あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

相澤中佐の中耳炎さわぎ

2017年09月12日 14時21分47秒 | 相澤三郎


相澤三郎

相澤中佐の中耳炎さわぎ
昭和八年十二月の異動で、相澤少佐は進級して、
秋田の十七聯隊から福山の四十一聯隊に転任していた。
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相澤中佐が上京して中耳炎にかかり、慶応病院に入院手術したのは、
ちょうど私が極東オリンピックの問題でいそがしく飛び回ってた三月ごろであった。
手術の結果は良好で、ときどき見舞に立ち寄ると、元気な顔で喜んでくれた。
満洲の荒野で転戦して幾多の偉勲をたてた末松太平中尉が二年数か月ぶりに凱旋して上京し、
相澤中佐を病床に見舞ってから間もなく、
相澤中佐は退院した。 ・・・リンク→ 「年寄りから、先ですよ」
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退院しても通院治療の必要があったので、
慶応病院に近かった私の千駄ヶ谷の家に転居することになった。
退院したとはいえ、まだ通院するくらいが関の山で、無理のできる体ではなかった。
相澤は毎日私が学校から帰って、その日の出来事を話すのを楽しみに待っていた。
だが、そんなある日、
わたしが学校から帰ってみると、相沢はいなかった。
「 相澤さんはどこに行ったんだ 」
「 午後三時ごろ行先をいわずに出て行かれました 」
「なぜ行先をきかなかった 」
「 ちょっとそこまで、といったもんですから散歩だろうと思って・・・・」
妻は大して気にかけていない様子であったが、私はいささか心配であった。
夕方から降り出した雨が、だいぶ大ぶりになった。
何回か玄関まで出てみたが、相沢の帰ってくる気配はなかった。
午後八時になっても帰ってこない。
私は帰ってきたらいっしょにと思って待った夕食を一人ですました。
ちょうどそのとき玄関で人の気配がした。
私が飛び出してみると、
ビッショリ濡れた相沢が、真っ青な顔をして ガタガタふるえながら、ぼんやり玄関に立っていた。
「 どうしたんですか、いまどき・・・・」
「・・・・」
相澤は、うつろな眼をして黙って立っているのみであった。
私は、これはいかんと思った。
妻に床を敷くよう命じて、私は相澤をかつぐようにして二階に運んだ。
体温を計ってみると、四十一度を上回る高熱であった。
私は、さっそく慶応病院に電話して再入院の手続きをし、澁川善助に応援を頼んだ。
帰ってきたら ウンと叱ってやろうと思っていたのに、もうそれどころではなかった。
相澤は気息奄々として前後不覚に陥っていた。
知らせに応じて、西田が不在であったため夫人がすぐきてくれた。
応急の処置としてはただ頭を水で冷やすだけで、どうすることもできなかった。
澁川がきて、二人で病院にかつぎ込んだのは午後十一時少し前であった。
さいわいなことに、そのころ雨はやんでいた。
病院では準備万端ととのえて待っていたので、病室に運び込んでさっそく治療にとりかかった。

病院に着いたころから、相澤は正常ではなかった。
大きな声で うわごとがはじまった。
『 天皇陛下万歳 』 と 叫ぶかと思うと
『 君が代 』 が 音痴な声で歌われるという始末であった。
医師は中耳炎の手術あとが丹毒におかされていると診断した。
そういわれてみると、左耳のうしろが真っ赤になっている。
さっそく太陽灯を看護婦があてはじめた。
相澤はその太陽灯を右手でつかんで、
部屋の隅に向かって投げつけてこわしてしまった。
医師が薬を飲ませようとしても、
「 こんな西洋医学では駄目だ 」
といって、散薬を吹きとばして飲もうとしない。
「 相澤さん 駄目ですよ、薬は飲んで下さいよ 」
私は相澤の耳に口を寄せて、大きな声で叫んだ。
相澤はかすかに眼を開けた。
「 大蔵さんか、薬は飲まなきゃいかんか 」
「 いかんですよ、飲んで早く癒って下さい 」
「 そうか、やっぱり飲んだ方がいいか」
相澤は、しぶしぶではあったが素直に飲んだ。
たまには正気にかえることもあったが、相澤のうわごとは一晩中つづいた。
あまりにそのうわごとの声が大きかったので、
近くの病室の危篤の患者がいて、静かにならんだろうかという文句が出て、
私と澁川はお詫びに回るという始末であった。

朝になっても相澤は、全然医師のいうことをきかなかった。
それでも澁川か私がいうと素直にきいてくれた。
「 大蔵さん、私らではだめですから、お勤めはあると思いますが、なんとかしてついて看病してくれませんか 」
「 承知しました 」
私は学校に電話して事情を話し、二、三日学校を休むことにした。
急をきいて、相澤夫人が福山から上京してきた。

