あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一と妻 登美子 「 憲兵は看守長が 手記の持出しを 黙認した様に言って居るが、そうではないことを言ってくれ 」

2020年10月25日 13時33分21秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略3 磯部淺一の闘争


昭和十二年二月二十日
磯部淺一と妻登美子との面会時の会話である

磯部  今日は早く来たか
妻      十時半頃来ました
磯部  お前 憲兵隊へ引っぱられたらどうする
妻      別にどうもしません
磯部  手記 ( 獄中遺書 ) のことだが 岩田 ( 富美夫 ) さんに渡したことも皆写真に出ている
          大したこともないと思ふが、渋谷の憲兵隊へ行っても主人の言ふ通りだと言へばよい
妻      此の間も 一寸聞いたのですが、昨日夕方憲兵が来ました
          私引ぱられると困るのです  女子師範へ入ることになつたのです
磯部  夫れは個人のことで何もならん、兎に角 行って言ふのだ
妻      私から行くのですか
磯部  アパートへ来て貰ってはいけない
         行って主人の言ふ通りだと言って 済みませんでしたと言へばよい
         罪にされたら 罪を受けろ 同志も皆喜んで居る  大臣よりも偉い仕事をしているのだから
         三、四回に渡して要る様に云ってる
妻      私三回に ( 手記を ) 受取って居ります
          日は 始めと終わりの日は知って居りますが 中の日は忘れました
磯部  看守長は誰かと言ったら覚へないと言っておけ  
         千駄ヶ谷 ( 西田税家 )へは迷惑かけなかつたかい
妻      私 直接 ( 手記を ) 渡して居りますから
          貴方には書いて貰ったが 私の一存でやつたのですから
磯部  夫れで問題は刑務所と お前との間のことが一番大切なのだから
          お前と俺の間のことが解ればよいのだから此処 ( 刑務所 ) を 言ってしまへばよい
          面会の時に ( 手記を ) 机の下から袖の中に入れてやつたことを
妻      弟も心配して 姉さんが受取つたならどうか言ってくれと言って居るのです
磯部  俺は同志に済まないから家族のことなんか問題でない
         俺の口から言ったことに付て種々と非難があつたら 此の二点を能く承知しておつて説明してくれ
         夫れは何時迄も ( 手記が外部に ) 出た筋道がわからないときは北 ( 昤吉 ) さんや
          岩田さんが叛乱幇助で引ばられること
         夫れから 怪文書としては ほうむられることになるから
         お前と俺の間の (手記授受の ) 筋道が能く解ってないと困るのだ
妻      岩田さんにも昨日 正式に召喚状が来て居ります
          今日は林 ( 銑十郎 ) さんと 陸軍大臣に会ふことになつて居るそうです
磯部  夫れは確実に引ぱられる
         今 引ぱられると俺達はまける
妻      もう斯様になればスツカリお話しますが宮様にも全部 ( 手記の写真が ) 行き渡って居るそうです
磯部  看守さんや看守長さんにも悪いし 又 渋谷 ( 憲兵分隊 ) の分隊長にも悪い
         昨日も今日も ( 分隊長 ) が来たのだから  お前が行って 主人の申した通りだと言へばよい
         だから お前と刑務所との間のことが一番大切なのだ
         夫れから先 お前が何処へ ( 手記を ) 持って行こうとかまわない
         夫れは別問題だ  之から先 種々なことも起るだらうが 起ってもよい
         憲兵は看守長が ( 手記の持出しを ) 黙認した様に言って調べて居るが
         さうではないことを明日 言ってくれ
妻      事実さうですから さう申します
磯部  其処がカンジンだ 要点は其処だから 解ったかい
妻      解りました
磯部  写真 ( 註 外部で配布用につくつた手記の写しのことか ) を見ると
         看守がアパートへ持って行った様に書いてあるが そんなことではないこと
         看守長が黙認したのでないと言ふこと
         夫れから来たさんや岩田さんを引ぱらうとして居ること
         夫れから此のことをもみ消してしまうとして居ることが要点だ
         だから神様の前へ行った様に正直に言へばよい
         だから学校のことなんか思ふな
妻      然し 私にも親もありますし するから
磯部  そんなこと言っても仕方がない なる様にしかならんのだから
         お前と俺が危険をおかしてやつた仕事は立派なものだ
妻      近頃 皆さんも同情してくれて居ります
          私にとつて之以上の仕事もありませんし 充分やりとげたのですから 正直に言ってしまいます
磯部  憲兵隊へ行くと 三日や四日は とめにれることになるかも知れんが 平気でおれよ
妻      覚悟して居ります
磯部  監獄へ引ぱられたら死ぬなんて言ふことなんかも言ふなよ
妻      未だ大事な体ですから そんなことありません
磯部  今度 何時来る
妻      月曜日に来ます
磯部  さうか 来なかったら憲兵隊に居るものと思って居る
妻      須美男 ( 弟 ) も 試験が済んだら来ると言って居ります
磯部  さうか では 要点は解ったね
妻      解りました
 ( 註  筆記看守 「諸角 」 の捺印がある )


反駁2 東京陸軍軍法会會議公判狀況 『 憲兵報告 』

2020年10月24日 19時12分22秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)

東京陸軍軍法会議公判狀況
憲兵報告


『 澁谷憲兵分隊長 → 東京憲兵隊長 』


東京憲兵隊長    坂本俊馬

反駁 2  
東京陸軍軍法会會議公判狀況 『 憲兵報告 』
目次

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1 元歩兵大尉 香田清貞以下二十三名
・ 憲兵報告・公判狀況 1 『 村中孝次 』 
・・・ 第二回公判狀況    昭和11年5月1日    村中孝次   ・・・ 第二回公判狀況の要点    昭和11年5月1日 
憲兵報告・公判狀況 2 『 村中孝次 』 
・・・ 第三回公判狀況    昭和11年5月2日    村中孝次  
・ 憲兵報告・公判狀況 3 『 村中孝次、對馬勝雄、澁川善助、磯部淺一 』 ・・・ 第四回公判狀況    昭和11年5月4日    村中孝次  對馬勝雄  澁川善助  
・ 憲兵報告・公判狀況 4 『 磯部淺一 』 ・・・ 第五回公判狀況    昭和11年5月5日    渋川善助  磯部淺一
・ 憲兵報告・公判狀況 5 『 磯部淺一、香田淸貞 』 ・・・ 第六回公判狀況    昭和11年5月6日    磯部淺一  香田淸貞
・ 憲兵報告・公判狀況 6 『 香田淸貞、丹生誠忠 』 ・・・ 第七回公判狀況    昭和11年5月7日    香田淸貞  丹生誠忠
・ 憲兵報告・公判狀況 7 『 丹生誠忠、栗原安秀 』 ・・・ 第八回公判狀況    昭和11年5月10日    丹生誠忠  栗原安秀
憲兵報告・公判狀況 8 『 林八郎、池田俊彦 』 ・・・ 第九回公判狀況    昭和11年5月11日    林八郎  池田俊彦
憲兵報告・公判狀況 9 『 對馬勝雄、竹嶌繼夫 』 ・・・ 第十回公判狀況    昭和11年5月12日    對馬勝雄  竹嶌繼夫
・ 憲兵報告・公判狀況 10 『 中橋基明、中島莞爾 』 ・・・ 第十一回公判狀況    昭和11年5月14日    中橋基明
・ 憲兵報告・公判狀況 11 『 安藤輝三、坂井直 』 ・・・ 第十二回公判狀況    昭和11年5月15日    安藤輝三  坂井直
・ 憲兵報告・公判狀況 12 『 坂井直 』 ・・・ 第十三回公判狀況    昭和11年5月16日    坂井直
・ 憲兵報告・公判狀況 13 『 麥屋清濟、高橋太郎 』 ・・・ 第十四回公判狀況    昭和11年5月18日    麥屋清濟  高橋太郎
・ 憲兵報告・公判狀況 14 『 安田優 』 ・・・ 第十五回公判狀況    昭和11年5月19日    安田優
・ 憲兵報告・公判狀況 15 『 常盤稔、清原康平 』 ・・・ 第十六回公判狀況    昭和11年5月20日    常盤稔  清原康平
・ 憲兵報告・公判狀況 16 『 清原康平、鈴木金次郎、田中勝 』 ・・・ 第十七回公判狀況    昭和11年5月21日    清原康平  鈴木金次郎  田中勝
・ 憲兵報告・公判狀況 17 『 山本又 』 ・・・ 第十八回公判狀況    昭和11年5月23日    山本又
・ 憲兵報告・公判狀況 18 『 澁川善助、村中孝次 』 ・・・ 第十九回公判狀況    昭和11年5月25日    澁川善助  村中孝次
・ 憲兵報告・公判狀況 19 『 今泉義道 』 ・・・ 第二十回公判狀況    昭和11年5月26日    今泉義道
・ 憲兵報告・公判狀況 20 『 憲兵報告 』 ・・・ 第二十一回公判狀況    昭和11年5月30日
・ 憲兵報告・公判狀況 21 『 磯部淺一』 ・・・ 第二十二回公判狀況    昭和11年6月1日    磯部淺一  証人申請狀況
・ 憲兵報告・公判狀況 22 『 論告求刑、香田淸貞以下二十三名』 ・・・ 第二十三回公判狀況    昭和11年6月4日    論告求刑  最後の陳述
・ 憲兵報告・公判狀況 23 『 判決、香田淸貞以下二十三名 』 ・・・ 第二十四回公判狀況    昭和11年7月5日判決

下士官
・ 
憲兵報告・公判狀況 24 『 歩兵第三聯隊第一中隊 軍曹・窪川保雄 』

2 歩兵大尉山口一太郎以下三名
・ 
憲兵報告・公判狀況 25 『 新井勲 』 ・・・第一回公判    昭和11年7月3日  新井勲
・ 
憲兵報告・公判狀況 26 『 柳下良二 』 ・・・第二回公判    昭和11年7月4日  柳下良二
・ 
憲兵報告・公判狀況 27 『 山口一太郎 』 ・・・第三回公判    昭和11年7月10 日  山口一太郎
・ 
憲兵報告・公判狀況 28 『 山口一太郎 』 ・・・第四回公判    昭和11年7月11日  山口一太郎
・ 憲兵報告・公判狀況 29 『 山口一太郎、新井勲、柳下良二 』 ・・・第五回公判    昭和11年7月13日  山口一太郎、新井勲、柳下良二
・ 憲兵報告・公判狀況 30 『 論告求刑・判決、山口一太郎以下三名 』 ・・・第六回公判    昭和11年7月16日  山口一太郎、新井勲、柳下良二  ・・・判決は昭和11年7月29日

3 常人 北一輝、西田税、龜川哲也
・ 
憲兵報告・公判狀況 40 『 北一輝、西田税、龜川哲也 』 ・・・第一回公判    昭和11年10月1日  北一輝、西田税、亀龜哲也
・ 
憲兵報告・公判狀況 41 『 西田税 』 ・・・第二回公判    昭和11年10月2日  西田税
・ 
憲兵報告・公判狀況 42 『 西田税 』 ・・・第三回公判    昭和11年10月3日  西田税
・ 
憲兵報告・公判狀況 43 『 北一輝 』 ・・・第四回公判    昭和11年10月5日  北一輝
・ 
憲兵報告・公判狀況 44 『 北一輝 』 ・・・第五回公判 一輝   昭和11年10月6日  北一輝、亀川哲也
・ 憲兵報告・公判狀況 48 『 北一輝、西田税、龜川哲也 』 ・・・第九回公判    昭和11年10月15日  北一輝、西田税、龜川哲也
・ 
憲兵報告・公判狀況 49 『 北一輝、西田税 ・・・第十回公判    昭和11年10月19日  北一輝、西田税
・ 
憲兵報告・公判狀況 50 『 北輝次郎、西田税、龜川哲也 』 ・・・第十一回公判    昭和11年20月20日  北一輝、西田税、龜川哲也
・ 
憲兵報告・公判狀況 51 『 論告求刑・判決、北一輝、西田税、龜川哲也 』 ・・・第十二回公判    昭和11年10月22日  北一輝、西田税、龜川哲也


憲兵報告・公判狀況 51 『 論告求刑・判決、北一輝、西田税、龜川哲也 』

2020年10月23日 16時03分38秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)

  
北一輝         西田税         龜川哲也 
・・・憲兵報告・公判状況 50 『 北輝次郎、西田税、亀川哲也 』  の 続き

第十二回公判狀況
二・二六事件公判狀況ニ關スル件 ( 第五公判廷 )

十月二十二日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税、龜川哲也
 出廷、
仝九時吉田裁判長以下着席、直チニ開廷ヲ宣シ、
法務官ハ被告等ニ對スル事實審理 及 證據調ヲ終了スル旨ヲ申渡シ、檢察官ノ論告ニハイリタリ

檢察官論告
諸言
被告北輝次郎、西田税、ノ指導スル矯激ナル思想ヲ有スル靑年將校等ハ、
外部ノ矯激ナル思想運動者ニ煽動セラレ、
近衛、第一師團管下ノ純眞ナル將校ヲ指導啓蒙シ、
昭和十一年二月二十六日早朝ヲ期シ、
下士官兵千數百名ヲ檀用、統帥權ヲ紊亂シ、昭和維新斷行ヲナスベシトテ蹶起シ、
岡田總理大臣、齋藤内大臣、牧野伸顕、高橋大蔵大臣、渡邊敎育總監、鈴木侍從長ヲ各々官邸私邸ニ襲撃殺害シ、
陸軍省、參謀本部、警視廳、首相官邸 及 麹町地區永田町西南部一帯ノ國家樞要ノ地域ヲ占據、
陸軍首脳部ニ對シ昭和維新斷行ヲナスベシト鞏要、上部工作ヲナシ、國憲ニ抗シ、
上御宸襟ヲ悩マシ奉リ、千歳不朽ノ國史ノ上ニ一大汚點ヲ印シ、外國威ヲ失墜シ、内國政ヲ混亂セシメタルハ
昭和聖代ノ一大不祥事ニシテ、去ル五月四日第六十九回帝國議會特別議會開院式ニ際シ、
天皇陛下ニハ畏クモ勅語ヲ賜リ、
「 今次東京ニ起レル事件ハ、朕ガ憾うらミトスル処ナリ。
我ガ忠良ナル臣民、長野和協、文武一致、力ヲ國運ノ進揚ニ効サムコトヲ期セヨ 」
ト御諭シアリ、
猶、今次事件ノ處置ニ際シテハ、特ニ勅令ヲ以テ当東京陸軍軍法會議ヲ設置セラレタルニ依リ、
當軍法會議ハ事件ノ審理ニ際シ、聖旨ヲ奉體シ、事件ノ眞相根底ヲ究明シ、肅軍ノ明徴ヲ期シ、
斷ジテ、再ビ斯カル不祥事件ヲ惹起スル事ナキ様 眞使命ニ基キ事實ノ審理ニ臨ミタルモノナリ
犯罪事實
前文
被告北輝次郎 ハ二十三歳ニシテ國體論及純正社會主義ヲ著述シ、其ノ名ヲ天下ニ知ラレタルガ、
被告北ハ日本ノ現狀ハ元老、重臣、政党、軍閥、財閥、官僚等ノ一部特權階級ガ
誤レル金權主義ニ依リ小栗民福ヲ抑止シ、私利私慾ヲ擅ほしいままニ爲シアルハ、
世界大戰後ノ 「 獨乙 」 及 「 ロシア 」 ト 同様ノ運命ニ到達シ、
第二ノ世界大戰ニ遭遇セバ我ガ國破壊スベシト痛感シ、
現狀資本主義經濟機構ヲ打開スベシトノ思想ヲ抱蔵スルニ及ビ、夙つとニ國家革新運動ニ從事中、
支那亡命革命者孫逸仙ト相交ルニ及ビ、支那第一革命ニ參加シ、武昌、南京ニ於テ活躍、
歸國後 支那革命外史 等ヲ執筆シ、思想運動者間ニ衝撃ヲ与ヘ、自己ヲ任ジテ革命ノ第一人者トナシ、
再ビ支那ニ渡リ、世界大戰後ノ我ガ國經濟界 政界ノ實情ヲ研究、
國家改造ノ絶對的必要性ヲ痛感シ、
上海ニ於テ支那革命ヨリ體得セル社會民主主義ノ思想ヲ基調トナシ、
我ガ國體ト絶對相容レザル矯激不逞ナル革命思想ヲ記載セル 日本改造法案大綱  ヲ著述シ、
大正八年大川周明ト相通謀シ、翌九年歸朝シ、
日本改造法案大綱ヲ大川周明、安岡正篤、満川亀太郎 等ニ示シ、
維新革命ノ思想ヲ宣傳、猶存社 及 行地社 等ニ關係シ、我ガ思想運動者ノ指導啓蒙ニ從事中。

被告西田税 ハ陸軍幼年學校在學中、満洲問題、支那問題ニ興味ヲ感ジアリ、
陸軍士官學校ニ學ブニ及ビ、我ガ國ノ現狀ハ黙視シ得ズトノ観念ヲ抱クニ及ビタル際、
北一輝ノ日本改造法案大綱を讀破シ、其ノ主義思想ニ共鳴シ、
仝校ヲ卒業 騎兵少尉ニ任ゼラレタルガ、
大正十三年病気ノ故ヲ以テ退役後、直チニ上京、北輝次郎、大川周明、安岡正篤 等ノ經營セル
「 猶存社 」 「 行地社 」 等ニ關係、北ト思想上離別スベカラザル信念ヲ抱クニ至リタリ。

北輝次郎ハ 大正十五年西田ニ日本改造法案大綱ノ著述原稿ヲ与ヘ出版セシメルニ至リ、
兩者ハ益々密接關係ヲ結ビ、大川周明等ト相離反スルニ至リ、
北、西田ハ日本改造法案大綱を讀破シ接近スル靑年將校 及 一般思想運動者ニ對シ直接國體擁護、
國民恢弘ノ美名ノ下ニ我ガ國體ト相容レザル矯激不逞ナル思想ヲ宣傳、同志ノ獲得、思想ノ啓蒙ヲナシ、
満洲事變前後ニ於ケル我ガ政党、財閥ノ横暴、對外的ニハ軟弱ナル外交ニ依リ權益壓迫セラルゝニ至ルハ
一部特權階級ノ惡政ナリト痛感憂慮シ、
現狀ヲ打破スベシトノ感ヲ有スル靑年將校タル村中孝次、磯部淺一、香田清貞、安藤輝三、
栗原安秀、中橋基明 等ニ西田ヲ通ジ 日本改造法案ノ矯激ナル思想ノ啓蒙指導ニ從事シ、
彼等靑年將校ヲシテ日本改造法案ノ具現ニ依リ國體ノ眞姿顯現ヲ期シ、國家改造ノ達成ヲナシ、
其ノ目的達成ノ爲ニハ敢テ直接行動モ辭セザルトノ思想ヲ抱蔵セシメルニ至リ、
特ニ五 ・一五事件、十月事件、昭和九年戰車隊ノ元老重臣襲撃事件、埼玉挺身隊事件、・・・< 註 1 >
十一月二十日事件 等ヲ 巧ニ煽動指導シ、目的達成ノ機運醸成ニ從事シ、
昨年八月同志相澤中佐突如トシテ永田中將殺害事件ヲ惹起スルヤ、
此ノ事件ヲ通ジ年來ノ目的達成ヲ企圖セル村中、磯部、香田、安藤、栗原 等ノ靑年將校ハ同志ノ糾合ニ奔走、
近衛、第一師團管下部隊ノ將校中 國家改造ニ關心ヲ有スル者ノ思想啓蒙指導
及 下士官以下ノ啓蒙運動ニ從事シ、
相澤公判ヲ通ジ一部目的ヲ達成スル他、
仝公判狀況ヲ 大眼目 ニ記載シ、全國各部隊、一般民間ニ配布シ、・・・< 註 2 >
同志ノ糾合 竝 啓蒙ヲナシ、
昨年十二月 第一師團渡満スルノ報 傳ハルニ及ビ、
村中、磯部、香田、安藤、栗原、對馬、中橋、澁川 等相計リ、
第一師團渡満前ニ軍隊ヲ擅用蹶起シ、兵馬大權ノ干犯者ヲ襲撃シ、
昭和維新促進ノ礎石タラン事ヲ協議決定セルヲ、
被告北、西田ハ村中、磯部、澁川、香田、栗原ヨリ
二月十八日、二十二日、二十三日、二十五日 等數回ニ亘リ詳細ナル計畫
及 襲撃目標ノ選定等ヲ關知シタルモ、
被告等ハ第一師團渡満ニ依リ靑年將校ノ蹶起ノ決意鞏固ニシテ抑壓不可能ナリトナシ、
之ガ指導敎示ヲ爲シ、數回ニ亘リ 村中ニ北ノ靈感タル、
「 兵馬ノ大權干犯者打倒ハ大義名分自ズト明ナリ 」
「 大内山ニ光輝ル、暗雲ナシ 」
ヲ示シ、愈々蹶起ノ決意ヲ鞏固ニセシメ、
二十六日午前五時ヲ期シ、
河野、野中、香田、安藤、竹嶌、對馬、栗原、中橋、丹生、坂井、田中、
林、鈴木、池田、麥屋、常盤、今泉、高橋、村中、磯部、澁川、山本 等蹶起、
岡田首相以下顕官襲撃、國憲國法ニ抗セシメタルモノナリ。

北ニ對スル犯罪事實
一、二月十八日西田税ヨリ、村中、磯部、香田、安藤、栗原等ノ靑年將校等相計リ、
 統帥權干犯者 及 君側ノ奸ヲ除去スル爲メ、
第一師團渡満前ニ兵力ヲ擅用蹶起スルトノ事ヲ聞キ、二十二日訪問セル村中ニ對シ、
「 兵馬大權ノ干犯者ヲ討ツハ大義名分自ズト明ナリ。他ハ枝葉末節ニ過ギズ 」
トノ 靈感ヲ与ヘ、靑年將校等ノ蹶起ノ決意ヲ煽動セリ。
二、二月二十三日 村中訪問シ襲撃目標ヲ示シタルニ、
常ニ説キル如ク最小限度ノ犠牲ニ止メ置クベキ事、第二次襲撃目標ハ保留スベキ事ヲ指示、
村中ヨリ襲撃後兵力ヲ一所ニ集結スルハ國體観念上如何トノ問イニ對シ、
十月事件ノ如ク大詔渙發ヲ天皇ニ鞏要スル事ナキ限リ支障ナシ、
蹶起後ハ
徹底シテ目的達成ニ努力スベシ。
三、二月二十七日 村中孝次ヨリノ電話ニ接シ、時局収拾ハ一刻ヲ爭フモノナリ、
 臺灣ノ柳川中將云々ノ如キハ時ニ適合セズ、
二十七日朝ノ靈感ナリトシ、
「 人ナシ、勇將眞崎アリ、正義軍ニ號令ス、正義軍速カニ一任セヨ 」
ナル言ヲ傳ヘ、時局収拾ハ眞崎大將ニ一任スベシ、
靑年將校一同ノ意見ヲ一致トナシ 軍人ニ其ノ趣旨ヲ傳ヘ、現位置ヲ保持スベシト指導シタルコト。
四、二十七日 磯部ニ對シ
「 人ナシ、勇將眞崎アリ、正義軍ニ號令ス、正義軍速カニ一任セヨ 」
トノ靈感ヲ傳ヘ、時局収拾ハ眞崎大將ニ一任シ、靑年將校ニ有利ナル解決ヲ要望スベシト指導ス。
五、二十七日夜 村中、西田、龜川ト協議シ、眞崎内閣組織ヲ一刻モ早クナシ、
 其ノ目的達成迄ハ原位置ヲ撤退スル事無ク、軍上層部ニ交渉すベキコト、
及 二十八日 栗原ヨリ自決云々ノ電話ニ接シ、
自決ハ最後ノ事ニテ、万全ヲ盡クシ行フベシト激励指導。

西田ニ對スル犯罪事實
一、昨年十二月初旬 村中孝次ヨリ近衛、第一師團管下ノ靑年將校等相計リ、
 明春第一師團渡満前ニ蹶起シ、
兵馬大權干犯者 及 君側ノ奸臣ヲ除去スルトノ氣運進捗シアリトノ狀況ヲ聞キ、
此ノ機會ニ國家改造、昭和維新斷行ヲ爲スベシト即斷、機ノ到來ヲ待チリタルコト。
二、二月十八日 村中孝次ヨリ磯部淺一、栗原安秀等ヨリ近日中ニ蹶起シ、
 兵馬大權干犯者 及 君側ノ奸臣ヲ襲撃スルトノ計畫ヲ關知シ、
北ニ傳達スルト共ニ、北ノ神靈ヲ彼等靑年將校ニ示シ、蹶起ノ決意ヲ鞏固ナラシメタルコト。
三、二月二十三日村中孝次ヨリ襲撃目標ニ就キ詳細ナル説明ヲ受ケタル際、
 襲撃目標ハ最小限度ニ止メ、第二次的ナルモノハ實施ヲ中止セシムル等、
襲撃目標ノ選定ニ關シ指揮監督ヲシタルコト。
四、二十五日龜川宅ニ於テ村中、龜川等ト蹶起後ノ事態収拾ニ關シ
 急速度ニ軍部内閣ヲ組織スル様部外工作ヲ爲スコトヲ協議シ、
龜川ヨリ千五百圓ノ蹶起資金ヲ村中ニ与ヘシメタルコト。
五、二十六日北方ニ於テ、同志澁川善助ヨリ襲撃部隊 西園寺公襲撃ヲ中止セル事實ヲ關知、
 更ニ各部隊ノ出勤ヲ確認セル報告ニ接シ、
小笠原中將ニ對シ靑年將校ノ蹶起ノ狀況 及 時局収拾ヲ依頼、
更ニ加藤大將ニ電話、時局収拾ヲ依頼ス。
龜川ヲシテ眞崎大將、山本大將ニ蹶起ノ狀況 及 時局収拾ヲ依頼セシム。
六、二十七日薩摩雄次ヲシテ
 小笠原中將ニ時局収拾ハ眞崎大將ニ一任ト靑年將校間ニ決定セルヲ以テ
本趣旨ノ達成ノ
爲メ 援助方ヲ依頼セシメ、
更ニ二十六日ヨリ栗原中尉等ヨリ情報蒐集、民間同ココロニ傳達、村中、磯部ニ對シ北ノ靈感ヲ傳達、
時局収拾ヲ眞崎大將ニ一任セシムベク奔走。
七、二十七日夕 村中、龜川、北ト協議シ、時局収拾ヲ眞崎大將ニ一任ニ決定、
 目的貫徹ノ爲メニハ一歩モ退去スベカラズトシ、
外部的情報ヲ示シ、占據ノ
決意を鞏固ナラシメ、自決云々ヲ一蹴中止セシメタリ。

