あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

靑年將校運動

2018年01月30日 19時33分19秒 | 靑年將校運動

兵に後顧の憂いがある
これでは天皇陛下萬才を心から叫んで死んでいけない
今日の政治はだめだ
後顧の憂いのなき社会にするぞ



靑年將校が、指導中心となってゐる國家改造を目的とする 「軍隊運動」 の意味である、
而してこれらの指導中心となってゐる靑年將校の大部分は、
 軍隊内にあって、下士官、兵士達と苦樂を共にいてゐる中隊長以下の、
 若き大尉、中尉、少尉によって占め
られてゐ
・・・青年將校運動とは何か 

靑年將校運動
目次

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一部靑年將校等  ・・・一覧

「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」 
末松太平 ・ 赤化將校事件 1 
末松太平 ・ 赤化將校事件 2
貧困のどん底 
後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」 
菅波三郎の革新思想 
歩兵第三聯隊の將校寄宿舎 
打てば響く鐘の音のように 
・磯部淺一の登場 「東天に向ふ 心甚だ快なり」
 
夢見る昭和維新の星々 
もう待ちきれん 
« 靑山三丁目のアジト » 

「 大佐殿は満洲事變という糞をたれた。尻は自分で拭かずに人に拭かすのですか 」 

村中孝次 發 川島義之 宛 
「 軍中央部は我々の運動を彈壓するつもりか 」 
統制派と靑年將校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」 
村中孝次 『 國防の本義と其教化の提唱について 』 ・・・國防の本義と其強化の提唱 
「 粛啓壮候 」 と冒頭せるもの 
村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信 
村中孝次 『 全皇軍靑年將校に檄す』

松浦邁 (つぐる)  『 現下靑年將校の往くべき道 』 
靑年將校の道  歩一  林八郎 

改造法案は金科玉条なのか 
此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して來い 」
對馬勝雄中尉 ・ 殘生 
河野壽 ・ 父の訓育 「 飛びついて殺せ 」 
山口一太郎大尉 ・ 壯丁父兄に訓示  
「 軍刀をガチャつかせるだけですね 」 
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 ・・・昭和10年12月31日

國體明徴と天皇機關説問題 

私達は間違っておりました
聖明を蔽う重臣閣僚を仆す事によつて
昭和維新が斷行される事だと思って居りました処
國家を獨するものは重臣閣僚の中に在るのではなく
幕僚軍閥にある事を知りました
吾々は重臣閣僚を仆す前に
軍閥を仆さなければならなかったのです
・・・安藤輝三

こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの國民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ
・・西田税 


「 頼むべからざるものを頼みとして 」

2018年01月29日 20時22分23秒 | 靑年將校運動

二 ・二六事件は突発的に起った事件のように思われる方があるかも知れないが、
この事件に致るまでに、陸海軍部内では次々と白色テロやクーデター計画が持ち上がった。
主なものをあげてみると、
昭和五年十一月の浜口首相の遭難
 ( 犯人はロンドンの海軍軍縮条約の結果に怒った右翼青年 )
三月事件
 ( 昭和六年三月、軍トップと大川周明ら一部民間人が
  時の陸相宇垣一成を擁して軍政府をこしらえようと企んだクーデター ・ 未遂 )
十月事件
 ( 同年十月、桜会系の陸軍中央部の幕僚将校が満州事変と呼応して錦旗革命をもくろんだ事件 ・未遂 )
血盟団事件
 ( 昭和七年、二月~三月、政財界の粛正を呼号した井上日召を首謀者とする農村青年が、
  三井合名理事長、井上準之助前蔵相に向けられた白色テロ )
五 ・一五事件
 ( 同年五月、海軍士官と陸軍士官候補生の一隊が総理大臣官邸を襲って犬養首相を暗殺 )
永田事件
 ( 昭和十年八月、相澤歩兵中佐による永田陸軍省軍務局長に対する殺害事件 )
このような血なまぐさい事件の数々が、きびしい言論統制 ( 新聞紙法および出版法 ) の網の目をくぐりながら、
昭和十一年、一部青年将校による二 ・二六事件の蹶起へと連なったのである。

蹶起趣意書
では青年将校たちは、何をねらって蹶起したのだろうか。
首謀者の栗原中尉の維新思想というのは、
「 一君万民、君民一体の日本を作る 」
にあった。
・・・リンク→青年将校の国体論 「 大君と共に喜び、大君と共に悲しむ」 
 栗原安秀中尉
それは蹶起直前、彼が雑誌 ( 日本評論三月号 ) に一問一答の形式で発表した、
 
靑年将校運動とは何か 』 と題する一文によく表れている。
その中で彼は、
「 靑年将校はその運動において何を望んでいるか 」 と言う 「 問い 」 に対して、
こう答えている。
「 簡単にいえば、一君萬民、君民一體という境地である。
 大君と共に喜び、大君と共に悲しみ、日本國民が本當に天皇の下に一體となり、
建国國以來の理想顯現に嚮かって前進することである 」
彼の言う 一君万民の境地とは、
日本国民は天皇の下に 一切平等無差別
万民その処を得て共にその生活を楽しみ得る世界を意味する。
従って彼は、究極においては 「 軍部独裁政治 」 を否定する。
そして、さらに
「 奴隷的徴兵制と革命 」 について、次のように言っている。
「 靑年將校として切實に感ずることは何かというと、 安心して國防の第一線に活躍することだ。
 われわれは今日、兵を教育しているが、今のままでは安心して戰爭に行けない。
今日の兵の家庭は疲弊し、働き手を失った家が苦しむ狀態では、どうして戰爭に行けるか。
自分たちが陛下から、一般國民から 信頼されている以上は、
この國防を安全に國防の重責を盡すような境地にしたい。
そのために日本の國内の狀勢は、明瞭に改造を要するのである。
國民の大部分が經濟的に疲弊し、經濟上の權力は、まさに一部の支配階級が獨占している。
時として彼らは、政治機構と結託して一切の獨占を弄ろうしている。
しかも、それらの支配階級が、非常に腐敗している狀態だから承知ならないのだ。」
あとで考えると、これは明らかに 二 ・二六決行の宣言であったのだ。
このようにして彼らは蹶起した。

しかし、いわゆる 討奸 のあと、彼らは具体的な維新のプログラムを示そうとはしなかった。
それを押しつけることは、ファッショ的行動である、と考えたからであろう。
だが彼らが願ったのは、軍首脳部が、彼らの 精神 を生かして、
昭和維新 に向け 突き進んでくれることだったと見ていい。
すなわち、蹶起将校の手には一千語百名の武装集団がある。
これを背景として強く迫れば、
彼らを動かすことはさほどむずかしいことではないと考えたに相違ない。
だから冷酷な革命に徹しようとは考えてもいなかった。
食糧一日分の用意すらなかったのだ。
・・・リンク→ 上部工作 「 蹶起すれば軍を引摺り得る 」
すべてが中途半端のうちに、頽勢たいせいを建て直した省部幕僚派によって弾圧されてしまった。
北一輝が、
「 あれは革命軍ではなくて、正義軍とでも呼ぶものでしょう 」
と 評したのは、的を射ていたように思う。
しかも、尊王絶對 を唱える彼らが、
かえって 絶對主義的天皇制 の名において葬り去られたのである。
悲劇というにしても、あまりにむなしい犠牲であった。
たとえ第一師団の満洲移駐というタイムリミットがあったとしても、
当時の客観情勢は 彼らにとって極めて不利だったのだ。
そして、頼むべからざるものを頼みとして、昭和維新 をめざして暴発してしまった。
蹶起の牽引車だった磯部が、彼の獄中の手記の中で、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
判決(七月五日)
死刑十七名、無期五名、山本十年 今泉四年
斷然タル暴擧判決だ
余は蹶起同志及全國同志に對してスマヌと云ふ氣が強く差し込んで來て食事がとれなくなつた、
特に安ドに對しては誠にすまぬ
余の一言によつて安は決心しあれだけの大部隊を出したのだ
安は余に云へり
「 磯部 貴様の一言によつて聯隊を全部出したのだ 下士官、兵を可愛そうだと思ってくれ 」 と
余はこの言が耳朶にのこりてはなれない、
西田氏北先生にもすまぬ
他の同志すべてにすまぬ
余が余の観察のみを以てハヤリすぎた爲めに
多くの同志をムザムザと殺さねはならなくなつたのは重々余の罪だと考へると
夜昼苦痛で居たゝまらなかつた
余は只管に祈りを捧げた
然し何の効顯もなく十二日朝 同志は虐殺、されたのだ
 磯部浅一
・・・獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 余が余の観察のみをもってハヤリすぎたために、

 多くの同志をムザムザと殺さねばならなくなったのは、重々、余の罪だと考へる 」
と 告白しているのは、なぜ事件が勃発したのか を雄弁に物語っている。
栗原、磯部ら急進分子は、若さゆえに ハヤリすぎた
そして、省部の統制派軍人官僚の力を過小評価したところに、
失敗の原因があったといえる。
「 昭和暗黒時代 」 の生んだ悪夢と評するほかない。
・・・リンク→ 
万斛の想い 「 先ずは、幕僚を斃すべきだった 」 

実録コミックス  ( 1991年3月10日初版)
叛乱!
二 ・二六事件 ❸  霧の章
あとがき
今、想う 二 ・二六事件への総括
元東京日日新聞記者  石橋恒喜
・・・全文引用・・・


一部靑年將校等

2018年01月22日 19時06分18秒 | 靑年將校運動


一部靑年將校等

  
相澤三郎 中佐 福山・歩兵第四十一聯隊  22期 
富永良男 中佐 秋田・第歩兵第十七聯隊  22期
満井佐吉 中佐・陸大兵学教官 26期

大尉
山口一太郎  東京・歩兵第一聯隊 33期
若松満則 久留米・歩兵第四十八聯隊 33期 / 柴有時 東京・戸山学校 33期
松平紹光 東京・近衛歩兵第二聯隊 33期 / 目黒茂臣  憲兵  33期
西田税  少尉 34期

岩崎豊晴 陸軍士官学校附 34期 / 福永 憲  34期
 
大岸頼好 和歌山・歩兵第六十一聯隊 35期 
野田又男 35期 / 佐藤 大尉  35期

野中四郎 東京・歩兵第三聯隊 36期
 
村中孝次 旭川・第二十七聯隊 37期 
 菅波三郎 鹿児島・歩兵第四十五聯隊 37期
大蔵栄一 羅南・歩兵第七十三聯隊 37期
朝山小二郎 羅南・野砲兵第二十五聯隊 37期

香田清貞  東京・歩兵第一旅団司令部附 37期
親泊朝省  37期  殉国 「愛児とともに是非お連れ下さい」
 
岡村適三  37期  憲兵 「 あの温厚な村中が起ったのだ 」
 田中軍吉 東京・近衛歩兵第三聯隊 37期

亀井大尉  青森・歩兵第五聯隊  37期 / 西山敬九郎  関東軍  37期
蓮岡高明 東京・近衛歩兵第三聯隊 37期 / 天野一夫  37期 / 土屋正徳 天津駐屯歩兵隊  37期
 東 昇 / 楢木 茂 京都・歩兵第九聯隊 / 瀬戸口武夫 大尉 第三十八聯隊
寺尾征太露 浜松・高射砲兵第一聯隊 / 佐藤竜雄 大尉 天津駐屯歩兵隊

 
安藤輝三  東京・歩兵第三聯隊 38期
 磯部浅一 東京・野砲兵第一聯隊 38期
佐々木二郎 羅南・歩兵第七十三聯隊 38期
鈴木五郎 名古屋・歩兵第六聯隊 38期

山田 洋 歩兵第六十一聯隊 38期
小川三郎 丸亀・歩兵第十二聯隊 38期
北村良一 公主嶺・関東軍独立守備隊戦車第四大隊 38期 32才
竹中英雄 戦車一 / 足立鐘男 東京・輜重兵第一大隊

末松太平 
青森・歩兵第五聯隊 39期
 
澁川善助 ( 39期 )

森本赳夫  39期  高村経人 台湾・歩兵第二聯隊  39期  / 三浦美徳 / 佐藤幸次郎 大尉
内堀次郎  東京・歩兵第三聯隊  39期 / 生駒正幸  所沢・飛行学校  39期 
吉井〇四郎  歩兵第三十八聯隊 / 植田 勇 / 富田 実 / 寺尾征太露  高射砲第一聯隊
小河原清衛 / 西原 大尉 / 樽木 茂  歩兵第九聯隊 / 間瀬惇三  歩兵第十八聯隊
村山 勇  近衛歩兵第三聯隊 / 川上 大尉  歩兵第三十七聯隊 / 足立鐘男  輜重兵第一聯隊 
江崎 大尉 / 蓮岡高明  近衛歩兵第二聯隊 / 伊地知進 関東軍・独立守備隊11 / 石丸作次  歩兵第八十聯隊

河野壽 飛行十二聯隊附 40期

中尉
竹嶌継夫 豊橋教導学校 40期

蟹江中尉 奈良・歩兵第三十七聯隊  40期
鶴見重文 奈良・第三十八聯隊 40期
小林美文 東京・歩兵第三聯隊  40期

對馬勝雄  豊橋教導学校 41期
 
栗原安秀 歩兵第一聯隊 41期
中橋基明 東京・近衛歩兵第三聯隊 41期
  片岡太郎 東京・近衛歩兵第三聯隊 41期
片岡俊郎 札幌・歩兵第二十五聯隊 41期

栗原凱二 金沢・歩兵第七聯隊 41期
後藤四郎  関東軍・独立守備隊十二大隊 41期
池田万寿治 羅南・歩兵第七十三聯隊 41期
池田早苗  歩兵第二十聯隊 41期
板垣徹  豊橋教導学校 41期 / 近藤伝八  41期 / 大井 中尉 / 佐藤 操  独立守備隊2 
石川寛一  公主嶺高射砲隊 41期 / 藤野 中尉  41期 / 四本 中尉  41期

塩田淑夫 関東軍・独立守備隊歩兵第一  42期

鶴田静三台湾飛行八  42期
松浦義教  仙台・教導学校  42期

丹生誠忠 東京・歩兵第一聯隊 43期
新井 勲 東京・歩兵第三聯隊  43期
  井上辰雄 豊橋教導学校  43期

江藤五郎 丸亀・歩兵第十二聯隊 43期

坂井直 東京・歩兵第三聯隊 44期
志村陸城  青森・歩兵第五聯隊  44期
柳下良二 東京・歩兵第三聯隊 44期
志岐孝人 熊本・歩兵第十三聯隊  44期

松浦邁   奈良・第三十八聯隊  44期 
杉野良任 青森・歩兵第五聯隊  44期
新井 健 東京・近衛歩兵第三聯隊 44期 / 緒方岩夫 東京・近衛歩兵第三聯隊 44期
飯淵幸男 東京・近衛歩兵第三聯隊 44期 / 村田光行  東京・歩兵第一聯隊  44期
尾形岩夫  東京・近衛歩兵第三聯隊 / 新郷 中尉  歩兵第三十八聯隊  44期 / 瀬戸口武夫  44期
竹中英雄  戦車1 / 楠田 犠 中尉  鉄道2 / 佐藤孟夫  所沢・飛行学校 / 植田 稔 中尉

田中勝  国府台・野戦重砲兵第七聯隊 45期
黒崎貞明  関東軍・独立守備隊六大隊  45期

明石寛二 金沢・山砲兵第九聯隊 当時綿洲在  45期
市川芳男 金沢・歩兵第七聯隊 45期 / 黒田武文 岐阜・飛行第二聯隊  45期
池田万寿治  歩兵第七十三聯隊  45期 / 草間 勇 仙台・野戦重砲兵第二聯隊  45期
赤座 武  独立守備隊18 / 田中兼五郎  砲工学校 / 諏訪脇栄次  歩兵第三十八聯隊
坂本東洋  独立守備隊1 / 外山喜一郎  野砲学校 / 鈴木 中尉  青森・歩兵第五聯隊
清水 監  歩兵第六聯隊 / 岡崎利行  砲工学校 / 北村正栄  歩兵第三十四聯隊
北村将臣  東京・歩兵第一聯隊 / 原田千秋  野戦重砲兵第六聯隊 /福井寛治  歩兵第八十聯隊
堀之内吉彦 / 井上元幸  砲工学校 / 伊藤義行/ 河村寅雄 / 大橋 中尉
浅利 中尉 / 石川寛一  錦州松井部隊 / 藤野 中尉 / 野北祐常 小倉工廠
戸次俊雄 小倉・歩兵第十四聯隊 / 福井寛治 大邱・歩兵第八十聯隊
三木正明 丸亀・歩兵第十二聯隊 / 鈴木 熈 青森・歩兵第五聯隊 / 遠山弥兵衛  青森・歩兵第五聯隊
出雲井英雄  青森・歩兵第五聯隊 / 岡崎整吾 少尉 大阪・歩兵第八連隊
中村数雄 関東軍・独立守備隊六 / 坂本東洋 関東軍・独立守備隊一
河村寅雄 津・歩兵第三十三聯隊 / 伊藤義行 奈良・歩兵第三十八聯隊 / 辻正雄
北村正栄 静岡・歩兵第三十四聯隊 / 中田 薫 中尉 福山・歩兵四十一聯隊 / 浅沼慶太郎 
輜重兵 29才
高木利光  歩兵第二十四聯隊 / 戸次俊雄  歩兵第二十四聯隊 / 楠田 曦 津田沼・鉄道第二聯隊
森田太平 山砲兵二十五聯隊 / 野村準太郎 山砲兵二十五聯隊 / 鳥巣憲治 羅南・歩兵第七十三聯隊

