あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大岸頼好 『 ボロン火 』

2021年12月04日 05時19分47秒 | 大岸頼好

昭和五年に入ると、
一世を聳動した浜口内閣のロンドン軍縮にからんで、政府の統帥権干犯、
これにつづく宮中での加藤軍令部長帷幄上奏阻止の問題がおこった。
新聞もかきたてたが、革新右翼はいかった。
このとき陸軍に 「 兵火事件 」 なるものがおこった。
昭和 五年四月のことである。
仙台陸軍教導学校の区隊長だった大岸頼好中尉は、
浜口内閣の統帥権干犯、
ことに、浜口政府が宮中の側近と結んで、加藤軍令部長の帷幄上奏
を阻止したことに痛憤し、
同志達に蹶起を促そうと、
「 兵火第一号 」 を 四月二十九日 ( 天長節 ) 附を以て秘密出版し、同志に配布し、
さらに、引きつづき 「 兵火第二号 」 を印刷配布して、同志を激発しようとした。
その第二号、戦闘方針を定むべしという項の中で、
一、東京を鎮圧し宮城を守護し天皇を奉戴することを根本方針とす。
     この故に、陸海国民軍の三位一体的武力を必要とす
一、現在、日本に跳梁跋扈せる不正罪悪--宮内省、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等々を明らかに摘出し、
     国民の義憤心を興起せしめ、正義戦闘を開始せよ
一、陸海軍を覚醒せしむると共に、軍部以外に戦闘団体を組織し、この三軍は鉄のごとき団結をなすべし。
    これ結局はクーデターにあるが故なり。
    最初の点火は民間団体にして最後の鎮圧は軍隊たるべきことを識るべし
と 書いている。
この革命の思想は、国家改造法案に通じ、西田の天剣党の戦闘指導綱領に通じていることが注目される。
この檄文配布は憲兵の探知するところとなり、大岸中尉はもちろん、配布をうけた将校も、
ことごとく取調べられ その数三十数名に及んだ。
しかし、それは大岸中尉の激発的行動で、そこには、いささかの計画準備と認められるものはなかったので、
憲兵は単なる説論に止め、その処置は所属長に一任した。
・・・西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」

「 百姓の起す火を ボロン火 と云ひ、兵隊の起す火を 兵火 と云ふ。
 同じ火にはかはりは無い。
ボロン火 が燃え出す 兵火 が燃え出す。
兵火 が燃えればこそ ボロン火 も無駄にならん。
ボロン火 は地についている局所的だ、信念的だ。
兵火 は慆々天に冲する全局的だ、科学的だ、かくて 兵火 が出る 」



大岸頼好  オオギシ ヨリヨシ
『 ボロン火 』
目次
クリック して頁を読む


・ 「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」
・ 大蔵栄一 ・ 大岸頼好との出逢い 「 反吐を吐くことは、いいことですね 」
大岸頼好の士官学校綱領批判
・ 大岸頼好の統帥論
末松太平 ・十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
「 永田鉄山のことですか 」 

・ 改造方案は金科玉条なのか
私は大岸大尉からまだ、ききたいことを何一つきいていなかった。
昨夜は酒間の雑談に終始しただけだった。
退屈でも帰るわけにはいかなかった。
この日の夜は二人だけだったので、問題の 『 改造方案 』 についてきり出した。
新京で菅波中尉と話し合ったこと、西田税のうちでのこと、直心道場で澁川と話し合ったことなどを。
大岸大尉は私の話をきき終ると、
「 そりゃ澁川君のいうとおりひどかったよ。めくら蛇におじずだったね。
磯部君はおれを殺すとまでいっていたそうだ。
気の毒なのは澁川君で、間に立って随分苦労したらしい。」
といって、いざこざのあらましを話すのだった。
澁川からきいた話とつき合わすと、
『 改造方案 』 をめぐっての東京と和歌山の葛藤は大体検討がついた。
私が凱旋の帰途たまたま新京で、菅波中尉の意見を徴した同じ問題に、
ちょうどその頃内地でもつき当っていたわけである。
では一体、『 改造方案 』 のどういった点が意見の衝突となっているのだろうか。
これに就いて大岸大尉は、あまり語ることを好まぬふうだった。
ただ この点は骨が粉になってもゆずれないといって、二三それをあげるにはあげた。
それがどういうことであったかは、いま記憶にない。
私はしかし 『 改造方案 』 批判よりも、それに代わる案があればそれを知りたかった。
それで、「 では 『 改造方案 』 に代わるものがありますか 」 と きいた。
大岸大尉は 「 あるにはあるがね 」 と いったきりで口をつぐんだ。
いやに勿体ぶるなと思った。
いわなければいわなくてもいいや、おれにいえなくて誰にいえるのだろう、
ともおもった。
韜晦もいい加減にするがいいや、とも思った。
私は無理にきこうとはしなかった。
私は西田税のうちでも不満だった。
ここでも不満だった。
この夜はここに泊まるほかないが、翌日はすぐ辞去しようと思った。

「 これはまだ検討を要するもので、人には見せられないものだが・・・」
と いって私の前に置いた。
私はひらいてみた。
冒頭に 『 皇国維新法案 』 と 銘打ってあって、革新案が筆で書きつらねてあった。
これが 『 改造方案 』 に代わる大岸大尉の革新案の草稿だった。
が、それはまだ前篇だけで、完結していなかった。
私がそれを読み進んでいるとき大岸大尉は
「 将軍たちがえらく 『 改造方案 』 を きらうんでね 」 と つぶやきもした。
それを考えにいれてのものかどうか、ともかく、ざっと目を通していく私には、
どこがどう 『 改造方案 』 と、きわだってちがっているのかわからなかった。
日本が皇国となっていたり、改造が維新となっていたりするように
将軍好みに用語、表現に工夫が払われているとは、
大岸大尉のつぶやきに影響されて思いはしたが、
これが殺すのどうのと葛藤を生むほどのものの御本尊であるかどうかは、
『 改造方案 』 を 後生大事に、箱入娘のように庇物にすまいとする金科玉条組の偏執とともに、
了解しがたかった。

・ 大岸頼好起案  『 皇政維新法案大綱 』 
 大岸頼好皇国維新法案


大岸頼好 皇國維新法案

2018年07月23日 19時32分28秒 | 大岸頼好


大岸頼好


二 ・二六前夜における國家改造案
---大岸頼好 『 極秘  皇國維新法案  前編 』 を中心に
福家崇洋

目次
はじめに 
一   『 皇政維新法案大綱 』 の行方 
二   大岸頼好と 『 皇國維新法案 』 
三   『 皇魂 』 と 『 皇民新聞 』 
四   『 二つの皇道派 』 
おわりに 

付属資料  『 極秘 皇國維新法案 前編 』
・・・・・・・・・・・・・・・・
クリック
 して頁を
読む 



大岸頼好 皇國維新法案 1 『 はじめに 』

2018年07月21日 05時22分16秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
はじめに

一九三〇年代初頭から後半にかけて、
日本ではクーデター未遂事件や血盟団事件、五 ・一五事件、二 ・二六事件が起こった。
その担い手となった青年将校や社会運動家にとって、
世界恐慌後疲弊していた日本の 「 改造 」 は実行に移すべき焦眉の課題であった。
それゆえ、こうした動きは国家改造の指針 ・構想を数多く生み落とすことになる。
例えば、内務省警保局保安課はこれら改造案を収集し、一九三五年に 『 国家改造論策集 』 を発行した。
同資料には、北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を筆頭に、
民間の右派社会運動家、団体が出した一九の国家改造案が列挙されている。
同資料は、運動簇生の要因として、農村恐慌、財閥の国益無視による国民の反感、政党政治への不信、
「 欧米文化 」 である個人主義、自由主義、社会主義、共産主義の跋扈、
ワシントン及びロンドン条約における政府の妥協的態度が愛国団体を刺激したこと、
失業者増加と知識階級の就職困難などをあげる。
これらを背景として起きたのが日本主義の台頭、「 左翼闘士の転向 」、「 右翼運動の左翼化 」 だった。
とくに最後者が改造簇生の直接的な要因として次のように説明される。
「 斯くの如くして新に左翼闘士を迎へたる右翼陣営は
此等左翼闘士に依りて国家改造に関する科学的理論と巧妙なる戦術とを伝授せられ
右翼従来の一大欠点たる理論的根拠の貧弱と運動方法の拙劣とを補ひ
全く其の面目を一新し よく大衆を獲得し 之を指導するに及び改造運動は客観的情勢の好適と相俟て
茲に一大進展を示すに至りたり 」
つまり、同資料によれば、国家改造案が夥おびただしく世に出た背景にはいわゆる  「 転向 」 の問題が潜んでいた。
もともと大衆運動と縁遠かった右派社会運動に 「 転向者 」 が加勢することで、
綱領や理論の構築が急速に進み、国家改造案の簇生につながったのである。
その後、同資料は国家改造を必要とする対内的、対外的理由を述べたうえで、
国家改造案の分類 ( 「 純正日本主義 」 「 国家社会主義 」 「農本主義 」 )、実現の手段 ( 合法と非合法 )、
運動の指導勢力 ( 「 軍部 」 「 浪人系団体 」 「 左翼運動よりの転向団体 」 「 農民団体 」 「 宗教団体 」  「 所謂新官僚 」 )
にまで論は及ぶ。
こうした運動にともなって誕生した国家改造案のひとつに、
『 極秘  皇国維新法案  全編 』 ( 以下 『 皇国維新法案 』 ) がある。
同案は、今日までその具体的な内容は明らかになっていない。
他方で、この 『 皇国維新法案 』 とよく似た名称 ・内容を持つ 『 皇政維新法案大綱 』 はその存在が知られており、
『 皇国維新法案 』 の実在が不明だったこともあいまって、これまで両者は混同してとらえられてきた。
本稿では、まずこの錯綜した歴史を解きほぐしながら、これらの資料の内容や背景について考察していきたい。

戦後の研究史上にまず登場したのは 『 皇政維新法案大綱 』 だった。
戦前からの社会運動家で陸軍の皇道派とも交友があった橋本徹馬が、 
 『 天皇と叛乱将校 』 ( 1954年 ) で、この改造案を巻末資料として紹介した。 ・・・リンク →皇政維新法案大綱 
橋本は解説で
「 当時の統制派の将校達が、独伊と結託しつつ
天皇の名において、共産政治を日本に布こうとしていたことが、 これで知られる 」
・・< 註2 ・・・橋本徹馬 『 天皇と叛乱将校 』 126頁 1954年五月 日本週報社 > 
と、述べ、この資料を統制派のもの、
しかもこの計画を立案した人物として永田鉄山をあげ、
「 その筆になる計画案は、今も某氏の手元に保存せられている 」 とした。・・< 註3 ・・・橋本徹馬 『 天皇と叛乱将校 』 15頁 >
この某氏とは、竹山道雄氏によれば皇道派の領袖荒木貞夫だったという。
竹山氏は 『 昭和の精神史 』 ( 1956年 ) で、
「 今でも荒木貞夫将軍の手元にあるそうで、永田筆跡であることはたしかだという 」 、
「 この過激な革命プランを、どういうわけか永田課長が軍事課長室の金庫にしまい忘れて、 それが荒木大将の手に入つた」
と述べた。・・< 註4 ・・・竹山道雄 『 昭和の精神史  竹山道雄著作集一 』 65頁 1983年3月 福武書店 ・・原著は1956年5月 新潮社発行 >
後述のように、たしかに国会図書館憲政資料室所蔵の荒木関係文章には、一見これに相当する資料がある。
今となっては、『 皇政維新法案大綱 』 が統制派の作という説は完全に否定されている。
逆に興味深いのは、なぜ橋本らがこれを統制派のものと断じたかである。
推察では、『 皇政維新法案大綱 』 には統制派の主張を想起させる 「 一切を挙げて国家総動員へ 」 という文句や、
国家統制経済を掲げた綱領が並んでいたからではなかったかと思われる。
一九六〇年代に入ると、新資料や関係者回想録を背景とした研究の進展とともに、
『 皇政維新法案大綱 』 の位置付けは再検証されていく。
その先鞭せんべんを付けたのが、秦郁彦著 『 軍フアシズム運動--三月事件から二 ・二六事件後まで 』 ( 1962年 ) だった。
同著は、巻末に 『 皇政維新法案大綱 』 ( 「 在満決行計画大綱 」 付 ) など新資料を収録し、
三月事件から二 ・二六事件までの軍部や社会運動の研究を大きく塗り替えた。
秦郁彦著 『 軍フアシズム運動 』 収録の 『 皇政維新法案大綱 』 は、
橋本徹馬著 『 天皇と叛乱将校 』 ( 1954年 ) の 『 皇政維新法案大綱 』 と大部分重なるが、
末尾に 「 在満決行計画大綱 」 が 添付されたことが大きく異なる。
同法案の位置付けについて、秦氏は次のように解説を添えた。
「 本大綱の原文は、皇道派の大岸頼好中尉が執筆したものであるが、
 昭和七年對馬中尉が某右翼分子に印刷させ、 その後 昭和九年、在満決行計画大綱を付し、
二 ・二六事件の直後さらに前文を加え 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 として配布されたものである。」
・・< 註5 ・・・秦郁彦 『 軍フアシズム運動--三月事件から二 ・二六事件後まで 』 221頁、1962年 河出書房新社 >
ここで 『 皇政維新法案大綱 』 が統制派やその領袖の永田鉄山の作でなく、
皇道派青年将校の大岸頼好によって書かれ、
その後 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』  ( 「 国家改造論策集 」 に収録 ) になるとされた。
また同時期に、秦氏の研究に加えて、これら国家改造案作成に直接携わった青年将校の回想が世に出た。
青年将校のひとり末松太平は、 『 私の昭和史 』 ( 1963年 )で、
『 皇政維新法案大綱 』 は統制派の作という橋本の説を批判した。
末松が同大綱を青年将校の菅波三郎から見せられるシーンを引用しよう。

〔 菅波三郎が 〕 そのとき 「 これなどはその意味において、一応いい案だと思っているがね 」
といって出したのが 『 皇国維新法案大綱 』 というのだった。
これは私も前に見ていた。
青森の連隊時代の大岸中尉の作品で、十月事件の前に私案として同志に印刷配布したものだった。
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 や、権藤成卿の 『 自治民範 』 や、遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』 などを参考文献に起案したものである。
これは橋本徹馬著 『 天皇と叛乱将校 』 のなかの特別資料として全文収録されている。
が、皇道派ひいきの著者は、これを十月事件を企てた統制派の将校たちが
「 独伊と結託して天皇の名において、共産政治を日本に布こうとしていた 」 恰好の証拠品として収録しているのである。
『 天皇と叛乱将校 』 は著者が、これを印刷する前、
二 ・二六事件死者の遺族の会である仏心会の主だった人々の前で読みあげ意見をきいたものである。
私もたまたまその場に同席していた。
それで、そのとき私が柳川平助中将を第一師団官舎に訪ねたときの話をしたのだが、
この著者の私見をまじえて 「 末松大尉との神様問答 」 という見出しで、この著者に採録されているわけだが、
『 皇国維新法案大綱 』 については、
その席で、これは大岸頼好の作品だと私がいくらいっても、
いや、これは統制派のものだ、でなければ、こんな過激なはずはないといって、いっこうにきこうとはしなかった。
いまとなっては、これは大岸頼好の案ではないことにしておいたほうが、本人のためであるかも知れない。
が事実は曲げられない。」 ・・< 註6 ・・・末松太平 『 私の昭和史 』 91、2頁 第五刷 1974年5月 みすず書房 >

この引用中本稿との関連で特筆すべきは 末松が 『 皇国維新法案大綱 』 に言及し、
当事者のひとりとして、改造案作成の背景を具体的に証言した点である。
ここで 『 皇政 』 ではなく 『 皇国 』 を冠する改造案が存在する可能性があることが研究史上明らかになった。
しかし、右の回想だけを見るならば、
『 皇国維新法案大綱 』 は橋本徹馬が紹介した 『 皇政維新法案大綱 』 とほとんど同じものになる。
後者には北、権藤、遠藤の著作が参考文献としてたしかにあげられていたからである。
それゆえ、この本の発刊に強力した二 ・二六事件の研究者高橋正衛氏が、
『 皇国維新法案大綱 』 の箇所に、次の註を付している。

「 註 (19)   全文はこの 『 天皇と叛乱将校 』 以外に、
『 国家改造論集 』 ( 秘 ) 内務省警保局保安課 ( 昭和十年五月 )、85頁--92頁に所収。
秦郁彦著 『 軍ファシズム運動史 』 ( 昭和37年 ) 216--221頁。
なお正式には 『 昭和皇政維新国家総動員大綱 』 」
・・< 註7 ・・・末松太平 『 私の昭和史 』 342頁 第五刷 1974年5月 みすず書房 >

この時点で高橋氏は、 『 皇国維新法案大綱 』 を 『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員 〔法案 〕大綱 』 と同じものだとした。
こうして 『 皇国維新法案大綱 』 はふたたび歴史の闇へと沈んでいった。
しかしながら、 『 皇国維新法案大綱 』 をめぐる末松の回想は、
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 の内容とすべて一致するわけではなかった。
明かに両案には見いだし得ない情報が書き留められていたからである。
こうした点を高橋氏も無自覚だったわけではない。
『 私の昭和史 』 刊行直後に、
近代日本国家主義運動の得難い資料を収録した 『 現代史資料 5 国家主義運動 2 』 ( 1964年 ) が発刊された。
この資料集の解説を書いたのも高橋氏である。
同資料には、先述の内務省警保局保安課 『 国家改造論策集 』 ( 1935年 ) が収録され、
そこに 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 も挙げられた。
この大綱の解説で、高橋氏は
「 非常に似た名称で大岸頼好執筆の 『 皇国維新法案大綱 』 というのが
澁川善助の手で上質紙に印刷されたものがあるが、これは今日殆んどみることが不可能 」 と述べ、・・< 註 8 ・・・ 「 資料解説 」 Ⅺ 『 現代史資料 5 国家主義運動 2 』 1989年8月 第9刷 みすず書房 >
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 とは異なる 『 皇国維新法案 』 が存在する可能性があるとしたのである。
しかし、その後の研究では、このもうひとつの可能性はない、もしくは 『 皇国維新法案大綱 』 はないものとする見解が続く。
たとえば、木村時夫氏の 『 北一輝と二 ・二六事件 ( 承前 ) ---その周辺者の思想的対比 』 ( 『 早稲田人文自然科学研究 』 1977年2月号 )
では、末松の回想にあった 『 皇国維新法案大綱 』 は
『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 を指すという高橋説を援用している。
また、稲生展太郎氏は 「 『  「 皇国維新法案大綱 」 抹殺論 』 ( 『 国学院雑誌 』 1979年11月号  、のち 『 東アジアにおける不平等条約体制と近代日本 』 1995年収録 )
で 『 皇国維新法案大綱 』 の所在について検討した。
その名の通り、『 皇国維新法案大綱 』 の実在に疑問を投げかける同論は、
末松証言を検討しながら、最後には 「 末松が、昭和六年、十月事件以前に見たという 『 皇国維新法案大綱 』 なる資料は、
実は青森の鳴海才八が作成し、印刷したばかりの小冊子 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 であった 」 と想定した。
・・< 註 9 ・・・稲生展太郎  『 東アジアにおける不平等条約体制と近代日本 』  228頁 1995年 10月 岩田書院  >
つまり、『 皇国維新法案大綱 』 の存在は末松の記憶違いであったということになる。
このように、末松の回想で一度はその存在が明らかにされかけた 『 皇国維新法案大綱 』 だったが、
その後の研究ではふたたび 『 皇政維新法案大綱 』 と同じもの、
もしくはこれに類する 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 の記憶違いとされていった。
本稿の目的は、これらの位置付けをもう一度原資料までたどりながら、検証し直すことである。
しかし、『 皇国維新法案大綱 』 の出自や、
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 との異同を再検証することだけにとどまらない。
二 ・二六事件に至る国家改造運動のなかで、これらの改造法案を生み出した青年将校、
社会運動家を取り巻く思想状況をあらためて振り返りながら、
今日通説となっている統制派対皇道派という図式や、
北一輝 『 日本改造法案大綱 』 と皇道派青年将校の関係を本稿で再検証していく。
・・< 註 10 ・・・既存の青年将校像に対する問題提起は、これまで筒井清忠 『 70年目を迎えてなお残る、単純な青年将校観  二 ・二六事件のイメージ
 はなぜ歪み続けているのか  』 ( 『 中央公論 』 2006年3月号 ) や 須崎愼一 『 二 ・二六事件---青年将校の意識と心理 』 ( 2000年10月 吉川弘文館 )
などで行われており、本校もこうした問題意識を共有している >


