あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 『 このままでは 日本は亡びますよ 』

2023年02月12日 16時24分37秒 | 西田税


西田税の歌である
青雲の涯にいったのかどうかはわからない
ただ
「 天皇陛下万歳 」
の 叫びを私の心に刻みつけて
再び会うことも 話し合うこともできない、
それだけに どこか遥かな遠い涯にいったことだけは事実である
・・末松太平


殺身成仁鐵血群
概世淋漓天劔寒
士林莊外風蕭々
壯士一去皆不還     
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
幽囚未死秋欲暮
染血原頭落陽寒

・・・遺書

「自分としては色々考へる処もあり、到底當分の間そういふ事は同意は出來ない
社會状勢の判斷、自分の希望し努力してゐる事の今日の程度等から見て
實は賛成が出來ないが、
併し諸君の立場を考へれば止むを得ない氣持ちもあるだろう
自分は五 ・一五事件の時にも御承知の様な事になり、幸にして今日生きてゐるので、
自分の生命に就ては別に惜しいとも何とも思ってゐないが、
若い將校達は何れも満洲に行かねばならず、
行けば最近に於ける満洲の狀態から見て對露關係が遂次險惡化して居る折柄、
勿論生きて歸ると云ふ様な事は思ひもよ
らぬであろう
其点から言っても國内の事を色々憂慮して苦労して來られた人達が
此儘で戰地へ行く氣になれないのも無理もないと思ふ
元來私共の原則として何処に居っても御維新の御奉公は出來るし、
満洲に出征するからその前に必ず何かしなければならんと云ふ事は
正しい考へ方ではないと思ふが、
それは理屈であって人情の上からは一概に否定する事も出來ないと思ふ
以前海軍の藤井少佐が所謂十月事件の後近く上海に出征するのを控へて
御維新奉公の犠牲を覺悟して蹶起し度いと云ふ手紙を
昭和七年一月中旬自分に寄越したのでありましたが、
私は當時の狀勢等から絶對反對の返事をやった爲
同少佐非常に失望落騰して其儘一月下旬には上海に出征し、
二月五日上海附近で名誉の戰死を遂げたのでした
私から言へば單に勇敢に空中戰を決行して戰死したとのみ考へる事の出來ない節があります
此の思出は私の一生最も感じ深いもので、
今の諸君の立場に對しても私自身の立場からは理屈以外の色々な點を考へさせられます
結局皆が夫れ程迄決心して居られると云ふなら私としては何共言ひ様がありません
之以上は今一度諸君によく考へて貰ってどちらでも宜しいから
御國の爲になる様な最善の道を撰んで貰いたいと思ふ
私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます
人間は或運命があると思ふので
或程度以上の事は運賦天賦で時の流れに流れて行くより外に途はないと思ひます
どちらでも良いから良く考へて頂き度い 」
・・・西田税 1 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」

西田氏を思ふ、
氏は現代日本の大材である、
士官候補生時代、
早くも國家の前途に憂心を抱き、改革運動の渦中に投じて、
爾來十有五年、
一貫してあらゆる權力、威武、不義、不正とたたかひて たゆむ所がない、
ともすれば權門に阿り威武に屈して、その主義を忘れ、主張を更へ、
恬然 テンゼン たる改革運動の陣営内に於て、氏の如く不屈不惑の士は けだし絶無である
氏の偉大なる所以は、單にその運動に於ける經驗多き先輩なるが爲でもなく、
又 特權階級に向つて膝を屈せざる爲のみでもない、
氏はその骨髄から血管、筋肉、外皮迄、全身全體が革命的であるのだ、
眞聖の革命家である、
この點が何人の追ズイモ許さない所だ
氏の言動、一句一行悉く革命的である、
決して妥協しない、だから敵も多いのである、
しかも氏は、この多數の敵の中にキ然として節を持する、
敵が多ければ多い程 敢然たる態度をとつて寸分の譲歩をしない、
この信念だけは氏以外の同志に見出すことが出來ない、
余は數十数百の同志を失ふとも、
革命日本の爲 氏一人のみは決して失ってはならぬと心痛している
・・・磯部浅一 『  
獄中日記 (四)  八月十九日 』 



西田税  ニシダ ミツギ
『 このままでは日本は亡びますよ 』
目次

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無眼私論 
 ・ 無眼私論 1 「 今仆れるのは 不忠、不孝である 」 
 ・ 無眼私論 2 「 クーデッタ、不淨を清めよ 」 
 ・ 無眼私論 3 「 日本は亡國たらんとす 」 
 ・ 無眼私論 4 「 女は戀するものである 」 
 ・ 無眼私論 5 「 眞人 」
 
西田税 ・戰雲を麾く
 ・ 戰雲を麾く 1 「 救うてやる 」
 ・ 戰雲を麾く 2 「 小僧の癖に生意氣だ 」
 ・ 戰雲を麾く 3 「 淳宮殿下の御學友と決定せり 」
 ・ 戰雲を麾く 4 「 私は泣いて馬謖を斬るより他ないと思ひます 」
 ・ 戰雲を麾く 5 「 靑年亜細亜同盟 」
 ・ 戰雲を麾く 6 「 是れこそげに天下一の書なり 」
 ・ 戰雲を麾く 7 「 必ず卿等は屡々報ぜよ 」

 ・ 戰雲を麾く 8 「 達者でいたか 」
 ・ 戰雲を麾く 9 「 畢竟、人生は永遠に戰ひつづけるもの 」

・ 
西田騎兵少尉 
・ 「 殿下、ここが、有名な安來節の本場でございます 」 

西田税と靑年將校運動 1 「 革新の芽生え 」 
西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」 
・ 
西田税と大學寮 1 『 大學寮 』 
・ 
西田税と大學寮 2 『 靑年將校運動発祥の地 』 

・ 
西田税ノ抱懐セル國家改造論 竝 其ノ改造實現ノ手段方法

西田税 『 士林莊 』 
・ 天劔党事件 (1) 概要 
・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
・ 天劔党事件 (3) 事件直後に發した書簡   
・ 
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧錄


天皇と農民 ・・※

・ 
ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』 
・ 
ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』 

・ 五 ・一五事件 『 西田を殺せ 』 
・ 五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 
・ 紫の袱紗包み 「 明後日參内して、陛下にさし上げよう 」
・ 昭和天皇と秩父宮 1
・ 
昭和天皇と秩父宮 2 


・ 末松太平 ・ 十月事件の體驗 (1) 郷詩會の會合 
西田税と十月事件 『 大川周明ト何ガ原因デ意見ガ衝突シタカ 』 
・ 絆 ・ 西田税と末松太平 

・ 統制派と靑年將校 「革新が組織で動くと思うなら認識不足だ」
・ 西田税の十一月二十日事件 
・ 悲哀の浪人革命家 ・ 西田税

西田はつ 回顧 西田税 1 五 ・一五事件 「 つかまえろ 」 
西田はつ 回顧 西田税 2 二 ・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」 
・ 
西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 「 男としてやりたいことをやって來たから、思い残すことはないが、お前には申譯ない 」 


青一髪  萬頃の 波がしら
一劔天下行  欲斬風拓雲
萬里不見道  只見萬里天
・・・西田税 ・ 金屏風への落書 



赤子の微衷

西田税 「 今迄はとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」 
西田税、澁川善助 ・ 暁拂前 『 君ハ決シテ彼等ノ仲間へ飛込ンデ行ツテハナラヌ 』
西田税、村中孝次 ・ 二月二十ニ日の会見 『 貴方モ一緒ニ蹶起シタラ何ウデスカ 』 
・ 西田税、安藤輝三 ・ 二月二十日の会見 『 貴方ヲ殺シテデモ前進スル 』 
・ 西田税、栗原安秀 ・ 二月十八日の会見 『 今度コソハ中止シナイ 』 
・ 西田税、村中孝次 『 村中孝次、 二十七日夜 北一輝邸ニ現ル 』
・ 西田税、蹶起将校 ・ 電話連絡 『 君達ハ官軍ノ様ダネ 』

・ 西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」

・ 西田税 2 「 僕は行き度くない 」
・ 西田税 3 「 私の客観情勢に對する認識 及び御維新實現に關する方針 」
・ 西田税、事件後ノ心境ヲ語ル
・ 西田税 (一) 「 貴方から意見を聞かうとは思はぬ 」
・ 西田税 (二) 「萬感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます 」
・ 西田税 (三) 「石原は相變らず、皇族内閣などを云って居るとすれば、國體違反だ 」
・ 西田税 (四) 「若いものが起ちましたから、其収拾に就てはよろしく御盡力をお願ひ致します 」
・ 西田税 (五) 「眞崎大將をして時局収拾せしめたいと鞏調しました 」

・ 西田税 (六) 道程 1

・ 西田税 (七) 道程 2 

・ 「 貴様が止めなくて一體誰が止めるんだ 」 

・ 反駁 ・ 北一輝、西田税、龜川哲也 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 1 
・ 反駁 ・ 北一輝、西田税 2 
・ 反駁 ・ 北一輝 
・ 反駁 ・ 西田税 

西田税 ・北一輝
はじめから死刑に決めていた
「 両人は極刑にすべきである。兩人は證拠の有無にかかわらず、黒幕である 」 ・・・寺内陸相

「 二・二六事件を引き起こした靑年將校は 荒木とか眞崎といった一部の將軍と結びつき、
 それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです 」 ・・・片倉衷

・ 暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行爲は首魁幇助の利敵行爲でしかない 」


陸軍軍法會議が 非常に滅茶苦茶な裁判であったこと、
結論的に言うと、指揮權發動 もされている。
北一輝、西田税に矛先が向け られている。
北については、叛亂幇助罪で3年くらいのところ、
また、西田については、もっと輕くてよいところ、
鞏引に寺内陸軍大臣が指揮權發動して死刑にするような裁判の構造を作ってしまった。
これは歴史的事實である。
これは匂坂資料の中にも出てくる。
・・・中田整一  ( 元 NHK プロデューサー) 講演  『 二・二六事件・・・71年目の真実 』  ・・・
拵えられた憲兵調書 

何事モ勢デアリ、
勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
蹶起シタ青年將校ハ
去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、
天皇陛下萬歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、
半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、
此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報國ト云フ言葉ガアリマスガ、
私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。
・・・最終陳述

・ 西田税の手記 
・  北一輝、西田税 論告 求刑 
北一輝、西田税 判決 ・首魁 死刑


・ 
菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 
・ 
大蔵榮一 「 回想 ・西田税 」 
・ 
「 軍刀をガチャさかせるだけですね 」 

・ 
昭和十年大晦日 『 志士達の宴 』 ・・・昭和10年12月31日
西田税 ・ 金屏風への落書 

・ 
西田税が描いた昭和維新のプランとは・・

あを雲の涯 (二十一) 西田税 
・ 西田税 ・ 妻 初子との最後の面会 
・ 西田税 ・ 家族との最後の面会 
・ 西田税 「 家族との今生の別れに 」 
・ 西田税 ・ 母 つね 「 世間がいかに白眼視しても、母は天寿を完する 」 
・ 西田税 ・ 悲母の憤怒 
西田税 「 このように亂れた世の中に、二度と生れ變わりたくない 」 
・ 「 俺は殺される時、靑年將校のように、天皇陛下萬歳は言わんけんな、黙って死ぬるよ 」  

昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 
・ 
西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」 
・ 西田税の墓 「 義光院機猷税堂居士 」

十八日に面会に参りましたとき、
「 今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている 」
と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「 これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません 」
「 そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ 」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「 さよなら 」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。

・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯


ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』

2021年10月12日 05時54分14秒 | 西田税

西田税 
ロンドン條約をめぐって
日本國民党の結成


昭和二年夏の 天劔党事件 以來
・ 天劔党事件 (1) 概要 
・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
・ 天劔党事件 (3) 事件直後に発した書簡   
・ 
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録
鳴りをひそめていた西田税が、やおら世間の表面に顔を出すのはこの頃からである。
昭和四年の春、政友会の田中儀一内閣の時、不戦条約問題が起った。
西田税が他の右翼諸団体とともに果敢な批准反対運動をくりひろげたのがそのきっかけである。
昭和三年八月、フランスの外務省で十五ヶ国の代表者が集って不戦条約に調印した。
いわゆるケロッグ不戦条約といわれるものである。
わが国からは元外相の伯爵内田康哉が全権として出席、調印した。
ところが翌年春になって条文の第一条に
「 人民の名に於て厳粛に宣言す 」
とある一句が、君主国であるわが国の国体に反すると、野党の民政党から攻撃の火の手があがった。
当時もっとも有力な攻め道具である国体問題を、倒閣運動の材料につかったのである。
この不戦条約批准問題は、揉みに揉んだあげく六月の末に批准されるのだが、
この問題に右翼諸団体をあおったのは当時民政党の若手代議士であった中野正剛だった。
西田が後年
「 中野さんとの関係は、会いたいと思えば何時でも会って貰える関係でありまして、
それは昭和四、五年頃からであります 」 ・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録一 P三六一 』  リンク→ 
西田税 (四) )
と、述べており、
寺田稲次郎の追憶談によると、この頃はよく北邸に来ていたという。
この不戦条約問題のあとで張作霖爆殺事件が、満洲某重大事件として問題となり
田中内閣は七月のはじめについに倒れ、代って民政党の浜口雄幸が内閣を組織する。
 中野正剛
この倒閣運動に、北も西田も一役買ったらしく、浜口内閣が出来たあと、中野正剛が北邸を訪れて
「 田中内閣打倒の論功行賞をするとならば、さしずめ北君はシベリア総督かなあ 」
と、冗談口をたたいたら 北一輝はサッと顔色を変えて
「 俺は天皇なんてうるさい者の居る国の役人なぞにはならん 」
と、本気で怒ったので、中野も興ざめた顔をして帰って行ったという。 ・・( 寺田稲次郎談 )
西田税もこの間の事情を
「 昭和四年、田中内閣当時、所謂不戦条約問題が発生しましたので
黒竜会、大化会、明徳会、政教社、愛国社と合同して、政府糾弾運動を行ったのであります。
不戦条約問題とは人民の名に於て条約を締結せんとした田中内閣に対し、
御批准反対を強請した問題であります。
次で、所謂張作霖爆死問題が勃発して、同年七月田中内閣は倒れたのでありますが、
私はこの爆死問題糾弾運動には反対でありました 」 ・・( 前掲書P三六九  リンク→ 
西田税 (六)   ) 
と、述べているように、西田は田中内閣打倒運動にはあまり関係していない。

この頃の西田の身辺は寥々りょうりょう たるものであった。
天剣党事件以来、革新的な青年将校の多くは彼の許から遠く去っている。
わずかに遠い鹿児島にいた菅波三郎や海軍の藤井斉との交流があるばかりで、
後輩の陸士三十八期の渋川善助が陸軍士官学校の卒業の直前、教官と衝突して退校になり、
この頃は明治大学の法科に籍をおいて、時おり西田の宅を訪れるばかりであった。( リンク→ 
渋川善助の士官学校退校理由 )
このため西田は しだいに民間右翼の人々との交流を深めていったのだが、
この右翼浪人群と西田とは思想上からも、行動倫理の上からも合わなかったようだ。
西田が群鶏中の一鶴と自負していたのか、異質の徒として西田は彼らを遠ざけていたのか、
とにかく孤独な存在であった。
その西田が日本国民党の結成に参画し、
ついで ロンドン条約の紛糾をめぐって縦横に活躍して、関係者の注目を集めるようになる。
北一輝を中心にその頃西田と盛んに行き来して、日本国民党でともに活動する寺田稲次郎は
「 一口に言うと孤独であった。 もともと西田君は性格的に激しい所があるが、一面暗い所がある。
無口で人に容易に同調しない、人を人とも思わぬ所がある。
傲岸不遜ごうがんふそん とまではゆかないが、まあ それに近い感じだ。
このため民間右翼にはあまり人気がなかった。
子供あがりの時から軍隊の中で育ってきたから世渡りが下手だ。
人に不快を与えるような事も平気で言う。人は彼の実力は認めているが、あまり近よらない。
西田君も自分の不人気や不徳は自覚していた。
その西田君も日本国民党の結成がきっかけで、ロンドン条約の紛争のときには随分働いたものだ 」
と、語っている。
日本国民党時代の西田税をその著書 『 一殺多生 』 の中で、生き生きと描いている小沼正も
「 西田氏が、既成の愛国社陣営から好感をもって迎えられないのは、
西田氏の無若無人の言動が反感を買っていたようである。
しかし、公平に見て、西田氏はなんといっても、北一輝をバックに実力をもっていた。
なまじ歯の立たなかった人たちの岡焼であり、嫉妬でもあった。
ともかく、私自身が愛国運動の実態を知るうえに、西田氏の話はたいへんすばらしい勉強になった 」
・・( 同書 P二二三 )  と、述べている。
寺田稲次郎の追憶談と重ね合せてみると、その頃の西田の姿が鮮やかに浮び上ってくる。
こうした態度で右翼陣営の中で、久しく孤高を保ち続けていた西田税が、
ロンドン条約の紛糾をきっかけに果敢な行動や辛辣きわまりない文章をもって、
世間の表面に躍り出た心境はよくわかる気がする。
西田が二十九歳の秋から三十歳にかけての、気力充溢した年代のことである。
 内田良平    頭山満
この ロンドン軍縮会議を英米、
とくに米国による功名な対日圧迫の手段とみた陸海軍人の有志と国家主義者たちは
条約の調印をもって英米への屈服であると断じた。
こうして政党対軍部の抗争から、政党政治への不信感を深め日本の危機感を強く抱き、
やがては国家改造運動を具体化してゆくのである。
このロンドン海軍軍縮会議の開催が伝えられると
真っ先に立ち上がったのは黒竜会の内田良平である。
彼は玄洋社の頭山満とはかって、全国の同志に檄を飛ばし 「 海軍軍縮国民同志会 」 を結成した。
この軍縮会議は英米ニ国が合意した上で会議を招請したこと、
これを受けて起つ日本の外務大臣が、
かねてから親英米派の軟弱外交と悪評のある幣原喜重郎であることに、
内田も頭山もひとしお危惧の念と不安を抱いたからである。
そこで全国の同志の力を結集して国内の輿論を盛り上げ、幣原外交を牽制する。
その上全権団や海軍当局を激励し、幾分でも外交態勢を有利ならしめようとした。
昭和四年十一月二十五日、青山の日本青年館に有志五百余名が参集して大会を開き、
満場一致で次のような決議を行った。
一、補助艦の制限に関して均衡の精神を貫徹すること、但し、潜水艦は制限外に置くこと。
ニ、米国の謂はれなき補助艦勢力の拡張を阻止すること
・・( 『 国士 内田良平伝 』 P六五三  )
この決議文は、その夜代表委員内田良平ら五名によって若槻首席全権に手交された。
西田税もこの内田良平の呼びかけに応じて同志会に参加し、
実行委員の一人にあげられている。
実行委員は男爵菊池武夫を筆頭に、
海軍中将佐藤皐蔵、元駐独大使本田熊太郎、早大教授北昤吉 ( 北一輝の弟 )、
内田良平、葛生能久、大川周明、岩田愛之助、それに 西田税である。
錚々たる多彩な顔ぶれの中に駆け出しにも等しい二十九歳の西田税が挙げられたのは、
おそらく内田良平の推挙であろう。
この春の不戦条約批准の反対運動で見せた果敢な、幅広い行動力や、
その上 右翼浪人らしからぬ明快な思考力が内田に認められたものであろう。
西田税はこの二十日あまり前、同志と共に日本国民党を結成したばかりであった。
十一月三日、同じこの日本青年館で華々しく結党式をあげたばかりで、
ロンドン軍縮条約問題がはからずも国民党の初仕事になった。
西田は、後年 ニ ・ニ六事件で捕らわれた際、憲兵の訊問に答えて
「 この様にして、私は不戦条約問題から愛国政治運動の必要を痛感し、
愛国派の少壮有志が会合して日本主義政党を組織する必要を認めましたので、
中谷武世、津久井竜雄 等と相談の結果、夫々、
私は日本国民党、中谷は愛国大衆党、津久井は急進愛国党を中心として合同組織することに致しました。
私は日本国民党に於て表面名前を出さぬ心算つもりでありましたが、
結局同党の統制委員長となり、
昭和四年十一月、頭山満、内田良平、長野朗の諸氏を顧問として結党式を挙げたのであります 」
・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録 一 』 P三六九 リンク→ 西田税 (六)   )
と、述べている。
西田が政党の必要性を痛感して中谷らと相談している折に、
八幡博堂から日本国民党の話をもちこまれて話に乗った、というのが真相であろう。
これに関して、藤井斉の手紙 ( 昭和五年一月二十二日付 リンク→
 藤井斉の同志に宛てた書簡 (1)  ) がある。
「 日本国民党は八幡博堂氏 ( 土佐の人、信州に長く在り痛快男子、三十歳位新聞関係の人 ) が信州国民党を組織し、
此地に於て日本大衆党を奪還し勢を得、行地社に合同を申し込みたる様子、
長野氏、津田氏 個人として之に加る。
西田氏また かの不戦条約問題に於る内閣倒壊の際、頭山、内田 翁一派及明徳会 ( 塩谷氏主幹 八幡氏関連あり )
を糾合して戦へり。
この機縁により信州国民党を拡大して大衆自覚運動のために、日本国民党は組織せられたり。
それ以前に、西田氏、津久井竜雄氏 ( 高畠門下 ) 中谷武世の三名にて大衆運動をなさんとする議ありたり。
ここに於て此等の人々は皆、日本国民党結成準備会には出て相談しつつありき。
その内 中谷、津久井氏等は地盤を別にして、愛国大衆党を組織し 各々別方面に戦い、
招来は合同せんとの約束にてこの二党に分れたり。
( 中略 )
国民党は大車輪の働をなしつつあり。
八幡氏大いに戦いつつあり。
一道二府二十五県に組織完了せりと。
その執行委員長は北氏一派の寺田氏 ( 秋水会 ) なり。
統制委員長は西田氏、幹部の胆はらは政治的大衆運動にあり、
今度の選挙にも代議士として当選可能の所は大いに戦い、然らざる所も大衆獲得のため戦う由 」
( 後略 )  ( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五一 )
、当時の動きを克明に伝えている。
「 今度の選挙 」 とは、少数与党の浜口内閣が一月二十一日議会を解散して、
二月二十日の総選挙で野党の政友会に百名あまりの大差をつけて勝った選挙のことをしたものである。
しかし、日本国民党の推した中立諸派は七十八名の立候補に対して、わずか四名しか当選していない。
・・( 年史刊行会編 『 昭和五年史 』 P六〇 )
西田たちも大衆獲得の政治運動の限界を知ったことであろう。
藤井斉もあとで 「 大衆に革命は出来ない、出来るようなら革命の必要なし、暗殺は革命の大部を決す 」
と 言いきっている。 ( 『 現代資料4 』 P五七 リンク→
 藤井斉の同志に宛てた書簡 (8) )

