あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

田中隊

2019年10月22日 18時35分43秒 | 田中隊


陸相官邸正門前の蹶起部隊 26日

高橋邸襲撃を終えた中橋は、
突入隊を中島少尉、大江曹長、箕輪、宗形 両軍曹に託して首相官邸に向かわし、

こんどは赴援隊の第二小隊を今泉、斎藤と共に率いて青山通りに出、半蔵門に向かうのだが、
すぐに田中の自動車隊に遭遇する。
「 ・・・蔵相邸表に出ると、陸軍砲兵中尉田中勝が自動車四台を率いて通り抜け、
私に 『 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 』 と 云い、
田中中尉が 『 非常!』 と 叫んでいたという事で、
突発事態に遭遇したと認め 第七中隊は直ちに宮城に赴く 

田中隊
目次
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・ 
田中中尉 「 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 」 

・ 
田中勝中尉 「 今日から昭和維新になるぞ 喜べ 」 

・ 
田中自動車隊の一酸化炭素中毒事件 


田中自動車隊の一酸化炭素中毒事件

2019年10月20日 20時26分41秒 | 田中隊

二十九日の朝、
栗原中尉の街頭演説 ( 溜池、虎の門方面 ) のため 護衛をつとめた。
戻ってきてから後、
ガレージ内で待機中の野重七からの参加者、田中中尉以下全員が
一酸化中毒にかかり大騒ぎする一幕があった。
締め切ったガレージの中で木炭を焚いたためで、
田中中尉は精神朦朧となり
「 敵襲!!」
を 連呼しつつ 拳銃を振りまわし、
やっと取りおさえた時 腰から下がひどく汚れどうしょうもなく、
私と初年兵の二人が幸楽に行き 下着を探した。
その時 炊事場では同志と名乗る民間人 ( 町田専蔵 ) が、
大釜に炊きあがった飯を首相官邸に運ぶのだと張切っていた。
その頃、幸楽の相向いの露路という露路には武装した鎮圧軍がひしめいていた。
いよいよ戦闘かと思いながら、
幸楽で準備してくれた下着をもって外に出ると、
戦車隊の大尉がやってきて、すぐ原隊に帰るようすすめた。
私は直属の指揮官が命令しなければ勝手に帰隊はできないと断って首相官邸に戻った。
早速 田中中尉の下着を取りかえてやっていると、幸楽からリヤカーに積んだ飯が届いた。
あの民間人が一切やってくれたのである。
一同 感謝しつつ食事した。・・・リンク→町田専蔵 「 兵の為に兵の食事を運ぶ 」
歩兵第一聯隊機関銃隊 一等兵  村田万寿
雪未だ降りやまず ( 続二・二六事件と郷土兵 )

 田中勝
二十九日午前七時半頃迄、
私及部下十二名は炭酸瓦斯中毒に罹り、人事不省に陥りましたが、
同十時過ぎ 漸く蘇生しました。
田中勝 憲兵調書
昭和十一年三月一日
リンク→田中勝中尉・今日から昭和維新になるぞ 喜べ


田中勝中尉 「 今日から昭和維新になるぞ 喜べ 」

2019年10月10日 20時14分08秒 | 田中隊

二月二十六日 午前二時三十五分頃、
自宅より軍服にて中隊に至り、自動車班係下士官軍曹 川原義信を起こし、
「 これより夜間の自動車行軍をやる 」
とて 川原軍曹をして二年兵の自動車手の内 十二名を起こしました。
是等のものは、今回の決行に就いては何も申しませんでした。
川原軍曹には直ちに貨物自動車三台、乗用自動車二台を営庭に集合を命じました。
服装は第二装巻脚絆帯剣であります。