次頁 『 皇政維新法案大綱 』 の行方 に 続く


大岸頼好 皇國維新法案 2 『 皇政維新法案大綱 の行方 』

2018年07月19日 11時26分17秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
一  『 皇政維新法案大綱 』 の行方

これまで戦後の研究史における 『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の位置付けを見てきたが、
今日まで明らかになっている両改造法案を登場順に整理すれば、以下のようになる。
1、 1935年  内務省警保局保安課 『 國家改造論策集 』
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 ( 昭和皇政維新促進同盟 )
  のち 『 現代史資料 5 国家主義運動 2 』 ( 1964年 ) 収録
  原資料未確認
2、 1954年  橋本徹馬  『 天皇と叛乱将校 』
  「 皇政維新法案大綱 」
  原資料未確認
3、 1962年  秦郁彦  『 軍フアシズム運動--三月事件から二 ・二六事件後まで 』
  「 皇政維新法案大綱 」 ( 「 在満決行計画大綱 」 付 )
  原資料未確認
4、1989年  『 檢察秘録二 ・二六事件Ⅰ 匂坂資料五 』
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱  」
  「 在満決行計畫大綱  」
  原資料は 「 匂坂春平関係文書 」 ( 国会図書館憲政資料室 ) 
所蔵
また、これ以外に似た名称の改造法案も含めて、国会図書館憲政資料室で原資料をいくつか確認できた。
5、 荒木貞夫関係文書 ( 目録番号309 )
  「國家總動員法案大綱 ・皇政維新法案大綱  」
6、 眞崎甚三郎関係文書 ( 2102 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱  」 ( 昭和皇政維新促進同盟 ) 昭和維新社  ・・・1932年の送付状が添付されている
7、 牧野伸顕関係文書 ( 書類の部118 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱諸言 」 ( 昭和皇政維新促進同盟 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 ( 「 在満決行計画大綱 」 付 )
8、 「 
憲政資料室収集文書 」 ( 1121 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 ( 「 在満決行計畫大綱 」 付 )

以上をまとめれば、今回確認できた 『 皇政維新法案大綱 』 は 2、3、5 である。
橋本徹馬 収録の 2、は 竹山道雄氏によれば、荒木関係文書の 5、と同一のはずである。
しかし、今回比較したところ、基本的な内容は同じであるものの、
改行の場所や表記が異なる別物であることが判明した。
このため、『 皇政維新法案大綱 』 は 2、3、5 の三種類以上存在したことになる。
オリジナルにもっとも近いと想定されるのは 5、で、
5、のみ 「 諸言 」 「 主要参考並引用文献 」 が 『 皇政維新法案大綱 』 とは別の用紙にそれぞれ刷られている。
一方、 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は 1、4、6、7、8、である。
各資料の様式を比較したところ、オリジナルは眞崎関係文書の 6、の可能性が高い。
同資料には、眞崎宛青森県鯵ケ沢町昭和維新社の封筒、
1932年2月付の昭和皇政維新促進同盟からの送り状 ( ただし日の記入箇所が空白のまま )、
正誤表が添えられている。
送り状には 「 申迄もなく筆者は尊皇愛国の精神に基けるもの御了承の上可燃極秘相成度奉願上候
 / 尚乍失礼とく名し会名も用ひ候段御寛恕被下度候 」 とあり、作成者の名は伏せられた。
6、を他と比較したところ、荒木文書所蔵の 5、に近いことがわかった。
なお、この時点では 「 在満決行計畫大綱 」 は付されていない。
7、は 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 を筆写したもので、秋月左都夫から牧野伸顕に宛てられた封筒が添付された。
秋月は、牧野の義兄、外交官で大使を歴任した。
7、には 「 在満決行計畫大綱 」 も記述された。
牧野文書の書翰の部には、秋月から1935年6月14日付で牧野に同大綱の件で書簡が送られており、
そこには同大綱 「 諸言 」 の複写が添えられた。
4、も原資料は筆写されたもので、「 諸言 」 の前に
「 本 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は陸軍部内皇道派のモットーとせるものにして、
今度の二 ・二六事件の根源をなせるものなり。/ 而して本は元大使某氏が最近入手せるものを複写したるものなり 」
・・< 註 11・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録二 ・二六事件 Ⅰ 匂坂資料 五 』 490頁 1989年 角川書店 >
とあり、こちらも 「 在満決行計画大綱 」 がある。
この 「 某氏 」 は秋月の可能性があるが確証はない。
8、もまた筆写資料で、 「 諸言 」 の前に
「 本 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は陸軍部内皇道派のモットーとせるものにして、
今度の二 ・二六事件の根源をなせるものなり 」 という文章や 「 在満決行計画大綱 」 が付されている。
以上の 『 皇政維新法案大綱 』 から 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 に至る流れを改めて考えてみたい。
問題は、1、から 8、のなかでどれが 『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の各オリジナルに近いかである。
着目したのは 『 皇政維新法案大綱 』 の 「 諸言 」 にある 「 駢臻 」 「 洗耀開展 」、「 第一章  通則 」 の 「 克服 」、
第五章其二の 「 閉止 」 という各語句、「 實ニ絶大の威力ヲユウスル軍隊ナルコトヲ認識セサルヘカラス。
是皇国ノ徹底維新ト共ニ徹底セル国家総動員ノ必須不可欠ナル所以ナリ。」 という一文である。
これらの語句、文章が各資料でどのように表記されたかをまとめたのが次頁のひょうである。
この比較から、『 皇政維新法案大綱 』 は荒木関係文書の 5、が、
『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は真崎関係文書の 6、が
それ以外の改造案よりもオリジナルに近かったことが確認できる。
1、から 8、までの範囲で考えるならば、おそらく 5、から 3、と 6、原文が生れ、3、から2、が生れた。
6、原文が1、原文につながり、正誤表反映後の 6、から 7、が生れ、さらに 7、から 4、8、が生れた可能性が高い。



秦氏の先述の資料解説によれば、
『 皇政維新法案大綱 』 は大岸頼好が執筆した原案を、
 「 昭和七年 對馬中尉が某右翼分子に印刷配布させた 」
たとあった。
まずはこの点から検証していきたい。
これを一部裏付ける資料として、二 ・二六事件第四師団軍法会議の裁判記録 ( 1936年6月19日 ) がある。
ここには、大岸頼好が検察官から 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 の複写を見せられるシーンがある。
これはおそらく 4、だろう。
大岸は、同案作成の背景を次のように答えたとされる。

答    之 ( 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 ) と 粗同様なもの を、
 私が青森の官舎に居る時遊びに来た青森県西津軽郡黒石村 鳴海某と云ふ四十才位の呉服商人でありますが、
私が座を立て外づした時、同法案大綱を見付けて一週間ばかり貸して呉れと云うて持て行き、
印刷して諸方に配布し、私にも一部送て貰ひました。
当時鉛筆書きの草稿で、私が北、権藤、遠藤、大川等の著書を読んだとき
脳裏に残たものを形態づけ列挙したものであります。
印刷物は和歌山に行てから受取りました。
これは私の研究時代の事で、思想的誤謬は沢山あります。
又民主主義が非常に沢山這入て居ります。
尚之は当時のものに多少手がはいつて居る様です。
鳴海は夫れから印刷して配布したことの詫に和歌山に来た様に思ひます。」
・・< 註12 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録二 ・二六事件 Ⅱ匂坂資料 六 』 398頁 9頁 1989年 角川書店 >

この記述から、大岸が 『 皇政維新法案大綱 』 の作成者であることは間違いなさそうである。
大岸は1902年高知県に生れ、1923年陸軍士官学校本科を卒業 ( 陸士第三五期 、一期前に西田税 )、
歩兵第五十二聯隊付、見習士官から歩兵少尉となるが、1925年から青森歩兵第五聯隊付、同年中尉になっていた。
・・< 註13 ・・・その後大岸は1932年4月に和歌山歩兵第六十一聯隊に補せられ、翌年大尉になる。
ニ ・ニ六事件後は予備役となり、1937年11月に林正義、中村義明と 「 曙 」 創刊。
1939年には昭和通商株式会社に参加。 1952年1月逝去。
大岸については 須山幸雄 『 二 ・二六事件  青春群像 』 ( 1981年2月 芙蓉書房 ) の第三章 「 不運の大器大岸頼好 」 を参照。


右記の引用で、大岸が語る 「 之と粗同様なもの 」 こそ 『 皇政維新法案大綱 』 で、
これをもとに 「 鳴海某 」 が1932年2月に印刷して配布したのが 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 だったと思われる。
秦氏の説明では、後者の発行年月日を
「 二 ・二六事件の直後さらに前文を加え 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 として配布された 」
となっているが、眞崎文書所蔵の 6、に1932年の送付状が添付されているので、二 ・二六事件直後ではない。
また、大岸が和歌山の歩兵第六十一聯隊付を命ぜられるのは1932年4月であることを考えれば、
和歌山にいた大岸が鳴海から受け取った 「 印刷物 」 とは、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 である可能性が高い。
この呉服商の 「 鳴海某 」 とは、鳴海才八のことである。
鳴海は今日では無名の人物だが、ただの商人ではなかった。
彼の経歴の一部が内務省警保局 『 昭和七年中に於ける社會運動の状況 』 に次のように記録されている。

青森県南津軽郡黒石町大字仲町二二呉服雑貨商鳴海才八ハ、
大正二年 ( 1913年 ) 三月市立青森商業學校卒業後家事ノ傍ラ
弘前市在住ノ修養團體、養生會、旭会等ニ關係シツツアリシガ、
昭和五年 ( 1930年 )五月青森県下各地ニ立憲養生會ノ支部ヲ設立シ、
或ハ日本國民党ノ創立當時ニハ其ノ中央委員トナリタル等、漸次熱烈ナル國家主義思想ヲ抱持スルニ至リタリ。
然シテ本年 ( 1932年 ) 2月5日自ラ代表トナリテ陸奥興國同志會を創立シタルガ、
次デ同月上旬頃日本改造法案 ( 北一輝著 ) 自治民範 ( 権藤成卿著 ) 等を基礎トシタル
『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 ナルパンフレットヲ作製シ 昭和皇政維新促進同盟ヲ以テ各方面ニ頒布シ、
爾來屢々上京シテ急進的國家主義團體ヲ歴訪シテ聯絡採リ、又ハ顯官ニ建白書ヲ提出スル等ノコトアリ。 
・・< 註 14 ・・・内務省警保局編 『 社会運動の情況 四 昭和七年 』 927頁  復刻版 1971年12月 三一書房 >

このように鳴海が 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の発行者だったことは間違いなさそうである。
大綱の発行団体は 「 昭和皇政維新促進同盟 」 だが、前掲 『 國家改造論策集 』 でも
「 青森県黒石町陸奥興國同志会鳴海才八が印刷物頒布に際して用ひたるものにて團體の實體なし 」 とある。
・・< 註 15 ・・・内務省警保局保安課 『 国家改造論策集 』 頁無数記載 1935年 >
鳴海を中心とする陸奥興国同志会は、内務省警保局保安課 『 國家主義團體綱領集 』 ( 1934年12月末調 ) 177頁に
「 事務所 」 「 中心人物 」 「 綱領 」 が列挙されたほか、「 齋藤實関係文書 」 ( 書類の部 二  190 「満洲 」 --28 )
にも 「陸奥興國同志會創立宣言/綱領 」、同会作成の 「 昭和維新の指導原理 」 という一連の資料がある。
これらの資料によれば、1931年12月から鳴海を中心に陸奥興国同志会創立の動きがあり、
創立宣言、綱領、会則が、また翌年一月には 「 昭和維新の指導原理 」 が作成された。
この 「 指導原理 」 には、「 一切を挙げて上御一人へ / 一切を挙げて国家総動員へ 」
といった大岸の 『 皇政維新法案大綱 』 から転用した箇所もある。
一方で鳴海に対する周囲の評価は高くはなく、憲兵大尉山中平三は 「 東北、北海道地方出張報告 」 ( 1935年12月 19日付 )
で、陸奥興国同志会と鳴海の素行を次のように報告した。

二、陸奥興國同志會
 鳴海才八ノ主宰ニ係ル会員僅々數名ニシテ元來鳴海ハ捨石トモナルヘキ意氣アル人物ニ非ズ。
單ナル右翼ブローカーニシテ稍々やや誇大妄想狂ナリ。
常ニ賣名宣伝的ニ行動シ他ヨリ出版物ノ郵送ヲ受クル時ハ往々之ヲ複写ノ上自己名義ヲ以テ發送スルコトアリ。
・・・・
青年將校側ニ於テハ鳴海ノ本質ヲ看破シアリテ今ヤ本氣ニ相手シアルモノナシ。」
・・< 註 16 ・・・松本清張、藤井康栄編 『 二 ・二六事件 = 研究資料  Ⅲ 』 363頁 1993年2月 文藝春秋 >

「 往々之ヲ複写ノ上自己名義ヲ以テ發送スルコトアリ 」 というのは、
まさに大岸の 『 皇政維新法案大綱 』 の扱いについてもあてはまろう。
この 「 ブローカー 」 の手によって、大岸の思想は別名の冊子となって伝えられ、その配布先は東京にも及んだ
これは、鳴海の行動範囲が青森一県にとどまらず、東京の国家主義団体にも及んでいたためである。
鳴海は、眞崎甚三郎ら皇道派、国本社グループとも付き合いがあった。
その始まりを特定するのは難しいが、後述する遠藤友四郎から眞崎に宛てられた書簡
( 1928年5月19日付、「 眞崎甚三郎関係文書 」 目録番号130--5 ) には、
「 黒石の青年鳴海才八君より又聞きに達し候事と存上候が
 来る六月中旬出發私他二名 東北一巡不逞思想掃滅尊皇愛國熱を沸騰燃焦せしめんとの心組 」
などとあるので、1920年代末には接触があったと考えられる。
また、同関係文書には眞崎宛陸奥興国同志会書簡が数多くあるほか、
弘前隊報写 「 鳴海才八帰京後の言動 」 ( 1932年10月31日付 目録番号2126 ) という文章にも残されている。
ここには鳴海の交友関係の一端が記され、本間憲一郎の紫山塾、橘孝三郎の愛郷塾、
日本第一新聞社長で画家の宅野田夫と付き合いがあったようである。
公刊されている眞崎甚三郎の日記1934年9月9日条にも、「 午后六時 鳴海才八來訪、是又昔日ノ元氣ナシ 」 
とある。・・< 註 17 ・・・伊藤隆、佐々木隆、秀武嘉也、照沼康孝編 『 眞崎甚三郎日記  昭和七 ・八 ・九年一月~昭和十年二月 』 285頁  1981年1月 山川出版社 >
翌月十五日にも、鳴海は実業家成田努と眞崎を訪ねた。
成田は1892年生まれ、東亜同文書院を出たあと、貿易業を自営し、1933年7月からは大同興行常務をつとめた。
戦後は新東京国際空港公団の総裁になる。・・< 註 18 ・・・秦郁彦編 『 日本近現代人物展歴事典 』 382頁 第二刷 2000年8月 東京大学出版会 >
同時に、彼は国本社メンバーでもあり、木戸幸一 ( 当時厚相 ) に言わせれば 「 平沼 ( 騏一郎 ) 男の子分 」
だった。・・< 註 19 ・・・木戸幸一著 木戸幸一日記研究会編 『 木戸幸一日記 』 上巻 1937年11月11日条 601頁  1990年6月 東京大学出版会 >
その彼と行動をともにする鳴海の交友範囲も重なっていた部分が多かったと推察される。
こうした交流を背景に、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は主に東京において政治家や軍人、
運動家へ配布されたが、その一部が海を渡って満洲国にも届けられたと考えられる。
これは秦氏が紹介した 『 皇政維新法案大綱 』 に 「 在満決行計畫大綱 」 が添付されていたことと関係してくる。
秦氏の説明によれば、『 皇政維新法案大綱 』 は その後昭和九年、「 在満決行計畫大綱 」 を付しとあるが、
なぜすでに『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 頒布後の1934年に、
その原案である方の 『 皇政維新法案大綱 』 に 「 在満決行計畫大綱 」 が付されたのか、
またそれを付したのは誰かという問題がある。
これらの問題を考えるうえで、青年将校のひとり 菅波三郎の発言に注目したい。
彼は二 ・二六事件の公判や取調べで、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の作成や、
「 在満決行計畫大綱 」 添付について次のように語っている。

法務部長  「 直接行動の認識に就て訊ねるが、
 被告の理解する改造法案中にても、昭和皇政維新法案、在満決行計畫中にも、
 大岸に宛ため文中にも、共に直接行動を是認しある部分を散見するが、如何 」
菅波三郎  「 在満決行計畫は 関東軍幕僚が昭和八年頃内地と相呼應してやると云ふ案であつて、
私の深く關知する処でない。
改造法案の見解は、前に申した通り、大岸宛の實力云々、
砲煙云々は、相澤公判の證人として出廷する気持を書いたのです。
昭和皇政維新法案は澁川が書いたのです
法  「 ( 満洲 ) 青年同志会のテキストとして
 之等の文章が使用せられて居るのを被告は知らぬと云ふか 」
菅波  「 一切は鳴海啓がやり、他は関東軍の内諾を得てやつたのですから、惡いとは思ひません」
・・< 註 20 ・・・林茂編 『 二 ・二六事件秘録 』 三巻 377頁 1971年9月 小学館 >

公判時に語られた右記の 『 昭和皇政維新法案 』 が  『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 を指すなら、
澁川善助作という菅波の発言は事実と異なるし、公判中であることを勘案して、読み解く必要がある。
澁川は後述する直心道場幹部で、北一輝、西田税グループに属していたが、大岸頼好、菅波、末松らとも親しかった。
それゆえに、次の証人尋問で、菅波が 「 在満決行計畫大綱 」 を澁川単独の作と述べたのも疑問が残る。
この訊問が興味深いのは、『 昭和皇政維新法案 』 『 國家総動員大綱 』 『 在満決行計畫大綱 』 が
押収物として提示されていることだが、
訊問内容では 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と表記され、当局側の記述も一貫していない。
菅波は、「 在満決行計畫大綱 」 について次のような経緯を説明している。