日本国民党結成のいきさつであるが、
寺田稲次郎の記憶によれば、
西田から相談をうけた寺田は
八幡を中心に、鈴木善一や旧行地社以来の友人である長野朗や津田光造らに呼びかけて
結党準備会を開いた。
結党趣意書は西田の案文を 「 たたき台 」 にして、一同が討議して作った。
「 西田君の文章は固いけれども、味があるんだ。
なかなかの名調子でね、勝手に熟語を作って書くんだが、その造語が妙に文章を生き生きさせるんだ、
みんな感心したものだ 」 ・・( 寺田稲次郎談 )
結党準備会は芝の日陰町にあった小西という人の家を借り、二ヶ月間に七、八回の会議を開いて、
宣言や政策綱領を作った。
表面は合法政党を装い、場合によっては非合法活動もやろうという肚であった。
寺田の談によれば政綱は 「 民生を安んずる 」 を根本とし、五ヶ条、二十項目にまとめていた。
西田税の発議で特にこの中で 「 広義国防 」 を強調し、陸海軍の現有勢力を確保することを主張したという。
これは後に、ロンドン条約の反対運動で西田が筆陣を張って世論に訴えるが、
軍人出身の西田にとって、これは平素からの持論であった。
結党式は昭和四年十一月三日、青山の日本青年館で行われ 満員の盛況であった。
中央委員長に寺田稲次郎、書記長 八幡博堂、次長 鈴木善一、
常任中央執行委員 花田筑紫、奥戸足百、永富以徳、小島好祐、小西久雄、長野朗、津田光造、杉山民成、
そして統制委員長に西田税、顧問には頭山満、内田良平の両巨頭を推戴し、
党本部を四谷の永住町に設けた。 ・・( 小沼正著 『 一殺多生 』 P一八七 )
組織が左翼風になっているのは左翼出身の八幡博堂が、すべての采配をふったからで、
寺田も 「 八幡はさすがに左翼で活動しただけあって、組織づくりは実に巧かった 」 と語っている。
金解禁
都市の明けた昭和五年一月十一日、浜口内閣は金輸出解禁を断行した。
蔵相井上準之助が在野時代は反対であった金解禁 ( 金の貨幣または金の地金の輸出禁止を解くこと ) を、
ついに断行したのである。
しかし、世界的な恐慌のさなかであったから、井上の目算ははずれ、日本経済は破壊的な打撃をこうむり、
不況は一段と深刻さを増した。
西田はこの金解禁のさい、井上蔵相と安田銀行との醜関係をキャッチし、
怪文書を配って浜口内閣にゆさぶりをかけた。
「 昭和五年一月頃金解禁当時、井上準之助と安田保善社との醜関係告発問題に関係して
警視庁に約十日間拘留され 」 ・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録 一 』 P三五四  リンク→ 
西田税 (一) )
と、述べているのがこれである。
西田は結局不起訴になるが、頭山満の機嫌をそこね 日本国民党からついに手をひかざるを得なくなる。
「 西田氏は金解禁に際して安田銀行の不正貸出し大穴ありと暴露し、
又 井上蔵相の○○○○事件を摘発し其他首相に金の入りこめることを暴露し、
内閣打倒を企てるも早く知られて恐らくは失敗ならむ 」
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五二 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (1)  )
これは昭和五年一月二十二日付の藤井斉の手紙の一節である。
藤井の予想通り、西田は財界攪乱の怪文書を配布したことから、頭山満に叱られ統制委員長を辞し、
表面上は日本国民党から手を引かざるを得なくなった。
寺田稲次郎の証言によると
「 いや、西田君の怪文書で、安田銀行も井上も大変弱ったんだ、
どうも醜関係は事実のようで、これ以上騒がれると井上も失脚しなきゃならん。
そこで政界の黒幕辻喜六に泣きついた。
辻喜六という人は表面には絶対出ない人だったが、大した怪物だった。
『 それはだ、これはだ 』 という口癖の人だったが、政財界に顔が広くて実力がある。
さしもの巨人頭山先生でさえ、辻さんには頭が上がらなかったといわれた。
辻さんから頭山先生に話があり、頭山先生が西田君を呼びつけて手を引けと叱った、
というのが真相のようである 」 と、語っている。
しかし、西田は表面は日本国民党から退いた形になったけれども、
党本部にたえず出入りしていたことは事実で、小沼正の著書 『 一殺多生 』 に、
生き生きとその頃の西田の姿が描かれている。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』

2021年10月11日 04時08分10秒 | 西田税

第十二條  天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む
國防及兵力量に關する件は參謀總長及軍令部長に於て策案し
帷幄上奏に依り親裁を仰ぐを常例とす
然れども其政策に關するものは
總長及部長の上奏により 總理大臣に御下問 又は閲覧を命ぜられ

其覆奏ありたる後 陛下に於て親裁あらせらるること數十年來の慣例にして
未だ曾て政府に於て兵力量を決定したることなく
若し之れありとせば 憲法の精神に背き
又 天皇の大權を干犯するものと斷定せざるを得ざるなり

・・リンク→
統帥權と帷幄上奏 

西田税 
ロンドン條約をめぐって
統帥權干犯問題

・・・ロンドン軍縮会議で、日米妥協案が成立し、政府と軍令部は回訓をめぐって半月も論争を続けた。
しかし、浜口首相の固い決意によって軍令部は態度を軟らげ、( 昭和五年 ) 四月一日 承認の回訓を発した。
翌二日、軍令部長 海軍大将加藤寛治は、
天皇に帷幄上奏 ( 統帥事務につき閣議を経ないで大元帥たる天皇に直接意見を具申する ) して
妥協案に反対であると言上している。・・リンク→
鈴木侍従長の帷幄上奏阻止 
この辺のいきさつの曖昧さから、後日重大問題となった統帥権干犯問題が起ってくる。
これについて、( 昭和五年 ) 四月一日 政府回訓前に加藤が帷幄上奏しなかったのは
西園寺や牧野ら元老、重臣の陰謀であるとの風評が、すぐさま飛んだらしく、
霞ケ浦にいた藤井斉は、( 昭和五年 ) 四月八日の手紙で
「 昨日 西田氏訪問。北----小笠原----東郷----侍従長、内閣打倒 ( 勿論軍事参議官会議、枢府 )
不戦条約の場合と同様也、軍令部長一日に上奏をなし得ざりしは、
西園寺、牧野、一木の陰謀のため、言論其他の圧迫甚しい。
小生、海軍と国家改造に覚醒し、陸軍と提携を策しつつあり、御健戦を祈る 」
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五三 リンク→
藤井斉の同志に宛てた書簡 (2) )
と、同志に書き送っている。
藤井は( 昭和五年 ) 四月三日 「憂国概言 」 を書き、印刷して全国の同志に配布しているが、
おそらくこうした中央の情勢を西田から早く入手し、その憤激の情を文章にしたものと思う。
憂国概言 」 の内容は抽象的で、具体的には何も明示してはいない。
( はっきり具体的に示唆しさすれば、直ちに憲兵隊に拘引されるだろうから ) 
しかし、藤井が何を志しているかは明白である。
「 皇祖皇宗の神霊と、幾多の志士仁人の雄魂とを以て築き上げられたる祖国日本の現状は、
貧窮の民、道に充満して、
或は一家の糊口を支ふべく、子女を駅路の娼に売り、
或は最愛の妻子と共に、水に投じて死するあり、
或は只生きんが為めの故に、パンの一片を盗みて法に網せらるるあり。
或は父祖伝来の田地にかえて学びたる学業も用うる所なく、
失業の群に投じて、巷路を放浪する者幾万なるを知らず 」
藤井は冒頭に日本の現状の悲惨さを訴え、こうした国民の困苦をよそに政党政治は私利私欲にふけり、
財閥は国民の膏血をしぼって巨富を積んでいると怒る。
「 嗚呼財閥を観よ、何処に社稷体統の、天皇の道業は存する。
皆是れ 民衆の生血を啜り、骨を舐ねぶる悪鬼豺狼さいろうの畜生道ではないか。
内 斯くの如し、
外 国際場裡を見よ、
剣を把らざるの戦は、今やロンドンに於て戦はれつつある。
祖国日本の代表は、英米聯合軍の高圧的威嚇に、屈辱的城下の誓を強いられんとしている 」
彼はこの日本を救う道は、もはや 『  日本改造法案 』 による国家改造以外に方法はないと告げ、
「 天皇大権の発動によって、
政権財権及教権の統制を断行せんと欲する日本主義的維新運動の支持者たるを要する 」
とし、
彼ら同志はその日常の行動は
上下一貫、至誠奉公の一念で下士官兵の教育に努力せねばならぬ。
「天皇を奉じて維新的大日本建設の唯一路に向はしめよ 」
と 叫んで、文を結んでいる。
この藤井斉の 「憂国概言 」 は問題になり、憲兵の取調べをうけ
出版法違反に問われて謹慎七日間の処罰をうける。

統帥権干犯問題は、後には政友会によって内閣打倒の政争の具にされるが、
最初に言い出したのは内田良平らの 「 海軍軍縮国民同志会 」 であった。
( 昭和五年 ) 四月三日、国民大会を開いて、政府の妥協案承認には絶対に反対であると決議し、
代表委員内田良平らは、翌四日首相官邸を訪れて内閣書記官長に決議文を手交し
今回の政府の執った態度は、帝国憲法第十一条に照して明らかに 「 大権干犯 」 であると申し入れた。
・・( 朝日新聞社刊 『 太平洋戦争への道1 』 P 一二〇 )
その発案者は北一輝であった。
北も西田もそれらしい証拠は何も残していないが、寺田稲次郎はこう語っている。
「 僕らがヘソ造と呼んでいた小林躋造海軍大将がまだ中将で海軍次官になる前だった。
たしか昭和六年の早春、二月か三月の頃だったと思う。
人を通じて北さんの所へ話しがあった。小笠原中将だったかな
『 どうも政府は米国案に屈服する恐れが充分にある、この上はただの反対では通らぬ。
北君あたりの応援をよろしく頼む 』 という意味の伝言があった。
そこで北さんはいろいろ考えた。
そのうち、すず子夫人が神があかりの状態になった。
あの奥さんは小学校もロクに出ていないような教養のない人だったけれども、
大変霊感のある人で、この時こんな事を言い出した。
『 こんな家が見える。追い込めひっこめ 』 と 口走った。
北さんはニ、三日考えた。
そして浜口内閣のやり方は統帥権干犯だと言い出した 」

この統帥権干犯論は専門の憲法学者、
東京帝大の美濃部達吉博士や、京都帝大の佐々木惣一博士らから否定されたが、
新聞のセンセーショナルな報道や、政友会の内閣攻撃論にあおられて
国内は騒然とした混乱にまきこまれた。
これは浜口首相の狙撃事件に発展したばかりでなく、
軍部内に深刻な政党不信の念を植えつけ、後年の国家革新運動に走らせるひとつの誘因となる。
統帥権干犯問題は北一輝が言い出した事を知った民政党の永井柳太郎は、
この頃、外務政務次官であったが、北一輝邸にやってきて
「 北君らしくもないじゃないか、統帥権問題で若い連中を煽動しないでもらいたい 」
と、頼みこんだ。
北一輝はニヤリと笑って、得意な時によく使う べらんめえ口調でこう答えた。
「 いかにもその通り、統帥権干犯なんて、でえてい支那料理の看板みたようで面白くねえや。
けれどもな 永井君、君はモーニングなんぞ着こんで、なんだかんだと騒いでりゃ金になるが、
ロンドン軍縮では食えない将校や職工がたんと出るんだよ。
この不景気のさなかにさ、君、若い失業者の気持ちがわかるか、
これがわからんようでは真の政治はできぬ 」
傍で聞いていた寺田稲次郎によると、さすがに雄弁をもって鳴る永井柳太郎も、
言うべき言葉を失ったようにすごすごと帰って行った。
永井が帰ったあとで、北は書生に向って
「 くらげばかりいじくっている奴が悪いんだ。
ロンドン条約がこじれるのも、天皇がノロノロしているから浜口に勝手にされるんだ 」
と、吐きすてるように言った。
北一輝はよく、その筋に聞こえたら ただではすまされないような毒舌を、平気で口ばしっていた。
この統帥権干犯論はロンドン軍縮条約をさらに紛糾させ、政党と軍部の関係をいっそう危険にした。
藤井斉も五月八日の手紙で
「 軍部対政党の溝深刻化しつつあり。
只軍人中のヌエをたたき切る必要がある。
北氏は軍令部長、同次長にも会って最後の方法の処まで話したと云う。
軍令部の中には段々明らかに解って来た 」 と、述べている。
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五三 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (2)  )

同じ頃、北一輝邸に出入りしていた薩摩雄次が出した雑誌 『 旋風 』 に
「 国防全軍将士への訴へ 」 と題する無著名の論文が掲載された。
署名は無いが文章の癖と関係者の証言から西田税の執筆に間違いない。
冒頭に 「 国防全軍の将士奮起せよ。
諸公は明治大帝の 『 軍人に賜りたる勅諭 』 に背きてまで、議会に忠誠を誓はんとするものであるか !」
と 鋭く問いかけ
「 浜口首相は、ロンドン会議に対する重大回訓に当り、軍令部長の反対を一蹴して、
政府首脳単独の意見を発令した。
その結果は、由々敷 大なる国防不安の招来と共に、
君国存立のための至重なる統帥権干犯の大逆を惹起したのである 」
と 前置きして、浜口首相らが
「 大逆亡国的措置に自ら恥ずる所なしとする不遜の態度 」 をとるのは、
彼らの強烈な信念によるものであると述べる。
そして、その信念とは
「 国家統治の主権を議会に奪取し、確保せしむること 」 で、民政党綱紀第一に特筆されている。
「 議会中心政治の徹底を期す 」 とは、この意味に外ならない、と断定する。
だから 「 党与二百七十名の絶対多数を獲得せるを好機とし、故意に統帥府の機能を蹂躙したのだ 」
ときめさけ
「 何たる暴逆----浜口とその党与の心事行動は、正しく、明治大帝の陵墓を発あばくの大逆である 」
と 痛烈な言葉で攻撃している。
ついで国防軍の本質は 「 皇軍 」 である、とその理由を説明し
「 蛮夷の涯的に内応する政党は、今や議会主権の叛逆国旗を翻して、
暴戻の一戦を皇軍に挑いどみ 国家に挑み来った。
----桃山の陵前、靖国の社頭、神牌頻しきりに震動して、旋風を巷に捲かんとする。
戦へ! 断乎蹶起して大逆亡国の徒を討滅せよ。 日比谷へ!日比谷へ!敵は日比谷にあり 」
と、煽動的な文章で結んでいる。
西田もこの論文がかなり反響をよんだことに多少気をよくしたとみえ、
翌年の春、日本国民党本部で小沼正や菱沼五郎たちと語り合った際
「 西田氏の話のなかには、茨木時代にみんなでまわし読みした 『 旋風 』 の話が出たり、
薩摩雄次氏の話が出たりした 」 ・・( 小沼正著 『 一殺多生 』 P 二二二 )
と、述べているのでもわかる。

