あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 ・戰雲を麾く

2017年03月27日 04時34分25秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


戰雲を麾く
目次
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・戰雲を麾く 1 「 救うてやる 」 
明治四十年に起れる僞證事件の時の如き、
貧困なる隣家の依頼に然諾を重んずる彼が如何に行動したか。
一諾 「 救ふてやる 」 と 決意し 彼は自ら挺身法廷に立つた。
事件は何等彼に関係せしことでない。
遂に彼が法廷に猛吼せしとき、當局は震駭した。
警察署は成否二派に分裂し檢事局は擧つて彼を不法に壓迫し初めた。
全米子弁護士は結束して彼を援け檢事を糾彈の大運動を開始した。 
西田氏 冤えんを被り不法に監禁せられんとす。
全米子町して、事實を提さげて法廷に獅子吼せしことが冤を被る原因となり、
遂に問題は單なる小事件より是くの如き大波瀾を巻き起すに至つたのであつた。
彼は屈しなかつた

・ 
戰雲を麾く 2 「 小僧の癖に生意氣だ 」 
少年早くも妄りに國を憂ひ世を慨いた。
其昔まだ幼けなかりし頃、早くも吾心を緊張せしめたるものは、
小學四年の秋 忽如沖天の勢をあげた武漢の革命的大火災であつた。
「 日本少年 」 口絵冩眞に、
黄興、黎元洪等の面影と武漢焼打の實況とを飽かずも眺めて居たことの如き、
今尚眼底にマザマザと浮む懐しき吾が姿である。

 
戰雲を麾く 3 「 淳宮殿下の御學友に決定せり 」
在京の友より、
「 君 中央本科に入校の上は
第二皇子 淳宮殿下の御學友に決定せり折自重 」
の 報を得て、
宿年の希望に一縷いちるの光明を画きつゝ
故山の風光に心身を養うた

・ 
戰雲を麾く 4 「 私は泣いて馬謖を斬るより外ないと思ひます 」
三好は室の中央に衝立つた。
「 一年生の奴等、皆俺の顔を見ろッ 」 彼は叫んだ。
「 文弱淫蕩の俗風已に台上を犯した。
質實剛健の意氣と正義と今や地に堕ちんとして居る。
淫靡なる俗歌を口吟し、
休日はカフェー浅草を彷徨ほうこうして
不純の氣に我れ自ら浸り、
甚しきは
校内に神聖を犯して不義を行ふ者ある。
然も意氣なきが故に、
破廉恥を働き不義を行ひ文弱に流るる友をさへ責善の道も盡し得ぬ。
・・・・一顧、國家の内外に思ひを馳せよ、
是くの如くんば大日本國滅亡の日 思ひの外に速く來らん。
貴様等、何故憤起せぬか。」 彼の語調は凄かつた。
余は責善の友道を盡すべきことは各區隊毎に實行するを最良の法とすることを説き、
何此卒際徹底的に粛正したいために各自の道義心に訴ふるに旨附加した。
上司に對する責任は曾つての如く余之れを負うことを聲明した。

・ 
戰雲を麾く 5 「 青年亜細亜同盟 」 
印度獨立の志士ラスビハリーボース氏との交遊も其れと前後して始まつた。
そは先覺たる帝大教授鹿子木員信氏の紹介によるものである。
或る土曜の夜、
速達郵便を以て氏は、ボース氏を紹介の勞をとるから明日來宅せよと伝へられた。
余は宮本 福永と共に小石川に鹿子木氏を訪うた。
ボース氏は若い印度青年某氏と共に已に来つて、余等を待つて居た。
鹿子木氏、氏が妻君たる獨逸生れの婦人、それに余等五名は種々交語した。
そして、皆一様に白人の横暴 殊に英國の不法を紛糾し、亜細亜団結を誓うた。
ボース氏は紫唇を開いてインドの實情を説き、日本の無自覺を慨き、
遂には氏の危難---入京当時英大使館と警視廳とに追跡せられたるとき、
鹿子木氏 及 頭山翁に救はれしことなど語つた。
「 印度に來て下さい。 」
かく言つた氏の面上には、至眞の誠意があふれて居た。
その後余等は屡々新宿に氏を誘うては語り合うた。

 
戰雲を麾く 6 「 是れこそげに天下第一の書なり 」 
北氏の日本改造法案大綱の原稿を秘かに校内に持ち込んで福永は筆冩した。
印刷配布するのだといふので宮本と片山とは、
あの暑い夏の午後神田から謄冩版を買求めて汗ダクの爲體で担ぎ歸つた。
そして一同交代で鐵筆とルーラーとを動かした。
猶存社が具體案として有する此の改造法案こそ
吾等一同が魂の戰ひに立つべき最後の日の武器なりと信じて居るのだ。
げにそは大川氏の言ふ如く、 日本が有する唯一なる日本精神の體現であり、
唯一の改造思想であり、 然して同時に世界に誇るべき思想であるのだ。
今日幾多の削除を含みつゝ、世に公にされて居るのが、げに此書である。 
猶存社に宛てて郵送した朝日平吾氏の遺言状と斬奸狀。
それも北氏から借りて來て、ルーラーを動かした。

・ 
戰雲を麾く 7  「 必ず卿等は屡々報ぜよ 」
日本の無産階級は果して如何なる思想狀態にあるか
とは 宮が余に質ねられし一句である。
余は奉答した。
「 我國の所謂 無産労働階級は、
極度に虐げられて其生活已に死線を越ゆる奴隷の位置にあり。
そは國民の大多數なると共に、
彼等は一部少數の特權階級資本家等のために
天皇の御恩澤に浴し得ざる窮状に沈淪せり。
彼等正に恐るべき者とは佐倉宗吾を解せざるも甚しき者。
明かに見る、同盟罷業ひぎょうや普選運動が常に失敗に歸する如き。
然もそれ等は皆な、一部の主義者策士共の利の爲めにする煽動によりて
妄言濫動らんどうを敢てすることに原因せり。
・・・・げに、日本改造すべくんば天皇の一令によらざるべからず。
・・・・更に是の明白なるを見る、天皇は國際的無産労働階級たる日本の首領にあらずや。
國民の大多數を占むる無産労働階級と天皇とは離るべからざる霊肉の關係にあるもの。
そが敵は日本を毒する外國と國内に巣くへる特權階級資本家等どもなり。・・・・」
余は境遇止むを得ず、
漸次下層階級の事情に疎遠を來すに至る。

必ず卿等きみらは屡々報ぜよ。
宮は斯く宣うた

・ 
戰雲を麾く 8 「 達者だったか 」 
十二月十九日の夕刻、
余は父危篤の飛報に愕然としてとび上つた。
青天の霹靂とは正しくこの事だらう。
二十一日の夜半、痛心焦慮の身を清津に船によせて南航の途についた。
あゝ 何たる寂しき思ひであらう。
二十六日の黄昏、故郷の駅に立つた余は
直ちに病める父が在ます博愛病院に駆けつけたのである。
「 父に秘して、御身を呼び戻せし事情なるが故に、
決して斯る事を舌頭に出してならぬ 」
と 近親に聞き、
「 第一戰に國家鎮撫のために任にある彼は、余死すとも呼び戻してはならぬ 」
と 近親を誡めて居たといふ父の心を想うて、
余は腸の裂かるる思ひがするのであつた。
凡ての事情を詳かに聞き經たぬに、
病床に横臥します吾が父の憔悴枯槁せる面影よ。
何とも言葉が出なかつた。
三日程前から漸く危機を脱し得たといふ父は、仰向けに寝た儘、つと双眼を開いて、余を見た。
---ポロポロと涙が其のやつれし頬を流れた。
彼は何とも言はなかつた。
平素の父を想うて、
そして父の心を察して余は正視し得なんだ。
眼先が曇つた。
軈やがて父の口を出でし言葉は、
實に
「 達者だつたのか 」

一語であつたのだ。
余は涙をかくして見舞ひの言葉を捧げたのである。

・ 
戰雲を麾く 9 「 畢竟、人生は永遠に戰ひつづけるもの 」 
二十四春秋
嗚呼、
一顧して長望すれば
二十四年 早くも已に流氷の如く逝いた。
過去を顧るとき、凡て走馬燈の如くに眼底を旋轉する。
隔世の感もし、又 昨日の如くもある。
戰闘的精神をいとも濃かに、祖宗を一貫する血の流れに汲みて、
然して歩み來りし二十四年.
そは余が至心の法悦として、俯仰泣謝して止まざる恩籠である。
然も降天の試練悉く余が爲めに登髙向上の鞭であつた。
幾多の余を繞めぐり起れる現實の問題は悉く、
余の闘志を修練する天授の恩賚らいであつた。
然も不退転の大道念、不可抗の大信念は愈々凝り固まつて行く。
其れと共に日本の運命 亜細亜の運命は
旧殻を破つて、 新しき生に躍進の日が刻々に近づきつつある。
そうだ、
実に余の進むる歩一歩は日本更生の歩一歩であり、
亜細亜復興の歩一歩であり、
道義的世界誕生への第一歩であるのだ。

妄りに粗放なる革命児と誣しふるをやめよ。
余が一心は単り余個人の所有にあらずして、
げに尊き人類共有の心であり、
眞理の具現である。
さり乍ら、四年来の肺患は未だ全く癒やし得ぬ憂ひの底に陥とて居る。
現世に於ける將來を予測するとき、余が生命の前途は寧ろ暗黒である。
悲しまず。
然も 此の臝軀らたいに鞭うつて正義の爲めに戰ふ心を自ら凝視するとき、
轉た悲壮に堪へぬのだ。
然も 心理に殉ずるのだといふ意味に於て、
余は自身に絶對の幸福を思念するものである。

大正維新の高杉晋作たらんとするか。
こうも言つては、同志悉くが思ひを寄せる。
げに彼は明治維新を見ずに肺患に逝いた。
さり乍ら、
余 仮令肺患を抱くとも、
此の炎々たる胸裡の志願には
何者の妨碍をも許さぬ鐵石の心腸---鏡があり剣がある。
余は此鏡を掲げ、
此劍を提げて敢然として依然魂の戰途を進むものである。
---戰雲を麾いて、
凱歌に欣躍すべき克服の日に向つて力強く 一歩一歩を進むるものである
嗚呼、
回顧二十四年春秋。
そはげに矢の如し。
斯書は、
げに いみじき余が二十四歳の戰ひを綴れる所のもの。
そは永遠に世に留められるべき、
余が魂の遍歴を記念の記錄である。


戰雲を麾く 1 「 救うてやる 」

2017年03月26日 13時41分25秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


戰雲を麾く

--西田税自伝--

西田  税


人生は永遠の戰ひである。
げに、ともすれば侵略し強梁ならんとする
彼の醜陋しゅうろう卑劣なる我慾 利己 放縦安逸淫蕩驕恣などの邪惡を折伏すること、
又 正善を確立具現することは、一個不可分なるべき魂の戰ひである。
然して、そは自ら正しく行はんがために、思索討究實践である。
吾が魂の衷に於て、又 魂の外に於て、---自ら正善の確立具現者たると共に、
余の人々の正善への指導者たることを要する。
嗚呼、吾等は戰はねばならぬ。
然して、一切に克たねばならぬ。
吾等の心願は、内外一貫して眞なるもの善なるもの美
かくして吾が戰ひの生に二十四年は暮れた。
此の一篇は 「 戰闘的人生 」 と 共に、
吾人生を語るべき永遠の 「 かたみ 」 である。
大正十三年十二月朔ついたち    西田  税

血の流れ
我が家を古今一貫して流るゝものは戰闘的精神である 。
破邪顯正の赤い血であつた。
もと我家が現姓を稱へて世に立てるは、今より程遠くもなき幕末の世にして、
余を以て僅かに第五代とする。
始祖文周以前の事は明かでない。
唯々遠祖は伯耆羽衣石城主南条虎熊の家臣穴谷平八郎なりし傳え聞くのみである。
始祖以來の種々なる記錄を見、今尚ほ生き残れる吾が祖母に尋ね、
地方の古老が語り告ぐる所をきき、
余が通観するに維新以前初代二代の人々の歩みし道は
彼の石田梅厳の歩めるそれと大塩仲斎の歩めるそれと、
任侠幡隨院長兵衛の歩めるそれを合したる形式の如くである。
第三代は早く歿して、今生残れる吾が祖母が一家を負うて立つた。
父の代となるや、
其 歩める道祖宗の如く名望亦雷の如く、
交友出入依然たるものあつた。
彼は名利の念淡々として水の如かつた。
常に陋居ろうきょして貧を樂しんだ。
彼は信仰に生きた。
讀書思索した。
正善の確立には凡てを抛なげうつた。
邪惡の折伏には凡てを忘れた。
しいたげられたる者、弱き者に對しては限りなき同情の念を寄せた。
知ると知らざるとを問はず教を乞ふものには全霊をあげて惜しまなかった。
彼の語るや吼ゆるが如く、叱するが如く、諄々として噛んで含める如くあつた。
地方に於ける公共事業の大半が殆ど彼の方針に出で、
彼の努力によりて成れる事實は、最もよく彼を物語るものである。
凡ての問題は彼の出盧によりて解決した。
然も解決の爲めには、彼は何者の犠牲をも顧みなかったのである。

明治四十年に起れる僞證事件の時の如き、
貧困なる隣家の依頼に然諾を重んずる彼が如何に行動したか。
一諾
「 救ふてやる 」
と 決意し
彼は自ら挺身法廷に立つた。
事件は何等彼に關係せしことでない。
遂に彼が法廷に猛吼せしとき、當局は震駭した。
警察署は成否二派に分裂し檢事局は擧つて彼を不法に壓迫し初めた。
全米子弁護士は結束して彼を援け檢事を糾彈の大運動を開始した。
「 西田氏 冤えんを被り不法に監禁せられんとす。
全米子町して、事實を提げて法廷に獅子吼せしことが冤を被る原因となり、
遂に問題は單なる小事件より是くの如き大波瀾を巻き起すに至つたのであつた。
彼は屈しなかつた。
僞證罪の名に於て未決監に在ること二十八日に及んだ。
社會の上下をあげて喧々轟々、
米子鳥取松江の各新聞は一斉に此問題を通論、
全米子弁護士は結束して檢事局に肉薄し、町民は蓆旗を押立てて騒ぎ出した。
不法の檢事等は困倒した。
彼が公判廷に立つ日の如き、実實に傍聽席は立錐の餘地なく、
裁判所の周囲は人並みで取巻かれ、眞に空前の公判だつたと言はれて居る。
未決監に在るとき、
彼の許には無名の士から書籍 食事の差入れ引つきりなく、
彼は監中黙々として瞑想思索に耽り讀書に耽つたが、
此の全町民の眞摯なる後援に涙を拭ふたといふ。

彼が監に在るときの監守は、今も親族以上の交りあり
殊に余を愛すること子の如き長谷川俶光氏であつた。
情義を知る士であつた長谷川氏の取扱は
彼をして報ぜずんはあるべからざるを決せしめた如く、
後年水魚の交りに二人はあつたが、
同士の長氏 ( 現陸軍歩兵少佐 ) の夫人は父の媒介によつて
前米子町長丹生氏の令嬢が嫁がれたのである。

彼は七カ月の入獄を宣せられ然も三年間の執行猶豫で終った。
警察署に於ては頸部二名の外多くの者が処決せられて、彼は報いられた。
檢事は辛うじて其任に留まつたが、
一時は全町の猛烈なる反對のために失神せんばかりに苦しんだのであつた。

郷社勝田神社が焼失して十余年其儘なりしを
再建を發願し主宰となりて功を竣へしも彼であつた。
今も社頭に名を刻まれて残つて居る。
牛市場の如き、
或は米子中學校 米子工業學校設立の如き、
火葬場築造の如き、
郡公設運動場の如き、
其他郡或は町等に關する多くの問題は殆ど彼が主宰となり 先鋒となつて奔走して居る。
彼の県会に於て横暴なる政友一派が結束して、

