あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

五・一五事件

2018年02月28日 16時25分14秒 | 五・一五事件

大広間に入ると佐官連中が綺羅星のように並んでいる。
中心にいた永田鉄山が、「こっち へ来い」 と、片隅に誘って対座した。
永田は開口一番
「今日の事件は、お前がそそのかしたのであろう」
と 詰問した。
菅波は自分の近況と 青年将校を暴走させぬよう努力している旨を、静かな口調で語った。
永田は納得したか否かはわからぬが、黙然として聞いていた。
そこの一座のなかから
好 奇心をもったらしい東條英機(大佐、参謀本部編制動員課長)が、
ゆっくりと近づいてきた。
「君はあっちへ行ってろ」
と 一喝されて、東條は苦笑しながら引き返して行った。
・・・菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」


・・・ 西田はつ 回顧 西田税 1 五・一五事件 「 つかまえろ 」 

五 ・ 一五事件
目次
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・ 
井上日召  五 ・一五事件 前後 
・ 藤井中尉、血盟団 小沼正、国家改造を誓う
・ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」 


日本國民に檄す!
日本國民よ!
刻下の祖國日本を直視せよ
政事、外交、經濟、教育、思想、軍事・・・
何処に皇國日本の姿ありや
政權党利に盲ひたる政党と 之に結託しに民衆の膏血を搾る財閥と
更に之を擁護して圧制日に長ずる官憲と 軟弱外交と堕落せる敎育、
腐敗せる軍部と、悪化せる思想と、
途端に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と!
日本は今や斯くの如き錯綜せる堕落の淵に既に死なんとしてゐる
革新の時機!今にして立たずんば日本は亡烕せんのみ
國民諸君よ
武器を執つて!
今や邦家救済の道は唯一つ 「 直接行動 」 以外の何物もない
國民よ!
天皇の御名に於て君側の奸を屠れ
國民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全國民よ ・・・・
祖國を守れ
而して・・・・
陛下聖明の下、建國の精神に皈り、
國民自治の大精神に徹して人材を登用し、
朗らかな維新日本を建設せよ
民衆よ!
この建設を念願しつゝ先づ破壊だ!
凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ!
偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す、
吾等は日本の現状を哭して、赤手、世に魁けて諸君と共に
昭和維新の炬火を点ぜんとするもの
素より現存する左傾右傾、何れの國体にも属せぬ
日本の興亡は 吾等 ( 國民前衛隊 ) 決行の成否に非ずして、
吾等の精神を持して續起する國民諸君の実力如何に懸る
起て!
起つて、眞の日本を建設せよ!
昭和七年五月十五日
陸海軍青年将校
農民同志

五・一五事件 士官候補生・後藤映範 『 陳情書 』
・ 
五 ・一五事件と士官候補生 (一)
五 ・一五事件と士官候補生 (二)


・ 
五 ・一五事件 『 西田を殺せ 』 
・ 五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 
五 ・一五事件と山口一太郎大尉 (1)
五 ・一五事件と山口一太郎大尉 (2)
・ 
菅波三郎 ・ 懸河の熱弁
・ 
菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」

・ 
安藤大尉 ・ 『 昭和維新 』を幹部候補生に訓示す

先般、不幸にして勃發いたしました陸海軍將校の、首相暗殺事件につき、
聖上陛下にはいかに御宸念遊ばされましたことか、
洵に恐懼の至りに堪えぬところでございます。
しかし乍ら今回の事件は偶發的に起こったものでなく、
その根底には國家の現狀と將來を深憂する多數の皇軍將校と、愛國青年群が存在いたします。
政党政治は國家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗爭を事とし、
財界は皇恩を忘れて私利私欲の追求に餘念がありません。
近年の經濟不況によって、一億國民の大多數は塗炭の苦境に呻吟いたしております。
洵に餓民天下に満つと申しても過言ではありません。
天下萬民の仁父慈母に存します聖上陛下におかせられましては、
この國民の困窮を救うため、速やかに昭和維新の大詔を渙發あらせられ、
内は百僚有司の襟を正さしめ、財界の猛省を促し、上下一體となって國利民福の實をあげ、
外に向っては國交の親善を増進して、大いに皇威を發揚し、
以て帝國興隆の基を築かれんことを、
草莽の微臣、闕下にひれ伏して、謹んで奏上仕ります。

・・・紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」


紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」

2018年02月26日 05時04分18秒 | 五・一五事件


西田税 
西田税が快癒して六月三十日に退院したことが知れると、
同志の人々や青年将校たちは心から喜んで祝ってくれた。
その二、三日後、
薩摩雄次が日本新聞の記者をつれて蘇生の感想を聞きに来た。
西田は自分の負傷には一言もふれないで、
記者に こう 語っている。
「 民主主義者共が、如何に体裁を作ってうごめこうとも、
連綿として わが民族に流れて来たところの、
この血をどうすることも出来はしない。
勿論我々には、現代の社会組織や経済組織の間違っていることに、
夙にこれを認識し、
その改革を叫んで来たのである。
祖国を愛する、ということは資本主義を愛するということではない。
国体こそ絶対不変なるものである。
けれども、政体等はもとより不変なものではないのだ。
我々は絶対不変なる国体のもとに、あらゆる制度や組織を改革して、日本本来の道にかえらねばならぬ。
実際今日の世相を見るとき、誰か暗澹たらざる者があろうか。
満洲の曠野に汗と血みどろになって戦っている我が将兵は、
それは決して資本主義を守る為ではない。
実に祖国を守るためではないか。
我々はあらゆる努力を以て、
その銃後を護り、彼らの戦いをして真に意義あらしめねばならぬ。
彼らの戦いが資本主義を守るものになっては断じてならないのだ。
我々は現今の世相をみるとき、それを痛切に感ずるのである 」

西田は十日あまり 山谷の家に起居していたが、
退院後さっそく とりかかったのは 天皇陛下への建白書であった。
腹案は病臥中に充分練っていた。
去年の十二月の末、菅波が秩父宮にお会いし、
殿下が国民の動向や革新運動につよい関心をおもちであることを聞かされた。
パッと西田の頭の中に閃いたのは、
殿下を通じて天皇陛下に微衷を申し上げたいという決意であった。
これは当時としては破天荒なかんがえであった。
敗戦までは九重の奥深くまします天皇は神聖この上もないお方で、
庶民にとってはまさに雲の上の存在であった。
その神聖比なきお方に建白書を奉ることなどは、
市井の浪人としては分に過ぎた思い上りである。
もし発覚したら西田はもとより、関係者はただでは済まない。
しかし、西田には自信があった。
秩父宮は必ずお取り上げて下さるだろうと確信していた。
西田は斎戒沐浴して、心身を清浄にし、精魂をこめて浄書した。
その要旨を、直接建白書を読んだ菅波と、
西田から建白書の下書きを見せられた次姉村田茂子
の 記憶とによって再現すると、
およそ次のような主旨の文章になる。

「 先般、不幸にして勃発いたしました陸海軍將校の首相暗殺事件につき、
聖上陛下にはいかに御宸念遊ばされましたことか、
洵に恐懼の至りに堪えぬところでございます。
しかし乍ら今回の事件は偶發的に起こったものでなく、
その根底には國家の現狀と將來を深憂する多數の皇軍將校と、愛國靑年群が存在いたします。
政党政治は國家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗爭を事とし、
財界は皇恩を忘れて私利私欲の追求に餘念がありません。
近年の經濟不況によって、一億國民の大多數は塗炭の苦境に呻吟いたしております。
洵に餓民天下に満つと申しても過言ではありません。
天下萬民の仁父慈母に存します聖上陛下におかせられましては、
この國民の困窮を救うため、速やかに昭和維新の大詔を渙発あらせられ、
内は百僚有司の襟を正さしめ、財界の猛省を促し、上下一體となって國利民福の實をあげ、
外に向っては國交の親善を増進して、大いに皇威を發揚し、
以て帝國興隆の基を築かれんことを、
草莽の微臣、闕下にひれ伏して、謹んで奏上仕ります 」

と、西田一流の壮麗な美辞で修飾した大文章であった。

退院して四、五日起ったある日、
会いたいという電話で菅波が西田の家を訪れると、西田はやや緊張ぎみである。
「 何か変わったことでもあったのですか 」 と、問うと、
「 いや、実は君に重要なことをお願いしたいのだが、
ことによると迷惑がかかるかも知れないので、
君にはまことにすまないけれど 」
「 それで 」
不審そうな菅波の目の前に、西田は机上にあった紫の袱紗包みを取り上げ
「 これをね、秩父宮殿下を通じて、天皇陛下にまで差し上げたい。精魂をこめて認めたものです 」
と いう。
菅波は一瞬迷った。
殿下は快くお受け取りになるであろうか。
お取り上げになっても、殿下に累が及ぶようでは困る。
「 拝見していいですか 」
「 どうぞ 」
菅波は姿勢を正して一読した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・

一夕、墨痕琳漓
大きな奉書の紙に認めたものを、私に托した。
天皇に奉呈する建白書である。
これを秩父宮にお願いして呉れと言う
私は反対した。
そんなものを天皇が受けとるはずがない。
また、秩父宮が承知されるか、どうか。
だが。 西田の意志は固かった。
死線を越えた彼の言うことだ。
一応、聞き届けなくちゃならない。
そこで、隊に帰って安藤に相談した。
「 よかろう、やってみよう 」 と 言う。
翌日二人で秩父宮にお目にかかって申上げた。
意外、宮は即座に承知された。
「 明後日、陛下に会えるから、その折に差上げよう 」
 と 申され
「 西田は元気になったか 」
と お尋ねになった。
殿下は、いつも朗らかで、誠実で、信頼の度は深い。
お頼みした以上は、殿下にお任せする以外にない。
・・・
あとで聞くところによると、
宮中では、天皇と皇弟秩父宮との間に激論が交わされたという。
この事に関係あったのかどうか分らないが、たぶんこの時のことだろう。
・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 特権意識にこり固まった重臣層にとりまかれていらっしゃる天皇陛下に、おそらくこんな大英断はできまい 」
と いうのが、菅波の読後感であった。
しかし、建白しないより、幾分でも効果があれば建白したほうがよい。
「 承知しました 」
「 ありがたい、この通りです 」
西田は深々と頭を下げた。
顔をあげた西田は愉快そうに笑った。
菅波もつられて微笑んだ。

あくる日、菅波は安藤をよんだ。
「 夕方、殿下にお目にかかりたいが 」
「 承知しました。殿下に申し上げておきます 」
昼食の時、殿下が承知されましたと、安藤は小さい声でささやいた。
隊務の一切が終わると、菅波は安藤と二人で地下道から第六中隊長室に行った。
秩父宮は一人でお待になっていた。
「 今日は殿下にお願いがあって参りました 」
「 何だね 」
「 実は西田さんから、
殿下を通じて天皇陛下に建白書を奉りたいというので、預って参りました 」
「 ほう 」
秩父宮は渡された紫の袱紗包みをとかれると、奉書に認められた建白書に目を通された。
「 よろしい、承知した。
 明後日参内して、陛下にお目にかかる事になっているから、その時にさし上げよう 」
秩父宮は無造作にカバンの中に入れられた。
菅波はお礼を言って起ち上がろうとすると
「 時に、西田はすっかり全快したかね 」
「 はい、快癒いたしたようであります。近く温泉に療養に行くように申しております 」
「 それはよかった、よろしく言ってくれ給え、身体にはくれぐれも注意するように 」
菅波は再びお礼を言って辞去した。

「 だが、一週間あまり後、下志津へ行った時、寺倉御付武官から詰問された。
あの紫色の包みはどうしたというのだ。
誰かが私の行動を始終見張っていたらしい。
それはそれで済んだのだが、間もなく満洲へ飛ばされることになったから、
その原因のひとつはこれだったのだろう
と、菅波は苦笑する
もうひとつの原因がある と 菅波は言う。
昭和五、六年の経済恐慌で、
失業者の家庭や極貧な農民の子弟が多数入隊してきた。
隊付将校たちは、彼らの悲惨な境遇に幾度か泣かされた。
なかには月給の大半を兵士の家庭に送金する将校もいた。
「 そこで在営兵士の家庭の困窮を救おう。
と いうパンフレットを印刷し、将校は俸給の一割を出して、
幾分なりとも援助しようと、全国の将校団に呼びかけたのだ 」
署名は在京青年将校一同としたが、
首謀者は菅波とわかったと思われると述懐する。
二週間あまり後、八月の定期異動の内示があった。
菅波は満洲派遣軍の公主嶺守備隊付に飛ばされた。

天皇に建白書を上る
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から 


安藤大尉、『 昭和維新 』を幹部候補生に訓示す

2018年02月25日 04時55分20秒 | 安藤輝三

 
安藤輝三
大尉

昭和7年5月15日
五 ・ 一五事件

5月17日
安藤中尉幹部候補生たちに昭和維新に関する考え方を話す。
「 諸君は、既に新聞やラヂオで、一昨日の事件に関して知っていることと思う。
実はこのことは前もって予測されていたことであった。
我々にも参加を求められていたのだ。
しかし、私は時期尚早であり、陸軍関係同志の結束が出来ていないという理由で、
参加を拒否すると同時に、暴発を阻止するために出来るだけの説得を行った。
それも空しく、海軍の一部 中 ・ 少尉が蹶起し、在学中の士官候補生五名までが、
学校を飛び出して暴走してしまった。まことに残念で堪らない。
今日は、今回の事件に関連して、自分の考えを話しておきたいと思う。
その前に、昭和維新の尊い人柱になられた犬養首相の霊に対して黙禱を捧げたい。
首相は腐敗堕落した政党政治家の中にあって、数少ない清貧気骨の士であったことだけは、
知っておいて欲しい 」

「 諸君も知っての通り、日本経済は大正末期から慢性的な不況に喘あえいでいる。
そこへ、昭和二年三月に突如として金融大恐慌が起きた。
全国の各銀行は、預金者による取付騒ぎで大混乱を呈した。
中でも台湾銀行、十五銀行を始め 十指に余る銀行が閉鎖された。
その結果、有名な鈴木商店や川崎造船所を筆頭に、大小の企業が軒並みに倒産した。
そして、日本の産業機構は潰滅的な打撃を蒙り、国民生活を奈落の底に陥しいれた。
これは日本の経済史上未曾有の大事件であり、国民は顔色を失って不安におののいた。
少年時代だった諸君も、強烈な印象を残しているであろう。
しかも天は、さらに容赦なく過酷な試練を国民に与えた。
それは、全国的な農村地帯の旱魃 かんばつ であり、冷害であった。
中でも東北地方と関東北部における被害は甚大で、その惨状は目を覆うものがあった。
それは五年後の今もまだ深刻に尾を曳いているのだ。
諸君のほとんどが、農村漁村の出身であり、その大半は小作農の子弟であるので、
今さら具体的な説明は不必要であろう。
諸君は、自分の意志と親の諒解に基づいて、今後長く陸軍の俸禄を食むことを決意した。
然し、君等の所属する中隊の戦友で少なからぬものの家庭が、
掛けがえのない働き手を国にとられて、困り果てているのだ。
そして、その戦友たちは月々支給される僅かな手当のほとんどを、家への送金にまわしている。
それでも足らずに、若い姉や妹たちが、次々と遊里に身を売られて行く現状である。
それなのに、権力の座にある政治家、役人、高級軍人たちの大半は、
敢てその現実から目をそらし、自己の私利私欲のみに走って、
庶民の窮状を拱手傍観している有様だ。
果してこんなことで良いのか。
良識ある国民が、この状況に胸を痛め、情勢の抜本的転換を希求するのは当然である。
すなわち、庶民の大半が昭和維新の断行を、ひそかに望んでいると言ってよい。
去年の九月に、関東軍が満洲事変を起したのも、国民の憤懣の爆発がこれを導いたと言って差し支えない。
また、これと軌を一にして、
国内では血盟団による一人一殺のテロ行動をはじめ、各種の警世革新の事件が起きた。
それが、一昨日の一部軍人たちによる襲撃事件につながったのだ。
五月十五日の事件は、政党政治に対する強烈な警鐘であり、
昭和維新に対する引き鉄 がね になったことは言うまでも無い。
しかしその実態は、少数決死の遊撃隊員が敵本陣に奇襲をかけて、
敵の大将の寝首を掻いただけで、全体的な効果はさして大きくない。
ただし、敵陣営を畏怖させ、味方の志気を鼓舞した点では、心理的成功と言って差し支えないだろう。
彼らは、昭和維新の前衛であって、本体ではない。
本隊であり、主力決戦を行うのは、我々陸軍を中心とした同志だと確信している。
しかし、我々の準備はまだ出来ていないし、時機も熟していない。
我々が蹶起するときは、成算が完全に樹った時機である。
そして、やる以上は、是が非でも昭和維新を完遂させねばならんのだ。
しかも、出来るかぎり血を流さずに成功させる方法を、真剣に考えなければならぬ。
その時機は、数年を待たずして必ず到来するだろう。
その時こそ決戦であり、日本中がひっくりかえることになるだろう。
今回は、残念ながら修行中の士官候補生たちが、陸軍を飛び出して官軍革新陣営の傘下で行動した。
生徒の身分として、まことに早まったことをしてくれた。
これは我々先輩に大きな責任があり、痛切に反省しているところだ。
そして、諸君もまた勉学修業の途上にある。
教導学校を卒業するまでは、絶対に軽挙妄動してはならない。
君らの中には、血の気の多いものが少なくないが、くれぐれも自重して欲しい。
諸君が下士官として任官したのち、私がみずから納得して蹶起する時に、参加するか否かは自由である。
その時は、その時で十分に話し合おう。
ただ、私は、昭和維新が青年将校だけで遂行できるとは思っていない。
軍の重石 おもし である下士官が主体となって動かないと、絶対成功しないと思っている。
こういう話は、課外時間に自由な立場で話し合うべき問題だ。
さあ、肝心の勉学訓練をおざなりにしては天罰を受けるぞ・・・・。
事件関係の話はこれまで 」


五・一五事件と山口一太郎大尉 (1)

2018年02月24日 04時33分35秒 | 山口一太郎


山口一太郎 大尉
五・一五事件は、随分奇妙な事件である。
あれだけの大事件でありながら、計画の大要は各方面に洩れていた。
憲兵隊も、したがって陸軍省も、そして恐らくは警視庁も相当程度知っていた。
行動の隠密性が悪かったためである。
私も五月の始め頃から西田税 に情勢を知らされた。
かほど重大な陰謀が、こんなに知れ渡っていたのでは碌な結果にはなるまい。
海軍将校が計画し、海軍や民間人がやるのなら別に云う所はないが、
陸軍が巻き込まれることは避けたいと思った。

小畑敏四郎少将に御会いして見ると考えは全く同じであった。
「 陸軍が巻き込まれることは絶対におさえてもらいたい。
西田君とも相談して宜しく頼む 」
ということだった。
これまた随分おかしな話だ。
小畑少将は知る人も知る荒木陸軍大臣のブレーンの第一人者なのだ。
決行時期が五月一五日ということは五月十日頃わかった。
私と西田とは日に二度位会った。
陸軍将校の参加は西田が完全に思いとどまらせた。
陸軍士官学校生徒の参加をも止めようとしたが、
その説得役の村中 [孝次]( 陸軍士官学校区隊長、中尉 ) が
生徒に接近することを学校当事者が勘違い(煽動と)の結果 阻止したので、
ついに目的は達せられなかった。
私も西田も、日ごと夜ごと焦燥感を空しくなめるばかりであった。
このような東京をあとにして、
私は富士裾野、滝ケ原の演習場に行かなければならなかった。
かねて私の設計していた機関砲の実弾射撃が予定を繰り上げ、
五月十四日から十六日までになったからだ。
恐らく技術本部首脳部が、事件の計画をうすうす知り、
五月十五日に私が東京に居ないように計らったものであろう。
御殿場の大きい宿屋数件は
技術本部長緒方勝一大将以下数十人のメンバーによって占められた。