ロンドンでは政府の回訓によって会議が進行し、( 昭和五年 ) 四月二十三日についに
日、英、米 三国間の調印が行われた。
しかし、五月二十日 この条約の調印に憤激した軍令部参謀 海軍少佐草刈英治が、
東海道を進行中の寝台列車の中で壮烈な割腹自殺をとげたことは、
時が時だけに社会に大きな衝動を与えた。
三国間に調印は行われたものの、この条約も批准を終らねば効力を発しない。
右翼陣営の反対運動は、一転して批准阻止に全力をあげることになる。
藤井斉の八月二十一日付の手紙は、
この間の北や西田の反対運動の動きを伝えているので少し長いが引用する。
「 日本の堕落は論無き処なり。在京の同志といふも局地に跼躋して蝸牛角上をなす。
多く頼む可らず。
北---西田 この一派最も本脈なり。
先の不戦条約問題以来 北---小笠原長生---東郷。
今度の海軍問題に於て
陸  第一師団長  真崎甚三郎
海  末次信正    加藤寛治
( こは積極的に革命に乗り出すことは疑問なれども軍隊の尊厳のためには政党打倒の決心はあり )
( 中略 )
而して
○○○○○○
は北、西田と会見せり。
第一師と大いによし。
一師、霞空は会見せり。
斯くて革命の不可避を此等の人々は信ぜり。
( 中略 )
西田氏等今や枢府に激励すると共に、政党政治家資本閥の罪状暴露に精進しつつあり
( 牧野の甥、一木の子、大河内正敏の子が共産党にして、宮内省内に細胞を組織しつつあること攻撃中 )
所謂怪文書は頻りに飛びつつあり。 ( 後略 )
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五四 リンク→
藤井斉の同志に宛てた書簡 (6) )
と、この頃の北や西田の動きを克明に伝えている。
この文中の伏字は当時、軍事参議官であった海軍大将伏見宮博恭王に違いあるまい。
伏見宮は東郷元帥とともに条約締結には反対であった。
一人は皇族、一人は聖将として半ば神格化された東郷の反対で海軍部内がいっそう混迷に陥ったさまが
「 岡田啓介日記 」 などでうかがえる。
皇族である伏見宮に、右翼浪人にすぎない北や西田が謁見できたのは、
おそらく東郷元帥の側近であった子爵で海軍中将の小笠原長生の手引きによるものと思われる。
西田も後年
「 海軍の小笠原長生子爵などと知己を得ましたのもこの時代であります 」
と陳述している。
小笠原は西田を随分と可愛がった様である。
自分の守り本尊にしていた高村光雲作の朱塗りの仏像を西田に与えている程である。 ・・( 村田茂子談 )
東郷元帥   小笠原長生
「 右翼思想犯罪事件の綜合的研究 」 によれば、
日本国民党の批准阻止運動を次のように記述している。
「 日本国民党に於ては昭和五年九月十日 『 亡国的海軍条約を葬れ 』 と題する檄文を作成し、
枢密顧問官、官界政界の名士、恢弘会、洋々会員等に配布し、
又 同年九月十九日附 『 祝盃而して地獄 』 と題し、政府が牧野内府、鈴木侍従長と通牒し、
枢府に対する策謀を為したる事を難詰したる檄文、
同月二十九日附 『 軍縮意図の自己暴露 』 と題した米国上院に於ける海軍軍縮問題の討論審議事項を記載したる文書、
同年十月九日附を以て、ロンドン条約に関し、最終的決定的行動に入るべく、決死隊組織を為し、
之が動員の司令を下したと宣伝した。
血盟団員小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、川崎長光は、同党鈴木善一の勧誘に応じ、
決死隊員として、当時上京したのである 」 ・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五〇 )
この決死隊募集の檄文が、小沼正たちの手元にとどいたのは、昭和五年九月下旬であった。
小沼たちは二ヶ月ののち、決死隊員として上京するが、やがて職業的な愛国運動に失望する。
「 愛国運動とか右翼運動などと言ってみたところで、実態はこんなものだった。
これでは革新も革命もあったものではない 」 と 感じたと著者に述べている。
こうして日本国民党も、ロンドン条約の批准が終った頃から、しだいに生気をなくして低調となり自然消滅の道をたどる。
藤井斉の手紙に
「 日本国民党は寺田氏しつかりせず。八幡氏また金なければ働けざる人物、
西田氏手を引いてより有名無実なり。
---手を引きしは財界攪乱の怪文書事件に頭山翁がおこりしためなり。
鈴木善一君のみはしつかりし居る ( 井上日召氏下に現今在り )
内田良平翁が大日本生産党なるものを計画中、之は生産者を第一とせる党。
大本教 を土台にせむとの考、成功難からむ。
国民党はこれに合同するやも知れず。今や殆んど取るに足らず。
斯る運動は本脈にあらず、末の問題なり。
潰す方或は可ならむ、若し作るとせば西田氏を当主として表面政党、
裏面結社のものたらしめて農民労働者を団結せしむべきのみ 」 ・・( 前掲書 P 五五 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (6) )
これは八月二十一日の手紙であるが 結果は半年の後、藤井の予想通りになってゆく。
その頃の西田税の姿を寺田稲次郎はこう追想している。
「 その頃の西田君は、まさに国家主義運動の三昧境に入っていた。
苦労を苦労とせず、迫害や圧迫をものとも思わぬ。
運動そのものに没頭する。生命をかける。
言ってみれば三昧境というか、捨て身というか、血気旺んな頃であったが、そんな気魄で生活していた。
だから生ぬるい職業的な愛国運動家たちを軽蔑していた。
八幡君や鈴木君とは考え方も肌合いも違っていた。
日本国民党の結束が乱れたのも両者のそんな性格の違いから来たのであろう 」

一年ちかくも揉みに揉んだロンドン条約問題も、昭和五年十月一日 枢密院の本会議で可決された。
ついで批准書は日本郵船の氷川丸で英国に送られ、
十二月三十一日を以て効力を発生することになった。
ロンドン条約は、当時の日本の国力として英米に屈せざるを得なかった、
と 思われるが、軍部の猛反対を抑えて強引に調印した政党内閣は、愚劣な政争にあけくれる腐敗政党であった。
しかも、長い間の経済恐慌の中で窮乏にあえぐ国民をよそに、財閥の走狗となって私利私欲にふけり
政争のためには手段を選ばず、政党あって国家なき醜態を演じた。
こうした政党政治家の無自覚と驕慢は、自ら墓穴を掘る結果となる。
ロンドン条約をめぐって引き起こされた統帥権干犯問題は、
幣原の軟弱外交による満蒙問題の行詰りと重なって、革新的な青年将校の危機感を激発した。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


大川周明 『 大学寮について 』

2021年10月10日 08時17分25秒 | 西田税

『 大学寮 
 に ついて

大川周明
五 ・ 一五事件  『 訊問調書 』
から
・・・其の頃 小尾晴敏と云ふ人が
私の知人 安岡正篤氏等と旧本丸の一角に 「 社会教育研究所 」 を設け
地方の青年二十名前後を毎年募集し社会教育者としての訓練を与へて居りました。
大正十一年の春と記憶しますが小尾氏から私にも研究所の同人になる様勧められ
色々と其の内容や目的を聞き訊した上 快く承諾して同人に加はり
日本精神に付ての講義をすることになりました。
研究所は宮城内に在るので場所としては此の上もなく
地方から来た学生も真摯実篤の青年が多かったので
私は此の仕事に大なる興味を覚えました。
当時 宮内大臣たりし牧野伯、関屋宮内次官、
荒木、秦、渡辺錠太郎の将軍  其の他少壮陸海軍士官等が来所しては
学生に奨陶や奮励を与へて呉れました。
当時私は大船の或寺に寄寓して居りましたが
大正十二年の大震災で其の寺が潰れてからは居を研究所に移すと共に
起臥を青年と共にし 一層彼等の教育に力を尽しました。
そして研究所と云ふ名称を大学寮と改め
小尾氏は主として地方の講演に出て私が旧本丸に留守をあづかる事になりました。

大学寮と云ふのは
「 大学之道、在明明徳、在新民、在出至善 」
とあるに因つたもので
明徳 即ち自己の道義的精神を明にし
其精神に則つて民 即ち国家社会を改新して行く人間を養成する所
と云ふ意味であります。

学生は応募者中より二十名内外を選択し
皆所内に起臥し 
午前の四時間は講義を聴き 其の余は自習の時間とし
夜間には 一週少くも二回は知名の士を招き学生をして其の智徳に接せしめました。
故海軍大将八代六郎男爵の如き最も熱心なる後援者でありました。
老壮会、猶存社以来の知人が多く大学寮を訪問しました。
其の後 色々問題を起した西田税 も 病気の為め軍人を辞めて大学寮に来り投じました。
西田氏は満川亀太郎氏の知人でした。
猶存社の同人たりし人々は猶存社解散以来 何となく心淋しかつたと見え
屢々しばしば大学寮に集まる中 又一個の団体を結び度いと云ひ初めました。
私は余り賛成でなかつたけれど同人の熱心に動され 大正十四年に至り遂に 「 行地社 」 の創立に同意しました。
大学寮の方は怎うかと云ひますと
我々が借りて居る古い建物を取払ひ 其処に宮内省の図書寮を設ける事になつたので
我々は立退かねばならぬ事となりました。
而して之に代るべき建物は容易に見当らず
見当つても余程の金が必要なので
是亦 大正十四年に遺憾ながら止めて了ひました。

現代史資料5  国家主義運動2 から


西田税と大学寮 1 『 大学寮 』

2021年10月09日 04時59分36秒 | 西田税



大学寮
大正十四年四月上旬 ( おそらく九日か十日 )、
西田税は革命運動の戦士を志して上京の途についた。
大学寮の入寮式が四月十三日で、寮生の入寮期限が十二日であったから、
西田は遅くとも十一日には、大学寮に入っている。
いま一ツ橋二丁目の毎日新聞社のある所は、その頃は竹平町といって、ここに文部省が建っていた。
竹橋を渡ると、左手は平河濠、右手は江戸時代の北の丸で、
いま国立近代美術館の経っている所から、国際文化会館にかけての一帯は、
教育総監部や、近衛師団軍楽隊の建物が点在し、
その先に 近衛歩兵第一、第二聯隊の広大な営庭があった。

平河濠を渡ると、
江戸城の本丸の跡地で、その頃は麹町区代官町といっていた。
ここに中央気象台があり、その傍らに午砲台が設けられ、
関東大震災までは、正午になると号砲を撃って時を知らせていた。
( 土曜日を半ドンというのは、この号砲の音からきている )
大学寮の建物は、この午砲台の近くにあった。

明治の初め頃に建ったものらしく、
古びた平屋建だが、広大なもので、四棟をロの字型に組み合せ、
中庭に面した側に廊下があり、部屋数も大小合せて十室あまりあった。
玄関の左右はすべて寮生の部屋で、
入って右手の一番奥に、広い講義室があり、
西田税はこの講義室から、五六室はなれた十八畳の部屋に一人起居することになった。
その頃、西田の部屋にしばしば訪れた辻田宗寛の記憶によると、
西田の部屋の中央には三尺四方の ( 約一メートル平方 ) の囲炉裏があり、
床の間に小机を置き、仏像をかざって、朝夕その前で読経していた。
この頃、辻田宗寛き侠客大杉精市の主宰する東海聯盟の事務所に起居していたので、
大杉統領の使いで、しばしば西田のところを訪れた。
「 たしかに西田さんの隣の部屋には村上徳太郎さんや中谷武世さんが居た。
よく西田さんの部屋にやってきて酒を呑んでいた。
西田さんは大きな囲炉裏に素焼きの燗瓶をさしこんで、一人でチビリチビリ呑んでいた。
軍人をあっさり止めたものの、なにかやるせない淋しさがあったのではないかと思う。
大学寮の行き帰りに、皇居の方で女官が桑積みしているのは、一、二度見かけたが、
皇后さんはお見かけしたことはない 」 ・・( 辻田宗寛 談 )

大学寮は、もともと社会教育研究所と称していた。
社会教育家の小尾晴敏という人が 大戦後の国民思想の後輩を憂いて、
大正十年四月、安岡正篤と語らって、社会研究所を創設した。
これには時の宮内大臣 牧野伸顕、次官 関谷貞三郎も大いに共鳴して、
皇居内の宮内省所管の建物を提供し、経費も宮内省から援助した。
各府県から優秀な青年教育者 ( 師範学校出が多かったようだ ) を、
二十名抜粋して社会教育研究所に入所させ、
一ヶ年みっちり仕込んで、地方に帰らせるしくみになっていた。
むろん月謝はとらない。
翌大正十一年 ようやく学者として知名度の高まった大川周明にも呼びかけ、
大川もその趣旨に賛同し、満川亀太郎とともに同人に加わった。
大正十二年の関東大震災のおり、鎌倉の常楽寺で焼け出された大川は、一時ここに住いをしたこともあった。
この頃から、小尾晴敏は主として地方の講演に出かけ、
留守をあずかる大川周明が、事実上社会教育研究所を主宰した。
大学寮と改称したのは大正十四年四月からで、
この年の三月に社会教育研究所の最後の卒業式を行っている。
「 社会教育研究所卒業式、
三月十日午前十時、麹町区代官町旧本丸の同所に於て、第三回卒業式挙行、
安岡学監の訓示 並びに卒業証明書の授与についで、
来賓 花田仲之助氏の挨拶、大川、満川両教授、小尾主幹の訓示あり、
のち 来賓 牧野伸顕 子、荒木貞夫少将、伊吹定条氏のあいついで祝辞、
並びに感想を述べられ、
卒業生総代 高橋完徳氏の答辞を以て式を終った。
尚 同期卒業生は十七名である 」 ・・行知社の機関紙月刊 『 日本 』 の創刊号 ( 四月号 ) の同人往来の記事。
忙しい牧野宮内大臣や当時憲兵司令官の要職にあった荒木少将が、
わざわざ臨席して祝辞を述べるほどの力の入れようであった。

この頃、北一輝や西田税と行き来をしていた寺田稲次郎 ( 後の日本国民党執行役員長、現在流山市に在住 ) は、
この間の事情についてこう語っている。
「 当時は大戦後の思想の混乱期で、社会主義思想が日本国中を風靡していた。
宮内省や陸軍省でも思想善導、赤化防止の見地から大川さんの事業の意義を認めて、
相当な金を援助していた。
しかし、秋頃になると北さんが西田君を使って宮内省の不正事件をつつく様になった。
宮内省は急に態度を変えて、大学寮を追い出し、とうとう大学寮はつぶれてしまった 」
この社会教育研究所は、四月から大学寮と名を変えた。
改称したのは大川周明である。
大川は後年、五 ・ 一五事件に連座して下獄した際、予審判事に語ったなかに、
「 その頃 小尾晴敏と云ふ人が
私の知人 安岡正篤氏等と旧本丸の一角に 「 社会教育研究所 」 を設け
地方の青年二十名前後を毎年募集し社会教育者としての訓練を与へて居りました。
( 中略 )
大学寮と云ふのは
「 大学之道、在明明徳、在新民、在出至善 」
とあるに因つたもので
明徳 即ち自己の道義的精神を明にし
其精神に則つて民 即ち国家社会を改新して行く人間を養成する所
と云ふ意味であります。

学生は応募者中より二十名内外を選択し
皆所内に起臥し 
午前の四時間は講義を聴き 其の余は自習の時間とし
夜間には 一週少くも二回は知名の士を招き学生をして其の智徳に接せしめました。
故海軍大将八代六郎男爵の如き最も熱心なる後援者でありました。
老壮会、猶存社以来の知人が多く
大学寮を訪問しました其の後 色々問題を起した西田税も
病気の為め軍人を辞めて大学寮に来り投じました。
西田氏は満川亀太郎氏の知人でした 」 と 述べている。
・・大川周明訊問調書、みすず書房刊 『 現代史資料5 』 リンク→ 
大川周明 『 大学寮について 』 
満川亀太郎
西田税が大川周明の主宰する大学寮に入ったのは、満川亀太郎の招きによったものである。
前年の六月頃から、西田は大川や安岡正篤と文通はしていたが、さして深い交際ではなかった。
西田はもともと 『 日本改造法案大綱 』 に魅せられて、北一輝の許に行こうとして、北からの手紙で思い止った。
それが猶存社で北一輝と袂を別った大川周明の許に入ったのは、満川亀太郎の熱心なすすめに従ったものである。
この間の事情を、半年ほど起居を共にしていた狩野敏 ( 財団法人善隣協会理事、東京在住 ) は、こう語っている。
「 満川亀太郎という人は、濃厚な学者タイブの人、実に謙譲な礼儀正しい端正な紳士であった。
しかし、文章は烈々火を吐くような激しい文を書く人で、胸中にはつねに燃えるような憂国概世の志を抱いている、
いわば気骨の人であった。
その頃の満川さんは大学寮や行地社のいわば事務局長的な存在で、親切に人の世話をやく人であった。
満川さんは士官学校の時から西田君を知っていたから、陸軍を止めた西田君の人物を惜しんで、
熱心に来るようにすすめたらしい。西田君がそう言っていた。
私も大正十四年の七月から半年ほど西巣鴨の家で、西田君と同居していたからよく知っているが、
その頃、西田君は熱心に読んだり書いたりしていた 」

大学寮は大正十四年四月十三日 第一回の入寮生二十名を迎えて、厳粛な入寮式をあげた。
行地社の機関紙 月刊 『 日本 』 第二号には次のように報じている。
「 大学寮開校。麹町区代官町旧本丸の一角を護国の聖域として、
大正十年以来、有為なる青年を訓育し来った社会教育研究所は、
新学年よりその教育部を独立して、大学寮と改称し、
大川周明、安岡正篤、満川亀太郎の三氏、専ら之が経営に当る事とし、
村上徳太郎、西田税 両氏を寮監、門脇酉蔵、福島定、酒井利晴 三氏を寮務として、
四月十三日入寮式を挙行、翌日より授業を開始した。
講師 及 担当学科は左の通り、
人生哲学    大川周明
孔老学    安岡正篤
二十世紀史、国際事情    満川亀太郎
日本文学    沼波武夫
国際学、民族問題    中谷武世
経済学    村上徳太郎
社会問題    松岡繁治
志那事情    柳瀬薫
ロシア事情    島野三郎
国防学    西田税
剣道師範    柳生厳長
馬術師範    西田税
新入生は在寮、聴講併せて二十名である 」

こうして、後年の昭和維新運動の揺籃となった大学寮は、皇居の一角の閑静な地に誕生した。
ここで西田は講義や執筆のかたわら 『 日本改造法案大綱 』 の謄写印刷版を作り、
後輩の同志を通じて、これはと思う陸軍士官学校の生徒ら秘かに手渡して、啓蒙活動をするのである。
後年、ニ ・ニ六事件に連座して禁固刑に処せられた菅波三郎 ( 元陸軍大尉、茅ケ崎市在住 ) や、
末松太平 ( 元陸軍大尉、千葉市在住 )  海軍の革新運動の草分けとなった藤井斉など、
昭和維新の運動を指導した人々が、西田を訪れたのはこの大学寮であった。
わずか九ヶ月の大学寮であったが、その歴史的な意義は大きい。

西田が上京して二ヶ月ほど経った六月のはじめ、予備役編入の辞令を受けとった。
大正四年九月一日 広島陸軍地方幼年学校入学以来、十年にわたる軍人生活は終った。
・・・中略・・・
大学寮での西田の講義は国防学である。
専門家だけに真剣に講義をし、時には現在の日本の国情を慨いて、涙を流しながら講義をした日もあったという。
「 陸軍省が思想善導の意味で後援しているだけに、
西田の講師は全く打ってつけの人物だと、その頃、なかなかの評判であった。
私が受講生の一人から聞いた話では、時には西田君が声涙ともに下る名講義をやる。
壇上で涙を流しながら時勢をなげく、学生は若いだけに、大きな感銘をうけたと言っていた 」 ・・( 寺田稲次郎談 )
しかし、西田の講義は単に国防学だけではなかったらしい。
『 日本改造法案大綱 』 も少しは話したと思えるのは、辻田宗寛に対して西田が自分から話していることでもわかる。
「 私も講義室に入って、諸先生のお話を聞いた。
大川さんの講義は日本精神、安岡さんは大塩中斉の 『 洗心洞箚記 』 をやっていた。
西田さんは私に 『 日本改造法案も話しているんだ 』 と言っていたから、
これも国防学の一環として講義していたのだろう。
学生も寮生のほかに、聴講生といって、外から通ってくる学生もいた。
満鉄にいた佐野学さんの紹介で、共産党の渡辺政之助も来ていたし、
あとで神兵隊事件を起した前田虎雄も聞きに来ていたそうだ 」
と、辻田宗寛は語っている。
とにかく、大学寮は四月発足以来、確実な足どりで、教育をつみかさねていった。
月に数回、外部から知名の専門家を招いて講演会を開いている。
月刊 『 日本 』 は毎号のように同人往来の欄で、大学寮の消息を伝えている。
しかし、大いに意気ごんで発足した大学寮も、わずか九ヶ月の寿命であった。
この年の十二月の終りには閉鎖せざるを得なくなり、十二月の末、ついに解散してしまった。
表向きの理由は、宮内省が建物をこわし、新しく図書館を建設するというのであった。
だが、宮内省の真意は寺田稲次郎の談話にもあるように、
北一輝や西田が宮内省高官の身辺を調べだしたため、( この年の暮れには西田は不正事実を確実に摑んでいる )
慌てた宮内省は急に態度を変え、名目をつけて大学寮を追い出したものであろう。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から