午前三時十分整列を終りましたが、
貨車三台と乗用車一台丈で側車一台が集りました。
直ちに出発行動して、
先、靖国神社を参拝し、更に宮城前に至り 皇居を拝し、
同正 五時
陸軍大臣官舎に参りましたが、同志は誰もみえて居りません。
門が閉ぢて居りました。
其処で同志はどうしたのかと思ひ、
自動車隊を引率し 右官舎を虎の門、六本木を経て歩一へ見に出発しました。
歩一営門前で私丈下車、
同隊週番司令室に参りましたら山口一太郎大尉が起きて参りまして、
山口大尉に 「 どうですか 」 と 尋ねましたら、
大尉は 「 ウン 」 と 頷きました。


私は其儘 速く表へ出て、
自動車隊を指揮し赤坂の高橋蔵相私宅の前を通り掛りましたら、
同邸表門には、十数名の徒歩兵が機関銃二梃を以て警戒して居たのを目撃し、
陸軍大臣官舎へ 午前五時二十五分頃つきました。
蔵相私邸を通り過ぎる時、私は同乗の運転手、助手に
「 今日から昭和維新になるぞ 喜べ 」
と 申しました。
途中 閑院宮邸前で、約一ケ中隊の歩兵を追越ししました。
之は同志の牽ひきゆる部隊と思ひます。
指揮官は誰か判りません。
陸軍大臣官邸門前には、丹生中尉が兵約六十名を持って警戒して居りました。
私は一人 官舎に入り磯部に会ひました。  ( リンク→第十四 ヤッタカ!!  ヤッタ、ヤッタ
磯部は、私に貨物自動車一台を赤坂離宮前に速に出して呉れと申すので、
私は乗用車に乗り貨車一台を指揮し、
午前五時四十分頃 同所に至り、貨車一台を安田少尉に渡しました。
安田は下士官以下三十名を連れて、既に斎藤内府を襲ひ終り、
赤坂離宮の前に集まって居りました。
此れより貨車に乗り、渡辺大将を襲撃したのであります。
これは後で同志より聞きました。
其後 陸相官邸に貨物自動車全部を引揚げ、
栗原中尉、中橋中尉が東京朝日新聞社を襲撃のため貨物自動車二台を出してやりました。
同所には磯部、村中を始め丹生中尉の指揮する約百名位 居りました。
其後 全部の自動車が帰ってからは、主として乗用車は連絡用に、
貨物自動車は食糧運搬の為め使用として
首相官邸の栗原部隊、安藤部隊、坂井部隊に乗用車一台宛、
警視庁にある野中部隊に同二台配属し、各其指揮下に入れました。
是等の運転手は私の引率して来た兵を充てました。
之等の乗用車は、首相官邸にありました五台を使用したのであります。
三代の貨車の内、一台は渡辺大将襲撃の時、負傷せる下士一、兵一を乗せ、
東京第一衛戍病院へ運搬したる後、進路を違へて市川に帰りました。
残る貨車二、乗用車一、側車一台は指揮下に入りました。

二十六日 朝昼食は、木村屋よりパンを取り、
夕食は弁当を全兵員の為め何処からか判りませんが取りました。

二十七日午前七時、
陸相官邸から首相官邸に移動しました。
此処には栗原、中橋、林、中島等が居りました。
首相官邸に移りましたのは、
陸軍省 参謀本部の幕僚襲撃の目的であると云ふことを同志より聴きました。
二十七日夜は
小藤部隊の指揮下に入り、配列割に従ひ農林大臣官舎に宿営しました。
それで私の直接私の指揮下の車輌を農相官邸に集結しました。

二十八日は午前十時頃、
村中より戒厳司令官より奉勅命令は未だ下すべき時機に非ずと言ふことを聴きました。
それで是から有利に進展すると喜んで申されました。
同十一時頃、
車輌部隊を指揮し首相官邸に行きました。
之より曩さきに同九時頃、
奉勅命令は下ったと言ふことを私の大隊長及中隊長より聴きました。
首相官邸の乗用車は、屡々 使用して各部隊の現況を見に同志が乗って行きました。
此晩は我々は攻撃しない。若先方が発射すれば応戦する。
然し そんな事は絶対ないと確信して居りました。