五月十五日の演習が済むと、
私は転がるように自分の宿にかけ戻り、帳場のラジオにかじりついた。
ラジオは海軍将校と陸軍士官学校生徒によって決行された五・一五の大事件を報じ、
ひとびとは目を丸くして刻々の報道に聞き入っていた。
私にとってはすべてあるべき事が、スケジュール通り行われただけなので、
一向驚くことはなかった。
しかし報道が進むにつれ、本当に驚かなくてはならなかった。
それは予定にも何もない
西田が狙撃され、順天堂病院に収容されたが、生命はおぼつかないということだ。
西田の呼吸、脈ハク、輸血の状況などは、要路の大官なみに刻々と報ぜられた。
私がラジオの前を去ったのは夜半すぎていた。

明けて十六日の朝六時頃、
隣の宿から
「 本部長閣下が御呼びでごさ゛います 」
と 迎えに来た。
その室に入ると 人は、
室中に新聞をひろげ
「 実にけしからん 」
と 憤慨している。
「 君これは一体どうした事だ。飛んでもない話だ。
君のことだからいずれ前から知っとんダろう 」
と きめつける。
「 風説はうすうす聞いていました 」
「 聞いとったら、われわれ上司に報告せにゃいかんじゃないか。」
「 技術に関する事だったら細大もらさず報告してますよ。
会った事も、名前も聞いた事もない海軍将校に関する風説まで、
事ごとに報告する義務はないと思います。」
大将これで喜んだ。
「 君本当にこの連中の名前すら聞いた事がないのか?
後日上司(この場合陸軍大臣)からわれわれの方へ御とがめが来るような事はないのか?」
なんだ、私を早朝呼びつけた問題の核心はここにあったのだ。
当時の軍の上官の大部分は、保身に汲々たるものだった。
部下の急進将校のため、
わざわいがこの身に及んでは大変ということだけなのだ。
何回も念を押し、
私がこの事件に全く関係ないと得心が行くと、
急にニコニコして
「 では宿へ引き取りたまえ。朝早くから呼んですまなかった。」
その日(十六)の射撃は正午に終わった。

東京へ心急ぐ私は、
射撃の終わる地点間近かに、
大型のハイヤー「ハドソン」を待たせておいた。
乗る。
走り出す。
宿でトランクを受け取る。
そして駅へ。
列車は入っている。
運よく車中の人となった。
一路東京へ・・・・・。

煙を吐き立てて走る汽車の歩みが、こんなに遅く感じられた事はなかった。
車中何時間、全くつんぼ桟敷だ。
愛宕山のあの小さいアンテナから電波の出されていた当時である。
トランジスタ・ラジオを聞きながら旅行するなんて事は思いもよらない。
何はともあれ情況を明らかにしなけりゃならぬ。
それにはまず憲兵隊に行くにかぎる。

 次頁 
五・一五事件と山口一太郎大尉 (2)  へ 続く


五・一五事件と山口一太郎大尉 (2)

2018年02月23日 04時16分02秒 | 山口一太郎


山口一太郎大尉

前頁 五・一五事件と山口一太郎大尉 (1)  の 続き

タクシーは東京駅から大手町の東京憲兵隊に私を運んでくれた。
運転手に聞くと
「 あの西田という人は、まだ生きているらしいですよ 」 とのこと。
隊に着くと階段をかけ上がって難波光造 隊長に会った。
西田 は生きていますか?」
「 大丈夫らしい。」
「 連中はどうなっていますか?」
「 皆隣の応接室に元気にしているよ。君会って見るか?」
「 いやそれは後日でかまいません。それよりか陸軍の将校達が気がかりです。」
「 うん。それなんだ。
ついさっきもその事について、小畑閣下から御連絡があったばかりだ。
西田は撃たれ、君が富士に行っているので心配しておられた。
今お宅に居られるから呼び出そうか?」
「 ぜひお願いします。」
電話はすぐ通じた。
「 山口です。」
「 ああいい所に帰って来てくれた。すぐに家へ来てくれないか。
チョット隊長と代わってくれたまえ・・・・・・」
電話を切ると隊長は向き直った。
「 君小畑閣下の御宅へ行くんだろう?
閣下からも御口添えがあったので車を用意する。
憲兵の下士官を同乗させる。こうしないと制服の将校でも自由に町を通れないからね。」
事実憲兵隊の自動車で憲兵の下士官でも同乗させないかぎり、
東京を勝手に歩けない程帝都の情勢は差し迫っていた。
戒厳寸前であった。

小畑少将に会った。
「 若い連中 ( 青年将校 ) がなにをやらかすかわからん。
西田君はやられ、君は富士だろう?困っていた所だ。
事件がこれ以上拡大して、陸軍の連中が動くということになると大変だ。
これは何としても食いとめたい。」
「 私は取りあえず順天堂に西田君を見舞おうと思ってます。
あそこへ行けば色々の事がわかるでしょうから・・・・・。
この事については難波さんにも同意を得てあります。」
「 そうか、そうしてくれるか。じゃあ僕も一緒に行こう。」
「 おやめください 」
「 いかんか 」
「 いけませんね。
参謀本部第三部長 閣下が参謀肩章いかめしく、順天堂にいって御覧なさい。
いい新聞種になります。
さわぎが大きくなるだけです。」
「 でもねー。西田は陸軍の連中が思い止るよう説得したために撃たれたのだ。
僕が間接の加害者みたいなもので、気がすまないんだが・・・・・」
と 面を伏せ、奥にはいってから、
「 ではこれで、花でも買って慰めてくれ給え。その他の事もくれぐれも頼むよ 」
と花の代金百円と花につける名刺を渡された。
飯田橋の花屋で豪華な花を買って順天堂病院にはいった。
その他の事を処理するため・・・・・。
西田税
順天堂病院は西田関係で、四部屋使っていた。
西田の病室の入口には仁王様が頑張っている。
薩摩雄次と杉田省吾である。
杉田は西田に輸血をしたとかいっていた。
西田は出血多量の瀕死の重傷で、
私の顔をみて、青い顔でただこっくりとうなずいただけである。
ここで当時の情勢の大要を述べておこう。
その頃順天堂は、中尉を指揮者とする憲兵の一隊が、かためていた。
その外の方に警察官もいた。
私が順天堂に行くことは、難波隊長から順天堂のこの中尉にすでに電話してあった。
憲兵の見張りがたち、順天堂は憲兵隊の管轄下にある。
これは陸軍省の指示によったものらしい。
勿論警察官もきていた。
そして、この憲兵と警察官はべつにいがみ合いもせずなごやかであった。
しかし問題はある。
今は予備役軍人、即ち民間人西田税が民間人川崎長光に撃たれた事件だとみれば、
ここは当然警視庁の手のうちにあるべきである。
だから、彼等の職業意識から云っても、警視庁がこの順天堂に手を入れ、
今回の事件 ( 五・一五 ) を契機として、
右翼急進分子に検挙の手を伸ばしたいことは山々であろう。
しかしそれをやられると、右翼民間人の口から、
陸軍青年将校の思想動向や行動計画めいたものが、内務省に知れ、
それがやがては国会における軍部攻撃の好材料になることは火を見るよりも明らかだ。
軍の威勢まことに不振の時点に突発した満州事変。
それはまだ八ヶ月しか経過しておらず、
外からは列国の非難を浴び、国論また軍部を攻撃していた当時である。
後年の軍部横暴時代とは全く事情がちがい、
軍の首脳部は戦々兢々として、ひたすら事なかれと祈って居た極めて情けない頃の話なのである。
警視庁の手が順天堂に及べば、そこには北一輝もいる。
薩摩等傘下の民間人も、また香田清貞、菅波三郎、栗原安秀等現役陸軍将校もいる。
軍としては何とかして七重の膝を八重に折っても、警視庁に手を引いてもらいたいのだ。
私が順天堂に行ったとき、警備の憲兵中尉は私に向かってこぼした。
「実は警察から普通人が普通人を撃った殺人未遂事件ではないか。---といってきている」 と。
青年将校は西田の身辺を見守るため、ここに詰めている。
現役将校には警察は指一本ふれられないことになっているからだ。
ことに青年将校が屯しているので、一応これを警戒するという名目で憲兵が出張っててる。
憲兵が来ているので、警察は遠慮して控えている、というのが当時の状態であったわけだ。
したがって 北にしてもその傘下の民間人にしても、青年将校達にしても、
憲兵は果たして自分達の敵なのか、あるいは味方なのか一向にわかっていない。
否 何しろ内閣総理大臣が殺されてしまい、犯人一同は憲兵隊に自首収容され、
上から下まで、テンヤワンヤで、何をどうしていいのか、誰にもわかっていない。
犯人が全部憲兵隊に居るのだから、警察では背後関係がどの程度のものなのか、
全く見当がつかない。
うかつに手を出して、警視庁が陸軍部隊に襲われないとも限らない。
だから八方すくみのにらみ合いをしている。
皆がキョトンとしているこの間に、万事うまく運んでしまうのが上策だと私は考えた。
軍の意向は大体呑み込んでいるしもりだ。
いつ飛び出すかわからない青年将校をなだめなくてはならない。
と同時に警視庁には事件を見送ってもらいたいところだ。
ここいら辺を軸にして大体の方針を立て、それを既定のり事実として、
角方面を手早く押し切るよりほかに手はない。
その方針と云うのは
一、順天堂を含め、今回の事件に関する一連の捜査は、軍の手で行い、警視庁には手を引いてもらう。
 そのため迂濶に警察が介入する場合には、陸軍の青年将校が激昂して、
事態が不測の拡大を示すことがあるとにおわす。
二、陸軍は一体のものであり、上司も憲兵も青年将校も、互いに相手を信ずる。
三、青年将校は事態の拡大を一切避ける。
と云った所である。
ここに参考のため、当時の憲兵の立場や権限について一言触れておく。
憲兵----やかましく云えば軍司法警察----は憲兵司令官の統括により、
軍内の司法警察に任じ、必要に応じては、一般人まで権限を及ぼしいてよいことになっていた。
そして憲兵司令官は検事正同様、令状の発行権を持っていた。
だから民間人に関する順天堂を、憲兵が取締ることは、違法でも越権でもなかったわけだ。
情勢の説明が大変長くなった。
西田の病室を出た私は北一輝に会った。北は私の手を握って心から喜んだ。
「やあ、実にいい時に来てくれました。
幸い西田も名医(院長)の手当で、おかげで一命はとりとめたようです。
然し 当分は何の活動も出来ないし、私やここに来ている民間人も、
いつ憲兵に連れて行かれるか判らない。
一歩もここから踏み出せず、外との連絡は全く断たれているのです。
山口さんは自由に市中を歩けますか?」
私は、現在のところ身柄は自由であり、憲兵隊から自動車を提供されているので、
市中どこでも飛び廻れること、
小畑少将と会い、事件の拡大防止をたのまれたこと、
西田の撃たれた事について同少将は心を痛めていること、
憲兵隊長は陸軍省の方針にもとづき、事件関係者に十分好意的態度をとっていること、
現在順天堂につめている憲兵は、皆さんの身柄を保護するように指示されていること
・・・などを告げた。
北は大変喜んで、
「 実にいい手を打ってくれてありがたい。
何しろここに居ては外の事が丸でわからないので、困り抜いていたのです。
ついては少し立ち入って相談しておきたい事があるからこっちへ来て下さい。」
と云って、
私を西田の病室のとなりの部屋の隅に導き声をひそめて、
「 順天堂は憲兵の手にはいり、しかも憲兵がわれわれに好意的なことがわかり、
おかげで一安心なのだが安心できないことがある。」
「 何です?」
「 あの向こう側の室にいる連中 ( 菅波、香田、安藤輝三、栗原 ) が弔合戦をやるんだと、
 さわいでいるんですよ。」
「 そんなこと今やられては、丸でぶちこわしです。小畑さんの心配しいてるのはそこなんです。」
「 僕も全く同感です。きのう事件が起こり、一時放心状態にあった当局者が、急速に態勢を立て直し、
 警戒を厳重にしている時、事を起こしても何も出来るものではない。
これはどうしても食い止めなければなりません。何とかうまい手はありませんか。
僕等は山口さんと違い、自由に市中を歩けないのだから手も足も出んのでね----」
「 ぢゃ、この順天堂につめている将校は、憲兵を敵視しない。
 また憲兵も青年将校を敵視しない。 これでいいんだが、西田君が動けないんだから困りましたね。」
北は言葉をついで、
「 僕には全く策がないんだ。あのとおり、西田は出血多量で真っ青になっている。
 青年将校諸君は、いつ仇討に飛び出すかも知れない。
さっきから時間も大分たっているので、 山口さんもう一度大手町(憲兵隊のこと)へ連絡に行って来てくれませんか。」

時すでに五月十六日の夜十一時である。
新聞は検閲され、ラジオは、デリケートなことは何も言わぬ。
だから、北をはじめ順天堂組は、全くのつんぼ桟敷に置かれた形なのだ。
これ以上騒ぎを大きくしてはいけない。
これが北と私との合言葉であった。
私は云った。
「 夜どんなにおそくなっても、ここにかえってくるから、
 北さんは若い者(将校)たちの立ちあがるのだけはとめておいてください。頼みます。」
北が
「 たしかに御引き受けましょう。
ただ一般情勢について僕の口から説明するより、山口さんから直接話してくれ 」
と いうので、
私は北につづいて若い将校の部屋に入った。
こうして私は、直接陸軍の急進青年将校達に会うことになり、そうして以後彼等と特別な関係に立つことになるのである。
誰かが云った
「 ア、山口さんだ 」
一同は丁寧に名刺を出し、あいさつをした。
私は、
「 今まで北さんと根本的な打合せをした。
 結論は陸軍の若い者が今立つべきではないと云うにあるのだが、情勢は時々刻々変わって行く。
権威ある結論を出すため、僕は今から憲兵隊や軍首脳に会ってくるから、
それまで何の動きもしないように、してくれ 」
と 言う。

「 ぢゃ我々だけで相談させてくれ 」
と 部屋のすみで、こそこそ相談している。
( 今の全学連とすることは似ている )  そして菅波三郎が代表して私に
「 北さん、山口さんが、云うのだから 」
と  私が戻るまで何もしないことを約束した。
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「 西田税 撃たる 」・・・と、順天堂病院へ駆けつけた
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私は乗ってきた車に再び憲兵軍曹を同乗させて、憲兵隊に行き 難波隊長に会った。
私は隊長に云った。
「 たった今まで、順天堂に居ました。
若い連中はなかなかいきり立っているので、北さんと二人でなだめています。
何しろ情勢が全くわからないので、一応連絡に来ました。」
隊長は云う。
「 困っているのは君だけじゃないんだ。われわれも全く手も足も出ないで弱っているのだ。
君みたいに自由の立場にないんでね。」
私は直ちに、
その場で小畑少将に電話した。
陸軍で一大尉が、少将に、しかも憲兵隊長の目の前で、直接電話をするということ、
これは当時は、大したことなのである。
小畑少将のこのときの立場をいうと、
彼は陸相、荒木貞夫のスタッフの随一、
すなわち荒木貞夫は、
柳川平助(騎兵監)、小畑敏四郎、山岡重厚、黒木親慶等を相談役とし、
この難局を切り抜けるべく徹夜の打合せをしているのであった。
黒木親慶という人は、
小畑と陸士同期、”シベリヤ出兵” に出征した退役騎兵少佐で、
白系露軍セミヨノフの参謀長をしたこともあり、知略縦横の豪傑でもあった。
従って小畑少将、黒木親慶に話をすることは、陸相荒木に話をすることであり、
この時点の陸軍首脳の考えが把握できるわけである。
小畑家に電話して
「 山口ですが 」
というと小畑夫人が出て
「 主人は今黒木さんのところにいます 」  という。
直ちに黒木家に電話すると、陸相官邸にすぐきてくれという。
当時陸相官邸は、現在の三宅坂の社会党本部のすぐ裏手である。
私は直ちに陸相官邸に行くわけにもいかず、ともかく電話に小畑少将に出てもらった。
なおこれまでの電話、次の電話は、すべて警視庁の盗聴をおそれ、
全部、私達の符牒で話しをしたのである。
小畑 「 どこにいる。」
山口 「 憲兵隊長のそばにいます。」
小畑 「 連中は大丈夫か。」
山口 「 実は大変なことになつている。北さんの心配の通りになりそうだ。」
小畑 「 現在はどうなんだ。」
山口 「 全体の情勢をのみこんで、順天堂に私が帰るまでは、なにもしない。
     寿司でも喰べていることになつている。」
小畑 「 あの連中に、がたがたされたのでは今立案中の計画も全部オジャンになる。
     陸相官邸では、大臣、参謀総長、次官、参謀次長、軍務局長が集って、
          協議しているところだ。」
結局、私が順天堂で名刺をもらった連中を北一輝と私が、
目下おさえているということで、その処置について話あった。
将校の処罰、カク首等は、
師団長から陸軍大臣に上申して行われるもので、申請の権限は師団長にある。
この場合、近衛、第一師団連絡協議会で決定されるだろう。
しかし、小畑少将は、
この協議会を形成する、時の近衛師団長、同参謀長、第一師団長、同参謀長を
「 世の裏の裏を知らぬ純軍人 」 と言い
隊長職権でなんらかの処置に出るとしても、
最後的な決定は陸軍省人事局補任課に於いて行われる。
そして陸相官邸における協議の成り行きによれば、陸軍省、参謀本部の最高首脳は、
順天堂にいる青年将校の最後の身分を確実に保証したのであった。
小畑少将に代り 黒木は
「 北さんに、近衛、第一師団は強硬に出てくるが憤激せず、若い人が落着くようよろしく願う 」
と云い、
結局次のように決まった。
① 近衛師団長、第一師団長、及び教育総監の意図で若干の青年将校を軟禁するかもしれない。
② 憲兵隊は保護検束も尾行もしない。
③ カク首の上申があっても陸軍省は請けつけぬ。
④ 以上北一輝に善処せしめるよう。
かくて私は五月十七日の朝三時か、四時頃に順天堂にかえった。
青年将校を集めて前記の四項目を伝えると、
栗原などは
「 俺達は何もしておらん、軟禁とはなんだ 」
と 憤激している。
私は
「 最終的な責任は俺がもつ、まあ軟禁ぐらいはしようがない、ここらぐらいでおとなしくしろ 」
と言うと、
やがて菅波三郎、香田清貞が代表して云った。
「 山口さんが責任をもつというのでしたら、おまかせいたします。大変なお骨折りでしたね。」
北一輝は二人きりになると、涙ぐんで長いこと私の手を握り、たったひとこと。
「 ああ助かった 」
と 言った。
( こうまで国を憂い、軍に尽した北一輝は、後にいわれなく、軍の手によって銃殺されるのである。)
かくて私は再び順天堂の結果を報告に、
憲兵隊---陸相官邸と廻り、眼を真っ赤にして大久保の自宅に帰った。
夜は完全に明けていた。
そして陸軍青年将校は微動だもしなかったのである。

しかし事態は妙なことになった。
菅波三郎は、その中隊だけ習志野に演習に出され、大蔵栄一も戸山学校長宅に軟禁された。
私も技術本部の射撃場にある愛知県の伊良湖岬、
芭蕉が 「鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬」 と 詠んだあの岬の端に演習にやられた。
上官なんて全くいい気なものだ・・・・・・・。

昭和7(1932年)年5月15日


山口一太郎

著者 山口一太郎 (1900ー1961) 元陸軍大尉
陸軍士官学校33期生
昭和10年3月歩兵第一連体第7中隊長
2.26事件で「反乱者を利す」の罪で無期禁固に処せられた
昭和36年2月22日に死去
本稿は亡くなる1年前に、病床で同氏の体験を鉛筆で書かれた「思い出」の一節である
--現代史資料月報-- 1963年5月 第4回配本「国家主義運動」(一)付録・・・から転載
五 ・一五事件


菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」

2018年02月22日 22時17分25秒 | 菅波三郎

菅波三郎
5.15当日の菅波三郎中尉
菅波三郎が、
西田の遭難を知ったのは、十五日の午後八時頃であった。
二、三日前から郷里の父親が裁判のことで上京しており、
長兄一郎もカナダの駐在武官から帰国直後で、
菅波も上海から凱旋して復員業務を終わったところであった。
この日の夕方、三人は青山の下宿でおちあい、
父は前の聯隊長山下奉文の家に挨拶に行きたいという。
山下はこの年の四月陸軍軍事課長に栄転していた。
三人そろって山下のジタク行ったが、おり悪く不在であった。
夫人に挨拶して辞去しようとしたら、菅波に電話がかかってきた。
「 どうして僕がここに居るのがわかったか実に不思議だった。
歩一の栗原からで、
西田さんが血盟団の川崎に撃たれて重体だというのだ。
そりゃ大変だというので、
父や兄に別れて大急ぎでタクシーを拾い、西田さんの家に馳せつけた。
ところが、はからずもそのタクシーの中で今日の事件を知ったというわけだ 」
菅波は、運転手の口から今日の午後、
犬養首相が海軍の青年将校と陸軍士官候補生たちに襲撃されて重体だと聞かされる。

西田の家についたら、入院のため車に乗せる所であった。
菅波は居合せた栗原と共に聯隊に急いだ。
歩兵三聯隊では非常呼集があるかも知れないと思ったが、
平静であったので十時すぎ順天堂病院へ駈けつけた。
同志将校のほとんどは顔をそろえていた。
いろいろと討議の末、
陸軍大臣に会って吾等の要望を聞いてもらおうというので、
タクシーに分乗して陸相官邸に向った。
陸相官邸についたのはもう十一時をすぎていた。荒木陸相は不在であった。
「 俺が話を聞こう 」
と、参謀本部次長の眞崎甚三郎中将が顔を出した。
菅波たちは、
この事件を契機に国家革新の実現を強く推進していただきたい、
と熱誠こめて力説した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・

ここで断っておくが青年将校たちのいう国家革新とは、
党利党略にのみ狂奔する政党政治に猛省を促し、
窮乏の極に呻吟する一般国民を救済する一大革新政治の実現である。
真に国民一人一人に父母の仁愛を以て望まれる天皇政治の実現であり、
上下一体となって国利民福の実行をあげることである。
最近よく言われるように、軍部の独裁や侵略戦争の遂行では断じてない。
二・二六事件以後、
軍部の独走体制が確立し
無謀な大東亜戦争をひき起こして敗北したから、よく誤解されるが、
国家革新を叫ぶ青年将校たちは
一人として軍部独裁や侵略戦争などを主張してはいない。
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眞崎は青年将校の持論をじっと聞いていたが、
「 わかった、君たちの気持を充分に大臣に伝えよう 」
と、約束してくれた。
会談は三十分あまりで終わった。
まもなく官邸の用人が
「 こちらへ来て戴きたい 」
と、菅波を大広間へ案内した。
途中廊下で小畑敏四郎大佐に出会った。
「 残念な事をしてくれたなあ 」
と 言って嘆いた。
菅波も同感の意を述べた。
・・・菅波三郎 ・ 懸河の熱弁

 永田鉄山
案内されて大広間に来ると、
省部の佐官連中が綺羅星のように並んでいる。
「 オッ、菅波こっちへ来い 」
永田大佐は広い大広間の片隅に、菅波を誘って対座した。
永田鉄山とはこれで二度目の対面である。
昨年の十月、安藤輝三が是非にと、菅波をさそって陸軍省の軍事課長室に鉄山を訪ねた。
安藤は永田に大変目をかけられていた。
菅波は永田と革新論について語りあったが、菅波は承服しなかった。
永田のくれた印刷物をみて
「 ハハア統制経済をやる考えだな 」
と、とっさに感じたと、語っている。
陸士、陸大とも優等で通して
「 鉄山の前に鉄山なく、鉄山の後に鉄山なし 」
と、もてはやされた秀才である。
「 秀才ではあったであろうが、肝っ玉の小さい人であった 」
と 菅波は評する。
その永田が、この夜は開口一番、
「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」
と、菅波に鋭くつめよった。
「 自分も全く寝耳に水で驚いています。
上海から帰還以来、復員業務に忙殺されて、士官候補生たちに会う機会がなかったのです。
常日頃から自重するよう、やかましく訓戒してきましたが、今日起つとは夢にも思っておりませんでした 」
菅波は永田の両眼を見すえたまま静かな口調で答えた。
そこへ向うの席から好奇心をもったらしい東条英機大佐
( 当時、参謀本部の編制動員課長 ) が、ゆっくりと近づいてきた。
「 君はあっちへ行ってろ」
永田の一喝で、東条は苦笑しながらひき返した。
一期違いだけれど、東条は永田には頭があがらない。
一目も二目もおいていたといわれる。

三十分あまり対談したのち、菅波は大広間わ出ようとすると、
始終同席していた東京警備司令部の参謀、樋口季一郎中佐が寄ってきて、
「 お前たちの気持はよくわかっているよ 」
と、肩をたたいてくれた。
 樋口季一郎
樋口は菅波に同情的で理解者の一人であった。
大蔵や安藤たちは もう帰っており、
菅波はひとりタクシーをひろって北青山の下宿に帰った。

西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


五・一五事件 『 西田を殺せ 』

2018年02月21日 05時55分43秒 | 五・一五事件

「 西田を殺せ 」 
と、川崎に命じたのは古賀清志であったといわれる。
「 いや、あの頃はどこへ行っても壁にぶつかる。
 その壁の向うには西田の姿がある。
この男が邪魔しているな、邪魔者は殺せ、というので狙撃を命じたわけだ。
何しろあの頃は若くて、生命がけで国の進路を変えようと昭和維新ばかり考えていたんで、気が立っていたからね」
・・・古賀清志の追憶

 西田税 
血盟団事件ガ起リ二月九日井上蔵相が斃サレテ後、
海軍ノ古賀中尉ガ私ノ所に來リマシテ、
二、三人で暖炉ヲ囲ミ食事シナガラ、
古賀ハ
「 既ニ矢ハ弦ヲ離レタ。
 水戸ノ連中ガ今後何ウ出ルカ判ラヌガ、
 自分達ハ黙ツテ之ヲ見殺シニスル事ハ出來ナイカラ、後ヲ追フテ第二ノ犠牲ニナリタイ。
尤モ、貴方が賛成シテクレナケレバ、再考ハシテ見マスケレド 」
ト云フ様ナ事ヲ申シマシタ。
私ハ、藤井ガ居ナイカラ海軍ノ統制ハトレナイデアラウト心配シテ居リマシタガ、
海軍トシテハ藤井ノ弔合戰ノ意味モアツテ、決然起ツ事ニナツタノデハナイカト思ヒマス。
從テ、私ガ藤井ノ蹶起ヲ阻止シタト云フ事ニ附、海軍側デハ感情上快ク思ツテ居ナカツタモノト考ヘラレマス。
古賀中尉ガ右ノ様ニ申シマスト、
戸山學校附ノ柴大尉ハブツキラ棒ニ、
「 其ノ様ニヤリタケレバ、海軍ダケデヤレバ宜イデハナイカ 」
ト言ヒ、私ハ
「 幾ラ友人ガ犠牲ニナツタカラトテ、自分モ犠牲ニナラネバナラヌト云フ事モ無カラウ。
 人ノ居ル所デソムナ事ヲ言ツテハイカヌ。マアヨク考ヘテ見ヨ 」
ト申シ、再考ヲ促シテ歸シマシタガ、
私ハ只今申シタ通リ三月六日ヨリ檢束留置サレ、
同月二十二、三日頃帰宅ヲ許サレマシタ処、
常カラ平和ナル行キ方ヲシテ居ル大蔵大尉ガ來マシテ、
「 貴方ノ留守中ニ、陸軍側青年將校及歩兵第三聯隊ノ士官候補生ト海軍側ノ者が寄會ヒ、
 蹶起ニ附色々相談ヲシタガ、意見ガ一致セズシテ別レタガ、非常ニ危險ナ空氣ガアル。
海軍側ト陸軍側ノ士官候補生トデ、何カヤリ出シサウデアル 」
ト申シ、大變心配シタ様ナ話振デアリマシタノデ、
私ハ大蔵ヲ霞ヶ浦航空隊ニ遣ハシ、説得ニ努メサセ、
尚古賀中尉ト一度會ヒタイト云フ事ヲ言傳シマシタ。
大蔵大尉ハ歸ツテ來テ、
海軍側ニ話シタ処、誰が何ト言ハウト問題デナイト言ハレタトカデ、
憤慨シ、且心配シテ居リマシタ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・

昭和七年三月二十三日の春季皇霊祭の佳日に、
麻布第三聯隊の安藤輝三大中の部屋で、陸海軍同志の秘密会合が、
海軍側からの要請で催された。
陸軍から相澤少佐、村中孝次中尉、香田清貞中尉、朝山小二郎中尉、安藤輝三中尉
それから私の六人の将校と、坂元士官候補生とが出席した。
海軍からは、古賀中尉が緊急な用事のため 欠席したので、中村中尉が一人でやって来た。
「 小沼、菱沼 等のあけた突破口を、この際速やかに拡大して、
一挙に革新を断行すべきである。
坐して機の到るを待つことは かえって彼等を犬死にさせるようなものだ。
時期は来ておる、最早一刻の猶予もゆるさぬ、
陸海の同志は決意を新たにして、敢然蹶起すべきである 」
と、中村中尉は、
海軍側の決意をほのめかしながら、陸軍側の蹶起をうながした。
陸軍側は 「 時期尚早 」 という理由で、その申し入れを一蹴した。
・・・
末松太平 「年寄りから、先ですよ」 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐は、

そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、
日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、中村中尉らをいさめ、

「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのため、この秘密会合は簡単に終わった。
一同が雑談に移った頃、中村中尉は秘かに、坂元士官候補生を廊下につれ出して、
何やら相談していた。
私達はこの二人の行動について、別段気にもかけなかった。
その時以来、士官候補生らは私達との連絡をプッツリ絶ってしまった。
これまでは、日曜ごとにやって来て、溌溂たる談論を風発して、私達を辟易させていたのに、
それが一度に消えてなくなったように来なくなったことは、
陸軍側同志に一抹の淋しさを抱かしめると共に、少なからぬ不安を感じさせた。
・・・ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
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四月上旬古賀ガ上京シテ來タノデ、當局ノ警戒モアリ、私ハ上野駅デ同人ト會ヒマシタ。
ソシテ、「 何カ變ナ事ヲヤルノデナイカ 」 ト尋ネマシタ処、
古賀ハ
「 関東、東北 ノ農民モ動クノデ、私モ近ク蹶起スル。 
 陸軍ノ青年將校ハ駄目ダ、腰抜ダ。アノ様ナ者ハ相手ニ出來ヌ 」
ト申シマスカラ、私ハ
「 夫レハ君ノ思ヒ過シダ。
 権藤ノ言フノヲ信用シテ農民ガ動クト考ヘテ居ル様ダガ、誰カニ嗾そそのカサレテ居ルノデナイカ。
間違ツタ判断ニヨツテ動イテ居ル様ニ思ハレルカラ、マアヨク考直シテ見テクレヌカ 」
ト言ヒマシタ処、古賀ハ、
「 考直シテ見マセウ。今後共連絡ヲトリマス 」
ト言ツテ別レマシタガ、其ノ後ノ連絡モアリマセヌデシタ。
翌五月ニ入ツテ山岸大尉ガ突然出テ來リ、
「 血盟団事件ノ拳銃ノ事デ調ベラレ、此方ニ來テ居ル 」
ト言ヒマスカラ、私ハ
「 何カ變ナ事ヲ考ヘテ居ル様ダガ、イカヌゾ。古賀ニモ傳ヘテクレヌカ 」
ト申シマシタ処、
山岸ハ 「 承知シマシタ 」 ト言ツテ歸ツテ行キマシタ。
其ノ頃、陸軍士官学校區隊長ヲシテ居タ村中孝次ガ、
週番明ケダト言ツテ学校ヨリノ帰途私方ニ立寄リマシタノデ、
情勢ヲ聞キマシタ処、
「 騒イデ居ルガ多分ヤラヌダラウ、大丈夫ダ 」 トノ事デアリマシタガ、
他ノ者がヤレバ村中モ共ニヤリタイ気持デ居ル様ニ見受ケマシタカラ、注意ヲ与ヘ歸シマシタ。
私ハ村中ノ此話ヲ聞イテ安心シテ居リマシタ処、
五月十五日朝大事件ガ起ツタノデ驚キマシタガ、
當時午後六時頃血盟団ノ殘党川崎長光ト云フ青年ガ訪ネテ來マシタノデ、
久振故座敷ニ通シテ色々話合ツテ居ル内、突然拳銃デ狙撃サレマシタ。

何故狙撃サレタノカ
其ノ時ノ様子デハ、川崎ヨリ狙撃サレル原因ガ判ラヌノデ、其ノ後色々考ヘマシタガ、
私ハ共ニヤラウトシテヤラナカツタモノデモ、
又彼等ガヤルト云フ事ヲ他人ニ洩ラシタ事モナイノデ、
何ウシテ狙撃セラレタカ、判リマセヌ。
或ハ、海軍側ヲ袖ニシテ居ルト思ツテ怨ムダ結果カモ知レマセヌ。
大川周明ガ川崎ノ背後ニ居タト云フ噂ヲ、耳ニシタ事モアリマス。


・・・リンク → 五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 

血盟団事件ニ民間側ガ蹶起シタノモ、
五 ・一五事件ニ海軍側ナドガ蹶起シタノモ、
其ノ終局ノ目的ハ国家革新ニ在ツタノデナイカ
勿論、其ノ目的デアツタト思ヒマス。

同ジ精神、同ジ目的デ蹶起スルモノナレバ、
被告人ハ自ラ進ムデ参加スベキ筈ナルニ、却ツテ反対シタノハ何ウシテカ

目的ハ國家ノ改造ニ在リテ同ジデアリマスガ、改造ノ内容、方針ガ異ルカラデアリマス。

反對ノ理由ヲ告ゲタ事ガアルカ
理論ヲ以テ反対シタガ、肯入レラレナカツタノデアリマス。
如何ナル點ニ於テ反對デアツタカ
國家改造ノ手段ハ直接行動デ無ケレバナラヌト云フ事モナク、
又直接行動ハ絶対不可ナリトモ傳ヘヌト思ヒマス。
要ハ、其ノ方針、信念、観察ニ依ツテデアリマス。
私ハ此三点ヨリ、血盟団事件、五 ・一五事件ニ反對シタノデ、
友人トシテ情理ヲ盡シ、理論ヲ以テ論シテモ、彼等ハ肯入レテクレナカツタノデアリマス。
私ハ、三月事件ハ陸軍省参謀本部ノ大部分ガ動イテ成ラナカツタ。
十月事件ハ、背景ハ知リマセヌガ中堅將校ガ蹶起シ、青年將校ノ多数ガ共ニヤツテ尚且成ラナカツタノデ、
之ヲ思フト此事件ニハ何所カニ大ナル欠点、大ナル矛盾ガアツタカラデハナイカ、
或ハ人間ノ力デハ如何トモ仕難イモノガアルノデハナイカナドト思ヒ、
其ノ後ハ周囲ノ者ガ如何ニ言ハウトモ、私ハ眼ヲ閉ヂテ居ツタノデアリマス。
要ハ、自分ノ爲ヲ思ツテスルノデナク、名モ要ラナケレバ命モ要ラナイ、
少シデモ國家社会ノ爲ニ貢献スル所ガアレバ宜イト思ツテ居リマス。
・・・ニ ・二六事件西田 ・北裁判記録(三)  第一回公判 から


菅波三郎 ・ 懸河の熱弁

2018年02月21日 04時08分05秒 | 菅波三郎

菅波三郎
・・・いろいろ討議の結果、
午後十一時頃西田の手術の結果をみまもるいとまもなく、
後ろ髪をひかれる思いで、
菅波、村中、朝山、栗原の各中尉及び私の五人は、
自動車を飛ばして陸相官邸に乗りつけた。
 
眞崎甚三郎    小畑敏四郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

荒木陸相は、閣議に出席して不在。
眞崎中将がかわって面接した。
約三十分にわたって開陳した、私達の意見に対して、
眞崎は善処する決心を披瀝しつつ、私達に十分自重するよう要望した。
終わって私達は、奥の一室に導かれた。
そこには、小畑敏四郎少将と黒木親慶とが待っていた。
黒木は、小畑少将とは同期生の間柄でかつてシベリヤ出兵に際して、
少佐参謀として従軍し、白系ロシアのセミョーノフ将軍を援けて軍職を退き、
今日に至っておる。
その縦横の奇略と底知れぬ放胆さは、当時日本の一逸材で、
陸軍大学校幹事の職にある小畑少将と共に、
荒木陸相の懐刀的存在であった。
「今夜の事件は残念至極だ。
もっといい方法で、革新の実を挙げるよう、
政友会の森恪らと共に着々準備を進めていたんだ。
すべては水泡に帰した」
と、小畑少将はいかにも残念そうだ。

閣下、今時そんなことを言っておる時期ではありません。
この事態に直面して、いかにしたならば、この日本を救うことが出来るか、
と言うことに、軍は全能力を傾注すべきでありますぞ

菅波中尉は、
滔々と懸河の熱弁を振るった。

今夜の衝撃によって、軍は腰砕けになってはいけない。
もし軍の腰が砕けて、一歩でも 後退するようなことがあれば、
それは日本の屋台骨に救い難い大きなキズが出来るのみだ。
そのキズが出来た時、
ソ満国境をロシアが窺わないと、誰が保証することが出来るか。
自重すると言う美名にかくれて躊躇することはいけない。
この際自重することは停滞することだ。
停滞は後退と同列だ。
軍はただ前進あるのみ、
前進してすでに投げられた捨て石の戦果を拡大する一手あるのみ
私達は繰り返し主張した。

いろいろ意見を交わし、
議論を闘わせつつ、まだ結論を出せず到らず、
これからだという時、
各部隊長から呼び戻しの命令が来て、
残念ながら私達はそれぞれ部隊長の許に引致された。
時に午前四時を少し過ぎていた。・・・


大蔵栄一 著 

五・一五事件 西田税暗殺未遂の真相  より


五・一五事件 ・ 西田税 撃たれる

2018年02月20日 19時22分27秒 | 五・一五事件

 
西田税  撃たれる

西田宅をおとずれた私と朝山とが、
西田夫妻の夫婦喧嘩に対して 「犬も食いませんからね・・・」
と、夕食を固辞して玄関を出て間もなく、川崎長光は、その玄関にたったのだった。
「 川崎君じゃないか、さあ上がれ 」
西田は、久しぶりの川崎を二階の書斎に通した。
日召や他の連中の元気であることや、差し入れのことなどこまごま説明した。
川崎は終始うつむきかげんに聞いていたが、その態度には落ちつきがない。
少々変だぞ、と西田が感じたのは、十五分か二十分すぎてからであった。
川崎は、ころあいを見て、隠していた拳銃を出して構えた。
「 何をするッ 」
と 西田が一喝して立ち上がった瞬間、第一弾が西田の胸部を貫いた。
西田は、鉄の棒で、ピシッと殴られたような衝撃を感じた。
だが、西田はひるまなかった。
両手でテーブルを掴むや前の方に押し倒し、
倒れたそのテーブルを乗り越えて、川崎に挑みかかった。
川崎はあとに退りながら第二弾を放った。
西田の腹部に命中した。
後退する川崎は、障子を倒して廊下によろめき出た。
西田の家に駈けつけたとき、
垣根の外から見た光景は、そのときの生々しい惨劇の跡だったのだ。
西田の家の二階は廊下がカギ形に曲がって、その廊下の端が階段になっていた。
川崎は、廊下を後退しつつ続けさまに撃ちまくった。
西田は、左手を前方に出して左半身に構え、川崎に迫った。
一発が左の掌を貫通した。
次の一発は左肘を、他の一発は左肩を貫いた。
西田は、川崎の発射のたびに口の中で一発、二発、三発と数えて肉迫した。
川崎が撃ち尽くしたと知ったとき、西田は川崎に組みついた。
階段の降り口であったため、二人はもつれて階段を転がり落ちた。
その途端、西田は川崎をとり逃がした。
大きな音に驚いた西田夫人が、玄関に飛び出してみると、
血に染まった西田が「早くつかまえるんだ」と叫んだ。
夫人はとっさに川崎の腰をつかんだ。
だが、川崎は、つかんだ夫人の手を振りはなして逃げた。
気丈な夫人は、足袋はだしのまま追っかけたが、川崎の姿はもうそこにはなかった。
玄関に戻ってみると、
気息奄々の西田が壁にもたれて、女中の差し出すコップの水を飲もうとしていた。
「 大けがに水はいけません 」
夫人は、西田からコップを奪い取った。
急を知って駈け付けた、北、栗原らによって順天堂に運び込まれたのは、
受傷後、二時間を経過した後であった。
手術は全身麻酔がかけられた。
西田の口からは、微かに観音経が誦せられた。
命中した弾は五か所であった。
出血多量で一時は生命もあやぶまれたが、
奇跡的にその生命はくいとめることができた。