四 問  「 在満決行計畫大綱 」 は、何人が何時何処で作成したものか
 此時押収の高検領第□号の証第□ 「 在満決行計畫大綱 」 を示したり
答  「 昭和八年五、六月頃、澁川善助が満洲國公主嶺の當時の私の官舎に於て作成したものであります 」
五 問  如何なる事情で作成されたか
答  「 私は昭和五、六年頃は満洲國東邊道の匪賊討伐に從事中で、
 澁川が東京から來る事は知つて居たが其の日時に付て  はよく存じませぬでした。
恰度五 ・一五事件の事に附私に聽きたい點があると云ふ軍法會議側からの通知で、
 昭和八年五月末頃新京に出て参りました。
其時澁川は私に會ふべく通化に這入り、途中で知らずに行き違ひました。
私が新京滞在中、澁川は新京に歸り、
其の頃の或る日 公主嶺の私の官舎に澁川が柳沢一二、山際満寿一を聯れて來ました・・・・・
同夜は殆んど徹夜して此相談を爲し、翌日私、山際、柳沢等は新京に出たが、
其の留守中に澁川が自分の持參した満鐵改組の三案を冩し、
之れに 「 在満決行計畫大綱 」 を自ら書いて添へて全部を私の宅へに置て、本人は奉天に出發しました。
私は其の日歸宅して、此残されたものを入手した次第であります。」 」
・・< 註 21 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅲ  匂坂資料 七 』 412、3頁  1990年6月 角川書店 
 「 第  号の証  第  号の証 」 の空白部分は原文のママである >

この菅波の供述は時期、場所など具体的で、
「 在満決行計畫大綱 」 作成が1933年5月末頃とあるのは注目される。
憲兵司令部関係資料 「 五 ・一五事件以後ニ於ケル陸軍一部將校ノ動静概況 其三 」 によると、
たしかに澁川は四月十六日に渡満し、
「 五月四日ヨリ通化守備隊将校室ニ宿泊連日日満官衙ヲ訪問ノ上六月二十日大連発帰国セリ 」 とある。
・・< 註 22 ・・・松本清張、藤井康栄編 『 二 ・二六事件 = 研究資料  Ⅲ 』 31頁 1993年2月 文藝春秋 >
もっとも、発案から作成まで澁川単独によるものとは考えにくく、
菅波供述によれば、菅波、澁川らとの徹夜の相談中に 「 在満決行計畫大綱 」 はある程度まとまり、
最後に書きとめたのが澁川だった可能性が高い。
訊問では菅波は澁川の主導性を強調しているが、実際には菅波自身も国家改造運動に積極的で、
そもそも 『 皇國維新法案大綱 』 ( 『 私の昭和史 』 ) を末松に見せたのは菅波だった。
別の憲兵司令部関係資料 「 陸軍一部將校ノ動静概況  其十三 」 でも
「 菅波大尉ノ在満間ニ於ケル行動中補遺事項 」 として次のように記録された。

1、七年  ( 一九三二年 ) 八月着任以來在満青年將校、
 右翼分子ニ面接又ハ文書ヲ以テ皇道原理ノ宣伝普及指導ニ任シ
八年九月満洲青年同志会ヲ組織シ所属分子ヲシテ警備及右翼運動ニ關係アル情報蒐集ニ努ム。
十月頃北ノ改造法案ヲ基礎トシテ改案自作セル 「 國家改造法案 」 ヲ在満同志ニ回覧ス。
在満右翼運動カ自己指導ノ穏健派ト笠木良明ノ急進派トニ対立セルタメ
八年末ヨリ戰爭 ( 線 ) 統一ヲ企畫シテ成ラス。
・・< 註 23 ・・・松本清張、藤井康栄編 『 二 ・二六事件 = 研究資料  Ⅲ 』 177頁 1993年2月 文藝春秋 >

この「 國家改造法案 」 が具体的に何を指すかは明らかではないが、
彼が満洲青年同志会の中心にあって、国家改造運動に取り組んでいた様がうかびあがる。
しかし、一番の問題は、『 皇政維新法案大綱 』 や 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 がどのようにして
「 在満決行計畫大綱 」 に結び付けられたかである。
後者については菅波の訊問でも焦点となっており、担当した予審官は彼に次のように問うている。

十二問    左様だとすれば荒木 ( 章 ) は結局此計畫は知らなかつたか
答    同人は満鐵新京地方事務所長として満鐵内の特秘情報を受けて居つた様で、
時々私も同人から其の特秘情報を貰つて居たが、
日時は判らぬけれども荒木が、満鐵特秘として 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と
之に附録された「 在満決行計畫大綱 」 とを入手し 之を私に見せて呉れた事があります。
左様な事情で、荒木自身も此決行計画の内容は見て知つて居ります。
十三問    其の方は荒木より右のものを見せられた時、
それに基いて其方等が決心し活躍して居る趣旨を説明したではないか
答  全然説明は致しませぬ。
十四問    『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と
 「 在満決行計畫大綱 」 を一緒にしたのは其の方ではないか
答    左様なことは絶對ありませぬ。
 何人がやつた事かも知らず、荒木より見せられた時 驚いた次第であります。
十五問    島一郎に對しては右決行計畫の話をしたではないか
答    致しませぬ。
・・< 註 24 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅲ  匂坂資料 七 』 417頁  1990年6月 角川書店 >

菅波はこのように否定を続け、真相は不明のままである。
また、『 皇政維新法案大綱 』 と 「 在満決行計畫大綱 」 との関係もわかっていない。
いずれにしても、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 ではなく、
『 皇政維新法案大綱 』 の方に「 在満決行計畫大綱 」 が付されていたことは、
あまり世に出ていない 『 皇政維新法案大綱 』 にアクセスできた、
つまり、大岸に近い人物によるものであつた可能性が高い。
以上の 『 皇政維新法案大綱 』 から 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 に至る経緯をまとめると、
大岸が1931年9月頃に書いた 『 皇政維新法案大綱 』 を参照して、
鳴海は1932年1月頃に 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 を作成、印刷し、
二月頃東京の関係者に頒布した。
その後、1933年5、6月頃に澁川善助、菅波三郎らが 「 在満決行計畫大綱 」 を作成、
同年か翌年に 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と 「 在満決行計畫大綱 」 は結びつけられたことになる。
しかし、1934年頃になると、大岸の思想はもはや 『 皇政維新法案大綱 』 を書いたときとは異なっていた。
そこで、改めて大岸によって編まれたのが、次章で取りあげる 『 皇國維新法案 』 だった。 

次頁 大岸頼好と 『 皇国維新法案 に 続く


大岸頼好 皇國維新法案 3 『 大岸頼好と皇國維新法案 』

2018年07月17日 18時42分47秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
二  大岸頼好と 『 皇國維新法案 』

1931年 ( 昭和6年 ) 秋に 『 皇政維新法案 』 をまとめた大岸頼好は、
末尾の参考文献一覧に北一輝、権藤成卿、遠藤友四郎の著書をあげていた。
この選書の背景には、大岸が同時期に取り組んでいた国家改造運動の提携があった。
というのも、1931年頃の大岸の目に映った 「 革新運動 」 は、
「 こぢれて、いつの間にか海軍は海軍、民間は民間、東京の西田派は西田派となりました。
 そしてもともと固て居らぬものが矢張り元通り固らぬものとなつた 」 からであった。
・・< 註 25 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 395頁  1990年6月 角川書店 >
そこで大岸は、当時将校間で影響力のあった北説、権藤説、
また彼自身が 「 日本的 」 と評していた遠藤友四郎の説を参照したうえで、
新しい国家改造運動の指針を生み出そうとした。
それが前章で見た 『 皇政維新法案大綱 』 だった。
しかし、その後の大岸は、運動の提携 ・統一よりも思想的な純化を重視するようになる。
それは、北や権藤の説から離れて、かねてから共鳴していた遠藤友四郎の思想、
つまり日本主義へ大岸を傾かせることになった。
大岸は、この離別の背景と思想的な経緯を次のように語っている。

 夫れから満洲事変、上海事変等起り 時代が変化し、
 又人的関係に於ても五 ・一五事件で大川周明は収容され、
権藤成卿は支那思想一流の君民共治思想として批難され、
北一輝もどつかから金を貰て居る、
又外国思想であるとて批難され、遠藤友四郎丈けは批難を受けませんでした。
そして東京の空気は東京丈となり、夫れから九年十年と過ぎ、
私と他の者との間に思想上の懸隔が出来て、
之は對馬であつたか、栗原か磯部か村中か覚えませんが、
私に一度、あなたは改造法案をなぜ信じないかと云はれたことがありました。
私も昭和五、六年頃は確かに改造法案に対して
尊敬と云ふ迄はありませんが多少魅せられて居りましたが、
昭和六年十月以来次第に変化して、昭和九年に這入り明瞭となり、世間にも左様な噂が上る様になりました。」
・・< 註 26 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 396頁  1990年6月 角川書店 >

ここに、すでに1930年代前半の時点で、
北の改造法案をめぐる二つの態度 ( 信奉か否か ) があったことがくっきりと描かれている。
大岸の思想的な後ろ盾である遠藤友四郎はもとキリスト者で、
1906年に同志社神学校に入学するが翌年退学、
1918年には堺利彦の売文社に籍を置いて社会主義運動に加わるが、
翌年高畠素之らとともに国家社会主義運動を起した。
1925年には高畠とも離れて、『 日本思想 』 を創刊し、独自の日本主義運動を推し進めた。
1927年には赤尾敏らと錦旗会を結成している。
なお、遠藤のパトロンのひとりに皇道派の領袖 眞崎甚三郎 ( 1923年参謀次長、三四年教育總監 ) がいた。
眞崎は、皇道派青年将校との公然たる接触を避けつつも、彼らに関する情報収集を怠っていない。
しかし、眞崎は、青年将校が慕う西田税に対しては強い警戒心を抱き、
北一輝の思想に対しても、日記に、
「 今日ハ昭和五、六年頃ヨリ進歩シ、北、大川ノ思想を批判シ得ル程度ニ達シアリ。
 対立ノ如キモ彼等ガ勝手ニ定メタルモノナリ 」 ( 1935年8月23日条 ) 
・・<註 27 ・・・伊藤隆、佐々木隆、季武嘉也、照沼康孝編 『 真崎甚三郎日記  昭和十年三月~昭和十一年三月 』 201頁 1981年7月 山川出版社 >
として、乗り越えるべきものとみなしていた。
おそらく眞崎は、北の思想を国家社会主義や国家統制主義と解していたと思われるが、
それと対峙する日本主義者、すなわち 『 原理日本 』 の蓑田胸喜や三井甲之ら、
『 日本思想 』 の遠藤友四郎を積極的に支援していた。
これは、国家社会主義勢力の駆逐と天皇機関説への誌上攻撃を煽ることが目的だったと思われる。
しかし、蓑田と遠藤では、真崎の対応は異なる。
当初眞崎は、蓑田を 「 頗ル熱狂漢 」 ( 1934年6月15日条 ) と評していたが、
のちに 「 予ハ若宮 ( 卯之助 )、蓑田等個々ノ人間ニ共鳴シタルニアラズ、全ク其ノ主義思想ナリ 」
( 同年10月26日条 ) と述べたり、
蓑田を 「 地獄ニ陥リタル者 」 ( 1935年7月3日条 ) と評したりするなど距離を置くようになる。
・・< 註 28 ・・・伊藤隆、佐々木隆、季武嘉也、照沼康孝編 『 真崎甚三郎日記  昭和十年三月~昭和十一年三月 』 145頁 1981年7月 山川出版社 >
これに対し、遠藤の場合は、その妻しげの も真崎のもとに足繁く通っている。
しげの が最初に日記に登場するのは1934年に入ってからで、
「 眞崎甚三郎関係文書 」 には眞崎に夫婦仲を相談した書簡 ( 1937年11月10日付、目録番号127 ) もある。
また、遠藤友四郎自身の書簡も同関係文書にあり、
その時期は1928年から1940年までだが、二 ・二六事件以後が多い。
こちらは時事問題、社会運動関係がメインである。
遠藤らの主な目的は活動資金の無心や軍関係の情報収集だったと思われるが、
蓑田への対応と異なり、真崎日記の描写には同情が垣間見える。
こうして遠藤は眞崎という後ろ盾を得ることで、軍内にも影響力を増していく。
そして、遠藤に感化された一人に大岸頼好がいた。
沿道の思想が大岸を変えていったことは間違いなく、
実際、大岸と遠藤の接触を物語る一節が
他ならぬ遠藤の著作 『 皇国軍人に愬ふ 』 ( 1932年12月 ) に記されている。

私の読者になつて間もなく、
例の十月事件に予め反対したと伝へられる某陸軍尉官は、
今春一種の短い改革案筋書を、リーフレットして配布した。
それは北と権藤とに列べて私の名も挙げられ、
この三者を綜合すれば、こんな立派なものが出来ます、
と云ふ風に主観が示されて居た。
私は直ちに彼を批判したが、前二者と私とは、水と油であつて、絶対に融合性を欠く。」
・・< 註29・・・ 遠藤友四郎 『 皇国軍人に愬ふ 』  46頁1932年12月 錦旗会本部 >

この 「 某陸軍尉官 」 とは大岸のことだろう。
鳴海才八が1932年2月頃印刷 ・頒布した 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』
を大岸は四月頃に受け取ったはずである。
大岸はそれを遠藤に送ったが、
すでに1929年末から北を 「 君主機關説に因はるゝ拝洋唯物魂の徒 」
・・< 註 30 ・・・遠藤友四郎 『 皇国軍人に愬ふ 』  44頁1932年12月 錦旗会本部 >
と批判していた遠藤の応答はむろん 「 非難 」 だった。
それゆえ、のちに大岸は、『 皇政維新法案大綱 』 を書いたかつての自分を振りかえり、
「 研究時代 」 「 思想的誤謬は沢山あります 」
・・< 註 31 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 398頁  1990年6月 角川書店 >
など自省することになる。
しかし、その転換のきっかけは、思想上の問題だけではなかった。
大岸が時期を 「 昭和六年十月以来 」 と指定したように、クーデター未遂事件である十月事件が関係していた。
大岸もこのクーデターに参加すべく上京していた一人であった。
しかし、計画はあえなく失敗し、大岸は青森に帰っていく。
のちにこの事件を 「 大衝動 」 ・・< 註 32 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 399頁  1990年6月 角川書店 >
と 評したように、この事件への失望と反省を契機として、思想的な鈍化に向かったことは想像に難くない。
大岸が 「 外國思想 」 とされた北一輝の改造法案を信じることができなかったのは、
こうした日本主義への傾斜が背景にあったと思われる。
より具体的に語る大岸は、
「 北の改造案はいろいろの思想が混入して居り、たとへば民權思想もあり、又 獨逸流の國家主義的國權思想もあります 」
・・< 註 33 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 402頁  1990年6月 角川書店>
として、民主主義や日本的ならざるものをかぎ取っていた。
改めていえば、軍部にも浸透した國家社会主義と日本主義との対立は、人間関係と複雑にからまりながら、
旧来の統制派対皇道派という図式にとどまらず、
皇道派青年将校内でも北の改造法案に依拠しようとするグループと、
そうでないグループとの軋轢あつれきを引きおこしていった。
前者が、東京にあって北 ・西田税につらなる村中孝次、磯部浅一、栗原安秀たち、
後者が和歌山の大岸頼好、末松太平たちとなる。
青年将校のひとり末松太平は、回想で 「 『 日本改造法案大綱 』 をめぐっての東京と和歌山の確執 」
があったこと、 ・・< 註 34 ・・・末松太平 『 私の昭和史 』 236頁 >
「 『 日本改造法案大綱 』 は一点一画の改変も許さないという金科玉条組と、これを過渡的文献にすぎないとするものとの確執 」
・・< 註 35 ・・・ 末松太平 『 軍隊と戦後のなかで   「私の昭和史 」 拾遺 』 122頁 1980年2月 大和書房 >
を伝えている。
末松自身は、二 ・二六事件の第一回公判で法務官から 「 日本改造法案大綱を如何に感ずるや 」 と問われ、
「 戰術的に見て日本改造法案大綱に依る革新は不可なり。 何故なれば、反對者多數あるが爲なり 」
・・< 註 36 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 三巻  265頁 >
などと述べた。
しかも、法務官が今回の二 ・二六事件における改造法案の影響に改めて言及すると、
末松は、
「 お考へになることは法務官殿の勝手であるが、私は斯く信ぜず。 蹶起將校が本法案の具現にあたりたりとは今初めて聞きたるなり 」
・・< 註 37 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 三巻  265頁 >
と述べ、当局側の物語を突き放した。
では、末松らは、どのような改造を望んだかであった。
彼は 「 自分らは破壊すれば事足りると思っていた 」 ・・< 註 38 ・・・『 私の昭和史 』 90頁 >
というが、それは先輩で同志の大岸頼好がいればこそであった。
いわば東京グループのイデオローグが北とすれば、和歌山グループのイデオローグが大岸だった。
そして、末松と同じく、北の思想や改造法案に納得できないものを感じていた大岸が、
『 皇政維新法案大綱 』 という試作品を経て、
1934年 ( 昭和9年 ) に生み出した新たなフムログラムが 『 皇国維新法案 』になる。
しかも、北の改造法案が上層部にも受けが悪いことを知っていたことが、
大岸が別案を模索するきっかけにもなっていた。
かつての 『 皇政維新法案大綱 』 が国家改造運動における横の連携を目指すものだったとすれば、
今度の 『 皇國維新法案 』 は上層部の支持を取り付けるまではいかないまでも、
反発を和らげることが意図されていた。
末松は次のように回想している。

北、西田に対しては、『 日本改造法案大綱 』 とともに、先入観的に、
青年将校を支持する軍首脳部のなかにさえ、反発があるときている。
力の均衡が微妙に動揺する場合には、蹶起に反対して現状を維持しようとするものは、
これを勢力挽回の好餌にするだろう。
大岸大尉が別に 『 皇国維新法案 』 を起案し印刷した苦心は、この辺の消息を知っておればこそだった。
大岸大尉がこれの原稿を、はじめて私に提示したとき、それを手中にもてあそびながら、
「 將軍連は 『 改造法案 』 がきらいだからなア ・・・・・」 とつぶやいていた。・・< 註 39 ・・・『 私の昭和史 』 270頁 >

前章で触れたとおり、『 皇國維新法案 』 はこれまで 『 皇政維新法案大綱 』 と混同してとらえられ、
その存在すら明らかではなかった。
しかし、既述のように、ただひとり末松が
『 皇政維新法案大綱 』 とはかならずしも一致しない 『 皇國維新法案大綱 』 を回想していた。
それは次の諸節である。

では一体、『 改造法案 』 のどういった点が意見の衝突となっているのだろうか。
 これに就いて大岸大尉は、あまり語ることを好まぬふうだった。
ただこの点は骨が粉になってもゆずれないといって、二三それをあげるにはあげた。
が、それがどういうことであったかは、いま記憶にない。
私はしかし 『 改造法案 』 批判よりも、それに代わる案があればそれを知りたかった。
それで 「 では 『 改造法案 』 に代わるものがありますか 」 ときいた。
大岸大尉は 「 あるにはあるがね 」 といったきりで口をつぐんだ。
てゆに、勿体ぶるなと思った。
いわなければいわなくてもいいや、おれにいえなくて誰にいえるのだろう、とも思った。・・・・
夕食が終わったあとで大岸大尉は、量ばった和紙の束を持ち出してきた。
「 これはまだ検討を要するもので、人には見せられないものだが・・・・」 
といって私の前に置いた。
私はひらいてみた。
冒頭に 『 皇國維新法案 』 と銘打ってあって、革新案が筆で書きつらねてあった。
これが 『 改造法案 』 に代わる大岸大尉の革新案の草稿だった。
が、それはまだ前編だけで、完結していなかった。
・・< 註 40 ・・・『 私の昭和史 』 103、104頁 >