彼等私利のために家屋税等を増加せんとせしとき、
最も關係深き米子町から町民大會の選ぶ所となつた彼の活動は、
正しく彼を得意の檀上に送つたものであつた。
深更人知れず、案内にも一語明すもなく忽焉として米子を去つた
彼が上県せし後の県會の大紛擾ふんじょう---そは空前にして絶後なるべきものであつたといふ。
全部の議員を歴訪して本増税の不可なるを説き、人民の疾苦を披攊して議案撤回---否決を要た後、
上提當日彼は利に動いて三四議員が旗旆灰色化せんとし危急を告ぐるに至るや、
俄然傍聽席から議場に躍込んで、殆ど狂人の如く叱咤したのである。
全町民の意志を提げて上県した責任は、彼の一擧一道にある。
嗚呼 狂か痴か。
然も、彼が故郷なる米子町大會に宛てて打つた電報によりて、
人民如何ばかりか雀躍泣謝したことであらう。
案は一擧否決の運命に陥いつたのである。
かくの如くして、彼は名を地方に重からしめたが、
名誉職を嫌つて僅かに區長と衛生組合長と國勢調査員をしたのみであつた。
議員選出を全町一致でなしても、彼は斷つた。
そして貧裡に自然を樂しんで居た。
彼は自ら正しく行つた。
正しく行はんがために如何ばかり心志に鞏鞭をあてたか
---そは吾等にも見ゆるが如きもあつたのである。

彼は何処迄も強く戰つた。
余は彼の涙を見たること僅かに一度しかない。
彼の晩年、十年の長き膝下に在らざりしとは雖も、
げに彼の頬を流るる涙は尠なかるべく見えた。
恐らく彼の涙は限りなく熱き血となりて胸腹を流れた。
「 國家に捧げたる重大の身、
下令父病みて存令計るべからざるものありとも決して召還すべからず。
況や児今北韓の國境第一戰にあるをや。」
彼は一度危篤に陥るとき斯く近親を誡めたといふ。
然もその眞意は十年前 余の兄が死せしとくも彼の口かより出でて居る。
余が近親の懇請により父に秘して帰省し、突然彼の枕頭に立つたとき、
やつれはてたる彼の双眼から涙が泉の如く流れた。
然も彼は口を緘したまま、言はなかつた。
此時 余は終生僅かに一度なる彼の涙をみた。
六十一才の生涯を終へたとき、彼の最後は地方曾い見ぬ華やかさであつた。
平民の教師として彼は通俗なる倫理道徳を田夫野人にも諄々として説き、
躬を以て行ひ、他の窮困を救うた。
洗心洞仲斎の如く彼は道を修め 道を講じ 世を革ため、
世を導き、正義のためには敢然ととて身を抛なげうち、
邪悪に對しては一身を以て抗戰し 以て世に盡したからだ。
げに彼は戰闘的人生の享有者であつた。

余は更に若くして抛ける吾が兄の脈管を流れし血の色を忘れ得ぬ。
彼亦父の脈管を流れる血を其儘にもつて居た。
二十一年の短生涯なりしに拘らず、彼の歩みし道は吉田松陰先生其儘の道であつた。
僅かに勤王の巷に奔馳せざりし相異あるのみてあつた。
道を修め劍に悟り、
子弟を教へて道義を鼓吹し、凡ての我慾を退けて自然を樂しんだ。
書によりて道を親しみ、劍によりて悟を得、
年少気鋭の子弟を教へ 且つ之れを娯みて倦うむ所なかつた。
そして、來るべき大志昇天の日を憧憬の眼にみつめながら、
病のために短き生涯を終へてしまつた。
彼の墓標に對するとき、彼の生涯を凡て物語るものは、實に彼の墓標其者である。
彼は苗にして秀でざりし者。
かくして、余は古へより流れ来にける戰いの血の濃かなるに、ひとり背くべくもなかつた。
骨肉たる関係以上に道友の契り深かりし兄は、
其の死せんとするとき、
二人の盡すべき分を頼むと 余に言い置きして、父に余への傳達を依頼したといふ。
余は今も尚思ふ。
「 兄在さば 」 と。
この遺憾は恐らく終生余の心を去らざるものである。
噫々 尊貴なる血の流れよ。
余はこの血に千古不易なるべき哲理を汲み得た。
然して昂然として言ふ。
「 人生は永遠に戰ひである。此永遠の戰ひに終始するこそ、人生の本領である。
然して克ち得るものは至高永遠なる生命である。」 と。
然して更に敢然として言ふ。
「 斯の戰ひを拒む者は 天国の門に入るを拒む者なり。」 と。

幼時の思ひ出
朝々暮々、山陰の不二と呼ばるゝ大山を近く東に仰ぎ、
碧波活濤、雄宕限りなき日本海を北一里に望み、
山色水熊正に瀬戸内海の縮圖にも優れたる錦海を西半里の所に眺む。
四時白雪を戴きて清髙聖浄、雲煙の上高く天に接する大山の絶巓に志を寄せ、
雄大縹渺ひょうびょうの萬頃の波濤なみに心胸を濺ぎ、淸雅処女の如き内海に情を舒のぶる。
げに聖者哲雄の生るべき神境である。
余はこの地に、祖宗一貫の戰闘的精神を享けて呱々ここの聲をあげし者である。
十有五年の思ひ出は又なく懐かしく慕はるるのだ。
五歳甫はじめて書を讀んだと言はるる。
十歳にして詩歌の嘆賞者となつた。
十二歳にして、戀を知つた。
讀書は思索を生んだ。
沈黙不言の児たるの名を獲得した。
國家に献呈するの意に於て与へられたる余が名なりしことの父の述懐をきき、
丑年生れなりし縁によりて菅相公を彫像して余に賜はりし父の眞意を知るに及んで、
余は幼時痛くも心を動かしたのである。
四歳の秋、 「 紐落し 」 の日に恒例なりし筆算盤銀貨を並べて父母が選み取らしめしとき、
直ちに筆を握りし余を年經ても尚語り草にする近親が、
余に寄する折りは 「 永遠に幸あれ 」 の一事であるといふ。
八歳の春、小學に入つた。

次頁 戦雲を麾く 2 「 小僧の癖に生意気だ 」 に 続く


戰雲を麾く 2 「 小僧の癖に生意気だ 」

2017年03月25日 04時23分37秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


故郷の学窓時代
少年早くも妄りに國を憂ひ世を慨いた。
其昔まだ幼けなかりし頃、早くも吾心を緊張せしめたるものは、
小學四年の秋
忽如沖天の勢をあげた武漢の革命的大火災であつた。
「 日本少年 」 口絵冩眞に、
黄興、黎元洪等の面影と武漢焼打の實況とを飽かずも眺めて居たことの如き、
今尚眼底にマザマザと浮む懐しき吾が姿である。
明治大帝神さりましし時、
九月十四日の拂暁
けたたましき號外の音に
大將乃木が御あと慕ひて自刃せしむを知り、
当時中學三年早くも哲學と政治との趣味を併せ抱いて居た兄に質して、
乃木自刃---死に対する理解を得んと焦つたこと。

大正二年春、
所謂憲政擁護運動が沖天の勢を以て東京に起り
犬養、尾崎等の論將が獅子吼した頃、
至大の興味を政治にもてる父の傍らに坐して無心たり得なんだ余が、
尾崎の咢堂を真似て岳堂を自稱した六年生時代のこと。
犬養 尾崎の優劣を學友と論爭して教師に
「 教師さへ政治を論じ得ぬ。小僧の癖に生意気だ 」
とばかり怒鳴られた思い出。
---其の友は今 臺灣國語學校を終へて彼地に育英に從つて居る。
然して小學校を卒へんとする時、
余は 「 吾が崇拝する人物 」 と題して
大西郷と奈波翁 ナポレオンとをあげたる一篇を卒業記念帖に残した。
そして、開校以來の成績を以て校門を辭した。

幼児よりの熾烈しれつ寧ろ狂熱的な讀書癖と英雄崇拝との故に、
余は最も好んで英雄傳 志士傳等を貪り讀んだ。
雲井滝雄を喜んだ時代もある。
然も余をして最も心を惹きつけしものは実に西郷南洲其人であつた。
そして維新の諸雄を随したがつて讀究した。
坂本竜馬や高杉晋作や其他多くの英雄を敬仰した。
又、大陸に活躍せし人々をも隨つて知り得た。
荒尾東方斎の如き、頭山満の如き、或は岡本柳之助の如き、
支那朝鮮に於ける活躍等も年少客氣の余が血を沸かしめしものである。
書齊の壁間、大西郷の肖像画を堤げて 日夕其偉大なる風貌に接し、
明治維新を回想し、大陸に憧憬し、然して其の心的生活を慕ひしことは、
げに余が生涯の志願に直接偉大の關係あるかに思いなさるる。
かくして小學生時代己に人生社會國家なるものに或る心願と研究心とを築いた。
兄の机上に置かれて居た中江兆民の 「 一年有半 」 或は 「 カントの哲學 」
「 オイケンの哲學 」などに至るまで、余は決して見逃さなかつた。
小學の文庫より借りては英雄聖哲の傳記に目をさらした。
「 日本少年誌上に聯載せられし故事解説によりて
「 嚢沙背水の陣 」 「涙を揮つて馬謖を斬る 」
等の史實を知りしも小學五年時代である。

十歳の秋、
初めて漢詩朗吟の快を知った。
それは當時風呂を沸すべき任務にありし余が、
竈前に箕踞して無聊の余り
「 劍舞詳解 」 を手にせしに始まり、
月落鳥啼霜満天の詩は最も愛誦せしものであつた。
そして燃へさしの柴木を筆にして
手あたり次第書きなぐつた種々なる文字等今も尚物置
---当時の浴場に跡を留めて居る。
江楓夜泊の詩に次いで覺へしものは
かの伊藤博文の建業唯期和聖東のそれであつた。

十二歳の春、初めて異性に對する戀を知つた。
然も黙々の間に、それとと言はぬ交りは十年近く續けられた。
そして彼女は二十一歳の春嫁いだ。
今医学博士の夫人として内助最も力あるものであるといふ。
六年生の夏より冬に、余は心身の過勞を來した。
或時作文帖の端に何知らず筆を走らせた一句によりて、教師より訓戒をうけた。
そは悲観的厭世えんせに陥つて居るとの故であつた。
---暮れ告ぐる お寺のかねの うら淋し。
の一句である。
此頃妙に心が沈み淋しみを好んだ。
教師の通知によりて父から讀書を禁じられてしまつた。
長姉が嫁ぎ行く宵、兄弟の誰彼れは門口に彼女を送ったそうだ。
余は一人土蔵に潜んで 古書の中に踞まつた儘姉さへも送らなんだ。
そして祖母よりいたく叱責されしことを今もよく記憶して居る。
それは十二月であつた。
家出づる時姉は余に会はぬを嘆いて、
「 記念に 」 と 祖母に托して余に与へた白の襟巻が今も残って居る。
神経衰弱 ? と 人は言うた。

大正三年三月廿四日、余は小学を卒へた。
此頃、余は己に家の蔵書を一と通り讀破して居た。
四月、中学に進んだ。
尋常出身を以て高等小學出身者の間に在って、入學の成績三番といふのであつた。
そして中学二年間優等生の席を占めて居た。
入学二ヶ月の後、全校雄弁大会に選まれたる余は、
「 男児立志の秋 」 なる題下に朝鮮支那印度の亡国を指摘して、
彼等の跡を追はんとするかに思いなさるる日本人の亡状無気力を痛憤し、
日本男児奮發躍進の秋正に今なるを絶叫した。
然して年少弁壇の闘将たる名を寄与された。
不良同期生を修學旅行中の一夜 「 級會 」 席上面責して改悛を誓明せしめたこと。
一年二年の確執に二年生の横暴を憤慨して一年級團結の上、反抗した思ひ出。
一年級野球團の主將として小學連合軍を三度に亙りて撃破せし思ひ出。
それから又なく懐かしい。
二年級に進みし四月、幼年學校に受験した 。
そして八月二十八日、父と共に廣島に向け出發した。
九月一日、中學の掲示板には余の退校を許可せし紙片が淋しく掲げられて居たといふ。
かくして、余は十五年の故郷生活を終へて新しき戰途に上つたのである。

兄は余の中學入校と共に中學を終へて居た。
三年來の耳疾のため半ば聽能を害して居た彼は、
登髙の志を一時抛つて其の母校たる角盤高等小學校に教鞭をとつて居た。
彼は己に哲學的一見識をもつて居た。
又 劍道に於ては在學当時 已に一頭地を抜く達者であつた。
彼は年七歳にして早くも維新生残りの老劍士河村正彦翁の門に這入って居、
又 漢學を同じく田中蝸庵翁に從つて修めて居た。
教鞭をとりし以來、彼の信望は日に日に加はつて行つた。
彼は授業以外に少年の志気を鼓舞し、道義を唱明し、
餘暇には日々警察署の道場に有志の少年三十名を集めては、劍道の修練に励んだ。
そして隔日毎に夜、彼等を余が家に集めては道談をなした。
余は彼と書齋を同じうして居た。
二人は骨肉以上に道友の契り深かつた。
二人は道のためには歩みを共にした。
最も忘れ難き思ひ出は、ウオーターロー百年記念の夕べ、
塩煎餅をかんで一同大いに談論せし六月十八日である。
かくして、彼は名を地方に知られた。
然し乍ら、それと共に耳疾は次第に重つて行つた。
七月---大正四年---に入ると已に彼は凡てを抛棄ほうきの餘儀なき病態に陥たち。
大正四年十月二十七日、彼は余が遊學の後に寂しい思ひを抱きつつ
耳から遂に肺を併せ痛めて危篤に陥つた。
三十日、いとも畏き教育勅語下賜の記念日に彼は帰らぬ旅に上つたのである。
そして何たる因縁ぞ、
彼が買求めて年頃愛玩せし鉢植の山茶花は彼の死前後より凋しぼみ初め遂に枯れてしまつた。
彼は今 劍道の先師河村正彦翁の墓近く二十一年の生涯を埋めて居る。
遺書は死後發見された。
そは彼の死約二ヶ月以前に認められしもので、無為双親に先立つ罪を謝し、
一家の後事を詳細に委託し、人生観を簡述して居る。
墓地の如きも病末だ重からざる日 自ら現地に立つて決定せしものであることが彼の遺言中にある。
彼の死に逢ひ得ざりし遊學中の余は、殆ど情なきに近い父の教誡のままに、
空しく廣島に死別を悲しんだのである。
彼の葬儀は我故郷曾つて類なき盛儀と言はれて居る。
そして死後彼の墓前には誰のともなき香花が薫つて居る。
彼の中學時代の師時山松窗は愛弟子のためにと、碑銘を認められた。
「 西田英文之墓 」 を 正面にして 「 大正四年十月三十日歿享年二十一歳 」
と 共に他の一側には左の文字が刻まれてある。
  資性温厚  誠實力殫
  天如仮寿  績可大観
かくして彼は桐の一葉と共に秋に散つた。
然も十年の後、吾が父は愛児と共に相並んで墓標の主となつてしまつた。
げに、米子は余の生れ故郷なる意義以上なる永遠不忘の地である。
祖宗累代の戰闘的英霊の眠れる地である。

大正四年八月二十八日、登髙嚮上の志を抱いて故郷を去った。
爾來十年の月日は流水の如く抛いた。
故山の風光、そは何時もかはらぬ懐かしさである。
大山の霊容、日本海の雄大、綿海の典雅、---人事幾度か轉変變するも、
それのみは依稀當年に異ることない。
げに忘れ得ぬは 十五年の故郷生活である。