被告北輝次郎、西田税ニ對スル豫審調書 及 關係證人ノ證言陳述ヲ讀聞カス。

被告龜川哲也ニ對スル犯罪事實
前文
被告龜川ハ沖縄県立中學校卒業後、臺灣総督府 及 仝専賣局、会計檢査院、東京逓信局等ニ奉職セルガ、
自己ノ研究セル經濟學ノ説明ヲ爲スニ及ビ、政党、財閥等間ヲ往來シ、
政党ノ没落スルニ及ビ軍部ニ接近シ、靑年將校間ニト密接ナル聯絡ヲ有スル西田ト關係、
仝人ヲ通ジ靑年將校 村中、磯部、栗原、安藤、山口等ト相知ルニ及ビ、
政友會代議士久原ニ軍部靑年將校ノ情報ヲ提供シ、多額ノ生活費ヲ受ケアル中、
昨年八月 相澤中佐事件惹起スルヤ、柳川中將ヲ訪問シ、相澤中佐ノ無罪ヲ鞏調シ、
仝中佐無罪ニ依リ軍内派閥抗爭ヲ一掃スルト稱シ、仝中將ヲ説得シ、
相澤公判廷ニ際シ 山口大尉、西田、栗原等ト相計リ 辯護人ノ選定ヲナシ、
仝公判ヲ通ジ 北、西田等ノ矯激ナル思想ヲ信奉セル靑年將校ヲ操縦シ、
自己ノ野望ヲ達成セント 山口、西田、栗原、村中ト相集リ協議シ、
二月中旬第一師團渡満前ニ靑年將校等蹶起シ 元老重臣ヲ襲撃シ昭和維新斷行ヲ期スルヲ關知シ、
西田、山口等ト協議シ、時局収拾 及 後繼内閣樹立等ニ關シ具體案ヲ立案シ、
外部工作担任個所ヲ決定、二十六日朝 眞崎大將等ヲ訪問、時局収拾ヲ依頼セルモノナリ。
事實關係
一、二月中旬 青年將校等蹶起シ元老重臣ヲ襲撃スルヲ關知シ、
 山口、西田ト協議シ、時局収拾ニ關シ外部工作ノ担任ヲ決定、
山本大將、眞崎大將、鵜澤博士等ヲ担當スルコトヲ約シタルコト。
二、二月二十五日夜 龜川宅ニテ 西田、村中ト協議シ、蹶起後ハ時局収拾ヲ速ニ爲ス事
 及 後繼内閣ニ就イテハ眞崎大將ヲ首班トナスコトヲ決定、
外部的援助ヲ爲ス事ヲ約シ、更ニ蹶起資金トシテ村中ニ百圓、十円紙幣ニテ千五百圓ヲ与ヘ、
西田ニ運動資金トシテ百圓を与ヘタルコト。
三、二十六日午前四時 眞崎大將ヲ訪問、靑年將校等蹶起ノ狀況ヲ傳ヘ、
 時局収拾ニ努力セラレタキコトヲ要請シ、
品川驛ニ鵜澤博士ヲ訪ネ、時局収拾ニ軍部内閣ヲ西園寺公ニ上申スル様説得。
四、二十七日午前帝國ホテルニ於テ満井中佐、村中等ト會見協議シ、
 叛亂軍ニ有利ナル様 戒嚴令ノ施行ヲ上申スルコトヲ約シタルコト。
仝日午後山本大將ヲ海軍省ニ訪問シ、時局収拾ヲ一刻モ速カニ實施セラルゝ様進言セルコト。

被告龜川哲也ニ對スル豫審調書 及 公判陳述 竝ニ證人陳述ヲ讀聞カス。

法律ノ適用
被告北輝次郎 及 西田税ニ對シテハ、叛亂ヲ指導シタルニ依リ、
陸軍刑法第二十五條第一項、
被告龜川哲也ニ對シテハ、反亂者ヲ利シ帝國ノ軍事上ノ利益を害シタルニ依リ、
陸軍刑法第二十九條、第三十條、
被告、北、西田、龜川ハ刑法第六十六條ニ依リ、陸軍刑法ヲ適用ス。

情狀酌量
被告北輝次郎、西田税ハ國體擁護、國威恢復リ美名ノ下ニ社會民主主義ノ思想タル
我國ト絶對相容レザル矯激不逞ナル日本改造法案ニ記載セル思想ニ依リ
純眞ナル靑年將校ヲ眩惑セシメ、日本改造法案ノ具現ノ爲メ 國憲、國法ヲ無視シ、
統帥權ヲ干犯シ、直接行動モ敢ヘテ辭セザルトノ信念ヲ抱カシメ、
國史ニ一大汚點ヲ印シタル罪、情狀酌量ノ餘地ナシ。
被告龜川哲也ハ軍部ヲ利用シ、靑年將校等ヲ煽動シ、或ハ相澤公判ニ際シテハ無罪ロンヲ唱エ、
國憲、國法ヲ無視シ、陸軍軍法會議ノ何物タルカヲ無視、
公訴却下云々ト稱シ、辯護人満井中佐ヲ賣リ、
亦、山本大將 及 靑年將校等ノ純眞ナル氣持ヲ賣リ、
自己ノ野望達成ノ爲メニハ如何ナル義理人情モ辭セザルノ念ヲ有シアルハ、
日本人トシテ最モ憎ムベキ者ニテ、
今事件ニ際シ被告ノ取レル行動ハ斷ジテ許ス可ラザルモノナリ。

求刑
被告北輝次郎、西田税ニ對シテハ死刑ヲ求刑ス
龜川哲也ニ對シテハ 無期ヲ求刑スベキモ、禁錮十五年ヲ求刑ス。

檢察官ノ論告求刑終了シ、
法務官ハ被告ニ意見ヲ陳述セシム。



只今檢察官ノ御論告ハ最モ詳シク申述ベラレテ居リマシテ、御尤モデアリマス。
裁判長閣下、靑年將校等既ニ刑ヲ受ケテ居リマスコト故、
私ガ三年、五年ト今ノ苦痛ヲ味フ事ハ出來マセン。
總テヲ運命ト感ジテ居リマス。
私ト西田ニ對シテハ情狀酌量セラレマシテ、
何卒求刑ノ儘タル死刑ヲ判決セラレン事ヲ御願ヒ申上マス。

只、次ノ二點ダケヲ判決文ヨリ除去セラレタイト存ジマス。
一、日本改造法案大綱ガ矯激不逞ナル思想デナイ事。
二、自分達ハ今事件ヲ起ス爲メ計畫ヲ樹テ、靑年將校ヲ指導シタノデハナイ事。

西田  >
北氏ト同様 總テヲ運命ト感ジ、死刑ヲ望ムモノデアリマス。
自分達ハ決シテ靑年將校ヲ直接指導シ、
今般ノ事件ニ際シ 計畫ヲ立テ、總テヲヤッテ來タノデハナイ、

行懸リ上斯クナツタト云フ事ト、日本改造法案ハ將來殘リマス故、
決シテ今般ノ如キ事件ヲ起ス目的ヲ以テ書カレテ居ラナイト云フ事デアリ、
二度ト私ハ現世ニ生マレ苦痛ヲ致シタクハ有リマセン ・・・< 註 3 >
狭イ刑務所でアリマス故、
七月十二日ニ十五名ノ靑年將校 及 民間同志ガ叛亂逆徒ノ汚名ヲ着タ儘、
君ガ代ヲ唱ヘ 聖寿萬歳ヲ聯呼シツゝ他界シタ事ハ、私ノ片身ヲ取ラレタト同様デアリマシタ。

龜川
自分ハ軍部ヲ利用シ、靑年將校ヲ賣ツタ事實ハ有リマセン。
只今檢察官ノ御論告ニヨリ大變ニ人格ヲ疑ハレ、
又、祖先迄モ辱メラレタ事ハ忘レルコトハ出來マセン。
論告文ノ大部分ヲ承服スル事ハ出來マセン。
結論トシテ、至誠奉公アルノミデアリマス。

論告求刑 竝ニ被告ノ陳述ヲ終了シ、午前十一時五十分閉廷ス

目次頁 ・
東京陸軍軍法会議公判状況 『 憲兵報告 』 に 戻る
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 1 >  昭和九年戦車隊の元老重臣襲撃事件、埼玉挺身隊事件
同年七月中旬 水上源一は千葉市に於て千葉戦車隊付となって居った栗原中尉と会合し、
決行の際に於ては
(イ)  目標として西園寺公望、牧野伸顕、斎藤実、若槻礼次郎、鈴木喜三郎、郷誠之助、岩崎小弥太、
 木村寿弥太、警視庁、新聞社、日本銀行等を撰び
(ロ)  軍部側は西園寺公望、牧野伸顕、斎藤実、警視庁の襲撃を担当し、
 其の余の目標襲撃は民間側に於て担当すること
(ハ)  各部隊に軍隊より軽機関銃一挺宛を付し、民間側同志は抜刀にて目標に突進すること、
 尚 千葉戦車隊より若干台の戦車を出動せしむること
等を協議し、水上は帰京後 其の旨を吉田豊隆、宮岡捨次 其他の同志に報告し
九月十八日頃 栗原中尉より同月二十二日の夜半を期し、
軍部民間一斉に蹶起すべき司令が発せられ、水上源一を通して各同志に伝達せられた。
即ち 栗原中尉は近歩三の中橋中尉、歩一の前田軍曹、幹部候補生山内一郎 以下二十余名等にも
同様の手筈を打合せ、夫々準備をなし、
民間側は水上源一を通じ学生組、在郷軍人の同志に同様の司令を下し 決行をなすべく決定した。
然るに  栗原中尉の同志中より時期尚早の理由を以て決行中止を主張する者を生じた為めその計画は中止となった。
・・・栗原中尉 ・ 救國埼玉挺身隊事件 

< 註 2 >
  

・・・相澤中佐公判 ・ 西田税、渋川善助の戦略 
< 註 3 >

「 昔から七生報国という言葉がありますが、
私はこのように乱れた世の中に、二度と生れ変りたくはありません 」
・・・西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 


憲兵報告・公判狀況 50 『 北一輝、西田税、龜川哲也 』

2020年10月22日 13時35分47秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)

 
北一輝        西田税        龜川哲也
・・・憲兵報告・公判状況 49 『 北一輝、西田税  の 続き

第十一回公判狀況
二 ・二六事件公判狀況ニ關スル件 ( 第五公判廷 )

十月二十日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税、龜川哲也
出廷、
仝九時吉田裁判長以下着席、直チニ開廷ヲ宣シタル後、證據調ニ入ル

1、法務官ハ被告北ニ對スル薩摩雄次ノ事實關係ノ調書ヲ證言トシテ讀聞ス
 薩摩雄次ト北トノ交際關係 及 二十五日夜以後二十八日迄ノ事實、
電話通話ノ狀況ヲ詳細陳述シアリ
北ハ薩摩ノ陳述ヲ全面的ニ承認シ、特ニ薩摩ガ事件ト
無關係ニテ釋放セラレアルヲ喜ビアリ

2、法務官ハ被告西田ニ對スル薩摩雄次ノ事實關係ノ調書ヲ證言トシテ読讀聞カス
 二十六日中、西田ト面接シ、時局収拾ニ關シ協議セシ事實
及 二十七日行動隊ニ電話シ、時局収拾ヲ眞崎大將ニ一任セヨト云フ事ハ西田ノ命ニ依ルモノナリ云々。
西田  「 薩摩雄次ニ命令シテ行動隊ニ電話ヲナサシメタ事實ハアリマセン。
 薩摩ニ時局収拾ヲ眞崎大將ニ一任セラレタシト云フ事ヲ電話ヲ通ジテ貰フタノハ小笠原長生ニ對シテデアリマス 」

3、法務官ハ北、西田ニ對スル津雲国利ノ事實關係ノ調書ヲ證言トシテ讀聞スニ、 被告兩名ハ
直チニ承認ス
4、法務官ハ被告龜川ノ第一回、第二回、第三回豫審調書ヲ示シタルニ、
 龜川ハ豫審ニ申述ベタル事實ハ公判廷デ詳細申述ベテアリマス通リナリト承認ス

5、被告龜川ニ對スル村中孝次ノ第二回、第三回豫審調書中ノ事實關係タル
 二十五日夜龜川宅ニ於ケル會見 及 千五百圓授受顚末ニ
二十七日午前中帝國ホテルニ於ケル會見顚末ヲ證言トシテ讀ミ聞カス
龜川  「 二十五日夜ノ會見ノ狀況 及 金ヲ与ヘタル點ノ陳述ハ前回公判廷デ申述ベタ通リニテ、
 三井銀行 及 日本銀行襲撃云々ノ事アリテ 西田、村中ヲ引止メ千五百圓ヲ与ヘタノデ、
村中氏ノ陳述ハ事實ト相違シテ居リマス。
二十七日帝國ホテルノ會見ハ其ノ通リデアリマス 」

6、法務官ハ龜川ニ對スル證人タル村中ノ二十五日夜ニ於ケル會見狀況ノ證言ヲ讀ミ聞カス
龜川  「 公判廷ニ於テ申述ベタ通リデアリ、村中氏ノ陳述ハ相違シテ居リマス 」

7、法務官ハ龜川ニ對スル磯部ノ第三回豫審調書ノ事實關係ヲ讀ミ聞カシタルニ、 全面的ニ承認ス
8、法務官ハ龜川ニ對スル満井中佐ノ豫審調書ヲ讀ミ聞カス
龜川  「 帝國ホテルノ會見ノ狀況ハ今判定デ申述ベタ通リデアリ、亦、満井中佐ノ陳述ト同様デアリマス。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・略・・・
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11、法務官ハ龜川ニ對スル鵜澤聡明ノ陳述ヲ證言トシテ讀ミ聞カス
鵜澤  「 昭和四年頃龜川ガ政友會本部ニ於テ實行豫算ニ就イテ講演ヲナシタ時ヨリ知ツテ居リマスガ、
 交際ハ昨年十一月中旬突然來リ、時局問題 及 軍部ノ動向ニ就テ會談シタル際、
相澤公判ノ辯護人ノ依頼ガアリマシタノデ、若シ親族及同期生ノ賛同ガアレバ承諾スルト約シ 別レ、
其後相澤中佐ノ同期生ノ方ト共ニ來リ辯護人ノ依頼ヲ受ケマシタノデ承諾シ、
十二月十五日ニ軍法會議ニ指定辯護人ノ申請ヲ致シ、仝月二十日認可セラレマシタ。
公訴却下ニ就イテ二十六日西園寺公ヲ訪問スル事トシ、
二十六日朝準備シテ居リマスト龜川氏ガ來リ、靑年將校等ガ元老重臣ヲ襲撃シタトノ事ヲ申シ、
更ニ、公訴却下ノ事モ無駄ニナツタト申シテ居リマシタ。
私ハ信用セズ、品川驛ニ行キマスト、後ヲ追フテ來リ、愈々靑年將校ノ襲撃ハ事實ト申シマシタガ、
其ノ儘、西園寺公ヲ訪問スル事ニ致シマシタ 」
龜川  「 品川驛及自宅ニ
於テモ主ナル會談ハ公訴却下ト云フ事デアリ、
 靑年將校云々ハ若干話シ、時局収拾ノ爲メノ内閣組織ニツイテ會談致シマシタ 」

法務官  「 鵜澤聡明ノ西園寺公訪問ノ證人トシテ熊谷某ノ陳述ヲ讀ミ聞カス
熊谷  「 鵜澤博士ト老公トハ知己ノ間柄デアリマシテ、昨年末ニ來ラレ、 一月中ハ一度モ來ラレマセンデシタ。
二十六日午前十時頃來ラレマシタノデ
園公ハ靜岡県知事官舎ニ今朝ノ事件ノ爲メ避難セラレテ留守ナノデ、自分ガ面接シマスト、
大變ナ事ガ出來マシタ、今後ノ時局収拾ノ爲メ軍部内閣ヲ上奏サレルガ良イトノ事デアリマシタ。
其他公訴却下ト云フ事ハアリマセンデシタ 」
龜川  「 鵜澤博士ニ申上ゲマシタノハ、公訴却下ト時局収拾ノ事デアリマシタガ、
 十時頃ニナリ事件ノ眞相ガ知レタノデ、左様申述ベラレタ事ト思ヒマス 」
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・・・略・・・
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15、法務官ハ被告北、西田、龜川等ノ證據品調ニ入リ、
 北ノ霊感記録ヲ示シ、其ノ内容ヲ承認セシメ、
亦、西田ノ通信文數通ヲ示シ、菅波大尉 及 松平紹光ニ宛テタル通信文ノ内容ヲ示シタルニ、
西田ハ當時ノ氣持チヲ打明ケタルナリト承認ス

16、證據調ヲ終了シ、補充陳述ヲナサシム
北  「 裁判官ノ御取調中ニ日本改造法案ガ不逞云々ト云フ事ガ數回アツタ様ニ記憶シマスノデ、
 其ノ點ニ就イテ申述ベタイト存ジマス 」

法務官  「 檢察官ノ公訴事實中ニ、北ハ我ガ國體ト絶對ニ相容レザル不逞矯激ナル思想ヲ有シ云々ノ事アルヲ以テ、
審理ニ際シ不逞矯激ト云フ事ガ出タノデアル 」
北  「 檢察官ノ公訴事實ヲ述ベラレマス際ハ、
他人ノ事ヲ申スノト想ひ、 氣ニ止メテ居リマセンデシタガ、
日本改造法案ガ我國體ニ絶對ニ相容レザル不逞矯激ナル思想デアルト云フ事ハ、
檢察官ガ克ク讀ンデ居ラレナイモノト存ジマス。
此點一應更ニ御調査ヲ御願ヒシタイト思ヒマス。
日本改造法案を著述シマシタ當時ハ、全世界ニ共産主義思想ガ瀰漫びまんシ、
只欧州ニ英帝國、東洋ニ日本ノ二大君主國アルノミニテ、他ノ諸國ハ革命ニ呪ハレテ居ル際ニテ、
必ズ我國ニ於テモ共産主義蔓延シ、我國體ハ非常ナル事ニ際會スベキ事ヲ痛感シ、
此等非國家的思想抱持者ガ事ヲ起ス防壓スベキ目的ヲ以テ著述シタルモノニテ、
叛亂ヲ起スガ如キ文意ハ一個所タリトモナク、改造法案ハ天皇大權ノ發動ニ依リ國家非常ノ際、
之等不穏ノ非國體論者ヲ彈壓シ、國體ノ安全ヲ期スルニアリマシテ、
叛亂ヲ防壓鎮定スル爲メニ大ナル効果アルモノデ、
五 ・一五事件、十月事件ニシテモ
皆ナ改造法案ノ合法的行方ヨリ一歩進ミタル如ク見ラレアルモ、
一歩遅レアルモノナリ。
總テノ對外的問題ニ於テモ、日本改造法案ニ立脚処理シ國際聯盟ヲ脱退セルモノナリ。
自分ノ思想ハ穂積博士ノ國體論ト同様保守頑冥がんめいナルモノニテ、
自分ハ改造法案中ニモ天皇ハ人格ノ他ニ神格ヲ有スト明記シアル如ク、
天皇中心主義デアリ、全文ヲ讀ム時ハ天皇大權ノ發動ニ依リ總テノ事ヲ処理スト明記シアリ。
天皇ハ憲法 及 法律ノ上ニアルモノニテ、憲法 及 法律ヲ停止 亦 改造シ得ルモノト確信ス。
絶對ニ天皇ヲ否認スルガ如キ不逞矯激ナル思想ニアラズ。
我ガ國體ノ擁護ノ爲メ著述セルモノガ日本改造法案デアル。
此ノ思想ハ保守頑冥ナル丁髷時代ノ國體観念 及 天皇論ヲ抱持スルト取扱ハレル時ニハ
如何ナル極刑モ辭サナイモノデアル。
自分ハ天皇ニ對シ少シモ不逞ナル考ヘヲ有スルモノニアラズ 」

午後三時五十分證據調 及 補充陳述ヲ終リ、閉廷ス
次回ハ二十二日午前九時ヨリ論告求刑アル旨申渡シタリ

次頁 ・ 北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑 に  続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から


北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑

2020年10月22日 09時25分20秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略1 西田税と北一輝


陸軍省發表 ( 八月十四日 )
客年二月二十六日勃發せる叛亂事件の直接參加者 及 關係者に對する
東京陸軍軍法會議審判の結果に就ては既に三次に亘り發表せる所なるが、
右以外の者に附 引續き愼重審理中の處、八月十四日左記四名に對し 判決言渡しありたり。
右軍法會議審判の結果に基く處刑 及 判決理由 概ね左の如し。
處刑
死刑  首魁  北輝次郎
死刑  首魁  西田税
無期禁錮  謀議參与  龜川哲也
禁錮三年 ( 但 未決拘留日数二百五十日参入 ) 諸般の職務に從事  中橋照夫
理由の要旨

北輝次郎 は、
新潟県佐渡島に生れ、承久以降皇室に關係ある島内遺跡傳説等に刺戟せられ、
夙に國史 及び國體につき關心を有し、長じて同地中學校に學びしも 病気のため半途退學し、
爾來上京 獨學をもって広く社會科學に關する研究に没頭せしが、
二十四歳の頃 「 國體論及純正社會主義 」 と題する著述を出版し、
もって獨創的國史観に基き 當時幸徳秋水一派の唱道せし直譯的社會主義に痛烈なる反駁を加え世論を喚起し、
これが機縁となり 支那亡命客孫逸仙、横興、宋教仁、張繼 等と相識り、
終に同人等の支那革命党秘密結社に加入し、二十九歳の秋頃 支那第一革命勃發するや單身渡支し、
上海、武昌、南京 等の各地において革命達成のため各策奔走し居たるが、
三十一歳の時、帝國領事より三年間支那在留禁止處分を受けて歸朝し、
大正五年頃 「 革命の支那 及 日本の外交革命 」 を著述して朝野の人士に頒布し、
同年夏再び支那に渡り 第三革命に參加したるも事志と違い、
上海に滞在中遥かに祖國の情勢を顧るに、
欧州大戰以來世界を風靡せし左翼思想は澎湃として國内に瀰漫びまんし、
加うるに重臣、官僚、政党 等いわゆる特權階級は財閥と結託、私利私慾を肆つらにし
國政を紊り 國威を失墜、國民生活を窮乏に陥しめたりと思惟し、
今にしてこれ等特權階級の猛省を促し、
政治經濟その他 諸般の制度機構に一大變革を加うるに非ずんば、
我が國もまた露獨の轍を踏み、三千年の光輝ある歴史も一空に歸すべしとなし、
國家改造の急務なる所以を痛感し、
茲に近代革命の中核は軍部 竝に民間志士の團結により形成せらるるものなりとの信念の下に、
大正八年八月頃 國家改造案原理大綱と題し、
三年間帝國憲法を停止し、戒嚴令下において革命政府を樹立し、
私有財産 竝 個人の生産業に大なる制限を加え、
また 皇室財産を撤廢せんとする矯激なる思想体系の著書を執筆し、
當時渡支中の大川周明に示せしところ 深くその共鳴を得、
爾來これを基礎として日本國内の改造を斷行せんことを相約し、
大正九年一月 歸朝するや 大川周明、満川亀太郎 等と共に猶存社により前記思想の普及に努めたるも、
後 同人等と感情の阻隔を生じ之と關係を斷ち、
大正十五年頃前記著書を 「 日本改造法案大綱 」 と改題し、
之が版權を當時現役を離れ彼等の傘下に在りたる西田税に附与して出版せしめ、
同人と堅く相結ぶに至るや、専ら同人を指導督励し、
主として陸軍部内靑年將校等に對し 該著書を指導原理とせる國家革新思想の普及宣傳に當らしむると共に、
同志の獲得 竝にこれが指導統制に任ぜしめ、
昭和七年所謂五 ・一五事件發生の前後より逐次、菅波三郎、大蔵榮一、香田淸貞 及び栗原安秀 等の同志靑年將校と相識り、
斯くて西田税と共にこれ等同志の思想的中心となり、その指導誘掖に努むるところありしが、
更に獨自の立場において要路の大官、政党の領袖、若しくは財界の巨頭等に接觸し、
あるいは政治、外交等に關する私見を開陳し、または軍内の情勢、特に靑年將校の動向等に附き、
偵知したる情報を提供しもって巨額の生活資金を獲得し、
一方夙に法華經に歸依し、その誦經に専念し居たる處、
その讀誦中に屡々妻女が神憑となりて口授するものを以て靈告なりとし、
之によりて國事を豫斷し、自ら警世の士を以て任じ居たるものなり。

