のいない間にそんなことがあったとしたら、あとで話に出るし、私が知らない筈はない。
そんな事実があれば、真崎大将は事実上の黒幕で、青年将校の純粋な気持は踏みにじられてしまうであろう。
そうして栗原中尉や、村中磯部両氏の法廷闘争にそれは有力な事実として呈出され
陸軍を窮地に追いこむことが出来た筈である。
それに、そんなことがあったら、真崎大将は自決されていたに違いない。
またシャンパンの栓を篠田が抜いて乾杯したことなど、あきれた話である。
栗原中尉は事の発覚を極度に恐れ、一分一秒 生命を刻む思いで時の経過をひっそりと待っていたのである。
かりに一歩を譲って二人の将校がマントに身を包んできたというなら、
それが私が機関銃隊に来る前に、村中、磯部両氏が機関銃隊に現われて、
香田大尉と一緒に十一中隊に行ったことと符号している。
篠田のいう背の高い年輩の将校というのは、五十がらみに見える磯部さんのことに違いない、と私は答えた。
栗原中尉は、一寸茶目気のある人であったから、
或いは篠田上等兵を安心させる為にそんな話をしたのかも知れないと付け加えた。
秦教授も私の答に同意しておられた。
その直後、沢地久枝氏からも同様の問い合わせがあったが、前回と同じような話をし、
沢地氏もその通りでしょうと言っておられた。
このような雲をつかむような話は、事件参加の兵隊さんの話として伝えられているものが数多くあり、
話としては面白いので、マスコミはすぐ飛びつき、真偽不明のまま記事にしてしまうものである。
それからしばらくして、河野氏は
埼玉県の県史編纂室が出版した 『 二・二六事件と郷土兵 』 の篠田氏の手記がとり入れられていることを知った。
誤った史実が公表されることに抗議するため、河野氏は当時の生証人である私と、
当時真崎大将付きでずっとお伴をしていた金子桂憲兵大尉 ( 当時伍長 )と共に県の編纂室に柳田室長を訪ねて、
実状を話し、もし、そのような記事を乗せるなら、それと同時に反対の記事も掲載する必要があると主張した。
しかし残念なことに、この抗議は容れられなかった。
柳田室長は池田さんには次の出版の際に書いてもらうつもりだといったが、そのようなことは無かった。
畑知事も篠田の言を、兵隊は嘘を言わないと信じているそうであるが、
事件に関して第三者の臆断は、嘘と思い違いの上塗りをする結果を招きやすい。
興味本位に歴史を扱うことは、歴史への冒瀆である。
・・・池田俊彦少尉  生きている二・二六  から
・・・以上挿入・・・


以上の様に一連の行動に関与していた私は自然のうちに事件が起こることも予期できたし、
蹶起にも抵抗なく参加したのである。

それからしばらくたて〇二・三〇頃 下士官が全員栗原中尉の部屋に集合した。
その頃の私は日夕点呼以降ずっと用務で働いて眠るどころではなかった。
下士官たちは一時間もたたないうちに解散しその足で各班に戻るとすぐ非常呼集をかけた。
遂に行動開始となったのである。
武装して舎前に整列すると栗原中尉が出てきて昭和維新の断行を告げた。
次いで編成下達 ( これは去る二月十一日にできていたので人員を掌握するだけであった )
実包支給と準備が進められた。  私は伝令として栗原中尉についた。
やがて出発となったが時刻は〇四・三〇頃だったと思う。
雪は降っていなかったが夜明けの寒さが肌にしみ通る程であった。

目的地の首相官邸東側に着いたのが五時頃で すぐ行動に移った。
先ず 東門の前に警官が二名立哨していたので これから片付けることから始まった。
これは栗原中尉が主役になり
何げなく近づき一人の警官をいきなり抱き込み
マントの中から拳銃を相手の胸に押しつけ開門を命じた。
警官は観念したらしく 正門の前まで歩いていって中の警官に声をかけ開門させた。
もう一人の警官は邸内に入ったらしくすでに姿はなかった。

門が開きはじめると襲撃班はドッと邸内になだれ込み 建物を包囲し
私達は栗原中尉と共に玄関に進んだ。
だがこの玄関は頑丈でビクともせず、止むなく裏手に廻った。
すると角の窓が少しあいていて書生らしい男が外を見ていたのを目撃した栗原中尉が
サッと窓の中に体を割り込ませるようにして屋内に飛込んだ。
続いて私も教官に引きあげてもらい中に入った。
屋内は消燈されているので真っ暗だ、手さぐりで前に進むと廊下に出た。
栗原中尉は得たりとばかり先に進む、私も後に続く。
中尉は前もって官邸の見取図を作って研究していたので手さぐりしながらドンドン進んだ。
そのうち急に騒々しくなり発砲する銃声が聞こえだした。
他の襲撃班も屋内に入りこんだらしい。
一体建物の中にどのくらいの警官が潜んでいるのか、警戒を怠ると大変なことになる。

私がかなり奥まで進んだ時、
フト白い人影らしいものが廊下を小走りで奥に向ってゆくのを目撃した。
暗闇なので定かでないが人間に間違いない。
私は栗原中尉にその旨を告げ 一人で追跡しはじめた。
廊下がまたカギの手になって右折している。
私は慎重に警戒しながら白い影を追って一歩一歩すすんで行った。
やがて左側にある洗面所を通りこすと突如前方から警報ベルが耳を押しつぶすような大きな音で鳴りだした。
そこで音を目標に進んでゆくと右側に電灯のついている部屋が目にとまった。
ココダ !
私は勇気を出して中に入ると、そこに若い女が寝床の上に立っていた。
娘か女中か判らないがそこが女中部屋と判断した私は 「 女には用はない 」 といって引きかえした。
その時、三米程の距離の暗闇から突然拳銃が火を噴き、銃弾が私の腹部に食込んだ。
私は 「 アッ !」 と 声をあげ その場に倒れた。
傷口から血が流れ出すのか抑えた手がヌルヌルしてきた。
付近にひそんでいた警官にやられたのである。
私は夢中になって洗面所に這いこんだが忽ち意識を失ってしまった。

二・二六事件と郷土兵
慰霊歩兵第一聯隊機関銃隊 上等兵  篠田喬栄  著  「 栗原中尉と私 」  から


下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」

2017年11月07日 20時19分55秒 | 下士官兵


私は昭和十年十二月仙台教導学校を卒業し原隊に戻り
第十中隊第五内務班長として専ら初年兵教育に任じていた。
当班には班付下士官が不在なので
加庭、宮崎の両伍長勤務上等兵を教育助手として訓練を行った。
当時中隊長島田信平大尉は歩兵学校在学中で、新井勲中尉が代理をつとめ、
鈴木金次郎少尉が教官で純粋無垢の若さあふれた気概で教育に専念していた。
なお中隊は小銃三、LG二の五コ班に分かれていた。
翌十一年(一月)十日、初年兵が入隊した。
実はその頃から中隊の下士官の間にある種の不穏な空気が漂っていた。
それは主として下士官食堂において閲覧する新聞その他の見聞に起因していたようで、
下旬頃になるとその感じが益々濃厚になってきた。
そこで根元をさぐってみると相沢事件から出発しているらしいことが判った。
当時相沢事件は取調の段階を過ぎ、
目下第一師団司令部の構内に特設された軍法会議で公判が開始になり、
その成り行きが注目される時期にあたり、
青年将校たちをひどく刺戟させていることに原因があったようである。
殺された永田軍務局長は、
かつて歩三の聯隊長をつとめた人なので聯隊としては同情すべきだが、
風潮は全く逆で 斬殺した相沢中佐の行為を容認する者が圧倒的で
中には無罪を主張する者さえあった。
私はその辺の事情がよく判らなかったが
時折配布される 「 大眼目 」 ( 月刊新聞 ) や
外出時に六本木の誠志堂書店で買った相沢中佐公判記録等を読んで、
次第に事件の真相や背景といったものが判りかけてきた。
 大眼目

以後相沢事件の公判に並行して、青年将校たちの動きが活発となり、
延いては我々下士官の間にも、
「 重臣ブロックの正体 」 「 国体宣揚と重臣ブロック 」
などの印刷物閲読により論争が一段と激しくなっていった。
そんなことから私は何かが起こるのではないかという予感をひそかに抱くようになった。

さて、二月二十五日、
その日は初年兵の実弾射撃訓練で朝から大久保射場に行き指導にあたった。
この時どこからか今夜非常呼集があるかもしれぬといううわさが流れた。
私は別に気にもせず聞き捨てにしていた。
実弾射撃は初めてだったが開始前の注意や要領の説明がよかったのか円満に進み、
かなりの成果を収めた。
このため早く終了したので
残り時間をLGの夜間射撃における命中精度向上手段について訓練をはじめたところ、
下士官集合がかかったので、
あとを加庭上等兵にまかせて鈴木少尉の元に集まると、
「 これから新宿に出てお茶でも飲もう 」 といった。
珍しいこともあるものだと思いながらついて行くと、多分 中村屋だったと思う店に入った。
この時の顔ぶれは 
鈴木少尉と福原、井沢、伊高、大森、井戸川、松本、宇田川、私の下士官八名であった。
しばらくして少尉が茶代を払い、円タクで帰営したが、それから一時間後に兵隊たちが帰ってきた。

その夜 ( 2 5 日 ) 九時頃
鈴木少尉 ( 週番士官に服務 ) の指示で、下士官全員は少尉と共に第七中隊長の部屋に集合した。
部屋の中には七中隊の下士官も集まっていて私たちが入るとすぐ扉をピタリと閉めた。
すでに話が進んでいたらしく机の上には洋菓子と共にガリ版の印刷物があった。
野中大尉は私たちを見ると一寸顔をくずし、「 十中隊もきてくれたか 」 といってすぐ切り出した。
話の内容は
相澤事件の真意、昭和維新の構想、蹶起の時期、
といったやはり私が予想していたことの具体的解説とその決意であった。
「 今述べたことをこれから実行する。そこで貴君等の賛否を伺いたい 」
大尉の顔がひきしまり、目が光った。
私たちは蹶起が正しいことなのか邪であるのか考えたが判断がつかず、しばし声なく数分間の沈黙が流れた。
やがて私は、
「 賛成します 」 と答えた。
すると他の下士官も追随して賛意を示したので、
それを聞いた野中大尉は、
「 賛成してくれたか、それでは細部について述べる
が、まさか裏切ることはあるまいな 
といいながら全員の顔を机上に集めて地図を拡げた。
以下 大尉の話は核心に触れていった。
出動部隊名、兵力、各部隊の襲撃目標、そして中隊における非常呼集の時刻、
兵の起こし方、装備、携行品等、こと細かく説明が続いた。
第十中隊は第三、第七中隊と共に警視庁を襲撃することを確認したとき何か体が引締まる思いがした。
その時ノックする音が響いた。
一瞬ギクリとしながらも内側から聞くと
見知らぬ将校が御苦労といいながら飛込んできた。
野中大尉の紹介で その人が磯部一等主計であることを知った。 
彼は重ねて 「 よろしくたのむ 」 とあいさつし、
約十分間ほど゛紅茶を飲み菓子を食べながら雑談して帰っていった。
何の理由できたのか不明だが 恐らく激励か蹶起の確認にきたのではなかろうか。
それから三十分位いたった頃、野重七の田中中尉がきた。
彼も紹介によって同志の一人であることが判った。
彼は顔を見せた程度ですぐ出ていったが、営門前に彼の指揮するトラック数輌が待機しているとのことであった。
私たちはなお十一時頃まで出動上の細部打合せを行い ようやく野中大尉の部屋を辞去した。

私は自室に戻るとしばし肝を決めたうえで徐ろに両親あての遺書を書いた。
幹候を奨められても
敢えて下士志願をして渡満を志していた真の目的は蹶起の趣旨に添うものであり、
実際のところ死を決意することができたのである。
遺書を書き終わりかけた頃
鈴木少尉が入ってきたので新井中隊長代理不参加の理由を訊ねたところ、
彼は共鳴しているが時期尚早を唱えているので連絡していないとのことだった。
少尉は私の遺書の表書きを見て遺書など書かん方がいいといった。
しかし万一の身になったとき
自分の行動を残すのは遺書以外にないので敢て書き上げ机の引出しに収めた。