三日目になると、私のいうことも渋川のいうことも全くきかなくなった。
薬も受け付けず 手当もできず、もちろん食餌もとらなかったので、
相澤のからだはみるみるうちに衰弱して、ついには危篤状態にはいった。
正午ごろ、
浜之上俊秋少佐( 陸士二十四期 ) が 相澤の急変を心配してかけつけてきた。
浜之上は相澤と奥さん兄弟で、浜之上夫人は相澤夫人の妹という間柄である。
そのころは早稲田大学の配属将校であった。
「 大蔵君、君は石田霊光という男を知らんかね 」
浜之上少佐がいった。
「 さァ・・・・きいたような気もしますが 」
私は、小首をかしげた。
「 すぐれた祈祷師ということだが・・・・」
「 あ、あ、思い出しました。 千葉の歩兵学校で有名だった兵隊さんでしょう 」
「 そうなんだ、どうだお願いしてみようか 」
「 そうですな、やってみましょう 」
ワラでもつかみたい気持ちでいた私は、二つ返事で同意した。

石田は、
かつて大阪の八聯隊から歩兵学校の教導隊に派遣されていた上等兵であった。
子供のころから霊的能力が豊かであったのに、
修練を重ねてそのころは相当な霊力をそなえるに至っていた。
歩兵学校に派遣されてからは、その能力をひたかくしにかくしていた。
ある日、演習から帰って解散するとき、
石田が特務曹長に近づいていった。
「 特務曹長殿、すぐお宅にお帰り下さい。坊ちゃんが大けがをしています 」
「 ふざけるでないよ、縁起でもない 」
特務曹長は最初冗談と思い、次に悪ふざけとみて怒ったけれど、
石田上等兵の態度があまりに真剣だったので、
一度は怒ったものの少々薄気味悪くなって、いそいで家に帰った。
帰ってみると、果して石田上等兵のいった通りであった。
そのことがあって、石田の 『 ものあて 』 は 一躍有名になった。
こんな話もある。
ある若い参謀が石田の霊力の話をきいて、
ひやかし半分に石田の属する班内を訪れた。
「 この班内に よくものを当てる兵がいるときいたが、どいつだ 」
参謀は傲慢であった。
他の兵に教えられて、その参謀は石田のところへいった。
「 おまえか、よく当てるというのは、ほんとうに当るか・・・・? 」
石田はしばらく黙っていたが、はっきりいい放った。
「 参謀殿は昨夜、軍人として、はずべき行為をしています。
よろしかったらいまここで公表いたしましょうか 」
若い参謀は一瞬青くなった。
そしてコソコソと帰っていった。

