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台上最後の戰ひ
幾年の心願---そは秩父宮殿下に接近の大業である。
然も至嚴なる側近侍臣の警戒を突破して、革命日本建設を論諍し奉る決死的壯擧である。
さり乍ら、何故に此壯擧を企圖するのか。
---これ實に世の社會運動者と道を異にする所以である。
余が多年思索の結果なる哲學的信仰は、その具現を天皇に見得た。
二十四年の歩める道を顧るとき、
天皇の國---大日本國の一人として出世の本道を眞直ぐに ( 些いささかも横に歩むことなく )
歩み來りし至幸を、降天籠の恩遇と万謝せざるを得ぬのである。
余は余の戰闘的精神---最高我を、日本國に於て 天皇に求め得た。
然もそは日本の外なる一切の人類が通ずべくある。
日本の躍進によりて初めて個々の躍進が完全である。
然も今之れを見るに、日本は条理を逸せる混乱の有様である。
今こそ日本の衷なる最高我の發動して日本が生の飛躍をなすべき秋である。
・
余はこの故に
世の衷なる最高我を以て、
日本の衷なる最高我の合一の道を選んだのだ。
秩父宮に接近とは單なる宮への接近ではない。
實に宮を透して---宮の最高我を透して、
日本の最高我、---天皇への接近である。
・
げに、革命といひ改造といふも、そは決して最高我の変更でない。
そは良心の変更とも言ふべき妄想なるが故だ。
又國家を否む者等は人生に戰闘的精神を見出し得ず、
理想を設定することに余りに無帽低劣なる浅薄者共だ。
げに國家とは戰闘的精神に生くる人類の最上なる力である。
然して日本に於けるそが主宰は天皇である。
至極の大願を遂げる日は來た。
そが最初なる日は來た。
大正十一年七月二十一日の夕べ、
夕陽已に武蔵野の西に沈んでほの暗い老樟くすのきの葉陰に
蜩ひぐらしが泣く市ヶ谷台上の一隅に始まつたのである。
實に其日、余は補欠現地戰術のため早朝八王子附近に向け出發した。
炎暑の中に病後の蠃軀らたいをあへぎあへぎ、日野台を東西南北して、
午後四時前再び列車の人となつた。
校門を入りしとき已に午後六時をすぐる 正に五分。
夕食早くも終りて校庭に三々五々逍遙しょうようして居る。
ト、宮本が疾駆して来た。
「 時期が来たぞ。
今から殿下が秘密にお會ひになるそうだから、早く來て呉れ。
兜松の附近だ。」
斯う言つた彼に、秘献すべき書の携行を依頼して余は食堂に急いだ。
さまざまに思ひ巡らしつゝ食事もそこそこに、
余は腰ななる軍力と図囊とを自習室の机に投げ出して長靴のまゝ去つた。
薄暗き老樟の下陰、兜松の踞うずもれる傍らに四五名の人影が見ゆる。
宮本 福永 平野 潮の諸友が宮を中央にし、宮本が何事か申上げて居た。
あたりに人影はない。
余は其処に行つた。
「 西田、代わつて申上げて呉れ 」
こう言つて宮本は話を斷つた。
余は玆に於て、
同志團結の經過、
猶存社との提携、
日本國内外の形勢、
亜細亜の現狀
等を論述し、
特に國内の思想、運動等を一々立證進言した。
そして
日本は速やかに改造を斷行せずんば
遠からず内崩すべきこと、
日本は單に自己の安全の爲めのみならず
實に全世界の奴隷民族のために
---亜細亜復興のために選ばれたる戰士なることを力説した。
・
日はくれた。
此日は福永の淨冩せる
改造法案 並 支那革命外史
第十一時
日本文明史
奪はれたる亜細亜
等數篇を捧呈して別れた。
・
二十二日も宮を擁して論諍を敢てした。
此日は午後六時半から大食堂で自然色活動冩眞が催さるる筈だつた。
殿下の御來場がなければ始められないので、開始時刻が近づくに宮の御姿が見えず、
御附武官や四五の御学友は血眼になつて校内を尋ね歩いたといふ。
げに一分後るれば、
非常の事を惹き起すべき形勢にあつた。
余等は心ならずも五分前に話を中止してわかれわかれに大食堂に向つて歩を移した。
・