次頁 
西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 に 続く


西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』

2021年10月08日 20時22分59秒 | 西田税

大正末期、革命への起爆薬として軍部に注目した大川周明と北一輝のうち、
大川周明は行地社から軍中央部の中堅将校に接触していったが、
大川と分裂した北一輝は陸軍士官学校生徒との接触から始まった。
それが三十四期生の西田税、三十五期生の大岸頼好、三十七期の菅波三郎らであったが、
若い 政治的にも未熟な将校生徒にとって、
『 
日本改造法案大綱 』 の示す国家改造案は一途な彼らの正義感を激しく燃えたぎらせた。
法案に初めて接した将校生徒は、みな一様に異常な感動にうち震えている。
西田税 
西田税は、
「 法案こそ吾等が魂の戦いに立つべき最後の日の武器なりと信じているのだ。
げにそれは大川氏の言う如く、日本が有する唯一なる日本精神の体現であり、
唯一の改造思想であり、然して同時に世界に誇るべき思想であるのだ 」

また、満川亀太郎から直接法案の解説をうけた
西田の盟友 福永憲 ( 34 ) は、
「 満川の説明に聴き入っているうちに、次第に頬が熱くなり、
頭が充血してくるような圧迫感に襲われました。
卓抜な国家改造の具体策が次々に紙面に躍動して、構想の雄大さと自信に満ちた名分の迫力には、
果てしない地の底に引きづりこまれてゆくような、妖しくも不可解な魅力がありました 」
と 語っている。

さらに陸士生徒時代に、ある夜 同期生からひそかに法案を渡されて熟読した

菅波三郎は、
「 あたかも、乾いた土が水を吸うように心魂にしみとおった 」
と 回想している。

大正末期といえば現在とは比較にならないくらいはるかに情報不足の時代である。
しかも陸士では政治教育は全く行われない。
したがって、政治的には無色透明で多感な二十一歳前後の青年にとって
日本改造法案大綱 』 やその著者 北一輝 がどんなに魅力的であったか想像に難くない。
忠君愛国の軍人精神が政治への批判と接続したとき、
日本改造法案大綱 』 は その魔術的魅力を以て青年将校運動の思想的中核となり、
革命への起爆薬となる。

革新派青年将校の誕生

大正十一年七月、
陸士を卒業した西田税、福永憲 ( 後の朝鮮軍参謀・中佐 ) 、宮本進 ( 大正十二年八月所沢飛行学校で練習中墜落死 ) らは、
陸士内にひそかに設立した 「 青年アジア同盟 」 によって大ジア主義を志向してくたが、
日本改造法案大綱 』 にふれて 国家改造運動に転換し、
それぞれ各聯隊にあって横の連絡をとりつつ 国家改造思想の啓蒙普及運動を開始した。
ところが西田は、この運動が師団、聯隊首脳の忌避きひにふれて、
羅南の騎兵第二十七聯隊から広島の騎兵第五聯隊に転属となった。
この後 発病した西田は、故郷米子で病気療養中の大正十四年七月、
自ら予備役となり、政治革新運動を志して上京、
大川周明らの主催する宮城内北の丸の 大学寮  において、
寮監兼講師として、機関誌 「日本 」 の編集と国防問題を担当し、
青年将校および陸士生徒の同志獲得をはかった。
大学寮は元の名称を社会教育研究所といい、大正十年の秋、教育者の小尾晴敏が安岡正篤と提携、
時の宮内次官 関谷貞三郎を口説いて、全国の農村青年約二十名を集めて日本精神鼓吹の教育を行っていた。
ところが、大正十一年の春に安岡からすすめられた大川周明が参加し、
名を大学寮と改められ、行地社の設立とともにその運動の一環となり、
これを不満とした安岡はやがて金鶏学院創立のため去ってゆく。
この頃、すでに満川亀太郎、大川周明、北一輝によって 大正八年八月に設立された猶存社は、
大川、北の性格的確執から対立となって分裂解散し、
大川は大正十三年四月に東京青山に行地社を設立していた。

こうして大学寮時代の西田税は、行地社の一員として大川周明に強力していたが、
この頃は、後年西田自らが語っているように、編集と講義に追われた革命への研究時代であった。
ところが、大正十四年後半の時期を契機として、
陸軍内において革新への道を志す青年将校および将校生徒たちが、
次々に大学寮の西田を訪れるのである。
・・・挿入
末松    古賀さんが大学寮に行ったころと、僕が大学寮に行ったころと大体似ているんだがね、
           宮城のなかの・・・・。あんたの行ったのは何年ごろですか。
古賀    大正十四年の冬休みだった。
末松    ああ・・・・大正十四年の冬休み・・・・。
古賀    そのとき西田税氏とはじめて会った。
片岡    大正十二年ぐらいでしょう。あの大川周明・・・・じゃない、安岡正篤が日本精神の研究を出したのは。
古賀    私は藤井 ( 斉 ) が読めというので読んだ。
末松    僕が大学寮に行ったのは大正十四年の秋だな。
古賀    僕は冬休みだから・・・・そのときにね。
末松    陸軍と海軍が大体同じ時期に、互いになんの連絡もなく、すでに同じ穴をほじくりよったわけだ。
古賀    私が行ったときにね、さっそく西田税と会ったしね、その時にね、ちょうど行地社の東京支部というのかな、
           その発会式をやりよった。大川さん、満川亀太郎・・・・。
・・・( 『 政経新論 』 昭和三七年五月号 座談 「 五 ・一五事件 」 より。
なおこの座談会の出席者は古賀不二人 ( 清志 )、三上卓、佐郷屋嘉昭 ( 留雄 )、末松太平、片岡千春の五氏  )
・・現代史資料4 国家主義運動1 から

大岸頼好
西田が大川周明を頼って上京した直後に、
まず、青森歩兵第五聯隊の大岸頼好少尉 ( 35 ) が大学寮に西田を訪れる。
一方、西田が上京する二ヶ月前の大正十四年五月頃、
陸士在学中であった三十七期生の菅波三郎が 『日本改造法案大綱 』 に魅せられ、
同志とともに渋谷千駄ヶ谷の北一輝を訪れる。
北一輝は菅波を自己の理論的後継者と目して最も評価し、また 期待する、
そして菅波は、
「 初めて思想家といえるような人物に会ったような気がした 」
と 感激する。
菅波はこの後にに下を訪れて二人の初対面となる。
・・・挿入
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、
著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、
十月、陸軍少尉に任官。
その年の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
爾来十三年。
彼が刑死するまで、その親交は変わらなかった。
永遠の同志、戦友である。
彼は陸士第三十四期生。 
私は三十七期生。
この間に三十五期の大岸頼好がある。
それに海軍兵学校第五十三期生の藤井斉( 私と同年輩 ) と。
この四者は、特に忘れ難き同志網の図根点を形成する。
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。 ・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 


次に この年 ( 大正十四年 ) の十月、青森歩兵第五聯隊の士官候補生として、
大岸少尉によって革命への道に魅力をいだいた末松太平が、
陸士入学直後に友人とともに大学寮の西田を訪れる。
末松太平 
・・・挿入
西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、青森の五聯隊での六ヵ月の隊付を終えると、
私は士官学校本科に入校するため、
また東京に舞戻ってきた。
そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、
東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、
と 筆をとって巻紙のはしに、
さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田や北一輝があった。
しかし入校早々、すぐにも訪ねなければ、とまでは思っていなかった。
が、入校後間もない土曜日の夕食後、
青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、
まず西田税訪問が急に実現することになった。
亀居見習士官は士官学校本科を卒業する前に航空兵科を志願していたので、
そのための身体検査に出願するよう通知をうけ、
検査地の所沢に行くついでに立ち寄ったのである。
「 五十二が廃止になり、
知らぬ五聯隊にやられて面白くないので航空を志願しておいたが、
大岸さんや貴様らと過ごしているうち考えが変った。
身体検査は合格するにきまっているが、志願はとり消しだ。」
こういった亀居見習士官にとっては、
いまはむしろ所沢に行くほうがついでで、
目的は私らを誘って西田税を訪ねるほうだった。
・・ 中略 ・・
「大岸さんが貴様らを誘って西田さんを訪問してはどうかといっていたが、
明日は別に予定はないだろう。」
明日は日曜で外出ができる。 別に予定などあるはずはない。
どうせいつかは訪ねてみようと思っていたことである。
こういった亀居見習士官の誘いは私にとっては、いいついでであった。
翌日、約束の場所で落合って西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、
大学寮にきていたのである。
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。
が亀居見習士官は大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、
一ツ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。
すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。 
乾門である。
右手に見上げるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。
その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。 
木造のちょっとした構えである。
案内を乞うと、
声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、
変哲もなかったが、つづいての、
「このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、
このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
当時の世間一般の風潮からいえば必ずしも奇矯なことではなく、
私たちと同年輩のもののなかには、
もっと過激なことをいうものもいたにちがいないが、
武窓にとじこめられた教育をうけている私たちには刺激の強いものだった。
こう受取られる傾向が、
その後、北、西田の思想が国体に背反している危険なものと軍当局ににらまれ、
二・二六事件で難くせつけられることにもなるわけである。
そういった私たちの反応を、同じ軍人であっただけに内幕は知りすぎているから、
はじめから計算にいれているかのように西田は、
亡国に瀕しているという日本の現状を語りつづけた。

・・
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 

やがて末松の同期の澁川善助らも大学寮に来る。
つまり、西田は大学寮時代に 大岸、菅波、末松という、
後に青年将校運動の指導者となる連中に会って、一応同志的接触に成功している。
さらに、戸山学校に派遣されていた西田の同期 岩崎豊晴中尉も、
西田が上京すると直ちに大学寮を訪れて会っている。
もっともこの岩崎中尉は、思想的には西田に共鳴していたが、
むしろ予備役になって国家改造運動に挺身する西田の将来を心配していたよき友人である。
こうしてみると、
西田が活躍していた時期の大学寮は、青年将校運動発祥の地といっても過言ではないだろう。

芦澤紀之著  『 暁の戒厳令 』
革新派青年将校の誕生  から


西田はつ 回顧 西田税 1 五・一五事件 「 つかまえろ 」

2017年08月22日 12時32分59秒 | 西田税


  西田はつ
五・一五事件の日は、よく晴れた日曜日でございました。
この日は、青年将校の大蔵栄一さんが遊びにみえていましたが、
あいにく夫婦喧嘩のあとだったものですから、
二人ともプンプンしていたのでございましょう。
大蔵さんはお夕飯の時分どきなのに、
「こんな犬も喰わない空気で御飯なんか御馳走になれない」
そう言って帰ってしまわれたのです。
川崎(長光)は、外で客の帰るのを見張っていたのですね。
大蔵さんが帰るとすぐ主人に会いたいと訪ねて参りました。
七時頃のことです。
わたくしは初対面でございます。
西田は来客の多い人でしたから、二階の座敷へ通しました。
二階で主人と川崎が話をしている、
わたくしは階下で食事をしておりましたら 「ドタン」 と二階で大変な音がしました。
瞬間、地震かと思うほどの烈しい音でした。
紫檀のテーブルを挟んで対談中、川崎が突然拳銃を出す。
西田が防壁にしようとテーブルをひっくり返す。
川崎が後退りながら拳銃を射つ。
西田は右手で心臓をかばおうと押えたのですね。
それで右肩、右腕、腹部と右半身に五発の弾丸を受けながら、
川崎を追ってドドドド と 階段をなだれおりる。
川崎は玄関から逃げました。
「つかまえろ」
と強く申しますので、
一度は玄関から植込みの先まで走って出ましたが、
男の足ですから追いつけやしません。
全身血まみれの主人が心配で、追うのはやめて引返して参りました。
あいにく日曜日のため、どこへ電話をかけましてもお医者さまが留守なのです。
やっとお爺さんの医師が来てはくれましたが、
傷をみまして
「警察の許可がなくては手当は出来ない」
と、どんどん出血している怪我人をそのまま、帰ってしまいましたのです。
北先生が手配して下さって、
救急車でやっと御茶ノ水の順天堂へ入院しましたが、
射たれて二時間も経っておりました。
右肩に一発、腹部に一発 盲管している弾を取出さなければいけないのですが、
時間はたっている、
出血もひどい、
陸士在校中と任官後にひどい肋膜をやっておりまして、
あまり丈夫な人ではございません。
手術中いのちがもつかどうか保証出来ないというのです。
北先生が
「それでもいい」
とおっしゃって下さって、それで手術を受けることが出来ました。
輸血は手術中に三回、血液型はO型でした。
ようやく下腹部に止まっていた弾丸を取出せましたが、
腸は五、六ヶ所穴が明き、一寸三分程切除してつなぎました。
川崎は六発射ち、
一発は外れ、五発当ったうちの二発が体内に残っておりましたが、
腹部の手術しか出来ず、肩の弾は改めて摘出手術を受けております。
手術後一時危篤に陥りました西田が命を拾いましたのは、奇跡的であると言われました。
あの日、昼食をとっておりませんで、夕食前に川崎に会っております。
そのため腸が破れてもほとんど内容がなく、
それで腹膜炎を起さずに済んだのだそうでございます。
北先生がずっと付添って下さいました。
事件を知って夜のうちに病院に駆けつけた
村中孝次、渋川善助、山口一太郎、安藤輝三、栗原安秀、菅波三郎、大蔵栄一など、
皇道派青年将校とみられていた方たちは、お顔馴染みの方ばかりでございます。
そのほとんどが、
二・二六事件で銃殺され、禁固刑に処されて陸軍を逐われることになりました。
西田が狙われましたのは、
事情に通じていながら参画しない情を憎まれたのか、
陸軍側の行動を押えた張本人と思われたせいなのか、いろいろ言われますが、
本当のところは はっきりいたしません。
犬養首相や牧野内大臣と並んでの斬奸目標にあげられたのでした。
西田は一週間にはベッドの上に坐って、新聞を読むようになりました。
療養のために退院してすぐ夫婦で湯河原へ参りましたが、
水の美しい渓流の岩の上で撮った写真がございます。
まだ髪は長くしたままですが、
軍人さんの坊主頭にまじると目立つからと言って、後には坊主にいたしました。

 
昭和7年8月・湯河原

湯河原の宿で、
「政治運動を捨てられない人生ならば別れてほしい」
そう わたくしが申しましたとき、
西田はハラハラと落涙いたしました。
五・一五事件の後には、
西田は青年時代の向うみずな血気は沈潜したようですが、
青年将校運動との縁は切れず、
わたくしはそういう西田の将来に不吉な予感を覚えながら別れられなかったのでございます。
この世で夫婦の縁がこんなに短いと知っておりましたら、
別れ話など どうして持出しましたでしょうか。
あの日の西田の涙を思いますと、
心残りな気持ちがいたしまして、つい涙ぐむこともございます。

西田はつ聴き書き
妻たちの二・二六事件  澤地久枝 著から
リンク→ 五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 


西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」

2017年08月20日 12時22分12秒 | 西田税


  西田はつ
あれはいつのことだったでしょうか。
二人で新宿をそぞろ歩きいたしました宵、大道の易者にみてもらいまして、
西田は、「 畳の上では死ねない 」 と 言われました。
子供の頃、三十七までに大病か大事件が起きて長生きは出来ない、
三十七歳を無事過ぎたら長命であると言われましたそうで、
西田は 「 三十七歳 」 を大変気にしておりました。
五 ・一五事件のとき三十二歳、そして三十七歳で銃殺になりました。

相澤さんが永田軍務局長を殺害する前夜、台湾へ赴任の挨拶にみえまして私宅に泊っておられます。
八月のことで蒸暑い夜でした。
わたくしは軍刀を抜いてじっと凝視している相澤さんの姿を見るともなく見てしまいました。
「 何かある 」 そう感じまして主人に申しました。
事件の朝、何人かの方へ電話をしていらっしゃるのが、どうも別れを告げているように感じられました。
真崎教育総監更迭問題で陸軍の内も外も沸き返る騒ぎでございましたし、
相澤中佐の御決意はうすうす予測できました。

相澤公判の準備が始まりましてから、
陸軍内部の問題であり、軍法会議ですから、
民間人が介入いたしますのはかえって相澤さんの立場を悪くすると申しまして、
主人は表立っては何もいたさなかったと思います。
村中さんや渋川さんたちの相談には乗っていたようでございますが----。

北先生と西田は、二 ・二六事件の首魁として死刑になりましたが、
事件の現場へ一歩も近づいておりませんし、事前の計画にも参画はいたしておりません。
五 ・一五事件の西田は、実力行動に反対したため、裏切り者扱いをされ、
銃弾を浴びて瀕死の重傷を負いました。
二 ・二六事件のときは もし西田が反対すれば西田の命を奪ってもやるのだと、
磯部さんだけではなく大人しい安藤大尉までも申されたとか。
戦後になって裁判資料で知ったことでございます。
西田が僚友とも教え子とも思っておりました青年将校たちが、こぞって蹶起を決意したあとで、
西田としては 「 万事休す 」 の心境であったのでございましょう。
北先生も西田も、事件への直接の参画・行動の点では死刑を科しようがなく、
大正年間から昭和へかけて、国内革新を標榜して青年将校たちと交流をもった、
その 「 実績 」 に 強引に罪状をなすりつけられたのだと思っております。
けれども、あの軍法会議で大勢の青年が銃殺されていったあとで、
西田はもはや生きるべき生命ではないと諦観したようでございます。

かの子らは あをぐもの涯に ゆきにけり
涯なるくにを 日ねもす思ふ

と 詠っております。
時間の順序というものは、
あとから回顧しますとなにか因縁めいたものが感じられます。
五 ・一五事件で主人が射たれたとき着てりました着物は、
証拠品として裁判所の方で保管したままでした。
それが、昭和十一年の二月十日、
西田の手許へ返されて参ったのです。
東京控訴院から呼出されまして、
弾痕の穴があき、
一面の血が黝く あおぐろく こわばって変色した衣類を西田が受取って参りました。
このセルの着物は、戻ってすぐ庭で焼きまして、いやなにおいが記憶に残っております。
焼却までのわずかな時間に磯部さんの目に触れたのでございます。
磯部さんが訪ねてみえたのは翌十一日のお昼頃でございます。
衣類を拡げてみながら、
「 血が帰ると言う事は縁起が良い事だ。今年は運が良いだろう  」
と いう磯部さんの言葉に、西田は、「 はてな 」 と思ったそうでございます。
十一年春に東京の第一師団が渡満するので、
その前に事を挙げる必要があるといった話合いは前年の暮から進んでいたそうでございますね。
西田がその相談にあずかっていたのでしたら、
磯部さんの言葉の裏を主人は聞き逃しはしなかったと思います。
警視庁へ身柄を拘束されましてから、
「 元来磯部は熱情の人なので大したこともあるまいと考えた 」
と 西田は述べております。
これは真実であったと思います。
「 愈々決行 」
 と 西田が打明けられたのは二月の十八日か九日、
とめるにとめられず、
西田に非常な苦悩の色があったことは磯部さんの 「 行動記 」 に ある通りで、
主人は変革の前途を楽観できず、
もし失敗して有為な同志をむざむざ失うようなことになったら取返しがつかないと考え、
率直な判断として事を起すのは反対でございました。
それでも引止められない運命の流れのようなものが西田を取巻き、
青年将校たちの心をさらって巨きな渦となり、一気に流れ去ったのではないでしょうか。

わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。
西田の留守に磯部さんが見えまして、
「 奥さん、いよいよ二十六日にやります。
 西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」
と おっしゃったのです。
その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。
「 あなたの立場はどうなのですか 」
「 今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」
西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、
緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひとときでございました。
容易ならない企てでございます。
わたくしどもは、子供もなく、どんな事態が起こりましても、
自分ひとりの責任で生きて参ればよろしいのでございますが、
結婚後年経ぬ若い奥様たちや小さいお子たち、親御さんたち、
事件のあとの家族の境遇をあれこれ想像いたしますと、
ひとりの女として胸苦しさに耐えられないほどでございました。
それから二十六日まで、苦しい辛い迷いに悩み抜きました。
露顕して未遂に終わってくれればいい。
あれだけ思いつめているのだから、成功させてあげたい。
わたくしが然るべき筋へ密告しなくてはいけないのじゃないだろうか。
この三つの考えの堂々めぐりで、死ぬような思いをいたしました。
主人は二十六日にいよいよ事件が起きたことを知りまして、
様子を見るためと身を隠す必要から家を出ました。
それっきり帰っては参らなかったのです。
・・・
この頃の東京は大雪の降ることは滅多にございませんが、
雪の降る日、雪の舞い訪れる囁きや、
積って冷たい大気の中で凝縮するきしめを聞いておりますと、
あの雪の日、
西田が最後に家を出て行くとき振返った表情や、
雪の積もった植込みを曲がった後がどうしても浮び上がって参ります