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戰雲を麾く 3 「 淳宮殿下の御学友に決定せり 」

2017年03月24日 13時55分24秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


広陵雌伏の三年
大正四年九月一日、
余は中学二年の中途にして
廣島陸軍地方幼年學校に轉じた。
 
廣島地方幼年學校   大正7年
そは生れて最初なる他郷遊學であつた。
余が心願は年を逐うて熱烈と深刻とを加へて行つた。
そして行持亦隨つて其の道を歩んだ。
成績は此処に於ても曾つてと異ることはなかつた。
喬木口に風が当る---「 陸軍乃公の専有 」 と自負せる長州出身者は烈しき迫害を加へた。
不法醜怪なる壓迫嘲罵排斥の言動は三年の間絶ゆることはなかつた。
夜など自習の休憩に心身を慰め思索に耽るべく、
或は月明を慕ひ 或は星光を追うて校庭を漫歩するとき、
忽如暗中に躍る鐵拳に頬を打たれ頭をなぐられしことも一再でなかつた。
運動時間に、或は棒倒しに 或は土俵占領に、故らなる暴行を受けしことも屈指に遑いとまない。
殊に居住言動の悉くが皆 余に対する讒そしる罵なりしことは
余をして限りなき憤情と共に憐憫れんびん哀愁を懐かしめた。
大正六年七月似島遊泳演習の一夕、余りの迫害と横暴とに堪へかねて悲憤、
敢然として五十余名の集団に赴かんとして二三の友に抑制せられ、
男泣きに泣いたることの如き終生忘れ得ぬ思ひ出である。
寂しき戰ひであつた。
三年の學を終へ、首席の故を以て皇太子台賜の銀時計を拝受するに決定發表の日
---大正七年七月八日の夕べ、
満々たる野心に孜々しし三年を努めて一空に歸せし長派三四の者等が、
余の面前に集りて憤叫怨嗟の限りなく、遂に或一人が余を罵詈ばりせしとき、
余は不肖實に其人に非ざるを慚愧ざんきすると共に、
功利的頽廢たいはい是の如く
荒涼たる人々の心を悲痛と寂寞せきばくの思ひに悵然たらざるを得なかつた。
さり乍ら、予の在広三年は黙々思索躬行の時であつた。
孤心寂寞の裡に、余は生來の志願に嚮上の道を辿つた。
學校文庫の蔵書は其の殆ど凡てを讀破した。
高等師範の図書館には日曜毎に通つた。
私書携帯を犯して、書庫より求めし書を常に机に忍ばせて居た。
孤獨---げに痛ましき魂の戰ひが續けられた此の三年の中、
唯々一人の友たりしものは看護長中川春一氏であつた。
入校當時、足患の故に医務室に通つたことが二人相識る動機だつた。
氏は満洲守備當時をよく語つた。
大正五年内蒙の偉雄巴布札布將軍の討袁翻旗の痛烈なる論議より、
二人の交情は愈々深くなつた。
哲學を論じ、政治を論じ、國家を論じ、支那を説き大陸を説いた後、
二人は必ず革命を話題にし改造に言及した。
「 大正の青年と帝國の前途 」 を余に示したのも氏だつた。
年齢二十の差も二人の交情の前に露と消えた。
さり乍ら官命止むことと得ず、氏は二年執臂との交を捨てて、北満公主領の病院に轉じた。
最後の一年の如何に寂しかりしよ。
卒業當時、北満より祝文を寄せたまゝ氏は消息を絶ってしまつた。
大正七年七月十日、三更の天に銀漢遠く北をさして流るゝいみじき壯美を仰嘆しつゝ、
顧みて三年孤獨生活裡に得たる尊貴なる體験を懐みながら、
然も三年の行持伝統精神に背からざりしを感天謝地して午前二時四十七分廣島を去った。
首席---台賜、そは固より至極の榮誉である。
全國六校卒業生中最優の成績なりしとも伝へられた光榮は、至心の感喜でもあらう。
さり乍ら、余の心に於てそは何程のこともなかつた。
余は魂の戰ひに於ける苦闘に少くも克服の凱歌をあげ得しことを喜んだ。
現実に醜陋なる人々の心を知り得た。
屈せざりしことを自ら懐かしんだ。
充たし得ぬ心底を凝視し乍ら 又 哀愁に身慄ひして止まなかつた。
そして、五十日の休暇を故山の風光に浸り、双眼の慈愛に浴すべく、
鉄路東したのであつた。
帰省の途、余を襲ひし奇禍は、十二日払暁、
折からの暴風雨に原因せる鐵道線路の崩落---列車顚覆であつた。
三十余輛斜めに覆つた。
乗客大半の死傷に拘らず、余は寸分の受傷もなくして、
傾覆破壊せる列車の窓から飛び下りた。
台賜の包みと一個の信玄袋を提持---半里の鐵路を辿つて次の驛に到り
救援列車に移って故山に歸った。
歸郷の日時を豫報せざる余の習慣に過度の心遣りをする双親は、
此一大凶報に接して処置に苦しみ、
現場に出張して見るを可とせんかなど知人數氏と協議しつゝありし時、余は歸宅した。
台賜の光榮は余何等報ずる所なかりしを以て知る人なしと豫測せしに、
豈計らんや、數日前 吾故郷の新紙は余の冩眞を掲げて告ぐる所あつたといふ。
遭難と光榮とを併せ挨拶せられしとき、余は答ふるに言葉なかつた。
---將來の志願は余自身のみ之れを知る。
余の從來の學績を知る者凡てが余に期待する所は、功利榮達の將來である。
双親亦児に欣喜の情を賜はるにつけて、堪へられぬ心の辛さに獨り飲泣した。
今も尚、天才---立身榮達の世評と期待とは余の故郷に於ける人々の所有である。
嗚呼、何たる寂しさぞ。
唯々余は、兄を失ひて哀愁尚新たなる双親を喜ばしめし一事を、
儚はかなくも孝の一端と自ら心を慰めた。
 東京・陸軍中央幼年学校
在京の友より、
「 君 中央本科に入校の上は第二皇子 淳宮殿下の御學友に決定せり折自重 」
の 報を得て、宿年の希望に一縷いちるの光明を画きつゝ故山の風光に心身を養うた。

しかも、六月下旬より漸次勢をあげた 所謂米騒動は、八月に至つて滔天とうてんの勢を示し、
したがつて社會上下を擧げて非常の險惡を示すに至つた。
余は限りなき感慨と決意とを以て、それを眺めた。
八月二十九日、涼しき朝 風に吹かれて東上の列車に人となつた。
此月、終生初めての終りなる余が戀人より手紙を受取つた。
然し其日初めて、彼女の心に余を十年來慕へる思ありしを知つたのである。
其日までの余は彼女の心も知らず、ひとり戀ふて居たのである。
さり乍ら、其日其戀は喪そうせた。
切なる思ひを告白して、境遇の儘ならぬを訴へ、弱く悲しき心を綴つて居た。
然して余はいよいよ登髙向上の志に専念の鞭をうつて、或る決意を抱いた。
東上の朝、故山の風光を眺めつゝ一種の微笑を禁じ得なかつた。

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戰雲を麾く 4 「 私は泣いて馬謖を斬るより外ないと思ひます 」

2017年03月23日 04時09分32秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


魂の戦闘へ !! 戰ひの巷へ !!

聖戰の途に上る
御學友たるの期待は俄然裏切られた。
入校式の前日たる八月卅一日に至りて、突如変更せられ、
余は殿下を第三中隊に拝しつゝ 第一中隊生徒舎に起居することになつた。
今も尚當時の眞相不明である。
殿下區隊には余の姓名を誌せる机ありと、
入校當初同中隊の生徒達から屢々しばしば耳にしたが、
余は早くも彼の一縷いちるの望みを絶つて、曾つての如く魂の修練に心を濺いだ。

十月、校内に流行性感冒發生し、燎原の火の如く擴がつた。
寝室は病室と化した。
健康者は病者と隔離して、區隊毎に一室に雑居することになり、
學課術科共に出席少數の故に屢々となり、余等は暇ある毎に寝室に集つては縦談横語した。
余はつとした動機より、當時流行の大本教の解剖をなした。
そして世界の改造、日本の改革を、余の所見を加へて説いた。
蓋し 當時余は帰省の度に故郷の在郷將校より入信を勧められ、
自身も亦多少書に就きて研究もして居たのである。
加るに、余一流の鞏弁を以て國家内外の紛糾多難を説き 余が心願たる國家改造を論じ、
然して余が究竟の志願たる亜細亜大陸への進展を叫んだのだ。
げにそは 時宛も米騒動の直後であり、天災---全國に亙れる暴風雨の惨害、
勞働者の暴動に等しき罷工怠業等を眼のあたりに見、
思想界の紛糾混沌は左右兩派の衝突、滔蕩とうとう文弱の毒潮淫々として横流せる、
一々心に応へるもののみであつた。
一道が思はず釣り込まれて居たのである。

天道縁に隨つて可なり---數夕の談論中に余は福永を識つた。
爾來二人は世を慨き 國を憂ふる友となつた。
二人は至極の心願を大陸に寄せた。
げに楊柳青く垂るる江河の岸に馬に飲ふ馬賊を思ひ、
広漠涯なかるべき満蒙の大原野に報國一片の赤心ら鞭つ暗中飛躍の志士に思ひを寄せては、
二人坐臥に堪へぬものあつたのである。
余は 「 馬賊の唄 」 を作つた。
「 日東男児蒙古行 」 を作つた。
又 「 日本改造の概歌 」 を作つた。
そして二人は高唱した。
同感の友は漸次にそれらを口吟し初めた。
一月に至つて余は愈々堪へ切れなくなつた。
げに見渡せば、國内上下を通じて欧戰後の淫蕩驕いんとうきょう恣し放縦と思想の混亂と暴風は、 
何時の間にか質實剛健なるべき市ヶ谷臺上の武學窓にも吹き初めて居た。
余は一夜
「 正義を確把はし、剛健を堅持して、
此の醜陋しゅうろうなる現狀を打破すべき魂の戰途に立たねばならぬ 」
意味の檄を草して福永に手渡した。
三日程經て、余は同行の友 五名を全校同期生中に求め得た。
然して、みずから衷なる魂の戰ひに正善を確立すると共に
外なる魂を同化すべき不屈の聖戰に上ることを誓つた。
日常、正義の勇者たる言動に背からざることを誓盟して、一同は戰途に立つた。
時々集合しては、修魂養魄の資を交換した。
休日には必ず宮城靖國神社に參拝した。
然して後、或は青山に大正乃木を弔うた。
松陰神社に維新の志士を弔うた。
牛込に山鹿素行先生の墓を訪うた。
小塚原に維新烈士の遺跡を尋ねた。
小塚原に橋本佐内先生の遺跡見当らざるに、
寺内最も整容を示せる一墓石をそれならんと脱帽しつゝ近づき、
鼠小僧次郎吉の墓なるに吃驚きつきょう相顧て苦笑禁じ得ざりしが如きこともあつた。
松陰神社の森蔭に火を焚いて、携行の米を煮たこともあつた。

大正八年六月、市ヶ谷台上に一大旋風を巻き起せしものは武斷黨の出現であつた。
同期の不良無頼分子約三十が 「 忠君愛國を信条とし云々 」 の規約の下に結束し、
其美名に隠れて放恣ほうし暴戻、校則を破り良風を傷け、其毒げに惨憺さんたんたるものがあつた。
加之、一部の生徒は俗風に逆行し得で淫蕩文弱の言動に顰蹙ひんしゅくすべきものがあつた。
かくして、臺上は將に混亂狀態に陥らんとするに至つた。
一部硬骨の人々も多く無干渉即無事的態度を取つて、
大厦かの頽くずるる一木の支ふる能はざる所となすが如く見へた。

四月二年級に上つた余は、當時對稱第一学年區隊に取締生徒として彼等と寝食を共にして居た。
武斷黨の魔手は早くも美少年の多數を有する余の取締區隊に延び、
因却して余に哀願する者あるに至つた。
加ふるに全校に散在せる同行の友は、日に日に忌いまはしき彼等の言動を秘報した。
「 事已に此処に至る。正義のために余等大劍の鞘を払ふべき秋は來たのだ。」
余は五名の友に宣戰を告げ、先づ武斷黨破壊戰に赴くことになつた。
次いで全校三ヶ中隊に於て各々區隊を以てする會合は開かれ、
中隊會は開かれ、武斷黨員に對して忠告解散を求めるに至つた。
固より余等六名がその中心なりしことは論ない。
武斷黨は憤激した。
然して其の破壊運動の主盟が余なることを知つた彼等は、
悲憤余に暴力を以て酬いんとするに至つた。
當時余の所属區隊は二十三名悉く余等の心事を理解し、同行を約して居たがため、
有志の者等は余の危険を慮つては、夜など常に側近を護つて呉れた。
この厚意余が終生忘れ得ぬ所である。
風は巴に吹いて臺上に荒んだ。
さり乍ら神人共に許さざるものは不義である。
戰ふこと前後二ヶ月、夏休暇近き七月上旬 遂に武斷黨解散の日が來た。

