あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

暗黒裁判・幕僚の謀略 4 皇道派の追放

2020年11月26日 14時13分06秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放

最近反亂軍に參加せし者の論告内容が洩れ、種々の批評を加へ居る向きあり。
殊に論告が過重なると稱す。
東京第二弁護士會長、國本社の元理事 竹内賀久治 ( 平沼騏一郎氏の乾分 ) は、
平沼氏より樞府に於ける特別軍法會議決定當時の内容を聞き 次の如く云ふ。
特設軍法會議を決定する時に、
陸相は事急を要し、短時間に審判処理するの要あるを以て特設軍法會議にあらざるべからずと言はれ、
平沼騏一郎は之に賛成せるも、其後の捜査審判を見ると、四ヶ月を經過せし今日 未だ完了せざる如く。
今日の客観的狀勢に鑑る時は、特設軍法會議としたのは被告に對シ 人權蹂躙の大なるものなり。
大逆事件たる難波大助でも辯護士を附したるに、今回の如き崇高なる精神に基く事件に對シ、
之を附するひとなく罪に審判せられ居る。
事件發生以後の檢擧を見ると、陸相は武藤章中佐外一部少壮將校の言を容れ、
極端なる捜査を爲し 甚だしきは何等の確證なく、容疑本位にて眞崎、加藤、本庄等の大官を憲兵が取調中なるも、
之等大官の地位と現狀とに鑑み 極めて愼重に且 嚴秘を要するに拘らず、翌日には既に一般に流布せられあり。
之れ 人權蹂躙職権亂用の甚だしきものなり。
若し 犯罪が成立せざる場合には、之等大官の名誉威信を如何にするや。 眞に戰慄に堪へず。
吾人は事件審理の結果、若し檢察當局にして人權蹂躙乃至は職權亂用の事實ある場合には、
全國法曹界に呼びかけ斷乎として糾彈する積りなり。


眞崎大將の事件関与
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して匂坂春平陸軍法務官らがこれに當たった。
黒幕と疑われた眞崎甚三郎大將 は、
昭和十一年三月十日日に眞崎大將は豫備役に編入され、
東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らに取調べを受ける。
昭和十一年十二月月二十一日
、匂坂法務官は、眞崎大將に關する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
昭和十二年一月二十五日に反亂幇助で軍法會議に起訴されたが否認した。

   小川関治郎              湯浅倉平
   陸軍法務官              内務大臣

小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、
眞崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、
小川が磯村年裁判長 ( 寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任 ) に對して、
眞崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、
磯村は大いに怒り 裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、
杉山元 ( 寺内寿一の後継陸相 ) の仲裁で、要領の得ない判決文で折合うことになった。
論告求刑は反亂者を利する罪で禁錮13年であったが、昭和十二年九月二十五日に無罪判決が下る。
磯村年大将は、
「 眞崎は徹底的に調べたが、何も惡いところはなかった。だから當然無罪にした 」
と 戦後に證言している。


暗黒裁判
幕僚の謀略 4
皇道派の追放
目次
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眞崎甚三郎大將判決全文 (九月二十五日陸軍省公表) 
・ 「 被告人眞崎甚三郎ハ無罪 」 
・ 拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」
・ 
眞崎談話
『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』 
・ 拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」

川島義之陸軍大臣 憲兵調書 
・ 
戒嚴司令官 香椎浩平 「 不起訴處分 」


「 被告人眞崎甚三郎は無罪 」

2020年11月25日 04時52分55秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


前頁 眞崎談話 『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』 の続き

< 眞崎大將の事件關与 >
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して匂坂春平陸軍法務官らがこれに當たった。
黒幕と疑われた眞崎甚三郎大將 は、
1936年3月10日に眞崎大將は豫備役に編入され、
東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らに取調べを受ける。
1936年 ( 昭和11年 ) 12月21日、匂坂法務官は、
眞崎大將に關する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
1937年 ( 昭和12年 ) 1月25日に反亂幇助で軍法會議に起訴されたが否認した
 
   小川關治郎              湯淺倉平
   陸軍法務官              内務大臣

小川關治郎法務官は湯淺倉平内大臣らの意向を受けて、
眞崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、
小川が磯村年裁判長 ( 寺内寿一陸軍大臣が轉出したあと裁判長に就任 ) に對して、
眞崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、
磯村は大いに怒り 裁判長を辭すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、
杉山元 ( 寺内寿一の後經陸相 ) の仲裁で、要領の得ない判決文で折合うことになった。
論告求刑は反亂者を利する罪で禁錮13年であったが、
1937年 ( 昭和12年 ) 9月25日に無罪判決が下る。
磯村年大將は、
「 眞崎は徹底的に調べたが、何も惡いところはなかった。だから當然無罪にした 」
戰後に證言している

・ 
拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」 

 報道
眞崎甚三郎大将判決全文 (九月二十五日陸軍省公表) 

< 眞崎大將に對する判決 >

昭和十二年九月二十五日言渡
眞崎甚三郎判決原稿 ( 無罪 )
判決
本籍、  佐賀県神埼郡境野村大字境原千百六十五番地戸主平民
住所、  東京府東京市世田谷區世田谷一丁目百六十八番地ノ三
豫備役陸軍大將 正三位 勲一等 功四級  眞崎甚三郎
明治九年十一月二十七日生

右ノ者に對スル反亂幇助被告事件ニ附 軍法會議ハ檢察官 陸軍法務官 竹澤卯一 干与審理ヲ遂ゲ
判決ヲ爲スコト左ノ如シ
主文
被告人眞崎甚三郎ハ無罪
理由
< 一、眞崎ノ閲歴及主義、信念竝ニ愛國心 >
被告人ハ明治三十一年六月二十七日 陸軍歩兵少尉ニ任ゼラレ、
爾來累進シテ昭和八年六月十九日 陸軍大將ニ親任セラレ、
同十一年三月六日待命、同月十日豫備役仰附ケラレタルモノナルガ、
其ノ間 陸軍省軍務局軍事課長、陸軍士官學校本科長、同學校長、第八師團長、第一師團長、
臺灣軍司令官、參謀次長、敎育總監及軍事參議官ノ要職ニ歴任シ、
右士官學校在職中或ハ國體精神及皇室観念ノ涵養ニ努メ、或ハ我意放縦ノ弊風ヲ戒メムガ爲、
學術併進等ヲ主旨トスル實行主義ヲ指導方針ノ根本義ト爲ス等、
専ラ生徒ノ訓育ニ盡瘁シ、一面夙ニ我國内外ノ情勢ヲ按ジ、文武官民上下互ニ相對立シテ統制ヲ欠キ、
而モ戰備國防ノ欠陥ハ外交上ノ支持ニ影響ヲ及ボスノ虞アリ、之ガ匡救ノ一途ハ、
國策遂行ノ爲ニ必要ナル氣魄實力ヲ具備セル所謂強力内閣ノ實現ニアリトシ、
若シ此ノ際 誤テ軟弱不斷ノ者 其ノ局ニ當リ、苟いやしくモ外交ニ懦弱ノ態度ヲ暴露セムガ、
獨リ軍部ニ止マラズ、民間ノ士 亦 加ハリテ反噬はんぜいシ、遂ニ大小流血ノ惨ヲ見ルコト無キヲ保セズ、
國家ノ前途深憂ニ堪ヘズト斷ジ居タルモノナル処、

< 二、眞崎ノ靑年將校トノ接触交渉 >
豫テ被告人ト思想一脈相通ジ 且 被告人ヲ深ク欽慕崇敬セルイチブ靑年將校ノ間ニ、
所謂特權階級ヲ打倒シ、國家ノ革新ヲ目的トスル昭和維新ノ運動漸次濃厚ト爲リ、
就中、陸軍歩兵大尉香田淸貞、同村中孝次、陸軍一等主計磯部淺一、陸軍歩兵中尉栗原安秀等ハ、
北輝次郎、西田税等ヨリ矯激ナル思想ノ感化ヲ受ケ、
所謂昭和維新斷行ノ爲ニハ非合法的手段 亦 敢テ辞スベキニ非ズト爲シ、
茲ニ同志相結束シテ聯絡會合ヲ重ネ、又 同志ノ獲得指導ニ努メ、陰ニ維新斷行ノ氣運促進ヲ圖リ居タル折柄、
昭和十年七月被告人ガ敎育總監ヲ免ジ、軍事參議官ニ専補セラレタルヤ、
村中孝次、磯部淺一等ハ此ノ更迭ニ附、頻ニ當局非難ノ氣勢ヲ擧グルニ至リ、
被告人ハ此等ノ情勢ヲ推知シナガラ、
其ノ頃 屡々被告人ノ許ニ出入セル陸軍少將平野助九郎等ニ總監更迭ノ内情ヲ洩シ ( 語リ )
且 痛ク憤懣ノ情ヲ表ハスト同時ニ、其ノ手續上、當局ニ不當ノ処置アリトシテ、
或ハ 統帥權干犯ナリト唱エ、或ハ 軍令ニ違反セリト力説シ、
之ニ依リ 村中孝次、磯部淺一ガ當局非難ノ敎育總監更迭事情等ニ關スル不穏文書ヲ頒布シ、
爲ニ靑年將校同志ノ該運動、一層尖鋭化スルニ至レリ。

< 三、靑年將校ノ革新運動 >
又 同年八月、陸軍歩兵中佐相澤三郎ノ陸軍省軍務局長永田鐵山殺害事件勃發スルヤ、
一部靑年將校等ハ深ク此ノ擧ニ感奮スルト共ニ、敎育總監更迭ニ關シ、
統帥權干犯ノ背後ニ一部重臣、財閥等ノ陰謀策動アリト爲シ、愈々此等特權階級ヲ打倒シ、
昭和維新ヲ實現セムコトヲ企圖シ、而モ重臣等ハ超法的存在ニシテ合法的ノ手段不可能ナリトシ、
國法ヲ超越シ、直接行動ヲ以テ之ヲ打倒シ、
一部軍上層部ヲ推進シテ國家ヲ革新セムトスルノ運動、日ニ熾烈ヲ加ヘタリ。

< 四、眞崎ノ靑年將校蹶起ノ情勢察知 >
斯クテ昭和十年十二月頃ヨリ 村中孝次、磯部淺一、香田清貞、栗原安秀、及 澁川善助 等ガ
第一師團將兵ノ渡満前、主トシテ在京同志ニ依リ速ニ事ヲ擧グルノ洋リト爲シ、其ノ準備ニ着手シ、
相澤中佐ノ公判ヲ機會ニ蹶起氣運ヲ促進セムトシ、
特權階級ニ極度ノ非難攻撃ヲ加ヘ、又 相澤中佐ノ行動精神ヲ宣傳シ、以テ同志蹶起ノ決意ヲ促サントスルヤ、
被告人ハ彼等ノ間ニ瀰漫びまんセル不穏ノ情勢ヲ察知シナガラ、