二十九日午前七時半頃迄、私及部下十二名は炭酸瓦斯中毒に罹り、
人事不省に陥りましたが、同十時過、漸く蘇生しました。
同九時頃 小藤大佐が首相官邸に参りました。
之は栗原中尉に会ふ為らしくありました。
同十一時頃 山王ホテルに集まると言ふ事で、私は乗用車で参りました。
其処には村中、磯部、栗原、香田、丹生、竹嶌、對馬、山本予備少尉等が居りました。
そして奉勅命令に従ふと言って居りました。
戸山学校の大尉の人と思いますが、みえまして、石原莞爾大佐の伝言をして行きました。
夫れによると 蹶起将校今後の処置は、自決か脱出の二途のみであるが、
今回の挙により 兎角維新の 「 メド 」 は ついたと申しました。
私は特に感激しましたのは、
安藤部隊が中隊長以下 生死を同じうすると言ふ状勢で、
部下は中隊長を、中隊長は部下の為に一丸なり、
不離一体一緒に陛下の御為維新に奉公すると云ふ状景を目撃し、男泣きしました。
そこで私は首相官邸に帰り、部下に此 美はしい情誼じょうぎを伝えました。
それから乗用車二台を指揮して山王ホテルに行きましたが、
やがて首相官邸に集まれと言ふ事で、三台の乗用車にて逐次同官舎に参りました。
到着しましたのは午後三時頃です。
山王ホテルに最初集まりましたものは十二、三名丈けで、
これからの処置を協議する為めでありましたのですが、陸相官舎に参ってみますと、
戒厳参謀の命とかで、携帯品は軍刀を除き、拳銃、外套、図囊等を皆解除せられ、
私は玄関に一番近い室に村中、磯部両氏と共に入れられました。

今迄 申上げました経過中 おとしました個所がありますから 夫れを申上げます。
二十六日朝、決行直前に二重橋前に皇居参拝の時、
警戒線を突破して同橋に参りましたので、皇宮警察吏は非常ベルを鳴らし、
二、三の警察官吏が出て参りました。
衛兵の近衛将校出て来まして、私の官氏名を聞いて行きましたが、
参拝であることを知り 帰って行きました。
私がつれて行きました下士官兵十三名のものは、
各自のやりました行動を各々書かせることを命じてありますので、
皆 其記録を持って居る筈です。
川原軍曹は、いつも側車に乗って進路の障碍排除に当らせました。
午前十時頃
山下奉文将軍が一番初めに、次に満井中佐、鈴木貞一大佐が陸相官舎に来ました。
二時間許り前八時、真崎大将が陸相官舎に来て、
自動車を降りるなり
「 落着け 」
と 云って 内に這入りました。
私の居室には 午前九時頃 陸軍次官が来ました。
そして 予備の斎藤少将と何か話して居りました。
同時に片倉少佐がやって来まして、
「 這入ることはならん 」
と 同志から言はれ、
「 何故這入れないか 」
とて どんどん他の七名位の参謀将校と共に門内にやって来ました。
やがて磯部が拳銃一発放ちましたら、之等の幕僚は一斉に皆逃げました。
玄関には真崎、齋藤少将 両閣下が見て居られました。
次官も居られました。

二十六日中ですが 時間は不明でありますが、
軍事参議官 林、寺内、植田、阿部、西、荒木、真崎閣下と
村中、磯部、香田、栗原、と 陸相官邸に会見しました。
私は今 非常に疲労しておりますので、諸記憶は明瞭でありません。
二十七日 首相官邸に一同引揚げましたのは、陸
軍省及参謀本部の幕僚を襲撃する為めだと同志から聞きました。
首相官邸には村中、磯部、栗原、對馬、竹島、中橋等が居りました。
二十八日陸相官舎で真崎、阿部及西大将が御出でになりました。
このときは 同志将校は殆んど全部集りました。
今回、蹶起間、同志より一回も命令として出されたことはありません。
たしか二十八日中と思ひます。
陸軍大臣の告示が陸軍省の方から手交されました。
夫れは次の様なものであります。
陸軍大臣告示
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり。
二、諸氏の行動は国体顕現の至情に基くものと認む。
三、国体真姿顕現の現況 ( 弊風をも含む ) に就ては恐懼に堪へず。
四、各 軍事参議官も、一致して右の趣旨により邁進することを申し合はせたり。
之れ以外は一つに 大御心に俟つ。