時間が刻々過ぎ、やがて〇〇・〇〇を廻った時、私は兵室に行き、加庭上等兵を起こした。
そして非常呼集の発令を告げ、手分けをして静々粛々のうちに一人一人起こした。
電灯はつけず、カーテンは開けず、声を立てず万事打合せどおりに行った。
私は全員が寝台の前に起立するのを待って 蹶起趣意書 を静かに読みあげ、
これは命令ではないこともはっきり告げたうえで、
「 中隊に只今非常呼集が発令された。これから出動するが参加の意志のないものは就床してよし 」
といったが一人として不参加を表明する者はなかった。
そこで留守業務、連絡等のため風邪ひきの二名 ( 二等兵、初年兵各一 ) を残し全員出動に踏切った。
仕度は二装用軍衣袴着用である。
それから私は初年兵に命じて酒保から荒縄を持ってこさせて
各自軍靴をしばり舎内歩行の靴音防止に心を配った。
これは当中隊の外側が外人居留地で彼等の住宅があるので感知をおそれたからである。
私は次に編成を下達し二コ分隊をまとめた。
分隊長は私と加庭上等兵である。
なお第四班では班長新井軍装が風邪で就寝中のため
班付の宇田川伍長が編成をすすめ三コ分隊を作ったところ、新井軍曹は遂に起きあがり出動を決意した。
そのうち伊高軍曹が実弾を運んできた。彼は兵器掛である。
早速班内で分配が始まる。
小銃は一人四〇発、LGは一コ分隊六〇〇、小銃手には五〇発、
射手、弾薬手、懸架手には拳銃が交付され、これには三〇発であった。
受取る兵の顔がサッと緊張した。
なお警視庁の新撰組はガス弾の操作を習得しているので、
万一に備えて防毒面を携行すること、
場合によっては鉄帽着用が予想されるので、
戦闘帽を背嚢の中に入れておくことなど指示した。
出発準備が完了すると待機の姿勢となったので、その間各自手箱内の整理をやらせた。

〇四・三〇集合がかかり
第十中隊は七中隊の中庭に整列、ここで野中大尉の指揮下に入った。
第三中隊も集合したところで野中大尉から訓示が行われた。
「 行進にあたっては行動を発覚されんよう注意せよ。
できれば交番前を通るとき下士官は「御苦労」ぐらいのあいさつをいって通れ」
「如何なる時でも宮城に向っての発砲は厳禁する。最後の抵抗線は御濠とする」 等


こうして十分後出発した。
第三、第十、第七、配属のMGの順序である。
歩一の営門前で約十分間停止、歩一から出てきた部隊と合流し再び前進、
そして溜池附近から分進行動をとり歩一部隊は首相官邸へ、私達は警視庁へと向った。
現地に到着すると私たちは庁舎の裏手にまわり、すぐLGをすえて散開した。
野中大尉は常盤、清原両少尉をた随え正面玄関から入った。 
時に〇五・二〇であった。
私たちが警戒にあたっていると庁舎の窓に灯りがともり、漸次灯の数がふえていった。
内部で何かが起っているようだ。
そこで兵隊一人一人に灯りのついた窓を割当てて狙いをつけさせた。
緊張の中で状況を窺っていると五分後にうす明るくなった屋上に懐中電灯が光り
「 警視庁占拠成功 ! 」 という声が聞こえてきた。
問題の新撰組は建物の地下にいたようで、
彼等の隊長と野中大尉の話合いが成立し庁舎が明け渡しになったという。
私たちはすぐ構内に入り裏手方向に対する陣地を構築し警備に入ったところ、
間もなく急報に接しかけつけてきた警官が裏門にきたので入門を阻止し全部追いかえした。
表玄関の方でも野中大尉と登庁してきた警官がやり合っている。
「 我々は国にの為に一時占拠するがその間だけ入らないでもらいたい 」
「 私も国の為に働いている者だ 」
「 我々はあなた方より一歩先んじて国政改革をやっているのだ 」
種々応答した末相手は渋々引退った。
〇八・三〇頃内務大臣官邸の襲撃命令が下った。
これは十中隊の鈴木少尉以下六〇名が出動したが、
私の分隊は構内裏から庁舎左正面海軍省側の警備を担当した。
鈴木少尉たちは間もなく戻ってきて大臣の不在を告げた。
その頃海軍省の構内が大分活発に動き出してきたので、これにLGを向けて万一に備えた。

警視庁の周囲はいつの間にか民間人がつめかけ、
道路上約百米位の距離から私たちの行動を見つめていた。

そのうち群衆の中から小柄な男が飛出してきて
「 隊長に会わせろ 」 と 怒鳴った。
警視庁の幹部だと名乗るその男は目を光らせ見るからに精悍な感じがした。
私はすぐ野中大尉に連絡してきてもらうとすぐ問答がはじまった。
「 目下占拠中なので入っては困る。若し制止をきかず入るなら射殺する 」
「 入れないのなら我々も攻撃するまでだ 」
私はこの間 群衆に銃口を向けて警戒にあたらせたが、私は海軍省内の動きをも注視していた。
黒山の群の中には警官がかなり混ざっているらしく、口々に私たちの行動を非難していた。
次第に声が荒立ってきたので大尉はその男に群衆を解散させろと命じた。
男は事態が硬化するのを察し、止むを得ない旨を説明し群衆をなだめ解散させた。
事態が一段落したあと鈴木少尉が私の所へきて
「 福島班長、これからが大変だ、しっかりやろうな 」 といった。
そして聯隊から届いた飯を食べた。
その時、私はこのたびの行動を聯隊長も認めてくれたものだと大いに安心し、暖かい飯をかみしめながら食べた。
その日は終日警戒態勢を続行、夜になって相向いのビルに入り休養した。

二十七日、
蹶起部隊は小藤大佐の指揮下に入った。
これは戒厳令の施行により、蹶起部隊は戒厳司令官の管下に入り、
その地区隊長に小藤大佐(歩一聯隊長)が任命されたためである。
中隊は朝方警視庁の占拠を解き、新国会議事堂に至る道路上で警備につき、
その後文相官邸に本拠を構えた。
警備は淡々として続いた。
この間何の命令もなく、食糧も届かず孤立した状態が経過した。
こうして空腹をかかえて警備しているうち 二十八日 がきた。
そこで私は分隊を麹町小学校の垣根下に散開させ、
雪で掩体を作りLGを中央にすえ戦車攻撃にそなえた。
こうなれば死ぬ以外になく全員の気持は悲壮感に傾いていった。
私は〇九・〇〇頃警備状況視察のため路上に出たところ、
マントを纏った一将校が小型拳銃を右手にして走ってきた。
そして私に、 「 敵が攻撃にかかったから注意しろ 」 といった。
よく見ると磯部主計であった。
それからしばらくして本部の方から四斗樽が届けられ飲めといってきた。
気勢を盛り上げるためのはかないのようだ。
それを見た私はすぐタバコを買ってきて隊員に勧めた。
「 いいかよく聞け、間もなく戦闘が始まるぞ、腹がへっては戦さはできぬというがそのとおりだ。
 そこで我々は戦闘にそなえ煙草を吸い酒を飲み雪を食え 」
死んで行く身であれば それで満足すべきだったかもしれぬ。
午後 野津敏大隊長がきた。
次いで渡辺特務曹長が丸腰で震えながらやってきた。
そこで私たち幹部は官邸内の一室に集合して大隊長の説得を聴いた。
「 お前たちは叛乱軍になっている。
汚名から脱するには一刻も早く聯隊に帰るしか道はない。
鎮圧軍は刻々包囲網を縮めて総攻撃に移ろうとしているが、その先頭には歩三がいるのだ。
しかも同じ中隊の者が出されている。これでは撃合いなどできんだろう。
早く帰ればその苦しみもなくなるのだ。さあ俺がつれて行くから一緒に帰れ 」
大隊長の説得で一同の顔に思案の色が漂いはじめた。
鈴木少尉にも混迷の色がありありと見える。
私はその様子をみてすぐ反撥した。
「 お言葉は有りがたいのですが、野中大尉殿の命令がなければ如何に大隊長殿の命令でも駄目です 」
この一言で一同の思案が吹飛んだ。
出動の指揮官は野中大尉なのである。
兵隊たちは私らの様子を窮っていたが、一人として動揺の様子は示さなかった。
私は兵を信じた。そして改めて軍律の厳しさをかみしめたのである。
二人は遂に私たちの固い信念にあきらめの表情をあらわしながら帰っていった。

二九日朝
鎮圧軍は圧力的な方法で最後の説得を開始した。
戦車が轟々と地ひびきを立てながら徐々に近づいてきて、
手はじめに私たちより前方に出ていた第四分隊 ( 新井分隊 ) を先ず説得の対照にした。
将校が盛んに新井軍装以下を説き伏せていたがやがて十分もたった頃、
隊員たちは武装を解きトラックに乗って去っていった。
相手方は各個に説得しては帰隊を促しているようである。

私は状況を判断し即刻官邸に引上げ門扉を閉ざした。
兵隊には庭に叉銃をさせて休けいをとらせたところ
戦車や歩兵が続々と近づき門前は忽ち佐倉の五七の兵隊でうめつくされた。
間もなく戦車の天蓋があき将校が姿をあらわした。
そして
「 お前たちは奉勅命令が下ったのがわからんのかッ 」 と 怒鳴った。
私が近くに行って、「 誰が誰に命令したのでありますか 」 と 反問した。
「 お前たちは叛乱軍なのだぞ 」
「 こ の地区を守るのは尊皇軍です。あなた方こそ叛乱軍だ 」
「 問答無用 ! 帰隊しなければ砲撃するぞ 」
「 砲を撃てばあなた方も死ぬ・・・・あなた方が退れば我々はそのあとについてゆきます 」
私は死を覚悟しているので何でも平気で応答した。
すると戦車は静かに後退していった。
「 くそくらえ戦車め ! 」
私がにがにがしくつぶやいたとき、どこからともなく君が代のラッパが聞こえた。
緊張の中に響くラッパの音はまことに荘厳であった。

あとで判ったことだがこのラッパは 第三中隊の指揮官清原少尉が帰隊に際し、
宮城に向って部隊の敬礼を行ったとき吹奏したラッパであったという。

戦車が退った後、包囲していた五七の一部が裏庭から飛込んできた。
その数五、六名、彼等はジロジロ見渡すとまた引上げていった。
ここに至って鈴木少尉は観念したかのように、私たちに向って簡単なあいさつをした。
「 全将校はこれから議事堂に集合してハラキリだ、
お前たちは元気で原隊に帰ってくれ、出動期間中御苦労であった 」
少尉はいい終わると駈足で出ていった。

残された私たちは放心したように後姿を見送ったが、
フト ( 鈴木少尉は何故聯隊まで一緒に帰ってから自刃しないのか ) と一寸腹が立った。
やがて五七の後からトラックが徐行してきて正門の前で停車すると車上の将校が、
「 お前たちをトラックで聯隊に送るから武装を解いて乗車せよ 」 といった。
私はすかさず、
「 武装したまま乗車を許可するなら今すぐ乗ってもよい 」
軍人が武装解除を受けることは最大の恥辱である。
原隊復帰を条件にそのような行為に応ずることに反発した。
良心が許さぬ、俺には下士官としての誇りがある。
すると将校は、
「 よし判った、そのままでよろしい 」
こうして五、六〇名の者は着剣したままの銃をもって乗車し
五時過ぎ聯隊に帰ってきた。

その時肝はきまった
歩兵第三聯隊第十中隊 伍長 福島理本 著
二・二六事件と郷土兵 から
次頁 2 「 これ程言っても命令に服従したと云えんのか 」 に 続く
 


下士官の赤誠 2 「 これ程言っても命令に服従したと云えんのか 」

2017年11月06日 20時15分18秒 | 下士官兵


福島理本伍長
1 「私は賛成します 」 ・・の続き

班に入ってみると
すでに帰っている者があって 私達が最後であったことが判った。
軍装を解いてゆっくりしていると 六時頃 兵隊だけが呼出され営庭に整列した。
どこかへ連れて行かれるらしい。
そこで私も外に出て見送りかたがた軽機班全員にあいさつした。
「 これから取調がある筈だから取調官にはあくまで命令で出動したと云え。
なおこれでお前達ともお別れになると思うから呉々も体を丈夫にして軍務に励んでもらいたい。
それでは元気でな・・・・」
私はそう言ってから落城悲憤の気持で兵舎を眺めた。
兵隊は近歩三に連れて行かれたそうである。

