あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」

2020年06月29日 04時39分39秒 | 説得と鎭壓

やがて鉄格子のある囚人護送車に乗せられて、真暗な闇の中を走り続けた。
そして代々木の衛戍刑務所に到着した。
狭い事務室のような部屋に一同入れられ、そこで皆 軍服を脱いで浅黄色の囚人服を着せられた。
栗原さんや 澁川さんが、
「 これからが御奉公ですぞ。しっかり頑張ろう 」
と 言って皆を励ました。
寒々とした暗い光の中に、なにか温かい心のつながりがあった。
一人一人、薄暗く冷たい監房の中に入れられたとき、
全く別世界に来てしまった違和感が全身を走った。
しかし、与えられた毛布をかけて横たわると 連日の疲れですぐ眠りに就いた。
・・・池田俊彦 著  生きている二・二六   から

昭和十一年二月二十九日夕刻、
陸軍大臣官邸において、自決を断念した蹶起の将校
( 野中四郎大尉、河野寿大尉を除き )、
村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、對馬勝雄、栗原安秀、中橋基明、竹嶌繼夫、
丹生誠忠、坂井直、高橋太郎、中島莞爾、林八郎、田中勝、安田優
外将校五名 ( 池田俊彦、常盤稔、清原康平、鈴木金次郎、麥屋清濟 ) と、
民間人 澁川善助らが憲兵に護送されて入所した。
何しろ突然の入所で、
一時に多数であるので、平常のように正規の入所扱いも完全にできなかった。
そこで取りあえず゛、
一時 一同を事務室広間に雑居させて
氏名点検、
勾留状の対照等を済ませ、
ついでに身体検査、健康診断などを行い、
全員独居拘禁に付したのである。
そのときの一同の様子は、
連日連夜の激烈なる行動と、心身の異常な駆使とで、相当の疲労の色を見せていた。
しかし 心の中では煮え返るような興奮を押さえているのであろう。
無気味な顔つきで黙して語らなかった。
したがって静粛というよりは、むしろ凄惨の状を呈していた。
やがて 人員点検など一通り済み、
入房に先立ち、
村中、磯部の両名は十一月事件に入所して、今回は再度の入所のためか、謝辞など述べていた。
村中は前の出所のとき、
「 親切であると思った病院が案外不親切で、冷淡だと思っていた刑務所が、
 かえって親切であるのに驚いた。 私の病気 ( 腸炎 ) は病院で癒らないのに、刑務所で癒った 」
と 感謝して出たのであったが、
このことをこんな場合に平気で、緊張した一同の前で喋り出した。
要するに 入所については心配ないという意味を、一同の前に暗示したようにも聞こえた。
また 磯部は、十一月事件で入所する半月程前にも、私のところに面会にきたことがある。
別に用件もなく 数分の雑談で退去したが、
刑務所の警戒や取り扱い振りでも探索にきたのかも知れないと想像した。
このように 両人だけはすでに知っていたので、比較的落ちつきを見せていたが、
他はいずれも不機嫌な態度で沈黙を続けていた。
だが異常の沈黙は、かえって警戒に油断はならないと思わせた。
当時はまた外の警備もなく、内の監視も手薄であった。
あの陸相官邸で反乱軍の汚名を冠せられたとき激化したその感情、
憤邁激昂の余炎が再燃したら、
などと懸念したのだが、
想像に反し、平穏に規律が保たれ、
入所を完了したことは、まことに好都合であった。
負傷して入ってきた安藤と安田の傷痍はたいしたことはなかった。
以上の人員外の反乱被告人は、軍法会議の検察審理の進行に従い、逐次入所したのである。

・・当時東京陸軍刑務所長・塚本定吉
二・二六事件、軍獄秘話 から


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