あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

帝國ホテルの會合

2019年03月23日 09時54分56秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

夜半、帝國ホテルの會合
ちょうどその頃、( 26日の夜半~27日の天明近く )
帝國ホテルの一室では
三島から急遽上京してきた重砲兵聯隊長橋本欣五郎大佐、
戒嚴参謀に豫定されていた石原莞爾作戦課長、
それに參謀本部部員田中弥大尉、
陸相官邸からかけつけた満井佐吉陸大教官らが集まって
事態収拾について協議していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
橋本欣五郎大佐 は東京經濟研究會の山崎盛澄へ電話し 指揮官は誰れかを聞き、
其結果概略を知り、放棄し置けば皇軍相撃の惨を見るを恐れ、旅團長の許可を得て出發。
( 出發の条件、副官同行、同日夜半迄に帰ること )
二十六日午後六時に三島を發、上京後 神田正晴大佐を訪問、事件の解決の遷延不可なるを述べ、
満井中佐より電話にて陸相官邸に行き呉れ。
軍事參議官の會合の際 阿部大將より橋本大佐に 如何にせば可ならんと問はれ、
其時も神田大佐に言ひしと同様答ふ。
( 阿部大將は彼等の希望しある所は何かと問ひたるなり )
満井中佐來り。橋本大佐に反軍の幹部と會見を頼まる、其結果村中と會見、
橋本より村中へ、
「 君等は昭和維新を斷行せんと企圖したるならん、其眞情には同情す。
已にお前達は包囲を受け居る。速に下がれ。
勿論維新に就ては我等も同意見なるを以て安心して下れ 」 と 言ふ。
其後 石原莞爾大佐、満井、橋本が帝國ホテルにて會見す。
< 磯村少佐の言>
石原大佐 次長室に於て 次長に
「橋本と満井が帝國ホテルにて會ひたいと云ふから一時間計り暇を下さい。
 もう會ても駄目と思ひますが一応會てやらうと思ひます 」
次長は石原大佐に うっかりしたことを言ふなよと注意せらる。
石原 「 よくわかって居ります。殊に後繼内閣の問題に触れた時には私は斷然歸て來る 」
橋本が帝國ホテルに歸りし時、副官か龜川が來て居るがと云ひしに 夫れは満井が使て居る男ならんと。
< 橋本大佐の言 >
満井中佐が龜川に洩らしたる言として
「 反軍を退かしむるには軍人にてはいかん。 君等が適任ならん。
 怪文書に就ては自分 ( 橋本 ) は絶對反對なり。
之れは全く共産党のやり方にて 自分は書かれたることあるも 書たことがない 」
・・・安井藤次少将・備忘録  から  ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼らはこの機会に鞏力内閣を組織して國家革新を斷行すべきだと いうことでは意見が一致していたが、
その鞏力内閣に誰を首班とするかについては議がわかれたいた。
石原大佐は皇族内閣を主張した。
東久邇宮を推すもので當時の參謀本部幕僚たちの意見を代表するものであった。
満井中佐は蹶起將校の要望する眞崎内閣柳川陸相案を鞏く支持し、
橋本大佐は建川美次中將を推していた。
こうした意見の相違からこの際、陸軍から首班を求めることをやめて海軍から出してはどうかと
提案したのは満井中佐であった。
「 皇族内閣には蹶起將校は斷乎反對の態度をもっているし、
 建川中將も大權干犯の元兇として彼らはその逮捕を要求しているので、
これらを強行することは事態収拾にはならない。
眞崎首班は彼らの熱望するところであるが、
それが參謀本部側で鞏い難色があるというのであれば、
この際は陸軍部内のイザコザに全く關係のない海軍からこれを求めるより途はない。
山本大將はかつてロンドン條約当時艦隊派の雄として活躍せられ革新思想にも理解があるので、
蹶起將校たちも納得して必ず平穏裏に維新に進むことができよう 」
この満井の提案には石原も橋本も賛成した。
そしてこの意見は石原より杉山參謀次長に申達されることになった。
なお、これに関して、
「 午前四時三十分
 參謀本部の反對激烈にして到底眞崎内閣の成立は期待すべからざるも
更に これを徹底的に斷念せしむるため山本英輔大將に勧告せられたし との部内の意見を聽取す 」
と 杉山次長は手記しているところから見ると、
石原は部内の意見としてこれを具申したように思われる。
そこで彼らは 山本大將と昵懇だという龜川哲也を呼んで意見を聞くことになった。