澁川が大岸大尉の 『 皇國維新法案 』 を印刷したものを、風呂敷一杯重そうに提げて、
また青森にやってきたのは、このときから一ヵ月とはたっていなかった。
これはこんないきさつからだった。
澁川がこの前帰って間もなく、
大岸大尉から、和歌山で 「 人名は見せられないもの 」 と大事がっていた 『 皇國維新法案 』 の草稿を、
どう心境に変化がきたのか、至急印刷したいから澁川に頼んでくれといってきた。
私は早速大岸大尉の意志を澁川に伝えたが、それが出来上がったから、と持参したのである。
「 知っている印刷屋のおやじが奉仕的にやってくれた。
 紙も、おやじが大事なものだから上質紙にしたがいいというのでそうした 」
澁川は風呂敷を解きながら、こういった。
・・< 註 41 ・・・『 私の昭和史 』 110頁 >

ここでは 『 皇國維新法案 』 が 「 前編 」 しか完成していないとされるが、
前章であげたいずれの  『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 にも 「 前編 」 とは記されていない。
また、今回入手した  『 皇國維新法案 』 はたしかに上質紙で作られ、
表紙には 「 前編 」 と書かれている。
旧蔵者である三浦延治は、今日では無名の社会運動家で、
内務省警保局や司法省刑事局にもとくにマークされていなかった。
彼は、1932年に結成された永井了吉の勤皇維新同盟の名古屋支部員で、遠藤友四郎とも交流があり、
のち1934年頃に大森一声を中心に設立された直心道場の一員となっている。
後述する核心社の機関紙 『 核心 』 の編集者でもあった。
一方、大岸の 『 皇國維新法案 』 だが、その内容は
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と比べて、一変している。
『 皇政維新法案大綱 』 は、「 準備作業 」、「 維新ノ諸動 」、「 維新ヘノ発程 」、
「 皇政維新第一期 」 から第五期の時期区分で構成されている。
国家総動員に向け、天皇大権を発動、枢密顧問官らを罷免、華族制も廃止したうえで、
天皇を補佐する顧問院を設置し、国家改造内閣を樹立する。
また、天皇自身が皇室所有の財産を国家に差し出し、私有を禁止された国民も財産、土地、資本を国家に上納する。
一方で、「 自治 」 が説かれたのも特徴的で、農村、都市、工業において 「 自治制 」 を採用したうえで、
地方議会、国会、憲法などに再構成し、家族単位の国家を確立するというものである。
これに対し、『 皇國維新法案 』 の方では、右記の制度改造論や 「 國家総動員 」 という言葉が退き、
かわりに天皇主義がより強く押し出されている。

以下でその内容を具体的に見ていきたい。 ( 本稿未掲載の 『 極秘 皇國維新法案 前編 』 参照 )
第一編 の内容をまとめれば次のようになる。
「 祖神 」 の 「 直系顕現延長者 」として現人神の天皇がおり、「 顕現延長 」 にいまの 「 大和民族 」 がいる。
それゆえ、天皇と 「 大和民族 」 の関係は 「 大父 ( 至親 ) 」 と 「 赤子 」 の関係であり、
両者とも  「 祖神 」 から発する 「 一大家族體民族 」 なのである。
この家族に流れる民族精神が 「 まつろひ 」 であった。
天皇は神に対して 「 義侠ト犠牲トノ一ツナル 『 まつろひ 』 精神 」 を有するように、民を見て、「 祭政一如ノ御親裁 」 を行う。
その向かう先は、「 大和民族 」 の使命 「 世界修理 ( 創造的世界革命 ) 」、
すなわち 「 不義ノ文化鞏力ニ妖蕩呻吟スル人類ヲ普ク光明平安ニ解放シ、以テ一天四海同胞共和ノ招來 」
することであった。
第二編 は 「 世界的使命 」 として国外関係が述べられる。
「 通則 」 では、「 國際的戰國時代 」 である現代に、「 最高道義國家 」が出現するとし、
それこそが 「 皇國 」 になる。
「 當面ノ方針 」 では、満洲国の独立保全にあたって、列強や中国といかに伍するかが述べられる。
ロシアが赤色の 「 亜細亜侵略者 」 であれば、イギリスは白色の 「 亜細亜僣奪者 」 である。
これらの国に対すべく、ウラル以東や西南アジア、インド、南西太平洋を巻き込んだ 「 亜細亜聯邦 」の結成が必要だとする。
それゆえ、アメリカとの決戦は避けて 「 不戰平和ノ堤契 」 に進むべきとする。
また、中国は 「 皇國ノ實力的扶導ノ下ニ同盟鞏力シテ聯盟亜細亜ヲ結成スベキ一大要素 」 と位置付けられた。
第三編 は、日本を取巻く国際状況の悪化が語られる。
国際聯盟の脱退、南洋委任統治領処分問題、ロンドン軍縮条約の失効と英米等による圧迫、
列強のブロック経済化、中国の反日運動、満洲国の混沌などである。
ここで、やや論理が飛躍しながら、
「 皇國ノ大難ハ常ニ 至尊ノ絶對ヲ冒シ遷シ參ラセシ時ニ到來ス。是レ皇國獨特ノ國難ノ根因ナリ 」
として、天皇信仰の不足が原因とされた。
第四編 の冒頭では、その解決に向けて次のような方法が掲げられた。
至尊絶對神性ノ徹底復固 !!
至尊絶對神性ノ徹底復固ニノミ含蓄セラルル下萬民平等本義ノ徹底確立。
至尊絶對神性ノ徹底復固ニノミ結果スル所謂政治 ・經濟 ・法制 ・思想 ・教育 ・軍事 ・外交ノ國體原理性ヘノ畫期的確立復固、
即チ神州獨自優秀性ノ發揮、而シテ其ノ擴充推延 = 皇道ノ福音ノ世界宣布 ( 創造的世界革命の鴻業遂行 )、
是レ皇國維新ノ眼目ナリ。
註一    「 ナチス 」 ヨリモ 「 フアツシヨ 」 ヨリモ 「 コスミユニズム 」 ヨリモ其他の何レヨリモ、
  ヨリ高ク ヨリ優レタル創造的建設ヲ含蓄スル國體原理
註二    至尊ノ絶對神性徹底復固ニノミ閃發開端スベキ國體原理ノ洋々タル自展。 東洋平和---人類救済ノ大聖顔。

このように 「 国体原理 」 はファシズム、コミュニズム双方を乗り越えるものであった。
まして、個人主義、民主主義、資本主義はさらに否定されるべきものとなる。
「 議會至上組織 」 「 政党組閣制度 」 「 個人搾取資本制經濟 」 を 「 非國體原理制度 」 としてその廃絶を訴え、
ひいては現憲法 ( ただし伏字表記 ) を 「 赤化大憲章 」 としてその理念の廃棄を訴えた。
このために政治では天皇親政はもとより、「 信教自由 」 の廃棄、「 萬民ノ協翼 」 「 有司ノ輔弼 」 など、
思想 ・教育では 「 信教自由 」 「 宗教神道 」 の廃絶にともない、「 民族信仰 」 「 國體教育 」 が掲げられる。
経済では 「 個人搾取資本制經濟 」の断除に向けて天皇の経済大権を確立し、
これを支える万民が経済活動で 「 連帯共和勤勞ノ實 」 を発揮することが訴えられた。
外交、軍事はほとんど語られていないが、
ここに 「國家総動員的國防ノ充實完備 」 として 『 皇政維新法案大綱 』 の若干の名残が見られる。
では、この 『 皇國維新法案 』 はどの程度普及したのだろうか。
末松の回想によれば、西田税は同法案を見るやいなや激怒したという。

『 皇國維新法案 』 というのは未完成であるが、一つの建設業として大岸大尉の起草したものである。
これは大岸大尉からの依頼で澁川が東京で印刷し、青年将校に配ったものだが、しばらく西田にはかくしていた。
西田もながい間それを知らなかった。
知ったのはやっと二 ・二六事件のあった年の正月頃らしかった。
印刷したのは昭和九年だったから不思議にも相当永い期間知らなかったわけである。
その頃澁川に会うと、
「 あれをとうとう西田さんにみつけられたよ、これは誰が書いたのかと、えらくおこっていた 」
と当惑顔をしていた。
酸いも甘いも知りすぎている太ッ腹の西田がそれほどおこるとは私には意外だった。
・・< 註 42 ・・・末松太平 『 二 ・二六外伝  津軽海峡 』 173頁  田村重見編 『 大岸頼好  末松太平--交友と遺文 』 1993年10月 >

『 皇國維新法案 』 のどの点が西田を激怒させたかはわからないが、
そこに彼自身が信奉する北の 『 日本改造法案大綱 』 と相容れぬものがあったことはたしかだろう。
この一件から、西田派の青年将校には広まりにくかったことが想像できる。
西田派の佐藤正三 ( 大眼目社 ) は、
戦後の回想で、『 改造法案 』 の西田税に 『 皇國維新法案 』 の大岸頼好という、
二大潮流が青年將校運動のなかにあるのだといった考え方が、私の漠然たる理解の仕方であった 」
と述べ、『 皇國維新法案 』 を真剣に検討することもなかったという。
・・< 註 43 ・・・佐藤正三 「 一期一会 ---大岸さんを偲んで 」 27頁   『 大岸頼好  末松太平--交友と遺文 』  >
今回頒布先が確認できたのは、相澤三郎中佐である。
1935年 ( 昭和10年 ) 8月に相澤は統制派の永田鉄山を刺殺するが、
これにともない行われた同月24日の捜査で、
門司合同運送株式会社倉庫にあった相澤の引越荷物から 『 皇國維新法案 』 が二部押収された。
・・< 註 44 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録二 ・二六事件Ⅳ 匂坂資料 八 』 291頁  1991年8月 角川書店 >
当局側も証拠物件をいくつか取り出して相澤に訊問しているが、
『 皇國維新法案 』 は俎上に上ってきておらず、当局側も危険視しなかったような事情もあったという。

私はこれを私直接の全国の同志に配ろうと思った。
が、どういうわけか大岸大尉から間もなく、配布はしばらく待ってくれといってきた。
そのときはまだ何部かを独身官舎の若い将校に配っただけで、殆んど手付かずだった。
二 ・二六事件のときまでそのままだった。
湮滅しようと思えばそのひまはあったのに、わざとそのまま残して置いた。
・・<註 45 ・・・『 私の昭和史 』 110頁 >
特に 『 皇國維新法案 』 は、配布を見合わすよう大岸大尉からいわれていたので、
ほとんど手付かずに百部、あるいはもっとあったかも知れないが、
澁川が持ってきてくれたままになっているのを、そのまま残しておいた。」
・・< 註 46 ・・・『 私の昭和史 』 278頁 7頁 >

なぜ大岸が配布を辞めさせたのかは不明だが、
この頒布数の少なさが今日まで 『 皇國維新法案 』 が世に出なかったひとつの要因であろう。

次頁 『 皇魂 』 と 『 皇民新聞 』 に 続く


大岸頼好 皇國維新法案 4 『 皇魂 と 皇民新聞 』

2018年07月15日 11時39分12秒 | 大岸頼好


大岸頼好


二 ・二六前夜における國家改造案 
三  『 皇魂 』 と 『 皇民新聞 』

頒布前に留め置かれた 『 皇國維新法案 』 に対して、大岸は別の手段によって国家改造運動を試みている。
それは雑誌 ・新聞による自説の啓蒙であった。
パートナーは、社会運動家の中村義明である。
彼は、大阪を拠点に活動していた共産党員だったが、三 ・一五事件で検挙され、
1931年 (  昭和6年 ) 以降、国家社会主義を経て日本主義に転じていた。
大岸と中村との邂逅かいこうについては、末松太平が記憶を交えて次のように推察している。

青年将校と中村義明が結ばれたいきさつは、松浦から聞いたところによれば、大体こんなことだったらしい。
松浦少尉が少尉に任官して間もないころだったろう。
大阪で里見岸雄を中心とした座談会があったという。
それに松浦は先輩の鶴見中尉と一緒に出席した。
里見岸雄といえば、そのころ流行評論家で 『 天皇とプロレタリヤ 』 『 革命の前夜 』 などの著書は、軍人にも読者を持っていた。
座談会の中心テーマは天皇の科学的研究ということだったという。
が、その席上、天皇を科学的に研究しようとする根本的態度に問題がある、
天皇の本質は科学的に分析してもわかるものではない、
といった意味の発言をして里見イズムの基底をえぐったものがいて、衆目を集めた。
それが中村義明だった。
すでにそのころ遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』 に共感していた中村義明にとっては、
天皇を科学的に研究しようなどという里見イズムは黙過しえないものだったわけである。
たまたまそのとき大阪商大教授田崎仁義博士が同席していて、中村義明に共鳴する発言をしたというが、
鶴見、松浦の二人も、これをわが意を得た反論と思った。
「 あれは面白い男だよ。訪ねてみようではないか 」
教えを聞き、説をたずねるに千里の道も遠しとしなかった当時の青年将校のことである。
松浦少尉は鶴見中尉に同伴して、早速に中村義明をその陋屋ろうやにたずねた。
これが縁になって中村義明と鶴見、松浦らの奈良三十八聯隊青年将校との交友がはじまるのだが、
これが当時鶴見中尉らが 「 和歌山に坐りに行く 」 といって、
なにかにつけ示教を仰いでいた大岸大尉との交友に発展するのは自然のなりゆきだった。
・・< 註 47 ・・・『 私の昭和史 』 236頁 7頁 >

大岸と同じく、中村も遠藤友四郎の思想的影響を受けていた。
遠藤や中村といった 「 転向者 」 の系譜は、共産 ( 社会 ) 主義運動史はもちろん、
国家主義運動史でも後衛に置かれてきた。
しかし、二 ・二六事件に至る国家改造運動のなかで、重要な一角を占めていたことが本稿から明らかになる。
大岸と中村が出会った時期は右の引用でも明記されていないが、
1932年 ( 昭和7年 ) 12月頃には大岸と中村の交友は はじまっていたようだ。
大岸とともに、大阪の中村を訪ねた青年将校の大蔵栄一が次のように回想している。

 大岸とおなじく、初対面のあいさつがすむと 「 大蔵さん、反吐を吐くことは、いいことですね。 」
このわけのわからない言葉が、大岸の第一声だった。
・・・・
翌日は日曜日であった。
大岸といっしょに大阪へ出た。
難波駅についたとき、鼻下に髭を貯えた、一人の小柄な男に出迎えられた。
「 中村義明君です 」 と大岸が紹介した。

四角なひげ面、眼鏡ごしに見る凹んだ眼、どことなく暗い影のある男。
軍人でないことは確かだ。
何者だろう---私は、興味を持った。
「 おとといはご迷惑をかけました。反吐まで吐いたりして・・・・」
「 さア、行きましょう 」
大岸は、中村の言を無視して歩き出した。
何の目的で、どこに行くのか、私にはさっぱり判らないまま、両者に続いて歩いた。
「 中村君は転向者ですよ 」
大岸が、歩きながらささやいた。
これで、反吐の疑問が解けた。
中村が反吐を吐くといっしょに、心の中まで全部を洗い流してしまった。
と大岸は自分自身で確認したという意味のことをいったわけだ。
・・< 註 48 ・・・ 大蔵栄一 『 二 ・二六事件への挽歌  最後の青年将校 』 108頁  1971年3月 読売新聞社 >

中村は、1934年 ( 昭和9年 ) 8月に皇魂社から 『 皇魂 』 を創刊した。
憲兵司令部関係資料 「 陸軍一部将校ノ動静概況  其十 」 によれば、発行部数は 「 三百部 」、
その誌面は 「 現役将校ノ投稿アルカ如キ 」 構成だった。
・・< 註 49 ・・・『 二 ・二六事件 = 研究資料 』 Ⅲ 109頁 >
『 皇魂 』 発行の経緯は、二 ・二六事件時の大岸頼好 「 捜査報告 」 に
「 同十年 一月以降、菅波より約千円ノ交付ヲ受ケ、内数百円ヲ中村義明ニ交付シ、
 維新思想ノ普及ヲ目的トスル同人主幹雑誌 「 皇魂 」 ノ発行ヲ援助シ」・・< 註 50 ・・・『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ 匂坂資料 六 』 517頁 >
とあるので、菅波 ・大岸の後押しが発行に至ったといえよう。
『 皇魂 』 は一輯、二輯の後に、一巻一号 ( 通巻三号 ) が刊行された。
今回確認できたのは、二輯 ( 1934年8月 ) 、一巻一号 ( 同年10月 )、二巻一号~三号 ( 1935年1月10日、25日、2月10日 )、
二巻十五号 ( 12月10日 ) である。・・・リンク → 皇魂 1 、皇魂 2 
執筆者を見ると中村以外は筆名が用いられているが、大岸の手による原稿も多かったという。
各号の誌面は、時事問題では軍縮問題や在満機構改革問題で彩られている。
また、攻撃対象になっているのが統制論者だった。
「 『 統制 』 と 『 協翼 』 の弁 」 ( 二輯 ) では、 「 資本主義自體の延命策 」である 「 統制 」に、
「 我皇國独特の卓越せる原理 」 である 「 協翼 」 を対置する。
「 統制 」 のように上から下ではなく、下から上へ、外から中へ向かうものとされた。
ら ・き生 「 國家總動員本義大綱 」 ( 一巻一号 ) でも、既存の国家総動員の読みかえが行われた。
「 國家の高度組織化 ・續制化 」 である 「 大戰原理國家總動員 」 を批判し、新に 「 皇道原理國家總動員 」 を提唱する。
これは 「 まつろひ 」 ・・< 註 51 ・・・大岸、中村のキーワードである、「 まつろひの精神 」 については 「 神を祭り 祖先を祀る時の心境あり、
祖先をお祀り所の心境に私もなく、邪念もなく全て之れ無し 」 とまとめられた ( 「 まつろひ 」 
『 皇魂 』  一巻一号 >
を核とする 「 我皇國日本の一大家族體國家の國體原理性體系化 」 であり、「 復固維新 」 を希求するものだった。
しかも、統制論者だけでなく、自分たちの 「 維新 」 に沿わない他の国家改造運動も批判の対象とした。
それは日本主義でも同様である。
中村は 「 翦滅せよ !昭和維新を歪めんとする高氏勢の策動を  我等は飽くまで尊皇絶對で、皇運扶翼楠氏の精忠に生きん 」 ( 二巻一号 )
で次のように述べている。