少尉
高橋太郎 歩兵第三聯隊 46期
安田 優 旭川・野戦重砲兵第七聯隊 46期 
中島莞爾  津田沼・鉄道第二聯隊 46期

飯尾裕幸 騎兵学校  46期 / 長尾正夫 歩兵第七十五聯隊

林八郎 東京・歩兵第一聯隊 47期
池田俊彦 東京・歩兵第一聯隊 47期
常盤 稔 東京・歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・常盤稔少尉 
 鈴木金次郎 東京・歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・鈴木金次郎少尉
清原康平 東京・歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・清原康平少尉
今泉義道 東京・近衛歩兵第三聯隊 47期 昭和維新・今泉義道少尉

中川範治 羅南・歩兵第七十三聯隊  47期 / 長尾正夫会寧・歩兵第七十五聯隊
安部富雄  東京・歩兵第三聯隊  特志 / 秋吉周一  歩兵第十二聯隊
井上 薫  独立守備隊6 / 秋吉周一 丸亀・歩兵第十二聯隊 / 八幡弥兵衛 青森・歩兵第五聯隊

後宮二郎  和歌山・歩兵第六十一聯隊  48期

麦屋清済 東京・歩兵第三聯隊 特志 昭和維新・麦屋清済少尉
山本 又 42歳
昭和維新・山本又予備少尉 


靑年將校運動とは何か

2018年01月20日 18時44分09秒 | 靑年將校運動


靑年將校運動とは何か

和田日出吉
×月×日
質問者 和田日出吉

まえがき
最近、靑年將校といふ言葉、及びこれに關連する各種の思想及び行動が好むと好まざるとに拘らず、
特殊の意味を帯有して問題的に扱われてゐる。
靑年將校とは何であるか。
今まで貌相を的確に社会に現はしたこともなければ、説明されてゐないやうだ。
從つてこの言葉を使ふのも、ほんのその文字と、その文字の背後的關係とを聯想に入れたまま漠然と使ってゐるに過ぎない。
然らば一體、靑年將校、或は靑年將校運動とは、何を指し云ふのか。
漠然たるこれ等の名称は何を意味し何を語らうとしてゐるか。
筆者は、過日、これらの所謂靑年將校運動の線上にある靑年將校の一人  ( 或は多數と云ってもよい ) と話を交換す機會を得た。
勿論お互に突然であり且つ、限られた小時間であったため答者は、
その思ふところを存分にまかせぬ點もあったらうし、問者もまたその意にまかせなかった。
然も本文にはここに記す自由を有せない事柄をはぶいたためと、
問者の質問内容を簡單に要點だけ記錄するに止めたため、記事が表面的になったやうに思ふ。


最近、國家改造運動のうへに、靑年將校といふ言葉が使はれてゐるが、文字的解釋以外に何を意味してゐるかを訊ねたい

これは自分等が名附けたわけではない。
靑年の將校が國家改造運動の必要上、口々に自然發生的に名がつき、自分等もそれを使ふやうになったまでである。

ではその靑年將校運動なるものを具體的に

それは、靑年將校が、指導中心となってゐる國家改造を目的とする 「軍隊運動」 の意味である、
而してこれらの指導中心となってゐる靑年將校の大部分は、
軍隊内にあって、下士官、兵士達と苦樂を共にいてゐる中隊長以下の、
若き大尉、中尉、少尉によって占められてゐる。
決して軍部の中央部にあって、華かに世間的存在を認められてゐるものでないことを配慮せられたい。
従って本當の 「 靑年將校 」 などの姿は、決して世間には解らない。
全國各地に營々として皇軍のため兵と共にしてゐるのだから。

相澤中佐の如きは?

中佐の如きは、所謂靑年將校ではなかったが、
この運動に於ける年長者であって靑年將校たるの情熱と信念を有してゐたものと解する。

それ等の靑年將校の中でもイデオロギーの各種の潮流があると思ふが、
それを一概に靑年將校運動の中に含めるのは余りに、その思想を概念的たらしめてはゐないか

いや、前述の意味に於ける靑年將校の中には絶對に相對する思想はない。
勿論細部にはあるかも知れぬが、そんな点は何うでもよい。問題は根本にある。

現在の若い將校で、改造運動に入ってゐない者が大部分であらうがそれとの關係は?

さういふ革新運動を考へて居らない一般の若い將校も結局精鋭なる革新分子である。
これらの靑年將校によって指導されてゐるのが現狀である。

ところで目下その 「 靑年將校運動 」 は活潑なる活動をしてゐるのか?

いよいよ活潑となってゐると思ふ。

われわれ外部から解らぬが、その具體的な例は?

相澤中佐事件はその一例であるが、更に今回の公判に於ける全國的活動や、
渡邊教育總監に對する全面的反撃運動もその一例である。

ところで靑年將校と云ひ、その運動と云ひ、軍隊としての組織以外に、何等かの組織があるのか

具體的には何もない。
例へば綱領であるとか、結社的なものはない。
精神と信念を同じくしてゐる以上、綱領とか規約とかは無意味である。
然しこの國家革新を考へてゐる靑年將校が、 全國に亙って自ら聲息相通じてゐるといふことは明らかな事實である。
だから各靑年將校が、一つの大義名分を唱へて奮起した時には、全國からこれに呼應した起き上って來ることは想像できる。
従って無組織とでも云ふか・・・・・要するに陛下の軍人として軍隊内に一つの結社を作るといふことは、
吾々の排撃するところであるが、同一の理想と信念を持ってゐる者が接近して互に情報を聯絡し、
その信念に忠實たらんとする行動は許されていいと思ふ。
ことは社会は勿論、軍隊内部の改革が必要とされてゐる今日に於て、
これはよくわれわれが問題視される横斷的結束では決してない。

然らば、この靑年將校運動が、發生したのはいつ頃か。また發生した因子は何か。

世間では靑年將校運動を目して、満洲事變あたり、
或は五、一五事件この頃から出來たやうに思ってゐるが、そんな浅いものでなく、
事實相當に古い歴史的根拠を持ってゐる。
即ち、わが國に於て資本主義の最も活潑を極めた欧州大戰當時からその直後に當って、
日本帝國が逐次に自由主義思想或は左翼思想等なよって浸食され、
一般人のみでなく軍隊内部までが腐敗或は、その思想的影響下にあるやうになり、
然も軍の首脳部も何等これに對して積極的な力を見せず、
云はぱむしろ肩身を狭くして軍隊精神を委縮させるやうな事態になったとき、
これを憤った當時に於ける中少尉の靑年將校、或は士官候補生が、
軍首脳部頼むら足らず自分等の力で日本を革新しやうと集って、
互に國家改造の運動の發足を契ったのだ、それが始りだから、
かれこれ十五六年經つと思はれる、
これが世間的に具體的に現はれたのが数年前の○○○○事件であり五、一五事件である。

當時の思想的根拠は?

今も昔も變わりはない、建國以來の國體観念である。
即ち神武創業の時から大化の革新、建武の中興、明治維新をはじめとして同一の思想と云ひ得るわけである。

では 五、一五事件関係の靑年將校と現在の靑年將校との間にイデオロギーの變化的、
或は生長的差異はないと見ていいのか

少しも變わってゐない。
但し五、一五事件に於ては、現象的に見てわれわれさうした機械に當って靑年將校運動の一部が、
露出したといふ狀態とみるのを至當と考へる。
從って靑年將校運動の全體と解釋するのは非常な困難事だ。

五、一五事件關係者の中には軍人以外の者がいるが、これも全く思想的に同じと見ていいか

五、一五事件に於ては、明らかに吾々靑年將校の有する思想と、それに非ざるファッショ思想とが混亂してゐる。
即ち、五、一五事件の被告中の陸士官候補生の如きは明らかに、われわれの思想であるが、
大川周明或はこれに從ったものゝ思想は、ファッショ的思想濃厚であると思はれるし、
われわれの反對するところだ。
これが一歩進んで神兵隊事件になると、純然たるファッショ思想の指導下にあって、吾々の輕蔑するところである。

だが、五、一五事件や神兵隊事件の持つ思想と
靑年將校運動の有する思想と一般にはかくまで根本的差異があると理解されてゐない

然し 事實は全く違ふ。
特に神兵隊事件などの思想と同一にされることは迷惑至極である。
兎に角、この思想的差異を認識してかからないと所謂正しき意味の靑年將校の本體が解らない。
ただ新聞等に許されたる範囲の報道のみで、これ等の現象とその各々の思想を想像するから、
自由主義を排撃するものはファッショといふ言葉に片附けてしまふのだから低い。

軍部内に於て、統制派とか、清軍派とか色々な派閥があると聞くが如何?

軍部内には明瞭に色々な派閥があると云へる。
派閥があるといふよりも、寧ろ相對する二つの潮流があるといった方が適當な意味を持つやうだ。

二つの潮流とは

その一つを現狀維持派と名附けやう。
その中には所謂統制派、幕僚ファッショ ( 政治派とも云ふ ) 等が含まれてゐる。
また一方現狀を打破しやうとする派 ( 皇軍派 ) とでも云ふべき派がある。
この二大潮流は、根本思想に相對するところから出發してあらゆる點に相反してゐる。
例へば對露問題についても前者は明瞭に對露親善であり、
後者はこれを爆發しやうとする思想である。

これが所謂、宇垣派とか荒木派とか云ふ形になってゐるわけか

兎に角、我々の頭から云へば、
所謂荒木派とか、宇垣派とかいふやうな個人的な名前による對立などてんで問題でない。

然し 事実じつ上、靑年將校は荒木、眞崎派だといはれてゐるではないか

いや我々は實際に於て、そのいづれの派にも属さない、
荒木、眞崎といふ者を支持した形になってゐることもあらう。
然しそれは單に、この人達が、軍人として正しい人であるから指示すると云ふ結果的な現象にすぎない。

処で、宇垣とか南を支持する靑年將校もゐる譯ではないか

それはあらう。
だがそれらはわれわれが荒木、眞崎を支持するのとは根本的に違ふ。
宇垣、南等に属するものゝ行動を見てゐると、明らかに方便主義、利益主義が含まれてゐると思ふ。
我々が仮に世間で云ふ如く荒木派であり、眞崎派であるとして、これを我々をして云はしむれば、
 むしろ現狀を打破しやうとする靑年將校の陣営に荒木、眞崎が含まれてゐると云ふべきであらう。
本來の意義から云って、青年將校は絶對に荒木派でもなければ、眞崎派でもない。
まして派閥によるこしは軍人の本分にもとるのである。
これを世間的に見ると恰も宇垣派に対する荒木派であり、
下の方でも幕僚ファッショに對する靑年將校といふ格構になるのだと思ふ。

だが、軍部内に於ける派閥には思想的對立と云ふ純粋なもの以外に
地位名誉の爭奪も當然ふくまれて相當複雑だと思ふ

少なくとも靑年將校にはそれはない。
現狀維持派は多分にそれがあると解するが適當だ、然しそれは第三者から見た方が、はっきりすると思ふから云はぬ。

現狀維持派の中心は死んだ永田中將か

まあ參謀と云ったところだらうと思ふ。

現状維持派の思想の中心はファッショであるか

左様、ファッショ的であるが必ずしも確固なる理論、組織、信念から基いたものとは思へぬ、
結局、新興勢力たる靑年将校が、獨自の國體観念によって立上がって來た時に
これに依ってすべての腐敗堕落したもの、
或は支配階級に寄生的態度を採ってゐたものが自分の地位を奪はれ特權的地位が剥がれることを恐れて、
その結果、新興勢力である靑年將校に對して、
自然に色々な派閥が集って幕僚ファッショなるものを形成したものと解すべきであらう。
從って彼等の間には軍隊内部の自由主義的思想あり、官僚重臣に阿る者もゐる。
中には或る程度まで革新を考へてゐるが、日本本來の國體観を持つことが出來ず、
外国國への留学等に於てナチス、ファッショなどの政治形體への共鳴から、
日本にもこれを移植しやうとする浅薄な思想を持ってゐるものもあり、雑然たる寄合である。

永田中將亡き後の現狀維持派の中心勢力は

矢張り幕僚ファッショであらう。
ところが、靑年將校は、彼等とは根本的に相容れない、
先ずわれわれは、彼等が目ざす如く、軍人による獨裁政治は考へてゐない。
我々は日本人として考へるのである、
即ち革命日本人としての軍人であるとの自己認識を持ってゐるが故に
國家を革新せんとする爲めに軍人獨裁の政治の現出を必要とは考へてゐない。
むしろ國家改造は、軍人が獨裁でなくて、天皇の下に一切を捧げた國民が全國的に凡ゆね部門に亙って
各々改造しなければならぬではないか、國家社會が腐敗するとき、
軍部もまたひとり孤高であり得る筈がない、軍部また革新を要するのは理の當然である。

然し世間には軍人全体體がファッショだと思はれてゐる
勿論、ファッショの意義を知らない爲もあらうが

だが、世間がさう思ふ理由の一半に次ぎのやうな理由があると思ふ。
即ち、軍隊の社會外部に對する宣傳機關や、
その地位的關係から表面的に外部と接触する機會の多いものは主として軍の中央部にある・・・・・・・
幕僚ファッショの聯中であらう。
彼等は自分も軍のスポークスマンであるが如く誇示し、
世間また之等の者の思想的代表者であると信ずるため、
幕僚ファッショによって宣表されたファッシズムは、世間的に軍部全體、ことにその先鋭分子として
靑年將校を聯想するが如き結果になるのである。
繰返して云ふが、靑年將校運動には、
幕僚ファッショなどに依って抱懐されてゐるファッシズムは芥一つないことを心得べきである。

然らば靑年將校は、その運動に於て何を望んでゐるか

簡單に云へば、一君萬民、君臣一界といふ境地である、大君と共に喜び、大君と共に悲しみ、
日本國民が、本當に天皇の下に一體となり建國以来の理想國顯現に向って前進するといふことである。
眞に吾々は、陛下の赤子であると言ふ境地を現出して、
日本をあげて、世界に於ける最強の大和民族たらしめ、
日本が世界の封建的資本主義國家の上に君臨する日本帝國を建設する事によって、
世界の平和を招來する事だと思ふ。
我々は人間として平和郷を現出する事を希望して居るが、
今日国際間に於ても大和民族は座して他のアングロサクソンとか、
スラブ民族に依って踏みつけられるに甘んずるわけには行かない。
矢張り之に対して敢然征服すべく突進せねばならぬ、
それまでは靑年將校として切實に感ずる事は何かといふと安心をして國防の第一線に活躍することだ。
即ち我々は今日兵を教育して居るが、今の儘では安心して戰爭に行けない。
今日の兵の家庭は疲弊し働き手を失った家が苦しむ狀態では、どうしても安心して戰爭に行けるか。
即ち自分達が陛下から、一般國民から信頼されて居る以上は、此の國防を安全に、
國防の重責を盡すゆうような境地にしたい。
その爲めに日本の國内の狀態は明瞭に改造を要するのである。
國民の大部分といふものが、經濟的に疲弊し、經濟上の權力は、
天皇陛下に對して、まさに一部の支配階級が獨占してゐる。
時として彼等は、政治機構と結託して一切の獨占を弄してゐる。
然も、それ等の支配階級が、非常に腐敗してゐる狀態だから承知相成らんことになるのだ。

さうした感想は、一般的に云って左翼的にも考へられる

さうにも感じられやう。
然し、その根本に於て、靑年將校運動は、國體観念から出發してゐるという一點で、磁石の両極ほど違ふだらう。

では、何うしやうと言ふのか

今日、日本の國内狀勢を見て、何んとかしなければならぬといふ考へは、一般國民の常識だと判定していい。
だが改造の方法に各々異説があるのだが、
これは日本建國以來の國是といふものを考へて見れば自ら決ってくるものと思ふ。

然らば、改造戰線に於ける靑年將校の役割は何か

建國の理想への顯現に努力することである、
端的に云へば、陛下の正しい力として國是の遂行を妨害する者を排除して行くといふ事にある。
從って國外に對しては日本の國策を妨害する、
例へば英、米、露の如きに對しては、國防の第一線に立って敵をたをし、
國内にあって若し日本の國の進歩發展の爲に妨害となるといふ存在があるとすれば
-----例へば、天皇機關説論者の如き----
之を國民の先頭に立ち一切を排除して天皇の下に馳せ参ずるのが、自分達の任務だと思ふ。
又吾々靑年將校としては、特に同じ陛下の赤子國民でありながら、
殊遇を忝くして居る以上、日本の國の爲めには、
何れの場合に於ても眞先に斃れるといふことが我々の信条である。
随って唯戰爭だけやればよいといふのではなく、國内問題に對しては非常なる決意を持ってゐる。
要するに靑年將校としては先づ先に斃れて、其の上に日本國民を前進せしめて、
日本國民をして益々よりよき境地に行かしむるといふのを心密かに誇りとしてゐる譯だ。

さう云ふ日本の國の前進を妨害するものは

要するに今日の國内狀勢をよく見れば、
現狀を維持せんとするもの然かも現狀を維持するといふ事の反面には、
今日迄の自分達の得た特權であり、
地位であり、財産であり、名誉といふものをあくまで保持せんとするもの、
例へば政黨であり、財閥であり、軍閥であり、吏閥であり、悉くさうだ。
然かも之等の現狀を維持せんとする者は、事實上日本の國の支配階級を形作って居る。
支配階級の權力は非常に強大であるが、明瞭に今日新興一般國民は、
これに反抗して居るが如何ともし難い狀態にある。
唯之に對して唯一の残された刀としては、
陛下の正しい權力としての靑年將校を中心とする軍隊運動が存在する丈だ。
それで概ね吾々靑年將校が革新運動上何をするかといふ事が想像がつくだらうと思ふ。

現在の經濟機構に関して如何 ?