西田税を撃った  川崎長光
大蔵栄一  著
二・二六事件への挽歌 より

同志の裏切りに斃れる
朝山中尉と私とが、西田宅を辞去して、ほどなく川崎長光がその門を叩いた。
川崎は、小沼正、菱沼五郎と共に、井上日召の薫陶を受けた血盟団の残党で、
あの事件当時は宇都宮の輜重隊に入隊していた関係で、
事件には直接参加していなかったのだ。
「川崎君じゃないか、久し振りだなァ、よく来た。さア上がれ」
玄関に佇んだ和服姿の川崎を認めた西田のまなざしは、なつかしさにあふれている。
そして、夕食をすまして来た、という川崎をいだくようにして二階の書斎に招じ入れた。
二人は、テーブルをさしはさんで、向かい合って静かに椅子についた。
テーブルの上に、無造作に投げ入れられた遅咲きの八重の一枝が、かすかにゆれている。
「暫くでした。お変わりはありませんでしたか」
川崎はうつむいたまま挨拶をのべた。
「君こそどうだった? 元気らしいではないか、結構なことだ」
と、言いつつ西田は、
川崎のなんとなく落ち着きのない態度に、微かな不審を抱いた。
だが、未決に収監されている日召のこと、
あるいはその他の同志の近況や指し入れのこと、
などについて話を進めて行く中に、最初抱いた不審は、
いつの間にやら跡形もなく消え去っていた。
「いろいろと有難うございます」
と、言った川崎の態度は、依然としてうつむいたままである。
陸軍や海軍の同志の近況に関することを縷々説明し出した頃、西田は川崎の態度に、
常日頃と異なったものをハッキリ確認した。
時々、うつろな返事をしたり、あるいは袖からこっそり懐の中に手を入れたり出したり、
その動作には少しの落ち着きもない。
かれこれ、十五分か二十分くらい経過したと思われる頃、
西田は話をやめて、ジーッと、川崎の顔を凝視した。
顔色のすぐれない彼の顔には、脂汗がにじんでいる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
テーブルの上の八重の一ひらが、音もなく散って西田の足許に落ちた。
息づまる一秒、二秒・・・・・。
近くを、小田急の電車が、ゴーッと音をたてて過ぎ去った。

火を吐いたブローニング

川崎は、スックと立ち上がった。
椅子がパタンと音を立てて倒れた。
同時に川崎の右手に握られたブローニングが火を吐いた。
弾丸は西田の耳をかすめて後の壁を貫いた。
なごやかな静かな部屋は、一瞬にして鬼気せまる修羅場と化し去った。
「なぜオレを殺そうとするのだ?」
西田は、椅子にかけたまま両手でテーブルを握りしめて、
乱心したとしか思えない川崎を、一喝しながらにらみつけた。
怒りに燃えたそのまなざしの中には一抹の悲しみがただよっている。
第一弾を撃ち損じた川崎は、「しまった」と、かすかに口走りながら、
一歩退いて第二弾発射の姿勢をとった。
だが、西田の胸に向けた銃口は、僅かにふるえを帯びている。
一発で西田を射殺するつもりでいた川崎は、
目前のこの不覚に、少なからず、心の動揺を禁ずることが出来なかった。
その動揺は、怯者の動揺ではない。
同志を殺さねばならぬ悲運に対して、心の片隅に空洞が出来ておるのだ。
西田は、川崎にとっては、尊敬する先輩の一人である。
その尊敬に値する同志を射殺しなければならぬ。
決行に際して、川崎は幾度か躊躇せざるを得なかった。
そして今、銃口の前に怒りに燃えた西田の両眼が、
らんらんと底光って、今にも飛びかからんと身構えている。
早く撃つんだ、撃って西田の息の根をとめるんだ。
と、自分で自分の心を叱咤するけれども、
一方、イヤ命中しなかった方が、むしろよかったんだ、
と祈りに似た安心感が、心の片隅から強く呼びかけて来る。
川崎の気持は、千々に砕けて焦燥感は増すばかりであった。
これではならじと、気を持ちなおした川崎は、西田の怒眼をはね返した。
同時に、「馬鹿者っ」と、大喝しながら西田は、
咄嗟に、前のテーブルを押し倒して、それを乗り越えて突進した。
川崎は、二、三歩退きながら第二弾をぶっぱなした。
弾丸は、顔面を覆うように前につき出した西田の右の掌を貫通した。
掌から吹き出した鮮血は、青畳を真っ赤に染めて無気味だ。
気丈な西田は、負傷に屈せず同じ姿勢で進んで行く。
川崎の血走った両眼には、すでに躊躇もなく、狼狽もない。
ただあるものは必殺の殺気ばかりだ。
西田の剛気に気押されて後退した川崎のせなかが、障子にぶつかった。
障子は、バタッと音をたてて廊下に倒れた。
勢い余って川崎の身体は廊下によろめき出た。
その途端に発射された第三弾は西田の肺を貫通した。
西田は、鉄棒でたたかれたような痛さを胸に感じて、二、三歩よろめいた。
「三発目」西田は、心の中で発射弾数を数えながら、ジリジリと迫った。
鈎形に曲がった廊下を退きながら放った第四弾は、西田の右肩に命中した。
どす黒い血のりが着物にあふれて、西田の不屈の闘魂は、いよいよ猛り狂った。
川崎は、階段の降り口まで退いて、第五弾、第六弾を夢中にぶっぱなした。
一つは右の肱を貫通し、一つは右の腹に命中した。
五発、六発、と数え終わった西田は、
川崎が全弾を撃ちつくしたことを直感して、手負猪のごとく飛びついた。
二人は、組み合ったまま二階から階段を転がった。
階下に折り重なって落ちた途端に、西田はせっかく捕えた川崎をとりにがした。
川崎は、脱兎のごとく玄関から逃げ去った。

蒼白くゆがんだ顔

その時、大きな物音に驚いてかけ出して来た西田夫人は、
この有様を見るや、足袋はだしのまま川崎を追跡した。
負傷に喘ぎながら、西田は玄関の壁にもたれて、静かに呼吸を整えた。
今までの騒ぎにひきかえて、家の中は物音一つしない。
五つの疵口から吹き出る血潮は、着物を染め、畳に流れてドス黒く凄惨である。
「オレの一生もこれで終わりか!」
全身の力が抜けていってしまうような激痛をこらえて、
静かに瞑目した西田のまぶたの底に、
越し方の苦難の途が、影絵のごとくきらめいて消えた。
川崎が、オレを殺そうとしたのは何故だ。
恐らく彼の本心からではあるまい。
背後に誰かそそのかした奴がいる、とすりば、それは誰だ。
イヤイヤ誰を恨むでもない、すべては天のなせるわざだ。
と、達観しながらも、この疑問を解く鍵は、どうしても探し出すことは出来なかった。
ふるさとの米子の風景が彷彿として浮かんだ。
風清き勝田ケ丘の奥津城から、今は亡き父がにこやかにさしまねいている。
年老いた母のなつかしい面影が、幾度か交錯した。
ハッとして、みひらいた西田の両眼には、不覚にも涙がにじんでいる。
古ゆ  ますらおがふみゆける道
涙と血との  凝りたるその道
辞世ともつかぬものを、西田は寂しく口ずさんだ。
「 お水はいかがでしょうか 」
と、言いながら、女中が恐る恐る顔を出した。
「・・・・・・」
西田は、女中に一瞥をあたえて、無言のまま頷いた。
間もなく女中は、大きなコップに、水をなみなみついで差し出した。
西田は一気に飲みほした。
二杯目を要求して、また一気に飲みほした。
この二杯の水に、西田は甘露に勝る味わいを覚えた。
「 とうとう見失いました 」
と夫人は、残念そうに喘ぎながら帰って来た。
右手にコップをつかんでいる西田の姿を見るや、
「 いけません。大怪我に水は毒です 」
と叫んで、西田からコップを奪いとった。
コップを奪いとって、つぶさに疵口をしらべた夫人は、
その傷の余りに大きく深いのに驚いて、
なすすべもなくただ茫然とみまもるのみであった。

栗原中尉が、勢いよく飛びこんで来た。
「 どうしたんですか、その血は・・・・・? 」 と、栗原中尉は唸った。
やがて、川崎に射たれたことをきき知って激怒した。
「 畜生っ 」
「 畜生っ 」
と 吐き捨てるようにつぶやきながら、
夫人と女中の手を借りて、西田を寝室に運んだ。
急を知って、北一輝夫妻もかけつけて来た。
変わりはてた西田の姿に接した北の両頬に痛憤の涙が一筋、跡をのこした。
順天堂病院に入院が決定されて、
西田らを乗せた自動車は、悲しい沈黙をつづけながら、代々木の森から遠ざかって行った。
日頃、蒼味を帯びた西田の顔面は、ひとしお蒼白くゆがんでいた。

朝山中尉と私は、西田の身の上に大きな不安を感じながら、
急遽新宿に出て、駅前の自動電話に飛び込んだ。
北一輝邸に電話して、西田が順天堂病院に入院したことを知って直ちに駆けつけた。
病院の時計は九時を過ぎている。
あわただしく駆け廻っていて、
今まで時間を忘れていたことに気がついた私は初めてわれをとりもどしたような気がした。
病院の応接室では、
北一輝、菅波三郎、村中孝次、栗原安秀らが額を集めて、何事か語り合っている。
私は、廊下に立ちどまって、彼等の顔を一人一人燃えつくすようにみつめた。
数年も会わなかったなつかしい友に、突然会った時のような喜びを感じた。
そして、病院に適わしくない緊張した空気が、私の身をひきしめた。
「 オウ、大蔵君に朝山君か、今西田君が手術室にはいるところだ。早く会って来給え 」
北が、いち早く私達の姿をみつけて、せきたてるように叫んだ。
西田は、独り寝台に横たわっていた。
瞑目した顔が蠟のように蒼白い。
私達が近づいた時、静かに眼を開いて、ニッコリ笑った。
「あとをよろしく頼む」
その声は低く細い。だが、耳を近づけれはハッキリした声で、語調も確かだ。
「大丈夫ですよ、頑張って下さい」
私は、必ず助かると心の中でハッキリ言い切った。
間もなく、看護婦が来て移動寝台は静かに手術室に押されて行った。
うす暗い廊下の電灯が遠ざかって行く西田の上を力なく照らしている。
私は心からの祈りを捧げて合掌した。

西田の手術後の経過は良好であった。
手術に際してして、全身麻酔が施された。
西田の疵口に、院長佐藤博士のメスがザクリと音をたてた時、
西田の唇がかすかに動いて、観音経が誦し出された。
かくして西田は九死に一生を得たのであった。
昭和七年五月十五日。
おもえば、私にとってこの一日は、実に長い一日であった。


大蔵栄一  著
五・一五事件、西田税暗殺未遂の真相
目撃者が語る昭和史 第2巻 昭和恐慌
日本週報臨時増刊 / S ・34 ・3  
リンク→ 西田はつ 回顧 西田税 1 五・一五事件 「 つかまえろ 」 

 ・
五 ・一五事件の副産物として、西田税が同じ陣営の血盟団から狙撃されたことから、
西田には革命ブローカー、煽動家という暗いイメージがまつわりつくようになった。
「 西田を殺せ 」 と、川崎に命じたのは古賀清志であったといわれる。
「 いや、あの頃はどこへ行っても壁にぶつかる。その壁の向うには西田の姿がある。
この男が邪魔しているな、邪魔者は殺せ、というので狙撃を命じたわけだ。
何しろあの頃は若くて、生命がけで国の進路を変えようと昭和維新ばかり考えていたんで、
気が立っていたからね」
と、往年の精悍な面影を忘れ去ったような、好々爺然とした古賀不二人(改名)の追憶である。
軍事法廷で西田を激しく非難したのは、古賀ばかりでなく中村義雄もこう言っている。
「 西田は同志として一緒に死ぬといふ人物でなく、実行よりも煽動家であり、
どうも我々の計画を憲兵隊方面に漏らしたやうな点もあるので、
決行当日西田を殺すことな成ったのです (五・一五事件軍法会議記録)
もっと、手きびしいのは三上卓の陳述である。
「 西田なるものは結局何や彼やと策動する男で、真に国を憂ふる士ではなく軍閥と結んだ煽動家だ 」
 ( 五・一五事件軍法会議記録 )
と、激しい口調で攻撃している。
「 その頃、陸士の本科生であったが、私たちの目から見ると、
西田さんと日召は革新陣営の二大巨頭という感じであった。
ほんとうの革命の行者という印象をうけた。
菅波さんは誰にも評判が良いのにひきかえ、西田さんは一部の者から罵詈讒謗の的であった。
あの狙撃事件は言ってみれば喬木風に妬まる、という所であろうか。
それだけ強い指導力でみなをぐんぐん引っぱる、
その大きな影響力に海軍の連中は恐れたのだと思う 」
と、これは明石賢二の観察である。

西田 同志に撃たる
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から 


五・一五事件 士官候補生・後藤映範 『 陳情書 』

2018年02月20日 05時07分24秒 | 五・一五事件


後藤映範

  昭和8年5月17日の新聞報道

国法ニシロ
私ドモ現在ノ本分ニシロ、
日本帝国トイウモノガ
厳トシテ存在スレバコソ意義ヲモツモノデアリマス。

国家ノ安否存否トイウコトハ第一義根本ノ問題デ他ハ皆第二義デアリマス。
故ニ国家ノ現状ニ対し前ニ申シ上ゲマシタヨウナ認識ニ達シタル私ドモハ、
軽重先後ノ価値批判ヲナシタル時コソ第一義根本問題ニ全力を傾注シ、
コノ目的ヲ達シ得ベキ唯一ノ方法ナリト確信シタル手段ヲ選ンダノデアリマス。
シカシテソレヲ真ノ意義ニオケル忠君ト考エマシタ。
大御心ニ合スルモノデアルト私ハ信ジマシタ。

五 ・ 一五事件
士官候補生

後藤映範
陳情書

目次
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素因
私ハ 自己ノ素因ヲ
軍隊教育 オヨビ軍隊生活ニヨリ得タル信念ト
明治維新史ナラビ 維新烈士研究ニヨリ得タル信念ノ
二ツ ニ見出シマシタ。
・・・士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書1 「 素因 」

動機目的
以上ノゴトキ素因ヲ有スル私ガ、以上ノゴトクニ認識シ、一片愛国ノ熱意座視スルニ忍ビズ、
ツイニ ミズカラアノ時機ニ蹶起シテ非常手段ヲ決行スルニ至ツタ次第デアリマス。
シカシテ ソノ究極ノ目的トスルトコロハ建国ノ本義ヲ基調トスル皇国日本ヲ確立シ、
皇道ヲ世界ニ宣布スルコトデアリマス。
直接ノ目的ハ天誅ノ剣ヲ、
現ニ国家を亡烕ノ淵ニ陥シツツアル腐敗堕落セル政党財閥特殊階級等ノ支配階級ニ加エ、
コレヲ瓦解ニ至ラシメ モツテ国難ノ禍根断滅ノ烽火タラントスルコト、
オヨビ 無自覚ナル全国民ノ惰眠ヲ覚破センガタメ 青天の霹靂ヲ下スコトノ 二ツ デアリマス。
シカモ私ガ最大重点ヲ置イタノハ国民ノ覚醒ニアリマシタ。
要スルニ私ドモハ一言ニシテ尽セバ国体擁護ノタメニ蹶起シタノデアリマス。
・・・
士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書2 「 動機目的 1 」


 満洲事変
サラニコレヲ私ドモノ立場、軍事的見地ヨリ考ウル時
一層ノ重大性ヲ発見致シタノデアリマス。
当時第二、第八師団ハ満洲ニ外征ニ従事シテイマシタ。
緊迫セル東北地方ハ働キ手ヲ奪ワレテシマツテイマシタ。
ソレハ後ニ残ルモノニモ痛手デアツタデシヨウ、
マシテ出テイツタ子弟ノ心中ハ察スルニアマリガアリマス。
サゾカシ後髪ヲ曳カレル心地ガシタコトト思イマス。
シカシ子弟ハ忠勇ニ君国ノタメ全力ヲ尽シテ働キマシタ。
後ニ残ツタ家族タチモ一言ノ不平モ申シマセンデシタ。
ソレドコロデハナク
誠心ヲモツテ子弟ヲ鼓舞シテ奉公ニ欠クルコトノナイヨウニ戒メマシタ。
ソノ涙グマシイ誠ノ情ハ私ドモ軍人トシテ感激ニ堪エナイトコロデアリマシタ。
子弟モ家族モアレホド立派ナコトガデキタノハ、アノ地方ノ人タチナレバコソデアリマス。
他ノ地方デアツタナラバ トテモアンナコトデハ無事ニ済マナカツタト思イマス。
必ずや筵旗ガ上ツタコトデシヨウ。
モシ一度一揆ガ起レバ父子相殺スノ惨劇ガ現出シマス。
コレハ実に忍ブベカラザルコトデアリマス。
日本ヲサヨウナ非道ノ国トナスコトハ
私ドモ軍人ニハ断ジテ許シ難イトコロデアリマシタ。
・・・士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書3 「 動機目的 2 」 

犬養首相ハ
腐敗堕落セル政党ノ首相デアリ、
現在政権ヲ握ツテイル内閣ノ首班タル点ニオイテ
最モ好個ノ目標ト思イマスカラ全然同意シマシタ。
牧野内相ハ
久ク宮中ニアリ私党を営ミ袞竜こんりょうノ袖ニ隠レテ私曲ヲ行ナイ
大不義ヲ働ク君側ノ大奸デアリマスカラ、
コレヲ殺害スルハ最モ適当デアルト思イマシタ。
ナオ 牧野ニハ
特権階級ノ代表者トシテノ意味モアリマス。
イズレヨリスルモ最適ト認メマシタ。
右 犬養首相、牧野内相
両名ハ殺害スル考エデアリマシタ。
・・・士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書4 「 動機目的 3 」


生き代り死に代りても尽さはや
  七度八度やまとたましい
コレガ私ノ現在ノ信念デアリマス。


士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書1 「 素因 」

2018年02月19日 20時07分35秒 | 五・一五事件


後藤映範
五 ・一五事件陳情書

公判ニオイテ陳述シ上ゲマシタルトコロヲマトメ、サラニ申シ上ゲ足リナカツタ点ハコレヲ補ヒ、
一括シテ真意ノ存スルトコロヲ申シ上ゲマス。
ナオ原因動機目的等ニオイテハ、特ニ個人的ナルコト以外ハ同志一般ニ共通デアリマス。
マタ時称ハ現在形ヲ用ウルモ過去ノ事実、思想信念等ノ陳述ニ関スル限リ、
ソレハ過去ノコトヲ意味スルモノデアリマス。
以上二点ニ御注意ノ上御披見願ヒ上ゲマス。