それから二時間後、今度は下士官集合がかかり
本部前に整列するとホロ付きのトラックが来て 輜重一に連れて行かれ、営倉に入れられた。
入倉者は全部十中隊の者だけだった。
囚われの身になってみると初めて自分の境遇が浮彫りされ、次々に不安が高まり、
それを打消すために次第に昂奮していった。
衛兵司令を呼びつけて命令してみたり、色々と用事を命じたりしてウップンを晴らそうと試みる者が多発した。
私は気を静めようと便箋と鉛筆を差入れてもらい絵を画くことにした。
そして入倉者の苦悩をとらえ憤激と落胆に満ちた営倉内の後継を克明に画いた。
題して 「 同志獄中になげく 」 我ながらよくできたと満足した。

二晩を過ごした翌日、トラックで代々木の陸軍刑務所に移された。
青い囚人服に着替え、所持していた事件中の尊皇討奸の幟と叔父宛の遺書を没収されたあと独房に入れられた。
三日目から雑居房に移されたが房中は無言。
三十分正座、三十分安座の繰り返し、チリ紙は一日六枚、未決とはいえ獄中の起居は真に身にこたえた。
だが食事がよかったのがせめてもの救いであった。
三月末頃になってようやく予審がはじまり、私は約六回ほど呼出された。
だが不思議な事に夜ばかりである。
予審官はまず家の事、軍隊に入った目的、教導学校のことなどを聞き、その次に事件に参加した個人的所感、
幹候を志願しなかった理由などを訊ねた。
この取調はどうも思想的偏向の様子をみていたようである。
ここで私は現下の国政からみて起こるべくして起こった事件で、行動は正しかったと言ったところ、
予審官の心証を大分害した様子が見えた。
「 だが 出動は詰まる所 命令によるものではないのか、そうだと云え
「 予審官殿は自分が入所した時 取上げた遺書をお読みでしょう。私の気持は今でも変わっておりません 」
・・・遺書・・・
政、財、軍閥の不正をせん除し、昭和維新を迎えんが為、ここに決起に参加することにした。
容易なことと思えないので、ここに書を認めて長年の慈育に対して感謝申し上げます。
昭和十一年二月二十五日よる     理本
父上殿
・・・  ・・・
「 これ程言っても命令に服従したと云えんのか。 もう何を聞いてもムダだ、帰りなさい
私は予審官の 「 帰りなさい 」 の言葉に
何のためらいもなく部屋を出て付添看守に伴われて帰房した。
取調中、終始憎しみをたぎらせて予審官をみていた私だったが、
予審官の言葉で胸中の優しさを知り 人間性を取り戻したような気がした。
・・リンク→反駁 ・ 福本理本伍長 「 相澤中佐はさすがだと思いました 」 

予審終了後の四月二十七日、
松本、宇田川 等数名が不起訴処分で出所した。
私は七月五日に判決を受け
叛乱罪として禁錮一年六ケ月、執行猶予二年が科された。
この裁判は一審制のため、不服であっても控訴ができない仕組になっていた。
私は何も言わなかった。

既に入所直後陸軍懲罰令によって位階勲等を剥奪され一等兵となった私には、
最早変えるべき所は郷里の家しかなかった。
厳重な かん口令の説明をうけた上 その日出所になったが、
着替える衣服がないので肩章、襟章をはずした軍服を借用し、ひとまず佐藤曹長の宿舎に落ち付き、
取り急ぎ家に向けて電報を打った。
「 イマデタ、スグイルイタノム 」
家の者は私の出所を承知したが居所が不明なので、兄が衣服を持ってきたそうである。
兄は衛兵所で元当番兵に衣服を渡し、当番兵が私の所に届けるという方法でようやく紋付、羽織袴に着替えることができた。
私は早速隊本部に行って挨拶し、すぐ家に向かった。
だが私は出所して家に帰るまでの間、実にいやな思いをした。
先ず初めが 佐藤曹長の家に落ち付いた時であるが、
向かい側の家の窓が絶えず開閉し眼の鋭い男が私を見ているのである。
私はムッとしてその男を呼びつけた。
「 あなたは何の目的で人の家を覗くのか 」
「 私は警視庁の者だ 」
「 多分そんなことだろうと思っていた。しかし私を対象とするなら無駄なことだ、つきまとう必要はない 」
「 誤解されては困る。私はあなたの保護のために見張っているのである 」
口は重宝なものだ、歩五とは恐れ入った、私は呆れてその男の顔を見なおした。
和服になって連隊に行くときもその男はついてきた。
営門を通り聯隊本部にもついてくる様子だった。
そこで私は兵営内は警視庁の及ぶ所ではないから待っていろと 一人で本部に行き挨拶した。
上野から汽車に乗ったが兄と刑事と三人で一ヶ所に向いあい、汽車が埼玉に入ると埼玉県警の者が乗込み、
熊谷駅から本庄警察が乗り 県警と交代、本庄駅に下車すると村の駐在に引継がれ 藤田村傍示堂の実家まで同行した。
一体私をどう見ているのだろう。
それ程 私の思想が異常だというのか。
私は終始腹が立ちどうしであった。
しかし執行猶予の身とはそういうものであったのである。
年期が明けるまではそのように仕組まれた中で生活を続けねばならなかったのである。
このような屈辱の日々は翌年召集がくるまで続いた。
事件の話は禁止、遠方に行くには警察に届出、畑で仕事をしている時 双眼鏡の監視をうけるなど、
個人の人権など全く無視された生活だった。
翌年十二年八月十二日召集がきて一等兵として第三野戦化学研究隊に入隊した。
この部隊は歩三で編成され 北支の天津に本部を置き、前線に出て研究資料の蒐集や情報伝達を行う毒ガス部隊である。
十三年二月一日 一等兵のまま現地除隊、軍属を経て民間会社に入社した。
この間北支の兗州えんしゅうで十二月半ば過ぎ、
事件当時の判士であった中尾金弥大尉 ( 当時磯ヶ谷兵団副官 ) に会ったことがある。
彼の前に立った私は
「 その節は大変御世話になりました 」
というと、一寸胡散臭い顔をして 「 誰か 」 と反問した。
「 二・二六事件の軍法会議で裁きを受けた被告です 」
というと 急に驚いた様子で向き直った。
そしてすぐ、「 一寸宿舎にきてくれ 」 と 言って彼の家に招かれ 下にも置かぬもてなしを受けた。
私がこんな姿になり、執行猶予の身であることを彼は彼なりにとらえ、
軍法会議の在り方、判士の立場など 当時に立ち返って胸中の苦しみをしみじみと述べて呉れた。

以上が私にとっての二・二六事件とその後であるが、
正しいと信じて参加したものの、
巨大なる圧力によって撲滅し 反乱の汚名を着る結果となった

世に 『 寄らば大樹の蔭 』 という言葉があるが、
毒があろうと トゲに鎖されうと大樹であれば寄るべきなのであろうか。
私が村に帰って来た時、空虚な心境で有識者に挨拶、その批判を乞うた。
村長、小学校長、在郷軍人分会長 等々 この人たちの事件への取り組み方は夫々に違っていても、
私の立場には皆同情的で裁判の行き過ぎをなじっていた。
やはり世間は全てが反乱者呼ばわりしていないことを知り、私は嬉しさと救われた気分に打たれた。
百姓をやっている間に聯隊から就職斡旋の通知が来たことがある。
軍馬廠を指定し どうかとの問合せであった。
私は腹が立ち即座に断りの手紙を出した。

最後に
私は家に帰ってきてから自決するつもりだった。
死ぬことによって自分の気持が正されると思ったからだ。
然し 村の有識者の励ましで生きて社会の為になるべき人間の道を説かれ、
遂に死ぬ機会を失い 今日迄生きて来た。
思えば 二・二六事件はまさに奥行きの深い大事件であった。

その時肝はきまった
歩兵第三聯隊第十中隊 伍長 福島理本 著
二・二六事件と郷土兵 から


下士官の微衷 歩兵第三聯隊第十中隊伍長 ・ 四日間の行動記録

2017年11月05日 20時09分58秒 | 下士官兵



二十六日午前零時三十分起床
戦闘準備  LG  五〇〇
IG  五〇内外
装塡
同志の意気天に沖す、天曇り洩星淋し

四時二十分出発、三、十、七、MG の順序
四時三十分?  警視庁に向かう。  途中歩一側にて集合。

午前五時頃無事占拠
外部との交通遮断をなす。 一発だに射たずに占拠せるは最も良し。
警官武装解除終り。

午前八時より逐次警官集合し、外部より入らんとせども、兵の銃剣の為入るを得ず。
将校 之が解散を武力により断行せんとせしが、流血の惨を惹起すること確実なる為、
警部の命と引替えに之が安静を要求す。

午前八時二十五分、入口総て LG、MGにて固め堅固なること強大なり。

第一師団戦時警備令の旨、午後三時通報に接す。
之がため第一師団全部の出動を知る。
市内電話交換手等三食もせず青ざめ居るも一入哀れなり。

午後八時頃、斉藤、鈴木、渡辺、高橋は確実に成功せりときき、一入快哉を叫ぶ。
牧野、西園寺の逃亡は実に無念なり。
後程 高橋は負傷なりとの事に切歯扼腕せしが、夕刻に至り胴二つになるとの事実に胸を静す。

二月二十七日
海軍省は陸戦隊を以て警備を固む。
午後三時 吾々部隊は警視庁の占拠を解き、新国会議事堂に集合せんとせしが、
途中師団長命令により、再び戻りて外に対し警戒す。
午後五時再び議事堂に集合の命により同志はほぼ全部集合す。

午後五時二十分
この時より 歩一、小藤大佐の指揮下に入る。歩一も同様なり。
午後八時頃にいたるまで炎々と火を焚き雪中に語る。
度々 命下りて情況急を告ぐると見る。
八時頃より文部大臣官舎にいたり 戦闘準備を怠らず宿営す。

午後九時二十分頃、近歩我に向いて敵対行動を起し雪を以て掩体を築き我に銃を指向せると聞く。
事重大なるに今更に快哉を叫ぶ。
近歩との一戦を辞せず。
何時両軍兵火を交ゆるやも知れず、不安の中に夜に入る。

二十八日午前七時頃出発準備の命により、武装を整え歩三よりの飯にかぶりつく。

二月二十八日午前七時、初めて聯隊の情況耳に入り悦ぶ。
57i ( 歩兵第五十七聯隊 ) の全部来りて警備につき、3i ( 歩兵第三聯隊 ) も患者を除き、ほか皆出動したりと。

午前九時頃より安藤、野中の交渉始まり恰も江戸城明渡しによく似たり。

午前十時、歩三の警備地区域たる陸軍省、陸軍大臣官舎、首相官舎等に近歩近寄りて、
歩三に止む得ず撤退したりと聞き残念至極。
近歩に対し闘志漲みなぎる、我々友軍相討つの光景を数刻後にあるを覚ゆ。
午後五時頃それがデマなると聞き 然る可しと頷く。
されど橋本中将こそ奸賊なれば斃すを要すと確信す。
近歩将校等しきりに我に入ると聞く。我々は唯、覚悟の上なれば何ものも恐れず。

午前十一時、常盤少尉来りて事態重大化を叫ぶ。
第一師団全部が改革の志に感じ
近衛師団を相手に師団長以下49、57、野重7、戦車 馳せ参ずると聞き、一同意を強うす。

正午頃、同志の幹部陸軍省に集合し監禁され自決せしとのこと。
常盤少尉辛うじて脱出の通報に接し無念おく能わず、憂至る。
我等、再三死を覚悟し 大命若し意に反せば下士官以上全員割腹を覚悟す
我、元より事の起る前より已覚悟の上なれば気晴れて心亦楽しく家事亦胸にも浮かばず。
覚悟の上は斯様にまで落付けるものかと不思議に思わる。

午後一時頃、常盤少尉来り  配備に付き 近歩に反撃を命ず。
され共 我々友軍相討つは死しても忍びず。
伊沢軍曹 若し我より発砲せば自刃すという。
蓋し然り。 我亦然り。
将校集い 情況切迫の為の会合をなす。
常盤少尉奮然として立ち 三中隊を引提げ近歩に反撃するといい去りたり。
我々隊長自刃の上は隊長に代り最後を昭和維新の光明を見出したならば自刃せんと相定めたり。