又從つて我々は、今日巷間數多大衆の面前に流布されている所謂俺が俺達がの改造法案、
改革案 ( 然も單なる資本主義經濟制度と、その基礎に立つ政治制度の所謂科學的批判の中から生まれた、
統制主義的、又は社會主義共産主義的等々の、而して又資本主義制度に對する観念的排撃の中から生み出した
任意的な改造法案、改革案 ) を敢て持たない。
我々は確信する、皇國に於ける謂ふ所の改造法案、改革案は、
前述我々の只管なる皇運扶翼の至誠、
燃へ上がるこの至誠が神に達し神意として生まれるものでなければならない。
即ち巷間伝ふる所謂改造法案、改革案は如何にそれが科学的 又は國體原理的美装を爲すとも、
そは畢竟大衆迎合民主下剋上革命の陰謀計畫案たるに過ぎないもの。
然り、皇民我等の大本を無視せる改造法案、改革案、
尊皇絶對、皇運扶翼の至誠を欠ぐ改造法案、改革案によつて、
いかでか皇國體の護持、その十全徹底体系化を庶幾し得んや !
從つてかかるものによつて皇國今日の社会矛盾の解消を所期するは正に痴人の夢である。
これを要するに、謂ふ所の國内改革、昭和維新に對する我々の態度は、
一言に盡せば、無私無我只管に  大君の稜威の弥栄を鐐迎し奉るの至純、皇運扶翼これである。
我等は確信する、これこそが日本人我等の血管に流れ伝ふる民族本來魂であり、皇民我等の歩むべき大本である。


ここには明記されていないが、北一輝の改造法案や 「 陸軍パンフレット 」 も視野に入っていたと思われる。
中村がこうまでかたくなに他の改造案を否定したのは
「 皇國の改革は / 上御一人の御事 」 (  「 日本主義の本質について 」 二巻二號 ) と考えていたからである。
「 愛國 」 や天皇の名を語りながら自己主張とみまがうような改革案の不純さを彼は許せなかった。
1935年2月頃に、中村義明は活躍の場を大阪から東京へ移し、これにともない皇魂社も東京に進出した。
ただし、後援者の大岸は和歌山にいたので、
東京で中村を受け入れたのが海軍青年将校の林正義 ( 五 ・一五事件で収監 ・出獄 ) だった。
林は次のように回想している。

昭和九年大岸君は共産党転向後遠藤友四郎の教えを受けている中村義明君を紹介した。
私は当時雑誌発行の準備をすすめていた。
中村君は共産主義から急に天皇絶対となり、私との間にはしっくりしないものも感ぜられたが、
大岸君はしきりに一緒に東京で雑誌をやってもらい度いと熱望した。
其熱意に負けて中村君を大阪から東京に呼び彼を名義人として雑誌 『 皇魂 』 は東京から発行された。
私が満洲から友人に工作してもらって取得する金は 『 皇魂 』 に突き込むことになってしまった。
北一輝氏の改造法案に全的に賛成しない大岸君は、
陸軍部内の青年将校の思想教育と改造法案信奉者の是正も 『 皇魂 』 に託していた。
・・< 註 52 ・・・林正義 「 大岸頼好小冊子に化ける 」 72頁 『 大岸頼好  末松太平---交友と遺文 』 >

また、大岸は、青年将校の大蔵栄一にも中村の後援を頼んでいたらしく、
大蔵は次のように回想している。

ちょうどそのころであった。中村義明が大阪から上京してきて、麹町二丁目元園町に一戸を構えた。
中村はすでに大阪で 『 皇魂 』 という雑誌を発行していた。
大岸中尉から、
中村が東京に進出するを機に 『 皇魂 』 を全国的に飛躍せしめたいのでよろしく頼む
という手紙がきたので、
私はさっそく中村を訪ねた。
中村義明は、前述したように共産党の転向者である。
二年前大阪で大岸から紹介されてから、二度目のめぐり合いである。・・・・
『 皇魂 』 の記事は、ほとんど大岸頼好の筆によって書かれていた。
和歌山聯隊における演習の寸暇をぬすんで、あるときは徹夜して書きなぐった分厚い封筒が、
速達便でしめ切り間ぎわに送られてくることもしばしばであった。
・・< 註 53 ・・・
『 二 ・二六事件への挽歌 』 185頁  6頁 

東京進出の中村は、『 皇魂 』 の姉妹紙として 『 皇民新聞 』 を1935年3月10日に創刊する。
今回、創刊号から九号、一四、一五号が確認できたので
・・< 註 54 ・・・ 一~三、五~九、一四号は 「 長尾文庫 」 B285~2833  大阪府立大学情報センター図書館所蔵
 一五号は 「 真崎甚三郎関係文書 」 2275 >

『 皇魂 』 よりも二 ・二六事件直前の彼らの思想、運動を丁寧に追うことができる。
発行に至ル経緯は、大岸頼好の前掲 「 捜査報告 」 に
「 ( 大岸が ) 同 ( 1935 ) 年夏、和歌山に於て
 菅波三郎及中村義明と維新運動及中村義明主幹の 「 皇民新聞 」 擴張等に関し会談し 」
・・< 註 55 ・・・『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ 匂坂資料六 』 517頁 >
とあるので、『 皇魂 』 と同様、やはり大岸、菅波の影響が及んでいた。
紙面は、新聞のためか、『 皇魂 』 という同人誌には見られない記事の幅と読者への影響を意識したものとなっている。
攻撃対象は 『 皇魂 』 と同じく天皇機関説と親ソ論だが、『 皇民新聞 』 では前者に比重があった。
また、他の日本主義運動を批判しながら、自らの教典を説いているのも特徴的である。
本稿ではすべての論説を紹介できないので、彼らの思想をとらえるうえで、とくに重要と思われるものを見ていきたい。
まず創刊号一面に掲載された 「 改革維新運動と本紙の使命 」 である。
これは 「 中村生 」 の署名があり、中村義明の筆によると思われる。
ここで批判しているのが 「 改革維新を歪める非皇魂フアツシヨ運動 」 である。
その意味するところは、
「 民主覇道的な、所謂國家統制經濟の ( 資本主義の修正、金融資本の鞏権的制覇をその本質とするところの ) 
基礎に立つ××勢力の獨裁を目ざすフアツシヨ運動 」 であった。
日本主義に立つ彼らにとって、ファシズムは 「 欧米流支那流の革命 」 と映っていたし、
成否はともかく、こうした 「 革命 」 の背後にコミンテルンの影響を見て取っていた。
これに対する自らの運動が 「 改革革新運動 」 になる。 それは 「 復固 」 であって、欧米流ではない。
その核心として中村があげるのが、
「 國民我等の日本民族本來魂に基く皇民的自覺を熾烈鞏化すること、
 即ち國民我等の生活實践を全皇民一魂一體、一點ぬかりなき十全徹底皇運扶翼の大本に基くものたらしめること 」
になる。
こうした批判と自説をさらに推し進めたのが
「 新邪宗門 = 所謂 『 維新 』 運動 」 だった。
( 第五號、1935年5月10日、ただし第四號 ( 4月25日 ) が發禁になったため第五號にも掲載 ) 
署名はないが、右記の中村の文体とは異なる。
ここで批判される対象は、前回と同じく 「 非皇魂 」 だが、
その原因を 「 明治御一新 」 までさかのぼり、
「 『 維新 』 運動 」 が掲げてきた 「 資本主義の終焉 」 「 勤労民大衆の救済 」  「 農民我等を救へ 」
「 『 吾れ貧窮農民を救はん 』 的維新改造團體の簇生動 」などを 「 維新 」 の擬装にすぎない、
つまり 「 邪宗門なる 『 維新運動 』 」 であると批判する。
この 「 邪宗門 」 に変わるものこそ 「 眞正維新 」 である。
その 「 真諦 」 は
「 皇民本來なる皇魂の燃え上る尊皇絶對、
忠義一途の信仰の凝り固まれる鞏固不動の信念に出發する皇運扶翼の運動 」
である。そして
「 皇民本來魂の信仰の鞏調振起こそ維新運動の最大最高の核心である。
これなくして百千の改造案も、千、百万の團體組織も所詮似而非維新運動である 」
と言い切っている。
最後に自分たちの主張を次のように展開した。

昭和維新とは明治第一維新の不徹底の根因に開覺せる皇民の尊皇絶對忠義一途のまつろひ運動である。
眞正文化--大家族全體文明建設の一大倫理運動である。
皇國日本を發祥地とする まつろひ文明を全世界に押し広め行く世界革命の聖業である。
世界修理八紘一宇の大道念の徹底運動である。
『 尊皇絶對忠義一途 』 =の まつろひ魂、即ち皇民本來の皇魂の熾烈然上なくして何の昭和維新ぞや。
まつろひ精神の體得なき所謂維新運動は、たとへそれが如何に 『 國體の本義明徴 』 であらうとも、
将又 『 建國の大義 』 に基くものであらうとも、将又 『 純日本精神 』 を基調とする 『 維新運動 』 であらうとも
皆 嘘の皮である。
明治以降六十年の邪宗門 ( 自由主義--法治主義--超皇國坊主の巣窟 ! ! )
に新に 『 鞏權 』 『 統制 』 主義のなま臭坊主が割り込むで行くための笛や太鼓の大名行列に過ぎぬ。

今日の研究では、大岸、中村らの皇魂社も一括して皇道派に分類されている。
しかし、右記の引用から明らかなように、彼らの論は統制派の主張はもとより、
北の改造法案 ( とくに 「機關説 」 とも称された天皇観や 「 國家社會主義 」 的側面 ) とも相容れなかった。
しかも、大岸らは眞崎甚三郎とも距離があった。
眞崎は、日記で
「 松浦少將ノ談ニ第四師團參謀長ノ公文ニ和歌山聯隊ノ大岸某正月ニ上京シ予ノ庇護ヲ受ケアル如キ口吻アリト云フ。
 斯ルコトハ全ク事實無根ニシテ輕卒モ甚ダシク、之ヲ明確ニスル如ク同少將ニ依頼ス 」 ( 1934年2月26日 条 )
・・< 註 56 ・・・『 眞崎甚三郎日記 昭和七 ・八 ・九年一月~昭和十年二月 』 149 頁 >
と書き留めており、内心大岸の存在を苦々しく思っていた。
それゆえ、大岸とも近い對馬勝雄中尉が、皇魂社の資金援助を依頼しに来た際にも、
眞崎は次のように応対している。

對馬中尉來訪・・・・彼ハ尚皇魂社ノ窮状ヲ訴ヘ 五百圓許リ援助ヲコヘリ、
 予ハ、中村 ( 義明 ) ニハ未會見ナレドモ、彼等ハ予等ノ援助アル如ク吹聽シ大ニ迷惑シツツアリ、
斯クテハ共ニ倒ルルニ至ルベシ、
予ハ他ニ相談スル一人ノ將校アリ、一、二日ノ内ニ會見ヲ豫期シアリ、
此ト相談シテ若シ成立セバ 何処ヨリカ金ノ入リ来ル様工面セン
ト答ヘ、尚近時ハ金ヲ出シタル者ガ迷惑スルコト多キ故 殆ド出ス者ナキコトヲ付加セリ。
( 1935年 12月14日 条 )  」 ・・< 註 57 ・・・『 眞崎甚三郎日記 昭和十年三月~昭和十一年三月 』 318頁>

大岸、中村とも遠藤友四郎の思想的影響を受けていたが、
その改造運動は遠藤ほど眞崎の共感を呼ぶにはいたっていない。
大岸が幕僚将校で親しかったのは、皇道派の小畑敏四郎であった。
井上孚麿によれば、
終戦時 「 小畑敏四郎さんが、 「 大岸は昔から自分の子供のやうに、思って来た男だから 」 」
 ・・<註 58 ・・・井上孚麿 「 大岸君のこと 」 76頁  『 大岸頼好  末松太平--交友と遺文 』  >
と述べたというが、その具体的な交流は明らかではない。
唯一、大岸らと眞崎をつなぐ可能性があったのは、相澤三郎中佐である。
既述のように相澤は大岸、西田たちと交友があったほか、
病床にいた相澤を眞崎が見舞いに訪れるほど、双方と親しい関係にあった。
眞崎の日記 1935年 ( 昭和10年 ) 1月3日条には、突然訪れた相澤が
「 皇魂ノ發行ヲ援助セラレタキコト、將來二萬部ヲ發行ス、之ガ爲 月二千圓ヲ要ス、
 菅沼招致ノ必要ナルコト、之ハ永田ヲ駆逐ナルヨリモ有効ナルコト等 」
・・<註 59 ・・・『 眞崎甚三郎日記 昭和七 ・八 ・九年一月~昭和十年二月 』 391 頁 >
を眞崎に訴えたことが書き留められている。
しかし、この頼みも約半年後 ( 8月12日 ) に起きた相澤による永田鐵山刺殺事件で途切れた。

次頁 四 『 二つの皇道派 』  に 続く


大岸頼好 皇國維新法案 5 『 四 二つの皇道派 』

2018年07月13日 09時26分07秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
四  二つの皇道派

このように上層部との関係や青年将校同志の関係に着目すれば、皇道派は一枚岩とはいえなかった。
その一方で、西田派青年将校と大岸らを結びつけるきっかけも存在していた。
すでに1935年 ( 昭和10年 ) の春頃、つまり中村義明が本拠地を東京に移したあとから、両派提携の試みははじまっていた。
中村義明は憲兵調書で同年六、七月以降、『 核心 』 と 『 皇魂 』 の合併を協議する目的で核心社に行ったと供述している。
核心社とは 西田派の牙城というべき団体で、その構成員は澁川善助らが所属していた直心道場
( メンバーは西郷隆秀、大森一声、杉田省吾、石渡山達、三浦延冶ら ) や 勤皇維新同盟と重なっていた。
核心社の機関紙が 『 核心 』 で、その特徴は題字の上に書かれた 「 維新工作の綜合機關 」 に尽されている。
・・< 註 60 ・・・『 核心 』 については堀真清  『 西田税と日本フアシズム 』 ( 2007年8月 岩波書店 ) 第六章第二節参照 >
毎号 「 躍進する維新運動 」 で全国の運動を紹介し、
天皇機関説問題などを契機として国家改造運動の統一戦線構築を目指した。
それゆえ、『 核心 』 と 『 皇魂 』 が接近するのは問題といえた。
しかし、このときの合併協議は 「 問題は御互の信念、維新に対する見解の一致 」 として
「 合併 」 ではなく 「 編輯の連絡 」 をやっていくことにとどまった。
・・<註 61 ・・・林茂編 『 二 ・二六事件秘録 』 二巻  29頁  1971年5月  小学館 >
それが、同年八月の相澤事件をきっかけに提携の動きが加速したのである。
事件の詳細は別の研究に譲るが、本稿と関連するのは、
この事件によって、西田税らの東京グループと大岸頼好らの和歌山グループとの提携が図られたことである。
既述のように、相澤は大岸にとって同志と呼ぶべき存在であり、西田との関係も古かった。
このため、相澤の永田刺殺は、青年将校間でくすぶっていた思想的な対立を棚に上げたまま、
提携の動きを加速させたのである。
大蔵栄一は次のように回想している。

相澤中佐の一撃は、全国の同志青年将校にとって、大きな衝撃であった。
「 相澤につづけ 」 という声がしきりにいいかわされ、盛り上がってきた。
その中でも大岸頼好大尉は、和歌山にあっていち早く相澤中佐に対する思い出、感想、逸話等々の原稿を広く募っていた。
とくに最も親しくしていた同志関係の人々は避けて、相澤と少しでもかかわりのあったものの原稿に重点をおいた。
大岸はこれらの原稿を小冊子にまとめ、広く一般の人々に購読してもらうため、廉価で市販するつもりのようであった。
その場合、われわれ同志の原稿を避けたのは、かえってひいきの引き倒しになることをおそれての大岸らしい配慮である。
大岸は、やがてまとまった原稿を全部西田税あてに送ってきた。
東京で検討の上、有効に処理してほしい、という、全面的に西田に依頼した態度であった。
この大岸の態度に、しん底から喜んだのは西田であった。
「 大岸君からこんな手紙がきたよ 」
西田は、大岸の手紙と分厚い原稿とを私に見せながら、ニコニコしていた。
「 さっそく僕は 『 まえがき 』 を書いてみた。 こんなものでいいだろうか 」
と、その原稿を私に示す西田の顔は明るかった。
昭和八年 ( 1933年 ) 後半ごろから今日に至るまでの西田と大岸との確執が、
これでいっぺんにふっとんだ、と私は思った。
人間の感情の推移ほどはかり知れないものはない。
人為的にとつおいつ考えあぐねたことが、相澤中佐の一挙によってこうも簡単に霧消へのきっかけになろうとは、
夢想だにしないことであった。
大岸と西田との感情的確執が北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 をめぐってのことであることは、
さきに述べた通りであるが、青年将校運動の先達である西田と大岸との確執は、
私ら後輩にとっても最も大きな頭痛の種であった。
それがいま解きほぐされようとしているのだ。
そういう別な意味でも、私はこの事件をかみしめたのであった。
・・< 註 62 ・・・『 二 ・二六事件への挽歌 』 225頁 >

また、翌月の憲兵司令部関係資料 「 陸軍一部将校ノ動静概況  其十三 」
にも、提携の動きが伝えられている。

「 歩五末松大尉ハ八月九日付澁川善助 ( ヨリ ) 左記要旨ノ通信ヲ受ク
左記
一昨日大森カ貴様ニ参ラサレタ話ヲ聞イテ嬉シカツタ
十月ノ再會ヲ待ツ 
大 ( 大岸 ? ) * = 皇魂ト  西 ( 西田 ? ) * トノ関係モ 菅 ( 菅波大尉 ) ノ上京ニヨリ ( 因ニ会ツテ來テ )
極メテ喜ハシク進展セントシテ居ル 菅波カ西下ノ途中 ニ會ツテ行ケハ九割ハ氷解スル筈ダ
アトノ一割ハ道義的慎ミノ問題ダ ( 編集部註。* は原註 )
・・< 註 63 ・・・『 二 ・二六事件 = 研究資料 』 Ⅲ  176頁>

この 「 大 = 皇魂 」 とは大岸頼好と 『 皇魂 』、「 西 」 とは西田税のことだと思われる。
その引き合わせ役をつとめたのは菅波だった。
菅波は、東京陸軍軍法会議第二回公判で、
「 昨年 ( 1935年 ) 皇魂と 核心を一緒にする爲に千圓与へ、大岸の生活費を八百圓、磯部に五百圓与へました丈です 」
と供述している。・・< 註 64 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 三巻  371頁 >
実際、この提携による変化は、中村、大岸らの 『 皇民新聞 』 誌上にもあらわれた。
一四号 ( 1935年10月10日号 ) は 「 機關説思想徹底追撃展開號 」 となり、
頁数がこれまでの倍 ( 八頁 ) になっているうえ、編集部によれば、
「 本第十四號より日刊紙型に擴大の予定の処 」 などと記され、紙面の改編が目指された。
また、同号の 「 各地の同志に寄す 」 「 擧國一體運動の躍進とその根本基調 」 「 維新運動發展への一考察 」
 ( いずれも無署名 ) では、主張は旧来のままでも、 『 核心 』 と同じく国家改造運動の広がりが意識されている。
とくに最後の論文では、「 神人合一君民一體の一大家族體國家の完成 」 に向けて
まず 「 隣人一體氏子一體化の運動 」 を進めることが呼びかけられた。
また、八面では、天皇機関説運動の全国的な広がりを紹介しており、
なにより解説に 「 最後の一言この報導は核心社同人の厚意ある助援に負ふ 」 と付記されていることは、
両者の良好な関係あってこそであろう。
こうした関係の深まりは、相澤事件の 「 公判闘爭 」 にも影響を与えた。
憲兵司令部関係資料 「 陸軍一部將校ノ動靜概況  其十四 」 には、
十月末に西田、磯部、村中らによって 「 公判闘爭 」 の相談がなされていたとされ、
その目的も併記されている。