西田税は、
大正四年九月広島幼年學校に入校、爾來、陸軍中央幼年學校、陸軍士官學校本科 等、
陸軍將校生徒の過程を祖っ、大正十一年十月陸軍騎兵少尉に任ぜられ、
大正十四年六月病気のため依願豫備役仰附られ、
大正十五年北海道御料林払下問題に關し暴力行爲等處罰に關する法律違反罪に問はれ、
昭和五年十月三十日上告棄却懲役五カ月の判決確定し 失官したるが、
陸軍中央幼年學校在學中より満蒙問題、大亜細亜主義問題に關心を有し、
陸軍士官學校本科在學中、日本改造法案大綱を閲讀して深くその所説に共鳴し、
かつ満川亀太郎、北輝次郎より種々思想的に指導誘掖せられ、
國家革新の必要を痛感するに至り、
大正十四年六月軍職を退き上京し、大川周明、満川亀太郎、安岡正篤 等の行地社に入り、
機關誌 「 日本 」 の編輯に當り、
一方大川周明と共に主として陸海軍靑年將校に對し、
前記著書を指導原理とする國家革新思想の普及宣傳に努むるところありしが、
後、大川周明と感情の疎隔を來すに及び同社を脱退するや
北輝次郎の傘下に投じ、専ら同人の指導を受け
大正十五年四月頃、日本改造法案大綱の版權を委譲せられ、
これを出版し 共にその思想の普及に努め、
・・・リンク ↓
西田税と青年将校運動 1 「 革新の芽生え 」 
西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」 
・ 
西田税と大学寮 1 『 大学寮 』
・ 
西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 

次で星光同盟なる在郷軍人の勞働者無料宿泊所を經營して、
右翼勞働運動に進出したるも前記被告事件のため中絶し、
昭和二年二月に愛國運動の爲め士林莊を結成し、
同年七月頃 海軍將校藤井齊と共に天劔党規約を印刷頒布したるも結社の成立を見るに至らず、
この頃より國家革新運動の政治的進出に志し、所謂 日本主義に立脚せる大衆政党樹立の必要を認め、
昭和四年秋頃、中谷武世、津久井竜雄 等と相謀り、日本國民党を組織し その統制委員長となりしも、
後 党紀紊亂の責を負い 同党より脱退するの已む無きに至り、・・・リンク→ ロンドン条約をめぐって 2 『 西田税と日本国民党 』
同七年の所謂 五 ・一五事件 には陸軍側靑年將校の參加を牽制けんせい阻止したるため、
裏切者として狙撃せられ瀕死の重傷を負いたるも、北輝次郎の肉親的同情により一命を完うするや、
爾來兩者の間は恰も親子の如く一心同體の關係を生じ、
一方該事件を機縁として日本改造法案大綱を信奉せる陸軍部内同志靑年將校 
菅波三郎 末松太平 、
大岸頼好大蔵榮一 等との接觸、交友益々緊密となり、維新同志會を結成し、
斯くて西田は軍部、民間を通じ 日本改造法案大綱を信奉せる同志の思想的中心たると共に、
革新運動の指導者たるに至れり。
しかして彼は、近代革命の中核は軍部 竝に民間志士の團結により形成せらるべく、
就中軍隊を私用するに非ざれば我國家の革新は遂に期すべからずとの堅き信念に基き、
同志靑年將校に對し、或は日本改造法案大綱を基調とする革新理論を説き、
または革新運動に關する將校 及び軍隊の使命心得に附 研究作業を指示し、
所謂 「 上下一貫、左右一體、擧軍一體の爲の將校運動 」 なる標語を敎示し、
この根本方針に基き、軍内に於て益々同志の擴大鞏化を企圖すべき旨 指示し、
これが爲 皇軍内に矯激なる思想信念を抱懐せる同志を以て 横斷的團結を敢てするに至らしめ、
更にこの前後より、農村、都市、中央、地方を通じ各種の右翼運動に關与して、
國家革新思想の普及徹底 竝に同志の獲得指導に努め、
斯くて軍部民間等一切の各社會層に亘り、
専ら日本改造法案大綱を指導原理とする國家革新思想の普及
竝びに革新気運の醸成に努力しいたるところ、
昭和六年以降 血盟團事件、若しくは 五 ・一五事件等、
軍内外を通じ急進矯激なる國家革新運動の頻發を見るに至るや、
彼の指導下に在りたる前記靑年將校等の革新思想もまた漸く尖鋭となれり。
しかれども、彼は國家の生命及び制度組織の根本に触るゝ重大なる國策問題、
就中財政經濟問題に附き 廟議纏らず、國論亦動揺するの機會を以て所謂革新斷行の最後的決定時期なりとし、
國家革新の大成を期する爲、常に之等同志を誡告指導しつつ その輕擧妄動を抑制し來りしが、
一方、機會ある毎に各種の問題を捉え 巧に革新運動に結び附け、軍部民間を刺戟すべき宣傳を爲し、
以て革新氣運の醸成に努力し居たるものなり。

龜川哲也は、
沖縄県立第一中學校卒業後、臺灣総督府専賣局、會計檢査院、東京逓信局等の属官として轉々勤務し、
昭和二年九月退職し、昭和十年八月相澤中佐の永田軍務局長殺害事件發生するや、
盛に當時の第一師團長柳川平助を訪ね、詭辯を弄して相澤中佐の無罪論を主張し
次いで同年十一月頃 かねて旧知の間柄なる陸軍歩兵大尉山口一太郎、西田税の兩名より
相澤中佐の辯護人選定方法を依頼せられ、辯護士鵜澤聡明、陸軍歩兵中佐満井佐吉の兩名を推薦選定し、
爾來昭和十一年二月頃までの間に 右辯護資料の蒐集 及び公判對策打合せ等の爲、
自宅をその會合場所に充て、山口一太郎、村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀、
澁川善助 及び 西田税等と屡々會合協議を重ね、
その間 逐次同人等の抱懐せる思想信念を感得理解し、
かつ 一部靑年將校間には北輝次郎、西田税の指導誘掖に依り、その思想的影響を受け、
日本改造法案大綱を國家革新の指導原理として、革新機運の醸成に努力せる一派あるを信知するや、
巧に該機運に乗じて自己の野望を遂げんが爲、努めて聯絡接觸を緊密にし、陰に各種の策動をなしていたる
ものなり。

西田税は
昭和九年十一月、同志村中孝次、磯部淺一等がその叛亂陰謀事件 により檢擧せらるゝや、
これを以て軍内に反對派ありて部外不純勢力と結託し、
同人等の所謂維新勢力を彈壓せんがための爲作陰謀なりと斷じ、
當局の措置を秘儀宣傳すると共に、前記兩人等をして敢て誣告の告訴をなさしめ、
同十年四月頃これ等反對勢力に對する闘爭方針として、
錦旗を樹立し討幕に邁進すべしとの指令を各地同志に發し、
次いで同年七月 敎育總監更迭 問題惹起するや、
該人事異動の背後には所謂重臣閥軍閥の恐るべき陰謀策動ありと爲し、
然も該軍閥の中心は永田軍務局長にして、林陸軍大臣を以てその傀儡となし、
終に統帥大權を干犯し皇軍を私兵化するに至れりと臆斷し、
軍閥重臣閥の大逆不逞 」 と題する急進矯激なる不穏文書を作成し、
同月二十五日頃 密に巷間に流布宣傳すると共に、全國同志に密送してその奮起を促して
以て同志相澤三郎中佐の永田軍務局長殺害の動因を作爲したるのみならず、
同中佐の擧を以て國家國法を超越せる維新的志士の先驅捨身なりと稱揚し、
更に同中佐の公判を内外に通じ、所謂暴露戰術を以て反對勢力を潰滅すべき企圖の下に、
公判對策大綱を樹立し、爾來 山口一太郎 ( 大尉 )、龜川哲也等と共に専ら同公判對策の協議指導に任じ、
軍部民間の同志を刺戟すべき矯激なる記事を執筆掲載する等、・・・< 註 1 >
只管革新斷行の機運の醸成 竝にその促進に努力しありたるところ、
昭和十年十二月中旬頃に至り、
村中孝次より同志の間に明春第一師團渡満前に事を擧ぐるの陽りとの議あるを聞き、
次で同十一年二月初旬頃、
相澤中佐事件の公判を繞り在京靑年將校等の一部同志が愈々蹶起の意を固めたるを察知し、
更に同月中頃より二十日前後頃までの間に
村中孝次、磯部淺一、安藤輝三、栗原安秀等の同志と逐次會見の結果、
同人等が幹部となり在京靑年將校同志等を糾合し、前記の實行計畫を樹立し、
且 著々その蹶起準備を進めあるを知るや、
當時の國内情勢に於ては ・・・リンク→ 「 私の客観情勢に対する認識 及び御維新実現に関する方針 」
未だ以て彼の所謂革新斷行の最後的決定時期に到達しあらざるものと判斷し
一應その抑止説得に努めたるも、・・・リンク→ 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」
今回は第一師團満洲派遣なる特殊事情もありて
同志將校等の團結決意頗る鞏固にして抑止に應ずる色なきのみならず、
却って前記同志等より指導者として蹶起部隊に直接參加を促され、之を不可能とすれば、
外部に在りて破壊後の建設工作に任じ 之に努力せられ度き旨 懇望せらるゝ状況なりし爲、
從來同人等に對し指導的立場に在りし彼は、前記同志等との多年の情誼に從い、
同人等の蹶起を承認し其の希望を容るゝの外なしと思惟し、
終に蹶起の前後に亘り同人等を適切に指導督励し、
其の目的達成の爲、政治工作に任ずべきことを決意するに至るや、
同月二十日前後頃北輝次郎を訪ね、同人に對し前記の決意を披瀝し、
且 村中孝次等より聞知したる蹶起計画畫の至情に打たるゝと共に、
西田税の悲壯なる決意に同情し、終にこれに承認を与え ・・・<  註 2 >
西田と共に青年將校等に殉ずるの覺悟を以て之に参加し、
極力その目的達成のため蹶起の前後に亘り、同人等を指導督励せんことを決意するに至れり。
・・・リンク→ 「 万感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます 」

龜川哲也は、
相澤中佐事件に付、山口一太郎大尉及び西田税等と共に専ら 同公判對策の指導に任じ、
永田軍務局長の死亡時刻に附、控訴狀記載と陸軍當局發表と矛盾せる點を指摘し、
且 同控訴狀には相澤中佐の行爲を以て公人の資格に於て爲したりや、
將又 私的個人の資格に於て爲したる所爲なりやを確定しあらざるを以て、これを明かにする陽りと提議し、
よりて昭和十一年一月下旬開廷せられたる第一回公判に於て、
將校辯護人満井佐吉をして動もすれば被害者永田中將の死屍に無恥つかの如き極端なる提言をなさしめ、
亦 同公判の進行に伴い、辯護人鵜澤聡明に對し巧に同公判の重要性を鞏調説得して、
終に政党脱退の聲明書を發表するに至らしめ、更に同辯護人に對し、
相澤中佐を精神異常者と爲し その行爲を超人的人格的神秘行爲と認め、
之により控訴取下げに導くべきを提案し、
陸軍上層部に工作するなど同公判内外を通じ頻に畫策努力する所ありしが、
一方 同年二月初旬頃より、
かねて西田税の指導下にある村中孝次、磯部淺一、澁川善助 その他在京靑年將校同志等が、
同事件公判を繞めぐり各種の不穏なる宣傳策動を爲し、同公判の推移如何に依りては、
何時直接行動に突出するやも計り難き情勢にあることを察知し、之が對策協議の爲、
同月十五、六日頃より二十日前後頃までの間に山口一太郎、西田税等と屡々會見したるが、
同人等より栗原安秀 その他一部靑年將校等は
所謂昭和維新斷行の目的をもって近く蹶起すべく決意を固め、
著々その實行計畫を進めるを關知し、
更に被告人西田税よりその指導下にある靑年將校等の蹶起の情勢は、
最早抑止不可能の常態に進展しあるを以て、寧ろ破壊後の建設計畫を考慮し、
政治工作を以てその目的を達成せしむるの外なしと決意したるにより、
これに参加して該工作に努力せられたき旨要望せらるるや、ついにこれを承諾するに至れり。
茲に於て
西田税は、該建設計畫の根本方針として、
かねて靑年將校等の維新運動に對し多大の理解あり、
且 實行力ありとして同人等より崇敬せられある眞崎大將、柳川中將等を以て
首班とする鞏力なる軍部内閣を速に組織せしめ、
これにより事態を有利に導き目的を達成すべきことを決定したるが、
その萬全を期するため同月二十日前後頃、同志山本大將 及び龜川哲也等に謀り、
同人等の同意を得たるをもって、爾後同月二十五日頃までの間に同人等と随時各所に會合し、
更にこれに關聯する所要の協議を遂げたる結果、前記根本方針に基き、
それぞれ公私の關係を辿り上層部に聯絡折衝すべきことを決定し、
その間龜川哲也より蹶起後、眞崎大將を以て内閣を組織し、
事態を収拾せしむるには西園寺公を利用せざるべからず、
而して同公に対する工作には鵜澤聡明を興津に派遣する方とり、
依りて靑年將校等の同公に対する襲撃計畫はこれを抛棄ほうきせしむる要あるべしと提案し、
山口一太郎大尉に於て可燃處置すべきことに決したるを以て、
事前に於て龜川哲也は鵜澤聡明、眞崎大將等に、
西田は小笠原長生に對しそれぞれ聯絡して所要の準備工作を爲し、
山口一太郎大尉も亦その分担任務につき所要の準備工作を爲し、
斯くて蹶起後の建設計畫につき、著々その準備を進めありしが、
西田税は同月二十四日夜、磯部淺一の密信により
愈々同月二十六日早朝を期し蹶起することに決したるを承知し、
更に翌二十五日午前十一時前後頃、
磯部淺一と會見したる際 腹心の同志澁川善助が既に湯河原に到り、
牧野伸顕伯の所在を偵察中にしてその襲撃に參加すべく豫定しあるを知るや、
磯部淺一に對し、民間同志を直接襲撃部隊に參加せしむるは不可なりと主張し、
殊に澁川善助は蹶起後民間側同志、若しくは右翼團體の外郭運動を統制指導せしむる要あるに附、
該偵察任務終了後速に上京せしむるべしと指示し、
且 當時澁川善助妻きぬ子が湯河原より密書を携え上京し 偶々西田税宅に來合せ居たるにより、
更に同人に密書を託し前記趣旨 其の他所要の聯絡を爲し、
・・・リンク ↓
渋川善助と妻絹子 「温泉へ行く、なるべく派手な着物をきろ」 
・ 渋川善助 ・ 湯河原偵察 「 別館の方には、誰か偉い人が泊っているそうだな 」 

次いで同日夕刻頃龜川哲也宅に於て、同人及び村中孝次と會見して聯絡協議し、
その際 龜川哲也が蹶起資金として金二千圓を提供するや、
固辭せる村中孝次をして内金千五百圓を受領せしめ、
自らもまた金百圓を受領し、同日午後八時頃北輝次郎方に到り、以上の狀況を詳細報告し、
その後 翌二十六日午前一時頃 再び同人宅に到り、
その頃澁川善助よりの電話報告に依り同人が湯河原より歸京したることゝ、
ここに豊橋教導學校の竹嶌繼夫、對馬勝雄 兩中尉が興津別邸の襲撃計畫を抛棄し、
相携えて上京したることを知り、更に同人に対し蹶起部隊の出動狀況を視察し、
速に西田の許に報告すべき旨を指示したり。

北輝次郎は、
同月二十一日頃村中孝次の來邸を受け、
同人より第一師團將士の渡満前に蹶起の趣旨に就き意見を求めらるるや、
蹶起の趣旨を單一化するを可とする旨を指示し、
次で同二十三日頃、
西田税より同志靑年將校等の計畫しある襲撃目標 及び襲撃担任部隊等詳細の報告を受けたる際、
之に對し既に靑年將校間に於て決定したる
内閣總理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是清、内大臣齋藤實、
侍従長鈴木貫太郎、公爵西園寺公望、前内大臣牧野伸顕
等に附ては容喙ようかいの限りに非らざるも、
第二次襲撃目標として考慮せられつつある
一木喜徳郎、後藤文夫、伊澤多喜男、池田成彬、三井三菱の當主 等の如きは之を中止し、
常に言う通り 殺害は最小限度に止むるを可とする旨敎示し、
更に同月二十四日北宅に來訪せる村中孝次より
一定の場所に兵力を集結占據したる上、
その目的達成のため上部工作を持續することは、我が國體観念上 如何あるべきか
と尋ねられたるに對し、
北は大詔渙發を鞏要し奉るが如きは國體観念上許されざるも、
然らざる範囲内に於て上部工作を爲すことは差支えなし、
而してこれを爲す以上は、
一歩も退かざる覺悟を持って徹底的に該目的の貫徹を計るべき要ある
旨を指示すると共に、同人等の蹶起を稱揚激励し、
同時に村中孝次の持參せる同志野中大尉起草に係る蹶起に關する決意文を閲讀し激賞し、
村中孝次に二階の一室を貸与して 決起趣意書を起草するに至らしむる等、
専ら同人等の指導督励に任じありたるが、
同二十六日午後一時頃、來宅中の西田税と共に蹶起部隊出動の結果如何を待てり、
斯くして北輝次郎、西田税の兩名は、
一、
二十六日午前四時三十分前後頃、澁川善助よりの電話報告に依り
前記村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀 その他 在京同志靑年將校等が、
豫定の計畫に基き遂に出動したることを知るや、
西田税は澁川善助を招致し、同人に對し蹶起部隊内外の情報蒐集に努むると共に、
民間側同志 竝に右翼團體等に聯絡して、・・・リンク →澁川善助 ・ 昭和維新情報
外廓運動を指導統制し、以て専ら外部工作に任ずべき旨を指示し、
北輝次郎は官憲の彈壓に依り西田税が捕縛せられんことを慮り、
同人と協議の結果、
當時東京市豊島区西巣鴨木村病院に入院中なる同志岩田富美夫を招致し、
同人に前記の情を告げ、
その同件に依り 同日午前八時前後頃、前記病院に逃避せしむるに至り、
西田税は同日午前十時頃 病院より電話を以て海軍中將小笠原長生に對し、
蹶起將校の精神を是認し、事態収拾につき助力あり度き旨懇請し、
次で栗原安秀が首相官邸を占據しあるを知り、これと電話聯絡を爲したる結果、
同人等は總て豫定の如く襲撃目標を斃したる上、警視廳、陸軍大臣官邸 その他を占據し
意気軒昂として、寧ろ前途好望なるものあるを知るや、
直に北輝次郎に對しその旨電話報告を爲すと共に、
同日午後三次前後頃同人宅に歸還し、
爾來同人と共に蹶起の目的達成のため畫策努力する所ありしが、
北輝次郎は同日の靈告ありたりと稱し、
西田税と共にその旨電話を以て磯部淺一に傳達し、
以て同人等の行動を激励し、
更に同日午後九時頃 同志杉田省吾に対しその旨電話聯絡爲し、
民間側同志に宣傳せしめ、
二、
同月二十七日 北、西田の兩名は、
前日來の情報により
蹶起部隊の幹部等は事前に於て陸軍の中堅層等に對し諒解聯絡なかりしこと、
及び陸軍大臣官邸に於て香田淸貞が陸軍首脳部に對し、
當時臺灣軍司令官柳川中將を以て後繼内閣首班に要望せることを知るや、
斯くの如きは徒らに 時局の収拾を遷延せしむべく、・・・リンク→ 「 仕舞った 」
一日一刻を爭うこの際、寧ろ彼等の爲に採らざる所となし、
専ら之が善後處置に附 苦慮しありたるが、
北輝次郎は同日午前十時頃
「 人無し 勇將眞崎あり 國家正義軍のため號令し 正義軍速かに一任せよ 」
との靈告ありたりとて、西田税と共に村中孝次、磯部淺一等に對しその旨電話聯絡を爲し、
且 この蹶起將校等は靈告の趣旨に從い、・・・リンク→ 「 国家人無し、勇将真崎あり 」 
全員一致の意見として無条件にて時局の収拾を眞崎大將に一任すると共に、
軍事參議官もまた意見一致して、同大將に時局収拾を一任せらるゝ様懇請し、
斯くして軍事參議官と蹶起將校との上下一致の意見として、
上奏實現を期すべきなりとの趣旨を諄々教示し、
同日蹶起將校等をして右趣旨の如く行動するに至らしめ、
同日午後五時前後頃 村中孝次、磯部淺一等より蹶起將校等は陸軍大臣官邸に於て
軍事參議官、阿部、眞崎、西 各大將と會見し、
前記趣旨の如く懇請したる旨の電話報告に接し、
一方かねて招致し置きたる同志薩摩雄次をして、
電話を以て海軍大將加藤寛治に對し、
蹶起將校等は一致して時局収拾を眞崎大將に一任するこしに決したるを以て、
海軍側よりも推進善處せられ度 旨懇請せしめ、
更に西田税は全掲 小笠原中將に對し、電話を以て、
蹶起部隊は昭和維新の目的を貫徹するまで現在の占據位置より撤退せずと主張しあり、
且 時局収拾に附、眞崎大将の推戴を希望しあるに附、この趣旨に基き善処處せられ度、
猶 海軍陸戰隊と蹶起部隊と對立し、
兩者の間には漸次險惡化しつつあるを以て海軍側を抑制せられ度き旨懇請し、
次で 兩名は同日午後五時頃、
首相官邸に占據しある栗原安秀より同人等蹶起部隊内部の情勢に附 電話報告を受けたる際、
同人に對し外部の一般的情勢は漸次蹶起部隊の爲有利に進展しつつあり、
殊に海軍側は一致して支援しあるのみならず、
全國各地よりは数千の激励電報到着しある情勢なるを以て、
飽くまで目的を貫徹すべしと激励し、
更に同日午後八時頃、とつじょ村中孝次が夜陰に乗じて包囲線を脱出し、
爾後の處置に關し指令を仰ぐべく來訪するや、・・・リンク→ 西田税 (七) 道程 2 
偶々爾後の對策協議の爲來合せいたる龜川哲也も同席の上、
同人より蹶起後の内部情勢に附き詳細なる報告に接したる後
同人に對し、國民は蹶起部隊に同情しあり、
殊に海軍側は擧って支援しある情勢なるに附、
前示懇請に對する軍事參議官側の回答あり次第、
その内容を速に北、西田に聯絡せられ度く、
それまでは現在の占據を持續するを可とする旨を司令し、
三、
同日午後一時頃、西田税は同志杉田省吾を招致し、
同人に對し 今次事件に於ける同志靑年将校等の行動は、
到底通常人の企 及し得ざるものなるを以て、
この義擧を無駄にせざるよう更に一層努力する必要ありと強調し、
爾後民間側同志の採るべき態度につき根本方針を指示し、
更に蹶起の理由、占據地点、決行部隊、同部隊の決行後の情勢
及び その他判明したる各種の情報等を説明しつつ、
紙片に記載し、之を同人に交附し、民間同志に聯絡し、
前記方針に基き維新實現のため外廓運動を一層促進すべき旨指導し、
よって同人、澁川善助 及び 福井幸等をして
各地軍部 竝に民間同志の蹶起を促すべき趣旨の檄文を作成し、
之を各地に郵送頒布するに至らしめ、
四、
斯くて同月二十八日、
北、西田の兩名は前日來入手した諸情勢を綜合し、
蹶起部隊にたいする一般情勢は著しくも有利に進展しあるものと判斷しありたるが、
更に同日朝、北輝次郎は法華經讀誦中に靈告ありたりとて、
方に國家革新の好機は目睫もくしょうの間に迫られるものとなし、
その意外の成功を祝福しありたるところ、
同日正午前後頃、突如 栗原安秀より終に責を負い自決するの已む無きに至り、
萬事休止したる旨の電話報告に接するや、被告人兩名はその情勢の急變に驚き、
急遽 栗原安秀を電話口に呼出し
前示軍事參議官の會頭るまでは斷じて自決すべからずと敎示して、
同人等の自決を阻止し、・・・リンク→ 「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」
更に午後三時頃村中孝次より、
奉勅命令により蹶起部隊を討伐するとの事成るも その眞意不明なり、
との電話報告に接したるが、
同人に対し 奉勅命令は 「 脅かし 」 ならん、・・・リンク→ ・ 「自決は最後の手段、今は未だ最後の時ではない 」
一度蹶起したる以上はその目的貫徹のため 徹底的に上部工作を爲すべく、
猶自決は最後の問題なり、君等死せば 吾々は晏如として生きておらざるなりと告げ、
次で同日午後五時 事態漸次惡化し、
愈々奉勅命令により斷乎として討伐せらるるの風評を關知したるを以て、
栗原安秀にその眞意を電話照会したる際、
同人に對し事態収拾について陸軍首脳部の態度は極めて軟弱なるも、
海軍側は擧って支援に傾きつつありて外部の情勢は有利に展開し、
萬事今 一息 というべき狀態なるを以て各自一致結束して自重すべく、
自決の如きは最後の問題なる旨鞏調し、
更にその前後頃、
西田税は磯部淺一により電話を以て
蹶起將校中には奉勅命令により脅かさるるものあるも、
自分は斷乎として撤退せず、最後迄残り 一戰を交ゆる決心なるが如何
と尋ねられたるに對し、
「 其処までやらなくてはなるまい 」
と 指示し、
以て兩名は一旦責を負い自決を決意したる蹶起將校等に對し、
極力その自決を阻止すると共に、
初志貫徹のため 飽く迄上部工作を続行すべく指導し居る處、
同日午後八時前後頃 北輝次郎は前記自宅に於て憲兵のため取押えられ、
西田税はその頃 北輝次郎方より遁走し、
爾来東京市内各所を轉々潜伏中、
同年三月三日午後五時三十分頃、警視廳巡査のため取押えられたり。