午後一時三十分
監禁中の教官来りて常盤少尉の話は全然違っていることを示せり。
此の時に至り 前の官邸占拠の件はデマなるを知れり。
然れ共 命令は何処より出るやら皆目 信用おけず。
されども近衛師団の行動と我が行動とは常に敵対なれば何時帝都焼土となるやも知れず、
又 全国民にも同志が出来つつあるを知り 然る可と思う。
二十六日には、血書の壮年十数名歩哨に接りて何かに働かして呉れといい、
或は 自動車運転手の煙草無代五十個進呈など、
又 我等行軍に対して貴婦人 車より降りて最敬礼する等は実に驚く。

午後四時
鑑定より警備のため出でて小学校に入れり。
LGは ( 福島、斉藤 ) 配備位置に準備し何時なりとも出られる如くす。
福原曹長以下五〇名約二百米隔てて近歩に相対し 彼等は鉄条網を張り銃眼を築きて準備す。
我々は只、立哨せしめて警戒に任ずるのみ。

午後四時三十分
磯部部隊来り 連携して警備す。
発砲は厳禁。

午後五時頃大隊長来りて、秩父宮注意として、「 友軍相討つな 」 と 言われる。

午後八時
近衛師団の大尉来りて磯部と会見折衝せしも
彼 若し射てば我は応戦す・・・に対して一言も言わずに去る
彼等は我々に対し戦備をなせるは事実、今更好き敵を求めるなり。
銃身を火にして斃して見せん。
我等の大精神を知らざるもの何時たりとも是正して見せん


午後十一時
六中隊鉢巻き白襷、気勢挙る。

午後十二時
飯未だ来たらず。
兵に己の身を御馳走してやりたい。
これは一つの策略による行動か、何故に飯来たらずか、
嗚呼 如何にしても聯隊より飯来たらざることは我々申しわけ立たぬことなり。

二月二十九日午前零時過、磯部大尉の報告により近歩三の報に接し、準備万端怠るなし。

午前四時頃、歩49大隊長のマイクロホンによる宣伝あり。
初めて勅許 ( 大命 ) ありたるを知る。

午前五時頃、全部を文相官邸に引上ぐ。
安藤、野中等の連絡うまく行かず、幹部集いて進撃か自決か。
井沢、福島 大命なれば我に処置なし。
錦旗に対しては射つを得ず。

午前八時頃 伊集院少佐来りて鈴木と会う。
要件は ( 別れ ) なりと、覚悟を定む。
歩哨の報告は敵 我に進み来るを知る。
会合して協議し 安藤と連絡を取らんとせども出来ず。
議事堂方向に君が代 聞こえ万才三唱響く。
帰りて協議す。
鈴木少尉は一戦やるとのこと。
我もされば小節の信義を立てるかと覚悟す。

午前八時三十分頃、武装厳しき中村少尉、渡辺特曹 兵数名と共に来り 我等泣く。
さくじつの師は今日の敵か。
嗚呼涙なくして何か面を向けん。
渡辺 耳に口を当て実は君達を貰いに来るなりと、涙して泣く。我亦泣く。
我は無抵抗、現地に止まるを主張せり。
されども鈴木少尉の意 若し戦わば勿論之に異議をはさむに非ず。
中村 「 只 男らしくやれ 」 と言う。
何れが男か、此れには迷う。
少時にして只涙し別る。
斥侯は近歩 愈々我々を圧迫せるを告ぐ。
最前方にある部隊は後退して来り 第二陣に拠るを見る。
時にタンクの轟音物凄くなりて愈々決戦の覚悟を固る。
兵全員整列装塡、着剣、整列了り 配備につかんとするや ○○将校来りて鈴木少尉と話し
我臍ほぞを固めて出でんとするも 其の儘にして取剣、配備につかしめず議事堂の方向に行く。
若干分にして帰る。

午前九時
時に戦車来り 戦車2の将校、歩三の大洞特務曹長等数名降り来りて命にかけて復帰を哀願す。
若し出来ざれば俺の首までを切れと 特務曹長は丸腰武器を一切持たず、決意の程察せらる。
教官決意固し、動ぜず。
参謀車上より怒気を含みて復帰を命ず。
兵従容として吾等が指示をまてり。
野砲の集注射撃直ちにある如く脅す。
我はそれでは現地に止まり砲弾により身を砕かんと決意せり。
教官これより議事堂に集合せんと宣し 出発せんとすれ共、将校等泣いて止まるを哀願す。
無情、参謀は怒るが如し。
よって鈴木少尉は単身議事堂に向わんとして我等を残置す。
我々もまた動ぜず。

午前九時二十五分
曹長以下一兵まで決意固し、特務曹長前進命令下せども一兵だも動かず。
遂に止むを得ず彼等前進す。
我野砲を心に画き悦ぶ。
文部省官邸に整列、頭尖を街路に出して我等少時沈黙若干の動揺の色なし。

午前九時三十五分
中村、高橋等飛び来りて泣く。
「 よく無事でいてくれた 」

午前十時
鬼神たりとも泣かざるを得んや。
中隊長新井中尉急ぎ 呼吸激しく、来りて腕を擁して泣く。

午前十一時五十分頃、止むを得ず帰る。

続二・二六事件と郷土兵  雪未だ降りやまず
歩兵第三聯隊第十中隊  伍長 福島理本
「 二・二六事件行動下のメモ 」 から


一下士官の昭和維新 1 「 参加いたします 」

2017年11月04日 20時05分25秒 | 下士官兵


福島理本伍長

二月二十五日  午後一時

鈴木少尉が、週番司令安藤大尉の許から大久保射場へ戻った時、腰に軍刀を帯びていた。
指揮刀でないので一瞬異様に感じた。
「 さては やる気か 」  よもやとも想う。
実弾射撃以後夜間の標定射撃訓練に入った時に、急遽演習取止め 帰営の指示があり、
此の時に明かに何事かあるなと直感した。
中隊の兵を先任の加庭上等兵に引率させ、軍歌演習に併せ帰営することを指示し、
我等下士官は教官と共に新宿に赴き夕食を共にした。
同席は 伊高、伊沢、大森、井戸川軍曹と、福島、松本、宇田川伍長の七名であり、
今迄にない珍しいことであった。
しかし、鈴木少尉からは特にこれという言葉はなかった。
帰営後、中隊幹部は第二下士官室に集合し 永田事件について論じ合う。
この時 鈴木少尉から
「 明朝非常呼集の演習を行う予定 」
と 指示される。
このことを聴いた時、私は始めて決行の暗示として受けとめた。

二月二十五日  午後九時三十分
九時三十分 教官の指示により下士官全員 ( 新井軍曹を除く ) 第七中隊長野中大尉の部屋に集合、
既に七中隊下士官は同室に集っていた。
狭い室内に一同入ると、

大尉は
「 十中隊もきてくれたのか 」
と 言いながら相沢中佐公判について簡単な説明があった。
その後 野中大尉はあらためて姿勢を正し、決起趣意書を静かに朗読したのである。

そして
「 自分は困難に殉ぜんとす。諸子の賛否を知りたい 」
と 言う。
「 この機を外して好機はなし。渡満を前にぜひとも決行することにする。
外敵に当るばかりが軍人の任務ではない。内敵を斃してこそ外地で働けるものなり 」
と 語気強く、声は低いが腹に沁みる言葉であった。
賛否の問いに一瞬の惑まどいが全員に流れた。
沈黙の約二分間・・・・。
自分は当然やるべきだと思い、
「 参加いたします 」
と 手を挙げる。  ・・・リンク→ 「私は賛成します 」
これによって一同が参加に踏み切ったように思われた。
大尉は、
「 では詳細を知らせる。よもや裏切るものはあるまい 」
と 言いながら、
出動部隊の規模、編成、部隊ごとの襲撃目標、
分担出動に当っての兵器、弾薬、衣料品にいたるまで 詳細な指示があった。
特に最後に、
「 いかなる場合も銃口を宮城に向けてはいけない。最悪の場合はお濠を背にして闘う事とする 」
は 印象的な指令だった。
その間に磯部大尉や田中中尉の来訪、紹介などから
歩三以外の部隊の行動などを事実として察知することができた。
不思議でならなかったのは、鈴木少尉から具体的な指示が何等ないことだった。 説明さえなかった。
自分の所属する十中隊の新井中隊長を抜きにして他の中隊長の指示 ( ? ) を受けるとは・・・・。
もう今となっては已むを得ない。
ここに居るものは、いずれも同志だという感じが漲みなぎり出してきた。
同志の紅唇は固く閉じられた。
茶菓、洋菓子を口にする者はあっても質疑をする者はひとりもなく、十一時三十分辞去した。

野中大尉の部屋を出て中隊に戻る。
途中一同声もなし。
伊高、大森、井戸川、松本、宇田川、伊沢、共に沈黙の歩みだった。
出動までにやらねばならないことがある。
大切なことがある。
私は地下廊下を十中隊第二下士官室へと急いだ。
同室の伊沢軍曹は遅れた。
私は蹶起の趣旨に殉ずる覚悟ができた。
下士官室の机にもたれて二通の遺書を認したため、残る墨汁で、体操帯に 「 決死仰維新 」 と 書いた。

帯面の織目が荒く墨汁の浸透ままならず時間を要した。
この時 鈴木少尉、私の室に入り、机上の遺書を見、
「 遺書を書くほどの必要もないだろう 」 と 言う。
私はこの時 少尉の決意に疑問を持った。
私は鈴木少尉に、
「 新井中隊長殿はどうされました 」
と 質問したところ、
「 中隊長は時期尚早との意見なのであえて連絡しない 」
との言を残して室を去った。
その後 伊沢軍曹帰室し、スチーム上の体操帯の墨書 「 決死仰維新 」 を認めて、
「 福島班長は今度のことについて どの程度知っているのか 」
 と 聞かれる。
私は答えた。
「 知らない。
しかし 野中中隊長の言葉と決意は容易に諒察することができた。だから率先意を決した 」
と 答え、
さらに買い求めておいた 『 永田事件公判記録 』 と いう冊子を机中より出して見せた。

伊沢軍曹は、
「 そうだったのか 」
と 頷うなづく。
私の心の準備はこれで完結した。
後は予想の呼集時間まで毛布にくるまるでもなく、
両肘を机上に立て興奮の眼をつむって時間の来るのを待った。

二月二十六日  午前零時三十分
二月二十六日午前午前零時三十分、
鈴木少尉の指令で起床。
私は先ず
加庭先任上等兵を起して、下士官室に呼び、静かに事の次第を説明した。
次いで 私の決意の程を体操帯を見せて示し、
その後 第四班員の一人一人を両名で揺り起こし、
起床させた。
点灯も控えさせ 不寝番にも静粛にするよう注意した。
第四班員は次の者である。
〔 二年兵 〕
加庭、宮崎、島村、山口、千崎、新井、中山。
〔 初年兵 〕
宮沢、岩井、岩田、荒木、吉岡、川島、平野、福島、大島、遊馬、秋本、加藤、
坂本、高橋、尾田、鍋沢、時女、十七名。
総員を寝台の前に立たせ非常呼集発令を告げ、その目的、蹶起趣旨の説明をする。
『 今、我国は非常に重大な危機に臨んでいる。
その最も大きいものは 相沢中佐の公判で承知かもしれないが、
国の重責にある重臣達が非常に堕落していることである。
これをやらなければならない。
彼等は畏れ多くも陛下を囲繞して悪事を恣ほしい儘にして 天皇機関を実行している。
まことに不敵な奴である。
我々は皇国の永遠の平和興隆を図るために これら奸者を滅ぼさなければならない。
我々は近く渡満という重大な任務につこうとしている。
この際、内を整理して初めて外に働けるのだ。
もし考えが同じであれば奴等を 「 ヤッツケル 」 という班長と同じ考えになる筈である。
それで実はこれから
この趣旨により光栄ある志士として昭和維新を断行しようとしているのである。

もし 「 ヤルベキダ 」 と 考える者は一緒に行動する。
大事をなすときには父母、郷党を考えてはいかぬ。賛成するものは手を挙げよ 』
と 言えば 総員賛成であった。