直心道場ヲ中心トスル
大森一声、澁川善助、磯部浅一、村中孝次、西田税、大蔵大尉
等ハ十月二十七日頃本郷三丁目源來園ニ於テ相澤中佐公判闘爭ニ關スル秘密會合ヲ催シタル趣ニシテ
協議内容次ノ如シト
①  テロノ脅威ヲ以テ効果的ニ運動繼續
②  統制派ノ中央進出阻止
③  公開裁判ノ絶對的獲得 ・・< 註 65 ・・・『 二 ・二六事件 = 研究資料 』 Ⅲ  186頁 >
その後も  『 核心 』 と 『 皇魂 』 の双方を通じて、相澤支援が呼びかけられていった。
『 皇魂 』 二巻一五号 ( 1935年12月20日 ) 掲載の北満第一線皇軍将校有志 「 御統帥の×××相澤三郎中佐 」、
×××尉 「 相澤三郎中佐を偲ぶの侭 」 でも相澤への共感が綴られている。
また、先の末松の回想でも言及されていた 『 相澤中佐の片影 』 ( 1936年2月10日 ) 刊行によって、
国民に広くこの問題を訴えることも考えられた。
本の編纂準備にあたったのは和歌山の大岸だったとされ、
ここに末松は 「 相澤公判に關するかぎり、東京と和歌山の歩調の一致を物語るもの 」 ・・< 註 66 ・・・『 私の昭和史 』 247頁 >
として、東京と和歌山との共闘を見出している。
しかし、ここで末松のいう 「 かぎり 」 とはどういう意味だろうか。
同時期に、相澤公判 ( 1936年1月28日開始 ) によって、事件の意義を文書戦で明らかにし、
相澤支援の動きを昭和維新運動に結びつけていこうという動きが起きていた。
しかし、それとは異なり、蹶起に向けた動きも同時期に起っていた。
実際、公判は第六回 ( 2月12日) になると公開禁止となり、
公判闘争が暗礁に乗り上げたこともこの動きに拍車をかけたと思われる。
つまり、末松は、蹶起、すなわち二 ・二六事件に至る動きにおいて、
東京と和歌山の共闘があったわけではなかったことを述べている。
そして、もうひとつ考えられる背景として、
東京と和歌山における思想的な距離がこの時期においても変わったわけではなかったことがある。
いや、相澤事件後に両者の提携が進むなかでも、大岸の思想は北の改造法案とはますます離れていった。
その最大の点は、政治、経済、社会の改造、また国家機構の改変といった具体的な話ではなく、
信仰の問題へ置き換えられていった点である。
これは 『 皇國維新法案 』 の地点よりもさらに突き進んでいる。
1935年9月、相澤事件の証人尋問で、大岸は自らの国家改造観を次のように述べている。

五問    證人ハ國家改造ノ必要ヲ認メテ居ルカ
答    私ガ見習士官頃カラ中尉ノ初頃マデハ専ラ國家本意ノ改造運動ヲ考ヘテ居リマシタ。
 ソシテ其ノ方面ノ研究ヲ致シマシタ。私ハ性格上研究的デアリマシテ没頭ノ気味ガアリマシタ。
中尉ノ初頃カラ所謂單ナル經濟、政治、社會機構第一主義ノ改造ガ
外交性ノモノデアルト云フ感ジガ起キテ參リマシタ。
ソシテ主トシテ頭ヲ古典的ナ文献ノ研究ニ向ケテ參リマシタ。
尤モ大キナ影響ヲ与ヘマシタノハ御歴代ノ御詔勅ト古事記デアリマシタ。
ソシテ古事記ノ修理固性ヲ深ク考ヘ初メマシタ処、
遂ニ神ト云フ様ナ感ニ發展シテ參リマシテ神佛ト云フ霊的ナ考ヘニ捕ハレマシテ、
遂ニ現人神陛下ガマシマスト云フ信仰ニ到達致シマシタ。
之ガ在來ノ單ナル所謂政治、社会、經濟機構第一主義ノ考ヘ方ニ決定的ナ判決ヲ与ヘマシタ。
此ノ判決ト申シマスノハ、所謂改造或ハ所謂維新ナルモノノ眞髄ハ
先ヅ第一ニ我々ガ現人神陛下ノ子デアリ赤子デアルト云フ自覺、
信仰デアルト云フ結論デアリマス。
七問    証人ノ懐抱セル國家改造ノ理想ト目的ハ如何
答    國家改造ト云フ事ハ臣下トシテ申上グベキ事デハナク、一ニ上御一人ノ御事ニ掛ツテ居ルト考ヘマシテ、
 我々赤子ガ眞ノ赤子トシテノ充實發展、換言シマスト天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スル事ニ邁進致シマスナラバ
必ズ御稜威ガ御盛シニナリマシテ、天下皆一人モ其ノ処ヲ得ザル者ナキ結果ニ到達スルト信ジマス。
從テ一般ニ云フ改造トカ維新トカ云フ辭ヲ以テシテハ、此ノ信念ハ十分表ハス事ハ出來マセヌ。
叙上ノ見地カラ眞ノ改造ハ眞ノ維新ト云フ字句ヲ鞏イテ使ヒマスナラバ、
天皇陛下、即チ日本國デ赤子ハ陛下ノ分身分霊デアリマシテ、
此ノ信仰ノ上ニ立ツテ其ノ曰曰ノ生活ヲ充實發展シテ行ク事ガ即チ維新デアリ、
改造デアルト信ジマス。・・< 註 67 ・・・『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅳ 匂坂資料 八 』 446、7頁 >

天皇という神への近接による霊的な維新が大岸を 「 所謂政治、社會、經濟機構第一主義ノ考ヘ方 」から
遠ざけた事が記されている。
大岸によれば、天皇信仰のもとに各人が己の生を全うすることこそ 「 維新 」 であった。
国家改造を担うのは天皇だけなのである。
むろん、皇道派青年将校の一部が目指すクーデターやテロとは遠くかけ離れたものになる。
この翌月、大岸には 『 皇政維新法案大綱 』 『 皇國維新法案 』 につづく、
第三期の改造案として 『 皇政原理の一考察 』 を発表した。
この論稿は、大岸によれば中村義明との合作であったという。

夫れから昨年皇魂社から 『 皇政原理の一考察 』 と云ふのを皇魂付録として出して居ります。
之は中村が作り私が筆を入れたものであります。
之は殆んど自分のものとなつたものを発表して居る考であります。
私の考は皇国維新が第二期、一考察が第三期の現在であります。
私は軍務と維新とを二元的に考へるのは間違て居る、直接行動に出づるが如きは
外来思想で、奉公そのものが維新だと思ふのであります。」
・・< 註 68・・・『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ 匂坂資料 六 』 399頁
 ここで大岸が 「 皇政維新 」 と述べているのは 「 皇国維新法案 」の記憶違いだろう。
この文章の前に 「 昭和八、九年に皇政維新と云ふものを書いて東京に行き、澁川善助に見せると、是非印刷したいと云ふ訳で、
小さな印刷物にしました 」 399頁 と述べているからである。>

これは 『 皇魂 』 1935年10月15日号の付録として発表されたものであった。
同号は未確認だが、幸い1937年に国体原理研究所という団体が復刻しているので、
これを見ていきたい。
構成は以下のようになる。

総説
天皇
一  天皇即現人神
一  天皇親政
一  親裁ト マツロヒ
一  生産ト天壌無窮
一  天皇即至親
一  天皇ト國體
政治の原理
一  歪曲せられたる政治理念
(イ)  法治思想
(ロ)  徳治思想
一  日本政治道の規範
一 祭即政

『 皇政原理の一考察 』 のすべてが復刻されたのかという疑問は残るものの、
『 皇國維新法案 』 とは異なり、
国際関係、「 亜細亜聯盟 」 の主張、制度改造論が一切省かれているのが特徴である。
その内容をまとめれば、
天皇親裁 ( シラス ) と それに相即する人民の輔弼 ( マツロヒ ) が記されたものとなる。
前者の天皇親裁では、天皇は現人神であり、国体であり、「 至親 」 であり、
その 「 親裁 ( シラス ) の希求が説かれている。
後者の人民の輔弼では、「 欧米流 」 で 「 力 」 に依拠する 「 法治思想 」、
「 支那 」 に発する 「 徳治思想 」 をいずれも批判し、
「 日本の政治道の規範 」 として 「 神への融合参加 」
( それは 「 無私、没我の敬虔なる折の大乗犠牲心、( 幸福感との一致 ) に立脚する 」ことにつながる )
すべきだと説く。
それゆえに、「 祭即政 」 ということになる。

・・・・「 マツリゴト 」 は実に 「 現人神 」 ( 宇宙心、絶対力 ) への 「 マツロヒ 」
即ち神人合一の実践たり君民一体、祭即政たり。
政治とは 「 マツリゴト 」 なり。
億兆一心の 「 マツロヒ 」 即ち天皇信仰の実践たり。
之れ実に生命発展の原理たる 「 生産 」 の原理 ・生成化育、国家民族の無窮なる生成発展の原理を含蓄せる至高の要義たり。

『 皇國維新法案 』 では、天皇は 「 祖神 」 の直系という位置付けだった。
今回は 「 顯現者 」 となる。
天皇にとって、シラスとは 「 皇祖神 」 への 「 尊崇帰一の御実践 」 である。
また、 『 皇國維新法案 』 では、天皇が神に対して 「 まつろひ 」 することも述べられていたが、
今回の 「 マツロヒ 」 では人民が現人神 ( つまり天皇 ) に対して行うものであることがとくに強調されている。
つまり、天皇の神格化がさらに推し進められた。
むろん、こうした思想上の変化は、現実の運動と関連づけられるべきものだった。
幡掛正浩が戦後の追悼文で評したように、大岸は 「 北、西田両氏の影響下にある青年将校の中に全身を投じ、
しかもその中から、尊皇絶対の方向へ同志の思想を正して行こうと心魂を傾け尽した人 」
・・< 註 69 ・・・幡掛正浩 「 私の大岸頼好 」 44頁  『 大岸頼好  末松太平--交友と遺文 』 >
だったからである。
それゆえに、この大岸 ・中村、つまり皇魂社における信仰の深化はもとより、
こうした理論を改めて公にしたことは、国家改造運動に思わぬ影響を与えていった。
これについて、直心道場幹部の大森一声が戦後になって興味深い回想 ( 1971年 7月28日 ) をしている。

それは二月事件と相澤事件の間ごろだと思いますが、秋ごろでした。
十年の秋でしょうか、そのころに私の道場に集まったのです。
皇魂派は、菅波もたしか満洲から来たと思います。
菅波、大岸、中村 こちら側は大蔵栄一、村中、磯部、末松太平、澁川、西田、
私のほうから西郷と私、あるいは加藤春海、福井幸もいたかも知れません。
それらが談合したのです。
談合した結果は、これは面白い議論になったのですが、
改造法案というものは、一時一句訂正を許さないものかという議論がでたのです。
・・・・
大分激しい議論になりましたけれども、結局こういうことになったのです。
改造法案はどうあるべきか。
ここで抽象的な議論をしてもしようがない。
具体的に政治はこう、経済はこう、教育はこう  というふうに、両方で具体的に案をだそうではないか。
それから外地の軍人たちに分裂しているという印象を与えないためには、
「 皇魂 」 という雑誌と 「 核心 」 という雑誌を、おのおのその責任分野を決めようじゃないか。
「 皇魂 」 は大衆啓蒙に、「核心 」 は理論誌にするということにそのとき申し合わせたのです。
そういふような編集方針で両方併行していく。
できるならば 「 皇魂 」 は新聞紙にして、
うんとだして配布するということにしてもらいたいということに話合いがなったのです。
そして何ケ月か後に、改造法案の草稿をもちよって、これを検討しようということになったのです。
ところが大岸頼好が協定違反をしたのです。
大岸頼好がやったのか、中村義明がやったかわかりませんけれども
「 皇國維新法案 」 というものをつくって、
われわれに相談なしに突如発表しちゃったのです。
そこで西田関係の青年将校は憤慨したわけです。
これは約束違反じゃないか。
せっかく決めたものを何故ぬきうちにやるか。
それならおれのほうもということになつたのです。
それが 『 大眼目 』 という新聞がでた原因なのです。
『 大眼目 』 を西田が出すとあたりさわりがありますので、福井幸という、これを編集署名人にして、『 大眼目 』 をだしたのです。
これに相澤事件の公判記録をどんどん載せて、ばらまいたのです。
完全にそこで皇魂派と西田派、いわゆる皇道派の青年将校とは分裂しちゃったのです。
・・< 註 70 ・・・『 大森曹玄 ( 一声 ) 氏談話速記録 』 40頁 1頁 1971年 内政史研究会 >

右記に 「 皇國維新法案 」 が登場しているが、その発行は1934年 ( 昭和9年 ) 4月頃、
しかも、『 皇魂 』 創刊 ( 同年八月 ) の前なので、大森の記憶違いであろう。
『 大眼目 』 創刊は1935年 ( 昭和10年 ) 11月だからなおさらである。
したがって、彼が指したものが 「 皇政原理の一考察 」 ( 同年10月15日発行 ) だと時期的に合致する。
これの発表が西田派の青年将校に物議を醸したことは、
中村義明が憲兵調書で
「 皇政原理の一考察について、そう勝手にこんな重大な意見を発表されては困ると云ふ話が出ました 」
・・< 註71 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 二巻 29頁 >
と述べていることが裏付けている。
その後、澁川善助らによって 『 核心 』 と 『 皇魂 』 『 皇民新聞 』 合同の編集委員の設置と会合の開催が呼びかけられたが、
中村義明はかたくなに参加を拒み、『 皇民新聞 』も 11月25日号をもって廃刊したという。
こうして、二つの皇道派は思想の溝が埋まらぬまま、二 ・二六事件へと至ることになった。

次頁  おわりに  に 続く


大岸頼好 皇國維新法案 6 『 おわりに 』

2018年07月11日 18時37分13秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
おわりに

本稿は、二 ・二六事件に至る国家改造運動において
これまであまり注目されてこなかった大岸頼好の思想と国家改造案に着目し、その変遷を追った。
改めて行論をまとめれば、
まず戦後の研究史における 「 皇政維新法案大綱 」 「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 「 皇國維新法案 」
の扱われ方を代表的な文献に基づきながら整理した。
それにより、「 皇國維新法案 」 がその実在を明らかにする契機がありながらも、
戦後の研究史から消失していく過程を跡づけた。
「 一  「 皇政維新法案大綱 」 の行方 」 では、「 皇政維新法案大綱 」 がどのような背景のもとで作成され、
 「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 へ衣替えし、頒布されたのかを明らかにした。
もともとは大岸頼好が私的に作成した 「 皇政維新法案大綱 」 が、鳴海才八という実業家 ・社会運動家の手を伝うことで、
「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 として装いを新たにした。
これは鳴海の手によって、東京の軍人や社会運動家に送られたばかりか、
のちには満洲まで飛び火して 、「 在満決行計画大綱 」 という新たな指針を背負うなど独自の変容を遂げていく。
「 二  大岸頼好と 「 皇國維新法案 」 では、「 皇政維新法案大綱 」 から思想的な変化を遂げた大岸が、
 遠藤友四郎や日本主義に傾斜するなかで、
北一輝の 「 日本改造法案大綱 」 とは異なる もう一つの指針を日本の国家改造運動に生み落としていく過程を追った。
「 皇国維新法案 」 が 「 皇政維新法案大綱 」 「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 と異なる点はその名のとおり、
国家総動員への志向が退いたことである。
制度改造論が薄められ、思想性 ・抽象性がより濃くなった。
かわりに、対内的には天皇主義による 「 世界革命 」 の強調や個人主義、民主主義、資本主義の超克が、
対外的には対ソ英強硬論と 「 亜細亜聯邦 」 結成の主張などが組み込まれた。
しかし、大岸の存在感はともかく、
「 皇國維新法案 」 が当時の青年将校や国家改造運動にどこまで影響を与えたかは未知数であった。
その後、大岸はこの改造案とは別に、元共産党員の中村義明とともに、
『 皇魂 』 や 『 皇民新聞 』 という新たな媒体を通して、自説の普及をはかろうとした。
「 三  『 皇魂 』 と 『 皇民新聞 』 では、大岸と中村との出会い、『 皇魂 』 発刊の背景、
 中村と皇魂社の東京進出と青年将校の支援、
東京における 『 皇民新聞 』 の創刊とこれら媒体で展開された大岸と中村らの思想を追いかけた。
かつて大岸は、国家改造運動の横の提携 ( それこそが 「 皇政維新法案大綱 」 作成の原動力だった ) を目指したが、
この時期になると思想上の鈍化をこえて、他の改造運動の批判にまで進む。
すなわち、制度改造論からさらに遠ざかり、
大衆化や 「 統制 」 による資本主義批判にこだわる国家改造運動を 「 儀装 」 として批判した。
こうした主張は、必然的に他の国家改造運動との摩擦を生んでいった。
当時の青年将校内では、大きく見れば、
大岸を中心とする和歌山グループと西田税を中心とする東京グループがあったとされる。
もともと思想や機関誌の性格も異なる両派だったが、
相澤事件を機にかつてなく接近した様を追いかけたのが 「 四  二つの皇道派 」 になる。
たしかに、大岸らの機関紙を見れば、提携の断片を拾い出すことは可能である。
しかし、その一方で、大岸らは新たな改造案 「 皇政原理の一考察 」 をまとめあげていた。
ここでは 「 皇國維新法案 」 よりも制度改造論と対外関係論が退き、天皇信仰がさらに前に出ている。
そして、国家改造は天皇によるものとして、テロやクーデターはもちろん国家改造案も否定される。
天皇信仰のもとに各自が己の生を全うすることこそ 「 維新 」 となる。
こうした昇華とでもいうべき彼らの態度は軋轢あつれきを大きくした。
そして、この思想上の溝は埋まらないまま、二 ・二六事件へ至ることになる。
最後に、研究における本稿の意義と特徴をまとめると次の四点になろう。
一つ目は、これまで未引用だった 「皇國維新法案 」 を本稿ではじめて紹介し、
  その前身である 「 皇政維新法案大綱 」 「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 との錯綜していた関係を整理し直し、
千行研究を抜本的に塗り替えたことである。
二つ目は、これまで後衛に置かれていた 「 転向 」 の影響が
  二 ・二六事件に至る国家改造運動と国家改造案にも少なからぬ影響を与えていたことを指摘し、
同時期の思想史研究の再検証を提起したことである。
三つめは、二 ・二六事件の研究で協調されてきた北一輝の改造法案の存在とその青年将校への影響という通説を、
  これまでほとんど取り上げられてこなかった大岸頼好と 「 皇國維新法案 」 への着目から相対化し、
二 ・二六事件に至る皇道派青年将校の思想と国家改造運動を、
西田グループと大岸グループの相剋と提携、そして分裂という視座から動態的にとらえなおしてことである。
四つ目は、三つ目とも関連するが、同時期陸軍における皇道派 ( 日本主義 ) 対統制派 ( 国家社会主義 ・国家統制主義 )
  という既存の対立軸を、皇道派内における日本主義対国家社会主義 ( 国家統制主義 ) という
思想上の対立を浮かびあがらせることで問題提起を行ったことである。
この皇道派対統制派という対立図式は、今後別の資料、角度からも再検証される必要があると考えているが、
それについては稿を改めることにしたい。