龜川は二十五日夜西田税と協議して事態収拾のための上部工作を担當していたが、
この朝未明、彼は眞崎邸を訪ねてその奮起を懇請し、
また西園寺工作のため興津におもむく鵜沢博士を品川駅にとらえてその努力を要請し、
また、政友會領袖、久原房之助とも事態収拾について話合っていたが、
一方かねて知遇を得ていた山本海軍大將とも連絡することを忘れていなかった。
彼はこの朝すでに電話をもって山本大將に事件發生を告げて、
海軍として時局収拾に努力されるよう懇願していたし、
また、午後には海軍省に同大將を訪ねて山本内閣説をにおわせていた。
彼にしてみれば山本内閣は眞崎内閣に次ぐ第二の腹案だったわけであったのだ。
したがって、この満井の提案した山本内閣案は満井自身のものでなくて龜川の構想であったのである。
龜川が自動車で帝國ホテルに駈けつけたときは、ちょうど、石原大佐が出て行くところだった。
二人は入口ですれ違ったが別に挨拶もかわさなかった。
龜川がボーイに案内されて一室に入ると、
そこには満井、橋本、田中その他二、三名の將校、それに右翼浪人の小林長次郎がいた。
満井が龜川にこれまでのいきさつを説明したのち、
「 この際、山本大將に出てもらうことが一番よいということに意見の一致を見た。
そこで石原大佐から杉山次長に電話して、これが諒解を得た。
次長は機を見てこれを上聞に達するということになっている。
ついては山本大將と親交のあるあなたに意見を伺うと思って來ていただいたのです 」
「 それはいいでしょう。
 だが、それにはまず部隊の引きあげが先決ではないでしょうか、
蹶起部隊は一応目的を達したのだから、
いつまでも首相官邸や陸相官邸を占拠していてはいけません。
彼らは速やかに現在の場所から撤去させなければなりません 」
と 龜川は問題を投げた。
この龜川の意見には満井も橋本も同意し、
部隊を戒厳司令官の指揮下に入れて警備区域はそのままとして歸隊せしめよう、
と 提案、
一同それがよかろうということになり、
満井は車を陸相官邸にやり 村中 をよんできた。
村中を説得して引きあげさせようとしたのだ。
龜川はこの村中説得の事情をつぎのように述べている。
「 そこで満井と私は村中を別室に呼び、
 まず私から目的を達したかと聞きますと村中は達しましたという返事なので、
私はそれでは早く引きあげればよいではないか、といいますと、
村中は、事態をどうするか決まらないのに引きあげるわけにはいかない、との返事でした。
私は引きあげさえすれば事態は自然に収拾されるのだ、といいました。
この時、満井は、
≪ 部隊を戒嚴司令官の指揮に入れ警備区域は現場のままとする ≫
という条件を持ち出し、早く引きあげた方がよいと話したので、
村中は
引きあげるということは重大だから 外の者にもいわなくてはならん、
そして西田にも相談しなくてはならん
と いいました。

この時私から 西田の方は私が引き受けるから、
若い人たちの方は君が引き受けて早速引きあげてくれ、と話ました。
すると村中は
歸りましたら早速引きあげにとりかかりましょう

ということで
わずかな時間で話がまとまって村中は帰って行きました」
( 憲兵調書 )

こうして彼らはこの協議をおえて帝國ホテルを出た。
もう夜が明けかかっていた。
満井はその足で戒嚴司令部に赴き、石原参謀を訪ね、右の顚末を傳え、
さらに、
「 維新内閣の實現が急速に不可能の場合は、
 詔書の渙發をお願いして、建國精神の顯現、國民生活の安定、
國防の充實など國家最高のご意思を広く國民にお示しになることが必要である。
そしてこれに呼応して速やかに事態の収拾を計られるよう善処を希望する 」
龜川はホテルから自宅にかえったが、そこで山本大將と久原に右の報告をした。
それから眞崎邸を訪問したが不在だったので車を海軍省に向けここで山本大將に會い、
組閣の心組みをするよう申言したが、山本は相手にしなかった。
八時頃 北一輝邸に西田税を訪ね帝國ホテルにおける部隊引上げの話をした。
西田は憤然として、
「 そんなことをしては一切ぶちこわしだ、一体誰の案か、村中は承諾したのか 」
と 詰問した。
龜川が、大体承諾したようだと口をにごすと、西田はすっかり考え込んでしまった。

次頁 
「 国家人無し、勇将眞崎あり 」 に 続く
大谷敬二郎 著  二・二六事件から


この記事についてブログを書く
« 戒嚴令 『 麹町地區警備隊 ... | トップ | 軍事參議官との會談 2 『 事... »