我が中隊は聯隊外壁に近く 非常呼集の秘密を図るために静粛を必要とした。
そこで炊事場より荒縄を運ばせ 靴に巻き
コンクリート階段の靴音の防止と、戸外の雪氷の滑り止めに意を用いた。
LG ( 軽機関銃分隊 ) 一銃に対し五百発、小銃は五十発、拳銃二、三十発、いずれも装填して戦闘準備をする。
実弾の配給、装填に兵士の顔面は緊張した。
LGは三脚架携行し 携帯口糧乙一色分、ガス戦を考慮し防毒面携行、
尚 出動は数日にわたると予想し、背嚢に外套を付し、飯盒も。
日用品として襦袢 袴 下 各一着を納め、服装は第三装着用、軍帽は最上、巻脚袢第二装用と、
死して後 笑われないように着用襦袢は努めて清潔なものを着用させた。
白兵戦となる場合の刺突要領の速成教育、拳銃の弾薬の装填、短剣による格闘要領等を示す。
それぞれ寝台に腰掛けるのを認めて休息し、出動時刻を待ち、心身ともに戦闘準備終る。
二月二十六日  午前三時
同志の意気 天に冲す。
三時十五分、東中庭に集合した。
時に降雪止み、雲間に洩星淋しく光る。
携行した甘納豆一袋を分隊員に配給したところ 兵の緊張はゆるんだ。
整列。
聯隊本部方向に向いて第三、第十、第七、МG ( 重機関銃分隊 ) の順序。
配属のМGは馬を用いず、長島、石橋伍長と肩をたたき励まし合う。

次頁 2 「 おい、福島班長、これからが大変だぜ、しっかりやろうな 」 に 続く

福島理本 著
ある下士官の二・二六事件  罰は刑にあらず
1 準備 から


一下士官の昭和維新 2 「 おい、福島班長、これからが大変だぜ、しっかりやろうな 」

2017年11月03日 19時56分50秒 | 下士官兵


福島理本伍長

前頁
1 「 参加いたします 」 の 続き

二月二十六日  午前四時二十分

出発 四時二十分。
野中大尉部隊の先頭の方から、
「 しっかりやろうぜ。
隠密行動だからできるだけ静かに、
交番のところは極力避けるが途中そのような場所があれば演習とみせることだ 」
との 逓言がある。
各中隊は小隊、分隊ごとの戦闘単位に整列、
我が中隊は鈴木少尉の指令により分隊長集合し、
合言葉は 「 尊皇--討奸 」 であることを知らされる。
兵に徹底させよと 云う。
さっそく合言葉の意味を説明し、
相手に対して 「 尊皇 」 と言って 「 討奸 」 と言う返事があれば味方である。
「 尊皇 」 と言われたら 「 討奸」 と言うことを伝え、さっそく練習する。
「 それ尊皇!」
「 ハイ、討奸!」
「 ハイなど要らないぞ、既に敵中にあると思え 」
気をつけ、出発。
重苦しい重圧感のある行進。静かにして急ぐ。
「 気をつけ!前へ進め、歩調取れ 」 などの号令ではない。
我が中隊に於ては演習気分などは更々なく、
蹶起部隊のうち、最も抵抗すると思われ、強敵となる警視庁占領がその任務であった。
我々の部隊はやがて歩一側面道路に着いて一時停止。
歩一週番指令らしい将校が来て、我が部隊の将校等と頷うなづき合う様が覗えた。


まもなく歩一部隊も繰り出して合流、進発。
途中で歩一部隊は分かれていずれかへ去った。
凍てつく道路は滑りやすく坂を下る時、三、四名の兵士が転ぶ。
警視庁手前七百メートルくらいの地点に、警官が腕を組んで交番前に立っているのを見る。
私は咄嗟に、
「 黎明れいめい攻撃の演習はきついぞ。いいか!」
と 大声で怒鳴り 演習の言葉に 特に力を入れて過した。
警官には演習に映り、兵たちは既に使命を知り覚悟の駄目押しと察したに違いない。
第十中隊は iG ( 小銃分隊 ) を先頭にLGと続き 海軍省方面から警視庁正門玄関を左にして迂回、
東側塀の破れ口から進入し 完全に包囲する。

正面玄関をすぎる際、既に野中、常盤、清原の三将校は階段上に立って居り、下士官兵の数名も一緒に居た。
そこには警官の姿はなかった。
我が中隊は庁舎東側に布陣する。
工事中のために土砂の高低 凸凹、穴、積雪、工事用材料など散乱し足許は極めて悪かったが、
躊躇ちゅうちょする場合ではないので雪中に散開した。
静かな指令で 「 折り敷け 」、庁内も極めて静かである。
点灯した窓に照準をつけよ。
命令のあるまでは絶対に引鉄ひきがねはひくな。
福島分隊は良く窓を見ていよ。
今 灯いた窓に注意をしろ。
と 指示。
その内、大森分隊の位置に民間人がやって来た。
なにも知らないらしい。寒さに縮めてうつむき加減だった。
大森軍曹は殺した声で、
「 入ってはいかん 」
「 どうしてですか 」
「 訳は後で分かる 」
「 困るなあ 」
「 駄目だと言ったら駄目だ。帰れ 」
驚いた民間人は返す言葉もなく去った。たぶん炊事夫のような者であろう。
次に間もなく福島分隊の位置したところに一名急ぎ足でやって来た。
これに対して 私はいち早く手を拡げ、
「 今 君等を通すわけにはいけないから 帰ってくれ。通るなら殺すぞ!」
この男は一言もなく とんで帰った。
見送っていると約一五〇mくらいの小路の右側の門を開けて姿を消した。
我々の耳目は目前の牙城・警視庁舎に注がれていた。

二月二十六日  午前五時
五時?
いまだ薄暗い警視庁望楼に懐中電灯の揺らぎと共に将校らしい人影を見る。
「 占拠完了 」
の 一声あり。
闇空の静けさを破り包囲の蹶起部隊一同に響き渡る。
この間一発の銃声もなし。
まさに幸運なり。幸先良し。 兵一同もホッとする。
雪中に伏したる兵員も各分隊長の命令 「 ××分隊、立て、雪を払え!」 の声が聞こえる。
緊張の一瞬は過ぎ、それぞれ騒々しくなり 寒さに反応して手をもみ 足踏みをしたり の 一時が続いた。
警視庁は全くの無抵抗であった。
警戒した新撰組はどうしたのか?  ・・・リンク→
庁舎に突入した兵士たちは?
野中隊長らの幹部は ?
と 心配するうちに 伝令が来て、
「 新撰組は警視庁地下室に監禁したので、いまからは外部に対して警戒せよとの命です 」 と。
即ち庁舎内は完全に武装解除が終了したのを確認することができた。
我々は警戒の向きを転回した。
各隊一斉にLG ( 軽機関銃分隊 )、МG ( 重機関銃分隊 ) も警視庁を背にすることになった。

一時間後、明色淡く各兵の識別もつくようになる。
我が中隊は囲みを解いて庁舎中庭に終結する。
清原少尉の指揮する三中隊の兵数十名、七中隊の兵一部らは庁舎内、屋上にあって警戒に当たり、
各入口にはLG、МG、iG ( 小銃分隊 ) により外部に対して銃口を指向していた。
電話室等は全く外部と絶たれた様子。
私は瞬時を利用して隊を離れ、玄関より舎内を馳せ 二階まで様子を見に行った。
斉藤伍長と偶々階段で遭遇。
「 オイ、ドウカ!」
「 ウン、電話交換室を抑えてしまったから心配ない 」 と。
長居は無用で急ぎ分隊へ戻り、
「 庁内は完全に制圧した 」 と 兵に告げた。
我が中隊が中庭に集結待機中、蹶起部隊の情報は刻々成功を伝えて来た。
斉藤内府、即死。渡辺大将、即死。高橋蔵相は身体真二つに等々。
成功を喜びながらも胸中の哀感を禁ずる事は出来なかった。
牧野、西園寺の逃亡は実に無念。
奸賊なのだ。
皇国のためなんだ と悟り欣事とすべきだ。

二月二十六日  午前七時三十分
七時三十分 ?
突然、
「 十中隊は内務大臣官邸を襲撃せよ 」
との 命が下る。
鈴木少尉は福原曹長を伴い
井戸川、新井、宇田川分隊、松本、井沢分隊を指揮し走って行った。
大森小銃分隊と福島LGは残って 後命を待つこととなる。
庁内は中庭に 三、七中隊の一部と十中隊のニケ分隊となり、
他は庁舎外側に布陣、道路上で人や車の通行を禁止し、外部との遮断警戒に当たる。
私は庁内待機の歯痒はがゆさに兵を残置し、査察に出、海軍省門前に来たところ、
野中隊長が、庁舎表玄関前に立ち、軍刀を握り外部の情況を看察しているのを見た。
庁舎を離れて百二十m程の路上には歩哨線を設け、
МG、LG 陣を取り、歩哨は銃剣を擬して通行を禁じていた。

空は曇天、いまだ陽光を見ることは出来なかった。
市民は逐次集まり、人垣をつくる。
市民と哨兵との間に種々問答があったが、市民には納得のいかない事が多いようである。
無心に疾走してくる円タクも、哨兵の威嚇に驚き、車を降りて人垣に加わる有様であった。
私はこの様子を見て、ただちに庁舎に戻り、我が兵を連れ出し、
市民の動勢に対応すべく 舎門と市民群集との距離ほぼ中間地点にLGを据え 待機させた。
野中隊長は黙認していた。
ついで大森分隊も舎の門前に出て、外部に対し待機した。

私は再び歩哨線に行き、市民の垣のに中に一般人らしからぬ群集を感じた。
これらの人達は非常を知り 馳せ参じた私服警察官の群れである。
彼等は人垣の前面に出て、
「 通せ、通せ 」
と 叫ぶ。
哨兵は銃剣を擬して 「 駄目だ! 駄目だ!」 と 戻す。
警官も軍隊生活の経験者であるためか哨兵の威おどしの姿勢だけでは なかなか制止をきかない。
その時に常盤少尉が巡察に来てこの様を見、
「 みなさん この歩哨線から下がって下さい。そして帰って下さい。
解散しないなら撃つぞ。いいか!」
少尉は考え、そして叫んだ。
「 どうしても解散しないなら警視庁内に居る警官を殺すぞ。それでもいいか 」
人垣の結束は崩れて来た。
その垣の中から小柄だが眼光の鋭い男が現れ、
「 どうか責任者に会わせてくれ 」
と 動じない。
「 よし 会わせてやるがこの群集は穏やかでないから静かにさせろ!」
「 責任者に会ってからでないと静かにさせられない 」
常盤少尉は困った顔。
自分を見て、
「 おい班長、この男を野中中隊長のところへ案内してくれ 」
自分は直ちに応じた。同時に、
「 失礼だが拳銃を出してください 」
「 持っていない。ピストルは役所に置いてあるんだ。
俺は出勤途上なんだ。ピストルなんか持っていない 」
私は、 「 そうですか、では・・・・」
と 言いながらも警戒して件くだんの男の右側に身体を接して野中隊長の許へ行き、事情を報告した。
「 庁舎に入れてください 」
「 いや、我々の今回の行動は陛下の御為のものであり、
警視庁も一時押えているだけで決して乱暴なことはしない。
貴殿が我々の云うことに服従しないなら 我々は貴殿らを皇国のために敵としなければならない 」
「 巡査も軍隊と同様 陛下のためと思って行動しているんですから、
軍隊の行動には手出しなどはしません。
だが、吾等の仕事は警視庁内に入らなければ何事もできないので、
ぜひとも中に入れて下さい 」
「 これより一歩も入ってはいかん!」
「 歩哨線の群れは血気盛んな警官たちです。通してくれないなら衝突するより仕方ないと思う 」
「 貴殿は戻ってその警官たちを鎮めよ 」
その時 常盤少尉が走り来た。
「 もし 静かに解散しないなら 我々は已むを得ず実力を以て撃退させる!
貴殿は解散させることが出来るか! どうだ それが出来ないなら已むを得ない 」
と 言って常盤少尉と視線を合す。
「 命にかけて巡査を鎮め解散させます 」
「 我々は正しいことをしているのだ。彼等がどうしても いうことをきかないなら射て 」
男は頷うなずき、当初のランランたる眼光はこの時に困惑に変わっていた。
私はこの男を歩哨線に連れて行き 自部の分隊に戻った。
野中、常盤の両将校は何事か話し中であったが、その視線は歩哨線外の群集にあった。
その時、内相襲撃部隊が帰って来た。
鈴木少尉は私を見て 手を横に振った。
不成功、逃げられたか?伊沢軍曹が、
「 福島班長、駄目だった。もう 居なかった 」 と 語る。
福原曹長と井戸川分隊が残っている由だった。
「 そうか。それは残念だった。ちょっと指令が遅すぎたな 」
鈴木少尉は野中隊長に報告し、次いで私等の位置に来て、
「 おい、福島班長、これからが大変だぜ、しっかりやろうな 」 と 一言。
やがて警官の一団は何事もなくいずれかに去った。