< 五、眞崎ノ靑年將校ト屡々會見其ノ行動促進ノ氣勢助長 >
イ、昭和十年十二月、陸軍歩兵中尉對馬勝雄ノ來訪ヲ受ケタル際、
  同人ニ對シ、敎育總監更迭ニ依ル統帥權干犯問題ニ附テハ、盡クスベキ所盡クシタルノミナラズ、
同更迭ニハ妥協的態度ニ出デズ、最後迄鞏硬ニ反對セリ。
尚 自分ハ近來其ノ筋ヨリ非常ノ壓迫ヲ受ケ居ルガ、機關説問題ニ附テハ眞面目ニ考慮スルノ必要アル旨ヲ説キ、

ロ、同月二十四日頃、磯部淺一 及 陸軍歩兵大尉小川三郎ト自宅ニ於テ面接シ、
  興奮セシ態度ヲ以テ總監更迭ニ附、相澤中佐ハ命迄捧ゲタルガ自分ハ其処迄ハ行カザルモ、
最後迄鞏硬ニ反對セシ旨ヲ告ゲ、次デ小川三郎ガ國體明徴問題 及 相澤公判ヲ以テ巧ク運バズ、
其ノ儘 放置スルガ如キ場合ニハ、血ガ流レルコトアルヤモ知レザル旨ヲ述ブルヤ、
両名ニ對シ確ニ然リ、血ヲ見ルコトアルヤモ計ラレザレガ、
自分ハ斯ク言ヘバ靑年將校ヲ煽動スルガ如ク認メラルル故 甚ダ困ル次第ナリト語リ。

ハ、同月二十八日頃、
  香田淸貞ヨリ國體明徴問題 ( ニツキ聽取シ ) 及 維新運動ニ關スル靑年將校ノ活動狀況等ニ附
之ヲ聽取シテ同感ノ意ヲ示スト同時ニ、靑年將校ノ之ニ對スル努力未ダ足ラズト難ジ、
又 憤懣ノ態度ヲ以テ敎育總監更迭ニハ最後迄反對セリ、
若シ之ニ同意シタルガ如キコトアリトセバ、予ハ今日迄生存セザル筈ナリト ( セル旨ヲ ) 述ベ、
尚 相澤中佐ノ蹶起精神ヲ稱揚シ、同人ニ對シテハ心中何人ニモ劣ラザル程 心配シテ居ルト告ゲ、
深ク同情ノ意ヲ表シ、其ノ他 同中佐ノ公判ニハ統帥權干犯ノ事實ニ附、證人トシテ起ツベキ旨、
及 敎育總監陸軍大將渡邊錠太郎ガ其ノ位置ヲ退クコトニナレバ維新運動ハ都合好ク運ブ旨ヲ説キ、

二、同十一年一月、相澤中佐ノ辯護人陸軍歩兵中佐満井佐吉ヲ招キタル際ニ、
  敎育總監更迭ニハ最後迄反對セシ旨、其ノ他 同更迭ノ經緯等ニ附 之ヲ打明ケ、( 述ベ )
又 相澤ノ公判ニハ喜デ承認ト爲ル旨ヲ告ゲ、次デ翌二月同ジク満井佐吉ノ來訪ヲ受ケ、
現在軍ノ蟠わだかまリ、國家ノ行詰 等 甚シキ爲、靑年將校ノ運動激化セリトノ狀況ニ附 之ヲ聽取シ、

ホ、同年一月二十八日頃、磯部淺一ガ被告人ヲ其ノ自宅ニ訪ネ、
  敎育總監更迭ノ統帥權干犯問題ニ附テハ飽迄努力スル旨ヲ述ベ、
金千圓 又ハ五百圓ノ出資方ヲ請フヤ都合スル旨ヲ答ヘ、
其ノ翌日頃、磯部淺一ハ被告人ノ知人 森傳ナル者ヨリ金五百圓ノ交附ヲ受クルニ至レリ。
以テ靑年將校同志ヲシテ敎育總監更迭ニ依ル統帥權干犯ハ眞實ナリトノ確信ヲ抱カシメタルト共ニ、
被告人ノ意嚮ヲ打診シテ昭和維新斷行ノ可能性アリトシ、
決行ノ意思ヲ鞏固ナラシメテ其ノ行動促進ノ氣勢ヲ助長シ、而シテ前示金五百圓ハ、
之ヲ磯部淺一ニ於テ今次反亂事件ノ爲、蹶起ノ資金ニ充當スルニ至ラシメタリ。

爾來 靑年將校同志ハ、東京市内各所ニ會合ヲ重ネ、實行ニ關スル諸般ノ計畫 及 準備ヲ進メ、
一方 陸軍歩兵大尉 山口一太郎 及 民間同志 北輝次郎、西田税、亀川哲也 等ト聯絡ヲ執リ、
蹶起直後、山口一太郎ハ本庄繁 等 陸軍上層部ニ、西田税ハ小笠原長生 及 加藤寛治 等ニ、
龜川哲也ハ眞崎甚三郎 及 山本英輔 等ニ對シ、外部ニ在リテ ( 又 山口一太郎 及ビ 西田税ハ夫々要路ニ對シ )
蹶起ノ目的達成ノ爲 工作を爲スベキ手筈ヲ定メ、遂ニ昭和十一年二月二十六日払暁、
村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、對馬勝雄 及 栗原安秀 等ガ 近衛、第一両師團ノ一部將兵ト共ニ
兵器ヲ執リテ一齊ニ蹶起シ、内閣總理大臣官邸 其ノ他 重臣大官ノ官私邸ヲ襲撃シ、
内大臣齋藤實、大蔵大臣高橋是清、敎育總監渡邊錠太郎 等ヲ殺害シ、
侍從武官長鈴木貫太郎ニ重傷ヲ被ラシメタル上、
同月二十九日に至ル迄ノ間、陸軍省、參謀本部、警視廳等ノ地域ヲ占據シ、
陸軍首脳部ニ對シ昭和維新實現ヲ要望スル等、國權ニ反抗シ、反亂ヲ決行スルヤ其ノ間ニ於テ被告人ハ、

< 六、眞崎ノ犯行列條 >
一、昭和十一年二月二十六日午前午前四時三十分頃、
  自宅ニ於テ豫テニ、三回被告人ヲ訪ネ
靑年將校ノ不穏情勢ヲ傳ヘ居タル龜川哲也ノ來訪ヲ受ケ、
同人ヨリ今朝靑年將校等ガ部隊ヲ率イテ蹶起シ、
内閣總理大臣、内大臣等ヲ襲撃スルニ附、靑年將校等ノ爲 善処セラレ度ク、
又 彼等ハ被告人ニ於テ時局ヲ
収拾セラルル様希望シ居レバ、自重セラレ度キ旨懇請セラレ、
茲ニ皇軍未曾有ノ不祥事態發生シタルコトヲ察知し、之ニ對スル処置ニ附 熟慮シ居タル折柄、
陸軍大臣ノ反亂將校ト交渉ノ結果、彼等ノ被告人招請方要求ニ基ク ( よりの ) 電話招致ニ依リ、
同日午前八時頃陸軍大臣官邸ニ到リ、同官邸ニ於テ、
1  磯部淺一ヨリ蹶起ノ趣旨 及 行動ノ概要ニ附 報告ヲ受ケ、蹶起趣旨ノ貫徹方ヲ懇請セラルゝヤ
  「 君達ノ精神ハ能ク判ツテ居ル 」 ト 答ヘ、

2  陸軍大臣川島義之ト村中孝次、磯部淺一、香田淸貞 等 反亂幹部トノ會見席上ニ於テ、
  蹶起趣意書、要望事項 及 蹶起者ノ氏名表 等ヲ閲讀シ、
香田淸貞 等ヨリ襲撃目標 及 行動ノ概要等ニ附 報告ヲ受ケタル後、同人等ニ對シ、
「 諸君ノ精神ハ能ク判ツテ居ル、自分ハ之ヨリ其ノ前後処理ニ出掛ル 」
ト 告ゲ、次デ其ノ場ニ在リシ山口一太郎ガ、「 閣下御參内デスカ 」 ト 尋ネタルニ對シ、
  「 イヤ、自分ハ別ノ方ヲ骨折ツテ見様ト思ツテ居ルノダ 」 ト 考ヘ

3  又 大臣副室ニ於テ、陸軍大臣川島義之ニ對シ、
  反亂軍ノ精神ヲ汲ミ、其ノ要望ヲ促進セシムルノ必要アル旨ヲ進言シ、( テ官邸ヲ出テ、)

二、同日午前九時過頃、急遽軍令部總長伏見宮邸ニ伺候シ、海軍大將加藤寛治ニ伴ハレテ殿下ニ拝謁シ、
  反亂ニ附 見聞セル狀況ヲ言上シ、又 時代斯クナリシ上ハ、最早臣下ニテハ其ノ収拾不可能ニ附、
鞏力内閣ヲ組織シ、今次反亂事件等ノ關係者ニ對シ、恩典ニ浴セシムベキ主旨ヲ含ム大詔渙發ヲ仰ギ、
事態ヲ収拾セラルゝ様爲シ頂キ度ク、一刻モ猶豫ナリ難キ旨ヲ言上シ、

三、同日午前十時頃 伏見宮殿下ニ加藤大將ト共ニ随從シテ參内シタル際、
  侍從武官長室ニ於テ陸軍大臣川島義之ニ對シ、蹶起部隊ハ到底解散セザルベシ、
此ノ上ハ詔勅ノ渙發ヲ仰ぐノ外ナシト進言シ、又 其ノ席ニ居合ハセタル他ノ者ニ對シ、
同一趣旨ノ意見ヲ反復鞏調シ、

四、同日午後一時三十分頃、
  宮中ニ於テ陸軍ノ各軍事參議官、陸軍大臣、參謀次長 及 東京警備司令官 等 會同ノ席上ニ於テ、
陸軍大臣ヨリ事態収拾ニ附 意見ヲ徴セラルゝヤ、蹶起者ヲ反亂者ト認ムベカラズ、
討伐ハ不可ナリトノ意見ヲ開陳シ、