はっきり云ふと、今日の資本主義經濟機構は明瞭に否定する。
今日迄の所謂資本主義經濟組織、明治維新の時に取入れられた富國強兵の資本主義といふものは
過去に於ける有力なる働きをしたが、
今やその役目を果し段々破綻して、何等かの新しき形式に移りつつあるといふ事は、
支配階級ですら何等かの形で是正せんとして居るので判る。
だが今日の資本主義の組織權力といふものを根底としてゐる、統制經濟主義には明瞭に反對だ。
我々は今日の資本主義組織といふものを打破する爲には少く共、三大原則があると信じてゐる。
大資本と私有財産と土地と此の三つの部門と云ふものが、
今日の資本主義經濟の三の大なる因子であると思ふが、
この因子に根本的修正を与へなければならぬ、
先づ大資本を國家の統一に歸する。
私有財産を制限する、土地の所有の制限をする。
この三つである。

支配階級、殊に資本主義内に、勿論表面的ではあるが広い意味の右翼転向の氣運を感じないか

我々の今日の支配階級に對する憤は決して所謂プロレタリアがブルジョアに対する復讐ではない。
日本の國家がよくなる爲の金融大權を奉還するといふのはいいと思ふ。
例へばブルジョアが三千萬圓を出したとするも其反面に於て十億の金を鞏硬なる組織で、
日本人の懐から搾取して居る情態である以上は、生半可な生半可轉向狀態に誤魔化される程我々は馬鹿ではない。
資本家聯が、陛下の下に奉還するなら話は非常に簡單だが、
それが厭だといふと正義の力を持ってやらなければならないと言ふ立場にある。

唯財閥が今の自由主義經濟機構を中心として活動を止めると、日本の國富といふ點から何う考へるか

よく其の質問を受けるが、今日の資本主義經濟機構といふものを否定したら日本は經濟的に破綻する、
と考へるそれ自體の頭が今日の資本主義機構の中に生活している人の考へであるらしい。
國富といふのは日本全體から見れば決して變化はないと思ふ。
現在の日本の國富は、なるほど資本主義の潮流に乗って全體としての日本が蓄積した冨であって、
決して資本主義だけの富の製造技術によって爲されたものでない事を心得るべきである。
日本及び日本人としての經濟的に膨脹しゆく力----民族的なるエキスパンションに因るもので、
その中にあらゆる階級、あらゆる生活、學問、さうしたものの渾然たる日本の發展力の結果だ。
資本主義陣営内の前述の如き考へは、恰も現在の日本の富を作ったものは資本家の手であり頭脳であると思ってゐる。
哀しむ可き錯覺である。
恰も今やその資本主義の修正が必然的に約束されてゐる今日、日本の資本主義經濟機構を改變し、
資本閥を倒すことに依って日本が貧乏になるといふ理論は成り立たない。
反って既に役目を果した資本主義を否定する民族的な、生活力は更に次の富國の段階に移るべきだと思ふ。
われわれはその位の民族發展の可能性のあることを、日本民族に信じてゐる。
寧ろ鞏硬なる國家的統一をなした事になり、日本の統一といふことは世界に對する恐怖であるが譯だ、
同時に日本の經濟機構を改變するといふことは、世界の今日の經濟組織の大破綻を來すといふことで、
今日の日本の改造といふことは、日本一國の改造のみならず、世界改造に及ぶことにならう。
大和民族が將來世界に雄飛する爲めにはその位の苦労はしなければならぬ。

現在の國民生活の神經の樞を握ってゐるのは官僚である
この官僚の最近の抬頭は、軍部の臺頭に伴って起って來たやうな奇現象を示してゐるが如何?

軍部の抬頭といふより、國體観念を中心とする國家改造運動、靑年將校運動の臺頭に對して、
所謂重臣がその現狀維持の方法を取るに政黨が駄目であるから官僚に求めた事による。
官僚は長年政党の壓迫下にあったので、この時とばかり、軍部臺頭の力を逆用してゐるのだ。
然も軍部内にある現狀維持の聯中が、この官僚どもと款を通じることなどによって一時はいい氣なものであった。
然し、現在永田中將の死によって、この気勢は壊滅したやうだが・・・・
新官僚の旗印は或程度の改造といふことを考へて居るが、此の新官僚の立場といふものは、
仮に明治維新を例とする公武合体派だ。
もう一つ突っ込んで言ふと、ロシア革命に於けるケレンスキー政權だ。
官僚が看板にしてゐる旧勢力にもよい新勢力にもよかれといふ存在は矛盾である。
ところで官僚の思想の中心は依然として彎曲された自由である。
彼等は政治に対してさへも政黨に對する反撃的修正に止まり國家改造など及びも寄らない。
むしろ明治の當初に於ける官僚階級とその華やかさに對する思慕にすぎない。
その観念は、退嬰的であるばかりでなく、徒らに細部的である、官僚運動を實践するに當っても、
自らその力もないので軍部に頼らうとしたのだ。
玆に思想的といふより便宜的に幕僚ファッショとの通謀が成立したわけで、そこに指導力などのあらう道理がない。
最も指導力を必要とする時代に、指導力のないものが政治の中心となってゐることは日本の不幸である。
帝國大學の机の上と官廳の窓からは巷の聲は判らない。
農民や市井の勤労者は、むしろ彼等の物判りのよさそうな、蒼白い、
高慢ちきな秀才面を見て怨嗟を徴發されるに止まらう。

現在、右翼團体の大部分に對して、われわれは低劣な印象しか持ち得ない
然も右翼團體と云へば、必然的に軍部と關係ある如く思はれるが、靑年將校として何う思ふ

單純に右翼と靑年將校を結びつけることは迷惑至極である。
右翼と云っても日本精神を賈り物にして、寄生虫的存在が多いと思はれる。
だから決して既成の右翼團体といふものは、革新運動の中心にはなってゐない現狀だ。
論より證拠所謂既成の右翼團體といふものは悉く至る処で革新分子によって改變されてゐる。

明倫会の如き軍人出身者を中心としている右翼の團體があるが、一例として何う思ふ

あんな邊りがまあ、何と言ふか我々が深い所を流れて居るとすれば、丁度岸辺を洗ってゐるといふものだ。

右翼團體にしても財閥の補助を受けて居るといふ説が伝はって居る

之は我々靑年將校をといふ者は、國家の官吏として待遇されてゐる。
だから生活者で無い者の内容がわからないが不正がなければ徒らに潔癖に見る必要もなからう。
唯それが革新運動を他人に賈り附ける或は支配階級を食物にして居る者は、明瞭に我々の敵だ。

次に左翼運動はいま、思想的流行の圏外になってはゐるが潜在的には、
 インテリ階級の大部分に、多少ともシンパ的魅力を持たれてゐる。
また左翼思想が、自由主義に寄生してゐることも事實だ。

左翼思想は、先づ日本の國體に反する意味で反對である。
左翼と云っても無産党の聯中の如く陛下を認めて、
 然も日本の國體論があってそれに社會民主主義を取り附けるといふ事は成り立たない。

だが右翼小児病も、ずい分ある

右翼にも、左翼にも、小児病は多い。
右翼小児病などのいい例は、活動冩眞によくある近藤勇が酒に酔って芸者を前に置いて深刻な顔をしてゐる。
それに魅力を感じるやうなものだ。
最近の各種の右翼運動などでよく發見されるやうに、國家を改造するものが、日夜待合などに出入して、
芸者を抱いて紅灯縁酒の下に酔ひしれてゐる實情である。
それで何の改造が出來るか、營々として働いてゐる農民や、勞働者に申しわけがない。
で、第一に彼等には眞劍さがない。 改造の捨石になる信念がない。
だから改造だ改造だと云ってゐながら、ひとりでゐると淋しくなる。
同志が集まって酒を呑み、女を抱き焦繰的寂寥を誤魔化さうとしてゐるのだ。
信念があるならば、ただ一人黙々として冷静に前進する筈だ。
聞けば相澤中佐の如きは決行の前などは何人にも語らず、水の様な静けさであったといふ。
現在の中央部の軍人の中にも、幕僚あたりは、國家の大事を語るに盛んに料亭待合に出入して行ってゐるが、
これでは國家を改造する資格はない。
われ等靑年將校の運動にあるもの、兵と共に野營し、泥にまみれて苦勞を共にしてゐる者には、
想像も出來ない芸當だと思ってゐる。

ぢゃ三月事件、十月事件当初から・・・・

大部分さうだ。
十月事件以來、靑年將校が幕僚から離れ去った重大な理由は、そこにある。
宴会派なる名稱が出來たのもその頃である。

一般的な意味に左翼の運動は、靑年將校等は認識をもっと深めていいぢゃないか

いや相當、その點は勉強してゐるつもりだ。
共産主義にしたところで人類の幸福を目標としてゐる点で、徒らに否定はしない。
然し何よりも先づ我々が日本人である点、また日本人であらねばならぬ一点で、根本的否定----といふより撲滅をせねばならないと思ふ。
ところで左翼の運動などでは先づ感覺的に不快だ、青白いインテリ崩れが、
國家の改造をするについても、戰術の名にかくれて、
ショップガールやタイピストを桃色化したとかなどに至っては子供だましだ。ほんの遊びだ。
例のハウスキーパーなんて、情婦 ( いろをんな ) ぢゃないか、要するに児戯の二字に盡きる。
そんな遊びから何が生まれるものか。

兵士は、徴兵で國家の義務であるから、奉公、奉仕といふ感じが湧くが、
 將校は將校たるが故に生活の資を得、まして生涯を通じて生活を保證されてゐる點から見て、
 一部から將校職業論の出てゐるやうだ

制度上から云ふと、將校は徴兵制度内にあって、義勇兵制度に入る。
從って職業ではない。
唯實際問題として今日我々が特に反省しなければならない事は 將校が自己を以って職業的軍人ならしめてゐる事だ。
若し職業でやってゐるならば、日本國民でありながら、
陛下の殊遇を忝うして居るといふ事が前に云ったやうに靑年將校をして内外を問はず
國民の眞先に犠牲になるといふ信条を持たしめる。
若し職業であるならば、戰爭には成る丈死なない様にして、金鵄勲章を貰ふ
實際問題として我々靑年將校は職業でないといふ信念の下に立ってゐる。
軍人勅諭を噛みしめて讀んで頂くとはっきりすると思ふ。

靑年將校などには、世間的接触がないために、民衆の生活感情を無視した點がずい分あるやうだ

世間的に最も多く信ぜられてゐる考へだが、事實はこれと反對である。
我々將校程世間的接触の多いものはない。
論より證拠に、我々が毎年十萬以上の壮丁を入れてそれを直接教育する。
彼等は世間の総ての職業を網羅して居る。
我々軍人は戰爭術の技師ではない。
だから兵隊に軍隊の技術を教へる爲めの將校ではない。
それに兵隊の凡ゆる階級の者が持つ思想、信念、境遇之を體得しなければ理想的の教育が出來ぬ。
況んや我々靑年將校が此の一般社会から入って來る兵卒の演習場に於ても共に露營し、
共に同じ飯を食ひ、泥まみれになって居る中に、彼等の思想感情を知り、彼等の悩を感得、苦しみを知る譯だ。
從って民衆の生活感情や思想内容に對する知識といふものは非常に強いものだ。
國民總てを指導しなければならぬ確信を持って、ものを非常に研究して居り、却って世間一般の人よりも色々知って居る。
勿論なかなかさう云ふ將校が全部を占めて居るとはいへないが、
軍人自信が自己の任務といふ事を考へると自ら解る問題である。
また毎年十萬宛の在郷軍人を出して居り、其の在郷軍人は今日三百萬を越して居る、
之等の者は事實上健康なる精神力、肉體力を持って居る者、所謂完全な日本人である筈だ。
然らば將校の信念であり思想といふものは、非常に國民の間に浸入して居る譯だ。
われわれの在郷軍人に對する考へは解ると思ふ。

現代のジャーナリズムに對して何う思ふか

自由主義、資本主義の太鼓持の役目以外には、あまり氣に止めぬ。

然し、新聞雑誌が、自由主義なのでなく、社會全體がさうなのではないか、それでなくては、
新聞や雑誌が、ああまで一様に自由主義的陣營にのみ集るまい
まして所謂右翼を標榜する雑誌で營業的に成り立ったのを聞いた事がない
これは民衆が要求してゐないのではないか

さうだ、何と云っても、支配階級と、これに隷属的關係にある階級の生活感情は
明らかに自由主義の温床なものであるからだ。
だがこの社會底部にうつ然として盛り上がってゐる明日の日本の潮流に氣がつかないからだ。
いやわかってゐても自分等の慣れた生活環境なり階級の現在を維持しようとして、耳目をふさいでゐるのだ。
だからジャーナリズムのみを非難しても仕方ない。
だが現在の新聞などの態度はまさに軽蔑すべきものだらう。
自由主義でありながら、云ふ可き口をことさらに塞ぎ、甚だしきは軍部に媚態を示してゐる態度は、賈笑婦に等しい。

軍人も士官學校の數年間を除いては同じ社会環境に育つものである以上、
 一般の社會にある、自由主義的影響、欧化思想のない筈はあるまい

それはたしかにある。
第一 日本の軍制からして、欧米諸國の制度をまねて居るのだ。
又所謂優秀な將校は、皆外國に行って居る位で、ここに陸軍内部の教育制度、軍制の改革が必要されるのだ。
これは矢張り日本が富國強兵の爲に、欧米の資本主義を輸入した結果、
矛盾を來した如く陸軍に於ても、其の轍を踏んで居ると思ふ。
此の中で今日最も害を來して居る事は、將校の教育である。
今日の將校の教育といふものは、一世紀前のプロシヤの貴族將校團の思想が入って居ると思ふ。

上官に對する靑年將校の考へといふものは?