龜川哲也は、
西田税と謀議決定したる前掲建設計畫の根本方針に基き、右蹶起の前後に亘り、
一、
同月二十一、二日頃、東京市世田谷區世田谷一丁目百六十八番地の眞崎大將を訪問したる際、
同大將に對し、靑年將校等の蹶起の機運急迫せる動向を告げ、
如何なる事態惹起するとも決して彼等を見殺しにせざるよう懇請し、
又 同月二十日前後頃より 山口一太郎大尉 及び 西田税と屡々會見し、
所要の聯絡協議を遂げたる結果、同人等の努力により興津西園寺公の襲撃は中止せられ、
同公の身邊は安全なるべしと確信し、同月二十四日頃 かねて同公と懇意の間柄なる鵜澤聡明をその自宅に訪問し、
同人に對し、相澤公判をめぐり激化しある靑年將校等は、所謂昭和斷行の目的をもって近く蹶起の情勢にありて
著々その準備を進めあるも、
西園寺公に對してはこれを襲撃せざる様儘力しあるに附、同公の身邊は大丈夫なり、
よって右蹶起の場合には興津に到り西園寺公に對し、
靑年將校等の最も信頼し 且 崇敬しある眞崎大將を以て速かに内閣を組織し事態を収拾し得る様、
意見具申せられたしと要請し、
二、
同月二十五日午後六時前後頃、東京市麻布區竜土町六十五番地の龜川宅に於て、
村中孝次、西田税と會合し所要の聯絡を爲したる際、
村中孝次より翌朝決行すべき旨を告げられ 且 その後事を託さるるや、
龜川は靑年將校等の蹶起が愈々 翌二十六日未明に迫れることを確信するに至り、
金二千圓をその蹶起資金として村中孝次に提供せんとし、
同人の固辭せるに拘らず鞏いてこれに金千五百圓を、又 西田税に金百圓を各交附し、
間もなく辭去せんとする村中孝次と握手を爲し、之を激励しつつ その出發を見送りたるが、
その後 西田税と共に蹶起後の建設計畫に附、
( イ ) 即日収拾、即日大赦の方針を以て工作を進める事
( ロ ) 東京市内の各要所は蹶起と共警戒網が張られ、之を突破することは相當困難なるべしと豫想し、
その事前に飛出し 既定の根本方針に基き迅速に聯絡すべき要あること、
( ハ ) その他所要の事項等細部に亘り協議を遂げ、同區六本木町一番地自動車商會寺松久太郎に對し、
翌朝四時迄に乗用車一台派遣せられ度旨注文し、以て著々建設計畫に關する準備を進め、
三、
斯くて同月二十六日午前三時頃、澁川善助よりの電話を以て、蹶起部隊は方に出動準備中なること、
及び 西園寺公の襲撃は中止に決したることなどの確報に接するや、
直ちに出發準備を整え、同日午前四時過頃、前示眞崎大將邸を訪問し、
同大將に對し速かに同朝 歩兵第一聯隊、同第三聯隊の靑年將校等が蹶起することとなりたる旨を告ぐると共に、
彼等は同大將による時局収拾を希望せる旨を述べ、
以てその援助方を懇請し、これより鵜澤聡明宅に赴くべく旨を告げ、
同大將よりも速かに行け と命ぜられて退去したるが、一旦自宅に歸り、各所に所要の電話聯絡を爲したる上、
同日午前五時三十分前後頃、東京市渋谷區千駄ヶ谷二丁目四百五十六番地 鵜澤聡明方を訪問し、
同人に對し同朝 歩一、歩三の靑年將校等は愈々蹶起したるも、元老の身邊は安全なるに附、
速かに興津に赴き眞崎大將、柳川中將を中心とする軍部内閣を組織し、
之により 事態を有利に収拾し得る如く 西園寺公に進言せられ度旨を極力懇請して同意せしめ、
猶要すれば自己を補佐役として同伴せられ度と述べ、
更に同日午前六時五十分頃品川驛に到り興津に赴くべく列車を待合せ中なる鵜澤聡明に對し、
重ねて前記趣旨を鞏調して、其の意見具申方を懇請し、其の出發を見送りたる上、
歸途久原房之介を訪れ 以上の經過を報告し、爾後の處置に附 所要の懇談を遂げたる後、
更に眞崎大將に對し右鵜澤出發の件を報告すると共に 同大將に随行し、
之を補佐しつゝ直接事態収拾の衝に當らんことを決意し、
同日午前八時三十分頃、再び同大將宅に赴きたるも、同大將不在のため空しく歸宅し、
一方興津に派遣したる鵜沢澤聡明は、
同日午前十一時前後頃、西園寺公邸に到りたるも同公は既に他に避難し不在なりしため、
同日午後四時頃歸宅したるものなるが、
同時頃龜川哲也は鵜澤聡明より右顛末の電話報告を受け、
又 同日午後三時頃 海軍省に在る山本英輔大將に電話聯絡を爲し、
一刻も速かに事態を収拾するの要ある旨を力説してその善處方を要望し、
その後 同日午後十時頃、海軍省に同大將を訪ね、
大命降下の場合には急速に組閣し時局の収拾を圖られ度旨進言する等、
各種の政治工作を任じ、
四、
同月二十七日午前三時頃、陸軍歩兵中佐満井佐吉より、電話により帝國ホテルに來訪を求められ
直ちに同所に赴き、同中佐より村中孝次に對し 撤退勧告方を依頼せられ、
間もなく同ホテルに來着したる村中孝次と會見し、・・・リンク→ 帝国ホテルの会合 
蹶起部隊がこれ以上占據を持續するときは却って不利になる結果を招くべしと説き、その撤退を勧告したる際、
同人より蹶起部隊を戒嚴部隊に編入し、現位置を警備する様取計われ度旨要望せらるゝや、
満井中佐と共にその實現に努力する旨約束し、
次で同日午前八時頃、北輝次郎方に西田税を訪ねて、
帝國ホテルの會合、際、に對する軍部内閣の進言 及び 眞崎大將訪問等、
二十六日以來 彼が活動の結果得たる諸情報を傳えるが、
同月二十八日に至り、俄然情勢の變化に伴い 身邊の危險を察知するや、
各種の證據隠滅手段を講じたる上、
同日午後十時頃 從來の親交をたどり 東京市芝區白金今里町十八番地久原房之介方に潜入し
爾來同人の庇護の下に同家に隠避して至るが、
同年三月二日午後九時前後頃、更に夜陰に乗じて巧に同家より脱出遁走し、
同市内各所を轉々潜伏し居りたるも、
憲兵の追跡急にして 到底その免れ難きを知るや、終に自首せんことを決意し、
同月九日午後八時頃、前記自宅に歸還したるところを憲兵の爲 取押えられたるものにして、
北輝次郎、西田税、龜川哲也は孰いずれも 昭和十一年二月二十六日事件に參加した
香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部淺一等の叛亂行爲に協同荷担し、
北輝次郎、西田税は叛亂の主動者として行動し、龜川哲也は叛亂の謀議に參与したるものなり。

以上の如く
北輝次郎、西田税の兩名は我國現下の情勢を目し、
建國の精神に悖り 惡弊累積せるものとなし、
痛く國家 竝に皇軍の前途を憂慮するに至りたるはこれを諒とすべきものありと雖も、
苟も皇軍を利用して國家革新の具に供せんことを企圖し、
密に一部靑年將校等に接近し、
急進矯激なる思想を注入宣傳し、
終に統帥大權を破壊するの結果を招來するに至らしめたるは、
その罪重且大なりと認むべくによって、前記の如く處断せり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<  註 1 >
相澤中佐は十月十一日予備役に編入せられたが、
其の審理は第一師団軍法会議岡田予審官によって続行せられ、
十一月二日予審終了し、用兵器暴行、殺人及傷害事件として同日公訴を提起せられた。
而して其の後、歩兵第一旅団長佐藤正三郎少将以下が夫々 判士長、判士に任命せられ、
弁護人は鵜沢聡明博士、特別弁護人として陸軍大学教官松井佐吉中佐と決定した。
一方、本事件発生の当初より一部に於ては所謂怪文書の頒布によりて、相澤中佐の行為を激賞し
単なる私憤私慾に発したるものにあらず。
真に天誅とも称すべき事件にして已むに已まれぬ大和魂の流露である。
等と称しつつあつたが、
公判期日の切迫と共に、西田税 及直心道場の一派にあつては愈々其の立場を明かにして
「 国体明徴--粛軍--維新革命 」 は正しく三位一体にして、相澤中佐蹶起の真因亦茲にあり。
従って 「 超法律的の団体、超法律的維新に殉ずるものの受くる所、又同様超法律的でなければならぬ 」
と強調するに至り、左記文章等によつて他の革新団体に飛檄し、
公判公開の要請及減刑運動を慫慂し、以て昭和維新達成の機運醸成に努めた。
・・・相澤中佐公判 ・ 西田税、渋川善助の戦略
<  註 2 >
わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。
西田の留守に磯部さんが見えまして、
「 奥さん、いよいよ二十六日にやります。
西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」
と おっしゃったのです。
その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。
「 あなたの立場はどうなのですか 」
「 今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。黙認する 」
西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、
緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひとときでございました。
・・・
西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」


憲兵報告・公判狀況 49 『 北一輝、西田税 』

2020年10月21日 12時04分15秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)

 
西田税         北一輝 
・・・憲兵報告・公判状況 48 『 北一輝、西田税、亀川哲也 』  の 続き

第十回公判狀況
二 ・二六事件公判開廷狀況ニ關スル件 ( 第五公判廷 )

十月十九日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税、龜川哲也
出廷、
同九時吉田裁判長以下着席、直チニ開廷ヲ宣シタル后、前回ニ引續證據調ニ入ル

(1)  法務官ハ被告西田ニ對スル村中孝次、磯部淺一、栗原安秀ノ第二回豫審調書中ノ
 交際關係 竝 事件蹶起前ノ聯絡事項等ヲ讀聞ケタルニ、
被告西田ハ豫審公判廷ニ於テ申シ述ベタルト同様ナリトテ、承認ス

(2)  被告西田ニ對スル村中孝次、磯部淺一、栗原安秀ノ第三回豫審調書中關係事項
 蹶起後ノ行動ニ就キ讀聞ケタルニ、西田承認ス

(3)  西田ニ對スル叛亂被告事件ノ承認トシテ、村中孝次、磯部淺一ノ事件前ニヨリ
 事件蹶起後ノ諸事項ノ證言陳述ヲ讀ミ聞ケタルニ、
被告西田ハ豫審廷 及 公判廷ニ於テ申述ベタルト同様ナリトテ、直チニ承認ス

(4)  被告北、西田ニ對スル村中孝次、磯部淺一、栗原安秀ノ第三回豫審調書中ノ關係事項トシテ
 讀ミ聞けタルニ、被告兩名トモ承認ス

(5)  被告北、西田ニ對スル叛亂被告事件ノ證人トシテ村中孝次、磯部淺一ノ陳述セル
 事實關係ノ證言ヲ讀ミ聞ケタルニ、兩名共公判廷ニ於テ申述ベタルト相違ナキ旨ヲ述ベ、承認ス
法務官ハ被告北、西田ニ對スル合同證言ヲ打切リタル後、被告北ニ對スル單獨證言ヲ開陳ス

・・・略・・・
北ニ對スル證人ノ證言開陳ヲ終了、引續キ西田ニ對スル證言ノ開陳アリ
法務官ハ小川三郎大尉、菅波大尉ノ西田ニ對スル證言タル豫審調書ヲ開陳シタルニ對シ
西田ハ菅波大尉ノ證言ハ承認スルモ、
小川大尉ノ證言中思想啓蒙ノ點ニ附イテハ承認不可能ナルコトヲ陳述ス
法務官ハ澁川善助 及 宮本正之、鵜野勞働總同盟理事、大岸頼好大尉、明石寛二中尉等ノ
西田ニ對スル證言ヲ開陳シタルニ、宮本正之ノ證言ヲ除キ他ハ承認セリ
西田  「 宮本正之ナル人物ハ明石中尉ガ一度同道シテ自分ノ処ニ來リ、
 昨年秋頃 村中同道シテ來タコトアリ、金澤ノ印刷工デアルトノ事ダケハ記憶ガアリマスガ、
詳シイ事ヲ記憶シテ居リマセンシ、十八歳ノ少年デアリマスノデ、
彼ニ指令ヲ与ヘタ事實ハアリマセン 」

法務官  「 二十八日夕頃、栗原中尉ヨリ電話ニテ、
 齋藤少將ノ言トシテ徳川侯ガ靑年將校ヲ同道宮中ニ參内スルトノ事ヲ西田ニ問合セタルニ、
西田ヨリ不可能ナル事ヲ傳達シ、現在ノ地點ヲ確保スベシト申シタル事アリヤ 」
西田  「 徳川侯ガ靑年將校ヲ同道參内ストノ電話ガ、栗原ヨリアリマシタノデ、
 自分ハ外部ノ人々ニ依頼スルコトヨリ陸軍部内ノ意見一致ヲ以テ進ムガ良好ト考ヘ、斷ル様申シマシタ 」

法務官ハ、栗原中尉 及 齋藤少將ノ證言ヲ開陳シタル后、
被告北輝次郎、西田税等ハ事件蹶起前ニ於テハ傍観的態度ヲ取リ、
蹶起后好轉シタルニ依リ一氣ニ昭和維新ヲ斷行スベク企圖シタルモ、
次第ニ形成惡化セルヲ以テ青年將校等ヲ見殺シニスル事ハ出來ズ
上部工作ヲ指導シタルナルベシト論ジルニ、被告等ハ左様ナリト承認シ、
證據調ノ一部ヲ終了シ、午后四時五十五分閉廷セリ
次回ハ二十日午前九時ヲ申渡ス
( 了 )

次頁 ・ 憲兵報告・公判状況 50 『 北輝次郎、西田税、亀川哲也 』 に  続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から


暗黒裁判 (一) 「 陸軍はこの機會に嚴にその禍根を一掃せよ 」

2020年10月20日 09時14分42秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


二・二六事件の発生は陸軍をして痛く反省せしめたことは事実である。
陸軍創設以来未だかつてなかった一大不詳事件は
天皇の激怒を買い、
天皇は陸軍に対し非常な不信を表明された。
事件終結のあと、川島陸相に対し、
「 陸軍において発生せる今次の事件は、
 國威を失墜し 皇軍の歴史と伝統に一大汚點を印たるものと認める。
陸軍はこの機會に嚴にその禍根を一掃せよ 」
と、きびしくいわれている。
明治天皇によって朕は頭首、汝等は股肱と信頼されてきた陸軍は、
こうして頭首と仰ぐ大元帥より ひどくその信頼を失ったのである。
陸軍は真に恐懼して その禍根の徹底的粛正に、その方針をきめた。
したがって、この事件処理は非常峻厳を極め、
いやしくも革新運動に関係のあった全軍の将校は、
ことごとく検挙せられ、あるいは検挙せられないまでも一応は所属部隊長の調査を受け、
夫々行政処分に付せられたのであった。
このように、陸軍の粛正の決意は、これまでに、かつて見たことのない徹底したもので、
そこでは一片の情実をも許すものではなかった。

「 今次の反乱事件に関し、その発生の原因は極めて広汎深刻なるのみならず、
この種禍根を将来に絶滅するためには、部の内外に亙り、迅速かつ徹底的措置を施す必要とす。
これがために部下軍人軍属にして苟も事件に関係ありと認むる者は、
遺漏なく捜査のための万全の措置を講ずべし。
右の措置は軍の威信を保持せんがために、一時を糊塗するを許さず 」 ・・三月一日 陸軍大臣通達
陸軍の事件関係者の摘発、ならびに捜査にかんする方針を示すこの通達は、
さらに各師団においては、より具体化されていた。
叛乱部隊を出した第一師団では、
「 この機会において不純思想抱懐者を徹底的に摘発処断し 師団の更生を期したきに付、
私情に左右せらるることなく、全軍のため馬謖を斬るの決心を以て捜査相成度 」
・・三月四日 第一師団参謀長の団下への通牒
と、「 不純思想包括者 」 にまで、これが摘発を志達していたのである。
いうまでもなく 不純思想包括者とは、革新思想をいだくもので、
それは徹底した思想の粛正であった。

この叛乱事件の司法的処理のためには、
三月四日、緊急勅令で東京軍法会議法が公布せられ、
陸軍はこれに基いて東京に東京軍法会議を開設した。
この事件だけを管轄する軍法会議である。
だが、この軍法会議は、
その裁判の構成、審判など、すべて特設軍法会議の原則を適用するものであった。
緊急勅令は
「 陸軍々法会議ノ適用ニ付テハ 之ヲ特設軍法会議ト見做ス 」
と 規定したのである。
そもそも、特設軍法会議というのは、
戦中または戒厳地域に設けられるもので、
その内容は頗る簡明直截で、
後半の公開原則や弁護制度も認められていないし、一審制上告は認めない。
裁判官の数も少ないし、
法務官がいなければ適任の兵科将校で検察事務がとれるようにもなっていた。
いわば、裁判とはいうけれども、
それはただ裁判の形式をとったものにすぎない。
おおよそ、近代的な訴訟、審判制度ではなかったのである。
もちろん、これは戦場や急迫緊張した地域における軍司法の要請に応ずるものであったが、
これが、この事件に適用されるところに、最初から問題があった
事実、この事件の司法的処理のために、このような特別軍法会議を設置する必要があったかどうか、
これを全軍一途の方針のもとに処理するためには、
一個の独立した軍法会議を必要としたことはうなずけても、
しかし、これをもって戦地に準ずる軍法会議を設定したことは、
彼等の弁護を封じ 公判闘争を拒否し、簡単にかたづける といった意図以外にない
それは戒厳令下における迅速なね事件処理
( 叛乱参加将校以下の裁判は一カ月半ばで終結を予定されていた )
という名目に飾られていたが、こうした裁判形式を用いたこと自体、
初めから 軍の裁判企図は察知できるのである。
それはまた、さきの 禍根の一掃を期する 徹底的粛正とは、思想事犯の苛烈なる粛正であって、
真に軍の再建を期するものではなかったことを示している。

世にこの裁判を目して暗黒裁判という。
ことに獄につながれていた叛乱将校たちは、
予期した公判闘争は封じられ、いっせいにこの裁判の不当不正を叫んで暗黒裁判だと訴えた。
たが、それはこの事件が終結したときから、判かっていたことだった。
特設軍法会議とはそうしたものである。
「 三月一日午後、這次不祥事変に対する軍法会議構成に付 緊急勅令を仰ぐべく閣議あり、
四日午前十時より枢密院本議に於て、
陛下臨御の下に前項閣議決定の軍法会議に関する勅令案に付 御諮詢あり、
可決の上 議長より上奏御裁可あらせられる。
此軍法会議は東京に陸軍軍法会議を設け、
二・二六事件に関する被告事件に付管轄権を有せしむるものにして、
裁判は公開せず  一審にて決定し 上告し得ざるものとす 」・・本庄日記

東京軍法会議が設けられると、この事件に従事する職員、
すなわち、検察、予審、公判にあたる法務官や判士要員の兵科将校は、全軍から東京に召集された。
そして裁判官となる兵科将校は、
思想正順、派閥にはいささかも関係のないものとの条件で選任された。
リンク  
東京軍法会議判士候補者人名簿  
法廷  
東京に集められた将校は、陸軍省で数日間の講習をうけている。
事件に対する認識を与えられた彼等はすでに初めから、
事件に対する軍の方針をはっきりと植えつけられていた。
なお、法務官は三月五日には
検察官として高坂春平勅任法務官を長として沢田首席検察官以下六名、
裁判官、予審官として小川関次郎勅任法務官以下十五名が
それぞれ任命されたし、裁判官たる将校もこれを五組
( 将校班一、下士官班二、兵班一、常人一 )
に 分け、かつ、これにおうずるように叛乱被疑者を区分し、
極めて能率的に迅速に判決を終始するよう、お膳立てがなされた。

次頁 
暗黒裁判 (二) 「 将校は根こそぎ厳罰に処す 」  に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 粛軍の決意 から

リンク ↓  大谷敬二郎著 二・二六事件 編
陸軍はこの機会に厳にその禍根をいっそうせよ


憲兵報告・公判狀況 48 『 北一輝、西田税、龜川哲也 』

2020年10月20日 04時40分48秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)

・・・ 憲兵報告・公判状況 44 『 北一輝 』 の 続き

第九回公判狀況
二 ・二六事件公判開廷狀況ニ
關すル件報告 ( 第五公判廷 )

十月十五日午前八時五十分、 被告北輝次郎、西田税、亀川哲也
出廷、
同九時吉田裁判長以下着席、直チニ開廷ヲ宣シタル後、被告北輝次郎ノ補充事實審理ニ入ル

北一輝   
法務官 
 被告等ノ事實審理ハ前回迄ニ大體終了セルガ、今日ハ再ビ補充訊問ヲ行フ 」
 「 被告北ノ檢察官ノ公訴事實ニ對スル意見如何 」
前回迄ニ公訴事實ニ對スル意見ノ點ハ申述ベマシタガ、若干訂正ヲ要スル點ガアリマスノデ申述ベマス。
(1)  日本改造法案大綱ガ不逞思想ナリト云フ點、
(2)  前回事實審理ノ際ニ各軍事參議官、陸軍大臣等ガ叛亂罪ニ問ハレルベキ點云々ト申述ベタ點、
(3)  西田ヨリ今般ノ事件ガ統帥權干犯カト云ハレタル事ニ就イテノ回答ノ點

法務官  「 簡単ニ申述ベヨ 」
日本改造法案大綱ハ大正八年ニ書キマシテ、最近十數年見テ居リマセンノデ詳シイ事ハ不明デアリマスガ、
 三年間ノ憲法ノ停止ト云フ事ガ國體ニ相容レザル不逞思想ト云フ事ハ不當ト存ジマス。
神武天皇即明治大帝即今上天皇デアリマス。
明治大帝ハ國家ノ非常時ニ際シ不文法ヲ成文法トナシ、欽定憲法トナシ賜ヒタルモノデアリ、
今上天皇ガ國家非常ノ際ニ天皇大權ノ發動ニ依リ國家ノ改造ヲナシ賜フベク、
憲法中一部ヲ停止シ、戒嚴令ヲ執行シ、他ノ不逞ナル者ヲ抑壓スルニアリマス。

法務官  「 天皇ハ憲法ニ依リテ戒嚴令ヲ宣布シ、憲法ノ一部ヲ停止シ得ルハ憲法ニ明記シアルガ、
 被告ノ著書ニハ憲法ヲ停止シ、戒嚴令ヲ布告スト書キアル點ガ不逞ト云フニアリ 」
日本改造法案大綱ヲ著述セル時代ハ、全世界ガ共産主義ノ惡魔ニ犯サレ、
欧州ニ英國、東洋ニ日本ノ只二ツノ君主國ヲ存スルノミデアルノデ、
必ズ全世界ニ革命ガ起ル事ヲ考ヘ、國體及政府ヲ擁護スル爲メ資本主義經濟機構ノ改革ヲナスベク、
天皇大權ノ發動ニ依り國家ノ改造ヲ行フ際、不逞者ガ貴衆両議院ニ依リ改造ヲ阻止スルノヲ抑壓スル爲メ、
憲法ヲ停止シ、戒嚴令ヲ執行シ、天皇ガ國家ヲ改造セラレルノデアリマス。
天皇ハ憲法ノ上ニアリマスノデ、憲法ヲ停止スルコトハ、何等拘束セラレル必要ハナイト存ジマス。
尚、憲法ノ一部改正ノ必要ハナイト考ヘテ居リマス。
元老、重臣ガ死亡シタル際、組閣ニ關シ御下問ニ奉答スルハ樞密院デ好イト思ヒマス。
ソレニ伴ヒ樞密院令、貴族院令等ノ個々ノ改造、修正ヲナセバ好イト思ヒマス。

法務官  「 憲法ノ改正及一部停止ト云フ事ハ天皇大權ニ依リ出來得ル様ニ憲法中ニ規定シアルモノニテ、
 被告ノ著書ハ憲法ヲ停止シ總ベテヲ實行スルニ依リ、不逞思想ト云ヒ得ルモノデアル 」
絶對ニ不逞思想デハアリマセンガ、法務官ガ左様申サレルノデアレバ、承認致シマス。
丁度朝鮮人ノ様ニ取扱ハレテ居ル様ナ感ガ致シマス。

