あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

國體明徴と天皇機關説問題

2021年10月30日 19時25分17秒 | 國體明徴と天皇機關説

菊池男爵は昨年 六十五議會に於きましても、私の著書の事を擧げられまして、
斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追払ふが宜い
と云ふ様な激しい言葉を以て非難せられたのであります。
今議會に於きまして再び私の著書を擧げられまして、
明白な反逆思想であると云はれ、謀反人であると云はれました。
又 學匪賊であるとまで斷言されたのであります。
日本臣民に取りまして
反逆者であり謀反人であると
言はれますのは
侮辱此上もない事と存ずるのであります。
又 學問を専攻して居ります者に取つて、
學匪と云はれます事は等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。
私は斯の如き言論が貴族院に於て公の議場に於て公言せられまして、
それが議長から取消の御命令もなく看過せられますことが
果して貴族院の品位の爲め許される事であるかどうかを疑ふ者でありまするが、
それは兎も角と致しまして 貴族院に於て貴族院の此公の議場に於きまして
斯の如き侮辱を加へられました事に付ては
私と致しまして如何に致しても其ままには黙過し難いことと存ずるのであります。
本議場に於きまして斯の如き問題を論議する事は、所柄甚だ不適當であると存じまするし
又 貴重な時間を斯う云ふ事に費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、
私と致しましては不愉快至極の事に存ずるのでありますするが
萬已むを得ざる事と御諒承を願ひたいのであります。
・・・ 美濃部博士  「 一身上の弁明 」 



國體明徴と天皇機關説問題

目次
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國體明徴・天皇機關説問題 1 「 そもそも 」 
國體明徴・天皇機關説問題 2 「 一身上の弁明 」 
・ 國體明徴・天皇機關説問題 3 「 機關説排撃 」 
・ 國體明徴・天皇機關説問題 4 「 排撃運動 一 」 
・ 國體明徴・天皇機關説問題 5 「 排撃運動 ニ 」 
・ 
國體明徴・天皇機關説問題 6 「 岡田内閣の態度と軍部 」 

今泉定助曰く
「 美濃部氏の根本思想は
第一が
獨立なる個人が単位であつて、
その個人が相互に精神的 又は物質的の交渉を有する生活を社会生活なりと爲す個人主義思想、
第二は
人間の意志は本來無制限に自由なもので 法に依つて規律せらるると爲す自由主義思想である。
此の個人主義と自由主義とが一切の誤謬錯覚ごびょうさっかくの根源であり、根本的の誤謬である。
その根本思想が誤つているから、美濃部氏の思想は即ち西洋個人法學の根本思想であるが、
それに従へば人類の團體生活は、獨立自由なる個人の利害の集合分散の態様であり、
國家は株式會社を擴大した様な法人となり 主權者はその機關とならざるを得ない。
これは個人主義法學を以て國家を律し、主權者を律する當然の結果である。」
「 日本思想の基調を爲すものは自我の確立にあらずして
彼我一體、我境不二である。
之れを皇道の絶對観、全體主義と云ふ。
凡てがこの全體主義から出發するのである。
故に人性生活に於ても全體的國家生活が本質的なもので個人生活はその分派たるに過ぎない。
人間は絶對無限の團體生活を營むものであつて、
この團體は中心分派歸一 一體の原理によつて統制せられ、
個人がこの全體に帰入し、同化することが人生生活の真眞の意義であると見る。
これは日本思想である。
この思想を表現したものが大和民族の霊魂観であつて、
萬有同根、彼我一體、我境不二、中心分派歸一 等の大原理がこれより流出するのである。
これは宇宙の最高絶對の眞理であつて、世界無比、万國に卓絶せる大思想である。
而してこの絶對性と普遍妥当性とは自然科學、精神科學上の無數の例示を以て證
「 分裂對立の個人主義、即ち美濃部氏の思想に於ては、
人生は個人生活が本質的なもので、國家國體生活は例外的なる束縛である。
正に日本思想の反對である。
故に法律の解釋に於ても國體的なる制度規定を例外的なものと見る。
これは個人の利害自由を基調とする西洋思想の當然の結果である。
美濃部氏が
『 議会は原則として 天皇の命令に服すものではない 』
と云ふが如き非常識な議論をされたのは、これに依るものである。
然るに日本思想に於ては國體的の制限規定は例示的なものである。
これは人間が國體に歸入し同化することがその本性であると見る日本思想の當然の結果である。
天皇は國家の中心であると共に、全體であらせられる。
『 原則として 天皇の命令に服するものでない 』
といふが如きものは我が日本には一つもあり得ない。
美濃部氏の根本思想そのものが、日本國家と相容れないものである。
全體静養の個人主義的法學を以て日本の國體を論じ、
日本の社會を律するものは、全體主義法學でなければならぬ。」
・・・國體明徴・天皇機關説問題 4 「 排撃運動 一 」 

眞崎教育總監
四月四日
眞崎敎育總監は大義名分を正し、
機關説が國體に反する旨を明にした左の如き訓示を部内に發した。

訓示
うやうやしく惟おもんみるに
神聖極を建て 銃を垂れ 列聖相承け 神國に君臨し給ふ 天祖の神勅炳あきらかとして
日月の如く 萬世一系の天皇 かしこくも現人神として國家統治の主體に存すこと 疑を容れず
是 實に建國の大義にして 我が國體の崇高無比嶄然萬邦に冠絶する所以のもの此に存す。
斯の建國の大義に發して我が軍隊は天皇親ら之を統率し給ふ
是を以て皇軍は大御心を心とし 上下一體脈絡一貫行蔵邁進止一に大命に出づ
是り即ち建軍の本義にして 又 皇軍威武の源泉たり。
さきに  明治天皇聖論を下して軍人の率由すべき大道を示し給ひ
爾來幾度か優渥なる聖勅を奉じて 國體、統帥の本義と共に洵に明徴なり
聖慮宏遠誰か無限の感激なからん。
夫れ聖論を奉體し寤寐の間尚孜ししとして軍人精神を砥礪しれいして已まざるは我が軍隊教育の眞髄なり。
皇軍 外に出でて數々征戰の事に従ひ 内にありて常に平和確保の柱石となり
皇猷こうゆう扶翼の大義に殉じたるもの 正に軍人精神の發露にして
國體の尊嚴建國の本義 眞に不動の信念として
皇國軍人の骨髄に徹したるに由らずんばあらず。
然るに 世上民心の変遷に従ひ 時に國體に關する思念を謬あやまりしものなきにあらず。
会々最近時局の刺戟と皇軍威武の發揚とに依り 國體の精華弥々顯現し來れる時
國家は以て統治の主體となし  天皇を以て國家の機關となすの説 世上論議の的となる
而して此種所説の我が國體の大本に關して吾人の信念と根源において相容れざるものあるは寔に遺憾に堪へざるところなり。
惟ふに皇軍將兵の牢乎たる信念は固より 右の如き異説に累せられて微動だもするものにあらず
然れども囂々ごうごうたる世論 或は我が軍隊教育に萬一の影響を及すなきやを憂ひ
之を黙過するに忍びざるものあり。
世上會々此論議あるの日、事軍隊教育に從ふ者須らく躬ら研鑽修養の功を積み
その信念を弥々堅確ならしむると共に 教育に方りては啓發訓導機宜きぎに敵ひ
國體の本義に關し釐毫りごうの疑念なからしめ
更に進んで此の信念を郷閭民心の同化に及し
依つて以て軍民一體萬世に伝ふべき國體の精華を顕揚するの責に任ぜんことを玆に改めて要望す。
邦家曠古の難局に方り 皇軍の精強を要することいよいよ切實なる秋
本職國軍教育の責に膺あたり 日夜専心 その精到を祈念して已まず
此際敢て所信を明示し 以て相俱に匪躬の節を効さんことを期す。
眞崎甚三郎
・・・ 『 国体明徴 』 天皇機関説に関する眞崎教育総監の訓示
・・・ 国体明徴・天皇機関説問題 6 「 岡田内閣の態度と軍部 」 
・・・ 本庄日記・昭和十年四月九日 「 真崎教育総監の機関説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」 

・ 
國體明徴と天皇機關説 
・ 
國體明徴と相澤中佐事件 
・ 國體明徴とニ ・ニ六事件 

元老重臣等中心思想。
議會中心主義的政黨政治思想。
資本主義、共産主義。
並に亜流として其の中に介在する所謂金融フアツシヨ、國家社會主義、一國社會主義。
官僚 ( 幕僚 ) 中心思想。
等々。
凡そ是等は悉く所謂天皇機關説又はそれ以上の邪道を實践しつつある所のものである。
一般に口を開けば重臣、政黨、財閥、官僚、軍閥と云ひ、その駆逐打倒が維新の主働であると云ふ。
然らば、
「 國體を明徴にする 」 ための
此の國體叛逆勢力を打倒することは同時に維新であらねばならぬ。
「 機關説 」 排撃は、
美濃部博士に次いで一木樞府議長へ、金森法制局長官へ、
其他 同學系の諸氏へ、躍進轉戰すると共に、一切の非國體思想に進撃せねばならぬ。
これが戰ひ一たん収まる時、昭和維新の旭日は東天を染めて居るであらう。
再言する 今日の國體明徴は、維新と同義語である。

・・・核心 ・ 竜落子 『 時局寸観』 


陛下は更に、
理論を究むれば結局、
天皇主權説も天皇機關説も帰する所 同一なるが如きも、

労働条約其他債權問題の如き國際關係の事柄は、
機關説を以て説くを便利とするが如し云々

と仰せらる。
之に對し 軍に於ては
天皇は、現人神と信仰しあり、
之を機關説により 人間並に扱ふが如きは、軍隊教育及統帥上至難なりと奉答す。

亦二十九日午後二時御召あり、
天皇機關説に付陸軍は首相に迫り、其解決を督促するにあらずや
との御下問あり。
陛下は、
憲法第四條 天皇は 「 國家の元首 」 云々は即ち機關説なり、
之が改正をも要求するとせば憲法を改正せざるべからざることとなるべし、
又 伊藤の憲法義解には
「 天皇は 國家に臨御し 」 云々の説明あり
と仰せらる。

・・・本庄日記・昭和十年三月二十九日 「 自分の如きも北朝の血を引けるもの 」


國體明徴・天皇機關説問題 1 「 そもそも 」

2021年10月24日 10時13分03秒 | 國體明徴と天皇機關説

 美濃部達吉
(一)  美濃部博士の態度
・・・帝國憲法は其の起案綱領中に
一、聖上親ラ大臣以下文武之重臣ヲ採擇進退シ玉ヲ事付
内閣宰臣タル者ハ議員ノ内外ニ拘ラザルコト
内閣ノ組織ハ議院ノ左右スル所ニ任ゼラルベシ
とあり、
又 綱領に副へられた意見書にも
政黨政治、議院内閣制の國體に副はざる所以が強調されている通り、
起草当時既に國體上から政黨内閣を排斥していた事は極めて明瞭であつて、
「 憲法義解 にも
彼の或國に於て内閣を以て團結の一體となし
大臣は各個の資格を以て參政するに非ざる者とし
連帯責任の一點に偏傾するが如きは
其の弊 或は党援聯絡の力遂に以て 天皇の大權を左右するに至らむとす
此れ我が憲法の取る所に非ざるなり。
と 述べている。
往年憲法論爭の華かなりし頃、
恰も黨政治樹立を目指す運動の旺盛期であり、
資本主義の躍進的發展による自由主義思想の全面的横溢期であったが、
美濃部博士は當時の思潮に乗り、
自由主義的法律論の上に立つて自己の 所謂 「 天皇機關説 」 を唱導し、
自らの學説を通説たらしめると共に
民主主義的なその學説によつて政黨政治家掩護えんごの重要役割を演じ
彼等に學問的根拠を与へた爲、制定當時の憲法の精神は著しく歪曲された。
美濃部博士は自己の學説が支配的となつた後は、
恰も政黨政治家の御用学者たるの観を呈し、
ロンドン條約を繞めぐる統帥權干犯問題に國論沸騰した當時に於ても、
統帥權の獨立といふことは、
日本の憲法の明文の上には、何等の直接の根拠の無いことで、

單に憲法の規定からいへば、
第十一條に定められて居る陸海軍統帥の大權も、
第十二條に定められて居る陸海軍編制の大權も同じやうに、
天皇の大權として規定せられて居り、
しかして第五十五條によれば 天皇の一切の大權について、
國務大臣が輔弼の責に任ずべきものとせられて居るのであるから、
これだけの規定を見ると、
統帥大權も編制大權も等しく國務大臣の責任に属するものと
解釋すべきやうである。
しかし憲法の正しい解釋は・・・( 中略 )
・・・統帥大權は一般の國務については國務大臣が輔弼の責に任ずるに反して、
統帥大權については、國務大臣は其の責に任ぜず、
いはゆる 「 帷幄の大令 」 に属すものとされて居るのであつて、

憲法第五十五條の規定は統帥大權には適用せられないのである。
・・・( 中略 ) ・・・
帷幄上奏と編制大權との關係は如何が問題となるのであるが、
帷幄上奏は 大元帥陛下に對する上奏であり、
これが御裁可を得たとしても、それは軍の意思が決せられたに止り、
國家の意思が決せられたのではない。
それは軍事の専門の見地から見た軍自身の國防計劃であつて、
これを陸軍大臣又は海軍大臣に移牒するのは、
唯國家に対する軍の希望を表示するものに外ならぬ。
これを國家の意思として如何なる限度にまで採用すべきかは
なほ内外 外交財政經濟その他政治上の観察點から考慮せられねばならぬもので、
しかしこれを考察することは内閣の職責に属する。
・・・( 中略 )・・・
たとひそれが帷幄上奏によつて御裁可を得たものであるとしても
法律上からいへば
それはただ軍の希望であり 設計であつて
國家に対して重要なる參考案としての価値を有するだけである。
・・・( 中略 )・・・
内閣はこれと異なつた上奏をなし、勅裁を仰ぐことはもとよりなし得る所でなければならぬ。
( 「 東京朝日新聞 」 昭和五年五月二日乃至五月五日附朝刊所載 )
と 論じて、
時の浜口首相が海軍軍令部の意見を無視し、
内閣に於て妥協案支持を決定して回訓の電報を發したと稱せられ、
非難の的となつた政府の処置を、得意な憲法理論を以て法律上妥當な処置であると庇護し、
大に政府の弁護に努めた。
又 政黨政治に対して、國民が漸く疑惑の眼を以て眺めるに至つて後も、
『 議會政治の檢討 』 『 現代憲政評論 』 等の著述に於て、
政黨政治は唯 天皇統治の下に於て、大權輔弼の任に當る内閣の組織につき、
議會の多數を制する政當に重きを置くことを要望する趣旨に外ならず、
而も近代的の民主政治の思想は、能く我が國體と調和し得べきは勿論、
實に我が憲法に於ても主義としている所であると主張して、
政黨政治擁護の論議を爲している。
昭和九年七月の齋藤内閣を崩壊せしめた所謂帝人事件を繞る人権蹂躙問題に關しても、
美濃部博士は翌十年一月二十三日の貴族院本會議に於てその得意とする形式論法を以て、
當局攻撃の矢を放ち、
第一 檢事は違法に職權を濫用して被釋者を逮捕監禁したることなきや、
第二 檢事は被告人に対し不法の訊問を爲し
殊に被釋者に對し暴行凌虐りょうぎゃくを行ひたることなきやを詰問して
院内の自由主義分子の拍手喝采を浴びた。
併しながら斯る博士の態度は檢察の實情を無視し、徒に財閥官僚政黨政治家を擁護したるものとして、
一部有識者を初め日本主義者の反感を買ふに至つたものの如くであつた。
・・・美濃部學説が國體に關する國民的信念に背反する自由主義的民主主義的學説である限り、
國民的自覺が喚起された暁に於ては
早晩再び非難排撃の的となるべきは必然の運命であつたとも見られるのであるが、
博士自身が最近に於て所謂現状維持派の爲に盛んに法律論を以て思想的擁護を試みたことは、
自由主義思想撃攘の一大思想變革運動の序曲として血祭に擧げられるに至つた一原因と思われる。

(ニ)  國體擁護聯合會の活動
・・・( 中略 ) ・・・
 蓑田胸喜
國體擁護聯合會は蓑田胸喜の起草に係る左記
「 美濃部達吉博士、末弘嚴太郎博士の國憲紊乱思想に就いて 」
と題する長文の印刷物を作成して各方面に配布し
輿論の喚起に力め 積極的に美濃部博士排撃の運動を開始した。
右の文書は美濃部、末弘両博士の著述に對する攻撃文であつて、
美濃部博士に就いては其の著 『 憲法撮要 』 等に於ける國務大臣の責任、樞密院制度、
帝國議會の地位、司法權の獨立、統帥權の獨立等に關する記述を引用し
一讀して直に其の反國體的なることを解し得るが如く極めて巧妙に記述されている。
此の文書は要路の大官は素より陸海現役軍人、在郷軍人、學者、教育家、神道家、
日本主義愛國團體等各方面に配布されたのであつて、
其の影響効果は蓑田胸喜自身も豫想外とする程 大なるものがあつた。
左記
美濃部達吉博士、末弘嚴太郎博士等の國憲紊亂思想に就いて
天皇輔弼の各國務大臣に問ふ

大日本帝國憲法發布の上論に曰く
『 國家統治ノ大權ハ朕カ之カ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ 』
『 朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ 』
と。
陸海軍軍人に下し給へる勅諭に曰く
『 夫 兵馬ノ大權ハ朕カ統フル所ナレバ 其 司々ヲコソ臣下ニハ任スナレ
夫 大綱ハ朕親之ヲ攬リ肯テ臣下ニ委ヌヘキモノニアラス
子子孫孫ニ至ルマデ篤ク斯旨ヲ伝へ 天子ハ文武ノ大權を掌握スルノ義ヲ存シテ
再中世以降ノ如キ失體ナカラム事ヲ望ムナリ 』
と。
かかる畏き 『 天皇親政 』 の聖詔の前に
美濃部博士は
『 天皇は親ら責に任じたまふものではないから 國務大臣の進言に基かずしては、
 單独に大權を行はせらるることは、憲法上不可能である 』
( 有斐閣發行、『 逐条憲法精義 』 512頁 )
『 國務大臣ニ特別ナル責任ハ唯議会ニ對スル政治上ノ責任アルノミ 』
( 同上、 『 憲法撮要 』 301頁 )
といふ。
天皇 『 輔弼 』 の國務大臣の責任とは果してかくの如きものなりや?

樞密院議長以下顧問官に問ふ
美濃部博士は云ふ、
『 要するに、わが憲法に於けるが如き樞密院制度が世界の何れの國に於ても
その類を見ないものであることは、此の如き制度の必要ならざることを證明するもので、
わが憲政の將來の發達は恐らくはその廢止に嚮ふべきものであらう 』
( 岩波書店発行、『 現代憲政評論 』 128頁 )
と。
かくの如き言論の内容を妥當なりと思考せらるるや?
殊にこの論理をそのまま 
『 世界の何れの國に於てもその類を見ない 』
現人神天皇統治せさせ給ふ日本國體に適用せるものが
美濃部博士の本狀に一端を指摘せる大權干犯國憲紊乱なることを銘記せられよ !

貴衆兩院議長以下議員に問ふ
美濃部博士はいふ、 
『 帝國議會は國民の代表として國の統治に參与するもので、
天皇の機關として天皇からその權能を与へられて居るものではなく、
随って原則としては議會は天皇に對して完全なる獨立の地位を有し、
天皇の命令に服するものではない。』
( 有斐閣発行、『 逐条憲法精義 』 179頁 )
『 而も議會の主たる勢力は衆議院にあり 』
( 東京朝日新聞昭和十年一月三日所載、現代政局の展望 )
と。
かくの如きが 天皇の 『 立法權 』 に 『 協賛 』 し奉る
帝國議会の憲法上の地位に對する正しき解釋なりや ? 

司法裁判所檢事局に問ふ
美濃部博士はいふ
『 裁判所は其の權限を行ふに就て 全く獨立であつて、勅命にも服しない者であるから
特に 「 天皇ノ名ニ於テ 」 と曰ひ云々 』
( 有斐閣発行、『 逐条憲法精義 』 571頁 )
と。
司法權を行使する裁判所の權能なるものは果して斯くの如きものなりや ?

猶 美濃部博士は 『 治安維持法は世にも希なる惡法で 』 『 憲法の精神に戻ることの甚しいもの云々 』
( 岩波書店発行、『 現代憲政評論 』 208頁 210頁 )
といひ
末弘博士は
『 法律は如何にそれが法治主義的に公平に適用されようとも、
被支配階級にとつては永遠に常に不正義であらねばならぬ 』
ものにして 『 法律 』 と 『 暴力 』 との關係は 『 力と力の闘爭であつて正と不正との闘爭ではない 』
( 日本評論社発行、『 
法窓漫筆 』、103頁 106頁 )
といひ、
『 小作人が何等かの手段により全く無償で土地の所有權を取得出來るならば、
彼等をしてこれを取得せしめんとする主張運動は正しい 』
( 改造社発行、『 法窓閑話 』 154--155頁 )
『 小作人が唯一最後の武器として暴力に赴かむとするは蓋し自然の趨勢すうせいなり 』
( 日本評論社発行、『 法窓雑話 』、98頁 )
といへり。
かくの如き言論と其著者等を放置しつつあることは
『 司法權威信 』 の根本的破壊にあらずや ?

陸海軍現役在郷軍人に問ふ
美濃部博士はいふ
『 統帥大權の獨立といふことは、日本の憲法の明文上には何等直接の根拠が無い 』
『 立憲政治の一般的条理から言へば 統帥権の獨立といふ様な原則は全く認むべきものではない 』
( 日本評論社発行、『 議会政治の検討 』 106頁127頁 )
と。
末弘博士はいふ、
『 軍隊は要するに・・・・一の厄介物、謂はば 「 已むを得ざる惡 」 の 一に外ならない 』
( 改造社発行、『 法窓閑話 』 399頁 )
と。
かくの如きは陸海軍軍人に給へる勅諭に
『 其大綱は朕親ら之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす 』
と詔らせ給ひたる統帥大權の憲法上の規定第十一條十二條及軍令を原則的に無視否認し
『 天地の公道人倫の常經 』 詔らせ給ひたると皇國軍隊精神に對する無比の冒瀆として
之を放任するは軍紀の紊亂にあらずや ?

學者教育家教化運動者に問ふ
美濃部博士はいふ
『 いはゆる思想善導策の如きは、何等の効果をも期待し得ないもので、
もしそのいはゆる思想善導が革命思想を絶滅しようとするにあるならば、
それは総ての教育を禁止して國民をして、全く無學文盲ならしむる外に全く道は無い 』
( 岩波書店発行、『 現代憲政評論 』 431頁 )
かくの如き言論を放置することはそれ自身學術と教育との權威を蹂躙するものにあらずや ?

神職神道家に問ふ
美濃部博士はいふ
『 宗教的神主國家の思想を注入して、これをもって國民の思想を善導し得たりとなすが如きは、
全然時代の要求に反するもので、それは却って徒らにその禍を大ならしむるに過ぎぬ 』
( 岩波書店発行、『 現代憲政評論 』 433頁 )
かくの如き言論を放置する事はそれ自身皇國國體の本源惟神道の冒瀆にあらずや ?

岡田首相、松田文部大臣、小原司法大臣、後藤内務大臣、林陸軍大臣、大角海軍大臣、
外 全閣僚に問ふ
東京帝国大學名誉教授、國家高等試験委員、貴族院勅選議員たる美濃部博士、
又 東京帝國大學法學部長たる末弘博士の思想に就いては指摘したが
同じく東京帝國大学教授、國家高等試験委員たる宮沢俊義氏は日本臣民として
『 終局的民主制 = 臣民主權主義 』 を信奉宣伝し ( 外交時報、昭和九年十月十五日号参照 ) 
横田喜三郎氏は 『 國際法上位説 』 を唱えて
『 國家固有の統治權、獨立權、自衛權 』 を否認しつつあり。
( 有斐閣発行、『 国際法 』 上巻 46-50頁 )
此等幾多の國憲國法紊亂思想家等を
輦轂下れんこくかの帝國大学法学部教授及國家高等試験委員の地位に放置して
その兇逆思想文献を官許公認しつつあるといふことは
國務大臣竝に各省大臣としての 『 輔弼 』 『 監督 』 の責に戻る所なきや ?

元老重臣に問ふ
前記の如き大権干犯國憲紊亂思想家たる美濃部博士、末弘博士等を
現地位に放置することによつて人臣至重の輔弼の責任を果たし得らるるや ?