山口大尉は御維新には十分理解ある人と思ひ、
私は山口大尉を同志と思って居ります。
山口大尉は決行当時、週番士官であることは
二月二十三日頃に磯部に聞いて知って居りました。

事件の計画は誰が作ったのか判りませんが、
多分 村中と磯部 及 栗原等が作った事と推察致します。
私が同志と共に事を挙げるに至りました事は、
平素抱懐して居りまする 昭和維新翼賛の為め、予てから決意しておりましたし、
且 本年二月二十三日 磯部より 私宛 「 本日午後四時磯部宅に来れ 」 の電報に接し、
同人宅に至り 今回決行の時日を聞き、之に参加する事に決意しました。
二月二十三日 磯部に会った時、同紙り車輌は幾何を出動出来るやを尋ねられ、
乗用車二、貨車四、兵員十数名 出せるだらうと答へました。
同志の決定せる襲撃計画に基づく輸送及連絡の分担任務を受け、
夫れに対して決行前前日の二十五日、私の聯隊の第二中隊兵舎暗号室に於て、
一人で何台出るかを計画してみました。
此の計画は計画が終ると共に同室の暖炉の中で焼却しました。

私は昭和維新の実現に関しては、
何時でも身命を捧げる決意を持って居りましたので、
磯部氏より襲撃決行計画を示されるや 直ちに 欣然参加したのであります。
決行当時も、何等不安の念は無かったばかりで無く、
我が国体の真姿を具現する為め 喜びに満ちて居りました。
現在と雖も 更に心境に変化を来たして居りません。
只 昭和維新の実現を見なかったのは遺憾であります。
私の国体観念、皇軍の状況、軍閥、軍幕僚、元老、重臣、財閥、政党、諸新聞等は
常に大御心を掩おおい、君臣を離間する奸賊と信じ、
之を徹底的に排除せねば
悠久なる我国体を衰亡に導くものなるを以て
一刻の猶予も許さざる現況に直面し、
敢然 起ちて 決行したるものであります。
その他の心境に関しては、澁川善助と全く同様であります。

二月二十六日晩、戦時警備下令の後、
蹶起部隊は戒厳司令官命令を以て小藤大佐の隷下に入るべきことを
陸相官邸に居りました山口一太郎大尉より聞きましたが、
小藤大佐殿は最後迄 此命令を出されなかった様に思ひます。
ところが 此命令が出されなかった為めに、
遂に私共は小藤部隊の隷下に入る機会を失し、
蹶起も維新を直ちに実現することを得ませんでしたのは残念であります。
小藤大佐も相澤公判に依り、其国体観念を体得されたのではないかと思ひます。
以上 本項は私の想像であります。


田中勝  憲兵調書
昭和十一年三月一日
二・二六事件秘録 (一) から


田中勝中尉 「 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 」

2019年10月06日 19時36分49秒 | 田中隊



鬼頭春樹 著 『 禁断 二・二六事件 』 
恰も再現ドラマの如く物語る


宮城の暗闇で非常ベルが鳴り続けた。

午前四時四十分、蹶起の最初の兆候が、こともあろうに宮城でキャッチされる。
近衛師団宮城守衛隊司令部では仮眠中の当番将校以下全員が飛び起きた。
常夜灯が申し訳程度に照らし出す暗がりでは、ベルはまるで暁の静寂を切り裂く悲鳴音のように聞こえたことだろう。
近歩三の二箇中隊二百四十名が騒然となった。控兵に上番していた中橋と同じ聯隊だ。
現場は二十メートルおきに外灯が並ぶ宮城前広場。
その玉砂利が敷かれた車輌進入禁止区域に軍用車輌五台がいきなり侵入したのだった。
乗用車一台、トラック三台、サイドカーが一台。
馬場先門から直進した車列は、二重橋 ( 正面鉄橋 ) に到る手前の正門石橋直下で停止した。
これを目撃した正門警備にあたる守衛隊歩哨が直ちに非常ボタンを押す。
平時では宮城の警備は宮内省警察部が主体だが、ボタンを押したのは近衛兵だった。
従って近衛師団の警備網に異常が伝達される。