先日申上ゲマシタ各軍事參議官及陸軍大臣ガ叛亂者ヲ援助シタト云フ事ハ、
西田ガ何ニモ知ラザルニ、西田ヲ嬲なぶリ殺ロソウト云フ様ナ
法務官殿ノ御言葉デアリマシタノデ申上ゲタ ノミデ、
軍事參議官ノ方々及陸軍大臣ノ
趣旨ハ良ク解スル事が出來マスノデ、
不穏當デアルト考ヘ、取消致シマス。

事件ヲ
起ス事ガ統帥權干犯カト西田カラ問ハレタ事ハ、
當時 『 ボウー 』 トシテ居リマシタノデ、詳シク考ヘマセンデシタ。
五 ・一五事件ガ反亂デアリ、今度ノ事件ガ統帥權干犯トハ考ヘラレマセン。
矢張リ反亂罪トシテ取扱フベキト存ジマス。
陸軍ノ爲メ參考迄申上ゲマスガ、
上官ノ命ナク行動ヲ爲シタルコトガ統帥權干犯デアルト致シマスト、
色々ト困難ナ問題ガ惹起スルト想ヒマス。
左様ナ事ハ軍律違反トシテ取締ルベキデアリ、
亦、國憲ニ抗シタル際ハ反亂罪デ處分スベキデアルト考ヘマス。
中隊長ガ單独ニ兵ヲ頓営ヨリ出し或ル場所ニ行ツタ事モ
統帥權干犯トシテ取扱ナケレバナラナイ様ナ事ガアルト思ヒ、
兵隊ガ單独デ行動シタ事モ詳シク申セバ統帥權干犯トナルノデアリ、
此等ハ全部軍紀軍律違反トナルベキデアル。
此ノ點ヨリシテモ今度ノ事件ハ反亂ナルモ、統帥權干犯デハナイト思フ。

法務官  「 今度ノ事件ハ純然タル統帥權干犯デアル
 軍律違反ハ別ニ規定ヲ以テ處分シテ居ルノデアル
將校ガ上司ノ命ナク兵ヲ動シタル事ハ明ニ統帥權干犯デアル  故ニ今般ノ事モ干犯デアル 」
法務官ハ兵ヲ動シタル事ト、事件ヲ起シタル事ヲ混同シテ考ヘルカラ左様ニナルト存ジマス。
兵ヲ動カス事ト事件ヲ起シ人ヲ殺害スル事ハ別個ナル問題ト存ジマス。
今デハ統帥權干犯ナリトモ考へ、亦 干犯デモナイト考ヘテ居リマス。
何レガ正ナルカ不明デアリマス。

法務官  「 靑年將校ノ首謀者ガ改造法案ノ信奉者デアリ、
 今事件ニ際シ改造法案ニ立脚シテ処理シヨウトナシタル事ヲ承認スルカ 」
警視廳ニ於テ靑年將校ノ大部分ガ改造法案ノ小册ヲ保持シアリテ、
今事件ヲ同法案ニ依リ目的達成ヲナスベク努力シアリタリト 聞カサレタノデ、
詳シイ事ハ知リマセンガ、豫審廷ニ於テ承認シタノデアリマス。
法務官ノ御趣旨ノトオリ承認致シマス。

法務官  「 他ニ何カ申述ベル事ハナイカ 」
自分ハ靑年將校等ヲ直接指導シタノデハナク、叛亂援助シタノデモナイ。
亦、自分ノ著書ガ今迄一度モ不逞ナル思想トシテ取扱レタル事ナキモ、
靑年將校等ヲ誤ラセタト申サレルナラバ、
其ノ罪ハ極刑ヲモ覺悟シテ居ルガ、
不逞思想デアリ、
亦、靑年將校ノ直接指導ヲナシタル點ニ於テハ承服デキマセン。


西田税 

北ノ補充審理ヲ終了シ、西田税ノ補充審理ニ入ル
法務官  「 権察官ノ公訴事實ニ對スル意見如何 」
(1)  北氏ノ日本改造法案ガ不逞ナル思想ト云フ事ハ承認出來マセン。
(2)  順逆不二法門出版ノ件ハ知リマセん。
 其他怪文書ヲ作製シタ云々ノ點デアリマス。
(3)  二十五日龜川邸ニテ村中ニ面接、金ヲ渡シタル點ノ龜川ノ申述ノ相違點ニ就イテデアリマス。
日本改造法案大綱ハ大正十五年私ガ北氏ヨリ原稿ヲ貰受ケテ、出版致シマシタ。
 其後、昭和七年ニ某海員組合ノ幹部ガ資金五百圓ヲ出シ、
日本改造法案ノ小册ヲ一千部印刷シ船員ニ配布シタキトノ事アリテ、
其際削除セラレテ居ル個所ヲ全部植字シ、内務省警保局ニ願出タルニ、
當時ノ警保局檢閲課長ノ言ハ、昔ハ削除個所モ多カツタルモ現在ニテハ何モ支障ナク、
只皇室費云々ノ個所ハ皇室ニ關スル事項ナルヲ以テ削除スベシトノ事ニテ、
其ノ個所ヲ削除シ、一千部發行シ、三百部ヲ自分ガ取リ、他ヲ本人ニ渡シマシタ。
當時檢閲願出ニ使用シマシタ改造法案ノ原本ガ自分ノ処ニアリマスノデ、明瞭デアルト存ジマス。
亦、憲兵司令部發行ノ思想彙報中ニモ
権藤成卿ノ自治民範ト共ニ日本改造法案ノ解説ガアリマスガ、
全面的ニ支持シテ居ル様ニ記憶シテ居リマス。
此ノ様ニ當局ガ承認シテ居ル事ガ不逞思想トシテ取扱ハレル事ハ絶對ニナイト存ジマス。
靑年將校等ニシテモ、良ク日本改造法案ヲ解シテ居る者ハ、何人モナイト存ジマス。
若干ノ解釋ハスルカモ知レナイガ、詳シイ説明ガ出來ナイト斷言致シマス。
自分ハ十五年間改造法案ヲ熟讀シテ實行ニ移シテ居ルモノデアリマス
 
法務官  「 日本改造法案ハ靑年将校間ニ金科玉條トシテ取扱ハレアル事ヲ承認スルカ 」
現在日本ノ國家改造ノ參考書トナルモノハ日本改造法案ノ外ニナキヲ以テ、
靑年將校モ相當讀ンデ居ルト言フ事實ハ承認出來マス。

順逆不二法門ハ一度見タ事ガアリマスガ、其ノ内容ハ北氏ノ支那革命外史ヨリ引用シタルモノ多ク、
詳シク讀メバ學問ノ無イ者ノ著書タル事明瞭ニシテ、
自分ノ全然關係ナキモノナルガ、多分金澤方面ヨリ發行セラレテ居ルト考ヘマス。
其他ノ著書及怪文書モ全然知リマセンガ、克ク送ツテ來マスガ、
大概ハ焼キ棄テテ居リマス程度ノモノデアリマス。

法務官  「 金澤方面ニ於テ發行セラレルトノ事ハ如何ナル點ヨリ申スカ 」
村中等ノ關係者ガ一度怪文書ヲ金澤デ發行シタル事モアリ、
亦、印刷屋ノ小僧ニモ逢ツタ事ガアルカラ、今度モ金澤方面デハナイカト推察スルモノデアリマス。

法務官  「 村中ガ發行セシメテ居ル事實ハ明瞭ナルガ、被告ト村中トノ關係ハ特別ナルヲ以テ、
 被告ニ全然關係ナイト云フ事ハ出來ナイ
北ノ著書ト相違シテ居ル部分多キナラバ、ナゼ村中等ニ一應ノ抗議ヲナサザリシヤ 」
村中ガ關係シテ居ル事ガ即チ自分ガ指導シテ居ルト考ヘルハ、不當デアルト存ジマス。
 一度前ニ注意シタ事ハアリマスガ、現在ノ自分ハ善惡ノ外ニ 『 シカタガナイ 』
ト云フ事モ加味サレタ生活ヲシテ居リマスノデ、追及ハ致シマセンデシタ。
此ノ點ハ官吏ヤ軍人ニハ克ク解スル事ガ出來ナイト存ジマス。
浪人生活ハ非常ニ複雑ナモノデアリマス。

法務官  「 順逆不二法門ガ今般ノ關係者及靑年將校等ニ愛讀セラレテ、
 相當事件惹起ニ對スル力トナツテ居ルノダ 」
龜川氏宅ニテ二十五日夕 村中ト落合ヒマシテ種々話シ、
村中ガ歸ル時ニ玄關先ニテ七個中隊カラ出ルノデ、
軍隊デ食事ノ事ハ給与シテ呉レルダラウト申シマシタノデ、
日本銀行及三井銀行等ヲ襲撃云々ノ龜川氏ノ陳述ノ點ハナイト存ジマス。

裁判長  「 今次事件蹶起ノ原動力ハ如何ナル処ニアリシヤ  被告等ガ原動力トナツテ居ルノデハナイカ 」
今度ノ事件ニ際シマシテ自分モ非常ニ考ヘサセラレテ居ル事ハ、
只今裁判官殿ノ御尋ノ點デアリマシテ、
靑年將校等ノ個人的性格ヲ承知シテ居ルダケニ非常ニ不可解デアリマス。
栗原中尉ハ實行力ハアリマセンガ、只強ガリノミ申シマスシ、
亦、愼重派タル香田、安藤大尉ガ參加セシ事
及 野中大尉ノ思想ヲ誰レガアレ迄ニ指導シタカト云フ點ト、
香田大尉ハ栗原中尉ヲ御兩親ノ關係的立場ヨリ監督シテ愼重ニ考ヘテ居ツタガ、參加シタ事。
磯部ハ非常ニ過激ナ男デアリマスガ、軍人デハアリマセンノデ直接指導力ハナイト存ジマスシ、
亦、村中氏ハ彼等ノ間ニ於テ一番穏健派デアルト考ヘラレマス。
一體誰レガ今般ノ事件ノ導火線トナツタカ不可解デアリマス。
結局、現代ノ世相ト第一師團ノ渡満ト云フ事ガ原因ヲナシタノデハナイカト存ジマス。
自分達ハ抑壓セントセシモ抑壓スル事出來ズ、傍観ト云フ様ナ立場ニアリマシタノデ、
全然指導シタリ原動力トナツタ事ハアリマセン。


 龜川哲也 
法務官  「 先程西田ノ申述ベタ資金ヲ与ヘタル當時ノ狀況如何 」
先日事實審理ノ際ニ申述ベマシタ通リデアリマシテ、
日本銀行襲撃ト云フ事デ、大變ナ事ニナルト考へ、与ヘタノデアリマス。

法務官  「 二十六日朝 鵜澤聡明ヲ西園寺公ノ処ニ後繼内閣ノ件ニ就キ進言ニヤラシメタル事ハ、
 被告ガ二十五日西田、村中等ト協議セル際、
元老、重臣ヲ襲撃スルト云フ事ヲ知リナガラナシタルモノニテ、其ノ主旨ノ諒解ニ苦シム 」
公訴却下ト云フ事デ二十六日ニ西園寺公ヲ鵜澤博士ニ訪問シテ貰フ事ニナツテ居リマシタノデ、
二十六日朝大變ト考ヘ、品川驛ニテ中止スル様申シマシタガ、
聞キ入レマセンノデ、行クニ就イテハ後繼内閣ハ軍部内閣ヲ上奏スル事ヲ進言シテ貰フベク依頼致シマシタ。

法務官  「 鵜澤博士ヲ西園寺公ノ処ニヤルハ殺シニヤルト同様ナモノデ、
 二十六日朝襲撃スル事ヲ被告ハ承知シテ居ルノデハナイカ 」
何モ考ヘズニ、鵜澤博士ノ言フ儘ニ西園寺公ノ下ニ行ク様ニ申シタノミデアリマス。

法務官  「 各手段ヲ盡シテモ阻止スベキガ人間デハナイカ。 亦ハ襲撃中止ヲ承知シテ居ツタノカ 」
襲撃中止ハ承知シテ居リマセン。

裁判長  「 被告ノ陳述ヲ先日來聞イテ居ルト、
二十五日夜ヨリ二十六日夕迄ノ行動ガ普通ノ人ノ行爲トシテハ諒解ニ苦シム
他人ノ云フ事 及 證言陳述ハ皆勘違イデアル、自分ノミ正シイト申スモ、
受取ル事ハ出來ナイ  其ノ眞意ヲ陳述スベキダ 」
事實ヲ申上ゲルノミデ、他意ハアリマセン。

被告亀川ノ陳述ハ全部虚僞ナリト法務官裁判官ヨリ論難セラレ、事實審理ヲ終了、
引續キ被告西田税ニ對スル承認ノ證言 及 證據品調ニ
入リタルモ、
被告西田ハ證言ヲ承認し、午後四時三十五分補充審理及 證據調ノ一部ヲ終了、閉廷せり
次回ハ十九日午前九時開廷ヲ申渡シタリ
( 了 ) 

次頁 ・ 憲兵報告・公判状況 49 『 北一輝、西田税 に  続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から


憲兵報告・公判狀況 44 『 北一輝 』

2020年10月19日 12時03分24秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)


北一輝 

・・・憲兵報告・公判状況 43 『 北一輝 』  の 続き

第五回公判狀況
二 ・二六事件公判開狀況ニ關スル件報告 ( 第五公判廷 )

十月六日午前八時五十分、 被告北輝次郎、西田税
出廷、
仝九時吉田裁判長以下着席、開廷ヲ宣シ、直チニ被告北輝次郎ノ事實審理ニ入ル
法務官  「 二十五日迄ノ事實審理ハ昨日ニテ終了シ、本日ハ二十六日以後ノ事實審理ヲ行フ 」
事實審理ノ前ニ檢察官ノ公訴事實ニ對スル意見ヲ述ベマス。
檢察官ノ公訴事實ヲ聞キマスニ、北輝次郎ハ支那革命ニ參加成功セシメタルヲ以テ、
日本ニ於テモ革命ヲ實施スル如ク述ベラレアリ、
丁度、燐家ニテ強盗ヲナシタルカラ、此ノ家ニテモ強盗ヲナスト云フ論法デ來テ居リマス。
亦、日本改造法案大綱ヲ以テ平時ノ日本ニ騒亂ヲ勃發セシメ、
革命ニ導キ、日本改造法案ノ實現ヲナサムベク常ニ靑年將校及軍部ニ接近、
啓蒙運動ニ從事シ、今回ノ事件ヲ蹶起セシメタル処ニ根本ヲ置キ論述シ、
亦、裁判官モ取調ヲナシテ居ル様ニモ見ユルモ、
事實實家ノ改造ハ天皇ガ大權ノ發動ニ依リ國家非常ノ際ニ實施スルモノニテ、
其ノ參考資料ノ一部分タル改造法案デアリ、現今ノ時代ニハ符號シナイ部分モアルト思フ。
結論ヲ私ガ革命ヲナスモノト前提シ取調ヲナス事ハ、當ヲ得ザル事ト存ジマス。

法務官  「 二十六日ノ行動及事件ヲ知得セル狀況如何 」
二十六日午前五時ヲ期シテ
靑年將校ガ肅軍ノ徹底ノ爲メ兵馬大權ノ干犯者ヲ討ツト云フ事ガ知レテ居リマシタノデ、
非常ニ心配致シマシタガ、自分ハ昨年末以來ヨリ久振リニテ支那ニ渡ルベク
具體的ニ準備ヲナシツツアリマシタノデ、直接關係シ色々ノ事ヲ考ヘルノヲ避ケテ居リ、
二十五日夜西田ガ來マシタノデ若干ノ話ヲナシ、後ハ神佛ヲ祈ツテ居リ、他ニ電話ニテ聯絡ヲナサズ、
二十六日午前六時頃西田ヨリ靑年將校ガ蹶起シタラシイトノ事ヲ聞キマシタ。

法務官  「 靑年將校ガ皇軍ノ一部ヲ壇用シ蹶起スル事ハ統帥權干犯ト考ヘナイカ 」
今般靑年將校ガ蹶起シ、『 ロンドン條約 』 及 敎育總監更迭ニ際シ
元老重臣竝ニ軍首脳部ニ於テ兵馬大權ヲ干犯セル者ヲ討ツタメニ兵力ヲ使用スルト云フ事ハ、
父ノ惡事ヲ反省セシメル爲メ劍ヲ取リタルト同様ニテ、『 已ムニ止マレヌ 』 行爲ト考ヘマシタ。
自然ノ事象トモ云フベキ事ト思ヒマス。

法務官  「 法治國ノ國民ニシテハ、兵力ヲ壇用シタル事實ガ統帥權干犯ナル事ハ常識ニテモ解釋スベキ事ナラン 」
法律的ニハ解釋ヲ致スナラバ勿論統帥權干犯デアリマスガ、
當時ノ自分ノ氣持チハ呆然トシテ居リタル為爲メ、詳シク考ヘマセンデシタ。
化學方程式ニ事ヲ解スル餘裕ガアリマセンデシタ。
困ツタ事ダト感ズルノミデアリマシタ。

法務官  「 二十六日ニ岩田富美夫、澁川善助、西田等ト會談セシ狀況如何 」
西田ヨリ事件ノ概要ヲ聞キ、
本人ニ對シ必ズ警視廳方面ヨリ豫備檢束等ニテ拘束サレル事ヲ心配シ、
西田ヲ避難セシメル爲メ自分ガ午前八時頃岩田ニ電話シ、自分ノ処ニ來ル様依頼シ、
仝九時頃岩田ガ來マシタノデ、西田ノ身柄保護ニ關シ三名ニテ協議、
岩田ノ親族タル巣鴨ノ木村病院ニ靜養方避難セシメル事ヲ決定シマシタ。
其後、澁川ガ來マシタノデ襲撃個所及事件ノ狀況等ヲ聞キ、
西田、岩田、私ノ四名ニテ今後ノ時局収拾ニ就キ懇談致シマシタ。
會談約一時間ニテ澁川ハ歸リ、續イテ西田、岩田 共ニ去リマシタノデ、
後ハ御祈リヲ續ケテ居リマシタ。

法務官  「 二十六日ニ政界財界方面ヨリ電話ガ掛ツタ事ニナツテ居ルガ、如何 」
コノ日 中野正剛ガ支那ヨリ歸朝後初メテ電話ヲ掛ケテ來マシタ。
其ノ内容ハ 『 大變ナ事ガ起ツタ様ダ 』 ト中野ガ尋ネマシタガ、
私ハドウシタト聞キ、雑談デ終始シマシタ。
財界方面ノ誰カラモ電話ハアリマセンデシタ。
薩摩雄次ガ大變ナ事ガ起ツテ多數元老重臣ガ討タレタ様ダト電話デ申シテ來タノデアリマス。
私ハ二十六日ニハ全然他ニ電話デ話モセズ、外出モシマセンデシタ。

法務官  「 二十七日中ノ行動ニ就イテ申述ベヨ 」
二十六日夜ハ充分ニ睡眠致シ、
午前六時頃起キ朝食ヲ濟マスト、
西田ヨリ行動部隊ニ對シ昨日陸軍大臣ノ告諭ガ發セラレ、
蹶起部隊ヲ承認スルト共ニ各軍事參議官モ同意シ、
今後蹶起部隊ト共ニ昭和維新ノ爲メ邁進スルトノ事デアリ、
次ノ様ナ事ヲ告諭サシテ下サレタト聞キマシタ。
一、蹶起ノ趣旨ニ就イテハ天聽ニ達セラレアリ、
二、諸子ノ心情ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム、
三、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ、
云々ト申シテ居リマシタノデ、大變ナ事ガ起ツタト考ヘ、
陸海軍ノ首脳部ノ全部ハ昭和維新ノ爲メ努力シ、行動部隊ト共ニ國家ノ改造ニ從事スル事
及陸軍大臣ガ行動部隊ノ蹶起趣意書ヲ天皇ニ上奏シ、
愈々日本ヲ改革サレル時期ガ來タト感ジ、
非常ニ國民ノ一員トシテ嬉シク考ヘマシタ。
午後岩田ヨリ電話ガアリ、
大臣告諭ノ事ヲ申シテ、非常ニ喜ンデ居リマシタ様デス。
然シ、西田は陸軍大臣告諭 及 軍事參議官ト青年將校ノ會見ノ顚末ヲ話シナガラ、
常ニ 『 クスグツタイ 』 様ナ面持チデアリマシタ。
西田ガ栗原中尉等ヲ常ニ壓へ、亦、事件前ニ非常ニ壓ヘタニモ反對シテ蹶起セル彼等ニ
之ノ様ナ告諭ヲ發セラレ、其ノ事ヲ西田ニ傳ヘラレタル時、
相當彼等ヨリ逆襲サレタ事ト感ジマシタ。
此ノ告諭ノ事ヲ聞イテ直グニ御經文ヲ唱ヘ御祈リヲ致シマスト、
常ニ心配セル時局収拾ノ人材ニ就イテノ事ガ靈感ニ依リ示サレマシタ。
『 人ナシ、勇將眞崎アリ、皇國正義軍疑ナシ、一任セヨ 』
トアリマシタノデ、西田ニ示シマスト、彼ハ非常ニ喜ビマシタ。
青年將校ガ軍事參議官ト會見ノ際、次期内閣ハ柳川中將云々ト要求シアリトノ事ヲ、
告諭ノ話ノ際ニ聞イテ居ツタカラデアリマス。
私ハ、行動部隊ハ天皇ニ蹶起ノ趣旨ヲ認メラレ、官軍トナツタ  即チ正義軍トナツタ、
今後ノ時局収拾ハ眞崎大將ヲ首班トスル内閣ニ一任シ、善後処置ヲナスベキナリト信ジ、
其ノ靈感ヲ行動部隊ニ電話デ傳達シ、眞崎大將ニ一任スル様呉レグレモ話シマシタ。

法務官 
「 靑年将校等ハ北ノ霊感ヲウケテ後協議シ、
眞崎大將ニ一任ハ行動及時局収拾カ單ニ時局収拾カト云フ疑問ヲ生ジ、
被告ニ對シ電話デ照會シテ來タト云フガ、此ノ點、如何 」
電話ニ依リマスト、丁度眞崎大將ハ阿部、西 両大將ト會見中ニテ、
眞崎大將ハ引ケト申シ、
阿部 西 大將ニ白紙ニテ眞崎大將ニ一任スルト申シタルニ、非常ニ喜ビ、
良ク理解シテ呉レタ、
各參議官ト協議、眞崎大將ニ一任スル様努力スルト申述ベラレアルトノ事デアリマシタ。
推察シマスニ、眞崎大將ガ現地ヲ引ケト申スノデ、
行動ハ一任セズ時局ノ収拾ノミ一任スルト云フ疑問ヲ生ジ、
質問シテ來タト考ヘラレマスガ、
兎角自分ハ中央部ハ意見一致シ、内閣ノ首班ニ就キ問題トナツテ居ルト感ジタノデ、
一向彼等ノ趣旨ハ聞取レマセンデシタ。

法務官  「 法律ヲ犯シタル犯罪人ノ云フ事ヲ正シイト信ズルニ至ツタ理由如何 」
法律的ニ解スレバ蹶起シタ時ヨリ犯罪人カモ知レマセンガ、
當時行動部隊ト號シ、陸軍大臣ノ告諭ヲ授与セラレ、尚、義軍トシテ承認セラレ、
總テノ取扱モ皇軍トシナサレアル以上、犯罪等トハ考ヘマセンデシタ。
當時 誰一人叛亂軍、逆賊ト呼バレタ人ガアリマシタカ。
自分ハ國家ニ對シ内外の重大問題ノ起リタル際ニ、
其ノ時局ヲ打破スル爲メナシタル行爲トシテ、
元老、重臣 及軍首脳部、一般國民モ 總テ
犯罪人トシテ行動部隊ヲ取扱ヒ得ザル狀況ニテ、彼等ノ言ハ正シイモノト信ジマシタ。


法務官  「 二十七日 村中ト會見狀況、如何 」
二十七日龜川氏、西田ノ兩名ガ私ノ宅ニ來テ、
兩名ガ一室ニテ話シヲシテ居ル処ニ村中ガ來マシタノデ、
私シト西田、龜川ノ四名ニテ事件ノ概要ヲ村中ヨリ聞キ、種々懇談致シマシタ。
約一時間ニテ退去シマシタ。
龜川トハ當日初對爲面デアリマスノデ、挨拶ヲナシ、深イ話シハ龜川ト致シマセン。

法務官  「 村中ハ當時被告ニ面接し、
 外部ノ情勢ヲ知リ大イニ元氣附キ、數日間占據シ撤退セザルモノナルベシ 」
村中ト面接ノ際ニ、私ガ外部ノ情勢ヲ話シテ元氣ヲ百倍セシメ、
數日間アノ地點ヲ占據シタ重要原動力ノ様ニ申サレマスガ、全然相違シテ居リマス。
丁度急行列車ノ進行中、手ヲ以テ客車ノ一部ヲ押シタト同様ナモノデアリマス。
其ノ様ナ事ハ考ヘラレマセン。