全國日本主義愛國團體同志に訴ふ
本聯合会加盟團體は美濃部博士、末弘博士等は日本國體に叛逆し
天皇の統治 = 立法・行法・司法・統帥大權を無視否認せる
不忠兇逆 『 国憲紊亂 』 思想の抱懐宣伝者として、
末弘博士は先に告発提起を受け 時効関係にて不起訴となりたる実質上の刑余者なるが、
斯るものらが恬然てんぜんとして帝國大学教授の國家的重大地位にあり
何等の処置をも受けざる所にこそ現日本の萬惡の禍源ありと信じ、
屢次共産党事件は勿論、華府倫敦條約締結、満洲事變、五 ・一五事件激發の
思想的根本的責任者たる彼等に對する國法的社會的処置を訴願し
其の急速實現を期するものなり。
希くは本運動の對外國威宣揚不可避の先決予件たる國内反國體拝外奴隷思想撃滅--國際聯盟脱退、
華府條約廢棄の思想的徹底の内政改革に對して持つ総合的重大性を確認せられ、
この目的貫徹の爲めに擧つて參加強力せられんことを ?
昭和十年一月
東京市芝区田村町二丁目内田ビル
國體擁護聯合會

更に二月十五日 入江種矩 外十四名の代表者は
小石川区竹早町一二四番地美濃部邸に同博士を、
帝大法學部長室に末弘博士を夫々訪問して
一切の公職を辭し 恐懼謹慎すべき旨の決議文を手交し、
次いで十八日 代表者入江種矩、増田一税、薩摩雄次 三名は
文部大臣官邸、内務大臣私邸に松田文相、後藤内相、を訪問して
兩博士の著書の發禁處分、竝兩博士の罷免を要請する決議文を手交した。

一方
当時革新勢力が中心と頼んでいた平沼男の直系と目される
衆議院議員陸軍少将江藤源九郎は 國體擁護聯合會と呼應して
二月二十七日 衆議院予算委員第二分科會に於て
美濃部博士の 『 逐条憲法精義 』 の章句を引用し
「 原則として 議會は天皇に對し完全なる獨立の地位を有し 天皇の命令に服するものではない 」
 ( 同書 179頁 )
といふ博士の解釋は
天皇の大權を干犯する妄説であつて、
出版法第二十六條の国權紊亂の罪に該当するが故に
速に發禁處分に附すべきであるとして、後藤内相の所見を訊したが、
内相は憲法学上の論議の是非は遽にわかに判斷し得ずとて名答を避けた。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動 より
第四章  国体明徴運動の第一期  第一節 所謂「 天皇機関説 」 問題の発生

現代史資料4  国家主義運動1  から

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國體明徴・天皇機關説問題 2 「 一身上の弁明 」

2021年10月23日 19時55分07秒 | 國體明徴と天皇機關説

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貴族院本會議に於て 「 一身上の弁明 」
昭和十年二月二十五日


 菊池武夫
(三)  男爵菊池武夫等の帝國議會に於ける質問
越えて二月十八日
貴族院本會議の國務大臣の演説に對する質疑に於て
菊池議員は社會の木鐸を以て任ずべき帝國大學の教授の著述にして、
皇國の憲法の解釋に關して金甌無欠の國體を破壊するものありとして、
末弘厳太郎教授の著書及び美濃部博士の著書 『 憲法撮要 』 『 逐條憲法精義 』 等を列擧し、
美濃部教授は一木喜徳郎博士の獨逸憲法學説の亜流を汲み、
其の天皇機關説は國體に対する緩慢なる謀叛明なる反逆であつて、
同博士こそは獨逸直輸入の學問を売る学匪なりと痛罵し、
美濃部博士竝其の著書に對する政府の處置如何を質問し、
井上清純、三室戸敬光 兩議院も同様 政府の處信を質した。
之に対し岡田首相は
美濃部博士の著書は、全體を通読しますと國體の観念に於て誤ないと信じて居ります。
唯 用語に穏当ならざる處があるやうであります。
國體の観念に於ては我々と間違つて居ないと、斯う信じて居ります。
或は
私は先程から申上げて居る通り、是は用語が穏当ではありませぬ、
私は天皇機關説を支持して居る者ではありませぬけれども、
學説に對しては、是は私共が何とか申上げるよりは、
学者に委ねるより外仕方がないと思ひます。
と 述べ、
松田文相も亦、
天皇機關説には反對であるが天皇が統治權の主體なりや、
國家の機關なりやに附いては學者間に議論の存するところであるから
學者の論議に委し置くを相當とする旨 答弁し、
本問題に對する政府の態度は極めて消極的回避的なるものが見られた。
美濃部達吉
(四)  美濃部博士の所謂 「 一身上の弁明 」
併し當初 菊池議員の爲した質疑を見るに、
同議員の態度は極めて慎重であり、寧ろ積極性に欠けていたかの観さえ見へた。
即ち色々の學者の色々の著書には
國民思想上香しからぬものがある故政府は宜しく之が取締を爲せとの趣旨を述べたに過ぎなかつたが、
之に對し松田文相が著書と著書を指摘しなければ答弁出來ぬと逆襲した爲、
菊池議員は美濃部、末弘 兩博士の名を口にした程であつて、
若し文相がその時適當な政治的答弁を爲して置けば、
再質問もなく問題は起こらなかつたであらうとの説を爲すものさへあつた程で、
兎に角 問題は未だ急迫したものではなかつたが、
其の後 美濃部博士の態度に火に油を注ぐに等しいものがあつた為爲、
問題は急速度を以て展開されて行つた。
即ち美濃部博士は二月二十五日の貴族院本会議に於て約一時間に亙り
「 一身上の弁明 」 に籍口して
所謂機關説は我國體に背反するが如き不敬凶逆的思想に非ざる所以を釋明し、
自説の正當性を主張した。
其の観念的形式的法律論を以てする精緻せいちな論法には
流石に議場を魅了するものがあつたらしく、
博士は拍手に送られて降壇したのであつたが、
美濃部博士が貴族院に於て而も玉座の御前に於て機關説を論じた事は
却つて日本主義者を初め 國體に目醒めた國民を刺戟し憤起せしめる結果となり、
問題を一層重大化せしめるに至つた。
當時の議事速記録によれば 所謂 「 一身上の弁明 」 は左記の通りであつた。

去る二月十九日の本會議に於きまして、
菊池男爵其他の方から私の著書のことに附きまして御發言がありましたに附き、
玆に一言 一身上の弁明を試むるの已むを得ざるに至りました事は、
私の深く遺憾とする所であります。
菊池男爵は昨年 六十五議會に於きましても、私の著書の事を擧げられまして、
斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追拂ふが宜い
と云ふ様な激しい言葉を以て非難せられたのであります。
今議會に於きまして再び私の著書を擧げられまして、
明白な反逆思想であると云はれ、謀反人であると云はれました。
又 学匪賊であるとまで斷言されたのであります。
日本臣民に取りまして
反逆者であり謀反人であると言はれますのは侮辱此上もない事と存ずるのであります。
又 學問を専攻して居ります者に取つて、
学匪と云はれます事は等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。
私は斯の如き言論が貴族院に於て公の議場に於て公言せられまして、
それが議長から取消の御命令もなく看過せられますことが
果して貴族院の品位の爲め許される事であるかどうかを疑ふ者でありまするが、
それは兎も角と致しまして 貴族院に於て貴族院の此公の議場に於きまして
斯の如き侮辱を加へられました事に付ては
私と致しまして如何に致しても其ままには黙過し難いことと存ずるのであります。
本議場に於きまして斯の如き問題を論議する事は、所柄甚だ不適当であると存じまするし
又 貴重な時間を斯う云ふ事に費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、
私と致しましては不愉快至極の事に存ずるのでありますするが
萬已むを得ざる事と御諒承を願ひたいのであります。
凡そ如何なる學問に致しましても、其の學問を専攻して居りまする者の學説を批判し
其の當否を論じまするには其批判者自身が其學問に附て相當の造詣を持つて居り、
相當の批判能力を備へて居なければならぬと存ずるのであります。
若し例へば私の如き法律學を専攻して居りまする者が 軍學に喙くちばしを容れまして
軍学者の専門の著述を批評すると云ふ様なことがあると致しますならばそれは、
唯物笑に終るであらうと存ずるのでありますが
菊池男爵の私の著に附て論ぜられて居りまする所を速記録に依つて拝見いたしますると
同男爵が果して私の著書を御通讀になつたであるか
仮りに御讀みになつたと致しましても、
それを御理解なされて居るのであるかと云ふ事を深く疑ふものであります。
恐らくは或他の人から斷片的に私の著書の中の或片言隻句を示されて、
其前後の聯絡も顧みず、
唯其或片言隻句だけを見て、
それをあらぬ意味に誤解されて
輕々と是は怪しからぬと感ぜられたのではなからうかと想像されるのであります。
若眞に私の著書の全體を精讀せられ 又 當にそれを理解せられて居りますならば
斯の如き批判を加へらるべき理由は斷じてないものと確信いたすのであります。
菊池男爵は私の著書を以て我國體を否認し君子主権を否定するものの如くに論ぜられて居りますが
それこそ實に同君が私の著書を讀まれて居りませぬか
又は讀んでもそれを理解せられて居られない 明白な證拠であります。
我が憲法上、國家統治の大權が 天皇に属すると云ふ事は
天下萬民一人として之を疑ふべき者のあるべき筈はないのであります。
憲法の上論には
「 國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル處ナリ 」
と明言して居ります。
又 憲法第一條には
「 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス 」
とあります。
更に第四條には
「 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條記ニ依リ之ヲ行フ 」
とあるのでありまして、
日月の如く明白であります。
若し之をして否定する者がありますならば、
それには反逆思想がある云はれても餘儀ない事でありませうが、
私の著書の如何な場所に於きましても之を否定して居る所は決してないばかりか、
却てそれが日本憲法の最も重要な基本原則であることを繰返し説明して居るのであります。
例へば菊池男爵の擧げられました憲法精義十五頁から十六頁の所を御覧になりますれば、
日本の憲法の基本主義と題しまして其最も重要な基本主義は
日本の國體を基礎とした君主主權主義である。
之は西洋の文明から伝はつた立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である。
即ち君主主權主義に加ふるに立憲主義を以てしたのであると云ふ事を述べて居るのであります。
又それは萬世動かすべからざるもので日本開闢かいびゃく以來曾て變動のない、
又 將來永遠に亙つて動かすべからざるものであると云ふ事を言明して居るのであります。
他の著述でありまする憲法撮要にも同じ事を申して居るのであります。
菊池男爵は御擧げになりませんでありましたが
私の憲法に関する著述は其外にも明治三十九年には既に日本國法學を著して居りまするし、
大正十年には日本憲法第一巻を出版して居ります。
更に最近昭和九年には日本憲法の基本主義と題するものを出版いたして居りまするが、
是等のものを御覧になりましても
君主主權主義が日本の憲法の最も貴重な最も根本的な原則であると云ふ事は
何れに於きましても詳細に説明いたして居るのであります。
唯それに於きまして憲法上の法理論として問題になりまする点は、
凡そ二點を擧げる事が出來るのであります。
第一點は、
此天皇の統治の大權は、
天皇の御一身に属する權利として観念せらるべきものであるが、
又は 天皇が國の元首たる地位に於て總攬し給ふ權能であるかと云ふ問題であります。
一言で申しますならば、
天皇の統治の大權は法律上の観念に於て
權利と見るべきであるか
權能と見るべきであるか
と云ふ事に歸するのであります。
第二點は、
天皇の大權は
絶對に無制限な万能の權力であるか、
又は 憲法の條章に依つて行はせられまする制限ある權能であるか、
此の二點であります。
私の著書に於て述べて居りまする見解は、
第一には、天皇の統治の大權は法律上の観念としては權利と見るべきものではなくて、
權能であるとなすものでありまするし、
又 第二に萬能無制限の權力ではなく、
憲法の條紀によつて行はせられる權能であるとなすものであります、
此の二つの点が菊池男爵其他の方の御疑を解く事に努めたいと思ふのであります。
第一に
天皇の國家統治の大權は
法律上の観念として
天皇の御一身に属する權利と見るべきや 否や
と云ふ問題でありますが、
法律学の初歩を學んだ者の熟知する處でありますが
法律學に於て權利と申しまするのは利益と云ふ事を要素とする観念でありまして
自己の利益の爲に・・・・自己の目的の爲に存する法律上の力でなければ
權利と云ふ観念には該當しないのであります。
或人が或權利を持つと云ふ事は其力を其人自身の利益の爲に、
言換れば其人自身の目的の爲に認められて居ると云ふ事を意味するのであります。
即ち權利主體と云へば利益の主體目的の主體に外ならぬのであります。
從つて國家統治の大權が 天皇の御一身の權利であると解しますならば、
統治權が 天皇の御一身の利益の爲め、御一身の目的の爲め
に 存する力であるとするに歸するのであります。
さう云ふ見解が果して我が尊貴なる國體に適するでありませうか。
我が古來の歴史に於くまして如何なる時代に於ても天皇が御一身一家の爲に、
御一家の利益の爲に統治を行はせられるものであると云ふ様な
思想の現はれである事は出來ませぬ。
天皇は我國開闢以來天の下しろしめす大君と仰がれ給ふのでありますが、
天の下しろしめすのは決して御一身の爲ではなく、
全國家の爲であると云ふ事は古來常に意識せられて居た事でありまするし、
歴代の天皇の大詔の中にも、其の事を明示されて居るものが少なくないのであります。
日本書紀に見えて居りまする崇神天皇の詔には
「 惟フニ我ガ皇祖諸々ノ天皇ノ宸極ニ光臨シ給ヒシハ豈一身ノ爲ナラズヤ
蓋シ人神ヲ司牧シテ天下ヲ經倫スル所以ナリ 」
とありまするし、
仁徳天皇の詔には
「 其レ天ノ君ヲ立ツルハ是レ百姓ノ爲ナリ 然ラハ則チ君ハ百姓ヲ以テ本トス 」
とあります。
西洋の古い思想には國王が國を支配する事を以て恰も國王の一家の財産の如くに考へて、
一個人が自分の權利として財産を所有して居りまする如くに、
國王は自分の一家の財産として國土國民を領有し 支配して、
之を子孫に伝へるものであるとして居る時代があるのであります。
普通に斯くの如き思想を家産國思想、「 パトリモニアル、セオリイ 」 家産説、
家の財産であります家産説と申して居ります。
國家を以て國王の一身一家に属する權利であると云ふ事に歸するのであります。
斯の如き西洋中世の思想は、日本古來の歴史に於て曾て現はれなかつた思想でありまして、
固より我國體の容認する所ではないのであります。
伊藤公の憲法義解の第一條の註には
「 統治は體位に居り大權を統へて國土及臣民を治むるなり 」
・・・中略・・・
「 蓋 祖宗 其の天職を重んじ、
君主の徳は八州臣民を統治するに在つて
一人一家に享奉するの私事にあらざる事を示されたり、
是れ即ち憲法の依て以て基礎をなす所以なり 」
とありますのも、
是も同じ趣旨を示して居るのでありまして
統治が決して 天皇の御一身の爲に存する力ではなく、
從て法律上の観念と致しまして
天皇の御一身上の私利として見るべきものではない事を示して居るのであります。
古事記には天照大神が出雲の大國主命に問はせられました言葉といたしまして
「 汝カ ウシハケル葦原ノ中ツ國ハ我カ御子ノシラサム國 」
云々とありまして 「 ウシハク 」 と云ふ言葉と書き別けしてあります。
或國学者の説に依りますと、
「 ウシハク 」 と云ふのは私領と云ふ意味で 「 シラス 」 は統治の意味で
即ち天下の爲に土地人民を統べ治める事を意味すると云ふ事を唱へて居る人があります。
此説が正しいかどうか私は能く承知しないのでありますが
若し仮りにそれが正當であると致しまするならば、
天皇の御一身の權利として統治權を保有し給ふものと解しまするのは即ち
天皇は國を 「 シラシ 」 給ふのではなくして 國を 「 ウシハク 」 ものにするに歸するのであります。
それが我が國體に適する所以でない事は明白であらうと思ひます。
統治權は、天皇の御一身の爲に存する力であつて
從つて 天皇の御一身に属する私の權利と見るべきものではないと致しますならば、
其權利の主體は法律上何であると見るべきでありませうか、
前にも申しまする通り權利の主體は即ち目的の主體でありますから、
統治の權利主體と申せば即ち統治の目的の主體と云ふ事に外ならぬのであります。
而して 天皇が天の下しろしまするのは、天下國家の爲であり、
其の目的に歸属する處は永遠恆久の團體たる國家であると観念いたしまして
天皇は國の元首として、言換えれば、
國の最高機關として此國家の一切の權利を總攬し給ひ、
國家の一切の活動は立法も司法も總て 天皇に其最高の源を發するものと観念するのであります。
所謂機關説と申しまするのは、
國家それ自身で一つの生命あり、
それ自身に目的を有する恆久的の團體、
即ち 法律学上の言葉を以てせば 一つの法人と観念いたしまして
天皇は此法人たる國家の元首たる地位に存しまし 國家を代表して國家の一切の權利を總攬し給ひ
天皇が憲法に從つて行はせられまする行爲が、
即ち國家の行爲たる効力を生ずると云ふことを傳ひ表はすものであります。
國家を法人と見ると云ふことは、勿論憲法の明文には掲げてないのでありまするが、
是は憲法が法律學の教科書ではないと云ふことから生ずる當然の事柄でありますが
併し憲法の條文の中には、國家を法人と見なければ説明することの出來ない規定
は 少なからず見えて居るのであります。
憲法は其の表題に於て既に大日本帝國憲法とありまして、
即ち國家の憲法であることを明示して居りますのみならず、
第五十五條及び第五十六條には 「 國務 」 といふ言葉が用いられて居りまして、
統治の總ての作用は國家の事務であると云ふことを示して居ります。
第六十二條第三項には 「 國債 」 及び 「 國庫 」 とありまするし、
第六十四條及び第七十二條には 「 國家ノ歳出歳入 」 といふ言葉が見えて居ります。
又 第六十六條には、國庫より皇室經費を支出すべき義務のあることを認めて居ります。
總て此等の字句は國家自身が公債を起し、歳出歳入を爲し、自己の財産を有し、
皇室經費を支出する主體であることを明示して居るものであります。
即ち國家それ自身が法人であると解しなければ、到底説明し得ない處であります。
其の他國税と云ひ、國有財産といひ、國際條約といふやうな言葉は、
法律上普く公認せられて居りますが、
それは國家それ自身の租税を課し、財産を有し、
條約を結ぶものであることを示しているものてあることは申す迄もないのであります。
即ち國家それ自身が一つの法人であり、權利主體であることが、
我が憲法及び法律の公認するところであると云はねばならないのであります。
併し法人と申しますると一つの團體であり、無形人でありますから、
其の權利を行ひまする爲には、必らず法人を代表するものがあり、
其の者の行爲が法律上法人の行爲たる効力を有する者でなければならぬのでありまして、
斯くの如き法人を代表して法人の權利を行ふものを、法律学上の観念として法人の機關と申すのであります。
率然として 天皇が國家の機關たる地位に在はしますといふやうなことを申しますると、
法律学上の知識のない者は、或は不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、
其の意味するところは 天皇の御一身一家の權利として、統治權を保有し給ふのではなく、
それは國家の公事であり 天皇は御一身を以て國家を體現し給ひ、
國家の總ての活動は 天皇に其の最高の源を發し 天皇の行爲が 天皇の御一身上の私の行爲としてではなく、
國家の行爲として、効力を生ずることを言ひ表はすものであります。
例へば 憲法は明治天皇の欽定に係るものでありますが、
明治天皇御一個御一人の著作物ではなく 其の名稱に依つても示されている通り
大日本帝國の憲法であり、國家の憲法として永久に効力を有するものであります。
條約は憲法第十三條に名言して居ります通り、天皇の締結し給ふところでありまするが、
併し それは國際条約即ち國家と國家との條約として効力を有するものであります。
若し所謂機關説を否定いたしまして、統治權は 天皇御一身に属する權利であるとしますならば、
その統治權に基いて賦課せられまする租税は國税ではなく、
天皇の御一身に属する収入とならなければなりませぬし、
天皇の締結し給ふ條約は國際條約ではなくして、
天皇御一身としての契約とならねばならぬのであります。
その外 國債といひ、國有財産といひ、國家の歳出歳入といひ、
若し統治權が國家に属する權利であることを否定しまするならば、
如何にしてこれを説明することが出來るのでありませうか。
勿論統治權が國家に属する權利であると申しましても
それは決して天皇が統治の大權を有せられることを否定する趣旨ではないことは申す迄もありません。
國家の一切の統治權は 天皇の總攬し給ふことは憲法の名言しているところであります。
私の主張しますところは只 天皇の大權は天皇の御一身に属する私の權利ではなく、
天皇が國家の元首として行はせらるる權能であり、
國家の統治權を活動せしむる力、
即ち統治の總べての權能が 天皇に最高の源を發するものであるといふに在るのであります。
それが我が國體に反するものではないことは勿論、
最も良く我が國體に適する所以であらうと固く信じて疑はないのであります。
第二點に我が憲法上、天皇の統治の大權は萬能無制限の權力であるや否や、
この点に就きましても我が國體を論じまするものは、
動もすれば 絶對無制限なる萬能の權力が 天皇に属していることが我が國體に存する處なる
と云ふものがあるのでありますが、
私は之を以て我が國體の認識に於て大いなる誤りであると信じているものであります。
君主が万萬能の權力を有するといふやうなのは、これは純然たる西洋の思想である。
「 ローマ 」 法や十七、八世紀のフランスなどの思想でありまして、
我が歴史史上に於きましては如何なる時代に於ても、
天皇の無制限なる萬能の權力を以て臣民に命令し給ふといふやうなことは曾て無かつたことであります。
天の下しろしめすといふことは、
決して無限の權力を行はせられるといふ意味ではありませぬ。
憲法の上論の中には
「 朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ 」
云々と仰せられて居ります。
即ち歴代天皇の臣民に對する関係を 「 恵撫慈養  」 と云ふ言葉を以て御示しになつて居るのであります。
況や 憲法第四條には
「 天皇ハ國ノ
元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ 」
と明示されて居ります。
又 憲法の上論の中にも、
「 朕及朕カ子孫ハ將來此ノ憲法ノ條章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ 」  あやまらざるべし
と仰せられて居りまして
天皇の統治の大權が憲法の規定に従つて行はせられなければならないものであると云ふ事は明々白々
疑を容るべき餘地もないのであります。
天皇の帝國議會に對する關係に於きましても亦憲法の條規に從つて行はせらるべきことは
申す迄もありませぬ。
菊池男爵は恰も私の著書の中に、
議會が全然 天皇の命令に服從しないものであると述べて居るかの如く
に論ぜられまして、
若しさうとすれば解散の命があつても、それに拘らず會議を開くことが出來ることになる
と云ふやうな議論をせられて居るのでありまするが、
それも同君が曾つて私の著書を通讀せられないか、又は讀んでも之を理解せられない明白な證拠であります。
議會が 天皇の大命に依つて召集せられ、又 開会、閉会、停会 及 衆議院の解散を命ぜられることは、
憲法第七條に明に規定して居る所でありまして、
又 私の書物の中にも縷々説明して居る所であります。
私の申して居りまするのは唯是等憲法 又は法律に定つて居りまする事柄を除いて、
それ以外に於て即ち憲法の條規に基かないで、
天皇が議會に命令し給ふことはないと言つて居るのであります。
議會が原則として 天皇の命令に服するものでないと言つて居りまするのは其の意味でありまして
「 原則として 」 と申しますのは、
特定の定あるものを除いてと云ふ意味であることは言ふ迄もないのであります。
詳しく申せば 議會が立法又は豫算に協賛し緊急命令其の他を承諾し
又は上奏及建議を爲し、質問に依つて政府の弁明を求むるのは、
何れも議會の自己の獨立の意見に依つて爲すものであつて、
勅命を奉じて勅命に従つて之を爲すものではないと言ふのであります。
一例を立法の協賛に取りまするならば、
法律案は或は政府から提出され、或は議院から提出するものもありまするが、
議院提出案に附きましては固より君命を奉じて協賛するものでないことは言ふ迄もないことであります。
政府提出案に附きましても、
議會は自己の獨立の意見に依つて之を可決すると否決するとの自由を持つていることは、
誰も疑はない所であらうと思ひます。
若し議會が 陛下の命令を受けて、
其命令の儘 可決しなければならぬもので、
之を修正し 又は否決する自由がないと致しますれば、
それは協賛とは言はれ得ないものであり、
議会制度設置の目的は全く失はれてしまふ外はないのであります。
それであるからこそ憲法第六十六條には、
皇室經費に附きまして特に議會の協賛を要せずと明言せられて居るのであります。
それとも菊池男爵は議會に於て政府提出の法律案を否決し、其の協賛を拒んだ場合には、
議會は違勅の責を負はなければならぬものと考へておいでなのでありませうか。
上奏、建議、質問等に至りまして、君命に従つて之を爲すものでないことは固より言ふ迄もありませぬ。
菊池男爵は其御演説のなかに、
陛下の御親任に依つて大政輔弼の重責に當つて居られまする國務大臣に對して、
現内閣は儀表たるに足らない内閣であると判決を下すより外はないと言はれまするし、
又 陛下の至高顧問府たる樞密院議長に対しても、極端な惡言を放たれて居ります。
それは畏くも 陛下の御任命が其の人を得て居られないと云ふことに外ならないのであります。
若し議會の獨立性を否定いたしまして、
議會は一に勅命に従つて其の機能を行ふものとしまするならば、
陛下の御親任遊ばされて居ります是等の重臣に對し、如何にして斯の如き非難の言を吐くことが、
許され得るでありませうか。
それは議會の獨立性を前提としてのみ説明し得らるる所であります。
或は又
私が議會は國民代表の機關であつて、天皇から權限を与へられたものではない
と言つて居るのに對して甚しい非難を加へて居るものもあります。
併し 議會が 天皇の御任命に係る官府ではなく、
國民代表の機關として設けられて居ることは一般に疑はれない所であり、
それが議會が旧制度の元老院や今日の樞密院と法律上の地位を異にする所以であります。
元老院や樞密院は、天皇の官吏から成立つて居るもので、
元老院議官と云ひ、樞密院顧問官と云ふのでありまして
官と云ふ文字は、天皇の機關たることを示す文字であります。
天皇が之を御任命遊ばされまするのは、即ち其の權限を授与せらるる行爲であります。
帝国議會を構成しまするものは之に反して、議員と申し 議官とは申しませぬ。
それは 天皇の機關として設けられて居るものではない證拠であります。
再び憲法義解を引用いたしますると、
第三十三條の註には
「 貴族院は貴紳を集め 衆議院は庶民に選ぶ 兩院合同して
 一の帝國議會を成立し以て全國の公議を代表す 」
とありまして、
即ち全國の公議を代表する爲に設けられて居るものであることは
憲法義解に於ても明に認めて居る所であります。
それが元老院や樞密院のやうな、
天皇の機關と區別せられねばならぬことは明白であらうと思ひます。
以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な眞理でありまして、
學者の普通に認めて居る所であり、
又 近頃に至つて初めて私の唱へ出したものではなく、
三十年來既に主張し來つたものであります。
今に至つて斯の如き非難が本議場に現はれると云ふやうなことは、
私の思も依らなかった所であります。
今日此席上に於て斯くの如き憲法の講釋めいたことを申しますのは甚だ恐縮でありますが、
是も萬止むを得ないものと御諒察を願ひます。
私の切に希望いたしまするのは、若し私の學説に付て批評せられまするならば
處々から拾ひ集めた斷片的な方言隻句を捉へて徒に讒誣中傷の言を放たれるのではなく、
眞に私の著書の全體を通讀して、前後の脈絡を明にし、眞の意味を理解して
然る後に批評せられたいことであります。
之を以て弁明の辞と致します。 ( 拍手 )

此演説は流石に議場を壓し、
排撃の議員間にすら これなら差支へないではないかとの私語が交わされたと
噂されている位である。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動  より
第四章  国体明徴運動の第一期  第一節 所謂「 天皇機関説 」 問題の発生