目次頁 
二 ・ニ六前夜における国家改造案  に 戻る


『 極秘 皇國維新法案 前編 』

2018年07月09日 19時45分23秒 | 大岸頼好

『 極秘  皇國維新法案  前編 』

前編目次
第一編    維新皇國ノ原理 
第二編    皇國ノ世界的使命  
第三編    皇國維新鐐迎ノ急 
第四編    皇國維新ノ眼目

目次終


大岸頼好

クリック して頁を読む 


第一編 維新皇國ノ原理

2018年07月07日 20時03分12秒 | 大岸頼好


大岸頼好

第一編  維新皇國ノ原理

第一章    大和民族ノ生成發展
祖神ヲ胤原トシテ發祥シ規範的生成發展ヲ遂ゲ來レル一大渾一家族體民族ナリ。

第二章    大和民族ノ信仰竝ニ意識
イ  我等各個ノ現身ハ祖神ノ顯現延長タリ、其ノ生命ハ優秀尊嚴ニシテ祖孫一貫傳統シテ  天皇總攬ノ許、
     世界修理 ( 創造的世界革命 ) ノ神聖ナル使命ヲ有ス。
ロ  天皇ハ我等ガ胤原祖神ノ直系顯現延長者即チ現神ニ存シマス。
     天皇ハ下萬民ノ大君 ( 至尊 ) ニシテ大父 ( 至親 ) ニ存シマシ、我等ハ即チ萬民ニシテ赤子ナリ。
     至尊ニシテ至親、絶對奉戴、絶對協翼、是レ萬民赤子ノ本分大義ナリ。
ハ  我等ハ一大家族體民族ニシテ渾然トシテ世界修理ノ使命ヲ負フ。

第三章    皇國日本ノ生成發展
此ノ大和民族ヲ核心トシテ生成シ、其ノ固有セル民族信仰竝ニ意識ヲ以テ護持シ經營シ發展シ擴充シ來レル
独特ノ一大家族體國家ナリ。

註  信仰竝ニ意識ノ拡延ハ其ノ裡ニ血胤ノ擴延ヲ伴ヒ、皇國日本ノ屋蓋下ニ四海同胞ノ一大家族體ヲ顯現シツヽ來レリ。
      將來モ亦然リ。

第四章    皇國日本ノ國家哲理
天皇ノ御主観ニ於ケル民本國
臣子ノ主観ニ於ケル君主國

即チ上ハ下ヲ、下ハ上ニ相互信倚、相互求引シテ萬代不易ノ皇國日本ヲ構成護持ス。
外來ノ所謂民主國ニアラズ、所謂君主國ニアラズ、實ニ君民即親子ノ世界無比ナル哲理國家、家族體皇國日本ナリ。

第五章    皇國史観ノ眼目
イ 皇祖皇宗
國ヲ建テ民ニ臨マセラルヽヤ國ヲ以テ家トナシ民ヲ臠シ給フコト赤子ノ如ク、 列聖相承ケサセ御仁恕ノ化下ニ洽クアラセ給フ。

ロ  皇民赤子
敬忠ノ俗上ニ奉ジ、絶對奉戴、絶對協翼ヲ以テ臣子ノ大義トシテ三千年ヲ傳統ス。

斯クシテ上下感孚シ、君民體ヲ一ニス。是レ我ガ國體ノ精華ニシテ皇國史観ノ眼目ナリ。

第六章    皇國生命 = 國魂
義侠ト犠牲トノ一ツナル 『 まつろひ 』 精神、是レ我ガ民族精神ニシテ皇國生命即チ國魂ナリ。
宛モ一家親子間ニ於テ視ルガ如キ義侠ト犠牲トノ一ツナル精神、是レ皇國ノ生命ナリ。

註一  天皇ハ神ニ對スル御 『 まつろひ 』 ノ 大御心ヲソノマヽ民ヲ臠シ給フ。
註二  伏敵門頭  亀山天皇ノ御勅願。
註三  楠公 ・菊池氏等ノ純忠至誠。

第七章    國體原理
上 天皇ノ絶對ト下萬民ノ平等トヲ根本義トスル不磨ノ原理、是レ我ガ國體原理ナリ。

註一  上絶對ナルガ故ニ不平等ナリ。
註二  史上並ニ現前最大ノ兇逆ハ 上ノ絶對ヲ冒涜シ奉ル ( 即チ下万民ノ平等ヲ撹亂シ以テ君民一體ノ 大義ヲ蔑ニスル )
         思想制度及閥族ノ蟠居存在タリ。

第八章    御親裁原義
天皇ノ御親裁ハ世上所謂大權ノ専制ニアラズ。一元ノ位徳ニ基ク御統治ニシテ、祭り即政、政即祭、祭政一如ノ御親裁ナリ。

註一  天皇ハ畏クモ神ニ對スル御 『 まつろひ 』 ノ 大御心ヲソノマヽ民ヲ臠シ給フ。
註二  臣子ハ其ノ絶對奉戴心ニ基ク御親裁協翼、御親政輔弼。

第九章    皇國日本ノ國是
『 漂ヘル世界ノ修理固性 』 是レ祖神以來一貫不動ノ國是ナリ。

註一  東洋平和、世界福祉ノ大聖願。
註二  皇國ヲ發祥地トシテ全世界ニ光宅シ行ク創造的世界革命ノ聖戰鴻業。

第十章    皇道振起
國體原理ニ基キテ弥々國體ヲ明徴充實シ、益々國魂ヲ發揮シ、以テ國是遂行ニ邁進スル、是レ皇道ナリ。

謹誦一    神武征東ノ大詔
『 天業ヲ恢弘シ天下ニ光宅セン 』
              建國ノ大詔 
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キ八紘ヲ掩ヒテ宇ト爲サン 』 

謹誦二    明治維新ノ詔翰
『 親ラ四方ヲ經營シ汝億兆ヲ安撫し遂ニハ萬里ノ波濤ヲ拓開シ  國威ヲ四方ニ宣布シ天下ヲ富岳ノ安キニ置カム 』

謹誦三    戊申詔書
『 我カ忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚籍シテ 』

謹誦四    今上朝見ノ勅語
『 宜ク眼ヲ國家ノ大局ニ著ケ 擧國一體共存共榮ヲ之レ圖リ  國本ヲ不抜ニ培ヒ 民族ヲ無疆に蕃クシ 以テ維新ノ宏謨ヲ顯揚センコトヲムベシ 』

謹誦五    今上即位式ノ勅語
『 朕惟フニ 我カ皇祖皇宗惟神ノ大道ニ遵ヒ天業ヲ經綸シ  萬世不易ノ丕基ヲ肇メ一系無窮ノ水祚ヲ傳ヘ以テ朕カ躬ニ逮ヘリ 』
『 皇祖皇宗國ヲ建テ民ニ臨ムヤ 國ヲ以テ家ト爲シ民ヲ視ルコト子ノ如シ  列聖承ケテ仁恕ノ化下ニ洽ク兆民相率ヰテ敬忠ノ俗上ニ奉シ
  上下感孚シ君民體ヲ一ニス   是レ我カ國體ノ精華ニシテ当ニ天地ト竝ヒ存スヘキ所ナリ 』

次頁 第二篇    皇国ノ世界的使命 へ 続く


第二編  皇國ノ世界的使命

2018年07月05日 07時51分44秒 | 大岸頼好


大岸頼好

第二編  皇國ノ世界的使命


第一章    通則
一、『 漂ヘル世界ノ修理固成 』 ハ我ガ皇國開闢以來不動不退轉ノ國是ニシテ、  又實ニ三千年史ノ全眺望ヲ填ムル一大事實タリ。

註    神典古事記ノ表白
  『 このたゞよへる國を修理固成せ 』    つくりかためなせ

謹誦一    神武建國ノ大詔
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キ八紘ヲ掩ヒテ宇ト爲サン 』 

謹誦二    今上即位式ノ勅語
『 永ク世界ノ平和ヲ保チ普ク人類ノ福祉ヲ益サムコトヲ冀フ 』

一、現時迄ノ國際的無明無慚ノ文化時代ニ次ギテ 世界ニ光明ヲ導引シ得ベキ文明ハ實ニ我ガ皇道ノ福音タリ。
 現前脚下ノ國際的戰國時代ニ亜ギテ來ルベキ可能ナル平和ハ、
 必ズ世界ノ大小國家ヲ首導スル最高道義國家ノ出現ニヨリ維持サルヽ神聖威武下ノ平和ナリ。

一、皇國ハ全世界ニ与ヘラレタル現實ノ理想 = 各國ヲ首導スル最高道義國家ノ出現 = ヲ覺悟シ、
 先ヅ内ニ皇道ノ眞面目ヲ振起スルト倶ニ進ンデ亜細亜聯邦ノ義旗ヲ翻シ、
 眞乎到來スベキ世界首導ノ使命遂行ヲ完フセザルベカラズ。

謹誦一    國際聯盟脱退ノ詔書
『 愈々信ヲ國際ニ篤クシ大義ヲ宇内ニ顯揚スルハ夙夜朕カ念トスル所ナリ 』

謹誦二    日清平和克復ノ詔勅
『 祖宗大業ノ恢弘今ヤ方ニ其ノ基ヲ肇メ 朕カ祖宗ニ對スルノ天職ハ 斯ニ其ノ重ヲ加フ
 朕ハ更ニ 朕ノ志ヲ汝有衆ニ告ケ 以テ眞來ノ嚮フ所ヲ明ニセサルヘカラス 』

一、世界首導ノ道義的使命ハ必然ニ世上覇道國家ヲ創造的ニ革命スベキコトヲ要求ス。
 即チ不義ノ文化強力ニ妖蕩呻吟スル人類ヲ普ク光明平安ニ解放シ、
 以テ一天四海同胞協和ノ招來、是レ創造的世界革命ノ聖戰使命ナリ。

謹誦一    露國ニ對スル宣戰ノ詔勅
『 満洲ニシテ露國ノ領有ニ歸セン乎 韓國ノ保全ハ支持スル由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス 』

謹誦二    國際聯盟脱退の詔書
『 今次満洲國ノ新興ニ当リ 帝國ハ其ノ獨立ヲ尊重シ 健全ナル發達ヲ促スヲ以テ   東亜ノ禍根ヲ除キ 世界ノ平和ヲ保ツノ基ナリト爲ス 』

第二章    當面ノ方針
判決
想像的世界革命ノ規模推進ニ於テ東洋ノ平和ヲ保全シ、皇國ノ安泰ト皇道ニヨル亜細亜甲開闢トヲ完成ス。

一、満洲國ノ獨立保全
今明日ニ於ケル東亜全局ノ轉勤ハ、當面満洲國獨立問題ニ開端シ之ヲ鐃リテ全世界的旋轉ヲ爲スモノト知レ。
皇國ハ皇道宣布當爲ノ段階トシテ本問題ヲ天恵ノ試練ト覺悟セザルベカラズ。
今ヤ風雲、鐵火ノ閃光ト倶ニ東亜ノ天地ヲ掩フ。

二、露國ニ對スル處理
1  満洲國ヲ不斷ニ脅掠シ、支那ヲ撹亂シテ日支ヲ怨恨ニ對峙セシメツヽ、侵略ノ歩武ヲ東亜ニ進ムル赤露ノ處分ハ、
  日満支而シテ亜細亜復興、東亜保全ノ爲メ絶對的必要条件ナリ。
2  皇國ノ存立ヲ根底ヨリ覆没セントスル逆謀ノ本據タリ指揮核樞タル赤露ノ處分ハ喫緊ノ急務ナリ。
3  人類破滅ヲ強制スル爲思想大逆制度ヲ地上ヨリ掃蕩シ、小ニシテシ露西亜民ヲ、大ニシテハ人類ノ將來を
   其ノ毒牙ヨリ解放スルハ皇道當然ノ要求ナリ。
   ユダ ノ同類ニ ユダ ヲ裁クノ資格ナキハ勿論ナリ。
4  印度及西南亜細亜ガ老狡英國ノ鐵鎖ニ繋ガルヽ事ガ何等ノ光榮ニ値セザル如ク、
   ウラル 以東ノ西比利亜大陸ガ ユダ ノ魔手ヲ脱シテ神聖亜細亜ニ復歸スベキハ當然ノ歸結ナリ。
5  亜細亜聯盟ハ實ニ我ガ皇道宣布ノ第一段階第一踏歩ナリ。
   此ノ一部千行タル満洲ノ保全發達ト赤露ノ破砕、西比利亜ノ復歸トハ一個不可分ノ問題ナリ。

三、英國ニ對スル處理
1  露國ガ赤色ノ亜細亜侵略者ナレバ、英國ハ之ニ百千倍スル辣腕ノ幾世紀ノ罪惡ヲ經累セル白色ノ亜細亜僣奪者ナリ。
  印度 ・西南亜細亜ハ其ノ桎梏ニ呻吟シ、支那亦已ニ保護國ノ如クニ翻弄サルヽノミナラズ、
  常ニ陰險ナル單策謀ヲ以テ日支相食マシメ、日米相爭ハシメ、日本ノ飛躍ヲ事毎ニ抑壓シツヽアリ。
  單ニ東亜ニ限ラズ、全世界ハ赤露ト倶ニ此ノ白狼ヲ仆スニアラズンバ遂ニ天日ヲ仰グノ日ナシ。
2  赤色搾取ノ畜生道ガ許サレザル如ク、白色搾取ノ巣窟的大本山白色餓鬼道ハ人天倶ニ之ヲ惡ム。
  此ノ二大餓蓄ヲ仆スニアラズンバ無辜ノ英露両大衆ハ固ヨリ全地ノ桎梏民族ハ遂ニ浮ブコトナシ。
3  皇道自展世界修理ノ段階ハ其ノ第一ニ於テ ウラル 以東ノ開闢ニアリ。
  其ノ第二ニ於テ實ニ印度 ( 随テ支那 ) ノ解放ト、同時ニ南西太平洋ノ開拓ニアリ。
  北露南濠ノ解決ヲ覺悟セズシテ、皇道ノ宣布ヲ自任シ東亜ノ平和ヲ云爲スルハ憐ムベキ自僞ニ類ス。
4  赤魔ノテニ ウラル ニ、ジヤツク ノ足ヲ南西太平洋ニ截斷セバ、神聖亜細亜ノ復興ハ刀を須ヒズシテ解決セン。
5  冷靜ニ見ヨ。亜細亜を僣奪シテ皇道宣布ノ聖道ヲ前程ニ阻ムモノハ實ニ叙上赤白両賊ノ貪欲飽クナキ無道ノ魔手ナリ。
   余ノ米佛等ニ至ツテハ寧ロ正直ナル從属的混入者ニ過ギズ。

四、支那ニ對スル處理
1  支那ハ皇國ノ實力的扶導ノ下ニ同盟強力シテ聯盟亜細亜ヲ結成スベキ一大要素ナリ。
   現狀全ク亜細亜ノ禁治産者タルハ悲憤極リナシ。
   斯クシテ東洋乃至國際全局禍機ノ淵叢タラントス。
2  皇國ハ其ノ文明實力ヲ以テ支那ヲ覺醒セシメ、其ノ保全扶導ヲ完フスルノ用意ナカルベカラズ。
   盟主日本ハ支那ヲ其ノ背後ニ於テ誘惑撹亂スル三韓ノ魔手ヲ寸斷シテ支那ノ自立を扶導シ、
   以テ忠實ナル聯盟亜細亜ノ要員タラシムベシ。

五、米國ニ對スル處理
1  北露南濠ニ皇化ヲ徹底シ聯盟亜細亜ノ義擧未ダ成ラザルニ、對米決戰ニ突入スルハ近眼迷妄ノ愚擧、
   是レ好ンデ英露ノ術中ニ陥ルモノニシテ眞乎透徹セル兩國識者ノ採ラサル所ナリ。
2  皇國ノ當爲ハ聯盟亜細亜ノ結成ニアリ。
   列強操縦ノ綱ハ日本ノ把ルベキモノ、
   蓋シ禁治産者ノ取巻連ヲ操縦首導スルハ其ノ後見人タル日本ノ責任ナリ。
3  移民問題、比率賓問題、海軍兵力量問題、對支関係ノ紛爭等一見兩立スベカラザル如キ之等ガ、
   洞観スル時如何ニ兩者共ニ寸益ナキ開戰ノ理由ニ不足セルカ。
   皇國ヨリ云ハヾ、日米ノ開戰ハ當然直ニ英露ノ對日參戰ヲ誘起スベク、
   ( 支那亦此ノ盡ニ推移セバ恐ラク參戰スベシ、) 大陸ニ確固タル地歩ヲ占メ
   且ツ世界的ニ此等數國ニ對スル背後ノ 牽制力ヲ有スルニアラズンバ、
   皇國ハ遂ニ列強鐵火ノ包囲裏ニ未曾有ノ危轍ヲ履マン。
4  皇國ノ當爲ハ英米二國ノ分裂ヲ策シツヽ、來ルベキ對英策戰ト最惡ナル場合ニ於ケル對米衝突トノ爲メニ
   神威大海軍ヲ建設完備シ、對露大陸軍ノ整備ト倶ニ實力保障ヲ以テ、
   米國ヲ中樞敵國トスル決戰ヲ避ケテ不戰平和ノ提契ニ進ミ、
   少クトモ英露討伐ニ際シテ之ヲ敵國側ニ參加セシメザレヲ緊要トス。
5  皇國ガ英露ノ魔手ヲ亜細亜ニ斷除シテ支那ノ覺醒保全ニ進入スル時、
   米國ハ安全ヲ保證サルヽ投資ト有効關係招來ノ確信ニ於テ安ンズンベク、
   皇國ガ印度濠州ニ聖戰ノ歩武ヲ進ムル時、
   加奈陀---南米ヲ一聯スル西半球大陸ニ 「 モンロー 」 主義ノ完成ヲ期シ得ル米國ハ、
   皇國以上ノ不利ヲ忍ンデ對日開戰ノ擧ニ出ヅルコトナシ。

六、佛國ニ對スル處理
1  英國ノ世界的陰謀ハ、欧州ニ於テ佛國ト爭覇シツヽ佛伊 ・佛獨ヲ相爭ハシメテ漁夫ノ私利ヲ計リ、
   極東ニ於テハ印度教ト回敎ノ兩徒ヲ鬩ガシメテ 印度ノ永久搾取ニ没頭シ、
   日支 ・日露 而シテ日米相爭ハシメテ太平洋ノ制覇ヲ完成セントスルニ在リ。是レ史實ノ立證スル處タリ。
2  米國 ( 而シテ支那 ) ヲ對日強硬ニ策動セシメツヽアル背後ノ傀儡師英國ヲ更ニ背後ヨリ牽制セシムルト共ニ、
   對露ノ怨恨憤激ニ於テ我皇國ニ劣ラス且ツ欧州ニ孤立セル佛國ハ、
   皇國ト契盟スベキ相互ノ事情ト、利益トヲ確信シ得ル狀態ニアリ。

亜細亜開闢、世界修理第一歩ノ現代日本 ! !