田中 勝
陸士在学中 第44期 の五 ・一五への突出は、大きな刺激をうけた。
任官して市川野戦重七付となったが、
そこには維新革命を志す河野壽中尉があり、薫陶をうけ啓蒙される。
同郷の先輩 磯部とは特に親交をもっていた。

不法侵入した車輌部隊の指揮官は野重第七第四中隊、田中勝中尉 ( 25 )。
十三名の下士官兵を乗せた計五台は、夜間自動車行軍をかねて靖国神社に参拝 と称して、
市川の駐屯地を三時十五分に出る。
車列は途中、小岩にある田中宅に立寄った。
拳銃と軍刀、そしてキャラメル多数を夫人から受取る。夫人は身重だった。惜別の意味があったろう。
その遅れを意識して猛スピードで都心に向かったのだが、逆に早く着きすぎてしまう。
陸相官邸五時の待合せまで時間をつぶすため、まず靖国神社に詣で、
次に宮城前広場に参拝しようとして 立入禁止区域に乗り入れたのだった。
之には当然、S作戦 の下検分の意味もある。
非常ベルに驚いた仮眠中の近衛師団将校や皇宮警察警手が正門守衛所にあたふたと駆けつけた。
総勢十二名にも上ったと  『 皇宮警察史 』 は記す。
「 衛兵所まで同行願おうか・・・・」
近衛の守衛隊当直だった小坂少尉が、田中中尉の星が二つの階級章にチラリと目を遣りながら丁重に誘う。
行先は上道灌濠に近い正門儀仗衛兵所だった。
守衛隊司令部と同じ建物の一階に入っている。
「 いや 単に訓練中の宮城参拝です。地理に不案内でご迷惑をおかけしました 」
田中は所属を名乗った上で素直に詫びを入れて一件落着だった。
 宮城
この時刻 まだ宮城では雪が降りだしてはいない。
麻布の歩三、歩一では未明から粉雪が舞っていた。首相官邸でも同様だ。
田中は一段と高い土手堤に建てられた衛兵所にいた。
目の前に伏見櫓の白壁が黒々とシルエットで聳え、その向こうに御常御殿が見えた。