現代史資料4  国家主義運動1  から

次頁 国体明徴・天皇機関説問題 3 「 機関説排撃 」 に 続く


國體明徴・天皇機關説問題 3 「 機關説排撃 」

2021年10月22日 10時02分44秒 | 國體明徴と天皇機關説

前頁 国体明徴・天皇機関説問題 2 「 一身上の弁明 」  の 続き



果然、美濃部氏起ち

「 天皇機關説 」 反對逆襲

昭和11年2月26日の新聞

 江藤源九郎
(五)  代議士江藤源九郎、美濃部博士を告發す
美濃部博士の所謂 「 一身上の弁明 」 は俄然囂囂ごうごうたる物議を醸し、
美濃部博士の態度は三千年來の伝統の我國民の國體観に挑戦し、
済し崩し的に國體破壊を意圖する思想的反逆であり、
議會に於ける岡田首相以下の答弁も亦 甚だ誠意なきが故に 徹底的糾彈の要ありとの叫びが起り、
國體擁護聯合會等は直に機關説排撃の爲 活潑な活動を開始した。

一方 江藤代議士は二月二十七日 衆議院予算総會に於て再び立って
『 逐條憲法精義 』 中の憲法第三條に關する解釋の部分を讀上げ、
美濃部博士が
「 天皇の大權行使に附き、詔勅に附き、批判し論議することは、立憲政治に於ては國民の當然の自由に属する 」 
と 照すも 許すべからざる兇逆思想であると斷じ、
政府の斷乎たる処置を要望したが、
首相、内相、文相等の答弁は貴族院に於けるのそれと略々同様であつて、
依然として誠意が示されなかつた。
玆に於て江藤代議士は翌日二十八日 美濃部博士の著書 『 憲法撮要 』 『 逐條憲法精義 』
を以て不敬に當るものとなして、
東京地方裁判所檢事局に告發し、更に三月七日 追加告發をなした。
此の爲 問題は一層重大化し、
愛國諸團體は一齊に立つて 或は 演説會に 或は 宣伝文書に
「 学匪 」 「 反逆者 」 「 惡逆學説 」排撃打倒の叫びを擧げ
活潑な運動が展開されるに至つた。

(六)  貴衆兩院の建議及び決議
此の問題に關し民政黨は終始平静な態度を取り、寧ろ消極的でさへあつたが、
政友会は逸早く黨議を以て機關誌排撃に出づることに決し、
貴族院の公正會、研究會所属議員も猛然活動を開始し、
貴族院に於ける三室戸敬光、菊池武夫、井上清純等各議員、
衆議院に於ける 山本悌二郎、竹内友治郎、江藤源九郎各議員等は
本會議及び予算分科會を通じ此の問題を掲げて政府に迫り 之を苦境に陥らしめ、
殊に衆議院に於ける治安維持法改正委員会の如き同法第一條の
「國體の変革 」 なる字句に關聯して 天皇機關説が終始論議の中心となり
三月七日より同二十五日迄の間 前後十三回に亙り開會せられたに拘らず
此の爲法案は遂に審議未了となつてしまつた。
此の如く天皇機關説は議會に於て次第に政治問題化し、
三月二十日 貴族院に於て政教刷新建議案が上程可決された。
政教刷新建議
方今人心動モスレバ輕佻詭激ニ流レ 政教特ニ肇國ノ大義ニ副ハザルモノアリ、
政府ハ須ラク國體ノ本義ヲ明徴ニシ、我古來ノ國民精神ニ基キ 時弊ヲ革メ 庶政ヲ更張シ
以テ時艱ノ匡救、国國運ノ進展ニ萬遺憾ナキヲ期セラレンコトヲ望ム 」
右建議ス
次いで衆議院に於ても三月二十三日 次の如き國體明徴決議案が上程採擇された。
國體ニ関スル決議
國體ノ本義ヲ明徴ニシ、人心ノ歸趨きすうヲ一ニスルハ刻下最大ノ要務ナリ、
政府ハ崇高無比ナル我カ國體ト相容レザル言説ニ對シ
直ニ斷乎タル措置ヲ取ルベシ
右議決ス
玆に於て政府も天皇機關説に對し何等かの措置を講ぜざるを得なくなり、
岡田首相も右の建議決議の趣旨に副ふやう 愼重考慮の上 善処する旨 言明するに至つた。

(七)  機関説排撃の要点
議会に於て論議の的となつた美濃部學説中 攻撃せられた主要点を見るに
(1) 機關説
(2) 天皇と議会との關係
(3) 國體と政體の關係
(4) 國務に關する詔勅批判の自由等
であつて、之を貴衆兩院に於ける演説について見ることにする。

(1)  天皇機關説、天皇の大權につき、
「 我國で憲法上、統治の主體が、天皇になしと云ふことを
 斷然公言する様な學者、著者と云ふものが 一體司法上から許されるべきものでござりませうか、
是は緩慢なる謀叛になり、明かなる反逆になるのです。」
( 菊池男爵 二月十八日 演説)

「 美濃部氏は
 天皇は國の元首として言換えれば國の最高機關として此國家の一切の權利を總攬し給ふ
と 申されて居ります、
國家は統治權の主體であり、
天皇様も國民も其機關であり、唯君主は最高のと云ふ字が附いている丈けであります。
之が美濃部氏の國體観念であるのであります。
機關といへば全體の一部分でありまして、又 何時でも取換へ得る意味を持つのであります、
此言葉は如何に堅白異動の弁を揮ふとも、又如何なる場合に於ても 學問的にも 倫理的にも、
御上に対し奉り 最大の不敬語であります。
日本臣民に對して我が尊貴の國體を辱かしめる最大侮辱の言と言はなければならぬのであります。
( 井上清純男爵 三月八日 演説)

「 天皇は統治の大權を皇祖皇宗より繼承せられまして、
 萬世一系帝國に君臨し給ふ所の主權者であらせられ、
同時に我が帝國國家の主體であらせられるのであります、
是が即ち我々の信ずるところの天皇観 ・國體観であります。
天皇は故に萬代不易の統治主權者であります、
而して吾々臣民は過去に於けると同じく、
將來萬世に渉りて 子々孫々 天皇統治の下に國家生活を繼續するものであります。
随て 天皇は國家の主體であらせられ、吾吾臣民は國家の客體であつて、
此主客兩體は堅く相結んで分離すべからざる關係に置かれているのであります、
即ち我が日本の國家は、此主客兩體の絶對的不分離の結合に依つて存在するものでありまして、
天皇と申す主體を別にしては、日本の國家は絶對に考へ得られないのであります
・・・・遠き建國の初めに遡つて、歴史上の事實を見まするに、
初めに國家あつて、後から天皇を戴いたのではなくして、
其反對に 皇祖皇宗が國を肇め給うて、玆に始めて國家が出來たのであり・・・・
領土は初めより皇祖皇宗の領土であり、民族は、皇祖皇宗より血縁的に分派せる、
吾々大和民族の祖先であつたのでありまして、之に 皇祖皇宗が 天皇として自ら君臨遊ばされたのであります、
随て領土も人民も皆其源を 皇祖皇宗に發して居るのでありまして、
爾來 天皇を家長と致しまして、主權者と致しましたる此一大家族國家が
擴大發展して今日を致したのでありますから、此歴史的事實より見ましても、
國家と 天皇とは、初めより一體不可分のものたるや、極めて明瞭であるのであります、
・・・・此國民信念と、此歴史の沿革より見まして、
我が日本帝國と云ふ國家の主體は 天皇であらせられ、
統治の主國は 天皇にあると云ふことは、三千年來伝統的の吾々の國體観念であり、
又 動かすべからざる歴史的事實でありまして、
同時に萬世將來に亙つて渝かわらざる鐵則であるのであります、
憲法發布の勅語に
『 國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ 』
と 宜示遊ばされ、
更に憲法第一條に
『 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス 』
と、斯様に規定せられたのは、
皆此國體より出發せる天皇主權の観念と事實を明白にされたのであります
・・・・機關説は既に其立論の根底に於て、全然我が國體と相容れざるものであることを發見するのであります、
即ち機關説は 天皇と國民を別々なものと見ているのであります、
天皇を御一身上の 天皇と見て、國家と對立せしむるのであります、
斯く別々に見ればこそ、玆に統治權は 天皇御一身の爲に行はせられのではなくして、
國家の爲に行はせられるのであるから、即ち統治權の主體は統治の目的の歸属する所の國家にあるのであつて、
天皇は唯其機關たる地位に在せられるものであると云ふ結論に到達せざるを得ないのであります、
而して國家を法人とし、天皇は此法人を代表して統治權を行はせらるる機關であると云ふことも、
亦此 天皇と國家と別々に見る所に抑々重大なる錯誤、錯覺があるのであります、
此區別観念は全く我國體の現實と合致せざるものであります、
否、我が國體を無視するものであります・・・・
即ち 天皇の御地位も、会社の社長の地位も、其機關たるに於ては全然同一のものとなるのではありませぬか、
さあ是で 天皇の尊嚴が傷けられず、是で國民の伝統的観念が攪亂せられずして止みませうか。」

( 山本悌二郎代議士 三月十二日 演説 )

(2)  天皇と議會との關係につき
「 然るに美濃部博士にしても一木喜徳郎博士のものに致しましても、恐ろしいことが書いてある
『 議會は天皇の命に何も服するものぢゃない 』 
斯う云ふやうな意味に書いてある。
それならば解散の詔勅が出ても
我々共集つて此処に議事を開いて大いに決議をしてかかると云ふやうなことが起らぬとも限らぬ。」
( 菊池男爵 二月十八日 演説 )

「 美濃部博士は
『 議會は原則として天皇に對して完全なる獨立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない 』
と 斷言して居るのであります、
即ち 議會は 天皇に属する機關に非ずして、天皇に對立する獨立機關であると言うて居るのであります・・・・
而して議會の憲法上に於ける地位に附いては第五條に
『 天皇ハ帝國議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ 』
とあります通り、立法の大権は 天皇に属し、議會は此大権の行使に協賛し奉る以外に、
獨立の機能を有するものではないと思ふのであります、
・・・・議會は原則として 天皇に對し完全なる獨立の地位を有し、
天皇の命令に服するものではないと妄斷することは、即ち、天皇の大權を干犯したるものでありまして、
出版法第二十六條の國権紊亂の罪を犯せるものなること明かなりと信ずるものであります。」
( 江藤源九郎代議士 二月七日 演説 )

(3)  國體につき
「 一部の機關説論者は、倫理的國體観念は、憲法論としては之を採入れるべきものではないと言うている、
 所が何処迄も倫理的に出來上つて居る所の我が國體の観念を除外して、
一體どうして我が憲法を解釋することが出來ませうか、
此國體論は憲法の法律論に採入れる必要がない、
採入れるものではないと云ふ此論旨は憲法發布の御聖論を一體どう心得て居るでせう、
『 憲法義解 』 の一冊も精讀致したならば、
我が憲法は我が國體を骨髄とし基本観念として組立られている位のことは
第一に承知して居らなければならぬ筈である、
然るに拘らず、強いて之を無視しよう、強いて國體論を憲法論から排撃して除外しようと云ふのは、
それは外に理由があると信ずるのであります、
それは何かと申しますれば、
若し 國體論を採入れると云ふことになれば、
機關説論者の機關の殿堂と云ふものは根底から崩れてしまふと云ふ虞おそれがあるのであります、
元來機關論は西洋の君主政體を説明するやうに出來ているのでありますからして
此理論を日本に持込んでさうして日本の國體と組合せようとした所で
それは中々辻褄が合ふべき所のものではないのであります、仍よりて之を憲法論より除外するか、
然らずんば 極めて曖昧な継合をして理論を糊塗するより外 途がないのであります。」
( 山本悌二郎 三月十二日 演説 )

(4)  國務に關する詔勅批判の自由について
「 憲法發布以前に於ては、國民は 天皇の詔勅を非議論難することは不敬であつたが、
 憲法制定後は、國務に關する詔勅に對しては國民は自由に之を非議論難しても不敬ではないのである。
何となれば國務に關する詔勅に対しては、総て國務大臣が其の責に任ずることになつた爲め、
詔勅を論議することは國務大臣の責任を論ずる所であるから、
不敬ではないと云ふのでありますが、
此美濃部博士の思想は、日本國民の信念と致しましては勿論でありますが、
又 私素人ながら憲法を研究しまして、我が憲法の條章に照しても、
是は斷じて許すべからざる兇逆思想であると信ずるのであります。」
( 江藤源九郎代議士 二月二十七日 衆議院予算総会に於ける演説 )

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動
第四章  国体明徴運動の第一期  第一節 所謂「 天皇機関説 」 問題の発生 から

現代史資料4  国家主義運動1  から

次頁   国体明徴・天皇機関説問題 4 「 排撃運動 一 」 に 続く


國體明徴・天皇機關説問題 4 「 排撃運動 一 」

2021年10月21日 19時40分59秒 | 國體明徴と天皇機關説

前頁 国体明徴・天皇機関説問題 3 「 機関説排撃 」 の 続き

(一)  愛國諸團體の排撃運動
美濃部博士が帝國議會に於て 「 一身上の弁明 」 に籍口して
自己の唱導する天皇機關説を説明した事は天下の輿論を沸騰せしめ、
之を契機として問題は急激に擴大し、
皇國生命の核心に触れる重大事件として全國の日本主義国家主義諸團體は殆ど例外なく
機關説排撃の叫びを擧げ、
演説會の開催、排撃文書の作成配布、當局或は美濃部博士に對する決議文、自決勧告の文附、
要路者訪問等 種々の方法に依り運動を展開した。
・・・中略・・・
諸團體の裡で當初より最も活潑に活動したものは
國體擁護聯合會、國民協会、大日本生産黨、新日本國民同盟、愛國政治同盟、
明倫會、政黨解消聯盟等であつた。

排撃運動の中心たる國體擁護聯合會は
三月上旬には國務大臣の議會に於ける答弁速記録を引用せる長文の聲明書
竝にポスターを発行して全國各方面に送附して諸團體の蹶起を促し、
三月九日 青山會館に会員三百余名參會して本問題に關する聯合総會を開き、
言論、文書、要路訪問、地方との聯絡、國民大會開催等の運動方針を定めたる後、
總理大臣以下内務、文部、陸軍、海軍 各大臣に對し
「 順逆理非の道を明斷すると共に重責を省みて速かに處決する處あるべき 」
旨の決議を、
一木樞相に對しては
「 邪説を唱導したる大罪を省み恐懼直に處決する所あるべし 」
との決議を爲し
代表者は之を夫々各関係廳に提出する等 運動に拍車を加へた。

赤松克磨を理事長とする国民協會は三月十日開催せる全國代表者會議に於て、
美濃部思想糾弾に關する件を上程して
「 機關説思想を討滅すると共に之を支持する一切の自由主義的勢力 及 制度の打破に進むべきこと 」
を決議し
翌十一日 同趣旨の決議文を政府當局 竝に 美濃部博士に提出し、
次いで同月十六日
「 美濃部思想絶滅要請運動に關する指令 」
を全國支部に發送し、
各地に於て天皇機關説反撃演説會を開催して旺に輿論の喚起に努むると共に、
要請書署名運動を起し、
約二千五百名の署名を獲得し、
代表者は首相を訪問して左記の如き要請書を提出した。
要請書
美濃部博士の唱導する天皇機關説が我が國體の本義に背反する異端邪説なることは
既に言議を用いずして明かなり、
此説一度び貴族院の壇上に高唱せらるるや、全國一斉に慷慨奮起して其の非を鳴らし
之に対する政府の善處を要望しつつあるに拘らず
政府は徒らに之を糊塗遷延し 以て事態を曖昧模綾の裡に葬り去らんとしつつあるは
忠節の念を欠き 輔弼の責を解せざるの甚しきものと認む。
政府は速かに斯の思想的禍害を剪除して國民の國體観念を不動に確立せんが爲め
左の如き處置を講ぜんことを要請す。
一、天皇機關説が國體と相容れざる異端の學説なることを政府に於て公式に聲明すべし
一、軍部大臣として國體 及 統帥權擁護を明示せしむべし
一、美濃部達吉をして貴族院議員 竝 一切の公職を辭せしむべし
一、美濃部博士 其の他 天皇機關説を主張する一切の著者の發行頒布を禁止するは勿論
      之を永久に絶版せしむべし
一、美濃部説を支持する一切の教授、官公吏等を即時罷免一掃すべし
國民協會
内閣總理大臣  岡田啓介閣下

・・・中略・・・
機關説問題は愛國團體が結束し協同闘爭を展開するに好箇の題目であつた。
所謂日本主義國家主義陣営には指導理論を異にする多數の團體があり、
而も從來より感情の齟齬、特別な人的關係の爲、
陣営に統一なく 其の活動は個別分派的に傾いていたのであるが、
階級闘爭を主張す國家社會主義から進歩的革新的日本主義
更に極端な復古的日本主義に至る迄 その色調は何れも日本的であり、
其の眞髄を爲すは國體の開顯、國體の原義闡明にあつた。
されば美濃部學説排撃に關しては、全く小異を捨てて大同に就き、
國體の擁護、國體の原義闡明なる大目標に向つて戰線を統一して、猛然墳起することが出來た。
三月八日 結成された 「 機關説撲滅同盟 」
機關説排撃の爲 一大國民運動を展開する意圖の下に 黒竜會の提唱に依り
頭山満、葛生修吉、岩田愛之助、五百木良三、西田税
橋本徹馬、宇野田夫、
蓑田胸喜、江藤源九郎、大竹貫一、
等 東京愛國戰線の有力者四十余名の會同を得て、
黒竜會本部に開催せられた 「 美濃部博士憲法論對策有志懇談會 」
恆常的組織としたものであつて、
運動目標を
(一) 天皇機關説の發表を禁止すること
(ニ) 美濃部博士を自決せしむる
ことに置き、
而して運動方針として
(一) 貴衆両院の活動により政府に實行を促すこと
(ニ) 国民運動により直接政府に迫ること
(三) 有志大会を開き國民運動の第一着手とすること
等を定め、
次いで同月十九日には上野静養軒に於て左記の如く有力人物外六百名の出席の下に
機關説撲滅有志会を開催して大いに気勢を擧げた。
・・・後略・・・

(ニ)  革新陣営の主張
斯くの如く愛國諸團體は全國的に排撃運動を展開し、國論は沸いた。
當時に於ける此等愛國諸團體の主張する所を綜合すれば
一、政府は速に機關説に関する著書の發売頒布を禁止すると共に機關説思想の普及
      及び宣伝を禁止すること
一、機關説の不当當なることを天下に聲明すること
一、美濃部博士は一切の公職を辭し自決すること
一、岡田首相、一木樞府議長は夫々引責辭職すること
等であつて、
早くも現状維持派と目せられていた一木樞府議長、岡田首相に攻撃の矢が向けられた事は注目に値する。

日本主義國家主義を標榜する革新陣営に於ては言論、文書を總動員して排撃運動を捲起し
輿論の指導權は全く右翼論壇の占むる處となり、
往年の正黨政治隆盛期にあつて輿論の指導に華かな活躍を見せた自由主義的な新聞雑誌は、
何等かの影に怯えた如く 美濃部學説を擁護するものとてはなく
完全に回避的態度を取り 沈黙を守つていたことは社會思潮の變遷を如実に物語るものであつた。

次に所謂右翼新聞雑誌に現はれた美濃部學説排除の理由を瞥見べっけんする。
(1) 國民的信念、確信より許すべからずとするもの
中谷武世曰く
「 是は學説として 若しくは思想として批判の對象となる前に、
先づ 私共日本國民の情緒、國民的感情、
此の方面から観ても非常に痛みの多い一つの出來事だと思ふのであります。
この天皇機關説と云ふ言葉そのものが私共日本國民の情緒の上に、
非常に空寒い感じを与へる所の、あり得べからざる言葉であります。
一般國民大衆にとつて私が今申しましたやうな國民感情の上から衝撃を受けたらうと思ふのであります。
・・・・従つて所謂知識階級は別として、素朴な國民大衆の胸の中には、
美濃部説、天皇機關説に對して非常に大きな憤りの情が脈搏ちつつあると思ふのであります。
即ち美濃部説は、法理的批判や、是非の論を超越して 先づ日本國民信念上の、
國民感情上の深刻な問題なのであります。」
( 月刊 「 維新 」 四月号 「 美濃部学説検討座談会 」 )

山下博章曰く
「 天皇機關説に於ける天皇の地位は株式会社に於ける取締役社長の地位の如きものと爲り、
株式会社といふ独立の生命が社長といふ其機關によりて活動する如く、
日本國の有している統治權が
統治權の主體にあらざる天皇と云ふ機關に依りて運用されることになるのであるから、
天皇 即 日本國の伝統を蹂躙する結果とならざるを得ない。」
( 「 国策 」 四月号 「 天皇機関説の根源と国体の本質 」 )

雑誌 「 大日 」 ( 第九十九号 ) の社説 「 神聖國體原理 」 に曰く
「 機關と云ふ語は根本に於て尊崇の意を欠く、
普通に、機關はからくりと言ふが如く、機械的の意であつて、
社會普通の事實に就ても機關の語に來用するは愼まねばならぬ場合が多い、
或は機關新聞といひ 機關雑誌と云ふ場合 其の當事者にとつては迷惑を感じ
不快を感じ 社會よりは一種輕笑の意を以て取扱はるる事實が少なくない、
一家に於ても一家の主人を捉へても、汝は汝の家の機關なりとはいはば、
其主人なる人は果して心に快く感ずるや如何、
社會普通の事實に於ても、機關の語を使用するはよほど注意を拂はねばならぬ。」

下中弥三郎曰く
「 天皇機關説と云ふことを我々はすでに二十數年前から ちらほら耳にしては居りましたが、
それは 広い國民の立場では問題にされなかつたと考へて居たんです。
即ち 國民的信念に於ては
『 天皇が國家の道具であり、國民に使役せられる 』
と云ふやうな感情に於て有り得ざること當然であつて、
左様な考が國民的信念に入り得ないと信じていたからである。」
( 月刊 「 維新 」 四月号 「 美濃部学説検討座談会 」 )

此の如く
統治權は常に國家に属する權利であつて
天皇は國家に属する統治權を總攬する機能を有し給ふ國家の最高機關である
とする美濃部學説に對しては
法理を超越して先づ國民的信念確年の上から見て
國體の尊嚴を冒瀆する不敬思想なるが故に絶縁しなければならぬとしている。

(2) 法理的見地より排撃するもの
(a) 思想的背景及び根拠に對する批判
澤田五郎曰く
「 拝外思想から單なる外國憲法の一解釋をそのままに、
帝国憲法の解釋上の眞理の如く説くに至つては重大な問題である。
・・・中略・・・
抑々外國憲法は、君主の權限を拘束し、制限するために民意に依つて設定されたものである。
之に反して日本では明治維新の大業完成後 天皇御親政を制度化すべく、
萬世一系の天皇の大御心のまま定め給へる欽定憲法である。
・・・天皇機關説は
肇國宏遠天壌無窮の我が國の國家事實を興亡常ならざる諸外國の國家事實と同一のものなりとし、
樹徳養正最高絶對の明津神たる 天皇を
専制横暴、或る一定の權限を与へられているに過ぎない諸外國の君主と同一視する
拝外主義者亡國主義の妄説であり、
憲法論に於ける國體論と政體論とをも區別し得ないもので
実に国國體を否認し 之が變革をも可なりとする理論の根底を爲す思想學説である。」
( 「 明倫 」 四月号 「 天皇機関説を排撃す 」 )

今泉定助曰く
「 美濃部氏の根本思想は
第一が
獨立なる個人が單位であつて、
その個人が相互に精神的 又は物質的の交渉を有する生活を社会生活なりと爲す個人主義思想、
第二は
人間の意志は本來無制限に自由なもので 法に依つて規律せらるると爲す自由主義思想である。
此の個人主義と自由主義とが一切の誤謬錯覺びょうさっか
の根源であり、根本的の誤謬である。
その根本思想が誤つているから、美濃部氏の思想は即ち西洋個人法學の根本思想であるが、
それに従へば人類の團體生活は、獨立自由なる個人の利害の集合分散の態様であり、
國家は株式会社を擴大した様な法人となり 主權者はその機關とならざるを得ない。
これは個人主義法學を以て國家を律し、主權者を律する當然の結果である。」
「 日本思想の基調を爲すものは自我の確立にあらずして
彼我一體、我境不二である。
之れを皇道の絶對観、全體主義と云ふ。
凡てがこの全體主義から出發するのである。
故に人性生活に於ても全體的國家生活が本質的なもので個人生活はその分派たるに過ぎない。
人間は絶對無限の團體生活を營むものであつて、
この團體は中心分派歸一 一體の原理によつて統制せられ、
個人がこの全體に帰入し、同化することが人生生活の眞の意義であると見る。
これは日本思想である。
この思想を表現したものが大和民族の霊魂観であつて、
萬有同根、彼我一體、我境不二、中心分派歸一 等の大原理がこれより流出するのである。
これは宇宙の最高絶對の眞理であつて、世界無比、萬国に卓絶せる大思想である。
而してこの絶對性と普遍妥当性とは自然科學、精神科學上の無數の例示を以て證明せられる所である。」
「 分裂對立の個人主義、即ち美濃部氏の思想に於ては、
人生は個人生活が本質的なもので、國家國體生活は例外的なる束縛である。
正に日本思想の反對である。
故に法律の解釋に於ても國體的なる制度規定を例外的なものと見る。
これは個人の利害自由を基調とする西洋思想の當然の結果である。
美濃部氏が
『 議会は原則として 天皇の命令に服すものではない 』
と云ふが如き非常識な議論をされたのは、これに依るものである。
然るに日本思想に於ては國體的の制限規定は例示的なものである。
これは人間が國體に歸入し同化することがその本性であると見る日本思想の當然の結果である。
天皇は國家の中心であると共に、全體であらせられる。
『 原則として 天皇の命令に服するものでない 』
といふが如きものは我が日本には一つもあり得ない。
美濃部氏の根本思想そのものが、日本國家と相容れないものである。
全體静養の個人主義的法學を以て日本の國體を論じ、
日本の社會を律するものは、全體主義法學でなければならぬ。」
( 今泉定助著 『 天皇機関説を排撃す 』 )