「 日本の無産階級は果して如何なる思想状態にあるか 」
とは 宮が余に質ねられし一句である。
余は奉答した。
「 我國の所謂 無産労働階級は、
極度に虐げられて其生活已に死線を越ゆる奴隷の位置にあり。
そは國民の大多數なると共に、彼等は一部少數の特權階級資本家等のために
天皇の御恩沢に浴し得ざる窮狀に沈淪せり。
彼等正に恐るべき者とは佐倉宗吾を解せざるも甚しき者。
明かに見る、同盟罷業ひぎょうや普選運動が常に失敗に歸する如き。
然もそれ等は皆な、一部の主義者策士共の利の爲めにする煽動によりて
妄言濫動らんどうを敢てすることに原因せり。
・・・・げに、日本改造すべくんば天皇の一令によらざるべからず。
・・・・更に是の明白なるを見る、天皇は國際的無産労働階級たる日本の首領にあらずや。
國民の大多數を占むる無産労働階級と天皇とは離るべからざる霊肉の關係にあるもの。
そが敵は日本を毒する外國と國内に巣くへる特權階級資本家等どもなり。・・・・」
「 余は境遇止むを得ず、漸次下層階級の事情に疎遠を來すに至る。
必ず卿等きみらは屡々報ぜよ。」
宮は斯く宣うた。
余は捧呈文を必要なしと認めて、其夜寸斷した。
・
ちりぢりに散りゆく運命の日が明日に迫れる二十七日、
数年或は数月相伴はれて一つの道を歩み來れる余等一團の者は、
又なく寂寞じゃくばくに襲はれて居た。
卒業---來るべき任官、恐らく人々の心は希望に燃へ、愉快に充ちて居るであらう。
さり乍ら、余等の魂を焦がすものは、任官や卒業のそれでない。
純正日本建設の日の國民の喜びである。
然も同志ちりぢりの別れは寂しい。
二十七日の夜、
明日は卒業歸隊と多くの者等が東奔西走の騒々しさを他所にして、
余等は月暗き寂寞じゃくばくの雄健祠前の森蔭に集つた。
宮本の居ぬのに誰も気附かなかつた。
余は今迄共に歩み來りし因縁を謝し、
永遠に斯道を精進して理想の光明を見ねばならぬと告げ、
分散後は特に連絡を希望すると附言した。
一堂は此処に種々なる思ひを交はして居た。
此時、宮本が息せき切って來た。
彼は余に宮の御言づけを語つて、斯く言つた。
此日の夕食後、突然宮が自習室にお越しになり、宮本を招いて校庭人なき処に伴はれ
「 同志諸君と今一度泌々話したいが多忙なるが故か見へぬから、
黄みり宜しく伝へて呉れ給へ 」
と 宣うて、
自ら皇族たる位置に於て体験せらるゝ不義潜上なる臣僚のこと、
皇族の間に渦巻く非常の痛心事等を一々指示遊ばされ、
日本國の前途に至心の憂悶を明かし給ふた。
そして同志諸君の鐵心石腸に恃たのむ所 深甚なるものがあると告げ給ひ、
「 君等への消息は斯人宛に郵送せよ 」
とて 一葉の紙片を賜つたのである。
・
拭ひ難き憂心と悲痛とに、宮の御双眼は暗にも光る露の御涙を拝して、
腸寸斷の思ひに泣いたと彼は語つて、彼の紙片を示した。
此御紹介の忠士こそ、實に今は余と刎頸ふんけいの契りある宮附の曾根田泰治其人であつた。
然も彼は近侍中最も下級なる半任文官であつた。
余は、宮の御心事を察し奉りて限りなき感慨に捉とらはるると共に、
粛然襟を正さゝるを得ぬ精神の緊張を覺えた。
眞に一切を決すべき思ひがした。
そして、何知らず眼先が曇つて、瞼の熱くなるのを感じた。
一同に向ひ 余は此の顚末を語り、更に余が知れる限り宮中の弊事を指摘した。
「 必ず---日本國を救ふのだ 」
一同は互ひに手を握り合うた。
雄健祠前に打揃ふて額いた後、余等は分れた。
其後、遂にまんじりともせず台上最後の夜を明してしまつた。
・
二十八日正午稍やや過ぎ---
「 永らく御厄介になりました。どうぞ一しょに國家の爲め盡しませう。」
との 宮の御告別を、さまざまに胸に画きつゝ 宮を校門に御送りした。
もう終生あのお姿を拝し得ぬかも・・・・余は師友に別れを告げ、
午後一時半 一枚の卒業證書を手にして学校のダラダラ坂を下りた。
かくして前後七年の戰ひの一幕を終へて、余は遂に次なる大戰の巷に出たのである。