すでに蹶起部隊は非常呼集を終え、歩三、歩一、近歩三の各営門を出ていた。
「 ようし 三宅坂だ、いよいよ五時の蹶起だ、陸相官邸に行くぞ 」

≪ 高橋是清大蔵大臣私邸 ≫
赤坂区赤坂表町は瀟洒しょうさいな屋敷町だ。
午前四時四十五分。
近衛歩兵第三聯隊第七中隊、中橋中尉は
百二十三名を率いて表町三丁目の高橋蔵相私邸附近に到着する。
静かに粉雪が舞っていた。
渋谷から青山、赤坂見附を経て築地に到る市電通りの 「 赤坂表町 」電停の南側に、
この高い黒塀で囲まれた広大な敷地の邸宅があった。
北側には貞明皇太后が居住する大宮御所がある。
一ツ木町の近歩三の営門から歩いて五分とかからない。
憲兵隊訊問調書と判決文では営門を出た時期が五分違うが誤差の範囲内であろう。
中橋中隊の行動は敏速だった。
軽機関銃を警戒のため市電通りに配置したあと、
五時十分、第一小隊、砲工学校の中島莞爾少尉が容易した縄梯子で高橋邸の高い塀を乗り越える。
表門と東の塀の二ヶ所から突入隊が敷地になだれ込む。
服装は行動しやすい演習服。
まず内玄関を破壊し、直ちに室内に二十名の兵が乱入。
ところが広い屋敷内で勝手が判らず、二階に上る階段がどこをどう探しても見つからない。
各所で兵と家人が衝突し、右往左往混乱の極みを迎えてしまう。
中橋が 恐怖の念を起さしめ手出しをせざる如く するため、
拳銃で三発 廊下に向けて威嚇発射し、ようやく収まるのだった。
同時に二階への階段も見つかり駆け上がる。二階奥の寝室までまっしぐら。
高橋蔵相は寝ていたと謂う説と 起きていたと謂う説がある。
判決文は前者、松本清張 『 昭和史発掘 』 での家人の証言は後者である。
庶民にもダルマの愛称で親しまれた高橋是清蔵相 ( 81 ) は蒲団の上に座り大きな目を向く。
「 無礼者、なにしにきたか 」
「 天誅 」
と 唯一言 叫んだ中橋が拳銃を即座に四発発射する。
同時に中島が軍刀で右肩に切り込み、返す刀で胸を突き刺す。
蔵相は何か唸ったように中島には聞こえたが静かに倒れた。
アッという間の出来事だった。
蔵相の次女、真喜子 ( 26 ) が階下にいた。
二階からドヤドヤと軍人が降りて来る。
指揮官の中橋は真喜子を肉親と認めると、立ち止まり無言で最敬礼する。
と 見るや 赤マントを翻し風の如く去って行った。
突入から引揚げ迄襲撃は十五分足らずで終わる。

中橋は撤退の際、門前に催涙弾を投げ捨てて行く。
煙と叫び声が交錯するなかを、
口と鼻をハンカチで押さえた警官の手で非常線が張られた。
 

中橋は呼子笛を鳴らし、
第一小隊六十名の蔵相襲撃隊を門前に集結させると、
中島少尉に小隊を率いて首相官邸の栗原隊に一旦合流するよう命じる。
肩で息をしていた中橋は上着のボタンを外す。
一息つくと暗闇のなか少し離れたシャム公使館脇へと急ぐ。
そこには第二小隊長、今泉義道少尉以下の六十二名が待機中だ。
蔵相を襲撃する間、小休止を命じてある。
その際、空包しか渡さず、目的は明治神宮への参拝だと称した。服装は第二軍装。
この場所では蔵相邸内からの射撃音は聞こえないはずだった。
つまり第二小隊の兵士たちには襲撃蹶起は伏せられる。
中橋は第二小隊にこう云い渡すのだった。
「 非常事件が起きたから参拝は取止め、宮城へ控兵として行く 」
さあ、次は半蔵門だ。

「 非常 」
トラックの荷台から田中勝中尉が大きな声で叫ぶ。

五時二十分だった。
「 取り込み手が空いていないので敬礼ができないが、失礼する 」
という軍隊用語だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・挿入・・・
高橋邸襲撃を終えた中橋は、
突入隊を中島少尉、大江曹長、箕輪、宗形 両軍曹に託して首相官邸に向かわし、

こんどは赴援隊の第二小隊を今泉、斎藤と共に率いて青山通りに出、半蔵門に向かうのだが、
すぐに田中の自動車隊に遭遇する。
「 ・・・蔵相邸表に出ると、陸軍砲兵中尉田中勝が自動車四台を率いて通り抜け、
私に 『 しっかりやって下さい、私はこれから陸相官邸に行きます 』 と 云い、
田中中尉が 『 非常!』 と 叫んでいたという事で、
突発事態に遭遇したと認め 第七中隊は直ちに宮城に赴く 」 ・・・3月15日 中橋調書
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市電通りで追い越して行く野重七のトラック部隊を見送った中橋中尉。
「 あれだ。あのトラックに明治神宮参拝から帰る途中に遭遇して、
非常事態が発生したことを初めて知った事にすればいい 」
中橋は六十二名の第二小隊と共に半蔵門をめざしている、その途上で遭遇したのだ。
田中は宮城参拝からすぐ陸相官邸に回ったが五分早く到着。
一方の歩一第十一中隊、丹生中尉指揮の占拠部隊が五分遅れたため、落ち合うことが出来なかった。
異変が生じたのではないかと危惧した田中は、確認の為麻布六本木の歩一に急行する。
山口週番指令から、既に第十一中隊が出撃したことを聞くと、
すぐさま陸相官邸にとって返した、まさにその途中だった。