霊験あらたか、元上等兵の祈祷
石田は満期除隊後、
東京麻布の霊南坂上のある屋敷の庭内に庵いおりを結んで、
世のため 人のため 祈りの生活にはいっていた。
浜之上少佐と私が、その庵に石田霊光をたずねたのは午後二時ごろであった。
門をはいって庵まで足を運ぶとき、八重桜がきれいに咲き誇っていたのが、
いまでも鮮烈な印象として残っているので、
多分四月の終りか 五月の初めごろであったであろう。
玄関にはいると、たたきに女ものの下駄、ぞうりが三、四足ぬいであった。
中にはいると果して、きれいどころが三、四人先客として順番を待っていた。
浜之上も私も軍服であったので、なんとなしに妙なコントラストであった。
彼女らは恋の占いか、うせものの透視か、私の脳裡をチラッとかすめるものがあった。
私はワラをもつかむ気持ちでくるにはきたものの、
夜の街頭のくらがりに背をまるめた大道易者のうらぶれた姿と石田の姿とが重り合って、
相澤中佐に申しわけない気持ちになっていた。
やがて順番が回ってきて、私らの招じ入れられた部屋は八畳ぐらいの簡素な部屋であった。
まん中に大きな白木の机がおいてあった。
待つ間もなく 一人の男がはいってきた。
石田霊光であった。
額の広い、見るからに凛々しい美丈夫であった。
相澤中佐に申しわけないと思った気持はいっぺんにふつとんだ。
「 おたずねしたい方のお名前と生年月日を書いて下さい 」
彼は正面にすわると、すぐにたずねた。
あいさつをするひまもあったものではなかった。
私は机の上においてあった紙きれに、相澤の姓名と生年月日を書いて黙って渡した。
彼はその紙を受取ると、間髪をいれずに左手を左の耳のうしろにあてたまま、
何のよどみもなくベラベラとしゃべり出した。
「 この方は非常に気性の強い方ですね。 しかもご立派な方です。
 数年まえお子様をなくしました。そのときに受けた心の痛手で、その方はここの迷走神経を侵されています。
 ( 彼は左耳のうしろにあてていた左手を一、二度軽くたたいた。 相澤中佐の侵された中耳炎は左の耳であった )
その侵された迷走神経の悪影響がいま何かのために出てきて、とても重症となっています。
いままでこの方のおられた家の東南方に穴が掘ってあります。その穴をよく清めてやって下さい 」
「 相澤さんのおられた部屋は私の家ですが、東南の方角には掘られた穴はありません 」
私は、ここで抗議的発言をした。
「 そうですか。それなら結構です。もしあったら清めて下さい 」
「 わかりました 」
「 この方の写真はお持ちではないでしょうか 」
私はそういうことがあるのを予想していたので、相澤の写真を持参していた。
「 お預かりしてよろしいでしょうか 」
「 けっこうです 」
「 私は今晩から 『 念 』 を通じようと思います。
もし 効果があるとすれば、午前一時ごろに何らかの変化が起こるでしょう。
何も変化が起こらなかったら、明晩の午前一時ごろを注意して下さい。
今晩も明晩も変化がなかったらあきらめて下さい。
このかたの場合はなかなかの重症ですから、あるいは効果が現れないかも知れません 」
いい終ると彼は、写真を持ってサッサと部屋を出て行った。
石田霊光の霊力に万が一の期待をかけながら病院に帰ったのは、
午後四時ごろであった。
病院での愁眉しゅうびはいよいよ濃くなっていた。
医師は手のほどこしようがないといって、全くサジを投げた。
「 近しい方々に電報を打って下さい 」
と、いいのこして医師は去って行った。
連日連夜の疲れが一度にどっと出て来た私は、しばなくの仮眠をとるために家に帰ることにした。
家に帰った私は、二階に床を敷くことを命じ、廊下に出て大きく背伸びをした。
この部屋は三日前まで相澤中佐の寝起きしていた部屋である。
私は、大きく背伸びしながら見るともなく左の方を見た。
そこには鳩森神社の境内があった。
ひょっと気がつくと境内の一隅に、一間四方の大きさの穴が掘ってあって、沢山なごみが捨ててあった。
方向をはかってみると正に東南方だ。
私は台所に跳び込んで、一握りの塩をつかんで、下駄をつっかけて走った。
「 はらえたまえきよえたまえ 」
口の中でとなえながら、私は塩を穴の中にばらまいた。
このことがあって私は、今晩の午前一時に現われるという霊光の念力に、大きな希望をつないだ。
目がさめたときはすでに七時ごろで、夕やみのせまるころであった。
感嘆に夕食をすまして病院にかけつけた。
相澤の病状は依然として悪かった。
私と澁川と夫人は相澤の病床で病状を見守りながら、午前一時が待ち遠しかった。
「 奥さん、だれかお呼びする人はありませんか 」
私は、沈み勝ちの空気が耐えられなかった。
「 別に東京では・・・・」
相澤夫人は、ないというそぶりをした。
「眞崎大将にきてもらいましょうか 」
「 もしできましたら・・・・、相澤も喜ぶでしょう 」
午後十時少しまえであったが、私は思い切って真崎大将に電話した。
「 よし、すぐいく 」
と、眞崎は承知してくれた。
大将の軍服姿が病室に現われたのは、夜の十時半ごろであった。
眞崎大将が相澤に声をかけたが、無意識状態をつづけている相澤には、なんの反響もなかった。
「 あとをよろしく頼んだぞ 」
と、悲痛な顔で眞崎が帰って行ったのは十一時少し前であった。

待ちに待った午前一時がきた。
だが、相澤にはなんの変化も現れなかった。
私達は今夜はだめだ、
万が一の期待は明夜にかけなければならないだろうと話し合っているときであった。
相澤がかすかに目を開いた。
午前一時を五分すぎていた。
「 西瓜がたべたい 」
小さな声であったが、相澤の訴える声を私はききのがさなかった。
「 西瓜はすぐ買ってきますから待って下さい。
その前に食餌と薬をのんで下さい 」
私が頼んでみたら相沢はうなずいた。
私と澁川は、あとを夫人にたのんで病院を飛び出した。
円タクをひろって まず新宿の 『 高野 』 を叩いた。
すでに店をしめていたけれども、すぐに起きてくれた。
「 西瓜はありませんか 」
「 西瓜ですか、ありませんね 」
温泉栽培の発達した今日と違って、時期はずれの五月に、当時西瓜のあろうはずはなかった。
しかし私達はあきらめなかった。
「 銀座の千疋屋だ 」
再び円タクをひろって銀座に向かった。
千疋屋もすでに店をしめていたが、無駄とは思いながら起きてもらった。
西瓜はないがメロンならあるという。
メロンを持って病院に帰ったときは午前三時を過ぎていた。
奥さんがすばやく切ってさし出すメロンを、
相澤は、 「 うまい、うまい 」 と 喜んで食べた。
薬も お粥も少々ではあるが口に入れたそうだ。
私の両眼には涙がにじみ出ていた。
だが夜のあけるころから、相澤の病状は再びもとにかえって、薬も食餌もとろうとはしなかった。
私たちは、メロンも食餌も薬もすべてを準備して、
次の日の午前一時を待った。
次の日の午前一時になると、相澤はまた昨夜と同じように喜んで薬ものみ、お粥をすすり、
メロンを食べた。
こうして相澤の病気は、薄紙をはぐように快方に向かった。
・・・大蔵栄一 著 二・二六事件への挽歌 から


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