余は數日の後、東京駅頭の人となつた。
休暇中と雖も六名は回送通信によりて相互の聯絡を續けた。

江都の天に秋風吹き初めし十月、臺上再び亂れた。
そは武斷黨の残黨---三四の者等が再び陰に正義を破らんとし初めしこと、
及び 文弱の弊風益々烈しく 休日にカフェーを荒し 歌劇に出入し、
或は風風姿次第に淫美に奔り、甚だしきに至つては校内に於て歌劇の眞似を催し
淫猥いんわいなる歌を口吟し 美顔水を秘かに所有するものすら出現し、
意氣蕩然として地を拂ふに至りしこと等である。
然も最も硬派の心を衝撃せしは 武斷黨の中心人物たりし某が夏休暇中妓楼ぎろうに通ひ
遂に悪疾を伝染して九月帰校の日を延期せし事實が判明せしことであつた。
加之、彼は余が取締區隊の某なる美少年を短刀を以て脅迫せしこと一再でなかつた。
余は其經過を一々訴へられて承知していた。
十月下旬の或る日曜日の夜、
人々は一様に一日外出の行楽に疲れし如く自習室に三三五五休憩放談して居た。
例の如く六名は余の机辺に集合して話して居た。
皆斉しく再戰の途に上らざるを得ぬと紛糾した。
突如、同區隊の三好が余等を訪うた。
彼は余に向つて、
「 臺上再び擾みだれんとす。殊に破廉恥漢が今尚横行せることは限りなき遺憾である。
兄再び宣戰の意志なきか。余は敢然毒鼓を打たん 」
と 言うた。
彼は日蓮主義者であつた。
三好との交情は此時以來濃かになつて遂には戰線に立つべきを誓つた。
戰ひは先づ内に始まる。
區隊全部の賛同を得て、全員寝室に集り、
熱狂漢 末吉竜吉は先づ
「 校風維持のために一同の結束蹶起を要す 」
と 叫んだ。
余は止むを得ざる心事を披露し、
「 正義運動の發生地たるべき吾區隊に於ては 寸毫と雖も仮借する所あるべからず 」
と 論斷して同意を得、天に代りて誅罰することを宣言して、
二三の軟派分子を面責した。
末吉は熱狂して鐵拳を揮つた。
彼は稚気眞に愛すべき熱血児であつた。
同志ではなかつたが余は交情深き友であつた。
區隊は直ちに解散した。
余を始め福永 三好 末吉 岡田等數名は同学年の他のニケ區隊の有志と會見して、
歩を倶にして戴きたいと語り、彼等は直ちに區隊毎に粛正行動に移つた。
然も彼の一大破廉恥漢は余等の隣接區隊に績を置けるものであつた。
彼は區隊全員の忠告に耳をかす程柔順なる人間ではなかつた。
鐵拳の雨が降ったけれども、恬然として空嘯いたと云ふことであつた。
余は三好 福永と共に第一學生自習室に赴いた。
三好は室の中央に衝立つた。
「 一年生の奴等、皆俺の顔を見ろッ 」
彼は叫んだ。
「 文弱淫蕩の俗風已に臺上を犯した。質實剛健の意氣と正義と今や地に堕ちんとして居る。
淫靡なる俗歌を口吟し、休日はカフェー浅草を彷徨ほうこうして不純の氣に我れ自ら浸り、
甚しきは校内に神聖を犯して不義を行ふ者ある。
然も意氣なきが故に、破廉恥を働き不義を行ひ文弱に流るる友をさへ責善の道も尽し得ぬ。
・・・・一顧、國家の内外に思ひを馳せよ、
是くの如くんば大日本國滅亡の日 思ひの外に速く來らん。
貴様等、何故憤起せぬか。」
彼の語調は凄かつた。
余は責善の友道を盡すべきことは各區隊毎に實行するを最良の法とすることを説き、
何此卒際徹底的に粛正したいために各自の道義心に訴ふるに旨附加した。
上司に對する責任は曾つての如く余之れを負うことを聲明した。
其夜遅く、余は週番士官菊池中尉に呼び附けられて、種々談論して、了解を得た。
一週の後、中隊は、
彼の不淨漢一名を残して
一切に正義的言動を誓ひ文弱を粛正することを約して一と先づ、戰闘の幕を閉ぢた。
余が同行の友は、曾つてと等しく再び其の所属中隊に於て粛正運動の中心となつて戰つた。
刻々に戰ひの經過は報ぜられた。
正義は常に一切に克つ---余は此確信に生きることを得た。
さり乍ら余の最も遺憾なることは、
第二中隊第二區隊は大半の者が腐骨分子のために戰ひ却て數に壓倒せらるるの報ありしこと、
及び吾隣接第二區隊が不淨漢を持て余したことのそれであつた。
余は満腹の決意を抱いた。
破廉恥漢が長州出身者なりしが故に、余は長州出身者の牛耳を執れる某
---彼は廣島卒業當時余を面罵せし者である---を召致して、
彼等一團が陰に彼を庇護せるの一事を立證通論し、
彼等にして処理する能はずんば余自ら斬馬の劍を把らんと言うた。
黙々として去つた。
黙して又、第二中隊第二區隊の非を算へて、其不義を責むるの言を公表した。
果して反動があつた。
長派は結束して不淨漢を庇護し、
一方同派出身の學校職員に倚つて一切を蓋はんとするに至つた。
第二中隊第二區隊は憤激して吾區隊を仇敵視し始めた。
余は中隊各區隊の有志と謀り、
愈々中隊同期生の決議を以て不淨漢の進退を決せんとするに至つた。
時はたゆみなく流るる。
宣戰以來早くも一と月は逝いて、朝な朝な霜寒き十一月となつた。
長派の奸策を立證表明せしとき、區隊の者等悉く悲憤の涙に咽んだあの予防接種の夜の思ひ出、
遂に其あくる日の午後、余は三好 福永 末吉 及他の區隊有志三名と共に中隊長室を訪うた。
六人の區隊長も集まつた。
其の中には長派出身で最も奸謀を授けた區隊長某中尉も居た。
一名宛意見を共陳した。
皆等しく彼の不淨漢と道を共に歩むことを否んだ。
廣島時代から彼と歩みを共にし 殊には生島校長から其の監督を依頼せられて來、
又 凡て彼の言動に最も知る所多き余は、最後に意見を求められた。
一同は憤激のあまり感極まつて泣く者もあつた。
末吉と三好とは、げに男泣きに泣いて居た。
余は
「 惡友責善の道に於て、僚友から同行を否まるゝに至つては已に終りである。
上司許さずといふ時、私等にお任せをと願ふことが朋友の常道である。
私は泣いて馬謖を斬るより外ないと思ひます。」
と 斷言した。
そして、一同沈痛なる思ひで室を出た。
その夕べ、此頃の戰雲に全校生徒の心は沸立つて居たが、
夕食時に週番士官が食卓に衝立つて
「 二年生一同の希望する如く不淨漢を退校處分に決した 」
と 傳達した時、
覺えず喊声が四方に起つて食堂は動揺めいた。
其後、區隊と區隊との彼の軋轢あつれきは益々甚しくなつて來た。
殊に不淨漢が武斷黨の中心人物であり黨員が三四彼の區隊に居る關係で、
余は一層狙はれることになつた。
「 短刀を抱いて校門を入れり 」
「 西田に對して此の恨みを報いずば云々 」
の 飛報はあはただしくも、余の耳を打つのであつた。
此頃余は或る寂しき思ひに自ら悲しんだ。
護つてやらうと言つてくれる三四の友の厚意も謝して・・・・。
遂に或る午後、第二中隊第二區隊から余と意見を交換したいと告げて來た。
無理に同行を強いた三好 末吉 福永を伴つて、余は出掛けた。
隙間もなく余等四名を取巻いて、彼等は鞏弁した。
余の答へを求めた。
余は一切を披瀝して所信を述べ、反省を求めた。
議決せず、再び有志との會見を約して別れた。

其夜會見によりて、凱歌再び余等の奏する所となつた。
かくして、十二月に入った。
臺上名物の百日祭は來た。
余等の區隊は九日、半年の道義戰に得たる勝利を併せ祝つて、一同歓呼した。
げに其の日の思ひ出は今懐かしき極みである。
余は此戰ひの途中に於て、平野を識つた。
片山を識つた。
平木を識つた。
そして又、福永の紹介で大亜細亜主義者としての宮本を識つた。
越えて九年二月、卒業試験直の三週を余は四十度の高熱に冒されし爲めに病床に送つた。
三月二十一日卒業した。
二百五十名中十二番といふ過去に背く恥づべき成績を以て、余は學校を去った。
然して、福永と三好と三人朝鮮を志願して叶つた爲めに、
四月二日の朝春雨煙る兵庫の海を船出して、満懐の希望ら一千里の西北を指し去つた。
上京してより早くも二年を送つた。
余は此間至極の志願に何程の努力をなしたか。
初めの一年半にはひたすらに衷なる魂を磨いた。
休日には屢々しばしば図書館に通つて、心糧を漁つた。
哲学的興味を主として禅に濺いだ。
亜細亜時論を購讀した。
大川周明の日印協會脱退の壯烈なる文字に魅せられしも同誌。
満川亀太郎の亜細亜問題の諸論文を飽かずも讀んだのも同志。
内田良平の名は幼時より知つて居た。
そは朝鮮問題其他からである。
時には赤坂溜池の黒竜會本部を訪ひしこともあつた。
宮本と相識つてからは、彼の同郷で先輩なる西岡士郎氏を相聯れて訪問したり、
長崎武氏を訪ふたり、頭山翁の門を叩いたりすることもあつた。
西岡氏とは彼の巴布札布將軍討衰起義の際に於ける砲隊長たりし人である。
當時雑誌 「 男 」 を 發行して居た。
余は此年一月に 「 罵世録 」 一篇を書いた。
二年間の所作を聚あつめて 「 江都客遊中詩思 」 と題した。
そして四月海を越へたとき、「 祖國に訣わかるるの記 」 を 書いた。

かくして最初の二年は夢の如く東京に逝いたのである。
此頃、國内國外愈々事多くなつた。
九年一月には平和克復の大詔が渙發せられた。
議會は解散した。
普選運動が勞働運動と歩を共にして
八年以來次第に激烈になって來て居たのに原因したものである。
八年ヴェルサイユ會議の失敗も今尚余の心に刻まるゝ遺憾であるのだ。
然も西比利亜には十万の將卒が氷雪に悩んだ。

想起する---余が當時の思ひは、げに悲壯なる限りであつた。
身自らも小さな道義戰に從つて居た。
・・・・來るべき大戰を夢想しつゝ。

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戰雲を麾く 5 「 青年亜細亜同盟 」

2017年03月22日 04時03分29秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


再び戦ひの都二年
長白の峰、豆満の流れ---げにそは我が日本國の西北境である。
大陸日本領の西北端である。
そが程近き羅南に騎兵第廿七聯隊の士官候補生としての六ケ月は刻々に過ぎて行く。
然も、眼のあたり鮮人を見、支那人を見、東の空遠く祖國に思ひ馳するとき、
心弦の怪しく妙なる旋律は自らに瞼を霑うるおさしめた。

日本---朝鮮---亜細亜。
道義---革命。
魂の戰ひ---悲壯なりしそが思ひ出と更に惨憺たるべきそが將來。
走馬燈のそれの如く、日々夜々に思ひは過去現在未來を巡り巡りて止まなかつた。
唯々吾れ知らず 手をあげて掬し得る双眼の熱き涙の幾滴。
この六カ月の間、幾度雄々しき涙に余が咽びしことぞ。
然もそは長白の麓、豆満の岸なることが至大の影響ありしを否み得ぬ。

宮本は
「 士官校本科入學の上は愈々同志を糾合して將來を誓ふことが至上の要事である 」
と 筆送した。
平壌の福永も結束を促した。
乃ち余は同志結束の檄を認めて各地に郵送した。
然してその意見を聞くの遑いとまなく、
九月十七日黄昏の波を乱して、上京の纜ともづなを解いて清津湾を去つた。

大正九年十月一日---そは余が再び戰の都に五尺の體軀を現はして、
市ヶ谷臺上の人となりし日である。
余が祈りは再び充し得なかつた。
---淳宮は余と同中隊なりしも區隊を隣りにした。
在京の日、殊には宮と処を同じうする日は、
げに今より一年十ヶ月の短きに過ぎずと思ふにつけても、
せかるるものは宮への接近であつた。
そは余が宿年の心願であるからである。
幸なるかな、宮本は殿下區隊に籍を置いた。
余亦 外國語授業に際しては
佛蘭西語第一班の一人として他の五名と共に殿下と教室を同じうし、
且つ余は座席を宮の右隣に占むるの光榮をもち得た。
余が宮本に宮への接近を務むべく説いたことは論を俟たぬ。

或日、余は同志の友の参集を求めて、午後人なき第一教室に協議を開いた。
非常時に非常の道を選むべきことを告げ、
日本改造、亜細亜復興を心願とする者は
國家内外の現状是くの如く 拾収すべからざる混亂に陥り
國家存亡の内崩外壓に今日の如き非常重大の機を迎へしことに於て、
愈々結束して具體的運動に進むべきを論じた。
「 各人が相當の地位に上れば自然に行れ得るを以て、今急に焦ることない 」
と 云ふ漸進論は三四の友かれ吐かれた。
急進派の先鋒宮本 福永は、その不可なるを叫んだ。
二時間は過ぎた。
漸急二派の論爭は涯ない。
余は玆に於て言うた。
「 議是くの如くなるとき吾等の選むべき道は二ない。
状況判斷によりて各自の道を選む進むべきのみだ。
等しく國家への奉公と雖も、思想は當然運動であるが故に、各人信ずるものを採らう。
固より情況を重大視する。
此機に於て一と先解散し、改めて同行の友と手を繋ぐことにする。」
かくして、一同は解散した。
余は同行の友 宮本、三好、平野、片山の諸君と新たに結束を誓ひ、
愈々壯烈なる魂の戰ひに上ることになつた。
士官學校前の時計屋の二階を休日の集會場と定めて、向上の魂に鞭うつた。
彼の臺上の道義戰に歩を俱にした旧區隊の諸友も、時々参集しては執臂交語した。
其頃、宮本の斡旋で
清朝の遺族粛親王の第二十三子 憲原王 及 巴布札布將軍の遺呱こく濃珠札布、
干珠札布三君と相識ることを得た。
川島浪速氏監督の下に、三君は数年來朝修学中であつた。
川島氏の好意により 氏の知己たる村井修氏の宅に於て 余は平野 宮本 二君と共に三君と會見した。
川島氏は保養のため、当時信州に籠居して居た。
それは巣鴨新田に霜どくる或る朝だつた。
村井氏の好意で一同 昼餐を共にして別れた。
村井氏は余等にボールリシヤール氏の 「 告日本國 」 を 一部宛寄贈して、
川島氏の言づけなることを附言した。
其一部は後日淳宮殿下に秘献した。
其後三君は大道社に起居するようになつて、余等は屡々會談した。
然して同君等と起居を同じうする中央大學生神崎正義君と相識つた。

印度獨立の志士ラスビハリーボース氏との交遊も其れと前後して始まつた。
そは先覺たる帝大教授か鹿子木員信氏の紹介によるものである。
或る土曜の夜、速達郵便を以て氏は、ボース氏を紹介の勞をとるから明日來宅せよと傳へられた。
余は宮本 福永と共に小石川に鹿子木氏を訪うた。
ボース氏は若い印度青年某氏と共に已に來つて、余等を待つて居た。
鹿子木氏、氏が妻君たる獨逸生れの婦人、それに余等五名は種々交語した。
そして、皆一様に白人の横暴 殊に英國の不法を紛糾し、亜細亜団結を誓うた。
ボース氏は紫唇を開いて印度の實情を説き、日本の無自覺を慨き、
遂には氏の危難---入京當時英大使館と警視廳とに追跡せられたるとき、
鹿子木氏 及 頭山翁に救はれしことなど語つた。
「 印度に來て下さい。 」
かく言つた氏の面上には、至眞の誠意があふれて居た。
その後余等は屡々新宿に氏を誘うては語り合うた。

又、士官校には支那留學生が四十名程來て居た。
余は宮本と共に彼等を説いた。
彼等の中に最も語り得べきものは騎兵科の張寿朷であつた。
余等は彼を中に立てて、數名の支那學生と道縁を結んだ。
彼等の日曜下宿は余等のそれと近きにあつたので、余等は頻繁に交通した。
---學校當局から睨まれて憤慨したのも此頃であつた。
機愈々熟し、人定まれり。
大正十年九月、
余は宮本と共に 黒竜會の長崎武氏を訪うて、心事を語り、
同志團結に方りて頭山翁等の援助を得たいと告げた。
氏は即座に同意した。
頭山翁 内田良平氏等も快諾したそうだ。
   
 頭山満翁          内田良平
余は潜思一週の後、宣言規約を綴り、「 青年亜細亜同盟 」を 標榜して結束を計つた。
宮本は檄を豫科に回送して同志數名を得た。
柴、松下、田邊、大庭 等の諸君が之れである。
爾來時々会合しては心魂の修練に努め、先覺を招待してはそが有益なる講演に傾倒した。
特別大演習参加のために、種々なる障碍を受けた余等は、
大正十年も押つまる十二月中旬、牛込の某寺院に集合して第一會を開いた。
長崎氏は長瀬鳳輔氏を伴ひ來つて、二氏講演した。
余は此日、平木 工藤 二君を同期生に得た。

十二月二十四日午後五時三十分、余は休暇のため東京駅を立つた。
車中、余は胸痛を覺へ、帰郷中殆ど枕に親しんだ。
一月十日、余は胸膜炎のために激動を禁止されたが、
翌日よりの寒稽古に病と稱へて出場者少なかりしを概き、病を押して竹刀を把つた。
腕は多少の覺えがある。
余は師範代として十日間を道場に立ち盡した。
胸膜は次第に堪へ難くなるのみであつたが、「 何糞 」 の 元気を押通して居た。
一月の會合は、山王台日吉亭の一室で開いた。
水野梅暁氏 長瀬鳳輔氏 長崎武氏の三氏は吾等のために熱弁を揮つた。
其日臺上は普選斷行の民衆大会で、喊声をあげて居た。

二十二日の夜、余は俄然高熱を發して病床の人となつてしまつた。
二十八日、余は入院した。
豫期はして居たものの、病狀余りに重きに驚いた。
下旬より三月上旬にかけて、余が魂は生死の間に彷徨した。
唯々焦心悶々として仰臥ぎょうがの病軀を悲しましめた。
三月、豫科同志の送別を兼ねし会合は余のみ別にして開かれた。
ボース氏 憲原王も出席し、満川氏は 「 東亜三國の同志一堂に会す 」 と 叫んで、
眞個歴史的場面なることを論じ、深甚なる天の恩籠を謝したといふ。
心身を痛めしむること、げに病の如くなるはない。
然も魂を鍛へしむること又病の如くなるもない。
余は死生の巷に彷徨して、始めて從來抱き來れる胸裡の信仰に徹底するを得た。
三月十七日、
二重橋頭に爆煙と共に悲壯の直諫を鮮血に染めて敢行せし藤田留次郎氏の死を聞きしとき、
余は已に病床に半ば體を起し得る狀態に復つて居た。
げに皇天の恩籠、余は再び現世に留まり得たのである。
然して、其の報を病床に得ると共に余は過去を追想した。
 