二月二十六日からの推移、すべてがうまく行っているかの情報がわたくしの耳にも届きます。
信じられなくて、身を抓るような気持ちでございました。
西田は有利な収拾へ事を運ぶのが自分の役割と考え、
北夫人におりた霊告を青年将校たちへ電話で伝え、軍長老へ斡旋の依頼を試みたようでございます。
この電話が憲兵隊によってすべて盗聴されていたのでした。
実力行使の成果を実らせ刈取るために、北先生も西田も、相談に乗り、意見を伝えました。
それが死刑に該当するかどうかは別のことで、事件と全く無関係とは申しません。
二月二十八日の早朝、特高がやって参りました。
「 西田はいるか。家宅捜索する 」
「 ちょっと待って下さい 」
わたくしは泊りこんでいた渋川さんを呼びました。
「 家宅捜索などすると住居不法侵入になるぞ 」
と 渋川さんは特高を追い返し、
首相官邸へ連絡の電話をかけていましたが、埒がかなかったのでしょう。
「 奥さん、警察がこんなことを言ってくるというのはどうも形勢がおかしい。様子を見てきます 」
と 言って三宅坂へ向かいました。
渋川さんは初めて事件の渦中へ去ったのです。

北先生は御自宅から一歩も動かぬまま、二十八日夜憲兵隊に拘引されました。
西田は失踪しておりましたが、三月四日に検挙されました。

・・・
西田はつ聴き書き
妻たちの二・二六事件  澤地久枝 著から

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うちに 原宿署の特高が来たのです。
そしていきなり玄関に上がり込んだのです。
「 西田さんいますか 」
「 おりません 」 と言いましたら
「 家宅捜索をする 」 と言って、それで私と押し問答しましたときに澁川さんが出てきたのです。
令状を持ってないのに土足で踏み込むとは何ごとか、家宅侵入罪で訴えてやる、
そんなもの出ているはずがないから、いま首相官邸に電話をかけて聞くから待っておれ、
と言ったら、原宿署の特高が逃げて帰っちゃったんです。
半信半疑で来たんですね。原田警部という方でしたが、逃げて帰ったんです。
それから澁川さんが様子が変だというので出られたのです。
あとでその警部は、うちから追い返されたというので免官になったそうです。
それくらい警察でもまだ本当のことはわからなかったらしいのです。

二月二十八日の夕方でしたかしら、私は栗原さんと最後のお別れを言ったのですよ。
首相官邸から電話がかかってきまして
「 いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です 」
と おっしゃってね。
それですぐに主人にそれを話しましたら、
もう一度電話をかけてみろと言いまして、首相官邸に電話をしましたが、もう出ませんでした。

・・・末松太平氏等との対談から


西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 「 男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない 」

2017年08月19日 12時17分35秒 | 西田税

わたくしなどはあの事件で残された未亡人の中では年もいっている方でございますし、
ああいう運動に一生を捧げている男の妻として、
それなりに心の準備もなければならなかったのでしょうけれども・・・・。
事件が起きましたとき主人は三十六歳、私は三十一でございました。
西田の古女房のように若い皆さんは思っていらしたかも知れませんが、
結婚生活は十年とちょっとなのでございます。

 結婚当初頃

一緒になりましたのは、大正十五年でございますが、ずいぶん古い話でございますね。
ある資料に、渋川善助さんが
「命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。 ・・・天劔党事件 (1) 概要
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
渋川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その渋川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
結婚いたしました頃は、西田は肋膜炎で陸軍は予備役になっておりまして、
北先生の 「 日本改造法案大綱 」 の普及と国内改造のため運動に専念しておりました。

押入れにはぎっちり 「 日本改造方案大綱 」 の印刷物がしまわれて、
次々の文書印刷を手伝うのがわたくしの日課になりました。
朴烈と金子文子の極秘写真が配られまして、民政党の若槻内閣の政治責任が問われたという事件がございます。
この二人は今の天皇陛下の御成婚式に爆弾を投げつける計画を企んだということで、当時は大逆罪。
一度死刑の判決がおり、のちに恩赦が出て無期になったのですが、重罪の嫌疑をかけられた犯人でした。
この恋人たちを予審の取調べのときに秘かに会わせて、検事が後日の資料に写真を撮ったのでございます。

獄衣と申しましても和服に藁草履をはいた姿で、
朴烈の膝の上に文子が腰をかけたような形にもたれあった、ずいぶん大胆な写真でした。
極秘にもちこまれた写真の複写をいたしますため、明るい電灯をつけまして、
締めきった部屋の暑さと電気の熱の下で、したたり落ちるような汗になりました。
蚊が畳の上へボトボト落ちてきたのを覚えております。
新聞がとりあげ、反対党は絶好の政府攻撃材料というわけで大騒ぎになりましたのが、
大正十五年の夏のことでございます。

結婚してほどなく、西田は宮内省怪文書事件で未決へ送られました。
次々に事件との縁の切れない人であったと思います。
わたくしは書生と二人、収入といっても何のあてもございませんで、麦の粥を啜ってしのいでおりました。
獄から帰って参りました主人は、わたくしが留守の間に家を出てしまうだろうと思っていたと申しました。
若かったのと、世間を知らない向うみずなところとがあったために
ひどく辛いことも惨めとも思わずにすんだのでしょうか。
その頃、なにか国家改造につながることをしなくては生きている意味がない、
主人はそんな執念にとり憑かれていたようです。
数えの二十六といえばまだ青年の若さでございます。

やがて西田の心が、
燃えさかるような炎からじっくり志を育て実らせる地熱へ変って参りましたあとへ、

青年時代の西田そのままの磯部さんが登場し、
代って座を占めたという実感を、すぐ傍に居りましたわたくしはもっております。

新婚時代、怪文書と呼ばれるほとんどのものを、千駄ヶ谷のわたくしどもの家で印刷いたしております。
浪人中の西田は、竜落子 ( りゅうらくし ) たつのおとしご というペンネームで、次々に原稿を書いておりました。
西田のそばで鉛筆を忙しく削りました。
時には、左手の爪を切らせながら原稿を書いていたこともございます。
青年時代は自叙伝など、かなり沢山文章を書いておりますが、・・< 註 >
わたくしと一緒になりましてからは、檄文のたぐいがほとんどでございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
< 註 >
無眼私論
青年将校運動の指導者、西田税が大正11年 ( 1922年 )
21才の青年期、病症で記した感想録である

 
   戰雲を麾く
--西田税自伝--

---戦雲を麾いて、
凱歌に欣躍すべき克服の日に向つて力強く 一歩一歩を進むるものである。
嗚呼、回顧二十四年春秋。
そはげに矢の如し。
斯書は、げに いみじき余が二十四歳の戦ひを綴れる所のもの。
そは永遠に世に留められるべき、余が魂の遍歴を記念の記録である。
  
・・・西田税 ・戰雲を麾く 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
運動費や生活費は、北先生が蒐められた中から出ております。
はじめは麦粥も啜りましたが、収入のあてのない、明日どうなるやら知れない生活と知りましたから、
わたくしはゆとりがあるときには、思いっきり着物をこしらえました。
他に質草になるようなものはございませんから、この着物が、金子入用のときには質草になりました。
季節の変り目には質屋を呼びましてこっそりもってゆかせる、そんな暮し向きでございました。
西田は自分の知らない着物が積まれているところへぶつかったりいたしますと、
女の大胆さにびっくりしているようでした。
本人も大体がお洒落な人で、和服を好んで着ました。
若い頃はオールバックの髪型にしておりまして

「 バレンチノに似ているといわれたぞ 」
と 外から帰って申したこともあり、
「 大変なバレンチノですね 」
と 笑った思い出がございます。
波のある不安定な生活でしたが、西田は年末がきますと、
自分の母だけでなく わたくしの身寄りにも黙って送金するというふうなところのある人でした。
・・・ 
その後、青年将校たちと民間の渋川さん、水上さんの判決や処刑が新聞に伝えられましてからも、
北先生と西田の様子は何も伝わって参りませんでした。
特別に家庭の相談事もあれば面会は許されるということでございましたが、
春が過ぎ、夏を送り、秋の気配が濃くなりましてからも、
わたくしどもは面会は出来ずにいたのでございます。
昭和十一年の十月二十二日、死刑の求刑があったことを新聞社から知らされました。
自分で確かめなくては信じられませんで、衛戍刑務所へはじめて面会の許可を求めました。
事件に触れないようにという条件つきの面会でございます。
「 死刑の求刑がおりましたそうですね 」
と 主人に申しましたら、
傍の看守が 「 それは 」 と 制止しようといたします。
「 いえ、噂でございますから 」
と 申しましたらそれ以上とめようとはいたしませんでした。
西田は、
「 火のないところに煙はたたないと言うからな。二人ともな 」
と申しました。

求刑後、はじめて西田に差入れが出来るようになりました。
差入れの食べものはわたくしがその日も宇田川町に訪ねた証しでございます。
面会には滅多に参りませんでしたが、差入れは一日も欠かしませんでした。
大輝さんと北家の使用人とわたくしの三人で運びます。
季節の花を添えたり、よもぎを摘んで草餅をつくったり、食べものが心を通わせる手だてでございました。

主人や北先生の裁判の前途がほとんど絶望的になりました十二年の五月、
五 ・一五事件の際縫い合わせた腸の傷痕が悪化いたしまして、西田は急性腹膜炎を起しました。
腸の傷はなかなか厄介なものらしゅうございます。
腸の縫合部分から滲出した(にじみだした)食物でちょうど豆腐のような環がとりまき、
それが腹膜炎を誘発したそうでございます。
衛戍病院で開腹手術を受けましたが、拘禁生活一年余り、体力は衰えており病状も悪く、
生命に危険があったからでしょうか、手術の立会人として十日程 夫の傍に付添うことが出来ました。
西田と夫婦になりましてから、あれほど心と心が通い合ったことはございません。
一言一言の会話にしみじみとした思い、いとおしみといたわりが滲んで居りました。
あの負傷が原因で、夫婦としての最後の頁を心をこめて綴りあえたのでございます。
あの狙撃事件で西田はひくにひけない境地に立たされ、
その結果 二・二六の青年将校との紐帯を問われたのですが、
その傷痕の後遺症によって本来許されない時間にめぐりあうことになったのでした。
人間の運命はわからないものだと思います。
手術は病室で行われました。
看守が立会っております。
わたくしは寝台の枕許にたちまして顔の両側においた西田の手を握っておりました。
体力が衰えておりますので、ほとんど麻酔剤は使えなかったようでございます。
西田は痛みをこらえるために、わたくしの手を強く強く握りました。
両手が痺れて感じなくなる程の力でございます。
立会いの看守が一人卒倒するような手術でございました。
手術が終わって抜糸が済めば、主人はまた衛戍監獄の塀の向うへ帰されます。
好きな食物を運んで一日中つきそって、束の間の安らぎ、なんと時間は早く過ぎて行くものだったでしょうか。
看守もいる静かな病室で、西田は優しい表情を見せておりました。

わたくしどもの結婚は、最初西田の親の反対で入籍出来ず、忙しさに紛れてそのままになっておりました。
西田の死刑の求刑のありました直後に入籍いたしました。
西田は政治運動に心を奪われていた他は、酒を飲んで暴れることもなく、
外泊もせず、申分ない夫でした。
若い人たちを連れて神楽坂など色町へ参りましたが、青年将校のある方が
「 奥さん、西田さんはひどい人ですよ。
 それぞれ部屋へひきとったところへ襖をあけて   "失礼する" と 言って帰ってゆくのですからねえ 」
と 口を尖らしていたことを思い出します。

死刑の判決は昭和十二年八月十四日、十九日には執行でした。
判決のあとは毎日面会に参りました。
十八日に面会に参りましたとき、
「 今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている 」
 と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません
そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「 さよなら 」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。

北夫人に明日執行されるらしいことを報告しまして、
二人の遺体を迎える準備をいたしました。
新聞社から電話で、
「 明朝五時半に処刑 」
と 知らせてきたのは、全くむごいと思いました。
「 今夜は眠らずにいましょう 」
と 北家の広い応接間に香を焚き、北夫人と二人、刻々過ごしました。

八月十九日の早朝、
二千坪はある庭の松の木に、みたこともない鳥がいっぱい群がって
異様な雰囲気でございました。
西田の遺体は白い着物姿で、顔に一筋の血が流れておりました。
拭おうと思うのですが、女の軀はけがれているように気臆れして、とうとう手を触れられませんでした。
気持が死者との因縁にとらえられているためでしょうか。
刑務所から火葬場へ向かうとき、秋でもないのに一枚の木の葉が喪服の肩へ落ちたのを、
西田がさしのべた手のように感じました。

 
昭和12年8月19日
北邸の仏間で

北夫人とは百ケ日 御一緒に暮し、わたくしは赤坂の禅寺へ西田の遺骨をもって身を寄せました。
北先生が捕えられましてから、北夫人の霊告はおりなくなりました。
この霊告がおりているときも、言葉に直せるのは北先生だけで、
北先生が西田に口述して記録させたものでございます。
朝早く、まだ寝んでおりますときに北家から電話があり
「 いま霊告がおりたから 」 と 招かれて、西田は時に出渋っておりました。
その北夫人も、戦後亡くなられました。

夫を喪いましてから、人混みの中を歩いておりますときなど、
大勢日本人が歩いているけれど、夫を銃殺された妻など一人もいるまいと思いますと、
歩きながら後から後から涙が伝い落ちたものでございます。
暗黒裁判でしたし銃殺刑になったことで悲壮感がございました。
でも、あの事件は随分ひどかったようですね。
渡辺教育総監のなくなり方など、ひどいものだったそうじゃございませんか。
戦争が終わりましてからは、戦犯で夫を銃殺された未亡人という立場もございますわけで、
人ごみの中にいて、自分一人の悲運を思って泣くようなことはなくなりましたが----。
生活は戦時中の方が楽でございました。
同情的な方たちからいろいろ庇護をいただき、大事にされたと思います。
勤めにも出ましたし、空襲下を逃げまわった経験もございますが、
若い間に苦労させられなかったことが、今ではかえって怨めしい気がいたします。
だんだん年をとりまして、女一人のこれからの生活を思いますと、苦労はこれからと吐息が出ます。
仲のいい御夫婦をみると癪にさわると申された未亡人もありますが、
わたくしは、いつまでも お揃いで長生きしてほしいと羨ましく眺めております。
再婚話がなかったわけではございませんが、
西田の死んだときのことを考えますと、とても踏切れませんでした。

処刑を前に西田から送られた手紙がございます。

小生 今日の事只これ時運なり 人縁なり 天命なり。
何をか言はむや。 万々御了解賜度候。
人生夫婦となること宿世の深縁とは申せ、十有二年、
万死愁酸の間に真に好個の半身として 信頼の力たり愛恋の光たり給ひしことは
誠に小生至極の法悦に候、
然して 死別は人間の常業と雖も今日のこと何ばう悲しく候ぞ。
殊に頼りなき身を残らるゝ御心中思ひやり候。
申訳無之候
只 いよいよ心を澄して人生を悟りつゝ 静かに ゆたかに そして自主的につゝましく
おゝしく 少しづゝにても幸福への路をえらみ歩みて 余生を御暮しなされ度候
然らば如何ならむ業なりとも可と存候ものを御信仰なされ度 又幾重にも御自愛なされ
半生病などに心身を痛むることなきやう申進じ候
親族主なる友人等はよく消息して不慮の間違等なきやう存上候
小生はこれより永遠不朽の生命として御身をお守り申すべく 将来御身が現世を終えて
御出での時を御待ち申候
感慨雲の如し十二年而して三十六年
恍として夢に似たり
万々到底筆舌に堪えず候
泣血々々
昭和十二年八月十六日    税
初子殿

幾つになりましても、独り暮らしは寂しゆうございます。
この三十余年、
さまざまに人の心の揺れ動き、万華鏡のように捉え難く、
美しい言葉にも金銭が絡めばああこの人までと、
醜い幻化の姿もしたたかに見せられました。
亡くなった西田は、心変りのしようもございません。
現世を終えてわたくしがあの人の許へ赴くのを待っていてくれるという、
この頃は待たれる身の倖せを心静かに思う日も多くなりました。
八月十七日、処刑の前々日に
『 残れる紙片に書きつけ贈る 』
と 書かれた遺詠に、
限りある命たむけて人と世の
  幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
  魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
  君が心に吾はすむものを
と ございます。
一緒に起き伏しした時間の三倍も一人で生きて参りましたのに、
西田の姿は今日までとうとう薄くはなりませんでした。
あの処刑前日の面会で、
西田は 「 さよなら 」 と 言いながら、
別れられないいのちをわたくしに託したのでございましょうか。
・・・
今だに西田の夢をありありと見る依るがございます。
刑死の直後には、
最後に会った日の白いちぢみ姿で
「 迎えにきたよ 」 と 言われる夢も見ました。
夢の西田は、姿はまざまざと見えますのに、
いくら手をのばしても軀に触れることが出来ません。
遠くにおります。
夢の中でさんざん泣いて、
ふと目覚めると、涙で枕が濡れていることもよくございます。
おいて逝かれた悲しみは、涯がないようでございます。
夫婦の因縁とはこんなにも深いものなのでございましょうか。
・・・
西田はつ聴き書き
妻たちの二・二六事件  澤地久枝 著から


菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」

2017年08月18日 04時31分29秒 | 西田税

永遠の同志 西田税     
菅波三郎

「 故人、多くは泉に帰す 」
あの人も、この人も、皆、黄泉に旅立った。
孤影、愁を残して先進の友を偲ぶ。
感、無量

西田税 
西田税の名を初めて聞いたのは、
大正十二年の晩春。
私が、東京・牛込の市ヶ谷台上、
陸軍士官学校予科二年を卒業して、
士官候補生の隊付勤務に就いた時のことである。
私は、鹿児島歩兵第四十五連隊付、当時満州駐剳で遼陽に在り。
同期の親友、親泊朝省は騎兵第二十七聯隊附として、北鮮の羅南に在った。
或日、彼より来信に、
「 貴様に是非紹介したい人物がいる。 同じ将校団の西田税という新品少尉。
 中々の優れた革新の士だ 」 と書いてあった。

それから、時が流れた。
隊付半年の勤務を終えて、
大正十二年十月一日 ( 関東大震災直後 ) 陸士本科に入り、
再び市ヶ谷台上の人となった。
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、
著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、
十月、陸軍少尉に任官。
その年の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
爾来十三年。
彼が刑死するまで、その親交は変わらなかった。
永遠の同志、戦友である。
彼は陸士第三十四期生。 
私は三十七期生。
この間に三十五期の大岸頼好がある。
それに海軍兵学校第五十三期生の藤井斉( 私と同年輩 ) と。
この四者は、特に忘れ難き同志網の図根点を形成する。
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
間もなく、
長居は無用と思ったか「出よう」
と ぶっきらぼうに私を促がして、トットと歩き出す。
導かれた神田の喫茶店はケチな薄暗い店、
カレーライスとコーヒーの一杯をおごって貰って、
めざすは千駄谷九〇二番地の北一輝邸。
こんもりと庭樹に囲まれた、物静かなたたずまい。
中古の二階建の洋館で、あとで満川さんに聞いた話だが、
当時 「 虎大尽 」 ( 南洋で虎狩りをしたとかで ) と 異名を取った山本雄三郎の別邸を
「 北一輝氏は国宝的人物だから 」
 と いう永井柳太郎 ( 当時の民政党の代議士。元文相永井道雄の実父 )
 