あゝ、市ヶ谷臺上の甍の色よ。
翠みどりの松よ。
四ツ谷の坂に立停つて振り顧つたとき、
臺上の武學舎は無言のまゝに眞夏の青い空に聳そびへ立つて居た。
---一切を秘めて、さながら巨人の如くに。
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魂が歩める二年の路
一年十月の士官學校時代に余が魂修練のために歩める所は、
げに魂の外なる戰ひが激しかりしに拘らず、可成りの道程であつた。
余は此問思ひを陽明學によせた。
又、奇縁は余に法華經八巻を授けた。
然も余は入院中 禅に關するもの數書を讀んだ。
老荘も多少漁つた。
プラトン其他を漁つた。
陽明學には、げに深遠なる或ものを見た。
佐藤一齋の言志四錄や大塩平八郎の洗心洞剳記なども尠からぬ感激を以て讀んだ。
大正十年八月の休暇には學校に残留して日夜圖書館を漁つた。
そして主として陽明學に没頭した。
當時書けるものに 「 窮天私記 」 がある。
社會思想---當時流行の各種思想をも漁つた。
そして勢ひ 日本の古神道の如きにも足をふみ入れた。
・
故山歸養中には親鸞や基督にも足を入れた。
奇しき因縁は歸養中四月二十九日に起つた。
げにそはいとも畏き皇太子御誕生の日、夕べの道遙の路すがら路傍の一易者と語つた時
「 君の運命 海の西にある。
然も信仰厚き君の性よりして妙法蓮華經を奉じて海の西に弘通せられぬか。
藤肥州の如し。」
と 告ぐる所あつた。
余は其夜安宿の桜上に彼と種々語り合うた。
余は曾つて高山樗牛其他の著書によりて日蓮を知り
妙法蓮華經を随したがつて思念し討究することにあつた。
日蓮の立正安國論の如きは羅南の六ケ月時代に愛誦せし所のものだつた。
・
越えて旬日、余が今は亡き父と交りあつた法域寺裏の法華堂主が病歿せし後、
彼が幼時より愛誦せし妙法蓮華經天地二部を、一日未亡の妻君が持參して
「 貴子今病気中ときく、亡夫愛重の此經巻已に用なし。
常に携懐拝誦佛恩を受けられよ 」
と 語り、余に寄与した。
余 此処に於て、前後符節を合する事實に驚き感激し泣謝して、經文を戴いたのである。
げに今 余が愛重、日夕誦して止まざるもの 即ち是れである。
爾來大いに心を潜めて法華經の討究に從つた。
さり乍ら、余の法華經は余の法華經である。
從來の因習的のそれを離れて、余が魂の上に築かれたる法華經である。
かくして、余は從來の一切を以て自己の心頭に一個の思想---信仰を築き得た。
然もそは、人に示して誤りなしとさえ自信のある所のものである。
再び祖國に訣る
戰の一幕を終へて、再び祖國に訣るべき日は來た。
前後五年の戰ひ、若き者が魂を中心とせるそれは早くも夢の如くに過去のものとなつて終つた。
大正十一年七月二十八日午後一時半、
余は五年住馴れし市ヶ谷臺を下りた。
平野と共に直ちに千駄ヶ谷なる猶存社に北氏を訪うた。
帰隊に間もない旅行の日數は、諸方に同志を訪ふべき暇を与へざりしがために、
此日は手を分けて福永が満川氏を訪ふことになつて居た。
廣島に帰るべき福永は 午前四時頃先に辭去したが、
余は八時三十分東京駅下り列車に乗込む豫定なりしために一人留つて、
暫時相逢ふべからざる名残りを氏と語つたのである。
然して、暫しの別れとて北夫人は晩餐の用意をなした。
氏夫妻と、氏が子の如くに養ひつゝ革命支那を抱き日本外交革命
---革命日本を抱くと言ふなる故 譚人鳳の遺孫 英生君と、
そして余と四人は卓を囲んで懽語別語の裡に食事をとつた。
辭去するに當り、氏は同じく法華經の行者として、家傳の家宝たる法華經を披ひらいて、
余が爲めに誦讀して呉れた。
別るゝ時、夫妻は英生君を伴ひて玄關に立つて余を見送つた。
夕陽没して千駄ヶ谷の空に彩雲揺曳し、家を廻れる鬱々の樹梢には蜩が啼いた。
譚人鳳 と 北一輝
余は程なく東京駅頭に立つた。
宮本が來た。
彼は平野 福永と共に余が三年以來志を一にして來た異體同心の友である。