作井新太郎曰く
「 統治權は一の權利なりと云ふは良し、
然れども
法律上權利なるものは
自己一身の利益を追求する爲にのみ認められたる意思の力であるが故に、
若し 天皇を統治權の主體と解すれば、
天皇は自己御一身の利益の爲に統治を遊ばすこととなり、
統治が決して一身一家の私事に享奉するものでないといふ統治の性質に反する結果となる。
斯るが故に
統治權の主體は國家にして天皇はその國家の意思を決定せられる所の國家の最高機關である 
と 説明するに至つては、
遂に吾人の確信と相去る甚だ遠きものであるに驚かざるを得ないのである。
・・・權利と義務以外には一歩も出ることの出來ない法理論、
個人主義自由主義を最高の指導精神とする近世欧米資本主義社會に發生せる
斯の種 法律論を以てしては、遂に純粋なる日本の本質は之を説明し得ないものなることを、
暴露するに至つたのである。
・・・・法律の分野に於ても亦 純粋日本主義的なるものの出て來るべきは當然の要求である。
西洋流の個人主義自由主義に基調を置く自由法學が憲法論を契機として
今や其の没落の第一歩を踏み出したのである。」
( 「 社会往来 」 四月号 「 憲法論争と其思想的背景 」 )

五百木良三曰く
「 自由民權思想に立脚せる欧米の近代國家が主權在民を共通観念とするは當然の歸結である。
彼等に取つては寧ろ人民あつての國家であり、國家あつての統治者である。
彼等の統治者が自ら國民の公僕と稱するのも亦この観念の發露であると共に、
彼等の元首なるものは國家統治上の一機關たるに過ぎぬ。
美濃部一派は此の直譯思想を尺度とするが故に、
全然その本質を異にせる我が特殊の欽定憲法を論ずる上にも、
尚ほ一様に仮定的なる國家法人観を基準とし 統治者に擬するに
恰も株式會社に於ける社長の類を以てするに至り、
主權は國家に存して 天皇に属せず
天皇は唯その統治權を總攬せらるる一個の機關に止る
と 云ふが如き大曲解に陥るものである。」
( 「 日本及日本人 」 四月一日号 「 所謂機関説問題は昭和維新第二期戦展開の神機 」 )

蓑田胸喜は曰く
「 議會が 天皇に對して、完全なる獨立の地位を有し、天皇の命令に服しないといふ、
それは、一體どこから出て來るか、
是、全く美濃部氏の
外國憲法の立憲在民の民主主義妄信思想から出て來るものに外ならぬのであります。」
( 蓑田胸喜著 『 天皇機関説を爆破して国民に訴ふ 』 )

斯くの如く美濃部學説が個人主義思想自由主義思想、主權在民的思想等
西洋思想を思想的背景と爲していること、
而もこの爲に 國體には副はざる憲法の解釋論となつたことが指摘強調されている。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動 より
第四章  国体明徴運動の第一期  第二節  愛国団体の運動状況

現代史資料4  国家主義運動1  から

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國體明徴・天皇機關説問題 5 「 排撃運動 二」

2021年10月20日 18時24分17秒 | 國體明徴と天皇機關説

前頁  国体明徴・天皇機関説問題 4 「 排撃運動 一 」 の 続き

(b
) 機關説及び天皇の大權に就いての解釋に對する批判
美濃部学説は個人主義、自由主義、形式主義的法理論を基調としたる結果、
世界萬邦に冠絶せる國體を閉脚するの誤謬ごびょうを犯し、
肇國の精神に悖り、國體に背き、甚しく國民の信念確信に反する學説なることが一致に鞏調せられ、
建國以來、天皇即ち國家、君臣一體の國柄として
統治權は 『 萬世一系ノ天皇 』 の大位に存することは炳乎たる國史の事實であり、
肇國の精神、我が國體の本義に基き
天皇は統治權の主體にあらせられることは寸毫の疑義なく
帝國憲法第一條は斯る日本國體を宣明し給うたものに外ならず、
而も現人神に存します。
天皇に在らせられては、『 御一身上の權利 』 と 『 國家統治の大權 』 とは本來惟神に不可分であり
天皇の大權は絶対無制限不可分である者が論ぜられ
主として穂積八束博士の天皇主體皇位主權説の立場より批判が爲されている。
・・・中略・・・
右の外 「 天皇を國家の機關なり 」 とする美濃部學説に就いての多數の論説は
天皇と國家とを分離せしめ、天皇即國家の伝統を蹂躙し
其の結果は忠君と愛国國とを分離せしめて 忠孝一體の理を破り、
又 其の所説は国國家を主とし、天皇を從として本末主從を顚倒せしめ、
國體を破壊し 天皇の御本質を無視せるものなりと痛烈に論難している。
尚 蓑田胸喜、鹿子木員信博士等は美濃部學説に從へば
統治權は永遠恆久の團體たる國家に属し 而も國家は 「 人類の團體 」 であるが故に、
統治權の主體は必然的に 「 人類の團體 」 たる 「 國民 」 であることに歸着し、
我が憲法を民主主義的に變革するものであると爲して攻撃している。
( 月刊 「 維新 」 四月号 「 美濃部学説検討座談会 」 )

(c
) 議會観に對する批判
美濃部博士の
「 議會は獨立機關にして獨自の機能を有し原則として天皇の命令に服するものではない 」 
との 天皇と議會とを對立的に見る議會観も痛烈に論難を加へられている。
此種議會観は西洋思想の個人主義自由主義に由來せる 誤謬ごびょうであり、
或は 西洋の主權在民思想に基づくものであり、
或は 君主の大權を剥奪 又は 制限せんとする
外國流の法理論を以て我が議會を論じたものであり、
從て そは大權を干犯する不逞思想に外ならずと論ぜられている。
例へば
澤田五郎は 「 核心 」 ( 四月号 ) の 「 天皇機關説の兇惡性 」 に於て
美濃部博士は議院提出の法律案の協賛等を例示して
議會は天皇の命令に服するものではないと言ふことを説明し
議會は又 天皇の御任命に係る官府ではないから 天皇の機關でなく、
天皇から權限を与へられた機關ではないと言つているのは、
どこ迄も諸外國の君主と之に對立するその國会との關係を
我が  萬世一系の天皇陛下 と
其の大御業を翼賛し奉らうとする帝國議会との關係とを完全に同一視し、
帝國議會をして  萬世一系の天皇 に 對立せしめんとするの理論を主張するもので、
其の不逞理論の浸潤に依り、帝國議會の本義が破壊せられ、
現在の如き、帝國議會の行動の堕落を招來した其の基本的責任者であることを
自白するものである。
と 論じているが如きである。

(d) 國務に關する詔勅非議自由説に對する批判
此の点に關しては代議士江藤源九郎に依り議會に於て攻撃せられ、
後に告發せられ檢事局に於ても出版上の 皇室の尊嚴を冒瀆せんとするものに該當するとして
犯罪性を認めたところである。

蓑田胸喜は
詔勅こそは法令國務に關するものにて國務大臣輔弼したるものなりとも、
聖斷を經、御名御璽を鈐けんし給ひたるものとして
至尊の玉體大御心の直接の發露表現 『 みことのり 』 であつて、
これに対する非難論難の不敬行爲は、精神的従つて本質的には
鳳賛等の器物に對する不敬行爲よりも重要性のものであることを熟考すべきである。
と 批判を加へている。

(e) 國體論に對する批判
美濃部博士が
「 國體は倫理的事實、歴史的事實にして憲法的制度にあらず 」
としている點も攻撃の主要点となつている。
斯くの如き所説は
國體の本義、肇国の精神に基き制定せられた帝国憲法の根本義を無視する
謬説であると非難している。
中谷武世は
「 美濃部博士が依つて以て自らの憲法學の特質なりとすることは
憲法解釋より國體を揆無せんとする點にあるを知らしめられるのである。
即ち憲法學に於ける國體容認に彼の誇りとする學説の特徴があるとして、
國體なるものは倫理的の観念にして現在の憲法的制度を示すものにあらず
と斷言するのである。
玆に吾等とは俱に天を戴かざる根本的對立が存するのである。
我等日本國民の信念に従へば、
憲法其の他の制度組織法律典章 悉く國體の發現ならざるは無く、
國體の註脚ならざるはないのである。
國體こそが一切の法、一切の制度組織法律典章が派生し發現する原理であり、
法源なのである。
當然の帰結として日本憲法学、日本國法学、日本國家學は常に國體学であらねばならぬ。
日本の國家諸學は等しく日本國家の特異性に關する組織を以て
その出發點とし 且つ 到達點とせねばならぬ。
此処にこそ眞の日本學があり 且つ 眞の學がある。
而して斯くの如きは ひとり我等の主観的信念たるのみならず
又 新しき 而して正しき國家諸學の態度である。」
( 月刊 「 維新 」 四月号 「 美濃部学説の思想的背景 」 )

(f) 法源論に就いての批判
美濃部博士は憲法の法源として制定法 及び 慣習法の外に理法なるものを揚げ

之が獨立に國法の淵源たる力を有するとしているが
此の所説につき蓑田胸喜は
「 憲法 『 制定法規 』 は
實に 『 歴史的の事實 』 と 『 
社會的の條理意識 』 そのものをも
併せて表現させ給へるものにして、
憲法は特にそれ以外の普通國法とは異り
『 不磨の大典 』 として その成立の根拠由來効力また改正手續きよりするも
『 制定法規の文字に絶對の価値にある 』 こといふまでもなく、
『 歴史的の事實 』 と 『 社會的の條理意識 』 なるものは憲法の條章のうちに包含せられ
内在せしめられ居るものにして、
斷じて成文憲法の 『 他に 』 『 別に 』 『 之と相竝んで等しき 』 価値を有するものとして
別個の法源となるものではない。」
( 美濃部博士の大権蹂躙 )

(g) 國務大臣責任論に就いての批判
美濃部博士が
國務大臣に特別な責任を 議會に對する政治上の責任に求めている事に關し
蓑田胸喜は

「 國務大臣の 天皇に對する責任を形式化し實質的に無視したるものであるが、
それは
『 天皇は・・・・國務大臣の進言に基かずしては、單獨に大權を行はせられることは、憲法上不可能である 』
といふに至つては、
天皇統治の實權は全く國務大臣の手中に歸し終るのであるが、
更にこの國務大臣の責任は唯
『 天皇に對して完全なる獨立の地位を有し、天皇の命令に服せざる 』
『 議會に對する政治上の責任あるのみ 』
といへるを
『 而も 議會の主たる勢力は衆議院に在り 』
といふ一文と結合する時、
美濃部博士の憲法論はここに一糸も纏ふなき 『 憲政常道論 』 の基く
『 主權在民 』 信奉宣伝の兇逆意志を赤裸々に露呈したのである。」
( 美濃部博士の大権蹂躙 )
と 非難している。

(h) 司法權の獨立に關する所説につき
尚 蓑田氏は
美濃部博士が
「 裁判所は・・・・其權限を行ふに於て全く獨立であつて、勅命にも服しない者であるから、
特に 『 天皇ノ名ニ於テ 』 と曰ひ、以てそれが裁判所の固有の機能ではなく、
源を 天皇に發し、天皇から委任せられたものであることを示している 」 ( 逐条憲法精義五七一頁 )
と 論じているのを、至尊の尊嚴を冒瀆するものとして左の如く批判している。
「 氏は司法權の獨立の機能をここに 天皇勅命にまで對立抗爭的に協調して忌憚なく
裁判所は 『 勅命にも服しない者である 』 といふが如き重大不敬言辭を吐いたが、
氏自身と裁判所の機能は
『 固有の機能ではなく源を 天皇に發し、天皇から委任せられたものである 』
ことを認めざるを得ないにも拘らず、その
『 裁判所が權限を行ふに於て全く獨立であつて、勅命にも服しない者である 』
といふのは裁判所をして 『 天皇ノ名ニ於テ 』
天皇に對してまでも反逆せしめんとする大不敬兇逆思想である。
これは勅命にも違憲違法または國利民福に背反する場合あり得べしと、
想像するだに不臣不忠の忌々しき大不敬である。
美濃部氏が忌憚なく かかる大不敬言辭を公表したといふことは、
免るべくもなく
『 指斥言議ノ外ニ 』 存じます 至尊の尊嚴神聖
を冒瀆し奉りたる 重大不敬罪である。」
( 美濃部博士の大権蹂躙 )


(3) 美濃部學説排撃の歴史的意義
美濃部学説排撃の叫びが擧げられるや
早くも右翼論壇に於ては此の運動が昭和の思想維持の遂行であり、
更に日本主義に基く新日本の建設の第一段階となるべきものであるとして其の歴史的意義が鞏調された。
中谷武世は
「 貴族院の壇上より美濃部貴族院議員によりて天皇機關説が鞏調せられたことは、
帝國大學に於て法博美濃部教授及びその學的黨与に依りて、
天皇機關説が講ぜられ來り講ぜられつつある事實とは不可分ではあるが、
また自ら別個の新しい意義を附加するものである。
・・・・この事實は、一面に於て、満洲事變以來著しく頽勢たいせいにあつた自由主義的思想勢力、
自由主義的社會 ・政治勢力が猛烈なる攻勢移轉に出でつつある事を意味するものである
と共に 一面に於ては、
我が國民大衆の伝統的國家観念が 如何なる程度に根深く根強いものであるかに關し
逆縁乍ら好箇の機會を供するものである。
・・・・自由主義思想勢力がその政治的支持勢力の掩護の下に
---貴族院に於ける岡田首相や松田文相の答弁の如きは
美濃部説の通俗的妥当化を保障するに充分である---
從來の地盤たる知識階級の圏外にも氾濫して國民思想の分野に壓倒的な支持を獲得するか、
それとも國民大衆の意識下に伏在する伝統的民族感情が自由主義の反撃攻勢を押し返して
之に最後的打撃を与へるかの、國民思想上の重大なる轉機を、
今回の美濃部學説問題は提供するものであると認めることが出來る。
天皇機關説問題の思想的意義は這の點に求められねばならぬ。
美濃部學説の批判なり排撃なりは、
斯の如き思想的背景に於て 且つ 之を包含しつつ行はなければならぬ。
即ち 問題の對象は單に美濃部博士個人に在のではない。
個人の思想學説に在るのではない。
美濃部博士の學説だけが問題なのではない。
約言すれば、天皇機關説、國家法人説は、明治以來の自由主義的思想體系、
個人主義的教養體系、唯物主義的文化體系の根茎に生えた醜草の一種である。
此の根茎に向つて、その 『 根芽つなぎて、』 の抜本的清算が必要なのである。
即ち この問題を逆縁として、
日本國民の思想的撥亂反正、思想維新、學説維新の契機たらしめねばならぬのである。」
( 月刊 「 維新 」 四月号 「 美濃部学説の思想的背景 」 )
と 論じて
其の思想革命たる意義を鞏調し、

近山与四雄は
「 我等國民は、天皇機關説 [ 思想 ] の徹底的剪せん滅に依る
皇道眞日本の建設に猛進進撃するものである。
然らば、岡田内閣も、政黨も、資本主義財閥も
そしてその金融資本の獨裁的移行を計畫しつつあるファッショ派も、
凡て我が國體の本義の前に××××せらるべきものであることを知るのである。
・・・・天皇機關説思想の剪滅とは只管ひたすらなる忠誠心の發露に基く
政黨、財閥、特權階級 等 現支配群に曲げられたる現状日本の革新、昭和維新の達成を云ふ・・・」
( 「 核心 」 四月号 「 機関説思想駁撃剪滅への政治的実践の態度に就いて 」 )
と 論じている。

斯の如く 革新的日本主義者は
美濃部博士が 「 一身上の弁明 」 に籍口して
機關説の正當性を主張 したことは、満洲事變以來 頓とみに頽勢たいせいに傾きかけた
自由主義的な思想勢力、社會勢力、政治的勢力が其の勢力を盛返へさんとして、
躍進しつつある日本主義陣営に向つて最後の挑戦を試みたものであると爲し、
從つて美濃部學説排撃運動は單なる一學説の問題に止らず、
その根底を爲す自由主義思想の一掃、

更にその思想勢力、社會的勢力政治的勢力の掃滅を意味するものであり、
斯くすることによつて我が國體に基く指導原理を確立し、
以て昭和思想維新を遂行し、更に日本主義に基く新日本の建設に迄
進展させるべきものであることが鞏調されたのである。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動  より
第四章  国体明徴運動の第一期  第二節  愛国団体の運動状況

現代史資料4  国家主義運動1  から

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國體明徴・天皇機關説問題 6 「 岡田内閣の態度と軍部 」

2021年10月19日 09時52分07秒 | 國體明徴と天皇機關説

前頁 国体明徴・天皇機関説問題 5 「 排撃運動 ニ 」 の 続き


岡田内閣

機關説問題に關し政府が極めて消極的態度を取つた爲、問題を一層紛糾せしめた・・・、
當初の政府の所見は美濃部學説は非難せらるるが如き
不逞思想を根底に持つた反國體的のものではなく、
從つて同博士の著書につき出版上の処置を爲す要あるを認めざるのみならず、
學説の當否は宜しく學者の論議に委ねるを相當とし 政府の關与すべき限りにあらずとの見解を持していた。
三十年の久しきに亙り大學の教壇に立ち、學界に寄与した功績少なからずとして勅選議員に選ばれ、
昭和七年の御講書始には御進講者として奏薦され、
次いで勲一等に叙せられた憲法學の重鎮美濃部博士の著書が、
出版法上の犯罪を構成するといふが如きは、當然一般的には殆ど想像し得なかつたに相違なく、
岡田首相が議員の質問に答へて
「 用語に穏やかならざるものあるも國體観念に誤なし 」
と 述べたのも 當初の情勢としては無理のない答弁であつたとも言へる。
當初の政府の所見を記載した資料には次の如く記述されている。

其の一
美濃部達吉博士著
『 逐條憲法精義 』 第百七十九頁に
憲法第七條に関し
「 帝國議会は國民の代表者として國の統治に參与するもので天皇の機關として
天皇から其の機能を与へられて居るものでなく 随つて原則として議會は
天皇に對して完全なる獨立の地位を有し 天皇の命令に服するものではない 」
との解説あり。
右引用文句は用語簡に失せる爲め
或は
「 帝國議会は 天皇に對立する機關なり 」
と 説明したるが如く速斷せらるる虞おそれなしとせざれども、
動著書の全般に亙りて通讀し、
殊に第五十五頁、第五十六頁に於ける憲法發布勅語の一節
『 又 其ノ翼賛ニ依リ 与ニ 俱ニ 國家ノ進運ヲ扶持セシムルコトヲ望ミ 』
の解説に於て
「 立憲君主政治は君主が國民の翼賛に依つて行はせるるところの政治に里ならぬ、
而して國民の翼賛を求むる手段として設けられたるものは 即 帝國議會であり、
議會が國民の代表として國民に代つて大權に翼賛するものである云々 」
と 説き、
又 第百二十八頁に於ける
「 我が憲法はイギリス又はアメリカの霊に倣はず 國家の一切の權利が 天皇の御一身に統一せられ、
天皇は總ての關係に於て御一身を以て國家は體現せらるるものとする主義を採つて居る、
『 統治權を總攬し 』 といふ語は此の意味を云ひ表はす云々 」、
第百二十九頁に於ける
「 立法權は議會の協賛を要するけれども、
協賛とは 唯君主が立法を爲し給ふ事に同意することであつて、
君主と議會とが共同に立法者たるのではなく
立法は國民に対しては専ら君主の行爲として發表せれるるのである 」、
第百三十頁に於ける
「 立法司法、行政の總てが 或は君主に依つて行はれ、或は君主に其の源泉を發しているのであつて、
君主が統治權を總攬するとは此の事を意味するのである 」
「 わが憲法の下に於ては立法權も行政權も等しく 天皇の行はせたまふところで、
唯立法には原則として議會の協賛を要するが行政權に附いては原則として要しないといふ區別があるだけである 」
の 説明等を綜合して判斷するには、
前記引用文句は
「 帝國議會の地位は 天皇の行はせ給ふ立法權に對し 國民の代表者として翼賛し奉る機關にして
天皇に直接隷属する行政官庁 及 裁判所とは別異の地位を有すること、
及び帝國議會の活動形態が一般行政廳の如くに直接天皇の命令を仰ぎ
若くは 天皇より委任を受けて職務の執行を爲すものとは異り
欽定憲法に基く權能を行使して行政權、司法權 等の制肘せいちゅうを受くることなく議決に從事するものなること 」
を 説明したるものと了解せらる。
従て出版法第二十六條の
「 皇室の尊厳を冒瀆し 政體を變壊し 國憲を紊亂せんとする文書 」
として處置する要なきものと思料す。

其のニ
美濃部達吉博士著
『 逐條憲法精義 』 の 第五百七十一頁に於て
憲法第五十七條の解説中
「 裁判所は之に反して其の權限を行ふに於て全く獨立であつて勅命にも服しないものであるから
特に 『 天皇の名に於て 』 と曰ひ 以てそれが裁判所の固有の權能ではなく
源を天皇に発し 天皇から委任せられたものであることを示しているのである 」
と 説明し、
又 同博士著
『 憲法撮要 』 第三百五十一頁に於て
帝國議會の説明に就き
「 議會は君主の下にある他の總ての國家機關と其の地位を異にす。
裁判所、行政裁判所、会計檢査院の如き其の權能の行使に附
君主の命に服せざるものと雖も尚 君主より其の權能を授けらるるものにして云々 」
と 説明す。
斯の如く 「 勅命に服しないもの 」 或は 「 君主の命に服せざるもの 」
なる語を以て司法權の獨立を説明するは措辭妥当を欠く嫌あり、
或は出版法第二十六條に触るるに非ずやとの疑問を生ずるも、
該著書全般の趣旨を吟味し、就中 『 逐條憲法精義 』 の第五百六十五頁に
「 而して司法權の獨立とは 或は實質的作用が行政機關の支配を受けずに獨立なる裁判所に依つて
行はるるを要することを意味するものである 」
と 明記しある点を解釋すれば、
前記引用に係る解説の内容は
伊藤公の 「 帝國憲法義解 」 に於て第五十七條の解説として、
「 君主は裁判官を任命し裁判所は君主の名義を以て裁判を宣告するに拘らず
君主自ら裁判を施行せず 不覊ふきの 裁判所をして 専ら法律に依遵威權の外に之を施行せしむ
是を 『 司法權の獨立とす 』 」
と 説明せると同趣旨に歸するものと理解せらるるを以て出版法第二十六條に違反する點なきものと思料す。

然し乍ら
院内外の情勢は政府の斯る態度を許さず、
一方軍部兩大臣は議員の質問に答へて相當鞏硬な意見を述べ、
爲に外部よりは閣内に意見の對立を來したかに見られ、
政府としても議員の猛烈な追及に如何ともすることが出來ず、
遂に岡田首相は機關説問題に就いては愼重考慮の上 善處するを明言せざるを得なくなつた。
機關説問題は事柄の性質上、軍の深く感心を有する所で陸海兩相は議會に於ける質問に答へて早くより
「 機關説といふが如き思想は、我が國體に反すると信ずる、
 軍統督の立場からも斯る思想の消滅を圖ることが必要だと思ふ 」
と 其の意志を明にした。
三月三十日には軍部の意見が機關の徹底排撃を希望する意嚮に一致し、
斯る軍部の要望は直に林陸相、大角海相より閣議に於て披瀝されたと報ぜられた。
( 東京朝日新聞三月三十日附夕刊 )

真崎恐懼総監
四月四日
眞崎教育總監は大義名分を正し、
機關説が國に反する旨を明にした左の如き訓示を部内に發した。
訓示
うやうやしく惟おもんみるに
神聖極を建て 銃を垂れ 列聖相承け 神國に君臨し給ふ 天祖の神勅炳あきらかとして
日月の如く 萬世一系の天皇 かしこくも現人神として國家統治の主體に存すこと 疑を容れず
是 実に建國の大義にして 我が國體の崇高無比嶄然萬邦に冠絶する所以のもの此に存す。
斯の建國の大義に發して我が軍隊は天皇親ら之を統率し給ふ
是を以て皇軍は大御心を心とし 上下一體脈絡一貫行蔵邁進止一に大命に出づ
是り即ち建軍の本義にして 又 皇軍威武の源泉たり。
さきに  明治天皇聖論を下して軍人の率由すべき大道を示し給ひ
爾來幾度か優渥なる聖勅を奉じて 國體、統帥の本義と共に洵に明徴なり
聖慮宏遠誰か無限の感激なからん。
夫れ聖論を奉體し寤寐の間尚孜ししとして軍人精神を砥礪しれいして已まざるは
我が軍隊教育の眞髄なり。
皇軍 外に出でて數々征戰の事に從ひ 内にありて常に平和確保の柱石となり
皇猷こうゆう扶翼の大義に殉じたるもの 正に軍人精神の發露にして
國體の尊嚴建國の本義 眞に不動の信念として
皇國軍人の骨髄に徹したるに由らずんばあらず。
然るに 世上民心の變遷に從ひ 時に國體に関する思念を謬あやまりしものなきにあらず。
会々最近時局の刺戟と皇軍威武の發揚とに依り 國體の精華弥々顯現し来れる時
國家は以て統治の主體となし  天皇を以て國家の機關となすの説 世上論議の的となる
而して此種所説の我が國體の大本に關して吾人の信念と根源において相容れざるものあるは
寔に遺憾に堪へざるところなり。
惟ふに皇軍將兵の牢乎たる信念は固より 右の如き異説に累せられて微動だもするものにあらず
然れども囂々ごうごうたる世論 或は我が軍隊教育に萬一の影響を及すなきやを憂ひ
之を黙過するに忍びざるものあり。
世上会々此論議あるの日、事軍隊教育に從ふ者須らく躬ら研鑽修養の功を積み
その信念を弥々堅確ならしむると共に 教育に方りては啓發訓導機宜きぎに敵ひ
國體の本義に關し釐毫りごうの疑念なからしめ
更に進んで此の信念を郷閭民心の同化に及し
依つて以て軍民一体體萬世に伝ふべき國體の精華を顯揚するの責に任ぜんことを玆に改めて要望す。
邦家曠古の難局に方り 皇軍の精鞏を要することいよいよ切實なる秋
本職國軍教育の責に膺あたり 日夜専心 その精到を祈念して已まず
此際敢て所信を明示し 以て相俱に匪躬の節を効さんことを期す。
眞崎甚三郎