 安田善次郎    朝日平吾
・・・リンク→超国家主義 『吾人は人間であると共に、真正の日本人たるを臨む』

十年十月、朝日平吾氏が奸富誅戮の斬奸狀を懐にして安田善次郎を刺殺し、
壯烈なる自刃を遂げたことを思ひ巡らして、余は病床に或る微笑さへ禁じ得なんだ。
 
・・・リンク→
国士・中岡艮一
---中岡艮一が原首相を東京駅頭に刺殺した當時、
自習室の黒板に誰が書いたか
「 吉良首相 東京駅頭に暗殺さる 犯人中岡艮一 十九歳 」
と ありしを、
犯人の二字を刺客に改書して
多數の友と論爭し
「 苟いやしくも一國の首相を刺殺せんとする動機は、
彼が社會主義者や反國家思想者でない限り 國家を思ふこと深甚なる國士的勇者に外ならぬ。
其の刺殺を決心したる心事は げに悲壯の極みである。
況や 原首相は一國政治の重任に当りて 無理想の白紙主義を表明したる日和見的才子であり
華盛頓會議に國威を失墜せし人であり、政友會の首領として所謂黨弊の責任者である。
犯人とは苟も 國士を遇する道でない。」
と 叫んで、
狂人の如く思ひなされし半歳以前のことを思ひ浮べつゝ。
然して暗殺の二字よりして、曾つて宮中重大事件の時、
一切を長崎氏から聴取したる同人が校内に集合して執るべき道を協議せし際、
福永が余に短刀を示して
「 夜陰校を抜けて小田原に潜行し大奸山県を刺さん 」
と 憤叫して止まざりしに、慰撫苦心せし一年前のことを思ひ浮べつゝ。
---冬は逝く。

窓外早くも春光悠々、病窓を透して庭前の桜花に思ひを寄せた。
夜は夜とて、朧なる月を花間に仰いでは自ら遣る瀬なき心を慰めた。
そして気分よき暇々には筆を執つて 「 病間録 」 に思ひを綴り初めた。
日々病床を訪づるる知人の書、
休日枕頭に立つ友、それらによりて余は深甚なる友情を感謝すると共に、
「 屈すべからざる 」 精神の鼓舞激励を享けた。
然も當時最も余を激励せしものは、入院と共に余に与へたる父の一書であつた。
---「 信仰に活きよ。病魔忽たちまち退かん。」
の 單なる數行が如何に余を導き去りしか。

支那學生の一團とは至極の志願決意に於て大なる逕こみち庭ありしを發見し、宮本 先づ憤つた。
余も然か考へたので、此年一月以來交渉を絶つて居た。
さり乍ら 私交に於て余は依然と異なることなかつたので、張などよく余を病床に訪うて呉れた。
奉直の衝突---支那再び亂雲に閉され初めし或る日、
張は余に 「 如何すべきか 」 と 問ひしことあつた。
早咲きの桜が窓前に翻々たる午後の病室に、余は半身を起して言うた。
「 君等望める道を進まれよ。
さり乍ら余 今君等の境に身を置かば、余は即時海を越えて故國の戰雲に投ぜん。
君等今果して支那の何れによりて留学の客になつて居らるゝか。
・・・・支那は必ず武斷的統一を要す。
成吉斯汁の出現を希はざるを得ず。
自ら其人たる能はずんば其英雄を助くべし。
紛爭長きに亙りて決せず、現に見る如く、列強の魔心其間に支那を窺うかがはば、
四百余州遂に滅亡の日を迎ふるであらう。」
非常の論を吐いて余は彼が心魂に烈しき鞭を与へたのだ。
そして別れた。

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戰雲を麾く 6 「 是れこそげに天下第一の書なり 」

2017年03月21日 20時50分37秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


四月に入るや、

余が病は已に危機を脱して 日に日に快方に向つて歩んで居た。
宮本が或日、満川氏と会見の一事を語つて猶存社を話した。
そは宮本 福永 平野 の三人が満川氏に招かれて、
一切の猶存社の内容と經歴てを示され、赤心を吐露せられしことであつた。
そして彼は猶存社に北氏と會見せしことを併せ語り
「 眞に恃たのむべきは猶存社でなからうか 」
と 告げ、
満川氏より借りたる北氏著 「 支那革命外史 」 一巻を置いて歸つた。
  満川亀太郎
猶存社---余は時宛かも病床のつれづれに他の患者から借りし
月後れの雑誌 「 寸鐵 」 紙上に 「 猶存社の解剖 」 なる
望月茂氏の筆になれるものを讀み、概要を知つて居た。
そして、そが鹿子木氏 満川氏 等の本塁なることに深甚の望みを寄せて居た。
曾つて川島浪速氏から寄贈されし 「 告日本國 」 の譯者にして
日印協會脱退の悲壯なる宣言の筆者なる大川周明氏の名も見た。
北一輝氏の名は、これを聞くこと始めであつたが、單なる數頁の文章中に閃めく或ものを見た。
人知れず思ひを寄せて居た同社のことを、然もそれとの交渉を宮本に聞いたとき、
余は 「 何たる奇遇ぞ 」 と 思つた。
其日、余は宮本に告ぐるに此事を以てし、然して是く言つた。
---「 余不幸にして病床に在り。君等労を厭えんふ所なくんば、願ふ。」
かくして其日は別れた。
余は直ちに病床に筆を把つて満川氏に宛て一書を認め、
先日寄せられし見舞狀の礼と併びに宮本より委細承りしことを告げ、
宣敷依頼する旨を附加して郵送した。
爾來一週目、余は魅入らるる如く北氏の書を讀んだ。
眼界が殊に明るくなる如く覚えた。
然して是れこそげに天下第一の書なりと思つた。

四月海を二十三日の早朝、余は自宅療養のために事故退院を許されて、
六旬着馴れし白の病衣を脱ぎ捨てた。
然も贏やせる弱の肉體はフラフラして止まなかつた。
一旦、學校に歸つた。
何時の間にか市ヶ谷臺上には春が訪れて居て、然も校庭の桜など已に大分散つて居る。
自然の大化誤またず、春は大荒に帰り來て、見渡す廣き一望の・・・・
晩翠ばんすいの一句を思ひ浮べゝも、
吾れ一人臝軀らたいを擁して六百の友に対する吾姿を
自分ながら痛ましき思ひならでは見られなかつた。
帰省の準備を整へた後、
余は宮本 片山 二君と共に四谷見附から省線電車の人となつた。

春 正に盛りの四月末、うき世に暫く遠ざかつて居た余には殊更に眼まぐるしい。
猶存社に北氏と会見した。
「 支那革命外史 」 一巻の寄贈をうけ、三時間あまり懇談の後ち、辭去した 。
其後、病軀を擁して都を西に去った。
げにや、痛ましい哉。
戰の都に病を獲て、その都を後に静養の旅に出でざるを得ざるとは、
戰ひを生命とする斯身に於て、殊更に哀しきことではないか。
げに、「 戰ひの巷へ 」 と 一呼して故山を出でしその昔、かかるべしとは誰が豫想したる。
函嶺陰雲に塞されて車中の感慨一入に深きものあつた。
頼三樹ならずとも、今日歸途春雨冷、
檻車揺夢度函関とは病の檻おりに苦吟せる余が寂しき思ひであつた。
唯々來るべき馬を中原に再び進むる日を憧憬と決意とに見つめて、
わずかに吾れと吾心を慰撫した。

故山に静養中と雖も、余が心は安閑として寸時も休む暇なかつた。
「 純正日本の建設 」 なる一篇を故郷の新聞紙上に公けにせしも此間のことであつた。
然して卒業期愈々切迫せるに余が心願たる淳宮殿下接近の大業が未だ残されし儘だつたことは、
特に余が焦慮する所なりしを以て、余が思ひ寸刻と雖も此処を去らなかつた。
六月二十五日は殿下御成年式の当日なりしが故に、余は其日に決行の決意を抱いた。
福永 平野 宮本の諸友からも其が適好を答えて來た。
そして細部のこと殊に文章に関しては宜敷く頼むと告げて來た。
余は直ちに潔身筆をとつた。
殿下に秘呈すべき書の起草に從つたのである。
そして、秘呈すべき諸書を満川氏に、選択収集の上 宮本に預託せらるるやうに書き送つた。
静養中、病院で相識つた一期下の鹿毛貢君から一個の小包が到着した。
そは同君の叔父にあたる彼の有名なる國士的人格故武田範之翁の遺稿数篇であつた。
余はそれによりて、朝鮮事情 特に合併前後の内容を詳かにするを得た。
翁は日韓合併の裏面の大功臣である。
又 福永から新たに佛領印度支那の獨立党首領の遺孤陳文安君を識り得たことを報じて來た。
そは彼が同區隊の赤松一良氏の紹介によるものであつた。
上京面接の日を、余は愈々期待の思ひに充ちた。

明治三十九年に
北氏が二十三歳の青年を以て筆を執つた名著 「 國體論及純正社會主義 」
なる一千頁の大冊が發行禁止となりし後
わずかに一部同氏の秘蔵せる所なるを知った余は、
借読を乞ふたが、
満川氏より
「 郵送危険の故に上京の日に譲られたし 」
と 告げ來りしを以て斷念した。

六月十八日、
卒業試験に形式の名を列するの必要に迫られた余は、
満腹の希望を秘呈の一書と併せ抱いて、東上の旅に上つた。
病後蠃軀未だ恢復せざるも意気衝天の勢ある。
接近の一事固より決死的大業でないか、病弱何ぞ憂ふるに足らんやだ。
然して翌十九日の朝ま、
余は復た戰塵の都の人となつて居た。
二重橋畔に はつ夏の気濃かなるものがある。
卒業試験は七月一日から十日間の予定であり、余は半歳病臥びょうがの故を以て
其後引続き四日間の補欠試験に出席せねばならなかつた。
固より殆ど欠課のために盲目に近かりしことは論なかつたが、
教官の厚意と余が平素の成績とは白紙のままに答案を呈出して不可なかつたのである。
さり乍ら同志の軈やがて全國に分散して再び一堂に會し得ぬ別れの日近きが故に、
他の友も悉く志願のために奔走した。
この十日間---余が上京より卒業試験開始の日まで---
同志は狂せんばかりに戰ひを續けたのである。

北氏の日本改造法案大綱の原稿を秘かに校内に持ち込んで福永は筆冩した。
印刷配布するのだといふので宮本と片山とは、
あの暑い夏の午後神田から謄冩版を買求めて汗ダクの爲體で担ぎ歸つた。
そして一同交代で鐵筆とルーラーとを動かした。
猶存社が具体體案として有する此の改造法案こそ
吾等一同が魂の戰ひに立つべき最後の日の武器なりと信じて居るのだ。
げにそは大川氏の言ふ如く、
日本が有する唯一なる日本精神の體現であり、
唯一の改造思想であり、
然して同時に世界に誇るべき思想であるのだ。
今日幾多の削除を含みつゝ、世に公にされて居るのが、げに此書である。

猶存社に宛てて郵送した朝日平吾氏の遺言状と斬奸状。
それも北氏から借りて來て、ルーラーを動かした。

思ひ焦れし其日は遂に來た。
六月二十五日の天は明けた。
嗚呼 何たる天の戯れぞ。
宮は前夜遅く御帰殿あらせられ、宮中に御成年式をあげられし後、
明日午後にあらずば御歸校遊ばされずと知つて、
余等今更の如く雲上九重の奥のこと想像以上なることを悟つた。
再び協議した。
淳宮改めて秩父官と稱し給ふ。
尊皇の至心 殊に厚き福永は、故事に因める勇壯なるこの尊號を感泣して讃へた。
二十六日の夜は學校に於ける奉祝宴が催され、宮は吾中隊の食堂に臺臨ましました。
余は空前にして絶後なるべき杯を賜はり
「 君、酒はいけるだらう、併し病後だからよく氣をつけ給へ 」
との、いみじくも有難き御言葉を賜はつて、
平素他所ながら世間話によりて
志の一端を進言しつゝ常にかしこき御言葉を拝して居た光榮にまして、
感涙の頬を下るを禁じ得なかつた。
げに、込入れることを一度だも未だ曾て申上げしことなかりし余に、
殊に病気後の御言葉は何時も御懇篤なるものあつたが・・・・。
其夜、宴酣えんたけなはに漸く亂調崩すや、
一部奸佞の徒は
平素より御學友の義名を振りかざして言動誠に顰蹙ひんしゅくに堪えへぬものありしが
果然宮を擁して放歌亂舞の痴態を演出するに至つた。
御附武官も中隊幹部も何時か姿を隠して居た。
此の醜態を目撃するや、余は堪へ得ずして立つた。
涙は流れてやまぬ。
宮本 急に來て 余を伴ひ、食堂の一隅に導いた。
日頃心を余等に寄する數名の硬骨漢忽ち集まつた。
余 慨然として紛糾した。
「 奸佞 斬らざるべからず。
今夕此狂態は何の様ぞ。
年少の彼等単なる此宴席に於てすら是くの如し。
宮中の弊 察するに余りある。
諸友、此儘にして日本遠からず 「 ロマノフ 」 の跡を追はむ。」
狂態尚連りに続く。
宮本のもてる杯が千々にとんだ。
余は此時 小河原清康君と初めて語り、併して識つた。
---焦心の中に時はたゆみなく逝く。

卒業試験終了し、補欠試験亦終りを告げ、余始めて閑を得た。
然も帝都を去るの日は二週の後に迫つて居る。
眞夏の炎暑と戦いつゝ、余は暇ある毎に北氏を訪ひ 満川氏と語り、
ボース氏を尋ね、大道社に異國の友と語つた。
「 國體論及純正社會主義 」 の大冊も讀破した。
そして心魂にやきつけらるゝ思想の熱炎を浴びた。
此書正しく、曾つて板垣伯 福田徳三氏等が世界に示し得べき
日本唯一の書と嘆じたること誤りなしと思つた。
宮本が 「 これも謄冩しやうか 」 と言へるとき、苦笑したことがある。

ボース氏邸に於て余は同じく氏を訪ひし 宮川一貫氏を識つた。
一日、余は福永 平野と共に安南の志士陳君を江戸川橋の近くに訪うた。
君は父君獨立革命の首魁として刑死に遭ひし以後、
伯原文太郎氏に救はれて七歳の時渡來し、
その庇護の下に昨年早大法科を終へし二十六歳の偉丈夫であつた。
座に、亡き父君の股肱と頼まれし五十に近き丈夫児が連つて居た。
二人は交々安南に於ける佛國の到らざるなき苛酷の壓政を訴へ、
鉄鎖に繋がるる同志の悲惨なる奴隷狀態を泣いた。
そして革命運動常に失敗し終ることを嘆いた。
余等亦泣いた。
そして運動の方法を質した後、余は言うた。
「 貴國人の運動が常に失敗するは、
交通不便なる山地に立籠る匪賊的行動なるが故であると思はるる。
革命とは組織の變更である。
故に其運動たるや
多く首都に於て一擧に政治的首脳部の顚覆---組織の變更を原則とす。
然るに最初より全然邊境山地に拠らば貴國の現狀の如く、
吾れに兵器なくして敵に最新式の武器あり、巨砲一發殆ど潰滅かいめつに歸せん。
革命戰は固より精神的のもの、
武器を把るとき、
そは必然暗殺を以て終始するのみ。
首都に於て一擧政府の大官を仆し、
權力發動の官所を奪ひ
交通機關を占領するが如きことを、
成功至心の要訣とすべし云々 」
其夕べ、江戸川に沿ふ一支那料亭の階上に晩餐を共にし、
再び相逢ふべからざるかの薄縁を惜んで、固く固く手を握り合うた。