殊に余との交りは深かつた。
一人は北奥山中に、一人は千里西なる北韓の第一線に。
共に騎兵なれども再び相逢ふべき日も得まい。
駅頭人なき処に相擁して別れを惜み、將來を固く契つて手を握り合うた。
午後八時三十分余は君に送られて夜の東京を西に去つた。
それから此れへ・・・・限りなき纏綿てんめんの感慨に胸を衝かれつつ・・・・。
・
宮本---この別れが軈やがて一年の後には
其儘に死別となる悲しき運命のそれなりしことを二人は知らなかつた。
げに大正十二年八月二日、
彼は宿望の初階を登り得て所澤に飛行訓練中墜落して、非命に死んだのだ。
何たる運命の神の翻弄ぞ。
・
思い起す、
君逝いて十七日の夜、
北韓の借寓に余が枕頭マザマザと立てる君の亡霊。
夜もすがら語り明して、然も
「 境を隔つる幽冥の國に帰らざるべからず 」
と 嗚咽したるその夜明けの君が悄然たりし姿を思い浮べては、
今も尚 否な終生余の心は哀痛極りないのだ。
愈々東京駅頭夜の訣別は遂に二人永遠の別れであつた。
「 いざと云ふ日、飛行機を乗り逃げて兄を北鮮に迎へに行かん・・・・」
とも言つては笑うた君。
彼はげに血性男児であつた。
彼の熱狂志士雲井竜雄の概があるとは、君を識るものの等しく言ふ一語であつた。
革命日本の建設、亜細亜復興の戰闘---彼は常に眉をあげ泡をとばして論じた。
即行した。
そして彼は有徳の君子人であつた。
彼の死當時 所澤に於て同僚學生始め凡ての人々から
平素の徳行を讃へられしことは人の知る所である。
キリストによりて彼は確固たる信仰を抱き得た。
「 聖明なり。信仰なり。然して復興なり。」
彼は七生旬道を誓つて居た。
されど、彼は死んだ。
余は盟友を亡つて淋しくも歩まねばならなくなつた。
「 受難の日を切實に味ひ申候 」
と 所澤から送られし満川氏の書を見しとき、余は言ふべからざる感慨に捉はれたのであつた。
余が君の死を聞きしとき、直ちに筆を把つて同志に檄し、
軈やがて 「 猶存 」 を 編纂し始めたことも、
一は亡友の霊を慰めんが爲めであつたのだ。
和歌山の郊外、君の憤墓に跪ひざまづく日、恐らく余の腸は寸斷の思ひあらう。
志願成る日とても、又成らざる日に於ても・・・・。
・
八月十三日、余は玄海の西に赴任すべく病弱尚未だ復せざる軀を門司埠頭に運んだ。
其夕べ、再び玄海の荒波を砕いて北韓に向つた。
曾つて、三年前は三好が同行した。
然も此度の船中に彼の姿は求むるべくもなかつた。
春四月、海天宛も朧おぼろなる月が懸つて夜気暖かなる甲板に
相抱いて語つたあの船旅の思ひ出はなつかし。
今はそれも夢。
余は當年を偲んで轉た感慨に沈まざるを得なかつた。
何故三好は居らぬのか。
三好、三好---彼は一夜學校を出奔してしまつた。
其後二ヶ月を衛戍監獄に送つて、軍人の境涯を去つたのである。
そして再び渡韓の船中に姿がないのだ。
今も忘れぬ---「 魂の修練は獄中に限る 」 と 言つて
笑いに紛らした彼が漂然として東京を去つた姿を。
彼は大阪に歸つたが、程なく神戸の某妓楼に一室を借りて勉學の燈火に親しんだ。
三ヶ月の後、三高の入學試験に及第して京都に住つたといふことであるが、もう大學にも進む頃だが。
学學を去つた後は、曾つて約束により 「 或日の來る迄二人は音信すまい 」
と いふことを契つて居るために、余は彼の現狀を詳かにせぬ。
彼は偉大なる魂の所有者であつた。
其の出奔前頃、二人はよくあの薄暗い下宿で、禁制の煙草を貪り燻いぶらしつゝ 語り合うたものだ。
「 いざといふ日にパナマ運河を爆破する 」
といふので日米衝突を豫想して居た彼は工兵を志願したのであつた。
作業の時に學校の工作々業場から一個の巨大なる髑髏どくろを掘出した彼は、
それをコツソリ下宿に持參した。
余は菓子入れにしやうと提議したが、汚いといふので結局二人の灰皿に使ふことになつた。