  南次郎大将
次いで
四月十三日
南 関東軍司令官より
関東軍國體観念明徴に關し 左記の訓示が与へられた

最近我が國體観念に關し 美濃部學説云々等種々議論の行はるるものありて
我が崇高無比の國體に對しその明瞭を疑はしむるが如き言説の流布せられあること諸官既に熟知の如し。
大元帥を頭首と仰ぎ奉る我が皇軍就中閫外の重任を承け日夜軍人に賜りたる勅諭を奉體して
皇軍大業の成就に邁進しつつある我が関東軍にありては
かかる學説に基く誤れる國體観念の如き固より一顧だもするものなしと信ずると雖も
現下益々重大性を加へつつある内外一般の情勢に鑑み
諸官は本職屢次の訓示を體し 愈々部下に對する指導を適切にし 確乎不抜の國體観念、
皇軍意識を堅持せしめ 以て関東軍の重大使命の達成に聊いささかの遺憾なきを期すべし。
右訓示す。

又此と相前後して軍部の機關説批判及び排撃の理由を明にした
「 大日本帝國憲法の解釋に関する見解 」
と 題するパンフレットが
陸軍省軍事調査部長 山下奉文の名に依り 帝國在郷軍人會本部より發行された。

斯くの如く軍部は此の問題に關しては當初より相當鞏硬態度を示し
此の際 國體に關する疑惑を一掃せんとする意嚮を以て臨んでいたものと見られる。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動  より
第四章  国体明徴運動の第一期  第三節  当初に於ける政府の態度

現代史資料4  国家主義運動1  から
 

国体明徴と天皇機関説 に 続く


國體明徴とニ ・ニ六事件

2021年10月18日 13時18分03秒 | 國體明徴と天皇機關説

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動

第八章  国体明徴問題と永田軍務局長刺殺事件、ニ ・ニ六事件  から


相澤事件の公判期日愈々切迫して彼等が躍起となつた昭和十年十二月、
第一師團が近く満洲に派遣せられる内命が下つたとの報が伝はつた。
其処で村中孝次、磯部浅一、栗原安秀 等は
第一師團將士の渡満前 主として在京の同志に依り 速に事を擧げる必要があると考へ、
香田清貞大尉 及び直心道場の澁川善助 等と共に其の準備に着手し
相澤中佐の公判を利用し、或は特權階級腐敗の事情、相澤中佐蹶起の精神を宣伝して
社會の注目を集めると共に 同志の決意を促しつつあつたが、
情勢は今や熟し 正に維新斷行の機 到來せるものと観察し
爾來各所に於て同志の會合を重ね、實行に關する諸般の計畫準備を整へ
又 歩兵大尉山口一太郎、北輝次郎、西田税、亀川哲也 等と通牒した上、
二月二十六日午前五時を期し
現役將校二十名は國體擁護開顯、維新阻止の奸賊誅滅芟除を標榜し、
千四百八十余名の下士官兵を動員して、
総理大臣岡田啓介、内大臣齋藤實、大蔵大臣高橋是清、
侍従長鈴木貫太郎、教育總監渡邊錠太郎の官私邸を、
元内大臣牧野伸顕の宿泊せる湯河原伊藤屋旅館別荘を襲撃して、
齋藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡邊錠太郎教育總監、即死せしめ、
鈴木侍従長に重傷を負はしめ、
總理大臣官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省參謀本部、警視廳 等を初め
桜田門、赤坂見附、三宅坂を環る一帯の地域を占拠するの一大叛乱事件を勃發せしめた。
・・・中略・・・
陸軍当局の發表する処によれば
ニ ・ニ六事件の原因動機は
「 村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、對馬勝雄、中橋基明 は
夙に世相の頽廃たいはい人心の軽佻を慨し 國家の前途に憂心を覺えありしが
就中 昭和五年の倫敦条約問題、昭和六年の満州事變 等を契機とする
一部識者の警世的意見、軍内に於ける満州事變の根本的解決要望の機運等に刺戟せられ
逐次内外の情勢緊迫し我國の現狀は今や黙視し得ざるものあり、
當に國民精神の作興、國防軍備の充實、國民生活の安定等方に
國運の一大飛躍的進展を策せざるべからざるの秋に 當面しあるものと爲し、
時艱じかんの克服打開に多大の熱意を抱持するに至れり。
尚 此間軍隊教育に從事し 兵の身上を通じ 農村漁村の窮乏、小商工業者の疲弊を
知得して深く是等に同情し
就中一死報國、共に國防の第一線に立つべき兵の身上に
後顧の憂い  多きものと思惟せり。
澁川善助 亦一時陸軍士官學校に學びたる關係に依り
同校退校後も在學當時の知己たる右の者の大部と相交はるに及び
此等と意氣相投ずるに至れり。
而して其の急進矯激性が國軍將士の健實中 正なる思想と相容れざりしに由り
思想傾向相通ずる歩兵大尉大蔵栄一、同菅波三郎、同大岸頼好 等の同志と気脈を通じ
天皇親率の下 擧軍一體たるべき皇軍内に所謂同志観念を以て横斷的結合を敢てし、
又 此の前後より前記の大部分は北輝次郎、及び西田税との關係交渉を深め
其の思想に共鳴するに至りしが、
特に北輝次郎著 『 日本改造法案大綱 』 たるや
其の思想根底に於て絶対に我國體と相容れざるものに拘らず
其の雄勁ゆうけいなる文章等に幻惑せられ、
爲に素朴純忠に発せる研究思索も漸次獨斷偏狭となり 不知不識の間 正邪の辧別を誤り
國法を軽視するに至れり。
而して此間生起したる昭和七年血盟團事件 及び 五 ・一五事件に於て深く同憂者等の蹶起に刺戟せられ
益々國家革新の決意を固め、右目的達成の爲には非合法手段も亦敢て辭すべきに非ずと爲し
終に統帥の根本を紊り
兵力の一部を僭用するも已むなしと爲す危険思想を包蔵するに至れり。

斯くて昭和八年頃より一般同志間の連絡を計り
又は 相互会合を重ね種々意見の交換を爲すと共に
不穏文書の頒布等各種の措置を講じ 同志の獲得に努むるの外、
一部の者に在りては軍隊教育に當り獨斷思想信念の下に
下士官兵に革新思想を注入して其の指導に努めたり。

次で昭和十年 村中孝次、磯部浅一 等が不穏なる文書を頒布せるに原因して
昭和十年 官を免ぜらるるや 著しく感情を刺戟せられ
且 上司より此種運動を抑壓せらるるに及びて 愈々反撥の念を生じ
其の運動 頓に尖鋭を加へ 更に
天皇機關説を繞めぐりて起れる國體明徴問題の発展と共に其の運動益々熾烈となり、
時恰あたかも教育總監の更迭あるや
之に關する一部の言を耳にして軽々なる推斷の下に 一途に統帥權干犯の事實ありと爲し、
深く此の擧に感動激發せらるる所あり、
遂に統帥權干犯の背後には一部の重臣財閥の陰謀策動ありと爲すに至れり。
就中此等重臣は倫敦條約以來 再度兵馬大權の干犯を敢てせる元兇なるも
而も此等は國法を超越する存在なりと臆斷し、
合法的に之が打倒を企圖するとも到底其の目的を達し得ざる由り
宜しく國法を超越し 軍の一部を僭用し 直接行動を以て、此等に天誅を加へざるべからず。
而も此の運動は現下非常時に処する獨斷的義擧なりと斷じ
更に之を契機として國體の明徴、國防の充實、國民生活の安定を庶幾し
軍上層部を推進して所謂昭和維新の實現を齎もたらさしむことを企圖せるものなり。」
と 云ふにある。

其の原因動機は
要するに北輝次郎、西田税を思想的中心とする軍内の青年將校の横斷的一群が
昭和維新を目標として皇軍の粛正に邁進しつつあった折柄、
村中、磯部 等の停職処分、國體明徴の不徹底乃至其の抑壓、
彼等が心服し革新の中心に推立てていた眞崎教育總監の更迭、
第一師團の渡満 等に刺戟せられ
此等の事實の背後には革新運動を阻止せんとする一部重臣、財閥の策動があつたと認め、
直接行動に依り此等重臣を排除し
之を契機として、
眞崎大將を推立て、國體の明徴、國防の充実、國民生活の安定を期し
以て昭和維新を實現せしめんとしたにあつた。
ニ ・ニ六事件は國體明徴運動の与へた影響の最大なるものであると共に、
それ自體正に國體明徴運動の最も急進的尖鋭的な現れであつたと云ふことが出來る。
されば彼等の 『 蹶起趣意書 』 中にも
「 謹んで惟みるに 我が神州たる所以は萬世一系たる  天皇陛下御統帥の下に
擧國一體 生々化育を遂げ 終に釟紘一宇を完うするの國體に存す。
此の國體の尊嚴秀絶は  天祖肇國神武建國より明治維新を經て益々體制を整へ
今や方に万邦に向つて開顯進展を遂ぐべきの秋なり。」
「 所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政黨等はこの國體破壊の元兇なり。」
「 内外眞に重大危急にして國體破壊の不義不臣を誅戮ちゅうりく
稜威を阻止し來れる奸賊を芟除するに非ずして宏謨を一空せん 」
「 臣子たり股肱たる絶對道を今にして盡さずんば、破滅沈論を翻すに由なし、
玆に同憂同志軌を一にして、蹶起し 奸賊を誅滅して大義を正し 國體の擁護開顯に肝脳を竭つく
以て神州赤子の微衷を献ぜんとす 」 云々
と 書かれ、
國體を明徴にせんとする
已むに已まれぬ情熱より蹶起するに至つた旨が鞏調されている。
 渡邊錠太郎教育總監
尚 教育總監 渡邊錠太郎大將が襲撃され、遂に犠牲となつたに就いては
同大將が 天皇機關説擁護者であるとの巷説が其の一因を爲していたと推知される。
其の巷説なるものは、
昭和十年十月三日 同大將は熊本からの帰途 郷里名古屋に立寄り、
同日午後第三師團留守司令部に赴き 下元留守司令官より情況報告を受けた後、
偕行社に各部隊長を集めて一場の訓示をなした際、
天皇機關説問題に言及し、
「 機關説が不都合であると云ふのは今や天下の輿論であつて、萬人無条件に之を受け入れて居る。
 然し乍ら 機關説は明治四十三年頃からの問題で當時山県元帥の副官であつた渡邊は
その事情を詳知している一人である。
元帥は上杉博士の進言によつて當時の學者を集め研究を重ねた結果
之に對して極めて慎重な態度を執られ 遂に今日に及んだのである。
機關と云ふ言葉が惡いと云ふ世論であるが 小生は惡いと斷定する必要はないと思ふ。
御勅諭の中に 『 朕ヲ頭首ト仰ギ 』 と仰せられて居る。
頭首とは有機体たる一機關である。
天皇を機關と仰ぎ奉ると思へば何の不都合もないではないか。云々
天皇機關説排撃、國體明徴と餘り騒ぎ廻ることはよくない、
これをやかましく云ひ出すと
南北朝の正閏をどう決定するかまで溯らなければ解決し得ないことになる。云々 」
と 述べたに對し、
一部隊長は憤然と立上つて
「 眞崎前教育總監からは、天皇機關説を徹底的に排撃すべきことを明示されているが、
 今後我々は如何にすれば良いのか 」
と 質問的に抗議したので
總監に随行して居た教育總監部第一課長が代つて
「 渡邊大將個人としての私見であつて教育總監として述べたのではない 」
と 釋明し 其の場を取り繕つたと云ふのである。
・・リンク→渡邊教育總監に呈する公開状

現代史資料4  国家主義運動1  から


國體明徴と相澤中佐事件

2021年10月17日 12時52分30秒 | 國體明徴と天皇機關説

國體明徴運動が全國的に一大波瀾を捲起していた眞最中の
昭和十年八月十ニ日
相澤三郎中佐が
陸軍省軍務局長室に於て軍務局長永田鐵山少將を刺殺し
之を制止せんとした東京憲兵隊長新見秀夫大佐に傷害を加へた 一大不祥事件が勃發した。
 
昭和11年8月12日
陸軍當局の發表する処に依れば
相澤中佐は昭和四、五年頃より 内外の情勢に關心を寄せ
當時の世相を以て思想混乱し 政治・經濟・教育・外交等萬般の制度機構 何れも惡弊甚しく、
皇國の前途 眞に憂慮すべきものがあるとして 之が革正刷新の要あるものとしていたが、
其の後 大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一 等 ( ニ ・ニ六事件関係者 ) と相職るに及び
益々國家革新の信念を鞏め、昭和八年より昭和維新の達成には、
皇軍が國體原理に透徹し 擧軍一體となつて皇運の扶翼に邁進せねばならぬに拘らず
陸軍の情勢には之に背戻するものがありしとし 其の革正を斷行する必要を感じていたが、
昭和九年三月 永田鐵山が軍務局長に就任するや前記同志の言説等によつて、
同局長を以て 其の職務上の地位を利用し、軍の統制に名を籍り、
昭和維新の運動を阻止するものと看做した。
次いで同年十一月 当時歩兵大尉村中孝次、一等主計磯部浅一等が
叛乱事件陰謀の嫌疑を受けて軍法會議に於て取調を受け、
昭和十年四月 停職處分に附せられるに及び、
同志の言説 或は怪文書により右事件 ( 十一月二十日事件 ( 陸軍士官学校事件 ) )
永田局長等が同志の將校を陥れんとした奸策であると解して大に憤慨し、
更に同年七月十六日平素敬慕していた眞崎甚三郎大將が教育總監の地位を去つたので
又 永田局長の策動に基くものと推斷し、上京して永田局長に辭職を勧告する等の事があつたが、
當時西田税、大蔵栄一大尉等より教育總監更迭の經緯を聞き
又 村中孝次 送付の 「 教育總監更迭事情要点 」 發想者不明の 「 軍閥重臣閥の大逆不逞  」
 
等の怪文書に依り
総監更迭は永田局長等の策動により眞崎大將の意思に反し敢行されたものであつて、
本質に於ても亦 手続上に於ても 統帥権干犯であるとして 痛く憤慨していた処、
偶々 同年八月一日 臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せられ、
翌日 村中、磯部両名の筆に成る 「 粛軍に関する意見書 」 を入手閲讀し、
一途に永田局長が元老、重臣、財閥、新官僚と款を通じ 昭和維新の氣運を彈壓阻止し、
皇軍を蠧きくいむし毒するものであると考へ、此の儘臺灣に赴任するに忍びざるものがあり、
此際 自己の執るべき途は永田局長を倒すの一事あるのみと信じ、
遂に同局長を殺害せんと決意するに至つたものである。
相澤中佐
又 昭和十一年五月九日の陸軍當局談は
・・・同中佐が・・・永田中將を目して政治的野心を包蔵し、
現狀維持を希求する重臣、官僚、財閥等と結託し 軍部内における革新勢力を阻止すると共に、
軍をして此等支配階級の私兵と化せしむるものなりとし、
其の具体的事例として
(一)  維新運動の彈壓
(ニ)  昭和九年十一月、村中、磯部等に関する叛乱陰謀被疑事件に對する策動
(三)  教育總監更迭に於ける策謀
(四)  國體明徴の不徹底
等を擧げて居るのである。  ( 以下略 )
と 言つている。
此の如く本件動機の一として永田局長の國體明徴問題に對する態度が
元老、重臣、財閥、新官僚 等 現狀維持を希求すると稱せられていた所謂現狀維持派と結託して、
革新勢力を阻止せんとする具体的事例として擧げられている。
即ち皇道派なる青年將校に絶對的支持を得ていた眞崎甚三郎大將は、
天皇機關説問題發生するや教育總監として勅裁を仰いだ上
四月四日 天皇機關説が我が國體と相容れず
皇軍の精神上その存在を許すべからざる趣旨を強調した訓示を全軍に発し
國體明徴の徹底を期する積極的態度を明にした。
・・リンク→『 國體明徴 』 天皇機關説に関する眞崎教育總監の訓示 
永田軍務局長
之に反し 永田軍務局長は天皇機關説が政治問題に移行し
政府の声明といふ事にもなり、・・リンク→ 
國體明徴と天皇機關説 
國體の本義を闡明せんめいせねばならぬ情態となるや、極めて慎重の態度を取つた爲め、
他より國體明徴に熱意を欠き 聲明に反對しているものと見られた。
而も 策動して自己と對蹠的たいせきてきにある眞崎大將をして教育總監の地位を去らしめたとの巷説は、
國體原理の透徹を希ふ相澤中佐をして
永田軍務局長が現狀維持派と結託して
革新運動の中心目標である國體明徴を曖昧ならしめんとする意圖を蔵する証左と思惟せしめたのである。

・・・國體明徴運動は
昭和十年の中頃より革新原理の標識としての意義が鞏調されたのであるが、
民間皇道派の直心道場系一派に於ては
永田軍務局長刺殺事件發生し軍内の派閥闘爭が表面化し
又 軍首脳部が政府第二次聲明を容認し 在郷軍人の鎮静に乗出し 漸次運動を微温化せしめることに成功するや、
彼等は國體明徴を粛軍運動に關聯せしめ
國體明徴とは單なる學説 竝にニ三學説主唱者の排撃折伏にあるのではなく、
埋没された國體實相を開顯し 歪曲されたる皇國組織を是正し
而して革正された皇國態勢を以て全世界に天業を恢弘し奉らんとするにあるものなるが故に、
機關説主唱者の折伏より 更に之を庇護し、
其の實行者として國體を梗塞せる現狀維持、政權壟断層の排撃へと進展せしむべきものであつたに拘らず、
永田局長を総帥とする統制派なる軍内の一團は重臣ブロック、財閥、新官僚と結託し
皇道派に燃える青年將校を彈壓し、十一月陰謀事件を捏造し
「 粛軍に関する意見書  」 を頒布した廉を以て 村中、磯部両大尉を免官處分に附し、
或は 統帥權干犯の嫌疑を惹起して迄 國體明徴を主唱した眞崎教育總監の更迭を鞏行して皇軍の本義を紊り、
( ・・リンク→  昭和十年四月九日 「 眞崎教育總監の機關説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」 )
又 眞崎大將に代つた渡邊錠太郎教育總監は名古屋に於て機關説擁護とも見るべき訓示を爲している。
されば國體明徴と粛軍と維新とは一個不可分であり、
現制度機構維持の勢力が政權を壟断し、國民至誠の國體明徴問題に耳を藉さざる現在に於ては、
皇軍の維新的粛正は國體明徴、維新に必須の段階であり、
皇軍の維新的粛正なくしては、諸政百般に國體精華の實を期するは、百年河清を待つに等しく、
今や粛軍は國體明徴、維新聖戰に於て歴史的必然の段階を爲すものであると宣伝煽動した。
殊に相澤公判期日の切迫と共に 西田税、村中孝次、磯部浅一 等は
直心道場の分子 澁川善助、杉田省吾、福井幸 等を指導し
雑誌 「 核心 」 「 皇魂 」 新聞 「 大眼目 」 を總動員して
「 國體明徴---粛軍---維新革命 」 は正しく三位一體の指標であつて
相澤中佐蹶起の眞因は玆に在つたと鞏調して、
左記の如き文書等に依り 盛に他の愛国團體に飛檄して
公判公開の要請 及び 減刑運動を慫慂し 昭和維新達成の氣運醸成を圖つた。

相澤中佐公判に對する直心道場の方針眉
一、
國體明徴と粛軍と維新は三位一體なり
國體明徴が單なる學説 竝 學説信奉者の排撃に止まる可からず、
諸制度百般に歪曲埋設せられたる國體實相の開顯

而して此の維新せられたる皇國態勢を以てする全世界の現狀を維持せんとする勢力
( 機關説擁護 = 資本主義維持 = 法律至上主義 = 個人主義自由主義 ) 
が 現に政治的勢力を掌握しあり、
又 内外勢力の切迫より檯頭だいとうせる所謂 金權ファッショ勢力
( 權力主義者と金權との結託せる資本主義修正、統制萬能主義勢力 = 官僚ファッショ は此の一味 ? )
が 政権權を窺窬きゆしつつある今日に於て、
まつろはぬ者共を討平げ 皇基を恢弘すべき實力の中堅たる皇軍の維新的粛正は、
國體明徴維新聖戰に不可欠の要件焦眉しゅうびの急務なり。
一、
國體明徴運動途上に於ける陸軍首脳部の態度は
新陸相に於て金權ファッショ的野望を抱きながら
郷軍と鞏壓と永田の伏誅に餘儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄動たり、
現陸相に於て國體護持、建軍本義に恥ずべき右顧左眄たり。
対政府妥協たるは何ぞ
是れ皇軍内部に巣喰ふ反國體勢力への内通者、
ファッショ勢力 乃 至自由主義明哲保身流の國體に対する無信念
皇軍の本義に対する無自覚に禍せられたるによらずんばあらず、
國民と軍の現狀に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
一、
永田事件直後に於ける陸軍當局の發表は相澤中佐を以て 「 誤れる巷説を妄信したる者 」
とせる眞相隠蔽事實歪曲たり。
次で師團長、軍司令官會議に於て發したる陸相訓示は全く皇軍の本義を解せず、
時世の推移に鑑みざる形式的 「 軍紀粛正 」 「 團結強化 」 の鞏調にて
其の結果は忠誠眞摯なる將士の処罰たり、
此の方針を踏襲せる現陸相は其の就任当初の國體明徴主張を空文として政府と妥協したるのみか
至純なる郷軍運動を抑壓するの妄挙に出で來る。
國民の憤激は誘發せられざるを得ず。
一、
現役のみが軍人に非らず、國民皆兵軍民一體なり、
全國民は皇軍の維新的粛正に對し十全の要望督促をなさざるべからず。
一、
今や皇軍身中の毒虫を誅討せる相澤中佐の豫審終結し 近く公判開始せられんとす。
國民は眞個軍民一體の皇軍扶翼を可能ならしむべく 皇軍の維新的粛正を希求し
此の公判を機會として軍内反國體分子の掃蕩を要求すべし。

(1)  公判は公開せざるべからず。
一部首脳者の姑息なる秘密主義は國民をして益々皇軍の實情に疑惑を深めしめ、
軍民一體を毀損し  大元帥陛下御親率国民皆兵の本義に背反するものなり 。
(2)  三月事件、十月事件の眞相、永田軍務局長の暗躍、十一月誣告事件の眞相、
總監更迭に絡む統帥權干犯嫌疑事實は、

軍を闡明ならしめ 責任者を公正に處斷して上下の疑惑を一掃し 軍の威信を恢復すべし。

粛軍は單に軍部内に於ける國體明徴なるのみの意義に非らず、
粛軍の徹底は破邪顕正の中堅實力の整備を意味する。

反國體現狀維持勢力が政權を壟斷し國民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
言論、決議勧告のみにして實力の充實威力の完備なき糾彈は政府の痛痒を感ずる所に非らず、
実に粛軍は國體明徴の現實的第一歩にして維新聖戰當面の急務なりとす。
以上

斯くて相澤中佐の公判は昭和十一年一月二十八日より開廷され、
ニ ・ニ六事件勃發の前日迄 十回開廷されたが、其の間 彼等は益々積極的に公判闘爭の指導に乗出し
軍内外の革命情勢の誘致に全力を濺いだ。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動

第八章  国体明徴問題と永田軍務局長刺殺事件、ニ ・ニ六事件
現代史資料4  国家主義運動1  から


國體明徴と天皇機關説

2021年10月16日 12時13分05秒 | 國體明徴と天皇機關説

機關説排撃國體明徴運動は七月に入り益々拡大し、
政府に對し、
問題の徹底的解決を要望する運動は熾烈を極め、
美濃部博士を告發した江藤代議士は機關説排撃に関し上奏分を内大臣に提出したと傳へられた。
殊に軍部は鞏硬態度を持し、屢々しばしば陸海兩相より岡田首相に善処方を要望したが、
七月三十一日の非公式の軍事參議會に於ては林陸相の
「 政府をして先づ機關説排撃を明示すべき正式聲明を爲さしむる 」 
方針は支持され ( 東京朝日七月三十一日付朝刊 )、
全軍一致の要望として岡田首相の聲明が要求された。

斯る情勢の裡に、
種々の紆余曲折を經て遂に八月三日
政府は國體明徴に關し左の如く聲明 及び岡田首相談を發表した。



政府の國體明徴に關する聲明 ( 全文 )  ・・・ 第一次國體明徴聲明
恭しく惟みるに、
我が國體は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、
萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の隆は天地と倶に窮なし。
されば憲法發布の御上諭に
『 國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ 』
と 宣ひ、
憲法第一條には
『 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス 』
と 明示し給ふ。
即ち大日本帝國統治の大權は儼として天皇に存すること明かなり。
若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、
是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり。
近時憲法學説を繞り國體の本義に關聯して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。
政府は愈々國體の明徴に力を效し、其の精華を發揚せんことを期す。
乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。
・・・「 國體明徴に關する政府聲明 」 昭和九年八月三日 
岡田首相談話
一木氏は三十余年前広く國法學を講じて居られていたが
特に日本帝國の  天皇の御地位のことに就いて 云々せられてをらぬと聞いている。
しかし其後學者たる地位を棄てて長年宮中に奉仕せられ
學問とは縁を絶つて今日に及んでをられるものであるから
この問題のために同氏の身上に影響の及ぶが如きことは斷じてない。
又 金森法制局長官は機關説ではないと聞いているからこれまた問題は起こらぬ。

軍部兩慮大臣の鞏硬意見は八月二十七日の帝國在郷軍人会 全國大會の訓示に、
更に司法處分決定後の閣議に於て明にされ、
遂に政府は 十月十五日 再聲明を爲すに至つた
再聲明 ( 全文 )  ・・・ 第ニ次國體明徴声明
曩に政府は國體の本義に關し所信を披瀝し、
以て國民の嚮ふ所を明にし、愈々その精華を發揚せんことを期したり。
抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體の本義にして、
帝國臣民の絶對不動の信念なり。
帝國憲法の上諭竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察す。
然るに漫りに外國の事例・學説を援いて我國體に擬し、
統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、
天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體に悖り、
其の本義を愆るの甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず。
政教其他百般の事項總て萬邦無比なる我國體の本義を基とし、其眞髄を顯揚するを要す。
政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明し、
以て國體觀念を愈々明徴ならしめ、其實績を收むる爲全幅の力を效さんことを期す。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
第七章  国体明徴運動と国家改造運動  から