其後陳君は、余等都を去ると軈やがて後を追うて西し、海を越えて漢口に行いた。
十月、安南に革命起ると新紙に知り得たが、詳細は知る由なく、
余は直ちに北韓に筆をとつて、漢口に郵送した。
十二年正月、年賀と改名とを通知に接したが、其後杳ようとして消息ない。
陳君と訣るゝ時、彼は秘密出版の 「 越南義烈史 」 を數部寄贈して
「 どうぞ、日本の人々に同胞の苦痛を伝えて下さい 」
と 言うた。
余は同人に頒わかち、一部を満川氏にも贈り、更に一部は秩父宮へも秘献した。
観じ来る---げに革命志士は涙の結晶である。
然もそは他人事ならぬ日が來ぬであらうか。
七月二十一日より二十七日まで。
此間に余等は遂に決死の大業を完成した。
然して、二十八日、
余は病後未だ恢復せざる身體なりしを以て摂政宮臺臨の卒業式にも列し得ず、
わずかに三百五十名中五十位の劣惡なる成績を残して五年住みなれし市ヶ谷臺を下つた。
現實に獲たるものは病軀のみであつた。
然も決して劣ることなき者等に抜んでられし成績を見つめては、
冷たき涙のみ流れた

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戰雲を麾く 7  「 必ず卿等は屡々報ぜよ」

2017年03月20日 20時38分14秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


台上最後の戰ひ
幾年の心願---そは秩父宮殿下に接近の大業である。
然も至嚴なる側近侍臣の警戒を突破して、革命日本建設を論諍し奉る決死的壯擧である。
さり乍ら、何故に此壯擧を企圖するのか。
---これ實に世の社會運動者と道を異にする所以である。
余が多年思索の結果なる哲學的信仰は、その具現を天皇に見得た。
二十四年の歩める道を顧るとき、
天皇の國---大日本國の一人として出世の本道を眞直ぐに ( 些いささかも横に歩むことなく )
歩み來りし至幸を、降天籠の恩遇と万謝せざるを得ぬのである。
余は余の戰闘的精神---最高我を、日本國に於て 天皇に求め得た。
然もそは日本の外なる一切の人類が通ずべくある。
日本の躍進によりて初めて個々の躍進が完全である。
然も今之れを見るに、日本は条理を逸せる混乱の有様である。
今こそ日本の衷なる最高我の發動して日本が生の飛躍をなすべき秋である。

余はこの故に
世の衷なる最高我を以て、
日本の衷なる最高我の合一の道を選んだのだ。
秩父宮に接近とは單なる宮への接近ではない。
實に宮を透して---宮の最高我を透して、
日本の最高我、---天皇への接近である。

げに、革命といひ改造といふも、そは決して最高我の変更でない。
そは良心の変更とも言ふべき妄想なるが故だ。
又國家を否む者等は人生に戰闘的精神を見出し得ず、
理想を設定することに余りに無帽低劣なる浅薄者共だ。
げに國家とは戰闘的精神に生くる人類の最上なる力である。
然して日本に於けるそが主宰は天皇である。
至極の大願を遂げる日は來た。
そが最初なる日は來た。
大正十一年七月二十一日の夕べ、
夕陽已に武蔵野の西に沈んでほの暗い老樟くすのきの葉陰に
ひぐらしが泣く市ヶ谷台上の一隅に始まつたのである。
實に其日、余は補欠現地戰術のため早朝八王子附近に向け出發した。
炎暑の中に病後の蠃軀らたいをあへぎあへぎ、日野台を東西南北して、
午後四時前再び列車の人となつた。
校門を入りしとき已に午後六時をすぐる 正に五分。
夕食早くも終りて校庭に三々五々逍遙しょうようして居る。
ト、宮本が疾駆して来た。
「 時期が来たぞ。
今から殿下が秘密にお會ひになるそうだから、早く來て呉れ。
兜松の附近だ。」
斯う言つた彼に、秘献すべき書の携行を依頼して余は食堂に急いだ。
さまざまに思ひ巡らしつゝ食事もそこそこに、
余は腰ななる軍力と図囊とを自習室の机に投げ出して長靴のまゝ去つた。
薄暗き老樟の下陰、兜松の踞うずもれる傍らに四五名の人影が見ゆる。
宮本 福永 平野 潮の諸友が宮を中央にし、宮本が何事か申上げて居た。
あたりに人影はない。
余は其処に行つた。
「 西田、代わつて申上げて呉れ 」
こう言つて宮本は話を斷つた。
余は玆に於て、
同志團結の經過、
猶存社との提携、
日本國内外の形勢、
亜細亜の現狀
等を論述し、
特に國内の思想、運動等を一々立證進言した。
そして
日本は速やかに改造を斷行せずんば
遠からず内崩すべきこと、
日本は單に自己の安全の爲めのみならず
實に全世界の奴隷民族のために
---亜細亜復興のために選ばれたる戰士なることを力説した。

日はくれた。
此日は福永の淨冩せる
改造法案 並 支那革命外史
第十一時
日本文明史
奪はれたる亜細亜
等數篇を捧呈して別れた。

二十二日も宮を擁して論諍を敢てした。
此日は午後六時半から大食堂で自然色活動冩眞が催さるる筈だつた。
殿下の御來場がなければ始められないので、開始時刻が近づくに宮の御姿が見えず、
御附武官や四五の御学友は血眼になつて校内を尋ね歩いたといふ。
げに一分後るれば、
非常の事を惹き起すべき形勢にあつた。
余等は心ならずも五分前に話を中止してわかれわかれに大食堂に向つて歩を移した。

「 日本の無産階級は果して如何なる思想状態にあるか 」
とは 宮が余に質ねられし一句である。
余は奉答した。
「 我國の所謂 無産労働階級は、
極度に虐げられて其生活已に死線を越ゆる奴隷の位置にあり。
そは國民の大多數なると共に、彼等は一部少數の特權階級資本家等のために
天皇の御恩沢に浴し得ざる窮狀に沈淪せり。
彼等正に恐るべき者とは佐倉宗吾を解せざるも甚しき者。
明かに見る、同盟罷業ひぎょうや普選運動が常に失敗に歸する如き。
然もそれ等は皆な、一部の主義者策士共の利の爲めにする煽動によりて
妄言濫動らんどうを敢てすることに原因せり。
・・・・げに、日本改造すべくんば天皇の一令によらざるべからず。
・・・・更に是の明白なるを見る、天皇は國際的無産労働階級たる日本の首領にあらずや。
國民の大多數を占むる無産労働階級と天皇とは離るべからざる霊肉の關係にあるもの。
そが敵は日本を毒する外國と國内に巣くへる特權階級資本家等どもなり。・・・・」
 「 余は境遇止むを得ず、漸次下層階級の事情に疎遠を來すに至る。
必ず卿等きみらは屡々報ぜよ。」
宮は斯く宣うた。
余は捧呈文を必要なしと認めて、其夜寸斷した。

ちりぢりに散りゆく運命の日が明日に迫れる二十七日、
数年或は数月相伴はれて一つの道を歩み來れる余等一團の者は、
又なく寂寞じゃくばくに襲はれて居た。
卒業---來るべき任官、恐らく人々の心は希望に燃へ、愉快に充ちて居るであらう。
さり乍ら、余等の魂を焦がすものは、任官や卒業のそれでない。
純正日本建設の日の國民の喜びである。
然も同志ちりぢりの別れは寂しい。
二十七日の夜、
明日は卒業歸隊と多くの者等が東奔西走の騒々しさを他所にして、
余等は月暗き寂寞じゃくばくの雄健祠前の森蔭に集つた。
宮本の居ぬのに誰も気附かなかつた。
余は今迄共に歩み來りし因縁を謝し、
永遠に斯道を精進して理想の光明を見ねばならぬと告げ、
分散後は特に連絡を希望すると附言した。
一堂は此処に種々なる思ひを交はして居た。
此時、宮本が息せき切って來た。
彼は余に宮の御言づけを語つて、斯く言つた。
此日の夕食後、突然宮が自習室にお越しになり、宮本を招いて校庭人なき処に伴はれ
「 同志諸君と今一度泌々話したいが多忙なるが故か見へぬから、
黄みり宜しく伝へて呉れ給へ 」
と 宣うて、
自ら皇族たる位置に於て体験せらるゝ不義潜上なる臣僚のこと、
皇族の間に渦巻く非常の痛心事等を一々指示遊ばされ、
日本國の前途に至心の憂悶を明かし給ふた。
そして同志諸君の鐵心石腸に恃たのむ所 深甚なるものがあると告げ給ひ、
「 君等への消息は斯人宛に郵送せよ 」
とて 一葉の紙片を賜つたのである。

拭ひ難き憂心と悲痛とに、宮の御双眼は暗にも光る露の御涙を拝して、
腸寸斷の思ひに泣いたと彼は語つて、彼の紙片を示した。
此御紹介の忠士こそ、實に今は余と刎頸ふんけいの契りある宮附の曾根田泰治其人であつた。
然も彼は近侍中最も下級なる半任文官であつた。
余は、宮の御心事を察し奉りて限りなき感慨に捉とらはるると共に、
粛然襟を正さゝるを得ぬ精神の緊張を覺えた。
眞に一切を決すべき思ひがした。
そして、何知らず眼先が曇つて、瞼の熱くなるのを感じた。
一同に向ひ 余は此の顚末を語り、更に余が知れる限り宮中の弊事を指摘した。
「 必ず---日本國を救ふのだ 」
一同は互ひに手を握り合うた。
雄健祠前に打揃ふて額いた後、余等は分れた。
其後、遂にまんじりともせず台上最後の夜を明してしまつた。

二十八日正午稍やや過ぎ---
「 永らく御厄介になりました。どうぞ一しょに國家の爲め盡しませう。」
との 宮の御告別を、さまざまに胸に画きつゝ 宮を校門に御送りした。
もう終生あのお姿を拝し得ぬかも・・・・余は師友に別れを告げ、
午後一時半 一枚の卒業證書を手にして学校のダラダラ坂を下りた。
かくして前後七年の戰ひの一幕を終へて、余は遂に次なる大戰の巷に出たのである。
あゝ、市ヶ谷臺上の甍の色よ。
みどりの松よ。
四ツ谷の坂に立停つて振り顧つたとき、
臺上の武學舎は無言のまゝに眞夏の青い空に聳そびへ立つて居た。
---一切を秘めて、さながら巨人の如くに。

魂が歩める二年の路

一年十月の士官學校時代に余が魂修練のために歩める所は、
げに魂の外なる戰ひが激しかりしに拘らず、可成りの道程であつた。
余は此問思ひを陽明學によせた。
又、奇縁は余に法華經八巻を授けた。
然も余は入院中 禅に關するもの數書を讀んだ。
老荘も多少漁つた。
プラトン其他を漁つた。
陽明學には、げに深遠なる或ものを見た。
佐藤一齋の言志四錄や大塩平八郎の洗心洞剳記なども尠からぬ感激を以て讀んだ。
大正十年八月の休暇には學校に残留して日夜圖書館を漁つた。
そして主として陽明學に没頭した。
當時書けるものに 「 窮天私記 」 がある。
社會思想---當時流行の各種思想をも漁つた。
そして勢ひ 日本の古神道の如きにも足をふみ入れた。

故山歸養中には親鸞や基督にも足を入れた。
奇しき因縁は歸養中四月二十九日に起つた。
げにそはいとも畏き皇太子御誕生の日、夕べの道遙の路すがら路傍の一易者と語つた時
「 君の運命 海の西にある。
然も信仰厚き君の性よりして妙法蓮華經を奉じて海の西に弘通せられぬか。
藤肥州の如し。」
と 告ぐる所あつた。
余は其夜安宿の桜上に彼と種々語り合うた。
余は曾つて高山樗牛其他の著書によりて日蓮を知り
妙法蓮華經を随したがつて思念し討究することにあつた。
日蓮の立正安國論の如きは羅南の六ケ月時代に愛誦せし所のものだつた。

越えて旬日、余が今は亡き父と交りあつた法域寺裏の法華堂主が病歿せし後、
彼が幼時より愛誦せし妙法蓮華經天地二部を、一日未亡の妻君が持參して
「 貴子今病気中ときく、亡夫愛重の此經巻已に用なし。
常に携懐拝誦佛恩を受けられよ 」
と 語り、余に寄与した。
余 此処に於て、前後符節を合する事實に驚き感激し泣謝して、經文を戴いたのである。
げに今 余が愛重、日夕誦して止まざるもの 即ち是れである。
爾來大いに心を潜めて法華經の討究に從つた。
さり乍ら、余の法華經は余の法華經である。
從來の因習的のそれを離れて、余が魂の上に築かれたる法華經である。
かくして、余は從來の一切を以て自己の心頭に一個の思想---信仰を築き得た。
然もそは、人に示して誤りなしとさえ自信のある所のものである。

再び祖國に訣る
戰の一幕を終へて、再び祖國に訣るべき日は來た。
前後五年の戰ひ、若き者が魂を中心とせるそれは早くも夢の如くに過去のものとなつて終つた。
大正十一年七月二十八日午後一時半、
余は五年住馴れし市ヶ谷臺を下りた。
平野と共に直ちに千駄ヶ谷なる猶存社に北氏を訪うた。
帰隊に間もない旅行の日數は、諸方に同志を訪ふべき暇を与へざりしがために、
此日は手を分けて福永が満川氏を訪ふことになつて居た。
廣島に帰るべき福永は 午前四時頃先に辭去したが、
余は八時三十分東京駅下り列車に乗込む豫定なりしために一人留つて、
暫時相逢ふべからざる名残りを氏と語つたのである。
然して、暫しの別れとて北夫人は晩餐の用意をなした。
氏夫妻と、氏が子の如くに養ひつゝ革命支那を抱き日本外交革命
---革命日本を抱くと言ふなる故 譚人鳳の遺孫 英生君と、
そして余と四人は卓を囲んで懽語別語の裡に食事をとつた。
辭去するに當り、氏は同じく法華經の行者として、家傳の家宝たる法華經を披ひらいて、
余が爲めに誦讀して呉れた。
別るゝ時、夫妻は英生君を伴ひて玄關に立つて余を見送つた。
夕陽没して千駄ヶ谷の空に彩雲揺曳し、家を廻れる鬱々の樹梢には蜩が啼いた。
 譚人鳳 と 北一輝
余は程なく東京駅頭に立つた。
宮本が來た。
彼は平野 福永と共に余が三年以來志を一にして來た異體同心の友である。
殊に余との交りは深かつた。
一人は北奥山中に、一人は千里西なる北韓の第一線に。
共に騎兵なれども再び相逢ふべき日も得まい。
駅頭人なき処に相擁して別れを惜み、將來を固く契つて手を握り合うた。
午後八時三十分余は君に送られて夜の東京を西に去つた。
それから此れへ・・・・限りなき纏綿てんめんの感慨に胸を衝かれつつ・・・・。

宮本---この別れが軈やがて一年の後には
其儘に死別となる悲しき運命のそれなりしことを二人は知らなかつた。
げに大正十二年八月二日、
彼は宿望の初階を登り得て所澤に飛行訓練中墜落して、非命に死んだのだ。
何たる運命の神の翻弄ぞ。

思い起す、
君逝いて十七日の夜、
北韓の借寓に余が枕頭マザマザと立てる君の亡霊。
夜もすがら語り明して、然も
「 境を隔つる幽冥の國に帰らざるべからず 」
と 嗚咽したるその夜明けの君が悄然たりし姿を思い浮べては、
今も尚 否な終生余の心は哀痛極りないのだ。
愈々東京駅頭夜の訣別は遂に二人永遠の別れであつた。
「 いざと云ふ日、飛行機を乗り逃げて兄を北鮮に迎へに行かん・・・・」
とも言つては笑うた君。
彼はげに血性男児であつた。
彼の熱狂志士雲井竜雄の概があるとは、君を識るものの等しく言ふ一語であつた。
革命日本の建設、亜細亜復興の戰闘---彼は常に眉をあげ泡をとばして論じた。
即行した。
そして彼は有徳の君子人であつた。
彼の死當時 所澤に於て同僚學生始め凡ての人々から
平素の徳行を讃へられしことは人の知る所である。
キリストによりて彼は確固たる信仰を抱き得た。
「 聖明なり。信仰なり。然して復興なり。」
彼は七生旬道を誓つて居た。
されど、彼は死んだ。
余は盟友を亡つて淋しくも歩まねばならなくなつた。
「 受難の日を切實に味ひ申候 」
と 所澤から送られし満川氏の書を見しとき、余は言ふべからざる感慨に捉はれたのであつた。
余が君の死を聞きしとき、直ちに筆を把つて同志に檄し、
やがて 「 猶存 」 を 編纂し始めたことも、
一は亡友の霊を慰めんが爲めであつたのだ。
和歌山の郊外、君の憤墓に跪ひざまづく日、恐らく余の腸は寸斷の思ひあらう。
志願成る日とても、又成らざる日に於ても・・・・。