池田俊彦、反駁 『 池田君有難う、よく言ってくれた 』

2019年10月01日 11時51分25秒 | 池田俊彦

裁判始まる
五月十一日はいよいよ私と林の番であった。
午前中は林の審理及び陳述が行われた。
林は昭和七年の上海事変で金沢の歩兵第七連隊長として出征され、
壮絶な戦死を遂げられた軍神林聯隊長の次男で、
ちいさな身体に満々たる闘志を秘めて法廷に立った。
裁判長以下裁判官一同名門の好漢の言に熱心に聞き入っていた。
法廷に於ける林の態度は実に立派であった。
陳述の中で特に印象に残っていることを記す。

自分は幼年学校に入学以来、自分の身はすべて、天皇陛下に捧げ、
毎日のすること為すことすべて陛下の御為との自覚に立って行動し、
毎朝軍人勅諭を奉読し、全身全霊を捧げて日常を律したこと。
そして民を慈しみ給う陛下の大御心に違背する者の存在を許すことが出来なかったとし、
革新思想を抱くようになった動機等に就いて語った。
また御尊父を心から尊敬していたことを話し、その戦死の模様について語った。
上海で最も頑強な抵抗を示した江湾鎮攻撃の際、
旅団長から 「 我が旅団は砲兵の協力を待たずして直ちに攻撃を開始する 」
との命令に接し、林聯隊長は憤慨して、
陛下の赤子である兵隊の生命を何と考えるかと烈火の如く怒ったそうである。
砲弾の少なかったことも原因しているかも知れないが
砲兵の協力無く独力で攻撃が成功すれば、金鵄勲章の等級が上がるからである。
このような栄達主義、兵の生命を粗末にする堕落した軍の幹部、
そしてそのような雰囲気を醸成している今の社会を徹底的に改革しなければならないと言い、
何よりも国家の革新が急務であることを堂々と主張した。
林聯隊長はこの日、兵隊達だけ死なすことは出来ないと、
自ら第一線に進出し壮絶な戦死を遂げられたのである。
また長男林俊一氏のことにつき法務官は林の気持ちをきいた。
俊一氏は一高在学時代 共産主義運動に走り、拘留せられ退学されたが、
そのことに就いて林の考えをきいたのである。
林は簡単に兄は私と同じような考えであったが、
唯一つ、天皇陛下に対する気持の上で一致しなかったと述べた。

林も亦起訴状に対する反駁を強く主張していたが、
最後に二十九日首相官邸を離れて陸相官邸に行く時、
兵隊に別れの挨拶をしなかったことが、今となっては心残りであると、
しんみりした口調で述べた。