素因
・・・ここにいたるまでの陳述において、彼は当時の国際国内情勢について彼の考えを述べているが、
ここでは略す・・・
以上ノゴトク国家内外ノ情勢ヲ認識シ、ソノ放見スベカラザルヲ感ジタノデアリマスガ、
サテ コレガ具体化シテ、ミズカラ改造運動実行、特ニ非常手段決行ノ決意ニ達スルニハ、
オノズカラ他ノ素因ガンクテハナリマセン。
タトエイカニ深ク国難ヲ感ジ、非常時ヲ認識シテモ、
自己ニ素因ガナカツタナラバ 必然的ニ実行ノ決意ニ達スルトハ限リマセン。
私ハ 自己ノ素因ヲ
軍隊教育 オヨビ軍隊生活ニヨリ得タル信念 ト
明治維新史 ナラビ 維新烈士研究ニヨリ得タル信念 ノ
二ツ ニ見出シマシタ。
1  軍隊教育オヨビ軍隊生活ニヨリ得タル信念
一体 帝国陸軍ノ軍隊教育ノ根本精神ハ何ニアルカト申シマスルニ、
私ノ考エデハ
何時ナン時デモ君国ノタメニ喜ンデ死ネル軍人ヲ養成スルニアルト信ジマス。
コレハ 上かみ将校ヨリ 下しも 兵ニ至ルマデ同様少シモ変リハアリマセン。
士官学校教育ハ常ニコノ精神ヲモツテ行ナワレテオリマシタ。
軍隊内務書綱領ニ掲ゲラレテアルトコロノ、
「 有事ノ日 欣然トシテ起チ 慷慨死ニ赴クヲ楽シムニイタルベシ。
 コレ実ニ帝国軍隊ノ本領ニシテ皇室ノ藩屏タリ 国家ノ干城タルユエンノ道ナリ 」
ノ 文、
コレガ 私ドモガヨツテモツテ生活スベキ原則デアリマシタ。
私ドモ 夢寐むびコレヲ忘レズ、
ツイニ 長イ生活ニヨリ ソレガ第二ノ天性ト化シテシマイマシタ。
士官学校ハ学者ヤ技術家ヲ作ル所デハアリマセン、
軍人精神 大和魂 ヲ鍛錬スル聖壇道場デアリマス。
トコロデ コノ魂ダケハ一人トシテ忘レズニ体得シテ学校ヲ出ルノデアリマス。
私ドモハ加茂規清ガ歌ツタ、
「 臣おみが身は日々死出の旅支度皇すめが為には生きて帰らじ 」
ノ 精神ヲモツテ日々ヲ生活シテイマシタ。
古聖ハ 「 朝ニ道ヲ聞カバ夕ニ死ストモ可ナリ 」 ト言ワレマシタガ、
ソレドコロデナク、今、軍いくさ ノ術ヲ教ワレバ只今デモ戦場ニコレヲ役立テ
喜ンデ死ンデユクベキ身ナルコトヲ感ジツツ生活シテオリマシタ。
カク軍人的性格ヲ形作ラレテキタ私ハ、
決死非常手段ノタメニ立タントシタ時モ、イササカノ躊躇モアリマセンデシタ。
「 日本ノタメ、義ノタメ、君国ノタメ 」
タダコレダケデ 自己ノ身ヲ鴻毛ニ比スルニ充分デアリマシタ。
私ソレ以上ノコトヲ考エマセンデシタ。
右ハ私ドモ士官候補生ノ特別ノ素因ト信ジマスカラ申シ上ゲマシタ。

2  明治維新史ナラビニ維新烈士研究ニヨリ得タル信念
今一ツノ素因ハ私ガ以前カラ明治維新史並ビニ維新烈士ノ事業精神ヲ研究シ、
非常ニ大ナル影響ヲ受ケテオツタコトデアリマス。
私ガ維新烈士研究ノソモソモノ初メハ 幼年学校三年生ノ時ニ、
徳富蘇峰著 『 吉田松陰論 』 、頭山立雲翁ノ註ニナル 『 大西郷遺訓 』 ヲ読ミ
異常ナル感激ヲ受ケタノガソレデアリマシタ。
当時少年の私ニハ両偉人ニ対シ何ラ批判ヲ下ストイウコトハナク、
タダ感激スルバカリデアリマシタ。
タマタマ当時ノ熊本幼年学校長 長深沢大佐殿ガ、
維新史ナラビニ維新烈士ノコトニ関シ御造詣深く、
熊本ノ偉人横井小楠先生、宮部鼎蔵先生、加屋霽堅先生、
太田黒伴雄先生等ヲ始メ維新烈士ニ関スル豊富ナル オ話ヲ拝聴スルヲ得、
維新烈士ニ対シ異常ナル尊崇ト敬慕ノ情ヲ起シ、
コレヨリ非常ナル熱心ヲモツテ研究ニ従事スルニ至リ、
爾後七年余リ今日ニ至ルマデ継続シテ参リマシタ。
私ガ維新烈士ヲ研究シタノハ烈士ノ崇高偉大ナル精神ガ自己ノ胸間ノ琴線ニ触レ、
コレニ感激シ精神的向上ノ師ト仰ぎタカッタカラデアリマス。
一体私ハ特別ニ形式立ツタ修養、
例エバ宗教的修養トカ修養会ノ修養ナドイウモノハ少シモヤツタコトハアリマセン。
私ノ人物ヲ養成シタル恩師ハ維新烈士ト軍隊教育、軍隊生活ヨリ外ハアリマセン。
私ハ烈士ヲ研究シ始メテカラ今日ニ至ルマデ、
烈士ヲ忘レタコトハホトンド如何ナル場合トイエドモアリマセン。
私ノ精神ヲ指導スルモノハ烈士ノ精神デアリ、
私ノ行為ヲ批判スル準拠ヨリ証券タルモノハ烈士行為デアリマシタ。
私ハドンナニ偉人デモアマリ軽々シク頭ヲ下ゲルノヲ好ミマセンガ、
維新烈士ニダケハ常ニ心ヨリ敬虔けいけんヲモツテソノ前ニ額ぬかずキマシタ。
ソレデ家ニ帰省シタ時ハ、
常ニ烈士ノ肖像ヲ床ノ間ヤ、ソノ他室中ニ掲ゲテソレト共ニ起居シテオリマシタ。
スルトソノ烈士ノ肖像ノ前デハ 不埒ナ心ヤ汚イ心ヲ起ソウトシテモ起スコトハデキマセンデシタ。
マタ烈士ノ遺文ヲ拝誦スルトキ、
私ハ熱心ナル宗教信者ガ教祖ノ遺文 スナワチ聖典ヲ拝誦スルガゴトキ気持ヲモチマシタ。
烈士ノ遺文ハ私ニトツテハソノママ金科玉条デアリマシタ。
ココニオイテ私ノ烈士ニ対スル崇拝ハ研究ヨリシテ信仰ニ入ツテシマイマシタ。
私ハ決シテ烈士ヲ冷カニ批判致シマセンデシタ。
シカシ烈士ノ気持ニダケハ私ハ最モヨク沈潜シ、コレト融合スルコトガデキタヨウニ信ジテイマス。
私ガ自分ノ貧弱ナル天賦ヲイササカデモ磨キ向上セシメ得テイルトスレバ、
ソレハヒトエニ烈士ノ賜デアリマス。

シカラバ 私ガドンナ風ニ影響ヲ受ケ、ドンナ風ニ烈士ヲ学ンダカ
トイウコトニツキ例ヲ挙ゲ、具体的ニ申シ上ゲマスト、
例エバ 吉田松陰先生等ハ最モ学ブトコロガ大キクアリマシタガ、
至誠ヲ学ンダノハソノ一ツト申スコトガデキマス。
先生ノ遺文中ニハ到ルトコロニ誠トカ至誠トカイウ詞ガ出テイマス。
ソノ遺文ヤ伝記ヲ研究シテ先生ハ誠ノ魂ガアルト感ジテオリマシタガ、
アル時 先生ガ安政六年五月江戸ヘ送ラレル前
弟子ノ松浦無窮ノ描イタ先生ノ肖像ニ題サレタ自賛ノ中ニ、
「 身 国家ニ許セリ、死生、我久シク斎つつシム、
 至誠ニシテ動カザルモノハ古ヨリイマダコレアラズ 」

という句ガアツタノヲ見テ、
アア 孟子ノ言ツタ言葉ヲ先生ガ実現セラレタノダト、
始メテ事ノ詞ノ意味ヲ体得シタト思ツテ喜ンダコトガアリマシタ。
マタ 私ハ先生ノ松下村塾ノ教育ニ対シテ崇敬ノアマリ、
タビタビコレヲ萩ニ訪イ
カツ イロイロ研究シ、教育者トシテノ先生ノ偉大サヲ知リ、
自分モ将来将校トナツタナラバ範ヲ先生ニトリタイ考エデオリマシタガ、
コレハ在学中方時モ忘レタコトハアリマセンデシタ。
マタ 私ハ死生観等デモ松陰先生ヤ南洲先生ニ学ンダグライデ
他ノ修養ナド前ニアリマセンデシタガ、
事件前後ヲ通ジ死生ノ安心ニ対シ イササカノ動揺ヲモ感ジマセンデシタ。
マタ 私ハ 年齢ノ関係上烈士ノ中デモ南洲先生ヤ小楠、東湖先生等ハ格別トシテ、
概シテ若イ、シカモ殉難烈士ヲトリ分ケ崇敬シマシタ。
例エバ 長州ノ人ニシテ年僅カニ一九歳ノ時 国士無双トイウ推賞ヲ松陰先生カラ受ケタ、
カノ禁門ノ変ノ殉難烈士 久坂玄瑞先生ノゴトキハ最モ敬慕シタ一人デアリマシタ。
先生ノ歌ニ
「 今日もまた知られめ露の命もて千歳をてらす月を見るかな 」
トイウノガアリマスガ、
私ハコノ一首ノウチニ先生ノ哲学ト宗教ヲ発見致シマシタ。
コンナ歌ヲ口吟ずさム時ハ必ズ作者タル烈士先生ノ心ノ中ニ分ケ入ツテ瞑想シ、
当時ノ状況ニ身ヲオイテ考エ 烈士先生方ノ心ニナツテ口ズサミマシタ。
ソウイウ風にーニシテ烈士ノ精神ニ自己ノ心ヲ触レサセテイルウチニ、
シラズシラズノ間ニ薫化セラルルトコロガ大デアツタヨウニ思イマス。

カクスルウチニ私ハ 烈士ノ精神何ラカノ形ニオイテ実施センコトヲ念願スルニ至リマシタ。
シカルニ国家革新ノ運動ニ関心ヲ有スルニ至リ、
ココニ維新烈士ノ精神、
スナワチ日本道ノ精華を顕揚スルノ機ヲ得タコトヲ大イニ喜ビマシタ。
ソシテ 改造運動ノ見地ヨリ維新烈士オヨビ維新史ヲ考察シタ時
サラニ多クノ学ブヘキモノヲ発見シマシタ。
ソシテ私ドモハ烈士ノ理想ヲモツテ私ドモ 昭和維新ヲ志スモノノ理想トシタノデアリマス。
以上ガ維新史ナラビニ維新烈士ノ研究デアリマス。

以上二ツガ素因ノ主ナルモノデアリマス。

次頁  士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書2 「 動機目的 1 」  に 続く
五 ・一五事件における士官学校生徒を代表して後藤の記述した陳情書。
行動をその原因・動機・目的に分けて詳細に述べ、思考と行動の連関を簡明に表現している。
一九三三年九月、関東軍司令部  『 五 ・一五事件陸軍軍法会議公判記事 』 より 抄録


士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書2 「 動機目的 1 」

2018年02月19日 15時50分33秒 | 五・一五事件


後藤映範
五 ・一五事件陳情書
前頁 士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書1 「 素因 」 の  続き

動機目的
以上ノゴトキ
素因ヲ有スル私ガ、以上ノゴトクニ認識シ、一片愛国ノ熱意座視スルニ忍ビズ、
ツイニ ミズカラアノ時機ニ蹶起シテ非常手段ヲ決行スルニ至ツタ次第デアリマス。
シカシテ ソノ究極ノ目的トスルトコロハ建国ノ本義ヲ基調トスル皇国日本ヲ確立シ、
皇道ヲ世界ニ宣布スルコトデアリマス。
直接ノ目的ハ天誅ノ剣ヲ、
現ニ国家を亡烕ノ淵ニ陥シツツアル腐敗堕落セル政党財閥特殊階級等ノ支配階級ニ加エ、
コレヲ瓦解ニ至ラシメ モツテ国難ノ禍根断滅ノ烽火タラントスルコト、
オヨビ 無自覚ナル全国民ノ惰眠ヲ覚破センガタメ 青天の霹靂ヲ下スコトノ 二ツ デアリマス。
シカモ私ガ最大重点ヲ置イタノハ国民ノ覚醒ニアリマシタ。
要スルニ私ドモハ一言ニシテ尽セバ国体擁護ノタメニ蹶起シタノデアリマス。

直接行動ヲ実行スルニ至リタル理由根拠ノ詳細
コレハ申シ上グベキ事項中最重点デアリマスガ要約スレバ次ノ三ツ スナワチ
一、情況切迫シソノ危急ニ処スルニハ最モ効果的ノ方法トシテ直接手段以外ニナカツタコト
二、私共ノ当時ノ身分ニオイテ執リ得ベキ唯一ノ方法ガ直接手段デアツタコト
三、史実ヤ人間性等ヨリ考エテモ大改革ノ端緒トシ直接行動ガ不可避ナリト思ワレタコトニ
 帰スルト思イマス。
今サラニコレヲ、
一、直接行動ヲドウシテモ必要ト認メタル理由根拠
二、アノ時機ニオイテ必要ト認メタル理由スナワチ一日モ速カニ実行スルヲ必要ト考エタル理由
三、自分ラガ決行スルヲ必要ト考エタル理由
ノ三ツニ分ケテ申シ上ゲヨウト思イマス。

一  直接行動ヲドウシテモ必要ト認メタル理由根拠
  国家内外ノ情勢ニ対スル認識ヨリシテ他ノ方法ナシト確信シタルコト
私ガ認識致シマシタ国家国民ノ現状トイウモノハ
危急切迫 コレヲ一日モユルガセニスルコトガデキヌモノデアリマシタ。
( コレニツイテ、二 ニオイテ申シ上ゲマス。)
コノ結果私ハ一日速カニ改革ヲ断行スル必要ヲ痛感致シマシタ。
シカルニコノ危急切迫ノ際尋常ノ手段デハ断ジテ功ヲ奏シマセン。
非常ノ際ニハ非常ノ決心処置ヲトルハ戦闘ノ原則デアリマスガ、
国家ノ非常時、危機ニモコレヲ適用スルコトガ出来マス。
非常時ニオイテモナオカツ尋常ノ手段シカトラザルハ迂闊千万ソノ愚笑ウベシデアリマス。
故ニ私ハマズ非常ノ手段ヲ要スベキヲ考エマシタ。
シカルニ非常ノ声高クナツテヨリカナリ月日ガタチ、口ニ筆ニ絶叫スル人々ハタクサンアリ、
政党デサエモコレヲ口ニハシテイマスガ、シカシ実際ニオイテ果シテ何ガ行ナワレタデシヨウカ。
文字ガ功ヲ奏シ得レナラバ
発達セル新聞雑誌ソノ他ノ出版物ノ現状ヲモツテ何ラノ功ナキヲ咎とがメナクテハナリマセン。
社会ノ木鐸タル新聞紙モ、眠レル、否 腐敗セルモノノ一ツデハアリマセンカ。
言論ハ如何。
コレニツイテモ文学ト同様ノコトハ言ワレマス。
マタ政見、政策施設等ガ何ラカ著大ノ効果ヲアゲ得タデシヨウカ。
民政党ガ立ツテモ政友会ガ立ツテモ国難ハ マスマス大トナリ、
危機ハイヨイヨ深刻化スルバカリデアリマシタ。
政党腐敗セリトイエドモ無知識無能ノ人達バカリデハナイデシヨウ。
シカモソレラノ人達ガ大童おおわらわデ立廻ツテミテモ何モデキナイデハアリマセンカ。
ココニオイテ私ハ合法的ナ尋常手段ハ何ラ為スナキヲ覚リマシタ。
少ナクトモコノ窮迫セル局面ヲ打開 ---現下ニ処シテ最モ切要ナル--- スルタメニハ、
残サレタモノハタダ直接行動ノミデアリマシタ。
コレハ一体何ヲ意味スルデシヨウカ。
私ハ現下ノ日本ノ問題ハ政策トカ施設トカバカリデハ決シテ救イ難ク、
否 ソレヨリモツトモツト根本的ナ魂ノ徹底的覚醒ニヨリ始メテ更生シ得ルコトヲ示スモノト考エマシタ。
ココニオイテ私ハ国民精神ノ根本ヨリ覚醒セシメテ、
コノ精神的更生ヲスベテノ国家現象ニ活現セシムベク枢要部ニ対シ手術ヲ試ミタノデアリマス。
コレガ私ドモノアノ行為ヲ必要ト認メタ第一ノ理由デアリマス、
ソシテコレガ最大ノ理由デアリマス。

2  歴史的事実ニヨリ国家革新過程ノ一大転機トシテ直接行動ノ必要ナルヲ確信シタルコト
次に歴史的事実ガイカニシテ直接行動ヲ取ルニ至ル根拠トナツタカト申シマスト、
ソレニモイロイロアリマスガ最モ深ク考察シ、シタガツテソノ影響ヲ受ケタルモノハ国史、
ナカンズク明治維新史デアリマス。
オヨソ歴史ガ世ニ学バレル理由ノ最大ナルモノハ
ナマナマシキ事実ヲモツテ将来ノ当為ヲ教エ示シ、進化ノ指針トナル点ニアルト存ジマス。
シカシテ興亡隆替是非得失ハ史上ニ明ラカニソノ跡ヲ留メテイマスカラ、
イヤシクモ天下国家ヲモツテ念トスルモノガ史ニツイテ多ク学ブトコロノアルハ当然ノコトデアリマス。
シカモ日本人ニトツテハ国史、中ニモ明治維新史ハ事ノ性質上私ドモニ最モ多クヲ教エ、
ソノ行為精神ニ影響スルトコロハ実ニ莫大ナルモノガアリマシタ。
ココニ一言申シ上ゲテオキタイコトハ、
私ドモハ徒ラニ歴史ノ拙劣ナル反復ヲ演ゼントスルモノデハアリマセン。
進化、ヨリヨク、トイウコトハ改造ソノモノノ本質ヨリシテ私ドモノ決シテ忘レザルトコロデアリマス。
シカシ歴史ハ一大事実デアリ事実ニハ誰ガ何トイツテモ、
絶対ニシテ疑ワントシテ疑イ得ザル真理ガアリマス。
百世ヲ貫ク真理ガアリマス。
私ハソレヲ確信シテ歴史ニ自己ノ当為ヲ学ビマシタ。
シカシ私ドモハ軽々シク歴史ヲ範トシタノデハアリマセン。
人間性ヤ自然性ヨリモ考エテ歴史ノ明示スルトコロニ真理を認メテコレヲマナンダノデアリマス。