八月十三日、余は玄海の西に赴任すべく病弱尚未だ復せざる軀を門司埠頭に運んだ。
其夕べ、再び玄海の荒波を砕いて北韓に向つた。
曾つて、三年前は三好が同行した。
然も此度の船中に彼の姿は求むるべくもなかつた。
春四月、海天宛も朧おぼろなる月が懸つて夜気暖かなる甲板に
相抱いて語つたあの船旅の思ひ出はなつかし。
今はそれも夢。
余は當年を偲んで轉た感慨に沈まざるを得なかつた。
何故三好は居らぬのか。
三好、三好---彼は一夜學校を出奔してしまつた。
其後二ヶ月を衛戍監獄に送つて、軍人の境涯を去つたのである。
そして再び渡韓の船中に姿がないのだ。
今も忘れぬ---「 魂の修練は獄中に限る 」 と 言つて
笑いに紛らした彼が漂然として東京を去つた姿を。
彼は大阪に歸つたが、程なく神戸の某妓楼に一室を借りて勉學の燈火に親しんだ。
三ヶ月の後、三高の入學試験に及第して京都に住つたといふことであるが、もう大學にも進む頃だが。
学學を去つた後は、曾つて約束により 「 或日の來る迄二人は音信すまい 」
と いふことを契つて居るために、余は彼の現狀を詳かにせぬ。
彼は偉大なる魂の所有者であつた。
其の出奔前頃、二人はよくあの薄暗い下宿で、禁制の煙草を貪り燻らしつゝ 語り合うたものだ。
「 いざといふ日にパナマ運河を爆破する 」
といふので日米衝突を豫想して居た彼は工兵を志願したのであつた。
作業の時に學校の工作々業場から一個の巨大なる髑髏どくろを掘出した彼は、
それをコツソリ下宿に持參した。
余は菓子入れにしやうと提議したが、汚いといふので結局二人の灰皿に使ふことになつた。
「 太い、底の深い灰皿だな---」 といつては、頭蓋骨にたまつた煙草の灰を眺めて笑つたものだ。
福永が又愛煙家だつたので、彼も時々はこの灰皿を使つたが、他の友は知らないやうであつた。
帰校の時は丁寧に黒い風呂敷に包んで蔵つて居た。

彼が出奔したのは、或る月のない月曜の晩だつた。
其の前の日も二人は煙草を呑んで語らうた。
何時になく彼は泌々と人生を論じた。
突然、彼は言うた。
「 下令どうならうとも、必ず目的を達しやう。
だが俺は貴様と何時までもこうしては居ぬかもしれぬ。
目的を貫徹した上でなければ、若し別れても、音信すまい。」
余は首肯いた。
出奔の決意を知る由もなかつた。
が然し、其頃彼には男色に關する忌いまはしい噂が立つて居た。
それは余等の旧區隊で、彼と共に會寧の工兵隊に行つた渡邊のことであつた。
多くの友から斯ることを告げられることも度々あつたが、
余は彼等二人が共に強い信仰に生くる人々であり、
一般の者等の窺知うかがいし得ぬ丈の哲學的思想と堅固なる徳行の人々なる
ことを知つて居たために、此等の風評にも耳を籍せしことなかつた。
さり乍ら、問題は機微の間に起る種類のものだ。
で 時々は、二人にそれとなく言つては慎重の言動を要て居た。
彼は其時も、一言の下に風評を否定した。
そして 「 何時か知れる 」 と 呟いた。
余も亦彼を信じて疑はなかつた。
火曜の朝、起床と共に福永と平野とが三好の出奔を知らせて來た。
それから、
彼と中隊を同じうするもの、
余等の交情あるもの、
悉くは相次いで前夜の出來事を知らせに來た。
全校には益々忌はしき風評流言が傳へられた。
中央幼年學校時代に、校風粛正を斷行せしことありしを以て、
彼に對する俗評は一としきりだつた。
旧區隊の有志は悲痛を訴へて、彼 及び余等旧區隊一同に加へらるゝ、
妄評もうひょうを雪ぎたいと言うて來た。
玆に於て余は止むを得ず、渡邊を訪うて眞相を質した。
彼は風評を悉く否定して、
三好と同じ様に
「 何時か知れる 」
と 言うた。
「 事實ならば自決せしめやう 」
余はこの決意を抱いて行つたのであつたが、それでも尚彼等を信じて居たので、
其儘に慰撫して別れた。
「時日を待て、隠忍自重して雪冤せつえんの日を待つことが一番だ。」
余はこう言つて激昂する諸友をなだめた。

其後北海道に奔つて居た三好は聯れ歸られて二ヶ月を獄裡に送つた。
そして彼は漂然と東京を去つた。
七年着馴れし武衣を脱ぎすてた儘。
音信は絶つてしまつた。---約束のままに。
彼が出奔後、次の日曜日に下宿に行つたとき、思ひ出の髑髏が淋しく残されて居た。
余はそれを手にとつては、最早來ぬ友をなつかしんだ。
つと
「 崇たたつたのぢやないだらうか ? 」
余はこう考へた。
すると矢も楯も堪らなかつた。
其夕方、余は彼が残して行つた風呂敷にそれを包んで、何食はぬ顔で校門を潜つた。
其夜遅く、それは残雪尚ほまばらら白く闇に浮出て居る宵であつた。
南無阿弥陀佛と認めた半紙を髑髏の中に納めた余は、福永を呼んで事情を話し、二人は作業場に行つた。
雪交りの土をコツコツ掘った。
一尺ばかりの深さに穴を掘り下げたのは三十分もかかつたのであらう。
そして髑髏を埋めた。
無言のまま、雪をつかんで汚れた手を拭うた二人は相顧て淋しく笑つた。
空には、無数の星が心なき如くにまたたいて居た。
---かくして、三好はもう帰らなかつた。
再び玄海を越ゆる余の道伴れに、彼の姿が見られなかつたのも、
こうした思ひ出があつてのことだ。
げに大正十一年八月十三日の夕ぐれ、
無量の思ひに祖國に訣れた余は、再び波荒るる玄洋に船を乗出したのである。
---然も半ば朽ちたる病軀を擁して。
然して革命日本の建設、亜細亜復興の志願に魂を焦がしつゝ。
歸隊後數日にして余は 「 再び祖國の訣るるの記 」 を書いた。

次頁 戦雲を麾く 8 「 達者だったか 」 に 続く


戰雲を麾く 8 「 達者だったか 」

2017年03月19日 20時32分48秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


北韓の月
天地二部の經文と、母が東の旅に中京より購ひ歸りて賜はれる珠数と、
然して一振の短刀とを 「 バスケット 」 に収めて祖國に玄洋に訣れて、
北韓に向つた余は、釜山元山城津と港々を巡りて流れて、
八月十九日の暁靄もやを衝いて清津港に入つた。
其日午後、余は三年目に再び羅南に入つた。
羅北の水よ。
羅赤嶺の翠よ。
然して懐かし吾が騎兵隊の甍の色よ。
さり乍ら、三年以前に雄々しくも不可抗の闘志を擁して汝と訣れたる余は、
三年の後戰ひの都を辭して再び汝と見ゆるに至つたが、
悲しい哉 病弱の肉體を以て汝に對せざるべからざる悲運の児なりしよ。
まて、余の熱烈なる此の闘志は、肉體の病弱を以て抑へ得べくもない。
個々羅南も余が人生には彼の都と等しく戰の巷だ。
否な 余の在る処は悉く戰の巷だ。
心を潜め、道のために戰ふぞ。
あゝ 北韓の國境に立つて、東望西顧、
登髙向上の闘志に燃ゆる一青年の魂は怪しきまでの妙なる血のゆらぎがある。
然も、蒼浪万里の東の涯に祖国を想うては戰雲籠むることいとも濃かなるを焦心せで居られぬ。
また、西北近く日露清の領境は擾々じょうじょうの亂雲頻しきりに來往する。
西方に髙く空を衝いて南北に連れる長白山脈の彼方には、
西鮮黄海を隔てて禹城四百余州が是亦惨たる戰雲に蔽はれて居る。
---支那---中央亜細亜---西亜---欧州の国々。

日々夜々、讀經の吾声に 吾自ら無量の思ひに心耳を澄ましつつ、
余は病を養ふと共に不斷に闘志を鞭うつた。
九月上旬、軍務の寸閑を盗んでは筆を執つて、一書を認めた。
京に在る時求め得た同志の一人 柴君が余の隊に士官候補生として在隊中であつたが、
九月中旬士官學校本科に入校のため出發するので、
彼に托しやうと思ふたのである。
誰に与ふべき書であらう。
そは、秩父宮殿下に秘献すべき重大文章である。
柴は上京した。
十一月下旬、彼の密封の一書は柴より曾根田氏に、
十二月五日の夜 氏より殿下に秘献せられた。
初め余は曾根田氏に托することを斷念して、
余の同期にして宮と同隊なる堂脇に依頼するやう柴へ伝へたのであつたが在京當時、
居常余が精神的教導を務めたことから、余の心事は知つて居る筈だつたのだ。
時なるかな、柴が本科入校当時、惡疾流行の故を以て學校は外出を禁止した爲め、
柴は十一月に入つても事を果し得なんだ。
彼は数回余に書を以て其れを詫びた。
十一月、突然盛岡の宮本が任官匆々そうそう航空學校入校の爲め上京した。
柴と会見したとき、柴は語るに此一事を以てした。
宮本は依然から堂脇を奸物として忌いまわしんで居た。
「 曾根田氏に渡せ 」
彼は一呼して別れたといふ。
柴は決意した。
そして外出監禁となつた其月下旬---二十六日---千駄ヶ谷に曾根田氏を訪うたが、
氏は當日宮に扈したがう從して秩父地方に出張中不在だつた。 
柴は夫人に彼の密書を渡し
「 西田税なるものから托されしもの、秩父宮殿下の御手に献られたし 」
と 告ぐる所あつた。
曾根田氏帰來、此れ聞いて驚倒した。
「 苟も臣下の分斯ることは罪萬死に値する 」
氏は直ちに柴と会見した。
十二月四日の夜、二人は会見した。
柴は凡てを語り
「 宮が同志に紹介せられしは貴下なり 」
と 告げしとき、
氏は感極まりて袖を濡らしたといふ。
一切は明瞭になつた。
歸來、終夜まんじりともせずに、考へた氏は遂に悲愴なる決意をしたのである。
十二月五日午後六時、人なき殿下の室に伺候した氏は彼の一書を献上した。
---此經緯は、「 同志に諗ぐ 」 註
及び曾根田氏書信集 「 滔天とうてん秘事 」 に明白なるを以て此処に略するであらう。

十月二十六日官報を以て、余は騎兵少尉に任ぜられ 正八位に叙せられた。
恩命泣謝すとも及ばぬ。
報國殉道の志は愈々堅固となるばかりである。
十二月十六日に始めて曾根田氏の書に接した余は、悲壮なる氏の心事に涙なきを得なかつた。
余は折返し、一切を数枚の書簡紙に縮めて書き送つた。
大正十一年は暮れた。
十二月三十一日の夜 余は木枯し吹き荒ぶ北韓の仮寓に、ひとり經文に端坐して、
纏綿てんめんとして極りなき感慨に夜を明して終つた。

大正十二年一月二十五日、静養を許されて帰郷の旅に上つた。
午後十時、船は北海の氷濤なみを砕いて清津湾を去つた。
仮寓を出づるとき、筆を揮つて壁に題して曰く、
憂國概世回天志辺城夜々愁夢多遙聞諸友待我頻托病濤向
かくして、余は東帰の旅途に出た。

元山に船を捨てた余は、途中竜山及姫路に一夜宛休養した後、一日の黄昏に故山の土を踏んだ。
「 祖國を訪ふの記 」 は この旅日記である。
二月八日、曾根田氏の書、羅南より轉送し來る。
「 春早々静養のため東帰せんと告げし後一月以上なるに消息なし。
寒地に病を再發して病床に懊悩せるに非ざるかと、宮は憂慮せられあり。
帰郷せば上京せよ。」
の一句が如何ばかり余を激励せしことぞ。
二月九日遂に東上の客となる。
---上京中の経過は 「 同志に諗ぐ 」 「 祖國を訪ふの日記 」 及 「 滔天秘事 」 中に詳記しあり。---
曾根田氏とは刎頸の交を結んだ。
宮に秘かに拝謁する予定で、宮と曾根田氏との間に約ありしを、
突如宮の風気發熱で御歸邸譚の爲めに失望極りなかつた。
猶存社を訪うては久しぶりの會見を喜んだ。
夫人と英生君とは、殊に英生君は喜んだ。
退京の夕べは満川氏を訪うて語つた。
二月十四日、都を辭するとき、拝謁進言の能はざりしを活歎した余は、再び上書の決意を抱いた。
三月四日歸隊した。
直ちに筆を執つた。
二十四日に至つて淨書を終へたる余は、直ちに秘封 曾根田氏に郵送した。
昏迷低級なる上官の眼は此頃から漸く余の一身に注がるゝやうになつた。
干渉の火の手が次第に高まつて來た。
此頃から余は夜の前半を寝て、後半夜を机に向つた。
宵には多くの同僚先輩が雑談放語に來襲するので、思ふ儘に公開し得ぬ筆に手を下し得ぬからだ。
面會謝絶の貼紙も効なかつた。
さり乍ら、余は次第に身體の疲労を來たし始めた。
「 そうだ。」
余はそれから遊び始めた。
原稿紙と萬年筆とを懐ろにして、余は毎夜の如くに仮寓を外に出ては、三輪の里を訪ふのであつた。
五月三十日暴雨大地を穿うが
つ黄昏突然、満川氏が羅南に來た。
鶴屋旅館の一室で積る思ひを語り合うた。
そして月のよい儘に二人は羅南神社の山に登つた。
美しい星の空を仰いで志を語らうた。
翌る朝 氏は間島に向け出發した。

六月二十五日、第三回の上書を郵送した。
八月二日に盟友宮本進君が飛行中墜死した。
六日に急に筆をとつて全同志に向つて檄を認めた。
一夕、清水君の來訪にあひ、大いに時事を慷慨し、哲學的見地より革命を叫んだ後ち
「 日本近く災禍あるべし、その洪水か地震か 知らざるも近時頻々ひんぴんとして地震をきく。
經文に大地震裂の句あり。革命は地震の如し云々 」
と 語りて別れた。
数日後---九月一日の夕べ、余は関東大震災東京崩壊の飛報を得た。
豫言の當れる不幸。
そして、混乱名狀すべからざる東都を想望した。
第二第三報以下續々來るのであつた。
戒嚴令---主義者不逞鮮人の妄動---大混亂。
 
余はつとすると、止むを得ず起たねばならぬかも知れないと考へたので、
九月一日の夜は一人仮寓に閉ぢ籠つて一切の整理をなした。
必要以外のものを區別し、愈々の時に携行すべきもののみ 「 バスケツト 」 に収め、
不要のものなどは焼き捨てた。
十六日の夕べ、飛行郵便による北氏の書が到着した。
在京同志の一切を知り得て意を休めた。
上京も斷念し得た。
十一月 「 猶存 」 第一號を印刷頒布した。
同時に 「 第三回 」 上書内容をも印刷頒布した。
---「 猶存 」 に關することは、「 猶存 」 自身が最も濃かに是れを語るであらう。---
然も余は、大震起りて帝都混乱すとききたる時 直ちに筆をとつて、
「 同志に告ぐ 」 一篇を書き、
謄写して九月十八日全國の同志及余が友なる數氏に頒布した。
そして十一月、
勤倹奨励の大詔が降下せしに鑑み、
序文を附して北鮮日報紙上に約一週に亙つて公にした。