残るは一般民衆だけであった。
彼等は我等に対して
「 ご苦労様、ご苦労様、兵隊さん 」
の 声で警戒を要するようには思えない。
十中隊は一部を内相官邸に置き、
他は全員を警視庁中庭に再結集し携帯口糧を食した。
この時より時間を定めて歩哨交替警備で襲撃に出るようなことはなかった。
ときおり散発的な銃声を聞いた。
これは停止命令に従わない車に対してのタイヤ目標に射撃したもので交戦のものではない。

次頁 3 「 尊皇義軍からは射たないが 貴様らの方から射てば応戦するぞ 」   に 続く

福島理本 著
ある下士官の二・二六事件  罰は刑にあらず
2 出動 から


一下士官の昭和維新 3 「 尊皇義軍からは射たないが 貴様らの方から射てば応戦するぞ 」

2017年11月02日 19時32分15秒 | 下士官兵


福島理本伍長

前頁

2 「 おい、福島班長、これからが大変だぜ、しっかりやろうな 」 の 続き


二月二十六日  午後一時三十分
午後一時三十分~二時頃、聯隊より食糧が届く。
炊き上がった飯は四斗樽に詰められ中庭の雪上に置かれた。
我等の行動は正式に認めれたのであると 士気大いに挙る。
兵にとっては心にかかる重臣襲撃は、
この時に聯隊から食糧補給により その正しいことを証明されたのであった。
聯隊長以下聯隊幹部が私等の決行行動を認めたものとして士気はいや増したのである。

警視庁に至る道路はどこも МG、LG、iG により封鎖され 建物数ヶ所にある入口もみな厳重に固められた。
午後二時三十分、我が分隊は歩哨線に交代服務した。
外部からの激励にとまどうくらいだった。
午後三時、第一師団に戦時警備司令発動されたと聞く。
始めて49i 甲府四十九聯隊、57i 佐倉五十七聯隊 出動し、49i は歩一へ、57i は歩三で警備についた由。
これは師団として協同の警備にあたるためと思った。
歩哨の叱声は ときおり降雪を舞せて響いた。
庁内に監禁中の雇員、巡査、消防士、交換手 等 朝から食事を与えられず憐れであった。
炊事夫を入れないためである。

朝八時頃より 斉藤實、鈴木貫太郎、渡辺錠太郎、高橋是清 は確実に殺害成功と伝わる。
興津に赴いた部隊は牧野、西園寺ともに逃げられてしまったそうだ。
実に無念なことだ。
でも牧野の場合は火災の中で拳銃音がしたから おそらく自殺しているであろう。
確認はできないが火災中逃げ出した様子はなかったとのことだった。
今回の蹶起には天佑がある。
だから それは間違いなく自害しており、成功しているであろうとの意見が大部分であった。
十時頃、高橋是清は負傷で 死んでいない と伝わり悔しかったが、
夕刻になって実は胴が二つになった、これが事実だとのことに、よかった、よかったと胸を撫でおろす。

第十中隊は警備配置のほか 警視庁舎隣ビルを本部とし 交替服務宿泊することになった。
午後十二時、歩哨線巡察すると見物の民間人が多数いた。
大森軍曹は、
「 さきほど血書を携行した壮年者約十名、嘆願書を歩哨に示し 何か仕事を手伝わせてくれとの由、
我々の決起趣意書に感激しているんだそうだ。
その風体ふうていも ゴロツキのような者でなく相当の人物に見受けた 」
と 語る。
我々には一点の私心もなく 世を革あらためようとの行動だから、このような人達が出て来るのは当然であろう。
市民は午後二時になっても代わる代わる見物に来て、むしろこちらの方が驚く始末である。
タクシー運転手が、
「 金は要らないよ 」
と 言って 約五十箇もの 煙草を差出すのには 感謝した。 激励そのものである。

二十六日の夕刻から海軍省は陸戦隊の行動が活発化してきたので注目された。
私も分隊を前面の市民に対処させながらも 最も注意するところは海軍省内の動勢であった。
鉄門は閉ざされたままで兵員は我々の前面に現れない。
然し その雰囲気は 攻撃があれば闘うぞ の構えに見えた。
我々は海軍だからといって刺戟させてはいかぬと対敵意思のない行動をすることに 特に留意した。

二月二十七日  午後三時
昨日は聯隊から食糧が届いたのに今日は届かない。
午後三時、
「 警視庁にいる各隊は逐次撤去して新議事堂に集合せよ 」
と 下命があった。
そこで庁舎を去り、歩哨線を退げ 議事堂に集合しようと移動を始めた。
この議事堂集結の下命を受けた時感じたことは、
蹶起軍幹部もこのままでは海軍との衝突を最も懸念した結果であろうと思った。
二十分あまり過ぎたところ、第一師団長命令として、
「 警視庁にありし部隊は戻りて警戒に当る可し 」
との下令により、再び元の位置に復帰し 警戒する。
午後五時頃に至り 再度議事堂に集合せよとの命令あり 移動を開始した。
私の中隊が移動を開始して議事堂との距離三分の一程度の位置に至った時、いったん休止。
ここで我々は次の通達に接した。
「 蹶起の趣旨は分かった。
昨夜来の蹶起部隊は本日より戒厳司令官の指揮下に入り、
歩兵第一聯隊長 小藤大佐統率の許もと に麹町地区一帯の警備に任ず可し 」
これは口頭命令で全員に示達じたつされた。
我々の目的は、なかば達成できたと思い、気も晴れ晴れとした。
三、七、十、配属のМG、それぞれ議事堂構内に集結を終り、
折柄、議事堂工事の廃材を集め雪中炎々と火を焚き 暖を取り合った。
その間も決して安心ならぬ情報が刻々入る。
第一師団戦時警備令による歩一、歩三の警備地区に対して49i、57i はおろか、
近歩までが武装して出動しているとのこと、戦時警備令によれば旅団単位で警備しなければなるまい。
歩三には僅少の留守隊しかないのだから 歩一だって同じ筈だ。
我々は今はもう麹町地区一帯の警備軍なのだ。
が、歩三の我々がほのい小藤大佐の指揮下に入るということは亦どうなのか?
下士官連中の問答、憶測に対して明快な回答は何一つ与えられなかった。
将校達も野中隊長の許に集まり協議しては自隊に戻り、情報を伝えるがいずれも一貫性がないのが気に掛る。

二月二十七日  午後七時
だいぶ暗くなった。
その後は小藤大佐からの指令は何ひとつなく、悪い予感がする。
午後八時、寒さは酷きびしくなる。
ここで露営かと覚悟していたが、第十中隊は文部大臣官舎に至って警備宿営することになる。
将校の動き、下士官の挙動。兵はどのように感じていたのであろうか。
文部大臣官舎は近距離である。
私は兵を安心させる手段は何もなかった。
ただ正義の戦いであるということだけである。
聯隊から食糧が来ない。
この一事、私等の知らぬうちに何物とも知れない動きがあるのではないか。
文相官邸に入る。
武装は瞬時も解けない。
兵の動きが活発になり食糧をあさる懸念が出た。
「 舎内を荒らしてはならないぞ。掠奪りゃくだつなどしたら厳罰だぞ。
武士は食わねど高楊枝だ。もう少しの我慢だ 」
兵隊も素直に極めて従順に指令に従った。
一人、二年兵の誰だったか班が違うので判明しないが、勝手の戸棚から角砂糖を持出して、
「 班長殿、いかがですか 」 と 差出した。
「そうか。自分は要らぬ。一粒ずつ兵に与えてやれ。それ以上家捜しするな 」
これ以上は叱れなかった。みな空腹なのだ。
各分隊それぞれ格好な部屋に入り 亦は廊下に休息する。

二、三の兵が鉛筆をとるのを見る。遺書である。
止めさせることはできない。むしろ覚悟のために書かせたい。
東京市出身兵で電話をかけるものがいる。まだ電話は通じていたのである。
私の班でも島村だったと思う。
私は、
「 電話は無事でいるくらいは良いがそれ以上はしゃべってはいかんぞ 」
と やめさせる。
空腹と疲労で腰を下ろすとすぐ眠る兵、ますます緊張してゆくものなど様々だ。
午後九時頃、陸軍大臣告示という印刷物が渡される。

まさに 「 万歳 」 である。
声を大にして兵に伝える。
一同大いに喜ぶ。
遺書書く手許も止まったことであろう。

午後九時稍々過ぎた頃、
近衛部隊が出動して盛んに雪を固めて掩体を築き、
銃口はいずれも我々の方に向いていると緊急情報が入る。
彼等は陸軍大臣告示をいまだ知らないのであろう。
もし我々を攻撃して来るようなら 彼等は賊軍となるのだ。
彼等の幹部は我々の蹶起の趣旨を知らないはずはあるまい。
仮にも攻撃してくれば本望ではないか。決戦してみようではないか。
安心は出来ない、厳重に警戒しなければならない。
さっそく一部を以て斥侯を出し 様子を探らせる。
報告はやがて、
「 我々は包囲されているらしい。
攻撃態勢ではなく 我が部隊の攻撃に備えているのではないか。
どちらか判明しないが いずれにしても敵対行動には変りない 」
兵の休息を考えながら約二分の一の兵員を以て前面の道路の両側、
麹町小学校の入口附近に散開して敵襲に備えた。

二月二十八日  午前六時
そのまま朝になる。何事もなく朝を迎えた。
午前七時、全員移動の下命があったところへ聯隊から食事が届けられた。
一同 なにはおいてもありがたいことだった。
さっそく配給食事にかぶりつく。
その時の情報は、
「 聯隊から食糧を届ようとしても ほとんど包囲軍に取り上げられてしまうのだ。
これは囲みの薄いところを突破してようやく届けられたが、これが最後になるかも知れない。
それよりも歩三には57五十七聯隊が入って留守隊は患者を除く全員が出動してしまった 」 と。
「 当然のことではないか。五七と協同して警備につくのは同じ第二旅団なのだから 」
「 違う、違うんだ。蹶起部隊を包囲して居るんだぞ 」
「 そんなはずはない。
第一師団は結束して近歩を始め その他の出動部隊に対して警戒配置についたのであろうよ 」
今の我々は小藤大佐の指揮下にあるのだから・・・・と自らの心に語っても不安は募るばかりであった。
その後も小藤大佐からの命令は何ひとつない。
時は刻々過ぎる。情報は次々伝わる。

陸軍大臣官舎に於て安藤、野中その他蹶起部隊幹部の折衝は行われつつあり。
その様子は恰も勝海舟と西郷との江戸城明渡交渉に似たり・・・・等々。
午前十時、歩三は陸軍省、陸軍大臣官舎、首相官邸を撤退し近歩が替わって警備についたと?
奇怪なことである。第一師団の歩三警備区域に近歩が入るとは。
五十七聯隊はどうしたのだ。
近衛師団が第一師団に対して攻撃に出たのか

情報は混沌として真相は把握できないが 近歩が敵であることには間違いはない。
敵は近歩三である。
近歩三には一部我々と共に蹶起した中隊もあるのに。
午後五時頃になり全くの デマ であり、歩三は依然として上記三地区を警備中と知る。
橋本中将は奸賊だ。
これは斃す必要がある。
近衛師団長たるものが奸賊では近歩が我々の行動に同調出来る筈がない。
どうしても討たねばならない。
ときおり、配備兵の報告に近歩の将校斥侯らしい者、しきりに我が陣近くに現れると。
彼等の進撃あれば戦うまでだ。いつでも来い。どちらからでも来い。
と 決意固める。