我々は陛下の軍人だから、上官個人の部下ではない譯だ。
要するに上官の命令といふものは、陛下の命令と確信するからこそ、水火も辭せずに行くのだ。
從って日本の國に於てこそ、上官といふものは、國體論を眞に把握せずして、
所謂職業軍人であった場合下の者は之に服從しないのは當然だ。
日本に於ては上に立つ者程國體観念に透徹し、人格職權共に立派でなければならぬ。
制度上に於ける上官であるから服從しなければならぬと云腑言はない。
陛下の命令が上官を通じて命令されるから服從するのであって上官個人に服從するのではない。
即ち軍規に服從するのでなく天皇陛下に服從し奉るのである。

では信念の相違の場合は、服從し得ない場合も生じて來るか

相澤中佐事件の場合の例になると思ふ。

併し其の、陛下の命令が上官を通じて現れるといふ事は、實際問題としての認識は非常に困難と思ふ

それは難しい。
日本軍隊に居って上は元帥、大將から下は二等兵に至る迄、 皆陛下の軍人としての信念が統一せられねばならぬ。
之が所謂國軍の所謂統制といふ事でなければならぬ。
それを制度により規則によって統一しやうといふ頭が統制派の思想だ。
勿論人間は神様でないから、實際問題として理想が今日直ぐ行はれるとは云へない。
少なく共我々が其の理想的境地に迄前進しやうと思ふ。
だから或時期に於ては上官が、下の者に自己の信念によって鞏要する事がある、
其の時に我々の信念として、間違って居る時には腹を切って陛下に詫びるといふ事を認識しなければならない。
自分が命令する時に下の者は陛下の命令と確信して動くのであるから、自分の一言一句確く信念を作ってやらなければならぬ。
戰場に行って此の部下は行けば必ず死ぬと思ふが、涙を呑んで行けと命令する其の信念の境地に達しなければならぬ。
頼むのではない、命令するのである。
其の行けといふ言葉の裏には、非常なる信念がなければならない。

暴力の倫理性といふことについて考へることがあるか

直接行動の一切を暴力といふ意味で先づ戰爭は國家としての暴力の行使だ。
如何なる力の發揮にも根本に理想が無いものはない。
要はその思想の如何だ。
勿論力の發揮は最終的なものであるが、
言論その他の方法が無力となったとき特に正しいものの発現には、力の必要に迫られることがある。
國際間に於て戰爭が起ると同様に、個人に於ても最後には正しい信念を有する者が、
正しい信念を遂行する丈の力を持たなければならなぬ。

陸軍大學の天保銭は時代錯誤だ。子供の玩具のやうな・・・・

本當にさうだ。將校といふものには盛装も天保銭も要らないと思ふ。
理想としては軍人の服制は戰爭に行く制服が即ち正義の様に簡單にしたい。

神兵隊については、特に何を考へるか

あれはファッショだ。日本の國體観念を錯覺した欧化思想である。
その改造の方法に國家に攪亂を起して戒嚴令を敷かさうとした如き思想は以ての外だと思ふ。
即ち、攪亂を起してやると云ふことは根本的の間違ひなのだ。
即ちファッショの下に國民暴動を煽動して戒嚴令を奏請すると云ふことは陛下をだまし奉る遣り方だ。
大權鞏要に属する。
むしろ自分がやるだけの事をやって、陛下の前にひれふすと言ふ態度でなければならないと思ふ。
況やその資金を作る爲に株式の投機業者と結託してその計畫を投機の對象たらしめやうとしたり、
 或は關係者はさうした金で花柳の巷で、遊興してゐたなどに到っては、むしろ苦笑を禁じ得ない。
以上
(日本評論社刊「日本評論」昭和十一年三月号に掲載されたものに、整理訂正を加えたものである)

現代のエスプリ 二・二六事件 編集・解説 利根川裕 至文堂刊 から


昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』

2018年01月10日 11時42分59秒 | 靑年將校運動


大岸が目をかけた男に中村義明という人がいる。
昭和三年の三・一五事件で検挙された共産党の闘志であったが、
獄中で転向し、遠藤友四郎の 「 天皇信仰 」 を読んで、国体の尊厳を自覚したと言っている。
昭和九年に 雑誌 「皇魂」 を発行し、主として陸海軍の軍人に配った。  リンク→
皇魂 1   皇魂 2 
原稿は主として大岸が執筆し、資金援助もしたらしい。

翌十年二月に東京に移り、
西田や大蔵の援助もうけて大々的な啓蒙活動をすることになった。
ところが ふとした機会で、津田英学塾出の才媛と知りあい、十月一日、めでたく結婚式をあげた。
それまでのいきさつは 大蔵の 「 二 ・二六事件への挽歌 」 に詳しく出ている。
  リンク→
中村義明 ロマンス実る 

その年の十二月三十一日、
中村義明の新婚早々の家に、
大岸をはじめ 林 ( 正義 )、伊東亀城 ( 五 ・一五事件の関係者 )
それに安藤、村中、磯部、澁川 ら、    ( ・・・三名 ?)
有志の面々が集まり、飲むほどに酔うほどにすっかり座が乱れて大宴会になった。

ふと  ただならぬ気配になってきた。
大きな声のやりとりが聞こえてくる、
一人はどうやら中村らしい、
新夫人の よし はこの時のありさまを こう書いている。
「 その論点が西やら東やらさっぱりわかりませず、さりとて平静ではいられず、
 襖に手をかけはしたものの、何かこだわりがあって、すっと開けることも出来ず、
全神経を部屋の気配に集中してのまま立ちすくんで居りました。するとその時、
「 ようし、斬る ! 」
「 斬れ ! 」
思わず、さっと襖を開けて部屋の中を見て、これは驚愕、声も出ずただ茫然と棒立ちになってしまいました。
どなたかが ( 多分澁川氏であったと記憶します ) 木刀を大上段に振り上げ、
あわや一討ちという瞬間だったのです。
あの木刀が力をこめて打ち降ろされれば、胸を張って正座している吾が背の君は、
悪くすれば 昭和十年十二月三十一日を一期として相果てるところだったのです。
斬る、斬れといっても木刀でのこと、大事はなかったとも考えられますが、
これは今にして思えることであって、
当時のあの方たちの真剣な思いは本当に命を賭けていたと思うのです。
木刀を振り上げた人の良識を信じたものか、そもありんと解釈したものか、
一座はシーンと静まり返って、誰一人止めだてする人もないのです。
この呼吸のつまりそうな数瞬、女房たる者全く生きた心地はありませんでした。
「 アハハハハハ ! 」
と、突然の笑い声、
「 どっちが正しいかは後世の史家がきめてくれるよ 」
の 声に一座の緊張は急にほぐれ、
木刀は事なく静かに降ろされ、正座の主も生命に別状なく、
吾が麹町の家も惨劇の家とならずに済んだ次第でした。
この時の氏神は、誰あろう大岸氏その人であったのです。
将にタイミングのよい一喝であったと言うべきでしょう 」
・・・・・追想・大岸頼好 中村よし 手記

国家の革新に生命を賭けた、その頃の有志たちの真剣な気魄と、
大岸の包容力に富んだ人柄を、心にくいまで浮彫りした一文である。
「 ぼくもうこの時は羅南に赴任していていなかったから、何とも言えないが、
木刀を振り上げたのは澁川でなく、磯部ではなかったろうか。
磯部なら酔うとよく刀をふりまわす癖があったからだ。
立川文庫流にたとえるなら、磯部はさしずめ塙団右衛門という所だろう、
とにかく直進する猛将型という点でよく似ていた。・・・・」
・・・・大蔵栄一
« 西田税
對馬勝雄  も この宴に居た »
西田税 ・ 金屏風への落書 
・・・・大蔵栄一
須山幸雄 著  二・二六事件・青春群像 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

« 末松太平大尉もこの宴に居た »
この年の年末から年始にかけて私は東京に出た。
大晦日には中村義明の家で大岸大尉、澁川善助、伊藤亀城に会った。
中村義明に会ったのは、これがはじめてだった。
大阪時代から 『 皇魂 』 を 通じて知ってはいた。
『 皇魂 』 は 中村義明が主宰する月刊雑誌だったが、
大岸大尉がその大半の頁を埋めていたことは、聞かなくても、文章の癖でわかっていた。
中村義明は 元は有力な共産党員だったが、
この少し前から大岸大尉らの仲間にはいっていた異色る存在だった。

『 皇魂 』 には 「 皇室の御式微 」 という表現が目立った。
大内山の松の緑がいかに色あざやかにみえようとも、
民に生色なしとすれば、それは単なる虚飾としか目にうつらないというわけだった。
皇城にたちこめる瑞雲も、皇室と国民との間をさえぎる妖雲とかわるというわけだった。
民のかまどの衰えの上に、皇室の繁栄はありえない。
尊皇とは同時に民のかまどをにぎわすことである。
かつて、民のかまどのにぎわいのために、その障害となる最大拠点を打倒すべく、
皇城に牙をむけた共産党有力メンバーは一転して、
現実にみるものとはちがった。
宮垣の壊れ、殿屋の破れを瞼のうらにうつして、南朝の悲歌を昭和の代に詠うのだった。
しかり、『 皇魂 』 は 悲歌調だった。
しかし、そのなかから、一人も飢えこごゆれば顧ておのれを責めた、いにしえのひじりのきみの大御心を今に体して、
妖雲を打ち払う革新の情熱を噴騰させようとしたのである。
村中孝次の遺詠の一句
「 尊皇義軍一千兵  欲除奸害払妖雲 」 ・・< 註 1 >
が それである。

私が麹町元園町の中村義明の家にいったのは、夜もかなり更けたころだった。
もう皆は、たわいもなく酒に酔っていた。
それでも除夜の鐘の鳴るのを聞くと、澁川はすっくと立ちあがり、
青年たちと明治新宮に初詣でを約束してあるからといって出ていった。
残ったものは依然、狭い部屋で歌を歌ったり、悪たれをついたりして、惰性のように酒をくみかわしていた。
酔いの遅れた私は、この雰囲気に容易に溶けこめなかった。
どれほど時間がたったかわからなかったが、
意外に早く 澁川が帰ってきて、いただいてきた明治神宮のお札を皆にくばった。

夜の白々と明けそめたころ、私は澁川と中村義明の家を出て、西田税の家へ向かった。
酒いきれ、人いきいれのなかから出ただけに、睡眠不足ながら、元旦黎明れいめいの寒気がかえってさわやかに感じられた。
二・二六事件のあった昭和十一年の元旦はこうして明けた。

昨年の元旦は、相澤中佐、大岸大尉と一緒に、仙台の宿で迎えたのだった。
年越しのそばを相澤中佐と二人で、行きずりのそば屋で食べたとき、
相澤中佐は、
「 末松さんと一緒に年越しそばを食べるのだから、来年はいい年だぞ 」
と 目を細めてたのしそうにいったが、
その人はこのとき 未決の獄に、ひとり端坐して元旦を迎えていたことだろう。
末松太平 著
 私の昭和史 から
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< 註 1 >
尊皇義軍一千兵  欲除奸害拂妖雲
雪霏々降白旗揺  願神州從是維新
村中孝次の絶筆
・・・香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった ・・参照


改造法案は金科玉条なのか

2018年01月01日 18時39分44秒 | 靑年將校運動

末松太平
« 改造法案は金科玉条なのか・・菅波中尉の意見 »

新京に着いたのは夜だった。
宿をとった二人は寝る間を惜しんで話し合った。
私が是非会って話し合って置きたいと思ったことは、
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を めぐっての建設案のことだった。
これまでは建設案は念頭に浮かべることすら邪道と思っていた。
それは先輩、特に大岸頼好 あたりに任しておけばよく、自分らは破壊に専念すれば事足りると思っていた。
火事場の破戒消防夫は、破壊に専念するだけでよく、
あとはどうなるなど考える必要はないと思っていた。
しかし 満洲での足掛け四年は相ついで起こった日本内地の事件の推移に思いをひそめるひまをつくった。
破戒消防夫も ふと 後始末を考えてみたくもなるのだった。
破壊のあとに構築される構造物のデザインも、垣間見ながら見て置きたくなった。
それが 『 日本改造法案大綱 』 に 対する反省ともなって、
菅波中尉の意見を徴したくもなったわけだった。
暗黙のうちに、これが建設案だと、同志のあいだで認められているようだったからである。
私は菅波中尉に、『 日本改造法案大綱 』 は 金科玉条なのか、
それとも単なる参考文献なのか、単なる参考文献であるとすれば、
別に妙案があるのか---といった点をただした。
これに対して菅波中尉は
「 実はそのことで自分も考えているところだが、『 日本改造法案大綱 』 を 金科玉条とみるわけにはいくまい 」
といった意味のことをいった。
そのとき
「 これなどはその意味において、一応いい案だと思っているがね 」
といって出したのが 『 皇国維新法案大綱 』 というのだった。
( ・・・『 皇政維新法案大綱 』  ) 
これは私も前に見ていた。
青森の聯隊時代の大岸中尉の作品で、十月事件の前に私案として同志に印刷配布したものだった。
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 や、権藤成卿の 『 自治民範 』 や、遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』
などを参考文献に起案したものである。
菅波三郎
『 日本改造法案大綱 』 を めぐっての建設案については菅波中尉と私の意見は一致した。
「 内地に帰ったら、みなとよく相談してみてくれ 」
と 菅波中尉はいった。
« 大同団結 »
片岡中尉は北海道師団の主力の渡満と同時に交代して、私より先に札幌に帰っていた。
彼は私の凱旋する時期をみはからって行動を起した。
大同団結を策しようとするためだった。
同じ革新に志していながら対立排擠はいせいしあっている青年将校間の紛糾を調整しようとすることである。
それは私と満洲の戦塵の間で相談しあっていたことであった。
しかしそれは複雑で困難なことだった。
十月事件の後味悪い幕切れも対立排擠の一因だった。
それに十月事件と必ずしも関係があるとはいえない、軍自体の計画する革新がからまった。
永井大尉が承徳の兵站旅館で私にいった、陸軍省の金庫のなかにしまってあるという
革新案がそれであるかどうかはともかく。
軍内部の派閥関係もあった。
それも必ずしも革新と関係あるものとはいえなかった。
かつての長閥、薩閥といったものではもちろんなかった。
が、それらと革新が奇妙に交錯していた。
そのうえ政界、財界が、これにまつわりついていた。
もともと 「 郷詩会 」 によって一応全国的組織を持った、陸・海・民 青年の革新は、
一君の絶対と万民の平等をうたった徹底維新だった。
それは 『 天皇と叛乱将校 』 の著者から 「 天皇の名において共産政治を日本に布こうとしていた 」
と 思われても無理からぬ過激なものだった。
一方軍自体は満洲事変に、国防国家、総力体制確立のために、ある種の革新を迫られていた。
『 国防の本義とその強化の提唱 』 と いったようなパンフレットが、
陸軍省自体から鳴物入りで配布されるに至るのも、その一つの現れである。
もともと政治・経済がウィークポイントだった軍である。
それへの対策から、にわかに軍人で、帝国大学に政治・経済を学んで、
エキスパートを自任するものができたり、
学界、政界、財界で、軍との関係をこの意味で結ぶものができたりした。
それにはイタリーのファシズムやドイツのナチズムが参考にされたりした。
軍自体の革新案は大体こういった間に生まれたものらしかった。
通俗的にいうならば
---私自身、通俗的にしかいい得ないが---
徹底維新は困るが、ある程度の革新は軍自体にとっても必要だ、ということである。
それと青年将校との関係は微妙だった。
あるときは利用価値のある存在であり、あるときは厄介な存在だった。
このころから和歌山六十一聯隊の中隊長をしていた大岸大尉がいっていた
「 軍は若いものが承知しないとおどしては軍事予算をふんだくっているんだよ 」 と。
しかしそれが青年将校にとっては、もっけの幸いだった。
そこに青年将校の弾圧されない隙があり、その隙を巧みにぬって行動範囲をひろげ、
組織をかためていった。
そのために時に妥協し、時に反抗した。
そのなかから妥協に安住するものと、反抗を内にとぎすますものとが、
それぞれの個人の持つ人生観、処世観によって分かれていった。
それが勢力ある高級者とつながり、勢力分野を形成し、
互いに、曲解、誤認、中傷をも含めた対立排擠を渦巻かせるのである。
こういったことは何時の時代、何時の場合にもみられる世の常のことであって、
こと珍しく青年将校の間にのみ見られた現象ではないが、
これによって純な革新的ムードは変貌して、すれっ枯らしの政争的様相を呈するに至るのである。

片岡中尉は大阪で私と待ち合わす前に、東京で軍中央部の先輩筋を打診して大体の見当はつけていた。
それはしかし大同団結の困難さを思い知らされたにとどまった。
せめて手近から大同団結の事実をつかみとろうとした。
それが大阪の聯隊にいた蟹江中尉を、私の強力を得て、説得することだったのである。
蟹江中尉は私の一期後輩で、片岡中尉の一期先輩だが、
十月事件のとき片岡中尉に説得されて同志となった歩兵学校グループのメンバーだった。
その蟹江中尉が、片岡中尉の出征しているあいだに、東京の村中孝次、大蔵中尉らと対立状態になっていた。
私は片岡中尉に落合う前に
東京で村中、大蔵中尉らに会って行けるよう日程を組んで青森を発った。
村中孝次 
« 改造方案は金科玉条なのか・・東京のグループ »
東京に着くと、先ず西田税を訪問した。
予め日程は澁川に知らせておいたので、西田税の家には大勢の同志が集まっていた。
菅波中尉が満洲に渡ってからの東京の青年将校は、
村中、大蔵中尉が中心になっていた。
それに磯部中尉や栗原中尉が新たに重要メンバーに加わっていた。
栗原中尉は十月事件のころは、同期生の溌溂として後藤中尉や片岡中尉らにくらべれば陰のうすい存在だった。
同期生のなかには彼を軽侮するものすらいた。
その軽侮したもののなかには、その後退転するものもいたが、軽侮された彼が、遂に初志を貫くことになるわけだった。
ともかく 久振りの西田税の家で、前とはちがった面目の磯部、栗原中尉に私は会ったのだった。
が 西田税のうちの雰囲気は物足りなかった。
「 君のいない間に、いろんなことがあったよ 」
と 西田税はいったが、その言葉にこめられた西田税の感慨には共感できても、
あとは雑談ばかりで、予期したものはそこになかった。
私は凱旋の挨拶をしに顔を出したのではなかった。
もっと緊迫した話題がほしかった。
私はそれで菅波中尉と親京で約束したとおり、北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 に対する
われわれの態度はどうあるべきかを一同にただした。
ぴたりと談笑がとだえた。
だれも意見をいわなかった。
西田税も口をつぐんだままだった。
座が白けた。
それにもかまわず、
「 それは金科玉条なのか、それとも参考文献にすぎないのか。」
と 私はたたみかけて誰かの意見の出るのを待った。