次頁 第三篇    皇国維新鐐迎ノ急 に 続く


第三編  皇國維新鐐迎ノ急

2018年07月03日 13時13分47秒 | 大岸頼好


大岸頼好

第三編  皇國維新鐐迎ノ急

一、國際聯盟脱退ハ ( 通告後満二年 ) 昭和十年三月ヲ機トス。
  半世紀ノ拝外自卑叩頭衰亡外交ヨリ一轉シテ孤立外交ヘ、而シテ再轉スレバ何ゾ、
  現狀ノ儘ヲ以テ推移セバ英米露支ノ聯合ヲ敵トセザルベカラズ。
  是レ皇國自ラノ招ケル國際被包囲圏ノ重壓ナリ。
  今ニシテ斷乎維新外交ヲ確立敢行スルニアラズンバ、待テル運命ハ滅亡カ再降伏カノ一途ノミ。

一、聯盟脱退ニ伴ヒ契起スベキ重大ナル一件ハ 『 南洋委任統治領處分問題 』 ナリ。
   太平洋ヲ罩メツヽアル戰雲ハ孤立日東國ノ海防ヲシテ南洋諸島ノ必須性ヲ倍加セシムルト共ニ、
   聯盟ハ之ガ還付ヲ鞏要スベク、『 實力ヲ以テ確保死守セン。』 ト聲明セル海軍ノ決意ハ二年後ニ迫レル
   非常重大ノ事態ヲ豫想セシム。
   聯盟及米國トノ衝突ハ必至ナリト見ルベシ。

一、屈辱的諸條約 特ニ倫敦條約 ( 全日本ノ神々ノ意ヲ蔑ニシテ結バレタル敗亡無慚ノ汚辱 ) ハ
   昭和十一年ヲ期限トシテ十年末更ニ之ガ繼續的會商ヲ協定セラレアリ。
   當時ニ於テ己ニ然リ。 國際包囲圏結成ノ危局今日ノ如ク、又豫想ノ明日ノ如ク、
   英米等ハ當時以上ノ迫力ヲ以テ更ニ壓迫鞏制ヲ加ヘ來ルベキコト明白ニシテ、
   皇國ハ當然對英米七割弱ノ必敗兵力ノ鞏制ニ叩頭シ能ハズシテ、 ( 神々ノ照鑑ニ於テ )、
   斷乎之ガ破却ノ一途ニ出デザルベカラズ。 衝突ノ外ナシ矣。

一、英國始メ列國ハ大半ヲ擧ゲテ
   所謂 「 ブロック 」 經濟ノ確立ヲ以テ漸次皇國ニ對スル經濟壓迫--封鎖ノ擧ニ出デ來レリ。
   兩三年ノ後各國經濟保安ノ理由ヲ以テ對日反感ノ倍加サルベキ日ニ想到セヨ。

一、支那ハ迷豪未ダ醒メズシテ、近時愈々抗日ノ妄動勢ヒ熾烈ニシテ泥波怒濤ノ如ク、
   赤露ハ譎詐陰謀日満ヲ飜弄シツヽ兩國内深クモ叛逆爆破ノ魔手ヲ動カシ、
   極東ニ大兵ヲ終結シテ國境ヲ侵スノ暴擧日ニ激烈ヲ加ヘツヽアリ。

一、満洲ハ建國草創方針ナク、資本ナク、各種工作未ダ殆ンド初期ノ混沌ニ彷徨シツヽ寧口第二第三風雲ヲ孕ミ、
  時今一擧手一投足ヲ誤ラバ皇國日本ハ終ニ満洲ト相抱イテ仆ルヽノ外ナキ危態ニアリ。

一、飜ツテ皇國自身ヲ省ミレバ、拝欧自卑半世紀ノ妖濤ハ神州ノ全山河ニ浸濤シ、
   皇祖皇宗惟神ノ大道雲霧ニ閉サル。
  私信ノ大逆ハ一世ヲ風靡シ、  私議潜斷ノ大逆ハ國郷閭里ニ紛更ス。
  私營壟斷ノ大逆ハ家國ヲ窮乏破綻セシメ、洋魂自卑ノ大逆ハ君側ニ暗翳ス。
  國體爆破ノ大逆ハ遂ニ拘結潜行シテ司法ヲ冒シ、學府ヲ侵蝕シテ學童ノ純眞ヲ犯ス。
  仰ゲバ  皇室ノ見エザル御式微今日ヨリ甚シキハ無ク、俯スレバ皇道ノ頽衰冷汗ヲ催ス。赤子生色ヲ失ヒ怨声都鄙ニ孕ツ。
  感ズレバ即チ國體ノ情理ニ眼ヲ蔽ヒテ徒ニ西欧鞏権牙保ノ轍ヲ企ミ、或ハ蟠屈反動シテ皇道ノ前程ニ阻立ス。
  君民一體、萬民協翼ノ大綱緩退シテ一朝ノ外撃能ク擧國七花八裂ノ危殆ヲ生ゼン。
  第二大戰ノ暗雲電光ヲ直前ニシテ、騒然タリ亡國巖頭ノ乱舞 ! !

一、皇國存亡ノ一決スベキ大機正ニ両三年ヲ出デズ、而モ神州ノ惡化内憂外患擧ゲテ斯クノ如シ。
 思ヘバ一ツトシテ御式微ノ凶兆ニアラザルハナシ。
 第一維新 ( 明治 ) 以降早クモ滔々トシテ遷シ參ラセシ御痛マシクモ畏多キ現前ノ見エザル  御姿 ( 肉眼ニハ御盛儀三千トシテ ! ! )。
 顧ミルニ皇國ノ大難ハ常ニ 至尊ノ絶對ヲ冒シ遷シ参ラセシ時ニ到來ス。
 是レ皇國獨特ノ國難ノ根因ナリ。
 明治以降所謂政治ニ於テ、經濟ニ於テ、思想ニ於テ、敎育ニ於テ、外交ニ於テ、一ツトシテ 至尊ノ絶對を弥ガ上ニモ固メ
 推シ進メ參ラスル方向ニ驀進セシモノアリヤ。
 至尊絶對神性ノ冒瀆 ! ! 萬惡茲ニ源發ス。
 盲ヒタル哉  此ノ内憂、此ノ外患、而シテ斯ノ國難ヲ以テ、 至尊御式微ノ御痛マシクモ畏多キ御姿 ! !  ナリトスラ観ジ得ザル我等、
 拝外非皇魂ノ現指導者達。

次頁  
第四編 皇国維新ノ眼目 に続く


第四編 皇國維新ノ眼目

2018年07月01日 16時43分27秒 | 大岸頼好


大岸頼好

第四編  皇國維新ノ眼目


第一章     通則
至尊絶對神性ノ徹底復固 ! ! 
至尊絶對神性ノ徹底復固ニノミ含蓄セラルヽ下萬民平等本義ノ徹底確立。
絶對神性ノ徹底復固ニノミ結果スル所謂政治 ・經濟 ・法制 ・思想 ・敎育 ・軍事 ・外交ノ國體原理ヘノ畫期的確立復固、
即チ神州獨自優秀性ノ發揮、而シテ其ノ擴充推延 = 皇道ノ福音ノ世界宣布 ( 創造的世界革命ノ鴻業遂行 )、
是レ皇國維新ノ眼目ナリ。

註一  「 ナチス 」 ヨリモ 「 フアツシヨ 」 ヨリモ 「 コムミユニズム 」 ヨリモ其他ノ何レヨリモ、  ヨリ高クヨリ優レタル創造的建設ヲ含蓄スル國體原理。

註二  至尊ノ絶對神性徹底復固ニノミ閃發開端スベキ國體原理ノ洋々タル自展。 東洋平和---人類救濟ノ大聖願。

第二章    祭祀 ・政治 ・法制
一、祭即政御親裁
天皇ハ神ニ對スル御 『 まつろひ 』 ノ 大御心ヲソノマヽ下萬人ヲ臠シ給フ。
是レ祭即政御親裁ノ大本原理ニシテ不磨ノ大典ナリ。即チ一元ノ位徳ニ基ク御統治是ナリ。
蓋シ皇國日本ハ 至上絶對下萬民平等、
上即神 ・神即親 = 大君ニシテ大父、下即民 ・民即赤子ノ一大家族體國家ナレバナリ。

一、信敎自由ノ廢棄
皇道祭祀ノ外ニ祭祀ナシ。外來個人文化ノ無意義ナル信敎自由ヲ廢棄セズンバ民族信仰ノ本來性ヲ奈何セン。

一、御親祭
至上ハ神ニ對シ御親祭アラセラルベク、有司ハ祭祀輔弼、現神奉仕ニ奉行スベシ。
全國ノ祭祀ハ推神道ノ大本ニ照シ整理セラルベシ。

一、萬民ノ協翼
下萬民ハ 至上絶對奉戴心ニ基キ全的絶對協翼ヲ奉行スベシ。

一、天皇御親政
天皇ハ一元ノ位徳ニ基キ、下萬民ノ絶對協翼ヲ御總攬アラセ給フ。

一、有司ノ輔弼
御統治ノ大綱ハ 天皇親ラ之ヲ攬リ給ヒ、其ノ司々ハ臣子ニ委ネ給フ。
有司ハ即チ祭即政御親裁ノ大本ニ鑑ミ、上絶對下萬民平等ノ哲理ニ體悟シ、御親政ノ全キヲ絶對輔弼ニ任ジ奉ルベシ。

一、統治大權
天皇ハ全統治大權ヲ親攬アラセ給フ。

一、外來憲章ノ御処分輔弼
全統治大權ヲ規定シ乍ラ別ニ統帥 ・條約 ・宣戰ノ大權ヲ表現シ以テ大權ヲ法理上曖昧ナルニ歸セシメ、
特ニ祭祀大權ヲ無私シ、經濟大權ヲ否認スル所ノ○○○○ハ、明治以降日本ノ赤化大憲章ニシテ、
權利思想ニ拠ル爾余一切ノ法律ハ之ガ敷衍タリ。
須ラク有司ハ明治重臣輔弼ノ御謬ヲ是正スル如ク輔弼ニ任ズベシ。

一、憲政理念ノ廢棄
外來憲章ノ不備ニ乗ジ、本來、天皇政治、國體即政體タルベキモノヲ故意ニ國體ト政體トヲ區別シ、
立憲君主政體ナル皇國本來在ルベカラザル理念ヲ以テ立憲君主政治ナルモノヲ僞造シ來リ、
是レ必然ニ立憲議會政治ヲ生ムニ到レリ。倶ニ廢棄斷除セザルベカラズ。

一、非國體原理制度ノ廢絶
イ  議會至上組織
ロ  政黨組閣制度
ハ  個人搾取資本制經濟
此ノ三者ハ皇國大混亂ノ現象的大要因ナリ。
之あるが故ニ上剋下 ( 壓迫 ) 對下剋上 ( 反抗 ) 闘爭ヲ生ジ來レルコト現前眼下ノ事實ナリ。
皇國本來ノ議会ハ多數決ニアラズ全數決ナリ。
又國體原理皇國日本ニハ下剋上ハ勿論上剋下モ有ルベキニアラズ。

第三章    思想 ・敎育
一、民俗信仰ノ振作
同胤一元ノ民族生成ハ各個ノ現身ヲ祖神ノ顯現延長者ト信悟シ、神聖ナル使命ヲ具有セル生命ノ更張ニ歸悦セシム。
即チ直系至尊者タル 天皇、下萬民ノ大君ニシテ大父ニ存シマス 神 ( 至尊 ) 人 ( 至親 ) ノ絶對奉戴、
絶對協翼ノ裡ニノミ臣民赤子タル我等ノ生命使命ノ十全ナル達成喜悦ノ存スル信念ヲ更張振作スルヲ要ス。

一、皇道歸一
國體原理ニ基キテ國體ヲ充實シ、國魂ヲ發揮シ、世界修理ノ國是遂行ノ非宗教超宗敎ノ主義ニ歸一スベシ。
カノ信教自由ヲ放擲シ、外來諸教ハ固ヨリ宗教神道ノ廢絶、神社神道ノ是正ヲ行ハルベシ。

一、國魂ノ振起
義侠と犠牲トノ一ツナル 『 まつろひ 』 精神、
即チ親子一家ニ於ケルガ如キ全キ精神ヲ三千年ノ史實ト倶ニ弥々振起セラルベシ。

一、國體敎育ノ振作
洋學ノ浮薄ナル繁瑣ヲ廢絶シ、皇學規範ヲ確立シ以テ國體情理ノ體得ヲ畫期的ニ振作セラルベシ。
カクテ皇道ノ無窮宣揚ニ拮据シ、延イテハ世界修理ノ學的協翼ヲ完遂スベシ。

第四章    經濟
一、經濟大權ノ確立輔弼
天皇ノ統治大權ハラ全的ナリ。
國利民福ヲ左右スル重大要素タル經濟亦御親裁ノ大權ヲ攬ラセ給フベキコトハ一點議論ノ餘地ナシ。

一、個人搾取資本制經濟ノ斷除
上絶對下萬民平等ノ家族體國家ノ國體原理ニ照ラシ、現前ノ個人搾取資本制經濟ノ斷除セラルベキハ論ナシ。
之アルガ故ニ上剋下ノ壓迫ヲ生ジ、赤子ハ資本制度下ノ奴隷ト化シ、御仁慈ノ壟斷下ニ哭ク繼児トナリ、
自殺ノ可能性ノミ確實ナル浮浪者ニ零落ス。
之ト共ニ下剋上ノ階級闘爭ナルモノ妖生シ、勢ノ趨ク所實ニ測リ知ラレザルモノアリ。
個人搾取資本制經濟ハ國體原理ニ照ラシ斷ジテ許サルベキニアラズ、
經濟大權ノ確立輔弼ニ依リ斷乎處分セラルベシ。

一、萬民ノ經濟協翼
皇民ノ全經濟活動ハ皇道確立宣布ノ爲ノ緊要具象的協翼ニ外ナラザルノ大本ヲ明徴ニシ、
以テ萬民擧リテ聯帯協和勤勞ノ實ヲ發揮スル如ク之ガ畫期的體系化ヲ圖ルベシ。

一、經濟機構ノ核樞
經濟大權ノ發動ニヨリ理財 ・産業 ・支給其他齊シク國體ヲ充實シ皇道ヲ宣布スルニ遺憾ナキ如ク處理セラルベシ。

第五章    外交 ・軍事
一、外交 ・軍事齊シク統治大權ニ基キ御親裁アラセラルベシ。

一、外交
外交ハ皇道宣布世界修理ノ鴻業遂行ノ樽爼ニ遺憾ナカルベシ。

一、軍事
皇道宣布ノ實力本衛トシテ弥々皇道ノ規範ヲ充實シ、一朝有事ノ聖戰奉行ニ方リテハ些ノ遺憾ナク神武ヲ發揮スベシ。

一、外交ノ畫期的維新ト國家總動員的國防ノ充實完備トハ當面至極ノ要事ニ属ス。

( 全篇終 )

目次頁 
『 極秘 皇国維新法案 前編 』 に 戻る


「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」

2017年12月04日 11時08分48秒 | 大岸頼好


大岸頼好
中尉

昭和五年頃は
全国の農村のいたるところで
頻々と小作争議が発生していた。
この年の夏、
仙台の大岸中尉に呼ばれた末松少尉は、
大岸から次のような話を聴かされている。

木曽川流域でも
小作人が川の堤防を切り崩して、
地主の田畑を水びたしにする騒動があって、
軍隊が鎮圧に出動したことがあった。
このときの状況を部隊の下士官だった分隊長が日記をつけていた。
「 もし小隊長が農民に射撃を命じたら、
果して自分は部下に射撃号令をかけることができたであろうか。
自分もそうだが、部下もその多くが小作農民の子弟である 」
大岸中尉は
わざわざ青森から招いた末松少尉にこの話をしながら
「 社会の根本的改革をしなければ兵の教育はできない。
軍隊は存立し得ない。
いま 軍当局は 良兵良民
を強調するが、
これはむしろ 良民良兵 でなければならない 」
と いう趣旨を語り
末松も共鳴している。
この挿話を階級的対立として軍隊存立の危機とみるのが当然だろうが、
小作人に生活の権利が保証されていない悲劇である。
地方聯隊の兵の多くは小作人の子弟であった。
尽忠報国の義務を課せられながら、
一旦事ある場合にも生命の保証されない兵、
しかも その兵である青年を軍隊にとられて、
残された家族の生活の権利さえも保証されていない社会、
それでも争議や一揆があれば軍隊は治安維持のために出動をして、
時には親兄弟に銃口を向けることさえないとは限らない。
小作人の子弟であった兵が、
同じ苦しみに喘ぐ小作人たちに銃口を向けることは、
その苦しみを知るが故にできるはずはなかったのである。

暁の戒厳令  芦澤紀之 著 から


大岸頼好の士官学校綱領批判

2017年09月04日 08時30分57秒 | 大岸頼好


大岸頼好

土曜から日曜にかけて、
大岸頼好が和歌山から上京してきた。
このころの大岸の上京っぷりは、旅装を解くとか宿泊するとかというよりも、
飄然ひょうぜんときて草鞋わらじを脱ぐといった方が、ピッタリするようであった。
今度の上京の目的は、やはり上部工作であったようだ。
「 士官学校の綱領を、あなたはどう思いますか 」 ・・< 註 >
大岸は、夜遅く帰って 一杯傾けながら、例によってとっぴょうしもないことを言い出した。
「 そんなのあるんですか、見たことも聞いたこともあれませんですね 」
「 ありますとも・・・・・・その 綱領の中に  
 『 皇室の殊遇を 辱かたじけのうするが故に忠誠を励まねばならぬ 』
という意味のことが書いてあります 」
「条件付き忠誠ですね 」
「 そうです。へたをするとこれが明哲保身、事なかれ主義に堕していきます。
また、これが、エリート意識を助長して、軍の横暴が頭をもたげてくるようになります。
そういう悪風がちかごろの軍の中に見えてきているように思いませんか、
あなたはどう思いますか 」
「 全く同感です 」
「 教育総監閣下は、あるいはまだこのことにお気付きではないかもしらません。
どうです、士官学校の綱領改正意見として、あなたから持ち出してみては・・・・。
第一師団長柳川閣下も、申し上げれば わかってもらえるかただと思います 」
「さっそく、やってみます 」
大岸は ときどき ナゾめいたことをいう。
今夜もまた、
相当なパンチを私はきかされた。


大蔵栄一 著 

二・二六事件への挽歌 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >

『 陸軍士官学校教育綱領 』  昭和七年 ( 1932年 ) 改正
・・・冒頭の部分、抜粋・・・
陸軍士官学校教育ノ目的ハ、帝国陸軍ノ将校ト為ルベキ者ヲ養成スルニアリ
抑々将校ハ、軍隊ノ楨幹ノ軍人精神及軍紀ノ本源ニシテ、マタ一国元気ノ枢軸タリ
故ニ、本校ニ於テハ、特ニ左ノ件ニ留意シテ教育スルヲ要ス
一、尊皇愛国ノ心情ヲ養成スルコト
二、軍人タルノ思想ト元気トヲ養成スルコト
三、健全ナル身体ヲ養成スルコト
四、文化ニ資スルノ知識ヲ養成スルコト
以上示ス所ハ、実ニ本校教育ノ要綱ナリ
教育ノ任ニ当ル者ハ、奮励其ノ力を竭つくシ、至誠其ノ身ヲ致シ、教授訓育、両部、
互ニ相連絡シテ一体ト成リ、以テ教育ノ完成ヲ期スベシ
・・・後略・・・