十一時、常盤少尉が来て、事態極めて重大となってきたぞと云う。
斯くなる上は我々を攻撃する者は即ち敵であるから、攻撃を受ければ遠慮はない。戦うまでだ。
しばらくして蹶起部隊本部 ( この時は陸軍省 ? ) から 一下士官が伝令として情況報告あり、
「 堀師団長以下第一師団全部が蹶起の志に感じ、近衛師団を相手にするために四十九聯隊、
五十七聯隊、野戦重砲七聯隊、戦車第二聯隊が馳せ参じつつあり 」 と。
十二時を過ぎた頃 又 常盤少尉来り、
「 蹶起部隊幹部は陸軍省に監禁され、自決した。私はかろうじて脱出してきた 」 と。
何時頃からまったく将校達の姿が見えなくなった。
鈴木少尉も顔を見せない。
上官達が自決したようでは中隊、分隊の行動にも迂闊なことはできないぞ。
兵の生命は護らねばならない。
なぜ自決するのか。情報は支離滅裂ではないか。
それにしても心配なものだ。
井沢、井戸川、大森、松本の各下士官と自分も含め協議の結果、
いずれにしても動揺することなく事態を見究めようではないか。
その結果、将校達の自決が事実であればそれは大命によるものか、
事と次第によっては下士官以上は割腹すべきである。
この時である。
維新義軍の檄文が七中隊から届けられた。
  檄文
尊王討奸の義軍は如何なる大事も兵器も恐れるものではない。
又如何なる邪知策謀をも明鏡によって照破する。
皇軍と名のつく軍隊が我が義軍を討てる道理がない。
大御心を奉載せる軍隊は我が義軍を激励しつつある。
全国軍隊は各地に蹶起せんとし、全国民は万歳を絶叫しつつある。
八百万の神々も我が至誠に感心し加護を垂れ給う。
至誠は天聴に達す。
義軍は飽くまで死生を共にし昭和維新の天岩戸開きを待つのみ。
進め進め、一歩も退くな、位置に勇敢、二にも勇敢、三に勇敢、以て聖業を翼賛し奉れ。
昭和十一年二月二十八日
維新義軍
( 二月二八日午後、蹶起部隊本部から各行動隊下士官兵に配布された。ガリ版刷り )

このような状況下にあっても心は極めて平静で居られるものである。
覚悟の上だからだ。
実に明朗な心境で事態を看察出来るものだ。
常盤少尉 再度来て、 「 近歩に反撃せよ 」 と言う。
私は伊沢軍曹と顔を見合す。攻撃されれば撃つが 我が方から先に攻撃は出来ない。
同胞を撃つことは出来ない。
伊沢軍曹は、「 我が方から発砲するようならむしろ自決する 」 と言う。
私も亦その方がはるかに気が楽だと言う。
情況ますます切迫の様子に将校数名集まって協議するうち、常盤少尉が奮然として、
「 三中隊の兵を引連れて近歩に攻撃するぞ 」
と 言いながら走り去る。
三中隊は清原少尉の指揮下にあり、我々は鈴木少尉の指揮下なのに、
常盤少尉は何故に七中隊の兵を指揮しないのか。不思議でならなかった。
鈴木少尉からは何の連絡もない。自決したのか。

午後一時三十分頃、鈴木少尉が走って来た。
そして、
「 情況事態は混沌としている。我々は益々やり抜かねばならない。
歩三の蹶起部隊は将校以下みな張り切っているぞ。しっかり頼むぞ 」
と 言った。
常盤少尉の言葉は全く違っていることが判った。
教官は尚続けて言う、
「 師団長以下第一師団全部が我々同志を援護してくれることになっている。
第一師団には野砲も重砲も戦車もあるんだ。もし近歩が攻撃してきても充分に戦えるんだから安心だ 」
この言葉で大いに力づいた。
そして鈴木少尉は尚続けて、
「 今 盛んに全国的に同志が出来つつあり各地で蹶起行動があるらしいぞ 」
我々の意気は大いに挙る。
兵士もこれで大いに元気づけられ、戦局は混沌としていても一応有利に展開しているように思われた。
少尉の情況下達は兵に徹底させる必要がある。
先の常盤少尉の出動要請などは全く血迷い行動のようであり、
これを見ていた兵たちの心境はどのようであったろうか。
私は鈴木少尉に言った。
「 常盤少尉が先刻来りて我々に出撃を指示したが 」
少尉は
「 なに 常盤が 」
口をつぐんでしまった。
「 監禁されてはいない。自決もしていない。
だが陸軍大臣官邸では全く混沌としているんだ。我々がしっかりしなければ駄目だ 」
と 言う。
決起出動以来のことを考えてみると、
二十六日には壮者十数名血書を構えて感銘をうけた。
俺達にもなにかさせてくれと申し入れあり、
又 円タクの運転手が煙草五十箇ほど持って来て、
「 金は要らないよ。兵隊様吸って下さいよ 」
こちらこそ感銘をうけたものだった。
わざわざ車から降りて貴婦人の
「 兵隊さん、ご苦労様 」
との言葉で最敬礼されたこともあった。
これ程迄我等の行動は一般人には理解されているんだと思うと、
現在の事態に対処する心構えは益々張り切るべきである。
午後三時、中隊はあらためて攻撃に対し布陣することになる。
文相官邸を本部として概ね図の通りであった。

文相官邸前の小学校 ( 麹町小学校 ) には福島、宇田川、斉藤のLG、が入る。
布陣は宇田川分隊は道路上に、
福島、斉藤分隊は学校北側の垣根沿に雪を固めて掩体構築し来襲に備えることとなる。
この両分隊は生垣を遮蔽物として恰好なものであったが、
宇田川分隊は街路樹は細くセメントのかけらや大石を利用して雪を覆い、
いざの時に邸内から跳り出てこれを利用する手筈とした。
福原曹長以下小銃分隊は白兵を提げて大通りに交差する路地に待機。
敵進攻の折り側面から突込みを敢行かる手筈である。
布陣の上は待機するだけである。

午後四時、
磯部部隊と称して数名の兵が来た。歩一のようであった。
十中隊に連繋して警備するからとのことだ。
鈴木少尉から指令が来た。
「 発砲は厳禁する。敵が射っても命令あるまでは射ってはならないぞ 」
今迄は 「 敵が射つまでは 」 であったが 今度は 「 射たれても射つな 」 とは。
これはどうなるかわからない。
退避するならわかるが退避は逃げる事だ。どのようになっても敵に後ろは見せないぞ。
冗談じゃない。射たないで突込んでやるとするか。
射つ射たないは ひとつには兵を助けることなんだから兵を退避させて自分だけでやればいい。
余人は知らない。自分はやるぞ。
午後五時頃、野津大隊長と渡辺特務曹長と兵二名が来た。
下士官たちは官邸内の一室に集まり大隊長の説得を聞いた。
「 新井中尉は来ていないか 」
「 おりません 」
「 秩父宮から注意が出ているぞ 」
「 ・・・・」
友軍相撃つな。蹶起軍は反乱軍になっているぞ 」
「 ・・・・」
「 包囲軍の前面には歩三の兵が、十中隊の前には十中隊の留守部隊が出ているんだ。
俺達について帰営してくれないか 」
すでに決意の下士官にも私案の影が浮ぶ。
私は新品伍長であるが口を切った。
「 野中大尉の命令でなければ 今は帰るわけにはまいりません 」
この一言は我々をどうにもならない方向に、而もあらためて決意を強固なものとした。
使者は現れた方向に急ぎ足で戻った。
この様子を見ていた兵にも動揺の色を感じさせなかった。

緊張裡に過ぎる時間は刻々と早い。
夕闇、空腹、包囲軍からの重圧----この状況では決戦は今夜になると思われた。
六時頃、中隊に四斗樽が届いた。聯隊からとは思えない。
鈴木少尉はすみやかに配給するように指令している。
「 教官殿、この酒はどこからですか 」
「 常盤少尉の親戚から差入れなんだそうだ 」
一同大いに喜んで飯盒に配給だ。
自分は既に煙草もない一同のことを考え 急ぎ足で附近の煙草屋を探した。
戸は閉まってはいるが看板を見つけて叩くと窓を開けてくれた。有金をはたいた。
もう金なんか要らない。まとめて買って帰り兵に配給して 言った。
「 空腹では戦さにもならない。酒を飲み雪を食い煙草でも吸って元気を出そう 」
然しこの酒は一同に非常にこたえた。悪酔いする者があった。
緊張の時てせもあり、あまりにも空腹に雪では身体が堪らなかったのが判った。

兵一名連れて状況偵察に鉄道大臣官邸附近に行った時に驚いた。
午後八時? 近衛の軍帽着用の大尉か居るではないか。
これに対するは磯部大尉である。
射つか射たないかの折衝である。
磯部大尉は
「 尊皇義軍からは射たないが 貴様らの方から射てば応戦するぞ 」
リンク
・・・二・二六事件 「 昭和維新は大御心に副はず 」
・・・行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 

近衛大尉は一言もなく去り、闇に消えた。
彼は兵を連れずに単独であった。
こんな所に近衛将校が単独で入ったことに警戒の洩れを知った。
そして思った。敵も射つ気になれないのだな。
でも、あれだけの攻撃態勢を整えているのだから必ず射つに違いない。
その時こそ好敵御参なれだ。銃身を真赤にして撃ち斃してみせるぞ。
私心の無い我々の大精神を知らしめてやるぞ。
安藤中隊の鉢巻き、白襷で気勢が上がっているそうだ。
十二時になっても糧食はこない。
これは聯隊からの支援がないことが判った。
各隊から派遣した糧食下士官兵も戻らない。我が中隊は伊高軍曹だったか。
軍曹は無事だろうか。それにしてもこの空腹は堪え難いものだ。
食事も与えられないとは兵に対して申し訳もない。
できることなら自分の身体でも食べさせたいくらいだ。
小藤大佐の指揮下に入ってることや
第一師団全部が結束して支援するという情報など いずれも真におけないぞ。
策略に相違ない。将校連中はどう考えているのか。
伊沢軍曹を求めて聞いてみたが全く同感である。
現在の様子が皆目 掴めない。
このまま攻撃にさらされたら戦うまでだ。
初心に返り 己れを信じ 徹底して戦いぬくだけだ。

二月二十九日  午前零時
夜零時、私はたまたま路上巡察していたところ、マントを翻して走ってきた将校がいた。
磯部大尉であった。掌中に入る小型拳銃を握りながら、
「 おい 近衛が攻撃を開始したぞ 」
と言う。
私は直ちに戻って兵員に指示し、眼を凝らして待機したが 前方にその変化を認められない。
此の頃より 轟轟ごうごうたる戦車の響きが恰も我等を囲むように西方に移動するのが聞こえた。
その距離は一km前後かとも思われた。
敵の来襲を待つ事三時間余。攻めてこなかった。
午前四時頃、四十九聯隊の大隊長と名乗る者のマイクロホンによる宣伝があり、閑院宮邸方面より聞えて来た。
私は兵の動揺を察知し、これはまさに思想戦謀略なりと感じた。
直ちに兵に
「 我々の団結を覆さんとする策略である。迷ってはならない 」 と 告げる。

奉勅命令要旨
戒厳司令官は三宅坂附近一帯を占拠せる将兵をして
速やかに各師団長の指揮下に復帰せしむる可し

不可思議なことである。
我々は戒厳司令官の命によって小藤大佐の指揮下にあるのだ。
命令系統指揮系統を通じて下令があって当然ではないか。
種々考えたが情況は切迫するばかり。
勅命の真疑はともかく、無謀の衝突を避けるため ひとまず兵を集結掌握して態度を決めることとなる。
出撃はいつでもできる。どうせ戦闘で勝てる兵力ではないのだから。
官舎内に下士官一同集まり 鈴木少尉と共に協議したが、意見定まらなかった。
井沢、福島は進撃は否とし時を考えて自決を求むとした。
下士官以上の損傷は当然としても、兵たちを守らねばならない。
勝目のない戦いとなるなら兵だけでも無事帰すべきだと思う。
ひとりでも闘志は燃えるのだ。官邸に近い分隊だけを哨兵を残して邸内に集結せしめた。
事態に応変の姿勢と兵力の温存である。
敵が発砲の無い限り 我は抵抗せずの構えである。