しばらくして磯部中尉が、
「 金科玉条ですね 」
とだけいった。
すかさず私は
「 過渡的文献にすぎないというものもある 」
と 応じた。
これに対しては もう誰も口を利こうとはしなかった。

« 澁川善助の苦悩 »
私は釈然としない気持ちで澁川と一緒に西田税のうちを出て、直心道場に向った。
このころ澁川は直心道場に起居していた。
その夜 直心道場の澁川の部屋で、澁川と薄い布団をならべて寝ると、
「 貴様、きょう西田氏のところで、ひどいことをいったよ。」 と 澁川はいった。
もう二人だけなら安心して、なんでもいっていいといった口振りだった。
「 なにがひどいことだい。」
「 『 改造法案 』 のことだよ。だが、いってよかったかな。貴様でなければいえないことだからな。」
そういって、澁川は 『 改造法案 』 を めぐっての西田対大岸の確執を話しだした。
意外だったのは西田税の 『 改造方案 』 に対する執着の深さだった。
当然、『 改造法案 』 に批判的な大岸大尉との間に確執を生じた。
このために、青年将校間に別の対立が生じようとしていた。
この調整に奈良の聯隊の松浦邁少尉が上京したが、それはかえって両者の確執を深める結果になったという。
リンク→ 
松浦邁 ・ 現下青年将校の往くべき道 
「 松浦君は有能だが、しかしまだ若いからな。ちょっとまずかったよ。西田氏が怒ってしまった。
 おれは日本にいるのがいやになって、満洲に行って貴様と戦場で一緒に死のうとさえ思ったことがある。
だから貴様の帰ってくるのが待ち遠しかった。が もう安心だ。貴様が帰ってきたからな。
二人でこれから東京と和歌山との調整をしよう。
貴様は西田氏とも古いし、大岸さんとも切っても切れない仲だからな。」
澁川は西田税に対しても、大岸大尉に対しても不満があった。
しかし、それをじっと殺して、なんとか両者の間をとり持とうと苦心しているのだった。
そういった澁川の苦衷は、『 改造法案 』 問題だけではなかった。
私と品川駅で別れてからの人知れぬ苦労は、
その間に起った西田のいった 「 いろんなことがあったよ 」 の、いろんなことの裏に秘められていた。
それを私に打ち明けて、少しは荷を軽くするようだった。
「 では一寝入りするか 」
と 何度か言い合いながら、どちらかともなく話しをしかけて、結局夜をとおして語りあかした。
それでも澁川は直心道場の規律通りに起きて、朝の行事をすますようだった。
私は行事の終わったころをみはからって起き、大森一声はじめ道場の人たちと朝食を共にした。
道場の食膳は質素を極めていた。
麦めしに大根の葉を身にした味噌汁だけだった。
私にだけ目刺しが二三匹ついていた。
澁川は笑って、「 お客だから特別御馳走したんだ。」 といった。
他の人たちもこれにつられて明るく笑った。

« 和歌山の大岸頼好大尉 »
汽車に乗ると私はすぐ眠ってしまった。目がさめたら大阪に着く直前だった。
大阪に着いたのは夜だった。
片岡中尉が蟹江中尉を伴なって駅に出迎えていた。
「 話しはもうついた 」 と 駅を出ると片岡中尉はささやいた。
蟹江中尉を二人で説得しようとしていたのだが、私はもうなにもいわなくてもよかった。
が 一緒に酒を飲みはじめると、「 あすは一緒に和歌山へ行こう。」 と 片岡中尉は蟹江中尉にうながしていた。
これはまだ話をつけていないことのようだった。
「 いや、隊務があるからまたにしよう。」 と 蟹江中尉がいうのを皆までいわせなかった。
「 まだ本当にわかっていないな。真剣になれよ。大事なことだぞ。
 隊務がなんだ。末松さんもわざわざこのために来たんじゃないか。一緒に行くべきだよ。」
片岡中尉に圧倒されて蟹江中尉は渋々承諾した。
私しは二人の問答をききながら、ただ 食い倒れの大阪の味覚を堪能していた。
翌朝、牛にひかれて善光寺詣りならぬ、片岡中尉にひかれて和歌山詣りをする蟹江中尉と一緒に、大岸大尉を和歌山に訪ねた。
和歌山の駅を降りたところで、ひょっこり村中中尉に出合った。
東京で別れたばかりだった。
陸軍大学校の学生だった村中中尉は大学の戦史旅行で満洲に行く途中、
大岸大尉を訪ね帰るところであった。
「 妙な顔ぶれだね。」
蟹江中尉と連れだっている私と片岡中尉に対する村中中尉の皮肉なことばだった。
蟹江中尉の敬礼に応える村中中尉の敬礼も、よそよそしかった。
対立のはげしさを如実にみせつけられた。
「 満洲にいったら菅波に会ってくる。」 と 村中中尉は別れぎわに私にいった。
西田税のうちでの 『 改造方案 』 論議に関連していっているわけだった。

蟹江中尉と会った大岸大尉は如才なかった。
「 久振りですね。奥さんお元気ですか。」 といって蟹江中尉とを迎えた。
一時は家庭のつきあいまでしていたことが推測できる挨拶だった。
それがいつのころからか、村中中尉らに令眼視される関係になって、和歌山へも足が遠のいているわけらしかった。
片岡中尉は蟹江中尉を同伴するに至ったいきさつを述べ、短兵急に大同団結の必要を強調した。
が 大岸大尉の受け答えは のらりくらりとしていた。
それは大岸一流の韜晦とうかい癖のようにもとれた。
蟹江中尉に対する警戒が解けていないためのようにもとれた。
暗くなる前に片岡中尉は物足りない顔で、蟹江中尉をうながして大阪に引き返した。
私は残った。
暗くなって、和歌山聯隊の若い将校が二三人訪ねてきた。
私に引き合わすため夫人を呼びにやったようだった。
なかに広島幼年学校時代の二期先輩、土屋正徳中尉もいた。
林銑十郎大将同様のいかめしい髭を生やしていた。
ヅク十郎髭だといっていた。

私は大岸大尉からまだ、ききたいことを何一つきいていなかった。
昨夜は酒間の雑談に終始しただけだった。
退屈でも帰るわけにはいかなかった。
この日の夜は二人だけだったので、問題の 『 改造方案 』 についてきり出した。
新京で菅波中尉と話し合ったこと、西田税のうちでのこと、直心道場で澁川と話し合ったことなどを。
大岸大尉は私の話をきき終ると、
「 そりゃ澁川君のいうとおりひどかったよ。めくら蛇におじずだったね。
 磯部君はおれを殺すとまでいっていたそうだ。気の毒なのは澁川君で、間に立って随分苦労したらしい。」
といって、いざこざのあらましを話すのだった。
澁川からきいた話とつき合わすと、
『 改造方案 』 をめぐっての東京と和歌山の葛藤は大体検討がついた。
私が凱旋の帰途たまたま新京で、菅波中尉の意見を徴した同じ問題に、
ちょうどその頃内地でもつき当っていたわけである。
では一体、『 改造方案 』 のどういった点が意見の衝突となっているのだろうか。
これに就いて大岸大尉は、あまり語ることを好まぬふうだった。
ただ この点は骨が粉になってもゆずれないといって、二三それをあげるにはあげた。
それがどういうことであったかは、いま記憶にない。
私はしかし 『 改造法案 』 批判よりも、それに代わる案があればそれを知りたかった。
それで、「 では 『 改造法案 』 に代わるものがありますか 」 と きいた。
大岸大尉は 「 あるにはあるがね 」 と いったきりで口をつぐんだ。
いやに勿体ぶるなと思った。
いわなければいわなくてもいいや、おれにいえなくて誰にいえるのだろう、ともおもった。
韜晦もいい加減にするがいいや、とも思った。私は無理にきこうとはしなかった。
私は西田税のうちでも不満だった。ここでも不満だった。
この夜はここに泊まるほかないが、翌日はすぐ辞去しようと思った。

「 これはまだ検討を要するもので、人には見せられないものだが・・・」
と いって私の前に置いた。
私はひらいてみた。
冒頭に 『 皇国維新法案 』 と 銘打ってあって、革新案が筆で書きつらねてあった。
これが 『 改造法案 』 に代わる大岸大尉の革新案の草稿だった。
が、それはまだ前篇だけで、完結していなかった。・・・ 『 極秘 皇国維新法案 前編 』
私がそれを読み進んでいるとき大岸大尉は
「 将軍たちがえらく 『 改造方案 』 を きらうんでね 」 と つぶやきもした。
それを考えにいれてのものかどうか、ともかく、ざっと目を通していく私には、
どこがどう 『 改造方案 』 と、きわだってちがっているのかわからなかった。
日本が皇国となっていたり、改造が維新となっていたりするように
将軍好みに用語、表現に工夫が払われているとは、大岸大尉のつぶやきに影響されて思いはしたが、
これが殺すのどうのと葛藤を生むほどのものの御本尊であるかどうかは、
『 改造法案 』 を 後生大事に、箱入娘のように庇物にすまいとする金科玉条組の偏執とともに、
了解しがたかった。

磯部浅一は二・二六事件後、死を直前にしてしるした 『 獄中手記 』 の八月二十一日のところに
「 『 日本改造法案大綱 』 は 絶対の真理だ。 一点一画の毀却を許さぬ。
今回死したる同志中でも、『 改造方案 』 に 対する理解の不徹底なるものが多かった。
又 残っている多数の同志も、殆んどすべてがアヤフヤであり、天狗である。
だから余は、革命の為に同志は 『 法案 』 の 真理を唱へることに終始しなければならぬと言うことを言い残しておくのだ。
『 法案 』 は 我が革命党のコーランだ。
剣だけあってコーランのないマホメットはあなどるべしだ。
同志諸君、コーランを忘却して何とする。
『 法案 』 はいいが、字句がわるいというなかれ 」
と 書いているが、私などは、このなかの 「 理解の不徹底なるもの 」 の 一人であり、
天狗ではなかったが 「 アヤフヤ 」 の 部類には、はいるわけではあるが、
『 改造方案 』 が 金科玉条であるにしても、そうでないとしても、
どうしてお互い対立以前に、互いに偏執なく検討しあう了解が成り立たなかったのだろうかと思った。
これを翌朝和歌山を発って大阪に向う南海電車のなかで私は考えつづけた。
大同団結どころの騒ぎではない。
片岡中尉の提案をのらりくらりと受け流していたのは、必ずしも大岸一流の韜晦とのみはいえなかった。
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『 皇政維新法案大綱 』 から 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 に至る経緯は、
大岸が1931年9月頃に書いた 『 皇政維新法案大綱 』 を参照して、
鳴海才八 は1932年1月頃に 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 を作成、印刷し、二月頃東京の関係者に頒布した。
1933年5、6月頃に澁川善助、菅波三郎らが 「 在満決行計画大綱 」 を作成、
同年か1934年、 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 と 「 在満決行計画大綱 」 は結びつけられたことになる。
1934年頃になると、大岸の思想はもはや 『 皇政維新法案大綱 』 を書いたときとは異なっていた。
そこで、改めて大岸によって編まれたのが、 『 皇国維新法案 』 だった。 
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« 大岸頼好の皇国維新法案 » 
・・リンク→ 『 極秘 皇国維新法案 前編 』

澁川が大岸大尉の 『 皇国維新法案 』 を 印刷したものを、風呂敷一杯重そうに掲げて、
また青森にやってきたのは、このときから一カ月とはたっていなかった。
これはこんないきさつからだった。
澁川がこの前帰って間もなく、
大岸大尉から、和歌山で 「 人には見せられないもの 」 と大事がっていた 『 皇国維新法案 』 の草稿を、
どういう心境に変化がきたのか、至急印刷したいから澁川に頼んでくれといってきた。
私は早速大岸大尉の意志を澁川に伝えたが、それが出来上がったから、と 持参したのである。
「 知っている印刷屋のおやじが奉仕的にやってくれた。
紙も、おやじが大事なものだから上質紙にしたがいいというのでそうした。」
澁川は風呂敷を解きながら、こういった。
私はこれを私直接の全国の同志に配ろうと思った。
が、どういうわけか大岸大尉から間もなく、配布はしばらく待ってくれといってきた。
そのときはまだ何部かを独身官舎の若い将校に配っただけで、殆んど手付かずだった。
二・二六事件のときまでそのままだった。
湮滅しようと思えばそのひまはあったのに、わざとそのまま残して置いた。
二・二六事件があった年の正月、私は東京に出ていたが、
その時澁川が 『 皇国維新法案 』 が 西田税にみつかって、これは誰が印刷したんだと激怒したといっていた。
「 どうもおれが下手人とにらんでいるらしかったが、とぼけて素知らぬ顔をしておいた。
 それにしても西田氏があんなに怒るとは思わなかったな。」
と 澁川は意外といった顔で、苦笑していたが、私も、へえ、そんなものかなあ、と 以外に思った。
ともあれ、二・二六事件直前に、まだこんな未解決な問題が、残されていたのである。
二・二六事件で私が調べられているとき、
予審官が 「 ときに 『 皇国維新法案 』 というのがありますね。あれは誰が書いたのですか 」
と きいた。
私は一瞬だまった。
それにとんちゃくせず、予審官はつづけて
「 澁川は自分が書いたといっているが、そうですか 」
ときいた。
「 そうです 」
と 私は答えた。
末松太平著  私の昭和史から


兵に後顧の憂いがある

2017年12月27日 10時28分27秒 | 靑年將校運動

靑年將校がみていた
當時の社會

 ・
一、山口一太郎  
靑年將校は戦時において下級指揮官として、貧しい靑年と共に、
敵の鉄砲火の中に飛び込む役である
と 同時に、平時においても軍隊教育者として、
兵隊を仕込む役でもある。
熱心な教育者であればある程、被教育者たる兵隊の困窮に深い同情を持つ。
この困窮をなんとか救ってやりたいと思い、その困窮の原因となっている社会悪に対し、
激しい憤激を覚えてくる。

第一に
この国は国民大衆の幸福のために運営されていない。
天皇様は国民が幸福であるように、お情け深くあられるが、
牧野伸顕とか鈴木貫太郎とか斎藤実とかいう君側の肝が、
特権階級に都合のよいように虚を申し上げるから政治が悪くなるのだ。
高橋是清蔵相は財閥の味方ばかりして貧乏人を苦しめている。
第二に、
戦争で死ぬのは青年将校と兵隊とであり、
参謀本部や陸軍省の連中は、待合で兵器工業社の重役と飲み食いし、
戦争になっても自分たちの生命は安泰で、その上勲章や褒美の金がもらえるのだ。
第三に、
二十歳から二十三歳位の働き盛りの青年を兵隊にとられ、
どん底生活におちいった家庭の数は数えきれない。
それなのに、
それらの家庭に邦から与えられる軍事救護金は、家の涙ぐらいしかない。
ために苦界に身を沈めた兵隊の妹もおびただしい数にのぼる。
国を思い兵隊の家庭を通じて国民大衆の苦悩を、
ひしひしと体得している純真な青年将校は、
純真であればあるほど、
時の政府、時の軍当局、特に財閥が憎くてたまらなかったのである。
国民を兵隊として召集する仕事をかる役所は連隊区司令部である。
兵隊に後顧の憂いがある。
これでは天皇陛下萬才を心から叫んで死んでいけない。
今日の政治はだめだ 
という青年将校の声は、連隊区司令官を通じて陸軍省にとりつがれ、
閣議の席上陸軍大臣からしばしば政府に申し立てられた。
これは国民大衆の声が、
為政者に強く勧告される ひじょうに都合のよいルートであったのである。
しかし、政治はいっこうによくならなかった。
純真な人たちが自己を忘れて国民大衆の幸福になる道をかんがえるとき、
正当な意志通達のルートが閉ざされていると、
その動きはおのずから危険性を帯びてくる
・・・『 青年将校 』 山口一太郎
・・日本週報 「 天皇と反乱軍 」 所載
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


靑年將校は兵の身上から社會をのぞき、
そこから 政治惡を感じとっていた。


二、高橋太郎
「姉は・・・」 
ポツリポツリ家庭の事情について物語っていた彼は、ここではたと口をつぐんだ。
そしてチラッと自分の顔を見上げたが、すぐに伏せてしまった。
見あげたとき彼の眼には一ぱいの涙がたまっていた。
固く膝の上にすえられた両こぶしはの上には、二つ三つの涙が光っている。
もうよい、これ以上聞く必要はない。