「 太い、底の深い灰皿だな---」 といつては、頭蓋骨にたまつた煙草の灰を眺めて笑つたものだ。
福永が又愛煙家だつたので、彼も時々はこの灰皿を使つたが、他の友は知らないやうであつた。
帰校の時は丁寧に黒い風呂敷に包んで蔵つて居た。
・
彼が出奔したのは、或る月のない月曜の晩だつた。
其の前の日も二人は煙草を呑んで語らうた。
何時になく彼は泌々と人生を論じた。
突然、彼は言うた。
「 下令どうならうとも、必ず目的を達しやう。
だが俺は貴様と何時までもこうしては居ぬかもしれぬ。
目的を貫徹した上でなければ、若し別れても、音信すまい。」
余は首肯いた。
出奔の決意を知る由もなかつた。
が然し、其頃彼には男色に關する忌いまはしい噂が立つて居た。
それは余等の旧區隊で、彼と共に會寧の工兵隊に行つた渡邊のことであつた。
多くの友から斯ることを告げられることも度々あつたが、
余は彼等二人が共に強い信仰に生くる人々であり、
一般の者等の窺知うかがいし得ぬ丈の哲學的思想と堅固なる徳行の人々なる
ことを知つて居たために、此等の風評にも耳を籍せしことなかつた。
さり乍ら、問題は機微の間に起る種類のものだ。
で 時々は、二人にそれとなく言つては慎重の言動を要て居た。
彼は其時も、一言の下に風評を否定した。
そして 「 何時か知れる 」 と 呟いた。
余も亦彼を信じて疑はなかつた。
火曜の朝、起床と共に福永と平野とが三好の出奔を知らせて來た。
それから、
彼と中隊を同じうするもの、
余等の交情あるもの、
悉くは相次いで前夜の出來事を知らせに來た。
全校には益々忌はしき風評流言が傳へられた。
中央幼年學校時代に、校風粛正を斷行せしことありしを以て、
彼に對する俗評は一としきりだつた。
旧區隊の有志は悲痛を訴へて、彼 及び余等旧區隊一同に加へらるゝ、
妄評もうひょうを雪ぎたいと言うて來た。
玆に於て余は止むを得ず、渡邊を訪うて眞相を質した。
彼は風評を悉く否定して、
三好と同じ様に
「 何時か知れる 」
と 言うた。
「 事實ならば自決せしめやう 」
余はこの決意を抱いて行つたのであつたが、それでも尚彼等を信じて居たので、
其儘に慰撫して別れた。
「時日を待て、隠忍自重して雪冤せつえんの日を待つことが一番だ。」
余はこう言つて激昂する諸友をなだめた。
・
其後北海道に奔つて居た三好は聯れ歸られて二ヶ月を獄裡に送つた。
そして彼は漂然と東京を去つた。
七年着馴れし武衣を脱ぎすてた儘。
音信は絶つてしまつた。---約束のままに。
彼が出奔後、次の日曜日に下宿に行つたとき、思ひ出の髑髏が淋しく残されて居た。
余はそれを手にとつては、最早來ぬ友をなつかしんだ。
つと
「 崇たたつたのぢやないだらうか ? 」
余はこう考へた。
すると矢も楯も堪らなかつた。
其夕方、余は彼が残して行つた風呂敷にそれを包んで、何食はぬ顔で校門を潜つた。
其夜遅く、それは残雪尚ほまばらら白く闇に浮出て居る宵であつた。
南無阿弥陀佛と認めた半紙を髑髏の中に納めた余は、福永を呼んで事情を話し、二人は作業場に行つた。
雪交りの土をコツコツ掘った。
一尺ばかりの深さに穴を掘り下げたのは三十分もかかつたのであらう。
そして髑髏を埋めた。
無言のまま、雪をつかんで汚れた手を拭うた二人は相顧て淋しく笑つた。
空には、無数の星が心なき如くにまたたいて居た。
---かくして、三好はもう帰らなかつた。
再び玄海を越ゆる余の道伴れに、彼の姿が見られなかつたのも、
こうした思ひ出があつてのことだ。
げに大正十一年八月十三日の夕ぐれ、
無量の思ひに祖國に訣れた余は、再び波荒るる玄洋に船を乗出したのである。
---然も半ば朽ちたる病軀を擁して。
然して革命日本の建設、亜細亜復興の志願に魂を焦がしつゝ。
歸隊後數日にして余は 「 再び祖國の訣るるの記 」 を書いた。
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