の 口ききでタダで借りた家だったんだそうな。
招じられた応接間にカーテンは無く、
ソファは上質だが、ガランとしている。
貧乏暮し。
だが、悠々たる雰囲気だった。
その日、三人 ( 北 四十二歳、西田 二十四歳、そして私 二十一歳 ) で 会談した数時間は、
まことに貴重なものであった。
晩餐に、豚骨料理の御馳走に預った。
席上、北先生、何を思ったか
「 菅波君、絶世の美人が居たら、恋愛をしたまえ。
 ( ひといき置いて ) しかし、
君が一人の女性に奪われるなんて、惜しいなあ 」
と、真顔で言った。
内心、反発を覚えたが、黙っていた。
恋愛至上主義か、使命至上主義か、むろん後者だ。
私は終生この言葉を有難い誠とした。
帰り際に
「 私を頼るな。私は、いつ斃れるかも分らない。
私は君の魂に火を点ずる役割を持ったのかも知れぬ。
しかし一度火が点いたら、ひとりで燃えなくちゃ・・・・」
北師は、こう言った。
西田さんと北邸を辞したのは、夜十時に近かったろうか。
大正十四年の年の暮。
師走の空は寒い。しかし、身内は暖かかった。
翌日、牛込・南榎町に満川亀太郎さんを訪ねて、
北一輝著 「 国体論および純正社会主義 」 を 借読した。
分厚い門外不出の禁止本。
所々欄外に朱書した訂正がある。貴重な文献。
「 北氏が上海から帰京して、一晩で書き入れた。全く天才だよ 」
と 絶賛して居られた。
熟読。高邁な識見に敬服した。
道元禅師の説かれた曹洞教会修証義に、次の言葉がある。
「 見ずや、仏の言はく、無上菩提を演説する師に値はんには、
種姓を観ずることなかれ、
容顔を見ることなかれ、非を嫌うことなかれ、
行を考うることなかれ、ただ般若を尊重するが故に、
日々三時に礼拝し恭敬して更に患悩の心を生ぜしむることなかれ 」
と。
この教の流儀に従えば、師や友に接するは学ぶことである。
その長ずる所を採って、わが心を養うにある。
その短所や欠点は、これを見ない。
これが、己を豊かに富ます所以である。
西田税と分かれて東京を去った大正十四年末から、
昭和六年八月に至る間、私は鹿児島の聯隊に在り。
その間、
昭和二年九月、
西田税の発行した 「 天剣党 」 事件起こる。
「 天剣党は、
軍人を根基として普く全国の先頭的同志を連絡結盟する国家改造の秘密結社にして、
「 日本改造法案大綱 」 を 経典とせる実行の剣なりとす」
と いう一句が、その綱領の中にあった。
これは、憲兵および軍首脳部の古い頭脳を驚かすに足りる言葉であった。
私は、その年の夏、腸障害が高じて腸捻転となり、
郷里宮崎で入院、開腹手術、軍職を辞せねばならぬ瀬戸際まで行って、
奇跡的に助かり、聯隊に帰ったばかりであったので、
簡単な取調べを受けたまま無罪放免となった。
人名は数十名であったけれども、
未組織のものであり、西田税の独り芝居ということで事なく済んだ。
しかし、各地各隊、隠密な運動がその緒についたばかりのところで頓挫することになった。
出来れば、文書として印刷配布することは謹んだがよかったのだ。
志を同じうし、義相協う者が暗に集合する、ということが肝腎。
昭和六年夏、
東京・麻布の歩兵第三聯隊に転隊した私は、
代々木・山谷の寓居に西田氏を訪ねた。
聡明にして精悍な気風は、相変わらずであった。
 
大岸頼好             藤井斉 
その夏、
北の青森から大岸頼好、西の大村から藤井斉がやって来た。
末松太平ら多くの東北組にも会った。
その他大勢の同志と会合。
井上日召の提唱で、
青山の青年会館に集り、
「 郷詩会 」
という名儀で陸海民の連絡会議を催すなど、
同志の往来は繁くなる。


十月事件
 
橋本欣五郎
「 桜会 」の 動きを注視・批判しながら、我等独自の準備に当る。
しかし、表面に立った橋本欣五郎・長勇の幼稚・驕激振りに愛想をつかし我々は離れた。
ついに未遂に終わる。

やがて荒木陸相の登場となる。
皇軍意識の透徹を提唱鼓吹する荒木将軍が、
果たして維新革命の遂行に就いて、
どれほどの役割を演ずるかは大いに疑問であったけれども、
或時期までの我々の行動の防護壁となり得る見通しはあったので、
「 上下一貫・左右一体 」
の 掛声で、
幕僚ファッショの抑制と、革命本流の推進を、一斉に計る方針に転じた。
それが翌七年五月十五日、
いわゆる五・一五事件勃発に至までの陸軍青年将校の態度だったのである。
ところが、陸軍の動かないのは、
西田税の差金と錯覚したのが海軍と民間。
西田を斃せば陸軍側は起つ、
と 誤認した。
川崎長光、襲撃、数弾を放つ。
しかし、運が強く、西田は九死に一生を得た。
それからの彼は見違えるように深沈の態度を持するようになった。

一夕、墨痕琳漓
大きな奉書の紙に認めたものを、私に托した。
天皇に奉呈する建白書である。
これを秩父宮にお願いして呉れと言う、私は反対した。
そんなものを天皇が受けとるはずがない。
また、秩父宮が承知されるか、どうか。
・・・・・
だが。
西田の意志は固かった。
死線を越えた彼の言うことだ。
一応、聞き届けなくちゃならない。
そこで、隊に帰って安藤に相談した。
「 よかろう、やってみよう 」 と 言う。
翌日二人で秩父宮にお目にかかって申上げた。
意外、宮は即座に承知された。
「 明後日、陛下に会えるから、その折に差上げよう 」
 と 申され
「 西田は元気になったか 」
と お尋ねになった。
殿下は、いつも朗らかで、誠実で、信頼の度は深い。
お頼みした以上は、殿下にお任せする以外にない。
その結果をきく機会を得ないまま幾日が過ぎた。

下志津廠営の折だった。
大隊長の副官代理をしている安藤中尉の部屋で密談をしているところへ、
 秩父宮御付武官 ( 次席 ) の 寺岡大尉が突然やってきて、
 私に詰問し始めた。
「 先日、夕刻、殿下のお部屋(第六中隊室)に入る時、紫の風呂敷包を持っていた筈だ。
 ところが、出てくる時は、何も持っていなかった。
 アレは何だ。何かを差し上げたのではないか。何をお話し申上げたんだ 」
 舌鋒鋭く詰め寄った。
御付武官は聯隊本部の武官室に居たはずだ。
宮が一旦中隊長の職務に就かれると、一切タッチ出来ないことになっている。
さては、最近の動静が怪しいと見て、
誰かを張り番に立てたのだな。これは困ったことになった。
何と言い逃れようか、と惑う。
もう仕様がない。
一策を案じて、気がふれたふりをした。
気狂じみた格好をして、次の瞬間、大尉に飛びかからんばかりの風情。
大尉は怖れをまして
「 もうよい、もうよい 」
 と、二言三言、
急ぎ撤退、まずまず無事難をまぬがれたが、
この時以来、直接もう殿下には近づけなくなった。
爾来、宮との連絡は、安藤が仲介役に立つことになった。
あとで聞くところによると、
宮中では、天皇と皇弟秩父宮との間に激論が交わされたという。
この事に関係あったのかどうか分らないが、たぶんこの時のことだろう。

西田は根は正直な人であった。
浪人生活が長かったから、とやかく言う人があるが、それは間違っている。

昭和六年の夏から翌七年の夏まで、まる一年在京して、
私は歩三から満洲公主嶺の独立守備歩兵第一大隊へ飛ばされた、
満三ヶ年。
前一ケ年は南満各地の匪賊討伐、
あとの二ケ年は新京警備司令部に勤務して、
昭和十年八月、鹿児島歩兵第四十五連隊第一中隊長に転ずる。
満洲からの帰途上京、
西田さんに久闊を叙し、所要の連絡を済ませて薩南に帰った。
これが最後の別れになろうとは。

東京勢は、相澤公判一本槍で進むと言うことだった。
第一師団の満州移駐決定。
情勢一変。
激発突進。
昭和十一年二月二十六日未明、未曾有の大事件勃発。 
北、西田、連座。
惜しむべき人材、悉く、代々木原頭の朝まだき銃声と共に散る。
世紀の悲劇。
痛恨極まりなし。
思うに、西田税は、青年将校運動の 「 くさわけ 」 で あった。
最初に進む者は、満身創痍となる。
三十五歳で斃れた。彼の運命は悲しい。

西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄著 から
リンク→ 獄中手記 (三) の三 ・ 北、西田両氏と青年将校との関係


大蔵榮一 「 回想 ・西田税 」

2017年08月17日 04時13分13秒 | 西田税


西田税 
西田税さんは私より三期先輩である。
幼年学校も彼は広島、私は熊本と出身校を異にしていた。
しかも兵科は彼の騎兵に対し私は歩兵であった。
従って本来ならば彼とは相親しむ機会は殆どないといっていい関係にあった。
強いて共通点を挙げれば勤務地が同じ羅南であったというだけである。
大正十二年四月、
私が士官候補生として歩兵第七十三聯隊に隊付勤務を命ぜられて赴任した時、
彼は騎兵第二十七聯隊の新品少尉であった。
その騎兵連隊に私と同じ熊本幼年学校の同期生である親泊朝省が士官候補生として勤務していたので、
西田さんの噂は親泊から
「オレの聯隊に風変りの新品少尉がいるんだ。
先日もヨコネが出たとかでナイフを焼いて消毒し、自分で手術していたが、とても剛毅な人なんだ」
などと時々きかされていた。
私は風変りな新品少尉という噂にちょっぴり魅力を感じつつ、その中お会い出来ると愉しみにしていたが、
はからずも私は風邪がもとで胸膜炎という病名で入院、
隊付勤務を僅か一ヶ月にして自宅療養を命ぜられ郷里に帰されてしまったので、
とうとう西田さんには会わずじまいであった。
同年(大正十二年)九月一日の関東大震災の突発によって、
私たちの士官学校本科への入校は数日延期され、
しかも揺れ動く危険な状態下で開始された授業であったが、
二年後に目出度く卒業して再び羅南に帰ることになった。
曾て親泊を通じていささか魅力を感じていた西田さんは既にそこにはいなかった。
こうして没交渉のままいつか彼の存在は私の脳裡から消え去っていた。
羅南に於いて、一人前の軍人として巣立った私の軍隊生活ではあったが、
そこに待ち受けていたのは誇るべき青春が、否応なしに蹂躙されるという重苦しい現実であった。
それは大家徳一郎という聯隊長の狂気じみた異常性格から醸し出される、
一種異様の妖気とでもいうべきものであった。
創立日なお浅い聯隊の将校団としては、
聯隊長の狂気じみた妖気を跳ね返すだけの確立された団結力がなく、
奇骨ある先輩将校もいないではなかったが、
聯隊長の横圧の前に各個撃破された格好で無残にも縮み上がったという状態であった。
そういう中で私は聯隊長の狂気じみた妖気の前に、ひとり反抗心をかきたてた。
聯隊長としては思いもよらぬ若造の抵抗に対して業を煮やしてか、ことごとに当たり散らした。
何かと因縁をつけては全将校団の前で面罵することがしばしばであった。
面罵だけでは物足りなくなったとみえて、牽強付会の理由をでっち上げて、
重謹慎十五日の重罰を以って臨んだこともあった。
それでも私は屈せず、いよいよ反骨を剥き出して一歩も引かなかった。
こんな生活が何年か続いたあと昭和四年三月私は戸山学校体操科教官として東京に転出した。


渋川善助  西田税  大蔵栄一
             末松太平

その頃、東京では革新運動が始動しつつあった。
軍縮会議を頂点とする軟弱外交の行き詰まり、政界財界官界の癒着による腐敗堕落、
搗てて加えて天候異変による東北地方を襲った冷害による農村の疲弊、
等々の社会不安の要因が折り重なって、日本全土には大きな動揺の兆しが渦巻き始めていた。
私はそういう雰囲気を肌身に感じながらも、その渦の圏外にあって只管体育の仕事に情熱を注いでいた。
そんなある日、
私は知人に誘われて 「牛に牽かれて善光寺」 といった程度の関心を以って 「桜会」 の会合に顔を出した。
私は、そこで計らずも菅波三郎中尉に会った。
菅波は熊本幼年学校以来の同期生であり、
彼は最近鹿児島の第四五連隊から東京麻布の第三連隊に転任して来たばかりであった。
それから私はよく菅波と会った。
熊幼の同期である第一聯隊の香田清貞中尉とも旧交を温め得たし、
士官学校予科区隊長であった村中孝次中尉とも会った。
菅波に誘われて西田税さんを代々木山谷のお宅に訪ねて、
羅南以来果たし得なかったその風貌に初めて接した。
そうした人達との交流によって、私の人生は急激に脱皮していった。
羅南に於ける大家徳一郎聯隊長にぶっつけた権力への闘魂は、一挙に爆発した。
いい換えると、大家聯隊長によって培われた私の反骨が、
歪曲された日本の権力に向って大きな怒りとなって燃え上がったのである。

昭和六年十月十七日、橋本欣五郎中佐以下十数名が検挙されることによって
「桜会」 の急進分子を中心に起こしたクーデター計画は、空しく壊滅した。
所謂十月事件である。
この事件には後味の悪い、いくつかの問題があった。
その一つに このクーデター計画を未然に暴露したものは誰だ、という問題があった。
「バラしたのは橋本中佐自身だ」
と、西田税からきいたという末松太平(陸士三十九期)の不用意の一言が、波瀾を捲き起こして
「いや、バラしたのは西田税だ」 「いや、橋本中佐だ」
と、水かけ論的蝸牛角上の争いが
とうとう橋本、西田の対決という愚にもつかぬ論争にエスカレートしていった。
そういうさ中に戸山学校在校中の末松太平に満洲出兵のための青森第五連隊への復帰、
という動員が下命されて、
さしもの嫌な問題も自然立ち枯れのかたちになったのは、むしろ幸いであった。
私は末松の青森聯隊復帰のことを知ってさっそく、彼の下宿にかけつけた。
そこには既に西田夫妻が来ていて、何かと身辺の面倒に心を砕いていた。
ややあって、末松の同聯隊の先輩で戸山学校の体操科教官である中村中尉
(陸士三十六期)がやって来た。
やって来るなり
「たつ鳥あとをにごすなよ、どこにも借金は残ってはないだろうな。誰にも迷惑をかけぬようにしろよ」
と、きくに堪えぬ言葉を末松に投げかけていた。
この中村中尉の 「俺には迷惑が、かかっては困るからな」
と言った如何にもみみっちい態度に比べて、西田さんの態度はまことに立派であった。
バラしたバラさないの論争の中で、どちらかといえば西田、末松の間には感情の齟齬があって、
しかるべき関係に両者はあった。
と私は思わないではなかった。
だが今、目の前に見る両者の間にはその片鱗すらなかった。
ただ、あるものは信頼感に満ちた同志愛の清々しさであった。
同聯隊の先輩である中村中尉の、みみっちい態度と西田さんの清々しい態度とを思い比べて、
私は西田税という人が一ぺんに好きになってしまった。
そのことがあってから、私と西田さんとの交流は今までにも増して親密度を加えて行った。
私と西田さんとの親密の度が増すに反比例して、陸軍部内の西田さんへの悪評はことあるごとに倍加されて行った。
特に昭和七年の五・一五事件のとき、
計画者である古賀、中村両海軍中尉らによって、「似而非革命家」とか「職業革命家」とか、
あるいは「裏切り者」「密通者」等のあらゆる濡れ衣を着せられて、
暗殺の凶弾を放たれたことが、その後の西田さんの人間像に如何に嫌なイメージを与えたことか。
その根も葉もない、いいがかり的無謀さに対して、
あの凶弾の放たれた現場の犯行の一、二時間前まで一緒に西田さんと懇談していただけに、
私としては許し難い激怒を覚えるのである。
犯行現場において、加害者川崎長光に立ち向かった西田さんの行為は全く剛毅の一語につきる。
その状況は私の拙著「二・二六事件への挽歌」に詳細に記述したからここでは省略する。
昭和四十三年、ある動機から私の波瀾にみちた体験記を書き遺す決意をして筆を運びはじめたとき、
私の気持を強く揺り動かしたのは北一輝・西田税に対する世評が余りにも誤解にみち、
余りにも歪曲されているので、
これが是正に力を竭さねばならぬ、ということであった。
書き終わって読売新聞社が上梓したのが昭和四十六年三月であった。
これが思いもよらぬ反響を呼んで全国の読者から多くの手紙を頂いた。
その中に
「二・二六事件への挽歌」を読んで北・西田への考え方が誤解であったことが判った。
今では彼らに「申訳ない」と深く詫びたい気持ちで一杯である」
といった手紙もあって、私の念願がある程度達成出来たと大きな喜びを感じたものであった。
西田さんに対する曲解は、当時の陸軍部内においてひどかった。
私は上長や同僚から「西田と縁を切れ」と度々忠言めいた勧告を受けたことがあった。
私はその度ごとに「何も解っていない癖に」とその勧告を無視して、いよいよその交りを深めていった。
西田さんが、凶弾で受けた重傷を癒やすために、転居療養していた湯河原から東京に帰って来たとき、
代々木から千駄ヶ谷八幡さまの近くに寓居を移していた。
受傷の跡がだんだん快癒するにつれて、西田さんの活動は前にも増して激しくなっていった。
そして彼を中心に千駄ヶ谷の寓居は、あたかも梁山泊的様相を呈していた。
昭和九年のはじめ私は大尉に進級した。
進級して間もなく西大久保から千駄ヶ谷に引っ越した。
引っ越した家は西田さんの家から、ものの二、三分とかからない所にあった。
家が近かったせいもあって、私は毎晩といって過言でないように、西田さんと会っていろいろ教えを受けた。
そして矢継ぎ早に引き起こされた諸事件では、必ずといっていい程、一蓮托生的に行動を共にした。
十一月二十日事件の時がそうであり、相沢中佐事件の時がそうであった。
昭和十年十二月の定期異動で、私は戸山学校体操科教官から、
北朝鮮羅南の歩兵第七十三聯隊の中隊長として転任することになった。
私が転任のため東京を去ってから約二ヶ月後、
あの天下を震撼した二・二六事件が白雪を踏みにじって勃発した。
そして、私も西田さんも共に獄窓に呻吟する身となった。
西田さんが栗原中尉らの急進的行動に対していつも阻止の態度に出ていたことは、
私は誰よりもよく知っていた。
彼が東京に健在である限り、あのような事件は決して起こされないと信じていただけに、
どうして、あの時期に蹶起しなければならなかったのか、
私には不思議でならなかったと同時に、心の片隅に納得出来ない一つのかげりがあった。
今でも思い出されるのは、
ある夜西田宅で私と彼と二人だけの懇談のときであった。
「君は武力行使をどう思っているのか」
と、彼が突然質問を発した。
「無暴に行使すべきではないと思います。
だが、何れはやらねばこの日本はどうにもなりますまい」
「僕の理想は武力行使はやらずに維新が断行されることにある。
それは出来ない相談ではないと思っている。
蹶起すべき時には断乎として蹶起出来るだけの、協力な同志的結合の下にある武力、
その武力をその時々に応じてただ閃かすことによってのみ、
悪を匡正しつつ維新を完成してゆく。 つまり無血の維新成就というのが理想だ」
「軍刀をガチャつかせるだけですね」
「そうなんだ。ガチャつかせることは単なる、こけおどしではいけない。
最後の決意を秘めてのガチャつかせでなければならぬことは、もちろんだがね」
「私もそう思います。だが、若い連中に無血が理想だなんてことを、
少しでもにおわしたら、それこそ大変ですよ」
「もちろんそうだ。しかし、そういう考えを胸中奥深く秘めて、
僕は若い連中に対処したいと思っている」
西田さんと、こんな問答を交わしたのは後にも先にもこの一回だけであった。
一回だけであったけれども、
西田さんの無血革命を願う心は内側で大きく拡がっていたし、
この頃の西田さんは 曾ての「天剣党」時代の西田さんに比べて、
人間的成長を成し遂げていたと私は革新していた。
だが、遂に彼は若い連中の血気を阻止し得ずして、
空しく彼らのあとを追って刑場の露と消えた。