暗然拱手歎息、
初年兵身上調査にくりかえされる情景、
世俗と断った台上五年の武窓生活、
この純情そのものの青年に、実社会の荒波は、あまりに深刻だった。
はぐくまれた国体観と社会の実相との大矛盾、疑惑、煩悶はんもん、
初年兵教育にたずさわる青年将校の胸には、こうした煩悶がたえずくりかえされて行く。
しかもこの矛盾はいよいよ深刻化して行く。
こうして彼等の腸は九回し、眼は義憤の涙に光るのだ。

ともに国家の現状に泣いた可憐な兵は今、北満第一線の重圧にいそしんでおることだろう。
雨降る夜半、ただ彼らの幸を祈る。
食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、
その心中は如何ばかりか、この心情に泣く人幾人かある。
この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにして置けないはずだ。
ことに為政の重職に立つ人は。

国防の第一線、日夜生死の境にありながら
戦友の金を盗って故郷の母に送った兵がある。
これを発見した上官は、ただ彼を抱いて声をあげて泣いたという。
神は人をやすくするを本誓とす。
天下の万民は皆神物なり、
赤子万物を苦しむる輩はこれ神の的なり、許すべからず
・・・『 感想録 』
死刑判決三日前の七月二日に書き残したもの、
若い隊付将校の革新の意向が切々と訴えられている。


三、磯部浅一
青年将校の改造思想はその本源は改造方案や、北、西田氏ではありません。
大正の思想国難時代にこれではいけない、
日本の姿を失ってしまうという憂国の情が、忠君愛国の思想をたたきこまれている、
士官学校、兵学校、幼年学校の生徒の間に、勃然として起ったのです。
そしてこの憂国の武学生が任官して兵の教育にあたってみると、
兵の家庭の情況は全く目もあてられない惨但たるものがあったのです。
何とかせねばと真面目に考え出して、日本の状態を見ると意外にひどい有様です。
政党、財閥のかぎりなき狼藉のために、国家はひどく喰い荒されている。
これは大変だ、国を根本的に立て直さねば駄目だと気がついて、
一心に求めているとき、日本改造方案と北、西田氏があったのです。
・・・『獄中手記』・・磯部浅一
リンク→ 獄中手記 (三) の三 ・ 北、西田両氏と青年将校との関係

これも青年将校の国家革新への志向を描いたものだが、
けっきょく青年将校は、いずれも 「 国家悪 」 を そこにみたわけであるが、
では
彼らは国家の現状を、何に照らして悪とみたのか、
彼らが日本の現状を見る眼は なんだったのか


四、村中孝次
明治末年以降、
人心の荒怠と外国思想の無批判的流入とにより、
三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇国体に、
社会理想を発見し得ざるの徒、
相率いて自由主義に奔りデモクラシーを讃歌し、
再転して社会主義、共産主義に狂奔し、
玆に天皇機関説思想者流の乗じて以て議会中心主義、
憲法常道なる国体背反の主張を公然高唱強調して、
隠然幕府再現の事態を醸せり。
之れ
一に明治大帝によりて確立復古せられたる
国体理想に対する国民的信認悟得なきによる
・・・『続丹心録』
リンク→ 昭和維新・村中孝次 (三) 丹心録


国家の現状、
それは村中によれば、国体理想に背反せるものであった。
彼らのもの見る眼はそのすべてが 国体観念、国体の理想にあった。
この理想にてらされる邦の姿は 「 国体破壊 」の 現状であったのである。


大谷啓二郎著 
軍閥   


後顧の憂いのなき社会にするぞ

2017年12月26日 10時40分18秒 | 靑年將校運動

青年将校は戦時において
下級指揮官として、
貧しい青年と共に、敵の銃砲火の中に跳び込む役であると同時に、

平時においても軍隊教育者として、兵隊を仕込む役でもある。
熱心な教育者であればある程、被教育者たる兵隊の困窮に深い同情を持つ。
この困窮をなんとか救ってやりたいと思い、
その困窮の原因となっている社会悪に対し、激しい憤激を覚えてくる。
青年将校は当時の社会悪を次のように見ていた。

 
山口一太郎 
第一に、

この国は国民大衆の幸福のために運営されていない。
天子様は国民が幸福であるようにお情け深くあられるが、
牧野伸顕とか鈴木貫太郎とか斎藤実とかいう君側の奸が、
特権階級の都合のよいように、嘘を申上げるから政治が悪くなるのだ。
第二に、
戦争で死ぬのは青年将校と兵隊であり、
参謀本部や陸軍省の連中は、戦争になっても自分達の生命は安泰で、
その上勲章や褒賞の金がもらえるのだ。
第三に、
二〇歳から二三歳位の働き盛りの青年を兵隊にとられ、
ドン底生活に陥った家庭の数はかぞえきれない。
それなのに、家庭に国から与えられる軍事救護金は蚊の涙ぐらいしかない。
ために苦界に身を沈めた兵隊の妹も、おびただしい数に上る。
国を思い兵隊の家庭を通じ、
国民大衆の苦悩をひしひしと体得している純粋な青年将校は、
純真であればある程、時の軍当局、時の財閥が憎くてたまらなかったのである。
・・・山口一太郎 談

満洲事変がおこると彼等は第一線小隊長として、その部下と共に彼我の火線につく。
ここでは多くの愛する部下を失う。
つい、二、三日前の討匪行軍、そこでは兵と共に遠い家郷がしのばれ、
昨夜の露営の篝火かがりびでは、しみじみと家庭のあれこれを語りつづけていた兵隊たちは、
いま、弾雨の中で 「 むくろ 」 となっている。
第一線で部下を失った小隊長の気持ちは、これを体験した将校でなければわからない。
部下を殺したという自責、勇敢に戦ってくれたという愛惜あいせき
兵は誰のために死んだのか。
老いたる父母や多くの弟妹たちの生活苦を思い、後ろ髪をひかれながらも、
よく戦って、そして戦死した兵たち、小隊長はこの兵の志を生かしてやらねばならない。
だが、それにはどうすればよいのか。
彼等は天皇陛下の万歳を叫び、天皇陛下のためにと信じて死んでいくならば、
その天皇国は、せめてそれに価する立派な国、後顧の憂いのない社会にしてやらねばならない。
部下を思う第一線小隊長は、銃火の下、部下達の血潮を浴びて、こう決心をするのであった。
たが、そこにみつめる国のありさまは、彼らのこい願うものとは違っていた。
ここに、また、弾雨の中に得た第一線小隊長の 「 革新 」 の決意があった。

大谷啓二郎 著
・二六事件の謎  から


統制派と靑年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」

2017年12月23日 20時50分22秒 | 靑年將校運動

靑年将校は
統制派をもって中央部に蟠踞ばんきょする不純幕僚とし、
極力これと争っていたが、
この場合彼らはまた、
十月事件関係幕僚およびその流れをくむいわゆる清軍派とも、
鋭く対立して、たがいにざんぶ中傷をこととしていたが、
これは、すべて、靑年将校を弾圧するものとしての対抗意識であった。

しかし統制派は、
すでに見たように陸軍を正しい姿にかえし、軍の総意をもって革新を行おうとし、
これがため部内統制の確立と越軌下剋上の悪風を一掃しようとした。
そして靑年将校の革新運動は、軍紀上厳にこれを封殺すべきこと、
しかしこれにかわって軍首脳部が国家革新に熱意をもち、
軍全体の組織を通じてその革新にあたるべきだとした。

そこで、
靑年将校運動を弾圧する前に、まず彼らを説得する必要を認め、
昭和八年十一月頃、数字にわたって、九段偕行社などで、
中央部幕僚との懇談会がもたれたのであった。 リンク→ 
「 軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか 」 
だが、この懇談会は成功しなかった。
両者がその主張をくりかえすだけで、
ついに一致点を見出すことができなかったのである。
すなわち、統制派は、
「 軍内の横断的結成による革新運動は、軍を破壊する危険があり、
靑年将校が、荒木、真崎をかついで革新の頭首とすることは、
軍内に派閥をつくるもので、このような青年将校運動は廃絶して、
軍みずからが、その組織を通じ合法的に確信へと進むべきである 」
靑年将校は、
「 軍の組織をもって革新に向おうとするのは理論的であって
実際的ではない。
われわれ靑年将校は挺身して革新の烽火をあげるから、
軍中央部は、その屍を越えて革新に進んでもらいたい 」
といい、
両者平行線をたどって、けっきょくものわかれにおわったが、
しかしこの対立は、
この二つのものが根本的な違いをもっているように思われる。

靑年将校は、すべて人に中心をおいているから、
志を同じくする人材を求め、
この人によって、維新大業の輔翼にあたらせようとするが、
統制派幕僚は、人よりも組織を重んずる。
それは、彼らが軍の組織を動かし、
軍の一糸乱れない統制のもとで、国内改革に進もうとするからだ

こんな話がある。
さきの幕僚と青年将校の懇談会が、ものわかれになったあと、
靑年将校を裏で指導していた西田税が、
池田少佐宅に現われ、次の問答をかわしている。
  
西田税                 池田純久
軍の中央部が靑年将校の維新運動を抑圧するのはけしからん。
彼らが荒木大将のもとに集まり、荒木を信頼しているが、なぜ悪い。
年将校が国体信念に透徹した荒木将軍をかつぐのは、やむをえないことだ。
それはどうしてだ。
高級将校のなかで、国家革新に熱意のある将軍は、荒木大将と真崎大将だけだからだ。
そうでもあるまい。
われわれは、けっして荒木大将個人を忌避しているのではない。
軍の組織で行くべきだとしているのだ。
軍は個人によって、しかも横断的に動かされてはならないのだ。
それはわかる。
しかし、軍が革新に熱意があるなら、
革新の理解のある荒木大将を、かついだ方が有利ではないか。
荒木大将が陸軍大臣ならば、荒木、荒木といってかついでも弊害は少ない。
もし、荒木大将が陸軍大臣をひいて、そのあとに新たな大臣を迎えたとき、
君たちが、いぜん、荒木をかついでは、軍を私兵化する危険性がある。
私はこれを怖れるのだ。
それでは革新はできない。
革新に理解の乏しい人が陸軍大臣になったのでは、万事休すである。
われわれは、軍内の特定の将軍をかついで、革新をやる考えは適当でないと思う。
軍の組織を動かし、一糸乱れぬ統制のもとで、革新に進みたいのだ。
革新が組織で動くと思うなら認識の不足である。
ヒットラーは伍長ではなかったか。
彼は下士官の身をもって、ドイツを動かしたのだ。
それは見解の相違だ。
・・・池田純久の 『 統制派と皇道派 』

ここでは、革新における、
人と組織の問題は 「見解の相違 」 でおわっている。
しかし、私は、これこそ両者の方法論における対立を示すものだと思う。
それは、
統制派が陸軍省という機構の中にいたのに対して、
靑年将校が荒木、真崎のもとに個人的に集まっていたという事情からきただけではない。
両者の改造理念の根本にふれるものなのである。
つまり、
靑年将校は精神主義を信条とするから、具体的な政策というものは、二のつぎにする。
政治でも、経済でも、これを運営する人のいかんにある、との見解に立つている。
人によって世の中はよくもなり、悪くもなるとい考えているから、組織よりも人なのである。
ところが、
統制派は人よりは組織なり機構なりが改められなければ、社会はよくならない、という見解に立っている。
ことに、その名のごとく統制を旗じるしにしている。
だから、軍全体の組織統制のもとに、合法的に革新を行おうとする。
これがために、政治や経済についての政策が検討され、建設計画といったものが準備されることになる。
だが、
靑年将校は、信頼に値する人によって、革新の行われることを期待するから、
そこには、具体的な政策がうまれることがむずかしい。
靑年将校は統制派を目して、清軍派に対すると同様、「 幕僚ファッショ 」 と攻撃し、
統制派の、この軍の組織をもってする国家改造の志向と画策を、中央部万能主義、権力による独裁と、けなしていたが、
それはたしかに、第一線の隊付将校と中央部幕僚との業務的な関係を反映したものである。

すでにみたように、国防国策担当者としての統制派幕僚の国家改造は、
必然に 「 国防体勢の完成 」 から割理だされる。
それは現実的であり実際的であるが、
それが、精神主義を第一とする観念的抽象的な理想に生きる若い将校にとっては、
すべて、幕僚の述策としてうつり、幕僚は機関説だということになった。
幕僚の改造計画といっても、部外有識者の強力を得なくてはならない。
そこに幕僚と新官僚の結びつきがあったし、いわゆる進歩的分子とのつながりも生まれた。
靑年将校は、ここをとらえて、統制派を 「 赤 」 だとけなし、国体をわきまえない逆賊だとも誹謗したのである。
しかし、それは青年将校だけのものではなかった。
十月事件に関係した幕僚から統制派幕僚に至るまで、部外ことに政財界からは、「 赤い幕僚 」 との疑惑をうけていた。


村中孝次 發 川島義之 宛

2017年12月22日 13時47分55秒 | 靑年將校運動

 ⇒
村中孝次                 川島義之

昭和9年10月5日の新聞報道

粛啓壮候。
大命一下 非常時局に於て國軍統督の重責に任じて立たるゝや、
早くも首相と會見し、
國體問題、國防問題に關し堅確なる所信を闡明せられたる閣下の烈誠決意は、
國家の爲め寔に景仰欣賀に不堪る所に御座候。
御就任後二週目、愈々大英斷の實行期に入るべきを予測し、
當初の第一歩に於て國軍盤石の基礎を堅確に打ち建てらるゝこと千願萬望に不堪候間、
僭越を不願以 下 些か卑見を申上げ、御参考に供し奉り候。
一、國體明徴の維新的徹底解決に向ひ直往邁進するを以て終始の大方針となし、
 之れが爲め先づ陸軍上部の更始一新的人事を斷行し、
内外に向つてする皇道宣布の實力的核體たるの基礎を確立せらるゝを要す。
一、永田事件直後責任者 及 同事件發生の直接原因たる十一月事件、
 教育總監更迭問題等の責任者を、遅くとも相澤中佐の豫審終結時迄に處置せらるゝを要す。
進退出所公明を欠き臣下の節を過るに於ては、
上大元帥陛下を蔑にし奉り、下軍紀を紊亂破壊するの罪 軽からず、
責任の所在を明かにすることなく、荏苒空過して相澤中佐の公判開廷に至らば、
世人囂々ごうごうの非難は陸軍に對し集中し、収拾し得ざる破局に堕ちるべし。
急速を要す。
以下是れを細説す。
 一、左記各官は統帥權干犯問題に於ける陸相 竝 參謀總長の輔佐官として、
 永田事件發生と共に即時引責すべかりしものなり。
速急に辭職せしむるを要す。
橋本陸軍次官
 註、永田事件に關する部下統督上の責任を有するのみならず、左記各項に照し即時退官するを至當と信ず。
イ、十一月二十日事件關係
1、永田中將は生前各方面に對し、十一月事件直接責任者は自己に非ずとして橋本次官なりと公言せり。
2、昨年十一月二十日橋本次官は片倉少佐、辻田大尉、塚本大尉の三名の報告を基礎とし、
 永田軍務局長、田代憲兵司令官を帯同、林陸相に迫り、青年將校を彈壓すべきことを鞏要せり。
3、十一月事件前後より今日に至る迄、片倉少佐等が頻りに次官々邸に出入し策動せる形跡あり。
4、辻大尉の士校中隊長罷免を最後迄反對し、同人を擁護せるは橋本次官なり。
要之十一月事件なる架空事件を惹起し、而も軍司法權の運用を拘束歪曲せしめ、
軍紊亂の重大原因を作りしは永田軍務局長と共に同斷の罪責を有す。
 ロ、教育總監更迭前後に於ける策動
1、統制鞏化の美名の下に青年將校を彈壓せること、
2、教育總監更迭により表面化されたる荒木派排撃といふ皇軍私黨化、
3、教育總監更迭前後の怪宣傳による軍内攪亂、
4、教育總監更迭時の統帥權干犯問題、
5、天皇機關説排撃運動抑壓、維新機運阻止等により、重臣方面に阿附追随せること、
右は橋本次官が永田中將との合作を以て林陸相をロボット的に操縦して行ひたるものにして、
青年將校一般に永田中將に對する同様の増惡心を有しあり、警戒を要す。
 ハ、相澤事件に關して
1、巷説妄信云々の怪宣傳は陸軍次官の意圖にて發表せられたる由なり。
2、其後に於ける惡辣な新聞操縦の怪宣傳は次官側近者の妄動なり。
3、事件發生後、次官々邸を憲兵の外警視廳新選組をして護衛せしめたる事實に基き、
 心ある人士の情激を買ひつゝあり。
4、師團長會議に於ける噴飯に価する訓示内容に對する反感、
等 橋本次官に對する反感は、時日の經過と共に惡化するのみなり。
今井軍務局長
 註、十一月事件關係者に對する處分、教育總監更迭、八月人事異動に關し、
  橋本次官、永田軍務局長と相列んで重大輔佐の責を分たざるべからず。
前掲 橋本次官の 「 註 」 各項目の大部は概ね是れを今井中将に適用し得べし。
而して是等の責に恐懼するの臣節と道義とを全うせずして、軍務局長の要位に就きしのみならず、
橋本次官に代り次期次官に累進せんとする野望を抱けるは、奸惡不忠の譏そしりを免れ難く、軍内外の非難高し。
杉山參謀次長
 註、參謀總長宮殿下に對し奉り輔佐宜しきを得ず、
 殿下の御徳を瀆し奉りたりといふ非難は軍の内外に亘り喧囂けんけんたり。