昭和十年二月 天皇機關説問題發生以來 漸次擴大し 深刻化した所謂國體明徴運動は
幾多の波瀾を生み政府をして再度の聲明を餘儀なくせしめた程に
重大な社會問題政治問題となつたのであるが、
十年度の後半 殊に第二次聲明以後に於て此問題は維新運動との關聯に於て協調され
之を契機として所謂昭和維新運動を推進せしめようとする革新勢力の著しい努力が見られた。
國體とは  天祖のご神勅を體して日本國を肇造し給うた  國祖の御理想
即ち 君民一體、一君萬民、八紘一宇の謂である。
國民の營む思想的生活、政治的生活、經濟的生活 等凡ての全生活は悉く之を基本とし
之を大本とし 之を理想としなければならぬ。
國體を明徴にすると云ふことは、単なる邪説機關説を絶滅するだけのことではあつてはならぬ。
我國體と絶對に相容れぬ機關説を撲滅するのは當然であるが、
夫れだけでは我國體を弥が上にも明徴する所以ではない。
明治以來盲目的に取入れられた西洋流の個人主義自由主義なる機關説的思想を一掃すると共に
此の精神に依り作られ 若しくは其の豫派に依つて出來ている処の 政治、經濟、社会、法律、教育 等
凡ゆる制度機構に対し國體に合致するやう根本的改廢を行ひ、
玆に日本精神を發揚し 皇國日本の眞姿を顯現して 新日本を建設しなければならぬ。
斯くしてこそ始めて國體明徴は完成し得るものであつて
國體明徴問題は現状維持ではなく、
國家改造の革新運動の先端に立つべきものであることが強調された。
此処に於ては國體明徴運動は學説排撃と云ふが如き部分的獨立的のものとしてではなく、
昭和維新を所期するものに依つて革新原理の標識としての重要意識を持たしめられた。
その鋭鋒は凡ゆる日本的ならざるものに向けられたのであるが、
特に顕著なものを挙ぐれば 機關説とその母體を同じくする自由主義的資本主義機構の改革と、
機關説的政治支配を以て目される所謂重臣ブロックの排撃とである。
斯くの如く 國體明徴が革新原理の標識として重大意義を持たらしめられた状況を知るため
以下に當時發行された文書を引用する。

松田禎輔は雑誌 「 大日 」 ( 第一一八号 ) に 「 國體明徴の眞意義 」 と題し
「 國體を明徴にすると云ふことは、単に邪説たる機關説を絶滅するだけのことであつてはならぬ。
我が國體と絶對に相容れないところの機關説を排撃する、夫れは當然の事柄であるけれども、
夫れだけでは我が國體をいやが上にも明徴にする所以ではない。
機關説の精神で作られた、若しくは其の豫波で出來ているところの典章文物諸制度を、
國體と合致するやうに根本的に改廃して、玆に日本精神を顯揚すると共に、
皇國日本の眞姿をハッキリ示してこそ、玆に始めて我國體はいやが上にも猶一層明徴に成る。
國體明徴問題を期するといふことになれば、夫れは取りも直さず、國家の根本的改造にまで進まなければならぬ。」
と 論じて
國體明徴を國家改造の機縁たらしめなくてはならぬと強調している。

所謂民間の皇道直心道場系の新聞 『 大眼目 』 は 國體明徴の意義に關し
「 國體とは何ぞや、
神勅を體して此の日本國を肇造し給へる神武國祖の御理想
---而して  明治天皇によりて最も明白にされたる---
即ち、君民一體、一君萬民、八紘一宇 の謂である。
日本國民の營む所の思想的生活、政治的生活、經濟的生活、全生活は之れを大本とし之れを理想とすべく、
而して日本國の制度方針は此の國民の此の生活に相應はしき所のものでなければならぬ。
總じて日本的生活---日本の一切は此の御理想 即ち國體を生活することである。」
「 即ち思想的には、機關説と共に其他一切の反國體的思想の排撃でなければならぬ。
彼の無政府共産思想の如き 固より然り。」
と 論じて
國體明徴が思想維新を所期するものである點を明にするに次いで
「 然り而して國體明徴とは既述の思想的解決を遂ぐると共に、
之に聯關して政治的にも經濟的にも遂行せられなければならぬものである。
即ち現實の政治生活に於て、經濟生活に於て、
彼の反國體思想を體現し實行しつつある不当なる存在を芟除し、
現實の施設に於ける矛盾謬妄を革正することである。
何者が不當存在たる目標であるか。
重臣ブロックである。
議會至上主義の政治集團である。
物質萬能功利主義の資本財閥である。
權力主義の官僚群である。
皇軍を私兵化する軍閥である。
腐敗せる教團である。
衰亡政策の外交團である。
國體を破壊する学園である。
國體を破壊する所謂社會運動の妄動群である。
及び之等によって實現せられ存在せる國家社会の矛盾せる制度施設である。
かかる思想とその制度施設によつて國體を生活し得ざる國民を窮乏苦悶のどん底より救出解決することである。
然してこの飛躍せる日本的生活を對外的に擴大充實して八紘一宇の思想を遂ぐべく
當面切迫せる外患を粉砕してアジアの奪還興復に進軍せねばならぬ。
嗚呼、これ現代の尊皇と討幕と攘夷とではないか。
第二の維新革命ではないか。
國體は明徴の名に於て、今日の日本に向つて維新革命の再戰を要求している。
火の如く要求している。
國體を生活せんとする日本國民は維新革命を生活せよ。」
と 言ひ、
昭和維新に於ける尊皇攘夷は重臣ブロック、政黨、財閥、官僚、軍閥 等々
現状維持の幕府的勢力の排除と、
彼等により運營せられている制度機構の矛盾欠陥の克服にあると為して煽動し、
革命機運醸成に努めている。

又 所謂現狀維持派を機關説的思想の實行者と目して専ら其の排撃に努めた者に
國體擁護聯合會の五百木良三がある。
彼は雑誌 「 日本及日本人 」 ( 第三三〇号 ) に於て
「 國運進展と國體問題の推移 」 と題し
「 端的に言へば、今の所謂元老重臣ブロックを中心に結束されたる
支配階級智識階級の大部分は皆此の御仲間である。
即ち 西園寺公を筆頭に牧野内府、一木樞相、齋藤子爵 等々の重臣、
是れ等の推薦によつて成れる現内閣の岡田首相以下軍部以外の各閣僚を初め、
之れに従ふ新官僚の一群、上下両院与黨の一團乃至財閥、流行新聞、阿世学者等 有象無象の面々は、
悉く同一なる美濃部病の保菌者であり、
共に個人主義自由主義國際主義の信奉者として、
議會中心政治の礼讃に、消極政策の提唱に、日本主義の抑制に、軍部勢力の排斥に、
日夕腐心しつつある現狀維持であり、
欧米化思想の支持者であり、機關説思想の實行家である。」
と 言ひ、
次いで岡田内閣の処置を難じた後
「 抑よくも彼等 ( 岡田首相以下閣僚 ) が斯く迄も執拗に邪説擁護に憂き身を窶やつす所以のものは、
果して何の爲めであるか。
其の根本は彼等自身が美濃部一流の欧米化思想の持主たり、
機關説信者たる点に起因すること勿論なるも、
一方には例の元老重臣ブロックのロボットとして、
其の没落過程に在る旧勢力死守の御役目が直接の原因を爲すのである。
於是乎問題は最早是非曲直の爭にあらず、唯の力と力との戰である。
即ち 旧勢力對新勢力、欧化思想對日本精神、消極主義對積極主義、現狀派對維新派
の力競べが事實上の本問題であり、
國體問題は唯だ動機を与へる一個の仲介者たるに過ぎぬ。」
と 言つている。

此のごとく國體明徴問題は國家改造運動の根本目標として其の意義が把握されると共に、
此の問題を契機として一氣に國家改造を斷行して、
所謂昭和維新を遂行し 其の爲には直接行動も辭すべきに非ずとする氣運が逐次醸成せられて行つた。
斯くの如く 國體明徴問題の進展は、精神革命、自由主義的資本主義機構の改革、
機關説的政治支配 所謂 重臣ブロックの排撃、
更に 政黨の打倒 等に及び、凡そ日本的ならざるものと見られ、
國家の發展を阻碍すると考へられる一切の思想、勢力、制度機構の排除克服に其の鋒先を向け
且つ 其の主張は極めて先鋭的となつた。

(1) 國體明徴運動を精神革命の方向に向けるもの
精神革命としての意義は一般的に強調されたところであつたが
野田蘭蔵は三六倶楽部機関誌 「 1936 」 ( 十二月号 ) に於て
國體明徴運動が民族的自覺運動である點を明にして左の如く論じている。
「 機關説の由來するところの社會性が主として仏蘭西獨逸に存在し、
而して佛蘭西 又は獨逸國史の發展は個人主義的國家理念を原則とする意味に於て
君民の一體、忠孝不二の家族國家たる日本歴史とはその根本に於て相容れない本質を持つ。
然るに此本質を異にする東西の歴史を一個の観念に於て合理づけることの不可能なることは
木に竹の芽を挿さんとするものである。
從つて我が日本歴史の發展はこの挿木たる機關説によつて賊そこなはれるのは當然である。
若し夫れ機關説を以て合理的のものとなし、此の理論の上に國策を打ち建てんとするならば、
日本國家の本質を破壊して之を個人主義的國家に改造せざるべからずとの結論に達する。
之即ち 國體の変革である。
然るに日本の歴史は家族國家なるが故に、
君民一體、忠孝不二を原則とするが故に、
天井無窮とせられ國民生活は保障せらるるものに拘らず、
國家法人説を以て之に代ゆるならば 君民は對立となり、忠孝は矛盾する。
かくて民族生活は保障を失ひ 我が皇國は滅亡することになる。
此の意味に於て特に世界危局に直面する日本の生存は
我が國體の本義たる 君民一體、忠孝不二の日本精神を政治的に、
經濟的に、社會的に、道義的に、一切の生活に實践することによりてのみ可能である。」
と 言ひ、
政友會による國體明徴運動も愛國諸團体による此の運動も、
其の動機の如何に関せず、總べて民族主義運動の一部門と見ることが出來るとして
精神革命としての意義を鞏調している。

(2)  國體明徴運動を資本主義打倒に向けるもの
國體明徴運動を資本主義打倒に向けるもので最も徹底した主張を爲したものに直心道場系の大森一声がある。
彼の主張するところは、
日本に於ける資本主義は、
政治権力に依存して發達移入された變態的な官僚主義であつて、
其の高度化に依る獨占形態は自由の美名に隠れて全くこれと背反しながら
少数支配の個人主義的自由の獲得を目標とし、官僚と抱合した金融力はこの本質的な展開を實現し
大産業をその支配下に置き、全經濟機構の至上位に君臨し、政黨を隷属頣使し、
以て完全に一國内の權力層を掌握し盡し、
其の頂点に達した金融支配下に全國民は日々の國民的生活を脅威されねばならぬ現狀にあり、
所謂ブルジョア民主主義は彼等の政治行動形態に過ぎないと 云ふのである。
而して大森は、
かかる民主鞏權的金融支配の横行下に於ては、天皇は機關たらざらんとして得ざるのは當然であって、
資本主義は本質的に天皇機關説である と 言っている。
即ち 金權の封建幕府は、
まつろひを装ひ 逆に機關化することに依つて民主的鞏權支配を敢てしているのであつて、
謂ふところの美濃部学説の如きはこの事實の学的カムフラージによる合理化の鞏弁であり、
所謂機關説論者はその頭脳中に天皇機關説の源泉を持つものではなく、
自己等の属する部層の為め この不逞事實を合理化せんとした傀儡にすぎない と 言ひ、
美濃部博士、一木樞相、金森法制局長官
等の機關説論者を駆逐することは資本主義掃滅の前哨戰であり、
之を機として 資本主義の國體的擬装を剥ぎ取り
以て 所謂昭和維新が經濟部門に於ける國體の明徴であることの社會的定立化を招來しなければならぬ
と 協調している。

新日本國民同盟の 「 第三期國體明徴運動方針基準 」 にも、
此の點が極めて矯激筆致を以て左の如く協調されている。
「 國體明徴運動を大衆的に発展させるには、この問題を國民の日常生活の中に生かし、
國體明徴運動を通じて、昭和維新が斷行出來るのだといふことを、大衆の頭の中に叩き込むにある。
國體明徴といふことは、現在八釜しく言はれているやうな憲法上の爭に重點があるのではなく、
國民の大多数が生活に苦しんでいるために、勿體なくも  天皇政治に暗影が宿つている。
そのむら雲を取り払つて國體を明徴にすることだ。
それを学者や、政治家や、改造運動家がエラさうな文句を竝べ立て、
結局國民に呑み込めぬものにしているのだ。
實は六しいことでも何でもない。
いや 自分たちが困つている生活上の問題を解決して、天子様に御安心をお与へ申すことが
とりも直さず國體明徴運動だと云ふことを、廣く國民に知らしめることが肝要である。
例へば 農村民は働いても貧乏なのに、富者は遊んでいながら益々財産をふやしている。
かやうな不合理な世の中だからこそ 國體が不明瞭になる。
だからと言つて、天子様をお怨み申してはならない。
天子様は我々の大御親でおはします。
日本の國は家族國家である。
この水入らずの家庭の團欒をこはすのは、他に大きな原因があるからである。
外來思想の毒素が日本の政治、社會を不合理にしてしまつたのだ。
その原因を取り除いて現在の政治、社會を改革し、そこに萬民幸福の政治を確立して、
初めて國體は明徴となり、赤子の本分を竭つくす所以なのである。
生活を楽にするのが親への孝である。
國民生活を開放して國體明徴を期するのが大君への忠である。
されば要するに國體明徴運動は資本主義政治の打倒運動である。」

(3) 國體明徴運動を所謂重臣ブロック排撃に向けるもの
所謂重臣ブロック排撃は昭和十年度に特に顕著に現はれ、
國體明徴運動の後半は重臣ブロックの排撃に其の主力が濺がれた観があり、
延いて ニ ・ニ六事件發生前の険惡な雰囲気を醸し出している。
 一木喜徳郎 金森徳次郎
直心道場系の新聞  『 大眼目 』 は 
「國體明徴に關する國民當面の要望 」 と 題して
「 一木枢府議長、金森法制局長官の引退
天皇機關説を流布して反省せざる重臣
牧野内府 其の他 重臣ブロックの引退
機關説的實行者として稜威を冒涜し奉る疑惑に蔽はるる有力者
岡田内閣の辭職
國體明徴の遂行力なきこと今更蝶々を要しない 」
と題する文書に於て
「 一木、金森両氏の天皇機關説は其著述に於て明證せられあるに拘らず
金森氏の所論は機關説にあらずと稱せり。
総理大臣にして此の如き誣言を公表して憚らず
匹夫にだも恥づることなきか
然も 岡田首相、小原法相等をして玆に至らしめたるは 西園寺、牧野、一木、齋藤の諸公なりとす。
一木樞相の天皇機關説を抱持するものなること天下隠れなき処なるに拘らず
之を推して宮内大臣たらしめたるものは西園寺公、牧野内府にあらずや、
又 樞府議長の後任は歴代副議長の昇格を以て其慣例となせるに拘らず
鞏いて其の慣例を破りて迄も 一木を推薦せるは西園寺、牧野、齋藤の三氏にあらずや。」
「 統帥大權を侵犯して倫敦条約を締結せるも彼等の一團なり。
満州事變に反對し 錦州攻撃熱河討伐に反對し 國際聯盟の脱退、華府條約廢棄に反對せるも彼等なり。
今や國體明徴にすら彼等は團結力を以て反對しつつあり。
咄々怪事ならずや 彼等は國家の進運を阻碍し 國體の明徴を妨ぐるものなり。
彼等にして其地位に盤踞するに於ては
幾度内閣の交迭あるも 國運を伸張し國體を明徴ならしむること能はざるなり。
此の故に岡田首相を攻撃するは元老を攻撃するの有効なるに若かざるなり。」
と 述べている。
久原房之助
又久原房之介は文藝春秋十二月号に 「 重臣政府の没落 」 と題して、
「 岡田内閣は擧國一致を標榜し乍らも、その実、重臣内閣に過ぎない、
即ち 政治上の抱負経綸を何等有せざる岡田内閣は
所謂重臣ブロックのロボットとして誂へ向きの存在である。
岡田首相が何等の信念なく重臣達の意圖をその儘承けて政治を行ふ、
換言すれば重臣の意圖の下にその頣しん使に甘んずると重臣達に認められたことが
即ち 岡田内閣成立の因由する重点である、
斯くして岡田内閣の行ふ処は換言すれば重臣政治とも謂ふべきものである。
彼ら重臣は西洋思想に心酔して國體の本義を自覺せず 宮中に奉仕し
自ら神の心として一意専心身命を砕くべきに拘らず、
宮中に於ける勢力を府中にまで及ぼし大權を無視するが如き行動に出づることすら存する、
宮中府中の別を犯し、天皇の尊嚴を冒瀆し、
實にわが國體の本義を紊るものと謂ふべきである、
更に別説すれば彼等の機關説實行の最も深刻 且つ 惡質のものですらある。
併し乍ら斯る重臣ブロックの勢威も大勢の赴く処 既に衰兆を來している。
過去の事實に徴してみても、昭和八年の國際聯盟脱退に際して重臣は脱退反對を唱へ乍ら
遂にその實現を見ず、又 北支事變の時にも重臣はこれを押へんとしたがその意向は實現されなかつた。
最近に至つては統治權の主體たる現人神たる  天皇をわきまへず、
天皇を以て國家の統治權を行使する權限を有する機關なりとすが如き所謂機關説が排撃される、
斯くして重臣ブロックの抱懐する意圖は悉く挫折し、その勢威は愈々その衰退の一路を急ぐに至つた。
斯くの如く國體の本義を冒さんとするが如き重臣政治が次第にその終末を告ぐるはこれ理の當然とする処である。
斯くしてこの重臣ブロックの實力衰退の兆は新しき政治---府中宮中の別を明かにし、
一君萬民、純然たる擧國一致の政治團体の本義に即した政治---
がやがて華々しく展開すべきことを 示すものである。
斯くして我日本に於て國體が明徴にせられ、本然の光を遺憾なく發揮するに至れば
やがてその豫光は全世界にも及ぶに至るであらう。」
と 述べている。

雑誌 「 進め 」 ( 十月号 ) は
「 資本主義崩壊の前夜にあつて其の延命工作として最後に残されたる金融ファッショへ
その政治機構を移向せんとするのは、金融資本の獨占政治を理想としていると見るのが適當である。
故に彼等はその傾向に叛逆する眞の維新改造の士を彈壓し
或は懐柔し 或者は去勢せしむると云ふ方法を取つているのだ。
その役割をひそかに買つて出ているのが重臣ブロックとそれに追随する官僚群と既成政治家に外ならぬ。
彼等重臣ブロックが自己の足元を突かれるを恐れて機關説排撃運動を彈壓するために、
朝飯會を造つたとはそれ自體 國賊的存在である。
これ明に二三金融ファッショへの重要な一貫として意義を持つものである。
ここに於て吾人は速かに朝飯會 即ち重臣ブロックを打倒せよと絶叫するものである。」
と述べ
金融ファッショの所謂機關説支配が
政治部門に於ては重臣ブロックの政治支配の形態に於て行はれていると爲して
之が打倒を鞏調している。
之を要するに國體明徴運動は國家改造運動に迄 推進せしめられ、
岡田首相以下閣僚に國體明徴を不徹底ならしめたとの非難を浴せ、
其の根本原因は彼等自身が美濃部博士一派の欧米化思想の持主であり、
機關説信奉者である點に起因していると爲すと共に、
一方に於ては元老重臣のロボットとして
其の没落過程にある旧勢力死守の役割を爲していることに直接原因があると爲し、
今や問題は旧勢力對新勢力、欧化思想對日本精神、消極主義對積極主義、
現状維持派對維新派の力の闘爭であり、
又 矛盾欠缼けつを暴露せる旧組織制度機構の國體に基く根本的改革にありとされ、
これこそは、現代に於ける尊皇と討幕と攘夷であると叫ばれ、
昭和維新に於ける尊王攘夷に於ては
斯る重臣ブロック、政黨、財閥、官僚等の現狀維持の幕府的勢力の排除と
彼等に依り運営せられている制度機構の矛盾欠陥の克服にあると鞏調されたのである。

此の如く 美濃部学説 「 天皇機關説 」 排撃運動は政府の美濃部博士の著書發禁後、
美濃部博士の嚴罰、一木樞相 其の他 所謂機關説論者の排撃の叫びを捲起しつつ
其の本流は 「 天皇の原義宣明 」 を基調とする國體明徴運動へと進展し、
更にそれは内省的な精神革命を目的とするのみでなく、
革新原理の標識としての意義を持たらしめられ、
現狀維持なる一切の勢力を打倒せんとする革新運動まで發展し、
其の影響する所 極めて大きく、
國體明徴に對する政府の処置に慊あきたらぬ陸軍部内の一部革新的青年將校は、
軍内の特殊事情に依る刺戟に一途に詭激に走り
部外の急進分子と相結んで現狀を打開し
眞に國體を顯現し
之を明徴ならしめんとして、
其の熱情の迸ほとばしるところ
遂に ニ ・ニ六事件といふ
前古未曾有の一大不祥事件を惹起せしめたのである。

昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動
第六章  国体明徴運動の第三期  

現代史資料4  国家主義運動1  から


ロンドン條約問題 『 統帥權干犯 』

2021年10月14日 05時41分25秒 | ロンドン條約問題

昭和四年一月
海軍軍令部長鈴木貫太郎大將は侍從長となり天皇の側近に奉任することになった。
翌 昭和五年浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮條約にからんで、
政府と統帥がその兵力量について對立紛糾したとき、
浜口首相は全權團よりの請訓案をのんで回訓を發しようとし、
天皇に上奏のため拝謁を願い出たのに對し、
加藤軍令部長はこれが反對上奏を行うために、同じように拝謁を願い出た。
ところが鈴木侍從長は
浜口首相の拝謁方を取り計らい 加藤軍令部長の拝謁方はこれを阻止した。
これがため鈴木侍從長の風當りはつよく、
彼は統帥權を干犯したというのでごうごうたる非難にさらされた。
これが彼がニ ・ニ六に斬奸に遭う主たる原因であった。


ロンドン條約問題

『 統帥權干犯 』
目次
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・ 統帥權と軍人精神 

 
ロンドン條約をめぐって 1 『 米國の對日戦略 』
・ ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』 
・ ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』 

・ 
ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』
・ ロンドン條約問題の頃 2 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (1) 』
・ ロンドン條約問題の頃 3 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』
ロンドン條約問題の頃 4 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (4) (5) (6) 』 
ロンドン條約問題の頃 5 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (7) (8) 』

・ 統帥権と帷幄上奏 
・ 鈴木侍從長の帷幄上奏阻止


 小笠原長生 『 ロンドン條約と西田税 』 



佐郷屋留雄
浜口首相狙撃事件
昭和五年十一月十四日 午前八時五十五分頃

総理大臣浜口雄幸が岡山県下で挙行の陸軍大演習陪観の為 西下すべく、
東京駅に至り乗車ホームに差かった際、
同所に於て之を待受けて居た 佐郷屋留雄 の為め

「 モーゼル 」 式八連発拳銃を以て射撃せられ、
瀕死の重傷を負ひ、遂に翌年 ( 昭和六年 ) 八月二十六日逝去した。
佐郷屋留雄 ( 当時二十三年 ) は大陸積極政策の遂行、共産主義の排撃を綱領とし、
民間右翼団体一方の巨頭である岩田愛之助を盟主とする愛国社に身を寄せて居り、
浜口内閣の緊縮財政政策に依る社会不安を見て、
同内閣の倒閣運動に加つて居たが、

一方ロンドン条約に関し 起つた軟弱外交統帥権干犯の世論に刺戟され、
又 政教社のパンフレツト 「 統帥権問題詳解 」 及び 「 売国的回訓案の暴露 」
等を読み、委託憤激した結果この挙に出たものである。


ロンドン條約をめぐって 1 『 米國の對日戦略 』

2021年10月13日 17時48分57秒 | ロンドン條約問題

日露戦争が終わって、
ポーツマス条約が結ばれたのが
明治三十八年九月五日、
それから四年後の明治四十二年 ( 一九〇九年 ) 三月、
米国において一冊の書物が公刊された。

題して 『 無智の勇気 』  著者はホーマー ・リーという人である。
これがたちまち評判になって、ついに数十版を重ねるほどになり米国から英国にひろがり、
ヨーロッパ諸国にも宣伝された。
明治四十四年二月、わが陸軍省でもこれを入手して大臣官房で翻訳し
「 日米必戦論 」 と題して秘密出版し 「 部外秘 」 扱いとして関係者に配布した。
その要は、上編では戦争をひき起す諸原因から説き起し、
将来日米の二大強国の衝突は避けられない必然性があると論じ、
下編では米国の陸海軍の脆弱さと日本の陸海軍の優秀さをいくつかの事例をあげて立証し、
もし この現状で日本と戦えば米国はたちまちにして太平洋沿岸の諸州を失うであろう、
と警告している。
「 太平洋の地図を案ずるに、日本が将来戦争を以て、其地位を鞏固ならしめ、
其主権を確立せんが為に戦う国は、蓋けだし米国以外にこれあらざるなり 」
と 予告し、もし、日本と戦うようになったら、
米国海軍は日本海軍の敵ではない
「 或る午後の数時間に於て、忽ち全滅に帰するや知るべからざるなり 」
と例証をあげて米国海軍の欠点を指摘している。
太平洋の制海権をうばった日本は、
三ヵ月以内に米国の太平洋岸に向って四十万の軍隊を輸送する能力があり、
実戦の経験豊かな有能な指揮官に率いられた勇猛な日本の陸軍は、
ほとんど抵抗らしい抵抗をうけないでシアトル、ポートアイランド、サンフランシスコ、ロスアンゼルス
を占領するであろう。
日本の陸軍が一たび太平洋沿岸を占拠せんか、米軍の反撃はほとんど不可能である。
ロッキー山脈と西部の大草原は、東方からの攻撃に対して絶好の城壁となるであろう。
ましてや米国の訓練不足の常備軍や、戦意のない民兵では、
とうてい歯がたたないだろうと述べている。