一体国家ノ大改革ノ跡ヲヨク観察シテミマスト、オオヨソ三段ニ分レルカト存ジマス。
マズ先覚者ノ思想的覚醒、
次ニ先覚者ノ具体的ナ実動、
次ニ一般ノ覚醒オヨビ本格的ノ改革
トイウ順序ニナルヨウニ考エラレマス。
ソシテ古今東西ノ史ニ見エマシタル大改革ニオイテハ、
タイテイコノ順序ヲ経テイルヨウニ私ニハ考エラレマス。
シカシテ第二ノ先覚者ノ実動ハ多クノ場合旧勢力ノ打破が主トナリ ---理想ノ雄大ナルベキハ勿論ナガラ---
シタガツテ現存ノ主勢力ニ抵抗シテ敢行スル関係上タイテイ第三段ノ先駆トシテソノ楚石トナリマス。
確カニコレハ一種ノ犠牲的行為デアリ、
コレヲチヨツト外形上ヨリミル時ハ イワユル捨石トナルヨウデアリマス。
シタガツテ三段階ノイズレトイエドモ大局ヨリミレバ決シテ軽重ハアリマセヌガ、
シカシソノ性質上ドウシテモ第二段ガ一番困難ナヨウニ思ワレマス。
第三段ニ至ツテハ一般ガ覚醒シ有志ノ士ハマスマス奮起シ 新建設大成ノ業トナリマスガ、
コレハ一般民衆ニシテ覚醒セバアエテ困難ナコトハナイト存ジマス。

サテ コレヲ維新史ニツキ考察シテミマスト、
第一段ニ相当スルモノハアマリ遠ク遡さかのぼレバ際限ガアリマセヌカラ、
マズ 浅見絅斎ノ 『 靖献遺言 』、頼山陽ノ 『 日本政記 』、『 日本外史 』 ハコレニ相当スルト思イマス。
マタ 竹内式部、山県大弐ノ宝歴明和ノ変モチヨツト第二段ノゴトクニ見エマセヌデモアリマセヌガ、
私トシテハコレハ第一段ニ属スルト考エテイマス。
シカシテコノ国内ニオケル思想的覚醒ガ黒船来ノ前後ヨリノ外来問題ノ勃発トカラミアツテ、
嘉永安政トジヨジヨニ改革ノ機運を熟成セシメテユキ、遂に第二段ニナツタノデアリマス。
シカシテ私ハカノ桜田斬奸ノ挙動、
スナワチ水薩十八士ノ井伊大老襲殺事件ヲモツテ明治維新ノ一転機トミルモノデアリマス。
シカシテコノ挙ヲ第一段トシテ頻々トシ各地ニ行ナワレタル義挙トイイ 暴動ト称セラルルモノハ、
皆コノ第二段ニ属シ、ソノ数ハ明治維新ガ空前ノ大事業タリシ関係上ハナハダ多ク、
最モ有名ナモノヲ挙ゲテミマシテモ 坂下ノ挙、寺田屋騒動、大和十津川ノ挙、池田屋事変、
禁門ノ変、出流山ノ変 等ハ皆コレニ属シテオリマス。
コレラハ集団的ノ最モ大ガカリナノヤ特徴ノアルモノヲ挙ゲタニ過ギマセンガ、
ソノ他ノ個人的ノ小サナモノハ枚挙ニイトマナイグライデアリマス。
シカシテコレガ慶應参年秋 王政復古ノ大号令渙発ノ時ニオヨンデオリマス。
コレヨリ後ハ万人周知ノゴトク御一新ノ建設的事業ニ属シテオリマス。

以上明治維新史ノ進転ヲ観察シテミマシタガ、
コレヲ現時ノ日本ノ情況ニ照シ合セテミマスト ハナハダ相似テイルコトヲ発見スルノデアリマス。
スナワチ各種啓蒙的ノ運動トイイ、国内ノ諸問題トイイ、正ニ維新史ノ第一段ニ相当スルト考エラレマス。
シカシテ私ハ第一段ハスデニ進行シ終エ、正ニ第二段ニ移ルベク時機ヨク熟セルモノト考エマシタ。
私ハ国難スデニハナハダ大、思想的啓蒙モ足レリ、爆破ノ装置ハ完了シタ、
今ハタダ点火スルノミ、点火シサエスレバ爆発スル、も早議論ノ時デハナイ、実行蹶起アルノミ、
イカニ国難トカ非常時トカ声ヲ大キクシテ叫ンデ当路者ヲ非難シテモ、
一ノ実行ヲ欠イデハソレハ空論ニスギヌ、
マタ イカニ大ナル理想ヲ唱エテモ口先ダケノコトナラ コレマタ空想デアル。
スナワチ今ハ烈士南八郎ガ歌ツタヨウニ 「 議論ヨリ実行ヲ行ナエ 怠ケ武士国ノ大事ヲヨソニ見ル馬鹿 」
ヲ第一義トスベキ時ト考エタノデアリマス。
シカシ考エテミマストコノ第二段ハ先ニモ申シ上ゲマシタルゴトク、
第三段ノタメノ前衛戦デアリ、主力タル第三段ノ事業ヲ有利ニ導クヨウニ努メナクテハナラヌ関係上、
ソノ自身トシテハ大苦戦ヲナシ
戦闘ノ全局ヨリミル時ハ
一ノ犠牲トナルヨウナ訳デアリマスカラコレハ容易ナコトデハアリマセン。
シカモ モシ第三段ニシテサラニ続行スルコトナクンバ、
コノ第二段ハアルイハ大シタ意味スラモヌヨウニナルカモ知レヌモノデアリマス。
コレハ犠牲ノ意味ヲ深刻ニシ実行ノ困難ヲ倍加致シマス。
スナワチ難中ノ難事デアリ、ソノ代リマタ最モ大切ナル行為デアリマス。
ココニオイテ私ドモハコノ難事ヲ敢行シ、
光輝アル明治維新ヲ生ムノ楚石トナリマシタル
幕末維新殉難烈士ノ大事業ト精神トヲ精察致シマシテ、
「 烈士ト同様ミズカラモ国家革新ニ志ス身トシテ 」
異常ナル感激を覚エ影響ヲ受クルトコロガ頗ル大デアリマシタ。

おもエラク、今ヤ正ニ昭和維新ノ叫ビガ大キイ。
シカシテ今次ノ維新ニオイテモ日本ニハ日本的精神ト方法トガアリ、
ソノ標本トモナルベキハ明治維新デアル。
各種条件情況ノ酷似セル点ニオイテモ
明治維新ノ完成トイウ意味ニオイテモ
昭和維新ハ 明治維新ニソノ精神ト業トヲ継続シ、当時ノ歴史ノ進行ニ鑑ミ、
当時ノ国土ノ行履ヲ学ブベキデアルト考エマシタ。
カクノゴトキ認識ト信念トヨリシテ私ドモガ目標トシタトコロハ桜田ノ義挙デアリマシタ。
ヨツテイササカ今事件ニ対スル史論を申シ上ゲマス。
桜田ノ義挙ハ外見上デハ十八人掛リデ大老トイウ者ノ首ヲ一ツトリ、
ホトンド全部ノ者ガコレト首カエヲシテシマツタノデアリマス。
否、烈士ラガ計画セラレシトコロハモツト大規模デ、
実ハ十八士ハ前衛マタハ尖働隊トイウ性質ノモノタルニ過ギズ、
本隊ハ金子孫二郎、高橋多一郎ノ二傑ガ西上シテ、
薩藩ノ兵力ト諸国ヨリ参集ノ有志トヲモツテ京畿ノ地ニ錦旗ヲ奉ジ、
王政復古ヲ図ラントシタノデアリマスガ、コノ計画ハ大失敗ニオワリ、
二傑ハ自刃オヨビ捕斬ニテ最後ヲ遂ゲ、結局ハコノ人々モ井伊ト首ノ取リカエヲシタニスギマセン。
ソノ他ニモ犠牲者多ク三十名バカリガ桜田ノ義挙ニヨリ犠牲トナリマシタ。
コレヲ形ノ上カラミ、マタコレヲ小サナ眼孔デ眺メマスト、
トモスルト馬鹿ラシイコトノヨウニ思エマスガ、
シカシコレヲ精神的ニ考エカツ維新史ノ全局ヨリ観察シマスト、
ソノ意義タルヤ実ニ大ナルモノガアリマス。
烈士ノ挙ガ全国有志ノ士ニ異常ナル感激を与エ ソノ奮起ヲ促シ、
タメニ第二、第三ノ烈士ヲ生ジタルソノ精神的意義ノ絶大ナルコト、
イヤシクモ維新史ヲ学ンダ人ナラバ誰デモ熟知スルトコロデアリマス。
「 ソノ後連年頻々トシテ実行セラレタ各地ノ義気ハミナ桜田烈士ヲ学ビ
 コレト全ク精神ヲ同ウスルモノデアリマシタ。」
シカモ深キ考察ヲ廻めぐラセバ 一箇ノ井伊ノ首ト二十、三十ノ烈士ノ首ト引カエタコトハ、
決シテ愚デナク拙デナク、形ノ上ニオイテモ偉大ナル功業デアリマシタ。
如何トナラバ井伊ハ
マサニ倒レントスル大厦タル徳川幕府ニ対スル最後ノ支エノ巨木デアリマシタ。
故ニコレヲ除クコトハ
当面ノ目的タル討幕ヨリスルモ一ツ先ノ目的タル王政復古ヨリスルモ、
最モ必要カツ重大ナル事業デアツタノデアリマス。
果セルカナ
爾後文久、元治、慶應ト改革的機運ノ進転ハ実ニ目ザマシイモノガアリ、
十年ナラズシテ復古一新ノ大業トイウコトニナリマシタ。
カク観察シマスト、
桜田ノ義挙ハ幕末勤皇運動ノ全局ニ最モ重大ナル意義ヲ有シ、
正ニ維新史ノ進行ニトツテ決定的ナル一契機ト目スベキデアリマス。
桜田ノ挙ハ外見上鉄砲ノゴトクニシテ、
深察スル時ニハコレガ実ニ巨弾タルヲ知ルノデアリマス。
私ガ維新史ヲヒモトキ、ココマデ観察シ来リ、
コレヲ現下ノ日本ノ情勢ニ処スベキ当為ノ指針トスル時ニオイテ、
私ドモが奸魁ニ天誅ヲ加エントシ決心ニ到達シタル理由
オヨビ 私ドモ気ノ精神ト行為トガ包含スル意義、
歴史的意義ニツイテハ今更喋々致スマデモナク分リニナルコトト存ジマス。

ココニ私ドモハ自己ノ進ムベキ道、執ルベキ手段、
否、昭和維新ノ改革的段階ニオケル一覚醒者トシテノ自己ラノ当為ヲ自覚シ、
ソノ理論的根拠ヲ我ガ国史ノ事実ニ得来ツタ訳デアリマス。
以上ノゴトク史観ヲ申シ上ゲマシタガ、
シカシ私ドモハ維新史ニオケル桜田ノ義挙以後ノ
スベテノ直接行動ヲヨシトスルモノデハアリマセンケレドモ、
桜田ノ義挙ダケハ絶対ニ必要デアツタコトヲ確信致シマス。
海軍ノ故藤井少佐ハ海軍側同志ノ先輩啓蒙者デアリマシタガ、・・・リンク→ 
藤井斉 
四五十ノ首ヲ帝都ニ晒ス覚悟ヲモツテ、決死ノ同志ガ奮起シ 改革断行ノ火蓋ヲ切ルナラバ、
日本ハ必ズ更生シ大飛躍シ爾後ノ進展ハ期シテ待ツベシ、
故ニコノ四五十ノ楚石ガ必要デアルトイウ意見ヲ持ツテイタ ソウデアリマスガ、
私ハソノ意見ニ全然同意デアリマシタ。
私ハ自分ラノ行為ガ直チニ目ニ見エテ
天下国家ノオ役ニ立ツカドウカハアエテ予想モデキマセンデシタ。
日本人ガ大和魂を失ワザル限リ私ドモノ行為ガ芽ヲフクコトモアロウト考エマシタ。
否 私ドモハ日本人ヲ信ズレバコソ 国家国民ノ将来ニ偉大ナル希望ヲツナイデ
喜ンデ点火剤タラントシタワケデアリマス。
日本オヨビ日本人ガモハヤ息モ血モカヨワヌ腐肉ナラドウシテヤリ得マシヨウカ。

3  軽重先後ノ価値批判ニヨリ直接行動ヲ必要ト認メタルコト
私ドモハ直接手段ヲトルカラニハ
国法ヲ犯シ軍紀ヲ紊みだリ 本分ニ背キ 
大命ニヨラズシテ勝手ナ行動ヲスルコトニナリマスガ、
コレラノ事ノ重大ナルコトハ深ク承知シテオリマシタ。
シカモコレラノ重大事ヲ犠牲ニシテマデモ決行シナクテハナラヌト考エタ理由ハ次ノゴトクデアリマス。
一体イカナルコトデモ一カラ十マデ結構ナコトガアロウワケハアリマセン。
物事ヲナスニハ目的ノ定立ニヨリ諸価値ノ取捨選択トイウコトガ行ナワレルノデアリマスカラ、
ソノ目的ニ従イ、アル部分ハ犠牲トシテ要点ニ全力ヲ傾注シ、
イワユル重点形成ヲ行ナワナケレバ成功ヲミルコトハデキマセン。
ソモソモ私ドモノ目的ハ
私ドモガ危機ニアリト認識シタ日本国家ヲ救ウコトデアリマスガ、
シカシテ ソノタメ自己ガ現下ノ状況ニ処シテトリ得ベキ手段ヲ直接行動ノ一途ト認メマシタ。
ココニオイテ私ドモハ他ノ一切ノ大事ヲ犠牲トシテモ
危急ノ祖国ヲ深淵ヨリ救イ上ゲルコトノデキル唯一ノ方法タル直接行動ニ全力ヲ注ガントシマシタ。
カクテ右ラノモノハ重イガシカシ非常ノ危機ニオイテ背ニ腹ハカエラレヌト思ツテヤルニ至ツタノデアリマス。
カノ日蓮上人ガ
「 スベテノ中ニ国ノ亡ビルコトガ第一ニテ候 」
トイウ警告ヲ発シテオリマストオリ、
国法ニシロ
私ドモ現在ノ本分ニシロ、
日本帝国トイウモノガ
厳トシテ存在スレバコソ意義ヲモツモノデアリマス。

国家ノ安否存否トイウコトハ第一義根本ノ問題デ他ハ皆第二義デアリマス。
故ニ国家ノ現状ニ対し前ニ申シ上ゲマシタヨウナ認識ニ達シタル私ドモハ、
軽重先後ノ価値批判ヲナシタル時コソ第一義根本問題ニ全力を傾注シ、
コノ目的ヲ達シ得ベキ唯一ノ方法ナリト確信シタル手段ヲ選ンダノデアリマス。
シカシテソレヲ真ノ意義ニオケル忠君ト考エマシタ。
大御心ニ合スルモノデアルト私ハ信ジマシタ。
如何トナレバ我ガ日本ハ愛国スナワチ忠君デアルカラデアリマス。
国家非常ノ危機ニ際シテハイタズラニ平常ノ杓子定規ニ従ウコトハデキマセン。
非常ナル危機ニオイテナオ未ダ非常ノ覚悟ヲ起サナイノガ現下ノ大欠点ダト私ドモハ考エマシタ。
明治維新ハ非常時ニオイテ非常ノ手段ヲ実行シタル最モ大ナル マタ 卑近ナ例ヲ考エテミマシテモ、
例エテミマシテモ 人間生活ニ富財トイウモノハ大切デ事実マタ人ノ最モ愛惜スルトコロデアリマスガ、
人モシ死ニ瀕シタ時ニナオカツ財ノコトヲ云々スルデシヨウカ。
必ズヤ命ノ助カランコトニ全力ヲ傾注スルデシヨウ。
富トカ財トカイウ物ハスベテ人生、生活上ノコトデ生ヲ世ニモテバコソ価値モアリ意義モアルノデアリマス。
コノ人ハ恐ラク死ニカカツタ命ガ延ビルナラバ全財産デモナゲ出スデシヨウ。
「 スナワチ 私ドモハ瀕死ノ日本ノ生命ヲ救イ甦エラシ
 健康ヘ復シタイタメ全力ヲ傾注シ

 日本国家ノ重宝タル国法ヤ軍紀ヲサエモ
 犠牲ニシヨウトシタノデアリマス。」

本来軽重ノ判断を忘レ
徒ラニ規繩ニ泥なずムコトハ
非常ノ際ニトルベキトコロデナイト思イマシタ。
シカシ現実ニ最モ大切ナル法ヤ軍紀等ヲフミニジルトイウ点ニツキマシテハ、
ソノ罪ノ大ナルコトハドコマデモ痛感シテイマシタ。
故ニタダ一死ヲモツテソノ万分ノ一ヲ償ウ考エデアリマシタ。
ソノ重キ罪ヲ負ウテ死屍ヲ鞭むちうツテモナオ苦シトセザル覚悟デスベテヲ超越シ、
タダ最大緊切ノ目的ニ向イ一意邁進シタノデアリマス。

4  人間性自然法ヨリミテ直接行動ヲ必要ト痛感セシコト
次ニ人間性ヤ自然法ノ上カラモドウシテモ非常手段ガドウシテモ必要ト考エラレマシタ。
私ハ日本ノ識者 否 少シ眼ノアル人間ナラ理屈ハ十分ニ分ツテイル。
十分認識ガアルコトト信ジマシタ。
シカシ幾ラ理屈ガ分ツテイテモソノ身ニシミジミト感ジナケレバ行為ニ対スル決意トイウモノハ起キマセン。
シカシテコノ決意ニ到達スルコトガナカツタナラバ幾ラ立派ナ言論ヲ立テマシテモ、
ソレハ畢竟ひっきょう空理空論ノ無駄ナ反復ニスギマセン。
一体人間トイウモノハ横着ナモノデヨホドナ事ガナイトシミジミト痛感シナイモノデアリマス。
ツマリ体感トカ経験トカイウモノニ達シ難イモノデアリマス。
昔ノ偉イ宗教家ハ 「 驚ケ 」 トイウコトヲ申シテオリマス。
驚クコトハトリモ直サズ偉大ナルモノヲ把握スルモノデアリ、コレハ体験ヲ意味シマス。
体験ホド尊イモノハアリマセン。
例エバ人ハ体ヲ大切ニイナクテハナラヌトイウ事ハ、
己ヲ知ツテイナガラ事実ハナカナカ大切ニシナイモノデアリマス。
シカルニ一度病気ニデモカカルトシミジミトコレヲ痛感シ大切ニスルヨウニナルモノデアリマス。
コノ際一ツノ病気ハ数十册ノ医学衛生ニ勝レコト万々デアリマス。
コノ意味ニオケル警策ヲ天下全国民オヨビ支配階級ニ対シテ与エント欲シタイノデアリマス。
何モ病気ソノモノスナワチ直接手段ソノモノハ尊ムベキコトデモ、
ホムベキコトデモアリマセン、タダ目的ヤ条件状況ニヨリ意義ヲ生ズルコトトナルノデアリマス。
眠レル国民ノ眼ヲ覚破スルコトハナカナカモツテ一通リノコトデハ ムツカシクアリマス。
マタ 腐敗セル不義非道ノ支配者等ニソノ悪徳ニ対スル天罰報応ノ恐ルベキコトヲ痛感セシメルモノハ
直接行動ニヨル天誅以外ニ何モアリマセン。
百千言説モ何ノ恐シイコトモアリマセンガ、モシ彼ラノ中ノ一人ニ天誅ガ加エラルレバソレハ直チニ
彼ラ全部ニ強烈切実ナル警告トナルモノデアリマス。
私ドモコノ人間性ノ機微ヲ考エマシタ。
人間性トイウモノハナカナカ御シ難イモノデアリマス。
小学校ノ先生ハ児童ヲ躾しつけルノデモ、イクラ言ツテ聞カセテモマダアキズニ
悪サヲスルモノハゲンコノ一ツモ喰ワセタリ身ニシミテ感ゼシメラレルヨウナ手段ヲトリマス。
民衆ノ群集心理モソノ原則ハコレト違ウトコロハアリマセン。
暴力ヲ否定シタル釈迦デサエモ方便説カハ知レマセヌガ、
破法一闡提せんていニ対シテハ刀杖ヲ加エテヨイ。
否 破法闡堤ニ刀杖ヲ加エルモノハ 仏法上ノ大偉勲者デ、
成仏ノ困難トナルトイウヨウナ事ヲイツテ ドウシテモコウシテモ仕方ノナイ奴ニハ
正義ノ剣ヲ加ウルコトヲ 許シテイマス。
日蓮上人ハソレヲソノ著書 『 立正安国論 』 中ニ引用シテソノ有名ナル説服主義ノ根拠トシテオリマス。
以上ノゴトキ観察ガマタ私ドモノ信念ヲ強メル根拠トナリマシタ。
マタ自然法カラミテモ同様デアリマス。
一体非常手段、直接行動ヲトレバシタガツテ犠牲者トイウモノヲ生ジマス。
コノ犠牲ヲ出ストイウ理由デ直接行動ヲ否定スル人モアリマシタ。
シカシ私ハコレヲ短見ナリト考エマシタ。
犠牲ハ誠ニ悲シイコトデハアリマス。
シカシ大ナル目的ノタメニハ止ムヲ得マセン、
オヨソ大事ヲ行ナワントスルノニ犠牲ノ生ジナイワケガアリマセン。
「 大義親ヲ滅ス 」
等トイウ言葉ガアリ、
オヨソ世ノ中ノコトハ皆ソウイウ風ニナツテイマス。
自然ノ常法デアリマス。
犠牲ナカランコトヲ欲スルナラバ百年待ツテモ物事ハ成就シ難イノミカ、
カエツテ機ヲ逸シテ失敗スルニ至ルデアリマシヨウ。
例エバ盲腸炎ノゴトキ急ナ カツ 重イ病気ニカカツタ時、
医師ハ 「 メス 」 ヲモツテ腹ヲサキ盲腸ヲキリトツテ了イマス。
コレニヨツテ全体ノ全キヲ得テ健康ヲ回復スルニ至リマス。
コノ場合盲腸ソノモノニトツテハ確カニ一ツノ手痛イ犠牲デアリマス。
盲腸ハ死シテシマイマス。
マタ 「 メス 」 ヲ腹ニ立テルトイウコトハナカナカ非常手段デアリマス。
盲腸デモナクナツタラ腹ヲサコウ等トハ夢ニモ考エラレヌコトデアリマス。
シカシ全身体ノ大事ノタメニハ非常手段トシテ身体ノ一部ヲ犠牲トシマス。
犠牲デハアリマスガ体ヲ毒スル存在タル上カラハ、
コレヲ断除スルハ自然法ノ常則トシテ許サレネバナリマセン。
マサカコンナ場合腹ヲ切リサクノヲ非常手段ダカラ嫌ダトカ、盲腸ヲ除クノニソレガ嫌ダトカ、
盲腸ヲ除クノニソレガ犠牲トナルカラトテ反対スル人ハアルマイト思イマス。
私ドモノ行為モコレト同ジ理屈デアリマス。
腐敗セル現支配階級等ヲ私ドモハ
日本帝国トイウ身体ニ対スル癌デアリ 病根ノ盲腸デアルト考エマシタ。
シカモ病態ヲ生命ニ関スル危篤ト診断致シマシタ故ニ、
遂ニ 「 メス 」 ヲ執ツテ非常療法ヲ決行シ
日本帝国トイウ一存在ノ生命ヲ救ワントシタノデアリマス。