一、十一月事件の惹起、同事件に關聯して軍司法權の歪曲亂用 及 排他的策動陰謀、
 總監更迭問題を廻る惡宣傳等枚擧に遑なき皇軍攪亂の元兇たる左記各官を即時罷免せらるゝを要す。
新聞班長    根本大佐
軍事課員    武藤中佐    池田少佐    片倉少佐
 註、永田中將が天誅に伏せしは是等統制派と稱せらるゝ數氏の妄動陰謀の代表的一人たりしに依る。
少なくとも上記四名を処分せざれば、十一月事件以來の軍内混亂を恢復する能はざるべし。
一、十一月事件 竝 同誣告事件に於て、永田軍務局長等と結託し、軍法會議長官の威令に服せず、
 軍司法權を私斷歪曲し、皇軍紊亂の重大原因を惹起せる左記二法務官を罷免せらるゝを要す。
大山法務局長
島田第一師團法務部長
一、永田事件に於て非武士的行動を以て國軍の威信を失墜し、士気に惡影響を及ぼしたる
 左記の兩官を即時罷免し、 以て軍紀を確立し、士風を振起せらるゝを要す。
山田砲兵大佐
新見憲兵大佐
一、相澤中佐直属上官は同中佐の新任地着任前なるに鑑み、新旧共夫々引責處分せらるゝを要す。
一、三月事件、十月事件の大逆不逞のものたりしは、既に世間周知の事實となりて、
 今や如何に庇護隠蔽せんとするも不可能にして、來議會に於ける最大政治問題となりて、
皇軍の爲め致命的打撃たるは必至の勢なりとす。
其の憂國の志は哀むべしと雖も、夫の至尊に匕首を擬する底の國體冒瀆は斷じて許すべからず。
速かに斬謖の断を以て兩事件首謀者を處斷し、國體の大義を確立するに非んば、
陸軍を目して皇軍の名に隠れ竜袖を擁して不義を維持するものとする國民の非難憤騰し、
軍民分離の重大結果を招來すべし。
兩事件の速急処置は、美濃部、金森等の處分問題より數段緊切なる國體明徴の具現策なりと信ず。

現下軍内部に於ける多少の動揺は實に興國維新の機運潑刺磅礴し、
國家生命の已むに已む能はざらんとする躍動の一現象に過ぎず、
姑息弥縫は徒らに激發の惨禍を招くのみにして、
維新回天の一路を嚮上することによつてのみ軍の一體的統一を庶幾し得べく、
以て軍民一致 眞の皇國大日本確立の聖戰ものあるを奉信候。
國家の爲め愈々以て不屈不退轉の御勇斷を切々奉悃願候。
頓首再拝
昭和十年九月十九日
東京市渋谷区代々木
村中孝次
陸軍大臣川島義之閣下
虎皮下

〔註〕  便箋一七枚にペン書き。
 封筒表 「 陸軍大臣川島義之閣下御直坡 」
 裏 「 東京市渋谷区代々木
山谷町一二五番  村中孝次 」

二 ・二六事件秘録 ( 別巻 ) から


「 軍中央部は我々の運動を彈壓するつもりか 」

2017年12月21日 04時05分56秒 | 靑年將校運動

中央部幕僚の彈壓強まる
青山三丁目のアジトを借りなければならないほど、中央部幕僚の北、西田に対する排撃、
すなわち、私らに対する圧迫は強化されつつあった。
  村中孝次 
そのころのことを村中は
『 粛軍に関する意見書 』 に、次のように書いている。
昭和八年十一月六日から十六日までに
九段上の富士見荘の会合に始つて偕行社の会合に終りました
軍事予算問題を機会とした
首脳部推進と少壮青年将校の大同団結促進との為めの幕僚、
青年将校の聯合同期生会の状況の如きは、
彼の一群が如何に私共に対して
悪意の排斥、中傷、圧迫を企図して居るかを露骨に示した一例であります。
即ち六日の富士見荘の会合に出席したものは、
影佐(偵昭)中佐、満井(佐吉)中佐、馬奈木(啓信)少佐、今田(新太郎)少佐、
池田(純久)少佐、常岡(滝雄)大尉、権藤(正威)大尉、辻(政信)大尉、塚本(誠)大尉、
林秀澄大尉、目黒(正臣)大尉、柴有時大尉及海軍の末沢少佐等でありまして、
反西田、西田攻撃によって青年将校を圧迫し
其の空気の上に乗って大同団結を企図したるものでありますから、
山口(一太郎)大尉、柴大尉の意見により会合の性質が段々変化して
真の大同団結をなす如く努力されて来ましたが、
十六日偕行社の会合によつて遂に其目的が達せられなかったのであります。
当日は牟田口(廉也)中佐、清水(規矩)中佐、土橋(勇逸)中佐、下山(琢磨)中佐、
池田少佐、田中(清)少佐、片倉(衷)少佐、今田少佐、田副中佐、
満井中佐、常岡大尉、山口大尉、柴大尉、目黒大尉、
大蔵中尉、磯部主計等によって会合されたるものでありますが、
陸軍省の方針なりとして徹底的に弾圧されたのであります 」 

三十数年前の私の記憶の中に、
いまでも、鮮明に思い出されることは、
偕行社での幕僚と青年将校の懇談会の模様である。
陸軍省、参謀本部のお歴々がいならぶ大テーブルのまえに、
私等若いものがちょうど被告のようにすわっていた。

まず、牟田口中佐が発言し、
つづいて清水中佐が発言した。
その内容は
陸軍部内の大同団結を強調し、
青年将校の行動を抑制しようとするものであった。
のっけから
われわれの言い分を聞こうとするの態度ではなかった。
すべてが高圧的であった。
「 これでは話が違う、オイ、大蔵帰ろう 」
と、柴大尉が憤然として起ち上がった。
「・・・・」
私と磯部は黙って柴大尉に続いて起ち上がった。
でこの会合はあっさり終わった。
席についてから起ち上がるまで、
二十分か三十分ぐらいの短時間であった。
このことがあってから、皇道派青年将校
( 私らは皇道派という言葉をきらって、自ら国体原理派といった )
に対する弾圧は、
清軍派と統制派とが共同戦線を張ったかたちで、
いよいよ激しくなってきた。
私たちは弾圧が激しくなればなるほど、
不屈の闘魂を燃やしながら、
団結の強化を目指して、国家革新の一途を驀進した。

大蔵栄一著 
二・二六事件への挽歌
高まりゆく鳴動 から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大谷啓二郎著

昭和憲兵史
によると
・・・
十一月六日には、
中央部側からは、
影佐禎昭中佐、満井佐吉中佐、馬奈木少佐、今田新太郎少佐、池田純久少佐、
青年将校側からは、
常岡大尉、権藤大尉、辻政信大尉、塚本誠大尉、林秀澄大尉、
目黒茂臣大尉、柴有時大尉、それに海軍の末沢少佐も参加し、懇談は、進められたが、
この会合には、始めからまずい空気がながれていた。
というのは、統制派幕僚は、
「 軍内における横断的団結は、軍を破壊する危険があるからやめなくてはならない。
 これがため、国家革新は軍の責任において、その組織を動員して実行するから、
青年将校は改造運動から手を引いて、軍中央部を信頼してもらいたい 」
と、彼らの運動解消を提案したので、問題がうるさくなった。
その後、山口大尉や柴大尉の肝入りで、真の大同団結のために、
どうしていけばよいかという方向に、討議は進められたが、
両者、平行線を辿って結論が出なかった。
とうとう、最後の日、十六日には、
中央から、牟田口廉也、清水規矩、土橋勇逸、影佐、下村、満井、田副の各中佐、
池田、田中、今田、片倉の各少佐、
青年将校側からは、
常岡、山口、柴、目黒、大蔵、村中、磯部の各大尉らが参加し、
特に、中央部からは、錚々たる中堅幕僚の大部分が席を連ねて会議は進められたが、
席上、村中が
・・・それでは、軍中央部は、われわれの運動を弾圧するつもりか
と、問題をえぐり出してしまった。
影佐中佐はこれに答えて、

・・・そうだ。 
今後、軍の方針は、いま話した方針で進む。

これに從わなければ、断乎として取締るであろう。
もし、どうしても政治運動を望むならば、軍籍から身を引いてやるがよい。
と、いいきった。

この懇談会のあと、
西田税は、池田純久少佐を訪ねて、
この幕僚の態度をなじり、なぜ、われわれが荒木をかつぐのが悪いのかとくってかかり、
激論の末、退去したが、帰り際に、
われわれは決起する前に、先ず幕僚征伐を行わねばなるまい
と捨台詞をのこしていったが、
いうところの幕僚征伐とは、
まさしく彼、及び彼につづく青年将校の、心魂に徹した怒りの叫びであっただろう。
リンク →
統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」 

 


村中孝次 『 國防の本義と其強化の提唱について 』

2017年12月20日 17時09分59秒 | 靑年將校運動

 
村中孝次 

國防の本義と其強化の提唱に就て
陸軍が其總意を以て公式に 經濟機構變革を宣明したるは建國未曾有のこと
昭和維新の氣運は劃期的進展を見たりと謂うべし。
( 水戸藩主が天下の副將軍を以て尊皇を唱えたるよりも島津侯が公武合體を捨て
 尊皇統幕を宣言したるよりも大なる維新氣勢の確信なり )
陸軍は終に維新のルビコンを渡れるシーザーなり。
内容に抽象的不完全の點なきに非ずと雖も具體的充實化は今後の努力にあり。
我等は徹底的に陸軍當局の信念方針を支持し擴大し強化するを要す。
之が方策の一、二例左の如し。
イ、
該冊子を有効に頒布し十分活用すること、將校下士官兵有志、在郷下士官兵有志、
郷軍有志、民間有志竝農民關係其他所在の改造勢力方面
ロ、
國防國策研究 ( 本冊子をテキストとして ) の集會を盛に行うこと
ハ、
各種の方法を以て當局に對し本冊子に對する絶賛の意を表すると共に活行突破要請を具申建白すること
ニ、
農民其他一般に民間方面の當局に對する陳情具申等を陸軍に集中せしむること

一般情勢判斷に就て
イ、
陸海軍軍事豫算竝國民救濟豫算 ( 臨時議會提出及十年度分 ) を手呈的に支援し要求貫徹を計ること
ロ、
在満機關紙海軍軍縮廢棄通告の實現を促進すること
ハ、
所在同憂同志諸士を正算結集し非常時におうずる準備を着々整うること
ニ、
可能なる限り在京同志と密度なる聯絡をとること
ホ、
冷鐵の判斷行動と焦魂の熱意努力とを以て日夜兼行り奔走を敢行すること

「 一息の間斷なく一刻の急忙なきは即ち是れ天地の気象 」
とは吾曹同志の採って以て日常の軌道とすべきなり。
降魔斬鬼救世濟人の菩薩が湧出すべき大地震裂の時は恐らく遠からずと想望され候
日夜不撓爲すべきを爲し、盡くすべきを盡くし以て維新奉公の赤心に活くべく
お互いに精遊驀往可仕候
十月五日  村中孝次

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 国防の本義と其強化の提唱


「 粛啓壮候 」 と冒頭せるもの

2017年12月19日 16時56分22秒 | 靑年將校運動

「 粛啓仕候 」 と冒頭せるもの
村中孝次 署名

十月一日発行

十月九日禁止
  村中孝次 
陸軍大臣ニ對スル上申書トシテ認メタル如キモ、同時ニ軍部有力者ニ發送シタルモノ、

如クシテ其ノ内容ハ陸軍部内ニ於ケル諸問題ノ内面的事情ト認メラル、
事項ヲ暴露的ニ記述シタルモノナルガ、斯ノ如キハ軍ノ厳粛ナル存立ヲ曲説諚妄セルモノニシテ
軍ノ威信ヲ失墜セシムルト共ニ 人心ヲ動揺セシメ、
以テ社會不安ヲ惹起スル虞おそれアリ。