今日の眼から見れば奇想天外な空論であり、滑稽この上もないタワ言だと笑い飛ばされるだろうが、
当時の米国の有識者の間では相当深刻に受けとめられたことがうかがえる。
著者によれば、これが起草されたのはポーツマス条約が締結された直後であるという。
日露戦争における日本陸海軍の不思議な強さ、死をかえりみぬ戦いぶりが、
米国の心ある人々に不気味な圧迫感、恐怖感を与えたと想像される。
当時の米国大統領セオドル ・ルーズベルトは、ポーツマス講和会議の開催中の八月二十九日の書簡で
「 余は従来 日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきでなくなった 」
( 朝日新聞社刊 『 太平洋戦争への道 』 第一巻 P一一 ) と 述べているし、
二年後の明治四十年七月にはフィリッピン駐留の米軍司令官に暗号電報を送って、
日本軍の急襲に備える指令を与えている。
さらにルーズベルトは翌四十一年十月、戦艦十六隻からなる大艦隊を日本に親善訪問させているが、
艦隊司令官にはあらゆる万一の危険に備えるよう内命を与えている事から考えて、
日本に対する武力示威の行動であったことはたしかである。 ( 高木惣吉著 『 私観太平洋戦争 』 P六四 
)
これら日露戦争の米国指導層の対日態度を見ると、いかに彼らが好戦国日本という強いイメージをもち、
対日不信感 あるいは 対日恐怖感を抱いていたかがよくわかる。
こうした米国の新しい 「 黄禍論 」 に、さらに拍車をかけたのが、大隈内閣による対華21ヶ条の要求である。
大正四年一月 わが大隈重信内閣は、中華民国の袁世凱政府に対し日華新条約の提議を行った。
内容が五項二十一条から成っていたので、世上これを二十一ヶ条の要求といった。
老獪な袁世凱の引き延し策に、わが政府は五月七日最後通牒をつきつけ、
五月二十五日ついに日華新条約を締結させた。
当時の日本としては明治以来の懸案で、山東半島還付をきっかけに解決をはかろうとした新条約であったが、
これが英米両国を異常に刺戟した。
ことに米国では、中華民国を幼い共和国と認め、日本はそれを脅かす軍国主義の侵略国であると喧伝された。
こうした米国における対日恐怖感、あるいは対日不信感は米国民の感情として定着し、
その後の日米交渉の底流となってゆくのである。

第一次世界大戦が終って見ると、日本は押しも押されもせぬ東洋の強大国として、
ゆるぎない地歩を確立していた。
しかも、大戦後の世界の関心は東洋に移った。
当然 日本と中華民国の問題が、その後の国際問題の中心にならざるを得ない。
これに備えて、米国は大正八年 ( 一九一九 ) ハワイに強力な八八艦隊を配備し、
英国はシンガポール軍港を強化している。
翌九年十月ごろ、米国海軍のホープと折紙をつけられた ヤーネル、パイ、フロスト という三人の将校によって、
対日渡洋作戦の教範が作製された。 ( 高木惣吉著 『 私観太平洋戦争 』 P六五 )
わが海軍でも有力な艦隊----八八艦隊の整備は明治以来の夢であった。
いく度かの挫折をくりかえした後、
大正九年七月 原敬内閣の下で海相加藤友三郎の努力で議会を通過し、
七年後の大正十六年に完成する運びとなった。
こうして日、英、米 三大国の間に激しい建艦競争が演じられることになったが、
長い間の大戦を戦いぬいた各国にとって、過大な軍艦費の捻出は大変な苦痛であった。
こうした世界の大勢をたくみにとらえて開かれたのが、
大正十年 ( 一九二一 ) の ワシントン海軍軍縮会議である。
この会議の結果、
主力艦の保有について米国の主張する五、五、三 の比率を、
わが国も承認せざるを得なくなった。
英米の一〇に対して、わが国はその六割という劣勢である。
これに対し海軍の一部には強い反対もあったが、
海軍大臣加藤友三郎の威望で、これらの反対論者を沈黙させた。
加藤は資源の上からも、経済的な立場からも、米国に依存している日本にとって
強い海軍は必要だが、絶対に米国と戦ってはならない
と広い視野にたった説得で、海軍部内を納得させた。
さらに米国は軍備縮小と東洋問題は不可分であるとして、日本と中華民国の問題を議題とした。
その結果、米国のかねての持論どおりに日英同盟を破棄して、代りに日、英、米、仏の四ヶ国条約を締結し、
中華民国の主権尊重と門戸開放、機会均等を盛りこんだ九ヶ国条約の調印にも成功した。
この結果、わが国の大陸発展政策は出鼻をくじかれて後退を余儀なくされ、
米国は思い通りに日本への捲き返し政策は功を奏した。
さらに昭和二年 ( 一九二七 ) これも米国の首唱で、ジュネーブ会議を開き補助艦制限問題を討議したが、
英米の意見の食い違いから、この会議は不成立に終った。

昭和四年 ( 一九二九 ) 三月、米国大統領に就任したフーバーが、
新たに英国首相となったマクドナルドに呼びかけ、
両者合意の上でロンドン軍縮会議を日本に提案してきた。
その年 七月 内閣を組織した民政党の浜口雄幸は、
その政策の一に軍備縮小と緊縮財政をかかげていただけに、会議の開催には同感である旨を回答した。
首席全権に前首相若槻礼次郎、全権大使に海相財部彪たけし
イギリス大使 松平恒雄、ベルギー大使 永井末三らが選任され、
昭和五年一月 英京ロンドンで補助艦制限会議が開かれることになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談  浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
   
左から
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権  昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員 
谷口軍令部長    加藤前軍令部長    東郷元帥

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わが国では、
この会議はワシントン条約で決定した国防上の不利を是正すべき機会であるというので
外務、大蔵、陸海軍の当局者が協議し、
財政と国防の両面から
一、大型巡洋艦は対米七割
一、潜水艦は現有量を保持する
一、総括的に対米比率七割
の 三大原則を決定した。
しかし、会議は初めから難航した。
英米のニ国はすでに了解ずみであったから問題はない。
中心は日本対米国の折衝であった。

さまざまな曲折を経て、松平恒雄と米国のリードの間で会議が重ねられ、
三月十二日 総括的な比率を対米六割九分七厘五毛、対英六割七分九厘の日米妥協案に合意した。
三月十五日 請訓電に接した政府と海軍では、この妥協案をめぐって検討を重ねた。
海軍大臣不在のため、その職務は浜口首相が兼任しており、次官は海軍中将山梨勝之進であった。
内閣はもちろん賛成で、海軍省の関係者はこの妥協案み止むを得ないものとして賛意を表したが、
軍令部は猛烈に反対した。
軍令部長は海軍大将 加藤寛治、次長は海軍中将 末次信正であった。
「 加藤は直情径行型の熱血漢で、末次は機略に長じた策謀家であった 」 ・・( 朝日新聞社刊 『 太平洋戦争への道 』 第一巻 P一一 )
と 評されているから、末次が陰で策略をめぐらしていたかも知れないが、
この日米妥協案をめぐって空前の紛糾が渦巻き、昭和動乱史の糸口になるのである。
政府と軍令部の紛争は、結局、前海相の岡田啓介のとりなしで
四月一日 政府は交渉妥協の回訓を発するが、問題はそれで終らなかった。
この頃から 「 統帥権干犯 」 という聞きなれぬ言葉で、各右翼団体が政府を攻撃するようになった。
政党政治家である首相浜口雄幸が軍令部長の許諾を得ないで、軍縮条約に調印するよう 回訓を発したことは、
天皇大権の一つである統帥権を犯したというのである。
このため浜口は刺客に襲われて重傷を負い、それがもとで翌六年八月 ついに病歿する。


須山幸雄 著 ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


ロンドン條約をめぐって 2 『 西田税と日本國民党 』

2021年10月12日 05時54分14秒 | 西田税

西田税 
ロンドン條約をめぐって
日本國民党の結成


昭和二年夏の 天劔党事件 以來
・ 天劔党事件 (1) 概要 
・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
・ 天劔党事件 (3) 事件直後に発した書簡   
・ 
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録
鳴りをひそめていた西田税が、やおら世間の表面に顔を出すのはこの頃からである。
昭和四年の春、政友会の田中儀一内閣の時、不戦条約問題が起った。
西田税が他の右翼諸団体とともに果敢な批准反対運動をくりひろげたのがそのきっかけである。
昭和三年八月、フランスの外務省で十五ヶ国の代表者が集って不戦条約に調印した。
いわゆるケロッグ不戦条約といわれるものである。
わが国からは元外相の伯爵内田康哉が全権として出席、調印した。
ところが翌年春になって条文の第一条に
「 人民の名に於て厳粛に宣言す 」
とある一句が、君主国であるわが国の国体に反すると、野党の民政党から攻撃の火の手があがった。
当時もっとも有力な攻め道具である国体問題を、倒閣運動の材料につかったのである。
この不戦条約批准問題は、揉みに揉んだあげく六月の末に批准されるのだが、
この問題に右翼諸団体をあおったのは当時民政党の若手代議士であった中野正剛だった。
西田が後年
「 中野さんとの関係は、会いたいと思えば何時でも会って貰える関係でありまして、
それは昭和四、五年頃からであります 」 ・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録一 P三六一 』  リンク→ 
西田税 (四) )
と、述べており、
寺田稲次郎の追憶談によると、この頃はよく北邸に来ていたという。
この不戦条約問題のあとで張作霖爆殺事件が、満洲某重大事件として問題となり
田中内閣は七月のはじめについに倒れ、代って民政党の浜口雄幸が内閣を組織する。
 中野正剛
この倒閣運動に、北も西田も一役買ったらしく、浜口内閣が出来たあと、中野正剛が北邸を訪れて
「 田中内閣打倒の論功行賞をするとならば、さしずめ北君はシベリア総督かなあ 」
と、冗談口をたたいたら 北一輝はサッと顔色を変えて
「 俺は天皇なんてうるさい者の居る国の役人なぞにはならん 」
と、本気で怒ったので、中野も興ざめた顔をして帰って行ったという。 ・・( 寺田稲次郎談 )
西田税もこの間の事情を
「 昭和四年、田中内閣当時、所謂不戦条約問題が発生しましたので
黒竜会、大化会、明徳会、政教社、愛国社と合同して、政府糾弾運動を行ったのであります。
不戦条約問題とは人民の名に於て条約を締結せんとした田中内閣に対し、
御批准反対を強請した問題であります。
次で、所謂張作霖爆死問題が勃発して、同年七月田中内閣は倒れたのでありますが、
私はこの爆死問題糾弾運動には反対でありました 」 ・・( 前掲書P三六九  リンク→ 
西田税 (六)   ) 
と、述べているように、西田は田中内閣打倒運動にはあまり関係していない。

この頃の西田の身辺は寥々りょうりょう たるものであった。
天剣党事件以来、革新的な青年将校の多くは彼の許から遠く去っている。
わずかに遠い鹿児島にいた菅波三郎や海軍の藤井斉との交流があるばかりで、
後輩の陸士三十八期の渋川善助が陸軍士官学校の卒業の直前、教官と衝突して退校になり、
この頃は明治大学の法科に籍をおいて、時おり西田の宅を訪れるばかりであった。( リンク→ 
渋川善助の士官学校退校理由 )
このため西田は しだいに民間右翼の人々との交流を深めていったのだが、
この右翼浪人群と西田とは思想上からも、行動倫理の上からも合わなかったようだ。
西田が群鶏中の一鶴と自負していたのか、異質の徒として西田は彼らを遠ざけていたのか、
とにかく孤独な存在であった。
その西田が日本国民党の結成に参画し、
ついで ロンドン条約の紛糾をめぐって縦横に活躍して、関係者の注目を集めるようになる。
北一輝を中心にその頃西田と盛んに行き来して、日本国民党でともに活動する寺田稲次郎は
「 一口に言うと孤独であった。 もともと西田君は性格的に激しい所があるが、一面暗い所がある。
無口で人に容易に同調しない、人を人とも思わぬ所がある。
傲岸不遜ごうがんふそん とまではゆかないが、まあ それに近い感じだ。
このため民間右翼にはあまり人気がなかった。
子供あがりの時から軍隊の中で育ってきたから世渡りが下手だ。
人に不快を与えるような事も平気で言う。人は彼の実力は認めているが、あまり近よらない。
西田君も自分の不人気や不徳は自覚していた。
その西田君も日本国民党の結成がきっかけで、ロンドン条約の紛争のときには随分働いたものだ 」
と、語っている。
日本国民党時代の西田税をその著書 『 一殺多生 』 の中で、生き生きと描いている小沼正も
「 西田氏が、既成の愛国社陣営から好感をもって迎えられないのは、
西田氏の無若無人の言動が反感を買っていたようである。
しかし、公平に見て、西田氏はなんといっても、北一輝をバックに実力をもっていた。
なまじ歯の立たなかった人たちの岡焼であり、嫉妬でもあった。
ともかく、私自身が愛国運動の実態を知るうえに、西田氏の話はたいへんすばらしい勉強になった 」
・・( 同書 P二二三 )  と、述べている。
寺田稲次郎の追憶談と重ね合せてみると、その頃の西田の姿が鮮やかに浮び上ってくる。
こうした態度で右翼陣営の中で、久しく孤高を保ち続けていた西田税が、
ロンドン条約の紛糾をきっかけに果敢な行動や辛辣きわまりない文章をもって、
世間の表面に躍り出た心境はよくわかる気がする。
西田が二十九歳の秋から三十歳にかけての、気力充溢した年代のことである。
 内田良平    頭山満
この ロンドン軍縮会議を英米、
とくに米国による功名な対日圧迫の手段とみた陸海軍人の有志と国家主義者たちは
条約の調印をもって英米への屈服であると断じた。
こうして政党対軍部の抗争から、政党政治への不信感を深め日本の危機感を強く抱き、
やがては国家改造運動を具体化してゆくのである。
このロンドン海軍軍縮会議の開催が伝えられると
真っ先に立ち上がったのは黒竜会の内田良平である。
彼は玄洋社の頭山満とはかって、全国の同志に檄を飛ばし 「 海軍軍縮国民同志会 」 を結成した。
この軍縮会議は英米ニ国が合意した上で会議を招請したこと、
これを受けて起つ日本の外務大臣が、
かねてから親英米派の軟弱外交と悪評のある幣原喜重郎であることに、
内田も頭山もひとしお危惧の念と不安を抱いたからである。
そこで全国の同志の力を結集して国内の輿論を盛り上げ、幣原外交を牽制する。
その上全権団や海軍当局を激励し、幾分でも外交態勢を有利ならしめようとした。
昭和四年十一月二十五日、青山の日本青年館に有志五百余名が参集して大会を開き、
満場一致で次のような決議を行った。
一、補助艦の制限に関して均衡の精神を貫徹すること、但し、潜水艦は制限外に置くこと。
ニ、米国の謂はれなき補助艦勢力の拡張を阻止すること
・・( 『 国士 内田良平伝 』 P六五三  )
この決議文は、その夜代表委員内田良平ら五名によって若槻首席全権に手交された。
西田税もこの内田良平の呼びかけに応じて同志会に参加し、
実行委員の一人にあげられている。
実行委員は男爵菊池武夫を筆頭に、
海軍中将佐藤皐蔵、元駐独大使本田熊太郎、早大教授北昤吉 ( 北一輝の弟 )、
内田良平、葛生能久、大川周明、岩田愛之助、それに 西田税である。
錚々たる多彩な顔ぶれの中に駆け出しにも等しい二十九歳の西田税が挙げられたのは、
おそらく内田良平の推挙であろう。
この春の不戦条約批准の反対運動で見せた果敢な、幅広い行動力や、
その上 右翼浪人らしからぬ明快な思考力が内田に認められたものであろう。
西田税はこの二十日あまり前、同志と共に日本国民党を結成したばかりであった。
十一月三日、同じこの日本青年館で華々しく結党式をあげたばかりで、
ロンドン軍縮条約問題がはからずも国民党の初仕事になった。
西田は、後年 ニ ・ニ六事件で捕らわれた際、憲兵の訊問に答えて
「 この様にして、私は不戦条約問題から愛国政治運動の必要を痛感し、
愛国派の少壮有志が会合して日本主義政党を組織する必要を認めましたので、
中谷武世、津久井竜雄 等と相談の結果、夫々、
私は日本国民党、中谷は愛国大衆党、津久井は急進愛国党を中心として合同組織することに致しました。
私は日本国民党に於て表面名前を出さぬ心算つもりでありましたが、
結局同党の統制委員長となり、
昭和四年十一月、頭山満、内田良平、長野朗の諸氏を顧問として結党式を挙げたのであります 」
・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録 一 』 P三六九 リンク→ 西田税 (六)   )
と、述べている。
西田が政党の必要性を痛感して中谷らと相談している折に、
八幡博堂から日本国民党の話をもちこまれて話に乗った、というのが真相であろう。
これに関して、藤井斉の手紙 ( 昭和五年一月二十二日付 リンク→
 藤井斉の同志に宛てた書簡 (1)  ) がある。
「 日本国民党は八幡博堂氏 ( 土佐の人、信州に長く在り痛快男子、三十歳位新聞関係の人 ) が信州国民党を組織し、
此地に於て日本大衆党を奪還し勢を得、行地社に合同を申し込みたる様子、
長野氏、津田氏 個人として之に加る。
西田氏また かの不戦条約問題に於る内閣倒壊の際、頭山、内田 翁一派及明徳会 ( 塩谷氏主幹 八幡氏関連あり )
を糾合して戦へり。
この機縁により信州国民党を拡大して大衆自覚運動のために、日本国民党は組織せられたり。
それ以前に、西田氏、津久井竜雄氏 ( 高畠門下 ) 中谷武世の三名にて大衆運動をなさんとする議ありたり。
ここに於て此等の人々は皆、日本国民党結成準備会には出て相談しつつありき。
その内 中谷、津久井氏等は地盤を別にして、愛国大衆党を組織し 各々別方面に戦い、
招来は合同せんとの約束にてこの二党に分れたり。
( 中略 )
国民党は大車輪の働をなしつつあり。
八幡氏大いに戦いつつあり。
一道二府二十五県に組織完了せりと。
その執行委員長は北氏一派の寺田氏 ( 秋水会 ) なり。
統制委員長は西田氏、幹部の胆はらは政治的大衆運動にあり、
今度の選挙にも代議士として当選可能の所は大いに戦い、然らざる所も大衆獲得のため戦う由 」
( 後略 )  ( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五一 )
、当時の動きを克明に伝えている。
「 今度の選挙 」 とは、少数与党の浜口内閣が一月二十一日議会を解散して、
二月二十日の総選挙で野党の政友会に百名あまりの大差をつけて勝った選挙のことをしたものである。
しかし、日本国民党の推した中立諸派は七十八名の立候補に対して、わずか四名しか当選していない。
・・( 年史刊行会編 『 昭和五年史 』 P六〇 )
西田たちも大衆獲得の政治運動の限界を知ったことであろう。
藤井斉もあとで 「 大衆に革命は出来ない、出来るようなら革命の必要なし、暗殺は革命の大部を決す 」
と 言いきっている。 ( 『 現代資料4 』 P五七 リンク→
 藤井斉の同志に宛てた書簡 (8) )

日本国民党結成のいきさつであるが、
寺田稲次郎の記憶によれば、
西田から相談をうけた寺田は
八幡を中心に、鈴木善一や旧行地社以来の友人である長野朗や津田光造らに呼びかけて
結党準備会を開いた。
結党趣意書は西田の案文を 「 たたき台 」 にして、一同が討議して作った。
「 西田君の文章は固いけれども、味があるんだ。
なかなかの名調子でね、勝手に熟語を作って書くんだが、その造語が妙に文章を生き生きさせるんだ、
みんな感心したものだ 」 ・・( 寺田稲次郎談 )
結党準備会は芝の日陰町にあった小西という人の家を借り、二ヶ月間に七、八回の会議を開いて、
宣言や政策綱領を作った。
表面は合法政党を装い、場合によっては非合法活動もやろうという肚であった。
寺田の談によれば政綱は 「 民生を安んずる 」 を根本とし、五ヶ条、二十項目にまとめていた。
西田税の発議で特にこの中で 「 広義国防 」 を強調し、陸海軍の現有勢力を確保することを主張したという。
これは後に、ロンドン条約の反対運動で西田が筆陣を張って世論に訴えるが、
軍人出身の西田にとって、これは平素からの持論であった。
結党式は昭和四年十一月三日、青山の日本青年館で行われ 満員の盛況であった。
中央委員長に寺田稲次郎、書記長 八幡博堂、次長 鈴木善一、
常任中央執行委員 花田筑紫、奥戸足百、永富以徳、小島好祐、小西久雄、長野朗、津田光造、杉山民成、
そして統制委員長に西田税、顧問には頭山満、内田良平の両巨頭を推戴し、
党本部を四谷の永住町に設けた。 ・・( 小沼正著 『 一殺多生 』 P一八七 )
組織が左翼風になっているのは左翼出身の八幡博堂が、すべての采配をふったからで、
寺田も 「 八幡はさすがに左翼で活動しただけあって、組織づくりは実に巧かった 」 と語っている。
金解禁
都市の明けた昭和五年一月十一日、浜口内閣は金輸出解禁を断行した。
蔵相井上準之助が在野時代は反対であった金解禁 ( 金の貨幣または金の地金の輸出禁止を解くこと ) を、
ついに断行したのである。
しかし、世界的な恐慌のさなかであったから、井上の目算ははずれ、日本経済は破壊的な打撃をこうむり、
不況は一段と深刻さを増した。
西田はこの金解禁のさい、井上蔵相と安田銀行との醜関係をキャッチし、
怪文書を配って浜口内閣にゆさぶりをかけた。
「 昭和五年一月頃金解禁当時、井上準之助と安田保善社との醜関係告発問題に関係して
警視庁に約十日間拘留され 」 ・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録 一 』 P三五四  リンク→ 
西田税 (一) )
と、述べているのがこれである。
西田は結局不起訴になるが、頭山満の機嫌をそこね 日本国民党からついに手をひかざるを得なくなる。
「 西田氏は金解禁に際して安田銀行の不正貸出し大穴ありと暴露し、
又 井上蔵相の○○○○事件を摘発し其他首相に金の入りこめることを暴露し、
内閣打倒を企てるも早く知られて恐らくは失敗ならむ 」
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五二 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (1)  )
これは昭和五年一月二十二日付の藤井斉の手紙の一節である。
藤井の予想通り、西田は財界攪乱の怪文書を配布したことから、頭山満に叱られ統制委員長を辞し、
表面上は日本国民党から手を引かざるを得なくなった。
寺田稲次郎の証言によると
「 いや、西田君の怪文書で、安田銀行も井上も大変弱ったんだ、
どうも醜関係は事実のようで、これ以上騒がれると井上も失脚しなきゃならん。
そこで政界の黒幕辻喜六に泣きついた。
辻喜六という人は表面には絶対出ない人だったが、大した怪物だった。
『 それはだ、これはだ 』 という口癖の人だったが、政財界に顔が広くて実力がある。
さしもの巨人頭山先生でさえ、辻さんには頭が上がらなかったといわれた。
辻さんから頭山先生に話があり、頭山先生が西田君を呼びつけて手を引けと叱った、
というのが真相のようである 」 と、語っている。
しかし、西田は表面は日本国民党から退いた形になったけれども、
党本部にたえず出入りしていたことは事実で、小沼正の著書 『 一殺多生 』 に、
生き生きとその頃の西田の姿が描かれている。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


ロンドン條約をめぐって 3 『 統帥權干犯問題 』

2021年10月11日 04時08分10秒 | 西田税

第十二條  天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む
國防及兵力量に關する件は參謀總長及軍令部長に於て策案し
帷幄上奏に依り親裁を仰ぐを常例とす
然れども其政策に關するものは
總長及部長の上奏により 總理大臣に御下問 又は閲覧を命ぜられ

其覆奏ありたる後 陛下に於て親裁あらせらるること數十年來の慣例にして
未だ曾て政府に於て兵力量を決定したることなく
若し之れありとせば 憲法の精神に背き
又 天皇の大權を干犯するものと斷定せざるを得ざるなり

・・リンク→
統帥權と帷幄上奏 

西田税 
ロンドン條約をめぐって
統帥權干犯問題

・・・ロンドン軍縮会議で、日米妥協案が成立し、政府と軍令部は回訓をめぐって半月も論争を続けた。
しかし、浜口首相の固い決意によって軍令部は態度を軟らげ、( 昭和五年 ) 四月一日 承認の回訓を発した。
翌二日、軍令部長 海軍大将加藤寛治は、
天皇に帷幄上奏 ( 統帥事務につき閣議を経ないで大元帥たる天皇に直接意見を具申する ) して
妥協案に反対であると言上している。・・リンク→
鈴木侍従長の帷幄上奏阻止 
この辺のいきさつの曖昧さから、後日重大問題となった統帥権干犯問題が起ってくる。
これについて、( 昭和五年 ) 四月一日 政府回訓前に加藤が帷幄上奏しなかったのは
西園寺や牧野ら元老、重臣の陰謀であるとの風評が、すぐさま飛んだらしく、
霞ケ浦にいた藤井斉は、( 昭和五年 ) 四月八日の手紙で
「 昨日 西田氏訪問。北----小笠原----東郷----侍従長、内閣打倒 ( 勿論軍事参議官会議、枢府 )
不戦条約の場合と同様也、軍令部長一日に上奏をなし得ざりしは、
西園寺、牧野、一木の陰謀のため、言論其他の圧迫甚しい。
小生、海軍と国家改造に覚醒し、陸軍と提携を策しつつあり、御健戦を祈る 」
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五三 リンク→
藤井斉の同志に宛てた書簡 (2) )
と、同志に書き送っている。
藤井は( 昭和五年 ) 四月三日 「憂国概言 」 を書き、印刷して全国の同志に配布しているが、
おそらくこうした中央の情勢を西田から早く入手し、その憤激の情を文章にしたものと思う。
憂国概言 」 の内容は抽象的で、具体的には何も明示してはいない。
( はっきり具体的に示唆しさすれば、直ちに憲兵隊に拘引されるだろうから ) 
しかし、藤井が何を志しているかは明白である。
「 皇祖皇宗の神霊と、幾多の志士仁人の雄魂とを以て築き上げられたる祖国日本の現状は、
貧窮の民、道に充満して、
或は一家の糊口を支ふべく、子女を駅路の娼に売り、
或は最愛の妻子と共に、水に投じて死するあり、
或は只生きんが為めの故に、パンの一片を盗みて法に網せらるるあり。
或は父祖伝来の田地にかえて学びたる学業も用うる所なく、
失業の群に投じて、巷路を放浪する者幾万なるを知らず 」
藤井は冒頭に日本の現状の悲惨さを訴え、こうした国民の困苦をよそに政党政治は私利私欲にふけり、
財閥は国民の膏血をしぼって巨富を積んでいると怒る。
「 嗚呼財閥を観よ、何処に社稷体統の、天皇の道業は存する。
皆是れ 民衆の生血を啜り、骨を舐ねぶる悪鬼豺狼さいろうの畜生道ではないか。
内 斯くの如し、
外 国際場裡を見よ、
剣を把らざるの戦は、今やロンドンに於て戦はれつつある。
祖国日本の代表は、英米聯合軍の高圧的威嚇に、屈辱的城下の誓を強いられんとしている 」
彼はこの日本を救う道は、もはや 『  日本改造法案 』 による国家改造以外に方法はないと告げ、
「 天皇大権の発動によって、
政権財権及教権の統制を断行せんと欲する日本主義的維新運動の支持者たるを要する 」
とし、
彼ら同志はその日常の行動は
上下一貫、至誠奉公の一念で下士官兵の教育に努力せねばならぬ。
「天皇を奉じて維新的大日本建設の唯一路に向はしめよ 」
と 叫んで、文を結んでいる。
この藤井斉の 「憂国概言 」 は問題になり、憲兵の取調べをうけ
出版法違反に問われて謹慎七日間の処罰をうける。