法務官  「 被告ハ眞崎ニ一任シ、 青年將校等ノ信奉スル被告ノ著書タル日本改造法案ノ實現ヲ企圖シタルモノニアラズヤ 」
眞崎大將、柳川中將ト云ヘ、軍ノ首脳部ニ於テ私ノ著書日本改造法案ノ信奉者ハ無イト思ヒマス。
參考トシテ見タ人ガアルトモ、私ハ日本改造法案ノ實現ノ爲メ 仝大將ニ一任シタモノニ非ズ、
只時局収拾ニ關シ一般ニモ靑年將校ニモ信頼ノ厚イ仝大將ガ適當ト感ジタルノミデアリマス。

法務官  「 二十七日以後ノ行動ニ就イテ申述ベヨ 」
二十七日午後ハ
西田ヲシテ小笠原長生子爵ニ時局収拾方ヲ依頼セシメ、
尚、薩摩雄次ニ電話シテ海軍ノ加藤寛治大將ニ陸軍ト歩調ヲ揃ヘテ時局収拾ニ當ラレ
眞崎大將ヲ支持スル様依頼セシメマシタ。
其ノ後ハ何処ニモ電話セズ、事態ノ推移ヲ見ツツ睡眠しマシタガ、
常ニ西田ノ身邊ニ就イテ心配シテ居リマシタ。
何等直接ノ關係ナキモ、憲兵隊及警視廳ニ於テ注目セラレテ居ルカラデアリマス。
二十八日午前中ニ憲兵隊ヨリ西田ヲ訪ネテ來マシタノデ、居ラヌト答ヘマスト、
自分ニ憲兵隊ニ出頭シテ呉レトノ事デアリマシタノデ、準備ヲナシ、憲兵隊ニ出頭致シマシタ。

正午一時休息シ、午後一時ヨリ被告北輝次郎、西田税、龜川哲也三名出廷シ、北ノ審理ヲ續行ス
法務官  「 二十八日迄ノ被告ノ事實審理ハ一應打切ル  國家ノ現狀ニ就テ如何ニ感ズルカ 」
我ガ歴史ヲ詳シク檢討スルニ、藤原氏ハ専横ヲ極メ 大權ヲ簒奪さんだつセリ
平家モ亦然リ 源氏起リ大權ヲ簒奪セザルモ土地臣民ヲ私有セリ
北条氏亦代リテ大權ヲ簒奪シタリ。
此ノ時 楠公忠勤ヲ爲シ、時代ハ變遷シ戰國時代トナリ、徳川氏抬頭シ専横ヲ極メ、
明治維新ニ於テ士族ノ下層階級タル維新ノ志士ニ依リ、維新ノ大業ノ一端ハ
建築セラレ、
版籍ハ奉還セラレタリ。
明治大帝ノ
欽定憲法發布ノ前後ヨリ政治體制ハ整頓シ、完全ナル政治機構ハ樹立セラレタルモ、
其後資本主義ノ發展ニ伴ヒ、天皇ニ属スル財力ハ次第ニ少數ナル財閥ノ手ニ歸シアリ。
此等財閥ト相結ビタル政党ハ、其ノ政党政治ノ腐敗堕落ノ極致ニ達シタリ。
機構ノ欠陥ニアラズシテ、
國家ノ中心ヲナスベキ元老、重臣、政治家、官僚等私私利慾ノタメ
財閥ト相結ビテ惡事ヲナシアル今日、
機構ノ問題アルモ、主トシテ人的要素ニ於テ改革ヲ要スルモノ多ク、
之ニテ諸外國ノ重壓化ニ國家ヲ維持スル事ハ困難ヲ來スベキナリ。
即チ
、非常時ニ処スルニハ、政治ノ腐敗堕落、國民ノ堕落ノ反省、活力ヲ得ンニハ、
經濟機構ノ改善ヲ必要トスルモノト感ズ。
資本主義ヲ根本的ニ打倒スルモノニアラズ。
亦、承認スルモノニアラズ。
即チ、資本主義ニ或種ノ改善ヲ行フ。
私有財産ノ限度制ヲ設ケ、三百萬圓以上ハ國有ニ歸ス事トナスカ、
亦、時ニ應ジ額ヲ制定スベキト考ヘルナリ。
他ハ經濟機構ノ改革ニ依リ肅正改革セラルモノト信ズ。

法務官  「 最近ノ仕事ニ就テ申述ベヨ 」
五 ・一五事件以後ハ政治、思想等ノ運動ニ専心從事セズ、
時ニ應ジ政治外交問題ニ關係セシノミニテ、主トシテ信仰ニ力ヲ傾注シテ今日迄來マシタ。
昨年秋頃ヨリ支那ニ渡ル考ヘデ、今般ノ事件ノ如キハ何等關心ヲ有セズ、
今年三月中旬ニ出發ノ豫定ニテ、準備中デアリマシタ。

法務官  「 今般ノ事件ヲ起サシメルニ至ツタ原因ハ如何 」
今般ノ事件ヲ起シ、國家ヲ改造スルト云フ事ハ歴史ノ必然性ト思ヒマス。
誰ガ惡イト申ス事ハ出來マセン。
國家、國民ノ全部ヲ通ジテ、現狀ヲ打破シ、昭和維新ヲ行フト云フ事ハ常識的ニナツテ居リマス。
人的要素ガ惡イ、機構ガ惡イト云フ事ナク、全部ガ改善せラルベキ運命ニアルト思イマス。
資本主義經濟機構デアリマスガ、イヅレ其ノ中ニ内部的ニ崩壊シ、
改革セラルベキ時機ガ到來スルト思ヒマス。
其ノ時ガ眞ニ改造ノ時機デアリ、改造ハ軍部ニテノミ行ふモノニアラズ、
又、無理ヲ爲スベキモノニアラズ。
事件ノ原因ハ總テノ内ニアルト思フ。

法務官  「 欠 」
事件ニ際シ陸軍大臣及各軍事參議官等ガ蹶起セシ行動ヲ承認シタルコトハ、
我々ノ如キ中野ノ電話ニテ聯絡ヲナシタルコトト比較スルトキ、問題ニナラズ。
彼等コソ叛亂軍ニ支援セル大權干犯者ニテ、罪斷ジテ許ス可カラズト確信致シマス。

午後二時北ノ審理陳述終了シ、西田ノ補充審理ヲ若干ナシ、
龜川哲也ノ身分調ノ後、事實審理ニハイル
法務官  「 檢察官ノ公訴事實ニ對スル意見如何 」
龜川  「 自分ノ行爲ハ簡單明瞭デアリマシテ、公訴事實ニハ自分ノ知ラザルコトヲ官憲
 ( 憲兵、警察官、豫審官、檢察官 ) ガ誘導取調ヲナシ、
無理ニ混迷ニナシタルモノニシテ、各種ノ事實ノ點ニ見ヘルノデアリマス。
丁度、天気晴朗ニテ雷雨沛然タリト云フベキデアリマス 」

 権察官ハ官憲ガ誘導尋問シ、事實ヲ虚僞ニ作製シタリトノ言ニ對シ追及、論爭セリ
法務官  「 被告ノ逓信省退職後ノ生活狀況如何 」
龜川  「 退職後ハ自分ノ研究セル財政經濟問題ニテ政友系ノ代議士ヲ指導シ、
 森代議士ヨリ生前二万七千圓ノ謝礼ヲ受ケ、尚、久原房之助トハ昭和九年十月知己トナリ、
二、三回指導ヲナし、今年末ニ二千圓、昨年七月ニ二千圓、今年一月初メニ五千圓、
事件後ニ五百圓ト合計九千五百圓ヲ謝礼トシテ貰ツテ居リマス 」

法務官  「 久原ハ何故多額ノ金ヲ与ヘタリヤ 」
龜川  「 普通代議士ヨリ二千圓内外ヲ受ケテ居リマスノデ、多額トハ思ヒマセン。
 自分ノ經濟學ガ重く用ヒラレル事ト考ヘマス 」

午後四時事実審理ノ一部ヲ終了シ、閉廷、
次回ハ七日午前九時ヲ申渡シタリ

次頁 ・ 憲兵報告・公判状況 48 『 北一輝、西田税、亀川哲也 』 に  続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から


憲兵報告・公判狀況 43 『 北一輝 』

2020年10月18日 18時39分23秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)


北一輝 

・・・憲兵報告・公判状況 42 『 西田税 』  の 続き

第四回公判狀況
二 ・二六事件公判開狀況ニ關スル件報告 ( 第五公判廷 )

十月五日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税
出廷、
仝九時吉田裁判長以下着席、開廷ヲ宣シ、直チニ被告北輝次郎ノ身分調ヲナシ、事實審理ニ入ル。
法務官  「 學歴及經歴ヲ申述ベヨ 」
郷里ノ中學校ヲ三年ニテ退學、東京ニ來リ、
各図書館等ニ出入シ獨學研究シ、自己ノ中學時代ヨリ疑問ノ諸点ノ解決ニ努力シ、
二十二年ノ秋ヨリ 「 國體論及純正社會主義 」 ノ著書ノ爲メ努力シマシタ。
田舎出ノ書生デアル事ト資金ガアリマセン爲、出版ニ際シ相當苦労シ、
二十三年ニ完成シ自費ニテ發行シマシタガ、社會ニ及ボス影響大ナル故ヲ以テ發禁トナリマシタガ、
此ノ著書ヲ通ジ各思想運動者、幸徳秋水、堺利彦、片山潜
及 支那亡命者 孫逸仙等ト交際 竝 相知ル事トナリマシタ。
該著書ヲ通ジテ多數ノ人ヲ知ル様ニナリマシタ。

法務官  「 國體論及純正社會主義ヲ著述スルニ至リタル動機如何 」
中學時代ヨリ國體問題ニ就イテハ非常ニ關心ヲ有シテ居リ、
中學ノ先生ニ問フテモ明確ナル回答ヲ得マセンノデ、
一般學者間ニ唱ヘラレタル皇祖ノ外國ヨリ移住説ニ對シ不満ヲ有シテ居ル事ト、
郷土ニ順徳天皇 及 後鳥羽上皇ノ遺跡等アリ 歴史上ノ參考資料ノアル事ヨリ
日本ノ歴史ヲ嚴密ニ研究シタル結果、日本民族我ガ國土ニ發生シ發展シタル事ヲ感ジマシタ。
一般ニ唱ヘラル移住説、「 馬來民族 」、亦、漢民族デアルトスレバ、
彼ノ文化ノ發展セル民族 ( 漢民族 ) ニハ言語 及 文字モアリ、
移住ニ際シ人ガ言語文字ヲ忘却スルコトナシ。
本土ニ言語文字ニ其遺跡アルベク、文字等ノ遺跡ナキハ然ラザル事明白ナリ。
馬來民族ノ如キ非文明ナル民族ガ、
現今ニ於テスラ航海困難ヲ來ス支那海ヲ數千年前ニ丸木船ニテ渡來セル事ハ不能ニテ、
信ズル事出來ザルモノナリ。
即チ、我ガ國體ハ日本ノ歴史ノ上ニノミ發見確認出來ルモノナリ。

純正社會主義論ニ就イテ
當時ノ社會主義者間ニハ 「 ダアヴイン 」 進化論中ノ優勝劣敗論ト
大杉榮ノ唱ヘタル相互扶助論ガ相當抬頭シテ居リマシタ。
幸徳秋水、大杉榮ニ接シ種々研究シマシタ。
彼等ノ社會主義ナルモノノ生命単位ハ個人ナルガ故ニ、
優勝劣敗ニモ見ヘ、相互扶助ニモ見ヘ、
之レハ各々眞ノ國家社会ノ福利民福ヲ基準ニシテ論ジテ無イ感ガアリマシタ。
當時ノ社會主義ガ全部日露戰爭反對論ヲ唱ヘテ社會主義ノ第一義トナシテ居リ、
考究スルニ、彼等ハ國際主義者デアリマシタ。
自分ハ社會ノ生命単位ヲ國家ニオキマシタ。
國家ノ發展ノ爲ニハ、國民ハ相互扶助ヲ行フモノデアリマス。
併、諸外國トノ間ニハ優勝劣敗ヲ繰返スモノデアル。
此ノ見地ヨリ相互扶助デアリ、優勝劣敗デアル。
即チ、現在ノ日露戰爭ハ國家ノ優勝劣敗上必要ナルコトニテ、
日本ノ眞使命デアルト大書特筆シテ日露戰爭ヲ賞讃シマシタ。
我ガ國ノ社會主義ハ日本ノ歴史ノ上ニ樹立スベキデアルト論ジ、
他ノ社會主義ハ不純ナルモノトシテ、自分ノ説ヲ純正ト爲シタノデアリマシタ。

法務官  「國體論及純正社會主義ノ観察ハ、今猶同様カ 」
當時ハ二十三歳ノ青年デアリ、生命単位ヲ國家ト爲シタコトハ一大發見ヲ爲シタ様ニ感ジマシタ。
今日ニ於テ國體論及純正社會主義ニ於テモ相當加筆訂正ノ要アルト存ジマスガ、
根本精神ニハ變わり在リマセン。
法務官  「 當時幸徳秋水及大杉栄、片山潜等ト交際シアルト云フガ、
 彼等ノ思想ハ著書中ニ這入ッテ居ルノデハナイカ 」
當時牛込區百人町ニ居住シ、
附近ニ幸徳秋水、片山潜、堺利彦等ガ居住シテ居ツタ關係カラ交際ハシマシタガ、
思想的ニ相通ジマセンデシタ。
幸徳ハ個人的ニハ立派ナル人物デ、他ノ片山、堺等トハ性格ノ相異デ親シクアリマセンデシタ。
以上ノ如クデ、著書中ニハ全然彼等ノ思想ハ這入ルコトナク、
當時社會運動者ガ日露戰爭ニ反對シタガ、
自己ノ著書中ニハ純正社會主義トシテ戰爭ヲ是認シテアリマスノデ、當時相當糾彈セラレタ事實モアリマス。

法務官  「 其後經緯ニ就テ述ベヨ 」
前ニ申上ゲマシタ著書ニヨリ、當時支那ヨリ日本ニ留学スル二万人近クノ留學生中ノ一部
 及 亡命者 孫逸仙 其他ト接スル様ニナリ、一夜 孫逸仙ト支那革命ニツキ懇談シ、
相通ヅル処アリ、相共ニ支那革命ニ努力奔走スルコトヲ一夜ニシテ約シ、
其後孫逸仙、黄興、宋教仁、張継 等ト親密ナル交際ヲ爲スニ至リ、
吾ハ支那革命ニ全能力ヲ傾注スルニ至リ、言論機關ヲ通ジ革命熱ヲ煽ル他、
啓蒙運動ニ從事シテ二、三年ヲ經過シ、東京ニ於テ専門的ナル武器其他ノ準備計畫ヲ樹立中、
武漢ニ豫期セザル革命ノ烽火ガ揚リタルヲ以テ、
南京ノ孫ヨリ電報ニテ支那ニ來ルコトヲ要請セルヲ以テ直チニ準備ヲ爲シ出發シマシタ。

法務官  「 支那革命ニ就テノ被告ノ立場如何 」
當時ノ支那ハ明ガ殪レ清ガ興リテ漢民族ヲ壓迫スルニ至リマシタノデ、
私ハ將來日本ガ満洲ヲ日本ノ權益化ニオクニツイテハ、
満洲及北支ニ絶大ナル勢力ヲ有スル清朝ヲ壓殪シ、漢民族ニ依リ南京ヲ中心トスル十八洲ノ政府ヲ樹立シ、
南方ヨリ迫リ、北方ヨリ進ムニ依リ、清朝ヨリ満洲及北支ヲ日本ニ提供セシメルト共ニ、
支那民族ノ清朝ヨリ重壓下ヨリ救フコトヲ重要ナル主眼點トシテ望ミ、
内田良平 及 時ノ政府員ト準備交渉爲シ、支那ニ渡リ上海ヨリ南京、武昌ト第一支那革命ノ中心地ヲ歩キ、
孫逸仙及同志等ト相謀リ全支那ノ革命ヲ促進セシメ、革命軍ヲ支持シ、
日本ノ政府ヲシテ革命軍ノ支援ヲ爲サシメ、南京臨時政府ヲ成立セシメ、
同政府ノ顧問トシテ活躍致シマシタ。
革命ガ成功シ、袁世凱ガ此時帝位ニ就キ、北京ニ滞在、一歩モ北京ヲ出ヨウトセズ、
革命軍全部ニ自分達モ北京ニ政府ヲ置クハ將來ノ爲良好ナラズトシ、
南京入リヲ要請セシモ、其儘ナルト、五ヶ國借款ヲ袁世凱ガ爲シタル爲、
第二革命ヲ起スベク準備奔走シ兵ヲ起シタルモ、袁世凱ハ北京ニテ死亡後ハ、
五ヶ國中日本ノミガ之ニ参加シアリテ革命軍壓迫シタル爲、
日本ト相結ビ來リタル同志及支那要人ハ殆ンド排日家ト變化シ、
今日ノ排日思想ヲ起サシムルニ至リマシタ。
コノ爲、退去命令ニ依リ日本ニ歸ヘリマシタ。
一度支那ヨリ日本ニ來タリマシテ支那革命外史 其他ヲ著述シ、
再ビ大正五年ヨリ南京ニ赴キ旧同志等ト相結ビ浪人生活ヲ過シテ居ルウチ、
欧州戰爭ノ發生ニ從フ日本ノ聯合軍參加及相次グ外交問題ノ失敗等ト支那ニ於ケル排日運動ノ旺盛、
世界思想ノ大混亂 特ニロシア革命、ドイツノ崩壊 等相ツイデ發生スルヲ見テ、
日本ノ將來内外共ニ多事多難ノ未曾有ノ時代到來スベキヲ感ジ、
大正八年上海ノ排日運動眞只中ニ於テ 日本改造法案大綱ヲ著述シ、
大正九年壱月日本ニ大川周明氏ノ招致ニ依リ歸ヘリマシタ。

法務官  「 日本ニ渡ル當時ノ狀況如何 」
大正八年九月中 大川氏 日本改造法案大綱執筆中ノ自分ヲ訪フテ、
日本ニ革命興ル、至急歸ヘラレタシ云々、ト申セシヲ以テ、
手段、方法 竝建設計畫ニ就キ聞キタルモ、
具體案ナキヲ以テ、執筆中ノ日本改造法案大綱ノ原稿ヲ見セタルニ
同氏ハ大イニ喜ビ、之ヲ參考資料ト爲スコトトシ、直チニ日本ヘ歸ヘリ、
自分ハ殘餘ノ執筆ヲ完了シ、同年十二月 上海出發日本ニ來リタルニ、
上海ニ於ケル朝鮮総督ヨリノ密偵ノ誤報ニ依リ革命児トシテノ取扱ヲ受クルニ至リ、
大川氏等ノ猶存社ニ行キタルガ、憲兵、警察官ノ警戒キビシキヲ以テ不快ナル感ニ打タレタルガ、
東京憲兵隊長ト面接ノ結果、誤解ハ一掃シマシタ。

法務官  「 猶存社時代ノ活動如何 」
猶存社ハ自分歸朝前ニ大川氏等ガ結成シタルモノニシテ直接關係ナキモ、
自分ノ宿舎ガ猶存社ノ二階ナル關係上 種々ナ人々ト面接スルコトトナリマシタガ、
次第ニ交渉ヲ斷レマシタ。
今生天皇ノ御成婚ニ際シテハ長閥ヲ相手トシテ極力運動ニ成功セシ結果、
猶存社ノ名ト
共ニ一般ニ知ラレル様ニナリ、
其後 ヨツフエ 來朝問題ニ際シ 仝社ノ人々ガ後藤新平等ト
共ニ礼賛シタルヲ以テ自分一人ニテ反對シ、
ロシア承認ハ共産党ノ直輸入ナルコトヲ提唱、遂ニ同氏ト意見衝突ヲ來シ、
猶存社ノ看板ヲ取ハヅシ、北一輝ト改名、其後ノ猶存社ニハ關係セズ、
直接間接ニモ同社ト交渉ヲ持チマセンデシタ。


法務官  「 大川周明ト離別セル狀況如何 」
大川氏トハ性格上相離反スルコトナキモ、
西田税ガ大川氏ヲ最モ信任スル牧野伸顕ニ對シ皇室林不法拂下問題ヲ惹起セシコト、
私ガ朴烈ノ怪冩眞問題ニテ若槻内閣ヲ打殪スベク企圖運動中、
西田ノ牧野宛ノ手紙ニ聯座懲役三ケ月ニ処セラレタルコトト、
大川氏ノ立場ヲ失ハシメタルコトニ依り 次第に相離反スルコトトナリ、
直接間接ノ衝突ハアリマセンガ、西田ガ大川氏ト議論セシ
ト 猶存社及行地社ノ出版部ニテ日本改造法案ノ發行準備中ナルヲ無斷ナル故ヲ以テ中止、
西田ヲシテ發行セシメルコトニ依リ、
西田ノ攻撃ハ自分ニ對スル攻撃ト變化シ、
次第ニ思想界ニ北、西田派ト大川派ノ二大派ヲ對立分離スルニ至リタルモノト考ヘラレマス。

法務官  「 大川周明ト分離後ノ行動如何 」
大正十三年牧野伸顕ニ對スル問題ニテ西田ト共ニ三ケ月ノ懲役ニ服役後、
思想運動ニ奔走すルヨリハ政治運動ニ變リ、
森恪、安達謙蔵、内田良平等ト交リ、海軍軍縮條約ニ對シテハ海軍省案ヲ支持シ、
樞密院議員ヲ説得シ、同案ニ賛成セシメ、同案通過ニ努力奔走セシモ、
政府案ノ通過ヲ見ルニ至リタリ。
其後ハ時折ノ政治運動ニ關与シマシタ他、信仰生活ニ入リ、
神秘的ナル霊感等ヲ痛感シ、時代ノ先覺者トシテ今日ニ至リマシタ。

外交問題ニ於テ
法務官  「 三月事件、十月事件ニ關係アリヤ 」
三月事件ニハ、全然關係ナシ。
然シ、十月事件ニ關シテハ相當ノ意見ヲ有シテ居リマス。
當時、軍部ノ建川、橋本欣五郎氏等ガアノコトヲ計畫實施セントスレバ、
當然ノコトニ日露戰爭以來幾多ノ犠牲ヲ拂ヒタル満洲ニ於テ政府及元老重臣等ノ
不穏當ナル外交方針ノ爲諸外國ヨリ壓迫セラレ、
特ニ張学良ノ横暴ニ任セ、侮日ぶにち排日ヲ受クルモ忍耐シ來レルガ、
九 ・一八事件ヲ期シ 兵ヲ起シタルニ、元老重臣等惡夢醒メザル爲、朝野ニ對スル反省ノ烽火ト考ヘ、
十月事件ヲ起サズトモ準備計畫ニテ政府ニ對スル充分ナル強壯劑トナリ、
遂ニ今日ノ満洲ヲ建設スルコトガ出來得タルト信ズ。
十月事件ニ際シ蹶起ノ時期ガ外部 ( 関屋區内次官 ) ニ知レアリタルヲ以テ、
自分ハ前日參謀本部ニ建川氏ヲ訪問、時期ノ變更ヲ爲スベキコトヲ忠告ヲ爲シタル他、
西田ヨリ若干ノコトヲ聞イテ居リマス。

法務官  「 五 ・一五事件ニ際シテハ如何 」
五 ・一五事件ニ際シ 何等ノ關係ナク、
西田税ガ何等カノ關係ヲ有シテ居ルノデハナイカト
事件ノ起ル一ケ月前ニ 深入リセザル様注意シオキタルニ、
西田ガ狙撃セラレタルヲ以テ 意外ニ思ツタ次第デス。

法務官  「 血盟團、神兵隊ニ關係アリヤ 」
何等關係ナシ。
法務官  「 靑年將校トノ交際如何 」
靑年將校及軍部關係者トノ交際ハ少數デアリ、
皆西田ノ狙撃事件ニ依リ病院ニテ看護中知己トナツタモノニテ、
栗原中尉、安藤、山口大尉、對馬中尉、磯部、村中 等デアリマシテ、
一年一、二回位、多イ人ニテ一〇回位ノ面接ヲ有スル人々デアリマス。

法務官  「 日本改造法案大綱ノ根本思想ハ今尚同一カ

日本改造法案大綱ハ上海ノ動亂中ニ執筆シタルモノニテ、
今日ノ如キ平時ニ於テハ相當加筆ヲ要スル部分アルト思フモ、
根本的指導原理タル天皇大權ノ發動ニ依リ行フ等ノ點ハ變リアリマセン。
只、今日著述スルナラバ、モット變ワッタモノガ出來ルト思ヒマス。

法務官  「 日本改造法案中、憲法三年間停止ト云フ點ハ如何 」
憲法ノ三年間ノ停止と云フコトデアリマスガ、天皇ハ絶對的ナル現姿神ニアラセラレ、
憲法ヲ超越シタルモノト観察致シマス。
其ノ天皇ガ國家非常時ニ処スル爲、
天皇大權ノ發動ニ依リ國家ノ改造ヲ實行セラレントスル際ニハ、
一事憲法ヲ停止シ大詔ヲ發セラレ、戒嚴令下ニ於テ時局事態ヲ収拾セラレルニ際シ、
不忠ナルモノガ憲法ニ依リ貴衆両議院ヲ中心ニ、
天皇ノ實施セラルル國家改造ノ大權ヲ阻止スルヲ防止スル爲、
論ジテアルモノデアリマス。