粛啓仕候
大命降下 非常時局ニ於テ 國家統督ノ重責ニ任ジテ立タルルヤ早クモ首相ト會見シ、

國體問題ニ關シ堅確ナル書信を闡明せんめいセラレタル閣下ノ烈誠決意ハ
國家ノ爲 寔ニ景仰欣賀ニ堪ヘザル處ニ御座候
御就任二週間愈御英斷ノ實行期ニ入ルベク豫測シ
當初ノ第一歩ニ於テ國家盤石ノ基礎ヲ堅確ニ打チ建テラルルコト千願萬望ニ不堪候間僭越ヲ不願以下
いささカ卑見ヲ申上ゲ御參考ニ供シ奉リ候
一、
國體明徴維新的徹底解決ニ向ヒ 直往邁進スルヲ以テ終始ノ大方針ト存ジ
之ガ爲先ヅ陸軍上部ノ更始一新的人事ヲ斷行シ
内外ニ向ッテスル皇道宣布ノ實力的核體タル基礎ヲ確立セラルルヲ要ス
二、
永田事件直接責任者及同事件發生ノ直接原因タル十一月事件 教育總監更迭問題ノ責任者を
遅クトモ相澤中佐ノ豫審集結迄ニ処置セラルルヲ要ス
進退出處公明ヲ欠キ臣子ノ節ヲ過ルニ於テハ 上大元帥陛下ヲ蔑ニシ奉リ 下軍紀ヲ破壊スル罪 輕カラズ
責任ノ處在ヲ明ニスルコトナク集中シ 収拾シ得ザル破局ニ墜ルベシ  急速ヲ要ス
以下之ヲ繼説ス
一、左記ハ統帥權干犯問題ニ於ケル 參謀總長ノ補佐官トシテ永田事件發生ト共ニ 即時引責スベカリシモノナリ
  速急 橋本陸軍次官ニ辭職セシムルヲ要ス
  註。永田事件ニ關スル部下統督上ノ責任ヲ有スルノミナラズ
        左記各項ニ照シ 即時退官スルコトヲ至當ト信ズ
イ、 十一月二十日事件關係
 1  永田中將ハ生前各方面ニ對シ 十一月事件直接責任者ハ自己ニ非ズシテ橋本次官ナリト公言セリ
 2  昨年十一月二十日 朝 橋本次官ハ片倉少佐、辻大尉、塚本大尉ノ三名ノ報告ヲ基礎トシ
     永田軍務局長 田代憲兵司令官ヲ帯同 林陸相ニ迫り 靑年將校ヲ彈壓スベキコトヲ鞏要セリ
 3  十一月事件前後ヨリ今月ニ至ル迄 片倉少佐等頻リニ次官邸ニ出入リセル形跡アリ
 4  辻大尉ノ士校中隊長罷免ヲ最後迄反對シ 同人ヲ擁護セルハ橋本次官ナリ
     要 之 十一月事件ナル架空事件ヲ惹起シ 而モ軍司法權ノ運用ヲ拘束歪曲セシメ
     軍紊乱ノ重大原因ヲ作リシハ 永田軍務局長ト共ニ同斷ノ罪責ヲ有ス
 橋本虎之助中将
ロ、教育總監更迭前後ニ於ケル策動
 1  統制鞏化ノ美名ノ下ニ青年將校ヲ彈壓セルコト
 2  教育總監更迭ニ依リ表面化サレタル荒木派排撃ト言フ皇軍私黨化
 3  教育總監更迭前後ノ怪宣伝ニ依ル軍内攪亂
 4  教育總監更迭時ノ統帥權干犯問題
 5  天皇機關説排撃運動抑壓維新機運阻止等ニ依リ 重臣方面ニ追從セルコト
   右ハ橋本次官ガ永田中將トノ合作ヲ以テ林陸相ヲ ロボット的ニ操縦シテ行ヒタルモノニシテ
   靑年將校一般ニ永田中將ニ對スルト同様ニ増惡心ヲ有シ警戒ヲ要ス
ハ、相澤事件ニ關シテ
 1  巷説盲信ノ怪宣伝ハ陸軍次官ノ意圖ニシテ發表セラレタル由ナリ
 2  其後ニ於ケル惡辣ナル新聞操縦ノ怪宣伝ハ次官側近者ノ盲動ナリ
 3  事件發生後 次官官邸ヲ憲兵ノ外 警視廳新撰組ヲシテ護衛セシメタル事實ニ基キ
     心アル人士ノ憤激ヲ買ヒツツアリ
 4  師團長會議ニ於ケル噴飯ニ価スル訓示内容ニ對スル反感等 橋本次官ニ對スル反感ハ
     時日ノ經過ト共ニ惡化スルノミナリ
 今井軍務局長
 註
 十一月事件關係者ニ對スル處分 教育總監更迭 八月事件人事異動ニ關シ
 橋本次官、永田軍務局長ト相列ンデ重大補佐ノ責ヲ分タザルベカラズ
 橋本次官ノ 「 註 」 各項目ノ大部ハ概ネ是ヲ今井中將ニ適用シ得ベシ
 而シテ是等ニ恐懼スルノ臣節ト道義トヲ全ウセズシテ軍務局長ノ要位ニ就キシノミナラズ
 橋本次官ニ代リ 次期次官ニ累進セントスル野望ヲ抱ケルハ
 奸悪不忠ノ譏そしリヲ免レ難ク軍内外ニ避難高シ
 杉山參謀次長
 註
 參謀總長ノ宮殿下ニ對シ奉リ 補佐宜シキヲ得ズ 
 殿下ノ御徳ヲ瀆シ奉リタルト云フ非難ハ軍ノ内外ニ亘リ喧囂タリ
 十一月事件ノ惹起 同事件ニ關連シテ
 軍司法權ノ歪曲亂用及排他的策動陰謀 總監更迭問題ヲ迫ル惡宣伝等
 遑いとまナキ皇軍紊亂ノ元兇タル左記各官ヲ即時免ゼラルルヲ要ス
 新聞班長  根本博 大佐
 軍事課員  武藤章中佐
 同  池田純久中佐
 同  片倉衷少佐
 註
 永田中將ガ天誅ニ伏セシハ是等 統制派ト稱セラルル數氏ノ盲動陰謀ノ代表的一タリシニ依ル
 少ナクトモ上記四名ヲ處分セザレバ 十一月事件以來ノ軍内混亂ヲ回復スル能ハザルベシ
一、
十一月事件竝ニ同誣告事件ニ於テ永田軍務局長等ト結託シテ軍法會議長官ノ威令ニ服セズ
軍司法權ヲ私斷歪曲シ 皇軍紊亂ノ最大原因ヲ惹起セル左記二法務官ヲ罷免セラルルヲ要ス
大山法務局長
島田第一師團法務部長
一、
永田事件ニ就テ非武士的行動ヲ以テ國軍ノ威信ヲ失墜シ 士気ニ悪影響ヲ及ボシタル
左記兩官ヲ即時罷免シ 以テ軍紀ヲ確立シ 士気ヲ振起セラルルヲ要ス
山田長三郎砲兵大佐
新見英夫憲兵大佐
一、
相澤中佐 直属上官ハ同中佐ノ新任地着前ナルニ鑑ミ 新旧共夫々引責處分セラルルヲ要ス
一、
三月事件 十月事件ノ大逆不逞ノモノタリシハ既ニ世間周知ノ事實トナリテ
今ヤ如何ニ庇護隠蔽セントスルモ不可能ニシテ來議會ニ於ケル最大政治問題トナリテ
皇軍ノ爲メ致命的打撃タル必至ノ勢ナリトス
其ノ憂國ノ士ハ哀ムベシ、
夫レ至尊ニ ヒ首ヲ擬スル底ノ國體冒瀆ハ斷ジテ國體ノ大義ヲ確立スルニ非ズ
人ハ陸軍ヲ目シテ皇軍ノ名ニ陰レ 竜袖ヲ擁シテ不義ヲ維持スルモノトス
國民ノ非難ニ騰シ 軍民分離ノ最大結果ヲ招來スベシ兩事件急速処置ハ
美濃部金森ノ處分問題ヨリ數段緊切ナル國體明徴ノ具現ナリト信ズ
現下軍部内ニ於ケル多少ノ動揺ハ實ニ開國維新ノ氣運溌溂砕薄シ
國家生命ノ已ム能ハザラントスル動キノ現レニ過ギズ
姑息弥縫ハ徒ラニ激對ノ惨禍ヲ招クノミニシテ 維新回天ノ一路ヲ向上スルコトニヨッテノミ
軍ノ一體化統一ヲ庶幾シ得ベシ
以テ軍民致真ノ皇國大日本確立ノ聖戰鴻業ニ翼賛シ奉リ得ルモノト奉存候
閣下素ヨリ決意ノ牢固抜クベカラザルモノアルト奉信候
國家ノ爲愈々以テ不退轉ノ御勇斷ヲ切ニ奉悃願候    頓首再拝
村中孝次

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「 粛啓仕候 」 と冒頭せるもの
「 思想月報 」 (昭和十一年五月号、四三号 )
陸軍大臣が、林銑十郎から川島義之にかわったのが、昭和十年九月五日であり、
相澤事件 ( 八月十二日 )  百ケ日目に山田砲兵大佐は自刃しているので、
この手紙は、相澤中佐の豫審中に書かれたものであろう。
( 公判は十一年一月二十八日 )
新任した陸軍大臣川島大将に対する上申書として書いたものであるが、
同時に軍部の有力者にも発送した。
内容の趣旨は、「 粛軍に關する意見書 」 と ほぼ同じであるが、
「 粛軍に關する意見書 」 以後の相澤事件、八月二十六日の師團長會議にふれている轉が新しいことである。
「 噴飯に価する 」 と 書かれている林陸相訓示は高宮太平 『 軍国太平記 』 参照。   
 

現代史資料 4  国家主義運動 1  から


村中孝次 ・ 同期生に宛てた通信

2017年12月18日 18時20分35秒 | 靑年將校運動

 村中孝次 
第三十七期生諸兄

維新の本義は國内正義の擴充確立にあり、我等は派閥を作り黨派を立てようとするものではない。
建國の大精神に擧國一體たること維新への道と心得、
自己竝自己の周囲に對する道義の擴大鞏化を維新實現の基調と信ずるが故に
皇威宣揚億兆安撫を志す同志間に培われつつある同志偕行の一體観を擴充して、
皇國全體に及ぼさんと念願するものである。
國軍の精神的価値の元凶如何、
忌憚なく言えば日露戰爭當時と現在とは精神的価値に於て
日薪正に主客轉倒して居るではないかと私は疑うものである。

國軍上下左右親和團結は果して何処に求め得るか
満洲 上海領事変に於ける 第一線將兵と高等司令部中央部の幕僚との反目嫉視、
天保銭の特權意識と反天運動との相剋、將校團内に於ける出身別の交錯による不和、
將校團の存在を無視せる異動による將校團の破壊、
動員時歩兵隊に於て六コの中銃砲隊が新設編制される事實
( 恐らく第一會戰迄に中隊長を核心とする中隊團結を結束し得ないであろう )
國難と叫び非常時と称せる憂患は國家の内外に迫れる夫れではない、
實に憂患を憂患とせず非常時を非常時としない朝夜人心其者に在りと言うべきである。
非常時とは繼濟の非常時に非ず、政治の非常時に非ず、國防の非常時ではない、
是等國家萬般の事象を危急の深淵に投じ來った國民 「 魂 」 の非常時であり、
更に國民 「 魂 」 が自ら斯の非常を誘致した元兇であることを覺醒せず
晏如として居ることこそ國家の非常時と謂わねばならない。
「 魂 」 の覺醒とは何ぞ國體の確認である、
天祖の神勅神武建國の大詔に基き
二千年の長い混沌辛酸試練を経て漸く明治維新によって確立實現された國體の本義を
錯覺誤解し歪曲逆用した結論が今日眼前に見ゆ内外の憂患危急である。

五 ・一五の巨頭投ぜられ其の公判開かるるに及んで國民は明確に國家を意識した、
國家の現狀に眼を開いた、國體を心解把握し始めた。
今日維新と言い 改造と言う語が 普通化し異様の感を起さなくなったことは
其の生きた證拠と謂い得る。
之を要するに東西両洋文化の精髄を日本自體の夫れの上に盛り是れを融合一體化した
眞の日本は西洋物質文明功利主義的思想の覊絆きはんを脱して
今や正に正々堂々の歩武を以て世界的大踏歩をなすべき秋が來たのだ。
其の第一歩は建國の大精神への覺醒であり國體の國民的把握であり
腐腸腐肉の剔出ちゃくしゅつであり一大理想國家の建設である。

變革に直面しつつある國家の現狀に於て吾人將校たるものは何を爲さんとすべきか、
國體の眞諦に透徹し國家の現狀を正視し將來を洞察し是より得たる結論に基き
各自の信ずる所に於て忠誠の道を励むにありとは何人も到達すべき一般的結論である、
問題は其實行方法と熱意の如何に存する。
十月事件の過大誤謬ごびょう 
は大權の鞏要權力武力の至上視待合酒等である。
其の共に戒しむべきは論なく 特に國體顯現を至高至重の目的とする維新に於て
大權鞏要の國體反逆は斷じて許すべからざるものである。
我等は日本の維新は
天皇大權の御發動に依ってのみ行わるべきものであるとの國體観に立つものである。
從て上は至上を至上と致し奉り 下は國民各階層特に軍内に維新氣運の熟成を圖るに努め
且同志相戒めて國民の艱難かんなんを自身に憂い來ったのである。

昭和七年三月二十七日五 ・一五事件の海軍側から提携蹶起を要望されたが、
維新發程唯一の原動力であると思って居る我等陸軍同志は至誅通天の道未だ成らず
維新發程の聖斷を仰ぎ能わずと判斷せると海軍側が動くとせば策に奔り道を誤らんとする
傾向あるに鑑み時機にあらずとして自重論を説いたのである。

陸軍部内に派閥ありとし軍隊の分裂を憂い大同團結の必要を説くものがある。
確かに其の憂患なしとしない。
然し幕末的幕臣が分裂したとて慨嘆する必要があったか、破邪顯正が維新への道である。
最後迄正邪は抗爭して行くべきものである。
等しく維新を口にするも國體観に於て氷炭相容れず、
正邪の弁別に於て處信を異にするを以て斷じて妥協もなく苟合もない、
同じく軍服を見に纏って居ても國體を忘却し翩々へんへんたる暴力的武力を擁して事を企て
不惜身命無上道の武人的道義を捨てて謀略利用を事とし権謀術算にのみ是れ努むる輩
とは生死を同じくすることは出來ない。
身は軍籍に在らずとも盡忠赤誠の士とは頸頭けいとうの交を結鉄血の盟を爲し來った。
蓋し國家の維新は天皇を大號令者として國民全部が協翼偕行すべきもの、
軍部のみ維新に奉公すべきものでもなく又軍部なるが故に國家維新と別個に存在して
改造を免れ得るものでもないからである。
これをしも稱して部外者と結託して軍隊を破壊するもの爲すは
當らざる事甚しと言うべきではないか。

維新とは國民の魂の覺醒で之を基礎とする國家組織制度の變革を言う、
即ち國民の各人が建國の理想、進化發達した時世とをよく理解し
國家の現實中建國の理想に悖り時代の進運に伴わない部分を匡すにある。
組織制度の改造は全部ではなく國民意識の覺醒が第一であり
これを基礎として新しい組織制度が結果されるのである。
勿論魂の覺醒は國民全部に是を期待することは出來ず制度組織の變革の衝撃により
國民大衆の覺醒を導くことになるのであるが、近來軍人中單なる制度機構の變革のみに
狂奔し其の根本基調たる國民魂の覺醒を全く度外視し甚だしきは武士道精神を蹂躙
し切りに中傷を放ちデマを飛ばし殆んど之が維新的行動その者かの如く考えて居るのか
と疑われるもののあることは痛憤に堪えぬ。

日本國の原理
日本國家の原則は建國の大精神大理想に明かなり
國家統治權の所在萬世一系、天壌無窮、天祖の神勅、帝國憲法第一條
國家の制度組織―時勢の進運に伴い進化、神武天皇即位建國の大詔
國家の對世界的使命―國威宣揚、億兆安撫神武天皇即位建國之大詔、明治天皇御宸翰
之を要するに一君萬民、君臣一體、一国一家、共存共栄の原則を國家の内外に宣布し、
遂に全世界の人類をして此の原則によって神聖的發展進化を遂げしむるにある。
此の原則の根本たる一君萬民一君統治權者なる國家の組織及發展の樞軸
( 所謂國體論の中心的条件 )
は明治維新―詳述すれば憲法發布により萬世不動たるべきことを將來永遠に對して確立された。
上古以來中世に於ける國體に對する幾多の疑惑的史實は
明治時代に至って確立されるべき國體原則の爲の準備時期の所産であると見るべきもの、
換言すれば日本建國の理想たる國體の原則は明治時代を以て法理的にも完成されたと言うべきである。
此の法理的に確立された國體原理と實質的經濟的社會的に完璧を期する事こそ
今次の維新の眼目であらねばならぬ。

維新の原理―方法論
一君萬民、君民一體、一國一家、共存共榮の原則に立つ日本國家の維新は必然、
此の原則によって發展されねばならぬ。
即ち天皇を至高中心とする君民一體の國家的躍進たるべく、國家のものの理想と時勢の
進運に伴って實現せんとする君民一體の國家意思の躍進的發動たるべきである。
維新は天皇を無視除外せる臣民的國民のみの大衆行動に非ず。
臣民的國民を除外せる天皇の獨裁に非ず。
國民中の或る階級分子の専制であってはならぬ、一體的君民の國民行動である。
先覺的國民の先駆誘導による鞏國的躍進行動で天皇は其中心指令者、
全國民は是を協翼する本隊員である、
此の行動は國家原理維新原理に深刻正當な理解を把握して國家の格階層全分野より
起り上下左右強力して進めることが必要である。
維新とは又より高き現實の實現である、
現實を否認すると共に此の否認する現實を基點としてのより高き明日の現實への躍進である
從って形式的復古でなく非現實的改革でないのは固よりである。

維新の具體的原則
1 政治的原則
一君萬民、君民共治、天皇親裁、
國民翼賛議会政黨 ( 自主的國民の政治的意見の自由は政黨を作ることがあり得 )
國民の自由發展 ( 進化の原則である )
2 經濟的原則
國民各自の自由發展の物質的基本の保證、自主的個人の人格的基礎の確立、
國家の最高意思による私有財産土地企業の限度―經濟的封建制の廢止
( 現政黨の否認は財閥との結託により大政黨を組織して居ることによる弊害大なるが故である )
3 軍事的原則 ( 國家最高意思による統一 )
消極的國防の観念を排し建國の理想世界的使命の實現の爲めの積極的實力の充實、
國家の國際的生存權の主張
二月十八日   村中孝次 

昭和九年三月、同期生有志にあてた通信


村中孝次 『 全皇軍靑年將校に檄す 』

2017年12月17日 10時47分31秒 | 靑年將校運動

 
村中孝次 


斷乎として昭和の入鹿を撃殺せよ
時將に至りつつ 時愈々熟しつつあり、諸官は徒らに眠れる大陸の獅子と終る勿れ。
軍服の聖衣を身に纏まとえる諸官の家庭を見よ  田畑を賣り 姉妹を賈り 木の實を食い 疲労困憊其極達せるを、
かつて除隊營門を出る彼等の希望に満ちたる潑剌たる姿も今は全く疲労し切って居るではないか !
想起せよ、必然不可避的第一維新は既に第一期に入りたるも、
吾等の陸海軍同志及民間同志は今尚獄中に呻吟しつつあり。
「 鐡は熱したる時に之を打て 」 なる古語は現下の吾等に何を与うるや。
起て ! 而して熱したる維新の戰闘を開始せよ。
見よ ! 國會に蟠踞する昭和入鹿の奴輩を某國賊に等しく奸策を、行動を !
自利自慾に飢えたるおおかみの如き野望を !
口に兵農両全を叫び實行に軍民離反を企圖せる自由主義的亡國亡者共の群を !
前哨戰ありて既に三年、勝敗は兵家の常とは言い、三月の失敗、十月の敗戰、
再度十一月の退却は吾等皇軍靑年將校の恥辱なり。
諸官は今尚部内の對立に立脚して尊皇討幕の使命を忘却するに非ざるか ?
満蒙の原野に祖國の危急を案じつつ外敵に死したる先輩同志部下の意志を遂行するはそも何人なるや、
其は吾等靑年將校の七生報國の信念なり。
維新の勝敗を決するは今は只斷行の一路あるのみ、即戰既にして準備を終り天兵既にして突撃せり。
起つ可き秋 遂に至る、一路敵陣目指して破邪顯正の大衆劍を抜く可き秋の、玆に至りしを天神と共に喜ぶ。
諸官亦快あらん。
嗚呼誰か知る皇道の本義に立脚して奮然と死すべき聖戰の門出の目前にあるを !
行け同志よ ! 結束して進撃せよ ! 
御聡明極りなき若き大聖帝を擁立して唯一路、金色の鵄鳥の導く昭和維新斷行の戰線目指して
皇紀二千五百九十五年二月軍民聯合潜兵隊