« 昭和十年大晦日、志士たちの宴・西田税 金屏風への落書 »
今から数年前(昭和四十六年、七年)のことであった。
中村義明の未亡人、よし子夫人から一通の手紙を受けとった。
その手紙を要約すれば、次のような意味のことが書いてあった。
・・・・
昭和十年の大晦日の日に、麹町の中村義明宅に
西田税、大岸頼好、末松太平、渋川善助、對馬勝雄 等々が集まって忘年会をやった。
議論したり、談笑したり、酒が程よくまわって漸く座が乱れんとしたとき、
西田税は座をのがれるように独り二階に上がった。
夫人はそれを知ってお茶をいれて静かに二階の部屋に入った。
腕を組み黙想していた西田はポツンと一言いった。
「奥さん、この屏風に落書してもいいか」
その屏風というのは二ヶ月前に中村夫妻が結婚したとき、
ある人からお祝いとして贈られた金屏風で、
まだ何も書かれていない白紙のままのものであった。
「どうぞお書きになって下さい」
と 夫人はさっそく墨をすり、筆を副えて差し出した。
右側に
青一髪  萬頃の  波がしら

左側に
一剣天下行  欲斬風拓雲
萬里不見道  只見萬里天

と、西田は達筆に、しかも雄渾に書きなぐった。
書きなぐったあと、彼は 「じゃあね」 と一言残して飄々と立ち去った。
その金屏風が幾多の災厄に遭いながらも、幸いに今もって夫人の手許に大切に残されている。
だが、残念なことに西田税の署名がない。
そこでその屏風の裏書きを私に書けというものであった。
・・・
私はその手紙を貰ったあと、幾許も出ずして土佐の高知の中村義明夫人を訪ねた。
つもる話に夜も更けて、私はその夜夫人宅に一泊した。
夫人は気をきかして私の枕許にその金屏風を立ててくれた。
私は往時を回顧してなかなか寝つかれなかった。
何回となく西田さんの落書を読み返した。
西田さんがこの落書を書きなぐった昭和十年の大晦日といえば、
二・二六事件勃発の約二ヶ月前である。
その時私は北鮮、羅南にいて東京にはいなかった。
青一髪  萬頃の  波がしら
・・・・ひろびろとした波がしらの彼方、青くかすんだ水平線が幽かではあるが、
くっきりと一線を画して見える。
という風景を吟ったものであろうが、
雄大でしかも幽邃である彼の心境が、
まざまざと浮き彫りに描き出されていると私には思われてならなかった。
一剣  天下を行く  風を斬り雲を拓かんと欲す
萬里道を見ず  ただ見る萬里の天

・・・一剣をひっさげて天下濶歩する。風雲を切り開く、即ち妖雲を払わんと欲す。
天日を覆いかくしている黒雲を払い除けて、青く済み切った世の中にしたいもんだ。
だが、行けども行けども道らしい道は見えない。
ただ見えるものは、ひろびろとつながる天があるだけである。
この五言絶句は、覇気が溢れているようであるが実はそうではない。
道徳的道は見えないが、見えるのは万里の天のみである。
といった心境は全てを天運にまかせる、といった悠々たる心境である。
事件の二ヶ月前頃は、まだあの事件を起こすような切羽詰まった雰囲気ではなかった、
と私は確信している。
とすれば、西田さんが金屏風に向って書きなぐった時は、
軍刀をガチャつかせるだけで無血の維新を考えていた筈である。
(私が東京を離れたのは、この大晦日の忘年会の夜より、数えて僅か二週間ぐらい前であった。
従って、この辺の空気は私には、手にとるようによく判る) こんなことを思いだしながら、
この金屏風に相対していると、蒼白く済み切った西田さんの両眼が、私を見据えているようであった。
「西田さん。どうして、あの時期にあの事件を起こしたんですか」
私は何回となく問いかけてみたが、西田さんからは何の返答も得られなかった。

翌日私は屏風の裏書きを書くことを約束して高知を辞した。
現在私の手許には、曾て西田さんが愛用していた菩提樹の実を連ねた数珠が、
彼の形見として遺されている。
私はその数珠を左の二の腕にかけて一気に屏風の裏書きを墨書して中村夫人に送った。


西田税さんの想い出
大蔵栄一

西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


西田税 ・ 金屏風への落書

2017年08月16日 03時24分10秒 | 西田税

西田税 
西田税
金屏風への落書

今から数年前 ( 昭和四十六年、七年 ) のことであった。
中村義明の未亡人、よし子夫人から一通の手紙を受けとった。
その手紙を要約すれば、次のような意味のことが書いてあった。
・・・・
昭和十年の大晦日の日に、麹町の中村義明宅に
西田税、大岸頼好、末松太平、澁川善助、對馬勝雄 等々が集まって忘年会をやった。
議論したり、談笑したり、酒が程よくまわって漸く座が乱れんとしたとき、
西田税は座をのがれるように独り二階に上がった。
夫人はそれを知ってお茶をいれて静かに二階の部屋に入った。
腕を組み黙想していた西田はポツンと一言いった。
「 奥さん、この屏風に落書してもいいか 」
その屏風というのは二ヶ月前に中村夫妻が結婚したとき、
ある人からお祝いとして贈られた金屏風で、
まだ何も書かれていない白紙のままのものであった。
「 どうぞお書きになって下さい 」
と 夫人はさっそく墨をすり、筆を副えて差し出した。
右側に
青一髪  萬頃の  波がしら

左側に
一剣天下行  欲斬風拓雲
萬里不見道  只見萬里天

と、西田は達筆に、しかも雄渾に書きなぐった。
書きなぐったあと、彼は 「 じゃあね 」 と一言残して飄々と立ち去った。
その金屏風が幾多の災厄に遭いながらも、幸いに今もって夫人の手許に大切に残されている。
だが、残念なことに西田税の署名がない。
そこでその屏風の裏書きを私に書けというものであった。
・・・
私はその手紙を貰ったあと、幾許も出ずして土佐の高知の中村義明夫人を訪ねた。
つもる話に夜も更けて、私はその夜夫人宅に一泊した。
夫人は気をきかして私の枕許にその金屏風を立ててくれた。
私は往時を回顧してなかなか寝つかれなかった。
何回となく西田さんの落書を読み返した。
西田さんがこの落書を書きなぐった昭和十年の大晦日といえば、
二・二六事件勃発の約二ヶ月前である。
その時私は北鮮、羅南にいて東京にはいなかった。
青一髪  萬頃の  波がしら
・・・・ひろびろとした波がしらの彼方、青くかすんだ水平線が幽かではあるが、
くっきりと一線を画して見える。
という風景を吟ったものであろうが、
雄大でしかも幽邃である彼の心境が、
まざまざと浮き彫りに描き出されていると私には思われてならなかった。
一剣  天下を行く  風を斬り雲を拓かんと欲す
萬里道を見ず  ただ見る萬里の天

・・・一剣をひっさげて天下濶歩する。風雲を切り開く、即ち妖雲を払わんと欲す。
天日を覆いかくしている黒雲を払い除けて、青く済み切った世の中にしたいもんだ。
だが、行けども行けども道らしい道は見えない。
ただ見えるものは、ひろびろとつながる天があるだけである。
この五言絶句は、覇気が溢れているようであるが実はそうではない。
道徳的道は見えないが、見えるのは万里の天のみである。
といった心境は全てを天運にまかせる、といった悠々たる心境である。
事件の二ヶ月前頃は、まだあの事件を起こすような切羽詰まった雰囲気ではなかった、
と私は確信している。
とすれば、西田さんが金屏風に向って書きなぐった時は、
軍刀をガチャつかせるだけで無血の維新を考えていた筈である。
(私が東京を離れたのは、この大晦日の忘年会の夜より、数えて僅か二週間ぐらい前であった。
従って、この辺の空気は私には、手にとるようによく判る) こんなことを思いだしながら、
この金屏風に相対していると、蒼白く済み切った西田さんの両眼が、私を見据えているようであった。
「西田さん。どうして、あの時期にあの事件を起こしたんですか 」
私は何回となく問いかけてみたが、西田さんからは何の返答も得られなかった。

翌日私は屏風の裏書きを書くことを約束して高知を辞した。
現在私の手許には、曾て西田さんが愛用していた菩提樹の実を連ねた数珠が、
彼の形見として遺されている。
私はその数珠を左の二の腕にかけて一気に屏風の裏書きを墨書して中村夫人に送った。


大蔵栄一 、回想・西田税から抜萃
(  西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 )


西田税が描いた昭和維新のプランとは・・

2017年08月15日 13時01分14秒 | 西田税


西田税 

挫折した昭和維新

こうして
北、西田とも十数年来の革命運動の終焉を悟る。
革命運動の挫折に対して二人は別々の反応を示しているのは、二人の年齢と世界観の違いであろう。
北は獄中でもっぱら読経三昧であった。
しかも、島野三郎の追想によれば、
この獄中でも、ふと頭に浮かんだ哲学上の疑問は看守を通じて々獄中の島野に質問した。
「 ぼくが、二・二六事件で出獄するまで続いていました 」
と、島野が語っているから、昭和十一年九月二十五日の釈放まで続いたことになる。
北はほとんど獄中で遺書らしいものは残していない。
刑死の前日、一子大輝に法華経一巻を残し、末尾に 「 子に与ふ 」 として数百言の短文を書し
「 父は汝に何物を残さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり 」
と、しるしている。

西田は、北のように淡然とも超然ともしなかった。
迷いや後悔はなかったが 後図を慮るところがあった。
「 西田さんがえらいと思うのは、ぼくに伝言をよこして 『 出ることを考えろ 』 と言うのです。普通なら心中意識でしょう 」
と、末松太平は思い出話を語って
「 こういう心理状態というのは、すばらしい心理状態ですな 」
と 言っているが、
西田の考えは末松ら有為の青年将校によって己が志を継がしめたい肚であったと思われる。

しかし、末松ら同志将校が出獄した時は、もう日華事変は抜きさしならぬ膠こう着状態に陥っている時であった。
北も西田も、この大陸での戦火の拡大を恐れていた。
とりわけ北は支那の民衆の底力を知っているだけに、自ら日支紛争の渦中に飛びこもうとした程である。
この思いは西田も同じだ。
二人ともこれからの日本が、きわめて危険な道に進むだろうと予見する。
結局この予見のとおりになった。
「 国家ハ玆ここ十年許リノ間ニ急変スルヨ。 モット早イカモ知レナイ。  四、五年ノ中カモ知レナイ。
必ズ大体改造方案ノ如ウニナルカラ其ノ意向デ・・・・」
刑死の前日、
最後の面会に行った門下生の馬場園義馬たちに 北一輝はこう告げている。
この予言は的中した。
八年後、大日本帝国は崩壊し連合国に七年間占領された。
その指令どおりに日本国が再生したのだから、急変どころの騒ぎではない。

もしこの時、良識ある偉大な政治家が居て 万難を排して占領軍を説得し、
北一輝の改造方案の筋書き通りに事を運んだら、今日の日本は全く違った国家に成長していたであろう。

「 東久邇内閣の国務大臣になった小畑敏四郎中将は、大岸頼好を座右においていろいろ知恵を借りていた。
大岸さんのポケットにはいつも改造方案が入っていた 」
と、明石寛二が証言しているところを見ると、
敗戦後の日本再生には、いくらかは改造方案が役立ったかも知れない。
耕地を独占していた大地主は消滅し、華族制は廃止され、皇室財産は国有となり 皇室費は国庫から支出されるようになった。
しかし、北が最も重要視していた経済の三原則は、ついに実現しなかった。

西田税も、
「 軍閥が支那で戦争をはじめたようだが、やがて墓穴を掘るようになるだろう 」
と、面会に来た肉親たちに語っている。  (村田茂子)
その予見のとおり、敗戦によって帝国陸海軍は消滅してしまった。

死児の歳よわいを数える愚かさではあるが、今日の日本の情けない国状を見るにつけても、
かつての日、熾烈しれつな思いを国家、国民の上に寄せていた多くの人々を失うことになった、
歴史の因果に痛恨の思いは消えない。
戦後の日本は、なぜ改造されねばならなかったか、に ついては今まで折にふれて述べてきた。
これに対する西田税をはじめ多くの青年将校たちの言動もみてきた。
敗戦後になって、
彼らの観察が正しかったことを、一度青年将校の銃弾によって斃たおされた鈴木貫太郎 自らが証言している。
「 従来の日本の政治家は、政治についてはそれが如何に日本の前途を大きく左右し、
真に民族発展のために重要な政策であろうとも、これを陛下の御裁断に俟つということは行わなかった。
御前会議とか、御裁可を仰ぐということは一種の手続に過ぎず、
元首としての天皇の御意向は、具体的には国策に反映せず、
さりとて、最近に至る迄の政府の諸政策は、議会に於いて国民の代表たる議員の意思表示をも反映してはいなかった。
議会に対しても一種の手続としてこれを認めていたに過ぎない。
しかるが故に要するに、官僚軍閥による専断政治を実行していたと言える。
真に日本国の国体を思い、国民の幸福を思っての政治ではなく、一部政治家の意志に依る政治であった。
勿論政治輔翼の真に任ずる政治家が、正しい良心と道義と国家観を以て行えば、理想的な政治も出来たであろうが、
今次太平洋戦争の勃発の如き、国家元首の意志を無視し、
国民全般の自由なる意志の表明を無視した無謀な戦争を起したというのは
畢竟ひつきょう幕府的政治を意味するものと
断ずる以外にはかんがえようがない。

憲法に依れば 『 天皇は国の元首にして統治権を総攬し・・・・』 とあるが、
事実は 『 天皇は神聖にして侵すべからず 』 という条項に依って、
天皇の無責任論を規定し、天皇を政治の圏外に置こうとしていると考えられるのである。
であるから陛下の御立場というものは従来から国家の運命とはかかわりなく、
単なる政治上の手続として御裁可を仰ぐと言うようなことになって居った 」  ( 鈴木貫太郎述『 終戦の表情 』 )
これは、天皇に戦争責任をが及ぶのを恐れた鈴木が慎重な語り口で、
天皇政治の内状を告発したものであるが、おそらく、昭和時代の立憲政治の実態であろう。
鈴木が昭和四年から十一年まで、彼が六十二歳の時から六十九歳まで、
足かけ八年間侍従長として側近に奉仕したから、その時の見聞を述べたものであろう。
瀕死の重傷から蘇生した鈴木は、九年後の昭和二十年、七十八歳の高齢で内閣総理大臣となり、
首尾よく戦争終結に導いたことはよく知られている。

戦前の日本は、よく天皇制国家とよばれているが、それはあくまで形式の上の話で、
実態は天皇の名を借りた官僚的専制国家であったことがよくわかる。
西田たちが打破しようとしたのは、こうした官僚体制であった。
青年将校たちは、それを維新運動とよび、昭和維新と名づけているが 西田は革新とか革命の語を使っている。
しかし、内容は同じである。
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 の冒頭に
「 天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に
天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く 」
とある。
これが革命の第一歩であるが、天皇に改革の意志がなければ不可能である。
北一輝はその註三において、
「 日本の改造に於ては必ず国民の集団と元首との合体による権力発動たらざるべからず 」
として、天皇と国民の合体によるクーデターの決行を考えている。
ここでは大規模な国民運動が前提になってくる。
西田はこれが可能と考えたのだろうか。
西田は公判廷で
「 国家の改造は非合法手段に依り実現せらるべきものにあらず。
明治維新に於ても非合法のみにて実行せられたるにあらず、『 日本改造方案大綱 』 に特筆大書しある如く、
国家の改造は天皇大権の発動に依り実現せられ、国民は翼賛し奉るにあり 」
と、述べ
「 自分は 『 日本改造方案大綱  』 に基き国家改造運動に一生涯を捧ぐるものなるが、
絶対に非合法手段を採用せず、合法的に国民運動により天皇大権を補佐し奉るの外他意なし 」
と、強調している。
半分はホンネであるかも知れない。
というのはこの頃、同志のうち菅波、大蔵、末松など不参加の将校たちの公判中であった。
自分の運動が非合法をもくろんでいないことを強調することによって、彼らを援護しようと考えたのではあるまいか。

いったい西田は合法的な手段で、革命が成功すると信じていたのだろうか。
合法的な革命のプランとはどんな内容のものなのか、西田は大蔵にも磯部にも語っていないし、書き残してもいない。
海軍の青年将校や神兵隊の壮士から、革命の扇動家として生命をねらわれたように、
西田は口説だけの似非えせ革命家であったのか。
今日になっては、その黒白を明かにする術はないが、いくらかは片言隻語の形で、西田の合法革命の片鱗を知ることができる。
「 西田さんは無血革命を考えていた。
軍刀をガチャつかせただけで無血革命ができるともらしたことがある 」
と、大蔵は語っている。
しかし、血の気の多い若い将校に話したって、嘲笑されかねない空気だったから、
慎重派の大蔵以外には誰にも言っていない。
また、別の折に
「 天皇陛下が維新の大詔さえ渙発されるならば、あまり血を流さないで、昭和維新は実現できる 」
とも、言っている。
しかし、西田は大蔵に天皇陛下に建白書を奉ったことは、一言も言っていない。
噂さが八方にひろがり秩父宮に迷惑がかかるのを恐れたからであろう。
西田が維新の大詔による、昭和維新を考えていたことはたしかで、
関係した人々の証言によれば、
西田の描いた昭和維新は次のようなプランであったという。
・・
まず時機を選ぶ、
革命は一度しかやれない。
『 慎重に時機の至るのを待つのだ 』 と、よく言っていたが、
国政が行き詰り 経済は極度に不安となり、しかも、国際的に孤立している。
人心が動揺して流言蜚語が乱れ飛び、一種のパニック状態に陥る。
「 大地震裂して、地涌菩薩 」 の現れるのはまさにこの時である。
かねて気脈を通じていた秩父宮を奉じて起つ。
軍隊を動員して宮城を護衛し、戒厳令を布いて一時的に軍が主導権を握る。
起つと同時に、秩父宮が参内して、天皇に維新の大詔渙発を奏請する。
あとは北の改造方案の筋書に従って、新国家の建設にとりかかる。