法務官  「 被告ハ明治天皇ヲ尊敬シアルガ、
憲法ハ明治天皇ガ天地神明ニ誓ヒ欽定セルモノニテ、
 此ノ憲法ノ停止ハ憲法ノ否認デアリ、
明治陛下ヲ否認シ奉ル我ガ國體ト相容レザル思想ナルコトヲ承認スルヤ 」
明治大帝ニ對シマシテハ絶對的ナル尊敬ヲ為爲スモノデアリマス。
明治大帝ハ
即チ今生陛下デ在ラセラレマス。
今生陛下ガ國家非常ノ際ニ明治大帝ノ欽定セラレタル憲法ヲ一時停止シ、
國家ヲ改造シ永遠ノ安全ニオカレマスコトハ、吾ガ國體ニ反スルコトデナイト確信致シマス。
天皇ハ總テノ上ニタタレテ居リマス。
即チ、憲法ノ上ニ天皇ハオラレルコトデアリ、天皇大權ノ發動ニ依リ憲法ヲ一時停止スルコトハ、
憲法ヲ欽定スルコトト改造セラルルコトハ何等ノ變リナキコトニテ、
停止即チ否認デナイト考ヘラル。
憲法ノ停止ハ天皇ノ大權ニヨリ爲サレルモノニテ、
臣下ニ於テ絶對ニナスモノニアラザルヲ以テ、國體ニ反スルモノトハ絶對ニ考ヘルコトガ出來マセン。
改造法案中ニ三年間ノ停止トアルモ、單ナル手段手法ヲカカレタルモノニテ、
眞ノ精神ハ世界ノ何レノ革命改造史ニモナキ私有財産ノ限度制ヲ採用シタルモノデアリマス。

法務官  「 憲法ノ停止ハ即チ否認ニテ、平時ニ於テ改造法案ノ實現ヲ企圖シアリタル処ヨリ見テ、
 矯激ナル國體ト相容レザル思想ト云フコトヲ得ルナリ 」
絶對ニ平時ニ於テ實現セントスルモノニアラズ。
非常ニ際シ、天皇ノ大權ニテ爲スベキモノニシテ、國民ハ翼賛シ奉ル丈ノモノナリ。
法務官殿ノ申サレマスル法的立場ヨリ停止ガ否認ト云フコトハ、今日迄解シテオリマセンデシタ。
乍然、法務官殿ハ何処ニ陥入レルカト云フコトガ知レマシタ今日、
尚今迄 極刑ニサレマスコトヲ覺悟シマシタ以上、
停止ガ否認デアリ、日本改造法案ノ根本思想ガ矯激ナル思想ト申サレマスルコトヲ承認致シマス。


憲法ノ三年間停止ガ否認ナルコト 及 日本改造法案ガ吾ガ國體ト相容レザル矯激ナル思想ナルコトヲ承認セシメルニアタリ、
約二十分ニ亘リ法務官ト被告論爭シ、理論ニ於テハ結論ヲ得ザルモ被告ハ承認ナシタリ。
法務官  「 靑年將校ハ改造法案ヲ絶對的ニ信ジ居リタルヲ承認スルヤ 」
靑年將校 及 軍人ガ改造法案ニ共鳴スルハ外交問題ニ於テハアルベキモ、
其他ノ手段方法ハ承認共鳴セヌモノデアルベク、
猶、改造法案ガ何ノ程度ニ讀マレテ居ルカヲ承知セザルモ、
靑年將校間ニ讀破セラレアルコトヲ承認致シマス。

法務官  「 靑年將校ガ今般蹶起シ、日本改造法案ノ實現ヲ企圖シタルコトヲ承認スルカ 」
詳シイコトヲ聞カザルモ、今般ノ蹶起ノ趣旨ハ粛軍
即チ兵馬大權ノ干犯者ヲ討ツニアルト聞キマシタガ、
改造法案云々ノコトハ西田、村中ヨリハ聞カナイガ、
警視庁廳、憲兵隊ニ於テ色々ノコトヲ申サレタルノデ、
靑年將校ヲ見殺シニスルコトガ出來マセン故、承認致シマス。

法務官  「 西田ヨリ 十二月中蹶起ノコトヲ聞キタルヤ 」
明確ナル記憶致シマセンガ、其當時ハ相澤公判ノコトデアリマシタ。

法務官  「 蹶起前ニ村中、磯部ニ面接セル狀況如何 」
二月二十二、三日頃村中ガ來タリ、蹶起ノコトヲ話シタル際、
村中ヨリ兵ヲ使用シ蹶起後一地點ヲ占據スルハ國體観念ニ反スルカトノ質問ニ對シ、
不明ナリト解答シ、考ヘ通リ實施シタラ好イト申シマシタ。
磯部ハ其翌日來マシタガ何ノ話モアリマセン。
自分ハ他人ノコトニ干渉スルコトガ嫌ヒデアリマシタノデ、
村中ニ對シ左様ナコトヲ申シ述ベタノデアリマス。

大体事件前ノ事實審理ヲ終了シ、午後四時三十七分閉廷、
次回ハ六日午前九時開廷ヲ申渡シタリ
「 了 」

次頁 ・ 憲兵報告・公判状況 44 『 北一輝 』 に  続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から


暗黒裁判 (二) 「 将校は根こそぎ厳罰に処す 」

2020年10月18日 09時11分38秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


三月十九日 陸軍省は参加下士官兵の取扱いについてこう発表した。
「 叛乱軍に参加した兵千三百六十名は、
おのおのの所属隊に留置し軍法会議検察官において取調中なりしが、
昨十八日 一応取調をおわり千三百二十数名は留置を解除せられたり 」
正確にいってこの叛乱に参加した千三百五十八名の兵隊はどんな取扱いをうけたか。
彼等は二十九日午後にはすべて原隊にかえった。
が、彼等はかつての温かい中隊には入れてもらえなかった。
この叛乱に参加した犯罪部隊として一様に隔離収容されたのである。
そしてこれらの兵の処置については、部内に二つの意見が対立していた。
(一)
彼等には叛乱の意思とその実行があったのだから、
そのことごとくを軍法会議に付し厳正に処断すべきである。
彼等が重臣を殺戮し 軍の中央官衛を占拠した行動は、明らかに軍隊の行動ではなく反乱であり、
その一般軍人軍隊に対し執った行動には一片の同情を持つべきではない。
(二)
彼等が事実上革新に意慾に燃え、積極的にこれに参加したとしても、
それは、自己の自由意志によって、かような革新意識をもつに至ったものではない。
彼等のうち 志願による下士官は別として、
その大部分の兵隊達は、強制徴兵によって入隊せしめられ、
たまたま、革新将校の訓育とその環境によって、こうした意識を育成せられたものである。
ことに、その大部分は まだ入隊二カ月で軍人としての教養は十分でない。
しかも、命令のもとに駆り出されたことも事実である。
だから、純粋な意味での自由意志による犯意を肯定することは酷である。
もし、彼等が他の部隊、他の中隊に入隊しておれば、
かような事態を惹き起こすことはなかったであろう。
したがって 此等の兵隊はこれを不問に付すべきである。

だが、陸軍当局はこの対立する二つの意見のうえに折衷案を採った。
そして、
(一)
参加下士官兵に対しては憲兵において一律に訊問を行なう。
ただし、下士官は一応全員軍法会議に送致しその取調べを慎重にする。
(二)
おおむね左記要目に基づいて訊問し、これに該当すると認めた者に限り、
さらに改めて捜査する。
(1)  どうした考えで反乱行為に参加したか。( 命令によるか、自由意志か )
(2)  人を殺傷したことがあるか。
(3)  上官その他に暴行脅迫したかどうか。
(三)
右の訊問要目にて犯罪に該らないものは即日釈放して原隊に復帰せしめる。
ことに決定した。
このような処置がとられたのは、彼等が強制徴兵によって軍隊に入ったものである以上
このことのためな、一様に犯罪容疑者とすることは、
建軍の必任義務兵制の根基を脅かすものがあったからである。
・中略・
たしかに、下士官兵は軽かった。
寛大にすぎる断罪だった。
陸軍省は七月七日 処刑者第一次の発表において、
「 下士官兵中、有罪者の一部の者にありては、党を結び兵器をとり反乱をなすに方り、
進んで諸般の業務に従事したるものと認められるべしと雖も、
その他の者にありては、自ら進んで本行動に参加するの意思なく、
平素より上官の命令に絶対に服従するの観念を訓致せられあり、
なお、同僚始め大部隊野出動する等、四囲の状況上これを拒否しがたき事情等のため、
やむなく参加し、その後においても、ただ、命令に基き行動したるものにして
今や深くその罪を悔い改悛の情顕著なるものあるを以て、
これらの者に対しては刑の執行を猶予し、
爾余の下士官兵は上官の命令に服従するものなりとの確信を以て
その行動に出でたるものと認め、罪を犯す意なき行為としてこれを無罪とせり 」
といい、
大いにその情状を酌量したことを明らかにした

だが、将校に対しては厳罰だった。
これらの将校二十名は、すでに二月二十九日付を以て位階返上、免官となった。
陸相官邸で自決した野中大尉、熱海陸軍病院で自刃した河野大尉を除く生存者十八名は、
シャム公使館附近に待機して高橋蔵相邸襲撃には直接参加しなかった今泉中尉、
それに村中、磯部、水上らの常人十名と共に、起訴予審に付せられ
七月五日判決の言渡しがあった。
香田大尉以下十三名は死刑、麦屋少尉以下五名は無期禁錮、
村中らの常人は、村中、磯部、渋川、水上が死刑、その他は禁錮一五年という重刑だった。
(山本又は十年)

この第一次直接参加者の処罰についで、
七月二十一日 第二次処分を発表したが、反乱者を利したものとして
山口大尉が無期禁錮、その他の将校五名が、四年から六年の禁固刑に処せられた。
さらに、翌十二年一月十八日には 第三次処分として、
満井佐吉、齋藤瀏、菅波三郎、大蔵栄一、末松太平といった将校七名が、
それぞれ五年以下の禁固、常人としては福井幸ほか六名が三年以下の禁固となった。
この場合、大蔵大尉のごときは、
遠く朝鮮の辺疆へんきょうで将校団の若い者に働きかけたというので禁錮四年、
末松大尉のごときも、
青森から電報で叛乱軍を激励したというので禁錮四年の実刑を受けたのであるから、
叛乱将校と同志関係にあった錚々たる皇道派将校は、
根こそぎに厳罰に処せられたということになる。
八月十五日の号外
八月十四日 軍法会議は北一輝、西田税に死刑、亀川哲也に無期禁錮、
そして山形農民同盟の中橋照夫に禁錮三年を言渡し、
ついで九月に入って真崎大将の無罪を判決した。

こうした東京軍法会議は一年八カ月にわたってこの事件の審理にあたったわけであるが、
その間、有罪としたもの軍人関係七十九名、常人関係二十一名、総計百名に及んでおり、
なかんずく、死刑十九、無期七という重罰者を出しているのである。
もってこの軍法会議が、いかに峻烈苛酷であり、
しかも将校の責任を重視したかを窺知きちすることができよう。
それだけではない、そま裁判の進行は驚くべきスピードであった。
これを直接参加者にみても
起訴者百二十三名の大量を わずか百日内外で捜査、予審、起訴、公判とかたずけているし、
支援ないし背後関係者にしても、すでに書いたような処罰だけでなく、
現役軍人として不起訴になったもの、平野助九郎少将以下十名、
無罪になったもの柴有時大尉以下九名に及んでいるのである。
これでは、いかに精力的な法務官や判士であっても到底その任に堪えるものではない。
そこでは拙速主義に徹して審理を尽さず裁判という形式でお茶を濁したとも極言できよう。

一方、事件の行政責任については、
三月六日、
林、荒木、真崎、阿部の四軍事参議官は待命となり、
つづいて関東軍司令官南次郎大将も、
また陸軍大臣川島大将、侍従武官長本庄大将も軍を去った。
四月に入ると
戒厳司令官香椎中将、憲兵司令官岩佐禄郎中将、近衛師団長橋本中将、
第一師団長堀中将らも待命となり、
叛乱部隊を出した歩一、歩三 両聯隊長、歩一、歩二 両旅団長らも責任退職した。
こうして陸軍の首脳部は
西義一教育総監、寺内寿一陸軍大臣、植田謙吉関東軍司令官の三大将を残すのみとなったが、
さらに、この年八月、
寺内陸相によって断行された粛軍人事は三千余名に上る大異動だった。
第四師団長建川美次中将、陸軍大学校長小畑敏四郎中将を始めとする、
かつての革新運動に躍った人々は、それが佐尉官級にまで粛正せられたのである。
しかし、過去において、とかくの革新のいわくつきの人々を一掃した、この粛軍人事も皇道派に重かった。
そこにはもはや皇道派の名のつく人々の存在を許さなかったのである。
だから、この粛正は必ずしも公正なものでなかった。
この粛正が皇道派に偏し かつての統制派 (清軍派)幕僚に対しては余りにも行われなかったからである。
ことにいわゆる三月事件、十月事件の幕僚の多くは無疵だった。
こうしたことが、この粛軍は寺内陸相をあやつる幕僚群の皇道派潰滅策だといわれた所以であり、
また、真崎大将がしばしば生前言っていた
「 俺は彼等の術策に乗せられたのだ 」
との言葉は この意味において理解されるのである。

次頁 
暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」  に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 兵は寛大、将校は厳罰 から


憲兵報告・公判狀況 42 『 西田税 』

2020年10月17日 12時14分17秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)


西田税
・・・ 憲兵報告・公判状況 41 『 西田税 』  の 続き

第三回公判狀況
二 ・二六事件公判開廷狀況ニ關スル件 ( 第五公判廷 )

十月三日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税、龜川哲也
 出廷、
仝九時吉田裁判長以下着席、開廷ヲ宣シ、直チニ被告西田税ノ事実審理ニ入ル


法務官ノ事實審理ニ、被告西田ハ前日ノ陳述中事實と相違スル點ヲ申述ブ
一、二月十六日龜川宅ニ於テ山口大尉、龜川、西田ノ三名ニテ相澤中佐公判ニ際シ
 林大將出廷後ノ処置ニ就キ、山口大尉ガ本庄大將宛ノ申言ハ誤リニテ、
佐藤裁判長ニ對スル相澤公判ノ意見書作製ナリ。
二、北輝次郎宅ヲ訪問シ、十二月中旬ニ第一師團渡満前ニ於ケル一般靑年將校ノ動靜ヲ申述ベタリトアルハ、
 相澤公判ニ對スル靑年將校ノ動靜観察ノ概要ナリ。

法務官  「 二十五日中ノ行動ヲ申述ベヨ 」
二十五日午前中磯部ガ來宅シ種々話ヲナシタル際、
澁川善助ヲ事件ニ參加セシメザル様説得シ、磯部モ諒解、
澁川ノ妻君ニ手紙ヲ渡シ、
歸京後電話セシメル様連絡セリ。
其後、北氏宅ヲ訪問シ、靑年將校ガ明朝蹶起スル旨ノ概要ヲ報告辭去シ、
千坂中將ノ通夜に參加セントシモ、他人ノ通夜ヲ斷ラレタルヲ以テ自宅ニ歸リタル時、
福井幸、赤澤兩名ニ留守ヲ依頼シ、午後五時三十分龜川宅ニテ村中ト會ヒ、
前日申上ゲマシタ通リ一千五百圓ヲ村中ニ龜川氏ヨリ与ヘサセ、
自宅ニ居ルハ危驗ト感ジ、再ビ北方ヲ訪問シ宿泊スベク準備中、
澁川ヨリ午前一時ニ電話アリ、湯河原ヲ引揚ゲ歸京ノ報ニ接シ、
仝人ノ落附イタ態度ニ依リ安心シ、明朝蹶起状況ノ調査方ヲ依頼ス。
仝夜ハ北方ニテ夜ヲ明シ、
午前四時十五分頃澁川ヨリ部隊ガ續々出發シアル事ノ報告ヲ受ケ

同志岩田富美夫ニ電話、來宅ヲ依頼協議ス。

法務官  「 二十六日中ノ行動ヲ申述ベヨ 」
岩田富美夫ト北方ニ面接、自己ノ避難場所ヲ仝人ノ親族タル巣鴨ノ木村病院ニ選定、
仝所ニ赴キ諸所ト聯絡、情報蒐集ニ從事ス。
仝日午前七時頃小笠原長生子爵ニ事件ノ概要ヲ電話ニテ報告シ善処方ヲ依頼ス。
午後首相官邸ノ栗原中尉ニ聯絡セルニ非常ニ平靜デアリ、
部隊ハ永田町一帯ニアル事ヲ聞キ、意外ニ驚キ、村中ニ聯絡セルモ同様デアリマシタ。
仝夜ハ澁川、村中等ヨリ情報ヲ聞クト共ニ、外部ノ狀況ヲ通知シテヤリマシタ。

法務官  「 二十七日中ノ行動ヲ申述ベヨ 」
二十六日夜ハ情報蒐集ニ從事シ、二十七日午前中、村中、栗原ニ電話ニテ聯絡セルニ、
大臣告諭モ發セラレ戒嚴部隊ニ編入セラレ、宿舎及衣服、食料等モ部隊ニテ給与シアルトノ事ヲ聞キ、
自分ノ豫想トハ全然相違シ官軍トナツタ事ヲ知リ、不思議ナ事ガ出來タト考ヘマシタ。
仝日ハ一般ノ情報ヲ蒐集シ、綜合シテ、事件ハ進展スルト考ヘラレマシタノデ、
北氏宅ヲ訪問、種々話ヲシマシタ。

法務官  「 其後ノ行動ニ就イテ申述ベヨ 」
北氏夫人ノ靈感作用ニ依リ得タル神靈、
 『 人ナシ、勇將眞崎大將アリ、總テヲ一任セヨ 』 
ト云フ事ヲ栗原中尉ニ傳達セントセシモ不能ニテ、首相官邸ニ據リタル磯部ニ傳達スルト共ニ、
軍事參議官トノ會見顚末及片倉少佐狙撃ノ狀況其他一般狀況ヲ聞キマシタ。
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・・・リンク→西田税、蹶起将校 ・ 電話連絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』

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法務官  「 青年将校ニ對シ眞崎大將ニ一任ノ件ハ、行動及時局収拾ノ全部ヲ傳ヘ、指導シタルヤ 」
靑年將校等ガ蹶起後三日間ノ狀況ヲ見マスト、自分達ガ今迄唱ヘテ來マシタ説トハ全然相違シテ、
戒嚴部隊ニ編入セラレ義軍トシテ認メラレ、陸軍大臣ヨリ表彰狀ノ様ナ告諭ヲ受ケアリ、
一般ノ狀況ハ良好ナルガ、靑年將校等ノ蹶起ノ趣旨ハ粛軍ニアルニ、
二十七日、八日ノ軍事參議官ノ會見模様等ヨリ見テ政治問題ニ關与シアルヲ以テ、
内爭ノ結果不利ニ陥ルベシト感ジ、全部ヲ眞崎大將ニ一任シ直チニ現場ヲ引クベキデアルト感ジ、
行動及時局収拾全部ヲ仝大將ニ一任スル様傳ヘタルモノナリ。
法務官  「 青年将校ヨリ眞崎大將ニ一任ハ行動ニ非ず、時局収拾ノミニテ然ルベシ
ト被告ニ電話アリタルニ際シ、被告ハ時局収拾ダケデ可ナリト申シタリト云フガ、如何 」
詳シイ事ハ忘レマシタガ、自分ハ一刻モ早ク現地ニ居ル事ヲ避ケ、一地點ニ引揚ゲ、
其後ノ事ヲ眞崎大將ニ一任セヨト申シタルノミナリ。
法務官  「 西田ハ龜川、村中等ト協議シ、柳川中將ノ件ニ就キ意見述ベタリト云フガ、如何 」
柳川中將ノ件ハ村中ヨリ電話ニテ聞キタルノミニテ、協議シタル事ナク、
只、臺灣ヨリ柳川中將ヲ招致スルハ事態収拾ニハ適セズト村中ニ申述ベタル事アリ。

法務官  「 一部靑年將校ノ蹶起後ノ行動ヨリシテ成功スルト感ジタカ 」
非常ニ意外ニ思ヒ、大臣告諭、戒嚴部隊編入、食料ノ部隊給与等ヨリ見テ
一時ハ成功スルト感ジマシタガ、 不思議デナリマセンデシタ。
昨日靑年將校ノ部隊私用ハ統帥権干犯ニテ、日本臣民タル者ハ身ヲ以テ阻止スベキ事ナリトアリマシタ。
今般ノ靑年將校蹶起ニ際シ、大臣告諭ヲ与ヘ、戒嚴令 ( 天皇大權ノ發動 ) ニヨリ明カニ
戒嚴部隊ニ編入シタル者ヲ、後ニ逆賊トシテ討伐スル事ハ絶對ニアルベキデナイト確信シマス。
如何ナル事情アルトモ皇軍ヲ私用シ蹶起シタル以上、如何程犠牲ヲ払フモ、
皇軍トシテハ最初ヨリ徹底セル斷ノ一字デ臨ムベキデアルト考ヘマス云々 
ト論ジ、
法務官  「  今般ノ事件ニ際シ、被告ハ電話等ニ依リ 靑年將校ヲ指揮指導シタリト云フ事ヲ得ベシ 」 トノ言ニ對シ、
外郭ノミヨリ観察スルトキハ其ノ様ニ見ヘ、事實ハ
相違ス。
ト 論爭ノ末、結局、指導シタル事ヲ承認ス

午後三時事実審理ヲ終了
次回ハ五日午前九時開廷スル旨申渡シ、閉廷セリ
( 了 )

次頁 ・ 憲兵報告・公判状況 43 『 北一輝 』 に  続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から


憲兵報告・公判狀況 41 『 西田税 』

2020年10月16日 12時14分17秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)


西田税
・・・ 憲兵報告・公判状況 40 『 北輝次郎、西田税、亀川哲也 』  の 続き

第二回公判狀況
二 ・二六事件公判開廷狀況ノ件 ( 第五公判廷 )

十月二日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税
 出廷、
仝九時吉田裁判長以下着席、直チニ開廷ヲ宣シ、呼名點呼ノ後、
西田税ノ事實審理ニ入ル

國家ノ改造ハ非合法手段ニ依リ實現セラルベキモノニアラズ。
明治維新ニ於テモ非合法ノミニテ實行セラレタルニアラズ。
日本改造法案大綱ニ特筆大書シテアル如ク、
國家ノ改造ハ天皇大權ノ發動ニ依リ實現セラレ、國民ハ翼賛シ奉ルニアリ。
軍隊ガ改造ノ中心ニナルハ我ガ國體ニ反スルモノニシテ、
在郷軍人ヲ主體トシ、軍隊及學生、經濟學者其他ノ者ハ各々自己ノ立場ヲ理解シ、
改造ノ氣運促進ニ努力スベキナリ。
國家改造ノ中心ハ矢張リ經濟、政治ノ改變ニアリ、
北氏ノ改造法案大綱中 私有財産ノ限度制ハ最モ重要適切ナルモノナリ。
一般ニ改造運動者ハ現狀打破ヲ知リ、建設ヲ知ラザルモノナリ。
北氏ハ現狀打破ヨリ建設計畫ニ重點ヲ置キ論ジアリ。
自分ハ日本改造法案大綱ニ基キ國家改造運動ニ一生涯ヲ捧グルモノナルガ、
絶對ニ非合法手段ヲ採用セズ。
合法的ニ國民運動ニ依リ天皇大權ヲ輔佐シ奉ルノ外ニ他意ナシ。

法務官  「 非合法運動ヲ阻止シタル具體的例ヲ述ベヨ 」
1、十月事件ニ際シ、蹶起計畫ノ
當日幹部多數檢擧セラレタルニ、
 殘餘ノ栗原中尉以下ノ靑年將校相集リ蹶起セント準備中ヲ菅波大尉ト共ニ中止セシム。
2、五 ・一五事件ニ際シ直接行動ヲ阻止セントシニ、狙撃セラレタリ。
3、昭和九年栗原中尉戰車隊ニ勤務中、戰車十數臺ヲ引卒行軍途中、大森附近宿營ノ豫定ニ際シ、
 實包其ノ他ヲ準備、西園寺、牧野伸顕等元老重臣ヲ襲撃セントセシヲ、
大蔵大尉阻止セント説得ニ當リタルモ不可能ナルヲ以テ、
栗原中尉ヲ招キ非合法ノ非ナルコトヲ説キ、中止セシム。
4、埼玉挺身隊事件ニ際シ、
 栗原中尉 埼玉県ノ在郷軍人、學生ヲ煽動、 事件ヲ惹起セントセシヲ、
栗原中尉、水上源一、綿引等ヲ招致、説得中止セシメタルガ、
埼玉マデ傳フル事出來ズ、挺身隊事件トナル。