五、同日夜、陸軍大臣官邸ニ於テ前記満井中佐ニ對シ、
  宮中ニ參内シ種々努力セシモ中々思フ様ニ行カザルヲ以テ彼等ヲ宥なだめヨト告ゲ、

六、翌二十七日、反亂將校等ガ、
  北輝次郎、西田税ヨリ 「 人無シ 勇將眞崎アリ、正義軍一任セヨ 」 トノ 靈告アリトノ電話指示ニ依リ、
時局収拾ヲ眞崎大將一任ニ決シ、軍事參議官ニ會見ヲ求ムルヤ、
被告人ハ同日午後四時頃、陸軍大臣官邸ニ於テ軍事參議官 阿部信行、同 西義一 立會ノ上、
反亂將校十七、八名ト會見ノ際、同將校ヨリ事態収拾ヲ被告人ニ一任スル旨申出デ、
且 之ニ伴フ要望ヲ提出シタルニ對シ、
無条件ニテ一切一任セヨ、誠心誠意努力スル云々ノ旨ヲ答ヘタリ。
以テ今次反亂者ニ對シ好意的言動ニ依リ、其ノ反亂行爲遂行ノ爲ニ適宜ノ方策ニ出デ、
又ハ右 遂行ニ對スル障礙しょうがいノ除去ニ努メタリ。

< 無罪の理由 >
按ズルニ以上ノ事實ハ、被告人ニ於テ其ノ不利ナル黙ニ附 否認スル所アルモ、
他ノ證據ニ依リ之ヲ認ムルニ難カラズ、
然ルニ之ガ反亂者ヲ利セムトスルノ意思ヨリ出デタル行爲ナリト認定スベキ證據十分ナラズ、
結局本件ハ犯罪ノ證明ナキニ歸スルヲ以テ、
陸軍軍法會議法第四百三條ニ依リ 無罪ノ言渡ヲ爲スベキモノトス。
よりテ主文ノ如ク判決ス。
昭和十二年九月二十五日
東京陸軍軍法會議
裁判長判士陸軍大將 磯村 年
裁判官判士陸軍大將 松木直亮
裁判官陸軍法務官 小川關治郎


眞崎談話 『 今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る 』

2020年11月24日 08時30分07秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放



眞崎大将談 
( 三月二十六日 )

「 荒木が病気で帰って居ると云ふ事で 今日見舞って来た。
 荒木は色々のデマで非常に迷惑して居る。
叛乱将校を事件前に
鈴木侍従長や渡辺に紹介して模様を調べさせたと云ふ様な説もあるので、

今日荒木に会って
君は紹介状でも書いた事があるかと尋ねたが、荒木は絶対にそんな事はないと言って居た。

どうも怪からん事をする人である。何とかして俺や荒木を陥れ様と謀りをる人がある様だ。
大体判って居るが そう云ふ人達の心裡は誠に気の毒なものだ。
俺は今回の事件には全く関係ないばかりでなく、事件の起ると云ふ事も全く予想は出来なかった。
俺が軍法会議の証人に出る前日だと思ふ、
或る大佐が尋ねて来たので最近の軍部の動静は心配ないかと聞くと、
某大佐は絶対に心配ない 御安心下さいと言はれたので 俺も安心して居った。
然るに事件のあった朝 午前六時半頃 陸軍大臣から速刻出て呉れと電話があった、
何事だろうと思って居ると其処へ海軍の加藤から陸軍が重大事件を起したと電話で知らせて呉れた。
当時自分は下痢を持って居たが、すぐ本省へ駆けつけたが、
厳重な歩哨に阻止せられて中々這入る事が出来なかった。
漸く大臣から呼ばれて来たのだと言ったら通して呉れた。

陸軍省前に現役や予備の将校 ( 山本又 ) が居て決起趣意書を出して
是非之を上聞に達して呉れと、ワイワイ言って居た。
省内に這入っても何れも周章狼狽の状態で、大臣が何処に居るやら判らなかった。
漸く川島に会えた。
川島にどうして此事件を収拾すると聞いたが、川島にも何等の成算もないので、
陸軍の事は陸軍の手で納めなければならぬ。
 何時迄もグズグズ出来ないではないか、
すぐ君の権限で軍事参議官会議を招集しろ。

又 岡田がやられたならば 当然総辞職だらうから、
君が閣僚を招集して閣議を開かなければなるまい

と 注意すると、早速参議官一同を招集する事になった。
又 加藤から 伏見宮軍令部長殿下の御殿に居るから
陸軍の模様を君から御説明して呉れと電話があったので、

すぐさま 御殿に参り 自分の見た状況や今後の見透し等を言上して見た。
すると 殿下は直ちに参内して陛下に奏上すると言れて御出掛けになられたので、
途中が不安心であるから自分も殿下に従った参った。
程なく宮中で閣議が開かれると云ふ事を耳にしたので、
後継内閣其他の為に是非共軍部の意嚮を閣僚に通して置かなければならぬ、
又 時局収拾の為め 直ちに戒厳令を実施しなければならぬと云ふ参議官一同の意嚮であったので 川島に通し、
又 閣僚共直接話し合ったが、どうしても話が合わない。
後で判った事だが、参議官の方では総理が全くやられたものと信じて居た。
然るに 閣僚の方では総理の生きて居る事が当時から判って居たので話しが合はなかったのであろう。
川島が閣議で色々主張したらしいが、閣僚の大部分は今直ちに戒厳令を実施する事は、
軍政府でも樹立する魂胆が軍首脳部にあるやの如く誤解せられた。
どうしても自分の説を聞いて呉れないと言って 非常に悲憤して居った。
世間では叛乱部隊が色々の要求を提案した様に伝へられて居るが、
決起趣意書以外には何等の要求はなかった。
唯 蹶起の趣意を軍事参議官に対し上聞に達して呉れと云ふ要求があった。
参議官でも色々相談の結果、上聞に達し 次の様な事を回答した。
㈠  決起趣意書は上聞に達した
㈡  諸君の真意は諒とする
㈢  参議官一同は時局の収拾に付き最善の努力をする
と 云ふ事を警備司令官を通して蹶起部隊に回答したのが、
其処に飛んでもない手違を生じてしまった。

( 註、このあたり欄外に書き込みあり、真崎談話の末尾に挿入 ・・原註 )
手違いと云ふのは、阿部が警備司令部の副官に今話した三点を、電話で復唱迄させて話してやったのに
どう考へたか 警備司令部では 「 ガリ版 」 に刷って関係方面に配った

処が第二の真意は諒とすると云ふのを行動は諒とすると印刷してあったのだ。
当時 陸、海軍部内に非常なる問題となって、
参議官が蹶起部隊の行動を諒とするは不都合千万だと大騒ぎとなったが、
阿部が当時の原稿を所持して居たので、間違であった事が明瞭になり問題も落着した。

俺は蹶起部隊を鎮静せしむるには飽く迄も兵火を交へずに説得するより他に道はないと最初から考へて居た。
他の参議官にも計ったが何れも自分の説に賛成であった。

二十七日の午前中 警備司令官 ( 香椎浩平中将 ) が来て、
蹶起部隊は閣下の説得ならば応ずるらしと云ふ情報があるから、
是非共其の衝に当って貰ひたいと云はれたが、
俺は眞崎個人としては嫌だ、其れでなくとも色々と宣伝の材料に使はれる。
若し 君がどうしても僕に働いて呉れと云ふならば、
個人同士の話でなく参議官一同の居る所で話て呉れと云ふと、
其れでは一同の前にてお願ひすると言って、参議官一同の居る部屋で更に其事を言はれたが、
俺は前の様な意味で一応の断りをした処が、
他の参議官が今此の非常事変の真最中 自分一個の毀誉褒貶きよほうへんにこだわる場合ではない、
是非共引受けて呉れないか、自分等も共に努力すると進められたので、
それでは引受けしよう、
然し 単身では嫌だ、誰か立会をして呉れと云ふと、西、阿部の二人が立会って呉れる事になり、
反乱将校の集合して居る首相官邸に参ると、十八名の青年将校の他 一聯隊長も居った。
青年将校に会って見たが、自分の知って居るのは二、三名に過ぎなかった。
そうして将校一同に対して、自分は軍事参議官だ。
参議官は陛下の御諮問があって初めて行動すべきで 御諮問のない以上は何等の権限はない。
普段は全く風来坊同様の身だ。
別段 陛下の御命令がある訳ではないが、
今回の君等の出かした事件に関し 座視するに忍ず、自分から進んで此処に来たのだ。
君等の考へを聞かせて呉れ。
大勢でも話しが纏まらぬだろうから誰か代表者を選んで呉れと云ふと、
野中大尉と他二名は仮代表となられて此の事件の善処策を俺に一任したいと言はれた
俺はお前等に一任せらるると言っても お前等の大部分は一面識もない、
然るに俺に一任すると云ふ理由は、
お前達の中に俺の教育した者が二、三ある、其縁故でお前達から一任されたと思うが、
お前達は大義名分を没却してはいけない。
俺が士官学校当時西郷南洲の例を引いて、大義名分の事に関しては常に話して置いた筈だ。
日本帝国では如何なる理由の下にも大義名分に反する行為は成り立たない。
お前達の蹶起の理由は例へどうあらうとも
今迄は 或は警備司令官の指揮下に警備の任に任じたと解釈出来るかも知れないが、
之れからはそうは行かぬ、
既に戒厳も令せられ、戒厳司令官は奉勅命令に依って君等を討伐に任に当る。
若し 之れに従はざる者は即ち御旗に反する事になる。
例へば戒厳司令官が其の挙に出てないとしても 老いたりと雖も此の真崎が承知しない。
第一線に立って君等の討伐の任に当る。
君等が兵卒を動かした事は何としても申訳ない。
今が潮時だらう。
君等の率ひた兵卒き決して四十七士ではない。
腹が減る 眠くなる。
従って君等に反する事になる。
最後は君等は丈で取り残された反逆者になる。
真に解決を俺に一任するならば解決の途は唯一つだ。
お前達は直に所属隊長の命に従って軍旗の下に復すべきだ。
他に何等の方法がないと、
俺は全く声涙共に下るの思ひで諄々と説得に努めた。
代表者は一時撤去して他の将校と協議して再び来て、
閣下のお言葉は能く判りました。必ず言葉通りに致しますと云はれたのだ。
俺も非常に安心して直ぐ司令官にその旨を伝へた。
司令官も非常に喜んで早速 陛下に奏上された。