以上イロイロ申シ上ゲマシタコトハ
私ドモガ直接行動ヲドウシテモ必要ナリト考エ カツ 実行シタル理由根拠デアリマス
最後ニ一ツ申シ添エマスガ、
国家革新ノ熱意ニ燃エタ私ドモニ 特ニ支配者ノ自覚ト 国民ノ反省トヲ
直接ノ主目的トシテ革新ノ緒戦ヲ決行シヨウトシタ私ドモニハ、
身分境遇等ノ関係上直接行動以外ノ方法ハ許サレマセヌデシタ。
スナワチアラユル情況条件ガ私ドモニ直接行動ヲ敢行セシメタノデアリマス。

次頁 士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書3 「 動機目的 2 」  に 続く
五 ・一五事件における士官学校生徒を代表して後藤の記述した陳情書。
行動をその原因・動機・目的に分けて詳細に述べ、思考と行動の連関を簡明に表現している。
一九三三年九月、関東軍司令部  『 五 ・一五事件陸軍軍法会議公判記事 』 より 抄録


士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書3 「 動機目的 2 」

2018年02月19日 10時11分12秒 | 五・一五事件


後藤映範
五 ・一五事件陳情書
前頁 士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書2 「 動機目的 1 」 の  続き

ニ  アノ時ニオイテ必要ト認メタル理由
     スナワチ一日モ速カニ実行スルヲ必要ト考エタル理由
1  東北地方大飢饉

私ドモガ一日モ速カニ国家革新ノ火蓋ヲ切ツテ
改革ヲ実現セシメナケレバナラヌト考エタル理由ハ、
切迫セル当時ノ国家内外ノ情勢ニ対スル認識ニアリマシタ。
ソノ一般ニツイテハ原因ノ項ニ申上ゲタゴトクデアリマシタガ、
特ニ私ドモヲシテ一日モ猶予スベカラザルヲ痛感セシメタモノハ
東北地方ノ大飢饉でありました。
農村ノ窮迫ハ早クヨリ国家ノ大問題デアリマシタ。
シカルニココニ至ツテ問題ハ最モ悲惨ナル具体例ヲ天下ニ示シマシタ。
日々ノ新聞ニアルイハ雑誌ニ報道セラレルトコロハ
実ニ読ム者ヲシテ暗涙ヲ絞ラシメル惨鼻ノキワデアリマシタ。


昭和六年  木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)

・・・リンク→ 後顧の憂い 

アル村小学校デハ
児童ノ大部分ガ朝飯ヲ食ワズニ登校シ
中食セズニ空腹ヲカカエテ午後ノ課業ヲ受ケ、
ヒヨロヒヨロシナガラ帰ツテユクトイウ記事ガアリマシタ。
可憐ナル児童
シカモ将来ノ日本ヲ背負ツテ立ツベキ 第二国民 ニ
コノ苦痛ヲ与エ血涙アル者ガ黙シテイルデシヨウカ。
或ル一家ハ
腐ツタ馬鈴薯ヲ摺リツブシ、
コレニ草ノ根ヲ交エテ露命ヲツナイデイタトイイマス。
マタ或ル所デハ
馬ト人トガ同ジ食物ヲ食ベ
シカモ滋養ノ多イ部分ハ馬ニ与エテイタト申シマス。
己レノ命ヨリ大切ニシタ馬
ソレサエモ栄養不足ノ為ニ駄目ニナツテシマツタソウデアリマス。

マタ或ル所デハ
一村ノ娘五百人中三百人マデ一家ノ生活ガ立チ行カヌタメ他所ニ売ラレ、
為ニ マタ同村ノ青年ハ対者ヲ失ツテ他郷ニ流離シナクテハナラナカツタト申シマス。
オヨソカクノゴトキ惨状ハ数ウルニ堪エヌトコロデアリマシタ。
カヨウナ苦惨ガ天下ニ報道セラレテモ為政者政党政府ハ何ヲシマシタカ、
見カケ倒シノ政綱政策ヲ看板ニシテ他党ヲ弥次リ倒シテモ
コノ眼前喫緊ノ国民一部ノ惨苦ニ対シテ何ラ施スベキ経綸ハナカツタデアリマセンカ。
ナルホド幾ラカノ金ハ送ツタデシヨウ。
シカシソレハ地方銀行ノ倒産ヲ救イ得ルカ得ナイカグライノモノデシカアリマセンデシタ。
今日ノ命シノギニ苦シンデイル窮民ソノモノヘハ何ラ慈ミノ露ハソソガレマセンデシタ。
ほのカニ聞ケバ政府ハ数百万石ノ米ヲ有シテイタトノ事、
ソレノ一部デモ割イテコノ苦境ヲ救ウコトハ許サレナカツタノデシヨウカ。
マタ 財閥ハ多数同胞ノコノ苦惨ヲ尻目ニカケ、
巨富ヲ擁シテマスマス私慾ヲ逞たくまシクシテオリマシタ。
彼ラモ世界的不況ノ影響ハ受ケタデシヨウ。
シカシ現実ノ生活ニ差シ支エ 生命ヲ脅カサレルヨウナコトハ決シテアリマセン。
同胞ノ苦シミヲ見テモ
鼻糞ホドノ義損金ヲ国民一般ノ熱意ニ恐レテ嫌々ナガラモ出シタニスギマセンデシタ。
等シク陛下ノ大御宝タル忠良ノ同胞ヲカクノゴトク惨苦ニ放置シオクコトガデキマシヨウカ。
日本人ノ血ガ通ウモノナラバソンナ無情ハ堪エ得マイト思イマス。
九州ノ果ナル私ノ郷里ノ町カラモ見舞品ヲ贈ツタホドデアリマシタ。
 満洲事変
サラニコレヲ私ドモノ立場、軍事的見地ヨリ考ウル時
一層ノ重大性ヲ発見致シタノデアリマス。
当時第二、第八師団ハ満洲ニ外征ニ従事シテイマシタ。
緊迫セル東北地方ハ働キ手ヲ奪ワレテシマツテイマシタ。
ソレハ後ニ残ルモノニモ痛手デアツタデシヨウ、
マシテ出テイツタ子弟ノ心中ハ察スルニアマリガアリマス。
サゾカシ後髪ヲ曳カレル心地ガシタコトト思イマス。
シカシ子弟ハ忠勇ニ君国ノタメ全力ヲ尽シテ働キマシタ。
後ニ残ツタ家族タチモ一言ノ不平モ申シマセンデシタ。
ソレドコロデハナク
誠心ヲモツテ子弟ヲ鼓舞シテ奉公ニ欠クルコトノナイヨウニ戒メマシタ。
ソノ涙グマシイ誠ノ情ハ私ドモ軍人トシテ感激ニ堪エナイトコロデアリマシタ。
子弟モ家族モアレホド立派ナコトガデキタノハ、アノ地方ノ人タチナレバコソデアリマス。
他ノ地方デアツタナラバ トテモアンナコトデハ無事ニ済マナカツタト思イマス。
必ずや筵旗ガ上ツタコトデシヨウ。
モシ一度一揆ガ起レバ父子相殺スノ惨劇ガ現出シマス。
コレハ実に忍ブベカラザルコトデアリマス。
日本ヲサヨウナ非道ノ国トナスコトハ
私ドモ軍人ニハ断ジテ許シ難イトコロデアリマシタ。

 小作争議
・・・リンク→
「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」 

ナオ一体農民子弟トイウモノハ国軍ニオケル下士官以下ノ大部ヲナスモノデ
他ノ職業ノモノニ比シ 素質 ( 身体 精神トモ ) 優秀ノ正ニ国軍ノ主力ヲナスト申シテモヨイモノデアリ、
コノ農民、アル方面ヨリシテ国家ノ大御宝中ノ大御宝タル農民
窮苦ノ中ニ放置シテオクトイウ事ハ軍政上ノ大問題デアリマス。
イワンヤ東北地方ノ農村子弟ハ特ニ素質優良忠勇無比ヲモツテ有名ナルモノデアリマス。
今コレニ後顧ノ深憂ヲ負ワセタママ、
国家ノ為ニ死生ノホドモ計ラレヌ戦場ニ馳駆セシメルコトハ如何デシヨウ。
実ニ国防ノ大問題デアリマス。
欧州大戦ニオケルドイツ敗軍ノ主因ハ
戦線ニオケル兵士ノ国家ト皇帝ニ対スル国信デアツタコトヲ考エル時、
ココニ重大ナルモノヲ発見致シマス。
実ニ国防的見地ヨリスルモ、重大問題デアリマス。
シカモ一日遅ルレバ一日窮民ノ惨苦ヲ延シ 一日ダケ国防ノ根底ニオイテ禍機ヲ大ナラシメマス。
農民ト国家トノ生命ニ関スル大問題、
私ドモハモ早ヤ一日モ猶予スルコトガデキマセンデシタ。
私ドモハシカシ 私ドモノ行為ニヨリ今マデノ窮苦ガ直チニ安楽ニ変ロウ等ト夢想シタノデハアリマセン。
タダ為政者ニ自己ノナサネバナラヌコトニ対スル自覚ト熱意ヲ起サシメ、
苦惨ニ沈ミ絶望ノ底ニアル東北ノ同胞ニ希望ヲ生ゼシメルコトガ結局救済ノ為ノ急務デアルト考エ、
シカシテソレハ必ズデキルト信ジマシタカラ、アノヨウナ行為ニオヨンダノデアリマス。

2  左翼革命ニ顧慮シテ
思想ノ変化ニツイテモ原因ノ項ニ述ベマシタガ、
国家内外多事ノ非常国難ノ時代ハ正ニ左翼ノ乗ズベキ機会デアリマス。
モシソノ実動ガアツタ時ハ恐ルベキ団体破壊ハ現出シマス。
私ハカネテ左翼ノ主義者等ノ信念ニオイテ侮ルベカラザルモノノアルコトヲ聞イテイマシタ。
チヨウドアノ当時 「 ロシア 」 カラ金ガ来タノデ左翼ハマタモヤ活気ヲ呈シタトイウコトヲ聞キマシタ。
故ニ私ドモハ彼ラニ乗ゼラレナイ為ニモ
一日モ速カニ蹶起シ国体ノ本義ニ立脚セル皇国日本ヲ確立スルノ必要ヲ感ジマシタ。

3  対外事情
コレハ原因ノ項ニ詳シク申シ上ゲタトオリデアリマス。
近ク開戦ヲ予想セラルル露、米トノ将来ハ現実ニオケル満洲事変ノ勃発ヲ契機トシテ、
暗雲サラニ濃密ヲ増スヲ覚エマシタ。
彼ラト戦ウハ必ズヤ近キ将来ノ事実ナルベシト信ジマシタ。
シカモコレヲ惰弱無力 カツ 無自覚ナル現支配階級ヲモツテハ
イザトイウ場合如何トモスル事ガデキマセン。
彼ラハカクノゴトク危機ヲ知ルモノデハアリマセン。
英国ノ某政治家ハ世界大戦ノ一週間バカリ前、
英、独 国交ハ未曾有ノ良好状態ニアリトイウ演説ヲシタソウデアリマスガ、
日本ノ現支配階級ハ必ズヤコノ失敗迂闊ニ陥ルデアロウト考エラレマシタ。
故ニコノ失敗ニ陥ラザルヨウニシ、カツ 近キ将来ニ切迫セル国難ニ備ウル為、
一日モ速カニ国力スナワチ富力ト軍備トノ充実国民ノ精神的準備ノ必要ヲ痛感シマシタ。
シカシテ右ノゴトキ準備ヲスル為ニハドウシテモマズ日本国内ソレ自身ヲ正スコトト、
誤レル現日本ヲ
「 アルベキ ( 理想トシテ ) 」 純正皇国日本
ト ナスコトガ最モ大急務ナリト考エマシタ。

シカモ私ドモガ予想シタ 米、露 等との交戦ニ至ルマデノ日子ハ
現日本ヲ充実セル純正皇国日本トスルニ決シテ アリ余ルモノデハアリマセンデシタ。
一日遅ルレバ一日ノ不利アルコトヲ私ハ切ニ感ジマシタ。
故ニ私ハコノ対外的必要ヨリシテモ 急遽 国家改造ノ断行ヲ急ガナクテハナラナイト思イマシタ。

以上三件ハ特ニ私ドモノ挙ヲ急ガシメタ最大ノ理由デアリマス。
ナオ右理由ノ外 私ドモ ミズカラニオケル理由ガ一ツアリマシタ。
ソレハ私ドモガ卒業ヲ間近ニ控エテオリ、
モシコノママ卒業シテシマエバ 今日ノコノ鞏固ナル団結モ
遂ニソノ全能ヲ最モ効果的ニ発揮スルコトガデキズニ無意義トナツテシマイマス。
故ニドウカシテ機会ヲ見出シ在校中ニ決行シヨウト考エテイマシタ。
ソレガ為ニハ演習出張等イロイロノ関係上ドウシテモアノ時期デナクテハナリマセンデシタ。
コレモアノ時機ニ決行シタ一ツノ理由デアリマス。

次頁  
士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書4 「 動機目的 3 」 に 続く
五 ・一五事件における士官学校生徒を代表して後藤の記述した陳情書。
行動をその原因・動機・目的に分けて詳細に述べ、思考と行動の連関を簡明に表現している。
一九三三年九月、関東軍司令部  『 五 ・一五事件陸軍軍法会議公判記事 』 より 抄録


士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書4 「 動機目的 3 」

2018年02月19日 05時05分24秒 | 五・一五事件


後藤映範
五 ・一五事件陳情書
前頁 士官候補生 後藤映範 五・一五事件陳情書3 「 動機目的 2 」 の  続き

三  自分ラガ決行スルヲ必要ト考エタル理由
1  他ニ決行スル人ガナイコト

私ドモハ日本ノ国難ノ非常ニ大ナルヲ痛感致シマシタ。
シカシソノ位ニアル人ハ努力ハセラレテイルカ知リマセンガ何モ出来テイマセン。
日本人九千万憂国慨世ノ国士モスクナクナイト思イマスガ何ラノ実効ハ見エマセン。
今ヤ正ニ救国ノ道ハ直接行動アルノミト考エラレタ当時ニオイテ、
コノ捨石奮起ヲナスモノハ私ニハ憚リナガラ自分ラノ外ニナイヨウニ考エラレマシタ。
自分ラハ完全ナルモノデハナイ。
シカシコノ非常時ニオイテシカモ他ニソノ人ナキ時 自己ノ不完全ヲ云々スベキデナイ。
ソレハ自分ラ日本人トシテノ憂国的情熱ガ許サヌト思ワレマシタ。
小サナ児童ガ水ニ溺レントスルノヲミタ時
自分ノ水泳能力等ヲ考エル暇モナク

水ニ飛込ンデコレヲ救ワントシテ殉職シタ
小野女訓導ノ心情ハ
直チニ私ドモノソレデアリマシタ。

私ドモハ国難ヲ深刻強烈ニ意識シタ身トシテ、
シカモコレヲ決行シ得ルハ自分ラノミト考エマシタカラ 天下ノタメ決行致シマシタ。
覚醒セル自分ラヲ九千万同胞ノ目ノ前ニ示シタナラバ 同胞モ目ガサメルダロウト思イマシタ。
右ノゴトキ理由ニ加ウルニ私ドモニハ系累トカ軍事的責任ノ上ヨリスルモ比較的心配ガ少ナイノデ
最モ適任デアルト考エマシタ。
タマタマ私ドモ十一名ノ鞏固ナル団結が出来テイタノハ、
コレガ天ガコレヲ命ズルモノデアルト確信シテ決然断行シタノデアリマス。

2  国防ニ関スル大問題多ク軍人ノ蹶起ノ必要ナルヲ痛感セシコト
国難ノ禍根ハ主トシテ腐敗堕落セル現支配階級ニアリマシタガ、
具体的事実トシテハ屈辱的条約ヲ締結セル海軍軍縮会議、統帥権干犯、
兵農分離ノ危機、国防ノ軽視、露米等トノ交戦ノ予想等
軍人トシテノ立場ヨリ断ジテ許スコトノデキヌ問題ガハナハダ多クアリマシタノデ、
軍人蹶起ノ必要ヲ痛感シマシタ。
国家ノ生命タル国防ガ危ウクサレントスル時ニオイテ軍人ガ立ツノハ当然デアル、
否 必要デアルト考エマシタ。
マタ 国軍ノ全般特ニ青年将校ノ間ニ
磅礴ぼうはくタル憂国慨世ノ意識ト情熱トヲ天下ニ示ス為ニモ
軍人ノ奮起ヲ必要ト考エマシタ。
シカモスデニ海軍ニ決行ノ計画アルコトヲキイタ以上、
サナキダニ蹶起ノ意思ノアツタ私ドモノ熱意ハ
コレヲ海軍ノミニマカシテオクコトガ出来マセンデシタ。
如何ニシテモ陸軍ノ代表者トシテ士官候補生蹶起ノ必要ヲ痛感致シマシタ。