法務官  「 昨年十二月村中孝次ヨリ靑年将校ノ動靜ニ就ヒテ聞キタル狀況 」
第一師團明春渡満スル、此ノ裏面ニハ中央部ニ於ケル種々ナル策動アルトノ事ヲ聞キマシタ他ハ、
相澤中佐ノ公判ノ事ニ就キ種々協議シタルノミナリ。
法務官  「 事件蹶起ヲ知リタルハ何時カ 」
二月中旬 栗原中尉ト面接セル際、蹶起ニ對スル決意固ク、
他ノ靑年將校及下士官兵マデ同様ナル信念ナリトノ事ヲ聞キ、
今度ハ蹶起スルヤモ知レズト感ジ、一度ハ栗原中尉ヲ説得致シマシタガ、不可能デシタ。
安藤大尉ニ面接シ、靑年將校蹶起ノ有無ヲ訊スベク會談致シマスト、
仝大尉モ心ヨリ單ニ蹶起ノ事ニ就キ語リ度キ希望ヲ洩シマシタ。
仝大尉ハ野中大尉ニ靑年將校ノ動靜ヲ申述ベタルニ、
野中大尉ヨリ蹶起ノ時期最モ良好ナリトノ事ヲ聞キ決意シ、
中少尉及下士官兵ノ啓蒙運動ハ充分ニナシアリ、
今度貴兄 ( 西田 ) ガ阻止スレバ殺害シテモ目的ヲ貫徹スル旨ヲ聞カサレ、
靑年將校等ノ決意ノ徹底セル事ヲ知リマシタ。
法務官  「 村中、磯部等ノ會合狀況 」
村中トハ相澤公判ノ爲メ 常ニ面接シテ居リマシタガ、
事件ノ事ニ就テハ二月十六日ニ靑年將校等ノ動靜ニ就テ、
二月二十六日襲撃目標決定ニ就テ聞キマシタ。
二月二十五日別離ノ挨拶ニ來リタル際、龜川宅ニテ蹶起後ノ処置ニ就テ龜川、村中ト協議、
下士官兵ノ食事ノ準備ナク、尚、資金ナキ由ニテ、龜川氏ヨリ一千五百圓ヲ手交セシム。
磯部トハ村中ト同様常ニ往來シテ居リマシタ。
今般ノ事件ニ就テ話シヲ聞キマシタノハ、
二月十八日ト仝二十三日ニ蹶起ノ時期ヲ置手紙ニナシ通知シテ呉レタル外、
襲撃目標タル牧野伸顕ノ動靜視察ニ澁川善助ヲ從事セシメアル狀況ニ就キ聞キ、
仝人ヲ無關係ニ置ク様懇願セリ。

法務官  「 龜川哲也トノ關係 」
龜川哲也氏トハ以前ヨリ承知シテ居リ、相澤中佐ノ公判開廷ニ及ビ一層聯絡ヲ取ルヤウニナリマシタ。
二月二十三日事件蹶起前ノ靑年將校ノ動靜ヲ話シ、
蹶起後ノ時局収拾ノ選定ニ關シ協議、柳川中將、眞崎大將ノ適任ナル事ヲ話シ、
二月二十五日蹶起前夜、下士官兵等ノ食糧費不足ナルトノ事ニ依リ、
仝人ヨリ一千五百圓ヲ村中氏ニ与ヘシメ、自分ハ百圓ヲ借用ス。
法務官  「 蹶起前ノ上部工作ニ就テ 」
山口一太郎大尉及龜川哲也ト私シノ三名ニテ會合セル際 ( 二十四日 )、
蹶起後ハ急速ナル時局収拾ヲ必要トス、之レニ關シテハ事前ニ上層部ノ工作必要アリトナシ、
山口大尉ハ義父本庄大將
龜川哲也ハ眞崎大將、山本英輔大將
自分ハ小笠原長生閣下
等、各々上部工作ノ役割ヲ決定シ、
其ノ趣旨ニ基き靑年將校等ノ動靜ノ一部ヲ電話ニテ申述ベマシタ。
法務官ハ
「 被告西田ガ常ニ説キアル國家改造ノ趣旨ニ依レバ、
 絶對的ニ非合法ヲ排シ、合法運動ニ邁進、 國民ノ輿論ヲ國家改造ニ導キ、
以テ天皇大權ノ御發動ニ依リ 日本改造法案大綱ノ原理ニ基キ實現スルト云フガ、
今回ノ被告ノ行動ハ今迄直接行動ヲ阻止シ來リタルト云フモ
青年將校 及 村中、磯部等ノ動靜矯激ニ亘ルヲ察知シ、
具體的計畫ヲ樹立シアルヲ知ルモ、身ヲ以テ阻止スルコトナく、
一度軍隊ヲ私用シ蹶起スレバ我ガ歴史ニ一大汚點ヲ印シ、
天皇ノ兵馬ノ大權ヲ干犯スルモノナリト感ジ、阻止セザルハ、
青年將校等ノ迷ヲ黙認シタルモノニシテ、
今マデ今日アル事ヲ豫期指導シテ來リタルモノト斷言セラレテモ 他ニ辯明スル餘地ナカラン 」
ト論及シタルニ對シ、西田ハ
五 ・一五事件以來極力直接行動ヲ否認シ阻止シ、
軍隊亦ハ一部右翼ノ民間團體ガ蹶起直接行動ヲナスモ  國家ノ改造ハ達成セラレズ、
我が國ハ他ノ諸外國ト相違シアリト説得ニ説得ヲナシ來リタルガ、
今回ハ自己ガ如何ニ阻止セントセシモ、靑年將校ノ決意固ク、
亦、一般ニ改造意識昂リアリシヲ以テ、數回説得セシモ、自己ノ力ニハ及バズ、
已ムニ已マレヌ心境ニテ二十六日午前五時トナリタルモノニテ、
今マデ軍部竝ニ一般ヨリ直接行動アル毎ニ自分ガ背景タル事ヲ一般ニ言ハレタルヲ以テ、
今度ハ總テノ終リナリトモ考ヘタリ云々
ト 事件前ノ行動ニ關シ、亦、心境ニ關スル陳述ヲナシ、
午後四時15日分終了、閉廷セリ
次回ハ三日午前九時開廷スル旨申渡サル
( 了 )

次頁 ・憲兵報告・公判状況 42 『 西田税 』 に  続く
二 ・二六事件秘録 ( 三 ) から


暗黒裁判 (三) 「 死刑は既定の方針 」

2020年10月16日 09時06分41秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


已に軍法会議の構成も定まりたることなるが、
相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却て累を多くす、
此度の軍法会議の裁判長及び判士には、
正しく強き将校を任ずるを要すと仰せられたり 
・・・本庄日記三月四日


二月二十九日夕刻
代々木軍刑務所に収容された叛乱将校たちは、
憲兵の強制捜査によっていっせいに訊問を受けた。
憲兵は三月二日には軍法会議に事件を送致した。
それから予審官の手によって予審から始められた。
予審官は日曜休日も無休で訊問を行ったが、
一人の被告に多くの時間をかけることができない。
なにしろ 百二十三名の第一次裁判は
陸軍省の方針としては 約一カ月半を予定していたのであるから、
事はいそがねばならない。
この予審がおわったのが四月中旬、
それから公訴が提起され公判が始まったのが四月二十八日。
香田大尉以下二十三名は一号法廷第一班で左の裁判官により裁判をうけた。
判士長  騎兵大佐 石本寅三 (陸軍省)
判士     兵科将校四名
法務官  藤井喜一 (近衛師団)
検察官  竹沢卯一 (近衛師団)
公判廷は四月上旬 軍刑務所に近い代々木練兵場の一隅に急造されたが、
鉄条網で二重、三重に囲まれ、その公判には各所に機関銃をすえた歩哨が立つという、
ものものしい警戒ぶりだった。
だが、その審理は全くの急速調で、
一人一人に同じことを審理するのは時間的に無駄だというので、
被告人たちの互選で代表者だけに応答させ、
異論のある場合だけ手をあげて各被告人に発言させた。
こうして一カ月あまりで結審となり、六月五日には求刑されたのである。
しかも、この求刑があってから一カ月後の七月五日には、
もう判決を下してしまったのである。
こんな裁判であったから、彼等被告たちの怒りははげしかった。
もともと、彼等は公判闘争を誓って自決を思いとどまったのであるから、
大いに冒論をもって闘うことを決めていた。
だが、それはすっかり当てがはずれたうえ、この極刑となったので、
憤激はひととおりではなかった。

清原少尉は
「 ある日 渋川善助がたまりかねて絶叫した。
『 裁判長、裁判長が職務としてやっておられることはわかりますが、
この裁判は一体なんですか、私たちが命がけで国のためにやってきたことが、
まるで泥棒以下のような裁判ではないですか、
同志の中には裁判官を勤めてきた将校もおります。
なぜ、二・二六が起り、そして二・二六の経過はなぜあのようになったかを
天下に明らかにし 生きた裁判をすることができないのですか 』
『 この裁判は特別軍法会議で一審制であり 上告はできないし、
非公開、弁護人なしということは、裁判の当初にきめられていたことで、いかんともしがたい。
しかし 君たちがいうことは制限しないし、なんでも裁判長は聞くつもりだから、
思う存分いってくれ 』
云い終った裁判長の眼には涙が浮んでいた。
裁判長の気持を察して渋川もうなだれてしまった 」 ・・清原手記
と、伝えている。
栗原安秀は
「 そもそも今回の裁判たるその惨酷にして悲惨なる昭和の大獄にあらずや。
余輩青年将校を拉致し来り これを裁くや、
ロクロク発言をなさしめず、予審の全く誘導的にして策略的なる
何故にかくまでなさんと欲するか。
公判に至りては僅々一カ月にして終り  その断ずるところ酷なり。
政策的の判決たる真に厳然たるものあり。
既に獄内に禁錮し外界と遮断す、何故に然るや 」
と 遺書している。
安藤輝三は
「 公判は非公開、弁護人もなく ( 証人の喚問は全部脚下せられたり )
発言の機会等も全く拘束され、裁判にあらず捕虜の訊問なり。
かかる無茶な公判なきことは知る人の等しく怒る所なり 」
と、鋭く裁判の不当を衝いている。
このような、将校たちの裁判へのいかりは、おしなべて、その遺書につづられているが、
しかし、その中に一貫して流れるものは
この裁判が初めから極刑という既定の方針をもって臨み、
これに都合のよいように、予審から公判まで誘導したものだとしていることである
村中孝次は、
「 渋川氏は一として謀議したる事実なきに謀議せるものとして死刑せられ、
水上氏は湯河原部隊にありて部隊の指揮をとりしことなく、
河野大尉が受傷後も最後まで指揮を全うせるに拘らず、
河野大尉受傷後 水上氏が指揮をとりたりとて死刑に処したり、
噫、昭和現代における暗黒裁判の状かくの如し、これを聖代とてうべきか--」 ・・続丹心録
と、この裁判がことさらに極刑にするために事実を歪曲した点を指摘し、
磯部浅一は、
「 新井法務官が七月一一日安田優君に
北、西田は二月事件に直接関係はないのだが、
軍は既定の方針にしたがって両人を殺してしまうのだ
と いうことを申しました。
軍部が彼等の自我を通さんがために、ムリヤリに理窟をつけて、陛下の赤子を殺すのです。
出鱈目とも 無茶ともいう言葉がありません。
軍の既定方針とは何でありましょうか 」 ・・獄中手記
と 訴えている。
すなわち、軍、とくにその幕僚は
すでに全員の死刑を方針として、初めから臨んでいたので、
ただ、裁判は これに理由をつけるためのもの、
しかも 死刑にするためには事実まで曲げているのだというのだ。
しかも、このような軍幕僚の策動は、至るところにあったとして、
磯部はこんな事例まで挙げている。
「 大蔵大尉以下数名の同志は不起訴になることにきまっていて、
前日夕方迄は出所の準備をしていたのですが、
陸軍省の幕僚が横車を押してムリヤリに起訴してしまいました 」 ・・獄中手記
幕僚の策動といえば、
のちの真崎ケースでもその疑いがあるように、
真崎大将はその遺書 「 暗黒裁判 」 に 述べている。
「 十二月二十七日には看守長 加藤髙次郎君が私の室に来り、
『 検察官より釈放の命令がありましたから、只今物品の整理中です 』
と 内報してくれた。
他に二、三の看守も同様のことを洩らしてくれたので、私は大いに待ったのだが、
結局、いつまで待っても何とも申して来らず お流れになった。
後で聞けば 陸軍大臣より電話にて停止命令が来たそうである。
しかして公訴提起となった 」

軍がこの事件に臨んだ態度は、初めから峻厳であった。
したがって東京軍法会議が厳罰方針を堅持しておったことは事実であるし、
また、この公判には常に陸軍省の圧力がかかっていたことも蔽えない。
裁判官はその良心に従って判決するというけれども、
陸軍大臣を長官としたこの軍法会議では、陸軍省法務局はその補佐機関であり
これに軍務局 とくに軍事課、兵務課あたりの発言も力強く作用したことである。
そこでは初めから死刑を既定の方針としたことは、その確証のないかぎり、
にわかに断定することはできないにしても、軍が厳罰方針を確立していたこと、
また 軍法会議が中央の方針に忠実であったことは、間違いのないことである。

次頁 暗黒裁判 (四) 「 裁判は捕虜の訊問 」  に 続く
大谷敬二郎著 二・二六事件の謎 裁判へのいかり  から


憲兵報告・公判狀況 40 『 北一輝、西田税、龜川哲也 』

2020年10月15日 08時41分10秒 | 反駁 2 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況憲兵報告)

   
北一輝         西田税          龜川哲也 
・・・ 憲兵報告・公判状況 23 『 判決、香田清貞以下二十三名 』  の 続き

第一回公判状狀況
二 ・二六事件公判開廷狀況ニ関スル件 ( 第五公判廷 )

十月一日午前八時五十分 被告北輝次郎、西田税、龜川哲也等
 出廷、
同九時吉田裁判長以下着席、直チニ開廷ヲ宣シ、身分調ヲ爲シタル後、
北輝次郎、西田税ニ對スル叛亂被告事件、龜川哲也ニ對スル叛亂ヲ利ス被告事件ニ就キ、
檢察官ヨリ公訴事實ノ開陳アリ
後、檢察官ノ事實審理ニ入リタリ

一、北輝次郎ニ對スル公訴事實
被告北輝次郎ハ漢文學ニ趣味ヲ有シ、中學當時ヨリ著述ヲ能クシ、思想問題ヲ研究シ、
國體論及純正社會主義ヲ著述シ、其ノ名ヲ天下ニ知ラレタルガ、
被告ハ日本ノ現狀ハ一部特權階級ニ依リ誤レル指導ヲ受ケアルハ、
世界大戰後ノ 「 獨乙 」 及 「 ロシア 」 ト同様我ガ國家モ破滅スベシトノ思想ヲ抱持スルニ及ビ、
痛烈なる筆法に依り一部特權階級の打倒を計り、經濟、政治機構の大革命をなすべしとなしある内、
支那亡命革命者孫逸仙ト相交ルニ及ビ 支那第一革命ニ參加シ、
自己ヲ任ジテ革命ノ第一人者トナシ、世界大戰後ノ經濟界、政界ノ實情ヲ研究、
國家改造ノ絶對的必要性ヲ痛感シ、
上海ニ於イテ支那革命外史 及 日本改造法案大綱 等ノ矯激ナル思想ヲ有スル著書ヲ發表シ、
之ガ實現ノ爲メ思想運動者等ト相交リ、
又ハ相集ル一部靑年將校等ニ改造法案大綱ヲ示シ、思想的啓蒙運動ヲ爲シ、
國家改造ニ大ナル關心ヲ有スル西田税ヲ相接近スルニ及ビ、
同人ヲ通ジ全國ノ靑年將校等ト交友シ、自己ノ抱持セル日本改造法案大綱ノ實現化ヲ企圖中、
昨年八月相澤中佐事件發生後ノ軍部ノ動向及靑年將校等ノ動靜ニ就キ注視中、
昨年十二月西田税ヲ通ジ村中、磯部ヲ中心ニ近衛、第一師團管下ノ靑年將校等相計リ
明春蹶起スルトノ事ヲ聞キ、時期ニアラズトシ、一時靜止セリ。
(一)  今年二月十八日西田税ヨリ村中、磯部、安藤、栗原等ノ靑年將校等相計リ
 統帥權干犯者及君側ノ奸ヲ除去スル爲 第一師團渡満前ニ蹶起スルトノ事ヲ聞キ、
「 兵馬大權ノ干犯者ヲ討ツハ大義名分ニ恥ジズ、他ハ枝葉末節ナリ 」
トノ神靈アリトテ、靑年將校ノ蹶起ノ決意ヲ煽動セリ。
(二)  二月二十五日 西田税ヨリ、明朝五時ヲ期シ 一濟ニ蹶起シ、
 兵馬大權ノ干犯者及君側ノ奸タル渡邊敎育總監、鈴木侍從長、牧野伸顕、
岡田首相、高橋蔵相、齋藤内大臣等ヲ襲撃スルトノ事ヲ聞キ、
「 君側ノ奸除カレ皇居ヨリ御稜威輝ク 」
云々ノ神靈アリト傳ヘ、靑年將校等ニ蹶起ニ對スル精神的援助ヲ与フ。
(三)  二月二十七日 村中孝次ヨリノ電話ニ接シ、
 時局収拾ハ一刻ヲ爭フモノナリ、現狀ヲ柳川臺灣軍司令官ノ首相等ハ斷念シ、
眞崎大將ニ一任スベク努力スベシトノ上部工作ニ對スル指導ヲナス。
(四)  二月二十八日 村中孝次ニ電話ヲ以テ、青年將校ノ自決ヲ中止スベシ、
 神霊ニ依リ、
「 勇將真崎大將アリ、總テヲ一任セヨ 」
トノ事アリタリト傳ヘ、自決ヲ中止セシメタル他、上部工作ニ對スル一大指針ヲ与ヘタリ。
自己ノ抱持セル國家改造法案大綱ノ實現ヲ爲サシムベク、
純眞ナル靑年將校ヲ啓蒙シ、帝都ヲ擾乱じょうらんシ、國憲、國法ニ抗セシメタルモノナリ。

二、西田税ニ對スル公訴事實
被告西田税ハ幼年學校ヲ經テ陸軍士官學校ニ學ビ、
大正十一年騎兵少尉ニ任官、騎兵第二十七聯隊附トナリタルガ、
大正十三年依願豫備役ニ編入セラレタルモ、
陸軍士官學校在學中ヨリ社會問題、フランス革命等ニ關心ヲ有シ研究シ、
北輝次郎ト交際シ、思想問題ヲ研究、
豫備役編入後ハ、大川周明、満川亀太郎ヨリ招カレ仝人等ノ組織スル猶存社ニ關係後、
行地社雑誌 「 日本 」 ノ編輯ヲ担當スルニ及ビ 急進日本主義ヲ鼓吹シ、
國家改造ノ必要性ヲ説キアル中、
三月事件ヲ聞知、橋本欣五郎等ト相結ビ 十月事件ニ關係、
後 五 ・一五事件關係者ノ蹶起ヲ阻止シ狙撃セラルルニ及ビ、
我ガ國家ハ北一輝著 日本改造法案大綱 ノ實現化ニ依リ國家ヲ改造スベキトナシ、
仝論ヲ盲信シ相集ル同志及一部靑年將校等ニ日本改造法案大綱ノ説明ヲナス外、
國内特權階級ノ横暴専横ヲ打殪シ 一氣ニ國家改造ヲナスベシ等ノ矯激ナル思想を鼓吹、
同志ノ獲得ニ努メタリ。
(一)  昨年十二月初旬 村中孝次ヨリ近衛、第一師管下ノ靑年將校等相計リ、
 明春第一師團渡満前ニ蹶起シ、
兵馬大權干犯者及君側ノ奸ヲ除去スルコトノ氣運進捗シアリトノ狀況ヲ聞キ、
此レヲ北輝次郎ニ報告スルト共ニ、此ノ機ニ國家改造斷行スベキト即斷セリ。
(二)  二月十八日 西田方ニ於テ村中孝次、磯部淺一、栗原安秀等ヨリ近日中ニ蹶起シ、
 兵馬大權干犯者、君側ノ奸ヲ襲撃スルトノ計畫具體化シアルヲ聞キ、
制止不可能ナルヲ察知シ、北輝次郎ヨリ神靈ナリトテ、
兵馬大權干犯者ヲ討ツハ大義名分ニ基クモノナリト傳ヘ、決意ヲ固メラシメタリ。
(三)  二月二十三日 村中孝次ヨリ襲撃目標ニ就キ説明ヲ受ケタル際、
 襲撃目標ハ最小限度ニナシベシ、第二襲撃ハ實施セザル様ト襲撃ニ就テ指導ヲナシタリ。
(四)  二月二十五日 村中孝次 別離ノ挨拶ニ赴キタル際、 龜川哲也宅ニ於テ協議スル事ヲ約シ、
 仝日午後龜川宅ニテ村中、龜川、西田三名ニテ蹶起後ノ処置ニ就キ協議決定シ、
龜川哲也ヨリ資金千五百圓ヲ貰ヒ受ケ、村中ニ与ヘ、百圓ヲ龜川ヨリ受領セリ。
(五)  二十六日蹶起後北輝次郎ト共ニ上部工作ニ對スル指令ヲ与ヘタル外、
 電話ニテ海軍側ノ意見一致セシメ蹶起部隊ヲ支援セシムルベク小笠原中將ニ依頼セル外、
山本英輔大將ヲ海軍省ニ電話シ、上部工作ノ支援ヲ依頼セシメタリ。
(六)  二十七、八日ニ亘リ外部的援助ヲナシ、
 眞崎大將ヲ中心トスル協力ナル軍部内閣ヲ組織セシムルベク指導スル一方、
蹶起靑年將校等ノ自決ヲ中止セシメタリ。

三、龜川哲也ニ對スル公訴事實
被告龜川ハ沖縄県立中學校卒業後、臺灣総督府及仝専賣局等ニ奉職中、
經濟問題ヲ研究シ、經濟問題ニ就テト題スル著書ヲ發行シ、
仝局ヲ退職上京、政界ト軍部ニ接近シ、情報交換、久原房之助ニ重要視セラレタルガ、
昨年八月永田事件發生スルヤ、
相澤中佐ハ無罪ニスベシト柳川第一師團長ヲ説キ諒解ヲ受ケタル外、
相澤中佐公判開廷セラルニ及ビ、鵜澤聡明、満井佐吉中佐等ヲ特別辯護人トナスニ奔走決定、
仝人等ヲ通ジ特權階級打殪ヲ絶叫セシメント企圖、
鵜澤聡明ノ助手ト稱シ公判廷ニ出入シ、村中孝次、磯部淺一、栗原安秀等ト協議シ、
謀議ニ參与、叛亂者ヲ援助セリ。
(一)  二月二十五日午後龜川宅ニテ西田税及村中孝次等ト共ニ叛亂事件蹶起ニ附テ協議、
 二十六日蹶起後ノ時局収拾ニ就テノ諸事項ノ協議ニ參畫シ、
此ノ機ニ自己ノ抱持セル經濟大綱ヲ實現セシメント活動資金二千圓ヲ村中ニ与ヘントセシモ固辭セラレ、
一千五百圓ヲ村中ニ、百圓ヲ西田ニ与ヘ、援助ヲナシタリ。
(二)  二月二十六日午前四時 眞崎大將ヲ訪問、
 靑年將校蹶起ノ概要ヲ傳ヘ、時局収拾ヲ仝大將ニ依頼セリ。
仝六時 西園寺公房ヲ訪問セントス鵜澤聡明ニ對スル靑年將校ノ蹶起ヲ傳ヘ、
時局収拾可能ナル強力内閣組織ヲ西園寺公ニ進言セシムベク説明。
(三)  二月二十七日 帝國ホテルニ於テ、石原大佐、橋本欣五郎大佐、満井佐吉中佐等ト共ニ
 時期内閣首班者ヲ山本英輔大將ニ決定シ、仝大將ニ交渉シ、叛亂軍ニ外部的援助ヲ与ヘタリ。

検察官ノ公訴事實ノ陳述後、北、西田、龜川ノ順序ニ意見ヲ申述セシム

私ハ日本改造法案大綱ニ依リ國家改造セシムベク靑年將校ヲ指導シタル事ナシ。
西田
1、日本改造法案大綱ノ實現ノ爲靑年將校ハ蹶起シタルモノニアラズ。
2、自分ハ制止コソシタルモ、蹶起ノ煽動ヲナシタルコトナシ。
3、檢察官ハ自分タチガ叛亂將校ノ唯一ナル指導者ノ様ニ考ヘテ居ルガ、 事實ハ相違シテ居ル。
4、國家改造ト直接行動ト混同シテ居ラレル點 。
龜川
 1、私ハ自己ノ經濟案ヲ實施シヨウト考ヘタルコトナシ。
 2、 協議又ハ謀議トアルガ、一度モ其ノ様ナ事ハアリマセン。
法務官  「 學歴及經歴 」
西田
豫審廷デ詳シク申上ゲマシタ通リデアリマシテ、幼年學校、陸軍士官學校、
 大正十一年ニ騎兵少尉、仝十三年依願退職豫備役ニ編入セラレ、
其後ハ浪人生活ヲナス一方、著述ヲナシ、今日ニ至リマシタ。
法務官  「 軍部との思想關係ニ就テ 」
西田
三月事件ヨリ軍部内ノ情勢ニ
通ジ、橋本欣五郎大佐及建川中將ト接近シ、十月事件ニ參加致シマシタ。
其ノ後 五  ・一五事件ニ際シテハ阻止シテ狙撃セラレマシテ、直接關係アリマセン。
相澤中佐トハ交際アリマシタガ、公判廷ニ於テ申述ベタ様ナ信念ヲ有スル人トハ知リマセンデシタ。
思想ノ推移狀況ニ就キ陳述アリ
午後三時四十分終了シ、次回ハ二日午前九時開廷ヲ申渡シ、閉廷セリ
( 了 )

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