然るに どう云ふ事であったか
二十七日の深夜になって自分との約束がすっかり屑くずにされて仕舞った。
自分は残念で堪らなん。
当時其事情はどうしても判らなかったが、今では多少判りつつある。
内部からも外部からも入れ智慧をした者がある様だ。
其の為めに遂に叛乱軍討伐に迄至ってしまった事は返す返すも遺憾千万である。
俺は左様に 全く今回の事件に就ては 一身を犠牲にして国家の為のみ御尽しした算つもり。
又 其の間の事情は軍首脳では充分承知して居る筈だ。
然るに俺や荒木が如何にも今回の事件の黒幕であるかの如く宣伝せられて居るのは心外で堪らん。
実に怪しからんと思ふ。
俺の処にも色々の方面から警告する者がある。
此の間も或る人から、憲兵隊や警視庁を盛んに 俺や荒木の行動を内偵して居るから注意しろと言はれたが、
僕は真に結構だ、調べれば調べる程 俺の本当の事が判る。
然しながら俺等を中心と考へて調べを進めて居る事は全く空な事だと言って置いた。
若し 憲兵隊や警視庁でそうゆう考へで調べを進めて居るとすれば 的外れも甚だしい。
今回の黒幕は他にある事は俺には判って居る。
然し 此処では言へない。
内地と満洲との間を屡々往復して居った者に少し注意すれば すぐ判る筈だ。云々
原註
実状と相違す、香椎戒厳司令官は宮中より参謀長 ( 安井藤治 ) に電話せり。
参謀長は福島 ( 久作 ) 参謀を招致し電話を一句一句筆記せしめ、且 最後に之を司令官に復唱、
承認を得たるものにして、其際第二項には 「 行動 」 と確かに伝へられたり。
思ふに当時宮中に会合しありし者の中に或は作為者ありしにあらずや。

・・安井藤次少将・備忘録  から

次頁
「 被告人眞崎甚三郎ハ無罪 」 に  続く


眞崎甚三郎大將判決全文 (九月二十五日陸軍省公表)

2020年11月23日 05時37分48秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


眞崎甚三郎大將判決全文
昭和十二年九月二十六日当局談 ( 陸軍省正午発表 )

軍はニ ・ニ六事件の発生に鑑み禍根を将来に絶滅せんことを期し、
為に直接事件の関係者はもとより、いやしくも事件に関係ありと認められるもの、
或はこれに関し疑いありと認められるものは悉く検挙し、
その取調べの結果に応じ、これを東京陸軍軍法会議の審理に付した。
右軍法会議審理の結果についてはすでに数次に亘りその都度公表したところであるが、
いよいよ本日をもつて眞崎大将に対する判決言渡しを終り、
ここに東京陸軍軍法会議に於ける被告事件一切の処理を完了した次第である。

陸軍省發表
東京陸軍軍法会議においては かねてニ ・ニ六事件に関し
「 叛乱者を利す 」 被告事件として起訴せらりし真崎大将につき慎重審査中のところ、
本九月二十五日無罪判決言渡しありたり。
右判決の理由の要旨左の如し。
判決理由
公訴事実に基き審理の結果、
眞崎大将は 明治三十一年六月二十七日 陸軍歩兵少尉に任ぜられ、
爾来累進して昭和八年六月十九日陸軍大将に任ぜられ、
同十一年三月六日待命、同月十日予備役仰付られたるものなるが、
その間 各種の要職に歴任し その士官学校在職中においては、
国体精神 及び 皇室観念の涵養かんように努め、
学術併進等を主旨とする実行主義を指導方針の根本義となすほど、
鋭意生徒の訓育に盡瘁じんすいせるが
一面夙に我国内外の情勢を按じ、文武官民上下互に相対立して統制を欠き、
而も戦備国防の欠陥は外交上の支持に悪影響を及ぼすの虞おそれあるを憂い、
之が匡救の途は
一に国策遂行の為に必要なる気魄実力を具備せる 所謂協力内閣の実現に依るべしとなし、
若し此際誤つて軟弱不断の者 その局に当り、
いやしくも外交に懦弱なじゃくの態度を暴露せんか、
流血の惨を見ること無きを保せず、
国家の前途深憂に堪えずと断じたるものなる処、
予て本人を深く欽慕崇敬せる一部青年将校の間に、
所謂特権階級を打倒し、国家の革新を目的とする昭和維新の運動漸次濃厚と為り、
就中、陸軍歩兵大尉 香田清貞、同 村中孝次、陸軍一等主計 磯部浅一、
陸軍歩兵中尉 栗原安秀 等は 北輝次郎、西田税 等より 矯激なる思想の感化を受け、
所謂 昭和維新断行の為には非合法的手段 亦 敢て辞すべきに非ずとなし、
玆に同志 相結束して連絡会合を重ね、又 同志の獲得指導に努め、
陰に維新断行の機運促進を図り居たる折柄、
昭和十年七月本人が教育総監を免じ 軍事参議官に専補せらるるや、
村中孝次、磯部浅一等は此の更迭に付、頻に当局非難の気勢を挙ぐるに至り、
本人は之等の情勢を推知しながら其の頃屢々本人の許に出入せる陸軍少将 平野助九郎等に
總監更迭の内情を語り 且 痛く憤懣の情を表すと同時に、其の手続上、当局に不当の処置ありと力説し、
之に依り村中孝次、磯部浅一が当局を非難せる教育總監更迭事情等に関する不穏文書を頒布し、
為に青年将校同志の該運動、一層尖鋭化するに至れり。
次で同八月、陸軍歩兵中佐相澤三郎の陸軍省軍務局長永田鉄山殺害事件の勃発するや、
一部青年将校等は深く此の挙に感奮すると共に、教育總監更迭の背後に一部重臣、財閥等の陰謀策動ありと為し、
而も重臣等は超法的存在にして、合法的手段を以てしては目的の達成不可能なりとし、
国法を超越し直接行動を以て之を打倒し、
一部軍上層部を推進して国家を革新せんとするの運動、日に熾烈を加えたり。
斯くて昭和十年十二月頃より村中孝次、磯部浅一、香田清貞、栗原安秀 及び渋川善助等が
第一師団将兵の渡満前、主として在京同志に依り速かに事を挙ぐるの要ありと為し、
其の準備に着手し、相澤中佐の公判を機会に蹶起機運を促進せんとし、
特権階級に極度の非難攻撃を加え、又 相澤中佐の行動精神を宣伝し、
以て同志蹶起の決意を促さんとするや、
本人は同人等の間に瀰漫びまんせる不穏の情勢を察知しながら、
イ、昭和十年十二月、
 陸軍歩兵中尉 對馬勝雄の来訪を受けたる際、
 同人に対し、教育總監更迭問題に付ては尽すべき所を尽したるのみならず、
 同更迭には妥協的態度に出でず、最後迄強硬に反対せり。
 尚 自分は近来其の筋より非常の圧迫を受けて居るが、
機関説問題に付ては真面目に考慮するの必要ある旨を説き、
ロ、同月二十四日頃、磯部浅一 及び陸軍歩兵大尉 小川三郎と自宅に於て面接せし際、
 興奮せる態度を以て総監更迭に付、相澤中佐は命迄捧げたるが自分は其処迄は行かざるも、
 最後まで強硬に反対せし旨を告げ、
 次で小川三郎が国体明徴問題 及び相澤公判にして巧く運ばず、
 其の儘放置するが如き場合には血が流れるひともあるやも知れざる旨を述ぶるや、
 両名に対し確に然り、血を見ることもあるやも計らざるが、
 自分が斯く言えば青年将校を煽動するが如く認めらるる故 甚だ困る次第なりと語り、
ハ、同月二十八日頃、香田清貞より国体明徴問題等につき聴取し、
 青年将校の之に対する努力未だ足らずと難じ、
 又 憤懣の態度を以て教育総監更迭には最後迄反対せる旨を述べ、
 尚 相澤中佐の蹶起精神を称揚し深く道場の意を表し、
 同中佐の公判には統帥権問題に付証人として起つべき旨
 及 教育総監 陸軍大将 渡辺錠太郎が其位置を退くことになれば都合好く運ぶ旨を説き、
ニ、同十一年一月、相澤中佐の弁護人 陸軍歩兵中佐 満井佐吉に、
 教育總監更迭には最後迄反対せし旨 其の他 同更迭の経緯等につき述べ、
 又 当日の公判には喜んで証人と為る旨を告げ、
 次で翌二月同じ満井佐吉の来訪を受けたる際 同人より現在軍の蟠わだかまり、
 国家の行詰り等 甚しき為、青年将校の運動の激化する状況に付、之を聴取し、
ホ、同年一月二十八日頃、
 磯部浅一が本人を其の自宅に訪ね、
 教育總監更迭問題に付ては飽迄努力する旨を述べ、
 金千円 又は 五百円の資出を請うや都合する旨を答え、
 爾来 青年将校同志は、東京市内各所に会合を重ね
 実行に関する諸般の計画 及 準備を進める一方、
 陸軍歩兵大尉 山口一太郎 及び民間同志 北輝次郎、西田税、亀川哲也 等と連絡を執り、
 蹶起直後、亀川哲也は真崎 及び 山本英輔 等に対し、
 又 山口一太郎 及び西田税は夫々要路に対し蹶起の目的達成の為工作を為すべき手筈を定め、
 遂に昭和十一年二月二十六日払暁、
 村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄 及び栗原安秀 等が
 近衛、第一師団の一部将兵と共に兵器を執りて一斉に蹶起し、
 叛乱を決行する間に於て本人は、
一、昭和十一年二月二十六日午前四時三十分頃
 自宅に於て、予て ニ、三回本人を訪ね、
 青年将校の不穏情勢を伝え居たる亀川哲也の来訪を受け、
 同人より今朝青年将校等が部隊を率いて蹶起し、内閣総理大臣、内大臣等を襲撃するに付、
 青年将校等の為 善処せられ度く、
 又 同人等は大将が時局を収拾せれるる様希望し居れば、
 自重せられ度き旨懇願せられ、
 玆に皇軍未曾有の不祥事態発生したることを諒知し、
 之に対する処置に付 熟慮し居たる折柄、
 陸軍大臣よりの電話招致に依り、同日午前八時頃 陸軍大臣官邸に到り、
 同鑑定に於て、
1  磯部浅一より蹶起の趣旨 及び 行動の概要に付報告を受け、
 決起趣旨の貫徹方を懇請せらるるや
 「 君達の精神は能く判つて居る 」
 と答え、
2  陸軍大臣川島義之と村中孝次、磯部浅一、香田清貞 等 叛乱幹部との会見席上に於て
 蹶起趣意書、要望事項 及び 蹶起者の氏名等を閲覧し、
 香田清貞より襲撃目標 及び 行動の概要等に付 報告を受けたる後、
 同人等に対し、
 「 諸君の精神は能く判つて居る、自分は之よりその善後処置に取掛る 」
 と告げて官邸を出て、
ニ、同日午前十時頃参内したる際、
 侍従武官長室に於て陸軍大臣 川島義之に対し、
 蹶起部隊は到底解散せざるべし、此の上は詔勅の渙発を仰ぐの外なしと進言し、
 又 其の席に居合わせたる他の者に対し、同一趣旨の意見を強調し、
 三、同日夜、陸軍大臣官邸に於て前記満井中佐に対し、
 宮中に参内し 種々努力せしも却々思う様に行かざるを以て彼らを宥なだめよと告げ、
 、翌二十七日、
 叛乱将校等が北輝次郎、西田税より
 「 人無し 勇将眞崎あり、正義軍一任せよ 」 との霊告ありとの電話提示に依り、
 時局収拾を眞崎大将一任に決し、軍事参議官に会見を求むるや、
 本人は同日午後四時頃、陸軍大臣官邸に於て軍事参議官阿部信行、同 西義一 立会の上、
 叛乱将校十七、八名と共に会見の際、
 同将校等より事態収拾を本人に一任する旨申出で、
 且 之に伴う要望を提出したるに対し、
 無条件にて一切一任せよ、誠心誠意努力する云々の旨を答えたり。

