あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」

2020年06月18日 18時52分03秒 | 説得と鎭壓


決心を変更します

林、荒木 両参議官の退場で
残るは大臣、次長、局長、部長、戒厳司令官らの首脳部のみとなった。
戒厳司令官は 改まった態度で、
「 この機会に及んでは
平和解決唯一の手段は昭和維新断行のためご聖断を仰ぐにある。
自分は今より参内して上奏しようと考えている。
上奏の要点は昭和維新の ご内意を拝承するにある。
目下の状況においては
反乱将校は
たとえ逆賊の名を与えられるも奉勅命令に従わずという堅い決心をもっている。
奉勅命令は まだ出していないが、
これを出すときは皇軍相撃は必然的に明らかである。
兵には全く罪はない、幹部の責任のみである。
しかして この罪は独り将校の負うべきもので 罪は軍法会議において問えばよい。
しかも 将校とても その主張する主義精神は全く昭和維新が横溢おういつしている。
深く咎むるべき限りではない。
また 場合によっては 後に至り大赦をおおせ出されることも考えられる。
元来、彼らは演習名義にて出動せるもので他意はない。
もしこれに対して兵力を使用せんか、弾丸皇居に飛び 外国公館に損害を与え
無辜むこの人民にも負傷させることになろう。
本来、自分は
彼らの行動を必ずしも否認しないものである。
特に 皇軍相撃に至らば 彼らを撤退せしむべき勅諭命令の実行は不可能となろう 」
と 述べたてた。
だが、

杉山次長は 断乎としてこれに反対した。
「 全然、不同意、
二日間にわたって所属長官から懇切に訓示し、
軍の長老もまた 身を屈して説得せるにかかわらず、
遂に これに聴従する所がない。
もはやこれ以上は軍紀維持上よりするも許し難い。
また、陛下に対し奉り
この機に及んで昭和維新断行の勅語を賜わるべくお願いするは恐懼に堪えない。
統帥部としては断じて不同意である。
奉勅命令に示された通り 兵力にて討伐せよ 」
と 強硬な態度を示した。
ここにおいて
香椎中将は数分にわたって沈思黙考した。
既に攻撃命令を下しながらも、まだ、奉勅命令の下達をためらっていた香椎司令官も、
この統帥部の反対にあって苦しんだ。
彼は皇道派の同情者であった。
だが、ついに 討伐断行の腹をきめた。
「 私の決心は 変更いたします。討伐を断行します 」
と 言い切った。
時に午前十時十分であった。

これより前々日
宮中で の説得案審議のおり、
「 香椎警備司令官は起って、
自分は相沢公判を傍聴せるが その際感じたる所によれば、
相沢は決行の後 ゆうゆう台湾に赴任を考えありしが、
これは恐らく 一念昭和維新のみを考え、他を顧みざりし結果ならん。
相沢の一刀両断は鳥羽伏見の戦いなり、
鳥羽伏見の戦に勝ったが実は蛤御門の戰なりしを知らざりしが如し。
今回の反乱将校のいい分もかくの如き観念に発せるものならん 」
と 述べ、大いに反軍に同情的態度を有することを示す。
後日討伐の実行を躊躇せる宜なる哉と思わしむ。
自分は討伐鞭撻べんたつの必要を確信せしは実にこれに起因す 」
・・杉山手記
と 述べている。

ともかくも杉山次長は香椎のこの決心を見届けたので、
午前十一時 参内して
侍従武官長に いよいよ兵力を使うことになった旨を伝え
これが伝奏方を依頼した。
愈々 討伐することになった。
ところが 十一時四十分頃になると、
第一師団から現態勢においては攻撃不可能なりとの報告がなされた。
正午頃、荒木、林、寺内、植田の各軍事参議官は
打ち揃って憲兵司令部に杉山次長を訪ねて討伐回避を申言した。
次長は兵力使用のやむなきを説明したが、林大将は、
「 彼らの考えているところを汲んでやるような考慮されたい 」
と 意見を述べた。
事態はなかなか統帥部の考えているようには運ばなかった。
また、同じ頃
真田戒厳参謀は統帥部に意見を具申した。
それは反乱部隊がわれわれ将校に敬礼するようになった。
反乱兵士と話して見ると往々にして泣くものもある。
反乱将校十三名は師団長の命令に服従しますという一札を入れた。
そこで第二師団、第十四師団よりの兵力増派の件は
上奏を見合わされたいというものであった。
いわば情勢の好転を伝えるものであったのだ。
その反乱将校が師団長に服従するとて一札を入れたというのは誤伝ではあったが、
しかしその頃には確かに兵隊たちは 蹶起当日の興奮からさめかけていた。
だが、統帥部は依然討伐方針を堅持し、
午後三時には第二師団、第十四師団の一部、諸学校よりの
兵力召致の件を上奏 御裁可を仰いだ。
この拝謁の際、
次長は、すでに討伐に決し着々実施中なる旨を言上した。
ところが、戒厳司令部は第一師団の準備が整わないことを理由に、
二十八日の攻撃は不可能という。
あわてた統帥部は あくまでも攻撃即行を強要したが、
そのうちに今から開始しても野戦となり かえって戦闘の終結を遅らし、
かつ、混乱と損害を増大することとなるおそれがあるので、
総攻撃は二十九日払暁に延期することになった。
次長は戒厳司令官を同道して 再び参内し
これが延期方につき陛下のお許しを得た。
・・・大谷敬二郎 二・二六事件 から

第三日 ( 二十八日 ) 奉勅命令出て討伐に決した時は、
軍事参議官中の某より、
「 何としても流血の惨を避けようではないか、
其方法としては 維新断行に関する御沙汰書を戴き 之を彼等に示せば速に納まらん 」
と 強硬なる意見あり。
而し 自分 及 他の軍事参議官は
今 奉勅命令を頂き 直に之と反対の御沙汰書を頂くは不可なりと反対す。
・・・川島陸相


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