十二月十九日の夕刻、余は父危篤の飛報に愕然としてとび上つた。
青天の霹靂とは正しくこの事だらう。
二十一日の夜半、痛心焦慮の身を清津に船によせて南航の途についた。
あゝ 何たる寂しき思ひであらう。
二十六日の黄昏、故郷の駅に立つた余は
直ちに病める父が在ます博愛病院に駆けつけたのである。
「 父に秘して、御身を呼び戻せし事情なるが故に、決して斯る事を舌頭に出してならぬ 」
と 近親に聞き、
「 第一戰に國家鎮撫のために任にある彼は、余死すとも呼び戻してはならぬ 」
と 近親を誡めて居たといふ父の心を想うて、余は腸の裂かるる思ひがするのであつた。
凡ての事情を詳かに聞き經たぬに、病床に横臥します吾が父の憔悴枯槁せる面影よ。
何とも言葉が出なかつた。
三日程前から漸く危機を脱し得たといふ父は、
仰向けに寝た儘、つと双眼を開いて、余を見た。
---ポロポロと涙が其のやつれし頬を流れた。
彼は何とも言はなかつた。
平素の父を想うて、そして父の心を察して余は正視し得なんだ。
眼先が曇つた。
やがて父の口を出でし言葉は、
實に
「 達者だつたのか 」
の 一語であつたのだ。
余は涙をかくして見舞ひの言葉を捧げたのである。

爾來一週日、次第に恢復に向つて行つた。
あの危篤に迄陥つてゐた父が・・・・。
さり乍ら、 父はもう已に死を覺悟して居た。
一日、余は父と二人で秘々と語つた。
父は何時どうなるとも知れぬからと言つて、余こそが死後を言残した。
一月四日の夜、
余は一室に籠つて父死後の方針一切を書いた。
明朝 余は 病める父を残して北韓に帰らねばなれぬのであつた。
母に彼の書を手渡し、
「 父若し長逝し給ふことあらば 披ひらき給ふべし 」
と 言添へて、
五日の早朝 余は西征の旅に上つた。
「 余死すとも、再び歸るなよ。
汝は我が家のものに非ず、國家に捧しものぞ。」
---別れの時、父は斯く言つた。
余は心を鬼に・・・・米子を去る時 車窓に倚つて、遙かに病院を望んだ。
何しらず頬が涙に濡れたのである。

二月十一日、
いとも畏こき皇祖登極の日に
父は積弱の病軀を恢復し得ずして、遂に逝いた。
帰れぬままに、其夜余は北韓の仮寓に獨り寂しく悲しき御通夜をした。
經をあぐる勇氣もなかつた。
嗚呼、生涯を流星の如くに消へし父よ。
不幸の児は今更碌々ろくろくとして北韓に恥づべき日を送つて居る。
---年老ひし祖母と母と、而して三人のいとけなき弟。
彼れを思ひ此れを思ひ、茫然として自失する日も少なくなかつた。

三月、
「 猶存 」第二號を編纂頒布した。
然も、北氏の寄贈になれる
「 ヨツフエに与ふる公開狀 」 を將校諸氏に分与してから、
格別上官の眼が余に鋭く光るやうになつて居たし、三月に召集から歸つた隊長が、
多少思想界の狀況をきいて來たりしたので、益々余の身邊は壓迫の波がひた打つた。
「 愚昧なる者倮 」
とは思つても止むを得なんだので、又しても寓を外に浮かれ廻るやうになつた。
六月 「 猶存 」 第三號を頒布し、同時に移民排斥法案が米國両院を通過したことに就き
「 亜細亜人に告ぐ 」 の 一篇を北鮮日報紙上に公にし、
以て亜細亜人別して日支鮮民族の融和團結を高唱し 白人文明の凋落を論述した。
東京に出たくて堪らぬ心を、憲兵志願に濺いだが、隊長と激論の末はねつけられた。

六月二十五日、
余は廣島に轉任の大命を拝した。
此頃から 大川、安岡氏等と直交始まる。
留韓前後五年、何事もなし得ずして大命のままに幾夜の波枕、
再び三年曾棲の廣島に行くとは、げに何の繋がるる縁であるのか。
任官後二年の日子。
人一倍に吾儘と粗放とで名を賣り、蕩児で知られ、然も手腕で相當の名を博して居た余には、
今此の懐しき地を去ることが惜しく悲しまれてならなかつた。
然も余は此処で闘志に鞭つて幾多の戰ひをなして居る。
七月十日午後二時、も早永遠の訣れなるべき羅南を去つた。
無量の思ひに、吾知らず睫毛を濡らした。
げに 駅頭の訣別よ。
一百の下士卒は泣いて呉れた。
余もいとしき子に別るゝ思ひに泣いた。
羅南に別るゝことも辛かつた。
さり乍ら 余は二年余、
苦楽を共にし、精神を竭つくして教育した
下士卒と時半ばにして別るゝことがより以上に辛かつたのだ。
青年の教養---それこそ余が至心の願ひであつたのだ。
亡國の山河を前にして彼等の戰闘的精神を鞭撻して、
來るべき変革に備へしむることを心願として居たのだ。
その代り、彼等は余を敬慕して呉れた。
始めの一年より次の一年と、
精神的にも實行の方面にも余の魂の歩める通りに彼等は跡を追うた。
成績もよかつた。
或時は全員を片つ端からなぐつたこともある。
無理を要求せしこともある。
妓楼から電話で教練を命じたこともあつた。
さり乍ら、彼等のためには上司と論爭を辭せなかつた。
辭職届を懐にして彼等のために隊長と激論せしこともあつた。
辛苦も出來る限り彼等と共にした。
余は明らかに云ふ。
余ほど部下の信望を得たものは當時他になかつたと。
---思いもかけぬ轉任の大命に 余のみならず、
下士卒の凡てが悲しんでくれたことは 余の終生忘れ得ぬ所であるのだ。
げに前後五年の北韓時代。
余は此処に始めて軍隊生活の人となつた。
任官もした。
叙位の知遇に泣いた。
宮への上書も書いた。
そして 父の死に逢うたのも此処であつた。
初めて部下を持ち、又 泣いて呉れる丈けの部下をもつたのも此処だ。
然も一生を通して單に一度なるべき遊蕩時代も此処に於て經過した。
無量の思ひなる余を載のせて、
今は最終なる北韓の余がのる汽車は羅南を離れた。
おー羅南よ。
羅北の山よ水よ。
人々よ。
其夕べ、
夕やけ雲が赤く赤く空を焦がすとき、
余は南航の船の檻おりに倚つて、
淡れつゝ 隠れゆく
北韓の山河を眺めつくした。

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戰雲を麾く 9 「 畢竟、人生は永遠に戦ひつづけるもの 」

2017年03月18日 20時21分58秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


曽棲の地広島
朝鮮を離れんとするとき、そは正に夜も十時である。
羅南の母なる聯隊に打電して曰く
「 亜細亜大陸に訣るゝに方り感無量。
各位の健康と奮闘とを祈つてやまず。」
と。
かくして、余は官命のままに亜細亜大陸と訣れて、
夜濤なみを衝いて玄洋を祖國に向つた。
萬感交々來往して、遂に眠れなんだ。
げにそは大正十三年七月十四日である。
十六日午前八時宇品に上陸した。
直ちに出迎への當番と伴れて電車を利用して廣島に入る。
大正七年七月に訣れた儘の懐しき戰の都である。
見るもの 聞くものの悉く、思ひ出の種ならざるない。

午前十時、
新たなる余が家---騎兵第五聯隊の正門を入った。
然して、同じ廣島の地に、七年前とは異なれる姿で再び生活することになつた。
げに此地は曾つて孤獨で戰ひし地だ。
此処には盟友平木君が居る。
然も彼は三四の同志と共に余の來任を待焦れて居たのであつた。

七月三十日、本照寺に集合して、意見を交換した上 「 暁の會 」 を創設して、
爾今 相共に魂の戰途に立つことを契つた。
此頃旧猶存社同人の肝入りで東京に秋水会が生れた。
寺田稲次郎氏を主宰とせるものである。
然して第一回の檄として 「 米化株伐宣言 」 を送つて來た。
仄ほのかにきく、世の混乱漸次其極に達せんとするに鑑み、
諸方同志の活動漸く白熱化せんとすることを。
余は玆に於て愈々決意した。
天長の佳辰に 「 劍の会 」 宣言及規約を全國に散在せる同志に頒布した。
そして、革命日本建設のために同行の諸團體に眞個主動的中心たらしむべき抱負を宣言した。
諸友の返書によりて、この會は遂に成つた。
九月に入つて、
余は留韓五年の記念として 「 朝鮮紛糾の主因 」 一篇を稿した。
そは曾つて、此の春父の死を挟んで稿したる 「 更生日本への主因 」 と共に姉妹篇をなすべき書である。
東京には又 新しく旧猶存社同人の斡旋による東海聯盟が生れた。
小金井小次郎の末裔たる大杉精一氏を統領とせる純實行秘密結社である。
聯盟大則を送って來た。
「 東海 」 は音 「 倒潰 」 に通ず。
來るべき決定的戰闘の中心となるべき抱負を有するといふ。

此月、天津総領事館に勤むる同志厳徹日本 石原秋朗君が、
満川氏の紹介狀をもつて余を寓居に訪うあり。
十年の知己の如く語つた。
此頃、支那は再び戰雲立ちこめた。
呉佩孚と張孫の衝突である。
第二の奉直線は起つた。
英米 殊に米の露骨なる呉援助は日本上下を極度に緊張せしめた。
後藤新平を刺さんとして潜かに東上して居た二名の友が、
警視廳の追跡に居堪らずして 九月二十一日の夜、変装して余を寓居に訪うた。
満洲から潜行して居た彼等は、
志ならず而も西方支那の戰雲愈々濃やかに立ち籠むるに心を動かして居た。
「 海の西へ行け 」
余は言うた。
然もそは、あまりに悲しい言葉であつた。
一夜を余の寓居に語り明した後、二十二日の三更を待って二人は幻の如くに廣島を落ちた。
玄海の彼方に向つて・・・・。
亡命か、將た出征か。
別れに臨んで、東白島のあるカフエーに冷い酒を酌んだ時、淋しさに、
而も一目を忍んで、恐らく先別死別であるべき別れを心に泣くのであつた。
二人の行方---其後杏として消息ない。
此頃から余は同宿の青年葉佐井君と識つた。
彼は双親なくして辛苦の中に今日あるを得た立志伝中の人である。
そして世の乱れ、不合理を極度に惡み悲しんだ。

九月下旬以来、余の身體は再び均衡を失つた。
衰弱---遂に旧痾やまいを昂進せしむるに至つたのである。
肺尖が再び炎症を起した。
十月十三日、自宅療養を命ぜられて憤然として廣島を去る。
十月下旬には騎兵學校に派遣せられるべき身であつたのを、それもよして・・・・。
噫々、
皇天腸ふ所の試練何とて爾く深刻なる。
戰闘的人生を享持して、然も常に幾多の試練に遭ふ。
恩籠限りなきを泣謝すると共に、余は中悲痛を感ぜて居られぬ。
翌夕、故山の草堂に入った。
堪へられぬ心の悲しみ。
そは故旧が余に期待して止まざる將來の栄達出世であり、
父なき後の一族が余に繋ぐ希望のそれぞれであり
而も余自身の心に潜める大志願に対する病弱の肉體である。
死も恐れぬ。
生も惜まぬ。
況や浮虚夢の如き功名栄達をや。
さり乍ら、余の心を捉へて離さぬものは、悲痛なる人生其者である。
げに人生は戰ひである。
然も悲壮である。

十月下旬、今は故山の草堂に病弱の身に鞭うつて第四次の上呈書に筆をとつた。
そは、祖國の空を蔽へる暗雲愈々濃かにして、同志の運動亦漸次白熱化し來り、
大事決裂の日甚だ遠からざることを豫感せるに因りて、
日本の最高我が更生的大飛躍を決意せらるるべき機到來せしを進言する所のものである。
されど、そは未だ郵送せずに余が許にある。
十一月上旬、秋水會は第二回の宣言 「 早稲田大學誅伐 」 を 送り出した。
この月、余は心を籠めて、二十四年の哲理を留むべく 「 戰闘的人生 」 一篇を稿した。
然もそは自叙伝とも言ふべき此一篇と共に、余が世に留めんとする永遠なる記念だ。
十二月十二日に上京を企てたが、
北氏の飛電 「 見合すべき 」 を伝へ來りしを以て 一時志を抛なげうつ棄した。
そは十四日に到達せし書によりて、
北邸今や左傾派天行舎就實倶楽部員によりて、過半を占領せられ、
又 氏の義子なる一青年
肺患を抱いて長崎より來り換気と動揺との故に重態に陥りあることの故であつた。
然も兄弟にも過ぐる氏の厚意は、余が帰廬ろ當初書を寄せて病を見舞ひ、
上京せよ 然らば余が寓に同居して兄弟の家の如くに静養し得むと告げられしことあり。
是れに甘へて上京せんと約したる余が這時、氏の近況を知り得て思ひ留まつたのである。
さり乍ら 近く一度上京して、諸友に見へ、交語したいと思つて居る。

---あゝ 大正十三年も多事多難の裡に逝かんとして居る。
悲壮なる戰ひの中に二十四年は逝いた。
然も一切の上に、戰雲いとも濃やかに立ち籠めて居る。
畢竟ひつきよう、人生は永遠に戰ひがつづけらるるであらう。
長顧すれば、げに二十四年は戰ひであつた。
來るべき余が生涯の残りの日も、戰ひである。
實に余は戰ひを以て終始して來た。
今日あるを得た。
余の残生も此戰ひの中に續けらるべきである。
( 大正十三年十二月二十五日稿了 )

二十四春秋

嗚呼、
一顧して長望すれば
二十四年 早くも已に流氷の如く逝いた。
過去を顧るとき、凡て走馬燈の如くに眼底を旋轉する。
隔世の感もし、又 昨日の如くもある。
戰闘的精神をいとも濃かに、祖宗を一貫する血の流れに汲みて、
然して歩み來りし二十四年.
そは余が至心の法悦として、俯仰泣謝して止まざる恩籠である。
然も降天の試練悉く余が爲めに登髙向上の鞭であつた。
幾多の余を繞めぐり起れる現實の問題は悉く、余の闘志を修練する天授の恩賚らいであつた。
然も不退轉の大道念、不可抗の大信念は愈々凝り固まつて行く。
其れと共に日本の運命 亜細亜の運命は旧殻を破つて、
新しき生に躍進の日が刻々に近づきつつある。
そうだ、
實に余の進むる歩一歩は日本更生の歩一歩であり、
亜細亜復興の歩一歩であり、
道義的世界誕生への第一歩であるのだ。

妄りに粗放なる革命児と誣しふるをやめよ。
余が一心は單り余個人の所有にあらずして、げに尊き人類共有の心であり、
眞理の具現である。
さり乍ら、四年來の肺患は未だ全く癒やし得ぬ憂ひの底に陥とて居る。
現世に於ける將來を豫測するとき、余が生命の前途は寧ろ暗黒である。
悲しまず。
然も此の臝軀らたいに鞭うつて正義の爲めに戰ふ心を自ら凝視するとき、轉た悲壮に堪へぬのだ。
然も心理に殉ずるのだといふ意味に於て、
余は自身に絶對の幸福を思念するものである。

大正維新の高杉晋作たらんとするか。
こうも言つては、同志悉くが思ひを寄せる。
げに彼は明治維新を見ずに肺患に逝いた。
さり乍ら、
余 仮令肺患を抱くとも、
此の炎々たる胸裡の志願には何者の妨碍をも許さぬ鐵石の心腸---鏡があり劍がある。
余は此鏡を掲げ、
此劍を提げて敢然として依然魂の戰途を進むものである。
---戰雲を麾いて、
凱歌に欣躍すべき克服の日に向つて力強く 一歩一歩を進むるものである。
嗚呼、
回顧二十四年春秋。
そはげに矢の如し。
斯書は、
げに いみじき余が二十四歳の戰ひを綴れる所のもの。
そは永遠に世に留められるべき、
余が魂の遍歴を記念の記錄である。
( 校閲 ・末松太平 )

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