以上の事実は、本人に於て其の不利な点に付否認する所あるも、
他の証拠に依り之を認むるに難からず、
然るに之が叛乱者を利せんとするの意思より出でたる行為なりと認定すべき証憑しょうひょう十分ならず、
結局本件は犯罪の証明なきに帰するを以て、
陸軍軍法会議法第四百三条に依り 無罪の言渡しを為せり。

河野司編 ニ ・ニ六事件 獄中手記遺書 から


拵えられた憲兵調書 「 眞崎黒幕説は勝手な想像 」

2020年11月20日 05時06分21秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


「 お前らの心はようッく分つとる 」
有名な、眞崎大将の
「 お前らの心はようッく分つとる 」 という文言は、磯部さんの行動記にある言葉だが、
「 行動記 」 そのもので、戦おうとした 囹圄の身の磯部さんの唯一の そして必死の戦術であったこと、
つまり、事件に直接、眞崎さんを引き込むことで、北、西田を救おうとした磯部さんの気迫である。
したがって嘘もあった。
この点は、後日、磯部さんは眞崎さんに申し訳ないと言っている。
小説家立野信之は 「 叛亂 」 の第9章のタイトルに、此の言葉を使った。
そして、この本で昭和28年、立野は第28回直木賞を手に入れた。
日本人は、それ以来、眞崎大将がそういったものと信じている。
実際はどうだったか。
眞崎大将の護衛のため、眞崎大将の自宅からの車に同乗し、
眞崎大将とともに陸軍省に入った陸軍憲兵伍長の金子桂さんによれば、
眞崎さんは相当怒っておられ、怒りをあらわに、青年将校たちに 「 馬鹿者!」 と いったとのことである。
金子さんはそれを書かれたし、私もそれを金子さんから直接聞いている。
・・・リンク→傍聴者 ・ 憲兵 金子桂伍長 

推理を込めた歴史書 1965年に発売された高橋正衛氏の中公新書 「 二・二六事件 」
の 「 彼らをつきうごかしたもの 」 のなかに 「 眞崎甚三郎 」 の野心があったと断定する。
黒幕は眞崎だというのである。
そして このことは、
膨大な証言資料を集めた松本清張を経て、
澤地久枝の 「 雪は汚れていた 」 を頂点に推理が進められた。
結論から言えば、何もなかった
しかし、一般の国民は、眞崎という黒幕がいたという印象を確信した。
澤地は大量の本を売り、NHKや文部省から表彰を受け、朝日新聞は一面で新事実と書きたてた。

しかし、事実は何もなかった
東京地検の地下に 「 公判資料 」 が あるらしいと報道されたころだった。
そんな中、澤地は、匂坂法務官が遺した資料が、
「 これが最後の資料で、他には存在しない 」
と 言い切って、
「 新事実も出なかった 『 雪は汚れていた 』 」 を 売り逃げしたのである。
二・二六事件の資料は他には存在しないと言い切った澤地は、
「 歴史学者でもない匂坂法務官の子息がそういった 」 ということを根拠に書いている。
物書きの文章は上手い。
 澤地久枝

そもそも、高橋正衛の眞崎黒幕論は、
1989年2月、末松太平氏の立会いのもと、
高橋は、「 眞崎甚三郎 」 研究家の山口富永に対し、
「 あれは私の勝手な想像 」 と 平然と言ったのである。
この黒幕を求めて、日本の黒い霧を書いた 「 松本清張 」 が 必死になるのは已むをえまい。
ただ副産物として、事件に関連する方たちのインタビューや、様々な資料の収集物は残った。
父のところまで、清張の事務所のひとが、インタビューに来たのを覚えている。

久野収を信奉する高橋という人の一言が生み出した25年間の 「 二・二六事件黒幕探し 」 は 今もかすかに脈動している。
末松建比古 1940年生 ( 末松太平 長男 )
ブログ  ◎末松太平事務所 ( 二・二六事件関係者の談話室 )
から
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< 眞崎大將の事件関与 >
事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して匂坂春平陸軍法務官らがこれに當たった。
黒幕と疑われた眞崎甚三郎大將 は、
昭和十一年三月十日日に眞崎大將は豫備役に編入され、
東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らに取調べを受ける。
昭和十一年十二月月二十一日
、匂坂法務官は、眞崎大將に關する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。
昭和十二年一月二十五日に反亂幇助で軍法會議に起訴されたが否認した。

   小川関治郎              湯浅倉平
   陸軍法務官              内務大臣

小川関治郎法務官は湯浅倉平内大臣らの意向を受けて、
眞崎を有罪にしたら法務局長を約束されたため、極力故意に罪に陥れるべく訊問したこと、
小川が磯村年裁判長 ( 寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任 ) に對して、
眞崎を有罪にすれば得することを不用意に口走り、
磯村は大いに怒り 裁判長を辞すと申し出たため、陸軍省が狼狽し、
杉山元 ( 寺内寿一の後継陸相 ) の仲裁で、要領の得ない判決文で折合うことになった。
論告求刑は反亂者を利する罪で禁錮13年であったが、昭和十二年九月二十五日に無罪判決が下る。
磯村年大将は、
「 眞崎は徹底的に調べたが、何も惡いところはなかった。だから當然無罪にした 」
と 戦後に證言している。

「 被告人眞崎甚三郎ハ無罪 」 

拵えられた 憲兵調書


村中孝次
二十七日午後 眞崎大将等ニ官邸ニ來テ頂イテ一任シタ事ノ經緯ヲ述ベヨ

私ハ軍事參議官ガ國體顯現ニ邁進セラレアルコトハ承知シテ居リマシタガ、
其中心點ガハツキリシナイト感ジ、
又 陸軍ガ大臣ヲ中心トシテ動イテ居ルカニ就テモ疑問ヲモチ、
更ニ又、此大臣ニ本時局ヲ切リ抜ケル事ガ出來ルカドウカモ疑問ヲ持ツテオリマシタカラ、
誰カ勇猛果敢ニテ時局ヲ担當シテ収拾シテ頂キタイト考ヘテ居リマシタ。
當日正午前後 私ガ首相官邸ニ行キマシタ時、
磯部カラ北ノ靈感ニ 「 眞崎ニ一任セヨ 」 トアツタト聞キ、
之ニ ヒントヲ得テ時局収拾ヲ眞崎大將ニ一任シヨウト考ヘ 皆トモ相談ノ結果、
軍事參議官全部ニ御集リヲ願ツテ全將校ノ意見トシテ オ頼ミスルコトニナリ、
ワタシガ此ノ旨ヲ小薗中佐ニオ願ヒシタノデスガ、
軍事參議官ハ三人丈ケオ出ニナリマシタニ過ギマセンデシタ。
其時 野中大尉ガ述ベマシタ事ハ次ノ三點ニ在リマシタ。
1、眞崎大將ニコノ時局収拾ヲ一任スルコト。
2、他ノ軍事參議官モ之ニ同意セラレタキコト。
3、コノ意見ハ蹶起將校ト軍事參議官全部トノ一致ノ意見デアルコト 天聽ニ達シテ頂き度キコト。

今度ノ靑年將校等ガ眞崎大將ニ對スル信頼甚ダ強キモノガアリ、
今度ノ事件ニ於テ二十六日眞崎大將ノ招致ヲ希望シ

又 二十七日ニハ時局収拾ヲ一任シテヲルガ、コノ眞崎熱ハ如何ニシテ起リタルヤ
私共ハ荒木、眞崎ノ兩大將ニハ、思想的ニモ人格的ニモ敬服シテオリマス。
兩將軍共其人物観ハ前ニ申述ベタ通リデアリマスガ、
眞崎大將ハ實行力アリ、決斷力アリト信ジテ居リマシタ。
更ニ又兩將軍共吾々ノ思想ヲヨク理解サレテ居ツタノデアリマス。
從テコノ時局ニ中ツテハ陸軍ノ誰カニ其収拾ヲヤツテ頂クトナレバ、
眞崎大將ヨリ外ニ人ヲ求メ得ナイト云フ事ニナルノデアリマス。
尚 眞崎サンハ平素軍部内ニ不平ガ多イカラ、
内閣ノ首班トカ陸相トカニナツテモ駄目カモ知レナイケレドモ、
時局ヲ収メルダケノ實行力ハ有シテイルト思ヒマシタ。
シカシ今申上ゲマシタ様ニ必ズシモ眞崎内閣ニトラハレル要ハナイノデスガ、
大將ハ陸軍ノ一致點ヲ見出スコトガ出來ルカラ、總理ニナレバ一番ヨイトモ思ヒマシタ。

眞崎大將ニ時局ヲ収拾シテ頂クト云フコトヲ具體的ニ述ベテミヨ
眞崎大將ヲ中心ニシテ、即三長官モ外ノ軍事參議官モ皆眞崎閣下ニ一任シテ、
蹶起部隊ノ行動 及 爾後ノ時局ヲ収拾シテ頂ク考ヘデアリマス。
大將ナラ我々ノ精神モヨク判テ下サルシ、蹶起部隊ヲサゲルニ附テモ政治工作ヲシテ、
アト我々ノ志ハ話して呉レタラウト漠然ト、ソウ考ヘタノデ、
大將ニ時局収拾ヲ一任シタイト申出タノデアリマス。
眞崎大將ノ御宅ニハ一昨年二回參リマシタ。
内一回ハ玄關丈デ歸リ、一回ハ一時間半許リ話シマシタ。
又 大將ハ敎育總監時代、國體明徴ニ關スル訓示ヲ出サレタノデ、之ヲ見タリ
又 間接ニ平野助九郎少將カラモ閣下 ( 眞崎大將 ) ノ人物ヲオ聽キ致シ、
我々ノ考ト同ジデアルト云フコトハ思想信念ニ關シテ同ジデアルト云フ意味デアリマス。
・・・村中孝次憲兵聴取書