統帥権干犯問題は、後には政友会によって内閣打倒の政争の具にされるが、
最初に言い出したのは内田良平らの 「 海軍軍縮国民同志会 」 であった。
( 昭和五年 ) 四月三日、国民大会を開いて、政府の妥協案承認には絶対に反対であると決議し、
代表委員内田良平らは、翌四日首相官邸を訪れて内閣書記官長に決議文を手交し
今回の政府の執った態度は、帝国憲法第十一条に照して明らかに 「 大権干犯 」 であると申し入れた。
・・( 朝日新聞社刊 『 太平洋戦争への道1 』 P 一二〇 )
その発案者は北一輝であった。
北も西田もそれらしい証拠は何も残していないが、寺田稲次郎はこう語っている。
「 僕らがヘソ造と呼んでいた小林躋造海軍大将がまだ中将で海軍次官になる前だった。
たしか昭和六年の早春、二月か三月の頃だったと思う。
人を通じて北さんの所へ話しがあった。小笠原中将だったかな
『 どうも政府は米国案に屈服する恐れが充分にある、この上はただの反対では通らぬ。
北君あたりの応援をよろしく頼む 』 という意味の伝言があった。
そこで北さんはいろいろ考えた。
そのうち、すず子夫人が神があかりの状態になった。
あの奥さんは小学校もロクに出ていないような教養のない人だったけれども、
大変霊感のある人で、この時こんな事を言い出した。
『 こんな家が見える。追い込めひっこめ 』 と 口走った。
北さんはニ、三日考えた。
そして浜口内閣のやり方は統帥権干犯だと言い出した 」

この統帥権干犯論は専門の憲法学者、
東京帝大の美濃部達吉博士や、京都帝大の佐々木惣一博士らから否定されたが、
新聞のセンセーショナルな報道や、政友会の内閣攻撃論にあおられて
国内は騒然とした混乱にまきこまれた。
これは浜口首相の狙撃事件に発展したばかりでなく、
軍部内に深刻な政党不信の念を植えつけ、後年の国家革新運動に走らせるひとつの誘因となる。
統帥権干犯問題は北一輝が言い出した事を知った民政党の永井柳太郎は、
この頃、外務政務次官であったが、北一輝邸にやってきて
「 北君らしくもないじゃないか、統帥権問題で若い連中を煽動しないでもらいたい 」
と、頼みこんだ。
北一輝はニヤリと笑って、得意な時によく使う べらんめえ口調でこう答えた。
「 いかにもその通り、統帥権干犯なんて、でえてい支那料理の看板みたようで面白くねえや。
けれどもな 永井君、君はモーニングなんぞ着こんで、なんだかんだと騒いでりゃ金になるが、
ロンドン軍縮では食えない将校や職工がたんと出るんだよ。
この不景気のさなかにさ、君、若い失業者の気持ちがわかるか、
これがわからんようでは真の政治はできぬ 」
傍で聞いていた寺田稲次郎によると、さすがに雄弁をもって鳴る永井柳太郎も、
言うべき言葉を失ったようにすごすごと帰って行った。
永井が帰ったあとで、北は書生に向って
「 くらげばかりいじくっている奴が悪いんだ。
ロンドン条約がこじれるのも、天皇がノロノロしているから浜口に勝手にされるんだ 」
と、吐きすてるように言った。
北一輝はよく、その筋に聞こえたら ただではすまされないような毒舌を、平気で口ばしっていた。
この統帥権干犯論はロンドン軍縮条約をさらに紛糾させ、政党と軍部の関係をいっそう危険にした。
藤井斉も五月八日の手紙で
「 軍部対政党の溝深刻化しつつあり。
只軍人中のヌエをたたき切る必要がある。
北氏は軍令部長、同次長にも会って最後の方法の処まで話したと云う。
軍令部の中には段々明らかに解って来た 」 と、述べている。
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五三 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (2)  )

同じ頃、北一輝邸に出入りしていた薩摩雄次が出した雑誌 『 旋風 』 に
「 国防全軍将士への訴へ 」 と題する無著名の論文が掲載された。
署名は無いが文章の癖と関係者の証言から西田税の執筆に間違いない。
冒頭に 「 国防全軍の将士奮起せよ。
諸公は明治大帝の 『 軍人に賜りたる勅諭 』 に背きてまで、議会に忠誠を誓はんとするものであるか !」
と 鋭く問いかけ
「 浜口首相は、ロンドン会議に対する重大回訓に当り、軍令部長の反対を一蹴して、
政府首脳単独の意見を発令した。
その結果は、由々敷 大なる国防不安の招来と共に、
君国存立のための至重なる統帥権干犯の大逆を惹起したのである 」
と 前置きして、浜口首相らが
「 大逆亡国的措置に自ら恥ずる所なしとする不遜の態度 」 をとるのは、
彼らの強烈な信念によるものであると述べる。
そして、その信念とは
「 国家統治の主権を議会に奪取し、確保せしむること 」 で、民政党綱紀第一に特筆されている。
「 議会中心政治の徹底を期す 」 とは、この意味に外ならない、と断定する。
だから 「 党与二百七十名の絶対多数を獲得せるを好機とし、故意に統帥府の機能を蹂躙したのだ 」
ときめさけ
「 何たる暴逆----浜口とその党与の心事行動は、正しく、明治大帝の陵墓を発あばくの大逆である 」
と 痛烈な言葉で攻撃している。
ついで国防軍の本質は 「 皇軍 」 である、とその理由を説明し
「 蛮夷の涯的に内応する政党は、今や議会主権の叛逆国旗を翻して、
暴戻の一戦を皇軍に挑いどみ 国家に挑み来った。
----桃山の陵前、靖国の社頭、神牌頻しきりに震動して、旋風を巷に捲かんとする。
戦へ! 断乎蹶起して大逆亡国の徒を討滅せよ。 日比谷へ!日比谷へ!敵は日比谷にあり 」
と、煽動的な文章で結んでいる。
西田もこの論文がかなり反響をよんだことに多少気をよくしたとみえ、
翌年の春、日本国民党本部で小沼正や菱沼五郎たちと語り合った際
「 西田氏の話のなかには、茨木時代にみんなでまわし読みした 『 旋風 』 の話が出たり、
薩摩雄次氏の話が出たりした 」 ・・( 小沼正著 『 一殺多生 』 P 二二二 )
と、述べているのでもわかる。

ロンドンでは政府の回訓によって会議が進行し、( 昭和五年 ) 四月二十三日についに
日、英、米 三国間の調印が行われた。
しかし、五月二十日 この条約の調印に憤激した軍令部参謀 海軍少佐草刈英治が、
東海道を進行中の寝台列車の中で壮烈な割腹自殺をとげたことは、
時が時だけに社会に大きな衝動を与えた。
三国間に調印は行われたものの、この条約も批准を終らねば効力を発しない。
右翼陣営の反対運動は、一転して批准阻止に全力をあげることになる。
藤井斉の八月二十一日付の手紙は、
この間の北や西田の反対運動の動きを伝えているので少し長いが引用する。
「 日本の堕落は論無き処なり。在京の同志といふも局地に跼躋して蝸牛角上をなす。
多く頼む可らず。
北---西田 この一派最も本脈なり。
先の不戦条約問題以来 北---小笠原長生---東郷。
今度の海軍問題に於て
陸  第一師団長  真崎甚三郎
海  末次信正    加藤寛治
( こは積極的に革命に乗り出すことは疑問なれども軍隊の尊厳のためには政党打倒の決心はあり )
( 中略 )
而して
○○○○○○
は北、西田と会見せり。
第一師と大いによし。
一師、霞空は会見せり。
斯くて革命の不可避を此等の人々は信ぜり。
( 中略 )
西田氏等今や枢府に激励すると共に、政党政治家資本閥の罪状暴露に精進しつつあり
( 牧野の甥、一木の子、大河内正敏の子が共産党にして、宮内省内に細胞を組織しつつあること攻撃中 )
所謂怪文書は頻りに飛びつつあり。 ( 後略 )
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五四 リンク→
藤井斉の同志に宛てた書簡 (6) )
と、この頃の北や西田の動きを克明に伝えている。
この文中の伏字は当時、軍事参議官であった海軍大将伏見宮博恭王に違いあるまい。
伏見宮は東郷元帥とともに条約締結には反対であった。
一人は皇族、一人は聖将として半ば神格化された東郷の反対で海軍部内がいっそう混迷に陥ったさまが
「 岡田啓介日記 」 などでうかがえる。
皇族である伏見宮に、右翼浪人にすぎない北や西田が謁見できたのは、
おそらく東郷元帥の側近であった子爵で海軍中将の小笠原長生の手引きによるものと思われる。
西田も後年
「 海軍の小笠原長生子爵などと知己を得ましたのもこの時代であります 」
と陳述している。
小笠原は西田を随分と可愛がった様である。
自分の守り本尊にしていた高村光雲作の朱塗りの仏像を西田に与えている程である。 ・・( 村田茂子談 )
東郷元帥   小笠原長生
「 右翼思想犯罪事件の綜合的研究 」 によれば、
日本国民党の批准阻止運動を次のように記述している。
「 日本国民党に於ては昭和五年九月十日 『 亡国的海軍条約を葬れ 』 と題する檄文を作成し、
枢密顧問官、官界政界の名士、恢弘会、洋々会員等に配布し、
又 同年九月十九日附 『 祝盃而して地獄 』 と題し、政府が牧野内府、鈴木侍従長と通牒し、
枢府に対する策謀を為したる事を難詰したる檄文、
同月二十九日附 『 軍縮意図の自己暴露 』 と題した米国上院に於ける海軍軍縮問題の討論審議事項を記載したる文書、
同年十月九日附を以て、ロンドン条約に関し、最終的決定的行動に入るべく、決死隊組織を為し、
之が動員の司令を下したと宣伝した。
血盟団員小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、川崎長光は、同党鈴木善一の勧誘に応じ、
決死隊員として、当時上京したのである 」 ・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五〇 )
この決死隊募集の檄文が、小沼正たちの手元にとどいたのは、昭和五年九月下旬であった。
小沼たちは二ヶ月ののち、決死隊員として上京するが、やがて職業的な愛国運動に失望する。
「 愛国運動とか右翼運動などと言ってみたところで、実態はこんなものだった。
これでは革新も革命もあったものではない 」 と 感じたと著者に述べている。
こうして日本国民党も、ロンドン条約の批准が終った頃から、しだいに生気をなくして低調となり自然消滅の道をたどる。
藤井斉の手紙に
「 日本国民党は寺田氏しつかりせず。八幡氏また金なければ働けざる人物、
西田氏手を引いてより有名無実なり。
---手を引きしは財界攪乱の怪文書事件に頭山翁がおこりしためなり。
鈴木善一君のみはしつかりし居る ( 井上日召氏下に現今在り )
内田良平翁が大日本生産党なるものを計画中、之は生産者を第一とせる党。
大本教 を土台にせむとの考、成功難からむ。
国民党はこれに合同するやも知れず。今や殆んど取るに足らず。
斯る運動は本脈にあらず、末の問題なり。
潰す方或は可ならむ、若し作るとせば西田氏を当主として表面政党、
裏面結社のものたらしめて農民労働者を団結せしむべきのみ 」 ・・( 前掲書 P 五五 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (6) )
これは八月二十一日の手紙であるが 結果は半年の後、藤井の予想通りになってゆく。
その頃の西田税の姿を寺田稲次郎はこう追想している。
「 その頃の西田君は、まさに国家主義運動の三昧境に入っていた。
苦労を苦労とせず、迫害や圧迫をものとも思わぬ。
運動そのものに没頭する。生命をかける。
言ってみれば三昧境というか、捨て身というか、血気旺んな頃であったが、そんな気魄で生活していた。
だから生ぬるい職業的な愛国運動家たちを軽蔑していた。
八幡君や鈴木君とは考え方も肌合いも違っていた。
日本国民党の結束が乱れたのも両者のそんな性格の違いから来たのであろう 」

一年ちかくも揉みに揉んだロンドン条約問題も、昭和五年十月一日 枢密院の本会議で可決された。
ついで批准書は日本郵船の氷川丸で英国に送られ、
十二月三十一日を以て効力を発生することになった。
ロンドン条約は、当時の日本の国力として英米に屈せざるを得なかった、
と 思われるが、軍部の猛反対を抑えて強引に調印した政党内閣は、愚劣な政争にあけくれる腐敗政党であった。
しかも、長い間の経済恐慌の中で窮乏にあえぐ国民をよそに、財閥の走狗となって私利私欲にふけり
政争のためには手段を選ばず、政党あって国家なき醜態を演じた。
こうした政党政治家の無自覚と驕慢は、自ら墓穴を掘る結果となる。
ロンドン条約をめぐって引き起こされた統帥権干犯問題は、
幣原の軟弱外交による満蒙問題の行詰りと重なって、革新的な青年将校の危機感を激発した。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から


統帥權と帷幄上奏

2021年10月10日 14時54分15秒 | ロンドン條約問題

統帥權と帷幄上奏
( 金子 子爵 陳述 )

統帥權と帷幄上奏
浜口首相は議会に於て
兵力量即定備兵額に付ては軍部の意見を斟酌しんしゃくして
政府に於て之を決定したり
と 答弁したり 
其論拠とする所は
或る学者が当時頻りに昌道する所説
即ち
憲法第十一條は天皇は大元帥として陸海の軍を統帥する
ものにして
同第十二條は天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む
と あれども
是は国務にして政府に於て定むべきもの
との説に左右せられたるが如し
是れ全く憲法の精神を誤解したるより生じたる議論なり
 草案
今 玆に明治二十一年憲法制定当時の事情と記録に依り之を説明せん
憲法の原案には
第十二條  天皇は陸海軍を統帥す
                陸海軍の編制は勅令を以て之を定む
とありたるが
同二十一年六月二十二日の枢密院の御前会議に於て
大山陸軍大臣発議し 山形内務大臣賛成し
「 勅令 」 を修正して 「 勅裁 」 とする動議を提出せられたり
其理由は
旧来陸海軍の編成に関しては
勅裁を以て定めらるるものと
勅令を以て定めらるるもの
との二種あり故に
若し一概に勅令を以て定むるものとすれば彼是扞挌して 現行の取扱上に意外の変更を来すべしと
尚ほ其旨趣を敷衍すれば勅令は内閣に於て自由に之を決定することを得るものなれども
陸海軍の編制に至りては天皇の大権に属し 帷幄上奏案の親裁に依り定むべきものなり
決して普通の勅令の如く政府に於て自由に決定すること能はざるものなり
加之当時井上書記官長が本條起草の旨趣を説明したる所に依れば
第十二條は第一項第二項に分割したれども均しく天皇の大権に属するものなりと
而して此修正案は可決せられて憲法全体と共に議定せられたり
然れども国家の大典を鄭重にする為め 更に内閣の再調査に付せられ
黒田総理大臣は勅令を奉して已むを得ざる修正を加へ
上奏裁可を得て同二十二年一月十六日 再び枢密院の審査会議を開かれ
陛下臨御ありて伊藤議長は左の修正案を朗読す
第十一條    天皇は陸海軍を統帥す
第十二條    天皇は陸海軍の編制を定む
此の二條は前の第十二條
を別条に分割して
「 陸海軍の編制は勅裁を以て之を定む 」
とありしを
「 天皇は陸海軍の編制
を定む 」
と 修正して陸海軍の編制に関する天皇の大権を明確に列記したるものなり
然れども其旨趣に於ては少しも差異軽重あることなし
況んや 陸海軍の編制に付ては
当初より政府に於て決定するが如き意味は毫も論及せられたることなし
此会議に於て内閣より提出したる修正案は異議なく決定せられたれども
伊東議長は尚ほ深思熟考し 同二十二年一月二十九日 更に会議を開き左の宣言をなしたり
憲法再度の修正案は過日既に議決を経たけれども 未だ上奏せず
よく憲法を制定するは国家の為に容易ならざる大事たり
最も慎重にせざるべからず 則ち既に再応の審議を経て決定したる案を取て之を洋文に翻訳し
又 内見を許されたる法律専門家の学者にも示して 更に研究を尽したるに尚ほ不備の点あることを発見したり
今若し単に会議の式に拘泥して之を不問に置かば後日に向つて勅定の憲法に瑕瑾かきんを胎するものなり
依て重て修正の案を提出す
憲法に一たび発布せられたる上は固より多少の議論は免れざるべし
唯不用意にして欠点を胎すが如きは慎て 之を避けざるべからず
憲法は他の法律と同じからず
一国の表面に顕はるる所にして 最も学者の論議を容れ易し
其学説は反射して国民の上に大なる影響を及ぼすべく戦々兢々たらざるべからず
即ち玆に再議を煩わずらはさんとする所以にして 又憲法制定の事を鄭重にする所以なり
よりて再議の諸修正案を可決したる後 議長は左の修正案を朗読せり

第十二條  天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む
議長其理由を説明して曰く
常備兵額は編制中に包含せざるが為め之を明記して後日の争議を絶つの意なり
現に英国の如きは其の兵額を毎年議するの例なり
本邦に於ては之を天皇の大権に帰して国会に其権を与へざるの意なり
故に明に之を本条に示す
仍て本條は異議なく可決せられたり
是に依て之を見れば日本憲法は
陸海軍の編制及び常備兵額 即ち兵力量の決定は
明かに天皇の大権に属して
政府に於て決定するものにあらざることを確定せり
是れ神武天皇以来の国体にして万世に渉り変換せらるべきものにあらざるなり
然るに源頼朝が幕府を鎌倉に創設して兵馬の権を占有せし以来
7百年間天皇の大権は幕府に移りて徳川氏の末期に至る
是れ勤皇の公卿諸侯士民が王政復古を絶叫し終に明治の維新に於て日本の国体を恢復し
天皇の大権を再び皇室に帰せしめ
次て明治二十二年二月十一日の紀元節に憲法発布の聖代を見るに至りたり
是を以て我帝国の憲法は
彼の欧州君主国に於て人民が君主に迫りて憲法を制定せしめたるものと同一に論ずべきものにあらざるなり
余が明治二十三年官命を奉じ 欧米立憲国の制度を視察したる時
英国オックスフォード大学に於て憲法学の泰斗たいとダイセー、アンソンの両教授と会合し
日本憲法を論議したる時 彼両人は第十一條 第十二條の如き規定は日本の如き歴史ある国に於て
こう斯く帝王の兵馬の大権を完全に確定することを得たるなりとて賞讃したり
英国オックスフォード大学憲法教授 「 ダイセー 」 の意見
君主政体を永く維持せんと欲せば 帝王の大権をして強大ならしめざるを得ず
同大学憲法教授 「 アンソン 」 の意見
日本国憲法の精神は天皇の大権をして悉く天皇に帰せしめ 君主をして万機を統宰せしむるに在り
是れ独逸 英国の憲法の精神も亦 此の主義より外ならざるなり
さて 陸海軍に関する天皇の大権は玆其原則確定し
其実施遂行の機関として参謀本部、海軍軍令部、軍事参議院制定せられたり
今其規定に依れば参謀本部は国防及用兵の事を掌り
参謀総長は天皇に直隷して帷幄の軍務に参画し 国防及用兵に関する計画を掌る
又 軍令部は国防及用兵の事を掌り
軍令部長は天皇に直隷して帷幄機務に参ず
又 軍事参議院は帷幄の下に在りて 重要軍務の諮問に応ずとあり
是に依て 之を見れば
国防及用兵の軍務は天皇の直轄する所にして 国務と分割画定せられたり
尚ほ之を詳かに説明すれば
天皇の大権の下に国家重要の機関二つあり
一つは 国務輔弼の内閣にして
他の一つは 国防用兵を掌る参謀本部、海軍軍令部なり
此の二つの機関が両立対峙したる結果、
或は軍部は国防及用兵の事を計画し 帷幄上奏に依り親裁を経たる後
之を内閣総理大臣に移牒し 其遂行を要求する場合ありて
内閣と衝突し終に内閣と軍部との確執を惹起するやも計り難し
是を以て海軍大臣武官制度を設け 軍人たる大臣は常に参謀総長 軍令部長と強調し
軍事の機務に付ては意見の一致を得て帷幄上奏をなす慣例を実行し来りたり
是れ文武のニ機関が分立対峙したるにも係らず 円満協調して軍務を遂行することは
泰西立憲君主国に見ることは能はざる良慣例なり
今 其例証は数多くあれども 尤も重要なるものを挙ぐれば

明治四十年二月一日 山県元帥の伏奏により
参謀総長 軍令部長が国防方針、所要兵力の件を策案して上奏し
同時に
「 国防方針は政策に関係あるを以て総理大臣に御下問審議せしめられ
尚ほ所要兵力の件を之を閲覧せしめられ度 」
旨を上奏したり依て
西園寺総理大臣は聖旨を奉し 審議して
国防の完成は国家必要の事なれば財源に鑒かんがみて 之が遂行に努めんと覆奏したり
於是 陛下は山県、大山、野津、伊藤の元帥に御諮詢しじゅんありて
其奉答の後 親裁あらせられ
侍従武官長を以て其旨を総長及部長 竝に 陸海軍大臣に伝達せしめられたり

又 大正七年五月国防方針補修、国防に要する兵力改定に関する件は参謀総長 及 軍令部長に於て策定し
陸海軍大臣と協議し 陸海軍の元帥に内示して総長 及 部長より上奏し
且つ口頭を以て
「 帝国の国防方針、補修は
政策に密接の関係を有するを以て
内閣総理大臣に御下問ありて審議せしめられ度
尚ほ 国防に要する兵力は総理大臣に閲覧せしめられ度 」
と 上奏したり
依て寺内総理大臣は聖旨を奉し 審議して覆奏す
是 陛下は元帥府に御諮問あり
其覆奏の後 総長及部長を召し裁可あらせられて
其旨を総理大臣に御沙汰あり
又 陸海軍大臣に伝達せしめられたり

又 大正十一年十二月 国防方針、国防に要する兵力及用兵綱領に関する改定の件は
参謀総長及軍令部長に於て策案し 陸海軍大臣と協議し 陸海軍の元帥に内示して
総長及軍令部長より上奏し 
且つ
「 元帥府に御諮問、国防方針は内閣総理大臣に御下問、
審議せしめられ、兵力改定は総理大臣に閲覧せしめられ度 」
と 上奏したり
於是 陛下は元帥府に御諮問ありて其覆奏の後 加藤総理大臣 ( 友三郎 ) に 御下問あり
又 閲覧せしめらる
而して総理大臣覆奏の後 総長及部長を召して裁可あらせられ
其旨を総理大臣に御沙汰あり
又 総長及部長より 陸海軍大臣に移牒す

是に依て之を見れば
国防及兵力量に関する件は参謀総長及軍令部長に於て策案し
帷幄上奏に依り親裁を仰ぐを常例とす
然れども其政策に関するものは総長及部長の上奏により 総理大臣に御下問 又は閲覧を命ぜられ
其覆奏ありたる後 陛下に於て親裁あらせらるること数十年来の慣例にして
未だ曾て政府に於て兵力量を決定したることなく
若し之れありとせば 憲法の精神に背き 又 天皇の大権を干犯するものと断定せざるを得ざるなり

是れ明治二十三年の憲法実施以来の慣例にして
内閣と軍部の間に於て未だ曾て扞挌衝突したることなかりしが
偶々今年の特別議会に於て浜口総理大臣が議員の質問に倫敦条約に調印したる兵力量は
「 軍部の意見を斟酌しんしゃくし 政府に於て決定したり 」
と 答弁したることにより 端なく議論喧囂、終に天皇大権の干犯問題を惹起するに至りたり
是れ全く 浜口総理大臣が憲法制定当時の事実と憲法の精神を知らざるの致す所なり
然るに其後 六月に至り海軍の参議官会議に於て
「 海軍兵力に関する事項は従来の慣行に依り 之を処理すべく
此の場合に於ては海軍大臣 軍令部長 間に意見一致しあるべきものとす 」
と決議し 上奏裁可を得て海軍大臣より 内閣総理大臣に通知したり
於是 浜口総理大臣は議会に於ける態度 及 答弁を一変し 枢密院に於て委員の質問に対し
「 兵力量の決定に付ては軍令部長の同意を得たり 」
と 強弁して 参議官会議の決定に齟齬せざる様努めたり
然るに意見の斟酌と同意とは其意味に於て大なる差異あることを質問せられたるに対しては
不得要領の答弁をなし
又 然らば何が故に議会に於て斟酌と云はず 軍令部長の同意を得たりと答弁せざるかと詰問せらるれば
同意を得たりと答弁せば軍機に関するが故に之を避けたり と曖昧なる答弁をなしたり
あわし 浜口首相が議会と枢密院との答弁に於て善後矛盾したることは何人も疑はざる所にして
是れ 全く浜口首相が大権干犯の罪を惧おそれたるに依るならん
今 仮りに 軍令部長の同意を得たりとしても政府は兵力量を決定する機能なきことは
憲法第十二條 及 軍令部条例の正文に明記せられたり
而して 其規定 及 従来の慣例に依れば
兵力量に関する件は部長の帷幄上奏に依り
陛下の御親裁ありたる後
内閣総理大臣に御沙汰ありて
政府に於て決定すべきものにあらざるなり

昭和五年九月十七日 葉山に於て
金子堅太郎識

現代史資料 5  国家主義運動 2  から

参考資料

大日本帝国憲法

1~8条                             6~10条                           11~18条

19~26条                         27~32条                          33~40条