池田俊彦

午後は私の番であった。
事実関係の審理のあとで革新思想を抱くようになった動機について尋ねられた。
私は中学校及び士官学校在学時代から、国語、漢文に興味を持ち宗教や哲学的書物を好んで読んだこと、
そして日本精神に関する種々の本、特に大川周明の本などを読むうちに、
日本人は日本人たることによって生存の価値があること、
我々の行動基準は日本精神、神ながらの道に帰することだと考えるようになった旨を述べた。
そして僧契冲の伝記を読み、契冲が仏門に帰依して思索懊悩の末、遂に断崖に撒手して絶後に蘇った時、
飜然として自己に目覚め、仏教から国学へと転向していったその境地に深い感銘を覚えたことを話した。
私は神ながらの道にかえることが現在の混迷せる日本の進むべき道であり、
これこそが昭和維新だと考えるようになったと述べた。
亦安岡正篤の書などから王陽明の思想を知り、次で大塩中斎の著書を読んで、
その神学的な実践思想に共鳴するようになり、
この方面からも自ら進んで昭和維新の実現に努力すべきことを感じた旨を話した。
そして日本の海外進出についても、日本は王道的道義的精神を以てお互いに栄える道を選ぶべきであり、
利益本位のやのり方は是正さるべきであると言い、一つの例を挙げた。
中国貿易を行っている或る小さな会社が、中国奥地の乾燥卵を輸入していた。
これはその会社が奥地の鶏卵の山地に行って永年研究の末乾燥卵を造らせて、
それを一手に引受けて内地に輸入していた。
このことを知った或る財閥の会社は、その資本力に物を言わせ、
その商店より高く買い付けて、その輸入を独占してしまった。
これによってその小さな会社は倒産した。
その後その財閥の会社はダンピングによって買い値をたたき、
膨大に利益を得たということを或る人から聞いたこと。
そしてこのような覇道的な侵略的なやり方は断じて許さるべきものではないこと。
国内の貧困の救済と共に、
眼を大きく開いて米英の資本主義的搾取から東洋の民族を救ってゆかねばならぬことを述べた。

どうしてこの事件に参加したかとの問いに対しては、
私はこれ迄革新運動をやってきた者ではなく、また現在の軍の情勢などは分からないけれども、
今回の蹶起が昭和維新への道を開くことを念願して参加したことを述べ、
諸葛孔明の出帥の表の最後の文章を唱え、その成敗利鈍を問わず出陣した心境に触れ
参加を決意するに至ったことを話した。

次で法務官は一段と声を高くして次のように私を問いつめた。
「 今回襲撃し、そして殺害した方々は国家の元老、重臣であり、
 特に、陛下の御親任も厚く、今迄国家に対して功労のあった方ばかりである。
このような方々を殺害したことに対し、どう考えているか 」
私はこれに対しきっぱりと次のように答えた。
「 私はこのことについては次のように考えております。
 凡そ善人とは過去にどんな悪行があり、誤りがあったにせよ、それを反省し現在善人であり、
善なる方向に努力している者は善人であります。
また悪人とは過去にどんな善行があっても、現在悪であり、悪の方向に進んでいる者は悪人であります。
過去において国家に功労があった元老、重臣の方々も、時勢の進展に眼を開かず、
誤った認識の下に国家の進展を阻害している者は、悪と断じて差支ないものと信じております。
このような者を誅戮するのに躊躇するものではありません 」
この時裁判官一同私の顔をじっと睨んでいるような感じがした。

私は更に語をついで、
十一月二十日事件のことに触れ、
辻大尉一派のように謀略的方法を以て反対派を排撃し、
権力を以て自派本位の改革を行う考え方には反対で、
むしろ村中さんや磯部さんのように
一身を捨てて維新のために立ったことは正しいと考えている旨を述べた。

また法務官は自決しなかったことの理由を問いただしたが、
私は二十八日には栗原中尉以下一同自決する決心でいたけれども、
その後の攻囲軍の動きと当局の吾々の心情を踏みにじったやり方に、
何とも言えぬ反抗心が湧いたからであると述べた。
今から考えると、死を決意した者がその死を取り止めた理由など弁解じみたことに聞こえるが、
きかれた以上返答しなければならなかった。

あとは何を言ったかは覚えていなかったが、これで私の陳述は終り閉廷となった。
私は少し張り切りすぎて言いすぎたような気持がして、自分の席に戻ってからも興奮がさめなかった。
随分思い切ったことを言ったと思った。

やがていつものように香田さんを先頭に一列縦隊になって、
刑務所に向って帰っていった。
その時、私の二人目の後を歩いていた村中さんが、私の側に寄ってきた肩をたたき、
「 池田君 有難う。よく言ってくれた 」
と言って礼を言った。
磯部さんもまた同様であった。
この時私は嬉しかった。

池田俊彦 著
生きている二・二六   から