磯部淺一
其ノ方ガ二月二十六日朝、陸相官邸前ニ於テ眞崎大將を迎ヘタル狀況ヲ述ベヨ
當日午前八時半ダト思ヒマスガ、官邸正門前ニ私ガ立ツテ居リマスト自動車ガ來マシタカラ、
私ガ行ツテミマスト、眞崎閣下デアリマシタ。
下車サレルト同時ニ私ハ 「 狀況ハ御存知デアリマスカ 」 ト 聞キマスト閣下ハ
「 うん 」 ト丈 申サレマシタノデ私ハ、知ツテ居ルノカ居ラナイノカ判ラヌノデ、
襲撃目標ノ事は云ウタ様ニ記憶シマス。
ソシテ私ハ、「 善処ヲ願ヒマス 」  ト 申シマスト閣下ハ、
「 お前達ノ精神ハヨウ分カツトル 」 ト云フ事ヲ二度三度續ケテ云ハレタ事ハ ハッキリ覺エテ居リマス。

其ノ時 其ノ方ガ大將ヲ案内シテ官邸内ニ入ッタノデハナイカ
ハッキリトシマセンガ案内シタラウト思ヒマス。

其ノ際 護衛憲兵ノ報告ニヨルト、「 落チツイテ落チツイテ 宜シイ様ニ取計フヨウ 」 ト 言ハレタト云フガ事實カ
ソウ言ウ様ナ事ハ云ツテ居ラレタト思ヒマスガ、
當時ノ事デスカラ ハッキリ記憶ニハ殘ツテ居リマセン。
タダ 「 落附キテ 落附キテ 」 ト 云ツテ居ラレタ事ハ事實デアリマス。

本事件ニ關聯シ眞崎大將ニ對スル其方ノ所見ヲ述ベヨ
私共ノ目指ス処ハ維新ノミデアリマス。
眞崎ガ統帥權干犯ニ憤慨シ靑年將校ヲ利用スベク接近シ、
或ハ靑年將校ト會見シ、或ハ金錢ヲ交附シ、
或ハ磯部、村中ノ身上ヲ元ニ還ス事等口走ル等、
私共靑年將校ニ働き掛ケテ來る事ハ明瞭ナル事實デアリマス。
・・・磯部淺一憲兵聴取書


香田清貞大尉
眞崎大將訪問ノ際ノ内容ニ就キ詳細ヲ述ベヨ
昨年十二月二十八日デアツタト思ヒマスガ、眞崎大將ヲ訪問シタ時ニ話ガアリマシタ。
眞崎 「 國體明徴ニ關シ如何ニ考ヘアリヤ 」
吾々ノ維新運動トハ國體明徴トハ一體不可分ノモノデアツテ、之ノ問題ガ世上ニハゲシクナツタ事ハ
維新運動ガ始メテ本筋ニ這入ツタモノデアル。
從テ私共ハ之ノ問題ヲ捕ヘテ マッシグラニ各方面ニ亘リ實現ニ努力スル考ヘデアリ、
又 努力シツツアリマス。
右ノコトヲ私が申シ上ゲマスト、眞崎大將ノ言ハ簡單デアリマシテ、
其ノ言葉ハ覺ヘテ居リマセヌガ、維新運動ノ事ニ關シテモ私ノ意見ニ同意セラレタ様デアリマス。
確カ 「 ソーダ 」 ト 云ツタ様ニ覺ヘテオリマス。

其ノ時ニ於ケル大將トノ會談内容ヲ述ベヨ ( 昭和十年十ニ月二十八日 )
「 靑年將校ノ活動ガ足ランノデハナイカ 」 ト 云フ事ヲ仰言イマシタ。
之ニ對シ私ハ、
「 國體明徴ノ問題ハ
 私共ノ考ヘテ居ル維新運動ガ本筋ニ入ツテ來タト云フ事ヲ感ジテ非常ニ喜ンデ居ルト共ニ、
益々活動ヲシテ居リマス、
靑年將校ハ眠ツテ居ル譯デハナク、上下左右十分ニ活動シテ居リマスガ、
至ル処 壓迫ヲ受ケテ進展ヲ見マセン 」
ト 申シマシタ。
此ニ對シ閣下ノ御言葉ハ ハッキリ今覺ヘテ居リマセンガ、
閣下ノ御言葉ハ
「 靑年將校ノ活動ガ足ラント云フ事、著眼ガ惡イ 」
ト 云フオ考ヘデアツタカト思ヒマスガ、
兎角活動ガ十分ナラズトシテ御不満ノ様デアリマシタ事ハ事實デアリマス。
ソレデ私ハ 「 今後益々努力致シマス 」 ト 答ヘマシタ。
尚 敎育總監更迭ノ狀況ヲオ話サレル時ハ大將ノ態度ハ非常ニ憤懣ノ
様デアリマシタ。

其ノ方ハ右ノ會見ニ於テ如何ナル印象ヲ受ケタルヤ
・靑年將校ノ活動ガ足ラナイト云フ強イ意見ヲ持ツテ居ラルルト云フコト。
・七月ノ統帥權干犯ニ就テ非常ニ怒リヲ感ジテ居ラレルコト。
・閣下ノ身邊ハ各種ノ勢力ニ依ツテ壓迫拘束セラレテ居ッテ、閣下御自身ノ活動ハ目下出來ナイ狀況ニアルコト。
・靑年將校ノ活動ガ甚ダ不活潑ノ様ニ感ジテ居ラレルコト。

右ノ會見ニ於テ其ノ方トシテハ、ドウイウ風ニ向ッテ今後行カネバナラヌトイウコトヲ感ジタカ
モウ一回努力シヨウ、
ソレデモ靑年將校ノ意見ガ通セズ、大權干犯ニ對シ國民ノ自覺ヲ喚起スル事ガ出來ナイ場合ハ、
國家内外ノ情況カラ判斷シテ、一刻モ猶豫ナラナイ大事デアルト感ジマシタ。

一刻モ猶豫ナラナイ大事デアルト感ジタトイウ事ハドウイウ事カ
ドウシテモイカナケレバ 劍ニ依ツテ解決スルヨリ外方法ナシト強ク感ズルニ至リマシタ。
・・・香田清貞憲兵聴取書


山口一太郎大尉
( 二十六日 ) 午前八時頃ニナリマスト、後ロノ方ガザワザワスルノデ振向クト眞崎大將ガ入ツテ來ラレマシタ。
若イ將校ハ一同不動ノ姿勢ヲトリ久シ振リデ歸ツテ來タ慈父ヲ迎ヘル様ナ態度ヲ以テ恭シク敬礼ヲシマシタ。
附近ニ居ラレタ齋藤瀏少將ハ 「 ヤア ヨク來ラレタ 」 ト 云フ聲ヲ掛ケラレルト 、
眞崎大將ハ 左の大臣ニ一寸目礼ヲシタ儘 直ニ齋藤少將ノ方ヘ進マレマシタ。
齋藤少將ハ例ノ大聲デ 「 今暁 靑年將校ガ軍隊ヲ率ヒテ、コレコレシカジカ ノ目標ヲ襲撃シタ 」
トテ大體ノ筋ヲ話シタ上、
「 此ノ行ヒ其ノモノハ不軍紀デモアり、皇軍ノ私兵化デモアルガ、
僕ハ彼等ノ精神ヲ酌シ
又 斯ノ如キ事件ガ起ルノハ國内其ノモノニ重大ナル欠陥ガアルカラダト考ヘ、
此際 靑年將校ノ方ヲドウコウスルト云フヨリモ、
モットモット
大切ノ事ハ國内ヲドウスルカト云フ事ダト云フ事デ、今大臣ニ進言シテ居ル所デス。
斯ノ如キ事態ヲ処置スルノニ閣議ダノ會議ダノ平時ニ於ケル下ラヌ手續キヲツテ居ツテハ間ニ合ハヌ。
非常時ハ非常時ラシク大英斷ヲ以テドシドシ定メナケレバナラヌと思ヒマス 」
ト 云フ様ナ意見ヲ陳ベラレマシタ。
其ノ間 眞崎大將亦大キナ声デ、
「 ソウダソウダ、成程行ヒ其ノモノハ惡イ、然シ社會ノ方ハ尚惡イ、
起ツタ事ハ仕方ガナイ、我々老人ニモ罪ガアツタノダカラ、之カラ大ニ働カナケレバナラヌ、
又 非常時ラシク、ドシドシヤラネバナラヌ事ニモ同感ダ 」
ト 云様ニ大變靑年將校ニ同情ノアル同意ノ仕方ヲサレマシタ。
次デ大臣トノ短イ言葉デ話ヲ交サレマシタ。
「 大體今齋藤君カラ御聞キノ通リダ 」
「 將校ノ顔ブレハドンナモノカ 」
「 此所ニ書イタモノガアル 」
ト云フテ紙片ヲ渡サレルト、眞崎大將ハ暫ク夫レヲ眺メ、
又 決起趣意書トカ靑年將校ノ要望事項ノ原稿トカ云フモノニモ頷キナガラ目ヲ通シテ居ラレマシタ。
ソレカラ
「 カウナッタラカラハ 仕方ガ無イジャナイカ 」
「 御尤モデス 」
「來ルベキモノガ來タンジャナイカ、大勢ダゼ 」
「 私モソウ思ヒマス 」
「 之デ行カウジャナイカ 」
「 夫レヨリ外 仕方アリマセヌ 」
「 君ハ何時參内スルカ 」
「 モウ少シ模様ヲ見テ 」
「 僕ハ參議官ノ方ヲ色々説イテ見ヤウ 」
ナドノ話デ、其ノ他 兩大將トモ靑年將校ニ對シ同情ノアル話振デアリマシタ。
眞崎大將ハ暫ク富士山ノ室 ( 陸相官邸 ) ニ居ラレ、九時カラ九時半頃ノ間ニ出テ行カレタ様デアリマス。
「 サア 出掛ケル 」 ト云ツテ椅子ヲ立タレタ時私ハ、
「 閣下 御參内デスカ 」 ト伺フト
「 イヤ 俺ハ別ノ方デ骨折ツテ見ヤウト思ツテ居ルノダ 」
トノ御返事デアリマシタカラ私ハ、之ハ大臣ノ別動隊トナツテ軍事參議官方面ヲ説イテ下サルノダト直感シマシタ。
其ノ時私ハ眞崎大將ニ
「 手段ハ兎モ角トシテ 精神ヲ生カシテヤラヌト カウ云フ事ハ何回デモ起コリマス、宜シク御願シマス 」
ト 早口ニ申シマスト、大將ハ 「 判ツトル、判ツトル 」 ト 云ハレマシた。

今回ノ事件ニ際シ 蹶起將校等ノ趣旨目的ヲ貫徹スル爲ニ努力シタ人名擧ゲヨ
將官級デハ 眞崎大將、齋藤少將、山下少將、此等ハ可ナリ積極的ニ昭和維新ノ爲活躍セラレタ様ニ思ヒマス。
・・・山口一太郎豫審調書


