あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

華族会館襲撃

2019年06月06日 11時58分37秒 | 野中部隊


≪ 27日 ≫
華族会館の襲撃

この朝、栗原は首相官邸にかえると清原少尉に電話して華族会館の襲撃を命じた。
清原は警視庁の裏庭で朝食をとっている時だった。
「 只今、華族会館に貴族院の連中が集まって何事か対策を協議しているらしい。
急いで襲撃せよ、策動の中心人物は原田熊雄男爵だ、手ぬかりなくしっかりやれ 」
清原は早速部下に集合を命じ駈歩で華族会館に向かった。
会館につくと部下に包囲を命じ、みずからは軽機一分隊をもって玄関に飛びこんだ。
そして受付の事務員に本日参集している華族の人名表を提出するよう要求した。
一条公、二荒伯、細川侯などの名前を見た。
この若い将校には何か偉い人達の集まりのように思えたらしい。
清原は熊本出身だったので細川侯爵といえば旧藩主というべき人だった。
彼の心の底には畏敬の念がおこっていた。
「 そうこうするうちに、
そこへ五十年配の肥った背広服の紳士が、ただ一人玄関に現れた。
態度は落ちついているように見えるが顔色がない。
一種の特権階級がもつ虚勢ともいえるものだった。
一瞬これは臭いと思ったので
「 待て ! 」 と 大声して呼びすぐ停止を命じた。
彼はおとなしく立ち止まった。
「 誰だ 」 と イキナリ聞いたが返事がない。
私は高飛車な態度で 彼の前に進み彼の背広の上衣に手をかけ裏をかえして見た。
それとほとんど同時に彼は小さな声で
「 原田 」 と いった。
まさに目指す相手である。
思わず私は軍刀の柄に手をかけた。
当時の原田熊雄氏は西園寺の秘書であり、
いわゆる日本の政治を堕落させた元老重臣の一人といわれていた。
個人的には何等の恩も怨みもない私ではあったが、やはり好感をもつことはできななかった。
しかも栗原中尉の命令という絶対のものを背負っていた。
私はキッと相手の目の色を見た。
だが、そうしているうちに、どうしても刀を抜く気になれなくなってしまった。
一種の寂寥感----勝利的な立場にある者が感ずることのできるあの妙な空虚感なのかもしれない。
もし、この時相手がゴウ然と構えていたら斬り下げたかもしれないし、
また 逃げていたら追い討ちをかけていただろう。
だが、彼の態度には呆然としてなすところを知らなかったというよりも、
むしろ、なんらの悪意のない静けさがあった。
私は虚脱感の中に殺気が消えていってしまったのだった 」 ・・・清原手記
とは、彼みずからの述懐するところである。
 原田熊雄
かくて、彼は玄関口で襲撃目標原田をとらえながらあえて斬らなかった。
斬らなかったというよりも斬れなかったのだ。
だが、室内に入った彼は居丈高にどなった。
「みんな一ヵ所に集まれ」
二十数人の人々が食堂の一隅に一かたまりとなった。
そこで彼は蹶起趣意書を読み上げた。
老人たちはだまって聞いていた。誰も恐怖に青ざめていた。
清原は言った。
「 私どもは国体破壊の元兇を打ちとって昭和維新を断行するために、身を挺して立ち上ったのであります。
皆さんは私どもの蹶起の精神を諒とせられ、私どもの維新の戦に積極的に協力せられることを望みます。
お騒がせして失礼しました 」
彼はそういうと
兵を促して、さっさと引きあげていった。
老人達は安堵の胸をなでおろして、お互いに顔を見合わせていた。
清原は栗原に原田はいなかったと報告した。

 華族会館に掲げられた尊皇討奸旗
大谷敬二郎著  二・二六事件  から


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