「 恐らく西田さんはこうしたプランをもっていたのであろう。

しかし、要は天皇の御意志如何の問題だ。
天皇が大詔に署名を拒否されたら、どうにもならない。
北さんも西田さんも 今の天皇は誠実なお方だが、凡庸の資であられる。
とても英雄的な大決断をなさるようなお人柄ではないことを見透していた。
これが明治天皇のようなお方なら別だ。
明治天皇は貧乏の味を知っておられ、
しかも、血腥い白刃の下をくぐりぬけた豪傑連に教育を受けておられる。
今の天皇は違う。
東宮として特殊な教育を受けられ、下積みの苦労の体験をなされていない。
同じ御兄弟でありながら、
秩父宮が、貧しい下層階級に関心をもたれたのは庶民とともに苦労されたからだ。
秩父宮が天皇の立場におられたら、西田さんの案もあるいは実現できたかも知れない 」
と、菅波三郎は語っている。
「 まあ、死んだ連中には気の毒だが、二・二六事件の連中の戦術は甘かったと思う。
第一動員兵数が少ない。 それに人を多く殺しすぎた。 これが敗因の第一だ 」
と いう。
この菅波の説に従えば、次のような構想になる
動員兵数は六千、二個聯隊が出動する。
さっと皇居の門を占拠して内外の出入を断つ。
もちろん電話線も切る。
別に将校数人によって一人か二人、最も重要の地位にいる人物を斬る。
総理大臣は必ず斃す。
余りに多くの人を殺ると何も知らない国民から反感をもたれるおそれがある。
皇居を占拠したら、
かねて気脈を通じている重臣数人と首謀将校数人が、天皇に謁して維新の大詔を奏請する。
もし、天皇が逡巡なさるようなことがあったら 脅迫してでも大詔を渙発させる。
天皇が国家改造に反対なら御退位をねがって秩父宮に御即位を願う。
要は 近衛聯隊が出動するまでの間に維新の大詔さへ渙発すれば、もう革命は成ったも同然である。
「 戦前は何といつても、タテマエは宮廷政治である。
宮廷を抑えて維新の大詔さえ渙発されれば、あとは自然に道が開ける。
高位高官といっても根は肚はらのない連中ばかりだから、大詔の前にはそれこそ詔承必謹易々として從う。
あとの有象無象はそれこそ風になびく草木も同然、こうして昭和維新は大した血を流さずに成就するであろう。
革命の見通しがたち、国家の大方針が定まったのを見届けたら、主謀者数人は事件の責任をとり皇居前で割腹してお詫びするのだ 」
と、明快な解説が続く。
あとは、北一輝の改造方案のプランに従って事を運ぶという。
この中でも最も大切なのは経済三原則である。
私有財産と、私有地と、私人産業にはそれぞれ限度を設けて大きくなりすぎないようにする。
資本主義でも社会主義でもなく、その中間をゆく画期的な経済政策である。
・・
この計画が当時どの程度まで西田税やその同志たちのなかで暖められてきたか定かではないが、
二・二六事件が中止されて、この計画が実施されていたら、おそらく成功していたであろう。

支那革命の体験をもつ北一輝は、革命をもって終局の目標としていなかった。
革命は当然権力闘争がつきまとい、流血の惨事をくり返すことは歴史的に明らかである。
これで一番被害をうけるのは民衆である。
民衆の禍害を除くためには、まず民衆の自覚と思想の確立が先決であると、北一輝は考えたよあである。
これはいつ頃かは、はっきりしないが、
北邸を訪れた島野三郎に北はこんな述懐をしたというのである。
話の前後から推測すると昭和九年から十年頃のことてあろう。
「 自分が初めて東京へ来た当時は、ずいぶんいろいろな法律、歴史、経済の本を読んだものだ。
ところが当時の日本の学者は、政治制度なるものに万能薬的な力があるということを信仰しておった。
これは明治以来法律、法律で国を固めてきたせいだろう。
しかし最近自分は、政治制度の万能薬的な力の信仰は迷信に過ぎぬ。
西洋かぶれの迷信に過ぎぬ、と考えるようになった。
君主政治とか、民主政治とか、共産政治とか、政治制度にはいろいろあるが、
その中の一つを絶対視することは、西洋かぶれの偶像崇拝である。
東洋には西洋の知らない新しいやり方がある。
それは何かといったら修身斉家治国平天下の思想の宣伝である。
外面的な政治制度よりも、個人個人の精神の革命こそ、政治制度に比して はるかに実効あるものであると思うようになった 」
これは島野三郎という哲学者の媒体を透して語られた北語録である。
北の話を要約して述べられたものであろうが、ここには魔王といわれた北一輝の凄みがない。
まるで安居楽業している老教授の言葉である。
これが五十四年の修業の果てに到達した北の心境かも知れない。
刑死の前日、北が父のように親密にしていた黒沢次郎が、最後の面会に行った時
「 イロイロ刑務所ナカデ考ヘタノデスガ、ドウシテモ此ノ世ノ中ハ最期ハ宗教デナケレバ治オサマリマセンヨ 」
と、北が言っている。
島野のへの談話といい、黒沢への語りかけといい、革命の行者北一輝が最後に到達した境地が何であったかを物語っている。

北と実の親子以上に心の通いあっていた西田は血気旺んな壮年だ。

北のように革命論を宗教に昇華さすほど淡白ではない。
中途の挫折は悔やんでも悔やみきれないものがあったと思われる。
「 自分はもっと大きな、もっと正しいことを考えていたのだけれども 」
と、最後の面会に来た妻の初子に語っているほどだ。
「 人間にはいくら知恵をしぼってみても、それ以上は運賦、天賦というものがある 」
と、西田は安藤に語っているくらいだ。
天運の窮まるところと西田は諦観したであろう。
獄中ではもうじたばたしなかった。
「 牢屋の中では浪人が一番しっかりしている。
軍人というのは二足わらじでしょう。 うまくいけば出世するけれども、浪人は出世のしようがない。
だからというわけではないが、西田さんなんかも堂々たるものですよ。
北さんなんかも堂々たる獄中態度です 」
と、同じ獄中にいた末松太平は語っている。
これは西田が生れながらの非凡な資質があったからではない。
三十七年の彼の人生行路に見られるように、感受性の強い むしろ 神経質にちかい性格である。
ずのうは秀れていたが 天才でも英雄でもない。
言うなれば 才能と実行力のある平凡人というべきであろう。
その彼が、思いもかけない悲運な挫折に会い、
最初は多少は悔恨や焦燥感にさいなまれたであろうが、次第に歩一歩と安心立命の境地に到達した。
それは自己の一切を集中して努力に努力を重ねて登りつめ、最後は死生一如の妙境に到達したと見るべきであろう。
革命児西田税としてでなく、
法華の行者西田税として昇天したであろうことは顕本法華宗の木村日法権大僧正の証言でも明らかである。

昭和十二年七月七日 日華事変の勃発から、昭和二十年八月十五日の敗戦まで、
日本人にとっては息つく暇もない九年間で、
戦火に追われるあわただしい歳月であった。
敗戦後、七年間連合国に占領され、
その占領政策は虚脱した多くの国民によって忠実に実施され、
マツカーサーの占領政策は予想外に成功した。
それと共に日本人のゆかしい道徳的伝統や祖国愛の精神は、ふり捨てられてしまった。
独立をかち得て後、
その余りにも重大な損失に気づき改めようと志した者も少しはいたが、
多くの国民は全くの太平の逸民と化してしまった。
自分の権利だけは強く主張するが、国家社会がいかに不利益をうけようと問題にしない。
国家がいかに外国から不当に干渉され、侮辱され、領土を強奪されても、
敢て対岸の火災視してかえりみない、
亡国の民、という声もある。
国民所得はいくら自由世界の第二位となり経済大国と自負してみても、
国民に国家の独立を保ち、外圧に屈服せぬ気概がなければ、国はやがて亡びる。
いかに国際協調時代に入ったといっても、
己が祖国を誇りと使命感をもたない国民は、やがて軽蔑されるだろう。

わずか四十数年前、
己が一命をなげうち、肉親の恩愛をふり切って、
国家、国民を救おうとした青年将校たちの、その清冽な心情だけは、
こうした意味で、これからの日本を築く若い人々に伝えたい。
彼らの思想的な先逹であった北一輝、先輩格の西田税は、
彼らほど単純でも純粋でもなかったかも知れないが、
国家、国民を思う心情では、いささかの遜色もない。
若くして日本の改造に志をたて、
中途で挫折した西田税の生涯は革命家としては悲運であったが、
激動の時代を徒手空拳で乗りきろうとした、
充実した男の生涯としては悔いのない一生であった。

須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


「 俺は殺される時、青年将校のように、天皇陛下万歳は言わんけんな、黙って死ぬるよ 」 

2017年08月14日 15時22分34秒 | 西田税


西田税 
天皇と農民
昭和九年二月七日
対露方針について奏上した陸軍大臣林銑十郎は、
そのあとで、
青年将校たちが 「 部下の教育統率上、政治に無関心でいられない 」
と申している。

陸軍としては、政治上の意見があれば筋道を経て意見具申をすべく、
断じて直接行動してはならないという方針を明示している、
旨を奏上した。
それに対して天皇は、
「 将校等、殊に下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、
関心を持するは止むを得ずとするも、之に趣味を持ち過ぐる時は、却て害あり 」
と、いう お言葉であった。
これに対し、
本庄侍従武官長は
「 積極的に働きかける意味ではございません 」
と、お答えすると、
天皇は、
「 農民の窮状に同情するは固より、必要時なるも、
而も農民亦みずから楽天地あり、

貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず」
と、仰せられ、
欧州巡遊の際の自由な気分を語られ、
大正天皇の御病気の原因も、その窮屈な御生活にあったのではないか、
との お話があった後、
「 斯様な次第故、農民も其の自然を楽しむ方面をも考へ、
不快な方面のみを云々すべきにあらず、
要するに農民指導には、法理一片に拠らず、道義的に努むべきなりと仰せられたり 」
と、本庄日記は伝えている。

昭和八年の農作はやや小康状態であったが、
昭和四年から七年にかけて、全国の農民は苦境に墜ちた。
とりわけ 東北から北陸の農民の惨状は、この世のものとは思われない、 真に塗炭の惨苦にあえいでいた。
天皇はこの惨状を御存知なかったのであろうか。
側近たちも輔翼の大臣たちも、それをありのまま言上しなかったのであろうか。
当時の東北の農民たちに、
とても 「 自ら楽天地 」 を 求める気持のゆとりなど、求め得べくもない。
最愛の娘を売春婦に売らねばならぬ農民の痛苦の心情を、
どうして、ありのまま言上しなかったのか。
この農民の惨状がわからなければ
生命をすてて国家、国民を救おうとした青年将校たちの心情は理解できない。
彼らは自分のことよりも 国家や国民の前途を心から憂えていた。
だから肉身の恩愛を断ち、
暖かい家庭の団欒をふりすてて 起ち上がったのだ。
もし、あの時、

惨状に呻吟する農民に莫大な皇室財産の一部を割いて救恤されたなら、
青年将校は蹶起しなかったであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
敗戦後、GHQによって、皇室財産が詳細に調査され、
ついで 凍結され、
やがて九割の財産税によって日本国に没収された。
「 土地、134万ヘクタール、大部分が御料林と呼ばれる山林である。
建物、62万7000平方メートル。
立木、1億6千800万立方メートル。
現金・有価証券、3億3千615万円。
土地は、日本の全面積の3%強、長野県の面積に匹敵する 」
その時の評価額は37億円に達したという。
昭和二十年の政府の一般会計の歳出が292億円であることを比較して見れば、
これがどんなに巨額であるかがわかるであろう。
この莫大な皇室財産の一部を、
昭和の初年、窮況にあえぐ国民の救恤金きゅうじゅつきんとして下賜かしされたならば、
その後の日本の運命は変っていたであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北一輝は、
この皇室財産の国家下付を「日本改造法案大綱」のなかにうたっている。
いまの皇室財産は徳川氏のものを継承したもので、かかる中世的財政によるのは誤りである。
国民の天皇は、その経済はすべて国家が負担するのは当たり前だといっている。
昭和四、五年頃、
農村不況が深刻となり町でも失業者が急増し出した頃、
北邸に顔を出した寺田稲次郎に、
北一輝は世間話の末、
仁徳天皇の例をひいて
「 日本の天子は、昔から民の富めるは朕の富めるなりといって、
国民と苦楽を共にするのが天子の務めと心得ていた。
寒夜に衣をぬいで貧民の痛苦をしのんだという天子もあった。
今、国民がこんなに苦しんでいるのに、
大財閥に匹敵する程の財宝をもちながら、アッケラカンと見すごしている奴もあるからなあ 」
と、言ってにやりと笑った。
大蔵栄一が 『 国体論及純正社会主義 』 のなかに、
皇室に対する不敬の言辞が多い点を詰問すると
「 あのころは若くて、すべてがけんか腰だったからなァ 」
と、軽く逃げて まともに答えていない。
西田税にも同じような傾きが見える。
昭和六年の春、
西田の家を訪れた血盟団の小沼正に
「 ときにあんなバカでかい物が、東京のどまん中にあるなんて、
市民のいい迷惑だよ。
宮城をとっ払ってしまって、どこかへ引っ越ししてもらうんだなあ、将来は 」
と、笑いながら言った。
「 私は、西田氏の思想のどこかに、危険なものが陰さしているのではないかと疑ってみた。
だが、それは全く、私の思いすごしであった 」  ( 『 一殺多生 』 )
と、小沼はその著書の中に記しているが、はたしてどうだったのであろうか。
「 たしかに軍人時代の西田の天皇観と、浪人してからの西田のそれには、 ニュアンスに違いが見られた。
とりたてて天皇論をたたかわしたわけではないが、幾十度かの手紙の往復で、
たとえば語句の使い方、敬語の用い方にも変化があったことは感知していた。
革命家として生涯を賭している西田だから、さもあろうと思っていた 」 と、語るは福永憲である。

北も西田も、
獄中で天皇に関しては何も書き残してはいないし、言ってもいない。
しかし、天皇が蹶起した青年将校に対して、ひどくお怒りの様子であることはわかっていた。
北一輝の最後の陳述 「 これで極楽へ行けます 」 と いう一言は、彼一流の痛烈な皮肉ではなかったか。
北のかねてからの持論
「 国民の天皇 」 というにはあまりにほど遠い天皇のお姿に、暗い日本の未来を予見したのではあるまいか。
事実、この年からまる九年、日本人の多くは地獄の業火のなかに呻吟した。
西田も
「 このように乱れた世の中に、二度と生まれたくありません 」
と 言っている。
この時、西田の胸中には、
天皇の御態度に対する悲痛な絶望感がみなぎっていた、
と 思うのは 思いすごしというものであろうか。
「 誰から、どうして伝えられたかわからぬが、天皇が立腹されたという話は、たしかに獄中で聞いた。
同志の将校はみんなそれを知っていた。
磯部だけは、はっきりそれを遺書に書いている。
敗戦後ならいざ知らず、
あの頃 天皇絶対の教育をうけた者が、あれ程極言したのはよくよくのことだ。
同志将校の遺書にもそれとは言っていないが、たしかに怨んで書いたと見られるニュアンスがある。
安藤の
「 国体を護らんとして逆徒の名、万斛の恨、涙も涸れぬ、あゝ天は 」
と いう遺書も まさにそれだ。
天は天運の天の意味もあるが、天皇の天の意味もあると私には思える」  ( 菅波三郎 ) 
この明確な御態度は、北にとっては意外であったと思われる。

かつて北は 「 クラゲの研究者がいけないんだ 」
とか、
「 デクノボーだとわかりゃ、ガラガラッと崩れるよ 」  ( 寺田稲次郎 )
と、陰口をたたいていた北は、
この時、はじめて天皇の人間臭を感じ、自分の敗北を認めたのではあるまいか。
西田も同じ感懐をもったと思われる。
かつて 「 日本の最高我 」 として、恋闕の思いに胸を焦がした西田も、
天皇が国民の天皇でなく、貴族としての天皇と悟って失望する。
「 俺は殺される時、青年将校のように、天皇陛下万歳は言わんけんな、黙って死ぬるよ 」  ( 村田茂子談 )
と、面会に来た肉親たちに、米子弁でつぶやくように言った一言こそ、
天皇に失望した西田の意を言外に含めた、精一杯の天皇批判であったのだ。

西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


天劔党事件 (1) 概要

2017年08月13日 14時59分53秒 | 西田税


一、西田税 

西田税は大正四年九月広島地方幼年學校に入學し、
爾来陸軍中央幼年學校、
陸軍士官學校本科等陸軍士官學校生徒の過程を終へ、
大正十一年十月陸軍騎兵少尉に任ぜられた者である
中央幼年学校在學中より満蒙問題大亜細亜主義運動に關心を持ち、
士官學校に進み
満川亀太郎、北一輝と交わるに至り、
『日本改造法案大綱』 を讀み、深く之に共鳴した。
大正十四年六月軍職を退き革新運動に専念従事するべく上京し、
大川周明の行地社に入り、機關紙「日本」の編輯に當り
大學寮の寮監兼軍事學講師となって國家革新運動の普及宣傳に務めた。
西田は士官學校在學當時優秀な頭脳を以て校内に鳴り、信望を集めていたと云はれている。
其の西田が今大學寮に在って革新を叫び改造運動に邁進しておったので、
容易に陸軍士官學校在學中の士官候補生、澁川善助、末松太平等との交友關係を生じた。
當時の軍縮熱、軍部蔑視風潮思想的社會不安定に大なる關心を持って居った士官候補生
又は少壮青年將校は、
新しき頭脳を持って社會運動の渦中に身を投じ革新を叫んで居た西田税より、
其の解決を求め様として頓とみに接近して行った。
西田は夫等青年將校士官候補生に對し、
殆ど其の居宅を提供し
彼等は其の休暇や上京の都度自己の家の如く出入りして居ったと云はれて居る。
大正十五年頃行地社に内訌が起り、西田は大川と絶縁し北一輝の下に走った。
其の頃 代々木山谷附近に一戸を構へ妻帯したのであったが、
其の時、澁川は命を捨てて革命に當る者が妻帯するとは何事だ、
と云って西田に詰つたとの一挿話 ( 末松太平述 ) がある。

二、士林莊 
西田は行地社を出て東京市代々木山谷一四四番地に一戸を持ち、
北一輝と連絡しつつ陸軍少壮軍人に革新意識を注入し同志として獲得に努め、
昭和二年二月頃右の自宅に於て士林莊なるものを作った。
之は同人及び同人方に出入りする少壯軍人の集りに過ぎなかったものゝ様である。
但し青年將校を中心としたる最初の改造團體であった。

三、天劔党事件 
昭和二年七月、
西田税は軍部民間に於ける少壯革新的分子を糾合して、
鞏力なる国家改造團體の結成を計り
其等革新分子に天劔党規約と題した急進的革新的意識を盛った趣旨書を配布した。
其の同人目録に記載せられているのは陸軍青年將校が大部分であって、
海軍部内の藤井齊、其他民間分子の名も加わっている。
併して之等の氏名は本人の承諾を得ずして西田が獨斷にて記載したものであると云はれている。
此の計畫は直ちに憲兵隊の知る所となって彈壓を受け
天劔党は遂に其の正式結成を見るに至らずして終ったと云はれている。
急進的青年將校の或る者は之を目して西田は容易に彈壓に屈伏したと云って批難する者があり、
西田の青年將校間に於ける信望は一時衰へたものゝ如くであった。

兎もあれ 西田は以上の如く士林莊に拠り
陸軍部内に於ける尉官級の青年將校に革新思想を宣傳し夫等と聯絡を計って居った。
一方西田は大正十五年頃行地社分裂の際大川周明より離れ
北一輝と親密な間柄となり
北の思想に心酔し自ら小一輝を以て任じて居たと傳へられる。
大正十五年四月頃
西田は北より 『日本改造法案大綱』 の版權を譲渡せられ
之を印刷し全國の軍部及び民間の有志に
同書及び大正十年財閥の横暴を憤って安田善次郎を暗殺した朝日平吾の遺書等
を 頒布し革新思想の宣傳に努力して居った。
西田税の革新的思想は全く北一輝の影響に依るものであって
其の抱懐する革新手段改造方針は 『日本改造法案大綱』 そのものであった。
斯の如くにして
北の革新思想、『日本改造法案大綱』 流の改造計畫は西田税を通じて軍部内尉官級青年將校
及び之と關係を持つ民間有志の間に力強く浸潤して行った。

一方、行地社の頃に於て述べた如く
大川周明の抱く革新思想の改造計畫は大川個人の特殊な個人的親密
及び行地社綱に依って軍部佐官級以上の中堅高級將校の間に浸潤して行った。
然も その思想潮流の源泉に當る大川、北の両巨頭は相互に反目し、
相敵視して居たので
自ら 軍部側に大川系とも見るべき中堅高級將校派
と 北、西田派とも稱すべき尉官級青年將校
の 二派が同じく國家改造を目的としながら相對立するに至る端緒となった。

現代史資料4 国家主義運動1
右翼思想犯罪事件の綜合的研究(血盟団事件より二・二六事件まで)・・司法省刑事局・昭和14年
第二章第四節 から

次頁 天劔党事件 (2) 天劔党規約 に 続く