満井佐吉中佐
二月二十六日夜陸相官邸大臣副室ノ廊下ノ前ダツタト思ヒマスガ、
向フカラ眞崎大將ガ來ラレルノニ會ヒマシタ。
ソノ時大將ハ 「 副官ニ君を捜ガサシタガ居ラナカッタカ 」 ト 云ハレ、
「 僕モ宮中ヘ行ツテ見タガ、宮中ノ事ハ中々思フ様ニイカヌカラ 彼等ヲナダメテ貰ヒタイ 」
ト 云フ意味ノ話ガアリマシタ。
其ノ際 大將ノ御言葉ハ忘レマシタガ
何デモ 「 宮中デ努力ヲシテ見タガ思フ様ニ行カヌ 」
ト 云フ意味ノ言葉ガアリマシタ。
・・・満井佐吉歩兵中佐憲兵聴取書


川島義之大將
今回蹶起シタ靑年將校モ眞崎大將ノ教育総監更迭問題ニ憤慨シテ居リ、
又 相澤中佐ニ同情シテ居ル様デアルガ其點ニ於テ眞崎大將ハ青年将校ト同一傾向ヲ持ツテ居ルモノト思ハルルガ如何
其ノ様ナ傾向モアツタ様ニ思ハレマス。

二十六日朝、蹶起將校ガ眞崎大將ヲ招致シテ呉レト云ッタノハ何故カ
眞崎大將デモ來テ呉レタナラバ、有利ニ展開スルカノ様ニ思ツタ爲デハナカラウカト思ヒマス。

眞崎大將ガ來レバドウシテ有利ニ展開スルト思ハレタカ
コレモ私ノ判斷デアリマスガ、
眞崎大將ト彼等蹶起將校トノ間ニハ以前互ニ相通ズル點ガアツタ様ニ思レタカラデアリマス。

宮中ニ於テ眞崎大将ハ大詔渙發ヲ仰ギ維新ヲ促進シナケレバナラヌト云ッテ居ル様ダガ如何
大詔渙發ヲ仰ガネバナラヌト云フコトハ述ベラレタカモ知レマセンガ、只今其ノ記憶ハアリマセン。

本件ニ關シ他ニ參考トナル様ナコトハナイカ
眞崎大將ニ嫌疑ガアル様デアリマスガ、以前カラノ關係カラ見マスレバ、
同大將ト若イ一部ノモノトハ精神的ニ一部通ズル所ガアルカモ知レマセン。
・・・川島義之大將豫審調書


河合操大將
私ガ樞密院顧問官控所ニ行ツタノハ二十六日午前九時半頃デ、
其ノ時誰モ未ダ來テ居リマセヌデシタガ、其ノ内ニ、石塚顧問官ガ來リ、
次デ午前十時頃、平沼副議長ガ見エマシタ。
然シ何レモ狀況ガ判リマセヌノデ私ハ、侍從武官長ニ様子ヲ尋ネテ來ヤウト申シ、
平沼議長ヨリ、デハ左様ニ願フト云ハレマシタノデ侍從武官長室ニ參リマシタ所、
某所ニハ本庄武官長ハ居ラズ、眞崎大將一人ダケガ立ツテ居リマシタ。
間モナク川島陸相ガ同室ニ來リ 續テ本庄武官長ガ歸ツテ來テ川島ノ背後ニ立ツテ居リマシタ。
ソウシテ川島陸相ヨリ當日朝 四、五名ノ蹶起將校ト面會シタルコト、
近歩三、歩一、歩三 等ヨリ千四、五百名ノ軍隊ガ出動シテ目的ノ重臣顯官ヲ殺害シタルコト、
茲ニ彼等ヨリ皇軍相撃シナイ申出アリタルコト 等ニ關シ話ガアリ、
且 蹶起趣意書 及 行動計畫書等ノ書類ヲ見セラレマシタ。
其ノ時 眞崎大將ハ川島陸相ニ對シ、
「 蹶起部隊ハ到底解散ヲ肯キ入レヌダラウ、此ノ上ハ 詔勅ヲ渙發サレネバナラヌ  詔勅ヲ仰グヨリ外ニ途ハナイ 」
ト 申シ、
更ニ其ノ場デ誰ニ云フトハナク居合シタ者ニ對シ 同一趣旨ノ事ヲ繰返シ繰返シ鞏調シテ居リマシタ。
川島陸相ハ之ニハ答ヘズ 私ニ對シ、
「 事ニ依ルト戒嚴令ヲ布カネバナラヌカモ知レヌカラ、何レ閣議ニ諮リ御願ヒスル考デアル 」
ト言ヒマシタカラ 私ハ、
「 既ニ平沼副議長モ來テ居ラレルシ、他ノ顧問官モ追随來ラレタラウカラ、
サウ云フ事ナラ解散セズニ待ツテ居ルガ、何時頃ニナルカ 」
ト 聞キマスト 陸相ハ、
「 大臣モ集ル事ニナツテ居ルガ、今 川崎文相ト大角海相ノミデ他ノ閣僚ハ未ダ來テ居ラヌノデ、
何時ニナルカ判ラヌガ、顧問官ガ退下サレルト再度參集ハ中々困難デアルカラ、
夫レ迄 退下サレヌ様ニ御盡力サレタイ 」
ト 申シマシタノデ私ハ承知シテ置キマシタ。
此時 陸相ノ許ヘ 御上ノ御都合宜シキ旨申シテ來マシタノデ、
陸相ハ同室ヲ出ル様子ガ見ヘマシタノデ、私モ出マシタガ、
廊下デ奈良大將ニ會ヒマシタ、挨拶ダケデ別レ モノモ言ハズシテ顧問官ノ室ニ歸リ、
陸相ヨリノ話ヲ他ノ顧問官ニ告ゲタ上、引續キ宮中ニ在リテ戒嚴ニ關スル御諮詢ヲ待ツテ居リマシタ。
ソシテ午後十一時頃ニ至り樞密院會議ガ開カレル運ビニナリ、
同十二時前頃決定シタノデ其ノ布告後歸宅致シマシタ。
歸ツタノハ二十七日午前一時過頃デアリマシタ。

眞崎大将ノ言ハレタ詔勅ノ意義如何
ソレハ如何ナル意味ノモノデアルカ聞キマセヌデシタガ、
勿論彼等ノ希望シテ居ル様ナ意味ノ 詔勅デアリ、
又 其ノ様ナ事ハ彼ノ言ヒサウナ事デアルト思ヒマシタ。
・・・河合操枢密院顧問官陸軍大将 検察官聴取書


古荘幹郎中將
( 二月二十六日 ) 午前八時過頃 眞崎大將ガ來邸シ大臣ノ前ニ來テ
立ツタ儘 卓ノ上ノ蹶起趣意書ヤ希望事項等ヲ手ニ取ツテ讀ンデ居ラレマシタ。
スルト齋藤少將デアツタカ香田デアッタカヨク記憶シテ居リマセヌガ、
眞崎大將ニ向ヒ何カ言ヒ掛ケタ処 同大將ハ、夫レヲ手デ押ヘル様ニシテ、
「 諸君ノ精神ハヨク判ツテ居ル、俺ハ之カラ其ノ善後処置ニ出掛ケルカラ 」
ト言ツテ居リマシタ。
・・・古荘幹郎陸軍次官予審調書


村上啓作大佐
軍事參議官會議ノ開カレタノハ午後一時半前後カト思ヒマス。
先ヅ川島陸相カラ今朝來ノ狀況ニ附テ話ガアリ、
尚大臣ニ對スル彼等靑年將校ノ要望事項ニ附テ述ベラレ
御意見ヲ伺ヒタイ、ト云フ意味ノコトヲ申サレマシタ。
之ニ對シ 香椎警備司令官ガ意見ヲ述ベラレ、
其話ノ後 眞崎大將ハ
「 叛亂者ト認ムベカラズ、討伐ハ不可、但シ以上ハ御裁可ヲ必要トスル 」
旨ヲ述ベラレマシタ。
・・・村上啓作軍事課長檢察官聴取書


戒嚴司令官 香椎浩平 「 不起訴處分 」

2020年11月12日 05時25分11秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放

法律一點張りの頭で萬事を律せんとして、
皇國本然の姿を忘れたる者共の仕業なり。
義乃君臣情父子
ぎはすなわちくんしんじょうはふし、
此が日本の國體の精華に於ける情緒である。
此無比の肇國ちょうこく精神に基きて、大御心を拝察し奉り、
以て夫の事件を処理したのである。
・・・香椎浩平