3  効果大ナルベシト考エラレタルコト
私ドモハ士官候補生トイウ特殊ノ地位ニアリマシタノデ、
ソノ蹶起ハ必ズヤ各方面ヨリ注目考察セラレ、
目的トスルトコロノ覚醒トイウ意味ニオイテ効果ガ大デアロウト考エラレタコトガ
第三ノ理由デアリマス。
私ドモノ直接ノ自主的ガ
政党ノ天下ヲ奪ツテ 他ノ政府ヲミズカラノ力ニヨリ樹立スルトイウヨウナモノデアリマシタナラバ、
モット 「 エライ 」 人ノ方ガヨイカモ知レマセンガ、
私ドモノ目的トシタトコロハ国家革新ノ一転機トシテ国民精神を大覚醒セシムルタメ、
死ンデ行コウトイウコトデアリマシタカラ、
ソノ為ニハ私ドモ士官候補生ハ無比ノ適任者デアルト信ジタノデアリマス。

四  経過の概要略ス。

行動ニ関スル所見ノ若干
一  
自首後 池松ニ 牧野内府ヲヤツタカト
コウ尋ネマスト、
駄目デアツタト答エマシタノデ
私ハ頗ル残念ニ思イマシタ。
ソノ理由ハ訊ネマセンデシタ。
不在カ何カデヤリ損ツタコトト考エ、致シ方ナシト思イマシタ。
山岸中尉等ト共に長蛇ヲ逸シタコトヲ残念ガリマシタ。
後 予審中 当日 古賀中尉ガ牧野ヲ殺害セザルヨウ計画ヲ変更シタコトヲ知リマシタ
故ニヤラナカツタワケハ判リマシタ。


目標ノ選定ニオイテ、
首相ト牧野内府ト政友会本部ハ同意スルコトガデキマシタ。
シカシ警視庁ヲ決戦場トシテ選ンダコトニツイテハ当時モソノ後幾ラ考エテモ
同意スルコトガデキマセンデシタ。
予想シタゴトク警視庁ガ非常召集ヲ行ナイ直チニ警官隊ヲ出動サセルナラバ、
何モ他ノ重要ナ目標ノ戦闘ヲ犠牲トシテマデモ警視庁ヲ決戦場トシテ選ブ要ハアリマセン。
警視庁ニ行カナクテモ警官隊ノ混戦ハ必然ト考エテイマシタカラ、
ドウモコノ計画ニ同意スルコトハデキマセンデシタ。
私ニハ牧野ヲ暗殺スルコトノ方ガヨホド大切デアリマシタ。
警官隊トハ求メズトモ衝突決戦スルヨウニナルハズデアリマス。
古賀中尉ノ重点ノ志向ニ関シテハ当時ヨリ今日ニ至ルマデ不同意デアリマス。
シカシ後カラ考エテ見テ国民ニ大覚醒ヲ与ウル意味ニオイテ
世界有数ナル組織ト能力ト威力トヲ有スルト聞ク日本警視制度ノ大本山タリ、
カツ 腐敗セル現支配階級ノ私兵タルノ観アル警視庁ヲ少数人員ヲモツテ襲撃シタコトニツイテ
今サラ別ニ不足ヤ愚痴ノ気持ハ何ラ致シマセン。
反響モアルコトト思イマス。
タダ古賀中尉ノ計画ニオイテ
他ヲ犠牲トシテマデ警視庁ヲ決戦場トシテ選ンダノハ
過度ノ力ヲ入レスギダト考エルモノデアリマス。

犬養首相ハ
腐敗堕落セル政党ノ首相デアリ、
現在政権ヲ握ツテイル内閣ノ首班タル点ニオイテ
最モ好個ノ目標ト思イマスカラ全然同意シマシタ。
牧野内相ハ
久ク宮中ニアリ私党を営ミ袞竜こんりょうノ袖ニ隠レテ私曲ヲ行ナイ
大不義ヲ働ク君側ノ大奸デアリマスカラ、
コレヲ殺害スルハ最モ適当デアルト思イマシタ。
ナオ 牧野ニハ
特権階級ノ代表者トシテノ意味モアリマス。
イズレヨリスルモ最適ト認メマシタ。
右 犬養首相、牧野内相
両名ハ殺害スル考エデアリマシタ。
政友会本部ハ威嚇襲撃ガ目的デアリマス。
コレハ現ニ組織セル政党本部デ不適当デハアリマセンガ
第三目標ニコレヲ選ンダコトヲ非常ニ適当トマデハ考エマセン。
是認ハ致シマス。
以上ハ三目標ニ対する私ノ当時ノ考エデアリマス。
第一組ノ一部ガ日本銀行ヲ襲撃シタコトヲ後デ聞キマシタガ、
カヨウナ独断的行動ハ適時適切処置トシテ是認同意致シマス。
目標トシテハ天下ニ与ウル反響ヲ大ニスルトイウ意味ニオイテ肯定致シマス。


自首シタニツイテハ別ニ理由ハアリマセン。
イヤシクモ海軍ニ一身ヲ任セタ以上 一蓮托生カノ人々ト行動ヲ共ニシタバカリデアリマス。
私ドモハ海軍ノ統制ノ下ニ働キ アノ場合アノ統制ヲ破ルコトハトウテイ不可能デアリマシタ。
第一ソレハ私ドモノ規律服従ノ精神ガ許シマセンデシタ。
私ハ当日ノ自己ノ行動ヲ顧ミテ充分デアツタ等トハ無論考エマセンガ、
シカシ今サラ徒ラニ改悔スルヨウナコトハ致シマセン。
何トナラバ私ハ当時ノ全分ヲ尽シタツモリデアリ、
マタ 日本人ニシテ日本魂ヲ有スル以上何ヲカ反響ノナイハズガナイト確信スルカラデアリマス。

現在ノ心境
国家皇室ニ対シ奉ル信念、自己ノ理想ヲ貫徹セントスル意志ニオイテハ微動ダモアリマセン。
年余ノ沈思練心ノ結果ソノイヨイヨ強調セラルルヲ覚エマシタ。
私ハ命アラン限リ、否 タトエコノ命ハナクナツテモ百回デモ二百回デモ生レ代ツテ、
日本ガ純正皇国日本ニ帰ルマデハ飽クマデ素心ノ貫徹ニ邁進致ス覚悟デアリマス。
  生き代り死に代りても尽さはや
   七度八度やまとたましい
コレガ私ノ現在ノ信念デアリマス。
シカシナガラ重キ御国法ヲ犯シ本分ニ背キ軍紀ヲ紊リ、
大命ニ由ラズシテ擅ほしいままニ行動シ、
就中なかんずく 陛下ノ宸襟ヲ悩マシ奉リタル大罪ニツイテハタダ恐懼ノ外ハアリマセン。
シカシナガラコレモトヨリ万承知ノ上 天下国家ノオン為ト一途ニ思イツメテヤツタコトデ、
当日現場ニ討死シ、
一死モツテコノ大罪ノ万一ヲ償イ奉ラン覚悟ヲモツテコトニ臨ンダのデアリマシタガ、
止ムヲ得ザル事情ハ今日マデ生ヲ貧ラシメタノデアリマス。
故ニ国法ノ命ズルトコロニヨリ御厳罰ニ処セラレンコトヲ オ願イ申シ上ゲマス。
コノ外 申シ上グベキコトハ何モアリマセン。

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五・一五事件 士官候補生・後藤映範 『 陳情書 』 に 戻る
五 ・一五事件における士官学校生徒を代表して後藤の記述した陳情書。
行動をその原因・動機・目的に分けて詳細に述べ、思考と行動の連関を簡明に表現している。
一九三三年九月、関東軍司令部  『 五 ・一五事件陸軍軍法会議公判記事 』 より 抄録


五・一五事件と士官候補生 (一)

2018年02月18日 19時10分11秒 | 五・一五事件

日本魂 燃える青春
 五・一五事件を顧みて
東京日野ロータリークラブ

昭和四十九年十月三十日卓話
池松武志 ( 元陸士四五期生 )

私は、五・一五事件に決行に参加した。
五 ・ 一五事件は、昭和七年五月十五日、
海軍将校六名、陸軍士官候補生十二名
( 事件決行直前に士官候補生としての軍籍を失った私を含める )
を主体として決行された。
それは、日本の国家改造断行を目標とし、
拳銃、手榴弾を使用して犬養首相等を殺傷した事件である。
既に五十年以上を経過しているので、記憶の定かでないものもあるが、
その点は御諒承をいただくことにして、思い出すままに記述することにする。

私は、昭和三年四月、
当時、東京市ケ谷にあった、陸軍士官学校予科に入学した。
二ヶ年で卒業するところ、二年生の夏、肺尖炎兼肋膜炎で治療のため一ヶ年休学し、
卒業は、昭和六年三月で、順調者より、一ヶ年おくれたわけである。
当時、士官学校の訓練は激しく、約一割、人員にして三十名位は、病気のために一ヶ年おくれる者がいた。

私は、昭和六年四月、卒業後、
野砲兵士官候補生として、希望通り、朝鮮羅南の野砲兵第二十六連隊に赴任して行った。
士官候補生の隊付は六ヶ月間である。

昭和六年十月、
士官学校本科に入学するために、東京に帰って来た。

本科に入学してから十日位経過した日に、
士官学校予科に於て休学前の同期生であり、
同一区隊 ( 三十名位 ) であった、A が会いに来た。
彼の話は、日本が現在、非常な危機に際会しているので、
陸海軍の青年将校を中心に、国家改造の動きがあるが、
士官候補生もこれに参加したいと思って、同じ区隊であった B や C とも話し合っている。
「 それで君にも参加してもらいたいと思う。
よく考えて、若し参加したい気持があったら、
数日中に陸軍青年将校の中心である N 中尉の所に行くので一緒に行こう 」
と云う意味のものであった。

当時の世相は、深刻な経済不況の中に、地下運動の共産党員検挙が相継ぎ、
満洲事変勃発後の国際緊張等があり、何となく不安定な空気が漲っていたので、
国家改造に向って、陸海軍青年将校、士官候補生等の動きがあるということは、
私の心を大いにゆさぶるものがあった。
陸軍大将への道を志して、必死に勉学中の私をゆるがしたのである。
母の顔が、ちらっと私の脳裏をかすめたように思ったが、
私は意を決して、A等と行動を共にするつもりで、
翌日、A にその旨を告げ、N 中尉の所に行った。

N中尉
N中尉の話は次の趣旨のものであった。
一、現在の日本の危機の実状
1 君側の奸
所謂元老等は、天皇を補弼する立場にありながら、
国体の本義を忘れ、一部階層の利益確保に専念して、聖明を蔽い奉っている。
故にこれが危機の根幹である。
2 特権階級

貴族院を拠点とする家族等である。
これらは、明治維新
の趣旨からすれば、当然存在すべきではないのに、
旧公卿、旧藩主等合体して、家族の存置を計り、元老、財閥等と結託して、神聖なる国体を我欲に利用している。

3 財閥
三井、三菱、住友、大倉等である。
これらは、特権階級、既成政党と相通じ、政府を利用して、
膨大な財力 ( 当時、世界大富豪十位内に、三井、三菱はランクされていた ) を集め、
それを利用してあらゆる害毒を流すと共に、
更に、財力収集のために、一般庶民を貧窮に放置し、特に農村の状態を飢餓に陥いれた。

4 既成政党
政友会、憲政会等である。
これらは、直接政治を掌る位置にありながら、
前記、元老、家族、財閥にへつらい、又我欲にふける等、天皇の統治を、現実に最も汚している。

5 世界的経済不安
当時、世界的経済不況は深刻を極め、
これに対処せんとして実施した、金輸出解禁は、現実には、更に不況の度を深め、
近代産業労働者は勿論、特に農村の状態は惨憺たるものであった。

6 マルキシズムの横行
右のような状態の中に、日本の伝統に根ざし、まじめな、国家改造運動は起らず、
外国より伝来した、マルキシズムが、ロシア共産主義革命の影響もあって、
帝国大学の教授、学生を始め、一般知識人や労働者等に滲透し、
共産者の地下運動摘発が相つぎ、人心の不安を、更にかきたてた。
私の長兄も、当時、内務省警保局にあって、共産主義者の摘発を担当していたので、その実情を知ることが出来た。
それは、ロシヤ共産主義革命の前夜の実状と比較して、身ぶるいすべきものがあった。

7 軍の危機
日本の陸軍、海軍は、国体護持のために存在している。
国体護持が、即ち、日本国家の防衛であり、更に進んで、国家目的の達成である。
従って軍の本義は、いざという場合、天皇陛下のために死ぬことである。
大東亜戦争の事実に照しても、これが如何に軍の本義であったかということが分る。

しかるに前に述べたように、日本の現在は、国体が蔽いかくされ、
一部階層の者に利用され、国体本義の加護の下にあるべき一般国民は、文字通り、塗炭の苦しみの中に喘いでいる。
特に陸軍は、徴兵として来る兵員に対して、このような状態の日本国家を護るために、天皇陛下のために死ねとは云えない。
殊に、農村に於ては、欠食児童のある外に、兵員の妹等が苦界に身売りする者がいる程の実情であった。
従って、国体護持を本義とし、天皇の軍隊である日本の陸海軍はその存立の意義を失い、
当然崩壊する。これこそ日本国体崩壊の危機なのである。
二、危機打開の方策

右、危機の実情に対し、良心ある軍の将校として黙視することが出来ず、
次の方策を立て、その目標達成のため一身を賭する。

1 現在は、軍の危機を通じての国家的危機であり、
早急に且つ力強く目標を達成するために、国家改造は、軍の実力行使を主体とし、
それに民間有志の協力を加える。
国体の本義を明かにするために、これを蔽うている一切の妨害を除去し、
本来の国民思想を恢復する。
このために、次の方策を実行に移す。

2 憲法の諸機能を一時停止し、天皇大権により、国家改造の施策を整備実行する。
3 元老は廃止する。
4 家族制度は撤廃する。
5 財閥は解体する。
6 既成政党は解散する。
7 土地は国有とし、農地は農民に解放する。
8 私有財産の限度を百万円とし、民間企業の資本限度を壱千万円とする。
9 共産党その他マルキシズム系の政治又は思想運動は撲滅する。
10 国金は、一般選挙に基く衆議院と、特別選出による特別議院との二院制とする。
三、軍部以外との協力

1 北一輝
 国家改造法案を執筆して、国家改造根幹の方途を示し、
中華民国革命に協力した経験のある人で、日本内外に隠然たる影響力を持っている。

2 橘孝三郎
 茨木県に愛郷塾を経営し、農村の子弟に、日本精神並びに、それに立脚した農業を教えている。
3 近藤成卿
 家業として、日本的自治経営学を持っている。
4 井上日召
 仏教の禅に基く、鍛練を以て青年を指導しながら、日本精神的行動力を培い、力のある青年を掌握している。
所謂血盟団事件
の指揮者である。

5 その他
東大生Q、明大生R、陸士中退渋川等
四、国家改造への決起

 全国的に分散している陸海軍の同志が一斉に起つ。しかも非常に近い時機に予定している。

以上のようなN中尉の話を聞いて、私の決心は、更に強固になって行った。

N中尉の話を聞きに行った直後、
十月中の或日、
士官候補生等の相談に基いて、
国家改造趣旨を、改造決行の時、陸軍士官学校生徒に配布する目的で、
謄写版によって、私が、休日、校外で印刷して来た。
他の者は、都合で外出出来ない日であった。
それを同志の一人が、自分のベットの藁蒲団の下においたのを、区隊長 ( 陸軍中尉 ) に発見された。
同じ頃 N中尉が話していた所の、
非常に近い時機の、所謂十月事件が、陸軍当局に感知され、抑圧された。

十月事件は、
参謀本部にいた橋本欽五郎中佐が中心となり、
全国の陸海軍将校の有志が、各々その部下を指揮して決起し、
一挙に、天皇大権による国家改造を実現する計画であり、
それに参加する士官候補生も三十数名にのぼっていた。

橋本欽五郎中佐は、大使館付武官として、トルコ及びソ連にいたことがあると聞いている。
トルコでは、当時ケマル・バシャがトルコの国家改造を断行したばかりであり、
そこに於て、民主主義でもなく、又マルキシズムによるものでもない、
所謂全体主義下の政体並びに経済を学び、
ソ連に於て、共産主義下の側面である、統制的計画経済を見て来たのである。

軍による国家改造運動は、昭和三年頃より始まったと云われ、
十月事件頓座後も、運動は続き、つぎつぎと血なまぐさい事件が起きて行った。

士官学校に於ては、
十月事件関係者として、学校当局に取り調べられた者、三一六名と云われ、
前述 謄写版すり物のこともあって、
私を含めて二名が退学処分を受けた。

私の退学は、翌昭和七年一月末日であり、
父母の住所である鹿児島県に、区隊長が送り届ける所を、
長兄が大阪府下池田市の池田警察署長をしていたので、そこに送り届けれた。

陸軍士官学校では、私の退学後のことを案じてくれ、
神戸高等工業学校に入学出来るよう手配しておくから、
そこに入学するように、と云ってくれたが、
私は、二月中に上京してしまった。
私が軍籍を失ったのは二月十七日である。


上京してからは、
N中尉が、明治神宮の近くに、アパ ートを借りていたので、そこに寄居した。

私の気持としては、依然、国家改造運動に挺進する気持であった。
N中尉の所に寄居している間に、改造運動関係の色々の人に会った。

安藤中尉は、
おとなしそうな、まじめな人柄で、
改造運動と、自分の家庭や、部下との間の一種の矛盾とも云うべき、苦衷が感じられた。
中尉は、後に、二・二六事件に参加し、刑場の露と消えた。

栗原中尉は、
若さと、決意に充ちて、改造運動に邁進しているという感じであった。
中尉も後に、二・二六事件で刑場の露と消えた。

相沢中佐は、
至極温厚な人で、国家改造への決意と苦衷を秘めながら、慈父のような印象があった。
この人は後に、軍務局長永田鉄山少将を斬った。

井上日召は、
天皇は神でなければならない、と云ったことを覚えているが、印象としては、特に残っていない。
N中尉と何か話し合っていた当時、血盟団事件の渦中であった。

N中尉が、暫く留守することになった頃、
ずっと前に、 陸軍士官学校を中退した、渋川善助がやって来て、
N中尉のアパートに寄居することになり、私と同居した。
彼は、必ず毎朝、欠かさず、座禅していた。
線香に火を点じて立て、隣室で座禅していたが、印象も、禅の雲水という所であった。
格段の話もせず、毎日のように出歩いていた。
井上日召、西田税等と親しく、北一輝宅にも、よく行っていたようである。

或る日、私を誘って、北一輝宅に連れて行った。
その場所は、くわしく覚えていないが、板塀に囲れた、広大な邸宅であった。

北一輝は、快く会ってくれた。
毎日、朝夕、法華教を読んでおり、時に応じて、頭に閃くものがあると云っていた。
静かな重々しさがあり、しかも何となく、親しみが感じられた。

血盟団事件は、
陸海軍将校、その他有志による、国家改造運動が、
全国一斉蜂起計画の、十月事件挫折後に取られた、
多数方式で行かなければ、先づ、一人一殺主義で行き、
国家改造への実行端緒を摑もうとしたものである。
それも、井上準之助、檀琢磨両氏を倒した後、
井上日召の自首により、終りを告げ、
国家改造への方途には、直接の効果を来たさなかった。

井上日召自首の直後、
昭和七年三月頃、海軍側同志よりの誘いにより、
士官候補生有志一同出向くべき所、坂元と私が一同を代表して、出掛けてゆき、
海軍側М中尉、中村中尉両名と会った。
場所は記憶していないが、会合の秘密を保つために、海軍側で借りた、二階建の空家であった。

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