次頁 4 「 今から第十中隊は各分隊ごとに議事堂に集結する。いいか。着け剣 」   に続く

福島理本 著
ある下士官の二・二六事件  罰は刑にあらず
3 警備 から
次頁 に 続く


一下士官の昭和維新 4 「 今から第十中隊は各分隊ごとに議事堂に集結する。いいか。着け剣 」

2017年11月01日 19時17分40秒 | 下士官兵


福島理本伍長

前頁
3 「 尊皇義軍からは射たないが 貴様らの方から射てば応戦するぞ 」 の 続き


二月二十九日  午前零時
夜零時、私はたまたま路上巡察していたところ、マントを翻して走ってきた将校がいた。
磯部大尉であった。掌中に入る小型拳銃を握りながら、
「 おい 近衛が攻撃を開始したぞ 」
と言う。
私は直ちに戻って兵員に指示し、眼を凝らして待機したが 前方にその変化を認められない。
此の頃より 轟轟ごうごうたる戦車の響きが恰も我等を囲むように西方に移動するのが聞こえた。
その距離は一km前後かとも思われた。
敵の来襲を待つ事三時間余。攻めてこなかった。
午前四時頃、
四十九聯隊の大隊長と名乗る者のマイクロホンによる宣伝があり、閑院宮邸方面より聞えて来た。
私は兵の動揺を察知し、これはまさに思想戦謀略なりと感じた。
直ちに兵に
「 我々の団結を覆さんとする策略である。迷ってはならない 」
と 告げる。

奉勅命令要旨
戒厳司令官は三宅坂附近一帯を占拠せる将兵をして
速やかに各師団長の指揮下に復帰せしむる可し

不可思議なことである。
我々は戒厳司令官の命によって小藤大佐の指揮下にあるのだ。
命令系統指揮系統を通じて下令があって当然ではないか。
種々考えたが情況は切迫するばかり。
勅命の真疑はともかく、無謀の衝突を避けるため ひとまず兵を集結掌握して態度を決めることとなる。
出撃はいつでもできる。どうせ戦闘で勝てる兵力ではないのだから。
官舎内に下士官一同集まり 鈴木少尉と共に協議したが、意見定まらなかった。
井沢、福島は進撃は否とし時を考えて自決を求むとした。
下士官以上の損傷は当然としても、兵たちを守らねばならない。
勝目のない戦いとなるなら兵だけでも無事帰すべきだと思う。
ひとりでも闘志は燃えるのだ。官邸に近い分隊だけを哨兵を残して邸内に集結せしめた。
事態に応変の姿勢と兵力の温存である。
敵が発砲の無い限り 我は抵抗せずの構えである。

午前八時頃か、
第二大隊長の伊集院少佐が来て、鈴木少尉と会う。
さては昨日の野津大隊長の説得と同じことかと少尉に問えば、
「 説得ではない、別れに来たのだ 」
と 言う。
哨兵から敵は我が方に向ってくると報告があり、
我等会合して協議の上、安藤大尉との連絡を取ろうとしたが急迫して それも出来なかった。
文相官邸門前にあって、野中、安藤大尉との連絡指示をうけるにはどうしたらよいのだろうかと考えながら、
情況査察をしていたところ、議事堂方向から 『 君が代 』 の吹奏が聞えて来た。
緊張裡に響き渡る荘重なる吹奏であったが、万歳の三唱によって喊声 ( 突撃の時の声 ) は続かなかった。
銃声も起らないのは攻撃もなく、自害でもなく、不思議に思われた。
( 後日 聴く処によると 第三中隊が武装解除に当り 『 君が代 』 の吹奏後帰順した )
悲愴な響きであり決戦前の一儀式かと私は推察したものだった。

二、三の幹部が集まり今後はどうするか協議した。
鈴木少尉は、「 他中隊は知らず、十中隊は一戦する 」 と言う。
ここに至っては已む無し。
私も されば小節の信義を立て 共に戦わんと決意した。
午前八時三十分頃か、
防弾チョッキ使用の中村少尉と渡辺特務曹長に兵数名が正面に現れた。
何故か只涙が出る。
二、三日前までは上官であり師である中村、渡辺特曹が今では敵の立場に立つ。
まさに悲劇そのものである。
渡辺特務曹長は我が耳に口を当て、「 君達を貰いに来たんだ。無事でよかった 」 と言う。
相互に涙と共に抱擁もしたが、咄嗟のことであり これで戦意を失ったものではない。
防弾チョッキなど着用してきやがったな。
帰ってくれと言う。
私は無抵抗で現地に止まるべきであると主張する。
でも鈴木少尉が戦うというのであればもちろん意義などさらさらない。
この様子を見て中村少尉は、「 では最後を男らしくやれ 」 と 言いおいてさる。
「 貴様らの方が男らしくやれだ・・・・」
私の呟きである。
「 防弾チョッキなど着用して。裸で来い だ 」
事茲に至っては泣いてばかりはいられない。今では武装して来るものは敵なのだ。
攻撃してくるから 「 男らしく戦え 」 と 言う。
この捨て台詞は笑止なものだ。どちらが男らしいのだ。
私は包囲態勢を見ようと路側を走り、
十字路より前方にある新井、加庭の軽機分隊の後退帰順の已む無き状況を凝視する。
直ちに分隊に戻る。
「 総員集合。弾込め。着け剣 」
門内に整列、出撃準備し、
「 陣につけ 」
開門したところ将校が走って来て 門前で鈴木少尉と会い、話合いを始めた。
私はもどかしく思い 門外に出様としたが、
「 待て待て 」
鈴木少尉は門に立塞がり、
「 取り剣 」
と 命じた。
剣を取れば闘志は一応おさまりはするが、敵の出様では直にでも着剣するぞ と決心する。
この将校は何者であったのか、
鈴木少尉をしてこのように瞬間な翻意させたのは蹶起側として命令を伝えたものであろうか。
攻撃軍の命を聞くような状況下ではなかった。
我等は決戦待機の姿勢であった。
少尉は隊の動静を眺め議事堂方向に走る。件くだんの将校も亦追尾して走り去った。
まもなく鈴木少尉が帰ったが その時に戦車が門前に来て、
これに追尾のトラックから歩三の大洞特務曹長等数名 飛び降り、我等の前に来て、
「 どうか帰隊してくれ。お願いだ。お願いだ 」 と 哀願ともとれる懇願である。
「 帰営出来ないなら俺の首を切り落としてから出撃、戦ってくれ 」 と 言い、眼は涙である。
しかも特務曹長はまったくの丸腰である。
決死の覚悟もその眼に歴然としていた。さっきの防弾チョッキとは月とスッポンだ。
偉い軍人だと敬服した。
然し 鈴木少尉の決意は固く、勧告に動じなかった。
天蓋を開いた戦車上から参謀が、怒気を含んで、
「 お前達は聯隊へ帰れ。帰らなければ射つぞ 」 と 怒鳴る。
私はこの射つぞの言葉に我慢が出来なかった。
進み出て、
「 射つなら撃ってくれ 」
「 お前達は反乱軍だ 」
「 ちがう 尊皇軍だ 」
「 愚図愚図していると野砲の集中射撃となるぞ 」
「 それは幸いだ 」
その時は包囲軍も戦車も一緒ではないか。
喧噪のなかにも我等の不退転の意思は察知できたのであろう。
兵は緊張裡にも従容として成行を見守った。
鈴木少尉はこの時、この状況下で如何ともし難くなり、
「 今から第十中隊は各分隊ごとに議事堂に集結する。いいか。着け剣 」
将校等は門前に立ち塞がり、通さなかった。
この一群の非武装丸腰、決死の威圧は我々の足を止めた。
参謀は益々怒気を発し、何やら叫んでいた。
この時、鈴木少尉は、
「 我々将校は集合して自決することになる 」
と 言って、単身議事堂方向に走って行った。

この時隊伍を整えた歩兵五十七聯隊 部隊が門前に到着した。
攻撃の構えでなく、隊列整然としている。彼等の凛々しくも我等を見る眼には敵意はなかった。
参謀は 更に叫ぶ 「 早く帰れ、帰らなければこの部隊が攻撃するぞ。命令だから帰れ 」
誰が誰に命令するのか。勝手にしろ。こちらは今更答える口を持たない。
暫くして参謀は戦車と共に鉄道大臣官邸方向に去った。
歩兵五十七聯隊の部隊は我が方に対峙するわけでもなく停止するでもなく眼前を行進する。
この期に及んでも曹長以下一兵までは決意は固かった。
鈴木少尉が去り、指導者は福原曹長となった。
これを見た大洞特務曹長は 自ら我々を指揮しようとし、
「 聯隊へ向って出発 」 と 言う。
下士、兵は一兵も動かなかった。已む無く彼等は去った。
沈黙の時が経つ。
私は野砲の集中射撃を心に描きつつ それを悦ぶ心境になる。
これからどのようになるのか、
野中大尉との連絡も途絶え、 鈴木少尉は自決を口にして陸軍大臣官邸に去ってしまった。
こうなった以上は各分隊単位に去就を決するより仕方がない。
文相官邸の門より頭を出して街路を見た。友軍は見当たらず五十七聯隊の隊列が見えるだけ。
沈黙。
時を待つしかない。
兵達も私の迷いを察知したのであろうが、決して動揺の色は見せない。
その時突然、中村少尉、高橋特務曹長が跳んで来た。
こんどは両者とも寸鉄も帯びず防弾チョッキも着けていない。
我等の手を取り、「 無事でよかった。よく撃たないでいてくれた 」 と 男泣きする。
続いて中隊長新井中尉が息せき切って走り来り。各分隊長を逐次抱擁し嗚咽する。
一同は官舎内に入った。
中隊長は
「 反乱軍、そんなことは今は気にするな。そんなことより無事でいてくれて嬉しい。
とにかく中隊長の云う事に従ってくれ 」 と 説く。
新井中隊長は我々井沢、大森、井戸川軍曹、福島、宇田川伍長を
逐次、真剣な眼差しで反応や如何にと・・・凝視していた。
中隊長の眼は充血していた。
闘志はなく、慈しみと悲しみを合わせた表情であった。
我々も亦中隊長を目前にしては闘志の崩れ行くのを止めようもなかった。
戦は終ったのではない。
私は中隊長に言った。
「 中隊長殿、帰ります。兵を帰します。
けれども武装解除はうけません。
陸軍の栄誉にかけて武装解除の恥辱だけはうけさせないで下さい。
我々は攻撃はしません。このままでの帰営なら帰ります。おねがいします 」
これを聞く中隊長、中村、高橋上官等はいずれも頷いてくれた。
頷きは承知である。
私は部屋を出た。
分隊員に、「 そのまま聴け、みんないいか 」 と 言ったとたん兵達が一斉に官舎右側に向って身構えた。
見ると五、六名の着剣の兵が侵入して来たのである。
私は大音声で、
「 ヤル気か。 貴様ら 」
と 言うなり大手を横にして睨み据えた。
彼等は一瞬たじろいで引き退った。
彼等も敵意はないのだ。発砲も攻撃もしない斥侯である。偵察だけなのだ。
再び兵に告げた。
「 中隊長が迎えに来た。今は中隊長の指示に従うことにして聯隊へ帰ることにする。
けれども戦いは終ったとはいえない。どこで攻撃をうけても戦う心構えでいることだ。
いいか 聯隊へ帰り着くまでは油断できないぞ 」
兵は無言、只 頷くばかりであった。

私は門前に立てた尊皇討奸の幟のぼりを青竹から外し、二つ折り、くるくる海苔巻にして背嚢に納めた。
聯隊に帰るという言葉。
蹶起のシンボルともなった尊皇討奸の長旗。
私が始末する様子を見て兵に安堵の気が流れるのを知った。
行進する五十七部隊の追尾のトラック二輌が来た。
同乗の将校が、「 武装を解け 」 と 告げる。
私はすかさず言った。
「 我々は攻撃はしないぞ。だから帝国軍人の最大の恥辱は武装解除にある。この恥辱は嫌だ。
このままで帰営させて下さい。でないと我々は乗車しない 」
「 どうでも良いから 早く乗車しろ 」
「 ヨシ、では一同乗車 」
この時から新井中隊長、中村、高橋上官等とは会わない。
我等の乗車を見て包囲軍に戻ったのか。
車上は狭かったこともあるが、もし途中、万一攻撃を受けることがあったらとの考えもまだあった。
LG、iG 共に装填したままである。
そこで包囲軍の攻撃態勢の様子を見る事になった。
敵意というものは捨てていたが無性に癪にさわった。
やり場のない悔しさが身体中をかけめぐる。
この時の二輌には福島、井沢、大森の三ケ分隊が乗車と記憶している。
時に十一時五十分を過ぎた。
帰着したのは午後一時頃であった。

福島理本 著
ある下士官の二・二六事件  罰は刑にあらず
3 警備 から