思い出すさえ忌々しい。
昭和十一年十月七日、
東京軍法會議 匂坂法務官の名を以て、出頭通知狀なるもの舞ひ込み來きたったのだ。
曰く
「 辱職被告事件につき相尋ね度儀有之候條、昭和十一年十月八日午前九時、
當軍法會議に出頭相成度候也 」
なるもの之也。速達にて郵送し來る。
予は實に心外千萬の感じを抱ひた。
引退前、已に告訴者あることは承知しありし故、あっさり聞取るのであろうと考へたし、
川島前陸相 及び 安井少將へも、電話にて打合せることもせなかった。
・・・告訴者・・・
特設軍法會議の豫審段階で被告の栗原安秀、磯部淺一、村中孝次の三名が香椎戒厳司令官
( 川島元陸相、荒木・眞崎大將、山下奉文少將等を含む ) を 叛乱幇助罪で告發した。
でも腑に落ちぬのは辱職の文字。
・・・辱職・・・
陸海軍刑法に於て、軍人の特別任務に違背する不名誉の行爲をした罪を辱職罪という
八日朝、寸時で歸って來ることを言ひ殘して、定刻出頭して見れば、
匂坂の態度は、派閥關係等を聞き、又 統帥關係に深く立入って聞く。
例へば、彈を撃たせぬことと、軍隊の戰備のことが喰い違って居るではないかとか、
第一師團がぐずぐずして居て何等戰備を整へて居なかったではないかなどと問ひ、
中にも
「 あなたは戒嚴司令官として何の手柄をもして居ないではないか。奉勅命令に由って事が収まったんだ 」
と 云ふに至って、甚だけしからぬ事と感じた余は、励声疾呼れいせいしっこした。
「 勿論、事態の一段落は御稜威の然らしむる処である。
東京市長の官舎の宴に招かれて、予は答辭にも、自分は之をはっきり言明した。
乍去、御稜威の下、具體的行動に由り事態に処するのが吾人の職務であり、
予は眞に國家を救ひ、陸軍を救ひ、徴兵令を救ったと確信する。
ゼネラル香椎の名は世界に傳へられたと、海外通信で承知して居る。
君等が法文の末に拘泥して予を罪せんとするならば、何をか云はんや、だ。
唯 予は快く服罪せぬまでのことだ 」
と、且つ 怒鳴り 且つ 睨み付けた。
こう云ふ場面の中、予を収容する積りならんと豫想よそうせざるを得なかった。
正午になった。
食事しよふと云ふ。
此処でか、と問へば、歸宅されても宜しと云ふ。
即ち、急ぎ歸宅して要點を物語り、本日は収容さるゝやも知れぬ。
就ては子供達は少しも臆する処なく通學せしめよ。
又 家は計畫通りに堂々と建築を進めよ。
予に一點の疚やましき事なし、と 云ひ聞かせ、匆々そうそう昼食を濟まして、再び軍法會議に出頭す。
午後は、法務官の態度一變、頗る物腰靜かに應待す。
予は之を以て、唯 手を代へて、予の心の油斷に乗じ彼の探索に便し
且つ 引き掛けんとするものか、とも考へた。
其中そのうち、彼云ふ。
閣下を前にして失礼ですが
「 人物を観察するんですな、腹を見るのです。どーも事件の正體がわからないで困って居ます 」
などと云へり。
而して雑談的に種々のことを問答しつつ、尚ほも予の罪をでっち上げんとするものの如し。
予は依然、収容を覺悟しありしに、夕刻打切りと聞ひて、意外の感を以て引取った。
一應の聞取りは、予に對しては當然と思ひあるに、余りの辛辣さに、此時以來予は、
當局のやり方に不快の感を深くせざるを得ない。
そうして次の様な考が起って來た。
㈠  元來、戰は勝つにあり、戰の方法が如何に合理的なればとて、負くれば罪死に値す。
㈡  勝ちて而して其の手段方法の巧拙善惡は、戰史として研究するは必要也。
  然れども、畢竟ひっきょう之れ戰史研究の範囲内に止まるべきもの也。
㈢  鎭定手段の、統帥事項に關し、其運用に關する事を、文官たる法務官が、本科將校の立會も無くして、
  微細の點に至るまで聞き糾ただすが如きは不都合千萬也。
㈣  若し統帥關係を、法文の末に亘って事後論難するが如き惡例を貽のこすならば、
  將來戰場に立向ふ軍人は、一切六法全書に從ひ行動せざるべからざるに至らん。
其結果、遂には負けても理屈が通れば可なりと云ふことになるやも知れぬ。
欧州人は、防御手段に遺憾なければ、要塞を開城しても、所謂力盡き矢折れたる不得已やむえざる事柄として、
勇士扱ひさえするなり。一歩でも如此かくのごとき風潮に染まば、皇軍の特色を如何せん。
㈤  予に對したる如き態度を依然改めずんば、將器將材は將來養成の道を絶たるゝに至る可し。
人間味ある指揮統帥は全く顧みられざるに至るであろう。
㈥  夫れ戰爭は錯誤の連續なり。之れ戰史の一般に認むる処とす。
  それにも拘はらず、否 萌り之を覺悟して、如何なる錯誤の蔟出にも拘はらず、一意終局の勝利を目指して、
不撓不屈、最後迄努力して好結果を獲得する如く、吾人は養成せられて居る筈だ。
予に對する取調べは全く之に反して居る。
・・・蔟出・・・群がり出るの意
㈦  狡兎盡良狗煮らぬ
  日本も愈々支那式になりつつあるのか、嗟呼ああ
法文の末に拘泥して取調べを不當に行ふことを、特定人に丈け行ふことは不公平の極なり。
前段の観方をするも、不得已やむをえずと云ふ可し。
・・・狡兎盡良狗煮らぬ・・・
悪賢い兎が死ねば猟ができなくなり 不用となった良い猟犬も煮て食われる、
敵が亡べば不用となった功臣も誅せられるという意。
史記、越世家 「 飛鳥盡良弓蔵、狡兎盡良狗煮
㈧  陸軍省、參謀本部を一時叛亂軍占領されたる醜態に關し、何とかして其責任でも戒嚴當事者に轉嫁せんとするのか。
㈨  予の身分の取扱上の不手際を糊せんとするにはあらざるか。
  嫉妬心も亦手傳へるならんとさへ考へざるを得ぬ。
事件鎭定直後、參謀長が、閣下の名聲は歴史上永遠に殘りますね、と云ひしことは、
恐らく安井少將一個人の考のみにありしを、多數の將校が之を思ひ、
中には嫉視するに至ることも亦、不得已やむおえざることならん乎

取調べは、兎も角 一段落ならんと思ひしに、何ぞ圖らん、
十月廿四日、匂坂 復また來たり、
此度は恭うやうやしき態度なりしも、予の事件中の手帳借用方を申込む。
予は此処は太っ腹に出づる時と考へ、言下に快諾したり。
彼は證文と引替へに持ち行けり。
越へて十一月十四日夜、又々 出頭を促し來る。
予は痛憤の情を抑へ、徐々に心構へを整へて、十五日定刻出頭す。
匂坂は、聞取書を作成すと称して、事件前に満井中佐に會はざりしやと問ひ、
斷じて其事なしと答ふけれども、中々承服せず、しつこく反問す。
又、事件を知りしは何時か、何故電話にて指揮命令せざりしや、
師團や警視廳に情況を更に確かむることをなさざりし理由如何、
出動迄の時間が長過ぎるにあらずや、其間何をして居たか、
午前八時頃より午後三時迄は何の命令も出さざりしは何の爲乎、
第一師團の態勢は不都合と思はぬか、
何故命令せぬか、
宮中に參内せしは何故か、
參内時間長きに失せずや、
山下少將と會見し何を語ったか、
參内の途中時間を費やすこと多きに失せずや、
大臣告示の文句が手帳に記入せられある処、其時間等が食違へる如し、後より書き直したるにあらずや、
叛軍を統帥系統に入れたるは不都合ならずや、
何故逮捕せざりしや、
荒木、眞崎大將の關係如何、
偕行社に眞崎大將を訪ふたるは何故か、
司令官は叛軍を初め庇護し、後 之へ彈壓を加へたる如く變身せしにあらずや、
との意味合ひを以てする訊問等、微に入り細を穿うがち、皮肉を極めて剔抉てっけつせんとするに似たり。
十六日も過ぎ、十七日の午前中を費やせり。
此の間 余りのクドクドしさに、予は堪忍袋の緒を切らして叱り付けた。
「 同じことに何で繰り返し繰り返し聞くのか。何の目的かわからぬではないか 」
すると匂坂は にやりと薄笑ひした如き口元にて
「 いや、目的は分らぬ方が宜しいです 」
と、あわてた様に云ふ。
要するに此度の聞取は、
㈠  予の指揮、怠慢ならざりしか
㈡  事件を豫知しあらざりしか
㈢  叛軍に通じあらざりしか
㈣  右 ㈡、㈢の爲め、作爲したることなきか
㈤  眞崎大將と通謀したるにあらざりや
が、主要の調査点なりしやの感ありき。

以上の狀勢に基き、予は収容せらるゝことあるやも知れずと、又々豫想せざるを得ざる立場に置かれたり。
由って予は、若し果して然る場合には、國軍の根本的立直しに乗り出す爲、
陸軍出身以來見聞し 體驗せる処を洗ひ洒し 陳述論難して 余力を殘ささらんことに臍ほぞを固め、
思ひを練って、爾後の時日を經過した。
乍去、心は悠々として少しも憂憤などのことなく、飽くまで剛健壯快に過ごし、
十一月末には伊勢大廟にも參拝し、正月も何のわだかまりなく迎へたり。
元氣は正義に立脚する、正義は實に強い。
昭和十二年一月十七日朝、書留郵便に依り、匂坂の名を以て、不起訴處分の件 通知を受く。
曰く
「 被通知人に係る辱職等被告事件は、昭和十二年一月十五日、不起訴處分
 ( 陸軍軍法會議法第三百十條告知 ) を爲したるに付 通知す 」
之なり。
或は曰ふ、
死刑囚たる磯部、村中に告訴せしめたるものなり、と。
軍法會議の内容、特に磯部等の告訴狀等が外聞に洩れ、書ものが政党首領等に手交されたりとか。
斯かる状態から考へれば、中央當局の内幕、愈々以て奇々怪々の感なくんばあらず。

香椎戒厳司令官
秘録二・二六事件事
から


川島義之陸軍大臣 憲兵調書

2020年11月10日 17時34分32秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略4 皇道派の追放


川島義之陸軍大臣

憲兵調書
昭和十一年五月二日

« 二月二十六日朝、陸相官邸大臣室に於ける眞崎大將との會談内容 »
此時の會談は極簡單なものでありまして、
眞崎大將より
「 大變なことをやったね 」
と 挨拶があった後、眞崎大將より
「 君はどうするか 」
と 問はれたので、私は、
「 本庄武官長が、宮中に行って居ると云ふことであるから、
本庄にも相談もし、又、上奏の手續も依願し、上奏して時局の収拾にかからうと思ふ 」
と 答へました。
私は眞崎に 君はどうする心算かと聞きますと、
「 俺は今から伏見宮御殿の方へ行く 」
と 云ひました。
話の内容は大體右の如きものでありました。
« 眞崎大將の陳述に依ると、その際、大將は大臣に對し、
「 貴様が中心になって此処で閣議を開き、戒嚴でも布かねばなるまいと思ふ。若し 用があれば居るが、伏見宮御殿に行かねばならぬ 」
と 述べたと云はれて居るが、之を聞かれた記憶なきや。»
之れを聞いた記憶はありません。
« 大臣が宮中に參内し、武官長室にありし時、同室せる眞崎大將より、
「 蹶起部隊は到底解散を聽き入れぬから、奉勅渙發されねば駄目だ云々 」 と 云はれたる由なるが、之が眞相如何 »
或はそう云ふ話があったかも知れないが、
當時 私は上奏其他 時局収拾を考へつめて居ったので、右の様な話のあった記憶は全くありません。
« 二月二十六日朝、蹶起將校と会見中、大臣は真崎大將を召致せられたるか。
其召致を小松少佐に命ぜられ、之に関し小松少佐より如何なる復命を受けられたるや »
決起將校が希望事項を開陳中、半ば頃の時、眞崎大將、本庄大將を呼んで貰ひたいとの申出あり、
之に對し小松秘書官に電話するよう命じました。
それから暫くして談話室で小松から、
「 本庄大將は既に參内せられあり、眞崎大將は腹が惡くて休んで居るから、直ぐ行く 」
旨の復命を受けたと記憶します。
山下少將を召致した事に就ては記憶はありませんが、或はあったかも知れません。

二・二六事件秘録(二) から